博士比丘印順の誕生と大正大学
西 野 翠
はじめに
印順(1906―2005)は台湾の僧侶・仏教学者であり,徹底した経典解読に よって仏の教えを探求し,精緻な資料分析と,その深い理解に基づく数々の著 作を残している1.台湾においては,出家者や仏教研究者はもちろん,在家の仏 教者にも,彼の名は広く知られ,篤い尊敬をもって印順導師と呼ばれている.「台 湾のラモット2」と言っても過言ではない印順であるが,わが国ではその名を 知る人は限られ,彼の業績についてもその全体像を知る人は極めて少ないに ちがいない3.
印順の大著『中国禅宗史―従印度禅到中華禅』4を日本語に翻訳した伊吹 敦(1959―)は,原著について,「[その行間から],仏教によって陶冶された 巨大な人格がにじみ出てくるのが感じとれる…本書は学術書でありながら,
決して無味乾燥なものにはなっていない5」と記している.そのうえで,「こ のような,人格と学問が統一された著作は,日本においては極めて稀であり,
この意味で本書は,学問がいかに進歩しようと,永遠に色あせることのない不 朽の名著だといえるだろう」と,高く評価している.「仏学」(仏に関する学問)
に偏し「学仏6」(仏に学ぶこと)が軽視されがちな現代仏教学界にあって,
われわれが印順から学ぶべき点は少なくないと考える.
特に大正大学は,印順と浅からぬ縁で結ばれているが,今日それを知る人は 学内でも数少ないように見受けられる.印順と大正大学を結ぶ出来事は,彼の 死を報じた『タイペイ・タイムズ』紙にも記されている7.少し長くなるが,
印順の簡略な紹介も兼ねてここに全文を引用する.*記事中,( )内の表記 の一部は筆者の付加.
Buddhist master Yin Shun dies at 100(TAIPEI TIMES)Jun 5,2005 Dharma Master Yin Shun who died on Friday at age 100.
Dharma Master Yin Shun(印順法師),who is credited leading a renai ssance in Chinese Buddhism,passed away in Hualian's Tzu―Chi Hospit al(花蓮慈済医院)on Friday,aged 100.
Yin Shun was a mentor to Master Cheng Yen(証厳法師)the founder of the Buddhist Compassion Relief Tzu―Chi Foundation(慈 済 基 金 会),
and was honored by Tzu―Chi members as their "Shih Kung"(Teacher Patriarch).
He was a pioneer in developing the concept of "humanist Buddhism(人 間仏教)," the need for the monastic community to engage with the mun
dane world.
At a press conference yesterday,Master Shih Chao―hui(釋 昭 慧 法 師)
an associate professor in religion at Hsuan Chuang University(玄奘大学)
emphasized the importance of Yin Shun's ideas in the revitalization of Buddhism in this country.
Chao Hui said Yin Shun was a harsh critic of the superstition and idolatry into which Mahayana Buddhism had sunk,and abhorred the conflicts between various sects within the faith.
Although Yin Shun is closely associated with the Tzu―Chi Foundatio n,he has had a decisive influence on others of the new generation of Buddhist masters such as Master Sheng Yen(聖厳法師)of Dharma Drum Mountain(法鼓山)and Master Hsin Yun(星雲法師)of Fo Guang Shan
(仏光山),who are active in humanitarian aid,social work,environmental ism and academic research.
Yin Shun was born in 1906 in Haining County(海寧縣),Zhejiang Pro- vince(浙江省).He became a monk in 1930 and pursed his religious stu dies at the Nantuo Temple(南普陀寺)in Xiamen(廈門),developing into a formidable scholar.
His is credited with raising the status of Mahayana Buddhism throu gh his extensive writings and his insistence on theoretical rigor.In 19728,with the publication of his History of the Chinese Ch'an School
(中国禅宗史),he received a doctorate from Japan's Taisho University(大正 大 学).He was the first monk from Taiwan to receive such a high academic qualification.
Yin Shun traveled widely in Asia and lectured at many academic and religious organizations.
In March last year(2004年),he was awarded the Order of Propitious Clouds Second Class(二等卿雲勲章)9,for his contributions to the revit alization of Buddhism in Taiwan.
この記事に登場する証厳(1937―),昭慧(1957―),聖厳(1930―2009),星雲
(1927―)はいずれも台湾仏教を牽引する,あるいは牽引した重要な存在であ るが10,彼らのいずれもが印順を尊崇し,その教えから大きな影響を受けている.
そのことに照らしても,台湾仏教に対する印順の影響力の大きさが知られよう.
彼らをつなぐ礎となっているのが所謂「人間仏教11」である.
ここで注目したいのは記事中下線を施した部分で,「1972年,印順はその著
『中国禅宗史』によって,日本の大正大学から博士号を授与された.台湾の比 丘で,学術的にそのように高い評価を受けたのは印順が初めてだった」とある.
本稿では,印順が大正大学から博士号を授与された経緯を明らかにすると ともに,博士論文として大学に提出された『中国禅宗史』を含む彼の膨大な 著作にも目を向け,当時の日本における印順への評価の一端に触れてみたい.
それに先だって,印順の略歴を紹介し,仏法者としての彼の研究の特質を明ら かにしたい.
1 求道者印順の歩み―因縁に導かれ仏道へ
93歳の印順が,出家して60余年の来し方を振り返って著わした一書がある.
『平凡的一生(重訂本)』12である.その冒頭の「一生難忘是因縁」(人生で忘 れられないのは因縁)と題する一節13で,「自分の人生は平平凡凡たるもので,
語るべきことも書くべきことも何もない」としたうえで,「静かに自分を思 い起こし,自分を観察して」,自らのありようを以下のように表現している.
自己如水面的一片落葉,向前流去,流去.忽而停滞,又忽而団団転.有時激起了浪花,
為浪花所掩蓋,而又平静了,還是那様的流去.為什麼会這様?不但落葉不明白,落葉 那様的自己也不太明白.只覚得―覚得是当時発覚,有些是事後発現,自己的一切,都 在無限複雑的因縁中推移.因縁,是那様的真実,那様的不可思議!有些特殊因縁,一 直到現在,還只能説因縁不可思議.14
(拙訳:自分は水面に浮かぶ一片の落葉のように,前へ前へと流れていく.ふと留 まったかと思うと,またくるくると転じていく.時には激しく波立って,転覆する こともあるが,また平静になって,元どおりに流れていく.どうしてそうなるのだ ろう? それは落葉には分からないだけでなく,落葉と同じく,私にも分からない.
ただ思うに―当時分かったこと,またその後分かったことも若干あるが,自分のす べて,全部が,無限の複雑な因縁の中での推移だった.因縁,そのような真実,その ような不可思議! いくつかの特殊な要因があって,真っすぐ現在にまでつなが っている.やはり因縁不可思議というほかない.)
自らの人生をこのように追憶した印順は,「人生はただ因縁」(人生,只是 因縁)と述懐している.たしかに,印順の歩んだ道を辿ると,まさしく「因縁 不可思議」であり,因縁によって導かれた生涯であったと頷ける15.
若き日,印順は如何に生きるべきかという深い悩みを抱えていた.そして,
心の空虚を満たす教えを求めて,宗教的な探求へと向かった.最初は中医学に 惹かれ,『神農本草』や『雷公泡製』,あるいはまた『抱朴子』,『呂祖全書』,『黃 庭経』,『性命圭旨』,『慧命経』などを学び,やがて老荘の哲理に心酔し,さら には友人の導きでキリスト教の新・旧約聖書も学んで,教会にも通っていた.
そのような信仰の歩みの果てに,なぜ仏教を選択するに到ったのか.その路程 について,印順は「我之宗教観」(『妙雲集・下編之六』)「八,我怎樣的選擇了 佛教」(私はどのようにして仏教を選択したか)で詳しく述べている.
不到両年,従基督教而來的短暫光明,迅速消失.空虛而茫無著落的内心,[p.305]
又如狂濤中的小舟一様,情緒低落,時時煩躁不安.悶得慌,以乱読書為消遣.偶読到 馮夢禎的『荘子序』説:「然則荘文郭注,其仏法之先駆耶」! 我心裡一動,開始向 仏法去探討.16
(拙訳:2年も経たずに,キリスト教から来ていた暫しの光は,すぐに消えてしま った.再び,心は空虚で茫々として落ち着かず,気持ちが落ち込んで,怒濤に抗う小 舟のように,しばしば心が乱れ不安に駆られた.苦悩のなかで,書物を読み漁って 気を紛らしていると,偶然,馮夢禎の『荘子序』の,「然則莊文郭注,其佛法之先驅 耶(然らば則ち荘文の郭注に,其れ仏法の先駆けや)」という一文に出会った.私 の心が動き出し,仏法を学び探求するようになった.)
『荘子序』の一節が仏法探求の機縁となったということは,『遊心法海六十 年』(『華雨集・第五冊』pp.1―60)にも述べられている.
十四年(二十歳),我読到馮夢禎的『荘子序』:「然則荘文,郭注,其佛法之先駆耶」,
而引起了探究仏法的動機.(p.4)
(拙訳:二十歳の時,私は馮夢禎の『荘子序』の「然則荘文,郭注,其佛法之先駆耶」
を読み,それが仏法探求の動機となった.)
印順が仏法に惹かれ出家を願うようになった当時,印順の生活する圏内25 キロほどにはこれといった寺院もなく,著名な法師と巡り合う機会も望めな かった.彼にとって,出家は非常に難しいものであったという17.共に学ぶ友も,
導いてくれる師もない環境で,ただひとり暗中模索する日々が続いた.
これ以後の印順の仏道探求の歩みについて,本稿では「印順導師略譜18」 や厚観[2012](pp.1―5)の記述を参考に,修行と学問面を中心に,要約して 紹介するにとどめたい19.
【印順歴程簡要】
・1906年3月12日,浙江省海寧縣の農村に出生.7ヵ月の早産で,幼少より身体虚弱.
俗名は張鹿芹.
・7歳(1912年):小学校入学.
・13歳(1918年):小学校卒業.正規の教育はこの6〜7年だけ.それ以降は独学.
・16〜25歳(1921〜1930年):教会附属の私立小学校で教える.老荘や「新・旧訳 聖書」を読んでいたが,後に仏法を知ってからは『中論』を読み始める.理解は困 難でも,学ぶことに喜びを感じて学び続ける.4〜5年して,仏法を理解するよう になると,仏法と現実の仏教界の間の大きな隔たりに気づき,仏法信仰と真理探究 のために出家し,将来は正しい仏法を弘めたいと発願する.
・25歳(1930年):清念上人に依って出家.「印順」という法名を得る.
・26歳(1931年):廈門の南普陀寺に到り 南仏学院(院長:太虚大師20)で修道.
この当時,龍蔵版大蔵経をすべて閲読(印順は生涯に幾度も大蔵経を読破している).
1964年には,妙雲蘭若(嘉義)で閉関し21,日本語訳南伝大蔵経を読破.南北伝大 蔵経を読破することで,仏教思想史の観念が具わる.
・35歳(1940年):『唯識学探源』を書き上げる.第一の著作.出版は1944年.
・36歳(1941年):「人間仏教」思想に関する初めての著作「仏在人間」を書き始 める.人間仏教は今日ではよく知られているが22,当時は非常に先進的な思想であ った.
・44歳(1949年):内戦により香港滞在を余儀なくされた困難な時期に,『中観今 論』,『大乗起信論講記』など10冊の著作を出版.
・47歳(1952年):中国仏教界の決議に従い,第二回世界仏教友誼会の中国代表と して日本を訪問.帰途,台湾を経由.そこで熱心に引き止められ,台湾に留まること になる.
・52〜66歳(1957〜71年):タイ,フィリピン,香港などたびたび国外訪問.1961年 には台北に布教の拠点として慧日講堂を建立.招かれて大学でもしばしば講演.
・68歳(1973年):『中国禅宗史』によって,大正大学から博士号を授与される.
・70歳(1975年):台湾を訪れた藤吉慈海と浄土教について意見交換.
・76歳(1981年):『初期大乗仏教之起源與開展』および『如来蔵之研究』を出版.
・83歳(1988年):『印度佛教思想史』を出版.
・88歳(1993年):『華雨集』5冊出版.
なお,『中国禅宗史』の「訳者あとがき」で,伊吹は印順についてかなり詳 しく紹介しており23,日本語で読める数少ない資料といえよう.伊吹は印順の
紹介を以下のような文章で締めくくっている.
印順は,生まれてすぐ生命の危機に直面するなど,幼少より甚だ病弱であった.
そのため,しばしば療養を余儀なくされたし,手術を受けたことも一度に留まらな かった.…そのように弱い体質でありながら,激動の時代を生き,このような長命 を保つといったことは,それだけでも並大抵のことではない.しかも,その間に,各 地で布教に従い,修行と莫大な著作を残しているのであるから,我々の目にはほと んど奇跡であるかのようにすら映るほどである.恐らく,そこには,印順自身,しば しば口にしているように,そのような因縁―仏縁―が存在するのであろう.24
印順の『平凡的一生』の最終章「三五 最後的篇章」(最後の章)は以下 のように結ばれている.
我如一片落葉,在水面上流著,只是隨因緣流去.流到盡頭,就會慢慢的沈下去.人的 一生,如一個故事,一部小説,到了應有的事已經有了,可能發生的事也發生了,到了 沒有什麼可説可寫,再説再寫,如畫蛇添足,那就應該擱筆了.幼年業緣所決定,出家 來因緣所發展,到現在還有什麼可説 !最後可能補上一筆的,不過是這樣的一則:
xxx年x月x日,無聲無息的死了.25
(拙訳:私は一片の落葉の如く,水面を流れ,ただ因縁のままに流れてきた.流れ が尽きれば,ゆっくりと沈んでゆく.人の一生も,そうしたものであり,一編の小説 に似ている.起こるべきことが既に起こり,生ずる可能性のあることが生じてしま ったら,もはや言うべきことも書くべきことも無く,更に言ったり書いたりしては,
それこそ蛇足である.ならば,擱筆すべきである.幼年は業縁の定めしところ,出家 は因縁の展じたるところ,現在に到りて何をかまた言うことがあろうか! 最後 に加えるべきはただ一筆,この一文のみ: xxx年x月x日,無声無息にて 死す.)
自らを「水面の一片の落葉」に喩えて書き出した『平凡的一生』は,再び「一 片の落葉」の喩えで終わっている.「因縁不可思議!」という印順の深い頷 きは一つの悟りの形であったといえよう.
2 印順の著作―「信・智・悲」の結実
厚観[2012]によると,印順の著作は概ね6種に類別できるという.第1は
『妙雲集』,第2は『華雨集』,第3は『永光集』で,いずれも種々の論点からの 論文を集めたもの26.例えば,『妙雲集』は上・中・下の三篇から成り,上篇 は経論的解説,中篇は十万字を超える専門的論述,下篇は小論集となっている
(次頁参照)27.第4は「単行本」,第5は「編纂書」であり,それ以外の「そ の他」が第6に分類される.
印順の著作を一覧する前に,著作を生み出す基といえる彼の研究姿勢につ いて触れたい.厚観[2012]の一節がそれをよく示している.
導師会勉励後学:「要用学問,不要被学問用.要為仏法而学,不要做世間学問想.」
…学了以後要消化・吸収,要運用才有意義.如蚕吃桑葉,吐出來如果還是桑葉,那沒 意思;吃了桑葉,要吐出蚕絲,那才有用,可做各種用途.28
(拙訳:導師はこう言って若い人を励まされた.「学問を使いなさい,学問に使わ れてはいけない.仏法のために学びなさい,世間の学問をしようと考えてはいけな い」と.…学んでよく消化・吸収して,はじめて有意義に活用できる.もし蚕が桑 の葉を食べて,吐き出すのがまた桑の葉だとしたら,何の意味もない.蚕絲を吐き 出すからこそ有用であり,様々な用途に使える.)*下線は筆者.
印順の著作は,蚕が絲を吐くように紡ぎ出されたものといえる.それゆえ,
どの一作をとっても,決して無味乾燥ではなく29,印順が消化・吸収して得た 精髄が滲み出てくる.以下に,彼の著作の一部を先の分類に沿って書名のみ挙 げてみよう30.
(1)『妙雲集』(24冊):(上篇)『般若経講記』『宝積経講記』『勝鬘経講記』『薬 師経講記』『中観論頌講記』『摂大乗論講記』『大乗起信論講記』/(中篇)『中 観今論』『唯識学探源』『性空学探源』『成仏之道(増註本)』『仏法概論』/(下 篇)『浄土與禅』『我之宗教観』『無諍之弁』『仏在人間』『仏教史地考論』『学 仏三要』『以仏法研究仏法』『平凡的一生(増訂本)』『仏法是救世之光』等々.
(2)『華雨集』(第一冊〜第五冊):『大樹緊那羅王所問經偈頌講記』『楞伽阿跋多
羅寶經釋題』『辨法法性論講記』『往生淨土論講記』『精校燉煌本壇經』『方 便之道』『修定―修心與唯心・秘密乗』『契理契機之人間仏教』『利他的菩薩 行:慧行與福行』『遊心法海六十年』等々.
(3)『永光集』:『大智度論之作者及其翻訳』31「『起信論』與扶南大乗」「〈灌頂〉
在仏法中的起因與発展」「『南伝大蔵経』於漢訳教法中的地位」等々.
(4)単行本:『印度之仏教』『印度佛教思想史』『原始仏教聖典之集成』『説一切 有部為主的論書與論師之研究』『初期大乗仏教之起源與開転』『空之探求』『如 来蔵之研究』『中国禅宗史』以上8冊.
(5)編纂書:『雑阿含経論会編』(3冊)『太虚大師選集』(3冊)
(6)その他:『平凡的一生』『中国古代民族神話與文化之研究』
各作品の内容のあらましは厚観[2012]で紹介されている.ちなみに,厚観 は印順の全著作を概観し,印順の仏教学研究上の貢献として以下の6点を挙 げている32.
(1)對中觀學(空義)的闡釋與推演,為民國佛學界之一絶.
(2)對大乘教義體系有為古人所不及的判教思想.
(3)為印度佛教之發展及佛經之形成過程,理出清晰的脈絡.
(4)華文佛教資料的應用價値,透過導師的著述,而發揮的淋漓盡致.在舉世盛推梵 文・巴利・西藏文佛典的聲浪裏,導師不卑不亢地掲示華文佛典的重要性.
(5)《成佛之道》是導師為初學者所撰的體系性佛學著作,也是華文系佛教徒信仰 的重要指針.該書與《妙雲集》下編諸書,在華文佛教界,發揮了極大的啓蒙作用.
(6)《中國禪宗史》在海内外學術界曾得到普遍的重視,該書也已成為治斯學者必 備的重要參考書之一.
なお,印順の宗教観・仏教観・人生観,またその宗風については,宏印[2006]
および[2007]が簡にして要を得た内容で参考になろう.
3 大正大学による博士号授与の経緯
印順の博士号取得のきっかけを作ったのは,台湾の五座山の一つである法
鼓山の創建者・聖厳である.聖厳は印順より24年遅い1930年,印順と同様,貧 しい農村(江蘇省)に生まれた.やはり病弱で,小学校には9歳で入学したが,
13歳で中退して,14歳から山寺の小坊主になったという33.その後,1949年か ら約10年,軍隊に身を置いたが,1959年末,再び剃髪出家した.
向学心旺盛だった彼は仏教だけではなく広く宗教について学び,また仏教 通史にも関心を持ち続けた.やがて1969年,40代を目前に,聖厳は日本の立正 大学への留学を果たした.この聖厳の日本留学が印順の博士号取得の因縁を 結んだのである.
立正大学では,聖厳が日本語を学んだ教師が3人いたという.その中の1人 が,当時,立正大学で中国語文法を教えていた牛場眞玄(1893―1974)だった.
牛場は大正大学の設立当初(1926年),行政職員として務めていたこともある というが,当時はすでに定年退職していた.天台宗の僧侶でもあった彼は,「中 国の仏教に対して恩返ししたいと常に考えておられる方」で,留学生の面倒 をよくみていたという34.
牛場に関する忘れられない思い出として,聖厳は「博士比丘印順の誕生」
につながった出来事を以下のように記している.
私の留学中にもう一つ感動したことがありました.それも牛場先生の手によっ てなされたことですが,民国62年(1973年),印順法師の『中国禅宗史』35を日訳 し代わりに大正大学に論文を提出し博士を申請したことです.この事の使い走り は私でしたが,連絡交渉などの事務は先生が背負われました.36
印順の学位記授与後ほどなく発行された雑誌『内明』(1973年8月,内明雑 誌社,香港)に,聖厳の「画時代的博士比丘―An Outstanding Monk with A Dr.Degree」と題する一文が掲載されている.それには,大正大学における授 与式の写真が4葉付されており,学位を授与する福井康順(当時の大正大学 学長)や,病気のために来日できなかった印順に代わって学位記を受ける聖 厳の姿も見られる37.(ちなみにこの場面はYou―Tubeの動画「印順導師傳」
にも登場する.)
後日,印順は「為取得日本學位而要説的幾句話(日本の学位取得について
話しておくべき幾つかのこと)」(『華雨集』五冊−三四)38を発表している.
以下はその書き出しの拙訳である.それによると,当時,台湾においては,出家 者が学位を受けることは快く思われていなかったことが窺える.
本年(1973年)6月に私が日本の大正大学の文学博士の学位を獲得したことは,
我が国の仏教刊行物で多数報道された.最近,月刊誌『海潮音』がまたも非難の記 事を発表した.ある法師から来信があり,これに対する異議を示していた.それ故,
学位取得の経過と,学位および中日仏教関係について,二,三,述べてみたいと思う.
この後に続く印順の記述を,要約して紹介したい.
【学位取得の経緯】
(私の学位取得は)日本の牛場眞玄先生と台湾の留学生聖厳法師の出会いから 始まった.牛場先生は70歳をはるかに超えておられたようだが,中国語に巧みで古 典も読まれ,中国仏教に好感をもち熱心であった.私自身は牛場先生に会ったこと もなく,交流もなかったが,牛場先生は過去20年来,私の作品を翻訳すること,ある いは日本の仏教界に私を推奨することを常々考えていたという.もし日本の仏教 界が中華民国に印順がいると知っているとしたら,それは牛場先生の影響という ほかない.……学位取得の話が進んだのは,演培あるいは呉老択居士によるもので あり,私と牛場先生との間に直接の交流はなかった.
この度の学位の取得は,私が入院中で生死が危ぶまれているときに起こったこ とである.「牛場先生が『中国禅宗史』を日本語に翻訳することを望んでおり,私 の同意を求めている」と伝えられた.(なお,聖厳法師の手紙よると,『中国禅宗史』
は日本で一般の評判もよく,牛場先生は日訳本を学位申請に使おうと考えたという.)
私は,それはうれしいことだと思った.文章を書いたら,読んでくれる人があるこ とを願い,次いで多くの人が読んでくれることを願う.近代の日本仏教学界では,
中国語を読める人は非常に少ない.それ故,もし日本語に翻訳されたら,日本の仏 教界に対して多少とも影響を与えることができる.それで,私は病中にあったけれ ど,同意した.
1972年7月29日,牛場先生から直接,手紙が届いた.『中国禅宗史』を褒めてく
れて,日本語訳を以て大正大学に博士学位を申請することを勧められた.聖厳法師 と呉老択居士からも勧める手紙が来た.牛場先生は私の20年来の支持者であり,80 歳に近い高齢であるにもかかわらず,わずか4〜5か月で千頁(400字詰め原稿用 紙)を超える翻訳を完成させた.それほどの時間と力を使ってくれたということに,
私は非常に感動した.病状が悪化している時だったが,私は求めに応じることにし,
必要な書類を日本に送った.
1973年,4〜5月の頃,聖厳法師からの手紙で,学位進行の手続きはほとんど終 わったことを知った.主査は大正大学教授・関口眞大教授,副査は大正大学教授・
吉岡義豊および大正大学講師・福井康順(当時,大正大学学長)で,本来,口頭試 問が必要だったが,私は来日するだけの体力もなく,「博士になるために研究して きたのではないから,博士学位は取得できなくてよい」と辞退を申し出た.しかし,
日本の教授から「口頭試問がなくても差し支えない.実際,(印順の本は)どの一 冊をとってもすべて博士学位を取得できるものだ」といわれた39.そのようなわ けで,聖厳法師が代理で「学位記」を受けてくれた.これが学位取得の経緯である.
ひとえに牛場先生と聖厳法師のお蔭であり,心からの謝意を表したい.
これが,台湾における博士比丘第1号誕生のあらましである40.このとき,
大正大学に提出された印順の博士論文は大正大学図書館に保存されているが,
資料請求で出てくるのは中華民国60年(1971年)6月に出版された『中国禅 宗史』の初版で,それに添付されていたものと思われる牛場眞玄の手に成る 和訳は現在のところ未見である41.
なお,この博士論文の審査は当時の大正大学教授・関口真大(1907―1986)
を委員長とし,大正大学教授・吉岡義豊(1916―1979)および大正大学学長・
福井康順(1898―1991)を委員とする3名の審査委員会によってなされた.
そして,その審査結果は「印順氏 学位論文審査報告書:「中国禅宗史」審査 報告」(昭和48年6月27日付)42に明らかである.それによると,「本論文は,
近代にいたって敦煌その他から幾多の新研究が発見され,ために革めて新た なる段階に進みつつある中国禅宗史の研究につき,…中国人学者としての見 地から,着眼の重点を禅宗がインド禅から「演化」して「中華禅」になった とする点におき,新しき中国禅宗史を構成せんとした研究」であり,「本論文
によって,旧来の中国禅宗史はおそらくは根本的全面的に更新すべきことを 促されるであろう.かくて本論文は,学界に対して多大に寄与する卓れた労作 である」と高く評価されている.また,この論文には,副論文として「原始仏 教聖典の集成」が付されていたが,それに関しても,「本論文の論者が中国仏 教についてのみならず,原始仏教についても広汎な学殖を有し,中国禅宗がイ ンド禅を中国禅に演変せしめたものであるとする本論文に対応し,インド仏 教原始仏教をいかに理解しているかをよく示している」と,高い評価が与え られている.
ところで,80歳に近い高齢で,大部の『中国禅宗史』を短時日で翻訳し遂げ た情熱的な仏教学者・牛場眞玄とは如何なる人物だったのだろうか.台湾で 長く研究生活を送った野川博之(1968―)の「印順導師日本好友牛場眞玄:
其事蹟與著作之概観」43はその疑問に見事に答えてくれる.野川は牛場の数 多くの論文はもちろん,数少ない伝記資料など,牛場に関する資料を隈無く当 たり,その実像に迫ろうとしている.この作品を発表する4年前,野川は以下 のように記している.
1972年,印順導師の『中国禅宗史』をまたたく間に日本語に訳出して大正大学へ 提出し,導師に「中国仏教史上最初の博士学位をもつ比丘」という栄誉をもたら した一大功労者,牛場眞玄師の事蹟.…牛場師がこれまで40年近くにわたり,文字 通りの「幕後功臣」的地位に置かれていることを,筆者は日本人として痛嘆する ものである.…牛場師の奮闘なかりせば,導師のこの栄誉も存在しなかったに相違 あるまい.…知られざる功労者・牛場師の存在はもっと注視されて然るべきでは ないだろうか.44
野川[2013]は以下の4つの方面から,牛場の姿を詳細に描き出している.
(1)印順と聖厳の著述から:pp.141―147
(2)年鑑や牛場の著述から:pp.147―157
(3)牛場が住持を務めた天台宗乳熊寺に関する資料から:pp.157―164
(4)牛場の主要著作から:pp.164―177
牛場は現在の東京外国語大学の前身に当たる東京外国語学校(支那語)の 卒業で45,大正15年(1926年)に大正大学が正式に成立したとき,33歳だった 彼は行政職員(書記)として奉職していた46.野川[2013]では,『大正大学 五十年史』(大正大学五十年史編纂委員会,1976年11月)ならびに『大正大学 一覧 大正十五年度』(大正大学,1926年11月)から得られる情報によって,
牛場の大正大学奉職期間は短く,また教職には就いていなかったようだと判 断している47.
いずれにしても,短時日に印順の博士号取得を実現させた牛場の熱情には 感嘆措く能わざるものがある.
4 日本における印順の評価と世界的な視野での印順
本稿の冒頭でも述べたように,現在の日本の仏教界において印順を知る人 はあまり多くはない.例えば,印順の著作に関連した論文がどれくらいあるか,
論文検索サイトCiNiiで検索してみると,藤吉慈海(1915―1993)によって 1968年に発表された「印順法師の「浄土新論」について―現代中国浄土教の 一断面」48が最も古く,これは民国40年(1951年)の冬,印順が香港の青山浄 業林で講じた「浄土新論」に関する論述である.藤吉は,印順の講義録49を,「全 体で約三万字,五十五頁の小冊子にすぎないが,現代中国浄土教の一面を物語 る貴重な資料である」と評価したうえで,章を追って印順の論を具体的に紹 介し,日本の浄土教との相違などについても解説している.藤吉はこの後,
1975年に台湾の印順を訪れ,直接話し合ってもいる.
次に注目したいのは,パーリ研究者として著名な水野弘元(1901―2006)
が印順の著作を紹介した記事である.『駒澤大学佛教学部論集』創刊号(1971)
の〔新刊紹介〕の欄で,印順の『原始仏教聖典之集成』(1971年,A5版879頁
+16頁)および『説一切有部為主的論書与論師之研究』(1968年,A5版723 頁+21頁)を取り上げている.それぞれの本の構成(目次)を紹介したうえで,
以下のように述べている.
著者の印順師は中国台湾における現代唯一の仏教学者である.右の二書の目次
内容によっても知られるように,原始仏教から部派仏教にわたる経律論の三蔵聖 典を,主として漢訳資料によって総合的に研究している.近代日本におけるこの方 面の研究は多く参照され,著者が独自に研究開拓している部分もある.直接にパー リや梵語の原典には当っていないようであり,南伝大蔵経を資料としている面が あって,この点では徹底的な研究とはいえないが,梵パの理解や読解力もあるよう であるから,漢訳を自由に駆使できる外国人の研究としては,この分野ではもっと もすぐれたものであり,わが国の学者も一応は参照すべきものである.50
直接にパーリや梵語の原典に当たっていないところが瑕疵として挙げられ ているが,印順の仏教研究では「結集と聖典成立の問題」に始まり,経・律・
論のそれぞれについて極めて詳細な検証がなされている.直接にパーリや梵 語の原典に当たっていないとしても,膨大な漢訳仏典を自由に駆使できるこ とはもちろん,真摯な仏道者としての長年の宗教的体験に裏付けられている ところに,印順の仏教学研究の真価がみられるのではないだろうか.
藤吉の論述や水野の新刊紹介に触発されて1970年代以降,印順研究に取り 組む学者が出ても不思議はなかったと思われるが,今日までわが国で印順を 取り上げた研究者はほとんどいない.例えば,CiNiiで「印順」をキーワード に検索すると,その結果はわずか数件にすぎない.また,日本の国立国会図書 館サーチでは25件あがってくるが,そのうち印順の著作ではないものや,既に CiNiiに含まれているものを除くと,『中国禅宗史』と「『大智度論』の作者 とその翻訳」の2点に関する5件51に限られる.
ただ,『大智度論』の著作者問題が論じられる場面では,印順の名がよく引 かれる.それは,『大智度論』の著作者をめぐる主たる学説の一つとして,
Étienne Lamotte (1903―1983),干 潟 龍 祥(1892―1991),加 藤 純 章(1939―)
などと並んで印順の説52が挙げられるからである.
しかし国外に目を転ずると,印順に向けられる視線には熱いものが感じら れる.次項でその点について触れてみたい.
5 現代仏教学と印順―エンゲイジド・ブッディズムと人間仏教
近年,いわゆるエンゲイジド・ブッディズムが注目を集め,学術的な研究も
盛んになっている.その提唱者は,ベトナム出身の禅僧であり,詩人,学者でも あるティク・ナット・ハン(Tich Nhat Hanh,1926―)である.彼はベトナ ム戦争時,南北勢力のどちらの側にも立たず,民衆を助ける社会活動を展開す るとともに,欧米に対して戦争終結を訴え続けた.人々を苦しみから救出する ために,仏陀の教えを社会に生かそうとして推進したのがエンゲイジド・ブ ッディズム(Socially Engaged Buddhism)であった.それは「社会参画型 の仏教(応用仏教)」でApplied Buddhismとも,Active Buddhismとも呼 ばれる53.
中国の太虚によって提唱され,印順によって継承された「人じん間かん仏教54」は
「人じん間かん」すなわち「人の住む場所」,「世間」,「現実社会」に照準を当てた仏 教であり,近現代の中国仏教を論ずる場合,重要なテーマで,「すでに両岸三 地(中国,香港,台湾)において,宗派の境界線を超越し,地区の区別を超越す る仏教の中心的な潮流に発展」しているという55.前述のエンゲイジド・ブ ッディズムとの共通性からか,「人間仏教」は欧米の研究者からも注目され,
Humanistic BuddhismあるいはHuman―Centered Buddhismなどと英訳 され,印順とその著作も研究者によって取り上げられている.例えば,2019年 に 発 行 さ れ たBrill's Encyclopedia of Buddhism Vol.2(Jonathan A.Silk ed.)には “Yinshun”(pp.795―800)の項目が設けられている.その記事を 執筆したのはMarcus Bingenheimer(1971―)だが,彼はまた20世紀の注目 すべき仏教学者として印順を取り上げ,印順の歴史文献学的な研究に着目して,
“Writing history of Buddhist thought in the 20th century ‒ Yinshun
(1906―2005)in the context of Chinese Buddhist Historiography”
(Journal of Global Buddhism Vol.10,2009)56を著している.その中で,彼は 中国仏教の史学的研究における印順の位置を,特に宋代の歴史家志磐(13世紀)
との関連で考察し,印順が如何なる点で,中国仏教の仏教史研究を近代化した といえるのかについても述べている.
日本においては,先述のとおり,印順の名前を見るのは『大智度論』の作者 問題のほかは皆無に等しいが,例えば,近代以後の『大乗起信論』の成立をめ ぐる論争においても57,印順は従来の説のいずれの主張にも組せず独自の説 を展開している,1950年には香港(大埔墟梅修精舍)で『大乗起信論』につ
いて講述しているが58,その後もこの問題に関心を持ち続け,「『起信論』與 扶南大乗」59は彼が88歳のときに完成したもので,彼の絶筆となった.この論 述は近年,東アジア仏教に関する学術会議で,劉成有(中国中央民族大学教授)
が取り上げ論述している60.その論述に対するコメントの冒頭で,金永晋(韓 国東国大学教授)は以下のように述べている.
印順(1906―2005)は近現代中国を代表する高僧の中の一人である.…仏教界 の誰もが尊敬する高僧である.近代に「大乗起信論」に関連して起こった議論に おいても,彼は重要な役割を担った.劉成有教授は,近代以後の「大乗起信論」に おいて印順の「起信論」観61が持つ価値と意味を,印順の著作「『起信論』と扶南 仏教」(1993)を中心として分析している.
金の詳細なコメントに対する回答の中で,劉は以下のように述べている.
印順は二十世紀の中国仏教界の最も重要な代表的人物の一人として,彼の多く の学術的観点に対する現在の学術界の理解と重視の水準は,それに比して遠く及 ばない.印順は一貫性のある「大乗三系」の判教を有しただけでなく,しかも「人 間仏教」思想の系統的な説明も有した.現在の漢語系の人間仏教にもし印順の名 が欠けたならば,間違いなくとても見劣りするだろう.…彼は仏教の「人を以て本 と為す」に対する分析や,「人間浄土」の強調や,梵化・神化した仏教に対する批 判は,みな鮮明なる時代の息吹に満ち満ちている.更に重要なことは,印順の人間 仏教への重視は,明らかに中国伝統仏教に対する批判的立場を有しているという ことである.批判の過程において,…印順は中国仏教の核心的思想である如来蔵に 対し,比較的多くの関心を注いだ.彼の『起信論』観はその中の重要な一環であっ た.62 *下線は筆者.
先述のとおり伊吹は,印順を「仏教によって陶冶された巨大な人格63」と 表現したが,その巨大さが正当に評価されていないことを金も感じていたよ うである.学会で『大乗起信論』に関する印順の考えを紹介したのは,「学術 界の印順思想に対する理解を深めたい」という思いにあったと述べている.64
印順が後進に対して,「学問を使いなさい,学問に使われてはいけない.仏 法のために学びなさい,世間の学問をしようと考えてはいけない」と言って 激励していたことは先に述べた65.近現代の仏教学が次第に「学問のための 学問」に流れる傾向にある点が懸念される昨今,印順がいう「学仏」の姿勢 に注目したい.印順のいう「学仏」とは,「向仏学習」(仏に向かう学び)の 意で,次のように説明されている.
学仏,就是向仏学習,以仏為我們的模範而学.仏是怎様修学而成的,我們也這様照 著学.所以真正的学仏,是:一,不但為後世的福楽而学:……二,不但為自身解脱而 学:……三,為仏之大菩提而学:……66
上記引用文から明らかなように,「学仏」とは「仏を学ぶ」のではなく「仏に 学ぶ」ことであり,仏を模範として学び,仏の修学に倣って修学することである67. したがって,真の学仏とは,後世の安楽のためだけに学ぶのではなく,自身の解脱 のためだけに学ぶのでもなく,仏の大菩提のために学ぶのである.印順の研究スタ イル「以仏法研究仏法68」(仏法を以て仏法を研究する)も,この「学仏」から生 まれているといえよう.
おわりに
以上,博士比丘印順の誕生とそれにまつわる大正大学との因縁について述 べてきた.そのなかで,印順の仏教思想の一端にも触れたが,印順は研究者と しての自らの立場を,晩年にまとめた『法海微波』の冒頭で以下のように述 べている.
我多病而不善交際,所以雖列名大師門下,而不可能追步大師的遺蹤.我覚得,古老 而衰落了的中国仏教,習以成性,是不可能迅速改観的,不如多作些思想的啓発工作.
従伝訳来的三蔵,多方面去探討研求,闡明仏法的特質與方便,…使仏法的真義,能適 応現代而重新活躍起来.在這一意趣下,決定了我為仏教而学,為衆生―人類而学的 方針.69
(趣意訳:私は病気がちで人との交流がよくできないため,太虚大師の門下に名
を連ねていても,大師の後を追いかけることはできない.私はこう思った.「中国 仏教は長い歴史のなかで独自の特質ができていて,短時日でそれを変えることは できない.思想的に啓発するものをたくさん書くのがよい.漢訳で伝えられた三蔵 に従って多方面に研究探索し,仏法の特質と方便を明らかにする.…仏法の真義が,
現代に適応した新しい形で力を発揮できるようにする」と.このような思いで,私 は仏教のために学ぶ,衆生すなわち人類のために学ぶという方針を定めた.)
印順の仏学思想を見ると,まず修行実践を通して中国仏教を体験的に会得 した後,インド仏教の初期大乗の源流に遡っている.そこから仏教全体の流れ を見ようとした彼の仏学思想はいずれか一宗に属するものではない.先に紹 介した膨大な著作からも明らかなように,その知識は広汎にわたり,修学的側 面からの鋭い指摘が随所に見られる.
また,印順仏教学で重視されている「仏教のために」,「人類のために」と いう視点は,今日の仏教学に欠落しがちなところであり,今後の仏教研究の進 むべき方向を示す指針ともいえよう.
最後に,大正大学附属図書館に収められた印順の著作は80余冊で,わが国の 仏教系大学のなかでは最も多い.恐らく,牛場眞玄によって結ばれた印順との 縁によるものであろう.これら著作が大いに活用されて,「以仏法研究仏法」
の道が開かれてゆくことを期待したい.
【参考文献】
書籍
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藤吉慈海[1968]「印順法師の「浄土新論」について―現代中国浄土教の一 断 面」(『印 度 学 仏 教 学 研 究』Vol.16― 2),日 本 印 度 学 仏 教 学 会,東 京,
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pdf#search=%27印順+起信論與扶南大乗%27(2020/03/05閲読)
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【註】
1 印順の著作および出版年は印順文教基金會推廣教育中心のHPに掲載されている.参照:
http://www.ysbf.org.tw/cherish―304.php(2020/05/27閲読).また,印順の著作のほぼ すべてが「印順法師仏学著作集」として,印順文教基金会によってネット上で公開されて いる.参照:http://www.mahabodhi.org/files/yinshun/index.html(2020/05/27閲読)
またはhttp://yinshun―edu.org.tw/Master̲yinshun/books(2020/05/27閲読)
2 ベルギーの大仏教学者エティエンヌ・ラモット(Étienne Lamotte,1903―1983).『大 智度論』,『解深密経』,『維摩経』,『首楞厳三昧経』など,綿密で膨大な注釈を施し た経典のフランス語訳で知られる.参照:Nishino[2016]および[2020].
3 印順文教基金会の長慈が西欧諸国向けに著したIntroducing Venerable Yinshun to the Westが手頃な参考になるだろう.参照:Bhiks4u Changtzu[2017].
4 参照:印順[1971].
5 印順/伊吹訳[1997],p.591.
6 印順の「学仏」については,本稿p.18を参照.
7 参照:http://www.taipeitimes.com/News/front/archives/2005/06/05/2003257991
(2020/05/27閲読)
8 実際には,博士号獲得は1973年であり,1972年には,大正大学に対し博士学位申請論 文が提出された.詳細は後述.
9 参照:http://www.hongshi.org.tw/articleCview.aspx?nono=105(2020/05/27閲読)
昭慧による記事「印順導師受贈〈二等卿雲勳章〉」が掲載されている.
8da1aa6e.pdf?̲ga=2.176346278.203953930.1567319272―
1495969073.1567319272(2020/03/05閲読)
http://www.globalbuddhism.org/jgb/index.php/jgb/article/view/98/111
(2020/03/05閲読)
Nishino,Midori[2016]The Legacy of É.Lamotte for the Study of the Vimalakīrtinirdeśa,(『仏光学報』新二巻・第一期),仏光大学仏教研究中心,
宜蘭,pp.265―290.
[2020]Étienne Lamotte: Translator of the Da zhidu lun,(『仏光学報』新六巻・第一期),仏光大学仏教研究中心,
宜蘭,pp.74―121.
10 現在の台湾で活動する仏教教団のトップ5(五座山)として,法鼓山,仏光山,慈済 基金会,中台山,霊鷲山の5つが挙げられるが,証厳は慈済基金会,聖厳は法鼓山,星 雲は仏光山の創設者である.昭慧は仏教弘誓学院の創建者であり,男女平等や動物 愛護などを始めとする社会問題活動家として,国の内外で活躍している.
11 本稿では詳述できないが,何/松森訳[2011]を参照.
12 この『平凡的一生』(平凡な一生)は3回出版されている.1970年(印順66歳)の 初版本,続いて1993年(88歳)の増訂本,そして2005年(93歳での執筆,しかし著者 の希望で「身後出版」)の重訂本である.本稿では重訂本(印順[2005])を用いる.
13 印順[2005],pp.1―3.
14 印順[2005],pp.1―2.
15 印順の弟子厚観(前福厳仏学院院長)によると,印順はいつも「因縁不可思議,不 可思議!」と口にしていたという.参照:厚観[2012],p.9.
16 参照:「我之宗教観」(『妙雲集下編之六』所収,pp.304―305).
17 印順[2005]に,「出家難,對我來説,不是難在出家的清苦生活,而是難在到那裡去 出家.我一直生活在五十幾華里的小天地裏,在這一區域内,沒有莊嚴的寺院,沒有著 名的法師.」(p.4)とある.
18 参照:「印順導師略譜」http://www.ysbf.org.tw/cherish―285.php(2020/05/27閲 読)
19 印順の生涯をアニメ作品にまとめた「印順導師傳〜動畫電影映像」や,ドキュメン タリー風にまとめられた「印順導師傳」はYou―Tubeで閲覧できる.
参照:https://www.youtube.com/watch?v=baKfY0GMfC4(2020/05/27閲覧)お よびhttps://www.youtube.com/watch?v=f8fV4Qeh5hU(2020/05/27閲覧).
20 太虚(1890―1947)は清末,民国の仏教復興者.印順はその最大の弟子であり,太虚 の死後,『太虚大師全書』(善導寺仏経流通処,1998年第四版)の編集に当たる.20 世紀の初期に始まった人間仏教(中国語の「人間」は日本語の人間という意味で はなく,世の中,この世,世間などの意である.そこで,日本語では「ニンゲン仏教」
ではなく「ジンカン仏教」と読んできた)の創始者ともいえるのが太虚である.し かし,太虚は「人間仏教」より「人生仏教」という言い方を重視していた.太虚の 人生仏教とは「契理契機」(仏陀の真理に合致し,人類の時機に適応する)の仏教 という意味であり,印順はその理念に強く同意していた.参照:魏/菅野訳[2010],
pp.81―84.
21 ベッドやトイレのある一室に隠り,食事を小窓から差し入れてもらう以外は,外界 との接触を断ち,ひたすら経典を閲読する閉関修行のこと.
22 本稿の脚注52,53を参照.
23 伊吹は,「我が国においては,〈印順〉という名こそ多少は知られているものの,そ の経歴についてはほとんど知られておらず,その著作もあまり読まれていないばか りか,どのようなものがあるのかすら知られていないのが実情である」と記してい る.参照:印順/伊吹訳[1997],pp.591―598.
24 参照:印順/伊吹訳[1997],p.598.
25 印順[2005],pp.227―228.
26 『妙雲集』は,印順が建てた道場の一つ妙雲蘭若(嘉義)において閉関修行の期間に,
それまでに発表していた著作を収集整理したもの.『華雨集』は,華雨精舎(台中)
に滞在中に,『妙雲集』に収められなかったものなどをまとめたもの.『永光集』は,
台中の夏の猛暑を避けて永光別苑(南投)に滞在した折りにまとめたもの.参照:
厚観[2012],p.6.
27 厚観[2012],p.266.
28 厚観[2012],p.5.
29 参照:印順/伊吹訳[1997],p.591.
30 印順の著作および出版年表は「印順導師写作及出版年表」で一覧できる.脚注1を 参照.
31 この作品は「『大智度論』の作者とその翻訳」として,日本語に翻訳され出版され ている.参照:印順(述意)[1993].
32 参照:厚観[2012],pp.260―262.上掲6点の抄訳:(1)中観学(空義)の解明解 釈では,台湾仏教学界随一である.(2)大乗の教義体系について,古人の及ばなか った判教思想を提示した.(3)インド仏教の発展および仏典の形成過程を整理し,
その道筋を明らかにした.(4)漢文仏教資料の応用価値を,著述を通して最大限に 発揮し,梵・巴・蔵の仏典を重視する世の流れのなかで,漢文仏典の重要性を示した.
(5)『成仏之道』(印順[2001])は初学者のために仏教を体系的にまとめた著作で,
漢文系仏教徒の信仰上の重要な指針である.(6)『中国禅宗史』(印順[1971])は 国内外の学界で重視され,その方面の研究者必携の書物の一冊となっている.
33 聖厳の生い立ちについては,聖厳/葛訳[2005]を参照.原書『聖厳法師学思歴程』
は1993年に発行され,「中山文芸創作伝記文学賞」を受賞した.
34 「日本は仏教文化の恩恵を大いに受けており,そして日本仏教の源流は中国にあるし,
また多くの日本仏教の漢文原典も中国から持ち帰ったもの」であるにもかかわらず,
「第二次世界大戦中に日本は中華民族を虐め中国の領土を侵略したということ」,そ のことで,牛場は中国の僧侶に感謝と懺悔の気持ちをもって,留学生の面倒をみて いたようである.参照:聖厳/葛訳[2005],pp.133―134.
35 聖厳が日本留学に携えて行き,牛場に手渡したのは,中華民国60年(1971年)6月
発行の『中国禅宗史』であったと思われる.後に,これが和訳され,原本に添付され て論文博士申請がなされた.
36 参照:前掲書,p.134.
37 聖厳はこの時の経緯を「代長老申請日本大正大学博士学位(長老の代理として日 本大正大学に博士学位を申請)」に記している.『人生』雑誌274期,pp.60―63およ び 江[2001],pp.3―4を 参 照.『人 生』雑 誌274期 に つ い て は,http://yifertw.
blogspot.com/2010/04/blog―post̲30.html(2020/05/27閲読)を参照.
38 同じものが,聖厳法師の自伝『帰程』に「附録一」として掲載されている.参照:
http://www.book853.com/show.aspx?id=112&cid=101&page=49(2020/05/27閲 読).
39 厚観[2012]に,「日本教授説不口試也没関係,其実毎一本書都可以拿一個博士学 位了.所以,導師得到的是正式的博士,不是栄誉博士而已.」(p.4)とある.これは,
印順が取得した博士号は「名誉博士」ではないかとの誤解や憶測に対する一文か と思われる.正式の「論文博士」であることは,それを証する「学位記」が福厳精 舎(新竹)に保存されていることからも明らかである(筆者は学位記の写真を厚 観法師からお送りいただいた).そうした誤解や憶測の背景には,学位を授与した大 正大学側の資料が十分に伝わっていなかったことも一因と思われる.今回入手でき た範囲で,大正大学側の資料を挙げておきたい.まず,印順の博士論文が教授会で承 認されたことについてであるが,「大正大学大学院学則」(1976年),広義に捉えれ ば新制大学の学位授与規則によれば,本来,博士の学位授与に教授会の承認は必要 とされない.事実,先行する学位授与の記事でも,教授会云々といった記載はない(参 照:『大正大学学報』21号,p.19).しかし,印順の場合,口頭試問を実施できないと いう状況下で,戦前の旧制大学時代の学位授与規程が参考にされたものと推測され る.すなわち,『大正大学一覧』(大正大学,1931)に見る「大正大学学位規定」(昭 和5年12月26日認可)第5条に,「提出ノ学位請求論文ハ本學学部教授会ニ附議シ 教授会ニ於テ審査ノ価値アリト認メタル時ハ教授中ヨリ審査委員二名以上ヲ選定 シテ之ヲ審査セシム……学部教授会ニ於テ審査ノ結果ニツキ採否ヲ決スルニハ教 授全員ノ三分ノ二以上ノ出席ヲ要シ出席者四分ノ三以上ノ無記名ニ依ル同意投票 ヲ要ス」とある.この旧規定が適用され,教授会における承認が行われたものと思 われる.『大正大学ニュース No.7』(大正大学広報部,1973)では,「六月二十四 日の教授会において印順氏に文学博士の学位をおくることを承認した」と報じら れている.
40 ちなみに,聖厳もその後,立正大学で博士号を取得し,1975年3月,印順につづいて 台湾で2番目の博士比丘となった.聖厳/葛訳[2005](pp.169―198)によると,