Title
南北問題と沖縄
Author(s)
組原, 洋
Citation
沖縄大学地域研究所年報 = The Institute of Regional Study,
The University of Okinawa Annual Report(6): 45-65
Issue Date
1995-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/9868
南 北 問 題 と 沖 縄
North-SouthProblem"connectingwiththeSituationofOkinawa. は じ め に 本稿は、私が94年中に行った講演を再構成した もの2つと、これに関連する旅ノート1つを合わせ たものである。結果として1つにまとめたが、もと は、それぞればらばらに行ったことである。どうい うつもりで合体したのかをまず述べておきたい。 地域研究所でのテーマとしては、交通問題とか、 戦後沖縄の法とか、南太平洋の法とかを設定し、研 究を進めている。そういったテーマを広く横断する 形で、沖縄という場所がどういう場所なのかという ことは継続して考え続けてきた。 94年度はそれを、社会教育と交差する形で考え る機会が多かった。社会教育研究全国集会が8月 27日から29日まで長崎県の雲仙で開かれたこと が大きい。 九州でこの集会が開かれるということで、沖縄で も早くから準備のための会合がもたれたのであるが、 実際に参加することに決めたのは直前になってから で、飛び入り参加の形になった。時間の都合で長崎 市にも立ち寄れず、27日に沖縄から飛行機で福岡 に行って、レンタカーで会場に直行した。車がある お陰で28日の早朝、普賢岳を見に行けたのは大き な収穫だった。 28日の特別セミナーは「国際交流と地域づく り」、分科会は「平和・国際連帯のための学習」に 出た。韓国やシンガポール等から来ている人もいて、 なるほど国際化が進んでいるのだな、と。また、こ の全国集会は5年後に沖縄で開かれる予定になった らしいが、そういうこともあってか、28日夜の自 由交流会の「沖縄を語る会」はとても盛況だった。 29日も時間の都合で全体会を途中で抜けて、福岡組 原 洋
に直行した。 当時一番興味をもっていたテーマは、いわゆる自 治体外交の問題である。日本各地でさまざまな取り 組みが見られる中で、では沖縄はどうだろうかと考 えていた。 沖縄の場合、過去に多数の海外移民を輩出した歴 史をもっている。それによって形成されたネットワ ークを利用しての交流が中心になってきたのではな いかと思われる。また、歴史的な事情から中国の福 州等とも交流がある。しかし、姉妹都市との親善交 流とかの域を越えた、外交と言った方がふさわしい ような取り組みが現にあるのかどうか、疑わしい (沖縄県知事公室国際交流課「国際交流関連業務概 要」(1994年3月)参照)。 過去はどうであれ、現在人々の関心は圧倒的に東 京の方を向いていて、台湾、中国や東南アジアの方 を向いてはいない。「沖縄にいると日本がよくみえ る」とはしばしば聞く言いぐさであるが、では、 「沖縄にいると世界がよく見える」だろうか。かな り疑問だろう。 それだけでなく、例えば沖縄本島の人は沖縄の離 島のことをよく知らないと聞いたことがある。旅行 というので具体的に考える行き先は例えば九州では あっても、離島ではないと。本島の学校の修学旅行 の行き先を沖縄の離島にすれば相当な経済的効果が 期待できるのではないかとも聞いた。とにかく沖縄 のこともよく知らないのである。こういうふうに関 心が地域でもない、外国でもない、日本という国に 収敬してしまっている状態で、日本が本当によく見 えるのかも疑わしいのではなかろうか。 こういう視点からIの具志頭村での講演を構成し た。沖縄の中でも同じようなことを考えている人が いるんだなということが、講演の前後に雑談してわ − 4 5 −かつた。 Ⅱの児童館関係の講演でも、沖縄の子どもたちの 現状に個人的には興味があったが、具体的な情報を 持っていなかった。むしろ私の方が教えていただく 立場だった。それで、私に可能な話をということで 構成したら、南北問題と重なる内容になったのであ る。94年度の法人類学の後期の講義でこのテーマ をまとめて取り上げたほか、夏休みにベトナムとア フリカ南部を旅行した時もそれに関連する関心を持 っていた。そのうち、アフリカ南部の旅行メモから 作成したのがⅢである。 沖縄は、日本国内の「南」である。今も国庫補助 という援助を大量に受けている。しかし、日本の一 部ではあるから、国際的には「北」ということにな る。そのギャップに由来するゆがみが今、集中的に 出始めているように思われるのだが、どうか。 例えば、94年9月6日に告示された伊良部町の 町議(定数20人)選挙を無投票にするための工作 がなされたとして、95年1月9日、町議会議長ら 現職町議15人、立候補を取り止めた2人、後援会 関係者ら計23人が公選法(買収・被買収)容疑で 逮捕され、同月13日には町長も公選法容疑で逮捕 された。さらに同月20日、新たに現職町議2人が 逮捕され、21日には建設業者が逮捕された。この 事件の背景には、中央からの財政投融資による公共 工事が経済の主力となり、この公共工事をめぐって 地方政治家と土建業者が癒着し、金権選挙が拡大再 生産されてきたという事情があると指摘される(江 上能義「公共工事への依存が腐敗の温床」(沖縄タ イムス95年1月14日朝刊)参照)o 弁護士としての体験からもうなずける指摘である。 また例えば、交通関係で言えば、モノレール問題 を見いていて痛感するのは、経済的な面も含めて自 前でやっていこうとする発想の貧しさである。この ような大きい問題だけでなく、小さなところでも、 工夫の貧しさが目につく。それが沖縄だ、というの であれば、特に言うことはないが、第三者的に見て いて感じるのは、通時的観点、つまりは歴史に学ぶ 態度が貧しいと思う。だからこそ、本当に必要な新 しいことができない。 I 具 志 頭 村 に お け る 講 演 94年10月31日、私は「具志頭村、郷土と歴 史の研究会」の学習会において、「現代の世相から みた、あれこれ(法人類学的立場から)」と題して 講演した。講演を依頼してきたのは、この会の世話 人上原文一氏である。 上原氏とは社会教育との関係で知り合いになった。 同氏は東京学芸大学の、社会教育が専門の小林文人 先生のところで勉強されたそうだ。 私の方は、社会教育に関心を持つようになったの は、1991年8月、松本で開かれた社会教育研究 全国集会に出席して以来のことである。小林氏は、 この集会を主催した社会教育推進全国協議会の委員 長だった。この時のことは、「旅の動機をめぐる考 察」(沖縄大学地域研究所年報第3号。1992年) に書いた。その時は社会教育というものにそんなに 関心を持たなかったのだが、その後、92年に、法 人類学と関連させて、「「生涯学習」考」(沖大法 学第13号)を書いた。94年には、生涯学習とボ ランティア活動を関連させて、「時間・空間と人間 の設計」(沖大法学第15号)を書いた。こういう ふうにして段々社会教育に関心を持つようになり、 この線の研究は現在も継続している。 小林氏は沖縄と縁の深い方で何度も来沖しておら れるが、小林氏を囲んでの会に出るとたいてい上原 氏もいらっしゃった。今回の講演依頼もそういう縁 からだろうとは思ったのだが、最初、話の内容は何 でもいいといわれて困惑した。講演というのは、相 手があっての話である。それで、どういう人が集ま るのか、ということと、どういうテーマの話を聞き たいのかを教えてほしいと要望した。そうしたら前 記のような題が指定され、研究会のメンバー一覧表 と、研究会のこれまでの歩み一覧表も送られてきた。 会のメンバーは全部で17名であるが、上原氏が 具志頭村の教育課長であるせいか、元教師というの が一番多い(4名)。あとはさまざまで、年輩の人 − 4 6 − 1 、 . 『 − T - − . ィ . ↑ ‐ 一 も 4 − 。 0 − − . ∼ − , っ 。
が多いということだった。会は92年9月8日に発 足しているが、毎月1回程度講演等をしてきている。 テーマは地域と関連したものが多い。地域という のは、具志頭村であったり、沖縄本島南部であった り、沖縄全体であったり、さまざまである。小林氏 や社会教育関係者との交流を意識して設定されたと 思われる講演等もある。 こういうことから、私としては、地域と関連した テーマを設定すればいいだろうと考えたのだが、具 志頭村というのがどういうところなのかは、最後ま でイメージが作れなかったので、地域といっても、 沖縄全般を頭に置いてやるしかなかった。 で、94年10月24日、沖大卒業生の生盛栄作 さんを誘って、那覇で開かれた国際貢献NGOの集 会に参加した時に、彼に、何かいい話のタネはない だろうかと聞いてみた。そうしたら、琉球銀行の与 儀支店に強盗が入ったが、犯人は「刑務所に入りた かった」と供述しているというのだ。琉銀の与儀支 店というのは那覇警察署の真ん前である。ところが、 更にそのちょっと後、もう一度同じ銀行に強盗が入 り、これも刑務所に入りたかったためだというのだ。 探したら、その通りの新聞記事が見つかった(沖 縄タイムス94年9月28日夕刊、同10月3日朝 刊)。新聞記事によれば、最初のは長さ17センチ の千枚通しを持って女子行員を脅迫したもので、容 疑者の男性は無職で61歳、犯行当時かなり酒に酔 っていたといい、「借金から逃れるために、刑務所 に入りたかった」と供述しているというo2度目の は、刃渡り約20センチの包丁を持って、店内にい た女性客の肩をたたいたが客は刃物に気づいて逃げ、 容疑者の男はカウンター内にいた男子行員を脅かし た後、近くにいた客2∼3人に向かって「一億円出 せ」と要求したのだという。容疑者は無職で51歳、 やはり「刑務所に入りたかった」と供述しているの だという。 すごくおもしろい事件だと思うが、どうだろう。 実は、私なども、だんだん年取ってきて、将来仕事 がなくなったらどうしようかと考えることがある。 どうすればいいのか、あまり自信はない。が、考え ると、確かに刑務所で飢え死にということは多分な いだろう。容疑者、特に1回目の容疑者もこの辺り は散々考えたのではなかろうか。 で、容疑者がこのような犯行をするに至ったのは、 老年になって、みてくれる人もいないせいだろうと 最初は単純に考えたのである。ところが、94年 10月26日の沖縄タイムス朝刊に「深刻さ増す多 重債務者」という大きな記事が出た。この記事を読 んで考えが変わった。 この記事は、沖縄県司法書士会が取り扱った自己 破産事件を分析したものである。沖縄県では、親族 のきずなの強さが多重債務者を増やし、負債額をふ くらませているのだそうで、副題も、「相互扶助の 良さが裏目に」となっている。 記事によれば、親から子供、親せきまでが名義貸 しやカードで借金を重ね、払えなくなるケースが目 立ち、司法書士会では、「多重債務者の急増ぶりは、 家族や親せき、友人の支え合いだけでは救済できな いところまできている。逆にかばいあうことが被害 を広げている」と指摘している。その後もこの関係 の記事は何度か出た。 もちろん、琉銀与儀支店の強盗容疑者がこのよう なケースだったのかどうか、知る由もない。あくま で一般論である。 この記事を読んでピンときたのは、前記のNGO の集会のことである。この集会のことは、翌日の 10月25日、沖縄タイムス朝刊に大きな記事とな って載った。「国際貢献ユイマール精神で」とい う記事である。写真入りで、私も生盛さんも写って いる。ちょうど法人類学の講義で、南北問題とから めてNGOについていろいろやっていたので、集会 直後の講義でこの記事のコピーも利用した。その時 の講義案の一部を以下に掲げる。 「今回は前回に続いて、田中治彦「南北問題と開 発教育」(亜紀書房・1994年)の第1,2章を 見てみる。 10月24日夜、首里のメルパルクで、NGOの 集まりがあって、バングラデシュの人も来るという − 4 7 −
のでいった。この集まりはアジア医師連絡協議会A MDATHEASSOCIATIONOFMEDIC肌mCTORSFOR ASIAという、84年に設立され、岡山に本部がある NGOが中心になって催したもののようである。実 際に出てみるとキリスト教会関係者が非常に多いよ うで、実際、集会の後一緒に歌いましょうという、 その歌は英語の歌で、Godの歌なのである。歌いな がら手をつないで輪になっていくのである。 私は、冗談ではないと、その輪をちぎるようにし て「脱出」した。NGOって誰でも気軽に出入りで きると言われているが、必ずしもそうではないよう だ。キリスト教精神と「ユイマール精神」とがどの 程度合致するのかも疑問である。 バングラデシュのパネラーはアラディン・アハメ ド氏で、この方はスプレッド:SPREADSOCIE- TYFORPROMOTIONOFRURALEDUCATIONANDDEVEL-OPMENTというNGOを92年に設立して、ダッカ から100キロ離れた20か所の村で、産児制限、 健康管理、言語などの教育を行う私設の学校をつく ったほか、井戸の整備や公衆便所の建設にも力を注 いでいるそうである。 この人の話はおもしろかった。で、集会の後、ス プレッドに加入しようと彼を捜したが、いなくなっ ていた。彼も歌の輪がいやで逃げたのかもしれない。 イスラム教徒だから。なお、来賓として、沖縄県政 策調整監の高山朝光という人が来ていて挨拶した。」 AMDAというNGOはこのように岡山に本部を 置いているが、「南北問題と開発教育」の著者田中 治彦氏も岡山で開発教育に携わっておられる。私自 身、高校が岡山だったこともあり、なぜ岡山なのか という興味を感じた。 このAMDAは11月3日、ザイールのゴマの難 民キャンプで活動中、ルワンダ難民にトラックを強 奪され、日本の自衛隊に救援を求めたことから一躍 有名になった。 集会のパネラーの1人である高良勉氏の発表レジ ュメの題は、「国際協力とユイマール精神」だった。 私個人としては、ユイマール(結回る)というのは、 血縁・地縁を基礎とした狭い範囲での相互扶助であ り、むしろ国際協力などとは反対方向のものではな いか、という感じを持った。それで、前記の沖縄タ イムスの記事のほか、高良氏のレジュメ等を法人類 学の演習で見せたところ、興味を持った人達がいろ いろ調べて、「ユイマール」という題で、12月 14日の沖大法学科ゼミナール大会で報告してくれ た(報告者は、山脇健太郎君と安里克也君である)o この報告をきいて、ユイマールという言葉がどん なふうに流行しているのか、いろいろ考えさせられ た。そもそも昔ながらのユイマールなんて今はほと んど残っていないから、「精神」の問題なのである。 で、そこにどんな精神を持ち込むのかだが、この言 葉は、例えば国民年金のコマーシャルにも使われて いるのだそうだ。 それから、地域おこしとの関連で、やはり沖縄タ イムスの94年10月18日朝刊に、「池間島を舞 台に映画」という記事が載っていたのを思い出した。 朝日新聞(東京版)94年12月19日夕刊の、 この映画の沖縄ロケ関連記事によれば、この映画の 題は「さよなら、ニッポン1南の島の独立宣言」で ある。沖縄タイムスの方には、池間島離島振興総合 センターでの記者会見の模様が写真になっていて、 そこに前川光得自治会長が写っている。前川さんか らは、94年4月に、池間島で直接話を聞いたこと がある。拙稿「南大東と宮古の旅」(沖縄大学地域 研究所所報第9号。1994年)を参照されたい。 その時伺った話から、この島もまた依存体質の島 になってしまっていると感じたので、映画の題を聞 いて、何とも皮肉な話だと思った。 以上のように、意識的に沖縄の新聞で資料を準備 した。 まとめとして、レジュメには次のように書いた。 「法人類学というのは、文化の1つとしての法を 比較する学問である。現代の特徴というなら、共通 性(ないしは普遍性)と個別性とがともに高まって いるということが指摘できる。それを、通常サルの 社会との比較で図にかいて説明している◎今西錦司 − 4 8 − 一 一 一
氏の所論をもとに書いたものである。 社会教育は、主としてこの個別性にかかわるので はないかと考えている。それは、精神的には、生き がい、ないしは、死にがいに関連してくるものであ ろうと思われるが、構造的にとらえれば地域の問題 であるといえる。その個別性が、共通性(ないしは 普遍性)に裏打ちされねばならないというところが、 「現代」のやっかいなところでもあるし、面白いと ころでもある。」 ここに述べた図は、基本的には、拙稿「法人類学
の内容(Ⅲ)」(沖大法学第7号。1989年)の
「四人類社会の構造」で挙げた図と同じもので ある。 縦軸に集団のサイズ、横軸に時をとって、群れに 相当する集団と家族、それぞれについて図を描くと、群れに相当する集団がどんどん大きくなり、国家と
いうわくでも窮屈なほどになっている(つまり「国 際化」している)のに対して、家族の方は産業革命 までは大きくなってきたが、その後いわゆる核家族 化が進み、今や、核家族でさえ維持できるかどうか という状況になっている。これら両方のことが同時 に起こっているのが現在である。 今回同じような図を描いてみて、天井をふさがな ければならない時代になったと痛感した。つまり、 「国際化」というのはどんどん進むであろうが、同 時に地球の有限性も明らかになってきたわけで、無 限のものではないということである。それはまた、 いろんなものが混じり合って「全体」を構成してい る、そういう多様な状態をいいものと思えるような 考えが必要になったということでもあろう。 沖縄において現在も見られる「分節的」傾向は、 ある意味ではこういう流れに沿った面がないとは言 えないが、他も見てみるという意識的な努力がない と取り残されるだろう。豊かになってかえって人が 動かなくなったという側面もあると思う。どこでも 生きていけるという気力もイマジネーションもなく なってきた。ちやちな旅行しかできない。どうした らこういう時代を乗り切っていける人間をつくって いけるのかが決め手になってきた。そういう意味で、 社会教育の意味は重くなっている。Ⅱ講演:「子供をめぐる文化生態環境と法」
→ 1 . 講 演 ま で私は、1994年11月28日、恩納村・白雲荘
で行われた「平成6年度県内児童館館長会議」の一
環として、「子どもをめぐる文化生態環境と法」と
いう題で講演した。 この講演の依頼を受けたのは11月1日である。那覇市大名児童館館長仲宗根和子氏を通してで、テ
ーマは要するに、子どもの関係のことである。例え
ば、国際家族年だとか、子どもの人権だとか、そう
いったことのようである。で、11月4日までにタ イトルを決めてくれという。子どものことというなら、何かは話せそうなので引き受けたものの、講演
ということになると、ちゃんとした立場なり意見な りがないと時間がもたない。そこで、文化の日の3 日まで、「子どもについての意見」形成に全力をあ げたわけである。 2日までに一応、「関係の中の子どもの人権と教,育」という題を考えた。権利・義務の関係もコミュ
ニケーションの1つと考えたらということである。 まず、以前読んだ、大津浩「憲法論としての「子 どもの人権」論の現状」(法政理論第21巻第4号)を再読した。この論文で、「子どもの固有の権利」
として子どもの権利をとらえない方がいいと主張さ れている。子どもも大人も原則として同じ権利なり 人権なりを持っていると考えるところから出発すべ きだと。 このように考える実質的根拠は、親なり教師なり が子どもと対立するといった状況が現実に広く見ら れるようになったせいであろう。心理学の「発達」 等の理論なり考えなりを前提にして、子どもの権利の代行性を当然に認めるとまずいことが起こり得る
ようになったのである。続いて、内野正幸「教育の権利と自由」(有斐閣
・1994)も読んでいった。教育をめぐる権利関 − 4 9 −係は、本人、親、教師、学校、教育委員会、国、等 々とにかく関係者が多い。権利なのか義務なのかも よくわからない。子どもそのものと環境とが大きく 変化して、さらにごちゃごちゃになっている感じ。 整理するだけでも大変だが、その中から面白い筋を 見いだせるのではないかと思った。 それにしても、児童館というのが全然イメージが つかめなかった。「社会教育・生涯学習ハンドブッ ク」(エイデル研究所・1989年)を見てみると、 児童福祉法40条の児童厚生施設の1つのなのだと わかった。それは、「児童に健全な遊びを与えて、 その健康を増進し、又は情操をゆたかにすることを 目的とする施設」なのだそうである。へえ、こんな ものがあるのか。以前、那覇市社会福祉協議会で講 演した時も、社協というのがわからなかった。それ と似ているが、よく考えてみると、以前私の娘が那 覇市久茂地児童館で、2年間ぐらいお世話になった ことを思い出した。絵画のクラブなどに入れてもら った。 本屋に行って何冊か買ってきて読んだ。特に役に 立ったのは、日本子どもを守る会編「子ども白書。 1994年版」(草土文化・1994年)である。 この本をざっと通読したら、子どもの置かれている 状況がだいたいつかめた。問題が非常に多面的だと 思った。ということは、人類学みたいな総合的、あ るいは学際的接近に向いている問題だということで もあろう。3日の夜中になってやっと、「子どもを めぐる文化生態環境と法」という題に最終的に決め た。この日一日勉強して、児童館等をめぐる状況は だいたいつかめたが、講演までまだ3週間余りある ので、その間に当然、考えが変わっていく可能性が ある。どう転んでもいいような、しかし、ちょっと 気にかかるがはっきりしない言葉が混じっているぐ らいだとちょうどいいのだ。「文化生態」という言 葉は西山賢一氏の、「文化生態学入門」(批評社。 1992年)から借用したものである。 このように講演の題を決めたが、やはり児童館と いうのがよくわからないのと、依頼者側でどういう 話を聞きたいと思っているのか確かめておいたほう がいいだろうと思って、大名児童館に実際にいって、 仲宗根館長と話してきた。大わくの話がいいらしい。 子どもたちと接するに当たっての方向感覚みたいな ものだろう。 大名児童館は92年7月に開館した、那覇市で8 つ目の、最も新しい児童館である。2階建てで、建 坪536平方メートル。いってみて、その大きさに びっくりした。かつ、開放された感じがする。1階 には図書室もある。しかし、専任の職員は館長だけ のようである。
私が質問したのは、登校拒否の子どもたちが来る
か、ということである。来るけれども、特に土曜日 などはものすごくたくさんの子どもたちがやって来 るので、いちいち応対できないという返事だった。 つまり、この施設は繁盛しているらしい。しかし、 児童福祉法の児童というのは18歳未満の者だから、 中学生でも、高校生でも児童であるわけだ。彼らが お客さんとして来た時、どういうことになるのだろ うか。 学童保育との分担も聞いてみると、那覇市の場合、 学童保育施設と児童館は別になっているそうだ。全 国的には、21%の学童保育施設が児童館内に設け られているのである(前掲・「子ども白書。 1994年版」149頁参照)。 講演の10日前ぐらいまでにレジュメをというこ とだったo 11月6日が、うないフェスティバルの最終日で、 資料探しに出かけた。学童保育実践集を買ったほか、 定子・与那覇トーシー氏の講演をきいた。アメリカ のニュージャージー州精神保健コンサルタントだそ うである。2時から4時過ぎまで話して、無理のな いゆったりした感じだったが、やっぱり専門家だな あと思わせるものがあった。ビアpeer(仲間)とい う言葉が何度も出て来た。最近セルフヘルプの運動 について調べていたらビアカウンセリングという技 術が出てきたが、あれだろう。Safe.Str叩g,Freeと いうのが合言葉である(沖縄タイムスの94年12 月18日から22日まで、4回にわたって「生きる 権利安全に、強く、そして自由に」と題する同氏 − 5 0 −の文章が載っている)。 大学の図書館でも、子どもの問題関係の雑誌に目 を通し、どういうことが言われているのか、流れみ たいなものをつかもうとした。 こうして、レジュメができたので、ファックスで 送った。更に、17日から21日まで、大学祭の期 間を利用して上京し、本屋通いをした。実にさまざ まな本があるものだと、驚嘆した。 2.講演レジュメ 以下に講演のレジュメをそのまま掲げる。 まえおき:旅の中で会った子どもたち 1,大わくの構造 二重の組織 どのような意味で転機なのか 構造と生きがい 2、子どもの置かれた状況と権利の性格づけ 関係の中の子ども 「子どもの人権」の考え方 民法の改正作業 地方分権化 3、子どもたちの将来 先見と参加の必要 3.旅の・中で会った子どもたち 「まえおき:旅の中で会った子供たち」で話した のは、外国旅行中に出会った子供たちについてであ る。 旅行というのは、日常生活が営まれているところ を動くわけである。そうすると、学校に行っている 子は昼間から路上にいたりしないのである。学校に 行けずに働いている子とか、そういう子どもたちと 出会うことになる。 働いている子どもたちは、当然大人っぽい。個人 的には、子どもの盗人に何度か会って、とんでもな いことになった記憶がある。ブラジルでメガネを盗 まれたことがある。バスに乗って窓側の席に座って いたら、外からそ−つと手が伸びてきて(だろうと 思う)私のメガネをひったくった。ぼ−つとなった 目で外を見ると、2人の子どもが走って逃げていく のが見えた。つまり肩車して、バスの窓から手を入 れられる高さにしてひったくったのだろう。ちょっ と追っかけてみたものの、すぐにあきらめた。メガ ネなしじゃそもそも、道を横切るのも大変だ。ペル ーで貴重品バッグをやられて補聴器を盗られた時も 少年が加わっていた。少なくとも2人が組んでいた。 やられると、当座はすごく悔しいが、後で考えると 実にうまい。感心してしまう。メガネや補聴器を盗 られた者の不便なんか全然考えてくれないらしい。 いやあ、あっぱれだ。 ブラジルでは学校に通ったこともある。1985 年度に1年間大学を無給休職して行った時のことで ある。この時、まずテイシェイラ・デ・フレイタス という、バイア州の田舎に住んだ。着いてしばらく してから、下宿からすぐそばの私立の小・中学校に 入って、実質的に3か月ばかり、5年生のクラスで 勉強した。 ブラジルは、小・中学校がくっついた形で、8年 までで終了である。もっと下のクラスに入りたかっ たのだが、空きがなかった。学校の名前はRecreio といって、英語で言えばレクリエーションというこ とである。読む方は出発前に沖縄で、7年までのポ ルトガル語の教科書を勉強してきたので、耳を慣ら すのが目的だった。学校は1日を3区分して、午前、 午後、夜のいずれかということになる。私は午前の 部に通った。出たのは原則としてポルトガル語の授 業だけ。 しかし、出てみてすぐに失望した。文法ばかりで 板書が多い。しかし、沖縄で勉強していた時も感じ たことだが、教科書は面白い。例えば、こんな話が 5年用の教科書に載っている。墓穴を掘っていた人 が、うっかりして掘り過ぎて穴から出られなくなっ て、絶望する。夜になって酔っ払いがやってきたの で、出してくれと頼むと、酔っ払いは、「かわいそ うに死人さん」といってスコップで穴を埋めてしま った、と。この話から教訓を引き出しなさいという 問題がついている。 − 5 1 − 一 一 一
ブラジルの教科書を読んでいて感じたのは、大人 の世界のことも結構正直に書かれている。だから私 なんかが読んでもおもしろい。沖縄では三世の宜保 マウロ先削生から学んだが、先生が読ませてくれた副 読本もおもしろいものが多かった。悪く言えば、大 人の世界を隠しようがなく、子どもも大人の差別的 世界につからざるを得ないということであろう。 例えば、これはRecreioでのことではなく、もっ と金持ち(その中にはかなりの数のジャポネス、つ まり日系人も含まれていた)の行く学校でのことだ が、夜ダンスパーティが開かれたのである。会費制 になっていた。校門の柵を閉めて、その中ではにぎ やかにパーティが開かれていたのだが、柵の外から は群がるようにして、貧しい(のだと思う)子ども たちがそれを眺めていた。 ところが、ここの金持ちの子どもたちはそんなふ うにして見られていても平気なのである。考えてみ るとそれも当然だ。なぜなら、こういうところで踊 っている子どもたちの家では、まず確実に、女中さ ん(お手伝いさん、というのでは感じが違う)が雇 われていて、洗濯や掃除、料理と、なんでもやって くれるはずである。仕事別に複数雇っている家も多 い。だから子どもだって人を使うことに慣れていて、 平気で他人に命令できるのである。 このように貧富の差がはっきりしているところで は、そもそも学校を「地域」に開放などできないの である。ブラジルの田舎での文盲率は今でも相当高 いのではないかと思う。そういう状況を反映して、 子どもとは言えない年齢の人も学校に通っている。 Recreioにも赤ん坊を背負って通学してくる女性が いた。背中の子どもが家族なのか、それとも、他人 の子どもを仕事で背負っているのかはっきりしなか った。私が5年生に入れたのも、その頃になると学 校をやめてしまう人が出てくるせいだろう。 誰でも学校に行けるわけではない、ということは、 学校の先生の身分が高いということでもあろう。と にかくいばっている。というか、小学校なんかでも 勝手な休講が多いのである。それも1回だけではな く、長期にわたって先生不在ということが現にあっ た。これはブラジルの契約意識を調べるのに好都合 と思って、文句をつけようと思っていたら、それを 察してかどうかわからないが、私だけ補講をしてく れた。しかし、他の生徒には何もしなかった。誤 解のないよう付け加えておくが、いばってはいても、 先生たちの経済状態は楽ではない。それは国が貧し ければ仕方ない。だから、朝・昼・晩と、たいてい は違う学校で教えて大変忙しい人がほとんどである。 ブラジル人は怠け者だというが、とんでもない。皆 さん大忙しである。疲れを知らずに働く人が多い。 どうも、思い出すとつきない。 これでも、アフリカの早紘地帯なんかよりは、ま しといえばましであろうかo81年にアフリカを旅 行した時に、ケニアのカクマという、スーダンとの 国境近くを通った。ちょっと前まで早紘で、ここに は国際的な援助機関が入っていた。そこで食事をし た時のことは忘れられない。 トラックに便乗させてもらっていたので、一緒に 乗っていた人々とウガリという、とうもろこしの粉 を練っておからのようにして、それをソースに浸し て食べていた。すると我々の回りに子どもたちの輪 ができたのである。我々が残すのを期待して待って いるのである。実際、かなり残った。で、さあ分け てやろうという段になって、漫然と差し出したら、 ものすごい混乱になったのである。当然、体力のあ る子が強いのでほとんど取ってしまうことになる。 あらためて列を作らせて、順に分け与えた。ごくわ ずかずつになるが、やむを得ない。 セイブ・ザ・チルドレンという国際NGOに初め て接したのも、この旅行中だった。 94年の9月に南アフリカ、ジンバブエ、ザンビ アとアフリカの南部を旅行した。周知のように、南 アフリカでは94年4月末に全人種参加の選挙が行 われ、予想通り、白人の少数支配は終わった。新聞 では変化に伴うさまざまな混乱が報道されたが、そ れでも長期的には、人種差別のない方向へと歩み出 したわけである。その状況を現場で見てみたいとい うのが旅行の一番のねらいだった。 実際にいってみると、確かに制度としてのアパル − 5 2 − 一 ① 一 一 一 0
トヘイトはなくなり、例えば、バスに乗ると白・黒 ・カラード(白黒混血)が混ざり合っている。ヨハ ネスブルグ・ダーバン間ではインド系の顔もあった。 しかし、相互に会話はない感じで、不気味な沈黙が 支配している。旅行していて、こういう空気はすご くくたびれた。 実は、ヨハネスブルグにある日本人学校の校長が 沖縄出身の仲地勇氏で、私も学校を見学させてもら うことができた。 旅行に出発する直前に、「大地から学ぶ南アフリ カ」という、94年の3月に出された日本人学校の 副読本を入手して、ざっと目を通した。南アフリカ を知るのに手頃な内容となっている。 一般に、海外の日本人学校というのは現地に融け 込もうとしていないと指摘されることが多い。南ア フリカの日本人学校についても、例えば、楠原彰 「世界の子どもの現状と子どもの権利条約」(「教 育」1994年9月号)は、「若干の例外もないわ けではないが親も教師もそして日本社会全体が、南 アフリカ在住の日本人の子どもたちが南アフリカの
現実や文化、南アフリカの黒人たちの苦悩、日本と
南アフリカの経済関係などに体を動かして触れたり、 深く考えたりするすることなどまったく期待してお らず、むしろ避けるべきこととして教え込もうとし ている現実」があると述べている。それで、なぜこ のような副読本ができたのだろうかと不思議に思わ れたのだった。 実際にいってみてすぐに感じたのは、例えば、ソ ウェトという黒人居住区にある学校との交流が現に推進されているようだが、日常生活で黒人と対等に
混じり合うことなど望んでも無理だろう。制度が変
わっても、人はそう簡単に変われない。特に、経済
構造が変わらないと、実質的な支配・従属の関係は
なくなるまい。そういう状況ではあるが、公式には黒人社会にも関心を示さないとやっていけなくなっ
ているということの反映として副読本も作られたの ではないか。残念ながら、日本人学校の子どもたちとじかに接
触して生の声を聞くことはできなかった。楠原氏は、
前記のような大人たちの態度にもかかわらず、「子 どもたちの内面はもっと複雑でドロドロしており、 異文化社会の真っ只中で、こうしたい自分とこうし なければならないと期待されている自分との間に引 き裂かれている」ようだと指摘される。 仲地氏の話では、通学者家庭の南アフリカ滞在期 間は3年だとむしろ短い方で、5年とか、長いのに なると10年ということもあるようだから、さもあ りなんと思われる。 楠原氏はこの論稿で、地球の子どもたち、とりわ け南と北の子どもたちを同時に見ようと提言されて いる。 氏は、「南アフリカでは黒人の子どもたちが、人 種別・民族別にく隔離>され、…可視のアパルトヘ イト・システムに立ち向かい、一方日本では子ども たちが「現実」や「歴史」や「他者」からく隔離> され、身体性を欠落させられた知識を詰めこまされ、 暴力の根源である不可視のシステムに向かわず、心 身ともに自らの内側に向かって硬直し、自由と自己 決定のへの恐怖に脅えている」とされ、2つのアパ ルトヘイトがあるといっておられる。どうだろう。 4.大わくの構造 旅の話というのは、話しているうちに次々に思い 出していくものだから、思った以上に時間を食って しまった。 本論の1番目、「大わくの構造」というのは、す でに何度も利用してきた枠組みである。本稿Iで述 べたのと同じ図を使った。「二重の組織」というの は、群れをつくるニホンザルとかチンパンジーとか の社会と比較して、人類社会は、群れに相当する集 団の中に必ず家族というサブユニットを持っている という事実を指している。で、一方では、群れに相 当する集団がどんどん大きくなり、国家の枠組みで は狭くなり過ぎて、「国際化」が進んでいるが、同 時に、家族のサイズはどんどん小さくなって、核家 族すら維持していけるかと懸念されるような事態に なっているが、そういう事態を人類は過去に経験し たことがなかったという意味で「転機」なのである。 − 5 3 − ー家族のサイズが小さくなっていき、それを取り巻 く血縁・地縁の集団もどんどんバラバラに分解して いっている、という事態は、ある意味では、個人が 尊重されるようになった、とも表現できる。集団の 中に埋没して、集団の意思決定に従う傾向から、個 人の自己決定が尊重される方向に向かっている、と。 しかしそうなると、従来家族なり、血縁・地縁集 団なりで処理してきた事がらももはや処理できなく なり、しかしどこかで処理しなければならないとい うことになれば、何が公で何が私なのかの内容も大 きな変動が予想される。 こういう状況をマクロにとらえている本を探して みて、私個人として一番賛同できたのは、汐見稔幸 「地球時代の子どもと教育」(ひとなる書房・19 93年)である。この本からのメモを以下に掲げる。 *過労死、登社拒否…子どもにも、同じようなこ とが起こっている。91年9月指定都市教育研究所 の「子どもと未来調査」によると、小学校6年生で 「よく肩がこる」25%、「夜、なかなか眠れない」 40%・社会、文化全体の状況の反映ととらえられ るのではないかということ。情報化の進展との関連 で見ていく。 *子どもには子どもなりの「空間」「時間」「仲 間」があるという、子ども独自の生活が少しずつな くなってきている。大人との同型化進む。「子ども 社会」の崩壊。 *同型化を押し進めたもの:①産業優先の社会環 境。路地裏まで舗装→遊び場が流通システムに占有 されていった→子どもらはどこかに追いやられる。 ②高度情報化d情報化社会は大人、子ども区別な しに送り届ける。それは商品化された情報。情報に 関する限り、子どもは大人を介在させないで得るこ とができるようになる。 *生きていくのに必要な情報から、「おもしろい」 「興奮する」情報に重点が移る。情報は自分で集め なくても商品として売っている。報道がなくなると 事態そのものがなくなったかのように錯覚。情報集 めるのに手間ひまかかること、うそ情報があること をわからせることが大切になる。実感を持ってわか るという感じがなかなか得られない。 *個性が大切といわれているのに、逆に横並び主 義、画一化傾向が強くなっている。 *同年齢で仲間を作る。競争関係6強迫的パーソ ナリティーの傾向。個性的であることへの恐れ。自 己評価の低さ。しかり過ぎもほめ過ぎも問題。 *「適応圏域」(=緊張しないでいられる相手と か環境)が狭くなっている。 現場の先生方から「気づかい」の多さ、関係の表 面性、親密な友への憧れ等が報告されている。自分 と異なる他者とどういう距離を取ればいいのかにつ いての戸惑い。 *大人はモデルにならない。 *大人の存在理由。「相談型」か。 以上である。 大津浩氏の前記論文と基本的に同趣旨になる。今、 「子どもが見えない」とよく言われるのだそうだ (例えば、斉藤次郎「子どもたちと子ども観の現在」 (「教育」1994年4月号)等を参照)。 そうかもしれないが、しかし、「見えない」のは 子どもだけではない。大人も見えない。誰もかも見 えない。集団が崩壊し、裸の個人が表に出てくれば、 そうなるのもある意味で当然である。しかし、では 個性的な人がどんどん出てくるかといえば、少なく とも目下のところ、逆に、横並び主義、画一化傾向 が強くなっているようである。 で、こういう状況にどう対応するのか、どんな気 持ちでやっていけばいいのか、つまりそれが「構造 と生きがい」の問題である。いくら大わくがこうで すといわれて、理解もできても、それにそって生き ていけるとは限らない。 この問題も、もうちょっと大きく、というか単な る気持ちだけの問題としてでなく考えると、非常に 興味深い。「転機」というのはどの程度の深さで生 じつつあるのか。実際の講演では、この関係の話は まったくしなかった。館長さんたちを前に、どうも そんなことを話す空気が作れなかった。しかし、講 − 5 4 − ロ ー マ
演の準備の過程で一番時間をさいて考えたのはこの ことだった。 5.子どもの置かれた状況と権利の性格づけ 「関係の中の子ども」というのは、以上述べてき たところから明らかだろう。 大人と同じように社会に直面するということにな
ると、人との距離の取り方を早くから習得する必要
に迫られるだろう。ご苦労様というほかない。講演の場に、メモを作って持っていったのは、河
合隼雄・工藤左千夫著、絵本児童文学センター編
「大人への児童文化の招待(上)」(エイデル研究
所・1992年)である。実際には全然しゃべらなかったが、参考にまで、そのメモを以下に掲げてお
こう。 *ワンパターンの大人 *イニシエーションは社会が変わらないことを前 提。 *天照大神は父から生まれた。 *心の中の勝負は49対51.49がうずく人ほ ど大きい声を出す。*秘密。恋人にだって全部知られたらかなわない。
*揺れる体験をしていないと子どもは自分の道を
探せない。 *親子関係の貸し借りはゼロ。 「子どもの人権」について私がどう考えているかも、前記の、大津氏の論文や内野氏の著書に関連し
て述べたところから明らかだろう。現在進行中の民法改正作業は、主に婚姻制度等に
関するもので、子どもプロパーの問題はそんなに多
くない(法務省民事局参事官室「婚姻制度等に関す
る民法改正要綱試案及び試案の説明」(1994年
7月)参照)。試案では、嫡出でない子の相続分を
嫡出である子の相続分と同等とするほか、協議離婚
の際の、「父母の一方で離婚後子の監護をすべき義
務を負わない者と子との面接交渉」について定めを
置いている。 講演では、これらのことをごく簡単に述べただけ で、細かい説明はしなかった。最後に、地方分権化ということであるが、これは、
スウェーデン、アメリカとの比較によって日本の現状を浮き彫りにしてみようとした。利用したのは、
第二東京弁護士会/両性の平等に関する委員会編
「新しい保育を求めて−これでいい?日本の保育法
制」(日本評論社。1992年)に収録されている 2つの論稿である。以下にメモを掲げる。 スウェーデンの保育事情(古橋エツ子) *基本は就学前の子どもの保育(保育所、幼稚園、就学前学校、夜間保育所、オープン型保育所)
と小学校に在学中の子どもの余暇活動(学童保 育)。これら両方の機能を果たすものもある (ファミリー保育所、三家族保育所、代替保育所)o代替保育所というのはいわゆる私立の保育所で、
一定条件が整えば国の補助金が得られるが、全 体の2%を占めているに過ぎない。 *保育施設の種類が多い。 *「保育の社会化」を徹底。つまりは、公的施設 の拡充。 *1987年に、児童および青少年福祉法、児童 保育(所)法、生活保護法、アルコール中毒者 保護法等の社会福祉法がまとめられて「社会サ ービス法」制定。 保育プログラムは同法に基づいてコミューンが 行う。保育財源は国、コミューン、親が負担す る。国の負担部分は「法定の社会保険料」を財 源とする。法定の社会保険料は自営業者を含む 使用者が支払い賃金総額に応じて負担。 親の実質的負担はそんなに高くない。 アメリカの保育とその問題点一保育の民間依存の もたらしたもの(杉本貴代栄) *母親が自宅で子どもを育てるという「伝統的保 育観」が非常に強い。広く一般の層を対象とし た公的保育制度というものはない。あるのは、 低所得家庭対象の福祉政策の一環として、ある − 5 5 −戸餌 いは、障害を持っている子どもに対するものと して。 *働いている母親は、親族(子どもの祖父母とか 父親とか)に預けるか、ファミリー・デイケア を利用するか。その他の形態として、日本の保 育所に当たる集団保育であるデイケアセンター もあり20%ぐらいが利用。しかし、保育料が 非常に高い。 *私的保育を支えてきた前提として、終身雇用で ないこと、家庭内の性別役割分担が日本ほど固 定的でないこと、夫の労働時間も日本のように 長時間でなく、帰宅時間もほぼ一定しているこ と、子どもの人権を守るという社会全体のコン センサスがあること等。 このような前提は日本にはない。 *民間依存のデメリット:①特殊な人しか働けな い(高収入専門職とか、子どもの面倒をみてく れる人が近くにいるとか、妻とうまく保育のシ フトをできる夫がいるとか)o②ファースト・ フード式チャイルドケア・インダストリーの登 場。③ファミリー・デイケア、ベビー・シッタ ー捜しが大変。 *今後の方向として、①直接的なものとして低所 得層対策。②間接的なものとして保育費用の税 控除。③企業が保育責任を担う方向。 6.子どもたちの将来 「先見と参加の必要」とあるのは、開発教育に関 して言われていることをそのまま借用した。 前掲・田中治彦「南北問題と開発教育」137頁 以下に、「先見性と参加」という見出しで次のよう に述べられている。 変化が少なく安定した時代にあっては、人類は現 状維持型学習で対応することができた。あくまでこ の現状維持型学習を基本とし、それで対応できない 新しい事件や事態に対しては衝撃型学習で対応した。 しかし、地球規模の、いったん起きてしまえば取 り返しのつかない問題が発生するようになって、衝 撃型学習では対応できなくなった。そこでその必要 性が叫ばれるようになった革新型学習というのは次 のような特徴を持っている。特色一①先見antici-pation(−−適応):適応が外界の圧力に対して反 作用的に調整することを意味するのに対して、先見 は起こり得る偶発的事件に備えて長期的な未来のた めに代替策を検討しようとする。 ②参加participation:現状維持型学習は社会 をエリートと大衆とに分け、エリートのみが先見を 持ち、衝撃的事態に対応した。現在の世界的課題は 大衆の幅広い支援を必要としている。 Ⅲ ア フ リ カ 南 部 の 旅 1.出発まで 94年9月4日那覇空港を発ち、台北経由で南ア フリカのヨハネスブルグにいった。南アフリカのほ かに、ジンバブエ、ザンビアを回ってから、同じル ートで那覇に戻った。 アフリカの南部を旅してみようということは、実 は、93年の夏に考えたことである。 93年の夏に東京に出ている時、蔵前仁一十「旅 行人」編集室「アフリカ旅行情報ノート」(凱風社 ・1993)を見て、モザンビークにいってみたく なったのである。 この本からは、モザンビークに行くのはそんなに 難しくないように思われた。ジンバブエでビザは取 得可能のようである。そして、ジンバブエという国 も面白そうである。そのほかに、マダガスカルも一 度行ってみたい。 ところが、検疫の準備ができていない。黄熱病と コレラが必要なようであるが、どちらもやっていな い。コレラは以前継続してやっていたことがあった が、切れている。黄熱病は注射してから10日後に 有効になるのだし、黄熱病の予防接種の後1か月は 他の接種ができないそうで、つまり、コレラの予防 接種ができない。日程も、調べてみると、特にモザ ンビークの出入国に時間を食いそうである。ビザ取 得にどれぐらい時間がかかるのかはっきりしない。 とにかく黄熱病の注射をすませておくだけでもいい − 5 6 −
といった感じで準備を始めた。 十分慎重なアプローチが必要な地域であることは よく知っていた。当時、川端正久・佐々木建編「南 部アフリカポスト・アパルトヘイトと日本」(勤 草書房・1992年)を読んでいたが、モザンビー クなど、随分長い内戦を経て今日に至っている。ロ ンリープラネットのガイドブックにもRENAMO という反乱団体が出てくるのである。 8月27日に、東京のケニア大使館でシングルビ ザを取得した。ジンバブエはコレラの予防注射はい らないことがわかった。 8月31日に東京検疫所で黄熱病の予防接種をし てもらった。非常にたくさんの人が来ていた。 100名ぐらいか。行き先もアフリカだけでなく、 南米、インドというように広範囲にわたっているよ うである。「国際化」の結果こういうことになって いるのだろうか。 切符は、アエロフロートの成田一モスクワーナイ ロビに決めたが、帰りの便が満席である。沖縄に帰 ってキャンセル待ちしていた。ところが、9月3日 頃から左足の付け根が痛み出して、発熱した。黄熱 病の予防接種と関連があるのかどうかわからない。 ずっと風邪気味でもあった。9月8日ごろ治ったが、 とにかくアフリカに行ける体調ではないと判断して 断念した。 93年11月18日未明、南アフリカで、暫定憲 法草案が採択された。そして、94年4月27日の 全人種参加選挙で白人少数支配が終わった。こうい
う動きを眺めながら、関心は、モザンビークより南
アフリカに移った。経路も、ナイロビから行くより むしろ、南アフリカに直接入ればいいのではないか と考えるようになった。 沖大生の富田拓生君が以前、ケニアからアフリカに入って、南アフリカにも行っている。その話を聞
いていたら、南アフリカでは台湾人にたくさん会っ たという。とすれば、中華航空が飛んでいるんではないか。そう考えて、94年7月末から8月初めに
かけて、台北経由でベトナムに行った時についでに調べたら、確かに台北発のヨハネスブルグ行き中華
航空便があることがわかった。値段は往復で、東京 からだと20万円、沖縄からだと21万円。いい値 段である。 8月に南アフリカ関係の本を2冊読んだ。1冊は、 井本ゆかり「カイ川を越えて」(双葉社・1994 年)、もう1冊は、植田智加子「手でふれた南アフ リカ」(径書房・1993年)o前者を読んで、南 アフリカの、特に人種関係の感じがつかめるように なった。この本は著者自身の、南アフリカ黒人との 恋愛の書でもある。非常にストレートに書いてある が、それが成功しているのかどうか判断に苦しむ。 後者は文句なしにすばらしい本であり、すばらしい 著者だと思った。「癒す」力を持った人だと思った。 8月末に、沖縄発で航空券をセットした。出発は 9月4日。このように決めてから、緊張が始まった。 本当のところ治安はどうなのか、さっぱりつかめな ^o9月2日に航空券を受け取り、続いて国際免許 を更新しにいった。この日妻が、ヨハネスブルグで 日本人学校の校長をしている仲地勇氏への、刃噸市 教育委員会生涯学習課課長仲田美加子氏の推薦状と、 日本人学校で作った副読本「大地から学ぶ南アフリ カ」を持って帰ってきた。すごくいい線だな。副 読本をコピーし、私の「『生涯学習』考」と『時間 ・空間と人間の設計』と、先日の社会教育研究全国 集会のレジュメを持って出て、教育委員会に仲田氏 を訪問した。仲地氏からの最近の手紙を見せてもら うと、あちらは8月で最低気温マイナス4度だとい うのだ。信じられない。こりや治安より寒さだな、 まず第一の問題は。 9月3日に「大地から学ぶ南アフリカ」を持って いくために縮小コピーしている時、これに日本人学 校への国際電話番号が記してあるのに気づいた。夕 方7時頃妻が電話したら、30分後といわれ、30 分後にかけると仲地氏が出た。で、コンタクトが取 れた。 その後、南アフリカの人種差別をテーマにしたビ デオ「アシナマリ!」を見ていたら、仲田さんから 妻に電話があったようだ。私の妻からの電話のあと、 仲地氏から仲田さんへ電話があって、ホテルの予約 − 5 7 −がないのはよくない、今日本人が交通事故を起こし てそれでいろいろ忙しいとかいうことだったらしい。 で、ヒルプロウという新宿の歌舞伎町みたいなとこ ろのヒルトンプラザホテルという、名前はすごいが、 ヒルトンホテルともプラザホテルとも全然関係ない、 1泊2000円強のホテルを電話で予約して、仲地 氏にもその旨伝えておいた。 ここと同じ四つ角にフラット(家具付きアパート) があって、本当はそうちに泊まるつもりだった。ま あ、信用も大切かなと。万一を考えれば、仲地氏み たいな人はいてくれた方がありがたいに決まってい る。こういうことをやってたら疲れはしたが、ある 意味で覚悟がついた。 2.旅行メモから 9/4(日) 9時頃空港へむかい、チェックインをすませる。 空港喫茶店にいると喜納勝代さんが来て、仲地氏と、 ザンビアのルサカにいるカラブラ初子さんへの土産 を持ってきた。 11時25分発中華航空機で台北に。11時50 分着(日本時間より1時間遅い)。ずっとトランジ ットルームで待ったo21時台北発の中華航空91 便に乗る。4時間ほど飛んでシンガポール着。1時 間休んで、ヨハネスブルグへ向かう。 9/5(月) 6時過ぎヨハネスブルグ着。イミグレーション、 税関、いずれも問題なく通過。500ドル両替。1 ドル3.7ランド(Rand)ぐらい。 リムジンでロトゥンダバスターミナルへo25R・ ロトゥンダバスターミナルから歩いてヒルブロウ のヒルトンプラザホテルに向かう。1泊分だけ払う。 70Ro フロントに、日本人学校に電話してもらう。荷物 は、まだ部屋の掃除が終わっていないというので、 フロントに預け、ホテル前に止まっていたタクシー で日本人学校に向かう。タクシー代は交渉で40Ro 仲地氏に会う。仲地氏が、宿をかえた方がいいと いうので同意する。かわりの宿を仲地氏の秘書が電 話で探してくれる。リンデンホテルに決まる。 169Rだそうだ。安いでしょうというんだが、そ うかなあo50ドル近いじゃないか。でも、とにか く、このホテルは日本人学校に近くて便利だという のでOKする。 仲地氏の車を、たぶん日本人学校のスクールバス の運転手が運転して、まずヒルトンプラザホテルに、 私の荷物を取りに行く。それをリンデンホテルに持 っていく。それから、いったん日本人学校に戻って から、仲地氏と、同氏宅に行く。奥さんが、日本料 理の昼食を出してくれた。 昼食後、車でリンデンホテルに送ってもらって、 昼寝した。 起きてから、ホテルのフロントで、ヨハネスブル グの中心部への交通を聞くと、バスはあることはあ るが本数がごくわずかである。使い物にならない。 で、タクシーを呼んでもらう。 カールトンセンターという中心部にあるショッピ ングセンターに行った。タクシー代はメーターで 40Roここで地図等を買ってから、繁華街を歩い たd最初なかなか方向感覚がつかめなかった。鉄道 駅に行き、それから隣のロトゥンダバスターミナル に行く。そこからタクシーに乗ってリンデンに帰っ た o 3 0 R o 6時半に仲地さん夫妻が来た。中華料理屋に連れ ていかれる。ワインを飲む。確かにおいしい。南ア フリカは生水も大丈夫だそうだ。9時半頃リンデン に連れて帰ってもらう。すぐに寝る。 *ヒルブロウというのは、新宿の歌舞伎町みたい な歓楽街である。実際にいってみると丘になってい て、ロトゥンダのほうからは、北東方向に坂をのぼ っていく形になる。ヒルトンプラザまで、歩いて 20分ほど。 ここに着いてみたらすぐに、売春婦が出入りする ホテルだとわかった。しかし、だから危ないとも、 必ずしも言えない。しかしちょっと落ち着かない空 − 5 8 −
気であるのは事実だ。そういうことよりは、周辺の 道路に朝からうずくまっている人々がたくさんいる のが気にかかった。 ヒルプロウはもともとは白人街だったらしいが、 今は黒人が圧倒的に多い。日本人学校や、仲地さん の自宅は、ロトゥンダから北西方向に、タクシーで 20分ぐらい。もともとはここも白人街である。現 在も白人が多いが、最近は黒人も住むようになって 治安が悪くな・ったとか。 カールトンセンターはロトゥンダの南方になる。 ロトゥンダの隣が鉄道駅である。確かに、かって、 白人用と黒人用が別になっていた名残で入口が2つ ある。すごいもんだ。中心部の感じは、サンパウロ に似ている。巨大な鉄筋コンクリートのビルの色が 印象に残る。 9/6(火) 7時過ぎにホテルで朝食。黒人の給仕のしぐさが 時代がかってる。 朝食後、ロトゥンダに行く。タクシー代35R・ ジンバブエの首都ハラレヘのバスが7日の午後1時 に出ることがわかるが、すでに満員だそうで、キャ ンセル待ちとなる。 中央郵便局に行く。近くに絵はがきを売っている ところがない。こんなこと初めて。 プラブラ歩くうち、駅の隣のJoubertParkに出 る0多くの人が朝っぱらから寝転んでいる。そこに 美術館があったので入ってみた。現代のものはとて もおもしろい。売店にもおもしろいものがあるので、 帰国前にもう一度来ようと決める。 ヒルブロウにいく。歩いていたら、Padsというア パートに出る。部屋を見せてもらう。バス・トイレ 付き、キッチンはなしで1日58R・部屋は広く、
ベッドも大きい。ベランダもついている。お湯も出
る。すごくいい。とりあえず1日借りる。リンデン からタクシーで往復80Rぐらいはかかるわけだか ら、センターに休み場所を借りた方が得と思ったの である。さっそく、近くのスーパーでパン、ジュー ス、ヨーグルトを買い、道路で果物を買う。合わせ て8Rぐらい。 考えるうち、1か月借りることにする。1週間が 350R、1か月が710Rなのである。とにかく、 アパートを借りてしまったら落ち着いた。 ヒルブロウで絵はがきを買ってから、もう一度中 央郵便局に行って、投函した。銀行で200ドルほ ど更に両替して、Padsに戻り、1か月に変更した。 早めに出て、ロトゥンダからタクシーで仲地さん 宅に直接いった。仲地氏はまだ帰っていなかったの で、奥さんに今日のことを話し、Padsの住所を書き、 食事をごちそうになってから、歩いてリンデンまで 帰ってくる。直線距離だとそんなに距離はないが、 まっすぐ行く道がないので、5時過ぎに出て、結局 着いたのは6時半。もう暗くなっていた。ホテルの そばのスーパーHotsparでワインを買ってから帰る。 10∼20Rぐらいでいろいろある。シャワーのあ とワインを飲みながらテレビを見る。そのうち酔っ 払って寝てしまった。アルコール分12%だそうだ が、結構強い。 *ヒルブロウは歩いていても危険を感じなかった。 回りに人がいるからである。ところが、仲地さん宅 からリンデンに向かっている途中で暗くなりだした 時はとても怖かった。白人街だが、ほとんどの家の 塀にガードマン会社の看板がはられているoARMED RESPONSEとか、EAGLEWATCHとか、ドキンとするよ うな文句の看板なのである。歩いている人は少なく、 それもほとんど黒人である。もし誤解されて撃たれ たらおしまいだ。アメリカと同じ。仲地さんは、家 の門とか、車のドアとか、リモートコントロールで 開閉する。よっぽど危ないのかもしれない。車が信 号で停車した時に強盗にやられるという話は仲地さ んから聞いた。それで日本人が発砲したという記事 も、日本に帰って新聞で見かけた。 9/7(水) 7時にホテルで朝食をしてから、ホテル代を清算 する。8時にタクシーで出て、Padsに行く。荷物整 理をしてから、ヒルプロウのトマスクックで100 − 5 9 − 0 畠 玲 毛ドル両替。ついでに、ヨハネスブルグ・ハラレ往復 の飛行機代を旅行社で聞いてみる。1週間内なら 1200Rとわかる。テイクアウェイの中華料理屋 で焼きそばを買ってきて、アパートで食べてからロ トゥンダに行く。 宿があるので余裕を持ってキャンセル待ちしてい たら、1時前、空きが出て乗れることになった。片 道330R・シルバーバードという会社のバス。 バスはどんどん走る。休憩の時、バスガイドさん に、ジンバブエのお金(ジンバプエドルZ$)をど こで両替できますかと聞いてみたら、自分がやって あげるというo1Rが2Z$なのだそうだ。ガイド さんが200Z$ほど持っていたので、それを全部 両替してもらった。7時過ぎ夕食となる。夕食代も 込みである。 9時過ぎてから国境に着く。出国手続きはバスガ イドさんが代行してくれる。-入国手続きは、用紙は あらかじめバスガイドさんが配ってくれて、書いて あった。イミグレーションではどの町に行くのか尋 ねられただけで、オンワードチケットはいらなかっ た。こんなに簡単だとは思わなかった。手続きの際、 隣に座っている青年がブルガリア人だとわかった。 音楽の教師なんだそうだ。ジンバブエは一応社会主 義国ということになっているので、その関係かなと 思った。 ジンバブエに入国後もバスは、何も問題なく走り 続けた。 *ロトゥンダはたぶん白人専用のバスターミナル だったのではないかと思う。今も利用者は白人が多 い。乗ったバスも、エクスカーションの感じ。いろ んな等級のバスが今もあるようでターミナルはそれ ぞれ違うらしい。黒人のみ詰め込んだミニバスはよ く見かける。ガイドさんは、バスガイドというより スチュワーデスに近い仕事をしてくれる。 9/8(木) 朝6時過ぎ、バスはハラレのシェラトンに着いた。 町の中を2キロほど歩いてEarlsideHotelまで来 て投宿。1泊65Z$・ ホテル内のレストランでコーヒーを飲んでから、 8時過ぎに出て、まずバークレイ銀行で200ドル 両替。1495Z$くる。1ドルが7.475Z$o それからザンビア大使館にいってビザ申請。写真2 枚と160Z$・絵はがきを買ってから、中央郵便 局で書いて投函。これだけ用事を済ませてからホテ ルに戻り、ホテルでチキンと、ポテトチップス(日 本のファストフードで出てくるようなの)を食べる。 昼寝してから、2時すぎに出て、ウルワースでコ ップ、針と糸、栓抜きとフォークとスプーンを買っ てから、ザンビア大使館に行く。3時にビザ受領の 予定が、なぜか人がいなくて、4時まで待たされた。 その間、ザンビア国籍で、ジンバブエに住んでいる 18歳の青年と雑談した。お母さんはジンバブエ人 なんだそうだ。 ビザを受領してから、町の南寄りの道を歩いて帰 ってくる。ビールとコーラを飲んでから7時にホテ ルのレストランに行き、チキンカレーを食べる。 18Z$o食べているところに日本人がやって来た。 早稲田大学人間科学部の5年生だという(つまり留 年中)豊田さん、それに大阪から来たというカップ ル。男の人は左腕がなかった。交通事故にあったそ うだ。食後も4人でコーヒー、紅茶を飲みながら話 した。この時、豊田さんと一緒に国立公園に行くこ とになった。レストランから出てからも、豊田さん とホテルの門のところで話した。豊田さんはNGO とかボランティアのことに詳しく、話が弾んだ。彼 はザンビアで5日ほどホームステイしていたそうで ある。 *ハラレというのは、かって、ソールスベリーに 接した黒人の居住地区(タウンシップ)の名称で、 今の長距離バスターミナル周辺のようである。それ を現在は首都全体の名称にしているわけである。治 安がよくて楽しい町と聞いていたが、不景気のせい もあるのか、そういうふうには感じなかった。南ア フリカからきたせいかもしれない。町は、黒人がほ とんどである。白人がいないのではなく、歩いてい − 6 0 − B P