第三章
西欧博物館・博覧会の経験―1850 年代から 60 年代を中心に―
1853年(嘉永6)6月8日、東インド艦隊司令官マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew
Calbraith Perry)が率いる4隻のアメリカ軍艦が浦賀鴨居村沖に出現した。世に言う「黒
船来航」である。これを機に幕府は、日本と世界の情勢とが無関係ではないという事実を、
否が応でも認識せざるをえなくなった。
本章があつかう1850年代から60年代は、西欧諸国の脅威を前に、幕府が、西欧の思想 や制度、技術を驚くべきスピードで学習しようとした時期に相当する。同時に、当該期に おける日本人の経験やその理解は、明治以降の政策に大きな影響を及ぼすことになった。
むろん、明治以降に政府主導で開催、設立された博物館や博覧会についても例外ではなく、
博物館、博覧会の背景にある基本的な考え方が日本に初めて紹介されたのも、また実際に 西欧の博物館、博覧会を日本人が見聞したのもこの時期であった。したがって、1850年代 から60年代は、わが国における博物館、博覧会の成立過程を検討するうえで、きわめて 重要な時期と言える。
なお、本章に入る前に、西欧博物館、博覧会と近世における展示空間の相違点について 簡単に説明をしておきたい。なぜなら、両者の相違点、および相違を引き起こすにいたっ た思想的な背景は、本章の構成と深い関わりを持っているためである。
詳細は後述するが、物産会や見世物、開帳といった近世における展示空間と西欧の博物 館、博覧会は、物をある特定の場所に提示するという点においては共通しているものの、
根本的な考え方は異なっている。端的に言えば、近世における展示空間の多くが為政者と は全く関係のないところで開催されたのにたいして、同時期の西欧における博物館や博覧 会は基本的に、国家によって開催された国家的イベントであったという違いがある。これ は単に主催者の違いというだけにとどまらない重要な問題を内包している。国家の管轄下 にある西欧の博物館や博覧会の場合、当然のことながら、すべての展示品は国家に所属す ることになる。たとえ、展示品のすべてが国家に所属していないにしても、国家によって 収集されたことに変わりはない。すなわち展示品は、国家が威信をかけて収集した物品で あり、「展示される」という事実において、すでに重要な意味を持っているのである。した がって、近世における展示空間で行われていたように、参加者が物の価値、真偽を議論し
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たり、見る人によって物の価値が変わったりしては、国家の威信にかかわってくることに なる。こうした事情を別の見方をするならば、西欧における博物館や博覧会の場合、ある 一定の価値基準をもとに物が選別されていたことを意味するであろう。つまり、主催の相 違は、その内部に、物の善し悪しや、意味を判別する際の基準の違いをも含んでいるので ある。国家が主催で博物館や博覧会を開催する際には、明確な基準に基づいて物が選別さ れる。そしてこの基準については、何人も異議申し立てができないなものである必要があ ったのである。
本章では、上記の点を考慮にいれて検討を行っていく。すなわち単に西欧博物館、博覧 会が 1860 年代に使節団によって見聞されたという事実にとどまるのではなく、西欧型の 博物館、博覧会の背景にある考え方、つまり物の客観的な判断基準とは具体的にどういっ たものだったのか、またそれは 1850 年代前後の日本にどのように輸入され受容されてい ったのか、といった点についても考察する。
具体的には、以下の流れで分析を行う。第一に、西欧の博物館、博覧会の見聞や、その 思想的な背景を検討するのに先立って、近世におけるわが国の展示空間の認識について、
特に語彙に着目しながら考察する。ʻmuseumʼが「博物ʼ ʼ館」と翻訳された経緯を検討する ことは、翻訳上の問題だけでなく、近世の日本人が展示空間をどのように理解していたか、
ということを把握するうえで重要な意味を持っている。というのも、言葉を翻訳するとき には、まったく新しい言葉を作り出すケースは稀有で、もっぱら新しく輸入された事象に 近い概念や意味を持つと思われる、当時の社会で通用している言葉が選択されることが多 い。したがって、西欧の展示空間であるʻmuseum’ を、「博物」という語と充てた要因を 探ることのよって、当時の日本人が展示空間をどのように理解していたのか、その一端を 検討していくことが可能だろう。第二に、西欧の博物館、博覧会を支えた思想的な背景に ついて取り上げる。具体的には、カール・フォン・リンネ(Carl von Linne)の登場後の 西欧の博物学の内容と、日本への移入の経緯、および、この学問が政府に注目された理由 について考察する。第三に、1860 年代において欧米を中心に派遣された使節団の西欧博物 館、博覧会の見聞の様子と彼らの理解について明らかにしていく。
以上をとおして、明治以降、近代博物館が始動する際の基盤となった経験や思想的な背 景について明らかにする。
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第一節 近世における展示空間の認識―「博物」の語源と近世における意味―
本節では、近世において展示空間がどのように認識されていたのかを、語彙に着目して 検討する。
19世紀半ばより、西欧からあらゆる分野において新たな事物が導入された。その際の欠 くことのできない手続きとして、新たな事物を日本語に置き換えて表現するという作業が ある。そして翻訳作業の頼りになったのが、それまでの生活のなかで培ってきた事物の経 験や概念であり、実際、これまでの経験と新しく出会った事物とを比較する作業をとおし て、新たな言葉が多く生み出されている1。もちろん ʻmuseumʼの訳語として採用され た「博物館」についても例外ではなく、この語が採用された背景には、近世における「博 物」という語が持つ意味と、博物館という展示空間の間に親近性があるという、当時の人々 の判断があったはずである。ほんの一部の人々がわずかに経験しただけの展示空間―'
museum'’―に新たな名前をつけるとき、当時の人々が参考にしたのが、それまでに経験 してきた展示空間であり、また展示空間に対する人々の理解であったといえよう。したが って、ʻmuseum’ が翻訳される経過を明らかにすることは、近世における展示空間に関す る理解の一端を明らかにすることを意味するだろう。
以上から、本節では西欧博物館受容に際して「博物館」と翻訳された背景、すなわち、
近世の人々が、どのように展示空間を認識していたのかを、語彙の側面から検討すること にする。
なお、本節では、「博物館」という語のみに焦点を当てるのではなく、「博物」「博物 学」という語も検討の対象とする。現在の感覚でいえば、「博物学」と「博物館」は言葉 のうえで類似していても、その指している内容は全く異なる。それゆえ、これまでの研究 では日本における「博物館」の初出のみに注目が集まってきた。しかし、これは果たして 正しい理解なのか。以下をみてみよう。博物学の業務内容を記した 1872 年(明治 5)の 文書である。
博物学ʼ ʼ ʼ之所務
動物植物鉱物三科之学ヲ研究シ其ノ品物ヲ陳列シ、人一見シテ其ノ知識ヲ拡充スルノ益ア ラシメ兼ネテ其ノ編集又ハ翻訳シ普ク人ニ示シ又有志輩ヲ教導スルコトヲ努ム、外ニ人工物ノ
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沿革ヲ示シ人口ノ日新、租ヨリ精ニイルノ理ヲ諭シ、又書籍館ヲ開キテ有志ノ者ニ珍書奇書ヲ 放観セシムル等ノ務アリ
博物館ʼ ʼ ʼ 天造物 動植鉱物化石等総テ天産ニ属スル諸品ヲ陳列シ、或ハ又稍人工ヲ加ヘテ 各種ノ用ヲナスベキコト
人工物 新古内外ノ品物各部門ヲ分チ之ヲ区別シテ、其沿革ト人工ノ進歩且旧器ノ 迂濶ナルヲ折衷シテ簡易ノ器ヲ製作スル等ノコトヲ示ス(中略)
博物局 博物館ʼ ʼ ʼ 、植物園、書籍館等ヲ総括シテ天造物ヲ記載シ博物学ʼ ʼ ʼ ノ書ヲ編集翻訳 シ物産ノ広用アルコトヲ一般にニ示シ又動物ヲ剥製乾枯スル等総テ貯蔵スル工 作ヲナシ又一般会計ヲ主宰ス (強調は筆者による)2
「博物学ʼ ʼ ʼ 之所務」のもとに、博物園・博物館・書籍館、それぞれの任務が連なっている。つまり 明治初年の時点では、博物学の括りのもとに博物園、博物館、書籍館が管轄されていたのであり、
この一例をみても、「博物館」と「博物学」は両者、密接な関係のなかで生長してきた語であること が理解できる。よって欧米博物館を受容、日本で定着させていく初期の過程において、博物学と 博物館は深く関わりあいながら、「博物館」の概念をかたち作っていくことになる。
もう一つ、「博物館」のみならず、「博物学」「博物」の用語をも分析対象とする妥当 性の証左として、近世における「博物会」の使用があげられる。第一章、第二章でみてき たように、18世紀半ばより開催された物産会は当初、「薬品会」「本草会」と呼ばれてい たものの、19世紀初頭より、名称に「博物会」を銘打ったものが出はじめる。具体例をあ
げると1837年(天保7)「雀巣庵博物会」3、1858年(安政5)「桜斎居士追薦博物会」、
1861年(文久元)「甞百社博物会」などである。次章以降で検討するが、明治以降、「博 覧会」「博物館」という名称が固定するまでの間、「博物会」は多用される。つまり、明 治初年に初めて「博物」という語が造られ、人口に膾炙したのではなく、近世においてす でに「博物」という語が利用され、その経験にもとづいて「博物館」という語が選択され たと考えるほうが自然であろう。このように考えるならば、近世における「博物」「博物 学」の理解が、近代以降の「博物館」概念に少なからず影響を与えたであろうことは想像 に難くない。この点を考慮せず「博物館」の政策面のみをクローズアップすることは、博 物館成立期における「博物館像」の一面のみの把握にとどまることになろう。本節では上 記の認識により、近世における「博物」「博物学」の語彙の変遷を考察していくこととす
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る。
まず、本題に入る前に、「博物学」とはいったい、いかなる内容の学問なのか、いつごろ成立し たと考えられているのかを、現在の知見から確認しておきたい。結論からいえば、日本において
「博物」「博物学」がいつごろ、どのように用いられるようになったのかは明らかになっているとはい いがたい現状がある。
そもそも博物学とは、生物学が近代的な体系になる以前の学問で、天然に存在するもの、すな わち動物、植物、鉱物について、その種類、性質、産状などを調査・記載する学問と、一般的に 考えられている4。この視点からみて、貝原益軒や平賀源内らの物産会を含んだ幅広い本草学に 関連した取り組みを、「博物学」と称することは少なくない5。これらの主張は、主として、1.動植鉱 物を主たる内容とする、2.諸文献に基づき、名と物を同定する名物学的方法から実験的方法へ の変化、3.生態や分布といった薬学以外へ事項への注目、以上三点から博物、及び近世博物 学の位置づけを行っている。
なるほど、貝原益軒をはじめ 18 世紀以降の本草学者はすでにみてきたように、「薬学」の枠に とらわれることなく、本草学からみれば、余りある広汎な領域を研究対象としている。この点からみ れば、「本草学」ではなく、「博物学」といえよう。しかし注意をしなくてはならないのは、近世にお ける取り組みを、「博物学」と称するとき、その枠組みは、現在のわれわれが考える「博物」「博物 学」の発想からの分類であり、近世の考え方とは必ずしも一致していない、ということである。
たしかに「博物学」という語は、貝原益軒の『大和本草』に次のように用いられている。
「凡博物之学非有広覧強記之識以通洽干古今審問精思之労以考験衆物則不能究其品物其性 理考其是非正其註誤分其真偽弁其異同而極広博致精密」6。しかし『大和本草』以外には、
その後も博物学もしくは博物之学の用語を、使用する例は、非常に少ない。また、近世博 物学から進んで、西欧博物学の始まりとされた宇田川榕庵の『植学啓原』の場合も、博物 学の語を使用しているわけではなく、「その内容から動学・植学・山物之学を含むものを、
今日的立場からそれと推定したにすぎない」7 のである。
したがって、くりかえしになるが、近世の「博物学」の定義はあくまで、今日的立場からの推測の 域をでないのであって、当時の「博物」という言葉の対象範囲が何であり、それがどう変遷したか については、ほとんど言及していないのである8。事実、近代以降、近世博物学者と評された人物、
たとえば小野蘭山なども、当時の文献には「小野蘭山翁徒ヲ集メ本草之学ʼ ʼ ʼ ʼ(・・・・)ヲ講ズ」 9(強調 は引用者による)と記しており、「博物学」とは称していない。この点について白川光太郎は「(貝原 益軒)先生ノ時代ニハ今日ノ所謂博物学ト云フモノハナカツタノデアリマス。今日ノ博物学トハ先
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生ノ時代ノ博物学ト違ツテ居ル」10 と述べている。つまり、近代の博物学の内容が近世の内容と 一致していたかどうかについては、十分に検討されていないのである。
このように本草学、博物学の違いの不透明さ、「博物学」の使用頻度の低さと近世における定 義の困難をみたとき、あらためて、近世における「博物」「博物学」の語彙の意味を探っていく必要 があるだろう。これは、1860 年代以降、どのような経緯で「博物館」という名称が選択され、そこに どのような意味が含められていたのか、を検討するうえで重要な示唆を与えると考えられる。
さて、「博物」という語は近世においてどの程度、用いられたのだろうか。現在の国語 辞書に相当する『節用集』から、その内容を明らかにしていきたい。この『節用集』は、
室町時代中ごろから昭和初期まで行なわれた用字集・国語辞典の一種であり、日常語の用 字・語釈・語源などを説き、多くはイロハ順に配列したもので、検索に便利だったことか ら、近世においてひろく用いられている。『節用集』、とくに節用集大系(国会図書館亀 田文庫蔵の複製、江戸時代の刊本120点集成)に着目して、「博物」という語の使用頻度 を分析した。
その結果、検出された「博物」の数はあまりに少ないものであった。200 年の長きにわたる近世
『節用集』のなかから発見された「博物」という語は、以下のわずか 2 点である。
『大成正字通』(1782 年・天明 2、刊)
〔編者〕 蘆屋居士跋
〔年代〕 天明 2 年(1782)3 月刊。
大阪・京都・江戸三書肆刊。
〔記載内容〕博学。−識。−物。11
『大江戸節用海内蔵』(1863 年・文久 3、刊)
〔編者〕 高井蘭山編。中村経年補輯。金水迂叟序菊川英山画。森楓斉・小原竹堂書
〔年代〕 宝永元年原板・文久 3 年(1863)8 月序刊
〔記載内容〕博雅。−物。−識。−学。−冾。―奕。−文。12
節用集は日常生活に必要なことばを集めたもので、当時の民衆の生活や文化を知るうえで、
参考となるところが大きい。しかし「博物」の記載の少なさをみても、この語が、一般的に用いられ ていなかったことが推測される。これにたいして、「博覧」は時代を問わず、多く記述され続けてい
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る点は特徴的である。
だが、「博物」という語が、近世においてまったく使用されなかったとするのは早計である。近世 の刊行本に目を移すと、『博物筌』と呼ばれる書籍の存在に気がつく。『妙薬博物筌』、『妙術博 物筌』、『教百人一首 博物筌』、和歌や俳諧に関するものとしては『改正月令博物筌』などであ る。
そのいくつかを取り上げ、「博物」の意味について考察したい。
まず、最初に 1770 年(明和 7)に刊行された『博物筌』をみてみよう。これは、イロハ分け・意義 分類をほどこした書籍である。意義分類をみると、乾坤・神仏・人物・官位・芸能・器材(器財とも)・
衣食・妙薬・妙術・気形・草木・異名・雑事となっており、節用集に近いものの、その内容は非常に 多岐にわたっている。凡例にも「此書ハ、上九天ノ高キヨリ下千尋ノ底ヲ究メ、泰山ノ大ナルヨリ秋 毫ノ末ニ至ルマデ悉ク理ヲトキ、疑ハシキヲ解シ国字ヲ以テ類ヲ分チ、博物ノ助トス」とあり、範囲 は天から地上の底まで、泰山のごとく大きな事柄から小さなことまで、ことごとくを対象とし、疑わし いことを正すための語釈・解説に重点をおくもので、字引というよりもいわゆる類書に近い性格の ものであったことがわかる。
『博物筌』(1770 年・明和 7)
意義分類:乾坤・神仏・人物・官位・芸能・器材(器財とも)・衣食・妙薬・妙術・気形・草木・異 名・雑事
凡 例:此書ハ、上九天ノ高キヨリ下千尋ノ底ヲ究メ、泰山ノ大ナルヨリ秋毫ノ末ニ至ルマデ 悉ク理ヲトキ、疑ハシキヲ解シ国字ヲ以テ類ヲ分チ、博物ノ助トス13
下記の『妙術博物筌』においても、対象の広汎さは共通している。1780 年(安永 9)に刊行され た『妙術博物筌』は、当時評判の高かった 6 種類の書物を集めて一部の叢書となり、これに目録 を加えたものである。広告および扉見返しをみると、どうやら家庭向きの日常諸事の範囲でまとめ られた書籍であったようだ。天候に関すること、旅行や山川の歩行について、各職種にみられる 技や、詩歌、茶道、書道などの技術修得の方法、薬物や秘法など、自然に関する内容から、人事 にいたるまで、日常、目にし、触れるもの全てがその範疇に含まれるといっても過言ではない。
日々の悩みすらも例外でなく、歯痛や禿の対処方法までも記載してあるからおかしい。
近世において「博物」という語の意味は、日々の生活にまつわる事柄から神事、芸能など多岐 にわたり、目に見える事象から、占いなど目に見えない事象まですべてを包括していたと推測さ
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れる。
『妙術博物筌』(1780 年・安永 9)
本書の広告文:此本は又々至て人家の重宝なる本にて、日々入用の事をもらさずあつめ、
智工、秘伝、秘密、秘術、秘宝の妙薬等悉くいろは別にいたし、何用の事 にても早速間に合せ、奥には鎮火用心車と申て火事を退れ申候大切の事 を記し申候
扉見返し:日和降晴 風雲見様 霜雪防様 山川歩行 土地広狭 旅行心得 日取善悪 諸 職秘伝 詩歌習方 連俳仕様 筆道伝受 茶道伝受 書法唐音 妙薬妙術 秘伝 秘宝 人家要様14
ところで、この傾向はひとえに『博物筌』だけに限らない。というよりも、「博」「物」の語源が、す でに上記の意味を内包していた。下記は「博」・「物」のそれぞれの語源である。
「博」 大いに通ずるなり。ぴたりと敷きのばす意より広く行き渡る意となった。
<孟子、離下>の「博く学びて詳らかに説く」はその用例15。四方に広がる意味を含み、
放や傍の対転に当たるコトバ16。
「物」 漢訳仏教語辞典では、「生命体」あらわす17。
朱駿声の「物の本訓は牛の色なるべし」というのが適当。雑種の牛のことから、いろい ろな色と形の「もの」の意となる。文の対転に当たり、さまざまは色(あや)を意味する。
<周礼・雞(けい)人>に「その物を弁ず」とあり、鄭玄注に「物とは色なり」とある18。
いずれも、物質的な物に限らず、物それ自体が持つ、質量や嗅覚、色彩といった漠然とした内 容、つまり「あや」を指しており、現在の動植鉱物といった括りとは異なるとらえ方である。同様に、
紀元前に編纂され、日本に 8 世紀ごろ伝わったとされる張華『博物誌』の分類をみても、地理、山、
水、山水総論、典礼考、楽考、服飾考、器名考、物名考、異聞、史補、雑説に至るまで数十目に 分けて記しており、その内容は生活全般にわたっている。『博物筌』、つまり近世において用いら れていた「博物」と親近性がここに確認できよう。
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以上、近世における「博物」「博物学」の意味を明らかにするため、「博」、「物」の語源、節用集 のなかの「博物」、「博物」を冠した刊本を取り上げてきた。その結果、18 世紀末には「博物」の使 用が認められるとともに、その内容は文字通り、もろもろの事柄を指す一方で、服飾などにくわえ て神事や芸能といった日々の生活にまつわる事項、目に見えない内容までも示していたことが明 らかとなった。また、その数十年後には、「薬品会」「本草会」と呼ばれていた物産会に代 わって、「博物会」と称する会が登場してきたことも、示唆的である。
すでにみてきたように、物産会および、物産会を取り巻く環境のなかでは、過去の人間 の営みや伝説、風習といった精神世界を内包しながらの取り組みが行われていた。開帳や 見世物、物産会は、特定の価値観に基づいた物が分類・整理されるのではなく、無秩序と もいえる状態で展示が行われている。しかし、それゆえに見学者や出品者それぞれに、五 倫五常や進歩的精神などにもとづく世界観ではなく、自身の経験などから自由に思いを引 き出し、駘蕩と語ることができる場が形成されてきたことはすでに述べた。このような状 況をふまえたとき、近代以降に登場した展示空間にあえて「博物」という語が充てたこと には、意味があるだろう。近世における経験から展示空間を名づけようとするとき、これ までの経験から、神事や雑事、芸能までも含む、まさに生活そのものを表現した「博物」
という用語が、選択されたのであり、ここに近世末期の人々の展示空間の認識の一端がう かがえる。
第二節 自然と人事の分化―西洋博物学の移入―
近世における展示空間、およびそれを支えた思想は、自然と人間とが調和し、さらに日 常生活と直結した世界をかたちづくっていた。この経験が広く社会に浸透していたからこ そ、近代以降、国家による展示空間が登場し、これに名前を与えるときに、日々の生活に 関連する事柄から神事や芸能などあらゆる事象を内包した「博物」という語が転用されたことは、
前節でみてきたところである。
しかし、自然と人間との関連において物事をとらえていこうとする見方は、18 世紀半ばごろに終 焉をむかえることになる19。この大きな契機となったのが、蘭学者による西洋博物学の移植だった。
そして、この西洋博物学を推進した人物こそが、伊藤圭介や田中芳男をはじめとした、明治以降
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の博物館、博覧会創設の中心人物だったのである。 たとえば、1872 年(明治 5)、はじめて日本 政府の陣頭指揮のもとに開催された博覧会の展示品のなかには、数多くの伊藤圭介らのコレクシ ョンが含まれている。彼らのコレクションには、明治政府によって指示された物品も含んでいたが、
大部分は、明治維新前から、個人的にこつこつと収集された品々であり、また、収集の背景には、
18 世紀半ばに、新たに日本に移入された西洋動植物学の視点が内在していた。つまり西洋博物 学の移入と考え方の変化を考察することは、近代以降の展示空間の前提を明らかにすることにつ ながるだろう。
そこで本節では、18 世紀半ばにおける西洋博物学の移入の過程をとりあげる。西洋博物学は、
近世までの、自然と人とのつながりを重視した学問的方法を大きく変容させ、自然と人事の完全 な分離をもたらす。この経緯と、受容の過程を以下では検討していく。
第一項 自然の分類と体系化
西洋博物学における大きな画期は、いうまでもなくカール・フォン・リンネ(Carl von Linne
の登場にある。リンネは一つの生物の「種」を、一つの名で呼ぶことを決め、それを「正 名(Legitimate name)」とし、他の名を「異名(Synonym)」とした。また、その名を呼ぶ のにラテン語を用いている20。これは当時にあって、実に画期的な方法だった。
現在、「種」の実在は当然のことのように思われている。しかし、極端ではあるが、「イ ヌ」という種は、それ以前の世界で、実在していなかった。人間が個々の動物を見て、似 たものを「イヌ」という理念をとおして、とらえていたのであり、考えようによっては、
ロバはウマの変質したものとしても理解することができたのである21。リンネよりやや先 行 し て 植 物 学 者 と し て 活 躍 し て い た ジ ョ ル ジ ュ ・ ル イ ・ ル ク レ ー ル ビ ュ フ ォ ン
(Georges-Louis de Buffon)について、木村陽二郎は次のようにいう。「ビュフォンにと って種は実在しなかった。イヌは実在せず、現実にいるのは、家にいる太郎であり、隣の ジョンであり、魚屋のポチである。人間がこれをまとめて「イヌ」とよび、その種とする」
22。西欧でも日本でも、種の概念ははっきりとしたものではなかったのである。
これに明確な秩序をもたらしたのがリンネである。リンネは 1753 年に出版した『植物の 種』のなかで「種」と「属」によって名前を確定する二名法を確立、これ以降、一つの生 物に一つの名を固定させるのが定式となる。さらに、雌しべと雌しべの数を指標として分
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類する体系を構築し、すべての植物を 24 のグループに分けた。これは現在「二十四綱分類 体系」あるいは「雌雄しべ分類体系」と呼ばれる分類体系に相当する。
リンネの分類体系は、その後の博物学、ひいては自然の認識方法を大きく変えることに なった。そして、この変容こそが、近代以降の展示空間に、大きな影響を与えることにな るのである。というのも、リンネの登場以前、未知の生き物に遭遇したときは、少なから ず「驚き」があった。目の前にある生物や物を説明する言葉を、誰も持っていない。「驚き」
を一言ずつ言葉にしていく作業をとおして、また、あらゆる角度から観察、議論すること をとおして、生物や物の実態や生態を、暫定的に結論づけていく。これは近世における展 示空間の特徴でもあった。実際に、近世における展示空間に関する記録には、見たことも ない植物や動物に出会ったとき、その形態から言い伝え、雰囲気、これらが「驚き」をも って記述されている。
しかしながら、リンネの構築した分類体系は、これまでの認識の方法と全く異なる。彼 の分類体系によれば、未知の植物は、すでに完成された既知の分類体系のなかで位置づけ れば事足りるのである。すなわち、「前もって自分が見つけるであろうところのものを知っ ているのである。(…中略…)具体的な経験は、すでに占有されていた真理を説明するため に、そこに存在してい」23たのだった。この手法が固定するにしたがって、未知の生物、
物に出会ったときに、生じていた議論や討論は、次第に失われていく。系統だった大きな 流れはすでに完成しており、問題は、どの場所に未知の物たちが位置づくか、という点に 集約されるようになったのである。大きな流れそのものへの疑問は提示されないという特 徴が、ここにはある。既知の分類体系による見方と位置づけによって、こぼれ落ちる情報、
たとえば方言をはじめとした「 民 俗たみのなりわい」24への考察など、があったということを、記憶 しておきたい。
さて、上記のリンネの分類体系は、シーボルト(Philipp Frans von Siebold)によって 日本に 1820 年代にもたらされる。このときすでにリンネが『植物の種』を発表してから 70 年余りが経過、日本の近代生物学は、西洋諸国と比較すると極めて遅いスタートを切っ た。
シーボルトは日本滞在中、数多くの学者にたいして西洋文化の紹介をしているが、その なかでも目立って交流したのが、本草学者や医者だった。以下、シーボルトがどのような 経緯でリンネの分類体系を日本に紹介したのかをみていこう。
1823 年(文政 6)、長崎に蘭館医として来日したシーボルトは、宇田川榕菴や尾張の水谷
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豊文、伊藤圭介らに西洋の医学や動植物学を教えている。彼に学んだ学者は多かったが、
そのなかでも一際、シーボルトに熱心に教えを請う人物がいた。のちに博物館創設の礎を 築いた若き日の伊藤圭介である。彼は江戸参府途中のシーボルトの宿舎を数度、訪ね、つ ねづね感じている疑問や思いを語った。しかしこれだけに飽きたらず、ついにシーボルト の居する長崎に遊学、毎日のようにシーボルトを訪ねては持参した師匠である水谷豊文の 動植物学書である『物品識名』などを参考にしながら、ラテン名を質問するなどして、ま たたく間に西洋の動植物学を吸収する。シーボルトは熱心に学ぶ伊藤圭介にたいして、ツ ュンベルク(Carl Peter Thunberg)の『フロラ・ヤポニカ』(“Flora Japonica”)を贈っ たが、この『フロラ・ヤポニカ』こそが、リンネの分類体系に依拠して日本の植物を分類、
記録した書籍だったのである。
『フロラ・ヤポニカ』は 1784 年(天明 4)にドイツ、ライプツィヒで出版された書籍で、
ツュンベルクが日本に滞在した 1775 年(安永 4)から 3 年間に収集、分析した植物の記録 である。リンネの最晩年の学生である同時に、最も信頼された弟子の一人であったツュン ベルクは、日本の植物を相手にリンネの分類体系法にもとづいた研究を行い25、師の分類 体系が正しいことを証明した。実際、『フロラ・ヤポニカ』には、茎・葉・花序・花柄・蕾・
花冠・雄しべ・雌しべ・胚珠・果実・種子と順序だてて、ラテン語を用いた専門用語によ って詳細な観察結果が記載されている。それゆえ、内容はきわめて客観的で、植物の利用 方法や方言名など、従来の日本の本草学書に記されることが多かった付加的な記述は姿を 潜めている。『フロラ・ヤポニカ』は、日本ではじめてリンネの分類体系を紹介した書籍だ ったが、シーボルトが来日する以前、注目されることはなく、その存在はほとんど知られ ていなかった26。
シーボルトから『フロラ・ヤポニカ』を贈られた伊藤圭介は尾張に帰郷後、さっそく書 籍の翻訳に努め、ついに 1829 年(文政 12)10 月、『泰西本草名疏』を上梓した。ここで伊 藤圭介は、学名と和名の対照表を作成し、解説の部分ではリンネの雌雄分類法を丁寧に説 明するとともに、この方法が西欧では一般となっていること、またこの説に従えば、もし 未知の植物が発見されたとしても、この 24 綱のいずれかに属することになるとして、体系 的に植物を分類する方法の存在を明らかにしている。これが、今日に通じる植物の分類体 系を紹介した、日本の最初の出版物である。
これを皮切りに他の論者からも西洋生物学が紹介されはじめる。宇田川榕菴は 1834年
(天保 5)に『植学啓原』を出版。ここで宇田川榕菴は、植物の学問は本草とは同じでな
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いことを喝破し、植学と呼んだ。これは現在の植物学に相当しており、実用の学ではない 純粋の近代科学であることを明らかにしている27。また大垣の医師、飯沼慾斉は1865年
(安政3)から1862年(文久2)に『草木図説』を刊行、自ら採集し、顕微鏡を用いて観
察、研究したうえで日本における分類学の成果が公表している。
ここにきて、日本の本草学は、近世における第二の大きな転機を迎えることになる。す でにみてきたように、彼らが活躍したころの本草学は、「本来の使命である薬学から離れて、
博物学化の一派を立てる傾向が強くなっていた。それでも脱げ切れない実用の面がどこか に残っていた」28。しかし、ついに植物、すなわち自然の構成要素と人間の性質や行為と が無関係にあることが認識されるようになったのである。と同時に、18 世紀半ばには、薬 効や方言、伝説や習慣などに関する記述は減少し、分類による記述が多く見出せるように なる29。また、客観的な分類体系と名前の確定に動植物の全種に関する知識をすべての人 が共通して持つことが可能になった。
この結果、従来の、物をとおして、社会や生活のありかたを問い返すような取り組みも 否応なく変容していく。展示空間も然りである。この点の検討は次章で取り上げていくこ とにして、ここでは、18 世紀半ば以降の展示空間の変容の背景にある思想的な変化を心に とどめておこう。
第二項 西洋博物学の受容にともなう葛藤
本節でもう一つ、確認しておきたい点が残されている。それは、分類体系にもとづ く考え方、すなわち人事と自然との分離が、即座に社会に浸透し、一般的な見方とな りえたのか、という点である。いうまでもなく、近世における知識人の思考の最も大 きな枠組みは儒学、特に朱子学にあった。この一部をなす自然観は、宇宙構造論まで 含む壮大な理論体系ではあったが、実験・観察の裏づけのない思弁的な哲学である。
本質的には、理気二元による循環論であり、自然と人事を連続的に把握するという意 味において、分類体系システムとは全く異質のものであった30。また、近世における 展示空間およびそれを支えた思想的側面からみても、物への関心の多くは、社会や生 活、歴史のなかでのとらえようとする志向を内在しており、いわば自然と人事は切り 離せない関係にあった。
このように、従来の儒学的枠組みや、展示空間、それに関連する経験を持ちつつ、
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これとは全く異質のヨーロッパ自然科学に接するのだから、この両者の対決は避ける ことはできない。結論からいえば、「人事と自然との関係の断絶」を理解するには、長 い時間を要することになった。
その一例として”Natural history” ”Natural philosophy”という言葉が訳出され るまでの過程についてみてみよう。上述のように、博物館の成立と西洋博物学の確立 は密接な関係にあり、切り離すことはできない。また西洋博物学の移入を、自然と人 事との関連性を重視する従来の基本的態度のとの対決とみたとき、ひとつの様相が” Natural history””Natural philosophy”という訳語を創造するまでの言葉の変遷によ くあらわれている。
表を参照してほしい。この表は”Natural history””Natural philosophy”の訳語の生 成を通して、西洋博物学を日本人がどのように理解していたのかを翻訳の様子からまとめ たものである。
西暦 年号 辞書及び書籍名 内容 1804
1839 1858 1862 1872 1875
文化1 天保 10 文久2 明治6 8
『諳厄利亜語林大成』
『博物新編』(中国)
(1855年・安政2に和 刻)
『和蘭字彙』
『英和対訳袖珍辞書』
『附音挿図英和字彙』
『物理階梯』(初版本)
Natural philosophy−理学・窮理学 熱論・光論・電気論
Philosophiji−理学。究理学。
naturalist―窮理学者
Natural philosophy−窮理学。
Physiology−窮理学。
Natural philosophy―窮理学。博物学。
凡ソ物ノ宇宙間ニ散在シテ、人ノ五官ニ触ルヽモ ノ、之ヲ「ナチュール」ト云フ、即チ万有ノ義ナリ、
而シテすでに其物アレハ、必ス亦其理アリ、故又物 ニ就キ、其本性ト定則トヲ、講明スルモノ、之ヲ「ナ チュラル、ヒロソヒー」ト云フ、即チ万物ノ理ヲ考
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1876 1879 1886 1888 1889
9 12 19 21 22
『改正増補 物理階 梯』
『英華和字典』
『英和双解字典』
『附音挿図和訳英字 字彙』
『ウェブスター氏新 刊大辞書 和訳字彙』
『明治英和字典』
究スル学ノ義ナリ、然トモ其要ヲ略言スルトキハ、
先ツ其物ヲ知リ、然ル後、其用ヲ察スルコトニ、外 ナラズ
凡ソ覆載間ニ在ル所ノ万物ノ外面形状ヲ記載シ以 テ其類別ヲ詳論スルハ博物学ノ要ナリ、万物ノ性質 及其物質中ニ生スル諸変化ノ原因等ヲ説明スルハ 物理学ノ要タリ、故ニ博物学ノ主トスル所ハ動、植、
金類ノ形質ヲ類別シ以テ其異同ヲ徴シ、物理学ノ主 トスル所ハ万物何ヲ以テ形体ヲ成シ、諸動何ヲ以テ 運行ヲ起スト、一々其究理ヲ窮ムルニ在リ(アンダ ーラインは引用者による)
Natural Philosophy―性理之学・博物理学・格物総 智
Naturalist−博物士。自然良能を主張スル人
Natural philosophy−物理学、格物学、博物学 Natural history−動物学、地球及生物学
Naturalist−博物学士、唯理論者 Natural history―博物学
Natural Philosophy―生理学、格物学
Natural history−動物学・地球及生物学 Natural Philosophy―物理学・格物学・博物学
表1 博物学の訳語
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くりかえしになるが、西洋の自然認識が移入されたとき、それまでの日本人の思考の枠 組みには、人事と自然を分離するという考え方は存在していなかった。しかし、18世紀に おける西洋の自然観、およびそれに関連する科学は、自然から内在的価値を奪い、純粋な 機械的な自然として把握しようする志向性をもっていた。そこで明らかになる事実は、あ くまで「物」と「物」との関連性や類似性、差異などであり、「人事」が入り込む余地は ない。しかし当時の日本には、「物」と「物」との間だけに存在している法則を、解明し ようとする方法を、すんなりと受けるだけの土壌が充分に醸成しきれていなかった。した がって、意味の理解に困惑した日本人は、「法則」の部分にだけ着目をし、”Naturalhistory”” Natural philosophy”の訳語として「窮理」という語を採用する。ここでいう「窮理」と は、「理」を「窮める」、すなわち、自然と人間を共通なものとしてとらえたうえで、一 つの「道理」を見出そうとする姿勢である。この考え方が、西洋の自然認識と真っ向から 対立していることは自明である。しかし、日本人が従来、持っていた枠組みから理解しよ うとするとき、この解釈はやむをえないものがあった。特に、蘭学と距離のあった儒学者 などにとっては、一朝一夕に理解できる思想ではなかった。幕末期の代表的な儒者の一人 である佐藤一斎は次のように言っている。
泰西の説、己に漸く盛なる機あり。其のいわゆる窮理は以て人を驚すに足る(…中略…)
窮理の二字、易伝に原本す。「道徳に和順して義に理し、理を窮め性を尽くし、以て命 に至る。」故に我が儒の窮理はだた義に理するのみ。義は我にあり。若し外に徇い物を 逐うを以て窮理と為さば、恐らく終に欧羅巴人をして我が儒に賢ならしめん。可ならん や。31
佐藤一斎が、ここで、朱子学の「窮理」に固執して西洋の学問を理解しようとしている ことは明らかである。このような、西洋科学の受容における混乱は、18世紀初頭から半ば にまで約50年強、続くことになる。表にあるとおり、1870年代にあっても”Naturalhistory”” Natural philosophy”の訳語は、「物理」、「窮理学」、「博物学」などが、重複錯綜し ている。これは、近世の格物窮理之学や性理学が下地となり、訳語に影響を与えた結果で あろう。
その後、次第に日本人はヨーロッパ科学をある程度、学んだ結果、自然と人事における 理の異質性をかなり意識するようになり32、1876年(明治9)に、ようやく博物学を「万
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物ノ外面形状ヲ記載シ以テ其類別ヲ詳論スルハ博物学ノ要ナリ」、「博物学ノ主トスル所 ハ動、植、金類ノ形質ヲ類別シ以テ其異同ヲ徴シ」33と定義し、対象と目的を明確にする とともに、あくまで客観的な観察をもって分類体系化し、「物」と「物」の間にある法則 を発見すること、すなわち自然と人事を分化して考えようとする姿勢を獲得し、この点を 強調するようになった。
以上、考察してきたように、18世紀にリンネの分類体系が移入され、日本人の物のとら え方に大きな転機を与えた。しかしながら、自然と人事を分離し純粋機械的な自然を把握 しようとする試みの定着には、半世紀にわたる時間を要することになる。
先走れば、自然と人事の分化が理解できた1870年代半ばと時同じくして、日本において 博物館が創設される。これは決して偶然ではないことをここでは強調しておこう。この点 の言及は次章以降に行う。
第三項 「国家経済の根本」としての物産学
近世における物産会と、それを取り巻く活動は、18世紀初頭までの「本草」つまり薬学 から離れて、動植鉱物を広く研究の対象としたことは、第一章で述べた。この物産会を支 えた研究活動が、近世においては、主として草の根の取り組みが中心であったが、18世紀 半ば「国家経済之学」として要請されるようになる。
1853 年(嘉永 6)6 月のペリーの来航以来、西欧諸国の開国への圧力は、幕府を震撼さ せた。海防は脆弱で、西欧先進国に対する軍事力、とくに軍事技術は格段に劣っている。
このような状況にあって開国・鎖国のどちらも苦渋の選択であり、一刻も早い危機的状況 からの脱出が、幕府の課題であった。そのため幕府は、これまで、きわめて小規模に押さ えてきた外国文化の研究や翻訳を、一挙に拡大する方針に変更する34。浅草天文台内に置 かれていた翻訳局「蕃所和解方」を独立の機関として整備、拡張し「洋学所」と改めて、
九段坂下竹本主水正屋敷跡に移したのは、1855年(安政2)2月のことだった。翌年2月 には洋学所を「蕃書調所」に改名、機能を強化して人員を増加させ、単にオランダ語、西 洋文化の講究、翻訳だけでなく、生徒を募集し教育をはじめる。いわゆる官立の洋学校の 設立である。1857年(安政4)1月18日に開校した当初、生徒数は191人を数えている35。
「富国強兵」の目的意識をはっきり把握したうえでの開国政策が全封建支配者によって 保持されはじめたこの頃に注目されたのが、「物産学」だった。古賀謹一郎・勝麟太郎は、
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1861年(文久元)に蕃書調所内に物産学を設けることを建議している。
物産之学儀者必用之学科にて国家' '経済之根本' ' ʼ ʼ ʼ に御座候処、右考究仕候者格別面倒にて、
且は多年無懈怠取調不申候而者不行届、追々外国へ交易御差許相成候に付ては、別而御 国地内之物産調方不行届候而者御差支に相成候に付き、動植金石類夫々見本取之其品之 善悪高下等明白に見極為致申度、依而者其学巧成者両三人出役被仰付被下候様仕度、右 御聞届相成候はゝ名前御手当取調可申上候、依之此段奉伺候以上36(強調は筆者による)
貿易を行うにしても、国力を補強するにしても、国内のどの場所でどのような産物や特 産品が存在しているのか、また諸外国はどのような物品に価値を見出しているのか、これ を精査し把握しておくことが「富国」の実現するためには、どうしても必要となってきた 旨を、建議は強く強調している。殖産興業をもって「国家経済」に寄与しようとする姿勢 が、ここに、はっきりと認められる。この建議を受けて、1861年(文久元)9月には蕃書 調所内に物産学が設置され、伊藤圭介が物産学出仕となっている37。その後、蕃書調所は
1862年(文久2)に洋書調所に、翌年には開成所と発展していくわけだが、一貫してその
間、物産学は「国家御経済之根本」38としての存在感を増していくことになる。この傾向 は明治維新以降も引き継がれ、事実、御雇外国人を多く受け入れた1877年(明治10)前 後まで、博物学が社会科学のなかでは他の教科を凌いで最も数か多かった39。また物産学 の取り組みは、明治政府になってのち、物産方のメンバー構成や、「国家経済之根本」とい う趣旨をそのままに、博物館・博覧会へと引き継がれる。
本節では、近代博物館創設の基礎となった「西洋博物学」受容の過程を検討してきた。
1850年を前後して、従来の学問的方法はリンネの分類体系システムの移入にともない、大 きく変容する。また、おもに草の根で展開してきた物産会を取り巻く活動が、国家に要請 されるという新たな局面をむかえた。
しかしながら、上記の展開の背景には、さまざまなせめぎあいがあり、複雑な様相を呈 していたことを見逃してはならない。事実、近世までの朱子学にもとづいた方法論や、物 産会などをとりまく諸活動で採用されてきた方法に慣れ親しんできた日本社会に、自然と 人事を分化して考える「西洋博物学」の方法が、理解されるようになるには、長い時間を 要すことになる。
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もっぱら、博物館や博覧会は、西欧に範をとって創設され、整備されたと考えられてい るが、そこには、直線ではとらえられない、受容にともなう葛藤や誤解、意味の変容があ ったことを予告しておきたい。これは、その後の大衆との関わりにおいて重要な意味をも っている。つづいて、60年代における、日本人の西欧博物館・博覧会体験ついてみていく ことにする。
第三節 1860 年代における海外使節団の博物館・博覧会の見聞
1850から1860年代にかけての20年間、それは日本が「世界」に直面したときであっ た。1840年(天保10)のアヘン戦争にはじまり、1853年(嘉永六)のペリー艦隊の日本 来航、1859年(安政6)の日本開港、年表の事実からみても、その特異性ははっきりとし ている。子安宣邦はこの時期を次のように指摘する。「それは欧米帝国主義諸国の軍事力を もった圧力によって東亜細亜がいわゆる「資本主義的な国家秩序(システム)」に組み込ま れていった時期を象徴する年数である」40。
時代の大きなうねりは町中にあっても感じられた。ロバート・フォーチュンは江戸滞在 中1860年(万延元)の様子を次のように記録している。「私が訪れた当座は、江戸には異 常なほど多勢の外国人が駐留していた。すでに日本と条件を結んでいた国々、イギリス、
フランス、アメリカの公使館員のほかに、日本と条約締結に関係していたプロシアの代理 公使や、日本大使をナイアガラ号で送ってきたアメリカの乗組仕官らの人々であった」41。 それまで、日本国内に滞在できる外国人は朝鮮通信使や、オランダ・中国のみで、しかも、
長崎に限られていた。それがわずか数年余りの間、江戸の町には多くの外国人が居を構え るようになり、欧米諸国の存在を、肌で感じる日が到来したのである。
1850年代以降、日本は迫り来る「世界」への編入に対応するため、数多くの難題と向き 合い、解決していくことを余儀なくされる。そして、そのうちの一つが、博物館や博覧会 といった展示空間の解釈と導入だった。資本主義的な世界システムと深い関係を持ちなが ら成長した西欧における博物館・博覧会を理解することをとおして、「世界」へどのように 編入していくべきか、その術の一端を、学んでいったのである。
本節では、明治維新前夜、日本人がどのように西欧博物館・博覧会の展示空間を経験し、
また理解したのか、を検討していくこととする。
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第一項 近世における西欧博物館・博覧会に関する知識
1860年(万延元)、遣米使節、新見豊前守一行、1862年(文久2)、遣欧使節、竹内下 野守一行、1863年(文久 3)遣仏使節、池田筑後守長発一行、1865年(慶応元)遣欧使 節 小出大和守一行、1867年(慶応3)遣仏使節、徳川昭武一行。上記は、条約批准のた め、また西欧文化視察のために、幕府や各藩が、明治維新前夜の7年間に、海外に派遣し た使節団である。世界にたいして閉じられていた窓は、ここに大きく開かれた。それと当 時に、急速に博物館や博覧会を含め、西欧の文化や技術が、日本国内に持ち込まれるよう になる。
西欧における展示空間受容の様子を検討するにあたり、まず、西欧博物館・博覧会に関 する知識を、近世の時点で、どの程度、把握していたのかを、確認しておく必要があるだ ろう。
西欧に関する情報は、幕府の蕃書調所によって輸入された書物から得るケースが最も多 い。とはいえ、18世紀半ばに西洋文化を紹介した出版物は非常に少なく、まして博物館や 博覧会について言及した資料はさらに限られていた。例外として、ロンドンの大英博物館 やパリ自然史博物館の紹介記事が掲載された、1839年(天保 9)版、1840年(天保 9・
10)版「ネーデルランドマガゼイン」(Nederland Magaziin)があげられるが、これを抄
訳した箕作阮甫『玉石志林』には、博物館に関する記事は翻訳、掲載されていない。また 世界の国々の沿革や地理、特産を記した大槻禎重『海国図示』、佐渡銀次郎・手塚律蔵『万 国図示』、箕作省吾『坤輿図識』についても同様である。ただ一つ、1851年(嘉永5)、ペ リーが来航する一年前のオランダ別段風説書に、1851年に開催された第1回ロンドン万国 博覧会の様子が記されていた。これには、「エケレス国都府ニ世界諸邦出産之諸物を見物致 の場所」「一両日の内に来観する者数万人余」とある42。しかし、この風説書には、あわ せてペリー来航の予想も掲載されていたので、この記事はそれほどの注目を集めなかった 可能性が高い。わずかな外に向けられた窓口から、断片的に博物館や博覧会の情報が入っ てくることはあったものの、これを目にしたのはごく限られた人々であり、ほとんど注目 されてこなかったことが推測される。
それを象徴するかのように、18世紀の書籍・辞書には、「博物館」「博覧会」に関する記 事や訳語がほとんど掲載されていない。以下では、18 世紀の辞書における「博物館」「博
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覧会」の訳語の変遷をみていくことにしよう。
当時、辞書は西欧文化を垣間見る重要な情報源であった。また、辞書を翻訳するにあた って、訳者の翻訳の必要・不必要の取捨選択が働いており、当時の社会が、どの程度、「博 物館」「博覧会」に着目していたかを推測する優れた目安となる。
西暦 年号 辞書及び関連事項 博物館の記述の有無と内容
1796 1810 1811 1814 1833 1840 1843 1851 1856 1857 1858 1860 1862
寛政8 文化7 文化8 文化11 天保4 11 天保14 嘉永4 安政3 4 5 万延元 文久2
稲村三泊『波留麻和解』(通称江戸ハルマ)
藤林泰助『訳鍵』
『厚生新編』
本木正栄他『諳厄利亜語林大成』
H.ヅーフ他『道布波留麻』(通称長崎ハルマ)
〔幕府蘭学翻訳書の流布取締り〕
『英華字典』
〔第1回ロンドン万国博覧会開催〕
慕維廉(William Muirhead)『英国志』
(上海)和刻本1861年・文久元年 広田憲寛『増補改正訳鍵』
桂川甫周『和蘭字彙』
〔遣米使節団派遣 Patent Office.
Smithonian Institution見学〕
福澤諭吉『贈訂華英通語』
堀達之助『英和対訳袖珍辞書』(洋書調所)
〔竹内下野守保ら欧州6カ国派遣;第2回ロ
記載なし 記載なし 記載なし 記載なし 記載なし
Museum―博物院、百物院
Exposition―A setting public view 羅列者、示衆、表明
英以倫敦為国都(中略)都中立太学 一所、大書塾六所、大博物院一所(巻 之八)
記載なし
記載なし
記載なし
Museum 学術ノ為ニ設ケタル場所
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1865 1866 1867 1869
慶応元 慶応2 3 明治2
ンドン万国博覧会開会式に招待される。〕
『American Dictionary English Language by Noah Webster,ll.d.』
〔田中芳男、自ら採集した昆虫標本56箱を 携え、パリ万国博に出品〕
〔徳川昭武、フランスに出発〕
薩摩学生『改正増補和訳英辞書』(通称薩 摩辞書、「袖珍辞書」第3版に当たる)
斯維爾士維廉士(S.W.Williams)著・清:
衛三畏『英華字彙』
学堂書庫等ヲ云フ
Museum―temple of the Muses ,hence a place of study; A repository or collection, of natural, scientific, or literacy curiosities, or of works of art.
Exposition- The act of exposing or laying open; a setting to public view; hence, a exhibition or show, as of the products of art, industry, and the like; as the great exposition at Paris.
Muse―歌ノ女神(イテン宗ニテ九女 神ノ一ナリ)深慮
Museum―学術ノ為ニ設ケタル場所学 堂書庫等を云ふ
Exposition―○上ノコト。開キ置ク コト。解明カスコト
Museum―博物院
Expose―羅出スル.露出スル.揚言ス
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1886 1888 1889
19 21 22
棚橋一郎『英和双解字典』
棚橋一郎・志賀重昴
『ウェブスター氏新刊大辞書和訳字彙』
島田豊編『附音挿図和訳英字彙』
尺振八『明治英和字典』
ル 吐露スル
Museum―博物館
Exposition―註解。位置。露出。帳 開。叙述。現露。
Museum―博物館
Exposition―帳開,露出、叙述、注、
註
Museum―博物館
Exposition―羅開スル事、博覧会、
意義ヲ解明スル事、説明、註 解、註解ノ書籍、叙述
Museum―博物館
Exposition―羅開スル事。攤開○博 覧会○意義ヲ解明スル事。説 明。註解○註解ノ書籍○叙 述。
表2 蘭和・英和辞書にみる「博物館」
上記の表は、1769年(寛政8)から1889年(明治22)にかけての「博物館」「博覧会」
訳語の一覧である。表を見る限りにおいて、ほとんど無関心といってもいいほど、近世に おいて「博物館」「博覧会」は取り上げられていない。つづけて、簡単に、辞書をとおして、
日本国内の洋学受容の様相をみておく。
本格的な翻訳書の発行は、18 世紀に入ってからはじまる。まず、訳語の源流として、第 一にあげられるのは、通称『江戸ハルマ』・『長崎ハルマ』と呼ばれる蘭和辞書である。
『波留麻和解』(通称『江戸ハルマ』)は、フランソワ・ハルマ(Francois Halma)の「蘭 仏辞書」をもとにして稲村三伯が中心となって編纂した日本最初の蘭和辞書で、1796 年(寛
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政 8)に完成し、1798−1799 年(寛政 10 年―11)にかけて刊本 30 部が発行された。一方、
『道訳法児馬』(通称『長崎ハルマ』)は、江戸ハルマから遅れること 20 年、オランダ商 館長ヅーフ(Hen drik Doeff)が、語学力の向上を目的に、通詞と協力しハルマの蘭仏辞 書第 2 版43をもとに、1833 年(天保 4)、蘭和辞書を作製し、33 部を清書、うち幕府、長 崎奉行所、江戸天文方に納めている。『江戸ハルマ』は蘭学草創期の日本人の手になった ものであるから、無理もないが、底本の見出し語を利用したのみで、それに一つまたはい くつかの訳語を配した単語帖程度のものであった44。それにたいして、『長崎ハルマ』は、
口語的性格を持ち、底本の例句や例文を取り入れるなど、辞書としての機能を格段に充実 させている。したがって、発行数こそ少なかったが、洋学を学ぶ人々の間で、この辞書は 貴重な教材として常用された。『福翁自伝』は当時の様子を、次のように記録している。
「ヅーフ部屋と云ふ字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引きつゝ勉 強した」45。当時、洋学に取り組もうとする者たちにとって、辞書は学習の第一歩であり、
また世界にたいして唯一、身近に開かれた窓だったのである。
さて、ここまで刊行された翻訳書は、オランダ語によるものだが、1808年(文化5)、イ ギリス軍艦がオランダ船を装って長崎湾に入港したフェートン号事件をきっかけに、洋学 の主流はオランダ語から英語へと移行する。
1811年(文化8)、馬場佐一郎と大槻玄沢、宇田川榕菴らによって、ショメール(M.Noel Ccomel)の百科事典“Dictionnaire oeconomique ”翻訳事業が開始される。この事業は、
30年余りを費やす大事業となったが、結局、翻訳書『厚生新編』は、刊行されないまま幕 府に収められる46。しかし、宇田川榕菴はショメールの翻訳を通して、西欧に本草学とは 異なる「植物学」があることを理解したというから47、翻訳事業に加わった蘭学者たちに とって、この事業が西欧を垣間見る優れた学習機会であったことは間違いない。1814年(文 化11)には、日本における英和辞書の先駆である『諳厄利亜語林大成』が蘭通詞である本 木正栄らによって完成したが、この辞書もやはり、幕府に秘蔵され、その存在が知られる ようになったのは明治以降であるという。また、1860(万延元年)には、福沢諭吉がサン フランシスコで手に入れた清人の原著『華英通語』に和訳をくわえて『贈訂華英通語』を 刊行している。
以上は、近世末期において洋学学習に際して基礎となった辞書である。だが、みてきた とおり、このなかに、“MUSEUM”や “ EXPOSITION”、“ FAIR ”といった「博物館」や
「博覧会」に相当する語の紹介は一切行われていない。もっとも皆無というわけでなく、
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