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(1)人間科学研究. 第18巻第2号. 153−167(2005). 原著論文 中国宋代における茶の加工法の変化と闘茶 宍. TransitioninTeaProcessing. 戸. and. 佳. 織*. CompetitionDuring. Kaori. China. s. SongD〕masty. Shishido*. (Received:October1.2004;Accepted:May31.2005). Abstract Tea丘om. a11over. iエ1processing. the. wor1dbe1ongs. methods,In. Dynasty(960−1279)、D㎜ing. to砒e. Ch㎞a,the this. same. co㎜町ofodgin此r. era,va1uable. p航icu1叫Faming. tea(solidtea)derived丘om. competitions㎞er. increasedthe. be. considered. The. present. including. as. one. of. research. pictures. and. popu1arity. the勉ctors. the. tea. fbr. came1lia. tea,the. was. Pian. oftea. responsib1e. investigates. speciesヨ. Gong. cha. the. habit. the. increased. Tang. the. Song. is. tea:br. c1assiied. tea. spread. o茄ering. Dynastywas. processing. Dy皿asty,In. of. tea. dis出bution addition,the. a㏄ording. wide1y. to. the. d㎞ng. of. tea. di脆rences. the. Song. Imperia1couけ),in. Song. gradua1change this. to. d㎜{ng. use↓Duringthe. genera1population,This. production,Processing,and. statistica1records,丘om. and. ofdエi血dng. cha(Thbute. in血e. among. sinensis. Dynas軌tea. in胞shion. may. era.. as. re1ationship. depicted be−ween. i皿1iterature, competition㎝d. P・・・…i・g・ft・・i・di・・・…d.(肋・・d∂J・α㎜∂1of肋㎜∂η3c1㎝㏄・,18(2):47−61.2005). K印〃or必:Pian. I. cha,Gong. cha,Chim,Song. D〕mas軌Tea. competition,Tea. processing. のであったことがうかがえる。本論において、そう. 序論. した宋の茶の生産・加工過程や流通状況を絵画資料. や統計資料を合む文献資料から検証し、茶の加工法. 1.問題の所在 「開門七件事」という言葉がある。南宋時代の人呉. の進歩と闘茶の普及との関連性の有無を検討したい。. 自牧が、首都臨安(現杭州)1の生活を描写した『夢. 茶は、中国四川省・雲南省が原産地といわれてい. 梁録』に初出する言葉で[呉自牧1147:巻16150]、. る。現在、世界各地で緑茶・紅茶・ウーロン茶など. 人が朝おきて門を開けるとただちに必要となる七っ. さまざまな茶が飲用されているが、それらはすべて、. の品目、すなわち「柴・米・油・塩・醤・酢・茶」. 植物学的には同一のカメリア・シネンシス. をさす[院浩耕2002:1前言]。この言葉からも、. (Came11ia. 茶が宋代の中国人の生活にとってたいへん身近なも. る。茶ははじめから加工して飲用したものとはかぎ. sinensis)を加工してつくったものであ. ‡早稲田大学大学院人間科学研究科博士後期課程ω燗伽∂fθ5cカoolof舳㎜∂η3cゴθηcθ島肋3θd∂ω1附sゴω. 一153一.

(2) 人間科学研究. Vol.18,No,2. らず、たとえばタイ北部チェンマイの食用茶「ミエ. (2005). うと思われる。. ン」のように、人類が最初に口にした茶は、じっは. 宋王朝は、文治国家であった。そのため、周辺の. 食べるお茶であったといわれている[守屋毅1992:. 異民族より軍事力が劣っていた。こうした現実に対. 35]。しかしながら、生の茶葉をそのまま口にするの. 処するには、さまざまな経済的方策を講じざるを得. は味もよいとはいいがたく、何よりも長期保存・流. なかった。その代表的なものが茶馬貿易と茶法によ. 通に適さなかったので、やがて茶は加工・飲用され. る茶の専売制度である。. るようになったという。. 茶馬貿易とは、漢民族の茶と周辺の異民族の馬を. 中国では、茶は飲用の記録が残る前漢紀元前59年. 交換する貿易であり、漢民族にとっては非常に経済. から現在に至るまで、さまざまな形態で飲用され. 的利益が大きいものであった。唐以降、漢民族以外. [宍戸2002:69−83]、加工方法も多岐にわたった。. の周辺の異民族においても、茶はビタミン摂取のた. 唐の「茶聖」陸羽は茶に関する体系的かつ総合的な. めの必需品となった3[布目1976:26]。こうした状. 書物『茶経』を執筆し、中国の茶文化の基本を完成. 況から、中国だけに産出する茶を入手するため、周. させたといわれている。そのなかで、陸羽は当時の. 辺の異民族はこの茶馬貿易に応じざるをえなかった。. 茶の製造法を詳述しているだけでなく、喫茶の風習. また、各王朝を通じて、中国と周辺の民族との攻. がひろく普及していたことを指摘している[布目潮. 防ははげしく、中国はつねに国境に対する警戒を怠. 掘1987:97コ。唐末から五代十国をへて宋にいたって、. らなかった。しかし軍事的に弱体化していた宋王朝. 茶の生産量が唐代の1O倍に増加したとする説もある. は、周辺の民族の攻撃を避けるための、強力な軍隊. [陳橡1984:61]。先行研究によれば、その背景には、宋. の配置が要請されていたにもかかわらず、軍隊を養. 代の人口増加、市場経済が拡大したこと、茶を馬と. うための糧食の確保がむずかしく、国境線に軍を出. 交換する茶馬貿易が実施されたこと、さらに茶の専. 動させられない状況が続いた。政府は、国境線で糧. 売制度により茶が国家に管理されるようになったこ. 食を得るために、最初は現地で屯田を行い自給自足. とといった要因が考えられるという[陳橡1984前掲. を目指したが、とても必要量にはおよばなかった。. 書:52−67]。しかしながら、茶の加工法の進歩、品. 次に、政府は商人に、国境線に軍の糧食を輸送する. 質向上、需要拡大の一つの要因として、北宋におい. ことを促したが、遠隔地で気候条件が厳しいため、. て非常に流行した茶の飲み比べである闘茶を考える. 応じる商人は少なかった。そのため、政府は塩引や. ことはできないであろうか。. 茶引を発行しはじめた。. 本論ではまず、茶を採取してから貯蔵するまでの. 塩引・茶引は、茶や塩を売買すること許可する政. 製造過程を、宋代に書かれた茶書『大観茶論』や. 府発行の証明書のことである。現代の感覚にすると、. 『茶具図賛』などの文献資料と絵画資料に求め、つぎ. 塩切符・茶切符というところであろうか。商人は、. に茶が生産・流通・消費される枠組みをとらえ、茶. 国境線に軍需品を納入して、はじめて塩引・茶引を. の加工法の進歩と、闘茶を中心とした当時の茶文化. 手に入れることができた。塩引・茶引による塩・茶. について考察を試みたい。. の売買は、非常に高い割増料を加えた取り引きが可 能であったため、政府から塩引・茶引をもらうため. 2.宋代の茶、人口、糧食生産の概況. に商人は進んで軍需品を納入し、塩・茶の販売によっ. (1)宋代の茶をめぐる状況. て利益をあげたのである。これも一種の軍需景気と. 宋は、首都を沐京、現在の開封においた北宋(960. いえるかもしれないが、このようにして少なくない. −l127)と、臨安においた南宋(1127−1279)にわ. 商人が財を築いたといわれる[佐伯富1977:26]。ま. かれる2.1191年、この南宋から栄西が茶樹を日本. たこのような納入促進策は、中国の他の時代にもし. にもちかえり、これによって、日本での茶の栽培が. ばしばおこなわれ、明代にも開中法という同様の制. 開始されたという[布目1998:62]。もとよりそれは、. 度が実施された[宍戸1996:7]。塩引や茶引は、本. 栄西が自らの臨済禅に茶を用いようとした意図を示. 来の專売制度維持の見地からは一種の例外措置とい. すものだが、そうした彼の着想を生み出したのが、. えるが、ことほどさように茶は宋の経済の一端を語. 当時南宋で流行していた中国の茶文化だったのだろ. る上で避けて通れない問題であったといえよう。. 一154一.

(3) 中国宋代における茶の加工法の変化と闘茶 表1. (2)人口. 唐宋戸数・人口年代比較. 周知のように茶は労働集約型の農産品である。そ. 戸数. のため、中国宋代を通じて茶の生産量の推移をみる. 唐代627. には、宋の人口増減を一瞥しておく必要がある。 『新唐書』食貨志によると、唐初期太宗の627−649 年、中国の戸数は300万戸に満たなかったが、武則天. 人口. 300. 705. 635. 754. 961. 4000. 唐後期. の治世末期にあたる705年には2倍の635万戸あまり、. 宋代927. さらに玄宗皇帝の754年には961万戸と、唐初期の3. 96. 966. 53. 972. 17. なると、755年から763年にかけての安史の乱や全国. 976. 65. 各地に割拠する節度使などによる国力低下にとも. 979. 15. なって人口は約1/3減少し、4000万人前後になってし. 1101. 2088. 倍近くに増えている[欧陽俺1060:巻37志第38 地理1. (単位:万). 中華書局2093−2095]。しかし、唐代後半に. まった[孫洪升2001:15コ。. 1107−1110. 中国の北宋の時代の領域は、河北省・山西省・陳. 4673. 約1億人. 出所:([孫2001:I5][脱脱1345:巻85志第38地理1. 西省・甘粛省・山東省・河南省・江蘇省・安徽省・. 中華書局2093−20951より筆者作成). 漸江省・河北省・四川省・福建省・江西省・湖南省・. 貴州省・広東省・広西省をさす。また、先行研究に. このような人口の急激な変動には、以下のような. よると、1戸は大体5人くらいで、戸数から人口が. 諸要因が考えられるという。一つには徴税を逃れる. 計算できるという。以下、宋代の人口の増減を見る. ために姿を隠し、それらの人間がまたもどってきた. に、以下のようになる。. こと[路2000:484]。またもうひとつ考えられる原. 因としては、社会が比較的安定し、経済が発展した. 宋王朝建国直前の927年に、全戸数は96万7353戸に 激減し、人口は約485万人と推定される。これは、漢. ことなどである[路2000前掲書:472コ。当時の官庁. 民族の王朝と北方の契丹族の遼王朝(9I6−l125年). の人口統計は、主に税金の徴収を目的としていた。. との戦争との影響であろう。その余波を受けて、960. そのため、人口数ではなく戸数を重視したり、男性. 年の北宋建国直後の966年には53万4039戸約265万人. の人口のみを数えたりしている可能性もあり、デー. に、972年17万0263戸約85万人にまで人口は減少し. タ検証はおおいに必要とするところであるが、社会. た。. 的要因が原因の大規模な人口増加があったことは事 実であろう。. 975年、北宋は南唐を降伏させ江南を併合した。そ. の結果、976年65万5065戸となり、人口は約330万人. と推定される。しかし979年北宋はまた遼王朝との. (3)農業生産力の増加. 茶葉は、いうまでもなく農業生産物のひとつであ. 戦争に敗れ、全戸数は15万1978戸、人口約75万人に. り、宋の茶葉の生産量をみる際に、農業の発展状況. までおちこんだ。. 宋代初期と末期の人口の変化を概観するために、. をみておく必要がある。中国の農業においても、わ. 表1を作成した。宋代初期に人口が約4000万人で戸. が国と同じく中心的地位をしめていたのは、糧食、. 数が96万戸なのに対し[孫2001前掲書:15]、1101年. すなわち米の生産である。糧食が不足する事態で、. には、戸数は約2088万戸、人口は4673万人とされる. 茶のような商品作物の生産が順調に発展するとは考. [脱脱1345:巻85志第38地理1. えにくい。北宋全体の墾田の増加状況を、1次資料. 中華書局2093−. 2095]。さらに先行研究によると、徽宗皇帝の大観4. を基本にして、先行研究における検討を部分的に加. 年(1101)年から数年後のl107−11lO年頃の総人口. えて作製すると、図1のようになる。墾田数は、北. は約一億人であったという[孫2001前掲書:15]。1101. 宋初期の976年を100としたときの増加指数をみても. 年と比べて人口が2倍以上増加していることになる。. 増加の傾向がうかがわれる。後世の研究における、. 墾田数と人口の相関関係から考えると矛盾する部分 一155一.

(4) 人問科学研究. Vo1.18,No.2. (2005). 北宋墾田数の年代比較(単位:100万畝) 600 500. 伽 300. 2α〕. 100 0. 年代. 976. 997. 1021. 1051. 1066. 1083. 295. 313. 525. 228. 440. 461. 100. 105. 178. 77. 149. 156. 95.5. 76.3. 60.5. 34. 26.8. 項目. 墾田数 (単位=100万畝). 増加指数 1戸平均の墾田数 (単位:畝). 不詳. 増加指数とは、976年の墾田数を100としたときの値をいう。 地理1. 出所:[孫2001:6−8][脱脱1345:巻85志第38. 図1. 中華書局2093−2095]より筆者作成. 北宋墾田数の年代比較(単位:100万畝). がある場合には、当時の公的資料である『宋史』地. 国の緑茶はガラスの透明なコップや、茶杯の中に茶. 理志の記述を重視したい。1戸あたりの面積は時代. の葉を直接いれて湯を注いで飲むのが一般的である。. がたつにつれて減少し、約100年後の.l083年には26.8. 中国茶の製造法の変遷を考える際に考慮したいのは、. 畝にまで減少している。これは人口の増大が、墾田の. 茶の賞味法の力点が日本と中国ではことなり、味、. 細分化を招いていることを意味していると思われる。. 香り以外に形と色の美しさも鑑賞の対象となるとい う点である。そのためか、中国の喫茶史関係の資料. には、茶の色彩に関する記述が多い。たとえば、唐. II宋代中国における茶の加工. の固形茶は製法の上では緑茶に属するが、その表面. 1.茶の賞味法の特徴と分類. は発酵のため色は茶色または黒であった。宋の固形. (1)中国茶の賞味法の特徴. 茶(北苑団茶)は、唐と同様の製法であるが、より. 一般に日本人は茶を味と香りにポイントをおいて. 製茶技術が発展し、茶の粒子はより細かく綴密であ. 評価するが、中国人はそれに加えて、茶の色と形も. り、その表面はまた発酵の程度により緑色、茶色、. 重視する。例えば、西湖竜井茶は、色、香、. 味、形. 茶黒色、黒色などとなり、茶をいれて飲む際は茶の. の「四絶」すべてにすぐれている故に、現在の中国. 粒子と湯が混じって薄い乳白色となっていた。『茶. 縁茶の名茶のひとつとされる[陸松侯2000:84コ。中. 録』の冒頭にも『茶の色は白を貴ぶ。」とあり、白色. 一156一.

(5) 中国宋代における茶の加工法の変化と闘茶. の茶を好んだことがうかがえる[察嚢1064:1丁右]。. 芸術家としては一流で、詩文書画にすぐれた才を発. (2)宋代の中国における茶の種類. 揮した。彼の親筆による鷹の絵などは日本にも多く. 唐代においては、粗茶、散茶、末茶、餅茶の4種. 伝えられている。. 一方、南宋の『茶具図賛』は、1269年に書かれた. の茶が存在した。しかし宋代にいたると茶は、片茶. と散茶の2種類に大きく分類されるようになる[脱. 茶書である[方健2000:400コ。著者の審案老人は、. 脱1345:巻183志第136食貨下5. 一説には董眞卿という名の進士ともいわれている。. 中華書局4477]。. 片茶4は唐の餅茶の流れを引く固形茶であり、散茶. この茶書の内容は、茶を製造したり入れたりする際. は茶葉の形状をそのままのこした葉茶であり、この. に用いる茶器12点を、それぞれ擬人化して姓名、字、. 散茶の中に末茶をも含んだ。その他花びらを混合さ. 号、官爵等をつけ、その図に賛をくわえたものであ. せた花茶も存在していた5。宋代の茶の中で中心的. る[布目1987前掲書:34]。だが、一種の戯文であり、. な位置をしめていた片茶は茶葉を蒸し、茶臼にいれ. 体系的な茶書とはいえないとする先行研究もあるが. て揚き、さらに型に入れて円形、方形にかためたも. [高橋忠彦2000:581、宋の壁画やその他の絵画と比. のである。その中の上質なものは蟷面茶とよばれた。. 較しても、当時の茶器7を理解するうえで極めて高. 虫欝面茶の名の由来は製造するときに香料や油をいれ. い価値をもっているともいわれ、宋の茶文化を語る. るため、茶をたてると表面に油が浮かび、蟷をとか. ときに頻出する書物であり、かつ茶の加工に用いる. したようになるためであるという[朱世英2002:25]。. 器具を具体的に説明しているので、本論ではとりあ. 宋代の末茶は、茶摘みした葉茶を加熱してつくる. げた[布目1987前掲書:56]。. という現在の日本の抹茶と同じような製法であり、. 固形の茶を粉末にして作ったものではなかった[布. (2)宋代における加工の実際. 宋の固形茶の製法を以下説明する。茶つくりは太. 目1995:219−220]。. 宋代の王安石の新法6実施時に、水磨茶という粉. 陽暦の3月5日または6日からはじまる。この時期. 末茶が製造されていた。水磨茶は、片茶をはじめか. に天候が日照り続きであった.り蒸し暑かったりする. ら粉末状にして販売した茶であるが、変質しやすく. と、よい茶ができない[布目1976前掲書:20ト201]. 摘茶:茶の芽をつみ、ずいを取り出し、水に浸し. 長期保存が利かず、国家にとって利潤が少なかった ため製造されなくなってしまった[古林森広1987:. て洗う[布目1998前掲書:200−201]。宋におい. 72−73,91]。. ては、唐よりもさらに材料の選別を重視した。『北苑. 宋代に力を入れて生産されていたのは、やはり片. 別録』にも、茶の芽には小芽、中芽、紫芽、白合な. 茶であり、この時代の茶書の『茶録』や『宣和北苑. どがあり、一番上等なのは水芽で次に小葉、中芽と. 貢茶録』なども、これを中心に記述している。製茶. 続き、紫芽、白合、鳥帯は用いないとある[超汝礪. 技術が発展するとともに片茶は国家の重要な財源の. 1186:3丁左コ。茶つみは夜明け前に行い、太陽がの. ひとつとなった[布目1976前掲書:22−26]。. ぼればとめる。っめで芽を断ち切るようにし、指で ひねりとらない。. 蒸青:蒸す前に繰り返し洗浄し、きれいにした茶. 2.茶の加工の実態一北宋『大観茶論』、南宋『茶具. を十分に熱されているところに入れて蒸す[超汝礪. 図賛』を中心に一. 1186前掲書:4丁右]。茶の性質によって、蒸す加減. (1)『大観茶論』、『茶具図賛』の成立の経緯. 『大観茶論』と『茶具図賛』は、それぞれ北宋、南. を調節した。. 宋を代表する茶書である。前者は、北宋末期1107年、. 搾茶:この工程の主な目的は、茶の苦味、渋みを. 徽宗皇帝超倍(在位1100−125)によって書かれた. 取り除くことである。蒸した茶を布などに包み、搾. 茶書で、わずか2900字でありながら、そこには茶の. という機械で搾る。まず、小さい「小搾」をつかい. 育種法からはじまって、製茶法や茶の品評法、さら. 表面上の水分をとり、その後「大搾」で本格的に搾. にはいれ方までが明確に紹介されている。ちなみに、. る。最上の若い茶には「馬搾」という機械をつかう[劉. 政治に不熱心だった徽宗は、豪著な生活をして国費. 勤晋2004:4−5]。. を浪費し、北宋の減亡をはやめた人物である。だが、 一157一. 研茶:この段階で唐の『茶経』のように杵臼でつ.

(6) 人問科学研究. Vo1,18,No.2. いたが、宋ではこの段階で固形茶1個分ずつ丁寧に. (2005). 橋1989前掲書:256]。. すっていくため、唐代に比べてより硬質な固形茶が. 完成後の固形茶(片茶)のいれ方. 出来上がった[布目1998前掲書:63]。. 茶を粉末にする. 造茶:茶を固めるための型の表面の模様である. これらの過程の後、薬研をもちいて茶を粉末にす. [蓼宝秀1996:153図1]。すり終わった茶は指で満. る。『大観茶論』によると、最も適した薬研は銀製、. 遍なくならし操んで滑らかにして、わくにいれた。. 次は鍛鉄、鋳物製は茶の色を悪くするとある。また、. これは銀、銅などで作られており、表面の模様は、. 茶を粉末にする過程で、薬研をつかわずに粉末にす. 貢茶の場合は竜がほとんどであった8。『宣和北苑貢. る方法もある。図2は従者が長方形の低いテーブル. 茶録』記載の貢茶の名称だけで42種類もあるが、そ. の上にまたがって座り、テーブルの上には茶磨をお. の中で名称に竜の字があるものは7種類に及ぶ[熊蕃. いて今まさに茶をひいているところである。茶磨と. 1I82:3丁左一4丁左]。. は、米に使う石臼と大差ないものであり、上臼と下. 焙茶:型に入れた茶を強火であぶり、沸騰した湯. 臼によってできているものであり、後述する図6の. に3回くぐらせ、一晩火であぶった後煙焙に6−15. 『茶具図賛』の石転運も同様のものである[蓼1996前. 日入れる。日数は固形茶の厚さによって調整する[布. 掲書:57]。この図2の茶磨は、石転運には無い、茶の. 目1998前掲書:63]。日数が満ちたら湯気をくぐらせ. 掃きだし口がついている[布目1998前掲書:74−78コ。. 発色させ、最後には表面に光沢を生じたという[高. 粉末にした茶は、『大観茶論』によると、ふるいの. 図2. 南宋. 劉松年 才董茶図(局部). 台湾国立故宮博物館所蔵[蓼1996:I77図19] 一158一.

(7) 中国宋代における茶の加工法の変化と闘茶. 面を目を細かくしてピンと張っ未ものでふるうと、. 気をさけるために高所に置いた。章鴻臆の名前の由. とろりとした茶ができるという[劉勤晋2004前掲書:. 来にっいて、鴻臆とは鴻臆卿の意味から、来客用と. 4−5]。. いう意味が込められている。章は、擬人化による姓. 『茶具図賛』にみる茶の製造過程. のひとつであるが、かこむという意味もあるし、素. 『茶具図賛』は、茶を製造し飲用するときに用いる. 材が葦であるともいわれている。. 固くなった茶を打ち砕く:図4の木待制を使用す. 12の道具を図版とともに示したものである。茶を製 造するときの道具だけではなく、茶を飲用するとき. る。木製の砧と金または鉄製の椎の図である。砧は. の道具もあり、それらが過半数を占めている[審案. 固形茶を打ち砕くときの台、椎はそのときにつかう. 老人1269:2丁左]。当時、茶は製造→いれる→飲用. っちであり、たとえば古くなった固形茶を飲用する. するまでの過程を、一続きのものとしてとらえてい. 場合などに用いられた。宋の片茶は唐の餅茶に比べ. たのではないかと思える。『茶具図賛』では型に入れ. て固さがかたくなり質も綴密になったため、唐の『茶. て固めた秦を火であぶり乾燥させ、より強固に固め. 経』にはないこれらが用いられた[布目1995:236]。. るための道具の記述を除くと、ほとんどが完成した. 中に木の板がある[高橋1996:127]。. 固形茶を保存し、茶をいれるための道具に焦点がし ぼられている[審案老人1269前掲書:2−14丁]。南. 宋時代の代表的茶書である『茶具図賛』には、製造 された茶の保存に用いる道具の精密な図版が、解説. 文とともに記されており、ここでは『茶具図賛』の. 道具から茶を保存し飲用するプロセスについて明示 したい。この過程については『大観茶論』中の記述 は少なく、『茶具図賛』によって記述した。. 茶を保存する:ここで、図3の章鴻臆を使用する。. 固形茶を保存するさいにもちいるかご。火を使用し. ない保存の際につかう。茶を蒲の若葉で密封し、湿. 図4. __.__. .. _. 「木待制」[布目1987:139コ. 打ち砕いた茶をより細かくする:図5の金法曹を. 11.I一. 使用する。金属製の茶をするための薬研である。こ. ■I. れも唐の『茶経』においては木製であるが、宋にい たって固形茶がよりかたくなったため薬研に金属を. 貫. 用いられるようになったのである。. また、あるいはこのプロセスにおいて、図6の石. 1. ■一. 醐. ■. 転運を使用することもあった。これもまた、固形茶. 一. をより細かく粉末にするための道具である。これは lx、. .漏、・鐵...、・.,=呂. ...・≒一. 『大観茶論』にはない石製の臼である[布目1995前掲. 書:236]。餐石と同じ類の石ともいわれている[高 図3. 嘩鴻臆」[布目1987:139]. 橋1996前掲書:127]。 一159一.

(8) 人間科学研究. Vo1.18,No.2(2005). 綴密になったことがうかがわれる。宋の茶加工技術. 膏・湊∵金. の進歩を端的にしめしている。 (3)・・茶の加工法の進歩と品質の向上. 以上のような製造方法で、宋代の固形茶は加工さ れたが、茶の加工技術の進歩によって晶質はどのよ うに向上したであろうか。. まず固さの面では、さきにも述べたようにI個ずっ. 丁寧にすって製造したため、唐代の固形茶よりもさ らに綴密につくられているが[布目2001:205]、宋. 代の固形茶では、固さのみならず、色、味において も改善されたようである。. ノ. 色については、高橋が、宋代の固形茶の製法を宋 代の茶書に忠実に再現し、その色を観察した記録が ある。それによると、何日もかけて乾燥した結果、. 固形茶の表面は黒く、たてると茶の色がうすくなる 図5. 茶ができあがったそうである[高橋1989前掲書:254]。. 「金法曹」[布目I987:140]. さらに、高橋は、宋代のひとびとは唐代の茶が緑色 に対して、自分たちの茶が白であることを誇ってい. たことを指摘し、客観的にみて宋代の茶は白く、唐. 代より美しいと見られていたと推測している[高橋 1989前掲書:257]。. 加工法の進歩により、色と同様に味についても、 また宋代は水準があがったと推測される。『大観茶 論』によれば、茶は製造過程の蒸し方、搾り方によっ. て、色と味が大きく左右されることを記述している [超倍1107:3丁右]。同時代の別の茶書『北苑別録』. も、製造過程の蒸し方の重要性のほかに、加工のは. じめの過程で、茶の芽を選別することの重要性を説 いている[超汝礪1186前掲書:4丁右]。先行研究は、. 宋代の製茶技術は特に搾り方が唐代よりも進歩した と指摘しているが[挑國坤1991:24]、この搾る過程. をへることで、宋代の茶は加工によって茶の本来の 図6. 「石転運」[布目I987:I40]. 味や香りや味はかなり失われ、人工的に味がだされ るようになっていたのである[布目200I前掲書:78]。. 『宣和北苑貢茶録』、『北苑別録』などの当時の茶書. すった茶をふるいにかける1まず、胡員外という 名前の粉末の固形茶をすくうためのさじを用いて、. でも、茶の製造法が旧来よりも精妙であり、すぐれ. 粉末の茶をあつめる。集めた茶を、羅枢密という名. た茶が次々と生産されたことをのべている[熊1182. のふるいでふるいにかけ、より細かくする。その後、. 前掲書:8丁左]. ふるった茶を宗従事という鳥の羽であつめる[高橋. 茶の芽の精選、入念な製茶過程により、色、味は吟. 1996前掲書:128]。唐で用いられていなかった砧、. 味され、当時茶は、加工の進歩により製品がどんど. っちなどが宋で使われだしたのも、薬研が唐では木. ん洗練されていった[古林1995:249]。. 製であったのが宋では金属性になったことからも、 唐に比べて宋の固形茶の品質が向上し、より硬質に 一160一. [超汝礪1186前掲書:1丁右]。.

(9) 中国宋代における茶の加工法の変化と闘茶. 皿. 宋代における茶の生産. 1. 茶の生産の全国分布と生産量. 節の前にその年の新茶が届くか否かが非常に重要で あった。唐からすでに3−4000里はなれた土地から早. 馬に鞭を当てて10日で唐の首都西安に茶をとどけた といわれている[夙志2003:8]。建安もまた北宋の. (1)生産区域. いうまでもなく、茶樹は植物のひとつであり、温. 開封から3000里も隔たっていたが、それでもなお3. 度、土壌、日射などに影響をうける。茶の故郷は雲. 月には宮中の人々は新茶を賞味することができた。. 南、四川など中国の南方であり、暖かい土地が生育. 福建省の建安の貢茶については、北宋以前の937年. に適している。茶の栽培学の観点から、茶の栽培に. と946年にすでに記録があるが、宋建国直後の977年、. 適した条件をまとめると、. 「始めて竜焙をおき、竜風茶をつくった」と建安の地. 一温度:20−30℃. 方誌にある。このときの貢茶量は、150tであった。. 一降水量:年に1500㎜前後、毎月平均100㎜前後. この貢茶のための官営茶園は、建安の中の北苑に. 一湿度:75−80%前後. あった。これらの貢茶のための茶を竜鳳茶という[棚. 一土壌:酸性、ph4.5−6…5. 橋2003前掲書:851。『東渓試茶録』によると、建安. この条件から、中国国内では南方福建、広東、広. には古くから38の官焙があり、民に茶を作らせたた. 西、雲南、四川、重慶、安徽、江蘇、湖北、湖南、. め民は非常に苦しんだという。[宋子安1048年以後:. 江西、漸江省などが、茶の栽培に適する[童啓慶1979:. 2丁左一3丁右]。. 12−15]。唐代は、現在に比べ平均気温が高かったが、. 建安が北宋の茶の中心地となったことは、たとえ. 宋代から12世紀初頭にかけて唐よりも平均気温が2. ば以下の事実からしてもあきらかである。すなわち、. −3℃下がり[棚橋箪峰2003:85]、漸江省湖州9を. 北宋の茶書25編のなかで、建安の茶についてのべた. 中心に生産していた茶は、福建省など中国のさらに. ものが14編、全体の56%にものぼっているからであ. 南で生産されるようになった。さらに、福建省など. る[朱自振1995:59]。さらに建安では、正確な年代. 中国の南方は当時まだ森林の開発がおくれていたた. は不明だが、1年間で20−30t、そのうち竜鳳茶を. め土壌が冨んでいたこと、南方は雨量に冨み北方よ. 2−3000枚(計150kg)生産していたという[棚橘2003. りも湿潤であることなど茶葉の生育にとって有利な. 前掲書:85]。宋の茶区は、長江流域と准南一帯であ. 条件がととのい、南方が茶の生育の中心地となった. り、江南路、准南路、荊湖路、両漸路、福建路など. [孫2001前掲書:20−22]。茶書でとりあげられてい. が中心であった[王沢農1988:179]。福建の片茶は. る茶の産地も、中国の南方が比較的多かった[童1979. 高級品として重視されていたとの指摘はあるが[高. 前掲書:6−7]。茶区の面積の拡大状況は唐以後、. 橋I989前掲書:2521、しかし生産量の面では突出し. 中国の経済の中心は南方にうつり、晴の揚帝による. ているとはいえない。『宋会要』に南宋初期ではある. 運河開通により、南北の物資の交流が可能になった. が1162年の各地区ごとの全国産茶量の統計がある。. ことにもよる。. それによると南宋の1162年の全国産茶量は833I万t. 南方の中でも、福建省建安が宋の茶生産の中心地. であり、建安をふくむ福建路の産茶量は490万t、さ. であった。建安の現在の気候条件は、中亜熱帯気候、. らに福建路のなかで建安をふくむ建寧府の産量は. 季節風があり、日照時間が長く、河川もまた多い。. 475万tしかなかった[宋綬:食貨29]。ごく少ないが. 気候は温暖で、雨量はゆたかであり、冬季の寒さも. ゆえに珍重されていたのではないだろうか。. 夏季の暑さも厳しくない。年平均気温は18−22.3℃. で、年降水量は1200−2000mm、年平均相対湿度は. (2)生産量. 唐と宋の茶の生産量を比較してみる。表2をみる. 70%一80%であり、土地の85%は山地である。土壌 のph4.5−6.5である圧鎮垣2000:332]。建安は茶. と、唐代の平均茶葉の年間産出量は700万tであった。. の栽培に最適であることがわかる。. 唐代の平均年間生産量700万tに比べ、北宋後期の年. また、茶は現在でも清明節IOの前が最高の美味と され、清明節の前の茶は「明前茶」とよばれ特に尊. 間生産量は8355万2000tであり、1O倍以上になった [陳橡1984前掲書:52−67]。. 重される。宮廷に茶を納める貢茶の制度でも、清明 一161一. また宮中に茶を納める制度である貢茶の際の茶の.

(10) 人問科学研究. Vo1.18,No.2. (2005). 納入量を例にとると、唐代には9,204tであったが、. ような専業茶葉生産農家を茶園戸という。当時茶は. 北宋初期976年前後は建州北苑の貢茶量は50斤. 政府による専売法がひかれており[佐伯. 0,025tと低かったものの、1098−11OO年には9t、. 書:26]、生産された茶も政府の売茶場を通じて売買. 北宋末期1119−1125年には23.55tに達している[水. される建前であったが、茶農家が自ら引を購入して. 野正明1985:196−197]。. 販売に従事する場合もあり、生産者である茶農家の. 1977前掲. 営利意識を認めることができる[水野1983:41]。宋. 表2. 唐代(618−907)と北宋(960−l127)の茶葉年 間産出量の平均(単位:万t). 代末期1077年、四川において一軒あたり175t程度の. 茶農家がほとんどであったが、なかには. 1000tにのぼ季農家も少数ながら存在した[孫2001. 年間産出量 唐.. 700. 北宋. 8355. 500t−. 前掲書:29−30]。. 寺院による茶葉生産:飲茶の習慣が普及した時期 は、一般の人よりも僧侶のほうが早かった。こ.のよ. 出所:([陳橡I984:52−67]より筆者作成). うな状況にくわえて寺院は巨大資本をもっており、. 寺院が茶の栽培に占める割合は非常に大きかった。. 一例をあげると、北宋末期の福建では寺院による茶. 2.茶の生産形態 先行研究によると、すでに唐代862年に茶業は主穀. 園は民間の茶園の1/3をしめ、多いときは1/2にの. 生産から分離しており、おそくとも9世紀半ばには. ぼった。山地田畑の28%を寺院が占め、僧侶1人当. 北方における飲茶の普及による需要の増大のため、. たり165畝11所有している計算になる。同地の民間の. 茶業の専業経営が成立していた[井上範男:44−45]。. 茶園では茶業に従事している人1人当りで約14畝で. 宋の茶園は、民間による茶園と国家による茶園の2. あり、福建の民間所有の山畑園林の21.9%が寺院所. 種類に大別されるが、これらの状況について、説明. 有であった。寺院のなかでも生産が年間O.25tにみた. をこころみたい。. ない小資本の場合は、自家消費が中心で利潤は少な. (1)民間による茶園と国家による茶園. かったが、年間O.25tを超える寺院の場合は、茶はそ. たとえば前述の福建の建安では、茶園が1336ヶ所. の寺院にとって重要な産業となっていた[孫2001前. 存在したが、そのなかで官営の茶園はわずかに32ヶ. 掲書:37]。茶業全体の発達にとっても寺院の存在は. 所、その他1304ヶ所におよぶ茶園は民営であった. 無視できないものであった[陶徳臣2001:252]。. [夙2003前掲書:1q]。建安では所定地にある官営の. (2)生産された茶の流通. 茶園を官焙、正焙とよび、それ以外の場所に存在す. 宋の茶の流通制度では、茶は大きく官茶と私茶の. る茶園を外焙、私焙とよび、はばひろい茶市場むけ. 2つに分類される。官茶とは、茶の国家專売制度下. の茶を生産していた[吉林1995前掲書:251−252]。. に公式に取引される茶であり、私茶はいわばヤミ茶. 多年生の植物ゆえ、一度栽培に成功すれば、採取の. である。官茶はさらに、権茶法による流通、通商法. 時期を間違えないかぎり数十年も安定した利益をも. による流通と2種類ある。権茶法とは生産・運搬・. たらすともいわれていた。それゆえ、茶は農家にとっ. 販売をすべて政府の手で行う專売法をさし[星斌夫]. てたいへん魅力的な換金作物だった。民間による茶. 1988:26]、一方通商法は、政府が商人に茶を売り渡. 園が数多く存在した所以である[孫200I前掲書:25]。. すとき、税金を徴収した後は、多少の統制はあるが. 兼業茶葉生産農家. 民間による茶園のなかでも、. 商人が割合自由に販売することを許す方法である. 茶と養蚕などを兼業する農家もあった。兼業茶農家. [星1988前掲書:179]。権茶法のほうが通商法より官. は、かならずしも零細個人経営とはかぎらず、その. の規制が強かったとされる。. i. 多くは地主だった。兼業農家全体の茶の産量は決し て少なくなかった. 各生産地域ごとの茶の価格. 一官茶と私茶の差、. 出荷時と購買時の価格差. [孫200I前掲書:25−271。. 当時の茶生産技術の向上にと. たとえば四川省の官茶と私茶の価格差をみると、. もなって、兼業茶葉生産農家は専業茶葉生産農家に. 表3のように官茶と私茶の価格差は実に6.16倍と. 転向することも多かった[孫2001前掲書:27]。この. なっている。さらに、出荷時と買う時では価格差が. 専業茶葉生産農家. 一162一.

(11) 中国宋代における茶の加工法の変化と闘茶. 著しい。表4は同種類の官茶の出荷価格、売買価格. 先行研究では図7のような図式を設定している。. 先述したように、宋において茶は原則として専売. を比較したものである12。官茶では出荷時の3−4 倍の価格が、売買時につけられていることがわかる。. 制であったため、権貨務という役所が茶の取引をす. 官茶とは、公的なルートによって販売されていた茶. べて管理した。権貨務とは、首都に置かれた役所の. のことであり、私茶とは、闇ルートで取引されてい. ひとつで、その職務は、客商が地方の取引に赴く場. た茶のことである。私茶が廉価であったのに比べ、. 合、銀を徴収して代わりに茶販売許可の手形を支給. 官茶はここでみるように高価であった。茶は専売制. する、あるいは茶、銭、布などを官に徴収してそれ. であり、「2.宋代の茶、人口、糧食生産の概況. (1). によって茶販売許可の手形を与えるなどである。こ. 宋代の茶をめぐる状況」においてふれた茶引すなわ. れによって中央政府は、貨幣の調整と財物の獲得を. ち茶の販売の許可のための切符を政府からもらった. 行うことができ衣のである[星1966:45]。上記の図. 者しか、建前上は茶を売買することはできなかった。. にも示してあるとおり、権貨務は生産者である園戸、. 茶引を使って茶の売買をする場合、割り増し料を加. 茶の取引所である権茶場、販売区である鎖区のすべ. えたため、官茶は私茶に比べて高かったのである。. てを管轄下においた。すなわち官が生産者に資金を. 茶は非常に商人の利益率の高い農作物であった。. 提供し、生産者は製品の一部を物税として納入する. 表3. 北宋(960−l127)の官茶と私茶の1斤ごとの価 格の平均(単位:文). ほか、他はすべて官に売り渡し、官は権茶場とよば. れる特定の場所で制限をつけて商人に売り渡すので ある。. 官府買い入れ. 68.58. その他、通商法も施行された。これは官から生産. 私茶(揚子江沿岸部). 315.91. 者に資金は与えず、商人と生産者が自由に取引し、. 私茶(中国西北地区). 422.4. 商人が専売税を払うものをいう。この場合もまった くの自由取引ではなく、官から価格、取扱量、販売. 出所:([陶2002:2581より筆者作成). 地などこまかな制限を加えられ、茶の販売商人は権 表4. 茶の種類. 産地. 等級. 片茶. 建州. A B A B C D. 片茶. 貨務が発行する茶販売許可手形の携帯を義務づけら. 北宋官茶の出荷売買価格(単位:文). 治州. 出荷価格. れることは権茶法と同じであった[梅原郁1972:4. 売買価格. (4)]。. 135. 500. ただし茶は、非常に商品価値が高い物資であり、. 120. 415. かつ宋代の人々にとって生活必須品となっていたか. 132. 534. ら、私茶はつねに流通し、専売制度下の茶よりも高. 121. 492. 級品が多く質も高いといわれていた。[古林1987前掲. 110. 490. 77. 387. 書:99−100]。. 先行研究によると、唐代すでに南方の茶が北方諸 都市の需要の大部分を支える状況になっていたこと. 出所:([孫2001:134−150]から筆者作成). がうかがえる[井上1990前掲書:43]。. ii茶の専売制度下での流通機構. (3)闘茶について. ここでいう闘茶とは、中国の五代から北宋・南宋. 宋の国家による茶の専売制度において、最も強く 中央政府の規制を受けた権茶法の流通機構について、. 時代においてさかんにおこなわれた、茶の飲み比べ. 権貨務. 園戸(生産者). →. 権茶場(茶取引所). →. 茶商. →. 鎖区(販売区). ([蘇2003:751から筆者作成). 図7. 権茶法の流通機構 一163一.

(12) 人間科学研究. Vo1.18,No.2. (2005). (品質とし)れ方などを競う)競技をいう。上流社会に. 茶、すなわち茶の利き比べを可能にするほど品質を. 限らず、庶民の間にも普及していた。その具体的な. 向上させたのではないだろうか。. やり方の手順は、先行研究によると以下のとおりで ある。. 闘茶の起源は、宋代の最高品質の茶の生産地とさ れる、福建省の建安にある[施隻東1999:36]。はじ. 1.人数:通常、親しいもの同士が2・3人で行う。. めは建安の民間でおこなわれていたようであるが. 2.場所:縞麗で優雅な室内、花や樹が植えられて. [高橋2000前掲書:55]、次第に建安の官僚が、皇帝. いる庭園など. のために茶の絶品を生産するための茶の選別手段と. 3.手順:湯をわかして、茶を飲み比べ、どの茶が 良いか議論をし、順位を決定する。. して、闘茶をおこなうようになったという[院2002 前掲書:16]。. 順位決定の基準:使われる茶が新しければ新しい. いわば高品質の茶を生産するための手段であった. ほど、良い。茶の品質を決める基準は、第1にた. 闘茶であるが、し虐いにその本来的な役割は失われ、. てた茶の水色、第2にたてた茶の泡であった。茶. やがて闘茶には最高品質の茶を用いることが要求さ. の色は白がもっとも喜ばれ、たてた茶の泡と茶湯. れるようになる。『大観茶論』では、茶の芽の極上品. 表面のバランスも重んじられた。. を闘茶に使用するためのものと述べている[超倍. 4.闘茶のために、宋代には白い茶の色がひきたち、. 1107前掲書:3丁右コ。闘茶に用いる茶は、色、味、. たてた茶の泡がはっきりとする黒い茶器が、最も. 形の厳密な規定があった[王仁湘1993前掲書:182]。. よいとされた。. 一例をあげると、茶をいれる前の固形茶の色は青・. 5.茶の出所:自分たちが愛蔵していた茶を、競い. 黄・紫・黒などである[劉昭瑞2002:131]。そして. 合うことが多い。. いれた茶の味・香・色のすべてが最高水準であった. そして闘茶が流行した結果、宋代の茶葉の加工技. ときに、はじめて闘茶の勝利者になれるのである[劉. 術はますます進歩したといわれている[挑1991前掲. 昭瑞2002前掲書:138]。『大観茶論』に、福建の建安. 書:19]。. で名茶がつぎっぎと生産され、当時文人から一般人. 闘茶で勝つためには、高品質の粉末にしたばかり. までみなが飲茶を楽しむようになった結果、茶の選. の茶を用いるだけではなく、たてかたも非常に重視. 別の仕方も加工法、闘茶、茶芸すべて最高水準にたっ. 視された。当時の資料によると、茶が少なく湯が多. したとあるが[超倍1107前掲書1丁右一左]、そこに. ければたてた茶にむらができてしまうし、湯が少な. は飲茶を巡る当時の状況がうかがえる。他の先行研. ければ表面に糊のようにかたまってしまうとのべ、. 究においても、闘茶に用いる固形茶は、十分に選ば. さらに茶碗に茶を1銭(約3.7g)ほどいれ、湯をい. れ研究されたものがつかわれたと、加工技術の進歩. れかきまぜ、また湯をいれてかきまぜ、茶碗に4分. と闘茶の関連性について指摘している[施1999前掲. 目ほどいれたときに、そこでやめ、たてた茶の色と. 書:36]。. 泡をみるとある[察嚢1064前掲書:3丁右]。. 私は、闘茶は普及したと推測している。先行研究. 高品質の茶を生産するための選別手段としてうま. は、福建の建安で行われ始めた闘茶が、北宋の中期. れたとされる闘茶であるが、それが流行することに. 以降、徐々に中国の北方にも伝わり、またたくまに. よってさらに茶葉の加工技術が進歩した可能性も否. 上は官僚や貴族から、文人墨客、さらには一般の人々. 定しきれない。茶葉の加工技術と闘茶は、密接な関. の間にまで闘茶が普及し、ひとびとは夢中になって. 連性が推測できるのではないだろうか。. おこなった[施1999前掲書:36]、とのべている。ま. た、闘茶の普及によって茶自身もどれだけ普及した かを、当時の茶書『大観茶論』は、皆が自分の持っ. (4)闘茶と茶の需要について. なぜ北宋に政府が権茶法や通商法を行い、茶の流. ている茶の優劣を、闘茶によって競う状況が発生し. 通による権益を独占しようとするほど茶の消費が盛. た結果、どんなに風流とは無縁の人物でも、自分が. んになったのだろうか。北宋に茶の加工法の進歩に. 茶を持っていないと恥とするようになったとある. より、闘茶が高官から一般の人々にまで普及したこ. [超倍1107前掲書:1丁左一2丁右]。陳橡は、徽宗. とと無関係ではないと思える。こうした進歩は、闘. 皇帝超倍の時代以降、貢茶にかぎってもますます生. 一164一.

(13) 中国宋代における茶の加工法の変化と闘茶 産量はふえたと指摘している[陳橡1984前掲書:425]。. 性にっいて、茶の加工技術の向上・生産量の増大と. 徽宗皇帝超倍は、大観茶論のなかで闘茶の技術につ. いう問題を背景にして、いささかの検討を加えてみ. いて詳細に述べた皇帝であり、この『大観茶論』の. たものである。. 指摘も、闘茶の普及と生産量の増大の関連性がみら れるのではなかろうか。. 闘茶が春修と浪費であるという見解もある[劉昭. 茶は、宋代にかぎっても、国家による茶の専売と. 国境警備、異民族との茶馬貿易、そしてそれらを包 括する茶法の問題、茶の綴密な分類、茶葉あ管理体. 瑞2002前掲書:130]が、それは闘茶がある程度普及. 制の実態などさまざまな問題をふくんでいるが、将. していたからこそ、そこまで言われたとも看取でき. 来的には、闘茶を中心にさらに綴密な論証をしたい. るのではなかろうか。闘茶がどれだけ人々の間に普. と考えている。. 及したかを示す数値は、記録に残されていない。し. かしながら先行研究と一次資料から、上層部から一. 参考文献. 般の人々にまで闘茶が浸透し、それも少なくとも茶. 井上範男:宋代茶業の専業化について,史叢,1990,. の流通を促進させたひとつの要因と推測できるかも しれないと、現段階では私は考えている。. 44,. 41−52.. 梅原郁:宋茶法の一考察,史林,I972,55−1,1− 37.. 1V. 王仁湘:飲食与中国文化,人民出版杜,1993.. おわりに. 王沢農主編:中国農業百科全書茶業巻,農業出版杜,. 以上、本論では、片茶の加工技術の向上、とりわ け乾燥・保存法の発達、栽培学からみた茶樹の生育. 1988.. 王鎮恒、王広智主編:中国名茶志,中国農業出版社,. 条件、唐代宋代の茶の生産量、民間・官営の茶園の. 2000.. 状況、生産地域に茶の価格、流通機構などを述べ、. 欧陽惰:新唐書食貨志一,l060.. 茶の加工法の進歩と茶の品質向上、茶の品質向上と. 夙志:中国貢茶,漸江撮影出版杜,2003.. 闘茶の普及、闘茶の普及と茶の需要拡大の関連性に. 院浩耕、王建栄、呉勝天:中国茶芸,山東科学技術. ついて、同. 時代の茶書『大観茶論』と、現代の中国. における先行研究をもとに推測した。. 出版社,2002 呉自牧:夢梁録,l147. 察嚢:茶録,1064.. 東洋史と中国文学の専門家による先行研究では、. 佐伯富:中国史研究第3. 茶の加工法や茶の流通の問題、茶法についてそれぞ. 同朋社,1977.. :王安石中央公論社,1990.. れ詳細な研究があるが、加工と生産、流通の関連性. 宍戸佳織:明代開中法の研究一在司納銀制と馬文. について分析した先行研究はまだ少数である13。本. 升,早稲田大学大学院文学研究科史学(東洋史)専. 稿は技術が生産の発展に与えた影響と、宋代に流行. 攻修士論文,1996.. した飲茶の一風俗である闘茶との関連について、分. 宍戸佳織:中国の茶館文化一北京の茶館と茶芸館,. 析を試みたものである。. ヒューマンサイエンスリサーチ,2002,11,69−. 茶の加工技術と生産量の増大については、茶の加. 87.. 工技術の普及から闘茶の普及、闘茶の普及と生産増. 朱自振、沈漢:中国茶酒文化史,文津出版,1995.. 大の相互関連性をみるという形で、闘茶を媒介にし. 朱世英他主編:中国茶文化大辞典,漢語大詞典出版. て、一次資料と先行研究からいささかの推測をくわ. 社,2002.. えることができたのではないかと思う。宋代に一般. 審案老人:茶具図賛,1269.. の人々の間にまで流行した闘茶は、当時の茶の加工. 施隻東主編:品茶説茶,漸江人民美術出版社,1999.. 技術の進歩、茶の生産量の増大といった問題すべて. 蘇祝成、王岳飛:中国茶産業,漸江人民出版社,2003.. に影響をあたえた、中心的な現象ではないかと、現. 宋子安:東渓試茶録,年代不明だがI048年以後とさ. 在考えている。本稿では、宋代の飲茶の風習におい て、換言すれば宋代の茶文化においての闘茶の重要. れる.. 雫綬:宋会要,南宋年間出版.(佐伯富:宋代茶法研. 一165一.

(14) 人問科学研究. Vo1.18,No.2. (2005). 劉勤晋:中国唐宋時代の製茶方法及びその変遷,茶. 究資料,東方文化研究所,1941.87−92所載). の湯文化学会会報,2004,41,4−5.. 孫洪升:唐宋茶業経済,社会科学文献出版杜,2001.. 高橋忠彦:唐宋を中心とした飲茶法の変遷について,. 劉昭瑞:中国古代飲茶芸術,陳西人民出版社,2002.. 蓼宝秀:宋喫茶法与茶器之研究.国立故宮博物館.. 東洋文化研究所紀要,1989,109,243−272. :『茶録、茶具図賛』の国字解について(下)1. 1996.. 路遇、膝沢之:中国人口通史(上),山東人民出版杜,. 学芸国語研究,1996,28,123−131.. :宋の点茶文化をめぐって,高橋忠彦編;. 2000.. 東洋の茶,淡交杜,2000.. :中国の文献に見える茶の水色,茶の湯文. 註. 1. 化学会会報,2004,41,4.. 本稿では、北宋の首都沐京(現在の開封)、南宋. 脱脱:宋史,1345.. の首都臨安(現在の杭州)を、それぞれ現在の地. 棚橋箪峰:中国茶文化,紫翠会出版,2003.. 名開封、杭州とよぶ。. 2. 超倍:大観茶論,1l07.. 本稿では北宋をおもに考察するが今回、北宋の. 趨汝礪:北苑別録,1186.. 茶書の中で茶の製造過程についての絵画資料を見. 陳新華:中国一茶的故郷,香港文化教育出版杜,1994.. 出すことができなかったため、茶の製造をしめす. 陳橡:茶業通史,農業出版社,1984.. 絵画資料として南宋の『茶具図賛』をもちいた。. 陶徳臣:中国茶業経済史研究総述,農業考古,中国. 3. 現在でも、モンゴル民族、チベット民族などは 茶を常飲することによってビタミンを摂取してい. 茶文化専号,2001,22,245−258.. 中国茶業経済史研究総述(続),農業考古,. る。. 4. 中国茶文化専号,2002,23,258−270.. 5. 童啓慶:茶樹栽培学.農業出版社1979.. 別名団茶ともいう[古林1987前掲書:72]。. 散茶は現在の茶に形状が類似し、花茶は現在の. 布目潮瀬編;中国茶書全集,汲古書院.1987.. ジャスミンティに近いとされる[布目1995前掲書:. 布目潮掘:中国の茶書.平凡社.1976.. 171]。. 6. 中国喫茶文化史,岩波書店,1995.. 北宋後期の政治家王安石が行った、国家経済再. 中国茶文化と日本,汲古書院1998.. 建のための諸政策をさす。以後、新法等と新法に. 中国茶の文化史一固形茶から葉茶へ,研. 反対する旧法等(司馬光、欧陽僑など)と国家を. 二分する政争となり、北宋減亡の一要因となった. 文出版2001.. [佐伯1990:137−151]。. 古林森広:宋代産業経済史研究,国書刊行会.1987. 中国宋代の社会と経済,国書刊行会.1995.. 7. 方健:宋茶書考,張其凡主編;宋歴史文化研究,人. 含む。. 8. 民出版社.2000.. 本論での「茶器」は、茶の加工にもちいる器も 中国の各王朝では、竜は皇帝、天の象徴であり、. 鳳鳳は皇后、地の象徴であり、一対をなす概念で. 星斌夫:中国社会経済史語彙(正編),東洋文庫近代 中国研究センター.1966.. あつた。. 中国社会経済史語彙(三編),光文堂書店.. 9. 湖州は、唐の陸羽が活躍した土地のひとっであ り、現在でも陸羽茶文化研究会が存在する。. 東洋文庫近代中国研究センター.1988.. 水野正明:宋代における茶の生産について,待兼山. 10新暦の4月初めごろをさす。2004年を例にとる. と4月4日であった。古来中国ではこの時期連れ. 論叢,1983,17,25−51.. 立って墓参にいく習慣があった。. :宋代における喫茶の普及について,宋代史研究会. 11畝(ムー)は中国の田畑の単位であり、1畝=. 編;宋代の社会と宗教,汲古書院.1985.. 1/15haである。. 守屋毅:喫茶の文明史,淡交社,1992.. 12官茶の価格は公式の記録に残りやすいが、私茶. 熊蕃:宣和北苑貢茶録,1182.. の価格は性質上記録に残りにくい。. 挑國坤、他:中国茶文化,上海文化出版社,1991. 陸松侯主編:茶葉審評与検験,中国農業出版杜.2000.. 13茶の品質向上と闘茶の普及については、一次資. 一166一.

(15) 中国宋代における茶の加工法の変化と闘茶. 料では『大観茶論』において[超倍1107前掲書:. 3丁右]、先行研究においては院と劉昭瑞が記述し. ている[院2002前掲書:16コ. [劉昭瑞2002前掲. 書:138]。闘茶の普及と茶の需要拡大の関連性に. っいては一次資料ではやはり『大観茶論』が[超. 倍1107前掲書:1丁左一2丁右]、先行研究で施が とりあげている[施1999前掲書:36]。宋代の茶の. 加工法と流通の関連性について、福建をとりあげ て古林森広先生が考察されている[古林1995前掲 書:248−276]。. 一167一.

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参照

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