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二重の基準論とは異質な憲法訴訟理論は成立するか : 併せて私人間効力論を一部再論する

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(1)論 説. 二重の基準論とは異質な憲法訴訟理論は成立するか       一一併せて私人間効力論を一部再論する. 君塚 正臣 どいつは論じぬ二重の基準 どいつが密度を審査する. はじめに  「二重の基準論」については、様々の批判がありながら、民主主義と自由主 義を内包する近代立憲主義憲法においては、司法部、特に通常司法裁判所は、 これを採用せざるを得ず、中間審査もしくは通常審査という概念は成り立ち得 ないこと、そしてそれが、いわゆる憲法訴訟法上の一一J一見技術的にしか見えない. 論点に関して、かなりの決定力を有しているということを述べてきた1)。また、. 「司法審査基準機械的当てはめ」2)はやめるべきであり、理論の再構築も訴え. てきた。これらには、正面からの目立った批判、特に内在的批判がなされた形 跡は見当たらない。.  しかし他方、そもそも「二重の基準論jはアメリカ発のものと論難し、当該 比較法対象国の理論・図式が従来の憲法訴訟理論に取って代わればよい、とす る主張が散見されている。その多くはドイツ公法研究者からのものである3)。. 確かに、その目からみれば、「二重の基準論」は、アメリカ連邦最高裁の判例 法理の無批判な直輸入であり、ドイツ法の影響力が行政法、民事法、刑法など.                                 17.

(2) 横i兵匡i際経済法学第18巻第1号(2009年9月). に色濃く残る日本においては、英米法由来の憲法理論が下位法の諸理論との不 整合・誤作動を起こさせる元凶であって、機会があれば、これを根絶すべきと の心理が自然に働くのも無理からぬところなのかもしれなかった。.  だが、ここはドイツでもアメリカでもない日本なのであり、論点は、日本 国憲法の解釈として、どのようなものが適切であるか、でなければならない。 この点、日本の憲法学に西欧諸国の特定の憲法理論を導入して満足する傾向4) があったことは否めない5}。そのような学説があれば、それは批判されるべき. であるのだが、勿論そのことは、ある国の理論が否定されるべきで別の国の 理論を導入すべきだという議論6)の繰返しを認めるべきということでもない。 諸外国憲法の研究の成果を日本に導入し、できる限り普遍的な方向性を探し当 て、日本国憲法の解釈に反映させるのが適切であろう7)。憲法学の用語を特定 の国の言葉で書き換えて事足れりとすることには疑問を感じざるを得ない。  加えて、憲法解釈は憲法自身の解釈によつて決まる。ごく当然のことであっ て、、下位法の解釈によって、理論上、動くものではない昼)。寧ろ、憲法の解釈 の幅の中で、合憲(隈定・拡張)解釈を下位法に求めるべきなのである9)。この点、. ドイツ行政法{民事法、飛法)研究の成果を日本国憲法の解釈に当然に反映させ. ようとすることは、二重の意味で誤りであろう1D)。たまたま発見した小国の. 特別法の法理を日本国憲法の解釈に応用することはおかしいと誰もが思うのに も拘わらず、それが蓮用するのは、日本の法学界の過剰なドイツ法信仰の賜物 ではないかとすら思えるのである。  本稿では、このような近時の「別解」的憲法訴訟理論に対して分析を加え、「二. 重の基準論」を再分析しつつ、あるべき日本の憲法訴訟理論を更に模索したい と思うものである。. 1 三段階審査方式の主張 小由剛は、2009年3月に刊行された『「憲法上の権利」の作法』の中で、「ド ]8.

(3) 二重の基皐論とは異質な意法訴訟理識は成立するか. イツの憲法裁判で実践されている」IDいわゆる三段階審査12)の有用性を訴え た。本書のほかにも、ドイツ由来のこの理論の活用する著書・論稿は数多いが、. 体系的にそのあるべき姿を掲示し、日本での活用を示した点で、本書こそは主 たる分析対象とされるべき高い価値を有しよう。.  日本国憲法第3章の保障する人権を「基本権」13)、「自由権的基本権の第1 の内実」を「防御権」14)と呼ぶなど、冒頭からドイツ憲法学の香りが漂う本書は、. ドイッ連邦憲法裁判所判例が索引で32件も取り上げられている15}ことや、日. 本国憲法とは条文構成の異なるドイツ基本法の条文を取り上げる1副ことなど と共に、当然のように「三段階審査①rei・Stufen−PrUfung)」に、ドイツ語付きで. 言及する。三段階審査については「2通りの説明がある」が、本書:は、「日本 国憲法の体裁から」「実用的な」、「①保護領域は何か、②制限に当たるか、③ 正当化しうるか」という分け方を選択している17)。「三段階審査は、原則一例 外関係を前提とする」18)が、その典型を「構造および審査」が「比較的単純・ 明快] ID)な防御権(Abwehrrechte)に置いている。.  この理由について小山は、「憲法上の権利の基本形は、①具体的な国民(X)が、. ②国(Y)に対して、③侵害の不作為を求める、という形で記述される」co)が・ 「国家に対する作為請求が導かれる」場合には・「その法的性格(「抽象的権利」論). や裁判を通じた権利実現の限界が問題となる」のであり・本来の形「を当然 に設定できるのは、原則として防御権の場合だけ」だとしているのであるL’1)。 そして、日本国「憲法第3章」の定める、そのような「<<国家からの自由》にとっ. て重要なのは、《原則としての自由>>と《例外としての制限》という・原則一. 例外関係である」ので、「その規制は、必要最小限度にとどまっていなければ ならない」と説明している鋤。これは、「自由主義を基調とする憲法」「の自的」 が、「『国家(lo・stat。)』という名」の「近代国家」fからの自由を確保すること. である」からであり、日本国憲法もその系譜に属するからなのであるes)。.  そして、なぜ「三段階審査」となるかについて、「憲法上の要請はs国家の 措置が国民Xの憲法上の権利を制限したと観念されて初めて生じる」のだが・.                                  19.

(4) 横浜国際経済法学第ユ8巻第1号〔2009年9月). 「防御権については、まず、⑧いかなる権利に対する制限が問題となるかを確 認し、次に、⑧制限を正当化するための要件が充足されているかを審査するこ. とである」と述べ、⑧を「基本権の保謹領域」と「当該措置の基本権制限的 性格」に、③を「法律の根拠という形式的要件」と「規制目的の審査と手段の 必要性・合理性の審査を申心とする実質的要件」に分けるのである20。一見、 段階は4つに見える上、4つ目の審査は「まず、規制の目的が審査され」es)、「次. に手段が審査される」26)と更に分けるのであるが、それでもなお、「保護領域. →制限→正当化と進むことから、三段階審査と呼ばれる」e「)と受身形で語る. のである。この精査は、結果よければすべてよしという大雑把な議論を勿論許 さない。保護領域「に含まれるが、当該規制には充分な実質的理由がある」と いうのと「保護領域に含まれない」のとでは、「論証の構造が異なる」と言う のであるza)。.  では、基本権に制限が加えられるときには、何をもって正当化しようと述べ ているか。小山は、当然のことながら、法律の根拠がいること鋤、「パターナ リスティックな制約」などの「憲法に合致しない規制目的」ではないこと鋤、 「規制目的の重要度」のランクがあること31)などを述べた上で、肝心なのは「比 例原則」(VerhaltnismaBigkeitsprinzip)だと繰り返し述べている32)。「憲法上の権. 利および憲法上の保障には、」「他の権利・利益との調整が予定されるものがあ」 り、これは「『原理(prinzip)』としての性格を持」ち、「比例原則が適用される」、. 「立法目的の正当性を審査したのち、手段の適合性と必要性、狭義の比例性が 審査される」と述べるのであるsu)。.  このような手法は、司法審査「のプロセスを段階的に区別し、その進行に応 じた特質を明らかにするとともに相互関係を構造化す’ること」鋤により、そ. の審査を精緻化しようとする主張と言えよう。日本の最高裁の憲法判断におい て、「審査段階が明確に区別されることなく、いわば平面的に一緒くたに込み で行われ、総合的網羅的な利益衡量の中で、」「いつの聞にか合憲・違憲の結論. が導き出される」35)ことへの批判であり、対案の提示であると考えられるも 20.

(5) 二重の基準論とは異質な憲法訴訟理論は成立するか. のである。理論的精緻化は適切な方向性である。.  加えて、小山の述べる、憲法の保障する自由の「例外は、癒法上)正当化で きなければならない」SC)という部分、「法律に求められるのは、憲法の命ずる. 下限に違反しないこと」St)だとする部分などは極めて正当である。更に、憲 法上の権利の「保護領域を、憲法より下位の法律から帰結してはならない」鋤 とも述べている。これは、最高法規である憲法が、下位法令である法律を破る という公理を確認したもので、極めて傾聴に値するSU)。そして、「三段階審査」 という名の5段階の審査が、「すべて同じ比重で論証されるわけではない」’:o). というのも妥当であろう。まさに、いかなる人権の問題かが明白である事案も あれば、そうでない事案もあるからである41)。.  だがそもそも、事案がいかなる憲法上の問題かを審査せねばならない筈で あったが、学説はそれを意識してこなかったのではなかろうか。その前に、当 該事案が憲法問題であるか42)、或いは仮に憲法判断:が可能であってもそれを すべきかという問題億法判断回避の法理)’i3)も無視できないはずである。審査. の段階は、ドイッで論じられているもの以外にも実はあろう。なぜそれを無批 判に日本でも「三段階審査」と称するのかは不明である。  また、「『明白の原則』のような緩やかな審査が行われる場合」などで「立法. 者の判断・評価が尊重されるのは、制限の必要性・合理性についてであって、 《職業選択の自由とは何か》という原形=権利の保護領域についてではない」4‘1). というのも確かである。法の意味の解釈はあくまでも裁判所の権限である。し. かし、保護領域に入るかどうかが微妙な経済的自由などの事案で、入っても規 制が違憲とは言えない事案であれば、裁判所は、事件の解決のためにこれを語 る必要はなく、原則として憲法判断を回避すべきである。そのように考えると、. 小山のこの主張は、まず法令解釈ありきという、憲法裁判所型の思考が背後に あることは拭えなかろう。.  そうして、「制限」と言えるかどうかにつき、小山は、「①目的志向性槻制 する目的をもって意図的になされたかどうか)、②直接性、③命令性(命令権および強制.                                 2正.

(6) 描浜国[類経済法学第18巻第1号{2009年9月). 権の発動としてなされたものかどうか)・④法形式性(法t#’命令剛決という法形式を.  もってなされたかどうか)」の「4要件を満たした国家の規制的介入]であるとす る‘15)・これは非常に分析的であり’、漠然と「制限」を考えていたこれまでの. 憲法学に反省を迫るものであろう。だが、これすらも、表現権の規制などでは、. 表現規制以外の琶的で、間接的に、結果としてなされた、法形式性を有さない 国家行為であっても、その1摺限である可能性を追及せねばならないことを考え ると、先行すべきはやはり司法審査基準、二重の基準論関連の議論なのではな いかと思えてならない’lfi)。だからこそ、選挙運動における戸別訪問規制などは、. 表現権の規制であるとして、当然のことながら以上の齪限性が厳しく問われる 場面であると言わねばならない。、しかし、小山が、公職選挙法ユ38条を「選挙 という特別な場面におけるルール設定の問題」’s7)だとしていることや、「街の. 景観の保護」を理癌に表現権を規制できないと主張することは、「立法権およ び民主釣立法者を憲法の単なる執行(者)へと格下げしない限り、このような 卑定は成り立たない」と述べているqs)ことは、これまで営々と築いてきた筈の、. 表現権の優越的地位の理論を簡単に捨て去るものに恩えてならない。.  以上のような部分は・ドイツ憲法理論に依拠したものであり、「付縫審査の 国には異質なはずの彼の地の知恵」49}であろう。憲法訴訟における判断枠組 みの精緻化は極めて妥当な方向性であるが、それが、現在の憲法訴訟論をほぼ 初めまで巻戻して再構築せねばならないものか、参考物もしくは着想点が別の. 国の法理論でも、要件事実論鋤などの別の法分野の法理論でもなく、なぜド イッ公法理論でなければならなかったかは不明である。.  筆者の立湯でもs厳絡審査においては、昌的・手段審査が精緻化されるほか、. 原則である適用審査・適用違憲が文面審査や適用審査の下での法令違憲に転換 し、多くの合憲性判断テストが用いられるほか、そのような場面では統治行為 論は使えず・憲法判断回避もできず、合憲墾定解釈もなくなる5])と考えるも. のである・いわゆる酬権力理論の領域、私入蹴話論の領域でもかなり決 定的な結論が導き出せる筈なのである。勿論、このような強い権利を用いると 22.

(7) 二重の基準論とは異質な悲法訴訟理論は成立するか. きには、その保護範囲が何であるかは、訴訟における攻防戦の要所となろう。 精緻化は、何らドイツ法理論の全面的導入を必要としない筈である。このよう なことは、憲法訴訟論を熟考すれば十分だったのではあるまいか。. 2 比例原則を巡って  憲法上の権利が絶対的保障を意味することは稀であり、殆どの場合は、規制 が規制であるというだけで違憲とはなり得ない。このため、規棚のどこまでが 合憲で、どこからが違憲かをどのように決定すべきかは、多くの憲法学研究者 や裁判官を悩ましてきた問題である。.  小山は、この決め手を「比例原則」と考え、多くを語っている。比例原則 は、ドイッでは、行政法上の一法原則に留まらず、憲法原則としての地位を 獲得している模様である52)。その結果、基本権の「制約の制約(Schranken. Schranken)」の代表格となっているようであるss>。一般的な「相対的禁止に. 服する」人権では、「具体的な違憲審査の在り方は、①いかなる点にっいて審. 査するのかと、②それをどれだけ厳格に審査するのか、という2つの要素か ら規定される」が、「前者は、ドイツにおいて比例原則と呼ばれるものであ り、規制目的の正当性を前提に、①規制手段が適合的であり、②かつ必要であ. るか、③規制により得られる利益と失われる基本権的利益が均衡しているか を審査する」ものであると説明するのである51}。この原則は、「過剰の禁止」 (UbermaBverb・t)原則とも呼ばれるようであるib’)。.  行政法学者の須藤陽子も、「わが国の憲法学には、アメリカ法に由来する LRA(less・restrictive・alternative)の基準とドイツ警察法に由来する比例原則が『混. 在』して」おり、「両者は、よく似たものとして受け止められている」と述べ ているss)。前者は、違憲か合憲かの判断をする際に用いられる「合憲性判断 基準」の1つであり、「アメリカ法由来の『司法審査基準』と『合憲性判断基準』. からなる体系」とでも言い換えるべきものである57}。なぜなら、LRAの基準                                  23.

(8) 杣1兵匡|陪…経済言去学第18巻第1号 (20091f−9月). の濫用は激しく、元の意味を逸脱し、単に「必要最小限度の手段ではない」と か「過度に広汎」と言えば8いときまで用いられているものだからであるSS)。. 須藤の敵はLRAの基準自体ではなく、アメリカ由来の憲法訴訟論、特に司法 審査i基準論であり、それがドイツ由来の比例原則に取って代わられるべきだと の主張と読み替えられるであろう。.  確かに、入権の制約は、炎われる人権と、それによって得られる他者の人権や. 政府利益を利益衡量し、後者が大きいことによって正当化されるとの説明は、 一般に納得させられ易い。このため、「比例原則」が決め手だという説明には 一見説得力がある。また須藤は、「柔軟に様々な考慮要素を取り込むことが出 来る比例原則の長所」があり、「人権ごとに段階的に厳格さの異なる審査基準 を設定すると発想することは、非現実的な議論」と断じて59}やまないことな ども、個別具体的な行政事件の解決における行政法理論としては理解もできよ う。. 、しかし、「比例原則」はあくまでも原則であって、憲法判断を行う審査の枠. 組みとして有効かと言えば、疑問も多い。中聞的な司法審査基準は置かれるべ きではなく、スライディング・スケール化は、何をもってその基準を妥当たら しめるか、不可解なものとなるOO)。須藤も以前、「『比例原則とは何か』の視 点を欠いたまま、『比例原則に違反し、違法である』という結論が導かれてきた」Gl). と述べているが、このような恐れは常にある。民主主義と自由主義の相克、当. 事者主義構造の中での立証責任を考えれば、当該法令や政府行為の疑わしさは. 2段階とするのが原則であり、特に根拠が示されれば、せめて4つの段階があ り得るというのが限度である。.  さすがに憲法学者の小山は、ナマの比例原則で憲法上の権利を争える、憲法 問題を解決できるとは思っていない。「比例原則の適用には、緩やかなものと 厳しいものがある儲査密度)」62}と述べ、これに段階があることを示唆する。. 日本の最高裁判決を概観し、「重要な権利に対する強力な制限であれば、特段 の事情がない限り、比例原則が厳格に適用される」fi帥のだとし、「この定式か 24.

(9) 二重のi匡準治とは異質な憲法訴訟理論は成立するか. ら外れるものは、審査基準が緩和される」60と述べ、「権利そのものではなく、 『尊重に値するもの』に対する制限」di)や、「権利に対する制限が軽微な場合」66)、. 「重要な権利に対する強力な制限であるが、立法裁量を尊重すべき例外的事情 が認められる場合」67)や「特殊な文脈における基本権問題である場合」as)な. どは、基本的には比例原則が緩和されると指摘するのである。そして、厳格度 が緩和された基準としては、「重要な公益の保護が目的」で「手段が単に適合 的なだけではなく、他の手段との比較において、必要であることが要求される」 とする「厳格な合理性の基準」があり69’ )、「目的・手段・均衡の3点」がそろっ. た「合理的関連性の基準」もしくは「緩やかな審査基準」があり70)、更に緩 やかな「明白の基準」がある71)と言う。加えて、「比例原則のうちの狭義の比 例性に特化した審査である」「明らかな差し迫った危険の基準」があるとするme). が、これは「厳格な合理性の基準」と「審査密度が異なるのではなく、」「特定 の手段(例えば、集会の禁止)を固定したうえで、そのような手段を正当化する. には、生命・身体等のきわめて重要な法益に対する、明らかな差し迫った危険 がなければならない、とするものであるjと説明している「a)。.  小山は、憲法学では人口に腱泉してきた「二重の基準」の論拠初について、 「裁判所の審査能力の限界」は否定されるので、専ら「精神的自由の重要性」 に求められると言う「’)。しかし、その「優越的地位」を支えてきた他方のF自. 己実現の価値は、表現の自由に固有のものではない」上、「自己統治の価値」 から残るのは「民主的な政治過程に関わる表現行為に限られ」7G)、「性表現や. 営利広告」などの「公共的利害に関わる事項に関係しない表現は、自己統治の. 価値からは説明がつかない」ので、「保護される『表現』の範囲から除外され ることにもなりかねない」と述べるπ}。結局、「現在の学説の到達点は、」こ「れ. らを総合することにより」表現の自由の「『優越的地位』を基礎づけうるとす る見解であろう」7s}と纏めるのである。そして、小山は、「法的な判断は、っ. まるところ、相互に対立する利益のどちらを優先させるかの問題であり、その 意味では、いかなる違憲審査も比較衝量(利益衡珊にほかならない」として、.                                  25.

(10) 枇浜国際経済法学第18巻第1号(2009年9月). 「比較衡量は」「およそあらゆる法的判断に内在するものである」と述べるので ある79)。.  同様に須藤は、比例原則が憲法原則であることは当然と考えた上で、しかし、 「日本国憲法に比例原則をどう位置づけるか、どこから導くか、という議論が 避法学から積極的に発せられた例はない」と、憲法学説を批判するSO)。その 上で、「最高裁において」「立法裁量審査に必要性の原則が適用された例がある」 として、i薬事法違憲判決Sl)を取り上げる。そして、当時、行政法学者ee)の一. 部が「警察規制に対する比例原則の適用例として捉えたにもかかわらず、その 後の憲法学の議論はアメリカ憲法訴訟論を中心とした展開をみせ、薬局距離制. 限判決にLRAの基準を読み込む見解が定着していった」ss}と批判しつつも、 芦部信喜もこの「判決が比例原則の適用として捉えることができることを認め てい」たと評するのであるen)。そして、森林法違憲判決却と併せ、「戦前には. 警察法上の一原則にすぎなかった比例原則を、この二つの最高裁判決は違憲判 断を導き得る憲法上の原則にまで高めたものとして理解すべきではないだろう か」as)とまで読み込むのである。.  比較衡量が法原則であることは確かであり、そしてその究極の根拠法令は日 本では憲法13条と言ってよいo「)であろう。重要な人権の侵害ほど、侵害は小.                               L さくあるべきであるというのは、一般論としては正しい。だが、比例原則や比 較衡量という手法は、民主的に制定された法律や、その許容してきた行政の行 為が・国法の最高法規であり、ときに民主的には代表され得ない者の人権を自 由主義的に擁護する必要もある憲法に反するか反しないかを判断する頼るべき. 物差しとしては、そもそも何と何をどう比較するか、それはなぜそうしてよい のか、を語らなければ、いかにも心もとないSS)。そして、多数が納得する説 明は殆ど不可能と言ってよい。平等原則違反の主張が、「合理性」の基準の前 でどれほど累々たる屍の山を築いてきたかを想起すべきであり89}、ここに文 字通りの「二重の基準」を前面に掲げねばならない一因があるのである。.  比例原則や比較衡量という物差しを是とする議論は、国家・国民が善意に満 26.

(11) 二重の基準嵩とは異質な憲法訴訟理論は成立するか. ち溢れていれば成り立とうが、近代立憲主義は国家権力に対する猜疑心を捨て てはいない。今や国家権力は王の横暴に支配されてはいないが、多数者の横暴 は、ファシズムやスターリン主義を見た我々に、ないとは言わせないものであ るSO)。その中で、何を多数者の横暴として認識し、どのような仕組みでその 歯止めとするかが論じられなければならない。日本の戦後が、政権交代による 過去の法令や法執行の見直し、最高裁の裁判官の構成の転換の明示的な機会の 多少を考えれば、極めて実践的レベルでも、「比例原則」頼りは単なる翻揺匡 持と憲法の無力化を導くだけであろう。物差しとして比例原則で臨むという裁 判所の姿勢は、一般的な行政法規の解釈に留まっている限りは妥当なのかもし れない91)が、違憲審査においては、恣意的で、政治権力や多数者に丸め込ま れる危険を内包している9Z)。また、実際、解釈者、裁判官の恣意的判断を止 められない93)。まさに小山説は、表現の自由の優越的地位を認めてこなかっ た日本の最高裁の立場を比較的そのまま受け入れ9t)、これに緩和要因がある ものは審査基準を下げると述べているため、外国人が特別権力関係的な場面で 人権を侵害されるときなどで、その分、国の側に裁量が生まれ、権利ではなく「尊. 重に値する」程度とされれば、仮にそれが表現の自由であっても、厳格審査 ではないことになっている。レペタ事件最高裁判決95)が特段の批判的分析も なく、その文脈で紹介されているsc}のは、その好例である。比例原則は、表 現権の過剰な規制や異常な刑罰の歯止めにならないことを思うべきである97)。. 国家という名の暴走電車はATC(もしくはCOMTRAC)では、最後は制御でき ないのである。単純明解なATS(もしくは脱線ポイント)が必要なのであるgs)。.  だから、「二重の基準論」の付随的違憲審査制における決定力は否定できな い。その点で、「憲法上保護されるべき権利ないし自由の内実を得ることがで きれば、行政裁量統制の手法を用いて権利侵害の違憲・違法を導くことができ る」YD)という須藤の主張は、当該人権が何であるか、それに伴う司法審査基 準(疑わしい度合い)が何であるかの議論の童要性を見落としている。.  この点、小山はそうは述べていない。日本国憲法13条を巡り、一般的(行.                                 27.

(12) 盤漢国際経湊法学第藷巻簗1号(20賠年9良). 為)自虚説と入聾麹利益説の対立が「一一見すると重要な実践的差異をもたらし そうである泰、実鐸に1ま論理必然鱈な差異はほとんど存在しない」100}と述べ. ている号なぜなら拭、抽が睡で実際に提唱されている入搬き利益説は、」「一 竃燈舞謹を入格撰連穫に乏しい行為に対しても手段薗に及ぽすべき」と考える 寿、『一毅翼民に許されている自由の罰襲について{ま、実質的な金理釣根拠が. な謬託薮ならない」fと考える」し、r一毅縫テ為自康説は」喫煙の自$などは 「おそらく、審査基準喜ま緩や譲こなろう」からだと言う101}。また、「《等しいも. のを等しく籔え》と言う命題が、法窪学の手に余る内容を含んでいる」1ce}と Lつつも、「一殼平等原難こついては、審査密度はそれほど厳格ではない」が、. 藩§巽簸扱いの事蜜が巽条重摸後聲封挙事密に該当する揚合には、厳格な審査 寮要藁される」と明言している⑳。これらのことは、保護範題の悶題以上に、 実銭講に註審査基準が決定酷なことを小出自身が示したものにほかならない。 蘂えて.髭撰原§蓼が「開かれた原則であり過ぎて、瑛確な定義力覇難である10s}. 重毒,璽念でISなく物差しとしては、これを何度繰li)返し発声しても解決には 参毒嚢挙ことをよく示すことでもある1°s}。「比例原則は個別的・一具体的事例に. 違已てi譲翌毒餐蟹を嚢響所に可方巨にする’ところに二その強みと弱みが同居して. 嘉奪、簸鍵竃轟善羅葵菱違とL営の鍵鋸葺醒剰な饗穿を寄せることはできな 苦』罐主謡孝.謬享ヲ鍵霧霧書で1ある宍戸霜寿の錆摘{ま,真o当なものと 霧え孟う簗泣馨8;i季竃籔塞嚢鱈薮絡な音璽鍾」の鍵ξ準.通常審査)の暖昧さ と.璽肇嚢圭這購璽誇聾嚢≧窮基聾金垂妻,そ・暴りよく認識されるべきものであ るま鶯5曇主褒霞主。霞議誓撃嚢霧甕Uがある工Lて,A分鋳を試みているiU」)が、. こ吉菩蓑重三江織霧のi璽嘉i多の華で虚εる墓奉擁謬題」脚というよりも、別. 段.「二窒の塞撃議」で霧義できる霧轟である5厳鑑塞査は裏返しとしてi立. 法’行政裁量を籔Lξ鑛霧亨る書のであ塾会璽麩の基準は立法・行政裁最を 広く;i馨めるもの』ξある諾㌔そ嚢鰺董拳欝顯ま九撞の璽類で妻ξ定きれるrきであ. りilU」.その錆の緩姦も籔霧毒一i墓奉欝に鑓な挙と言うべきである彌,.  要するに.「鑑剖原購」を滋爾仁麹』デ㌍雛々な饗素を理雨に審嚢塞準1璽垂齋 %.

(13) 二重の基準譲とは異質な憲法i訴訟理ii蘂ま議立する寿. 度)の上下させることは、恣意射な判断を導く。またそこでは、当事者主義欝 造の立証責経の欝題が抜け落ちているll4)。「」七剖原則」で{まなく、ヂ:二童惑墓. 準」論及びそこからi羅三する議論に戻るべきではなかろうか。. 3 運常司i螂判藪による持随的違憲審蛮闇からの疑溺  アメリカ連郭最高裁判憧をi墾鋤に、芦部信喜や佐藤幸治に始まるfi本の憲法. 訴訟論が、その後、多分に訴訟テタニックに螺斜し、華々しい基準や法理に気 をとられてきた部分もあろうeそれに比べると、小山の述べる三段懲審査1ま、 そもそも法律の根拠が必要、命令や条剖の場合はどうかなどまで織り込んだ髄、 「愚直さを売りにした手法である」11fi)のかもしれなじ㌔.  だが、本来の意味での、そして皐著がこれまで述べてきた「二重の基準論」 もまた、そうであるe裁判所は、適当な理癌を董寸けて、憲法判断をどちらにで. も振れるものではなく、狭い司法裁量の中で愚直な結論を示すのが、日本懸憲 法の予定する違憲審査権の行使であると考えるものである。その意味で、求め られるのは司法審査基準論や「二重の基準論」の窒否定ではなく、その再検討・. 再構築であると考えるものであるe  さて、「愚直さを売1傳にした」小i力は、「職業が入揺簗輔蓮とも直結Lた添鍵 であ1)、その・一・Ptで、註会酌相互闘連挫を欝つことが職業選毅の自密という憲. 法上の橿利の特饗であ」u言}るので、「事案の聾i隷賛を取り込んだ具捧幼な法麺. 構成(中二隅が求ぬられる」11E}とも述べてお鉱これは具体劇已聡畷なる璽 決を求めて基準を繋作すべしと読ぬる。決して、愚直ではないe否・この精嚢 こそ愚直さであるとの反論もあろうが、憲法秘麺に葬琵主嚢きな藁醤官の裁量を 広く認める恐れもある。小山には、育およそ表璽の釦]ヨは・づといロた蟄裏麹. な規範のみで事案を頸ヌ裂く詞ま、プロタルステスの寝台に等Lい」融と塾 記述もあるが、恣意自鱒引醤を避けるため、1つの入籍ミには1つ穆翼逡暴嚢i璽璽. が妥当させるべ藁なのであi,、あ萢震麿、事案に気欝ちを入巽遷ぎ窪恒・誓慧.                                  嚢.

(14)  拙{浜国1祭経済i去学第ユ8巻藷苫1号’ 〔2009ゴF9月).  に愚直な判断が求められるのではあるまいか。そして、人権によって、審査基 準は大きく二分されるべきである。.   だが、小山にはその意識は希薄である。例えば、小山は、公園設置のビデオ  カメラの合憲性に関して、「警察官による巡回という、より緩やかな手段によっ. て・犯罪予防という立法目的を同じように達成できるのであれば、監視は違憲 である11co}と断じるが、憲法上のあらゆる権利について、このような精査を 行うことは無理がある。国会や地方議会が民主的に選択できる手段は、ある事 態が生じた際に幾つかはあるのであり、憲法からその立法裁量が0に収縮する ことは一般的ではない。それは、厳格審査の対象であるような人権事案の一部 などに限られよう。だが、それとは異なることは、薬事法違憲判決を「法律の 合憲性を論証する作法を学ぶうえでも重要」121)として、詳細に検討をしてい. る1ee’ eとにもよく表れている.経済的舳の分野の酬であり、あまりにも 当該法令の手段が不合理であると裁判所が判断すれば、違憲となる例もあると いうに過ぎないと言うべきではなかろうか1as)。. 杣は・珊離の意義」.につし・て・徳齢公安条臓件1別・を引き合v・に、 というよりもN「ドイツのある決定」囲を引用して、日本国憲法でも同じとい う説明を施している。一般的に、権利を制限し義務を付加する法令が明確でな ければならないことは確かであろう。だが、全ての法文に、誰もが一見して分 かるほどの明確さがなければ、それは憲法違反か、と問われれば、躍躍せざる を得ない。過不足ない法文はいかにも複雑、つまりは不明確になり126)、現実的に. も多くの行政法規は無効となり・結果、法の網を潜れる者が笑うだけであろう。. よって・明蹴の要請は綾縮㈱果を呼んではならない表現麟制1・・1の場 合と、究極的な人権規制手段である刑罰法規の場合に、それぞれの要請からな されるものと言うべきである。小山は、F程度」問題とする1as)が、明確性が 欠ければ違憲に繋がるのは、以上のような場合に限定されるのではないかと考 えれば・明確性の要請は・これらの人権の場合の特殊法理、特別理論と考える べきではなかろうか。 30.

(15) 二重の基準論とは異質な憲法訴訟理論は成立するか.  これにより、「合憲限定解釈」100}についても、法文に2つの解釈が可能であ. るとき、その漠然性を回避するため、いつ用いられるかが分かろう。表現の自. 由の規制立法の際には、2つの解釈が残ることは曖昧漠然であって許されず文 面違憲となろうから、この手法を用いるべきではない1鋤。また、経済的自由 規制の場面では一般に、ある合理的解釈で合憲との結論を導けるなら、特段に それを「合憲限定解釈」と呼ぶ必要すらない。刑罰法規に複数の解釈が成り立 つとき、違憲の構成要件を切り取り、無罪となるべき人を救済しつつ、法文を 過剰に違憲としない手法である。また、法文が非常に広大であるとき、典型的 には一般条項であるとき、その法文全てを違憲無効にせぬように用いられる手 法と考えられよう。その意味で、合憲阻定解釈は、「上位法に適合するように 下位法を解釈することは、解釈方法論の基本的ルールの1つである」131)こと などから、一般にできるものと見えるのであるが、特定のケースの技法である ことには注意が必要なのである。.  これに比べると、適用違憲は単なる「解釈の一手法」!32)という説明で終わ. らせることはできない。司法権の作用の一端である付随的違憲審査権の行使と. して、一般的手法と考えるべきである。それを一般原則としつつ、いかなる適 用を考えても違憲であると思われる場合が法令違憲になり、法文の解釈が複数 可能で、可分であるときに、合憲限定解釈という手法がなされるのである。合 憲限定解釈は、法令審査を原則とする中で法文の救済を目的とするものではな く、適用審査を原則とする中で、人権救済を満たすならば法令全部違憲は当然. に避ける法理として理解すべきである。それは、日本国憲法における司法審査 が付随的違憲審査だからである。.  小山はまた、博多駅テレビフィルム事件lss)やレペタ事件最高裁判決1鋤の ように、当該行為が憲法上の権利ではないが「精神に照らして尊重される」場 合や、「憲法31条以下の規定を行政手続への応用」、「84条の租税法律主義の・. 租税以外の公課への応用」ケースでは、「合憲性判定基準が緩和される」と述 べている135}。しかし、そもそも人権の議論は、保護範囲かそうでないかでは.                                  31.

(16) 宇. 横浜国際経済法学第18巻第1号(2009年9月). なかろうか。グレーゾーンの容認は、保障が割り引かれるケースを増やすだ けであり、人権の保護にも役立つまい。表現権の保護については、端的に憲 法21条の射程であると述べ]se}、非刑事手続の適正に関しては、憲法31条の 問題1St}を離れ、究極的には憲法13条の問題であると言えばよい13s)だけのよ. うに思われる。これは、小由の述べる「基本権競合」、即ち人権規定の射程の. 重なる場合の処理の問題である。小山は、これは、特別法は一般法を破るとい う大原則でまず解決できると述べておりIso)、それは首肯できるが、次に、「問 題となる事案に対して、より強い関連性を持つ基本権が規準となる」1‘;e)と述. べている点は疑問である。付随的違憲審査制の下でのいわゆる合憲判決とは、 当該事件に適用する限りで指摘のあった法令や政府行為のいずれも違憲ではな い、というものである以上、なされた違憲の主張をクリアする必要があるので ある。およそ保護範囲の異なる、いわば言いがかり的な憲法上の主張は斥けら れたあと、意昧を持ってくるのは、司法審査基準の高い「強い権利」の主張で. ある。全くの商業上の理由であっても、表現活動(営利鯉親)は憲法21条で 保護されるかが決め手となろう。「マクドナルドの看板が許されないのは、(芸 術ではないため)営業の自由の問題」141)なのではなく、「芸術」を特別の条項と. して置かない日本国憲法では、この案件は表現の自由の問題の筈である142)。. 4 基本権保護義務論を巡って  小山は、「ドイッでは、自由権的基本権規定から国家の作為義務である基本. 権保護義務が導出されているjM3)とする。それは、「国家S・加害者Y・被害. 者Xという3主体を前提」とする「法的三極関係」のうち、「国家S・被害者 Xの問で成立するものであって、」「ヨーロッパ人権裁判所でも確立した判例法 理」でもあると言う1‘14)。「国家は、加害者Yの行為を規制することにより被. 害者Xを保護するという、二重の役割を担う」中で、「国家の作為義務」が生 まれると述べるのである145)。日本でも、少なくとも、「生命や健康のような特 32.

(17) 二重の基1{匡論とは異質な憲法訴訟理臨は成立するか. 定の権利については、保護義務を肯定する見解が有力になりつつある」14G>と し、小田急高架橋訴訟最高裁判決期藤田宙靖:補足意見を頼りに、「行政庁に『リ. スクからの保護義務』があった」と読める例もある14S)と、基本権保護義務を 所与のものの如く強調するのである。  小山は、このことから憲法の私人間効力論を展開している。ドイツでも、「私 人間効力論は、すでにかなり以前から、その役割を終えていたとも言いうる」149). し、そ「の独自性の否定が、異なる基本権理論の陣営から唱えられて」いる が、「独自性の否定によって論争が終わるわけではない」と断ずる1so}。学説の. 対立構図は再論しないが、小山は基本的に間接効力説的な立場に立っていると 言ってよいL51)。だが、「憲法価値の充填」152)を旗印にしてきた同説の「振幅. という問題は、間接適用説自体の理論としての詰めの甘さに起因するものであ り、『間接適用』とは何かを、もう一度問い直す必要がある」153)として、旧来. の妥協的な問接効力説と訣別する。そして、「それは、基本権という陽光に照 らして司法規定を解釈せよという要請であり、その限りでは、行政法や刑法の 合憲限定解釈と、本質的に異なるものではない」と言うのである15t}。異論は. あまりない。それどころか、「およそ解釈の余地のある全ての私法規定が、間 接適用の対象となる(なお、解釈の余地のない私法規定が憲法に抵触するときは・その. 私法規定自体が違憲となる)」溺との記載などは首肯できる・「私人間効力問題と. して構成できそうであるにも関わらず、最高裁が私人間効力に言及していない 領域に、名誉殿損等の不法行為法と、」「団体とその構成員の間で生じた紛争が ある」lss)との記述や、百里基地訴訟最高裁判決157)を批判しつつ、「行政は」「原. 則として、基本権の直接適用を肯定すべきであ」り、「同じことは、第三セクター にも当てはまる」との指摘1ss)は、誠に同感159〕である。.  だが、小11」が基本権保誕義務でこれらを説明しようとするがため・理論的に. 無理が生じているのではないかとの疑念が晴れない。私人間効力論に関する、 小山と筆者との間の違いはほぼその点だけと言っても過言ではないところまで 来ているのかもしれず]nv)、具体的事案の解決には或いは大きな差がないのか.                                   33.

(18) 議浜国際経済法学第i8巻第1号{20賠年{}舞}. もしれないが、法理論的な説墾としては疑霧があるe  小山は、「保護義務論{ま、ここで鋳懲擁に顛えて蟹(民事裁判官}の塞本擢撮. 護義務を繍する」と述べr謬イツ流の基本権穣護義務論を承認することな しにも導き出せるし、また、なしとすべきである』とする」筆者の績論溺を、 あIM.,E,i,ないと批縄する]S2)。その論拠は議下の通りである。.  まず、1951年の謹ドイツ連郵憲法蒙判所のiヌユート聾決鋤が、壌聾擦ま、 適用すべき実体釣民事法規定が麗述の方法仁毅条撰を介し撰職;離一・]畷]で. 基本権の影響をうけるかどうかを審査すべきことを憲法上、命仁られる」こと が眠事裁聾言の基本権拘束(9本二法匡条3項)の趣旨」だと言っていることを 論拠として掌iげるIGi)。しかし、ドイツ基本法1条3項「の規定から、私λの 実捧閤法蓮欝孫に対して基本撞が持つ作用を推論することはできな妾・」のであ. り、「先行欝題から、民事裁判官の実捧的基本権に対する麹束の範醤と性馨が 定まる」のだと言うのであるEas)。そして、ノ恒ぷま、「違憲馨査麓を欝つ憲法㊧. もとで無魏主説は論理必然自簑こ排除されるのか、という論嘉」に進み、「私法. 規定は憲法の拘衷を受けないという主張は逮り立たない」ということ1ま言える とするlca)。も謝L、それでもなお、「無蓑力説と違憲審査遜は、共嚢しうる」繊. と言うのである。非鏑出子の報続分について、注建が差墾するときと「私λ Aが遺言によ9」差別するときとでは、「立法者は墓塞隷の名裏入でes i}、基. 本権によって直接轟菜されるが、私入Aは、韮本擢㊧麹裏を受踵ないた轟」、 「質的に異なる」ので、「琵事裁等嬉1ま塞本権を顧憲しなくてよい、という誌議. が生じうる」ことがその理蜜だと言う燈である溺。このた轟、眠璽裁饗擾嚢 契絢内霧に介工し・あるい1弘名誉穀譲i誘詮において妻璽者醸褻羅こ纏聾を璽. えるの1ま・単鈍な防御撞誇譲聾として、憲塗麗蓮となる裏遷が毒る☆轟ぞ毒 る」とするのであ91e)。だから、「雲塚議にiま、文落Lて誤墨譲量議轟い建、 摺黍誓拒ζい嚢い前墾)毒ξあ」t?、量の「i霊理iま、事穂{書羊量L妻・i裏覆して担蓬. 蚤1」≧手墓し事顕。「墓麹璽丙墾寮鍾観轟{こ寒きるとす莚運翼璽i欝璽責ま、」 ,塵箸『書嚢奉纏二は劃重書莚墓喜ユ」謬璽妻毒、辛こで「民譲嚢聾藪韓も嚢嚢懇 璽.

(19) 二重の基準論とは異質な憲法訴訟理論は成立するか. 定(拡張)解釈を求めるのであれば、」原告「の基本権について、防御権を超え た内実を付与せざるを得ない」と述べるのである171)。.  確かに、三菱樹脂事件最高裁判決172)の説示は、小山が述べるように、「間 接適用説を前提としなければ成り’ ァたない」わけではなく、「無効力説とも、 『新』間接適用説を含むあらゆる間接適用説とも、理屈としては接合する」!73). ものである。各説の論者がそのように理解することはよくなされるが、しかし これが果たして、同判決が妥当であったか、また、私人間効力論についてどの. 立場が適切であるかを語るものではない。そして、憲法の名宛人が国家・公権 力である以上、憲法に拘束されるのは国家・公権力であって・決して私人であ ることはないi74)。私人に適用される法令(国家・公権力の産物)や、その事件に. おける適用(国家・公権力による)が憲法に違反することがあり・その結果・当. 該法令が、憲法がない場合と比べて別の解釈をされて・当事者の一方をより救 済することがあるだけである。これは、民法900条四号但書を法令違憲とする. ときでも、民法90条を合憲限定解釈するときでも同じである。私人間効力論 が特殊な問題ではないと筆者が述べてきた1「°}のはこの意味である。.  また、小山は、民事の名誉毅損訴訟を例に、損害賠償命令は被告の「憲法上 の権利としての表現の自由に対し制限を加えたことになる」が・逆に原告の請 求を棄却したときは、被告の「表現の自由、契約自由を制限しなかった障重した). というだけであり、」原告の「防御権としての基本権を制限したことにはなら ない」と述べている176>。しかし、これによると・棄却判断における・被告の. 憲法上の権利を尊重するという判断は憲法問題ではないことになろう。この事 案でも、憲法判断があり、法令やその適用がこれに触れないという判断が黙示 になされているのである。もし、小山の言うようであれば・およそ合憲判決体 件に適用する限りでは違憲とは言えないとする司法判断)は憲法判断(訴訟・事件)では. ないことになろう。勿論、憲法は舞台に上らず、民法や刑法を解釈して結論が 下される事案が圧倒的である。そしてその際、明示はされないのだが・適用し た当該法令は、その適用の限りでは憲法違反ではない・この点につき当事者に.                                  35.

(20) W[i兵国i男き超…i斉ii1{学第18巻第1−2}(2009」XI三9月). 争いがない、ということが隠れていることが重要でもあるのである。小山の挙 げた批判点は、別段、不思議なことでも何でもないことに見える。.  小山が述べるように、基本権保護義務が導き出されることは、三極関係の中 で「国家の介入の下限を画する」囲ことになるのだろうか。「刑法199条が削 除されたならば、おそらくは生命保誰義務違反で違憲となろう」17B)との記述 もあるが、本当であろうか。人権規定が人権規制のミニマムを保障するという パラドクスはにわかには信じ難い179)。立法者が「刑法230条自体を肖‖除」し. ても、「憲法違反の問題は生じない」が、そのことは「刑法によって保護すべ き憲法上の義務がある、という意昧ではない」との説明1SO)と矛盾するのでは ないか。それは権利が義務に転化し、国家介入を過剰に招く危険を感じる。こ の点は、芦部信喜ISI)も佐藤幸治1ee}も強く懸念してきたところである。また、. ドイツ基本法が「保護する義務」と記しているのに対し、日本国憲法が「立法 その他国政のうえで、最大の尊重を必要とする」と述べていることは、’日本国 憲法が個人の自由に対する国家介入を忌み嫌うものと読めるのでぱなかろうか1ZZ)。. この例でも、もしも刑罰以外の適切な方法が発明されればよいだけのことであ. る。果たして、死刑制度は憲法31条には反しない、を超え、凶悪犯罪者の処 罰は憲法31条の要請だとして、死刑制度廃止は直ちに違憲になるのだろうか。 疑問である。また、反乱の恐れがあるので軍隊は必要、国家緊急権、軍法会議、. 戒厳令は広汎に認められるとの結論も、大袈裟ではなく、謹きかねない1St)e このようなことは、殊更に基本権保護義務という概念を出したがための勇み足 となるのではないだろうか。.  小山は、「刑法230条の削除も鑑法問題となりうると考えるのであれば、こ こでも防御権を超えた基本権の内実を想定せざるを得ない」1ss>と述べている が、基本権保誰義務を特段に認めなければ、このような想定は必要ない。また、 まさに、刑罰以外の方法で名誉権の保誰を立法者が考えることは可能なことは、. 以上述べた通りである。にも拘わらず、小山は次に、「その内実とは、基本権 保護義務に他ならない」Is6}と述ぺている点には、批斗…IJの対象となっている筆 36.

(21) 二垂の基準’論とは異質な憲法訴訟理’詮は成立するか. 者も驚きを隠せない。筆者はそのようなことを述べた覚えがないのである。小 山にとって、あるべき刑法は憲法の問題であり、これを縮小することは、保護. すべき人権を保障できないという意味で憲法違反と言いたいのではないか。そ して、それが言えるのは憲法から基本権保護義務が当然にあるからだ、と言い たいのではないか。しかし、これはトートロジー(tautology)である。そもそ もそのような意昧での基本権保護義務が日本国憲法から発生しなければ、小山 の主張は瓦解する。自由権及び平等権を基調とし、近代立憲主義の系譜に載り、 戦前の過剰な集団主義への反省から生まれた日本国憲法が、「国家からの自由」 を捨てて「国家への自由」を選んでいるのであろうか。疑問でならない。また、 「現在の裁判所制度を前提にした議論を」したとき、「全ての裁判所が憲法と民 法の両方を解釈・適用できることを前提に」すべき1s〒)なのであり、民法は憲. 法に反しないように解釈される、ということで足りる筈である。  小山は、「君塚は、『ある種の国家保護義務とでもいうもの』については否定. 的でなく、『ドイッ流の基本権保護義務』に対してだけ否定的であるのかもし れない」1zz)と述べている。その種のものは、人権一般が放射する効力ではなく、. 特定の人権が特定の場面と形式として発することがあると言えばあるものに過 ぎない。それは、単なる当該条文の解釈論で事足り、人権総論の議論を要しな い。また、小山が多分に想定するような、「基本権を保護する必要がある場合、 国家は介入すべきであり、また、介入できるはずである」Is9}ということには、. 日本国憲法の解釈としては、なり得まい。繰り返しになるが、特定の人権を擁. 護するために特定の法律の制定を憲法が要求していることは稀であり、その 稀なときが立法不作為の合憲性判断に関する難問ということなのではあるまい か。これに対し、小山は、「少なくとも、」ドイツ「連邦憲法裁判所は、基本権. 保護義務かどうかという問題を、個々の基本権ごとに慎童に検討している」の であり、ドイツの「通説も、」「基本権保護義務の意義は、それぞれの基本権の 性質に応じて定まる」、「個別の基本権ごと、また、事案の特殊性を踏まえて考. 察されることになる」と述べている1go)。だとすれぱ、小山の主張は筆者の上.                                  37.

(22) 1. 横IPt…国際経済i去学第18巻第1−Fo−(2009」tf 9月). 記主張に吸収されよう。国家機関の一員たる公務員には、その限りにおいて憲 法尊重擁護義務があり、憲法に反する法令{民法を含む)の創造も解釈も許され. ないだけである。結果として、日本国は、日本国憲法の保障する人権を侵害で きないことになり、入権は守られるのである。つまり、一般的な基本権保護義. 務など、日本国憲法にはアプリオリ(apriori)にはないのであるQそして、わ ざわざ強講することは有害無益である。別段、自由権から請求権が発生するこ とはあるのであるから、個別的説明は全く可能である191)。はじめに保護義務 あ1?き、それもドイッでもそうだからだ、ではない筈である。.  小山説の帰績は、基本権保謹義務を前提にしないと不可能であるとは思えな v) 1ce)。小山は、「基本権がもっぱら対国家口勺防御権であるとすれば、民事裁判. 官の基本権への拘束は当然には生じない」測と述べているが、公務員が公務 上、憲法と法律に従うのは当然であって、民事裁判官も剖外ではない。仮にH 本琿憲法に「私法の違憲審査はできない」との条項があれば、民事裁判富は憲 法のこの要請に従って私法に違憲審査を及ぼすべきでないが、目本箇憲法には そのような条項はない。憲法に反する法令を適用できない、憲法に反するよう. な法令の適用はできないという要請は、まさに日本覆憲法から、掴家機関を名 宛入として生じるのであ彗、遅・山のこの指簸は当たらない。法廷に出た以上、. 私的な遺言の解釈を巡っても、憲法の許す私法の一般条項解釈から外れるもの を、裁判富が許容してはならないのである。「<<思想・僑条は重要である》《入. 格権は重要である》といった麺値表瞬」191)の場函で、裁判所がこれらの主張. を擁護することは、憲法により璽家機麗である裁‡膿が拘童された結果、合憲 限定解釈等の義務から生じることなのであって、「裁判所による操護義務の履 行」1es)と考える必要は全くないのであるロ言うまでもなく、ジドイツの学説」. や「判例の展顕こf衣拠し」てヤ、る醐ことは、自己の欝本纏憲法解釈の正当難 を担保するものではない1螂。.  小山は、「私入聞効力が特殊な闇題だと考えられてきたのは、そ碍季法の亙 体が合憲限窒(拡張}解釈だと気付かなかったため(だけ)ではなかろう。採謹 38.

(23)                 二重の基耳匡温とは異質な悲法訴訟理治は成立するか. 義務という、もう一つの部品を発見できなかったためである」19S)と、結論付 けている。しかも、保護義務論は不要である以上に、これを構えることによっ て、私法の一般条項に関する場面の問題が特殊化してしまう弊害も指摘できよ う。それは理論的に厳しい。また、基本権保護義務論は、国際私法・国際民事 訴訟法等の問題を統一的に解決できるのかも、疑問である10P)。そして、基本 権保護義務論は、現実の私人間の争いに憲法がどう影響を及ぽすのかについて、. 特に語っていないのではないか200)。この点、筆者は、二重の基準論はここで も妥当するのだという説明を行い、その際のルールを示してきた。小山説によ れば、ここでも比例原則が妥当するのであろうか。ならば、実は憲法が登場し てもなお、結論は何とでも言えるというだけなのではないかとの懸念が拭えな いものである。. おわりに 司灘査の繍化が躍であるのは、それが法破配の馴だからである2°°・. しかし他方、法令の解釈とは異なり、憲法解釈それに伴う法令の違憲の宣言 となると、民主的に選ばれていない裁判官が・なぜそのようなことができるの か、どこまでできるのか、という問題が避けられない。また・日本国憲法にお ける違憲審査権の行使が、通常司法裁判所による付随的司法審査であるごと・ 言わば根本が当事者主義構造であることは見逃せないmo2) ・まさに・「訴訟法を. どのように規定するかによって、実体法の実現のされ方が異ってくるのであり・. 生きた法としての実体法は瓢髄離れて考えら2tないのである」2°3’・日本 は、憲法判断を専門とする憲法裁判所の裁判官が・当事者の主張とも・具体的 糎の1繊とも離れて、憲剖寿…障だけに一途になればよい国でもないのであるc°‘)・. そこで、三段階審査などの提唱だけでは足らず・当該事案の合憲性の疑わしさ. に関係する司法審査基準の必要性は消え去ることがない。当事者適格・立証責 任など、通常裁判所における訴訟法に付随する論点は回避できないのである。.                                  39.

(24) 拙H兵[到1祭経済i2ξ学第18巻第1号(20094F9月).  確かに三段階審査のような精密な判断手続の提唱は重要であり、その体系的 提示には敬意が表される。だが、日本国憲法は、自由主義を基本原理の1っと はしているが、民主主義(国民主権)が基本原理であることは否定できない20s)。. 好むと好まざるとに拘わらず、集団主義の一翼を担う国民主権原理により、少 数派によって好ましくない法律は制定される。しかし、だからといつて、その ような法律を全て精査するわけにはいかない。日本国憲法は、偶然事案を取り. 上げた裁判官に、哲人的で超政治的な対応を求め、その総和として統治を委ね た憲法だとは読めないのである。肝要なのは、裁判所が非民主的であるとして も、詳細な判断をしなければならない、表現の自由や参政権などを制約する法 令や政府の行為には、違憲の疑いをもって20S}、目的・手段について精密な審. 査を行い、国などが立証責任を果たさない限り、端的に違憲と言うべきことに ある2u7)。裁判所はここに精力を注ぐべきである。非民主的機関である裁判所 に深入りを求められない経済的自由規制立法に関してζれを強く言うことは、. さほど意味がない。その意味では、三段階審査の主張のような、精密司法へ の誘いは理解できるが、近代立憲主義下の付随的違憲審査制がある以上、「訴 訟理論は、訴訟制度の『目的』との関係で体系化されるべき」20S)でもあって、. 司法審査基準抜きの議論は全く成り立ち得ないと述べておきたい鋼}。  なお、念のためであるが、「二重の基準論」への非難は、「司法審査基準機械 的当てはめ」批判に端を発していた筈である210)。「愚直」な三段階審査モデル. が、その二の舞にならない保証はない211)。多くの学習者が、その技巧を所与. の結論としつつ、身勝手な自己の希望する結論を注ぎ込む装置になりはしない か、懸念するものである。特に、審査密度の上げ下げの許容は、その危険を1呼 び込まないか心配である。論争のあるところでは考え、決断に際しては理由を 十分述べるということから、憲法学(及び法科大学院等での憲法教育)が212}離れ られるものではなことは肝に銘じるべきことである213)。. 40.

(25) 二垂の基準論とは異質な憲法訴訟理諭は成立するか. 1)君塚正臣「二重の基準論の根拠について」横浜国際経済法学16巻1号1頁(2007)[以下、.   君塚前掲註1)1論文、と引用]、同「二重の基準論の意義と展開一『二重』はぎ三重』   ではない」佐藤幸治古稀『国民主権と法の支配下巻』31頁(成文堂、2008)[以下、君.   塚前掲註1)H論文、と引用]、同「二重の基準論の応用と展望」横浜国際経済法学17   巻2号1頁(2008)[以下、君塚前掲註1)田論文、と引用]、同「司法審査基準一二重   の基準論の童要性」公法研究71号89頁(掲載予定、2009)[以下、君塚前掲註1)n「論文、.   と引用]など参照。念のため申し上げておくが、皐者は、アメリカi葦法研究の果てに、.   アメリカ連邦最高裁判例の二重の基準論を盲信しているわけではない。あくまでも、日   本国憲法の解釈として、これを参考に、補正して、或いは理論的に不整合な学説を再修   正して提示しようとしているものである。この点は、上記論稿等をよく参照願いたい。 2)阪口正二郎「人権論皿・違憲…審査基準の:二つの機能」法律時報80巻11号70頁(2GO8)   は、「法科大学院の教壇に立っていると、『審査基準こそが全てである』と考えている学   生の多さに驚かされる」と心境を吐露している。この点は、宍戸常寿「目的・手段審査」.   法学セミナー 644号84頁、85頁(2008)も指摘するところである。また、「なお、筆   者自身は審査基準論の『お手軽さ』に対して懐疑の念を持っている」などとする、松本   和彦「公法系科目論文式試験の問題を解説一公法系科目〔第1問〕の解説と解答例」法.   セミ増刊『新司法試験の問題と解説20G6』23頁、26頁(日本評論社、2eo6)、2007年   度の出題が「審査基準一辺倒の憲法学習から脱却するきっかけになるのであれば、それ   は新司法試験の好ましい影響だ」とする、同「公法系科目論文式試験の問題を解説一公   法系科目〔第1問〕の解説と解答例」法セミ増刊『新司法試験の問題と解説2007」24ta”、.   27頁(日本評論社、2007)も参照。また、阪本昌成「公共の福祉vs.人権保障」書斎の   窓510号16頁、19頁(2001)は、「硬直した司法審査基準論へと逃避している憲法学に、   人権保障を託していいものだろうかjと述べている。. 3)その1つに、須藤陽子「比例原則と違憲審査基準一比例原則の機能と限界」立命館法学   321=322号264頁(2009)がある。同論文265頁は、「適用違憲をめぐる議論の少なさ   に対する疑問」を指摘し、「憲法学において構築された憲法訴訟論、『司法審査基準論』.   は、法令違癒を念頭に置いた議論である」と批判するが、日本国憲法の「司法権」が事   件に法を適用して解決するものである以上、述悲審査権もまたその限りで行使されるの   であるから、適用違憲が原則であることは既に指摘してきた通りである。君塚正臣「適.   用違憲『原則』について一猿払事件を端緒とする再検討」横浜国際経済法学15巻1号   1頁(2006)など参照。寧ろ、ドイツ憲法裁判所を念頭に置いたのか、「司法権」概念   に十分注意をしなかったのか、判例や一部の旧い学説が法令違憲を念頭に置いてきたと   言えるのである。須藤論文の非難は、憲法訴訟論に向けられるべきものではなく、ドイ   ツ憲法研究者や最高裁に1句けられるべきものである。. 4)君塚正臣「避法の私人問効力論争は何をもたらしたか」月報司法書士447号7頁、12 41.

(26) 横浜国際経済法学第18巻第1号(2009年9月).  頁(2009)が指摘するように、日本の患法学には「人文主義」的傾向がある。同編『高  校から大学への法学ji−i渓(ikfii tc化社、2006)罐塚ユも参照。華者1ま避去に・松井.  茂記『日本国憲法』(有斐閻、1999)の書評を関大法学論集50巻1号214頁(2000)で  行った。詞文献247」248頁で、同書を、「特殊ドイツ的」と斬り捨てつつ「アメリカでは」.   と論を展開することが多用されており、「アメリカ的状況を当然視する姿勢」であると  批判した。詞職法の私人RII効力論』179頁(悠々社、2008)[以下、君塚前掲註4)i1}:、.   と引用]でも、高橋和之説を「特殊フランス的伝統に縛られている」と批判した。「特  殊ドイツ的」著作群についても同様の批判を行うのが公平というものであろう’。. 5)このようなことは、明治以来なのであろう。代言入の資格試験制度が1876年に発足し   た後、法学系の私立専門学校が雨後の筍のように誕生したが、1880年の専修学校(現・.   専修大学)Ml885年の英吉利法律学校(現・中央大学)が英米法系d881年の明治法律   学校(現・明治大学)、東京法学校(現・法政大学)はフランス法系、1884年の独逸学   協会学校専修科(現・猫協大学)などというように、外国法系列が色濃かった。天野郁   炎『大学の誕生(上)』7斗78頁(中央公論新社、2009)など参照。また、東京音楽学校.   初代校長だった伊沢修二が、1891年に甜演d)申で、大学の「学科ハs全ク西洋ノ学術   ヲ主トシ、其他凡ベテ西洋二則リテ推へ、専ラ外国語ヲ以テ教へ」てきたが、小学校教   育はそうではなく、一齪蘭をきたしていると批判していることは今日でも興味深い。同書   177一ユ78頁参}照。. 6〕市川正人ほか「学界展望・憲法」公法研究70号230頁、254頁(2008)[工蓮遥朗]は、   このような、論のすりかえの典型のように読める。工藤は、「憲法訴訟」「の理論は」芦.   部信喜「編『講座憲法訴訟(全三巻)』(有斐悶、1987年)が頂点であると詞時に黄昏   の始まりであ」り、2008「年度1;1、すでに以前から始まっていた芦部憲法訴訟論からの.   離反頻向が、誰からもはっきりと見えるようになった」という。工藤は続けて、「違懲   審査基準論からの離反、あるいは三段階審査図式への移行は、」一般的傾向であるとして、.   「多くの研究者が、違憲審壷基準論によらずに事案を解決できる解釈論を構築しようと   試みている。それらに共通してみられるのが、」「ドイツ憲法学の三段階審査図式への注.   日であ」り、それも「違鑑審査基準論に代わる実用的な解釈図式として、各論者が日本   法における利翔可能牲を試している」というのである。同文献255頁。そして、このよ   うな、「違憲審査基準論からの離反」の「原因の1つは、法科大学院の開設にあること.   は間違いなかろう」と断ずる。同文献255256頁。「このことは、法科大学院聞設に先   立って発表された報告書(『法科大学院における公法系教育のあり方等について(中!lll.   まとめ)』)において、掴式的な違憲審査基準論に惑わされずに、判決文を正確に理解   すること』が、法科大学院における公法系教育の自標として掲げられていたことからも   明らかである。もちろん、ぎ図式的ではない』違憲審査基準論であればよいわけであるが、.   さきの報告書で図式的な違憲審査基準論の例としてあげられているのが芦部の学説であ   るから、結局は違憲審査基準論全体について乗り越えられるべきものという評師が下さ 42.

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