明治以降におりる
桐生機業の生産構造と技術
i 我国産業技術発達のびと乙ま l
回
坂 登 仕 雄
地
ま
〉・
え
も三
き
幕末︑そ
ζ
は我国の近代産業の萌芽がいろいろな様相をもK
ってわれわれに示される︒しかしながら︑それが︑二百数十年
の統一封建社会の最終の中
κ
あり︑世界市場からの隔離の裡にあるかぎりにおいて︑安政六年の開港が西欧産業革命の開始よ
明治以降における桐生機業の生産構造と技術 り一世紀のズレを示すという単なる時間的な後進性を現すにとどまらない︒西欧資本主義の対抗の内に自らの発展を︑換言す.れば︑封建社会の打破と近代社会の生成を先進資本主義の強圧
とその合流の内に同時的に実現しなければならないととろの一
つの点鐘である︒との場合︑先ず問題になるのは︑前段階にお
ける産業機構の性格でありその強固さである︒そしてこれらの
基礎的条件の上に所与の外的諸条件が如何
κ
関係するかによヲ て我国近代社会H
資本制社会の生成・発展の前提が具体的に旦決定的に与えられる︒そこで近代社会は︑とこでは近代的生産
機構を意味し︑そしてそれは近代的工場制度の確立を意味する
のであるから︑われわれはまず︑近代化の過程の問題をマニユ
ファクチュアから始めなければならない︒いうまでもなく︑マ
ニュファグチュアは封建的生産機構を否定しつつ近代的生産機
A詰
一︼
構を樹立するための最初の決定的な因子であるからである︒
一般に︑資本主義の成立ハ
H
産業資本確立の過程﹀は︑我国の場合︑明治三十年乃至四十年の日清日露戦争を通じて軍事的
半農奴制的特殊日本型を形成したといわれている︒特に英国k
bける︑一六四八年の大革命を起点とし厳密な意味におけるマ
ニュプァグチュア期ハ十六世紀中葉乃至十八世紀最終三分の一
期)の後︑一七六
O
年以来の産業革命のあの古典的な構成と比較するときそれは著しい特徴を示すものである︒そしてとの特
徴の一つが︑既にして発達した先進資本主義国家群の最新の技
一 六三 一
関治以降における調会機業の半語構造と竣術
肥川を取入れこれを直接的に工業に利用し得︑且つ又高度の技術
的基礎の上にたつところの近代工業が短時日の問に建設された
にもかかわらず近代工業技術の驚異的な発展の援点の下陀非常
に多くの極めて緩慢な或は停滞的な発展しか一万さないととろの
いわば前近代的技術︿
H
技能﹀の広汎な内包である︒ζの股行的技術の支配的存在はとりもなおさ︑ず日本資本主義の成立の事;
情
κ
依るこ正は勿論である伊仇しても︑技術が生産力の一指標を示すとき︑とのよろな技術の隠史的な分析は資本主義分析の一
つの鍵を与えるであろう︒けだし経済上の各時代を区別するも
のは︑何が造られるかということではなくして︑如何にして︑
如何なる労働用具を以づて︑造られるかというととであるから︒
との小論はこうした我国
κ
おける資本主義の生成乃至はその発展の機軸となったところの技術ハH近代技術Uの成立の事情
を明らかにせんとする試みの一つである︒とこで近代技術の意
味するととろのものは何であるかはしばらく別稿にゆずるとし
ても︑戦前戦後を通じて所謂﹁厳マユュ論争﹂の形℃なされて
い︑
る我
国マ
ニュ
の究
明に
も︑
ζの技術の発展的分析は一つの手
がかりを与え得ると考えられる︒結論的
κ
云ワて︑我国産業技術が広汎な停滞的技術の基礎の上氏軍事的近代技術として成立
していることは当然の如くであるし︑とれらは消費財生産部門
の停滞え重工業生産の発展といろ形で具体化されているが︑こ
のよ
μつな経済構造の内
κ
︑技術の担った歴史的な役割を︑われわれはととで︑産業革命の端初となづた衣料生産部門︑特に我
一六
四
国マニュフ7クチュアの一指標となった桐生織物業の技術の発
展過程にみることができるのである︒
はじめに︑幕末に至るまでの桐生織物の大体を示せば次の如
くである︒桐生織物か何時頃から始まったか明確でないが︑
﹁稿発達した桐生織物の趣源は奈良時代上野国において初めて施を朝貢した和銅七年前後とする)詔一うである︒古墳時代の石
オヅヒマキ
製機具掛川検問隙等が機を織る時に使う腰掛と推定される石製品と
共氏︑現在の前橋市の北方に発見されているととはとれを物語
るものである︒一般に我国における衣料生産の歴史は製糸業
κ
おいても織物業においても農民の貧困
κ
よる生計補充的副業として発達し来たったととは周知のととであるが︑桐生もその例
外ではなく﹁担当領之警官山谷地狭之村而農業斗而ハ波誠一明相成其上御献上之地ニ御在候得者蚕養並糸織物商売仕候﹂とある
ような土地であった︒もっともこのような山谷地狭は水の利用︑
例えば染色製練水力の動克化等機業托有利な条件もあるのだが
桐生機業の発展に特に有利な条件を加えたものは︑徳川期に入{註四}り︑﹁乍恐柄生領の儀権現様以来﹂の﹁御吉例の地﹂とし﹁諸
役御免被仰付﹂たととろの封建賦役の軽減であり︑文既に正保門誌五)三年の﹁御旗絹上納﹂の金納化であったσ特
κ ζ
の金納は︑農
民の貨幣経済日商品経済への引込みによって絹織物の商品化︑
絹市場の成立︑そして商業資本の支配的発展へと促進せしめた︹品六}のである︒桐生近郊の市場開設年代は︑前橋天和三年正月︑伊
勢崎大永年間より桐生天正年問︑高崎慶長三年︑大間六安︑水六
年渋川︑藤岡︑安中︑慶長年間︑宮川岡寛永年間︑境正保年間︑で
あり
︑桐
生の
旗絡
の金
納化
が正
保一
一一
年で
ある
ζと
は︑
ζの市場
の発展を裏付けるものである︒
このように封建的支配K依存し補育せられた︑いわば創始期
の柄生機業に大きな技術的転期を与えたものはなんといっても
元文三年の西陣技術の輸入であった︒それ以前の技術は甚だ幼
稚であり元・墜字保期以降の商品経済の進展に応ずべくもなかっ
たのであり︑﹁往古者百姓農業の片手間女子之娘等蚕飼いたし
全 と り 織 物 渡 島 は て い た の で あ さ
︑ 装 集 室 長
H
鑓機を用いていた︒居坐機は勿論木製であづて︑との機ム口に腰
を掛けシパキと称する帯を肢にまわし左足でもってつつ践り適
当の張度を与え右足でもヲて槙粁を運動せしめて綜統を上下す
るのである︒関口のときは腰を前方
κ
出して経をゆるめ緯を打込んで腹を引き経糸をしめる︑といった甚だ原船的なものであ
る︒従ってこの機台では平織或は平織の誘導組織たるK過ぎな
い高配・七子織・吉野織等しか出来ない︒しかし﹁手工の巧
妙﹂によヲてその製織はなかなか風味のあるものを築出するこ
とができたらしく︑これは﹁パッタン﹂よりも﹁染色後光沢良
好にして肉附厚く且つ柔軟﹂であって︑﹁地方独特の技術﹂と
して明治末期にいたるまで賞用せられた︒ζ
の機
ム口
が高
機或
は
力織機が一般に俊財せられる時期にも永く使用せられたのは︑
実に
﹁代
価機
台茶
他諸
道具
合し
て一
一一
回目
位
κ
過ぎず︑此の如く低飼治以降における桐生機業の生震構造と技術 廉にして旦っその装置も簡単にて又三四尺の場所を要すに止り賃業者K取り甚だ便利﹂であったから︐である︒元文三年春西陣
の機工師弥兵笥かもたらした紗紋機
H
官問
機は
桐生
の西
陣技
術移
入の端初であって︑その後桐生機業は飛躍的に進歩したのであ
ヲた
︒高
機は
木製
の一
間約
二尺
五寸
高さ
約五
尺の
機台
で︑
ζれは従
来の笠機と機械として木質的に何等異るものでなかったのであ
るが︑布巻千切儀引税鞠踏木綾竹中揚問丁等を備え綜統及び数
を増加するζとができた︒機台の上代紋引と称する補助職工が
綜統を運動せしめ‑織工は緯糸を返し銭を打つ純然たる織布作業
のみに従事するととによって複雑精巧な綾を織り又生産力を増
.加し得たのである︒﹁紋織物は高機Kでなければ紋織の出来ぬ﹂
ハ西
陣天
狗筆
記
Uゐので﹁尋常の織に同じから﹂ざるものであ
りた︒との西障の高機の輸入によって未だ平織の域を出なかっ
た桐生は﹁中村弥兵衛紗綾を織初候より当時桐生領一円百姓渡︻京入}世之助K相成
E
増六一繁昌仕候﹂ようになり︑機台も忽ち増加し て一二年後の元文六年代は四十余機︑寛保三年
κ
は山田郡勢多郡新田郡前橋領館林領足利郡は勿論遠く西上川安中室回その外一的
員 ふ ん }
大にひろまり使用せられたのである︒しかしとの高機も﹁西陣﹂
技術である限りK沿いてそれは全く手工労働の道具にしかすぎ
ず︑製織される紋紗等はいずれも高級品ではあづたが︑それは
操従者のヨリ秀れた技能代工つてのみその製作が可能であヲた
︒それはやはり機械が織るというより人の手が織るというもの
であワた︒桐生の西陣的技術の輸入は桐生織物をヨリ都市的
κ
一六
五
明治以降における桐生檎 d繋の免繋構造と技術
市場を拡大せしめたけれ芝も︑そして又︑桐生のもつ発展土壌
が農村的であるととにより一層
κ
機業を内部的κ
も発展せしめ遂に西陣を凌駕するに至るのではあるけれEも︑それはあくま
で西際的のそれであヲて︑それ以上のものではなく︑以下の行
d 論
κ
ふれるが如くやがて西陣と共に同じ停滞的な発展の道を進むべき基抵がとのとき既に準備されていなければならなかった
のである︒西陣技術輸入後の柄生の著しい中央的発展は西障の
ギリドが﹁上州桐生紋紗綾之儀差止被成下候﹂(寛保四年高機
大帳序文﹀として許さなかったが︑それはやがて桐生から高機
技術を移入した足利の天明頃の顕著な発展を︑もうその頃の桐生はギルドによヲてとれを阻止せんとしか己記と軌を一
κ
し て
いる︒明治年代桐生の技術は全沢代移出されたが︑金沢は桐生
足利のような西陣化の道を歩空ず新らしい近代化の発一援を示し
た︒ここに桐生は西陣と共に西陣的機業地として北陸金沢のそ
れと対立して確然と我固における二つの機業の型を示すに至っ
た︒それは製糸業における福島の座繰製糸と信州地方の器械製
糸との発展の二つの対比と著しい対象をなしている︒次
κ
原料糸加工の簡を見ょう︒桐生では高機輸入後寛保三年頃から縮緬
織を産出したのであるが︑撚糸技術は甚だ幼稚であって桐生の
大工峰岸勝右衛門か西陣式を模注した紡卒で辛じて糸の撚合を
しでいた︒との紡車は錘の数並口述一本で人力で回転させるもの
で︑その生産力は全く幼稚であったととろ︑安永七年下総国の
岩瀬吉兵衛が前記勝右衛門方
κ
寄食し従来の紡車の欠点を改良一六
六 せんと志し︑遂に天明三年水力を利用するととろの完全な撚糸(註一一)機械を案出した︒自然カが動力として織布工程中
κ
利用されたことは機械の劃期的な発展といわねばならない︒一時氏二十錘
近くの糸を動力によって運転できるとの機械は︑﹁マニュファ
(註 コ一 }
クチュア﹂的技術として最高段階を示したというべきである︒ζ
の水力八丁寧は其後吉兵衛の孫笠原吉郎の考案した撚糸一総の
回転数を測定する回転度計を附属せしめるととKより完成せら
れたのであるが︑洋式機械撚糸が輸入せられた後も水利の便な
る地方
k
bいて永く用いられ︑明治コ一十七八年頃において桐生
の撚糸業者二百三十七戸中ζの八丁寧を利用する賃業者数が百
円融 一一 一
‑ v
八十
三戸
約八
割に
及ん
だこ
とは
︑と
の紡
車の
剖劃
一期
性を
物諮
問る
も
ので
ある
︒
かくして純布生産総工程中におけるそれぞれの各部門の独立
化︑マニュ化への必然性を技術の側からも押しすすめるもので
あった︒最も簡単に純機械的作業の生産過程の分時か初めて機
械を移入する可能性を与えると同時K︑それは﹁逆説の工うに(誌一回}見えるが事実上小営業の成長三好く﹂︒いずれ比しても両陣技 術の輸入を契機として︑誌は水力人丁寧の発明K
より
桐庄
中織
物
の市場は爾降的而場を浸融し拡大するのであるが︑凡そ手工業
者が一度市場と接触するに至るや︑彼が時と共
κ
市場生産へ移行すること︑即ち商品生産へ移行するとと︑即ち商品生産者と
なること自然である︒そして製品の販売市場が最初は極めて狭
磁であるときは︑その移行は徐
k
k行われる︒しかし商品経
済のそれ以上の発展は商業の拡張によって︑専門の商人
n
翼占月註一室}業者の出現代よって表現される︒かくして桐生織物業は農家副業より漸次機屋専業を八刀出し℃買次商(H絹買)の絹市場支配
が始まり︑彼等は巨大な資本をもってやがて生産の制握に乗出
すのである︒市場か拡大して広い地方を包括するにつれて商品
生産の競争は益六激しくなり︑小工業の家父長的幸福を破壊し
﹁護持百姓農業の片手間女之方娘等蚕飼いたし糸にとり織物渡世﹂していたが︑天保年間K入り﹁近年次第に繁日目仕候に随
い蚕飼等者相止﹂﹁自ら農等閑ニ成行﹂﹁唯商い糸機等之︑波世
(証 一七
︼
のみ専一氏心懸候﹂ょうKなり︑桐生の高機輸入はマニュ化へ
の契機を与えたのである︒手工生産の土台の上に・おいては分業
の形態における以外の技術的進歩はあり得なかった︒かくして
殆んど太古から不変であったところの農民的小営業即ち小商品
生産の発展は︑技術の本質的変革をもたらすところの︑農民を職
人氏﹁部分労働者﹂に転化するとその分業を移入するのであ・
る︒桐生機業の分業
K
もとづく協業は天保煩から展開されたことは周知の通りでおる︒即ち織屋を中心として外業部に多数の
家内工業を配置している︒既に古手保子六年には絹買仲間が組織
F託一九)せれたし︑又其後張屋仲間質屋仲間小紋紺屋仲間糸屋仲間糸紺
屋仲間縄屋仲間御召機屋仲間機持仲間日糸機屋仲間等一二の仲
/
︽ 富 二
O︼簡を除いて大体天保頃までにその成立を見ている︒しかも﹁機
屋共は銘点機織女並糸繰紋引等大勢召抱﹂賃労働を雇傭し協業
がなされていた︒この地方の貸晶君働は天文三年の高機輸入後の
明治以降における桐生機業の生産構造と技術 一二年即ち寛保二年代既に桐生女山の一五祖として川俣女が現れ︑
覚保一一一年には奉公人間旋業も女工募集に従事し︑天保頃wh至
れ
ば﹁奉公人払底給金昔の倍増
κ
相成﹂り文政七年には努護法
人の他に﹁日手間取之糸張機持﹂等も存本するに変っている︒
かくて宝十七年機屋奉公人男二一百一二十一人女百十九人ぜ許一一年後の文政二年には男四百人女二百五十一人と倍加した︒女子
奉会人の増加率が男子のそれより多いが︑なお男子奉公人が女
子より圧倒的に多数であることは農民の土地からの離脱を示し
て居り注目すべきであろう︒
ところでマニュファクチュアにおいては商業資本と産業資本
とは種六雑多の仕方で絡み合い︑従って資本家に対する労働者
の隷属は他人の作業場における賃労働から始まワて﹁経営主﹂
のための家内労働を経て原料の買入と生産物の販売に関する隷
属に終るととろの数多の形態と色彩を帯びるのであって︑以上
の様な隷属的賃労働者大衆とならんで︑以而非独立的生産者即
ち原料製品市場から遮断された所謂事実上の賃労働者が多かれ
少かれ維持されている︒即ち都市
K‑ おいては離元
K対し広汎な
外業部としての小商品生産者かそれであり︑農村伊作︑おいては
﹁殆んど製産白田売買上の権利をも左右する﹂糸商の支配下にあ
ると乙ろの︑或は又﹁恰も封建時代の君臣の如尭‑関係﹂をもっ
て買次尚
κ
隷属するとζろの︑多数の零細な﹁農民職工﹂である︒との工うな自己の労働力を売らなければならないととろの
大衆的農村プロレタリアJトの存在と︑労働の分配に際して自
,
一六
七
明治以降における柄生機業の生議構浩と技術 ら代理人の役割を取るほど地方的諸条件Kよく通じている富裕 な農民の存在は︑明らかK資本家のための家内一労働の広汎な普 及を一示す︒しかしながら︑前出の比較的大きな経営K雇傭され る奉公人にしても︑或は事実上の賃労働者Kしても近代的意味
における︑郎ち所謂二重の意味で﹁自由﹂な労働者と異るととは勿論であろう︒近世中期以降の農民層の階級分化は土地を喪
失した農民が土地から追放されるどとろか︑却ヲて小作人とし
て土
地 Kヨリ強く結びつけられざるを得ない農民職工を析出するからである︒そζで天保九年には下久方村金子善右衛門は男巳女職工十数人を抱え機業
κ
従事し︑又同十年κ
は町召縮緬機八ムロ夏物老台をもヲた桐生新町の吉田清助は竪染紡績染色機持製‑ 1 1
織という生産工程の一切を自家作業で行い︑尾州候御用織物を製織していたこと︑或は弘化三年広沢村における機屋数三十五
軒機台百二十七挺平均四挺強の機台を所有し︑最大は十二挺一
軒十挺二軒ありつまり十一分の一の機屋
κ
よって四分の一の機L台が占有せられていたという諸点の事実から︑当時桐生
K
は﹁標準的なマニュファクチュアを想定することが批結記﹂Kもかかわら︑ずと号したマニュは﹁支配的存在﹂とは見られず︑む
しろ例外的な存在にすぎなかワた︒即ち前出の広沢村
K ‑
おい
て
も十
台以
上の
機台
をも
っ一
一一
軒を
除く
と一
戸平
均三
台強
であ
り︑
又桐生新町を中心として約六十ケ町村部落の織罵か足利興隆
κ
内世 二回
︼
対抗するため
κ
取結んだ天保λ
年の織屋仲間議定書には約六百三十名の連暑を見ることが出来︑機台も桐生五十四ケ村が天保
一六
八
九年縮緬献上顧向後機株取機貸渡度旨を奉願申上候文書に﹁二千四百十機有之以町神徳繁昌仕候処当時千五六百機与相成云k﹂とあるととから割出せば一戸平均二・五台である︒もヲとも
右の文書は当時桐生織物か不景気一によって経営規模に相当の変
動かあり︑しかも天保改革以前に沿いての﹁御吉例之地﹂桐生の衰微を訴える願書であるから︑機台数も或はも?と多かった
と も 考 え ら れ る が
︑ と 議 室 長 室 化 三 年 足 利 其 外 村 高 機
皆止被仰付度願書下書
w m
﹁御聖徳を以て四千軒余﹂の機屋が
﹁当
時漸
二百
六七
拾軒
計‑
一而
織候
﹂ー
とあ
ると
とと
考え
合せ
て︑
平均十台ばかりの標準的マニュが支配的であづたと考えるのは
無理で小営業の広汎な存在を否定出来ない︒しかして桐生では
との小営業者は独立の営業者H織元H元機屋と︑その元機屋或 は買次商来商から機具原料等の製織の一一切の資本を賃借し委託された製織
K
よる加工貨のみを所得とするととろの事実上の賃労働者たる賃機とに別れるが︑との賃機は文化文政頃にほ相当K広く行われていた︐らしく︑文政七年機屋仲間挫の中
‑ K
﹃賃
機
屋へ出機差出し候節は新規之賃機屋は格別仲間内え株機候はば
元機織屋え懸子細無之候はば差出可申せり合之犠決而いたし御問敷事﹂との条wいうかがい知るととができる︒かくて桐生托は
例外的マニュと︑独立小生産者たる元機屋と︑広汎K存在した
事実上の賃労働者たも賃機屋が存在した事実上の賃労樹者たる
賃機屋が容在したが︑とれを
a q
て直接生産者を各自の作業場
で働かせつつ彼等を原料製品市場の両市場かあ遮断じて被等を
.
事実上の賃労働者たらしめ︑しかも彼等相互の問に分業と協業
との関係を実現しようとするととろの﹁分散的マニュアァグチ
{註 一一 六︼
ュア﹂であると考え・られ︑或は又﹁製織工程そのものすらも外
業部としての賃機に任おることにより白己のととろへは雄経営
及配給事務所だけが残るような織元の場合︑一日明︑見わたせる
集約的な工場は消失しているけれど︑織一万が賃機の機具そのも
のの所有者でもある以上︑マニュファクチュア生産として本質
{鮭 二七
dの上で何等相違しない﹂とし︑或は又﹁直接生産者のもとに広
汎に展開されはじめ集中的マニュブァクチュアを圧服するため
に商人が領主との結合においてとづた手段が分散マニュファク
チュアの広汎な展開だヲたのであるから︑分散マニュファケ千
ユアなる事実は集中マニュファクチュアの事実を前提としない
A註ご九)で考えるととは少くとも幕末の日木の場合には不可能である﹂
としても︑結局は﹁分散的マニュ﹂は﹁問屋制工業の一発展形
円正 一一 九︼
態にすぎないのであり﹂その大部分を次第に問屋制度の中に分
解せしめ︑従って桐生織物業における工場工業の展開は︑先進
国による外的な促進のもとに問屋制資本が主導的陀産業資本代
転化するという非自生的な方法によって行われなければならな
戸詳 三
OV
かっ
た﹂
とい
う
ζとができょう︒とのことは新たな史料K
よっ
て
確められるべき問題であるとしても︑その後の発展の方向と仕
方をみても推測できるのではないかと考えられる︒けだし﹁商
業が如何なる程度まで旧生産方法を分解せしめるK
至る
かは
︑
旧生産方法の堅固さと内部的組織の如何とに懸る︒そしだ旧来
明治以降における桐金融業の生態構迭と技術 の生産方法に代って如何なる新生産方法が現れて来るかということは︑商業
懸るζとではなく旧生産方法そのものの性質のw h
門誌 一三
︼
如何に懸ることである﹂︒事実上の賃労働者は封建時代の君臣の
関係でもって分散的
κ
自己の作業場Kおいて事実上の生産者に 隷属し︑且つ又との事実上の生産者κ
しでも︑江戸京都等大都市の問屋から糸代金と称する商業資本の前渡を受け註文に応じ製
品を送りその問の口銭を収める中央商業資本の支配を受ける買
{誌 一三 一
V次商であったり︑或は又嘉永二一年の所謁越後事件K見る買次仲
間の江戸県服問屋方
κ
一ヶ年五十両宛の越意金を出して屈伏しなければならない買次であり︑又とのような買次商代対して︑
︻哉 さ一 一
V絹代金の後払註文売をしなければならない織元であヲたりした
ので
ある
︒
商業資本は生産方法を変化せしめるのでなく︑むしろ寄生虫
として生産方法
κ
密着しこれを悲惨ならしめ剰余労働の全部若しくは一部を︑同様に空た生産諸条件そのもの(これは名目上
他人の所有物として彼
κ
対立しているとはいえ﹀の一部を制援するに至る﹂のである︒われわれは以下の行論にとれをみるζ
と陀
する
︒
(註
ご信
夫組
問一
一一
郎﹁
近代
日本
産業
史序
説﹂
一一
一頁
︒
(設二)﹁桐生級物史﹂(以下織物史)上二八買︒
(註
一三
﹁級
物史
﹂上
二一
一一
二員
︒
(設四)﹁御言例﹂の由来は諸説あるがその大体は家康が臥ケ
原大勝に際し桐生が燦将一(千四百十疋(一戸一一必宛﹀絡出
二八
九
明治以降における禍今一時業の常一輝語塾と竣術 し竿を共に献上したに姶まる︒川叫京市﹁
i御吉例﹂として緒︑し
ない竹を献上することに土って特典を得たのであるが︑そ
の特典の︑玉なものは付一克線十一年の改判精液止︑待費歴十
年の結運上琢治︑品門天明一芯年賀野一改昨則投資中止︑同門諾役免
除助郊軽減等である(﹁織物史﹂上︑五回頁︑﹁桐生地方史﹂
一五
支七
出品
J照)︒この﹁御台例﹂が市民にとづて実際にどれ
ほ ど 効 果 的 で あ っ た か 明 ら か で な い が
︑ 幕 末 に 至 る ま で
﹁御言例﹂の文字が一議願書に見えているζとは桐生織物の
性格︒一端をうかがえるものである︒
(詰五)金約化は疋保一一立中一般的には貨幣経済の浸透に主つ
て︑又現物上納の際諸雑費の農民負担の節約の意味で開始
され仕ものであるが︑実際はこれに主り境問日と称する江
戸市場における般物売価と就に定められた換算率によるも
のとの差額︑印ち中崎潤啓一必に付永一白一一一十五文︑下絹や定に
つき永百五十文宛都合二千四百十疋永一ニ百捻七賞百五十文
が櫓徴さかたので
I 2 る ︒
{設六)﹁群馬県本一糸業沿革調査委﹂参照︒
(註七)天保六年機良企︿婚求書一J
織﹃
物尚
武﹂
中一
五頁
︒
(設
へ)
一﹁
網毛
織物
市民
﹂﹁
物人
史
ι
四九
︒貰
(詰九}﹁織物史﹂上︑一一一二一頁︒
(設
一
O)
土日陣脊殺﹁日本資本主義史論集﹂二九二貰︑
(諒一一)﹁織物史﹂上︑二一一へ一具︒
( 数 二 二 信 夫
﹁ 前 編 番
﹂ 一 へ 賞
︒
一 七
O
(設一一三︐へ了翠の生産力は一台一日十六時間運転して縞物 苧均二百反を得ることはむヴかしく撚教が不延液ハ一一一百五 十の撚にサし百一一γすの開裳あり)であ明︑又細い詩撚を撚る
ことが出来ず︑仏月捻のみで洋式(アメワカ式悌式)に比す
れば醤劣るが従前︒紡事にぬしその能率ロ﹁比殺すぺ︿も
な︿﹂優秀であった︒{群馬県織物現況調査喜六九頁参照u
(註一四)レ1‑
一以
﹁ロ
γ
アにおける安本主義の発達﹂六一一一
一
( 註一 二 一 五
忠 き )
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崎 ユ
一
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(註
一二
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一七
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史﹂
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五頁
︒ (註てへ)問右︑五︑一一一五五頁参照︒
(詰プ九)同右︑上︑九人実︒
( 諸 一 一
O)
同右︑上︑一ニ六
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一 員 ︒
(註一一二同右︑上︑コ一六九頁︒
(諒
一一
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(註
一一
一一
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前掲
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一四
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一五
一長
︒
(設二四)﹁織物史﹂上︑四五四!四七間賞︒
(詑二五)同右︑中h
一七
頁︒
立臥二六)堀江英一﹁近代産業史研究﹂一三一実︒
(計二七)服部之総︑信宍清三郎﹁明治染織経済由民﹂一一一二九二
実︒
信夫済一一一郎﹁日本に冶ける近代産業形成の問題
L大
設一
一へ
)
(註
}一
九)
(詑 三
O)
(註
一一
一二
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三年
四月
一九
一一
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堀江
︑前
惜明
書四
五頁
︒ 信夫﹁序説﹂二八真︒
マル
グス
﹁資
本論
﹂第
一一
一容
二九
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以下向じ)︒
﹁品
刷物
・史
﹂点
︑一
一九
六頁
︒
同右︑上︑凶ニ二頁︒中︑五ニ五一良参照︒
(註
一一
ニ 一
)
( 註 一 一
一 一 一 一
本
)論
つ近代技術成立への前提
(ー〉
安政六年uH開港庁と共に︑我国一産業界は必然的に先進諸国の
すぐれた技術と接触せざるを得なくなりた︒との時日本の技術 は︑少くとも先進資本主義諸国のそれと︑完全
κ
百年の立ちお くれを示してhた︒これを兎服しない限り我国の近代国家とし ての諸国への対抗は不可能な事であった︒従って時の為政者︑特に維新政府は諸種の手段を用いてこの克服代力をそそいだ︒
そのあらわれは︑先ず明治六年のウィン万国博覧会への参一向 にみる事ができる︒参議大蔵郷大限重信を総裁とし佐野常民を 副総裁とするとの博覧会への参同は費用実に五八八︑一一一八一円 の巨費を投じたもので︑その目的は﹁御国天産人造物﹂を西洋諸 国に紹介し﹁貿易ノ稗益トナル﹂等の事を期待したが︑特代我が
明治
以降
にお
ける
網生
幡開
業の
主管
一構
語と
術技
国の﹁工術ノ未グ粗拙ヲ免レザルL時において︑﹁税ノ学雲ヲ採
取スルユ必要ノ人員ヲ精選シ又工業各科ノ学生及諸職工七十名 程募選シ︑之ヲ牟イテ此会ニ赴キ現地ニ就テ各専門ノ学術ヲ実 習伝習セシメ精良ノ器口問巧妙ノ機械等必要十ルハ之ヲ購求シ・:
・:現今数百万ノ士族総テ産業ヲ要スル際会ニ乗ジ各科ノ工業ヲ 速ニ御園内ニ伝播可致ノ方法ヲ設ケ﹂るととが﹁精々注意可致
事﹂ハ佐野常民上告書︑平山成信︑田中芳男﹁境問博覧会参一同紀
要﹂上巻一一
i
一一
点頁
)で
あっ
た︒
即ち
との
﹁参
同じ
は博
会覧
に 我国産品を出品ずることよりも︑西洋の近代産業技術の輸入を 主たる目的としていたという事ができる︒かくして佐野常民以 下外人顧問五名技術伝習職工二回名(最初は七
O
名の予定であ った)合計七十余名が参加した︒その結果﹃我国の錦会欄等ハ 色彩マタ頗ル佳ニシテ一種ノ風致アヮ︑商人ノ賞感ヲ得タリト雄モ
之ヲ
要ス
ルニ
⁝織
方宋
ダ精
十ラ
シズ
テ段
匹ノ
質平
滑ナ
ラザ
ハ︑
徒ニ過厚ニシテ多クノ人工ヲ要シ価備高貴︑就中泊京中力未ゲ良ナ
ラズ・採反ノ配合巧ナラズ此ヲ以テ彼ノ欧産ニ比スレバ数歩ヲ 譲ルアリ我日本ハ陵匹ノ原品タル糸ヲ産スルノ国ニシテ却テ彼 ヲ下ルハ慨ズベキナラズヤ﹂ハ紀要下一五頁﹀としてとこに技 術伝習新機械の輸入がなされた︒ウ博への﹁伝習職工の派遣は 其後の外間博への参同にもみられず︑ウ博へのそれは最初にし て最後の貴重なものというべきである︒製糸法の田中文助︑組 織訟の伊達弥助︑染法の中村喜一郎等繊維工業技術の他多くの 者が我国工業社会に新知識を輸入しだ︒との事を﹁新技術伝習
七
明治以降における桐生機業の生震構法と技術
ノ一事ハ当局者/頗ル苦心セラレシ所ナリ・::経費ノタメニ制あって︑後新町紡績所
k
b恒て用いられた屑来紡績機︑或はレ
セラレ︑充分ノ臼的7
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ノ成緩ハンズ等があるなかでも︑重要機械はバッタン︑金銭︑タャカ
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実 ユ 顕 著 ナ ル モ ノ ナ リ
﹂ と
﹁ 紀 要
﹂ は の べ て い る
︒ ド で あ ヲ た
︒ パ
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タン及び金銭は彼のケイが発明してより実に
ζの技術伝習と附随して新機械が輸入せられたととは勿論で一回
C
年を経ていたのである︒ζの織布工程における革命的機外 国 博 覧 会 参 問
︒ 表 ハ 枇 問 弁 時 冬
︑
七 第
一 表
﹁日本工業史﹂改経文庫版一五了i
一五
一一
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惇 期 万 年 間 博 念
万 国 博 博 : ) 克 博 淳 i亨 万 博
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号 室 空事 官 給
械の輸入一について︑同じく紀要は次の如く述べてその利用等及 の重要を説いている︒﹁彼/欧土ノ製糸所ニオケルヤ生糸ヲ製 ス庁ノミナラズ︑コレヲ重製シテ経緯糸等ニ用フル工糸トナシ 夜チユ織鳥ニ適セシムルナリ︑内地ユ於テモ又方法ヲ行イ内国
需要ノ口出ト輸出口問トヲ製スベシ我カ段匹ニ欠クトコロノモノハ
織法染法ノ全精ナラザルニ在リ︑西土ノ織法染法ヲ用アルトキ ハ︑南質平整徴密シカモソノ色久ジキニ耐ユ庁ノ利アルモノ多 シ︑ー宜シク彼ノ二法ヲ寂捨折衷スベシ︑コノ段匹ノ欧土ニ適也 ザルハ幅員狭ナルト采文/異ナルコトニヨル︑若シ織法勢方ヲ 改正シマゲ幅員7閥クシ︑コレヲ変ゼパ彼ニ一通スルモノハ必ズ 少ナシトスベカラズ︑コレヲ輸出スルノ益蓋シ大ナリ﹂ハ紀要
中第三五頁﹀と︒
斯の如く外国博覧会への参同は﹁日本政府︑信実‑一希望スル 所﹂の﹁国民ノ知所ト口問位トヲ進歩セシメテ日本将来ノ幸福ヲ 起サンコト﹂代充分なる成果があヲた︒かくしてこの﹁参同﹂
はその後機会ある毎代政府の努力に主り行われたが︑
4その主た
るもののみでも第一表の如くなる︒
右の如き外国博覧会への参同は︑一五う迄もなく維新政府の
上からのH新技術HHの普及開明のため盛んに行わ礼た園内博の
前提をなすものであった事は一五う迄もない︒政府はウィン博・
メルボルン博・フィラデルフ4ア博・なかんずくウィン博を模
範として第一回内国観業博覧会を明治十年内務郷大久保利道を
総裁として東京上野公開で聞いた︒ζの博覧会は総経費一二
明治以降における桐生機繋の生震構迭と設摘
二︑四一O余円を費し出品人数一六︑一七二人︑出品点数八四︑
一一
一五
一二
点と
い丹
当時
とし
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規模
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の内
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械の部では総数一一一一点のなかで紡織機械が六三点約一二O%を
占め︑山山口問者一四四名中間六%で他を抜いた重要性を示してい
る︒その中主たる新機械を紹介すると左の如くなる︒
臥雲辰致の綿紡機(明治九年完成)︒とれは﹁臥雲一氏ノ機ハ以
テ極細ノ糸ヲ製スルニ堪ブベカラズト蟻モ其数回ノ工程ヲ省ク ノ功験ハ一時欧米人ノ技巧ト併馳スト謂フモ亦殆ンド過称ニア ラザルガ如シ︒コレア要スルニ品開輪ノ配置猶少シグ風驚ヲ免レ ザルモノアリト蛾ドモ其緊要ノ装構ハ極メテ簡単ナルモノト謂 プベシ﹂として︑我国在来の産業機械の最初の機械化として最 高の鳳紋賞牌が受与された︒其の他信州上回の斎藤曲目右エ門の
発明した﹁水車機一基‑一紡錘四
QJ
三Oヲ呉ブ﹂とζろの綿紡
機︑或は泉川岸和田の外の同久馬が発明した﹁一人ニシテ一一人 半ノ功ヲナス﹂綿紡機が出品されたが︑織機についても当時輸 入額の第一位を示めていたととろの輸入綿布に対抗するために
縮機の改良発明が要求せられ︑特
κ
既に輸入機械綿糸の利用されている代︑おいては﹁機械機織業﹂の成主を必要ならしめたの は当然であった︒そこで東京興業社の﹁諸都鋳造ニシテ:::箆
マF 4 キ シ ン
/運
転︑
榎一
/巻
度︑
繁子
/製
作等
概︑
不完
全﹂
な車
転織
機︑
一コ
井 物産会社の﹁仏国ノ若爪徳機ヲ模造シ﹂た広幅織機︑足利の山 口重兵衛の水車織機等があらわれた︒
第一凪内国博はかかる状況であったが︑
﹁内田博覧会ハ本年
一 七 一 一
一
明治以降における桐生機業の生産構法と技術
ノ開設ヲ以テ第一回トシ爾後五年目毎ニ之7開設スルモノト
ス﹂をの明治十年の太政官布告は政府の博覧会に対する期待と
自信を表示するものであワて︑第二団内国博は明治十四年に開
設さ
れた
︒
ζの第二回内国博Kついては﹁前回ノ時ニ在テハ勤
農局ノ出品ハ米国製ノ機械ア直チニ出陳シタルモJ多カワシニ
今会ノ出品ハ一モ外国ノ製造ニ係Wモノ十ク︑前会ニ出シタル
米国製ノ機械ハ大抵模製シ得テ悉ク其作用ヲ成スニ至リシハ実
ニ製作上ノ進歩ト謂ブベク︑而シテ又一ノ原機械ヲ外国ニ購求
ジア千百機ア我邦ニ製出スルヲ得ルハ経済よヨリシテ頗ル許多
/国益ト謂ブ可シ:::︑是レ人民ノ機械ユ於ケル前会ニ比スレ
ハ幾分カ其思想ト製作トア進歩シタル徴候ト謂フ可シ﹂云六と
その審査報告は述ぺ︑特に紡織機械は第一回の出口回総数に対す
毛二二・二八%より第二回は五五・三%に増加しており︑その
問の博覧会の目的の成果と︑紡織工業の機械化の進行とを示し
てい
る︒
右のような維新政府の博覧会方式による上からの﹁新技術﹂
の導入普及は︑時に衣料生産部門においては︑円殖産興業﹂の
もう一つの環たる﹁官営事業﹂として経営された多数の官設紡
績工場の設立及びその払下げと対応して︑上からの衣料生産部
門総工程の機械化としてあらわれるのである︒
このように上から持ち込まれたd新技術・新機械グHH
下に
お ける在来の産業技術
κ
如何κ
現れたか︑又下からのそれに対する対決により日本の衣料生産部門が全体として如何なる方向を
一七
回
とったかが︑筆者の最終的課題であるが︑とこではなかんずく
桐生の場合︑︑││設国近代化の出発点︑ゴ二ファグチュアの
発祥地とされる桐生が如何K対応したかを考察する事托する︒
︑ ︑
f¥
ノ
いうまでもなく我国の織布工程の機械化は︑ジャカ
I
ド︑
バ
ッタンの移植によって行われた︒我国へ︑最初代入ったジャカー
ド︑バッタンは先述の通り明治六年のウィン博より佐野常民が
摸式
ジャ
bl
ド︑パずタンを購入し明治人午︑山下の勧業試験
場内に据付け同じくウィン博へ同行した伊達弥向かとれを運転
し︑其後との摸式ジャカ
i
ド廿八台並にパyタンの類は諸国へ貸し波されたが︑当時使用法会知るものがなかったので︑何ら
功を奏することができなかったという︒
ところが今一つ︑それより以前︑明治五年十一月京都府よ明
派遣された織物伝習生佐倉常七︑井上伊一千ハ職ヱ)︑吉田忠七
ハ器械工﹀の一ニ人が仏国のリヨンにて百ロジャカ
i
ド二
O
台 ︑
こ百口ヲャカIド二台紋彫悲一台バッタン二十挺︑広巾金筏五
十枚を購入七年四月間かれた第二回京都博覧会に出品紹介し︑
八年には京都二条河原町の織工場ハ明治十年織殿と改称﹀Kて
諸国の伝習生に新機械の操従法を教授した︒この織工場のジャ
ヵ
l
ドは同工場の識物伝習生が模遣し︑明治十年遂に百口︑二百口ジャカlド各一台を製作し︑第一回内国博氏三井物産会社
より二百口を︑又荒木小平の名で石口を出品し十三年に商障の
機業家佐hA木清七が荒木小平のジャカ
IF
を購入︑我国最初のジャ
カ
1
ド使用工場となり︑十五年には同じく京都府より派遣 せられた織物伝習生近藤徳太郎がリヨンより帰朝︑はじめて完 全な使用法を伝え︑十六年にドピlを同じくリヨンから取寄 せ︑とれ又荒木小平が模造した︒荒木小平はとの他仏国製の紋
彫器械をも模造している︒
(織工場)には既に﹁仏式ノ織機七十余基ヲ備へ西陣ノ工人 盛ニ織製ニ従事﹂ハ第一回内国勧業博覧会第四区機械五九!六
む頁υ
し近代的工場の展開を示しているし︑又当時神奈川県多
摩郡小比企村において白綾織にジャカ
I
ドを使用している︒即ち﹁
自綾
織小
型紗
綾ハ
家製
ノ島
田糸
デ用
ヒテ
経ハ
一一
線︑
緯ハ
一一
一
線ヲ紡合シ共ニ之7練兵一一上セ紋織手織ノ二法トモ慣用ノ旧機
ニ仏国ノ新機ヲ折衷シテ織ルナク︑市シテ新機ノ如キ之ヲ旧機 ニ比スレハ︑澗幅ノ紋採ヲ織ルニ最モ軽便でンテ︑第一人カヲ 省キ第二細密ナル花式ヲ織リ出スニ難カラス︑第一一一織地ト花式 トノ分界判然トシテ乱レス︑旦ツ花紋ノ様式戸混一スルノ憂ナ シ︑故ニ先ツ一種ノ紋機ヲ総ンニハ︑所好ノ式形ニ応シテ数孔 /牌片ニ穿チ之ヲ多小連接七シメ以テ織機ノ上方ニ装貼ス︑之
ヲ若瓜徳氏ノ制式ト一五ブ然シテ其之ア運転スルニハ︑一個ノ牽
挺ヲ用ヒ勾組側セ片品糸ニ由リテ経糸ノ提起スヘキ作用ヲ発シ︑
随ツテコレヲ去来一一打撃ス︑凡y運車ノ勢此ノ郊キ者︑一人ニ シテ之ア使用スヘク︑其上下ノ進退モ亦甚タ速カナレハ織成ノ 事推シテ知ルヘシ﹂ハ第一回内国博出品解説第二区製品第八類
明治以降における稲生機業の生産構濫と技術
蚕糸
織口
問一
九頁
UAに一のる︒一方パッタンも又西障の長谷川政
七
κ
よって模造され︑はじきH揺として用いられ︑西南戦争の軍服紺無地小倉織地に適用され︑十一年Kは永井喜七の嬬子に
使用され︑一パッタンは酋俸の木棉織から使用されはじめた︒
かくの如く︑ジャカ
l
ドもバッタンも先ず京都西陣を中心として各地
κ
普及するのであるが︑その普及口をなすのが第一回 の内国博であったという事ができる︒かくして西陣を始め各機 業地はとの新しい技術をもって︑明治十年以降の好況
l i
西南
戦争による物資の消安︑インフレ
l
シ自ン︑米価の騰貴は明治 六年以降の地租改正に裏付けせられ農村地主階級代大きな好況 をもたらした︒との事は地主階級のための絹織物の未曽有の好況をもたらした︒そのピ
l
クは
明︑
治十
三年
であ
る
llk
対応して斯業の一大発展をみるげである︒
ではこのよ号な動きは︑当面の問題である桐生の場合は一体 どうであったのだろ号か︒以下︑相生におこるとの好期への対
応をみてみよう︒
桐生の場合︑それそのものとしでの︒技術μの輸入は決して
他よりおくれて新しい事ではない︒即ち慶応二年には桐生町の 岩下才助︑小林芳蔵が買次商佐羽吉衛門の輸入した西洋染料紅
合計二)
粉紺粉の二種を自家織物に使用したらしく又ウ
4シ博氏薄暁踊
を出品有功︑賞を受けた註原点蔵は早くから輸出絹織物に着目し
明治五年渡米の佐羽士口右ヱ門を介して外国製の力織機を購入し
水車を原動力として製織したが試用結果不充分のため中止して
一七
五
明治以降における桐生機業の主意構造と授術
{誌回}いる︒とれらの事はが新技術MHは当時の桐生では未だ合く不要
であった結果
κ
外ならない︒それでは桐生へのグ新技術HHd
の導入は何時だったのだろう
か︒
桐生
K輸入された機械を年次順
κ
示せば第二表の如くなる︒ド メ
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品主 主 本 主 主 若 者 カ 原 山主主山若者岡山構君事国野山│開
織 俊 才 都 嘉 1、 森 嘉 , 倉 伝 ! 入 貞 物 吉 署 直 四 兵 横 巌 太 平 幸 安 十 七 芳 a 議 会 員E六 主 室 長E 衛
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lJ六郎衛七平郎見詰千置士
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米 リ 白 米 京 工 芸 霊 白 米 荒 閏 銘 ド 母 国 ヨ 裂 国 都 夫 周 袈 P 国 U 木 博 一 川 下
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木 走 査 米 二 喚 米 { 格 製 悌
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紋 年 裏 口木
問 主 義 木 一 小
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一七
六 との表を見ると明らかな如く︑柄生ではジャカードは二十年.
代まで実質的には殆んど用いられておらず︑との機会}使用する
λ
的知﹁暁天の星の如く誠に微大たるドもので﹂(金子堅太郎視
察談あった︒とれはジャカ
l
ドと技術的に切りはなせないピ
ヤノマシl
ンが一九年米国より始めて直輸入されているととに 工つでも号な︑すかれるし︑バッタンに至つては︑既に明治九年 頃代は京都織殺から奥羽仙台︑福島︑川咲地方氏伝えられてい るにもかかわらず︑ずっとおくれて十六年以後代桐生
κ
入って
いるととは︑その桐生の旧来の機構の竪さを物語るものであ る︒要するに桐生の部分工程への機械の侵入は明治二十年以降 になるのである︒従って栴生は他の機業地が
d新技術MHを導入 して対応したととろの明治十年初の好況を全く旧来の︑つまり 江戸時代から伝来のままの技術で対応した事になる︒との事は 桐生の他の機業地
κ
対する立ちおくれを決定的なものとするの であるが︑その事は測の機会代述べる事κ
ずる︒
桐生は西南役を機とし明治十三年をピ
1
クとする織物界好況の波を他の機業地のよ号
κ H
新技術H
M "
による対応をしなくて︑
ただ旧来の技術のままでの生産の︑好況期における粗製乱造を 防止する事Kよって対応したにすぎない︒即ち︑﹁:::産山山ノ 多キ日ニ増シ月ニ加ゥ︑巨万ノ反数ヲ製造スルニ乗シ︑近来乱 製粗造ノ弊ヲ生シ︑甚シキハ擬色等ノ物ヲ正口問ニ相混シ一時世
人ヲ肢惑スルニ杢ヮ︑立山為有名物産ノ口問位ヲ失庇ノミナラス他
ノ地方ニ於テモ桐生織ノ名ヲ以テ粗悪欠尺ノ物口貯ア造リ売買ス
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本 岡 生 8 本
織 品 織 機
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サル
所以
也﹂
(桐
会生
社規
則)
とな
し︑
自主的統制機関として桐生会社を設立し証紙を製品κ貼用して その信用の維持κつとめた︒ちなみに明︑お十三年の証紙売捌高
八一
七︑
一一
一一
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︑明
治十
四年
七
O
六︑
一六
O
枚であり反物一反帯地一筋κ証紙工業を貼用することになっていたから︑その統 制機関内の生産高をはかり知る事ができる︒証紙κは赤・黄・
茶・緑の間色あり︑赤色を最上等糸質組織染方とも精良を尽し たる稀疋口同氏貼用し以下順次黄・茶・緑κ及び︑緑色は木綿織
入及二等染のものに貼用するζとになっていた︒上記証紙売捌数の内緑色(最下等のものU
証紙
が総
数の
七割
三分
(十
三一
年﹀
であり︑十四年には七割八分を占め︑最上等赤色は十三年に
明治以降における栴生機業の生震構法と授術
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・六七%︑十四年には
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・七凶%κすぎず︑当時の桐生織物 の一般的品質の程度を知るととができる︒
ζれが好況期水対する桐生の対応のしかたであるが︑今一っ
それを示すと左の如きがある︒明治十三年好況期の頂点
K桐生の梅田村で世
名主役を奉じてきた門閥旧家の青木熊太郎は桐‑ R
生織物が粗製品迭に流れ︑その信用をおとすのをうれいて成愛 社をおとした︒桐生における本来的マニュファクチュアの先端 を切?たとの会社は︑二八年代は機数八六台︑蒸気機関二基三
A佐七}
︒馬力︑水車一基一馬力︑職工二二五一人を有する大工場となっ たが︑その創立当初κおいては︑十八︑九年外国製ロ
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設置し仕上行程比機械化を試みたのみで︑その織布工程κおい
ては︑ジャカ
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ドの採舟を必要とせず︑すべて﹁普通機械﹂で あづえし︑又十五年山出村に機屋星野伝七郎︑岩崎丑蔵(世
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名主)高草木兼太︑買次商佐羽士口右エ門ハ郷土級﹀木村半兵ヱ (名主の子﹀等によって設立された縮縮会社
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台 の機械を有し︑旦つ出機十九戸︑機数二百余ム口︑其職工五
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名をもっていたが﹁洋式機械なぞ一台もなく織機は全↑部倭機﹂
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要するに桐生はこの工うにd新技術
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ただ若干ばかりの合理化によってこの好況に対応したのであ
る︒然し︑との報いは当然の事ながら時を接してやってきた︒
十一一一年を頂点とする好景気も十四年後の政府の紙粘整理増税等
により反動的陀不況期を迎えた︒その頃まで桐生綴物は︑壁千
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