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i フランスの近代化と地域の変貌

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(1)

フランスの近代化と地域の変貌

ーユルポア地方における歴史地理学的一特質

i

i 言 :

じ め

I こ

フランスにおける近代社会成立の劃期が市民革命にあるとするならば︑市民革命は封建的土地所有の廃棄をもって

フランスの近代化と地域の変貌

中心課題となすにある︒しかして近代化過程は絶対主義時代を通じて用意され︑固によって様相を異にするが︑

業・土地問題を農民的立場から如何に処理するかということによって︑近代化の様相ははっきりするわけである︒か

かる意味合いにおいて︑ フランスにおける近代化の特質がイギリス及びドイツのそれと異っていることは︑ つとに比

較経済史等の上から指摘せられているところである︒①しかしこの問題はまた同時に︑空間的諸関係︑諸要素を無視

しては考えることができない︒けだし土地の豊度と分化の如何により︑同一国家のなかにおいても近代化は地域に応

じてその特質を異にするからである︒

一般的に言ってフランスにおける近代化過程を考える場合は︑第一にフランドル︑ ノルマンジ l 等々における独立

1 7 7  

自営農民の発生とマニユフアクチュアの成立︑それらにともなう地域の変貌が考えられるわけであるが︑今ここで問

題としようとする地域は︑ ボ l

g 切

E u o

平原の北部でユルポア国ロ円︒旬︒買と呼ばれ︑パワ盆地に位置を占めてい

(2)

る︒つまりフランス西北部と同様に比較的順当な近代化の道を辿った地方であるが︑そこの地形は谷と台地とから成

り︑土地分化の特質からいえば水力︑地下資源を欠き︑農業生産に最も適していた︒のみならず大都市に隣接してい

る地理的条件は︑この地方をしてあくまで農作物の生産とその生産物の商品化に向わしめたわけである︒その上︑か

って歴史家ルッチスキーが論じたように︑②この地方はアンシアン・レジーム下にあって多くの王領地を含み︑支配

形態の特殊性はそのまま地表の景観の変化と近代的な地域の変貌に後を引いている︒

本稿では︑始めにアンシアン・レジーム末期におけるユルポア地方の様相を人文地理学的に概観し︑次いでこの地

域が如何なる地域的特質を持ちつつ資本主義的発展を遂げたか︑それによって如何なる変貌をみせたかを考え︑最後

にそうした地域の変貌の特殊性は如何なるところに在したかについて︑考察を進めてゆくとととする︒

①  高 橋 幸 八 郎 著

﹁ 近 代 社 会 成 立 史 論 ﹂ そ の 他 ︒

② 

こ こ で ル ッ チ ス キ ー は ︑ 革 命 直 前 の ヴ ェ ル サ イ ユ 地 方 の 特 色 と し て ︑ 国王の狩猟に関する封建的権利の濫用と︑同一人によ

L

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照 ︒

る 耕 地 の 統 合 に 対 す る 禁 止 の 願 い が 極 め て 多 い こ と に 注 目 し て い る ︒

ここで取り扱わんとする地域の地形は︑ 谷

4 m

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σ と台地立与何回ロとのこつの要素から成り立っている︒ 大体パ H か

リ盆地の地層は︑第三紀の海︑潟底に水平に沈積せられ︑その後軽い捷曲作用のために変位をうけて台地となり︑そ

こに谷が刻まれたもので︑地層の抵抗力の大小に応じて谷の斜面の傾斜も少しづっ呉てついる︒

セ l ヌ河流域の谷は泥灰岩・石膏等の地質中の幅広い﹁拡り﹂

2 8 0 E

g とくにその南西にかけ けをなしているが︑

(3)

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4 5

イヴエット

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号 EZ 等諸川の谷は﹁フォンテンブロ!の砂地﹂

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に基礎をおき︑深く﹁掘りかえされ﹂

88

町田何言︒己パリ盆地でも例外をなしている︒①ここの渓谷とその斜面は森

林に被われ︑ 一方台地では石灰岩層︑ 時としては砂質の桂土を多量に含んだ泥土に被われた石灰 泉が豊富である︒

岩 層 わ 州 民 の 己 目 合 一 切 ゆ 告 の ゆ か ら な り ︑

ユルポア地方の西方︑トラップ台地へ向 約一六

O l 一

八 米の高さを有し︑ O

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C 米とゆるやかに斜傾をなしている︒②

かかる谷と台地の二っと要素は︑必然的に古くから農業生産様式に影響を与えるものであった︒すなわち谷底の景

観は変化に富んでおり︑耕作形態も多様であり︑主な生産物は野菜及び果物であって︑それらの畑は谷底のすべての

村々に存在していた︒また谷の斜面も昔ながらの森林が残り︑小さな村々の多くは接近し︑人口密度も多く︑畑も細

フランスの近代化と地域の変貌

分されていた︒けだしかかる現象は谷間の地理的状態によるものであった︒すなわち平坦な石灰質の台地と比較し

て︑地形は非常に変化しており︑地味も劣っていたので一貫してパルセルを集積することには向かなかったからであ

る︒前掲のピェ l

ブ ル

の他イゃウエット︑オルジ︒円

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の諸川の流域︑及びムルドル冨

2 5 5

の谷等がそれにあ

る︒@ これに対して台地の上では平常は乾燥しているが︑水分を吸い込んだ岩石が基礎となっているため︑穀物株が

主に生産され︑樹木は処々残っているが稀であり︑村々相互は大きな隔りをもっていた︒この台地の上では中世末から

人々は大きな村々の中に集り!大開墾の結果 1 農民達も次第に再編成が可能となり︑@自営農民の出現によって輪作

の集団的強制のもとに農民の経営地は細分された︒しかし台地のよでは自然状態から云って大農経営に適していたた

1 7 9  

め︑細分された土地は次第に集積せられ︑その速度を増し︑ フイジオクラ l ト的思想に応える様になって︑ フランス

革命の前夜には︑ここの谷と台地の自然的条件の農業に及ぼした影響はますますはっきりした形をとるに至ったo@

(4)

か く

て ︑

ユルポア地方のアンシアン・レジーム末期の

地域の状態を考察すると次の如くである︒

地図が明白に示すところによれば︑この地方の地形は

セ!ヌ河︑ピェ l

ヴ ル

︑ ィ ︒ ウ エ ッ ト 川 及 び ル ウ ・ ド ・ ガ リ l Z H N A M

色︒一の色々川流域の谷と︑それらの諸川に挟ま

れた台地とから成っている︒セ 1 ヌ河沿いの広い谷に臨

むサンクル

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4 回 目 に

至る谷は︑ライ

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のごとく砂地の上に森林あり︑

谷の傾斜地にかけては葡萄栽培をはじめとして︑果物畑

があった︒特にアンシアン・レジーム末期までは葡萄の

株が︑先にあげた町の縁の泥灰岩の堤に沿い︑

マ ル リ

l

富 良 守

の北東附近ではとくに多く見出された︒全耕地

面積に対する葡萄栽培の割合いは︑サンクル l ︑及びム

ー ド ン

2 含ロでは二八%︑ 冨

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これらの葡萄畑は一七八九年︑グ 1 ヴエルヌ l ル・モリ

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(5)

を過ぎた際︑彼をうっとりさせる程見事な光景となっていた︒その有様を彼は日誌に誌している︒ ﹁この地方は非常

によく耕されている︒ 私は足下に果樹 l

スグリの樹や葡萄の樹ーを認めるよ@と︒だがここの地では穀 丘 の 上 で

物生産は無理であった︒あらゆる耕地では所有地のモルセルマンが特徴的であった︒したがって耕地の多くを葡萄栽

培に向けている農民層の中では安易な生活の出来る人々は居なかったのである︒

ギ ア ン ク ー ル の ロ 可 山 口 ︒

︒ ロ ユ か ら イ ニ l Z ロ 凶 刊 を 通 ず る ピ エ

l ヴル河の細長い河床は砂地と草地が続き︑ 水卒業に

は不適であって︑時としては洪水│サン・マルセル日・宮 ω 目色では殊にひどい 1 で多くの人家が破壊せられた︒ま

た ピ ェ

l ヴル・ル・シャ 1

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2 伊丹色の谷底は沼で︑雑草に被われ︑ヴェリエール︿ 日常ゆマッシ 1 n F

冨釦印白河等の谷は葡萄畑・森林・小耕地・小牧場があり︑さらにオ l ベルカンプ

C Z H W

8 6 州︑ドマレイ

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フランスの近代化と地域の変貌

によって建てられた特権マニュフアクチュアはジュ l イ同

0 5

刊にあった︒@

さらに南に下ってイヴエット河谷に入ると︑谷は砂や小石をまじえ︑谷の底は穀物には寒冷すぎた︒例えばオルセ

ィ ︒

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附 近

は ︑

イ l ル・ド・フランス中でも最も貧しい中に数えられていた︒すなわちマンクール冨包ロ 85

では一七八九年になっても︑二十軒ばかりの︑藁ぶきの半分焼け山朋れた家の群があったに過ぎず︑サン・フオルツエ ω

丹 ・

明 ︒

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も同様に無気力なものであった︒@

次いで目を台地に転ずると︑ セ l ヌ河南はゆるやかに傾斜して台地となっていたが一面森林に被われ︑その森林の

面積は︑ラ・セル門知

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セ ゅでは三一四アルパン︑ I ヴルでは二四 O ‑

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当日ぬでは一五

1 8 1  

O アルパン等々から︑等から︑大きなものはマルリ l の四・四

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アルパンのように︑数千アルパンにも及び︑王領地

が大部分を占めて︑森林中には王族︑官庁の役人等の狩場や別荘が点在していた︒同時にこれらの森林は︑ ムードン

(6)

のそれのごとく耕地を傍らに含むものであった︒⑪ここの台地はゴブランの︒ EE の丘のように地味は豊かであり︑

1 8 2  

グエワエールでは︑ 一七八七年のメモワ!ルによると﹁多少とも粘土を含み︑石英質の砂は雨水を惨み込ます︒耕地は

良 く 耕 さ れ ︑

小麦・ライ麦・大麦・燕麦・腕豆・隠元豆・野菜畑にあるソラ豆をみる o ﹂@と諒されているごとく︑

穀物生産が主もなのであった︒ そしてフエルミエ片 25 目︒円が次第に勢力を仲長し︑市町村の長となり︑ 同時に経済

的な発言をもつに至った︒例えばマルヌ冨男

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では︑テレ・ダコスタ叶

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智弘

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が一人で小麦の過半を生

産し︑他の多くの農民は土地・家畜が不足し︑彼等の全生産額を併せても五分の一に満たなかった︒@

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l 川に挟まれた台地では︑ヴイルプル l

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富︒吋ゆきの野が拡がり︑小川の傍では︑幾つかの休閑地・小牧場が支配し︑十八世紀の始めになると葡萄畑は殆んど

消えて︑人は野にあらゆる種類の穀物の種を蒔いた︒壬領地レンヌム l

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m ロ片ふが一七九一年に県当局に差し出した報告書によると︑当時この土地で最も良く産出した穀物は︑ライ麦・大

麦・燕麦である旨を報告している︒また王領地フォントネイ・ル・フ 1 リ l

明 ︒

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号可では沼地が多く︑

クレイロ山吉一回では栗林の森が続いていたが︑ いずれにしても穀物生産が主であった︒

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l ヴル川南の台地になると︑

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にかけてのトラップの野は穀物生産に終始し︑葡萄・野菜はなかった︒

穀物生産の支配的な趨勢は︑イヴエット川の南の台地でも著しいものであった︒その台地の泥土は小麦の耕作に適

し た

ゴメッツ・ラ・ヴイル︒︒自

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はそうした代表的な地であ

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E ︒日附近では人はグランド・フエルムに支配された村落を認めた︒@つまり十六世紀の中頃エテ

(7)

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が﹁この地方はプチット・ボ

1 ス

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として問沃である︒﹂⑬と云ったごとく︑ここは 小 麦 の 生 産 地 の 代 名 詞 と し て 用 い ら れ た

﹁ ボ

l

ス地方﹂の様相を示めしていた︒

以上から確実に云えることは︑

アン・シアンレツ

I

ム下にあって農業生産形態の二つのタイプを決定する要因は地 形 に あ っ た こ と で あ り

︑ 中 世 以 来 本 質 的 に 何 等 変 佑 を 示 め さ ぬ 谷

l 底 特にビエ

l

ヴ ル 川 流 域 等 で 著 る し い

が l と異つ

て 台 地 に お い て は

︑ 次 第 に 農 民 経 営 が 大 農 法 に 変 貌 し

︑ 農 業 資 本 主 義 化 が は っ き り し て 来 た こ と で あ る

︒ そ し て ア ン シアン・レジーム末期となると︑

フランスの近代化と地域の変貌 1 8 3  

かかる地域差はまずまず明白となっていった︒

註①

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彼は同じ谷間でも︑乙この狭い谷間がパリ盆地では地域的に特殊で森林の多いことを指摘している o

小牧実繁︑京大講議﹁フランス地誌﹂による︒え

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ルッチスキ l 等により︑パリ周辺とくにサン・シ 1 ル

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O 出国可において貧農の多いことはつとに指摘せられているが︑こうした貧農の可成り多くは一当該地方においてはたんに

(8)

近代的農民分解の結果というよりは﹁河谷﹂の特殊な地形及び経営形態・人口増加等に由来した現象であると考えられ る 。

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第三章︑及び横山正彦著﹁重農主義分析﹂六三頁等︒

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次に農業が資本主義化へ向った地域の変貌が︑最もテピカルに行なわれた台地について︑具体的に芳察することに

す る

台地の上の石灰岩質の処では︑ ︒

早くからトラップ︑サクレイ

ω R E U

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ゴメッツ・ラ・ヴイル等でグランド・フエ ルムが形成されていた︒とくにト八世紀になると︑とうした村々の或る耕地は︑著しく大農方式に準拠して来た︒

例 え ば ト ラ ッ プ で は

︑ 十 八 世 紀 か ら 二 つ の 大 耕 地

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年の最盛期にはさらに一

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で︑農民の中にはそれ以上の広さを有する大耕地を所有する者もあった︒かかる大地の所有者は経営にあたって家資 つ 増 え た ︒

それらの耕地は建物の周辺で平均して一八

O

l 二五 O ヘクタール

(9)

を使用したが︑②同時応耕地の統合芯ロロ目︒口弘

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一 にともなって大耕地経営者己の宮同 25 F

目 ︒ 吋 と 農 業 労 働

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との分解も激しく︑ 一七八六年頃になると︑

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︑ サクレイでは七人の大耕地経営者と三五人

ぃ︑トルーでは四人のそれと二七人の日傭いを見出している︒@かくして耕地を集めたフエルミエ達はサン・シール

で見られるごとく︑ フ エ ル マ l ジュ常円包括∞として領主に金納で

2 5 2 2 E g

一部は穀物件再

g m o

で支払

ぃ︑@一方耕地を手離して輩出した日傭いは︑ 新たな大土地経営者に有刺な法律で給料を定められたミゼラブルな

農業労働者として存在した︒@

しかしてユルポアの台地では︑ 一般封建領主の支配下にある村々の他に︑数多くの王領地@の存在が特徴的であっ

フランスの近代化と地域の変貌

た︒後者は主として︑ セ l ヌ荷とピエ

l J

ツル川間の森の多い谷聞から台地にかけて存在し︑ドル

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街道に沿った交通便利な地点に位置していた︒⑦アンシアン・レジーム下では︑ かかる王領地内にあ

る耕地も︑台地の上に存在する他の大耕地同様の趨勢を示すものであった︒

例 を パ リ

ヴエルサイユに比較的近い王領の一一教区切

m H ︒町田習であるボワ・ダルシイ切︒牢巳

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吋にとって考察

することにする︒ここはトラップ台地の上にあり︑森林の多い︑泥土に被われた地で︑やはり十八世紀に急速に耕地

の統合が行なわれていった︒そしてアンシアン・レジームも未期になると︑フイリッポノーが指摘していることく︑

二つの耕地に集中された︒@すなわちトランプレイ叶

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吉一及びキュレわ己広耕地である︒

一 七 八 六

1 八年の

1 8 5  

統計の示すところによると︑そこで集積せられた耕地及びその他の地表面の割り合は上の表のごとくである︒@

この表によると︑両耕地とも十八世紅始めから次第に耕地の統合が進み︑ 一七八八年には︑トランプレイ耕地の面

(10)

トランブレイ耕地

年│ーエ名│耕地│抗│森林│計 総 計

( l g ・ 4 0 ) arp 

1 7 0 5   ?  1 6 6 . 7 3   18.58  6 . 4 8   2 0 0 . 4 9   1 7 2 7   Thomas P i o t  

2 0 7 0   . s   1 7 3 6   Louis P e t i t   (28038)  1 0 1 .  4 2   ? 

3 0 0 0   1 7 4 6   i d   4 7 5 . 8 9  

3 5 5 0   1 7 6 9   Thomas  Pluchet  4 7 5 . 8 9  

2 3 7 5  

1 7 8 8   i d  

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1 7 3 8   Lecoq  2 1 1 . 4 0   3 . 4 3  

1 6 2 0  

1 7 5 5   ? 

1 6 5 0  

1 7 8 0   J .   P .   David 

2 4 2 0   1 7 8 8   i d   3 5 4 . 5 0   8 

3 6 2 . 5 0   3 5 5 6  

耕 ニ L レ キ

Arpent de Paris=0.34 ヘクタール

積は少くとも︑ 一七六九年の耕地面積と同様四

七五・八九アルパンは集積されたことが知られ

る︒ーすなわち一七六九年︑耕地は四七五・八九

ア ル パ ン で ︑

フエルマージユの総計は二三七五

£ で

企 の

る の

で ︑

一七八八年の耕地面積は不明で

は あ る が

フエルマージユの総計が二倍に近い

五 O 九八£である故に︒ー他のキユレ耕地は一

七八八年には三五四・五 O アルパンであるため

に︑同年にはこの村の土地は二人のフエルミエ

の手に少くとも合計八三 0 ・三九アルパンは集

められていたことが理解される︒しかしてこの

村で課税対象となった農民所有地は左のごとく

ある︒@すなわち課税対象としての農民所有地

は九四六・五 O アルパンのため︑上述の二耕地

以外には

一 一

ム ハ

アルパンのみしか残ら

ない︒これが他の小規模な二名のフエルミエと︑

四 O

人を越えるアンデイジヤン古丘

m o E

及び

(11)

ジュールナリエに分けられた訳である︒したがって耕地の殆んどすべては前掲のフエルミエの手中に収められていた 麻 畑 と 庭 園

3 7 ・ 7 5 arp 

耕 地

9 4 6 . 5 0  

草 原

牧 場

3 2  

菊 萄 畑

ことが理解される︒トランプレイ︑及びキユレ 1 耕地の

( 1 7 8 6 年 . . . , 8 8 年統計)

フエルミエは地代を王に支払ったが︑それは一七七 O 年

代から急上昇を示し一七八八年には八六五四£に上つ

た︒@王領地でも大きな耕地を経営するに当って︑若干

の農業労働者を雇傭していたことは︑他の大農法の普遍

化した地域と同様であった︒⑫

フエルミエの発展は︑ アンシアン・レジーム未期となると二は強化された封建的反動忠良片山︒ロ訟︒

E F

の結果の

フランスの近代佑と地域の変貌

著しい地代の高騰と︑他は耕地の統合に対する土地を失った貧農の反撃を蒙ることによって阻止され︑発展は望め

ず︑むしろ退化の兆をみせはじめた︒@のみならず︑経営が王領地に存する耕地が他の封建領主支配下にある他の耕

地と異ることは︑王権によって作付強制がなされ︑作付穀物の種類は小麦にのみ限定せられ︑たので︑そこのフエル

つまり彼等は野菜・

甜菜の専業にも︑酪農経営に方針を変えることも不可能であった︒@こうした経営上の特殊事情はトラップ台地等の ミエは社会の状態に応じて自己の意志で他の作物の種を蒔くことが禁止されていたことである︒

他の耕地のフエルミエのごとく︑只管自己の利潤を追求してゆく農民とは異って︑発展のモメントを阻害する第一の

理 由 で あ っ た ︒

1 8 7  

次にボア・ダルシイの村落を構成している土地の全面積をみると左のごとくである︒⑮以上の表から明らかなごと

く︑この村では全農民所有地に対する全耕地の割合は殆んど飽和状態であり︑もしフエルミエ達が自己の土地の拡大

(12)

ヴエルサイユ地

方 落 の を 形 測 成 量 する村

道 路 と 河

2 0 0 . 5 5  arp 

共同地と荒蕪地

1 4 2 . 7 6  

耕 地

9 9 0 . 7 6 9  

牧場と葡萄畑

約 4 0

森 林

4 2 6 . 4 8  

地表面積総計

1 8 0 1 .   2 4  

を望むならば︑新たに荒蕪地と森林を開拓征服する

以外にはなかった︒だが狭路はここにも横わって

いた︒との王領地の農民の耕地は︑ フォントネイ

ル・フルウリーのように六

OO

アルパン以上の水を

そのため荒蕪地と湿地を耕地として利用するには︑他処に較べて二倍の出費と稔りの悪い収獲とを覚悟せねばならか たたえた二つの沼と︑多くの小さな活の間にあり︑

なった︒また一般的に君って︑このユルポア地方の特色は森林の多いことであるが︑就中王領地は森林の多い低地に

またがっていたためその景観の特色は︑ルッチスキ l の伝える統計!アンシアン・レジーム未期にあってパリ周辺の土

地の分布は︑森林が実に全地域の六三后を覆い︑庭園がニ一%︑耕作可能地は一 O ガに過ぎず︑草原が二・五拓︑残

為の狩場となり︑耕地しては使用出来なかった︒ りは葡萄畑と牧場という割合ーに忠実に比例していた︒@そしてかかる主領地の森林は例外なく︑殆んど全部が王の

以 上 の 理 由 か ら ︑ アンシアン・レジーム下の壬領地のフエルミエは資力の欠如とともに︑耕地も絶対的に不足であ

って︑現状では耕地の増大は不可能という情勢に追い込まれていた︒故に王領地では︑穀物以外の商業的農産物の生

産にも︑大農︑法的農業経営にも向けられず︑農民の土地獲得の意志は貫徹されなかった︒かかる傾向は明白に他の大

は未だ良い方であって︑ 農法的経営様式に向った地域とは異るものであった︒その上︑ボア・ダルシイ等のように耕作が可成り行なわれた処

ト ル

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1

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・ 呂 c B ω

ロ フォントネイ・ル・フル 1 リ l のグラグイエ

耕地のごとく荒れ果てている王領地が多かった︒ ︒ 5

4 W

B

(13)

8  M.  Philipponneau ,  La  vie  rurale  de  la  hanlieue  Parisienne ,  p.  534. 

8  F.  Evrard ,  Les  grandes  f 巴 rmes entre  Pans  et  La  Bea L1 ce ,  p.  213 ,  Annales  de  Geographie ,  1923.  1 ト犬て入

=0 ・困ぐ"'0糸ーえばい,

<(ì~人)8~く",,!:;L~~!:'ぬ欄勢十以星雲tQ0AJ!:;L-þ時。

@J  A.  Defrense  et  F. 立 vrard , Les  subsistances  dans  la  district  de  Versa i11 es ,  pp.  33

1'‑'

34 ,  Arch.  nat. ,  2

3

,  206 , 

Arch.  Seine 司巴 t‑Oise ,

C16 

!:;L吋ぬ心

F

キ毛4)11,とtQ St‑Lambert ,  Maincourt ,  Choisel 

\J~心。

B  ibid. ,  p.  23. 

民側Q笠智けニヤ乞県QM

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8  ibid. ,  p.  34 ,  Thenard ,  Chaiers  de  St‑Cyr  et  de  Guyancourt ,  p.  61 , 182̲ 

81 十 i 務雲:!:2 Grand  Parc  AJ ‑‑4l *'''o  Ba i1l y ,  Bois  d'  Arcy 約言葉習のの?と

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か足tQ 11\十Js:!~伝記事 ~W ,.jドニ,(ò O 君主ま:fu tl22~

堕とよ令 6~~ ,0+<1llll阻 P 製品思附単車'幸吉 P 主義翠, ~~Eæ 8 終雲市 .. :P4)11くやニ向。 A. Defresne  et  F.  Evrard ,  ibid. ,  p.  38 

総¥S!王。

望図~S!主。

8  M.  Philipponneau ,  ibid̲ ,  p.  532. 

@)  A.  Defresne  et  F.  Evrard ,  ibid. ,  tom  II ,  p.  464. 吋心近世言。 Arch. na t.,  0 1. 3916  (6) ,  (3). 

⑧ ibid. ,  pp. 

456~457,

Arch , 

Seine-et-Oise~C16.

@  ibid ,  p.  460 ,  Arch.  nat. ,  F 

20

,  283. 

⑧  ibid. ,  tom  1 ,  p.  40. 

~祖国総~。会〉い08智\Q!:;L話í'~

bail  :!:2  rentes  seigneuriales ,  fonci 色 res cens 貯の相ぐ, 1 平 2  EO 母と Q 蒸翠 Q 起 E 露出く母 P 必 F どに根義ど包兵崎川必 F ど。短 l ♀〈宍母矧悩雲¥Q 8 制お足語以:!:2 F 四 ncois Fe‑

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(14)

⑬ 

一 七

O 年とろを期として︑ 王領地における一アルパン当りの地代は左のととく上昇する o したがってフエルマージユも所

によっては二倍近く高騰している︒王領地以外の村落の地代は残念ながら見当らないが︑大体王領地と同様であると思われ

る o その結果一七七 O 年ごろから革命まで各村落とも耕地の拡大は望まれない︒十八世紀二十年代以降の二・三の例を掲げ

ると︑左のごとくである︒

増 減 耕 地 の I 貸総借料計 I ーアル ン当り平

均 1 7 2 7   1 6 7 .  72arp 

1 7 3 6   1 6 9 . 5 0   1 0 4 0   6  f : .  5 s   ミニエール 1 7 4 9   3 4 6   1 8 5 0   5 .  7 6   (ギ、アンクー 1 7 5 7   3 6 3   2 2 0 0   6 . 2  

j

レにおける) 1 7 6 6   3 6 2   2 3 0 0   6 . 3   Mini 色 r e a  1 7 7 3   3 1 5 . 1 6   2 4 0 0   7 . 1 0   Guyancourt  1786  282.43  2 6 1 0   9 

1 7 2 7   3 4 4 . 9 2  

1 7 3 6   3 4 6 . 7 5   2 2 6 0   6 . 1 0   レンヌムーラン

1 7 4 6   3 8 5   2 3 0 0   6  Rennemoulin 

1 7 5 4   3 8 5   2 4 0 0   6.5  1 7 6 4   3 8 8 . 5  

6 . 1 0   1 7 7 3   3 7 5 . 5   3 200  ' 8   1 7 2 7   5 9 2 . 9 4  

1 7 3 6   6 4 5   4 9 8 5   7 . 1 5   ヴオワザン

1 7 4 6   7 2 0   5 1 0 0   7 

及び 1 7 5 4   7 2 2   5 3 1 5   7 .  7 6  

ブ ン ド

1 7 6 3   7 2 2   5 4 0 0   7 . 1 0   V o i s i n s  e t  

1 7 7 3   6 ' 8 3 . 5   5 8 0 0   8 . 1 0  

Lande 

(15)

以上は﹀

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目白四国間州円恒常町︑匂・ロ ω ・

土地問題の農民的解決の総決算は︑七月十四日のバスチーユ事件に始まる﹁八月四日﹂から︑九三年七月十七日の ⑮ 

法 律 に よ っ て

‑切の封建的諸賦課租を無償で廃棄することを成文化するまでの経過によって完全な形右とるに至つ

フランスの近代化と地域の変貌

た ︒

かくして決定された国有財産の売却は︑土地の征服を更に促進し完成するものであった︒これによって従来穀物生 ①

産に従事した耕地の読菜・果物栽培・家蓄・飼料・甜菜糖の栽培及び加工業等は完成に近︑ずいた︒

一 七

九 O 年三月の憲法議会と︑九二年八月及び九月の立法議会は︑封建的権力によって掠奪された財産を保存する

に当って︑村落共同体を再建すると共に︑先ず一七六 O 年︑次いで一六六九年からのもので︑これまで遂行されて来

た全区分を廃止した︒これによって庶民は剥奪されたものを再び入手するだけでなく︑或る者達は封建領主・大修道

院の所有となっている国有財産の売却によって耕地や野原を占領した︒

1 9 1  

しかし固有財産を分割して売却するに当っては︑本質的な制限と思われることがあった︒第一にそれはユルポア地

方の河谷に多い貧農を満足せしめるものではなかった︒革命が最高調に達した一七九三年七年十七日の法令によって

(16)

獲 得 し た 住 民 j1h 以 上

1

1‑10 

10‑50 

50‑100 

1

1 0 0 以上

ヴ、エルサイユ地方のコン 6 6 1   2 8 7   2 1   8  5 

ミユーンの住民

グエルサイユ住民 1 5 4   1 9 1   1 9   1 4   1 2  

パ リ 住 民 5 1   6 2   2 2   1 3   1 4  

ヴエルサイユ地の方住以外の 4 6   54  1 0   6  9 

コンミユーン 民

十 9 1 2   5 9 4   7 2   4 1   4 0  

各個の家長は僅かのパルセルを所有することになったが︑それとて貧農の状態を

根本的に改革するものではなかった︒@ちなみにルモワ l ヌ 国

‑ Z

︒ E z o

の ヴ

エルサイユ地方の八五のコンミユン の固有財産取得の研究をみると

︒ ︒ ロ ロ ロ ロ ロ ︒

上記のごとくである︒@

これによると一ヘクタール以下の画地の七二%がこの地方の村々の者によって

占められており︑彼等の中には極小土地耕作者・葡萄栽培者・職人・小商人を含

ん で い た

一 l 一 O ヘクタール迄の画地は四八%がこれらの村々の主として小土

地所有者によって獲得された︒以下一 01 五 O ヘクタールは二九%︑五

O

一 l O

O ヘクタールは一九形︑ 一

OO

ヘクタール以上の取得者は僅かに一ニガに過ぎな

か っ

た ︒

つまり︑ヴエルサイユ地方の村々の住民は圧倒的に一ヘクタール以下の取

得者であって︑ 一

OO

ヘクタール以上の取得者は僅ずかにトラップ台地等の大規

模な土地耕作者達に限られていた︒さらに具体的にピエ l ヴル川流域のマッシイ

富 山 一 ∞ 宅

からイヴエット川流域一帯の低地のマルク l シ l

宮 買

0 わ

5

回目印

までの

八つのコンミユンをみると︑ 一ヘクタール以下の画地の分割は一七一︑ 一 O

ヘ ク

タール以下が七五戸の住民に分割され︑大規模な耕地の分割は見当らない︒@し

たがって谷間の零細な土地の分割は小農民達を力ずけることはしなかった︒

第二に砂の多い河谷は荒蕪地の分割についても耕地同様貧農には不利であっ

(17)

た︒河谷では開耕する前に非常に苦心をはらって水を酒さねばならぬ様な沼沢が多くてこれはわずかに放牧に適して

いた︒だが国有財産を売却するに当ってユルポア地方の農民の間には農村工業の盛んなノルマンツ 1 同様﹁合理的﹂

な次のような考えが支配的であった︒ ﹁これらの土地の主な長所は︑全体としてこそ存するのであって︑もしこれら

の土地を小部分に分割したならば︑家畜牧場は実現しなかったであろう︒これらの事実はすべての耕作者達にも感じ

られたことである︒彼等は︑もしもこれらの土地を分割したならば︑家畜の群を滅ぼすことになり︑結果的には耕作

も滅ぼすことになるであろうということを明白に理解するのである o ﹂

@ ( 傍 点 筆 者 )

そのため九二年と三年の土地分

割の法令実施を最も嬉んだ一匹の牧牛すら所有しない貧農や職人達の意志も︑富んだ農民達によって潰されてしまっ

た︒固有財産の売却は極貧農はもとより︑小土地を得た農民達に︑新たな力を与え︑新時代に即応するエネルギーを

フランスの近代化と地域の変貌

注入するものではなかった︒したがって河谷の住民は依然として昔の姿のままに残された︒

だが台地の上では状勢は明らかに異るものがあった︒革命一は台地の農民を勇気づけた︒この泥土質の大農経営のゆ

きわたった地帯では︑多額の資金を用いて穀物の大規模な耕作・飼料の栽培等が行われ︑生産の増大と資本主義化が

急速に進められていた︒国有財産の売却は資力のある大借地農には当然有利であり︑彼等の購入意欲をそそるもので

あった︒意欲は森林・公有放牧・沼地・共有地の獲得に向けられた︒その結果︑大借地農対農村共同体の対立は革命

下 に あ っ て ︑

﹁大借地を分割ぜよ﹂との貧農の要求のうちに集約された︒大土地経営農の利益のために耕地の集中化

を強行することは共同体にしがみつく貧農の立場をますます貧困に追い込むことであった︒@革命過程にあって︑大

土地分割の要求が台地の上の村々で如何に多かったかは︑九三 l 四年の多数の請願書をみても窺い知れる︒⑦にも拘

1 9 3  

らず国有地の一

OO

ヘクタール以上の耕地を獲得したトラップ台地の大土地経営者の如きはさらに耕地の統合を促進

(18)

し ︑

l 革命直前封建的反動の強化によって足踏みした耕地の拡大も革命後再び促進され︑ー一八三六年には休閑地は

わずかに三 C ヘクタールを余すのみとなり︑@一八四五年には六

OO

ヘクタール以上の三つの大耕地の外に︑二七 l

六 O ヘクタールをもった六つの経営地が出現した︒@

台地の上でも王領地では地域の変貌はこれと異る傾向にあった︒ここでも人々の努力により︑非常に古くから徐々

に土地の開墾や改良がなされて来たが︑革命によって王権の緩むすきに乗じて沼森林は変化の速度を速めた︒革命期

問中︑指導官の行政的無能さと︑支配権の弱体化は彼等の監督を緩和した︒それにつけ込んだ農民達は︑時としては

村の市場ゃあまり良心的でない投機師に売却する目的で木材を伐採するという︑彼等に残された自由を行使した︒かか

る 例

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一 七

九 O

年 春

ロカンクール

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g ロユの住民が王の苗木園に侵入して耕作を始めたこと︑ ボア・ダ

ルのシイの農民が附近の沼の埋め立てを行ったこと︑

マ ル リ

I で草原を開墾地となしたこと︑またシャヴィ l

ユ で は

畑その真中に点在している休閑地の耕作を無断で開始したこと@等々によっても示めされた︒

一体国有財産の売却は特権者の所有地の五分の四を譲り渡すべき性質のものであったため︑当然王領地内の農民を

も喜ばせるはずのものであった︒だが大規模耕作者の成立をみぬため︑ここでは一括して大耕地を獲得した農民もな

く︑かえってボア・ダルシイのごとく一七九三年の共同地の小分割は︑二六二人に対して行なわれ︑小土地耕作者

回 出

一 色

仲 間

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丘 A X M 比円︒を決定づけたにすぎなかった︒@王領地の農民は依然として昔のままであった︒こうした傾向は

大規模な土地開発を行う必然性をもたやす︑ 一一由に拡ったことの森林は一七九四年グレゴワ I

ル神父の

H b m 包

円 ゆ が 書 い

ているように﹁田園の最も貧しい経済の一部分﹂@としてしか残らなかった︒手の加えられない﹁森林中の広い農業

空間地﹂@の様相はボア・ダルシイに限らず︑他の多くの王領地でも同様であった︒けだし森林の開墾は資力のない

(19)

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糧事思制 m I射ギ:;tl~'目巡回以縄 J 11 司 1 -1<~~回。

M.  Philipponneau ,  ibid ,.  p.  92. 

H.  Lemoine ,  La  vente  des  Biens  nationaux  dans  le  district  de  Versailles  notamment 邑 Villepreux , p.  290 

題 8 l$; F点t!草~2:;! 1  08  i1入 r

^,

rj 入.JJ襲~~1ì\U 8 省軍事飛とやニド術協~...)いニt-(l O M.  Philipponneau ,  ibid. ,  p.  93 総監。

M.  Philipponneau ,  ibid. ,  pp. 

93~94.

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1793 ,  Arch. ,  nat. ,  FI0 ,  223 , 1909. 

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J.  Loutchisky ,  ibid. ,  pp. 

100~1O1,

cf  Chatenay ,  Bouffemont ,  Baillet , 

Marle-le-Vi1le首1p8夜、,!-l~~'民も

Ph.  Sagnac ,  La  legislation  civil  de  la  Revolution ,  p.  60.  1 う H2 A.  Young ,  Voyage  en  France ,  tom  11 ,  p.  206 

~\際 o J,j長必 814 t! h 犬ムト, 'lI-R犬 l~ 守, "'¥ー犬 .::.L ・ f¥1 ト入 K' ヘ犬ト入 l~"'\-' 後一代謝 T 2:;!,;Q.ニド喜美索 Q 韓民‑E‑2:;!紺

恒心いニt‑(l

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_くt!~!-l';ミ中ャパ寝lQ 8 株~2:;!巡ニ種事 i占~íJ~~ 単将人 J.JJ~語訳UU:;~t-(l O Sub  de  V ,  p.  35  ~\ ~。 うす-6~主義寝 8 Wl

<tIl2:;!出 3突いt-(l-R"'\!-l 81 fS;ぬ,,~思';l::-t-(l心, ~!-l';ミ令、マ司jE n岩 8 I'  0  'R  *,!‑l  Frotier  t!・'¥¥¥' t:;¥  ‑.;ミ Q 壬トiJ l 同‑‑1く OOh'; ミて

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助対'く Q 然守¥1'>入ム.JJ'::わ Q8 t!出ふ v tヨニJ,j.JJíJ~向。 時)8~ 封íJ~阿国騒.JJね心 m貫録ニ 8; ヨニ偶者簿記~-6 (¥ド

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忍矧州:会いでい 8‑ く2:;! .lt1'ば 41 興 8. .l.j]~.JJ総理主命 J 41日ニiJ:二時 OJ .JJ株韓首ふいニ心。 c f‑ G.  Lefebvre ,  Questions  agraires  au  temps  de  la  terreur ,  1954. 総底。

F.  Evrad ,  Les  grandes  fermes  entre  Paris  et  La  Beauce ,  p.  215 ,  Annal  de  Ge ographie ,  1923. 

(20)

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⑬  ⑫ 

さて最後に︑ アンシアン・レジーム下のユルポア地域は︑ フランス革命を通じて農業資本主義化をいかに確立した

か︑またこの地域における地域の変貌にはいかなる特質があったかを考えてみることにする︒

先に述べたごとく︑地形により区別された二つのタイプは︑革命後もその形をとどめた︒①第一にセ

l ヌ河沿いの

サン・クルーからブ

l

ジヴアルにいたる谷においては︑葡萄生産が衰退の一路を辿った︒それは︑小農民的土地所有 の支配的地域であるため︑葡萄生産が商業的に成立しないこと︑また気候的にも適していなかったためであった︒革

l ルザンヌ ω

日 2 0 ロ ロ

g では葡萄︑ナンテール

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円 ︒

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円 ︒

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ぴ何回では野草︑ピュト l

g ロ M 可 丘

では蓄積畑等にと変った︒さらに一八八

O

年頃からは︑パリの膨脹によって葡

セ 1

ヌ河沿一帯の低地では︑次第に工場や住宅地帯がこれに代るにいたった︒②旧

い小土地にもと苧すいた生産様式は影を消し︑農民 1

残された僅かのーは衰退してゆくバルセルにしがみつき︑僅かに

(21)

あれこれの果物・野菜作りに終始した︒ こうして小農民はルイユからジヤンヴイエール

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ロ ロ ゆ

4 日 目

2 日 にいたるま

で︑実に十三人を数えるのみとなってしまった︒

次いでピエ l ヴル︑ィヴエット川流域の農村も︑大都市パリの膨脹によって次第に侵蝕され︑偏西風を防ぐ意味合

いからいって︑谷間の小耕地は次第に住宅地へと変化していった︒革命後ピエ l ヴル川では︑人々は葡萄苗木及び果

物の栽培に従事し︑ 一般的に小規模な耕作が行なわれた︒①イニーからジョ l イ及びピユックにかけて迄は︑牛乳を

売る酪農兼業農家が現われ︑水近の土地は小牧場となった︒またヲョ 1 イでも年代が下るにつれて住宅地に変ってゆ

き︑園芸が盛んとなったがいずれにしても大規模なものではなかったo@イヴエット川流域も一九世紀始めは︑菩栽

培が行なわれ︑花畑もシユヴル l ズの谷で溢れてマルク l シまで続いた︒@この川の流域では︑その他に目立った産

フランスの近代化と地域の変貌

物としては︑豆人参等の野菜類であり︑中心地のジフの民その他に穀物生産・園芸・酪農が行なわれた︒ とくにオ

ルセイからパ l ル切知日の辺にかけての地区では乳牛の飼育で著名であるが︑@いずれも規模の小さいものであっ

以上問題のユルポア地方の河谷の変遷を見て来たが︑河谷地帯では本質的には変化がなかったといえよう︒それは た ︒

ただ大都市の膨脹によって次第にその郊外に組み入れられる運命をもっていたに過ぎない︒

しかるに︑台地は明白に資本主義化の過程を辿った︒すなわちこの方面では︑河谷地帯に著るしい都市化や小規模

耕作者とは︑明らかに異るものがあった︒既出のトラップの場合を芳えてみる︒ここには一七六 O 年一八

Oi

二 五

O

1 9 7  

ヘクタールの三つの大耕地があったが︑ 一八四五年になるとこの地は六

OO

ヘクタール以上の三つの大耕地と二七 l

六 O ヘクタールの広さをもっ六つの耕地があらわれ二九

OO

年になると J ﹂れらの大耕地は更に二つの大耕地に統合

(22)

200m 

~~経営者の建物

~独立家屋 [s]庭 区ヨ羊飼育場

ー ー 壁 H 納屋, V a 牛小屋

Ec 

同小屋,

Gr

毅穀物小屋,

Tr

トラクター,

Ha

経営者の家

L o 使用人の住居ー

L a i t 酪農場, C a 宜料支給所, M 倉庫

、 1 . P h l i p p o n n e a u

, 

LA  V I E  RURALE DE LA BANLIEUE  PARISIENNE

, 

P

1 7 8 より車 E 載

100 

放牧場

され︑中規模の耕地は数え切れない程になった︒@

チューリップの研究によると︑ここの耕地の増大の

一例として次の様な例をあげている︒

一 八

世 紀

末 ︑

小農民の捨てた地を統合して一フエルミエは六 O 六

ヘクタールを所有したが︑ 一九世紀始めになると︑

国有財産売却等により︑その耕地の傍らに森を切り

聞いて九 O ヘクタールと︑さらに一 O ヘクタールの

教会領の耕地を所有するにいたった︒③そして彼の

耕地は上の図によっても分るように︑完全に資本主

義的大農業経営

r E H ‑ 0 2 2 ロ 仏

25 に変化したの

一九世紀始め︑トラップでは牧畜業においてはメリノ羊を四

OO

匹入れることに成功し︑同時に工業面では風力 である︒@すなわちエ︑ヴラ 1

ル が 書 い て い る よ う

及び家蓄!一八六二年には四 O 頭の牛を使用ーを利用してあちこちに甜菜糖工場が建てられた︒甜菜栽培による土地

利用はナポレオン戦争と大陸封鎖に刺戟せられて︑

一 八 三 五

i 五 O 年に急速に広まった︒その他小麦や大麦の生産︑

ピ ィ エ

I ブル川の上の台地ヴイリエール・ル・パ l

ク ル

乳牛の飼育︑野菜の栽培等々についていっても︑大都市の郊外における資本主義化は典型的に進行した︒@

は王政復古まですみれ等飼料の生産が

主 で あ っ つ が ︑ ︿

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切 由

︒ 円

一 八

ベクタールの経営農 八 O 年以後は二一 O ヘクタールの一つの大耕地が出現し︑その他二五│三 O

参照

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