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まえがき
本書は,物質世界を探索する手法の 1 つであるミュオンスピン回転法(Muon Spin Rotation, ミュオンを表すギリシャ文字 µ を用いて µSR と略称)を,初学 者にわかりやすく紹介することを目的として用意されたもので,日本語による モノグラフとしては初めての試みである.ではなぜ今,µSR の入門書なのか? µSR という手法は,粒子が持つスピンという自由度を通して物質を眺めると いう点で核磁気共鳴(NMR)や電子スピン共鳴とよく似ている.また,その研 究対象が大変幅広い専門分野にわたり,いろいろな応用の可能性があるという 点でも両者と共通している.一方で,実験には高エネルギー粒子加速器から取 り出される短寿命素粒子であるミュオンを必要とするため,これまでのところ µSR を利用できる機会は限られており,残念ながらその有用性が広く知られて いるとは言い難い状況であった.しかしながら,茨城県東海村で 2008 年から 稼働し始めた J-PARC 物質生命科学実験施設では,ミュオン利用施設も徐々に 整備され,近年ようやく幅広い研究者のニーズに応えられる状況になりつつあ る.これが上記の疑問に対する第 1 の理由である. とはいえ,この入門書を用意するに至った動機はもっと深いところにある. というのも,過去およそ 40 年にわたり µSR が有効に活用されてきた分野とし て,大きくは (1) ミュオンを「プローブ(探針)」として使う磁性や超伝導にか かわる研究,および (2) 物質中の水素の存在状態をシミュレートする「擬水素 (水素同位体)」としてのミュオンの研究という分野が挙げられるが,これら 2 つの分野の研究者にはお互いの関心に共通するところが少ないこともあり,い まだに両者の間では µSR を真に有効な手法として発展させるために必要な知識 の共有・連携がうまくいっているとは言い難い状況にある.それゆえ,英語の ものも含め,従来の類書ではどちらかといえば執筆者がそれぞれの専門分野に 近い研究における µSR の適用例を解説することを中心にしたスタイルが主流 だったが,結果として「プローブ」としての理解と「擬水素」としての理解が 乖離しがちで,特に初学者にとっては消化不良を起こしやすい状況であった.main : 2016/8/24(9:29) iv まえがき そこで,本書ではこの両者をふたたび有機的につなぐことを試みるとともに, µSR という手法を「基本法則から読み解く」上で必要とされる幅広い知識につ いて,実際のミュオン利用実験における時系列の 3 段階に従ってこれらを構成 しなおし,順を追って提示することで手法そのものについての入門書としての 役割をも担うことを意図したものである.プローブとしてのミュオンと水素同 位体としてのミュオンを統合的に理解することで,初学者のみならず,すでに µSR を使ったことがある読者にも,ミュオンという窓を通して新たな物質世界 が見えてくることを期待したい. なお,本書の成立にあたっては,監修の須藤彰三先生から内容,構成につい て大変有益な助言を頂いたことを,また共立出版の島田誠氏には長期間にわた り辛抱強くお付き合い頂いたことを特に記し,この場を借りて深く感謝申し上 げます. 2016 年 8 月 門野良典