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近世中日両国の民衆教育に関する 比較史的研究

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近世中日両国の民衆教育に関する 比較史的研究

―両国民衆教育普及の相違とその要因の考察を中心に―

論文概要書

早稲田大学大学院教育学研究科 博士後期課程 教育基礎学専攻

胡 学亮

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一、本研究の目的

本研究の目的は、近世中国と日本における民衆教育を取り上げ、比較教育史の視点から 両国民衆教育の普及状況の相違とその諸要因、とりわけ文化的な要因を実証的に考察し、

両国の伝統的な教育観や学校観とその文化的・構造的な違い及びそれが両国の民衆教育の 普及に及ぼした影響を究明することにある。文化的要因の分析に際して、中国の教育は「選 抜・目的達成」型であり、日本の教育は「普及・教養向上」型であるという仮説を設定し、

その妥当性を近世中国と日本の民衆教育における諸教育機関の実態、性格及び近世両国の 教育と社会構造やシステムの比較的分析を通して実証的に考察する。

周知のように、近代の中国と日本の教育における大きな相違点の一つとして、両国の教 育普及状況に著しい格差が存在していた。すなわち、日本では「学制」公布直後の 1873(明 治6)年の小学校就学率は 28.1%であったが、その後約 30 年間に就学率は急速に上昇し て 90%台に達し(1902 年)、義務教育がほぼ完成したとみることができる。一方中国では、

1904(光緒 29)年に日本の教育をモデルとして、近代学校制度である「奏定学堂章程」が 発布され、強制的な義務教育が試行された。それ以来、多くの義務教育振興計画が各レベ ルの教育当局により策定され、それに基づいて精力的に就学督促が行われた。それにもか かわらず、学齢児童の就学率は、30 年を経た 1935 年の段階でも全国平均で僅か 30.1%に すぎなかったのである。このような、近代中国と日本の間で教育普及の著しい相違が生じ た背景について、従来の研究では、両国の貧富の差という経済的な要因、あるいは中国が 半植民地・半封建国家であるという政治的な要因、あるいは中国の人口が日本のそれより かなり多く、面積が日本より遥かに広いという地理的な要因、などが指摘されてきた。こ れらが格差をもたらした要因であるとすることについては、両国の研究者間でほぼ定説と なっている。

しかし、このような定説では説明できない事象がある。この点について、事例1「中華 人民共和国建国以来の非識字率の高さ」、事例2「清末民初における『日本型教育』の導入 と就学率の低さ」、事例3「19世紀半ばにおける中日両国民衆の『教育熱』の差」を取り上 げて分析した。その分析内容は本論に詳述したが、分析の結果、中日両国における教育普 及の差は、単なる政治制度、経済発展、教育政策等の原因だけによるものではなく、他の 重要な要因が存在し、これに政治・経済発展・政策などの要因が加わって、格差が生じた と理解するのが妥当と考えられる。

このような両国間の民衆の教育普及の格差は、既に近世にも顕著にみられたのであり、

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その要因を探るためには、後述するような理由から、むしろ近世を分析対象として比較検 討することが有効であると考える。

19世紀半ばの両国の教育の普及状況をみると、日本では初等教育が既にかなりの程度に まで普及していた。R.P.ドーアは多様な資料に基づいて分析し、幕末・明治初年の日本全 国の平均就学率は男児43%、女児10%に達していたと推定している。また、広岡亮蔵は農 村地域である京都府北桑田郡の就学率について、男児は70%を下らなかったと指摘し、「僻 遠地山村のこの事例の場合からは、最下層の樵夫、小作人を除くすべての身分」が寺子屋 に就学していたであろうとしている。しかし一方、ほぼ同時期の中国の場合、全国的にみ て就学率はせいぜい13%であり、日本の3分の1以下に過ぎなかった。このような近世の 両国間にみられた民衆教育普及の著しい相違の原因は、何に求められるのであろうか。

江戸時代の民衆の教育普及に大きな役割を果たしたのは、寺子屋である。石川謙は、近 世になって寺子屋が急速に発展するためには、民衆階層の間に文字の必要性に対する自覚 が芽生えていることが前提であると考え、その要因を2つを挙げている。1つは「商業資 本主義の台頭」であり、もう1つは「幕府諸藩による法令類の発布」である。このような 論点は寺子屋の発生や普及の原因を説明する定説となっている。しかし、この2つの要因 は 19 世紀半ばの中国社会においても既に存在していた。馬家駿等の研究によると、アヘン 戦争(1840 年)前の中国は、全国的な経済発展水準や国内統一市場形成の面では日本より やや遅れていたが、商品経済と資本主義的要素が比較的発達していた長江以南と東南沿海 の一部地域においては、経済発展の水準は日本のそれと比べて決して遅れてはいなかった とされている。従って、この時期の中国においても、生産者や顧客・同業者との書簡の往 復、各種帳簿類への記入は、必要不可欠であり、民衆の間に読み・書き・計算能力の必要 性に対する認識が日本と同じように増えていたと考えられる。

また、当時の両国の教育システムをみると、中国では初等教育段階の民衆の教育機関と して、地方官学の義学のほかに、私学である族塾や啓蒙私塾が設けられていた。清朝政府 は、人材を確保するため、義学に通っている経済的に貧しい「優秀」な児童に対して、学 費全額を免除するという政策をとった。さらに、義学、族塾や私塾の優秀な児童が地方の 官学である中等教育以上に相当する書院に進学もでき、官学入試に合格すれば、地方官立 の府学・県学に入ることができた。それだけではなく、官吏の採用試験である科挙の受験 も可能で、合格すると各レベルの官吏になることができた。一方、近世日本では、藩校と 寺子屋が互いに関連し合うことは原則として無く、進学の途もそれぞれの身分に固有のも

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のとして存在し、閉鎖的であった。すなわち、近世の日本社会において民衆は、中国人の ように勉学を通して階層移動することはできなかったのである。それなのに、なぜ日本人 の民衆の間では「教育熱」が高かったのだろうか。これは、明らかに従来の研究結果によ って説明できない事象である。

以上指摘した状況を踏まえ、本研究は、中日両国間における教育普及の著しい格差が近 代においてだけでなく、既に近世においても存在していた点に着目し、それは単に経済発 展の状況や政治制度、教育制度などの相違によるものでなく、両国の民衆における教育に 対する考えに根差すものであり、両国の伝統的な教育観や学校観に起因するところが大き いのではないかとの仮説に立脚する。本研究は、このような仮説に立って、両国民衆教育 の普及状況の相違とその諸要因を分析し、両国の伝統的な教育観・学校観とその文化的・

構造的な違いと、それが両国の民衆教育の普及に及ぼした影響を究明しようとするもので ある。

なお、本研究において近世を対象の時期として比較検討することの有効性について、簡 単に説明しておきたい。第 1 に、この時期には、清朝の中国と徳川幕府の日本は双方とも 既に封建社会の後期に入り、自給自足の自然経済体制を維持しながらも資本主義の芽生え が現れていた。第2に、両国間の経済発展水準は大きく違わないことがあげられる。第3 に、この時期においては、両国とも欧米の文化や教育思想の影響は強く受けていなかった のである。第4に、この時期においては、両国間の民衆教育普及率の格差が既に存在した からである。したがって、近世は本研究の仮説を検証するのに適当な時期であるといえる。

また、本研究における両国の「近世」の時代的範囲と「学校観」の概念を簡単に確認し ておきたい。まず「近世」の時代範囲を示すと、日本史における近世の起点と終点を巡っ て諸説あるが、本研究では江戸幕府が開かれた 1603 年から、大政奉還の 1867 年までの 265 年間を近世とする。一方、中国史においても近世の範囲に諸説あるが、本研究では、日本 と対応させるため、近世は清代(1644-1911)を指すものとする。

次に「民衆の伝統的な学校観」について、その意味を確認すると、本研究では「学校観」

とは学校教育に対する考え方、意識や態度と理解する。また、学校観を取り上げる場合、

その「観」(考える)ずる主体と対象(内容)の2つが問題となる。「観」ずる主体とし ては、国家権力に関わっている人々、学校の経営者、子どもを入学させる親たち、民衆教 育に携わった教師(師匠)たち、学校に入学した子どもたちなどをあげることができる。

また、「観」ずる対象(内容)としては、学校(教育機関)の経営方針、教育内容、教養

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観、子どもを入学させる意図、などの学校教育に関わるあらゆる側面である。本研究の視 点や目的から、「観」ずる主体は被支配階級として広く勤労に従事する多数者の集団、す なわち主に民衆に限定することにし、必要に応じて支配者の「観」に触れることにする。

また「伝統的」というのは、ある国の固有文化に関わる古くからの様式・思想・傾向なも のである。したがって、本研究では「民衆の伝統的な学校観」を定義し、ある歴史的文化 的条件の下に、被支配階級として広く勤労に従事する多数者の集団としての民衆が、主観 的に、教育の日常的意味としての学校教育を受ける意図(あるいは欲求)と理解すること にする。

以上のように、本研究の課題は、中日両国の教育普及の差が生じた要因として、①諸民 衆教育機関の性格にかかわる要因、②民衆教育政策や教育制度にかかわる要因、③社会構 造や経済発展水準に関わる要因を分析するとともに、特に④伝統的な学校観など文化的な 要因に着目し、これらを比較教育史の視点から実証的、総合的に考察し、近世両国民衆教 育普及の相違とその要因を究明しようとすることにある。

二、分析の枠組みと本論文の構成 1、分析の枠組み

本研究における課題を究明するため、次のような5つの分析の枠組を設定する。

(1)近世中日両国の諸教育機関について、それぞれの教育対象、教育機能を分析して 両国の諸教育機関の全体像を把握するとともに、それを踏まえて両国間の民衆教育の普及 状況にどの程度の差があったのかを実証的に明らかにする。

清代の中国では、中央には中央官立学校である国子監などがあり、地方には官立の府・

州・県学があり、また郷に義学(社学)があった。そのほか、各レベルの書院が官立とし て設けられていた。また、民間の私的な教育機関としては、宗族がその子弟教育のため共 有財産などによって設営した族塾や、教師が個人的に近隣の子弟教育のため設営した私塾 などがあった。一方、江戸時代の日本でも、幕府は昌平坂学問所をはじめ多くの直轄学校 を設置して、御家人教育の組織化を図った。また、諸藩によって建営されたいわゆる藩学 や半官半民の郷学は、この時期において顕著に発展した。さらにはこの時期、民衆層に学 びの場を提供する寺子屋や私塾が急速に増加した。このような近世両国における諸教育機 関は、どのような教育機能をもっていたのか、また実際に両国の民衆教育の普及にどのよ うな役割を果たしたのかについて、経済的・教育的先進地域であった中国の浙江省奉化県

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と日本の尾張国を例にとって検討する。

また、近世の中国と日本の間における民衆教育の普及率の差が一体どの程度であったの かを実証的に明らかにする。中国については、比較的詳細な資料が残されている、清末の 民衆の初等教育に焦点をしぼって、その普及率を明らかにしたい。一方、日本では、民衆 教育の普及に関する研究は数多くなされており、乙竹岩造、利根啓三郎や梅村佳代などに よる研究成果が蓄積されている。本論はこれらの先行研究を批判的に検討するとともに、

幕末の経済先進地域であった枚方周辺の 37 自然村落を対象にして、寺子屋教育がもたらし た民衆教育の普及状況(就学率)を推定したい。

(2)近世の民衆教育に大きな役割を果たした「公的な」教育機関及び「私的な」教育 機関はどのような性格をもっていたのかについて比較し、両国において教育普及の差を生 じた要因としての諸民衆教育機関の性格を究明する。

民衆教育機関の性格を明らかにすることは本論の課題究明において欠くことができない。

なぜならば、教育機関の設立主体、経営形態、教育対象、内容など、いわゆる教育機関の 性格は、民衆教育の普及に多大な影響を及ぼしたと考えられるからである。そこで、本研 究では、近世両国の諸民衆機関がいかなる主体によって設営され、教育対象はどのような 階層の子弟であったのか、また学習者はどのような知識を身につけたのか、教育費の負担 はどの程度であったのかなどを検討し、民衆教育機関の性格を明らかにする。

具体的には、まず両国の地方的な「学校」といわれる義学と郷学を取り上げ、それぞれ の性格について分析し、比較する。次に両国民衆の「私的」な初等教育機関、すなわち日 本の寺子屋と中国の族塾や啓蒙私塾を取り上げ、それぞれの開設の実態や性格を明らかに する。中国の場合については、『地方志』や族譜、回顧録など史料を用いて、長江以南の地 域を中心に族塾と啓蒙私塾の開設、経営、教育活動などを分析しながら、清代民衆の主要 な私的初等教育機関の性格とその民衆教育普及に果たした役割を究明する。一方、日本の 寺子屋については、本論では、先学の優れた研究業績を踏まえながら、寺子屋の普及状況 やその性格の見直しを試みる。

(3)両国の民衆教育の政策、学校体系及び試験制度などについて比較し、それらが両 国の民衆の教育普及に及ぼした影響を明らかにする。

まず両国の民衆教育機関の開設・普及と民衆教育の政策とのかかわりを考察する。近世 両国の民衆教育機関は民衆の文字学習の需要から自生的に発生し、普及したのであろうか、

それとも権力側の奨励や援助、強制によって普及したのであろうか。これは、近世両国に

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おける民衆教育の普及状況の相違の要因を究明するにあたって、避けることができない重 要な課題である。本論では、先行研究を踏まえながら、近世両国の民衆教育政策を取り上 げ、両国の公権力と民衆教育とのかかわりを探ってみたい。

次に、近世両国の進学システムや学習者の進路について検討する。上述したような両国 の学校体系の下で、それぞれの学習者はどのような段階を踏んで進学したのであろうか、

両国のそれぞれの事例を分析し、その実際を明らかにする。

さらに近世両国の試験制度について比較する。中国の官僚任用試験制度すなわち科挙が 中国の民衆教育にどのような影響を与えていたかを検討する。一方日本についてみると、

江戸時代の後期に、幕府が昌平坂学問所の拡充を図り、定期試験である「学問吟味」と「素 読吟味」を導入し、また私塾咸宜園で9等級の進級試験が行われていたことはよく知られ ている。これらの試験制度はどのような目的から実施され、科挙と対比してどのような特 質をもっていたのかを探る。これにより両国の異なった試験制度が民衆教育の普及に与え た影響を分析する。

(4)近世両国の社会構造、生産力、商品経済発展レベルについて比較し、両国の教育 普及に差を生じた背景としての、社会構造や経済発展水準に関わる要因を明らかにする。

本研究においては、両国の社会構造と民衆教育との関係を具体的に検討することが不可 欠である。なぜなら、近世社会は、身分・階層に応じて政治的経済的活動だけでなく、生 活のあらゆる側面にまで厳しい統制を及ぼす社会であり、このような統制が教育活動にも 当然及んでいたと考えられるからである。両国の民衆教育は民衆の自発性に基づいて行わ れていたのか、それとも受動的に行われていたのかについて、両国の社会構造のなかで把 握するため、近世両国の社会構造の特徴を考察し、そこから両国の民衆が学習する意図を 分析する。

次に、近世両国の経済発展状況が民衆教育普及に与えた影響を検討する。石川謙や入江 宏などの先行研究においては、寺子屋は商品経済を土台として飛躍的に発展し、民衆の文 字学習への要求は本質的に生産力の向上に直結した問題と捉え、商品経済の展開―生産力 の向上―文字学習への要求の増大―寺子屋の激増という理論を提示した。したがって、近 世における中日民衆教育の普及状況の差の要因を探る際に、両国の農業生産力や耕地面積、

農民の生活状況及び商品経済の発達について、比較しなければならないのである。

(5)文化的動機から、近世両国民衆の教育に対する需要を考察し、教育普及の著しい 差を生じた文化的な要因を探る。

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すなわち、両国の民衆がどのような目的で教育機関を開設したのか、教員が何のために 子どもに教えるのか、父母がどのような動機から子どもを学習させたのかを当時の調査記 録や回顧録などに基づいて考察する。また、このような民衆の教育の需要について、両国 の教育と社会構造を比較し、両国民衆の伝統的な学校観とその文化的・構造的な違い及び それが両国の民衆教育の普及に及ぼした影響を明らかにする。さらには、中国の「選抜・

目的達成」型教育と日本の「普及・教養向上」型教育が形成された文化的な背景を探るこ とにする。

2、本論文の構成と基本史料

本論文は、以下に示すように、序章と終章を含めて 6 つの章から構成されている。

論文目次

序 章

一、本研究の問題意識

二、本研究の視点と分析の枠組み 三、本研究の構成と基本資料

第1章 両国の民衆教育の普及に果たした諸教育機関の役割

第1節 近世両国の諸教育機関―奉化県と尾張藩の事例を中心に―

第2節 清末中国と幕末日本の初等教育の就学率

第2章 両国民衆の「公的」な初等教育機関の性格に関する比較 第1節 義学と郷学の設立の趨勢

第2節 義学と郷学の設営 第3節 義学と郷学の教育対象

第4節 義学と郷学の教育活動と教育機能 第5節 義学と郷学の近代学校への橋渡しの役割

第3章 両国民衆の「私的な」初等教育機関の性格に関する比較 第1節 中国における族塾の発達とその性格

第2節 中国における個人経営の啓蒙私塾の発達とその性格 第3節 日本における寺子屋の発達とその性格

第4節 私的民衆初等教育の中日比較

第4章 両国の民衆教育普及の相違における教育的・社会的要因 第1節 両国の民衆教育政策と試験制度

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第2節 両国の社会構造と経済発展の水準

第3節 「普及・教養向上」型教育と「選抜・目的達成」型教育 終章

一、研究全体の総括 二、研究の結論 三、今後の研究課題

主要参考資料 付録

なお本研究で用いる史料について述べると、中日文化に関する比較研究の成果や、日本 の寺子屋及び中国の私塾等に関する研究成果に学びながら、なるべく両国の第一次史料を 用いて考察することに努める。中国の史料については、華中地方を中心とする清末刊行の 150 県を越える『地方志』、25 宗族の族譜、70 人の回顧録・自伝などを中心に利用する。

日本の史料については、文部省の『日本教育史資料』をはじめ、各地域の地方誌・教育史 のほか、「寺子入門帳」、筆子塔・筆塚などの石造物の碑文などの資料を利用する(付録:『主 要参考文献』を参照)。

三、考察結果

本研究では上述した5点の分析の枠組に基づき、比較教育史の視点から実証的に考察し た。考察の結果はおおよそ次の通りである。

第1章「両国の民衆教育普及に果たした諸教育機関の役割」では、近世両国における多 様な教育機関がどのような教育機能を発揮したのか、また両国の民衆教育の普及にどのよ うな役割を果たしたのかを明らかにし、両国間における民衆教育の普及率の差が一体どの ぐらいであったのかについて考察した。

第1節では、近世両国の諸教育機関を概観しながら、経済が比較的発達していた浙江省 奉化県と尾張国の場合を中心に、両国の諸教育機関の性格及び両国民衆の教育普及に果た した役割について明らかにした。清末の 1909(宣統元)年の奉化県における教育機関の種 類と機関数をみると、地方官学である県学が1校、書院が1校、義学が 24 校、族塾が 28 校、啓蒙私塾が 399 校設けられていた。この中で県学や書院は、その在学者総数が僅少で、

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それぞれ約 60 人と約 120 人であり、しかも読み書きを施す初等教育機関ではないため、両 者が直接に民衆教育の普及に果たした役割は非常に低かったといえる。これに対して、啓 蒙私塾の在学者総数は約 5,920 人で最も多く、次いで族塾の在学者総数が約 560 人、義学 の在学者総数は約 480 人であった。三者の人口1万人あたりの在学者も、それぞれ約 181 人、17 人、15 人で、県学の2人と書院の4人と比べてはるかに多かった。この3つの教育 機関は、いずれも識字や「読書」を中心とした初等教育機関であった。それだけではなく、

教育対象においても、三者は広く一般の民衆に門戸を開放している。したがって、啓蒙私 塾、族塾及び義学は、民衆に初歩的教養を教えるための初等教育機関であり、清代の中国 民衆の教育普及に直接貢献した主要な教育機関であるといえる。一方、幕末の尾張藩を例 にとってみると、同藩には幕末に藩学が1校、私塾が 25 校、郷学が5校、寺子屋が 629 校存在した。各教育機関の在学者数については、最も多いのは寺子屋で 21,889 人にのぼっ た。次いで多いのは私塾で 2,142 人であった。郷学の在学者総数については 400 人前後と 推測される。以上のことから、民衆教育の普及に大きな役割を果たしたのは寺子屋である ことがわかる。また、民衆を対象とした郷学はその数が少ないが、日本の教育の歴史の中 で民間有志によって学校が建てられ、民間子弟のための学校教育が行われた意義は大きか ったといえよう。これに対して、尾張藩学明倫堂や陪臣・軽輩を対象とした郷学は、民衆 の入学を認めておらず、直接に民衆教育の普及に貢献しなかった。また、私塾の在学者総 数は、寺子屋に次いで二番目に多く、在学者中に一部民衆の子弟が含まれている。しかし、

私塾は寺子屋と違って、中等ないしは中等以上のレベルの専門教育機関であり、そこに寺 子屋での学習を終えた一定数の子どもが入学したという傾向から判断して、民衆の初等教 育の普及に大きく貢献したとはいいがたい。つまり、教育機関の機能と開設の数量などか らみると、啓蒙私塾と寺子屋は両国のそれぞれの主要な民衆の教育機関であり、民衆教育 の普及に重要な役割を果たしたことがわかる。

第2節「清末中国と幕末日本の初等教育の就学率」では、近世両国の民衆初等教育の就 学率ついて考察し、比較した。中国の場合は、資料的制約のため、清末の近代学校制度導 入期を対象にして、民衆の初等教育の普及率を推定した。まず、1907 年の第1次全国教育 調査統計と各種の人口資料によりながら、近代学校制度に基づく初等小学堂の就学率を推 計し、全国的な初等小学堂の平均就学率は 1.88%に過ぎなかったという結論に達した。次 に、近代学校制度が発足した直後に各地に数多く存在していた旧来の民衆教育機関として の私塾を対象とし、その就学率を検討した結果、地域の経済発展の相違により私塾の就学

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率は 4.2%から 15.6%までの幅があったが、平均すると 11%前後である。したがって、清 末の近代学校制度を導入した直後の初等教育の就学率は、初等小学堂の2%と私塾の 11%

で、計 13%前後であると推計できる。一方、幕末日本の民衆教育の普及状況については、

まず、寺子屋の就学率に関する数多くの先行研究を考察した。乙竹岩造による江戸の寺子 屋への就学率の推定と広岡亮蔵による京都府北桑田郡の寺子屋の就学率の推定があるが、

海原徹の修正によれば前者は実際に約 60%、後者は 20%となる。また、利根啓三郎の推定 によれば、農村地域である上野国勢多郡下箱田村における寺子屋の就学率は 38%(1865 年現在)となり、信濃国安曇郡稲垓村の寺子屋への就学率は、1843(天保 14)年の 23.3%

から 1847(弘化4)年の 27.9%、1853(嘉永6)年の 34.9%を経て、1873(明治6)年に は 46.5%となった。また筆者の推定では、1865(慶応元)年の現大阪府枚方市域の自然村 の就学率は 42.6%を超えていた。以上の考察から、地域差があるものの、幕末における就 学率はおおよそ 20%から 60%の水準にあることが明らかになった。このように、就学率が 低い地域とみられる京都府北桑田郡の幕末(1860 年代)における就学率は、清末(1910 年代)中国での教育の先進地域であった浙江省諸曁、岱山、奉化県のそれを上回っていた。

全体的にみれば、日本の民衆初等教育の就学率は中国の3、4倍とみることができる。

第2章「両国民衆の『公的』な初等教育機関に関する比較」では、地方的な「学校」と いわれる中国の義学と日本の郷学の性格、教育対象や教育活動などについて比較し、考察 した。

第1節「義学と郷学の設立の趨勢」では、中国の 88 県(州)の『地方志』と『日本教育 史史料』など史料に基いて義学と郷学の開設状況を調べた。両教育機関はは両国において も地域間格差が認められるものの、17 世紀に入ってから各地域で本格的に発展・普及した ことが指摘できる。

第2節「義学と郷学の設営」では、義学と郷学の設立と経営様式について考察した。両 者とも為政者経営型、官民協力経営型、民間有志者経営型に類型化することができる。ま た為政者経営型を除いて、官民協力経営型と民間有志者経営型においては、両者ともその 大部分は個人の経営によるものではなく、その発起人・経営者・出資者は数人から数 10 人、場合には 100 人を超え、一種の共同体のようなものを形づくっていた。さらに両者と もに学校の経営者と教育者(主体は教師)との分離がみられた。このように、義学と郷学 は、設立と経営方式において多くの共通点があったことがわかる。

第3節においては義学と郷学の教育対象について考察し、比較した。中国の『地方志』

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で教育対象が明記されている義学(88 県(州))の中で、村民の子弟と貧民の子弟を対象 にしたのは合わせて 95.3%であった。一方日本の郷学では、藩士や陪臣の子弟を対象とし たものがあったが、半数を超える郷学は民衆に門戸を開放し、一般の民衆層まで対象を広 めていたのである。このように郷学は一般の民衆の入学を認めたが、しかしその主眼は大 庄屋・名主・年寄・豪農・神官・医者など民衆階層中の指導者の教育にあった。これに対 して、義学は専ら貧民の子弟を対象にしていたことが指摘できる。

第4節では中国の清末の各地域の『地方志』と『日本教育史資料』などを分析し、義学 と郷学の教育活動と教育機能について、次のようなことを指摘できる。①両者の在学生徒 数については、義学の1校あたりの生徒数は普通 20 人以下であったのに対して、郷学の場 合は生徒数 50 人以上が大半を占めていたが明らかになった。②両者の課業時間はほとんど 丸一日で、課業期間も一年中の大部分にわたっており、全日制のようなシステムをとって いたことがわかる。③入学年齢については両者とも7、8歳から入学する場合が多かった。

④学習期間からみれば、郷学は7年間前後のものが多く、義学より長いといえる。⑤学習 内容からみれば、義学では習字や神童詩や千家詩など、初等教育の原典を中心として啓蒙 教育が行われていた。他方、郷学も啓蒙的・初等的な教育任務を背負っていたのであるが、

学習年限が5年を超えた大半の郷学は、その教育機能が啓蒙的・初等的な教育段階に止ま らず、中等程度あるいはそれ以上の教育役割を果たしていたことが明らかになった。

つまり、義学も郷学も民衆に対する一種の「公的」教育機関であり、両者は8歳前後か ら始める児童教育で、読み(読書)書き(識字)が主要で、それに漢文(詩)の簡単な素 読を授け、啓蒙的・初等的な教育機能を担っていたといえる。したがって、その性格から みて、義学と郷学は両国の民衆教育普及の格差に及ぼした影響は少ないといえる。

第3章「両国民衆の『私的』な初等教育機関に関する比較」では、近世における両国の

「私的」民衆初等教育機関、すなわち中国の族塾、啓蒙私塾と日本の寺子屋について、そ れぞれの教育対象、設営形態、学習内容、教育活動などを考察し、諸教育機関の性格を明 らかにするとともに、それが両国の民衆教育の普及にどのような影響を与えていたのかを 究明した。

第1節「中国における族塾の発達とその性格」においては、まず安徽省休寧県銘洲村の 呉氏一族を例として、族塾の経営基盤である宗族集団の形成過程を検討した。一族が集り 住むこと、共有財産いわゆる「族産」と祠堂を設けること、族譜や宗族組織を作ることは 宗族集団の形成特徴であると指摘し、宗族集団の発展、特に一族結合の強化と義荘・義田

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などの族産の拡大につれて、族人の子弟を教育する機関、すなわち族塾が生まれてきたこ とを明らかにした。次に、族塾が中国各地で開設された状況について、数多くの族譜と浙 江省『鄞県通志』など地方志を用いて調べた。清末の浙江省鄞県では、13%の宗族が族塾 を開き、族塾の教育が全国まで普及していたと指摘できる。また、族塾の教育対象につい て、「資力のない子弟を対象とする」族塾は全体の 21.4%しか占めていないのに対して、「資 力のなく、かつ人格優秀な子どもを対象とする」族塾と「才能のある子弟を対象とする」

族塾は合わせて 60.7%を占めている。本来族塾は一族の貧しい人々を救済するための族立 義学であったが、清代になるとその大部分は貧しい者より優秀な者を優先して入学させる ようになったことがわかる。最後に、族塾の設営と教育活動について考察した。族塾の設 立形式は 2 つに分けることができる。1つは経済的に豊かな人が「善行」という慈善的な 立場から出資し、もう1つは宗族集団が共同出資することによって族塾が設けられたもの である。ほとんどの族塾は無月謝制をとっていたことから、族塾を経営するために、学田 は族塾の経営が長く続くための主要な、あるいは唯一の安定的な財源である。また、族塾 は啓蒙識字のための初級コースの「蒙塾」と経書を学習する中等コースの「経塾」がみら れるが、大部分は「蒙塾」であることが明らかになった。教育内容は、河南安陽の馬氏族 塾にみられるように、「四書」などの儒学教養の知識を教えると同時に、親孝行を中心とし た道徳教育に重点を置いていたことがわかる。

第2節「中国における個人経営の啓蒙私塾の発達とその性格」では、始めに中国各地の 20 県の『地方志』に基いて啓蒙私塾の開設状況を考察した。その普及状況は私塾1校当た りの人口は 730 人前後であり、児童の啓蒙私塾への入学率が約 10%であることが明らかに なった。次に啓蒙私塾の経営形態に着目し、60 人の年譜や伝記史料をもとに、私塾への入 学年齢、教員学習歴、束脩や学費などについて調べた。主な結果は次の通りである。①啓 蒙私塾は、教員が自宅あるいは寺や祠堂などに設けた教育機関であり、「学金」(学費)は 私塾運営の主要な財源である。②私塾教員の多くは科挙予備試験に合格していないいわゆ る「小読書人」であり、私塾を専業として経営していたのである。③啓蒙私塾への入学年 齢は5歳~8歳に集中していた。また児童が同一の啓蒙私塾において勉学を長く続けずに、

1、2年の経過した後、転学している場合は多かった。④児童数が数人にとどまった私塾 は非常に多かった。1校あたりの平均生徒数はおよそ 14 名である。最後に、私塾の学習内 容を 15 人の回顧録を用いて分析し、啓蒙私塾の学習が科挙の予備試験に関連する主要な科 目を中心に行われていたことが明らかにした。

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第3節「日本における寺子屋の発達とその性格」においては、始めに、『日本教育史資料』

の不備を少しでも補正するため、戦後における寺子屋の研究成果を反映している都道府県 教育史や地方史を調査し、近世日本各地の寺子屋開設の実態を探った。次に、これまであ まり対象とされてこなかった飛騨国大野郡町方村と信濃国更級郡の寺子屋を取り上げ、両 地域の寺子屋の経営形態や教育活動などを実証的に考察した。飛騨国大野郡町方村の場合 は、寺子屋師匠田中右衛門が書き残した「手習子音物受納帳」と『丹生川村史』など史料 をもとにして考察した。その結果は以下のようなものである。①町方村周辺の地域は持高 3石以下の弱小農民が 70%以上を占め、圧倒的多くの農民が苦しい生活を過ごしていたこ とが分かる。②町方村の寺子屋では、1845(弘化2)年から 1868(慶応4)年までの期間 に 99 人(うち女性3人)が入門し、最初の6年間は入学者がすべて村方三役の子弟であり、

その後は村役人階層以外の農民の子弟の入門者数が徐々に増えてきた。また通学範囲は町 方村をはじめ坊方村・殿垣内村・下保村など広範囲に渡り、その影響力は周辺の村に及ん でいたことがわかる。③師匠の田中與右衛門は長い年間村役人を務めており、手習塾を余 業として経営したと推察できる。④児童が納めた束脩や謝儀は非常に低かった。塩鮭4本 と同じ金額で約 60%の児童が1年間寺子屋に通うことができ、さらに謝儀をほとんど納め ていないケースは全体の 11.8%であったことがわかる。また、信濃国更級郡の寺子屋の実 態については、『更級郡誌』、『更級郡埴科郡人名辞典』や寺子屋の門人帳など史料を用いて 考察した。以下の結果を得られた。①1868(慶応4)年現在、更級郡 92 か村の総計は、村 高が約4万石余、総家数は 10,668 軒、総人数は 50,182 人である。一打百姓は 65.8%を占 め、判下百姓は全体の 34.2%である。②更級郡全域で開設された寺子屋は総計 601 校であ り、そのうち、弘化年間前後の 40 年間に開設されたものが約 418 校であり、寺子屋の普及・

発達が著しかった。③寺子屋師匠の身分構成は、農民 52.8%、僧侶・神官 33.8%、武士 6.5%、医者 4.9%、商工 0.7%である。ほとんどの師匠は、医者や僧侶、農業の余業すな わち片手間に寺子に教えていたことがわかる。④8校の寺子屋師匠の年収を推計すると、

金2両が平均的であった。これは村役人の給料とはあまり変わっていないが、実際は、寺 子屋師匠が買い求める教授用の筆・墨・紙・書籍は多いので、結局残された金額はわずか である。⑤24 校の寺子屋の在学者数を求めると、1校あたりの児童数の平均は約 35 名で ある。また女児が全体の 4.2%を占めている。⑥寺子の入門年齢は7歳から9歳が大部分 を占めている。その学習内容については、子どもに読み書きなど基礎知識や技能を身につ けさせることだけでなく、漢学の教養を養い、さらに子どもの行儀や躾などに関する教化

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教育にも力を入れた。

第四節「私的民衆初等教育の中日比較」では、両国の民衆教育機関の性格及びそれが両 国の民衆教育の普及に与えた影響について比較した。その結果を要約すると、①教育対象 については、両者はともにすべての民衆の子弟を教育対象とした。しかし、日本では多く の寺子屋は女子の入学を認めたので、女子に門戸を開放していない中国の啓蒙私塾と比べ て、民衆の教育普及の向上に一定程度貢献したのであるといえる。②設営形態については、

中国の族塾は学田を設け、その収入が教員の給料や子どもの学習用品の費用に充て、一族 の貧しい人々を救済するための教育機関という性格を持っている。しかし、私塾を専業と する啓蒙私塾の教員は、束脩や謝儀の収入で私塾を維持するだけでなく、一家の生計も支 えなければならなかった。一方日本では、多くの寺子屋師匠は家業の傍ら余暇に郷村の子 弟を集めて読み書きを教えていた。本業としていた啓蒙私塾の教員と、兼業が多い寺子屋 師匠の間の違いは、束脩や謝儀の納め方に影響を及ぼし、結果として、直接あるいは間接 的に民衆教育の普及に影響を与えたのではないかと考えられる。③教育内容については、

両者の共通点も多くみられる。すなわち両者とも、主に7歳前後の児童を対象にして、数 年間識字と読書を教え、初歩的な儒学経典を授け、初等的・啓蒙的な教育機能を担ってい たのである。しかし、寺子屋の教育内容は民衆の実生活の必要に配慮されていたのに対し て、啓蒙私塾では、儒学経典の学習に偏っている。④啓蒙私塾においても寺子屋において も、1校1教員は基本的なものである。しかし両者の定員数には大きな差があり、寺子屋 の1校あたりの児童数の平均は啓蒙私塾の2倍位となった。この相違の大きな原因は、中 国の教育は啓蒙私塾から科挙試験に意識し、児童が多いと、教師の手が回らず、教育の効 果が有名無実になる恐れがあるためであると指摘できる。

第4章「両国の民衆教育普及の相違における教育的・社会的要因」では、両国の民衆が 教育を受ける意図について、①両国の民衆教育政策や試験制度、②両国の社会構造、経済 基盤及び③両国の文化的動機など3つの視点から検討し、両国の民衆教育普及の相違にお ける教育的・社会的要因を検討した。

第1節「両国の民衆教育政策と試験制度」においては、まず、近世両国の民衆教育政策 を取り上げ、両国の公権力と民衆教育とのかかわりを探った。その結果として両国当局の 民衆教育に対する政策は本質的には非常に似ていることが明らかになった。具体的には、

①両国当局の民衆に対する教育的関与が、儒学的徳目や法令の説諭を通じた教化にあった という点は、両国に共通である。②両国の当局による民間の諸私的初等教育機関に対する

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政策はともに消極的であったことが指摘できる。このことから、中国の私塾と日本の寺子 屋は民衆の必要性によって発生し、民衆の自らの力で設営された教育機関であったといえ る。次に、近世両国の学校体系の異同について比較し、それが両国の民衆教育の普及に与 えた影響を分析した。中国の教育システムでは、初等教育機関の上にさまざまなタイプの 中等・高等教育機関が接続していたのに対して、日本の諸教育機関、特に武士の学校系統 と民衆の学校系統はそれぞれまったく別個の教育機関として存在していた。また、生徒の 進路については、義学や族塾、私塾の優秀な児童が上級学校である書院に進学ができ、入 試に合格すれば地方官立府・州・県学にも入ることができた。さらに科挙試験に合格し官 僚ともなれば、民衆とは隔絶した地位・身分が与えられた。これに対して日本では、史料 からみると極少数の子弟は寺子屋の学習を修了してから中等・高等教育機関に相当する私 塾へ進学できたが、藩学など官立学校には入学できなかった。したがって、日本の学校シ ステムは中国とは異なり、民衆の階層移動に関して、ほとんどその機能を果たさなかった のである。最後に、両国の試験制度について考察した。中国では、科挙を中心とした試験 制度は、多数の受験者の中から、点数の上位の者だけに特権や優遇が与えられることから、

受験者の成績の評価だけで判断することになり、激しい競争試験となった。したがって、

中国の試験制度は本質的には人材選抜試験であるとともに官僚任用試験であり、選別の構 造をもっている。これに対して、江戸時代に導入された素読吟味、学問吟味、進級試験な どさまざまな試験は、官僚任用制とは結び付いておらず、あくまでも学力の到達をはかる ための試験であり、学問奨励のための試験であった。これらの試験は人々の階層の移動に 役立つことがなく、むしろ学習者の教養を高めるために利用されたのであった。寺子屋教 育の場合は、寺子たちはある資格を取る、あるいは出世するためというよりも、将来の社 会生活や生産活動、商売活動を営めるよう、つまり一人前の大人として生き抜くために、

寺子屋で読み書きなどの基礎知識を身につけようとしたといえる。

第2節「両国の社会構造、経済発展の水準」においては、近世における両国の社会構造 や経済発展水準などについて比較し、両国の教育普及の差を生じた社会的・経済的な要因 を検討した。まず、近世両国の社会構造の特徴を考察し、そこから両国民衆の教育を受け る意図を分析した。近世中国の社会階層の特徴は、支配階層と被支配階層、すなわち官僚 階層と民衆階層が固定されておらず、常に移動可能であった。また、人々の社会階層移動 の決定的な要因は、家族の身分や経済状況が重要であるが、決定的なものは教育であった。

一方、近世の日本は幕藩体制の下の身分階層制、家格制の社会であり、武士と民衆との間

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に身分の移動が基本的に禁止されているだけではなく、武士階層においても、本百姓層に おいても、その身分はほぼ世襲制であった。それゆえに、民衆の教育に対する期待は、階 層の上昇や出世を実現させるというよりも、教養の向上を図ろうとする点にあったと考え られる。このように、近世中国の社会構造や科挙試験は民衆に教育を受けることを奨励し、

人々の出世する機会を提供しており、日本の身分制・世襲制より優れた点をもっていたと いえよう。しかし、中国の社会構造は一種の選別構造であり、家庭や一族の社会的上昇の ため利益を見込んで教育に投資し、逆にそうでない場合は投資しないという現象も出現し、

また優秀な者こそ教育を受ける資格があり、そうでない者は教育の必要がないという社会 意識が生じていた。このような意識が、中国の民衆教育の普及が消極的なものになる大き な要因となったと指摘される。次に、近世中日両国の民衆教育普及の格差は、果たして両 国農民の経済状況や生活水準の相違によるものか否かを考察した。この課題を究明するた めに、中国の鄞県と備前国沼村や水戸藩大門村と馬場村を事例として、近世両国農村にお ける生産力、農民の耕地経営状態等について比較した。まず両国の農業生産力について4 つの指標にわけて考察した結果、①農作における稲作種と収穫量の比率の指標については、

中国の江南地方では、種と収穫量(籾)の比率が1:20 から1:80 であり、日本の1:50 から1:100 より確かに低かったが、両者にはそれほど大きな差異がないといえる。②日 本1反あたりの玄米収穫量は中国より 10%から 20%程度高いことがわかる。③農民1人の 耕作規模という指標については、中国では1人が 6.7 反(約 10 畝)の田地を耕作でき、日 本の5反前後よりやや大きかったのである。④近世両国の生活状況については、日本の農 民たちは中国より生活が苦しかったと推定される。要するに、中国の田地生産性や農作反 収、成人1人あたりの生産力は、日本と比べてやや遅れていたが、1戸あたりの平均耕地 面積が日本より広く、また田賦、地租などにおける農民の負担が日本より軽かったため、

農民の農業経営状態や実際の生活水準は日本のそれと比べて劣ってはいなかった。そして、

日本民衆教育普及の要因の一つである商品経済は、近世中国では日本と比べてどの程度の レベルまで発展していたのかについて探った。その結果を示すと、①そのアヘン戦争(1840

-1842 年)以前、中国の国内市場で1位を占めていた食糧の商品量は、幕末の日本よりや や低かったと推定される。②中国市場で第二の商品であった綿布の商品率については、日 本よりやや高かったと推定できる。③中日両国の生糸の輸出についてみると、19 世紀後半 から 20 世紀初頭にかけて、中国の生糸輸出貿易は日本より盛んに行われていた。これらに より清代中国は日本に劣らないほど商品経済が発達し、一定程度国内市場規模や国際貿易

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規模も形成されていたといえる。最後に、寺子屋教育を受けることができた子どもの家庭 の階層について、下総国葛飾郡法田村と武蔵野国新座郡膝折村を事例として検討したが、

寺子屋に通える子どもは豊かな家庭の子弟に限らず、貧しい家庭にも相当の割合で占めら れていたことが明らかにした。

第3節「『普及・教養向上』型教育と『選抜・目的達成』型教育」では、両国の教育普及 の差が生じた原因として伝統的な学校観など文化的な要因について、宮城・千葉・長野3 県の「教育沿革史材料」、自伝録や族譜など史料に基いて実証的考察した。まず、両国民衆 が教育機関を設けた意図については、日本では民風の改善(教化)のため、生業のため、

慈善のため、村民委託によるもの、などがみられるが、その中で慈善的な意図から開業し たものが主流であったことが明らかになった。その原因を探ると、①寺子屋師匠自身が村 役人・豪農、あるいは僧侶・神官・医者などの本業をもっていて、その生活は束脩や謝儀 に大きく依拠しないで済むため、慈善的な意図から近所の子どもたちを教えたものと推察 できる。②農民師匠の中に村役人が多く占め、彼らは村のリーダーとして村民を教化しよ うとする義務感や責任感をもって、寺子屋教育を推進したのである。一方、中国における 開設意図は日本と類似しているが、日本の村役人が主に民風を改善しようとする義務感や 責任感をもって寺子屋を開いたのに対して、族塾を設けた最も大きな理由は、一族の子弟 を教育し、科挙に合格させるためであった。科挙に合格し、1人の官僚を生み出すことは、

合格した当人だけではなく、その官僚を通じて一族や地方の利害を政治の場に反映させ、

彼らにも大きな利益をもたらすこととなった。つまり、日本の村リーダーたちが寺子屋に 期待したのは、あくまでも民衆教化にあり、それにより多くの民衆に教育をさせ、結果と して民衆教育の普及が広まっていったのである。これに対して、中国の宗族リーダーたち が族塾など啓蒙私塾に最も期待したのは、科挙に合格できるようなエリートを養成するこ とであり、したがってその教育対象が少数に絞られ、中国の民衆教育はなかなか広まらな かったのであった。このことが民衆教育の普及の格差を生み出した主要な原因と考えられ る。次に、両国の民衆が教育に対する需要や期待について考察し、その相違をまとめた。

江戸時代には、日本人の教育に対する期待は単なる実用性だけではなかった。寺子屋の教 育は、読書・習字など、技能学習のほかに、歌謡や儒教関係の講釈による論理学習が重視 された。歌謡や漢学は農民の生産や生活上必要な知識ではないにもかかわらず、それを勉 強しなければならなかったのは、一体なぜであろうか。これは、日本人にとって教育に対 する期待が、日常生活や生産活動の必要を満足させるというよりも、人間としての必要な

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教養を身につける気持ちが強かったためと指摘できる。つまり、寺子屋という教育機関を 通じて、漢学や謡に代表される教養を求めたのであり、その背景には教養志向という意識 が働いていたと考えられる。さらに、このような教養教育を追求した1つの原動力は、周 囲の人に恥をかかせない、したがって同調的な行動をとるという民衆の教育期待であると 指摘できる。一方、中国では、親たちは子どもが学問に精を出すことによって、社会での 成功をもたらすことを望んでいた。換言すれば、中国人が子どもに入学させるのは、何よ りも科挙を受け、出世するためであるといえる。これは、民衆の中に抜き難い富貴への欲 望があり、この欲望が裏返しにされて科挙の「宗教的」な肯定となった。したがって、中 国の教育はほとんど科挙によって規定され、その目的は「人材の選抜」にあり、選抜を前 提とするものとの意識が生じたと考えられる。逆に言えば、科挙合格を見込まれないと教 育の必要がないという教育観は中国人の意識の中に普遍的に存在していたと考えられる。

四、結論と今後の課題

中日両国間における教育普及の著しい格差は、近世においても既に存在していた。その 要因を教育機関の性格から検討すると、両国での民衆の教育普及上もっとも大きな役割を 果たした日本の寺子屋と中国の啓蒙私塾は、設営様式、教育対象、教育内容や方法などに おいて大きな相違はみられず、また両国の地方的な「学校」、すなわち中国の義学と日本の 郷学の性格も類似していた。そのほかに中国の諸民衆教育機関の中には、近世の日本には みられない一族の子弟を対象とする族立の教育機関があった。このことから、近世両国の それぞれの民衆教育機関の性格が両国の民衆教育の普及に格差を生じさせた決定的な要因 として考えられない。

また、教育政策が民衆教育機関の発達に及ぼした影響については、両国当局の私的初等 教育機関に対する政策はともに消極的であった。しかし、教育システムからみると、近世 日本の教育システムは中国と違って民衆の階層移動を可能とする機能を持たず、この点に おいて日本の民衆が学習する外発的な動機は中国より弱かったとみることができる。

さらに、近世両国の経済面からみると、中国江南地方の農作の収穫量の比率、1反あた りの収穫量、成人1人あたりの耕作規模など農業の生産力、自給自足層の割合あるいは農 民の生活水準、商品生産や食糧や綿など農産物の商品化率などは、ほぼ同時代の日本のそ れらと比べて大差はなかった。しかし、近世両国の社会構造の面をみると、中国では階層 の移動が常に可能であった。このような中国社会にみられた階層移動は、家族の身分や経

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済状況などの要因が大きいものの、決定的な要因は教育にあった。一方、日本の江戸幕府 は、武士中心の社会秩序を築き上げるため、身分制度を確立する方策をとり、各人に対し それぞれの階級の分限内における知足安分思想を強く要求したため、日本の民衆は中国の ように、教育によって階層移動することはほとんど不可能であった。

また、両国の試験制度についてみると、中国では科挙を中心とした試験制度が実施さ れ、試験の成績によって合格者を決め、特権や優遇が与えられた。中国の試験制度は本質 的には人材選抜試験であり、選別の構造をもっていたのに対して、江戸時代に日本で導入 された素読吟味、学問吟味、進級試験などさまざまな試験は、官僚任用制とは結び付いて おらず、あくまでも学力の到達をはかるための試験であり、学問奨励のための試験であっ た。これらの試験は人々の階層移動に役立つことはなく、むしろ学習者の教養を高めるた めに利用されたのであったと指摘できる。

日本では幕末になると商品経済の台頭がみられるが、全体的には農民が多数を占め、生 産力が発達しておらず、身分が固定され、自給自足の農業社会であった。本来このような 社会にとっては労働力の再生産は必ずしも必要不可欠なものではなく、民衆の教育に対す る需要も高くないと理解するのが一般的ではあるが、日本では寺子屋が非常に普及したの であり、その普及要因は、定説のように商業資本主義の台頭に基づいて民衆の文字学習に 対する実用的要求が高まりつつあったことに加えて、以下の2つの要因を無視することは できない。第1は民衆の教化目的である。つまり、数多くの農村リーダーたちが寺子屋を 設けた意図は民衆教化にあり、多くの民衆に教育の必要性を認識させた結果として教育が 普及していったのである。第2は教養を身につけるという民衆の学校に対する期待である。

日本の民衆が子どもを教育機関で学習させるのは、子どもの教養を高めることを期待し、

また周囲の人に恥ずかしくない同調的行動をとらせるためであった。前者は人々の内発的 なものであり、人々が自覚的に教育を受けたといえる。後者は他律的な行動であり、自分 の行動に対する世評に気を配り、例え経済的余裕を持たなくても子どもを学ばせたのであ る。これらの要因が相乗効果を起こし、寺子屋への庶民の入学を促し、教育の普及率を高 めてきたのである。

一方、清朝の中国も、官僚の育成のほかに必ずしも教育を必要としない農業社会であっ た。このため、民衆の子どもを教育させる意図としては、官僚任用試験すなわち科挙に合 格させたいという欲望が極めて強かったのである。この欲望は外発的なものである。民衆 がその目的を達成させるため貧困などに耐えても子どもを私塾に入れたのであり、このこ

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とは教育の普及と発展を促進した側面をもつといえるが、しかしこの目的を達成できない 場合は、教育機関で学ぶことをあきらめたのであった。また、中国の農村社会に強い権限 をもっていた宗族リーダーたちが族塾など啓蒙私塾を開いたのは、科挙に合格できるよう なエリートを養成するためであり、その教育対象が少数に絞られ、このこともあり、中国 の民衆教育はなかなか広まらなかったのであった。

このように、近世中日両国の民衆が学校教育に対する異なった考え方や期待は、両国民 衆教育の普及状況の相違をもたらした最も大きな要因であるといえる。つまり、中国の教 育は「選抜・目的達成」型であり、日本の教育は「普及・教養向上」型である。この仮説 の妥当性は本研究で証明することができたと考えられる。

今後の研究課題として次のようなものがある。第1に、近世両国の民衆教育の普及の 格差における女児に対する教育の側面である。中日両国も女子には学問の必要がないとい う儒学的な女性観の影響を受けていたが、しかし幕末の日本では女児の寺子屋への入学率 が約 10%を占めていた。これに対して、中国では女児が啓蒙私塾に入門するのは非常に稀 であった。この相違に関して社会的・文化的原因と両国民衆教育の普及への影響を解明す るのは今後の課題となる。このことは、現代社会においても、発展途上国における女子の 就学率が低い点と、就学率の低さが女性差別と密接に結びついている点を考慮するとき、

今後の重要な検討課題となるといえよう。第2に、本研究の仮説を検証するため、経済状 況の近い両国のそれぞれの地域を選び、地域研究を通して近世両国民衆教育の普及の相違 とその要因をさらに深く追及する必要があると考えられる。第3に、中日両国の民衆教育 を対象とした本研究の視点を用い、同じく東アジアに位置する韓国の場合について検証す る必要性である。さらに本研究の発展的な課題としては、近代教育制度成立以降、両国民 衆教育普及の格差がどのぐらいであったのか、その要因は何であるのかなどについて究明 する必要があると考える。

参照

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