言語政 策 研 究の言語観 を問 う
一言語計画 /言 語 態度 の 三分法 か ら言語 管理 の理論 ヘ ーつ
How Do Researchers on Language Policy Perce市 e Larnguage?:
Some differences between language plaming"
and̀̀language management"perspectives
木村
護郎 ク リス トフ KIWIURA Goro Christoph
キ ー ワー ド:言語 計 画 、言 語 態 度 、言 語 管 理 、 自然 性 、人 為性
Key words:lanuge pla̲g,language attitude,lanuge mnagement,nablt
artinciality
Abstract
h study of language plaming has developed as a flcld of inquiry which investigates intentional interventions in language.But ttt dualお ic distinction of
lanuge
pl祖
血ぜ
'and lanwage atti耐'has often tad rescarchers to overlook h importanceof o―
present microbvel interventiolls in language.After having co―ed the 満 itrariness ofttis dichotomyp this paperpresents as a possible altemtive ale l.。 ry of̀language managettt'',which pro宙des a lnore comprehens市
e tamewぼ k口
に examination of dle main idcas of language lnanagement'' 山Юory suggests hat thediference bemeen h
●″O paradign∬ of ̀language plaming" and ̀̀language managemmぜ'is not lnerely a matter of approach or focus but roo d in difFerent conceptions oflanguage.1.
は じめに言語政策研究は、言語への人間の働 きかけを扱 う分野 として発達 し、これまで多 くの事例研究が積み重ね られてきた。 これは、世界各地で国家や さま ざまな運動が 言語 を明示的に政策課題 としてい る事情 を受 けた もの といえよ う。 しか し、言語政 策研究は、「言語政策」としてあらわれ る現象を とりあげて分析す るだけで よいのだ ろ うか。「言語政策」は研究分野 としてそれ ほ ど自明のものなのだろ う力、人間の言 語活動のの総体か ら特定の言語活動のみを切 り出 して分析す ることによつて、言語 政策研究は、結果 として 自らの研究対象 を見誤 つてきたのではないだろ うか。 この よ うな問題意識 に基づいて、本稿は言語政策研究の言語観 を考察す る。「言語政策が 行 われているか らそれ を研究す る」 とい う単純な対象把握 をこえて研究を深化 させ
るための問題提起 を試みたい。
は じめに、従来の言語政策研究にみ られ る三分法的な言語把握 を指摘 し、その限 界 をこえる枠組み として言語管理の理論 を とりあげる。その うえで、それぞれの対 象接近法 (アプ ローチ
)の
背後にある言語観 のちがいを考察 し、今後の研究の方向 性 を提起す る。これまでの言語政策研究では、 しば しば言語政策 の担い手や受け手 となる人々の 言語観が考察 されてい るが、管見のかぎ り、言語政策研究者 自身の言語観 が問題 に され ることは多 くなかつた。そのなかで、言語政策研究 (者
)の
言語観 を中心的な 主題 とする近年の論考 として糟谷 1999や 山田1999を あげることができる。前者 は、従来の言語 (政策・ 計画
)研
究の言語観 にみ られた、言語政策 を特殊視す る 「認識 論的 自然主義」 を問題 にす る点で、後述のよ うに言語政策研究の枠組みを広 げよ うとす る本稿 と問題意識 を共有す るが°、言語管理の理論にはふれていない。他方、
後者 はエスノメ ソ ドロジーの観点か ら言語管理の理論 を とらえなおす ことを主眼 と してお り、従来の言語政策・計画論 との言語観の相違は導入的にふれ られ るに とど まつている °。 これ らに対 して本稿では従来の言語政策研究 と言語管理の理論 を比 較す ることによつて両者の背景にある言語観 のちがいを明 らかにす ることをめざす。
2.
言語政策研究における言語活動の三分法的理解言語政策お よびその実践段階 としての言語計画 の研 究の発展史 をふ りかえる
と、国家 を中心 とす る言語計画の研究か ら、 さまざまな組織、さらには言語計画 を行 う特定の個人までを射程に入れ る方向で研究の幅が広がってきた といえる。
言語計画研究の概観 を示すカプラン
/ボ
ル ドフは次の よ うに述べている。「過去2、
30年
に言語政策や言語計画の実践について学ばれてきた ことは 国家・超国家 レベル の大規模な状況 一 巨構造的な環境 ― に適用 された。ここ数年はその知識が微構造的環境 ― 個々の町や経済 。社会活動の特定部 門な ど ― に適用 されてきた。限定 された組織 における言語計画の機能や 目 的へ の関心が増大 している。」(Kaplan/Baldauf 1997:117)
もはや 、言語政策研 究 において、言語政策・言語計画の担い手 として国家 (や 自治体 な どの地方政府
)の
みを考 えてい るよ うでは不十分であることが明 らかに なつてい る といえよ う。 しか し、拙稿 (木村2001)で
指摘 したよ うに、依然 とし て言語政策研究を特徴づけるのは、言語計画的な行為をいわば特別な行為 として、言語活動 の総体か ら切 り出 して扱 うとい うことである。その一方で、 日常的な言 語活動 の大部分は 「言語態度」 として別枠で研究が行われている。 このよ うな二 分法的な対象接近の結果 、あたか も言語活動 には二種類 あるかのよ うな言説が生 産 され てい る。代表的 な言語政策研 究者 の例 をみてみ よ う。クルマスは 「言語計 画 と態度 」 と題 され た社会言語学誌 の特集号の巻頭言で言語変化の種類 について 次のよ うに述べてい る。
「利 害集団や政府 の意図的な努力によって起 こる[言語]変化がある。それ ら は言語計画の結果 である。別の[言語変化]は言語や言語変種 に対す る態度の 帰結 であって、社会的 。政治的条件 の変化か ら発 している」(Coulmas 1988:5)
これは、言語計画 と言語態度を区別す る社会言語学の常識的な見方 といえよ う。
またカル ヴエは 「生体の中(in vivo)」 と 「実験室の中(in vitrO)」 とい う二種類 の 言語活動 を区別する (カル ヴェ2000:60‑62)。 前者 は 日常的な言語活動の実践であ り、後者 はそのような実践べの介入 として説明 され る。カル ヴェが用いる表現は個 性的だが、言語活動の分析 に導入 している三分法は社会言語学のなかで 目新 しいも のではな く、事実上、「言語政策」 と 「言語態度」の区別 に対応 している。
この よ うな言語活動の三分法的理解は、 しば しば 「自然」 と「人為」 とい う含意 をもつている。 いわば、言語が 「あるがまま」の 自然な言語態度にまか され るべ き ではない と判断 された とき
,人
為的に行われ るのが言語計画 とい うことになる。 こ の よ うな言語観 は次 の ような言語政策の定義 に如実に表れている。「言語政策 とは、国家、政党、種々の圧力団体や報道機関な どが、言語の 自然 な発展過程 を意識 的に変動 させ よ うとす る行動 を意味す る」(ネウス トプニー
1996:425;強
調 は木わ言語政策 に関す る文献に しば しばみ られ る、「自然」 な過程への 「人為的」な介 入 とい う図式は一見、言語政策を分析す るための妥当な理解 に思える。 この ことに よつて、言語政策 とい う活動が特定 され るか らだ。 しか しこの区分は、研究対象 を 設定す るための手段 としては根本的な問題 をは らんでい る。筆者が主に関わつてき
た少数言語研究 をてがか りに して考 えてみ よ う。
少数言語の動向について、「自然」 と「人為」の対比は、「自然な同化」 と「人為 的な言語維持」 とい う形をとつて表れ ることが多い (木村 2001)。 端的な例 をあげ ると、近年の、言語政策をもとりあげる言語学の教科書 には次のよ うな課題が登場 す る。
「消滅の危機 に瀕 している言語を守 るべ きか、自然にまかせ るべ きか、グルー プに分かれてデ ィベー トしてみ よ う。」(飯野ほか 2003:133)
ここでは、それ以上定義す ることな く、「守 る」 こと (=「人為」
)が
「自然」 と 対置 させ られてお り、言語消滅が 「自然」であることが暗黙の前提 となつている。同化 をもた らす諸政策や社会的圧力は不思議 なことに 「自然」の側におかれ、あら か じめ 「人為」か ら除外 されている。 このよ うな、少数言語維持の動 き (のみ
)を
「人為」 とみなす言辞に関 しては、次のような反論が示唆 に富んでいる。
「[ク リステ ィー・]デイ ヴイス教授 によると、彼 はこの言語[カム リー (ウェー ル ズ)語]を殺すつ もりはない。ただ 自然 な死がゆるされ るように してほ しいだ けだ とい う。つ ま り、彼が言いたいことは、カム リー語 を救 うための「人工的
な」助成がなけれ ばカム リー語 は衰退 し、死に絶 えてい くだろ うとい うこと
a
この区別 は、私には完全 にみせかけにみえる。
過去200年にカム リー語 を侵食 して きた力は、近年、カム リー語 に新 しい生 命 を吹 き込んで きた動き と少 な くとも同 じくらい人間によるものであ り、人工 的である。」 (Basini 1997:11)
ここでは、少数言語に関 してみ られ る「自然」と「人為」の区別がきわめて恣意 的であることが指摘 されてい る。 ここで批判 されてい る安直な三分法は、同化 を もた らす言語ヘゲモニー(糟谷 2000)へのナイーブな姿勢に基づ くと考えられ る。
つ ま り、 より強力な権力作用が無徴 のもの として 自然化 されている反面、それ に 抗 う、相対的に弱い権力作用が有徴化 され、「人為」 として特定 され るのである。
では、この恣意性 は、この場合 の分 け方に特有の問題 なのだろ う力、 一見、ここ での問題 は少数言語維持志向の動 向のみを 「人為」 とみなす ことに よるのであっ て、同化志向の動 向 も 「人為」 に含 めれ ば区分の恣意性 の問題 は片づ くよ うにみ える。 しか し、仮 にそのように「人為」を切 りわけた として、そのあ とに残 る「自 然 の流れ」に注意深 く目をむ けた とき、そ こに見出 され るのは、能動的な言語政 策 的な言語活動 とは別種類の言語活動 としての受動的な 「言語態度 」なのだろ う 力、 見方 を変えれ ば、「自然な流れ」のなかに さまざまな集団や個人 による無数 の 能動的な言語政策的 な営みを見出す ことも可能である 。。つま り、いずれ も人間の 言語活動の結果である言語状況の変化 を、「自然」な (態度による
)推
移 と「人為 的」な (政策 な どに よる)推
移 に客観的に分 けることにはそ もそ も無理 がある。結局、少数言語 の動 向に関 してみ られた三分法の恣意性 は、言語活動 を三分す る こと自体の恣意性が きわだつた ものにす ぎない と考 え られ る。
しかるに、従来 の言語政策研 究 の とらえ方 に基づ くかぎ り、言語政策的な行為 は 日常的 な言語活動 と断絶 した特別 な言語活動 として区別できるかの よ うに理解 され る。そ して上述 の とお り言語政策研究は、「人為的」 とみな され た言語活動 を 主たる研究対象 とす る分野 として成立 してきた。他方、「自然な流れ」のなかにあ る話 し手 の意志や思いは言語政策研 究の主た る対象 (関心
?)か
らはずれて しま う。 ここには研究の便宜上の区分 とい うことではす まない問題 がひそんでい る。クルマスは、言語政策があか らさま になると住民が例外 な く抵抗 を示す ことを指 摘 してい るが (クル マス 1987:33)、 これは、言語政策があたか も (それ 自体で
意思 を もたない ものを対象 とす る
)土
木工事やそれ こそ 自然 な流れ を人工的 に改 変す る河りII工事かの よ うに構想 されてきた ことの必然的な帰結ではないだ ろ う力Ъ それ に対 して、言語政策研究が現実に対 して有効な提言 をな しうるためには、い わゆる「言語政策」が どの よ うに行われてきたか とい うことばか りではな く、「自 然 な流れ」をも重要な関心事 に しなければな らない といえよ う。そのために言語 政策 の概念 をよ り広い枠組みで とらえる試み として、次に紹介す る言語管理 の理 論 をあげることができる。3.
言語管理の理論前章で述べたよ うな従来型の言語政策論 に対す る疑問か ら生まれたのが、ネ ウス トプニーやイ ェル ヌ ドによつて提唱 された言語 管理 (language management)の 理論 であ る (参考文献参照)0。 ここで使 われてい る 「管理」は誤解 を招 きやすい表現 だが、「管理教育」のよ うな上か らの統制 とい うよ りは、「健康管理」に近い意味 と
して理解 されてい る (御│1/ネ ウス トプニー1999:90)。 わた したちは 日々、健康 を 管理す るように、言語 を管理 しているとい うことである。 ここでは言語管理 の理論 の主な特徴を概観 しよう。イェルヌ ドは言語管理モデルの問題関心について次のよ
うに説明す る。
「言語管理モデルは言語問題が人間の言語使用か ら
,す
なわち談話か ら生まれ るさまを説明 しようとす るのに対 してフィ ッシュマン[木村注:著名な言語政策 研究者ジ ョシュア・フィッシュマン]らの定義す るところの言語計画は政府 のような[政策]決定者 を自明の出発J点に してい る」 (Jernudd 1993:133)
す なわち、一般的な言語政策論が 「上か らの」政策や計画の分析を中心 とし、そ こで とりあげ られ る政策に関連す る限 りにおいて微視的な言語態度に注意 を向ける のに対 して つ、言語管理の研究は具体的な状況における言語活動の観察か らは じま る。これは、「[言語]使用者が直接 にとりあげ られず、せ いぜ い、政治的な過程 の匿 名 の参加者 として間接的に とりあげ られ るにす ぎない」 (Jernudd 1993:138)従来の 研究 と大きく異なるといえる。「自然な流れ」を密かに前提 に して しまいがちな言語 政策研究に対 して、具体的な言語使用の場か ら「言語問題」 を考察す る言語管理の
理論 は、よ り現場に即 した分析お よび提言 を行 うことができる と考え られ る の。
また言語管理の理論においては言語管理の過程が中心的な位 置 を占める。その過 程 は基本的に以下のよ うに説明 され る。
1逸
脱がある2そ
れが留意 され る3留
意 され た逸脱が評価 され る4評
価 された逸脱の調整のた めの手続 きが選 ばれ る5そ
の手続 きが実施 され る言語管理の研 究においては、 この よ うな過程 によつて、個人か ら政府まで、 さま ざまな レベルでの言語管理が分析 され ることになる。 この過程 に関 して各 レベル に 本質的な差はない とされ る。ネ ウス トプニー に よれば、「組織的な管理の過程 は、基 本的な単純な管理の過程の複雑版 なのである」(Neustupn,2002)。 こうして、いわ ゆる言語政策 も 日常的な言語態度 も同一線上に位置づけ られ るのである。前章で述 べた ように言語計画のパ ラダイムにおいては政策ない し計画 と、その受け手側の態 度 が分 けられて きたが、言語管理 の理論 は、いわば言語計画 を言語態度の領域 にま で拡張 した といえる。換言すれ ば、言語政策 と言語態度 を分 けるのではな く、言語 態度の中にもいわば微視的な言語政策が存在す るととらえるのである。 また実践 と 介入 をわけるのではな く、実践のなかに言語への介入をみいだす のである。す なわ ち、言語管理の理論 によれば、言語活動 に 「言語計画」 と 「言語態度」の二種類 が あるとい うのは錯覚であることにな り、三分法は雲散霧消す るのである0。 「言語政 策 は どのように言語態度を変える ことができるのか」 とい う、恣意的な二項対立に 依存す る問いのたて方 をこえて、 さま ざまな レベルの言語活動 を包括的に考察でき
るのが言語管理 の理論の利点 とい えよ う。
その他、従来の言語計画 と言語管理の理論 の違い としては、前者が狭い意味の言 語 を対象 にす るのに対 して後者 は よ り広 く相互行為の中に言語 を位置づ けてい るこ と、また前者が言語問題 を客観的 に解決できる と想定す るのに対 して、後者 は、言 語問題 の処理には利害関係(研究者 自身の価値観 を含む)が強い影響 を及ぼすため、
科学的 に 「正 しい」解決はない とす ることな どが提示 されてい る 。。
4.
言語観の相違言語管理の理論 とそれ以前の言語計画論の相違 は
,単
に視点や対象接近法のち がい として理解 されやすい。 しか しその背景には言語観 の相違 があると考 える。本章では、今後の研 究の方向性 を考 えるための前提 として両者の言語観 の基本的 な違 いを整理す る。 その違いは主 に二つあげるこ とができよ う。
まず 、言語の存在論 に関す る相違 がある。従来の言語政策研 究の言語観 では、
話 し手の言語態度 の結果 として既 にある言語 に対す る介入が言語政策であった。
しか し、言語管理の理論 においては、言語への働 きかけ (「介入」
)が
微視的な場 か ら巨視的な場まで想 定 され る。そ して微視的な状況での言語問題 の管理が、よ り大 きな組織や国家 な どの言語管理 の原型 とみな され るのである。言語は所与の 実体 として扱われ るのではな く、言語活動によつてたえず構築 され修正 され うるこ とが理論的に組み込 まれてい る といえる。
も う一つは、言語への意識性 に関す る違いである。従来の言語政策の言語観 で は、言語への意識 的な働 きかけが言語政策や言語運動 として取 りだ され る。その 背後 には、言語活動 が通常はなるべ く意識 されない ものだ とい う前提 が暗黙の う ちに想 定 されていた といえよ う。それに対 して、言語管理の理論 では
t言
語への 気づ きが通常の言語活動の一部 として くみこまれている。言語 イデオ ロギーの研 究 も示す ように(Schieffelin et al.1998)、 私た ちは、 日常の言語生活 におい て、 自分 について も他者 について も、決 して (狭義の)意
味内容 のみ を意識す る のではな く、その言語使用形態 に も相応の注意 をは らつて言語活動 を行つている。イ ェル ヌ ドは言語 変化 について次 の よ うに述べて、言語変化が通常気づかれない とす る考え方に疑問をなげかけてい る。
「個人が言語の特定の特徴に、少なくとも談話過程における短期記憶 として、
注意 をはらうこ とな くして、人々が言語特徴 の使用を変えることはないだろ う」
(Jernudd 1993: 134)
そ して、組織や国が行 う言語政策 も、このよ うな微視的な言語 問題への 「気づ き」や対処 と本質的に異なる現象 ではないのである。言語意識 に関 して も、談話 にお ける言語管理 がいわゆる言語政策 の原型 をな してい る とい うことができる
だろ う。
以上、二つの点をとりあげたが、結局、従来の三分法的な言語政策研究は、言 語への人間の働きかけを扱 うと標榜 しながら、無意識に使用される所与の実体と して 「介入」以前の言語をとらえる言語観によつて、言語活動から人間を疎外す る側面があつたのではないだろ う力、 介入以前にあ りのままの言語があるとい う 従来の見方の問題を「所与性の誤謬」 と呼ぶならば、言語に注意が向けられない のが自然な言語使用であるとい う言語観の限界を「無意識性の誤謬」と呼ぶこと ができよう。言語管理の理論は、言語活動の三分法的理解を支えるこの二つの誤 謬をこえた言語観に則つていると考えられる。
前章末尾でみた言語管理の理論のその他の特徴も、このような言語観の相違か ら説明できる。従来の言語計画の言語観においては言語がある種の実体 とみなさ れたため、言語のみを対象 とすることが可能であつたのである。一方、言語管理 の理論では言語活動が人間の社会的行為の一環 とみなされるからこそ、そこに働
く利害関係を必然的に考えふ くめなければならないのである。
カル ヴェは、言語政策の理論上の大きな課題 として「人間はどの程度まで一つ の言語のコーパスや複数の言語間の関係 に介入できるのか」(カル ヴェ 2000:
147)と い う問いをあげている。 この問いに対 して、言語管理の観点からは、一 歩進んだ問いかけをもつてこたえることができよう。「問題は、人間が どの程度 まで介入できるかではない。人間はすでにたえず言語に介入 しているのである。
問題は、誰が何をめざして どのように介入するかである」 と。
5.
おわ りに前章までに、従来の言語政策研究の問題お よび代替案 としての言語管理の理論 を とりあげ、その背景 に考え られ る言語観 の違いを検討 した。最後 に、以上をふ まえて、言語管理の理論 による研究の方向性 について考 えたい。言語使用の現場 か ら出発す ることを うた う言語管理の理論 は、言語政策研究者 をより困難 な課題 の前にたたせ るが、成果 もその困難にみあ う、より大きなものであることが期待 され る(Neustupn,1994:56)。 ネ ウス トプニーは、言語管理の研究者ができるこ ととして、以下の10点をあげてい る (ネウス トプニー 1999:4)。
3 4 5
1
2
7
8 9
10
管理のために必要である記述的な基礎的事実 を提供す ること。
言語問題 にな りうるよ うな項 目を特定 し問題 の性質を明記す ること。た と えば、二重言語文化状態、接触場面、習得の場面な ど。
現在 どの よ うな管理が行われているか、確認す ること。
既存の提言への対案 を探 ること。
提案 と対案の結果 を予想す るこ と。(たとえば、少数民族の言語権利 を抑 圧す ることは、歴史的な例 を見 ると、成功す るケースがす くない。) イ ンタレス ト、権力、アイデ ンテ ィティの問題 な どを明記 し、詳述す るこ
と。
自分のイ ンタレス トが何であるか意識 しない、あるいはできないグループ があるので、その意識の形成 を支援す ること。
普遍的な提言 を探 ること。
環境別の提言 を提供す ること。
いろいろな管理の共存 を考 えること。
これ らの点は言語管理の研究の可能性 を示 してい るが、当事者の 「気づ き」を 含んで言語が常に話 し手によつて調整 されているとい う、前章で検討 した言語管 理 の言語観 をふまえると、一つの ことを強調 してお く必要があろ う。す なわち、
各 レベルの言語管理 に関す る提言の形成 。実施・評価 に際 しては当事者 の能動的 な参加 を不可欠な要素 として含むべ きだ とい うことである。 これは、
2章
であげ た、河川工事の比喩 で語 ることができるよ うな言語政策論か ら抜 け出す ことにつ なが るだろ う。 これ か らの言語管理研究 は、あえて同様 の比喩を用い るな らば、土木 工事 よりはむ しろ、当事者参加 を有機 的に組み込む方法を発達 させてきた都 市計画 。まちづ くり (林編著 2000、 箕原編著 2000)の方向に近づいてい くべき だ と考 える。
注
。本稿は、本村[準備 中]の問題意識 を述べた章 (1、
2章 )の
うち、言語政策研究 に関す る部分を とりあげて敷街 した ものである。言語 の 「人為性」をめ ぐる問題お よび本稿の問題意識 に基づ く研究実践の試みについては同書 を参照 されたい。の 本稿では、「言語活動」を、言語使用やメタ言語的言及を含む言語に関する行為 の総称 として使用す る。
の 糟谷は次のように述べている。
「言語政策は、言語その ものの本性 に とってけっ して付随的なことが らではなしヽ。
ち ょうど音韻論や形態論 が言語体系 のそれぞれの レベル における言語の本性の研究 であるよ うに、言語政策 を対象にす ることによって、言語に本性的に内在する社会 的権力の相 に光 をあて ることができるのである。ただ し、そのためには「言語政策」
の概念 を従来よりひろ くとらえる必要がある。」(糟谷 1999:75)
° 言語計画論が言語のみを対象にす るのに対 して言語管理の理論は言語活動を人 間の相互行為のなかに位置づけてい る とい うこと (本稿 で後述す る
)が
言語観 の相 違 としてあげ られてい る (山田1999:60‑61)。めた とえば、どのような言語選択や ことば遣いを肯定的
/否
定的に評価す るか、 ど の よ うな異言語をどの程度学ぶかな どを個人の言語政策的な営みの顕著な例 としてとらえることができよ う。
の この理論が どのような背景から生 じたかについては、ネ ウス トプニーの自伝的論 文Neustupn,1997参照。
つた とえば言語教育政策 と言語態度についての展望論文では次のように述べ られて いる。
「教育政策の措置が (・・・)そもそ も、また どの程度 、言語 に対す る態度 を強めた り、
さらにはつ くり出 した りす ることがで きるのかについて、注意が向け られなければ な らない。」 (Christ 1997:10)
0ネ
ウス トプニーが、 日本 のローマ字 の問題についてあげる例が言語管理の理論の 立場 としてわか りやすいだろう。「解決策 をたてる委員会が 日本語の ローマ字の使用について どう考えるかではな く、
ローマ字 を使 う人間 (それは外国人 を含む
)が
、実際の使用場面で どのような問題 を認識 しているかが、言語 問題処理の基礎データにな らなければな らないのである」(ネウス トプニー1999:1)
ただ し、具体的状況か ら出発することを過度に強調 して巨視的な次元を考察する意 義 を軽視す ることの危険性 については木村[準備 中]参照。
"言
語計画 と言語態度 を、言語計画は他者 に対す るものであるのに対 して言語態度 は 自己に向けられた ものだ と理解す ることも考えられ るが、この区分 も実際にはな りたたない。他者の言語使用に対す る言語態度や、 自らに向けた言語計画 (たとえ ば言語運動)を
想起せ よ。1の ここであげたような両者の相違点はネ ウス トプニー1995:71に 一覧表 としてま と め られ ている。い うまで もなく、言語政策の研究が、ここで言語管理 の特徴 として あげ られた観点 を含む こ とは可能であ る し、逆に言語管理を扱 うと銘打つた研究が 言語管理の特徴 としてあげ られた諸点 を含 まない こともあるだろ う。個々の研究が はつき りと分類 され るわけではない。
しか し、言語政策研究に実際、 どれだけ言語 管理の理論で提起 され た視点があったかはやは り問われ なければな らないだろ う。
参考文献
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/恩
村由香子/杉
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ー
[準
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林泰義編著 (2000)『市民社会とまちづくり』(新時代の都市計画
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