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漢隷の成立

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Academic year: 2021

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佐 

野 

光 

一  

はじめに 皆様こんにちは 。私は國學院大學に来まして三十四年目なんで す。今日この席には大先輩が何人かいらっしゃいますし、また一緒 に教育大時代に学んだ仲間もいます。それから、若い新進の人達が いる中で書について楽しく話すのは嬉しいことです。僕は、隷書が ただ好きで、ずっとそれを見たり書いたりしてきて、その中で感じ たことを、ものにもしてきたんですが、どちらかと言うと、突き詰 めてやると疲れてしまう方ですので、たった一人でこっそりと楽し んでいるのが好きみたいなものでした。今日は、話が硬く細かくな りすぎて皆さん退屈になるかも知れません。 千字文に﹁初めを篤くすれば誠に美なり﹂とあります。この後の 画面には、私が七巧板で作ったものが出てきます。趙之謙を一番理 解していたのは、西川寧先生だと僕は思っているのですが、趙之謙 の七巧板の直弟子は僕しかいないと思っています。 ﹃二金蝶堂遺墨﹄ にたった一点だけ、趙之謙が作った﹁山中多白雲﹂という作品があ ります 。﹃書道大字典﹄を作っている時に 、この本が編纂室にあり まして、伏見冲敬先生や北川博邦先生が帰った後に、僕たちはそう いう本をこっそり一生懸命見るんです。自分のところにはないもの ですから。そうしたら、七巧板で作った作品﹁山中多白雲﹂が出て きました。何だこれは、と思って見た訳です。しかし、後ろの落款 が読めなかった 。そうすると次の日北川先生が来て 、﹁ 何 、こんな のが読めないの﹂とか言って説明して下さって 、﹁ああそうか﹂と 理解しました。そして ﹁七巧板やったことないの﹂ とか言われ、 ﹁い や知らない﹂と答えたら﹁俺の同級生は、皆名人だよ﹂みたいな話 になりました 。恐らく七十五歳前後の人は 、 七巧板の遊びを沢山 やっていますが、戦後生まれの僕らはやっていないんです。でも今 は百円均一店でも売っていますし、修学旅行で旅館へ行くとよく置 いてありますので、僕は時々これをやっているんです。 ︵画面に映している額について︶真ん中の書は 、書道の先生ば かりですからわかると思うんですけど、七巧板で﹁遊学﹂と作って あります。この﹁遊学﹂という言葉は、落款に書いてありますよう に、北川先生が國學院を去る時に、作品に書いて学生に示されたも のです 。北川先生は 、書道研究会の合宿で ﹁学問を苦しんでやろ うとするやつは馬鹿だ﹂と言っていました 。﹁学問に遊ぶことこそ 面白いんだ﹂と 。﹁学問に遊びなさい﹂と言うのですけれど 、学生 講  演

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は何を言われているのかよくわからない。僕も最初はわからなかっ た。本当に遊ぶというのはどういうことか。款には﹁神を学圃に遊 ばせ、意を文林に楽します﹂と、格好つけて北川さんが記した語と して書いてあります。僕なんかは、ここ二、 三十年学生を見ていま すと、僕らの世代もそうだったのですが、学問というものを、自分 のために段々やらなくなっている。私はこういうところで発表する ようなことは、全く今までなかった。学生を見ていると、本当に自 分のために学んでいるんだろうかと思うことがよくあるものですか ら、今日は、最初にこの﹁遊学﹂という言葉を示しました。どんな 世界でも、すごく大事じゃないかなって思っています。随分前に七 巧板で作ったもので紹介しました。 画面下の聯 [図 1 ] は、皆さんご存知の呉昌碩が篆書で﹁金石楽、 書画縁﹂と書いた作品を元に制作したものです。この中で呉昌碩が 好きな人は、元の対聯作品がすぐに頭に浮かぶと思います。それを 元に七巧板で作ったものです。これを最初に作った時は、余り上手 くいかなくて、次に五、 六年して作った時はまあまあ上手くいった んです。しかし、まだ気に入らない。でも﹁書画縁﹂の﹁画﹂とい う字だけは趙之謙の作品の真ん中の﹁多﹂の字に負けていないくら い良く出来ていると思っています。すぐに出来る時には、一文字に 付き一、 二分で出来るんですけど、たった一字出来ない時は一時間 くらいかかるのです 。 それでも出来ない時はまた次の日もやるの で、意外と時間がかかります。普通、七巧板は動物を作ったり、数 学の面積を求めたりする幾何の為のものですけどね。草書を一生懸 命やる人や、或いは仮名をやる人、もちろん平仮名でも作れますの で紹介しました。 こういう遊びを何年もやっていると、物を見る見方が変わってき ます。私も当初、隷書を真正面から見ていたのですが、そのうち正 面から見るだけではダメで、斜めから見たり、後ろから見たり、逆 さにしてみたりしました。篆刻もやっているものですから、そうい うふうに見る見方も大事だと感じ、懲りずにずっと隷書を見ていま す。最近は、 出土量が多く、 僕の方が追い付けません。今日の話は、 だいたい三十年間隷書と付き合ってきて、どういうことがわかった か、または、どういうことがわかっていないか、ということが話せ ればいいかなと思っています。 それでは、前置きが長すぎました。目次にはいっぱい書いておい たんですがこんなに出来ません。どんどん端折って、最後の重要な ところを、今まで作った資料で話そうと思います。秦の始皇帝と秦 篆、秦隷との関わり、或いは隷書から兄弟のように出てくる漢代の 草書について。もしくは漢代の隷書、つまり西川寧先生や西林昭一 [図 1]金石楽書画縁

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先生の言うところの八分、それがどのように完成するかという話に なります。 一  近三十年、隷書変遷の認識 ここのところ三十年の隷書変遷の認識というところです。これに ついては、高校の教科書を比べて見るとよくわかります。私が東京 に出てきた頃は、高校の教科書に隷書がどう成長し成立していった かということは、書いていなかったんです。当然です。わからない のですから。資料がなくてやりようがなかった。ところが段々それ がわかるようになってきて、そして、高校の教科書にも、ちらほら と出てくるようになる。そうすると、出版社によって表記の差が出 てくるようになる訳です。つい昨夜、一番新しい高校の教科書を見 ましたけど、やはりそこには、編著者の認識の差が歴然と表れてい ました。 西川先生の﹃著作集﹄中に、天漢年間の簡牘に関する跋を漢文で 書いているものがあります。つまり、天漢年間の木簡に、漢の中期 に八分があることがわかる、というような内容の跋を西川先生が漢 文で書いている。ですから皆さん、漢文の跋も読んでいないとそう いうことが、わからないんですよ。でも、西川先生が生きている中 は、いい資料がない訳ではなかったんですけど、それを突き詰める ことが出来なかった。私の先生もそれは出来なかったんですね。そ れは時代が限るところです。 私がなぜ隷書を好きになったかというと、卒論を何かやらなけれ ばいけないという時、当時は字書作りをお手伝いしていました。伏 見先生に﹁先生、どうして隷書が出来たんですか﹂とお尋ねしまし たら 、先生 、はたと困ってしまいまして 、撫然とした顔で ﹁わか らないね﹂って言うんです。いろいろ言いたいことはあるんでしょ うけど、こんな学生に言ってもしょうがないと。先生がわからない のならば、私が十年か十五年やったら少しはわかるのかなって思っ て。それが今に繋がることになった訳です。なぜ隷書になったかは わからないんですが、どんな具合に隷書になってきたか、というの はこの三十年間の間に随分詳しくわかるようになってきましたの で、その辺のところをお話ししたいと思います。 日本では隷書を扱う先生が大勢いますけれども、古い方では、伏 見先生や西川先生の書かれたものが主です 。三 、 四十年前ですね 。 最近では西林先生がおられます。西林先生の﹃中国書道文化辞典﹄ 、 あれには隷書という項目を一段以上使って丁寧に書かれています ね。用語の説明から始まって、歴代こういうふうに伝わっていった という話があって、そしてその成長について、具体的な作品を挙げ つつ、これはこう、これはこうと。なかなか賢いやり方でして、さ すが西林先生と思います。前漢の資料を挙げて、これくらい隷書ら しさが出てくるとかですね。前漢の終わりの方を挙げて、これくら い完成していると。真ん中は飛ばしているんです。流石です。それ が非常に慎重なんです。西林先生はあの辞書を作られた時には、そ れが一番いい書き方です。学問というのはわからないことはわから ないということで伏せておくことが重要でして 、つい僕はこう思 う、などと想像のことを書いてしまいがちですが、そこがなかなか 難しいところです。ところが、 喋る時と、 書く時とでは別ですので、 一生懸命聞いてくれていると、つい自分の思っていることを喋って しまい、ちょっと言い過ぎた、みたいなことになるのです。今日も そうかも知れません。

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中国の学者がどう考えてきたかということになりますと、私の学 生時代からは 、やはり ﹃文字学概論﹄を書かれた裘錫圭先生とか 、 その前にも唐蘭先生他、大家がいっぱいいるんですけど、隷書の完 成について決定的なことを言っていない。そういう中で、裘錫圭先 生辺りが、三十年くらい前に﹁遅くとも昭帝宣帝の際には完全に形 成されていた﹂と 。これくらいのことしか言っていないんですね 。 これがさっきの西林先生の話ではないですけれど、一番新しい言い 方だった訳です。私も﹃木簡字典﹄を作った時に、ああ流石だなあ と思いました。じゃあ、これをどういうふうにもう少し細かく、い つ発生し、 成長し、 完成すると言えるんだろうかと考えてきました。 敦煌居延から出たもの、或いはその後、新敦煌、新居延と、また他 にもいい資料が出てきたんですけど、紀年のあるものが少ないんで すね。それを学問的にもっと細かく見るには、やはり確実にこの時 代に書いた、と言うことが必要になります。旧居延や旧敦煌簡のも のですと、後から書いたものがあるのではないかと言われたら、ど うしようもない訳で、ものによってはそういう風に、数年後に記し たものもある訳です。木簡学が深まるとともに、だいたいこの時期 に書かれたものだろうと、言えるものが多くなってきまして、それ で漢隷の成立というのも 、前漢時代のものは沢山出るようになっ て、なんとかいろいろわかるようになった。というのがこの三十年 のことですね。 秦の始皇帝時代、或いは、前漢初期のものは沢山出てきたんです けれど、確実に武帝時代のものというのはかで、なかなかしっか りしたものは出てこなかったんです 。ただ 、雲夢秦簡の出土以降 、 またこの十年間は 、いいものが出て 、今はいい状況になってきて います。私もすぐに飛びつけばいいんですけれど、年をとってくる と、若い頃の三分の一くらいの仕事の速さでしか追いついて行けな いんです 。これからは資料のいいものが更に一杯出てきてですね 、 いろんな角度からそれを分類して、研究出来ますから、若い人には そういう方面も頑張ってほしいと思います。 先程 、中国の学者の考えがいくつかあると言ったのですけれど 、 これも学者や大学の系統とかで微妙に異なり、また先生、大先生の 考え方の違いによっても少しずつ変わってきます。国家の威信をか けて作る大きな ﹃ 美術全集﹄ ﹃書道全集﹄が出ると 、 だいたい漢の 武帝の前後をどう考えるかという点について、最小限に書くように はしていますけども、微妙なズレが生じています。 例えば、馬王堆学の権威の陳松長先生なんかは、書体、書風の分 け方が僕らとは違い、馬王堆から出たものを中心に考えられていま すから、まずは三種類、篆書体、古隷体、隷書体というふうに分け るんですね。そうすると、一番新しい老子乙本も、隷体という。こ れで隷書が完成ですよ、みたいなそういう考え方です。今はどうか わからないですけど。そういう考えで論を進める。 それに対して李学勤先生のように、もう少し甲骨や金文から幅広 く見えている人は、あまりまだ言わない方がいいんじゃないのとい う姿勢となります。又別の先生は慎重で、漢隷の成立について、王 莽の頃と書かれているんですね。それに対して若手がどんどんでて くると、手放しでいろんなことを言うんです。その論文もまた、そ れはそれで面白いんですね。若手なのに嫌に慎重なのもいれば、若 手なりに言い過ぎているのもいる。当然のことですね。最近の中国 から出ているもので、隷変や隷書に関わる専著が出ていますが、そ ういうものを見ていくと、資料も多く出てきて、いい時期になって きたなと思う訳です。恐らく、後十五年くらいすると、もうちょっ

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と武帝時代のいいものが、一つ二つ出てきて、中国では、説が一つ にまとまるような気がしますね 。で 、それに負けないように 、 日 本でも隷書をやっている人たちが、認識を同じように持って歩んで いってくれたらと思います。 二  秦篆と隷書の認識 これから、隷書を話す前に秦篆の典型的なものと、秦隷の典型的 なものを見ておきましょう。画面でスライド式です。典型的なもの を六種類くらいずつ挙げたんで、ちょっとそれを見ていきます。 その前にこんな画面が出てきましたが [図 2 ]、これは北川先生 からバトンタッチで書道演習の授業をやった時の資料です。私の演 習では、必ず書体変遷表を作ってもらっていますが、これは四年か 五年くらい前に学生に作らせたものです。これは誰でも持っている 字書、つまり普及版﹃角川書道字典﹄を用いて、時代順に典型的な 字を並べたものです。でも、この真ん中の時期がすっぽり抜けてし まう。そりゃそうですよね。もう三十年も前に作られた字書ですか ら。抜けて当たり前。それで、この三十年間の間に作られた、雲夢 秦簡の字書と、馬王堆の字書、それから銀雀山の字書と、私の普及 版﹃木簡字典﹄でここを補いなさいということで作らせました。一 番上が正式書体の移り変わりです。一番下には草書を置くというも のです 。しかし 、学生はなかなか草書がわからないので置けない 。 なんだかよくわからないのは真ん中に置いておけということで、と りあえずやらせる訳です。前期の授業では、文字を並べるだけで精 一杯なのですけれども、後期になると、日本の奈良時代から鎌倉時 代までの文字もこれに合うように並べさせています。演習の基本的 な第一歩です。 ちょうどここ図版中央が武帝の時代です。文字学の方では、古代 書体の時代と近代書体の時代がどこでわかれるかということが考察 されていますが、まさにこの武帝の時代で分かれる訳です。秦隷と いうのは古代書体です。秦篆の補助書体ですから、古代書体に入る のですね 。構造も秦篆を元にして書かれています 。それに対して 、 漢隷からは近代書体ですね。今日の話は、近代書体がどう成立した かということでして 、一番大事なところです 。つまりこのことが 、 今わかるようになってきたということですね。最初僕は、秦隷は相 当簡略になっているので 、これ隷書じゃないの 、だから近代書体 じゃないのと思ったのですが、秦隷は古代書体です。その見方が最 も大事なところです。 例えば﹁天﹂という字は、古代書体では五・六画です。篆書の筆 順で考えてもわかりますね。しかし、近代書体になると、現在のよ うな四画になります。画数が違いますので、誰が見ても歴然として いますから 、古代書体と近代書体との境目がわかります 。それか ら﹁月﹂なんていう字は単純なようですけれど、実は結構面白い字 です。甲骨文では、側面形を象っているんですが、これが楷書にな ると、なんと左回りに九十度回るんですね。こういうことは、今ま での書道関係の人は余り考えてこなかった。僕なんか七巧板をやっ て、いつもクルクル回しているものですから、漢字の移り変わりの 中で 、ある特殊な部首というのは 、左回転するのだとわかりまし た。左回転で九十度回る﹁月﹂は面白い。もう秦の時代には、九十 度回っている訳です。 昔、今井凌雪先生と一緒に、最初大学院で郭沫若の﹁古代文字の 弁証的研究﹂を読みました。その中で、新しい書体が出てくるとき

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には、それを補助する書体があるということを郭沫若が書いている のですが、今更になって、ああそうか、そういうことって重要だな と思いました 。﹁月﹂なんかは 、こういうふうになってくる中で 、 秦の始皇帝時代にはもうきちっと、回っちゃっているんですね。こ ういう細かいところも実は大事なんですよ。 例えば﹁好﹂という字の﹁女﹂は、女性が跪く形で、赤ちゃんが いるような形です。この形がどんどんと回ってくる訳です。古隷で は四十五度くらい回っている。漢隷になると完全に九十度回る訳で す。漢隷では、偏旁が逆になっていたりするのも面白いんです。つ まり﹁女﹂が九十度回ったということが隷書の完成であると言える でしょう。 ﹁月﹂と ﹁女﹂の字があったので例を挙げた訳ですが 、今までの 学者はそういうことに気が付かなかったということですね 。でも 、 こういうのも何かやっていると変なことにも気が付くものです。 皆さんにお配りしたプリントは 、対聯になっています 。﹁水上よ り風来たり 。天中月好し 。﹂という文句です 。この ﹁水﹂という字 も、単独では縦に流れていた縦長の﹁水﹂でしたが、次第に圧縮さ れて、横広になっています。武帝の時代に変わる訳です。 ﹁上﹂という字の場合は 、東周時代に縦画一画が増えるというの は 、 ご存知の通りです 。﹁風﹂という字は 、秦隷の雲夢簡では 、上 下の結構でした。古代書体では縦長だったものが、武帝期より横広 になるという、基本的なことがここではっきりわかりますね。 次は﹁来﹂という字を見ましょう。私が学生時代に伏見先生から 聞いた話をしますね。王羲之の書いている十七帖のこの﹁来﹂とい う字が、楷書の字形からは到底考えられないような字形のため、質 問しました。すると先生は﹁佐野君、草書を勉強する時は、篆書を 勉強しないとダメだよ﹂なんて言われまして、僕は何言われている のかわからなかった。しかし先生はそれしか言わない。それで、よ くわからないまま僕はとりあえず章草を習った。すると、当時二玄 社にいた山中卜鼎さんに ﹁ 君 、変なもの習うね﹂と言われました 。 褒められたのか 、注意されているのか当時はわからなかった 。で も、これをやっていたことが後にすごく役に立ちました。 ﹁来﹂は 、秦隷ではこういうふうに書くのが当時の標準書体です ね。篆書の形は書くの大変ですから。六画で書く ﹁来﹂ という字は、 ほとんどこう書いています。それを連続すると、今草と似た形にな るんですね。伏見先生がおっしゃられたように、篆書の速書きの古 隷から漢の草書が出来ている。典型的な字で説明すれば﹁天﹂とい う字もそうです。説明するのに便利な字ですね。最初、草書を勉強 するのに、王羲之の草書は必須ですけど、併せて篆書を勉強しない といけない。 ︵一︶秦篆 ︻秦 䨨 玉版︼ [図 3] この図版は 、見たことがない人もいるかも知 れません。近年発見された面白いものですね。ここには秦 䨨 の玉版 と書いてあります 。 䨨 は固有名詞でして 、秦の王の誰に当たるか というのが問題です 。李学勤先生なんかは恵文王と言い 、紀元前 三三七年から三一一年にかけて、要するに戦国後期の中晩期と言い ます。戦国後期始め頃の篆書の典型的なものです。こちらの写真版 は、玉に朱で書いてあります。右が甲版、左が乙版。全く同じもの が二つあるんです。実はこれじっくり見るとすごく面白いです。も う隷書が出てくるんですね 。隷書が五つ六つ 、ちらほらと出てく る。しかも、こちらは丁寧に書いているけど、二回目は書記官が別 の人なのか、面倒なのか、右下がりに書いているんです。私は、雲

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夢や里耶の秦隷が出てきた時に、右下がりのめちゃくちゃな字が一 杯出てくるのを見て 、﹁何これ南方の様式 ?何だろう﹂と思ってい たんですけど、そうではない。秦の紀元前三一〇年前後には、こう いう様式がある訳ですね。これが後の八分に成長していく時にすご く大事な訳です。右下がりの様式っていうのは、紀元前三〇〇年頃 からあって 、これを丁寧に書くと水平垂直になる 。急いで書くと 、 右下がりになる。一本の簡でも、上の方は丁寧に水平垂直に書いて いるけれど、真ん中を過ぎて下へ行くと、行けば行くほど右下がり になっています。学生が見様見真似でやったらそうなるんじゃない かとも思う。当たり前のことですが、そういうふうに簡牘に書くん ですね。このような様式が、実は字を変化させていくんです。 ︻商鞅方升︼これは皆さんご存知の 、昔からある秦の商鞅の方升 ですね 。これは年代でいうと 、孝公の時ですから紀元前三四四年 。 ここに十八年とあるので、作られた時がわかるものです。これ小さ くて、全然拓本がよく見えないので、最初は僕も注目していなかっ たのです。しかし、天来書院で本を作る時に全部骨書きしてみたと ころ﹁すごいなあ、小篆じゃないか﹂と思いました。始皇帝よりも 百年近く前にこんなに綺麗な小篆があるのだと実感したことを覚え ています 。これをものすごく拡大して書くとわかると思うのです が、非常に釣り合いの取れた綺麗な小篆ですね。ただ、始皇帝の 䇒 山刻石や瑯邪台刻石のようなかなり信頼のおけるものと比べると 、 まだ水平垂直の表現が緩やかです。これには、これなりの美的意識 があるんですね。 ﹁臨﹂という字は 、ここに二つ ﹁口﹂が見えて 、もう一つあるの [図 3]秦 䨨 玉版 上海博物館蔵朱書 秦䨨玉版

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かないのかよく見えません。 ﹁臨﹂ の ﹁口﹂ の並び方が面白いですね。 これも金文からの流れで、どのように﹁口﹂が並ぶかという視点が 大事です。 細かいことですが﹁為﹂なんていう字を見ると小篆と言ってよい 形ですね 。﹁為﹂という字は 、甲骨文 、金文 、小篆と時代をしっか り見るために便利な字なんです。象の鼻がどうなっているか、象の 耳がどうなっているか、象のがどうなっているか、それが、時代 によって方向が全部変わってくる訳です。よく﹁何とか式漢字の覚 え方﹂で﹁馬﹂は四本足があるから四つの点があると言っているの は全くの嘘です 。最初の二本は足で 、後の二本は尻尾なのですね 。 それは﹁馬﹂にしても﹁象﹂にしても皆そうです。実はこういう象 形の字は、隷変を見るのにすごく便利です。 ︻商鞅戟︼これは先ほどのものと同じく商鞅の戟です 。これはタ ガネで彫っていますので直線的です。小篆でもいろいろあって、先 ほどのもののように微妙な曲線で作るものや、このように直線で彫 るものもある。これは隷変していません。隷変しているとか、民間 の字だなんて言う人もいますけれども 、非常に腕のいいものです 。 直線的な表現でいい字ですね。 ︻秦杜虎符︼これが出たのはいつだったか 、学生時代より後に出 てきました 。初め出てきた時は偽物じゃないかと言われたもので す。最近は、本物としていいのかなということになっています。杜 の虎符ですね。いろいろ意見がありますが、杜というのは地名です ね。恐らく紀元前三三七年頃から三二五年頃のもので、戦国末期の ものと考えられています 。普通の虎符や 、僕らが知っているもの は 、右から左に書かれますが 、これは左から右に彫っていますね 。 これは確か、池袋サンシャインでの展覧会でしたでしょうか。そこ に本物が来ていましたので、僕も二回見に行って来ました。上部が 全然写真に写っていないものですから、会場で見てメモを取りまし た 。 ここが 、割り符にする部分で 、一ミリか 、 〇 ・ 八ミリの穴が空 いています。ここでピタッとくっつける訳です。非常に精密ないい ものですね 。﹁ 啋 ︵也︶ ﹂という字は 、石鼓文の字を使っています 。 さっき出てきた、秦 䨨 玉版では、隷変したような形でしたね。ここ では典型的な秦篆です。 ︻秦封宗邑瓦書︼ [図 4 ] 近年出てきたもので 、これも知られたも のです。臨書してみると、秦の始皇帝時代の権量銘と似た雰囲気で す。非常に縦長でスマート、足を長くしていて、秦篆の理想像がよ く出ています 。﹁為﹂という字を見て下さい 。このように鼻があっ て 、顔があって 、耳がある 。﹁為﹂を時代を追って書いてみると 、 これがどのように秦の始皇帝の小篆に集約されていくかというのが わかるのです。なかなか面白いですね。ここでは直線と曲線を両方 併用して丁寧に書いています 。﹁以﹂なんて言う字は 、もう偏旁の 字になっています。省文や繁文の問題も注意していかなければいけ ませんね。石鼓文ではまだ﹁人﹂に従わない形でしたけれど、ここ では、もう﹁人﹂に従う字となっていますね。古い文字は、このよ うな着眼点も必要です。 ︻新 郪 虎符︼これは戦国末期の文字ということですが 、非常に美 しい小篆ですね。 ﹁必﹂という字だけが欠けていますが。先ほどの、 杜の虎符にも似たところがありますね。私は、よく説文に出てくる 篆書をウノミニ信じてはいけないと説明する時に、この虎符を例に 使っています。 甲乙の﹁甲﹂を見て下さい。一画目に点がある説文篆文は、後の 時代の字を勝手に持ってきて、漢代の篆書を作っているということ

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がわかります。ここの ﹁皮﹂ という字も、 金文の形を受けています。 説文篆文の﹁皮﹂では何だかわからない。それよりもこちらの方が 正式だということです。こういうものを丁寧に習っていくと、所々 に面白い点画があります。 ﹁会﹂なんていう字も、説文篆文は﹁甘﹂ に従っていますが、こちらの方が綺麗ですね。ちょっとしたもので もしっかり習っていくとそういう説文の良いところ 、悪いところ 、 隷変した成分のあるところもわかってきます。 ︻秦虎符︼これは同じく虎符ですが 、皇帝とありますから 、統一 した後のものです。有名なものですね。これも世田谷美術館の展覧 会に来ていましたね。僕も二度見に行きました。厳正でなかなかい いものですね。 ︻秦権量銘︼最後が権量銘です 。おそらく一九七五年頃に出たも のでした。近年出土したものの中では、最も美しい秦の始皇帝時代 の小篆です。刻石は、 なんかこう無表情な冷たい、 あるいは荘厳な、 人を寄せ付けないようなところがあるのですが、権量銘は、生き生 きとしたところがあります。縦画の膨らませ方とか、引き締め方と か 、非常にセンスあり綺麗です 。それに対して 、二世皇帝の方は 、 急いでこう滅茶苦茶にやったようです。これはこれで一見下手にも 見えますが、よく刻してあるものです。権量の銘の中で名品だと思 います。美しいものです。 以上が秦篆です。学生時代には秦の始皇帝が統一して、秦篆が出 来たと教わっていたのですが、最近の考古学では戦国末期、始皇帝 よりも百年近く前に成立しているということが、いろんなものを見 てわかってきたということですね。ですから、始皇帝の文字統一と はどういうことだったのか。もちろん最近は、戦国時代の楚の竹簡 が沢山出ていますから、あれはあれで、もの凄く大事なことですけ [図 4]封宗邑瓦書

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れど、現実の正式な書体は、秦の統一よりも百年も前から相当完成 したものがあったということを頭に入れていなければならない。そ れでは、その補助書体としての秦隷は、どういったものだったかと いうものを次に見ていきます。 ︵二︶秦隷 一 ︻四川青川木牘︼ [図 5 ] これは最近十年くらい 、秦隷の最も古い ものの一つの代表とされるようになった青川木牘です。私の学生時 代ですと、高奴権の﹁奴﹂のオンナヘンが隷変していると、郭沫若 が言ったことが参考にされたものです。この牘は、紀元前三〇九年 のものです 。秦の武王二年 、裏側に四年と書いてある 。ですから 、 書き手は違うんですが、裏側の方を信じると、数年後ということに なります 。この簡牘の中には 、内容は律令でそれも面白いんです が、隷書の﹁簡・連・省﹂と言いますか、文字の変化、簡略化、連 続、或いは省略が出てきている字がいくつかあるんですね。 例えばサンズイの字を見てみましょう 。﹁波﹂という字では 、サ ンズイが三点になっている 。また 、﹁津﹂という字もサンズイは三 点に書いています。サンズイが、古代書体では五画で書いていたも のが 、三点で書かれるようになる 。誰が最初にやったのでしょう か 。これだけでも突き詰めていくとなかなか面白い 。先輩の岡本 苔泉先生が﹁七﹂という字が秦の始皇帝時代から、後漢までにどう 変わったか 、その形の変化を卒論にしていました 。それを伏見先 生が話しておられました。岡本さんは、随分細かいことやっている のだなと思いましたが、私もそのようなことをいつも疑問に思って いました 。﹃木簡字典﹄を作る時にも注意してこの字を見ていまし たら、 ﹁十﹂と﹁七﹂の関係はなかなか面白いなと思ったものです。 時代の指標になる訳ですね。長さや筆順とかも時代の指標になる訳 です。そういうことで、このサンズイの篆書が、たった三画で書け ばいいと最初誰がやったかを考えることは面白いことです。紀元前 三〇〇年前の秦の国では、このように書いていたということです。 次に、点画の連続という視点から見てみましょう。この字は、僕 らが見ると一瞬 ﹁六﹂ みたいに見えるのですが、 ﹁大﹂ ですね。 ﹁大﹂ の頭から腕の部分を一画で連続している。三回くらい出てくるので すけど 、皆こう書いている 。ですからこういう連続っていうのは 、 この当時一般的なのですね。それから、点画の省略もいろいろあり ます 。そうですね 、コザトヘンは 、甲骨文や金文では 、﹁コ﹂のよ うな部分は三つあるのですが、いつ二つになるのでしょうか。なか なか隷変の中でも面白いものですね。先ほどの﹁月﹂なんて字がこ こにも出てくるのですが、もちろん回転していますね。挙げれば切 りがないですけれど。ただ全部の字が、そういう秦隷のような字に なっているかというとそうではない。まだまだ、かなりの字は秦篆 [図 5]青川木牘

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の形で書いている。ただ、この時期からはっきりと連続、簡略、省 略という隷変の要素が入ってきます。この書風は、なんかこう、ず んぐりとした書きぶりです 。これは南から出てきたものですから 。 もちろん、点画の混んだ字は、縦長にもなってきています。隷書の 資料としてじっくりと見ていくとよい資料ですね。 ︻甘粛天水放馬秦墓竹簡︼甘粛天水から出たものですね 。最 近 、秦の始皇帝前後のこういう秦簡というのは 、 山ほど出てきて います 。なかなか細かく丁寧に臨 䇭 したりしていくといいですね 。 ちょっとだけ気がつくのは、右払いや左払いが、随分と縦方向の垂 直なリズムになっていることです 。秦隷に見られる払いのリズム 、 そういうものが随分出てきているのが一見してわかります。 ︻睡虎地秦簡︼これは 、私が学生時代に出てきた睡虎地の秦簡で す。睡虎地秦簡は、伏見先生もいくつか気がついたことを書いてい ましたので、僕も注意して習いました。國學院のオープンカレッジ では、 何度も丁寧に習いました。これは ﹁為吏之道﹂ と言いまして、 役人はこうでなくてはいけないというようなことが書いてありま す。当時の識字の教科書でもあったかも知れません。なかなか内容 もそれなりに面白いものです。書法は、非常に謹厳に書いていると 思うのです。その中に、今言った秦隷としての簡・連・省があちこ ちにあるのですね。ただちょっとモコモコとしたところがある。僕 なんかは石鼓文が好きで書いていますので、石鼓文みたいなところ もあるのだなあと思っています。 今言ったように、簡・連・省が沢山ありますので、これは秦隷で すけれども、篆書に近い隷書と言えますね。僕たちが行書を書く時 に、楷書に近い行書、草書に近い行書、というように使い分けて書 いているようなものです。補助書体ですから自由自在なところがあ る訳です。所々省略したり、連続したりしながら丁寧に書かれてい る。手堅い丁寧なテキストとしてのものですね。 ︻效律︼ここでの着眼点は 、始皇帝の名 ﹁正﹂の字をどう書いて いるかです。避けずに書いていますので、始皇帝が在位する前のも のと考えられます 。文章の内容からもそう考えられます 。文字は 、 縦長な外形の字がいくつも見られます。左右結構の字でも縦長です ね 。これは当時の正式書体の小篆の理想像で書いているからです 。 でも、一気に直線で書いたり、上部を連続して書いたりもしていま すね。ということで、ある部分はスマートな黄金分割を目指し、あ る部分では連続したり、簡略化したりしているということです。秦 篆としての典型的な形を使いながら、一部は隷変した形で書いてい ます 。﹁馬﹂という字は 、石鼓あたりに比べると 、方正で四角い感 じがよく出ている。これが足でこっちが尻尾です。これはもちろん 顔です。こういう変化を見ることが大事ですね。 ︻語書︼ ﹁廿年四月丙戌朔﹂と書いていますね 。統一の直前です 。 これも何度も習いました。上からのお達しで、丁寧に書かれたもの ですが 、やはり隷変が相当に進んでいる 。例えば 、﹁之﹂という字 が何度も出てくるんですが、縦画の省略が見られる。文字の上部を カットしているんですね。小篆の上の部分を全部カットして連続し て書いている。このように、合わせ技でどんどん隷変が進んでいる んですね 。﹁止﹂もそうです 。それから篆書というのは 、点がない のが基本ですが 、点のような主張が出てくるのは面白いですよね 。 また、句読点の符号があるもの見逃せません。 図版の冒頭﹁丁亥﹂の﹁丁﹂は、釘の頭みたいに縦画が出てきて いますね。これも押さえておきましょう。こういう肥筆の字の変化 というのも注目に値するものです。ここでは﹁月﹂という字はもう

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左回転しつくし、真っ直ぐに書いていますね。 全部の字を見て行けばよいのですが、これらのように特徴的な変 化がある字をどんどん見て、時代性や書かれた背景を考慮しつつ判 断するということが必要ですね。シンニョウもここでは秦篆の止の 終筆を右に伸ばした秦隷の普通の形が見られました。 ︻陰陽五行甲本︼ここからは 、馬王堆の資料です 。これは馬王堆 の中で一番古い資料と陳先生も言っています 。陳先生の分類では 、 篆隷という項目ですが、 どうでしょうか。確かに雲夢の ﹁為吏之道﹂ に近いような風格があります。竹に書いたものと帛に書いたものの 違いというのはあるんですが、均整が取れていて、左右の分間布白 で書こうという姿勢が伺われる 、馬王堆の中では古い書風ですね 。 甲乙丙丁の十干十二支がありますので、十干十二支表を作ることが 出来ます。最近いい字書が出ていますので、それを用いて正確に時 代順に並べて十干十二支表を作ってみると結構発見がありますね 。 ここでは 、﹁丁﹂の縦画はこんなにも長い 。楚の国から秦国に入る と、だんだん長く出すようになってきたのか、などと考えるのは楽 しいことですね。 ︻五十二病方︼陳松長先生は ﹁古い書風で篆書の構造が相当残っ ている﹂とおっしゃっています 。けれども 、オープンカレッジで 習った限りでは、用筆法は別のものですね。秦の始皇帝以後の新し い隷書の筆法を駆使して書いているんではないかと僕は考えていま す。 最近の子供達の手習いは、半紙に四字書きで楷書を教えますけれ ども、本来楷書というのは正方形の中に書くものです。それがどう いう訳か半紙四字書き。そうすると縦長な楷書を強いているんです ね。そうすると横画を太く書かないといけなくなる。古法ではない 訳です。隋唐の古法ではない。だから六字書きで教えればいい。四 字書きで教えると、無理なことをやっていることになるんです。こ こでも同じことをやっているんですね。無理に篆書もしくは秦隷風 の字を縦長に入れようとしている 。黄金分割の中に入れようとし て、横画を太くして、そして縦画を細くしている。そうすると接合 部分をどう書かなくてはいけなくなるか。ということで、外形と用 筆法の関係について触れました。 ︻戦国縦横家書︼今残っている縦横家書で 、蘇秦の伝などの内容 もなかなかに面白いものです。これも今言ったように、非常に縦長 で小篆風に書こうとしていますので、一見、小篆風です。陳先生は もしかしたら篆隷の中に入れているかも知れません。しかし、筆法 はものすごく進んだ秦隷方式です。均整のとれたこういう様式の中 でも、非常に研ぎ澄まされたいい字だと思うんですね。僕は個人的 には秦の始皇帝時代の在位頃のものではないかと思っています。そ んなことまだ発表出来ない、勝手な想像です。 ︵三︶秦隷 二 ︻法律答問︼これは 、雲夢出土の中で一番平なもので 、隷書っ ぽい。まるでレンガを横に積み上げたような外形ですね。つまり僕 らが乙瑛碑とか礼器碑を習う時の比率 、一対一 ・ 六くらいの比率で 積み上げていく。それで字間を半字くらい空ける。そういう書法で 隷書っぽい圧縮した構造になっている。圧縮と言いますか、真ん中 は圧縮して、上下を断ち切る構造です。一番秦隷の進んだ形のもの で、内容は法律の解釈です。例えば、夫婦喧嘩をして、旦那が女房 の耳を傷つけちゃった。この罪はどうなるかというような。日本で も随分研究されています。 ︻馬王堆帛書老子甲本︼また馬王堆の資料が出てきました 。老子

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甲本ですね 。これは私が秦の隷書を書くのに 、 今井先生に習った 時、これから入ったものですから懐かしいものです。どうしてこん なに右下に引っ張るのか 、と思っていました 。上部の字に対して 、 下の方の字は、右下へ右下へという力が働いています。一字一字も また、左は軽く、右は重くという、この時代の一つの美意識みたい なものが見られます。それが漢隷に引き継がれていくのですね。 ︻馬王堆帛書老子乙本︼これは馬王堆の中で最も進んだ隷書でし て、漢隷に近いものです。先ほどから言っていますように、陳先生 は 、もうこれは隷書だと言うのですが 、﹃若木書法﹄に発表してき ましたが 、丁寧に見ていくと 、まだ隷書とは言いにくいものです 。 それは 、四字に一字くらいは 、篆書の構造が残っているからです 。 パーセンテージでいうと、二〇∼三〇パーセントがまだ篆書の筆順 が残っています。つまり筆順、構造、用筆法、結構に、篆書の要素 が残っている。秦隷の最後、当時の秦隷として最も研ぎ澄まされた ものです。当時の常用書体であり、しかも最も美しいものの一つで すね。ですから補助書体と、正式書体をどう考えるか、ということ とも関連してきます 。時代によってどんどん流れが変わっていく 。 その中で研ぎ澄まされたものを見て 、考えなければならないので 、 単純には結論が出せないんです。 例えば ﹁ 曰 ﹂の縦画を上に出すというのは篆書の書き方ですね 。 それがいつ一気に円転するかというのが大事な問題です 。﹁貴﹂と いう字は、まだこの部分が残っていますね。端々に古い構造が残っ ている訳です 。挙げ出すと切りがないのですけれど 。﹁也﹂ ﹁好﹂な どを見ると 、秦隷は時々大胆に長く強調する画の見せ場がありま す。秦隷としてしっかりそれを守っている。漢隷になるともっと控 えるようになる訳です。控えるというか、別の表現になる訳です。 例えば﹁立﹂という字の上部はまだ篆書の構造ですよね。一点を 書いてから横画を書く形ではない 。老子乙本を書いた人は 、﹁立﹂ の上部を﹁﹂のように篆書で書く古い形をとっているのです。そ れから ﹁数﹂ なんていう字もそうです。西川先生が病床のベッドで、 この﹁数﹂という字を歴代の字と比べるということを﹃書品﹄に書 かれていましたよね。 ︻湖北江陵張家山漢簡︼これは張家山漢簡ですね 。全然写真が見 えなくてすみません。飛ばしましょう。前漢のものです。 ︻虎渓山前漢簡︼これは西林先生の二玄社の本です 。さすが拡大 版、迫力がありますね。原寸で見ていた雰囲気と拡大するのとでは 全然違う。錯覚というか、違ってくるのですね。こういうことも実 は大事で、実際に大きい字で習うと、習いやすいですけれど、原寸 の方をどう考えるかの方も実は大事です。原寸大でものを考えると いうことは、実に大事ですね。 ここで見られるのは、外から内に巻き込むリズム、或いは内から 外に解き放つリズム、非常にリズミカルです。まるで仮名で言うと 関戸本古今集みたいなリズムでどんどん書いています。個々の字に ついては完全に隷変しているものもあります。 次に、クニガマエをどう書くかという視点ですけれども、ここで は篆書様式で外から内に書いています。子供の﹁子﹂も、手を全部 ちゃんと二本書いている。このように所々に篆書の書き方がまだま だ残っている。八分の技法が進んでいるところがあっても、文字を 作る時の篆書の構造が個々に残っている。これからどういう風に発 展して行って 、漢隷になるのかという視点が大事です 。﹁来﹂とい う字はここでは古い形、篆書の形が使われています。 ︻山東臨沂銀雀山一号漢墓竹簡︼銀雀山の竹簡ですね 。これは日

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中国交回復の時に 、 田中角栄が周恩来から孫臏兵法のテキストを 貰ったということで有名なものです。当時、出版されて世界中で習 われた。僕も一生懸命習いました。前漢中期にこれだけ平な字が 出来ているなんて。 ﹁也﹂という字を見てみましょう 。平仮名の ﹁や﹂と同じじゃな いかと当時私は驚きました。秦の始皇帝の﹁也﹂と違うなと。秦の 始皇帝時代の ﹁也﹂は引っ掛けがないですから 。速く書くために 引っ掛けが新たに付け加えられた 。いつ加わるのかが重要ですね 。 ここだけでも、時代順に並べると面白いかも知れないですね。ノギ ヘンなんかも隷変しています。これは武帝の初期のものということ になっていて、漢隷の成立を考えるに当たって非常に重要な資料と なっています。 ︻西漢竹書老子︼ [図 6] これはごく最近出てきて 、北京大学が手 に入れた、前漢の竹書で老子ですね。膨大な量が出てきて、つい去 年か﹃書法叢刊﹄に出た。間も無く老子が大冊本で出版された。巨 大な本でして、僕の本棚には入らないんです。 竹書第二本目の裏側に﹁老子上経﹂と書いている。道徳経という のですが、徳経、道経の順に書いてある。馬王堆老子乙本も同様で す。この北京大学が手に入れたのも﹁上徳は徳ならず﹂と始まって います。老子乙本と似たテキストで、しかも傷んでいるところがほ とんどない。九十何パーセントくらい完全な状態でしたので、僕は 早速飛びついて、去年オープンカレッジの授業で上経を全部書きま した 。実にいい字です 。一見すると 、もう漢隷が完成していると 、 一瞬そう思いますね。僕もそう思いました。でも習っていくと、全 然異なる考えに至ります。篆書の筆順のものがものすごく多い。そ ういう意味ではものすごく丁寧に、篆書を知っている人が、謹厳な 秦隷の法則で書いているものです。ただ、字形はかなり平化され てきて、漢隷の基本技法は、誰もが使えるようになって来ている時 代なのだと感じます。この人はちょっと、古風な字で書いている訳 ですね。ですから骨格は秦隷で、篆書のように整えている。 例えばクサカンムリは 、最後まで丁寧に六画書いています 。﹃ 若 木書法﹄には詳しく書きましたが、武帝の時代のものということに なっています。武帝の中頃か、或いは後半か。古い篆書を書いたら 上手く書けるような人が、最新の隷書の技法で丁寧に書いたもので しょう 。﹁無﹂という字の下部は 、篆書と同じ六画で書いています ね。ここでは、隷変した後の形、レッカのように四点にはなってい ない。しかし﹁為﹂という字は四点になっています。これは、今日 お話する﹁点の独立﹂ということにも関わります。時代別けをする に当たって、見るべき字がありますので、注目すべき資料と言える [図 6]西漢竹書老子

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でしょう。 ︵四︶漢隷 ︻安天長漢墓木簡︼ [図 7 ] これを最初に見たのは ﹃中国書法全 集﹄でしたでしょうか。びっくり仰天しました。武帝の末年のもの です。図版の上部に書いてありますけれども、戸籍の郡ごとの報告 書です 。﹁算簿﹂と書いてありますが 、タケカンムリが隷変してい ますね。内訳の字を見ても、秦隷の字がかなりなくなっている。こ れだと武帝の終わり頃が漢隷の完成かなと思いました。これについ ては、字書を作りまして、こと細かに点画を見て﹃若木書法﹄に発 表しました 。僕らが普段書いている乙瑛碑や曹全碑のような 、そ ういう仕組みが成り立っているということで、私は、恐らく武帝の 終わり頃には、漢隷が完成していたと証明する資料になると考えま した。 それを書いた後、西林先生が次の年に二玄社から、例の﹃簡牘名 蹟選﹄を出した 。﹃名蹟選十一﹄で 、これよりもっといい写真が見 られます。この写真は、西林先生の本から持ってきたものです。き れいな八分もあれば 、 こういう右下がりの秦隷の様式もある 。 波 磔が見事ですね。点画の連続があり、場合によっては点画の省略が ある。ここの出土資料は、正式書体と補助書体があって非常に幅広 い。西林先生の解説では﹁多彩である﹂と言っています。秦隷のも のから、 八分のもの、 そして章草的なものまであり、 真に多彩です。 折角字書を作ったので、草書っぽい字を全部並べたところ、前漢 晩期に完成していく基本的なことが、少しずつ、了解して書かれる ようになっていると感じます 。漢代の草書の成長は 、 武帝の末年 に、成長が速くなる。成長しているのが見える。ここの資料は、三 つの書体を書き分けているのです。 ︻敦煌漢簡︼これはまた古い資料で恐縮です 。西川先生が先に見 られた、天漢年間のものと同じく武帝の末年のものです。この﹁大 始三年﹂というのはその頃の資料でして、当時はまだ、これが本当 に大始三年で良いのかどうかと、田中東竹先生もいろいろと言われ ていました 。でも今見ましたように 、天長前漢簡 、武帝末年の頃 のものが新たに出てきますと、武帝末年の頃にはこのくらいの字を 書いていたと信ぜられるようになりました。でも所々は秦隷的で太 く書こうとしていたり 、肥筆にしたりしています 。﹁無﹂の下部が ﹁木﹂のようになる姿が残っていたりしますね 。だから 、一層信じ られるのです。古い秦隷的なものもある。でも様式は、ほとんど漢 隷になっていますね。ということで、初期の漢隷というのはこのよ [図 7]安天長漢墓木簡

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うなものです。天長出土の算簿の方は、随分とシャープに作ってい ました。 ︻遺詔︼ [図 8 ] これも最近出てきたもので 、前漢の武帝が亡く なった時の遺詔ですね 。ここまでが遺詔で 、ここからは手紙の文 句、これは練習したものですね。練習した書風ですから、武帝が亡 くなって 、どれくらい経ってから練習したかが問題にもなります 。 敦煌の成立や歴史的なことを考えると、武帝の遺詔が中国中に伝達 されて行って、地方の役職がどんどん写して、その写しの字を敦煌 の役人が書いたものでしょう。しっかりした内容も面白いし、字も いい 。内容を読んで行くと 、本当に武帝の末年の哀れさを感じて 、 司馬遷の﹃史記﹄と比べて読んでしまうのですけれど、感慨深いで すね。この字は、さっき出てきた大始年間の簡とか、武帝末年の年 代のある簡と書風も近いですから、私は、漢隷ってどんなものかを お話する時には、この資料も一応使っています。 ︻居延漢簡︼これも同じく居延から出てきたものですね 。昭帝の 始元という年号が綺麗な隷書で書いてありますね。武帝末年、次の 昭帝辺りの典型的な漢隷です。 ︻居延漢簡︼これは次の宣帝ですね 。宣帝になってくると 、華麗 で華やかで非常に美しいです。元康年間のものですね。この辺りの ものは最近高校の教科書に挙げられるようになって、前漢の終わり には美しい八分が、盛んに行われていたということが書かれていま す。誰が見ても美しい。地方の辺境の兵士も、こんなに美しい字が 書けたのですね。 ︻武威新簡︼これは新の王莽の時代のものです 。学生時代に僕も 習ったのですが士相見礼です。儀礼の初めの所を伏見先生がご自身 で復元されて、 中国書道史の時間に持って来て見せて下さった。 ﹁先 生これどうやって書いたのですか﹂って聞くと﹁砥の粉を塗ってか ら書いた﹂とか面白いことをおっしゃられたのを覚えています。 その前に武威の儀礼の復元を発表したのは唐蘭先生だったでしょ うか。紐が付いていなかったので、復元して付ける訳ですが、その 綴じ方は、 先頭 ︵右︶ から綴じて行き最後 ︵左︶ に結ぶ方法でした。 しかし後に大庭脩先生達が、そのような方法は、どんどん書き足す ために最後を空ける帳簿の綴じ方であると断定された。中国の複製 本なども書かれている内容に関わらず、最後が綴じてあった。お土 産物もそうでしたね。 ︻急就編第十四觚︼これも八分の美しさを知るために大事ですの で 、私は毎年学生と一回習います 。急就編第十四です 。﹁四﹂は横 画四本ですから、王莽の時代に書かれたものです。非常に研ぎ澄ま されたいい字ですね 。最近では急就編の実態がわかってきました [図 8]遺詔

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ね。上部には紐を通す穴があるんじゃないかと思っていますが、写 真ではよく見えません。 これは一度、本物が日本に来たのかな。学生の前で何回書いても わからない部分があった 。﹁先生これどうやって書くんですか﹂と 質問されても、わからなかったですね。特にこの字﹁兇﹂の字です ね。全然写真では見えなかった。ところが展覧会に本物見に行った ら見えるんですね。感激して、これはこう書いてあったと、偉そう に学生に言いました。何十年も書けなかったのですが、やっぱり実 物を見ると解ることもあるものですね。 ︻急就編第一觚︼これも誰もが習ったことがあるものです 。伏見 先生も復元していました、急就編第一觚です。三角柱の上に第一と 書いてあって、ここの穴に紐を通して腰に下げたり壁に掛けたりし たのでしょうね。三面体に書かれている。これも日本に来たことが あるんですが 、残念ながら正面から写真を撮ったものばかりです 。 展観していた時は、西川先生もお元気でしたから、誰か西川先生の 御弟子さんが先生こっちから写真撮ったらどうですかと言ってくれ たらよかったのですが 。誰かイギリスかフランスに行く人は気を つけて見ていて、写真を撮って下さい。曹全碑に繋がる美しい隷書 です。 三  隷書の特徴 ここから十五から二十分、またつまらない話になります。隷書に ついて気が付くことを一つ二つ挙げてきました 。戦国時代の晩期 、 紀元前三〇〇年頃から秦隷がずっと続いているんですね。それがい つ漢隷になるのか、という重要な問題ですが、これについては前後 の資料を基に推測するしかない。そんなことで、今日皆さんのお手 元に ﹃若木書法﹄に使った資料をお配りしています [図 9 ]。最初 に、どんな資料を使ったかを説明します。 一番上段は﹁文帝﹂と書いてあります。これは馬王堆老子乙本で す。次の段﹁武帝初期﹂は、銀雀山竹簡、文物出版社から出ている 字書の文字です。銀雀山の資料というのは、先ほど例に挙げた西林 先生のお話にありますように、多様性が出てきています。ここに挙 げる用例の片方は丁寧で、偏平なものです。もう一方は、補助書体 で縦長で、点画をぴったりとくっつけていないようなものを挙げま した。丁寧なものとそうでないもの、二つ挙げるようにしてありま す。一番下の四段目は、今見てきた新の王莽の儀礼です。そして三 段目に武帝晩期の資料を挙げてあります。ここに﹁玉﹂という字で 示してあるのは、西域玉門関の意です。武帝の遺詔の字です。新し い敦煌漢簡です。 ここで秦隷から漢隷にどこで一番変わるのかというのを見たい訳 です 。上段に見るべき項目が書いてあります 。細かく分析すること になります 。僕はずっとこうしてきたという見本みたいなものでし て 、興味のない人にとっては退屈かと思います 。よく書法を解説し た本に 、その書風を最も典型的に上手く表すものを二つ三つ挙げて 書いてあるといいのですけど、 いいかげんな字例のことがある。もっ とちゃんとしたことを言えよと思うようなものもある 。徹底的にこ のように見ていくと 、その中でどれが大事かということが解ってく るんですね 。そういう訳で 、若い人にはこういうことも重要です 。 三十年間つまらないことをやってきましたが、丁寧に見ましょう。 ︵一︶基本点画 僕の場合、学生に楷書を教えるときには基本点画は﹃漢渓書法通

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解﹄等を基にしながら、頁数でいうと五頁くらい教えています。永 字八法でいう八種類の点画それぞれを、五種類から十種類に分けて 教えていくんですね。学生にはもう本当に細かくて、申し訳ないで すけど、まあ、それくらい見えるようにならないと、美しく線は引 けないということなんですね。昔の人は皆それを一生懸命書いてい た訳です。 ︻横︼これは典型的な横画を見る方法です 。ずっと見ていきます と、 やはり漢隷というのは、 一番下の画を長く書いている。そして、 一番下の主画に波磔をつけている。波発のある主画は細い画に対し て三倍くらいの太さをつけているということです 。表の上段 ﹁乙 本﹂あたりは、確かに主画になっているんですが、一番の主画を助 けるために、他の画がそれほど動いていないですね。 武帝の晩期の字になると、長方形や単なる台形ではなくて、半台 形と言いますか、左側が垂直で上部が水平、右側が斜辺という、台 形の右側半分の形が見られます。時には左側に引っ張る台形もあり ます 。戦前は 、半台形っていう言葉を数学で教えていたようです 。 面積とかいろいろね、低学年辺りで。その半台形の形っていうのは すごく大事なんです。それが武帝の後半になってくると急激に成長 してくる。銀雀山ではまだまだ。老子乙本もまだまだということで す。今、外形のことに移っちゃったのですけれど、横画が主画にな るってことはそういうことなのです。 ︻竪︼ 縦画を見るとどうでしょうか。 ﹁乙本﹂ に限定のことですが、 縦画は垂直ですね。モンガマエも垂直です。柱なのですから。甲骨 や金文と同じです。ところが、銀雀山の頃からは少しカーブが見ら れます 。いや 、実は秦の雲夢にもあるんです 。ちょっと縦画を早 く書くために回していき、鉤をつけている。ですから、文帝時代の [図 9]基本点画

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﹁乙本﹂に対して 、外形が左右に展開している 。銀雀山の ﹁石﹂の 字だってこのようになっています。崖の形ですからね ﹁石﹂ の字は。 横に鉤をつけているのですね。このように、縦画に鉤をつけて外形 が左右に展開する筆法をここでは確認しました。 銀雀山の ﹁千﹂という字 、これはかに傾いているだけですが 、 実は八分で大事なところですね。学生が乙瑛碑や礼器碑を書くと縦 画が書けない。横画は一生懸命波磔を書くのだけれど、縦画の波勢 が見えない 。縦画にも波勢が入ってくるというのが実は大事な訳 です。 ︻ 䔧 ︼秦隷では左払いを長く 、最も強調して書くのですね 。それ を控えめにして、外形を横方向へ左右に展開するということです。 ︻捺︼右払いは、 ﹁乙本﹂が相当漢隷の完成に近いですよね。とこ ろが何が足りないかというと、右下に引っ張る力です。先ほど、半 台形と言いましたが、これは伏見先生が書かれたもので、曹全碑を 如何に書くかという解説にある言葉です 。﹁右下に押し潰したよう に﹂と、ものすごく上手いこと言っているんですね。文字の下部に 水平線を引いてみると必ず右下に飛び出てくる。これが漢隷の特徴 なのです。先に言ったように紀元前三〇〇年頃、秦の国から、右下 に引っ張る形が何百年も続いている。結局、漢隷は右下が重いとい うことなのです。シンニョウも皆、右下に引っ張っていて重いので す。これが、秦隷と漢隷の違いということなのですね。 ︻転折︼転折は筆順との関連がありますね。 ﹁同﹂という字のよう な篆書は、縦画が突き出る形です。古代書体とは関係ないようです が、それを連続して書くと、転折がこのようになります。この部分 が円転するのか 、方折化するのかという着眼点です 。実は隷書に とっては 、 左下を方折化するというのは 、非常に大事なところで すね。九十度以内にまで折り曲げてくる。それがどうゆう風にこう 九十度以内になってくるか。篆書ではそこを緩やかに曲げている訳 ですね。その違いは秦隷と漢隷の違いで大事なところです。 ︻鉤︼次は鉤です 。突っ張った画は 、古隷では主画になりますか ら、大々的にやる訳です。それを控えめにして、且つ横に圧縮して いくような表現が漢隷と言えましょう。 ︻腕捺︼隷書では 、楷書の腕も右払いです 。右に行って跳ねるよ うな形に書きます。それは古代書体ではありえない。古代書体では 縦画だったものを、右に回したりしていて、草書のリズムに繋がり ますね。それで、右側に流れるというのは波磔にも繋がるというこ とです 。これは秦隷と漢隷との決定的な形の違いです 。﹁九﹂とい う字なんかも、早い時期に腕になっている。画の変化は字によって 早い遅いがあるのです。 ︻点︼実は漢隷にとって ﹁点﹂はすごく重要です 。僕が今日ここ で、一番自慢したいことの一つなのです。篆書っていうのは、線で 構成されていますので、ピタッと接合するものです。ですから、線 を切り離せない。それなのに切り離して、短く点に書く。これが近 代書体です 。ですから 、﹁乙本﹂の ﹁為﹂という字では 、象の胴体 に足がピタッと接合していますし、尻尾もくっついているんです。 ところが漢隷になると点になります 。﹁点が確立﹂する訳です 。 ここで、古代書体と近代書体が分かれるんですね。秦隷までは古代 書体です。銀雀山は、なかなか面白いですね。このような視点から も 、武帝初期の銀雀山は 、両方の要素があり多彩と言える訳です 。 ここから、漢隷が成長する要素が生まれるのですから。 例えば﹁糸﹂という字は、ちゃんと結んでいないと解れちゃうの に、結ばなくてよいことになっていく訳です。この﹁点の独立﹂こ

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そが、近代書体の完成を示す一大要素ということです。誰も言わな いことに気がつくのは楽しいものですね。これに付随して、点画を 離すこと、又片方の画をピタッと接合しないで、どちらか突き出す ことも、近代書体の特徴と言えます。 ︵二︶結構法 [図 10] 次は形の問題ですね。高校の教科書はいつも、長い小篆が横広の 長方形になれば、漢隷と言う。一番わかりやすい。まあそれでいい のですけれど、もう少し細かく見ていくと、形は空間も問題で、い ろんなことを見ていかなければいけない 。僕が形を教える時 、楷 書を教える時はですね、明の李淳の法によって分類したものを学生 に見せるんですね。小学生でもわかるように、勝手に僕が並べ替え た。単独の字、偏旁の字、上下の字、内外の字とかですね。分けて 教えているのです。教室でやっていることを、古文字にも当てはめ て、すべての字をそれに対応して比較する訳です。 ︻外形︼単独の字は 、もちろん長短肥がある訳ですね 。縦長の 字が短くなる例を挙げましょう 。﹁十﹂という字は長く書けば 、 古 代書体、横広もしくは正方形に書けば、近代書体ですね。高校の教 科書でもそう習っています。銀雀山までは長く書いています。 次に ﹁偏﹂ の字です。左右対象ではなく、 偏っている字の例です。 特に近代書体になるとこれが甚だしく見られます 。﹁已﹂という字 なんかは 、もう最初から偏な字です 。﹁天﹂とか ﹁不﹂は 、小篆で は左右対称もしくは相称になりやすいのですね。それが隷書、近代 書体になると 、波磔を強調するために 、左を詰めて右を広くする 。 いろんなことを工夫するようになってきます。右下をちょっと重く して、均衡を保つようになります。 単独の字の外形は、古代書体では単純に長方形に書いていたもの [図 10]結構法

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が、隷書になるともう少し多様になってきます。 次は 、﹁上寛下寛﹂と書いてあります 。小篆で書くとさほど上寛 ではないものも、一画を長く書くと長方形でなくなる訳です。漢の 文帝の頃になると 、﹁食﹂の字などは完全に蓋下になっています 。 上が下を覆っていますね。ところが武帝の晩期ですと、完全に下が 上を凌駕している 。下を強調しようとして上を小さく書いている 。 これは新たな工夫ですね。新しく出てきた書体の、より波発を見せ るための工夫というのが相当熟練してきている。 ﹁長﹂という字は ﹁乙本﹂では長方形になっている 。武帝晩期に は下寛の三角形に書きます。このような、外形の変化に慣れるとい うことは大事ですね 。書く前に 、 外形がわかっていないといけな い。今の若い人は、楷書を練習した時に、どの文字も皆同じように 四角形に書くでしょう。それは活字しか見ていないからそうなるん です。この調子では時間内に終わりません。少し急ぎます。 ︻左右︼左右結構 、これは面倒なんですよ 。秦篆で縦長だったも のが横広、もしくは正方形に近くなってくる。隷書では平ですけ どね 。要するに 、横広にするためにいろいろな工夫をする訳です 。 例えば、左右の間を少し空けるとより横広になる訳です。ゆったり 見える訳ですね。だけどここに挙げた﹁乙本﹂の字では、密集して いる訳ですね。次の例では、分間布白できっちり書こうとしていま す。欧陽詢のようにピターッと偏旁をつけようという気持ちで書い ている訳です。目的が全然違う訳ですね。横広に書くために、偏旁 にちょっとゆとり取ろうとしたりする技法が、漢隷の時代の人は皆 自然に身についている。その差が大きく表れています。 ︻上下︼上下結構はどうでしょう 。﹁天覆地載﹂の字というのは 、 今言ったようなことです。上部が下部を覆い尽くすような形の例を 挙げています。反対に、下に長い画が来ると上を尖らせて書く例も あります。二段の字、三段の字、左右結構の字などの例も挙げて置 きましたのでご参照下さい。 隷書は波勢が強いですから、主たる画を見せるために、空間を収 斂して書くというような、集約するところと発散するところがある 訳です。左右対称では面白くない訳です。篆書は左右対称が大事で すけれど、隷書は全然違います。こちらが広くて、こちらが狭いと か。こちらを集約してこちらを広げているとか。そう書く方が書き やすいとも言えましょう。 ︻内外︼内外の文字は縦長になりがちですが 、それをどう横広に 書くか 。横広にするためにどういう工夫をするかということです 。 モンガマエなど篆書ならば、左右の縦画が長く垂直なので縦長に見 える訳です 。しかし 、隷書になるとこの例のように 、鉤をつけて 、 左右に広げています。 ﹁四﹂という字も 、石鼓文では縦長に書いていました 。その縦長 の外形をいかに横広に書くかですね 。円転する画を速書きで書く と、一画目に六十度ほどの折れが生じて、方折化する訳です。木簡 や竹簡に見られる、前漢中期以降のリズムです。 ﹁安﹂という字を見ていきましょう 。ウカンムリの両サイドは 、 家の柱ですからしっかりしていなければなりません。しかし時代が 下るにつれて、その柱の長さは、真ん中近くにまで短くなって、次 第に真ん中よりも少なくなって 、最後にはカンムリになっていま す。その様子が確認出来ます。これは大事なことです。武帝の末年 の例では、柱の部分は、長い形をしていますね。徐々に横広になれ ば、自ずから短くなるという訳です。 ﹁病﹂という字は 、ベッドの形を象った文字です 。この例でも 、

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