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綜合仏教研究所年報37号 009増山 賢俊「勧修寺蓮光房良勝について」

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〔個人研究〕 勧修寺蓮光房良勝につい て 増山 賢俊 一、 は じ め に 小野阿闍梨蓮光房良勝(一〇七九?~ 一一五九~(一一六一 以降 か))は院政 期に活躍 した 勧修寺僧 と みられ、 勧修 寺大僧都厳覚 (一〇五六~ 一一二一 )の 付法 の弟子の一 人 で あ り、その法 を 大法房 実 任(一 〇九七 ~ 一一六九) に 授け て い る。 前稿 にお い て 実任の法 流とその 事 績 を探り、 年譜を作 成した。 そ こ で 、 実任の師と 考 えられるのは、良 勝、 中 納 言阿 闍梨増 俊 ( 一 〇 八 四~一一六五)、厳覚 、 高野山釈迦院覚心 (生 没年未詳)、真禅 房懐誉( ~一一三〇 ~ )の六人 であった 。そ の 中 で最 も実 任 に 影響 を与 えた 師 は 良 勝と 見られる。しかし、同じく厳覚の弟子で ある勧 修 寺法務寛 信(一〇八四~一 一五三)、増俊、安祥寺 律師宗意 (一 〇七四~ 一一 四八)と比較 するとそ の事績は明らかに なっ て い な い 。良勝 も また 院政期の 勧 修寺流に おい て重要 な 位置 を占める と 考 えられる ことから、そ の事績を探る もの である。 良勝 に関する先 行研 究として 柴田 賢 龍 氏の 研 究 があるが、新しい 資料を用 い詳細に検討した。重複す る 点 は 多 いが 、再度 原資料に戻っ て 確 認した。そ こ から良 勝 の伝記・ 事績 を 見 直 し て み た い 。 見 解 の 相 違 に つ いて いち いち の 指摘は省略するけれども 、 多くの点 で 参 考にした 。 ( 1) ( 2) 0 1 2 3 4 5

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二、 良勝 の 事 績 1 、 良勝の 出 自 に つ い て 良勝 の 数 少 な い 伝 記 の 中 で 『伝燈 広 録 』 によ れ ば 勸修 寺 很 光坊の阿闍梨良 布の 傳 闍梨、 名 は良 布 。字 は 很 光。 櫻町 三 位 重士の律 師 と 曰 ふ 。 泙 左府從一位道長の子。 [ 頭 註 或 る傳に初 め良 雅の弟子 と為す○ ロ ]性 利 潰 捷に し て 書畫 に 達 す 。 聲利 稍 貴 し。 金峯 山 の 大先達と 揚 す。 嚴 覺 病 席 に就 く。 布 、藥を 侍 (持○ イ )し、塵を 掃 ふ こ と日有 り 。嚴、其の 意 を感じ、食邑の 水 田を分かつ て 、 之れに與 ふ 。 布 、欽しみて 言 く 、 「我 、世財を欲せず、安 ん ぞ其の賜を承けんや。偏に最上乗の心印 を庶 ふ。 授 與 せられれ ば、 則ち 世世 に身命を惜し まず 、 影 の如く値 蓚 せん」 嚴 、 深 く褒嘆 し て曰く 「 今 何の刻ぞ や」 「寅の時 なり 」と言 ふ 。師の曰く「噫、 善きかな。儞、身口を洗漱 せよ」便 ち 威 儀を 裝 へて 、 以 て 無 上 最 乘 の 密 璽 を 付 す 。 是 れ を 寅 の 時 の印 信と 言ふ 。 布 、流 涕し 九拜 し て 膠 く。爾る後 、 榮然等相 承し傳來す 。 寂年月を知らず。付法八人 良弘 行心 (詳らかならず) 寶[實 ○イ ] 布 (醍 醐山。 詳 らか なり) 義圓 (詳らか なら ず) 舜嚴 (詳 ら か なら ず) 滿意 ( 同 ) 寶 [實○ イ] 任 ( 綜 瓶) *引 用の中、割 書 きは ( )により、傍 注 は 注 記 箇所 の横に〈 ○ 傍 〉によっ て示した。ま た[ ]は 校 訂 者 に よる校注 。 行 取りは 改 めた。 以後の 引 用 文 も同様。 とある。 これ によ れば 、 良 勝 は 「桜 町 三 位 重 士の 律 師 」 と い わ れ、 藤原道 長 (九 六六~一 〇二 七)の息 で あり、金 峯山 大先 達 で あっ た と い う 。 ま た、師の 厳覚 臨終の時 に「寅の時の 印信 」を授けられたとあり 、 ( 3)  !

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寂年月は不明 とされる。付 法の弟子 と し て 良 弘、行心 、宝( 実 )勝 、義円、 舜厳、満意、 宝(実)任の 名 が挙 げら れ て い る 。 まず 出自 につ い て 、 『 伝燈 広 録 』 に 「 泙 左府從一 位道 長の子」 とあ る が 、 藤 原道 長と良勝 とは 時代 が異 なる。 『密 教大 辞典』 で は『伝燈広録』を典拠 に挙げ た 上で 「藤原道 良」 とし て い る。 『尊卑分脈』 によれば、 良勝 は大 蔵卿 従三位源道良 (一〇五 〇~ 一一一一)の息 と され る。 父の道良 はまた正二位太皇大后大夫権 大納言 源 経 長 (一〇〇 五あ るい は一 〇一 二~一〇 七一 )の息 と し て も記され るが、その脇 には 中納言 源 資 綱(一〇二〇~八二)の子 で あ ると注 記 される。 ま た 、源資綱の 息 にも 道良の名が 記 録されて いる 。『中 右記』や 『公卿補任』 におい て も 実 には資綱の子 であると記録 され て い る。 また、醍 醐寺 蔵本『伝 法灌 頂師資相 承血 脈』には、三宝院大僧正定 海(一〇 七四 ~一一四 九) の付 法の 弟子に良勝の名があ り 、その注 記に「櫻町三 位阿闍梨。大峯 先 達 。 大蔵 卿源道良― 。 高名 倦 工」とあ り、 父と し て 源 道 良の名が見られる。 ま た 、『醍醐雑事記』 「櫻町十 齊堂」の 項や それを引 用した『醍醐寺 新 要録』「櫻町十 齊 堂篇」には 一櫻町十齊堂(三 間四 面 比皮 葺) 十齊佛 を 安置し奉る ( 各三 尺 ) 。 願主大炊 殿 ( 權中 笋 言 源 家賢の 女 ) 此 の堂跡 は 慶 順 上座の 領なり。 次 で 得 大 寺 法印靜 意 、 之 を傳へ 房を立つ。次 で 良 布 阿闍梨、之を傳 領 す。此の時彼の 堂 を立てらる るなり。 とあり、 良勝 は徳大寺 法印静意(一 〇六 九~一一 五一 )から伝 領した所領に 十斎 堂を建立した ことが知 ら れる。この十斎堂は三間四面の堂舎 で 各 々三 尺か らな る十斎仏 (定 光仏、 薬 師如 来、普賢 菩 薩 、 阿 弥陀 如 ( 4) ( 5) ( 6) ( 7) ( 8) ( 9)   "

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来、観世 音菩 薩、勢 至 菩 薩 、地 蔵菩 薩、 毘 盧 舎那 仏、 薬王菩 薩 、釈 迦如 来) が安 置され て いた とい う。 十 斎堂は、権中納言源 家 賢(一〇四八~一 〇九五)の女 で あ る大炊殿 が願主と な っ て 建 て ら れた とされて い る。『尊 卑分脈』によ れば 、 こ の家 賢 は 源資綱の 息 と され、良勝の 父道 良の 兄弟 となる。 また 良勝 が、 桜 町三位阿闍梨 と 呼 ばれたり、良 勝建 立 の 十斎堂が桜町 十斎堂と称されたりするの は 、 父 道 良の邸宅が 桜 町 (現京 都 市 東 山 区 芳野 町) にあった ため であ ろうか。 以 上 か ら 、 良 勝 の 父道 良 は 醍 醐 源氏 高 明 の系統 で 源資 綱の息 と し て 生まれ、 宇田 源氏 敦実 親 王 (八 九三 ~ 九 六七)息 、 重 信( 九二 二~ 九九 五) の孫経 長 の養 子となっ て い る。良勝 が家 綱の女大 炊 殿 を願主し て 桜町十斎 堂を 建 て て い るの は、父道 良と家賢の繋 がり によ る も の で あ ろ う。 この ことか ら 良勝 は父道 良 を 通じ て 醍 醐源氏 と 繋 が り が あったの であ ろう。 2 、 良勝の 生 没年 に つ い て 次に、良勝の 生没 年に つい て『真言 附法 本朝血脈 』に は、厳覚 の付 法とし て 良勝 の名があ げら れ 〈○ 傍 嚴覺付法 。第十九 〉 小野 阿闍 梨 (良 檜 很 光 韓 。或 いは 荵 士阿闍梨) 永久二 年 十月十九日 尾 ―金。嚴覺大 遅 綾 に隨 つ て 灌 頂 を受く ( 三 十 六)、 囂 塵 を 猒い 永 く 閑静を 欣 ひ 白 川 の 草庵 に蟄居す 。 法 務、 召 樽 して 勸 修 寺 西 明 院 に 居 住 せ しむ 。 年 月 日 入 滅 。 〈○ 傍 大法房〉 ―實任 (保延三年九月二十三日翼―日― 之 れを 授く 。 師 五十 九資 。 資 四十 一。 ) ―源意 ( 10) ( 11)  #

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―意 檜 ― 滿 覺( 少補[ マ マ ] 阿 闍梨 ) ―良弘(常 光 院。仁 徘 二年 壬 申 七月 一日 甲 午 張― 金― 六 波 羅南 邊 很 明院に於 て之れを授 く 。 師七十六。資二十三) ―――( 省 略) ―行 恭( 法印 ) ―行 秀 とある。 これ によれば、永 久二(一 一一 四)年十 月十 九日、三 十六 歳の時に 厳覚から灌 頂 を授 けられ て い る。白河 の草 庵 に 蟄居 し て いた が、 勧修 寺法務寛 信に 召請され 、最 明院に居 住し た と ある 。白 河の草庵 の 場所につい て 特定は難 しい 。そし て 実任 には、保 延三 (一一三 七) 年九月二 十 三 日 、五十 九 歳の時に灌 頂 を授けて いる。そのほかに 源意、意勝、 少輔阿闍梨満 覚、常光 院良 弘、行海 法印、行秀の 名が見られる。 良弘には仁平二 ( 一一 五二) 年 、 良 勝七十六歳の 時に 六波羅南辺の蓮明院におい て 灌 頂を授けたとされる。 た だ し、 永 久 二年に三 十六 歳 で あり、 保 延三年に 五十 九歳 で あ った とすると仁平 二年には七十四歳となり、 この「七 十六 」とある のは 間違い で あろ う。た だ し仁 平二年に おけ る伝授は、醍 醐寺蔵本 『伝 法灌 頂師 資 相承血脈 』に も記され て い る こ とか ら、 間違い な い で あろう。 これ とほぼ同 様の 記事が、 東寺観智院金 剛 蔵『真言 付法血脈図』 にも載っ て い る。 また、『血脈 類集記』 には 良 檜 ―興然 ( 徘 治元 年十一月二十三日癸卯日 兪 室宿。重 受。 年三十九 。年六十四。永 伜 元年四月十二 日醍醐方、之 れを重受し奉 る。年四 十) ( 12) ( 13) ( 14)   

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とあり、 良 勝 が 直 接勧修寺理明房興然 (一一二一~一二 〇三) に 灌 頂 を授け て い る よ う に記さ れ るが、 『 四 巻』には実任からの受 法にお い て 徘 治元年 ( 歳 次 己 卯 ) 十 一 月 二十 三日 ( 癸 卯 日 兪 鵜 宿) 、 之 を蒙 る。 興 然 (生年三十 九 師六十四 ) とある。 これ によ れば 平治 元 ( 一一 五九 ) 年 の授 法は 、実任か ら興 然 へ なさ れた もの であ り、 良勝 が授 け たもの で はない。した が っ て 『 血脈 類集記』の記 事は間違い で あろう 。 ま た 、『 祈雨 日 記 』の 天承 元 ( 一一 三一 )年 二月 「醍 醐 寺 祈雨 孔雀 御 読 経」 の記 事 に お い て 右中弁 泙 原 咆 臣顯 賴等 傳へ宣 す 。權 大 笋 言源 咆 臣能俊宣す。勅を奉る。去る年夏の比、炎 旱 の事に依 り、權少 遅 綾 定 恭 をし て 、 醍醐寺に 於い て 孔 雀經 を轉 讀せし む るの 間、甘 雨 忽 ち に降る。 効驗 既に顯 なり。宣 し く 阿闍梨 伍 口彼 の 寺 に置 かし む て へり 。 天承 元年 二月 廿八 日 左大 樢 算博 士能 登介小槻 宿 斑 (政 重) 〈○ 傍 盛仲 男〉 とあり、 続い て 同 日醍 醐寺 に下された太 政官牒を 引き まさに阿 闍梨伍口を置く べ き事 (中略) 天承元年二月廿八日 正五 位下 行 左 大 樢 算博士 能 登介小槻宿 斑 (政重) 解 澪 を放 つ ( 三月四日。 同 五月十九日宣旨。 去 る 十六 日最 布 講を 始められて 自 り、 來る廿 日 [結願な り]。件 の日 九坎に依 り、 今日宣旨 下さ ると云云 )。 ( 15) ( 16)  $

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〈○ 傍 戒光 韓 〉 〈○ 傍 禪林 韓 〉 定 童 。(年七十六 﨟六 十 一 ) 源意。( 年六 十七 﨟五 十三 ) 〈○ 傍 妙法 韓 〉 〈○ 傍 三位 〉 〈○ 傍 三 イ 〉 院嚴 。 ( 年五十二 﨟四 十 二 ) 良勝 。 ( 年四 十一 﨟二 十九 ) 〈○ 傍 待從 〉 〈○ 傍 二 イ 〉 行海。(年三十二 﨟二 十 一 ) とある。 これ によれば 、天 承元(一 一三 一) 年二 月に 日照りの ため 定海が孔 雀経 御読経を修し て雨が降 っ た こ とにより、勧賞とし て 醍醐寺に 阿闍 梨五口が置か れること となった。そ れに 対し て 三 月四 日に解文 が 放たれ、 五月 十九日に宣旨 が下され て い る。 ここ で 補 任された 人物 は、戒光 房定 祐、禅林 房源意、妙法房 院厳、三位良勝、待従行海 で ある。そし て 、阿闍梨五口 の一人 と し て あげられた 良 勝の注記に は 、「(年 四十一 臈二十九 )」 とされる。『醍醐雑事記』 にも同じ 醍醐寺の 阿闍梨五口の記事があるが、ここでは 「釋迦 堂 阿闍 梨五口」 とさ れ て い る 。また、『群書類 従』所収の『醍醐寺雑 事記』(以下群 書 本『醍醐寺 要書』) は『醍醐 雑事記』 とは別の 本であ っ て 『 醍醐寺 新 要録』の 中に「 要 書」 と し て 引 用され、ま た 東 大史 料編 纂所 に も 謄 写 本が 架 蔵 され て い る。 群書 本『 醍 醐 寺要 書 』 では良勝 が空 欄と なっ て い て、 名前 は 不 明 であ る が 、 年 齢 は 「卅 一 」 とさ れ て い る 。 東 大史 料編 纂所 本 で は良勝 の 名前 と共 に 「 卌 一 」 と され て いる。 一 方 『 醍醐寺 新 要録』 で は 「 釈迦 堂阿闍梨五口 」 の 一 人 と し て 名 を 上 げ 、 「 五 十 二 」 と さ れ て い る 。 このよ う に同 一 の 書 で あっ ても表 記 が 異 なっ てい る。 また これ に関 わっ て 、 国立歴史民族 博物館所蔵『醍醐寺有識補 任( 内題 醍醐 寺諸 堂 有 識補 任) 』「 釋 迦堂五口 」の 阿闍梨につい て 、 天承元年二月二十八日 の「醍醐寺祈 雨 孔 雀経御読 経」の折 に座 主権僧都定 ( 17) ( 18) ( 19) ( 20)   %

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海の奏聞 によ るもの で ある ことが記 され て い る。 また、 こ の史 料 は 最初 五口 の 阿 闍梨 のそ れぞれの 下に 後継の阿 闍梨 の名前 が 列せ られ て い る。 なお、 こ の史料には良勝の名 前 の下に「山伏」という注 記 があ る。 ここに見 られる山 伏は 『伝燈広 録』 や『伝法灌 頂師資相 承血 脈』に「大峰 の先 達」 とあ る こ とと 関わ るも の で あろう 。 こ の 『醍 醐寺 有職補任』は 、国 立 歴史民族 博物館によれ ば、 鎌倉時代 後期 の成立とされ る。そ こ に見 られる「山伏 」は山林 修行 する京洛 寺 院の僧侶 と思 われる。室町 時代以降 にそ の教団組織・ 儀礼 等の確立した、い わ ゆ る「 修験道の山伏」とは 異なるの では な い か。 霊山 における山林修行は奈 良時 代からの 伝統 があり、 また 金峰山 ・ 大峰 は摂関期 に、 また熊野 は院政期にそ の信仰 が 勃興 し て おり、 良 勝 が 天皇 ・ 上 皇の参詣に扈 従し た可能性 は考 えられよ う。 さて 、『祈雨日記』、 群 書 本『醍醐寺要書』、東大本 『醍醐寺要書 』、『醍 醐寺新要録』 の天 承元(一 一三一) 年 の 良 勝 に関 す る 記述から、天 承元年におけ る年齢、そ こ から知られる 生年 、また天 承元年「臈 二十九」 とさ れると こ ろか ら知られ る具 足戒 受戒 の 年 齢を資料 ごと に並 べ て 示 す と次のよ うに なる。 書名 記述 内容 生年 具足 戒受 戒 ・『 祈雨日 記 』 良勝 年四 十 一 﨟二十九 寛治五年 十三 歳 ・ 群書 本『 醍 醐 寺要 書 』 □□(良勝 ) 年三 十一 﨟二十九 康和三年 三歳 ・ 東大 本『 醍醐寺要 書』 良勝 年四 十一 﨟二十九 寛治五年 十三 歳 ・『醍醐寺 新 要録』 良勝 年五十 二 﨟二十九 承暦 四年 二十四歳 * 本 来で あ れ ば 「 法 臈 」 は 具 足 戒 の 受 戒 から 起算 す る も ので あ る から 、 こ こで は 具 足 戒 受 戒 の 年 齢と して 示 し て み た 。 また 、 数 字は 通 用 の 字 体に 改 め た 。 群書 本の 「年 三十一 﨟二十九」 と な る と 、 三歳で の 具足 戒の受 戒 、 ま た は 得度 は い ささか信じが たい。  &

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そのため こ の 「年三十一」 と い う年齢は信じが た い。 次に『祈 雨日記』や東 大本 における 「四 十一」とい う年齢は 生年 が寛治 五 年と なり、 法 臈起 算が十三 歳に あたる。 十三 歳 で の具 足戒 受戒 はい ささ か考 えがた いが 、得度の 歳とす れ ばありえな い 事ではな い。 とすると 、ここでは法 臈というも の を具 足 戒 受 戒 で は な く得度か ら起 算し て い る事 が 考 えら れよ う。あるいは 『醍醐寺新要 録』の五 十二 歳を信用 すれ ば、承暦四 年の 生ま れ で 法臈起 算 が二 十四歳と なり 具 足 戒 受 戒 と するに ふ さ わ しい。た だ、 『醍 醐寺 新要 録』 は他 の 諸本に比べ て その成立が 遅 れる為に、何 を信用すべきか難しい 。 『 真 言付 法 血 脈図 』 ・ 『真言附法本朝血脈』 で は 、 承暦 三 ( 一〇七 九 ) 年 の生まれ、 永 久二 (一一一四 ) 年三十六 歳の 時、 厳覚より 灌 頂 を受 け、 保延 三 ( 一一 三七) 年 五十 九歳の時 、 実 任に灌 頂 を授 けた とあ る。 「臈二十 九」 が正しい とすれば、康 和五 (一一〇 三) 年に二十 五歳 で 具 足戒 を受戒した こ とに なり、天 承 元 ( 一 一 三一 ) 年 は 五 十三 歳となる 。 『 祈雨日記 』 ・ 東大 本 『 醍醐 寺要書 』 の生 まれ年に あた る寛治 五 (一 〇九一) 年は、十三歳 であり、康和 五(一一〇三)年 は五十三 歳 で ある。種 々考 えあわせ て い くと、『祈 雨日 記』・東大本『 醍 醐 寺 要書』では 、 寛治五(一〇九 一 )年を生まれ年として いるが 、 得 度 の年と 取 り 間違えと仮定 すれば、 康和 五(一一 〇三)年に二 十五 歳 で 具足戒 を 受戒 となる。 つまり、 生れた 年 と得 度 の年 、 具 足 戒 受 戒 の年を 取 り違え た 為に年 齢 が ず れ た と 推 定するならば、 血 脈類の記録と同様に承暦三 ( 一 〇七九) 年に 生まれ、 康和五(一一 〇三)年に受戒 と なる。群書 本『醍醐寺要書 』 の「年卅一 」 は「年卌 一」の誤記の可能性も考えられる。仮に 群書本『醍醐 寺要書』 の「 年 卅 一」 が 正 しいとすると、実任へ 十 四歳 で 授 法する事になり、 血脈類の 記録 と矛盾 す る。 『醍醐寺新要 録』 は生 れた 年と得度 の年、具足戒 受 戒の年を取り 違え た可能性 は 低 いが、生れは承暦四(一一八〇)年とな り 、一歳のずれが生 じ る 。 以上から、 『 祈雨日記』 ・ 東大本 『 醍醐寺要書 』 におい て 、 「 法臈 」 を 出家得度 からの年数とし て 数え、   '

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か つ 生れ 年と 出家 得度 を取 り 違 えた 為に 年齢 がず れた と推 定し た 場 合、血脈 類 に 記 さ れた 厳覚 か ら の受 法 や実任へ の授 法の年齢 とも一致 する。 こ のため、 良勝 の生れ年は承暦三( 一 〇七九 ) 年とな る ので はない か。た だ し、 承暦四(一一 八〇)年 生まれの可能 性も否定はできない。 良 勝 に関する最後 の記録は 、「 石山寺一切 経 」の目録 によ れ ば 、 「 石 山 寺 一 切 経 」六 十 九 箱 に 納め ら れ た 『 成実 論』 第六巻 の 奥書 に 次 のよ うに ある。そ こに は 永 伜 二年正月十九日 書 寫し了んぬ。 右筆 辻 蓿 。 醍醐寺寶 瑕 院に 於 い て 書 寫し畢 ん ぬ。 瑕 光 韓 禅師の御誂に 依る な り 。 一 切經 律論の 触 、 『 賀 實論』 第 六卷。 願 はく は此の慧業を以 て 必ず 佛の 辻 えに値 蓚 せん 。 呵 跋 庄 大智 論師、 正 法の 辻 手を舒 べ て 必 ず 佛所に引導せ んのみ。 とあり、 良勝 の一 切経 書 写 勧進の 中 で 教 運は良勝 の誂 えによっ てこの 年 に書 写 を し終 わっ て い る。 良勝 の 誂えによ り書 写 を 行なっ て いたと い うことは、 こ の時 点で 良 勝 が 生 き て い た 可 能 性 は 充 分 に 考 え ら れ よ う 。 た だ し良勝の 勧進によ る一 切経の書 写 に 関する奥書 が これ以降無い ことから、 こ の頃に良勝自 身が 没し て いた可能 は 考 えられよ う 。 そのため、良勝は承暦三(一〇七九)年に生まれ、保 元四/平治元 (一一五 九) 年八十一 歳の頃までは 存命 であった と 考 えら れる。 三、 良勝 を 取 り 巻 く人物 ( 21)  

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1 、 厳覚 厳覚の付 法に つい ては、『真言附法 本朝血脈』、 東寺 観智院金 剛蔵『伝法 灌 頂相 承略記』 、東 寺観智院 金剛蔵『真言 付法 血脈 図』 、『真言 伝法灌 頂 師資相承血脈』等 によ れば、永 久二 (一一一 四) 年勧修寺勝 福院におい て師厳覚五 十九歳、良勝 三十六歳の時 に灌 頂を受 法 し て い る こと が知 られる。 『血 脈類 集記 』 で は 、「永仁三年」の 受法 で あ るが、これは「 永 久二 年」の誤り である。 また、醍 醐寺 蔵本『伝 法灌 頂師資相 承血 脈』にお ける 厳覚付 法 の良勝の記事 には、保安二 (一 一二一) 年五月二 十四 日の印信 とさ れるが、 同壇 の円 秀の 受法 年次が永 久二 (一一一 四) 年十月十 九日 とされ て お り、 であ れば 良勝 も永 久二 年の 受 法 と考 えられ、 そ う である な らば 他 の 印信 血 脈 と同 じ で ある 。た だ保 安 二年と い うの はの ちに述べ る「寅時 印信 」の年次 であるため、それ を間違え て 筆 記した も の で あろう。 後 世 に 伝 わ る 伝 法 灌 頂 の 記 事 と し て 、 『 野 沢 血 脈 集 』 、 『 儼 避 羅 鈔 』 、 『 四 巻 鈔 』 、 『 諸 流 灌 頂 秘 蔵 鈔 』 、 『三十六 流大 事』 が見 られ る。そ れ 以外 の口伝に 『儼 避羅鈔』 「石 山布字」 、『 四巻 鈔』 上巻 第二十二 条「 大法房 口 伝」 、 同 中 巻 第三 条 「 天慶 布字 」、第五 条「 極位 事」( 『 儼避羅鈔 』「 石山 布字 」引 用血 脈)、同 下巻 第七 条 「 具支灌頂 式 相 伝 事 」が 授 け られ て いる。 厳覚から の受 法 で 重要 なものは『伝 燈広 録』に伝 承が あった 「 寅時 印信」の 記録 である。 「寅 時印信」 に つ い て は 『 儼 避 羅 鈔 』、 『 四 巻 鈔 』、 『 密 宗 血 脈 鈔 』 、 『 安 流 伝 授 紀 要 』 等 に も 見 ら れ る 。 『 儼 避 羅 鈔 』 におい て は「 文泉 房〈 朗澄 〉、大 法 房に 受ける口 伝に 云 く 」とし て 故 大 遅 都嚴― 《 覚 》 最後の尅に臨み、良 布 阿闍梨に示し給ふ。彼の闍梨六十六の年に予に授けたり。 (生年卌八) *覚は著者による追加。 と あり、真言 を示した 後で「本に云 く保 安二年五 月廿 四日寅時、之 を蒙る」 とし て い る。 さらにその後に ( 22) ( 23) ( 24) ( 26) ( 27) ( 28) ( 29) ( 30) ( 31) ( 32) ( 33) ( 34) ( 35) ( 36) ( 37) ( 38) ( 25)   

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「故 阿闍 梨、 上の件 の 説を 持 つ て大 乗院 ( 胆 雅) に語り申る。彼の 阿闍梨示 して 云 く 、 宗 の 大 事 此 の 事 に 在り。努 努努 云々。又 安 呑 寺律 師、 特 密灌頂印 信 を 人 に 授け給 ふ 時、印 信 是の如 く 書されるなり。已上御 談 存 なり と云 々」 とあ り、 保 安 二 年 五月 廿四 日の 寅時 に伝授 さ れ て い る 。 文 泉 房 朗 澄 の示 した 記 事 によ れ ば、良勝 と大 乗院良雅 ( ~ 一 一〇二~一 一 二二) が 「寅時印信 」 に つ い て の 物 語をし て い た 事 が 伝えられ ており、 そ の 意味 に お い て 、 良 雅 と 良勝 の 間 に接 点 が あった こ と が 知 ら れ る 。 さ ら に 『四 巻 鈔 』 に は 「 最 秘血脈」 とし て 仁 恭 ―成 筑 ―範俊― 嚴 覺 ―良 布 ―實任―興然 ―榮然 ― 榮 筑 ―聖 濟―榮 恭 ―俊 然 とあり、 また この記 事 の前 に 印 信の 奥書 とし て 康治 三年正 月 八日午 の 尅、 寫し奉り 畢ん ぬ 。 瑕 光坊(生年四 十八 御 韓 六十 六) とある。 これ は、康治 三(一一四四 )年 は良勝六 十六 歳 で 、四 十八 歳の実任 に対し て こ の 印信 の伝授をし た記録 で ある 。 な お、 良勝 は四十三 歳の 時、保安 二( 一一二一 ) 年 五月二十 四日 に六十六 歳を 迎えた臨 終 の厳覚よ り「寅時印信 」を 受法し て いる。『四巻 鈔』 の「生年四十八 御房 六十六」とい う 記 録は、一見 する と康 治 三 年に良勝 が四 十八 歳 で 厳覚 が六 十六 歳 で あるかの よ う に見 える けれ ども、 康 治 三 年に書 写 し た 良 勝 は 実 任 に 授 け る た め に 書 写し てい る の で、 良 勝 の 名 が記 さ れ てい る 。 「 生 年 四 十 八 御房 六十 六」 は、 受 者 実 任 が自 らの 生年 と阿闍梨 であ る良勝 の 年齢 を追記し たた め に この よ う になっ て い る の で あろ う。 けっし て 良勝 四 十 八 歳 を意 味 す る も の で は な い 。 その後に は 先の口に云く 、此の印信は勸 修 寺 大 遅 都(嚴 覺 ) 御 韓 、 瑕 光 韓 (良勝) に授 けらるる 印信 なり。「大 經藏革袋 の印信」と 云 ふも同じ物なり。 伹 だ奥の 二 明、裏付の 開 閉 ナ シ。之 れ を以 て 差 異とす。根本 $!!

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は「六帖の印信」を書 せらるるな り 。 とあり、 これ によ れば 「 寅 時印信」 は 「 大経 蔵革 袋 の 印信」 と 同 じ もの だと され 、 共 に根 本 は 「六帖印信」 に基づい て い るもの と され る。 と こ ろで『儼 避 羅 鈔』 によ れば、 「 寅時 印信」の 裏書 に「私か に云 く」 とし て次 のよ うに ある 。 良 勝 は 厳覚の常 随給 仕の弟子 であ った。厳 覚は 永 年 の 給 仕の 志 と い う こと で 、 勧修 寺近 辺 の 水田 の何 町かを与 え よう と し た。それ に 対 して 良 勝 は 「 水 田 は 望 みではな く、宗の 大事 を望 む」 と答 えた。そ こで厳覚は水 田 を讓る こ とを やめ、 志 を大 事 と し て この 印信 を授 けた と伝 えら れる 。 そ れ に 対し て 『 安 流 伝授 紀要』 で は、 こ の 話を 寺領を含め安 祥寺 における話に書き換え て い る。 ここでは厳覚も安 祥寺の僧とさ れ、 「寅 時印信」 もまた安 祥寺 から勧修 寺に 伝えられた も のとし て いる 。 他にも「寅時印 信 」に関する 記 事とし て 、『 四巻 鈔』 中 巻 第一 条 「小六 大 事 」 (六帖 印 信 ) 、第五 条「 極 位 事 」 ( 第 二重血脈) 等 が あ る 。 そのほかに 厳 覚からの受 法 に関し て は、『本朝 伝 法灌頂師資相承血脈』に 「 哩 咆 ―深 覺― 信覺 ― 嚴 覺― 良 布 とあり、 勧修寺に伝わる広沢流血脈 を受法し て い る。 また、 『 血脈記』 所収 「 傍 流血脈 ( 快成日記) 」 に ―寬信 〈○ 傍 此ヨ リ亂行宰相阿 闍 梨と號す。〉 ―實賢 ( 金 剛 王院) 勸―。嚴 覺― ―良弘― 眞慶 ―增瑜 ― 明玄 ―― ―良 布 ― ―隆 澄( 廣澤理智 院) *この血脈において 厳 覚、寛信、良勝の部分 に関し て は、『続真言宗全書』の校訂者 が異本によっ て 加 えた部分だと さ れ ている。 とあり、実任 ではなく 良弘へ伝えた 血脈 が載せら れる 。こ の 流 れは、後 に 明 玄 ( 生 没 年 未 詳 ) より 金 剛 院 ( 39) ( 41) ( 40)  $!"

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実賢(一 一七六~一二 四九)や広沢 (仁 和寺)理 智院 隆澄(一 一八 一~一二 六六)に相伝 され て お り、 興 然に 伝わる 正 嫡の 流れとは異な って いる。 また、 『 安流 伝授紀要 』の 「千手 愛 法」 (千手 愛 染 法 ) に は、 冒 頭 に「良勝 、 勸 修 寺 に住 す。 嚴 覺 の弟 子。附法に非ず、宗意、寬信、增俊同門 な り 」とあり、厳覚の弟子 で は ある が 灌 頂は受法し て いな いと す る伝承が記録 される。 た だ 『安流伝 授紀 要』 には 良勝 が厳覚よ り灌 頂を受法した とする記 録も 載っ てお り、 ここ に見 られる「附法に非ず」とする記 事が 何によっ てここ に 載せ られたか不明 で あ る。 以上良 勝 は 、 厳覚の付 法 の 一人と し て 勧 修寺 流を伝え て 、 「 石 山布 字」、「天慶布字」、 「 具 支灌頂 式 相伝事」等の口訣を受 法し 、最秘とし て の「寅時 印信 」を伝え、そ れらを正 嫡 で ある実任 に授 けて いる。 そのほ か に厳覚が 導師を勤める御 修 法に伴僧 とし て出 仕 す る記 録を みる こと が で きる。 『四巻』 によ れば、 元 永元 (一一一 八) 年に天下 疫病 の難 が起 こり 、 国 土に 飢饉 の憂い が 有 る ことによ り、 四月二十六日に綸旨が下り、厳覚が禁中の麗 景殿に於 いて 仁 王 経 法 を 修 し た 。 十 二 口 の 伴 僧 を 率 い 、 二 十 八日より 七日 間にわ た り勤修された 。そ の伴僧の 一人 とし て良勝 が 聖天供を修し て い る。 ま た 、 『 覚禅鈔』「愛染 法 」の「愛染 法 御 修 法支度 事 」の中 で 口傳等 (中略) 已上 理趣 傳 な り(傳集 一 存 )。 良雅 阿闍 梨の傳、 之 れ に同じ。 (中略) 已上 、嚴 覺僧 綾 の傳(小 野の 特 事なり)、「大次第」此の如し 。右、二 つの 帰 ひ、 大 治 三 年 十 一 月 五 ( 42) ( 43) ( 44) $!#

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日、院宣 に依 り良 檜 闍梨 の注 荵 、之 れに同じ。 (後略) とあり、 大治 三(一一 二八 )年十一 月五 日に良勝 が院宣によっ て「愛染 法」 の注 進をした 記事 には、厳 覚 の注進と同じ も の で あ るとされる。 こ の 注進につい て は 石 山寺 深 密 蔵の目録 や 高 山寺経蔵の目 録によれば、 これ らの 蔵に 注進の転 写本 が残され てい る と い う 。 また 『 覚 禅鈔』 「 後七日 」 、 永 観 文 庫蔵 『御修 法 記 』 によれば、 厳 覚が導師 を勤めた永久 六/ 元永元 ( 一 一 一 八 )年 、元 永三 (一 一二 〇 ) 年 の 御七 日 御 修法 にも 良 勝 が 伴 僧と して 出仕 し て いる 。 2 、 良雅 『安流伝 授紀要』によ れば、大乗院 良雅 (~一一 〇二~一一二 二) からも付 法し て い る。 ここ では 〈○ 傍 廣澤 方 〉 〈○ 傍 隨心 院始 祖〉 〈 ○ 傍 大法房 〉 〈 ○ 傍 土橋 〉 良雅 ―― 良 布 ――增俊 ――實任―― 筑 寛 とあるよ うに 、先 にも 『儼 避羅鈔』 の中 で良雅 と 良勝 に接点 が ある ことを述 べた けれども、 こ こでは直 接 良 勝 が 良 雅から法 流を受法して いる こ と が 伝 えられる。しかも中 納 言阿 闍梨増 俊 ( 一 〇 八 四~一一六五) に伝えら れた 法流 は広 沢方 の 法 流 と され る。詳し くは 先稿 で 述 べた が、良雅 は円 城寺僧正 禎喜 (一〇九 九 ~一一八 三) からも広 沢方の法 流を 受法し て おり 、良 勝が 良 雅 から受法 し た 広 沢 方 の 法 流 と い う の は 、 禎 喜に 繋がる法流 で はないか。 3 、 勝覚 ( 45) ( 46) ( 47) ( 48) ( 49) ( 50)  $!

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三宝院権 僧正 勝 覚 (一 〇五 七~一一 二九)からの 付 法 は 、 大正大学附属図 書 館蔵『 真 言宗付法血脈』や 東寺観智 院金 剛蔵『三国相 承秘密伝 法一 門血脈』 の末 尾に勝 覚 から の付 法の 弟子 とし て良勝の 名が見ら れ る。また 、『覚禅鈔』 「請 雨法」によれば、永久 五( 一一一七)年六月に勝 覚 が導師を勤めた 祈 雨御修 法 におい て 定海 と共に出 仕し 、伴僧を 勤め て い る。 こ の 時の記録 は、 『永久五 年請 雨経法記 』、 『永久五 年 祈雨日記』、 『秘鈔問答』 「請雨経 御法伴僧事」・「 請雨経御 法伴 僧交名事」等 にも 見られる。ま た『永 久五年祈 雨日記』は、 「 權 遅 正 韓 御 冕 なり 、執 筆師 頼卿 」と され源師 頼( 一〇 六八 ~一 一三 九) の 記 事 で あるが、 奥書 には「寫 本 冕 に云く、 保元 三年八月 十日 櫻町阿闍 梨御 韓 良 布 の 處 へ 參 る。御 物 語 數 尅。其 の 時權 遅 正御 韓 突 泉薗 頭 雨法 の事」と あり 、保元 三 (一 一五八) 年八 月十日に 良勝 の所 を訪 れた 大夫阿闍 梨 賢信(一 一一 八~一一 八七)等に良勝 が 修 法 の折 の事 柄につい て 話 をした事 が 記 録され ている。東寺観 智 院金剛蔵 本『 東寺血脈 (小野/ 本・ 末) 』(真言 付 法 相承血脈 次第)、『血 脈類 集記』、 醍醐寺蔵本『伝 法灌 頂師 資相 承血 脈 』 によ れば、 賢 信 は 大 蔵 卿 源 通 良 の 孫 宗 時 の息 とさ れ る 。 な お 『 尊卑 分脈 』 に よ れ ば、 源資綱実 子とし て の道 良の 系譜には道良 の息 とし て宗 時の名が見ら れる。一 方、 おそ らく 養子 となった の であろう経長息 と し て の道 良の系譜 では、道良の 息 と して 良 勝 の 名 が 見 ら れ る 。 こ の こ と か ら 、 良 勝も宗 時も 道良の息 で あ り、兄弟 と 考 えて よい で あ ろう。た だ宗時息 は記 録され てい ないの で 不 明 であるが、 東 寺観智院 金剛 蔵本『東 寺血 脈 ( 小野 / 本 ・ 末 )』 、『野沢大血 脈』 、『密宗血脈 鈔』に「 宗時息 」 とさ れ るこ と か らすれば良 勝 の甥にあ たる こ と になろ う 。 他に 永 観 文 庫 蔵 『 御 修法 記』に よ れば 、天 治二(一 一二 五 ) 年、 天治三 / 大治元( 一 一 二六 )、 大 治 二 (一一二 七) 年の勝 覚 が導 師を勤め た 御 七日御修 法に おい て 伴 僧を 勤め て い る。 ( 51) ( 52) ( 53) ( 54) ( 55) ( 56) ( 64) ( 57) ( 58) ( 59) ( 60) ( 61) ( 62) ( 63) $!$

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4 、 定海 また良勝 は、 三宝院大 僧正 定海(一 〇七四~一一 四九)の付法にも なっ て い る。 大正大学 附属 図 書 館蔵 『真言宗付法血脈』、 東寺観智院金 剛蔵 本『伝法灌 頂 相承略記 』、 東寺観智 院金 剛蔵本『東寺血脈(小野 /本 ・末)』 、『 血脈 類集記』、醍 醐寺 蔵本『伝 法 灌 頂師資相 承 血 脈』、東 寺観 智院金剛 蔵本『三国相 承 秘密伝法一門血脈』、 『血 脈私抄』 、『密宗血脈 鈔』 、『続 伝 燈広録』、『野沢血脈集』等に、定海の付 法とし て そ の 名 が 見 ら れる 。 ま た、 永観 文庫 蔵 『 御修 法記』 に よ れ ば定海導 師に よ り 行 な われ た 長 承三 (一 一三四) 年、 長承四/ 保延 元(一一 三五)年の御 七日 御修 法に も伴 僧とし て 出仕し、五大 尊供 を勤仕し て いる 記録が 見 られる 。 5 、 寛信 師弟関係 で は な い が 、 勧 修 寺法 務寛 信(一〇八四~一一五三) と の 関わ りも伝えられる。 『 権 律師 寛信 授灌 頂於 両人 記』には、寛 信 が 長承元( 一一三二 ) 年 十一月十 七日 に授 けた 灌 頂 におい て 、持 金剛衆の 筆 頭に挙げ られ 、教授阿 闍梨 と呪願を 勤め て い る。 請僧 交名には唄 と あり、教 授 と し て 唄 も 勤め て い るの で あ ろ う。 『血 脈類 集記 』 に も こ の 時 の記 録 が あり 、 長 承元 年十 一月 十六日と なっ て い る が 、 十 七日の誤 り であ ろう 。 また、 『 覚禅 鈔』 「 法 華 法 」 で は寛信が修 法 した 法花 (華) 法 で 護 摩を勤仕し て いる。 他 にも 『覚禅 鈔 』 「後七日 」、 『永治二 年 真 言院御修 法記 』、永観 文 庫 蔵『御修 法 記 』 によれ ば 、寛信導師の永治二(一 一 四二) 年 の御 七日御修 法に も伴僧を 勤め 、息災護 摩を 勤仕し て い る 記録が見 られ る。 ( 65) ( 66) ( 67) ( 71) ( 68) ( 69) ( 70) ( 76) ( 77) ( 78) ( 79) ( 80) ( 81) ( 72) ( 73) ( 74) ( 75)  $!%

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6 、 付法 の 弟 子 良勝 の弟 子 と し て 先 に 述 べ た 『 真言 付 法 血 脈 図』 、 『 真言 附 法 本朝 血 脈 』 に は、 良勝 の灌 頂付 法の弟子 とし て 実 任を 写 瓶 とし 、そ れ以外に 源意、意勝、 満覚 (少補) 、常 光院良弘、行 海 法印、 行 秀の名が 見 ら れる。『伝燈広録』に は 、 良弘、行 心、宝( 実)勝、 義円、舜 厳、 満意、実 (宝 )任の名 があ げられ て い る。 また、 醍 醐寺蔵本 『伝 法灌 頂師 資相 承血脈』 に は 、 良 勝の付 法 の弟子とし て 、 実 任、 少輔 阿闍梨満 覚、 源 意 、 行 秀 、 意 勝 、 行 海 法 印 、 常 光 院 良 弘 法 印 、 舜 元 阿 闍 梨 の 名 が あ げ ら れ て い る 。 ま た 『 安 流 伝 授 紀 要 』 によれば 、良雅から受 けた 広沢流 を 増俊 に授 け て い る とされ、 それ から すれ ば良勝 が 法を 授 け た弟子の 一 人となろう 。 良勝 は厳 覚、 勝 覚 、 定 海、 良雅 か ら も付 法し てお り、 寛 信 と交 流 も 見 ら れる 。 ま た、 写 瓶 であ る実 任以 外に満覚、源意、行秀、意勝、行海、良弘 、 満意、宝 (実)勝 、義円、舜厳、舜 元、増俊 に法を授けてい る。 この 中 で 実任、良 弘の み受法の 年次 が判明し て い る。 四、 一切経勧進に つ い て 石山寺 所 蔵 の 聖 教 の奥書によれば良勝が一切 経書 写 の 勧進を行 な っ たこ とが知られる。例えば、「 石山 寺一切経 」の 目録によ れば 、「石山 寺一 切経」第 五十一箱に納 めら れた『出家功徳経』奥書 に は 久壽 三年孟夏廿三 日、 勸修 寺 瑕 光 韓 の勸 荵 に依り、 書寫 し了んぬ 、醍 醐寺沙門 筑 忠。 とあり、 『摩 訶僧 陶 律』 第二 十 一 巻の 奥 書 に は 82)( ( 83) ( 84) $!&

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願わくは此 の 功 碼 を以 て 、 普く一切に 及 ぼし、我れ 等 と衆生と、皆 共に仏 蕈 を成ぜん ことを。 保元元年八月十八 日鳥 監 安樂壽 院 に 西 遅 韓 に於 い て 繕寫し了んぬ、賢 咆 。 勸修寺 瑕 光 韓 梗 人 の 勸め に依 り書 する 所 な り 時に 小雨窓を麗す。 とあり、 久寿三/保元 元(一一五六)年に時期に 良勝 が一 切経 書 写 の 勧 進を 行 な っ て いた 事 が 知 ら れる 。 良勝 が一 切経 書 写 の 勧 進を 始めた 目 的に つい ては石 山 寺聖教 に 残さ れた 奥書 か ら ははっ き りし ない が、 石 山寺に一 切経 を具えるため であった のか 、勧修寺 に具 えるため に書 写 し た も のが石山寺に流れた も のか不 明で あ る が 、 多く の 僧 侶が そ の 勧 進 に 呼 応 し て 結 縁 し 書 写 を し て い るこ と が 知られ る 。 ま た 、「 石山 寺 一 切 経 」の 目 録 に よ れば 、 「 石山 寺一 切経」 附 第 四 箱に納 め ら れ た 『 往 生 論 』 の奥書 に 仁 徘 二年十一月九日 書 寫し了んぬ、惠信。 同十日一交了。今 日先 妣の遠忌 な り 。 開題 供養の爲 芟 り奉る所な り 、珎 恭。 來 ち以 て 瑕 光 韓 の新舊合集せる一切經に 加 へ奉るや 。 とあるよ うに 古い もの を集 め、 足り ない 書 物 を新 し く 書 写 し新 旧 合 集 で あっ た こ とがわか る。 その ほか に 良勝の勧 進によっ て 書 写 さ れた経論 とし て 確 認さ れる ものは、 『六度集経』 、『 長阿含経 』 、 『 衆事分 阿 毘曇論』 、 『 阿毘曇毘婆沙 論』 、 『 成実 論』 であり、 す べ て 久 安四 (一一四八) 年以降に書 写 され て い る。 一切経書 写 事 業 を 勧進 した ことは、 良勝 の晩年の 事績 におい て 非常 に大 きな出来 事 で あっ た は ず で ある 。 五、 良勝 の 年 譜か ら 見 ら れ る 事 績 ( 85)  $!'

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これ ま で 挙 げ た 資 史 料 等 に 加 え 、石 山 寺 所 蔵の 聖 教 の 目録・高 山寺経蔵の目 録等 におい て 、良勝 が 関係 する と考 えら れる典籍 を加 え て 略年 譜を 作 成した 。 先に述べたように、良勝の生れ年を承暦三(一〇七九 )年とし、康和五(一一〇三)年、二十五歳の時 具足戒を受戒したと推測し、年譜を作成した(法臈の起算によって様々な可能性が考えられ、確定できな い 部分は 括弧で入れた)。血脈類から永久二(一一一四 )年三十六歳の時、厳覚から灌頂を授けられ、永 久 五(一一一七)年には勝覚が修した祈雨御修法に伴僧として出仕し、永久六/元永元(一一一八年)・ 元 永三/保安元(一一二〇)年には、厳覚が導師を勤める後七日御修法に伴僧として出仕した。また、元 永 元(一一一八)年禁中の麗景殿にて仁王経を厳覚が勤 修し、十二人の伴僧の一人として出仕している。 保 安二(一一二一)年、厳覚の臨終の際、「寅時印信」を授けられている。 厳覚が 入 滅した保安二 (一 一二一) 年以 後は 勝覚 が導 師を勤め る御修 法 に出 仕し 、それ以 外 で は天承二 /長承元 (一一三二) 年に寛信が念範・行海へ授 け た 灌頂 等にお い て 伴 僧を勤 め 、定 海が導師を 勤 める長 承三(一 一三四)年、 長承四/保延 元(一一三五)年 の御七日御 修 法にも 伴 僧とし て 出仕し て い る。大治 六/天承元(一一三一)年には醍醐寺阿闍梨五口の一 人に補任され、勧 修寺 だけ で な く 醍 醐寺における活 躍も 見られる。なお、書 写 奥 書 に「勧 修 寺蓮光房」と記されて いる こと から、勧修寺僧とし て生涯活動し たの であ ろう。また、 久安四(一一 四八)年より 一切経書 写 の 勧進 を始めた と 考 えられる。 良勝に関する最後の記録は、先に あ げた「石山寺一切経」第六十九箱に納められた『成実論』第 六巻の 奥書である。永暦二/応保元(一一六一)年正月十九日に良勝の誂えによって教運がこの年に書写をし終 わ っ たとあり、良勝の勧進による奥書はこれ以降見られない。その後記録がないということから、この頃 一 切 経が完成したのか、良勝が入滅したのか両方の可能性が考えられる。ただ良勝自身の記録がこの後見 $!

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つからないた め、良勝 の入 滅とい う こと も予想 さ れよ う。 以上から厳覚、定海、勝覚、良 雅か ら法を受け 、 特に 厳覚からは『寅時印 信 』を始め、多 くの口訣や印 信等授けられ、寛信や定海の伴僧とし て、後七日御 修 法 等に出 仕 するなど 、 源 氏 出 身者とし て勧 修寺を代 表す る僧と し て 活 躍した事 がわ かる。特 に定海からの受法は 、勧 修 寺 に留まること 無く 、幅広 く 受法 し、 醍 醐 寺の 筆 師 に一切経 の書 写 を 依頼 や醍 醐寺五口 の一 人 と なる など、醍 醐寺 でも活 動 し て いた ことが伺 え る。 と こ ろ で 、 『 密教 大 辞 典』 の 勧 修 寺 流血 脈 や 良勝 の 項 目 に は、 良勝 が範俊か ら付 法を受 け た 事 に な っ て いるが 、 記録には 見られない。範俊の付 法 の 弟子 と し て良雅 の 名 が 記 さ れ て い る ことか ら 、 混 同 の 可 能 性 も 考 え ら れ る 。 加 えて 言うな ら ば 、 成 尊 ― 範 俊―厳 覚 と 伝 え ら れ た 伝を 実任に 橋 渡 し し た 人物で あ り 、 実 任の伝の 多く は良勝由 来の もの で あ ると考えて よ く、 当時の勧修寺を代表する僧 で あ った と い えるだろう 。 また、一 切経書 写 事業 を勧進した こ とが晩年の良勝の 事績 にお い て 晩 年 、 非 常 に 大 き な出 来事 であった ろ う 。 なお、勧修寺の良勝と醍醐寺の 良 勝 を 本 論 では 伝記等から同一人物 の 仮 定 の上で まとめ て 述 べ て きた けれども、 こ れを すべ て 同 名異人 で はない と 証 す る決 定的な証拠 は 見出せ な かっ た。柴 田 氏の 研究に対し て 、 良勝 が勝 覚の付 法 の弟 子 で あり 、一 切経勧進 活 動 も行 なっ て い た点 は訂正 で きた であ ろう。 ・良 勝略年譜 承暦三 (一〇 七 九) 年  $! 

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誕生 俗姓等未詳。 (『真言付法血脈 図』、『真言 附法本朝血脈 』) 康和五 (一一 〇 三) 年 二五歳 ( 具 足 戒 を 受 戒す る 。 ) ( 『 真 言 付 法 血 脈図 』 、 『 真 言附法 本 朝 血脈 』 ) 永久二 (一一 一 四 ) 年 十月十九日 三六歳 厳覚 より勧修寺勝福院に て 灌 頂 を受ける。 ( 『 真 言伝法灌頂師資相承血 脈』、『真言付法 血脈 図 』 、『 真言附法本 朝 血脈』) 永久五 (一一 一 七) 年 六月十四日 三九歳 勝 覚 が修し た 「祈雨孔雀 経御修 法 」 に 伴 僧 とし て出 仕する。 ( 『 覚禅 抄』 「請雨法 」、 『永久五 年請 雨経法記 』、 『永久五 年祈 雨日記』 、『秘鈔 問答』「 請雨経御法伴 僧事 」・ 「請 雨経 御法伴僧 交名 事」) 永久六/ 元永 元(一一 一八)年 一月 四〇 歳 「 真 言院後 七 日御 修法 」( 導師 厳覚 )に 伴僧として 出 仕す る。( 『 御修 法記』) 四月二八日 禁中 の麗 景殿 にて 厳覚 が 勤 修す る「 仁 王 経法 」に 、 十 二 人 の伴 僧 の 一 人 とし て出 仕 す る。聖天 供を 勤め る。 (『 四巻 』) 元永三/ 保安元(一一 二〇)年 一月 四二歳 「真言院後七 日御 修法 」( 導師 厳覚 )に 伴僧と し て 出 仕す る 。 (『 覚禅 抄』 「後 七日 」、『御修 法 記』) 保安二 (一一 二 一 ) 年 $"!

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五月二四 日 四三歳 厳覚 より『寅 時印 信 』 (無印信? ) を授 かる 。( 『伝法 灌 頂 師 資相承 血 脈 』 、 『 儼 避 羅 鈔 』、 『 四 巻 鈔 』、 『 密 宗 血 脈 鈔 』、 『 安 流 伝 授 紀 要 』 ) 天治 二 (一一 二 五 ) 年 一月 四七 歳 「 真 言院 後 七 日御 修法 」 ( 導師 勝覚 ) に 伴僧 と し て 出 仕す る。( 『 御 修 法記』) 天治 三/ 大治 元 ( 一一 二六 ) 年 一月 四八歳 「 真 言院 後 七 日御 修法 」 ( 導師 勝覚 ) に 伴僧 と し て 出 仕す る。( 『 御 修 法記』) 大治 二 (一一 二 七) 年 一月 四九 歳 「 真 言院 後 七 日御 修法 」 ( 導師 勝覚 ) に 伴僧 と し て 出 仕す る。( 『 御 修 法記』) 大治 三 (一一 二 八 ) 年 十一月五 日 五〇歳 「愛染 王 法」 に つ い て 注 進 状 を 提出 する。 ( 『覚禅鈔』 「 愛染 法」 、 『 石 山寺の研究 深密 蔵聖 教編 』 上 第一五 箱 二号[ 三 ] ( 一一)・第 九 六 箱一一 号 [四 ]・ [ 五 ]・ [六 ]、 『高 山 寺 経 蔵 典籍 文書 目 録 』 第 三巻 第四部第 七三 箱三号[ 二二 ]・第八 九箱 一二号[ 二五 ]・第九 七箱 七五 号・同 第 四巻 四部第 一 二 四 箱七号 [ 九四]) 大治六/ 天承元(一一 三一 ) 年 五月十九日 五三歳 醍 醐 寺 ( 釈迦 堂) 阿闍梨五口 の 一人に補任 さ れる。 ( 『祈雨日記』 、 『 醍  $""

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醐寺雑事記』、『醍醐雑事記』、東 大史 料編纂所 架蔵『醍醐寺要書 』謄 写 本 、『醍醐寺 有 職補任』、『醍醐寺 新 要録』) 天承二 / 長承元(一一 三二)年 十一月十 七日 五四歳 寛信が 念 範 ・ 行海 へ 授 け た 灌頂 に お い て 教授阿 闍 梨と 唄を 勤 め る。 ( 『 権 律師寛信授灌 頂於両人 記』 、『 血脈 類集記』) 長承三 (一一 三 四 ) 年 一月 五六歳 「 真 言院 後 七 日御 修法 」 ( 導師 定海 ) に 伴僧 (五 大 尊 供)と し て 出 仕す る。(『 御修 法記』) 保延三 (一一 三 七) 年 九月二三日 五九 歳 実 任 に 法 を 授 け る 。 ( 『 真 言 附 法 本 朝 血 脈 』 、 『 真 言 付 法 血 脈 図 』 、 『 伝 法灌 頂師 資相 承血 脈 』 ) 永治 二/ 康治 元(一一 四二 ) 年 一月 六四歳 「真言院後七 日御 修法 」( 導師 寛信 )に 伴僧( 息 災護摩)と し て 出 仕す る。(『 覚禅 抄』 「後 七日 」、『永 治 二 年真言院 御修 法記』、 『御修 法 記』) 康治 二 (一一 四 三) 年 五月二六日 六五 歳 こ の 夜二 条院誕生 御産 御 修 法不動法 の 導 師を 勤める 。 ( 『 御産 部 類 記 』 ) 五月二九日 再び、 同 院誕生御 産御 仏供 養正観音 の 導 師を 勤める。 ( 『 御産 部 類 記 』 ) 康治三/ 天養元(一一 四四 )年 $"#

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一月八日 六六歳 「 寅 時 印 信」を書 写する。( 『 四 巻 鈔』) 久安四 (一一 四 八 ) 年 十一 月二二日 七〇 歳 『六度 集 経』 第八巻 を 観林に命じ て 書 写 せ し め る ( 『 六度集 経 』 全 八巻、 こ の 頃同 時一 括の書 写 か) 。(『石 山寺の研究 一切経編』第二七箱一 号~八号 ) 仁平二 (一一 五 二 ) 年 七月一日 七四歳 良弘 に 灌 頂を 授け る 。 (『 真言 付法 血脈図』 、『 真言附法 本 朝 血脈 』、 『伝 法灌 頂師 資相 承血 脈』 ) 久寿二 (一一 五 五 ) 年 十月十九日 七七歳 散位 高階の 業 盛に 命じて 『 長阿含 経 』第十六 巻を 書 写 せしめる(『長阿 含経 』全 二十 二巻 、 こ の頃 同 時 一括 の書 写 か )。 (『石山 寺の 研究 一 切経編』 第四 三箱三八 号~ 五九号) 久寿三 / 保元元(一一 五六)年 四月二三日 七八歳 醍醐 寺 沙 門尊 忠に 『 出 家功 徳経 』 を 書 写 せし める 。 ( 『 石 山 寺 の研 究 一 切経編』 五一 箱七号) 八月十八日 賢朝に 命 じ て 『摩 訶僧 祗律』第 二 一 巻を 書 写 せ し める(『 摩 訶 僧祗 律』 全四〇巻 、 こ の頃同時 一括 の書 写 か )。 『石山寺 の研究 一切経編 』第 五一箱四 八号 ~六七号・第 五二箱一 号~ 二〇号) 十月二二 日 実任に「 作 法 (題 未詳 )」を伝授す る。(『 高山寺経蔵典 籍文 書目録』  $"

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第二巻 五三箱八五号) 十二月十 二日 興 然 に「光 明 真 言 法」を 伝 授 す る。( 『 高 山 寺経 蔵 典 籍 文 書目録 』 第 二 巻 四部 五三 箱三六五 号) 保元三 (一一 五 八 ) 年 八月十日 八〇歳 賢信に 勝 覚が 修し た「 祈雨 孔雀 経御 修法 」に つ い て 語 る。( 『 永久 五年 祈雨日記 』、 『 高 山寺経蔵典籍文書 目録』第一巻 一部一三七号 ・二 部 一八四号・一 九四号) 十月二五 日 興然に 「 舍利法」 を 伝 授す る。 ( 『 四巻』 ・ 『高山寺経 蔵 典 籍 文書目録 』 第四巻 第四 部第一五六箱 九号[七 ]・ 第二〇一 箱二 号[二六 ]) 十二月二 一日 興然に「 如 法 尊勝法 」 を伝授 す る 。 (『 四巻』) 保元四/ 平治 元(一一 五九)年 一月二十日 八一歳 勧 進 一切経のた め に乗暁に対し『衆事分阿毘曇論』第六巻の書 写 を勧め る。 乗暁 、 こ れを 醍醐 寺宝 蓮院 おい て 書 写する( 『衆 事分 阿毘 曇論 』全 十二巻、 こ の 頃同 時一 括の書 写 か) 。( 『石 山寺の研究 一切経編 』第 六一箱一 号~ 一二号) 二月十一日 この頃、『阿 毘曇毘婆沙論』 全 六〇 巻を良勝勧進一切経のうち と し て 書 写さ れ る ( 第 一 巻 欠 本 ) 。 ( 『 石 山 寺 の 研 究 一切 経編 』 第 六一 箱一 三 号~ 五一 号・ 第六二箱 一号 ~一九号 ) 永暦二/ 応保 元(一一 六一)年 $"$

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( ) * ) + , -. / 0 1 2 0 1 3 4  $"% 一月十九日 八三歳 勧進一切経のため誂えて 『 成実論』 第六巻 を 教 運 に書 写 せ しめる。 ( 『 成 実論』全 十六巻、 こ の 頃同 時一括の書 写 か)。(『 石 山寺の研究 一切 経編』第 六九 箱一号~ 一六 号) 年次不明の事績 寛信が 修 法し た 「 法華 法」 で 護 摩を 勤仕 する。 ( 『覚禅鈔』 「 法華秘決 」 ・ 『 高 山寺経蔵典籍文書 目録』 第 四巻 第四部第一 七 三箱一〇号八 ・ 一 四 ・ 二〇号一 〇) 興然に「 千 手 敬愛法」を 伝 授 す る。(『 秘鈔 問答』) 註 (1) 拙稿『勧 修寺大法房実 任にお け る法流授受 と 年譜』『智山 学報 』第六四輯[二〇 一五] (2 ) 柴田賢龍 『日本密教人物事 典 醍醐僧伝探訪 』上巻[二〇一〇 、国書 刊行会 刊] 一六五~一七一頁 (3) 『伝燈広 録 』後第二巻 『続真言 宗全 書』第三三 巻 四九三頁上 (4)『新訂増補 国史大系』第六〇 巻上 『尊 卑分 脈』 第三 篇 三八一 ~ 三八 二 頁 、 四 七 〇 ~ 四 七一 頁 (5)『増補史料 大成』第一二巻『 中右記』第四巻 天永二年四月二四日 条 四一 頁下 (6) 『 新訂増補国史大系』第五三巻 『公 卿 補 任 』 第 一 編 三六 四頁 上 (7) 醍醐寺蔵 本『伝 法 灌頂師資 相承血 脈 』 築 島 裕「醍 醐 寺蔵本「伝法灌頂師 資 相承血脈」」 『醍 醐寺 文化 財研 究所研 究 紀要』第一 号[一九七八] 四五 頁 (8)『 醍醐 雑事 記』 下巻第五 中島俊司 編『醍 醐 雑事 記』[ 一 九 三 一、醍 醐 寺刊 ] 一 五六~一五七頁  $"%

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(9)『 醍醐寺新 要録 』第一 三 巻 醍醐寺 文 化財 研究 所編『 醍 醐寺新要 録 』 下巻[一 九九 一、法蔵館 刊 ] 八五三頁 ( 10)『 尊卑 分脈』 『 新 訂増補国史 大 系』第六〇巻上 『尊 卑分 脈』 第三 篇 四七〇 頁 ( 11)『真言附法本 朝 血脈』 『続真言 宗全 書』第二 五 巻 一二頁 上 、一 三頁 上~下 ( 12) 醍醐寺蔵本 『 伝 法 灌頂師資 相 承 血 脈 』 築島裕 「 醍醐寺蔵本「伝 法 灌頂師資相承血 脈 」」『 醍 醐寺文 化 財 研 究所研究紀 要 』第一 号[一九七八] 九三頁 ( 13) 東 寺 観智院 金 剛蔵本『 真言付 法 血 脈 図』 湯 浅 吉美 「東 寺観智院 金 剛 蔵『 真言付法 血 脈 図』の翻刻」 『 成 田山 仏教 研究 所紀 要』 第二九号[二〇〇 六] 七二~七三 頁 ( 14) 『 血 脈 類 集 記 』 第 五 巻 『真 言 宗 全 書 』 第 三 九 巻 一二〇頁下 良勝の 名 が 実 任で あると の 指摘は 柴 田賢 龍氏 『日本密教 人 物事典』 [二〇一〇、国書 刊行会 刊]の 興 然 の 項 目 の中 でも触 れ られ ている。 ( 15)『 四巻』第一 巻 『大正蔵』第 七八巻 七八二頁中 ( 16) 『 祈雨日記』 『続群 書 類 集 』第二 五 輯下 二三八頁下~二四〇頁上 ( 17)『 醍醐 雑事記 』 下巻第三 中島 俊司編『 醍醐 雑事 記』[一 九三一、 醍醐寺 刊 ] 八六 頁 ( 18)『 醍醐寺 雑 事 記 』 『群 書類 従 』 第二 五輯下 四六七頁 下 ( 19)『 醍醐寺新要録』第六巻 醍醐 寺 文 化財 研究所編 『 醍 醐寺新要録 』 上巻[一 九九一、 法蔵館 刊 ] 三四八~三四九頁 ( 20) 国立歴史民 族 博物館所蔵「田 中 穣氏旧蔵典籍古 文 書」H ・ 七四三・一三七『 醍醐寺 有 識補任』五頁 国立歴史民族博物 館架蔵の 影写 版 の プリ ン ト ア ウ ト 版 を 確 認 し た 。 ( 21) 石山寺文化財総合調査団編『 石 山寺の研究 一 切 経編』[一 九 七 八 、法蔵館刊] 第六 九箱六号 六七 〇頁 ( 22)『真言附法本 朝 血脈』 『続真言 宗全 書』第二 五 巻 一二頁 上 、一 三頁 上 ( 23) 東寺観智院 金 剛蔵『伝法灌頂 相 承略記』 湯 浅 吉美 「東 寺観智院 金 剛 蔵『伝 法 灌頂 相承略記』(兼 意 撰)の翻刻」『 成 田山 仏教 研究所紀 要』第三 四号[二〇一一] 一〇四頁 ( 24) 東寺 観智院 金 剛 蔵 『真 言付法血脈図 』 湯 浅 吉 美 「 東 寺 観 智 院 金剛 蔵 『 真 言 付 法 血脈 図 』 の 翻 刻 」 『成 田 山 仏 教 研 究 所 紀 要 』 第 二九 号[二〇〇六 ] 七〇頁 ( 25)『 真言伝 法 灌 頂 師資 相承血 脈 』 『仁 和寺史料』 第 四 集 「記録篇」 二 四頁 ( 26)『血 脈 類集 記 』 第 四 巻 『真 言宗全 書 』第三九 巻 一〇二頁下 ( 27) 醍醐寺蔵本 『 伝 法 灌頂師資 相 承 血 脈 』 築島裕 「 醍醐寺蔵本「 伝 法 灌頂師資相承血 脈 」解題」『 醍 醐 寺 文化 財 研 究所研究紀要』 $"&

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第一号[一 九 七八 ] 八二頁 ( 28)『 野沢血 脈 集 』 第一 巻 『真 言宗全 書 』第三九 巻 三五 三 頁 下・ 同 第 二巻 『真 言 宗 全 書 』三九 巻 四〇〇頁 上、四 〇 一 頁 下 ( 29)『 儼 避 羅 鈔 』 第 一 三 巻 『大 日 本 仏 教 全 書 』 第 五 二 巻 四七七 頁 下 ・ 同第一 四巻 『大 日 本 仏 教 全 書 』 第 五 二 巻 四七 九 頁 上、 四 九一 頁下~ 四 九二 頁上 ( 30)『 四巻鈔 』 上 巻 『 真 言宗 全書 』第 三一 巻 二二 九頁上、二三五 頁 下 ( 31) 『 諸流灌頂秘蔵 鈔』 『真 言 宗 全 書 』第二 七 巻 三四一 頁 上、三四五 頁 上 ( 32)『 三十六流 大 事 』 『続真言 宗 全 書』第二 五巻 四一一 頁 下 ( 33)『儼 避 羅鈔 』 第 一 四 巻 『大 日 本 仏 教 全 書 』第 五 二 巻 四八 九頁下 ( 34) 『四 巻 鈔 』 上 巻 『真言 宗 全書』 第三 一 巻 二五三頁下 ・ 同 中 巻 『 真 言 宗全書』 第 三 一巻 二六二頁 下、 二七二 頁 上、 同下巻 『真 言宗 全書 』第 三一 巻 三一 四 頁 下 ( 35)『儼 避 羅鈔 』 第 一 四 巻 『大 日 本 仏 教 全 書 』第 五 二 巻 四八六 頁 上 ~ 四八八 頁 上 ( 36)『 四巻鈔 』 中 巻 『 真 言宗 全書 』第 三一 巻 二六 九頁上 ( 37)『 密宗血 脈 鈔 』 下巻 『続真言宗全 書』第二 五巻 三五 九頁下~ 三 六 〇 頁 上 ( 38)『 安流伝 授 紀 要 』第二七 巻 『真 言 宗 全 書 』 第 三 五 巻 二〇一 頁 上 ~ 下 ( 39)『 四巻鈔 』 中 巻 『 真 言宗 全書 』第 三一 巻 二五 六 頁 上、二七〇 頁 下、二七三頁上 ( 40)『 本 朝 伝 法 灌 頂 師資 相承血 脈 』 『大 日本 古文 書 』 家わけ 第 一九「醍 醐寺文 書 之 一 」 三七 四頁 ( 41)『血 脈 記』 『続真言 宗全 書』第二 五巻 一三 一 頁 下 ( 42)『 安流伝 授 紀 要 』第 四巻 『真言 宗 全 書 』第三四巻 三三〇頁上 ( 43)『 四巻』第二 巻 『大正蔵』第 七八巻 七八九頁中 ( 44)『覚禅鈔』第 八 〇巻「愛染法」 上 『大 正蔵』「図 像 部」第 五 巻 二二八頁下~二二 九頁上 ( 45) 石山寺文化財総合調査団編 『 石 山寺の研究 深密蔵聖教編』 上 [ 一 九九一、 法蔵 館刊 ] 第一五箱二 号 [三] (一一) 八〇頁 ・ 九六箱一一号[四 ]・[五]・[六 ] 五一七頁 ( 46) 高山寺典籍 文 書総合 調 査団編 『 高山寺経蔵典籍 文 書 目 録』第三巻 第四部第七三箱 三 号[二二] 二八頁 ・ 第 八 九 箱 一二 号 [ 二 五] 三六〇~三六一頁 ・第四部第 九 七箱七五号 五七六頁 ・同 第四 巻 第四部第一二四箱七号[九四] 五七頁 ( 47)『覚禅鈔 』 第 一 三三巻 「 後七日 」 中 『大 正蔵』 「 図 像 部」第 五 巻 六六八頁下・六 六九頁中  $"'

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( 48) 永 観 文 庫 蔵『御修法記』 横井 清 「永観 文 庫 蔵 『御修法記』」『立命館文学』第 二 一〇号[一九 六 二] 四八~ 四 九 頁 ( 49)『 安流伝 授 紀 要 』第一〇 巻 『真 言 宗 全 書 』 三 四 巻 四三七頁下 ( 50) 拙稿『勧修 寺大法房実 任にお け る法流受授 と 年譜』 『智山学報 』 六四輯[二〇一 五 ] ( 51) 大正大学附 属 図 書 館蔵『真言宗付法血脈』 苫米地 誠 一「 大 正 大学 附属 図 書 館 所 蔵『真 言 宗付 法 血 脈』紹 介 と 翻 刻 『 川勝 守 ・ 賢 亮博士古稀記念東 方学論 集 』[二〇 一三、汲古書院 刊 ] 四四九頁 ( 52) 東 寺 観智院 金 剛蔵本『 三国相 承 秘密伝 法 一門血 脈 』 湯 浅 吉美 「東 寺観智院 金 剛 蔵 『 三国相承 秘密伝 法 一門血 脈 』の翻 刻 」『 成 田山仏 教 研究所紀 要』第二八号[二 〇〇五] 九二 頁 ( 53)『 覚 禅 鈔 』 第 二 〇 巻 「 請 雨 法 」 中 『大正蔵』 「 図像部」 第四巻 六〇三頁上 『覚 禅鈔』 で は 五 月 と なっ て い るが、 他 の史料 で は六月 と なっ てい るの で、『覚禅鈔 』の 誤り であ ろう 。 ( 54)『 永久 五 年 請 雨 経 法 記』 『続群 書 類 従 』第二 五 輯下 三一 三頁下 ( 55)『 永久 五 年 祈 雨 日 記 』 『続群書類 従 』第二 五 輯 下 二八 三頁上 ( 56)『 秘鈔 問答 』 第 六 巻 『大 正蔵』第 七九 巻 三九 九頁中~下 ( 57)『 永久 五 年 祈 雨 日 記 』 『続群書類 従 』第二 五 輯 下 二八六 頁 下~ 二八七 頁 上 ( 58) 東寺 観智院 金 剛 蔵 本 『 東寺 血 脈 (小 野/ 本 ・ 末) 』 ( 真 言 付法相承 血脈次第) 湯 浅 吉美 「東 寺観智 院 金 剛 蔵 『 東 寺 血 脈 小野本・ 末』(東寺付法相 承 血脈次第)の翻 訳 」『成田山仏 教 研 究所紀要』第三 二 号[二〇〇五] 二一 三頁 ( 59)『血 脈 類集 記 』 第 四 巻 『真 言宗全 書 』第三九 巻 一一二頁上 ( 60) 醍醐寺蔵本 『 伝 法 灌頂師資 相 承 血 脈 』 築島裕 「 醍醐寺蔵本「伝 法 灌頂師資相承血 脈 」」『 醍 醐寺文 化 財 研 究所研究紀 要 』第一 号[一九七八] 六三頁 ( 61)『新訂増補国史大系』第六〇巻 上 『尊 卑分 脈』第三 篇 四七〇~ 四七一 頁 ( 62)『 野沢 大血 脈 』 『続真 言 宗全書』第二 五巻 五三 頁 上 ( 63)『 密宗血 脈 鈔 』 下巻 『続真言宗全 書』第二 五巻 三五六 頁 下 ( 64) 永 観 文 庫 蔵『御修法記』 横井 清 「永観 文 庫 蔵 『御修法記』」『立命館文学』第 二 一〇号[一九 六 二] 五一~五二 頁 ( 65) 大正大学附 属 図 書 館蔵『真言宗付法血脈』 苫米地 誠 一「 大 正 大学 附属 図 書 館 所 蔵『真 言 宗付 法 血 脈』紹 介 と 翻 刻 『 川勝 守 ・ 賢 亮博士古稀記念東 方学論 集 』[二〇 一三、汲古書院 刊 ] 四五一 頁 ( 66) 東寺 観智院 金 剛 蔵 本 『 伝法灌頂相 承 略記』 湯 浅 吉美 「東 寺観智 院 金 剛 蔵『伝 法 灌 頂 相承略記』(兼 意 撰)の翻刻(そ の 二)」 $"

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『成田 山 仏 教 研 究 所 紀 要』第三四 号 [二 〇一一] 九一頁 ( 67) 東寺 観智院 金 剛 蔵 本 『 東寺 血 脈 (小 野/ 本 ・ 末) 』 ( 真 言 付法相承 血脈次第) 湯 浅 吉美 「東 寺観智 院 金 剛 蔵 『 東 寺 血 脈 小野本・ 末』(東寺付法相 承 血脈次第)の翻 訳 」『成田山仏 教 研 究所紀要』第三 二 号[二〇〇五] 二〇三頁 ( 68)『血 脈 類集 記 』 第 四 巻 『真 言宗全 書 』第三九 巻 一一四頁上 ( 69) 醍醐寺蔵本 『 伝 法 灌頂師資 相 承 血 脈 』 築島裕 「 醍醐寺蔵本「伝 法 灌頂師資相承血 脈 」」『 醍 醐寺文 化 財 研 究所研究紀 要 』第一 号[一九七八] 四五 頁 ( 70) 東 寺 観智院 金 剛蔵本『 三国相 承 秘密伝 法 一門血 脈 』 湯 浅 吉美 「東 寺観智院 金 剛 蔵 『 三国相承 秘密伝 法 一門血 脈 』の翻 刻 」『 成 田山仏 教 研究所紀 要』第二八号[二 〇〇五] 九九頁 ( 71)『血 脈 私抄』 下 巻 『続真言 宗 全 書』第二 五巻 一七四頁上 ( 72)『 密宗血 脈 鈔 』 中巻 『続真言宗全 書』二 五 巻 三二二頁 ( 73)『 続伝 燈広録 』 第八 巻 『続真言 宗全 書』三三 巻 四一一 頁 上 ( 74)『 野沢血 脈 集 』 第二巻 『真 言宗全 書 』三九 巻 三六七 頁 上 ( 75) 永 観 文 庫 蔵『御修法記』 横 井 清「永観 文 庫 蔵『御修法記』」『 立 命館文学』第二 一〇号[一 九六二 ] 五五 頁 ( 76)『権 律 師寛信 授 灌頂於 両 人記』 『真 言 宗 全 書 』第二 七 巻 九七 頁 上 、 九 八 頁 上 ( 77)『血 脈 類集 記 』 巻五 『真 言 宗 全 書 』三九 巻 一一九 頁 上 ( 78)『覚禅鈔 』 第 二 三巻 「法華 法 」 中 『大 正蔵』「図 像 部」第四 巻 六三 二頁下 ( 79)『覚禅鈔 』 第 一 三二巻 「 後七日 」 上 『大 正蔵』 「 図 像 部」第 五 巻 六五五 頁 中、六 五 九頁上 ( 80)『 永治 二年真 言 院 御 修法記』 『続群 書 類 従 』第二 五 輯下 一三 六 頁 下 ( 81) 永 観 文 庫 蔵『御修法記』 横井 清 「永観 文 庫 蔵 『御修法記』」『立命館文学』第 二 一〇号[一九 六 二] 六〇頁 ( 82) 醍醐寺蔵本 『 伝 法 灌頂師資 相 承 血 脈 』 築島裕 「 醍醐寺蔵本「 伝 法 灌頂師資相承血 脈 」解題」『 醍 醐 寺 文化 財 研 究所研究紀要』 第一号[一 九 七八 ] 九三頁 ( 83) 石山寺文化財総合調査団編『 石 山寺の研究 一 切 経編』[一 九 七 八 、法蔵館刊] 第五一箱七号 四七六頁 ( 84) 石山寺文化財総合調査団編『 石 山寺の研究 一 切 経編』[一 九 七 八 、法蔵館刊] 第五二箱一号 四九 一頁 ( 85) 石山寺文化財総合調査団編『 石 山寺の研究 一 切 経編』[一 九 七 八 、法蔵館刊] 附第四箱一〇六号 七九 五頁  $" 

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