博士論文要旨
愛知学院大学 論 文 提 出 者 名 中野晴久
論 文 題 名
中世常滑窯の研究
(論文内容の要旨)
本論文は1980年代から今日に至るまで、筆者が継続して研究対象としてきた中世常滑 窯に関し、考古学的研究を基にして主要なテーマごとにその成果をまとめたものである。
第1章「編年研究と生産地の変遷」では、1950年代以来先学によって取り組まれてき た研究史を総括し、最新の研究成果を取り入れながら12世紀から16世紀にかけて生産 された中世常滑窯製品を1~12型式に編年し、さらに1型式と6型式は、それぞれ1a・ 1bと6a・6bに細分した。また、1~4型式を第1段階、5~7型式を第2段階、8~
12型式を第3段階として画期を設定した。この編年の骨格は1994年に筆者が提示し、
その後広く学会でも用いられてきたものであるが、本論文において10型式、11型式の年 代根拠に新たな知見を盛り込んだ。そして、この編年をもとに知多半島で操業した中世 窯の変遷を最新の分布調査のデータを基にたどった。
知多半島の中世窯は、基部において中世猿投窯の南部と境界を接しており、初期の1 型式に属する窯跡分布からは空白地域が認められるものの、2・3型式になると両者の 境界を設定することが困難になる。それは、単に中世窯が近接して分布するだけではな く、生産の様相も近似しているという点においても、その線引きを一層困難にしている。
現状では、この12世紀後半の半島基部における中世猿投窯との線引きは留保せざるを得 なかった。今後の大きな課題の一つである。そして、第3段階になると急に窯の数が減 少し、その分布域も近世常滑窯のエリアと重なるような変化を示すことを明らかにした。
第2章「技術・遺構論」では中世常滑窯に関する各種技術と遺構の研究成果をまとめ
た。成形から装飾にいたる中世陶器の技術に関して、従来のロクロ成形技術の発達を前 提とした議論に対し、筆者らは1980年代に疑義を呈したが、近年の実験考古学的研究成 果は、その見解を支持しており、中世期の成形技術は古墳時代以来の須恵器の技術と大 きく変化してはいないことを確認した。一方、焼成に関する技術に関しては従来の還元 焔焼成・酸化焔焼成といった2分法を廃し、これも実験考古学の成果を取り入れて、よ り実態に近い復元を試みた。とりわけ中世常滑窯で顕著に認められ、瓷器系中世陶器の 中でも常滑系とされる甕を生産する窯業地において褐色に器面を発色させる焼成法に関 しては、従来ほとんど議論されてこなかったが、本論文においては、その冷却段階にお ける「焚き冷まし」技法の可能性を示唆しつつ、今後の研究課題を提示した。
焼成技法と関連し窯体構造について、製品の主体が山茶碗系の小型品に主体がある窯 と、甕などの大型品に主体がある窯について、型式ごとの変遷を検討した。山茶碗主体 の窯は甕主体の窯に比べ常に窯体が小規模で、焼成室の長さが短い傾向にある。両者は 互いに連動するように変遷するが、1b型式に突如として現れる焼成室基部が通焔孔部か ら段差をもって下降する甕主体の窯については、新たな外部からの情報がもたらされた 可能性が高く、その構造は渥美・湖西窯の甕主体の窯とも共通する。
なお、焼成技術とも関連するが、従来の燃焼室とされた部分の天井が存在しなかった 可能性を提示した。実験考古学的研究の成果から、燃焼室に天井がなくても焼成は順調 に行われ、「焚き冷まし」技法においては、燃焼室に天井があると却って作業が困難にな るという結果を示したが、今後の他の調査において検証が行われるべきことを指摘した。
第3章「遺物・装飾論」では中世常滑窯の各種遺物と装飾に関する研究をまとめた。
初めに中世の甕の古代からの不連続性を論じ、その不連続性の中に瓦成形技法が取り入 れられるという特色を見出して甕出現期の様相としてまとめ、その瓦成形に伴う叩き締 めの文様が中世では装飾的な性格を強めて新たな甕の創出がなされたことを論じた。
2009年に報告された平泉遺跡群内の花立Ⅰ遺跡第28次調査の瓷器系窯跡については、
その性格付けに困窮するものながら、明らかに中世の窯であり、常滑窯や渥美・湖西窯 と密接な関係がある中世の窯であり、この窯の製品にも瓦の叩き文に近似する文様が施 されているのである。
次に、中世常滑窯で12世紀代に多く生産された特徴的な三筋壺とよばれる器種につい て、経筒及び経筒外容器に認められる仏塔の要素が三筋文に反映したことを指摘し、そ れが院政期に流行した装飾として経塚以外の都市的な場においても受容されたと考え た。さらに、中世常滑窯の甕・壷類に主として施される押印文に関しては、その出自と 文様意匠の分類し、これまで装飾性と機能性の両面が指摘されてきた押印文であるが、
本論においては装飾性により重要度が高かったとする見解を提示した。とりわけ12世紀 代の帯状連続施文に関して、従来は成形工程に合わせて、接合部の密着を促進させるた めの機能に重点を置いていたが、押印文の内面に当具を用いない施文法から判断すると、
帯状連続施文が三筋文とも関連する装飾である可能性も高い。
製品の機能について、とりわけ大型の甕の機能については、酒の醸造具としての役割 があったと想定した。室町期の酒蔵跡と想定される平安京六条三坊五町遺跡のような甕 の多数埋設遺構は、鎌倉や平泉の遺跡群では確認されていない。しかし、その鎌倉や平 泉では常滑窯の甕が大量に消費されていることが判明している。建長四(1252)年に沽 酒を禁じた際に調べた鎌倉中の民家にあった酒壺の数、37274個という圧倒的な数を合 わせて考えた場合、それらは埋設されることなく人目に付く形で保管されていたという 推定が成り立つ。また、平泉で確立されたとする白磁四耳壺や三筋文系壺とかわらけ、
折敷、箸による、東国の宴会形式において、膨大な量の廃棄が認められるかわらけに注 がれた酒が、甕で醸造されたものであることも容易に想定できる。今後の検証作業が求 められるが、人目にふれるような形で酒を醸す甕が配置されていたとすれば、押印文の 装飾性も一層重要な意味を持つことになる。
また、常滑窯製品の流通については、従来の製品の出土遺跡の分布からその地域の特 性を把握するという方法の問題点を指摘し、遺跡の分布に加えて出土している器種と把 握できる個体数、その編年的位置を総合したデータによる分析法を提起した。この方法 によると遺跡数では関東地方と東海地方でさほどの違いが出ないが、出土遺物の数を見 た場合、鎌倉遺跡群の出土数は、東海地方よりはるかに多いことが判明する。この都市 的空間における大量消費という現象は平泉においても認められ、東北地方の総出土資料 数より平泉遺跡群の数量の方が勝っている。こうした都市や居館、有力寺院などにおけ
る大量消費の傾向から、中世陶器に与えられていた日常雑器、とりわけ農業生産の発展 に寄与した生活具という、従来定説化した観のある性格付けを否定した。
時間の変化に伴う流通の状況からは、東海地方と関東地方は類似する傾向があり、13 世紀の中頃から後半にかけてと、15世紀に常滑窯製品の消費が活発になるのであるが、
東北地方と西日本では15世紀の盛期が認められない。西日本においては備前窯を中心に 信楽窯や丹波窯などが盛んな生産を行なっており、常滑窯製品の代替が行われたことが 想定できるものの、東北地方においては関西諸窯の製品は流通せず、それらに代わるも のも存在しない。
常滑窯製品の流通に支障がある日本海側の地域や東北地方では、12世紀末から14世紀 前半にかけて常滑窯の甕に似た製品を生産する窯業地が形成された。それは西日本の信楽 窯や丹波窯も含めて常滑窯の技術が伝播した結果と見ることができるが、これらの窯も多 くは14世紀前半のうちに操業を止め、信楽・丹波・越前が残ることになった。この変化 は須恵器系中世陶器の動向とも連動しており、日本海側の珠洲窯が廃絶していく流れとも 対応するように東播諸窯が衰退するのに対し、越前窯が盛期を迎え、西日本では瓷器系の 窯業地が盛んになる傾向がある。ただし、備前窯においては、須恵器系から新たな焼成法 を確立し擬似瓷器系とでもいうべき製品を創出する。また、東播諸窯で量産していた製品 は片口鉢で、広く西日本に分布し、関東地方や東海地方で見られる常滑窯の片口鉢は西日 本には、ごく少量しか運ばれていない。つまり、片口鉢は常滑産である必要がなく、常滑 製品で求められていたのは、須恵器系の甕にはない堅牢に焼けた褐色の甕であったという ことになろう。その傾向は常滑窯の技術が移植された各地の窯業地においても、甕に関し ては常滑製品を比較的忠実に写すことが行なわれているのに対し、片口鉢は各地域の特色 を発揮する事例が多いことからも指摘できる。
全国的に流通する甕・壷・片口鉢の3器種に対し、生産地においては山茶碗・小碗・
小皿が大量に生産されている。しかし、この山茶碗類は生産地周辺においてのみ消費さ れているのである。伊勢湾周辺の状況を見ると伊勢南部と三河東部の渥美・湖西型山茶 碗、伊勢北部から尾張部の常滑・猿投・瀬戸窯産の尾張型山茶碗、美濃では東濃型山茶 碗という主要流通域があるものの、それらは西三河における渥美・湖西型と尾張型山茶
碗の混在する状況にみられるような中間地帯が存在する。さらに、少量ながら知多半島 の遺跡で渥美窯産の山茶碗が検出され、13世紀後半には尾張型においても瀬戸窯産の山 茶碗が分離可能であり、その瀬戸窯産山茶碗が知多半島中・北部の遺跡で常滑窯産と同 量に近いほど出土しているなど、産地間の交流が認められる。
結章「中世常滑窯の歴史的役割」では中世常滑窯の果たした役割を渥美窯や猿投窯、
瀬戸窯さらには珠洲窯などの主要な中世窯業地と比較しつつ考察を加えた。その視点は 序章で提起した半島としての地理的条件が果たした役割を受け継いでもいる。12世紀初 頭に知多半島と渥美半島で始まり、やや遅れる形で12世紀後半に能登半島で見られる拠 点的な窯業地の成立は、広域流通を視野に入れた半島開発の結果であり、その背景には 平泉の存在が大きな役割を果たしていた。近年の文献史学や文化財の研究成果によれば 平泉の砂金や馬、そして武器・武具の材料となる動物資源などが中央の権門に贈られ、
平泉藤原氏と密接な関係が結ばれている。また、奄美群島で産出する貝を材料として中 尊寺金色堂の螺鈿装飾が行なわれていることなども明らかになっており、藤原清衡の時 代に列島全体を把握した開発が計られる土壌が存在したことをうかがわせる。さらに、
陸奥南部から北関東の有力氏族が、藤原清衡と近密な関係を結んでいたことも明らかに なりつつある。そうした背景の中で新たな半島開発が行なわれ、東国を中心に大量の新 たな陶器群が供給され流通するようになり、その開発が半島であったことは物流におけ る舟運の利用が重要な意味を担っていたと考えられる。
12世紀に盛んに造営された埋経系の経塚は13世紀になると急速に退潮し、鎌倉では 永福寺の東丘陵に1基のみ確認されているに過ぎない。それは、金鶏山経塚や中尊寺境 内に想定される経塚群をもつ平泉とは対照的である。この流れに沿うように、渥美窯や 猿投窯は広域流通品の生産を止め、それに代わって古瀬戸製品が鎌倉へともたらされる。
そして、大型製品に関しては常滑窯に集約され、猿投窯や渥美窯は山茶碗生産という近 圏流通品のみの生産へと転換する。この転換は北条得宗体制の成立によって完成するも のであろうが、その一方で平泉の終焉が転換の始まりを告げたものと理解している。