清代寧波沿海部における開発と移住
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(2) 立命館東洋史學 第 33 號. 的にも生活を向上させようとする発展型移住にも問題関心を広げ、古代から近現代まで移住のもつあらゆる側面を. 網羅的総合的に理解しようとする傾向が看取できる。最近刊行された葛剣雄・呉松弟らの移住史研究は、こうした. 方わが国においては斯波義信や山田賢らは、香港や台湾における現地調査の成果をふまえ移住と地域社会形成の内. 移住先のプル要因と移住後の地域社会の変化にも強い関心をよせる近年の研究動向を反映した研究成果である。一. ②. 的関連に注目し、江南や四川の事例研究において移住によってもたらされる秩序の再編成の過程を明らかにしてき ④. の先行研究があり、本稿も基本的枠組みをそこから得ている。. 二、移住者の出身地. 城関鎮 (旧鎮海県城)のほか鎮海県全域をカバーしている。. 郊郷は旧鎮海県に属していた。『鄞県志』の範囲は市区を除く旧鄞県、現在の鄞州区全域にあたる。 『鎮海県志』は. 妙山郷・雲湖郷・洪塘鎮・裘市鎮・荘橋鎮・費市鎮・乍山郷・半浦郷・東郊郷は旧慈渓県領域の一部に相当し、北. 曙区・江北区・江東区)で、うち段塘鎮・西郊郷・福明郷・湾塘郷が旧鄞県城と郊外地区にあたり、慈城鎮 (旧慈渓県城) ・. は厳密でないが、情報源の上記三書がカバーする地域を指している。 『寧波市地名志』の市区とは、現在の寧波市区(海. 制約と効用については、前二稿において述べてきたのでここでは繰り返さない。また表題のいう沿海部という表現. 本稿作成にあたり基本史料として使用した『寧波市地名志 (市区部分) 』 、 『鄞県志』、『鎮海県志』の史料としての. ⑥. ⑤. 住の実相の一端を明らかにしようとするものである。すでこの地域における移住問題については斯波義信、上田信. た。本稿はこれまで発表した宋代と明代の寧波についての考察につづいて、清代寧波沿海部という地域における移. ③. 2.
(3) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. 『寧波市地名志 (市区部分) 』、『鄞県志』、『鎮海県志』に載る遷住の事例のうち、遷住時期が清代以降で、移住先. や出身地の分かるもの四八六例を検討すると、以下のような傾向を指摘することができる。. まず寧波府以外からの遷住事例は八六例で、全体の約一八%にあたる。その内訳は浙江省内から四七例、浙江省. 以外から三九例となっている。この府外からの移住数は、宋朝南渡という政治的混乱もあり遠距離の移動が激しか. った宋代に比べてかなり低く、明代 (各地区二〇%台)に比べてもさらに低い。浙江省外からの移住者の出身地域で. もっとも多いのは福建省=二〇、ついで安徽省=六、河南省=四、山西省=三、山東省=三、広東省=二、四川省 =一の順である。. 寧波府をのぞく浙江省内からの移住例は四七例で、その内訳は紹興府=三四、台州=一〇、温州=二、金華府=. 一となっている。その大部分を占める紹興府は寧波府の西隣りに位置し、その事例の大部分を占める余姚県 ( =. 表番号、以下同じ)は紹興府の東端にあたり、寧波府慈渓県と境域を接している。次位の台州 (黄巌県五、寧海県二、臨. 海県一、県不明二)もまた寧波府と隣接している。つまり浙江省内からの移住については、ほぼ隣接する二地域から. の移住だけに限られている。浙西諸地域からの遷住数の減少傾向は明代においても認められたが、清代では遷鄞例. は全くなくなっている。このことは清代寧波の人口誘引力の及ぶ範囲はほぼ隣接する地域に限定され、明代とくら. べても縮小傾向にあったと考えられる。浙江省外からの遷入事例で圧倒的に多いのは福建である。宋元時代では、. 三十五例 (三三五例中) 、明代では二〇例 (八一例中)と、福建から北にむかう人の移動は宋代以来継続してきた。こ. のことは、寧波地域のプル要因よりも、福建地域のプッシュ要因、つまり人材輩出の諸事情から説明すべきであろ. う。次位の安徽省六例 (安徽三、歙県績渓県三)の事例は孤立しており、他の江南諸地域からの遷入事例は全くない。. 3. 31.
(4) 立命館東洋史學 第 33 號. これも新安商人の活躍の足跡とみなすべきであろう。. 以上のごとく清代、寧波地域へ他地域からの来住する事例は減少傾向にあったことは確かである。しかし、寧波. 地域における移住活動が低調であったかといえば、そうではない。如上の寧波府以外からの移住事例の約五倍にあ. たる、府域内移住が存在していたからである。つまり移住元も移住先も寧波府内である事例が三五三例をかぞえ、. この府域内移住の事例は全遷住事例四八六の七三%にあたり、移住元が不明な事例を除いた全遷住事例四三九の. 八〇%に相当する。府外からの遷住が低調であった分、寧波府内で完結する短距離移住が盛んに行われた。府域内. 移住三五三事例の内訳は府内他県が一三九、同一県内移住が二一四となっており、県内移住という移動距離が短い. 、. ‐76 4. 、. ‐63 6. 、. ‐83 4. 文末表1より、特に注記のない場合は以下の文中の番号も同様) 。. 事例が全体遷住事例の約半分を占めていた。また内六三例は同じ郷鎮内の移動であり、「隣村自り遷来す」とさら に移動距離の短い例もある (. 三、移住先. ・. ・. 7. ・. 1. ・. ‐90 2. ・. ・. 、以下同じ) 、半浦郷六二 (. 2. 4. ) 、. ・. ・. ・. 5. ・. 2. ・. 19. 2. 2. ) 、東郊郷二九 ( 9. ・移住元不明 ・. 27. 鄞県 0. & 5. 55. 2. ・寧波市区 13. ・. ) 、福明郷四〇 (. 2. ・寧波府内 ・. 9. 4 20. ・浙江省内. ) 、城内四二 ( 8. 5. 『寧波地名志 (市区部分) 』と『鄞県志』とが載せる移住先情報を各郷鎮別に配列すると、以下のようである。西. ・ 18. 郊郷七五 (浙江省以外の省 ・ 11. 裘市鎮一八 ( ・ ・ ・ ・ ) 、北郊郷一八 ( ・ ・ ・ ・ ) 、妙山郷一五 ( ・ ・ ・ ・ ) 、洪塘鎮一三. 20. 0. 2. 9. 5. 2. 2. 0. 2. 12. 2. 0. 2. 8. 4. 1. 4.
(5) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. (. ・. ・. ・. 5. ・. 3. ) 、荘橋鎮七 (. 3. ・. 0. ・. ・ 0. 3. ・. 0. ・. ・. ・. ・. 4. ・. 3. ・. ) 、慈城鎮七 (. 0. 4 1. ・. 0. 0. 4. 0. 0. ・. ・. ・. 0. ・. 2 ・. 3. ・. 1. ・. ) 、費市鎮六 ( 1. 3. 0. 0. ) 、龍観郷四 (. 1. 0. ・. 3. 0. 1. ・ 2. 2. ・. 0. ・. 1. ・. 0. ・. 3. ・. 1. ・. ) 、. 0. 4. 0. 1. ) 、宝幢郷. 0. 1. 0. ) 、茅山郷五 (. 0. 1. 1. 1. 0. 0. 0. 4. ) 、姜山鎮五 (. 2. (. 0. ・. ・. ・. ・ ・. ・. ・. ・. ) 、高銭鎮一 (. ・. 0. ) 、麗水郷二 (. ・. ・. ・. ・. ・. ・. ・. ・. ) 、韓嶺郷一 (. ) 、梅園郷二 ( ・. ・. ・. 0. ・. ・. ) 、. ) 、寧鋒郷二. ・. 0. ・ ・. 1. 0. ・. ) 、雲湖郷一 (. 0. 0. ) 、集仕港鎮三 (. ・. 0. 0. 0. 1. 0. 1. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 2. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 2 0. 0. 3. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 2 1. 1 0. 1. 0. 0. 2. 1. ・. ・ 1. ・. ・ 0. 1. ・. ・. ・. ・. 0. 0. 0. 1. ・. ・. ・. ・. 1 1. 0. 0. 0. 1. 0. 0. ・. ・. ・. 0. 1. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 1. ・. ) 、洞橋郷. 0. 0. 1. 例数という点では半浦郷の十分の一にも満たず、地方都市としての誘引力も府郭たる鄞県県城とは大きな格差があ. に沿って動いていたことが認められる。また慈城鎮は慈溪県城 (一九五五年まで)であったが、移住者の受け入れ事. は西隣の紹興地域から東に向かう人の移動の流れが存在したことを示しており、その流れが余姚江という幹線水路. 半浦郷への寧波府外からの遷入は二五例をかぞえ、その約半分にあたる一三例が余姚県出身者となっている。これ. 妙山郷・慈城鎮・洪塘鎮・費市鎮)で一二六例を数え、全体の約三一%を占める。なかでも半浦郷六二例は突出している。. ろである。移住先事例の多い郷鎮が集中しているのは、府郭の西部にのびる余姚江北岸地区 (半浦郷・裘市鎮・乍山郷・. 全体の約五四%にあたる。都市とその郊外地区の誘引力の強さを表している。この傾向は宋代以来変わらないとこ. 府郭 (鄞県城)とその周辺地区 (西郊郷・城内・福明郷・東郊郷・北郊郷・荘橋鎮・段塘鎮)への遷住事例数は二二〇例 、. 0. 1. 0. ) 、白岳郷一 ( 0. 0. ) 、雲洲郷一 (. 0. 1. 0. 0. 0. 0. ) 、大皎郷一 (. 0. 一( ・ ・ ・ ・ ) 、杖錫郷一 ( ・ ・ ・ ・ ) 、管江郷一 ( ・ ・ ・ ・ )、以下省略。. 0. 大嵩郷一 ( ・ ・ ・ ・ ) 、潘火郷一 ( ・ ・ ・ ・ ) 、朝陽郷一 ( ・ ・ ・ ・ ) 、梅嶺郷一 ( ・ ・. 0. 0. 三( ・ ・ ・ ・ ) 、東呉郷三 ( ・ ・ ・ ・ ) 、鍾公廟郷三 ( ・ ・ ・ ・ ) 、檪社郷三 ( ・ ・ ・. 0. 乍山郷六 ( ・ ・ ・ ・ ) 、咸祥鎮六 ( ・ ・ ・ ・ ) 、段塘鎮五 ( ・ ・ ・ ・ ) 、湾頭郷五 ( ・ ・. 1 0. 0 0. った。. 5. 1 0 2 0 0.
(6) 立命館東洋史學 第 33 號. (. ・. ・. 9. ・. 3. ) 、兪范鎮八 (. 0. ・. 3. ・. 3. ・. 2. ・. ) 、駱駝鎮八 ( ・. 1. ・. 1. ・. 3. ・. 0. 0 0. 0. 1. 3. 0. 0. ・. ・. ・. ・. ) 、. 1. 2. 0. 0. 0. 0. 1. 2. 4. 2. 6. ) 、楓林郷七 (. 3. 次 に 鎮 海 地 区 に つ い て 見 る と、 以 下 の よ う で あ る。 上 位 か ら、 貴 駟 鎮 一 三 ( ・ ・ ・ ・ ) 、荘市鎮一三 ・ 0. ・. ・. 0 0. 0. ・. ・. ・. ・ 0. 0. 0. 0. ・. ・. ・. 1. ・. 0. 0. 1. 0. 0. 0. ・. ・. ・. 1. ・. 0. ) 、新碶 鎮. 0. 2. ) 、澥浦鎮二 ( 0. 1. 0. 0. 4. ) 、城関鎮二 (. 1. 0. 0. 0. 2. 0. 0. 0. 2. ) 、霞浦鎮三 (. 0. ・. ・. ・. ・. ・. ・. ・. ・. 0. 0. 0. ・ 0. ・. 1. ) 、峙頭郷一 (. ) 、高塘郷一 ( 0. 0. ・. ・. 0. ・. ・. ・. ・. )とな. ) 、小港鎮一 (. ・. 0. 0. 0. ・. 0. 0. 1. 1. 0. ・. ) 、上陽郷一 (. 0. 1. 1. 1. 0. 0. 0. 0. ) 、汶渓郷一 (. 0. 2. 0. ・ ・. 0. ・ ・. 1. ・ 0. 0. 0. 1. 0. ・ 1 ・. ・ 0. 0. 0. 四、移住の動機. 修をくりかえし清末民初まで開発前線が存在していたことと符合する。. ⑦. げることができる。このことは、康煕二五年に海岸地区を南北に貫く霊緒塘 (万弓塘)が建設された後、決壊、補. 兪范鎮・駱駝鎮・臨江郷・城関鎮)への移住例が五〇例にのぼり、鎮海区全体の八五例の五九%を占めていることをあ. 長石郷・三山郷・紫石郷など内陸部への移住が多かったのに対し、清代では甬江北岸の海岸地区 (貴駟鎮・荘市鎮・. られず、移住事例の分布が比較的平均していることは、宋代以来の特徴である。あえて言えば、宋代では河頭郷・. 鎮海県は寧波の東部海岸地域を構成する。前述の「寧波市区」「鄞県」からなる内陸部ほど事例分布の偏在はみ. 1. 0. 0. ) 、下邵郷一 ( 0. 2. 0. ) 、長石郷一 (. ・ 0. っている。. 0. 0. 二( ・ ・ ・ ・ ) 、塔峙郷二 ( ・ ・ ・ ・ ) 、白峰郷二 ( ・ ・ ・ ・ ) 、三山郷二 ( ・ ・ ・ ・. 3. 臨江郷四 ( ・ ・ ・ ・ ) 、郭巨鎮四 ( ・ ・ ・ ・ ) 、 大碶 鎮 三 ( ・ ・ ・ ・ ) 、柴橋鎮三 ( ・ ・. 1 2 0 0. 6.
(7) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. 清代内陸部、特に西北部や華中では洪水や旱魃を原因とする深刻な飢饉が頻発し、人々の大規模な移動が起こっ. たが、寧波まで影響がおよぶことは少なかったようで、寧波の移住史料には、そうした記述はあまり見られない。. ⑴ 逃荒、虎害. 唯一の事例は、移動時期が明末清初ということで、前稿においても紹介した北郊郷烏隘村の烏氏の事例である。. 烏氏の先祖は河南潁川の望族で明末清初に兄弟で飢饉を逃れてこの地に来たった。焼窯を生業とし繁栄して村落を 形成するにいたったという ( ) 。. 清初にこの地域で虎が生息していたかどうかは不明だが、順治 一( 六四四~六一年 の ) ころ鎮海県四古庄対河元宝. 51. ). 漕の陳元茂 (字君盛)は虎患を避けて東呉郷生姜漕に移り住み、以後繁栄し子孫は史家湾、羊角田、西郷等処に分 居したとある (. ⑵ 戦乱、火災. ‐62 2. 清末江南を席巻した太平天国の乱を原因とする移住が二例存する。咸豊年間 一( 八五一~六一年 、)馮氏は慈溪県県. 7. ⑧.
(8) 立命館東洋史學 第 33 號. 城から西郊郷馮家辺村に移り住んで村を建設したとある (. ) 。同じく馮氏が、太平天国の乱時に妙山郷浮上橋村. ) 。. ‐72 8. 村に移住したとある (三眼橋村、后六畝村、前六畝村、藕池頭村. ‐. ) 。戦禍に遭っても家屋が残れば終息後に元にもど. 。西郊郷南張家岸村は、康煕年間 (一六六二~ ・) 3. ⑶ 商人. 事で失い、廃村となったとある (. ) 。. 一七七二年)、福建から来住した張氏の創建にかかり、繁栄して北張家岸を建てるにいたるが、のち北村は祖屋を火. 2. の后六畝村を開くにいたるが、乾隆年間に前六畝村の大戸が火災に遭い、楊氏の一部は近くの三眼橋村、藕池頭. 西郊郷前六畝村の開村は県城南門の楊氏が来住した明嘉靖万暦の間にかかり、明末清初には興隆して新たに隣地. なる火災も同じであった。. ることも可能であっただろうが、焼失すると再起できずに外遷を選択することもあった。それは戦禍だけでなく単. 太平天国時に家屋が焚毀し、族を挙げて転出していった (. 西郊郷朱家漕村の村名の由来となった朱氏は康煕年間(一六六二~一七七二年)に城内藕纜橋から来住して興隆したが、. に来住したという。出身地は不明であるが、移動時期からして前述の馮家辺村の馮氏と同系かもしれない (. ‐72 6. ‐14 1 73. 半浦郷黒白屋村の草分けである陸氏は、伝によると福建で木材行をいとなみ、移住後この地に黒壁の楼房を建て. たから、商人がその活動拠点として移り住むのは当然であっただろう。. 商業活動には物と人の移動をともなう。寧波は宋代以来、杭州の外港として国内外に開かれた交易の中心であっ. ‐56 3. 8.
(9) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. て家業を継いだ (. ) 。後に道光年間 (一八二一~五〇年)に外甥の張氏が真っ白の高楼を建てたのに因んで黑白屋. ) 。城内大尚書. ) 。福建からやってきた荘橋鎮林沐村の沐氏も明代崇禎年間 (一六二八~四四年)に来鄞して. 木材業で財を成したが、清光緒年間 (一八七五~一九〇八年)には外地へ移住していったという (. 橋下で靛青業を営んだ廖奇白はもともと福建の人で、藍の売買のために寧波に来住した ( ) 。. 79. ) 。城内甘溪に住む洪氏の先祖洪高遂は清初に兄とともに徽州歙県から来鄞している。目的は「承. )。. ‐39 4. の後子孫は広東に帰り、居宅は劉氏の手に移ったが、巷名は変わらずに穆家巷と呼んだとある ( ) 。商人の移動. 広東商人も寧波に来住している。広東の客戸の穆氏は、商売で寧波を訪れ城内穆家巷に家を建てて店を構えた。そ. 虹橋南、祝都橋、烏合橋、城西楊家橋に分派し、同治進士礼部主事洪応祥、光緒翰林洪嘉滋が輩出した (. 辧鹺務」とあり、塩商人であった。彼らは唐の進士、諫議大夫洪経綸の子孫を名乗り、以後一族よく繁栄し湖西. だという (. 新安商人の活躍の跡もうかがうことができる。徽州から商売で来鄞した姚氏は、遂に城内月湖湖畔に定住したの. ‐29 3. 村と呼んだという (. ‐63 ‐63 3 3. 93. ) 。また逆に商売で財をなした後、農村に田畑を購入し地主化することもあったよ. 性は高かったようで、宣統のころに洪塘鎮桂厳村に移り住んで商業に携わっていた厳氏は、その後転出して村に厳 姓がいなくなったという (. ‐101 1. ) 。. うで、鎮海県大榭鄉 龍山の虞氏は先代が商売で成功し、咸豊年間に洪塘鎮に農地を購入し家を建て、虞家村を興し たとある (. 9. ‐36 3. ‐76 3.
(10) 立命館東洋史學 第 33 號. ⑷ 職人、芸人. 鄞県邱隘鎮の廟前周家村に兄弟がいた。彼らは代々理髪業を営んでいたが、ある時族長に村を追い出され、二人. ) 。小港 (鎮)胡家蠍 胡氏の遷祖胡子華は清. ) 。寧海県橋頭胡鎮. ‐22 1. は裘市鎮の河の西岸にたどりつき、周家橋頭村を興したとある (. 鎮海県 2. ⑸ 漁民. ) 。康煕雍正のころ鄞県姜山鎮の陳氏の木偶戯一座は費市鎮をおとずれ公 ) 。. ) 。少し下って清代中期、同じ余姚江の漁師の張氏は漂流して支流の沙灘にたどりつき小屋を建てて定居し、. ) 。清初、慈溪県三北鎮の唐氏も余姚江で漁をしている時に船 ‐56 12. る(. り、止む無く裘市鎮大西垻 に上陸して小屋をつくり半農半漁で生計を立てているうち発展して村を形成したとあ. け は そ の 船 を 失 っ た 時 が 多 い。 例 え ば、 清 初、 余 姚 江 で 漁 師 を し て い た 張 氏 は 船 が 転 覆 し て 身 の 置 き 所 が な く な. 漁師は職業柄船という移動手段をもつゆえに移動性が高いのではないかと想像してしまうが、上陸するきっか. ‐62 10. 残り木工作業所を開いて経営した (. の袁氏三兄弟は、一九〇八年に鄞県雲湖郷金沙嶴の会龍庵の普請に際し大工としてやってきたが、竣工後も同地に. 初順治年間に安徽省歙県から鎮海県小港鎮胡家蠍 に来住し煉瓦製造を業とした (表. ‐28 13. 演を終えたあとも留まり定住し、以後子孫が繁栄し村落を形成した (. ‐53 2. その後沙灘は発展して裘市鎮支浦張村となった (. ‐56 10. 10.
(11) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. ) 。以上はどれも事故で船を失ったために止む無く上陸した事例で計画的な移住ではない。. が沈没してしまう。そこで引き上げた沈船で小屋をつくって定住し、半農半漁を営み、やがて発展して聚落となっ た(. 洪塘鎮留車橋村はもともと舟山の漁民が定住してできた聚落であるという。現在の居住者は鄭 翁 ・ 趙 ・ 鄔 ・ 余 ・ 邵 ・ 氏の六姓であるが、六姓の先祖はすべて舟山の漁民で、漁をするためにこの地にやってきたとある ( ) 。前述. 二十世紀初頭までの寧波地域の地主経営における農業労働が主に短工・長工とよばれる農業労働者によって担わ. ⑹ 農業労働者. たものと考えられる。. のような、遭難 → 上陸 → 定住というパターンでなく、舟山漁民の出漁のための基地から定住へと移行していっ. ‐92 7. 農業労働者の一部はその地に根を下ろすものがいた。寧波東北五,七㎞の東郊郷単家村は、明代は趙家村といった。. 主の信頼を得たものが採用され賃金も高く短工の労働の監督を受け持っていたという。こうした村落外から入った. 契約期間が終了すると賃金を受け取って去っていったという。それに対し長工は近郊村落に在住するものが多く地. かでも短工と呼ばれる季節労働者の一部は村落外からも流入し、雇用者の用意した施設に寝起きし食事を与えられ、. 働者は、おおむね当該村落内の最下層の貧農で自らの土地をもたず、農業労働のほか種々の賃労働に就役した。な. れていたことは、松田教授の聞き取り調査において明らかになったところである。調査によれば、そうした農業労. ⑨. 在村の主姓である単・明・紀三姓はもと趙氏の雇農であったが、趙氏が衰落した後、単氏が興隆し単家村と改称す. 11. ‐46 1.
(12) 立命館東洋史學 第 33 號. る に 至 っ た と い い、 単 氏 は 光 緒 年 間 に 奉 化 県 か ら 趙 家 村 に 遷 住 し た と い う (. ) 。『地名志』は寧波北四,六㎞の. ) 。. ‐62 26. で三〇〇年前に隣の邵家村からやってきたとある (. ) 。こうした労働者の既存村落への流. ) 。隣村の王公漕村の村名の由来は水池が王氏の所有にか. 寧波の東七,四㎞の福明郷王家園は伝によると宋末に王氏が造営した花園に由来し、今の主姓邵氏は王氏の幫工. 金夾嶴から農業労働者として来住し長工となった後に定住し、すでに二〇〇年以上経っているとある (. ここでは南隣の台州黄巌県から労働者がきていた。寧波西北一九,二㎞にある妙山郷汪家村の陳氏は慈溪県龍山鎮. 時に勢較 (や)や高く、故に名づく。村民先世多く黄巌等の地の雇農為りて此に定居す」(二〇四頁、高田頭)とある。. 北郊郷高田畈村の村名の由来を説明するにあたり『光緒鎮海県志』を引いて「高田頭と称す。村の四周に田畈あり、. ‐34 1. ‐31 6. 『地名志』には入贅した男性が妻の実家に居を移した後、隆盛となり村名の由来となる事例が紹介されている。. ⑺ 入贅. る。ここでは農業労働者の移動 → 定住の事実が存在したことを指摘しておくにとどめる。. 者の出身地は近隣村落ばかりでなく、奉化県・黄巌県・慈谿県などやや遠距離からの出稼ぎ労働の存在も認められ. が増加して、現在八戸三四人の聚落を形成するにいたった、とある (地名志、一七八頁、蕙日庵) 。以上のように労働. 寺であったが、一九四九年の革命時に無住となり、一人の長工が住み着き庵内の農地を耕作しはじめ、近年居住者. 入や彼らの繁栄による新村開設は近年まで続いたようで、寧波西北九,三㎞にある裘市鎮蕙日庵はもと裘氏の菩提. か る に あ り、 現 在 の 多 姓 で あ る 邵 氏 は も と 王 氏 の 雇 農 で あ っ た と い う (. ‐31 5. 12.
(13) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. ) 。. ) 。鎮海県貴駟鎮蒋王村王氏も清初に慈谿県三北鎮邱王か. 半浦郷張陸村はもともと張家村と呼ばれていたが、清初に慈溪県白米湾村の陸氏が張氏に入贅した。その後陸氏の. 鎮海県. 子孫が繁栄したので村名を張陸村に改めたとある ( ら入贅し、後に隆盛したとある (表. ⑻ 山紫水明. ‐63 5. ) 。. ‐50 1. である。寧波東北七,九㎞の北郊郷老陳家荘の陳氏は、元代に河南省から鄞県姜山に移り住み、明代にまた鎮海県. 一族全員が移住するのではなく本体は残り、一部が移住することをいう。この種の移住は生存型でなく発展型移住. 分居は親族の一部が集居している居所から離れて別な場所に移住することで、 前提として族員の蕃衍状態があり、. ⑼ 分居. じてすぐさま土地を購入して家を建てた。その後一族は発展して村となり村名を桂家村と呼ぶにいたった (. 住する桂氏は道光・咸豊年間にたまたま東南四,六㎞にある姜湖に遊んだ際、その地の鍾霊毓秀、景色優美なるに感. 美しい環境に惹かれたことを移住に動機としてあげた事例は、明代では三例、清代では一例存した。慈渓県城に居. ‐1 3. 西管郷陳家荘に遷った。その後子孫が繁衍し、また村の東辺に析居した。既存の村を老陳家荘とよび、村東の新聚. 13. 2.
(14) 立命館東洋史學 第 33 號. 落を新陳家荘とよぶにいたったという。『光緒鎮海県志』はただ陳家荘とのみ記しており、この分居は光緒以降と. ) 。分居・析居のほか分遷・分支・分派なども同趣旨の語彙である。分居による移住は宗族の拡. ⑩. 寧 ( 波東六㎞、史魏家南一,二㎞. ) 、光緒年間 (一八七五~一九〇八年)にも東隣の梅墟鎮滕園に移り、さらに福明郷田庄村. 寧 (波. 寧 ( 波東七,四㎞、史魏. ) 。しかし分遷したあ. ) 。同じく邵家村からは隣村の福明郷王家園村. 、. ‐31 6. 東七,一㎞、史魏家東二㎞ に ) 移住している (. 寧 ( 波東七,一㎞、史魏家東二,一㎞ へ ) も移住している (. ‐31 5. 既に前稿で指摘したが、選択された移住先の地名に使われた文字に、その地の環境の特徴を読みとることができ. ⑽ その他. 多くの近距離移住の中には分居型移住をふくんでいるのではないかと推測している。. であろうから、事実としての分居移住の事例数はさらに多かったものと考えられる。移住理由が記載されていない. と移住者が新村を開くこともなく、村の主姓となるほど繁栄もしなかった場合は記録にも記憶に留められなかった. 家東二,四㎞ へ ) も、 王 公 漕 村. ‐31 2. 七㎞)に分居し (. に分居しており、清代になると、活発に拡大運動をはじめ、康煕年間に同郷柳隘村 (寧波東南六,七㎞、史魏家東南一,. ⑪. 七,四㎞、史魏家東北二,六㎞)に移住したと伝えられ、明代崇禎年間には同郷松下漕村. 移住元、移住先が完結している。例えば、邵氏は南宋建炎年間 (一一二七~三〇年)に開封から福明郷邵家村 (寧波東. 移住が三七例、同じ県内が三六例、寧波府内が十一例、寧波府外が二例、不明が二例となり、八三%が同じ県内で. 大過程で行われる移住であり、移住距離が短いことも特徴として指摘できる。全部で八八例のうち、同じ郷鎮内の. 推測できる ( ‐62 27. ‐31 1. ). 14.
(15) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. ) 。同じく乾隆のころに裴氏は奉化. る。乾隆年間に裘市鎮横山頭陳家の陳氏は西郊郷楊家村 (寧波西北四,二㎞、郷政府西北二,七㎞)に移住したが、楊家 村は「村三面河に環まれ、地形偏り高きに因り、亦た楊家轜 と称」した ( に伸出するの陸地なり。轜 は方言にして則ち洲なり」とある (. ) 。光緒のころ林氏は望春郷下林村から西郊郷. 県江口裴夾嶴から西郊郷園轜 村 (寧波西四,一㎞、郷政府西三,二㎞)に移住した。地名に由来を解説して「轜 は水中. ‐62 13. ) 。. ‐29 5. 蠍(. ) 、鄞西蜃蛟郷前虞蠍 (. ) 、西郊郷張家. ‐67 1. )が見える。 「轜 」は中洲であり、 「蠍 」は自然堤防である。いずれの場合も共. 勢高隆き処に建つ、故に傅家蠍 と名づく」と説明している。移住元の地名にも櫟社郷屠家蠍 (. 二㎞)に移住している。この移住元・移住先に共通する文字が蠍 である。 『地名志』は「蠍 は阜なり。村河に瀕し地. もう一つの文字は「蠍 」である。天命のころ傅氏は五郷碶 益新郷傅家蠍 から西郊郷傅家蠍(寧波西四,一㎞、郷政府西三,. 環繞され、円形を呈し、因りて以て名を定む。轜 は方言なり。即ち洲なり」とある (. 園轜 陸家村 寧( 波西北三,九㎞、西北二,四㎞ に ) 遷入したが、移住先の園轜 陸家村の環境について「村の四周江河に. ‐82 2. 五、むすび. の不安定な空間こそ移住者を受け入れる余白となったものと考える。. 通して河道・河床の変動によって日々生成される特殊地形で、開発が一定水準まで達した地域では、こうした新生. ‐76 1. 以上述べてきたところをまとめてむすびにかえる。①移住者の出身地では、宋元明代にくらべ省外からの遷入事. 15. ‐56 6.
(16) 立命館東洋史學 第 33 號. 例が著しく減少した。少ない事例のうち福建省の二十例は飛びぬけて多く、これは宋代以来継続している傾向であ. る。二番目の安徽省出身者は新安商人の活動を示すものでこれも明代とも共通する。②寧波府を除く省内からの移. 住例四七の七三%は西隣の紹興府と南隣の台州が占めており、隣接地域からの移住に限られていた。③移住事例の. 半分以上は、移住元と移住先とが同一県内で完結する移動距離が短い移住であった。④鄞県城とその郊外地区の移. 住事例の多さは、地方都市のなかでも府郭が移住者誘引力において他の県城にくらべて圧倒的に強いことを示して. いる。⑤鎮海県の事例分布は県城周辺ではなく、甬江北岸の海岸地区に集中しており、清初の海塘建設につづく沿. 海部開発の進行と符合している。⑥移住の理由については飢荒・戦乱・火災・遭難など前代とあまり変化はない。. 移住者の職種も商人・職人・漁民などと大きな変化はない。注目すべきは、宋代には多くの官僚・士人が寧波に移. なる種類の史料を準備しなければならない。今後の課題としたい。. 成されたかを解明することにある。その意味では本稿の考察は不十分であり、残された課題を明らかにするには異. 述べたように移住史研究の目的は移住それ自体ではなく、移住者の遷入によって地域社会の秩序がどのように再編. はあるが、清代寧波沿海部における移住の状況の素描を試み、若干の知見を得ることができたと思う。ただ最初に. 宗族の放棄地のような小さな余白を求め、分居という形の短距離の移住が繰り返された。以上限られた情報からで. 符合する。⑦既にまとまった開発余地が減少した清代寧波地域では、河川の周辺に日々生じる特殊地形や衰退する. 呼ばれる農業労働者で、このことは二十世紀寧波平野における地主の直接経営の優越という現地調査の調査結果と. 代の変化に由来するのかはわからない。代わって新たに登場したのは、村落外から遷入して定住する短工・長工と. 住したが、清代では移住事例が全くなくなったことである。寧波地域が彼らをひきつける魅力を失ったためか、時. ⑫. 16.
(17) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. 注. ① 若林敬子『中国 人口超大国のゆくえ』(岩波新書、一九九四)。斯波義信『華僑』(岩波新書、一九九五)。. ② 葛剣雄主編『中国人口史一~六』(復旦大学出版社、二〇〇〇~二〇〇二)。葛剣雄・曹樹基・呉松弟『簡明中国移民簡史』(福. 建人民出版社、一九九三)。葛剣雄・呉松弟編著『中国移民史 一~六』 福 ( 建人民出版社、一九九七 。)呉松弟『北方移民与南宋. 社会変遷』(文津出版印行、一九九二)。その他にも、手元にあるものだけでも以下の専論が刊行されている。牛建強『明代人口. 流動与社会変遷』(河南大学出版社、一九九七)。江立華・孫洪涛(古代巻)・池子華(近代巻)・王俊祥・王洪春(現代巻)『中国. 流民史』(安徽人民出版社、二〇〇一)。李衡眉主編『移民史論集』(斉魯書舎、一九九八)。黄有泉・高勝恩・楚刃『洪洞大槐樹移民』 (山西古籍出版社、一九九三)。張青主編『洪洞大槐樹移民志』(山西古籍出版社、二〇〇〇)。. ③ 斯波義信「移住と流通」 『(東洋史研究』五一 一 「局 - 、一九九二 。)同『宋代江南経済史の研究』(汲古書院、一九八八)前編五、. 地的事例」、後編「寧紹地域の経済状況」。山田賢『移住民の秩序』 名 ( 古屋大学出版会、一九九五 。)地域史研究における移住の. 問題については、松本宣郎・山田勝芳編『移動の地域史』(山川出版社、地域の世界史5、一九九八)がある。. ④ 本田治「宋代明州沿海部における開発と移住」 二 ( 〇〇七年五月、第五二回国際東方学者会議、於日本教育会館)。「明代寧波沿 海部における開発と移住」(『立命館文学』六〇八号、二〇〇八)。. 浙江省奉化県忠義郷」(『社会経済史学』四九 二 ― - )、「村に作用す. 浙江省鄞県鄞勇郷 鳳 ― ( 渓村 の ) 履歴」上・下(『中国研究月報』四五五、四五六合併号)。. ⑤ 前掲斯波『宋代江南経済史の研究』。上田信「地域の履歴 る磁力について. ⑥ 『寧波市地名志(市区部分)』(寧波市地名委員会編、一九九三)。『鄞県志』(鄞県志編纂委員会編、中華書局、一九九五)。『鎮海 県志』(鎮海県志編纂委員会編、中国大百科全書出版社、一九九四)。. 17.
(18) 立命館東洋史學 第 33 號. ⑦ 鎮海県志編纂委員会編『鎮海県志』(中国大百科全書出版社、一九九四)四四三~五三一頁。 ⑧ 孟昭華編著『中国災荒史記』(中国社会出版社、一九九九)。. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 』 「現地調査の記録」 (松田吉郎執筆)参照。 ―報告書、二〇一〇年三月). ⑨ 松田吉郎編『寧波地域の水利開発と環境』(平成一七年度~二一年度 文部科学省研究費補助金(特定領域研究)『東アジアの海. 、. 域交流と日本文化の形成 、. 、. 、. 、. 、. 寧波を焦点とする学際的創生 ―. 、. 、. 、. ⑩ 分居=三五( 、. 、. 、. 、. 、. )。分遷=二一(. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、 、 鎮海. 、. 、. 、 鎮海. 、. )。析居=一(. 二〇〇九)参照。. 、. 、. 、. 、 鎮海. 、. ). 、. 、鎮海. 、. 、. 、. 、鎮海. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、鎮海. 、 鎮海. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. 、. )。分=一二(. 、. 、. 、鎮海. 、. 、鎮海. 、鎮海. 、. 、. 、. 、. )。分徙=一. )。分派=二(鎮海. )。分支=一六(. 、鎮海. 、. ︵本学文学部教授︶. ⑫ 注⑥本田論文。黄寛重『宋代的家族与社会』(東大図書公司、二〇〇六)。魏峰『宋代遷徙官僚家族研究』(上海古籍出版社、. ⑪ 『地名志』二六七頁、福明郷松下漕村の項「邵姓于明崇禎年間自鄰村邵家遷入」。. (. ‐ 5 ‐62 2 1 18 78 ‐98‐31 1 3 ‐9 64 ‐ 4 1 49 ‐99‐ ‐25 8 ‐70 1 9 ‐ 1 6 1 2 ‐49 ‐62 13‐ 1 27‐28 ‐73 4 19‐12 ‐56 2 5 11‐ 7 ‐62 7 ‐81 17 2 ‐ 7 57 ‐ ‐9 ‐62 13 92 4 1 1 ‐ 28 6 ‐22 57 9 1‐ ‐ ‐62 3 2 95 30‐22‐ 23 1‐ 62‐ 9 1 1‐ ‐72 1 3 ‐96 3 24 2‐ 62 9 1‐ ‐ ‐73 24 2 5 ‐99 2 28 3‐ 62 10 9‐ ‐73 26 15 ‐14 3‐ 29 8 3 ‐ 63 8‐ 2 15 ‐46 63 31 35 2 ‐ ‐28 7 ‐ 4 11 2 48 ‐ ‐66 28 40‐25 3 4 ‐ 12 8 49 67 ‐ ‐ ‐28 ‐28 4 1 14 ‐50 17 6 1 ‐56‐75 6 3 ‐28 46 ‐ 15 2 82 15 ‐ 57 ‐ 6 1 ‐28 ‐72 21 1 84 ‐8 ‐62 1 72 9 86‐31 ‐. ‐8 ‐73 1 2. 18.
(19) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. 表1、 清代寧波沿海部(市区・鄞県区)における遷住 ⒖ᤨ ⇟ภ ᆓ ᦼ. り. ⒖. ᆎ. ৼ ᷡหᴦ ᳁ ᐕ㑆. ᧄ⋵ᄢ 㔕ᵮㇹᲫᄳᎤ Ꭴ. . ᷡశ ৼ ທ⼾ᐕ ᳁ 㑆. ᘏၔ㎾┻ጊḧ㨮 ർMO㨮߆ࠄ ߩ〒㔌㨮એਅห ㎾ᶏ⋵ ৼᆓᄙᚭ㨮ᷡశທ ߓ 㨮᧲ධ ⓫ጊ㎾ ⼾ᐕ㑆㨮㎾ᶏ⓫ጊㆫ᧪㨫 MO ㇹ㎾ᐭ ߆ࠄߩ〒㔌㨮એਅ หߓ. . ৼ ᷡೋ ᳁. ㈘. . ৼ ᷡೋ ᳁. . ಸ ᷡᧃ ᳁. . ᐓ ᳃࿖ೋ ᳁. . ሹ ᷡ ᳁. . ৼㅢ㆙. ㇹᚘ㓖ᯅ㨮 ᆎዬৼ㒽⬰⯲ᆓ㨮 ᧲MO㨮ർMO ဋᷡೋ⥄㈘ㆫ᧪㨫. ᧲㇠ㇹਅ⨆Ⴄ㨮 ᲑႤ㎾ ᧲ධ⚂MO㨮᧲ධ MO Ꮢ㎾ಸኅ㨮 ᘏᷧർ ർMO㨮ධ ಸኅ MO ඨᶆㇹᣂደ㨮 ⯲⋵ ർMO㨮ධ MO ㈎⋵㖧 㖧Ꭸㇹ㒸ᄳᎤ Ꭸ. ౣ⒖. ⠨. ಽዬᮦ ᷧৼኅ⠪ޕ. . ᷡⷰጊ᧲ ධጊḧਛ㨮ḧౝ┻ ᨋ⨃ኒฬ┻ጊ ḧޕ. . 㗡ᯅ㨮ὑᚘ᳁ ᚲᑪ㨮એᯅᓧ ฬ㨫. . ৼᆓᤨ⥄⯲ㆫ ⥋ᲑႤ㨫ᷡೋಽዬᱝ㨫. . ᷡᧃᓥᘏᷧർಸኅㆫᱝ ቯዬ㨫. . ዬᚭᐓᆓ㨮᳃࿖ೋ ⥄⯲ㆫᱝ㨫. . ሹశᤘ. อ㈕ዣ╬ᆓ㨮 ධේ₺ᆓ ᄺൻᏒ ㆫ憆ᐣ㒝 ㇠ㇹ₺ኅᯅ㨮 ᄢ憆㨮ᑪ憆ᐣᐗ ዣᆓᷡੇ㓉㑆ᓥอ⇃ ዣ ᷡੇ㓉 ᄢႍ齮 ㄭቯዬ㨮⊒ዷ ධMO㨮ධ ᑪᯅ৻ᐳฬ₺ኅ ↰ዣኅㆫ㨫 ᳁ ᐕ㑆 อ⇃↰ ᚑ㨮એᯅ MO ᯅ㨫 ዣኅ ᓧฬ㨫 ᳃࿖ᤨઁ ᆓ᳁㒽⛯ᓥ㤛ጤ㨯 ካᵄධMO㨮 ᷡੇ㓉ᐕ㑆ዣᆓᓥอ㜞 ዣ ᷡੇ㓉 ᧄ⋵อ ᄺൻ╬ㆫ㨫ᣥ ᲑႤ㎾ർMO㨮 ゞㆫᱝႤᣋቯዬ㨮ㆀฬ ᳁ ᐕ㑆 㜞ゞ ዣኅႤ㨫 ዣኅႤ ᴡႤ㨮ὑካᵄධ 㐷චႤਯ৻㨫 ዣ ᲑႤ㎾ዣኅ㨮 ਥᆓዣ㨮એᆓ᳁ᓧฬ㨮ዣ ᷡਛᦼ ! ᳁ ධMO㨮ർMO ᳁ᷡਛᦼㆫᱝቯዬ㨫 ඨᶆㇹᬢ⇇㨮 ᷡశᤨᣇᆓ⥄㙍 ᣇ ᷡశ 㙍ᆖਂ ർMO㨮᧲ධ ᆖਂ੪ᣇኅㆫ᧪㨫 ᳁ ᐕ㑆 ੪ᣇኅ MO ᣇ ᷡೋᘏᷧᣇ᳁ㆫᱝᑪ ᷡೋ ᘏᷧ⋵ ၔౝ⧎ᳰᏋ ᳁ ቛ㨮ౝ⩄⧎ᳰ㨮ฬ㨫 ₺ ᷡᐽᾨ 㜞⽸ጊ ᙬ㆙ዂァ₺჻ବ㨮ሼஉ ㈎ၔ⚡⭲ⴝ ᳁ ᐕ ᴤゞ㗡 ᅤ㨮ภ᪢ᐻ㨫 ࿃ᑪᐢỴ↰ Ꮢ㎾↰ᵗ㨮 ⚂ᷡᐽᾨೋᓥ೨ ₺ ᷡᐽᾨ ㇹౝ೨ ⇃ਯਛ㨮ฬ↰ ർMO㨮 ₺ಽᡰㆫ᧪㨫 ᳁ ೋ ₺ MO ᵗ㨫 ㈎⋵ᦸᤐㇹᭈਅ ㈎ᄁ ㇠ㇹอ₺㨮 ₺ᆓᷡᐽᾊ㑆ᓥ㈎ ₺ ᷡᐽᾨ 㒸 ᄁ㕙ᯅ 㒸ኅ 㤖ᯅ೨ MO㨮MO ᄁ㤖ᯅ೨₺ㆫᱝ㨫 ᳁ ᐕ㑆 ㆫᱝޕ ₺ ₺᳁ᷡᐽᾨᐕ㑆ᓥካ ᴡḧർ๒ ㇠ㇹ⠧ḧ㨮 ᵄ㇠อ₺ಽㆫ⥋ ₺ ᷡᐽᾨ ካᵄ ႙⁁㨮࿃ᐳ⪭ ർMO㨮ർ ᱝ㨫㨯㨯㨯₺ᆓዬ㨮ේ ᳁ ᐕ㑆 ㇠อ₺ ᴡḧセᄢᒭᦛಣ MO ೨อਔ㨮ᐕઍอ ⠰ᓧฬ㨫 ᐣ⊒ዷ㨮Ꮗㅪᚑ৻ 㨫 ₺ ᷡੇ㓉 ㎾ᶏ ㈎ၔ⧷ὓⴝ ₺ዅ ㉿ ᳁ ᐕ ᵩႤ㎾ ካᵄർMO㨮ᐣᯅ ዬ₺ᆓ㨮ฬ㨫ᷡੇ㓉 ₺ ᷡੇ㓉 㜞〝㗡 MO㨮ᐣᯅ㎾ 㑆వ⥄ᵩႤ㎾㜞〝 ᳁ 㑆 㗡₺ኅㆫ᧪㨫 ₺ኅ ₺ኅ ቯᶏ⋵ ⵧಽዬ ₺ ᷡཅᘮ ᩶⧎ ካ㌵ㇹᎤ㉿ ₺ᚑర ᘏᷧᄢ㓝 ᳁ ᐕ㑆 ᮮ ⠪ޕ. 19. ㈎⋵ ካᵄᏒ ᔒ㗁 ฬᔒ. . . . . . .
(20) 立命館東洋史學 第 33 號. ካᵄ᧲ർMO㨮ㇹ ₺ ᷡཅᘮ 㧫 㚢᧲MO㨮ർ㇠ ᳁ ᐕ㑆 ㇹᠪ㥏ლ㐷 ඨᶆㇹᄥᐔᯅ㨮 ₺ ᷡశ ㇹౝ㌛ ർMO㨮ർ ᳁ ᐕ ኅ MO ㈎⋵ᮮ ᧲㇠ㇹ₺ኅၴ㨮 ₺ ᷡశ ⴝ㎾㡅 ᧲ධMO㨮᧲ධ ᳁ ᐕ㑆 Ꭴ MO ⾌Ꮢ㎾₺ኅ㨮ർ ₺ ᷡೋ 㧫 MO㨮ർ ᳁ MO ₺ ㇹமኅ㨮᧲ ᷡೋ 㧫 ᳁ MO㨮ർMO ᧄ⋵ᰓ ₺ ᷡ ␠ㇹ 㓸᷼㎾㣟₺ ᳁ ਅ₺ ₺ ↮᧲ᣂ ၔౝ㉻⬒ᯅ ᷡ ᳁ ᴡ㗡 ₺ ᷡ ㎾ർ ၔౝᐢᷣᯅ ᳁ . ₺ ᷡ ᳁. ₺ ᷡ ᳁ ₺ ᷡ ᳁ . ᆎዬ₺ᆓ㨮ᷡཅᘮᐕ㑆 ᧪ᱝ㨫. ᷡೋமᆓ₺ᆓㆫ㨫. . ₺ൎ. . ₺㗅㨮ሼอޕ. . ᳃࿖ᤨᡷฬ₺ኅᏋ㨮ଶ ₺ኅᑲ㨮ᆎዬ₺ᆓ㨮 ฬ㨮₺᳁వᷡᤨૼ ㆫ㨮ዏᓟⵧዬᱝ㨫. ၔౝ₺ኅლ㐷. 㧫. ዬ ቲᐉ. ₺ᱜ↭. . 㧫. ዬ ᆗጊ₺ኅ. ₺᳁ ฬᄬવ. . ᧲㇠ㇹ₺ኅゞ㗡 㨮᧲MO㨮ർ MO. ᆎዬ₺ᆓ㨮ᣋẑ Ṵㄘ↰ਯ᳓ゞ㨮ฬ㨫₺ ᆓᑪᏇઍ㨮 ᚭ㨫 ᆎዬ₺ᆓ㨮ᑪ⚂ ᐕ㨮₺ᆓਃᡰ㨮৻ᡰ᧪ ⥄㎾ᶏᩊᯅ㨫 ᆎዬ₺ᆓ㨮ᑪ⚂ ᐕ㨮₺ᆓਃᡰ㨮৻ ᡰ㨯㨯㨯㨮৻ᡰ᧪⥄⠧ၔ 㨮Ꮗઍ㨫 ᆎዬ₺ᆓ㨮ᑪ⚂ ᐕ㨮₺ᆓਃᡰ㨮৻ ᡰ㨯㨯㨯৻ᡰ㨯㨯㨯৻ᡰ᧪⥄ ᄺൻ㨮Ꮗઍ㨫. ₺ ᷡ㧫 ᳁. ᧲㇠ㇹ₺㓖㨮᧲ ㎾ᶏᩊ ධMO㨮ධ ᯅ MO. . ₺ ᷡ㧫 ᳁. ᧲㇠ㇹ₺㓖㨮᧲ ⠧ၔ ධMO㨮ධ MO. . ₺ ᷡ㧫 ᳁. ᄺൻ. . ₺ ᳃࿖ ᳁ ᐕ. . ₺ ᐕ ᳁ ೨ᓟ. . ₺ ᐕ ᳁. ඨᶆㇹ ඨᶆㇹ❩ኅ㨮 ᐕ₺ᆓ⥄㈘ ⍹੪ ർMO㨮ർMO ⍹੪㒸ኅㆫ㨫 㒸ኅ. . ₺ ᐕ ᳁. ᔂ. ൮ ᷡశ ᳁ ᐕ㑆. . 㧫. . ൮ ᷡ㗅ᴦ ᳁ 㑆. . ₺ᛚὓ㨮ሼᲚ⾠㨮ภା ਃޕ. 㧫. . . ₺ ᷡ ᳁. ൮ ᷡ㗅ᴦ ᳁ 㑆. . ਥᆓ₺㨮એᆓ᳁ฬ㨮 ᑪᷡೋ㨫. . . . ᳃ᄙᐣ₺ਔᆓ㨯㨯㨯₺ ᆓᷡశ৾ᐕ⥄ㇹౝ㌛ ኅㆫᱝ㨫 ਥᆓ₺㨮ᷡశᤨ⥄ ㈎⋵㡅Ꭴㆫᱝ㨯㨯㨯 ᏇၔᏒⴝਯਛ㨫. ᧲㇠ㇹ₺㓖㨮᧲ ධMO㨮ㇹ㚢 ධMO. ᏇၔᏒⴝ ਯਛ㨫. . ᏇၔᏒⴝ ਯਛ㨫. . ᏇၔᏒⴝ ਯਛ㨫. . ඨᶆㇹ㤥⊕ደ㨮 ዬᚭ₺ᆓ㨮᳃࿖ ᩊᯅ㎾ ർMO㨮ർ ᐕ⥄ᩊᯅㆫᱝ㨫 MO ᬢᧁ苝㨮એ苝ᓧฬ㨫 ㇹᬢᧁ苝㨮 ਛᚭᄙ⟜్₺ਃ 㧫 ᧲ർMO㨮ർ ᆓ㨯㨯㨯₺ᆓᐕ೨ MO อㆫ㨫. ㈎⋵ ㇠ㇹอ ൮ ㈎⋵ ㇠ㇹอ ൮ ᧄᏒᳯ ᧲൮ኅ. . એᆎዬ❩ᆓᓧฬ㨮 ᝪવ❩ᆓᷡੇ 㓉㑆⥄㙍ᆖਃ৾ Ꮢ⒖ዬ᧪ᱝ㨫. . ඨᶆㇹႤ〝ਅ㨮 ᐕ₺ᆓ⥄ᔂ ർMO㨮ධ ᧪ᱝቯዬ㨫 MO. . ㇠ㇹਛ൮㨮 ൮ᆓᷡ㗅ᴦ㑆ᓥอ൮ MO㨮MO ಽᱝ㨫. ᑪ೨൮อ൮ ਯਛ㨮ฬ㨫. . ㇠ㇹ೨൮㨮 ൮ᆓᷡ㗅ᴦ㑆ᓥอ൮ MO㨮MO ಽᱝޕ. ᑪਛ൮อ൮ ਯධ㨮ฬ㨫. . ㇹਅᒛ㨮᧲ ᷡశ㑆㨮൮᳁⥄ ർMO㨮ർMO ᧄᏒᳯ᧲൮ኅㆫ᧪㨫. . 20.
(21) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. . ผ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. ผ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. . ผ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. . ผ ᷡ ᳁. ᧲㇠ㇹ ᧲㇠ㇹᖶ㚧ᯅ㨮 ผᆓ⥄⾫⦟᷼ผኅಽ ⾫⦟᷼ ᧲MO㨮ർMO ᱝ㨮੦ઍ㨫 ผኅ. . ผ ᷡ㧫 ᳁. ผᆓᷡᐽᾊᐕ㑆ᓥ㈎ ᧲㇠ㇹ ㇹผ㝵ኅ㨮 ⋵ਅ᳓ㆫ⥋ᳯ᧲⾫⦟Ꮛ ⾫⦟Ꮛ ᧲MO ผኅ㨮อಽዬᱝ㨫 ผኅ. . ᐔ ᷡ ᳁. ᄺൻ⋵ ㈎᯳␠ㇹᐔ ᐔᄳᎤ. ᐔ㊄. . ㆻ ᷡ ᳁. ᘏᷧ. ㆻ჻㗼. . . છ ᷡᧃ᳃ ᳁ ೋ. ᳯ ᷡᐽᾨ ᳁ ᐕ. . ᧇ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. . ᧇ ᷡੇ㓉 ᳁ 㑆. . ᧇ ᷡᧃ ᳁. . ᧇ ᐕ ᳁. 21. . ዬผᆓ⠰ᓧฬ㨯㨯㨯ผ ᆓవධቡᧃᐕᓥᴡ ᧲㇠ㇹ ㇹอผኅ㨮 ධᵡ㓁ㆫ⥋㈎⋵એอ ⾫⦟᷼ ᧲ർMO㨮ർ ⒖ዬ⥋ካᵄᳯ᧲⾫⦟Ꮛ ผኅ MO ผኅ㨮ᷡᐽᾊ㑆ಽዬ ᱝ㨫 ዬผᆓ⠰ᓧฬ㨯㨯㨯ผ ᆓవධቡᧃᐕᓥᴡ ᧲㇠ㇹ ㇹ೨ผኅ㨮 ධᵡ㓁ㆫ⥋㈎⋵ਅ᳓㨮 ⾫⦟᷼ ᧲ർMO㨮ർ อ⒖ዬካᵄᏒᳯ᧲⾫⦟ ผኅ MO Ꮛผኅ㨮ᷡᐽᾊ㑆ಽዬ ᱝ㨫. . ㆻ ᷡ ᳁. ේὑผኅ㝵ኅਔ 㨮ဋએᆓ᳁ᓧ ฬ㨫ਔᏇㅪᚑ ৻ 㨫ᐕ⚻ ᐭᛕಎฬὑ ผ㝵ኅ㨫. ᧲㇠ㇹ⾫⦟Ꮛผ ผᆓᷡᐽᾊᐕ㑆ᓥ㈎ ㈎⋵ਅ ኅ㨮᧲ධMO㨮᧲ ⋵ਅ᳓ㆫ⥋ᳯ᧲⾫⦟Ꮛ ᳓ ผኅ㨮อಽዬᱝ㨫 ධMO. ᪢ㇹᴪጊㆻኅ. ᆗጊ. ᆗጊਅႤ. ㆻᄥ. 㧫. ᵩႤ㎾ᄳᎤ᧘ ኅ㨮ർ MO㨮ᵩർ MO. ᆎዬ᧘ᆓ㨮ಣਔጊ Ꭴ㑆㨮ฬ㨫છᆓᷡᧃ ᳃ೋᤨㆫ㨫. ㎾ᶏ. ၔౝ⟵㐷ౝ. . . ᷡᤨ⒓㊄ኅᯅ㨮 એᆎዬ㊄ᆓᓧฬ㨫 อᓢผொ㒸⻉ᆓ ⡝ዬ̖ޕ. . ⵧಽዬ ㈎ᳯᯅ㨯ᄢᄦ ᯅᑪෟ 㐷⠪ޕ. ᳯ. ᧇᆓㆫᱝอ ⥝ᣰ㨮ᑪ㚍 ᧇᆓᷡᐽᾊ㑆ᓥ㈎⋵ ᚱ㚍ᴡၟ ㈎⋵⮧ ㇠ㇹᧇኅṷ㨮 ⮧➤ᯅㆫᱝ㨮೨৻ 㗡㨮ᄥᐔᄤ࿖ ➤ᯅ MO㨮ධMO ᴡṷ㨮ฬ㨫 ᤨάᲛ㨫อᧇ ᆓᄖㆫ㨫 ㈎⋵Ꮣ ㇠ㇹખኅᯅ㨮 ᧇᆓੇ㓉㑆ᓥ㈎⋵Ꮣ ㇹᵆ ධMO㨮ධ ㇹᵆᯅ㗡ᧇኅㆫ㨫 ᯅ㗡ᧇ MO ኅ Ꮢ㎾อᧇ⇇㨮 ᷡᧃᓥᧇ⇇ಽዬ⥋ᱝ㨮 Ꮢ㎾ ർMO㨮ධ ⊒ዷᚑ㨮࿃ᑪอ ᧇ⇇ ᧇ⇇㨮ฬอᧇ⇇㨫 MO ࿃ᆎዬ᳴ᆓ⠰ᓧฬ̖㒸 ㇹ ㇹ᳴ኅ㨮᧲ ᧇਔᆓᐕ⥄㈘ ೨㒸 MO㨮ർMO ೨㒸㨯ᧇኅㆫᱝ㨫. ᆎ⥄ᘏᷧㆫ ᆗጊ㨮ㆫᤨઍ ή⠨ޕ. . ⑲᳓ᯅᳯ᳁੦ዻ ᱝᵷ㨫వᳯዋ ⯲㨮ᔂᎺੱ㨮ቡት ᐕ↱੩⡯ት ᢎ㇢છቯ㨮ㆀ ኅᱝ㨮ᷡశ✜ㅴ ჻ೃㇱਥ⍮ᳯ ᳗ᣂ⋵ᳯੳᓕ ὑอ㨫. . . . .
(22) 立命館東洋史學 第 33 號. . ᧇ ᐕ ᳁. ᚑ ᷡᧃ ᳁ ᷡ ᳁ . . . ᷡ㧫 ᳁ ᷡੇ㓉 ᳁ 㑆 ബ ᷡ ᳁. ബ ᷡ ᳁ ๓ ᷡᐽᾨ ᳁ 㑆 . . ๓ ᷡᐽᾊ ᳁ એอ. . ๓ ᷡੇ㓉 ᳁ 㑆. . ๓ ᷡੇ㓉 ᳁ 㑆. . ๓ ᷡཅᘮ ᳁ 㑆. . ቡ ᷡཅᘮ ᳁ 㑆. . ቡ ᷡశ✜ ᳁ એ೨. . ቡ ᷡశ✜ ᳁ ᐕ㑆. . ጙ ᷡཅᘮ ᳁ ᐕ㑆. . ᔕ ᷡཅᘮ ᳁ ᐕ. ᔕ ᳁ ᔕ ᳁ ᔕ ᳁ . . ᷡཅᘮ ᐕ㑆 ᷡཅᘮ ਛ ᷡ. ᧘ ᷡཅᘮ ᳁ ᐕ㑆. ㈎᧲๓ ㇹᄢᶩ ጊ ᐣᯅ㎾ ᚑኅ. ㇹᳯ㨮᧲ ᧇᆓᐕ⥄㈎᧲ᄢ MO㨮᧲ർMO ᶩጊㆫ㨫. ⾌Ꮢ㎾ᚑኅ㨮ർ MO㨮⾌ᏒධMO ർᄢ〝Ꮛኅ ᑪ ᑲ ㈎⋵ᰓ ᧲㇠ㇹ⊕㢱ᯅ㨮 ␠ㇹゞ ᧲ධMO㨮ධ MO ᑪ⩎ ↰⋵㎾ ၔౝᄤ৻ⴝⴟṷ ᳯᎺ. . ᷡᧃ㨮↱ᐣᯅᚑኅಽዬ ᱝ㨮એᆓ᳁ᓧฬ㨫 ᓼ. ᐕฬ᥉ᩏ ᤨ㨮⺋ὑ⋓ኅ㨫 ⵧᢔዬ ၔౝޕ. ਥ㇢ਔᆓ㨮ᆓ⥄ ㈎⋵ゞㆫ᧪㨮Ꮗઍ㨫. . ᏇၔᏒⴝ ਯਛ㨫. 㗼. . ࿃ബᆓ⡝ዬᓧฬ㨮ബ᳁ ᑪψ ᧲㇠ㇹബኅ㨮᧲ వ⥄ᑪㆫ㈎⋵ᰓ␠ ㈎⋵ᰓ ർMO㨮ർMO ㇹ㨮อㆫᱝቯዬ㨮⥋Ꮗ ␠ㇹ ઍ㨫 㧫. ዬၔౝ㐓ᯅ㗡. ᪢Ꭸㇹ 㤀᳓ㇹᮮጊอ㨫 ๓ኅጊ. ബำᐔ. ബᧄὑ෨᳁㨮ᷡೋ ᡷ෨ὑബޕ. ๓⽵᩺. ྾㕙Ⅳᴡ㨮ฬ㨫ᚭ એ㇚ᄐ๓ਃᆓዬᄙ㨫㇚ ㇹᴡ㨮᧲ 㧫 ᆓ⥄ᐽᾊ㑆ᓥ㈎⋵ᆗጊ ർMO㨮ർMO ㇚ኅㆫ᧪㨫㓐อᄐ๓ੑ ᆓ੦ធあㆫᱝቯዬ㨫 ฎᨋ㎾ ㇠ㇹ๓ኅႤ㨮 ๓ᆓዬ㨮ᷡੇ㓉ᐕ 㑆⥄㈎⋵㤛ฎᨋ๓㦛ᚬ ๓㦛ᚬ MO㨮ㇹධ ኅㆫᱝ㨫 MO ኅ ㇠ㇹખኅᯅ㨮 ๓ᆓ♽ᷡੇ㓉㑆ᓥᲑႤ ᲑႤ㎾ ධMO㨮ධ ㆫ㨫 MO ේ♽㌛ᆓዬ㨮㌛ᆓ ㇠ㇹ㌛ኅㄝ㨮 ᧃᷡೋ㨮ᓥᳯ᧲ẜ㦖ṷ 㤛Ꭿ⋵ ർMO㨮ർ ㆫᱝ㨫ด৻ᚭ㨮⠰๓ᆓ ਅ MO ὑਥ㨮๓ᆓᷡཅᘮ㑆㨮 ᓥ㤛Ꭿਅㆫ㨫 ㎾ᶏ ᳃એẘቡਔᆓὑ ᵩႤ㎾೨ẘ㨮 ᷧㇹቡ ਥ㨫ቡᆓᷡཅᘮ㑆⥄ ർMO㨮ධMO ኅ ㎾ᶏᷧㇹቡኅㆫ᧪㨫 ඨᶆㇹቡኅḧ㨮 㙍ᆖ㒽 ᆎዬቡᆓ㨯㨯㨯ቡ᳁వ ർMO㨮ධ ၟ ⥄㙍ᆖ㒽ၟㆫ᧪㨫 MO ඨᶆㇹႤ〝ਅ㨮 ዬᚭቡ╬ᆓ㨫ᝪવ 㧫 ർMO㨮ධ ቡ᳁వᷡశ✜㑆ㆫ ᱝ㨫 MO ਰᶆㇹጙኅ㨮 એਥᆓฬ㨮ጙ᳁⚂ ᷡੇ㓉ᐕ㑆ᓥᘏർㆫ ᘏർ ർMO㨮᧲ ᱝ㨫 MO 㙍ᆖ 㧔ᘏ ඨᶆㇹਰጊㇹᔕ ᝪવ㨮ᔕᆓవᷡཅ ᷡశ✜㑆㨮 ᘮචᐕ⥄Ṥጊᔕኅㆫ ಽㆫᘏၔጊ ᷧ㧕⋵ ኅ㨮ർ ᔕኅ㨫 Ṥጊ㎾ MO㨮᧲MO ᧪㨫 ᔕኅ ㈎⋵ਅ ᆗጊ㎾ቯᯅอᮮ ᔕળੳ㨯ળാఱᒉ ᔕ㎾ ᮦ᳓㎾ Ᵽጤ ㈎⋵ਅ ᔕ㎾ ㎾ᶏዊ ᷼㎾᧘ ኅಽㆫ ධ㐷 ዣᳯᯅ㨫. . . ᑪၴ㨮࿃ਛ ᳓Ⴄ⠰ᓧฬ㨫. . ㈎⋵ㅢᔒヨᔒ㨮 ด৻ᚭ㨮⠰๓ᆓ ὑਥ㨮๓ᆓᷡཅ ᘮ㑆㨮ᓥ㤛Ꭿਅ ㆫ㨫. . శ✜ᘏᷧ⋵ᔒ⒓ ቡኅḧ㨫. . . . ᄢ⊣ㇹ⚦Ꭸ. ᔕᤨቁ. . ⨆ጊㇹጊᯅ᧲. ᔕ᳁ ฬሼᄬવ. . ㇠ㇹዊ┼ኅႤ 㨮MO㨮ධ ᷡཅᘮ㑆ㆫᱝ㨫 MO. . 22.
(23) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. ᧘ ᷡశ ᳁ ᐕ㑆. 㐷ᄖ ທ㎾. ᧘ᩕ᧲. ᳃ਥᆓ᧘ẘ㨮એᆎ ᧘ ᷡశ ᵩႤ㎾ኅ㨮 ዬᆓᓧฬ㨮ᆓ᧪ᱧ 㧫 ᳁ ᐕ㑆 ർMO㨮ධMO ή⠨㨮᧘ẘਔᆓᷡ శ㑆ඵቛᱝ㨫 ේ⒓ⴹኅ㨮శ✜৾ᐕ ᧘ ᷡశ✜ ⥱ጊ㊄ ᅱጊㇹ᧘ኅ㨮 ㊄Ⴄ᧘ᆓ᧪ᱝ⿃㨮อ ᳁ ᐕ Ⴄፉ ർMO㨮ർMO ⴹᆓ⛘༹㨮એ᧘ᆓฬ㨫 ᵽᳯ᳗ ᧘ ᧟㍯ㇹ᧘ኅဒ ᧘㦛⨷ ᷡೋ ᐽ⋵ ᳁ . ᧘ ᷡೋ ᳁. . ᧘ ᷡ ᳁. ᧘ ᷡ ᳁ . ᧘ ᷡ㧫 ᳁. ᧘ ᳃࿖ ᳁ ᐕ ᧘ ᐕ ᳁ ᧘ ᐕ ᳁ ೨อ . ᳴ ᷡೋ ᳁. ᳴ ᷡ㧫 ᳁ . ᴉ ᷡశ ᳁ ᐕ㑆. 㧫. ⨆ጊㇹ᧲ጊ㗡. ⋵ખ ㈎ၔᑚၴⴝ ᄐ! ᧄ⋵㒸 ᇎᷰㇹ ᲑႤ㎾ ㌃⋆ᶆ ㇹ᧘ኅ㨮ർ 㧫 MO㨮ർMO. ᴉ ᷡశ ᳁ ᐕ㑆. 23. ਈቛ೨ᒛᭈਅ᧘ ᧘ᆓหቬ㨫. . ᣖੱવ⺑㨮ᱝ ⵧㆫ ᣖਈ⨆ጊᑙ೨᧘ ᘏᷧޕ ᳁หቬޕ. . ᧘ᚑ㨮ሼᚽ㨫. . ᧘ᢥ₹. . ᆎዬ᧘ᆓ㨮࿃ฬ㨫⥋ Ꮗઍ㨫 ᝪવ㨮ᔕᆓవᷡཅ ඨᶆㇹᔕኅ㨮 ᘮචᐕ⥄Ṥጊᔕኅㆫ 㤛Ꭿ⋵ ർMO㨮᧲ ᧪㨮ዬᚭ᧘ᆓ㨮᳃࿖ MO ᐕ⥄㤛Ꭿㆫᱝ㨫 㤛Ꭿ ㇹอ㒸㨮᧲ ᐕᓟ㨮₺ᬢ᧘ ⋵㧫 MO㨮ർMO ਃᆓᓥ㤛Ꭿ╬ㆫ㨫 ㇹᭈ㨮᧲ ᧘⻢ᐕ೨อㆫ 㧫 ർMO㨮ർ ޕ MO. 㧫. ᄢㇹ. ᳴ᄈ㐣. . . ಽㆫᔂ ὑ໊࿖ਯ ᱕⋵⠪ޕ อޕ. ࿃ᆎዬ᳴ᆓ⠰ᓧฬ㨮᳴ บᎺ⥃ ㇹ᳴ኅ㨮᧲ ᆓ⥄⥃ᶏㆫᱝ㨮⥋Ꮗ ᶏ⋵ MO㨮ർMO ઍ㨫 ਰᶆㇹਰጊㇹ᧲ ᘏᷧᴉ ᴉኅ㨮ർ Ꮷᯅ MO㨮᧲MO. ਰᶆㇹਰጊㇹධ ᘏᷧᴉ ᴉኅ㨮ർ Ꮷᯅ MO㨮ᬢኅᯅ᧲ MO ඨᶆㇹอቊ㨮 ᴉ ᷡທ⼾ ਃർᴉ ർMO㨮᧲ർ ᳁ ᐕ Ꮷᯅ MO ඨᶆㇹቊኅṷ㨮 ᴉ ᷡທ⼾ ਃർᴉ ർMO㨮᧲ർ ᳁ ᐕ㑆 Ꮷᯅ MO ਃർᴉ ኅ㨮ਃർ Ꮢ㎾ጊਅᴉ㨮 ᴉ ᜰ㙍ᆖ ᷡೋ ർMO㨮ർ ᳁ ർ㨯ᘏᷧ MO ർ㨯㎾ᶏ ർ㨫 ᅱጊㇹ ᅱጊㇹᥓਃᚱ㨮 ᴉ ᷡ ဌᴪᴉ ർMO㨮 ᳁ MO ᆓ ᅱጊㇹ ဌᴪᴉ ᅱጊㇹർጊਅ㨮 ᆓ㨮ർ ᴉ 㧫 ർMO㨮᧲ർ MO㨮 ᳁ MO ᅱጊᯅ ർMO. . ᧘࿖㓉. . ᴉ᳁⚂ᷡశᐕ㑆⥄ ᘏᷧᴉᏧᯅㆫዬᱝ㨫 ᴉ᳁⚂ᷡశᐕ 㑆⥄ᘏᷧᴉᏧᯅㆫᱝ㨫. . એਥᆓฬ㨮ὑਈ ㇹධ⊛ᴉኅ หฬ㨮ᐕᦝฬ ὑ᧲ᴉኅ㨫 એਥᆓฬ㨮ὑਈ ㇹ᧲ਯᴉኅ หฬ㨮ᐕᦝฬ ὑධᴉኅ㨫. . . ᷡທ⼾ᐕᴉᆓ⥄ ਃർᴉᏧᯅㆫ᧪㨫. . ᳃ਥᆓቊ㨯㨯㨯 ᳃ᴉᆓ㨮ᷡທ⼾㑆⥄ਃ ർᴉᏧᯅㆫᱝ㨫. . ᷡೋਃർᴉኅᴉ᳁᧪ᱝ ⪭ᚭ㨮⊒ዷᚑ㨮⋝ ኅጊਅ㨫. . ᚭᴉᆓ㨮⚂ᐕ೨↱ ဌᴪᴉᆓಽᱝ㨮એᚱฬ ฬ㨫. . ᴉᆓਥዬ㨮↱ဌᴪㆫ᧪㨫. .
(24) 立命館東洋史學 第 33 號. . ᴉ ᷡ㧫 ᳁. . ᴉ ᐕ ᳁. ᴉ ᐕ ᳁ . ⽴ ᷡཅᘮ ᳁ ᐕ㑆. ᅱጊㇹ ᅱጊㇹቛ㨮 ᆎဌᴪᴉኅ㨮Ꮗච ဌᴪᴉ ർMO㨮᧲ർ ৾ઍ㨫 MO ኅ ᅱጊㇹ⻢ኅޔ ᄺൻጊ ർMO㨮 MO ㇹ⮀ኅᯅ㨮 ㇹ ᧲ർMO㨮ർ ᴉኅ MO ㎾ᶏ⓫ ㈎ທ㎾ ጊ. . ┼ ᷡశ ᳁ ᐕ. ᄺൻ⫃ ㈎ၔ⊕ኹ〓 . . ┼ ᷡ ᳁. ᄺൻ. ၔౝᶏᦍ㔤ᯅ ำሶ༡. 㙍ᆖ ᘏᷧ Ṥ ጊ㎾ ᘏᷧ ኅ. ㇠ㇹอ₺ᯅ㨮 ർMO㨮ർ MO ᷡᐽᾊ ㇠ㇹኅㄝ㨮 ᳁ 㑆 ർMO㨮MO ඨᶆㇹኅṷ㨮 ᷡᐽᾊ ! ർMO㨮ർ ᳁ 㑆 MO ඨᶆㇹኅ㨮 ᷡੇ㓉 ᘏၔ ർMO㨮ධ ᳁ ᐕ MO ㈎⋵Ꮣ ㇠ㇹㆳ᳓ᯅ㨮 ᷡੇ㓉 ㇹᣂ ධMO㨮ධ ᳁ ᐕ㑆 ᐣኅ MO ཅᘮᐕ 㧫 ⍹⺊㎾㓷ᷰ ᳁ 㑆 ඨᶆㇹᷰ㗡ⴝ㨮 ᷡశ✜ 㙍ᆖਃ ർMO㨮ධ ᳁ 㑆 ৾Ꮢ MO . ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. . ᴉᆓ㨮ᐕ↱ᄺ ൻጊ㨫. . ᴉ᳁ᐕᓥᧄㇹᴉ ኅㆫ㨫. . ⽴⑬ᐕ ⸃ర㨮ᱧ⟑⾆Ꮊ↛⪇ ▵⍮⋵┼㒸◲ޕ. ┼ᕡノ. ┼㒸◲㨮ὑ⫃ᆎ ┼㋩ਯอ㨮శ✜ ㅴ჻⠜ᨋ㒮ᯰ⸛ ┼㤅ὑอ㨫 ཅᘮળ㝫㊄⪇ ᢎ┼ਯૹ㨮శ ㅴ჻ಽ⊒ᑪ⍮ ⋵┼㐓ὑอ㨫. . . ᆓዬ㨮ᷡᐽᾊ㑆ᓥ ᘏᷧṤጊㆫᱝ㨫. . ዬᆓ㨮ฬ㨮ᆓ ᷡᐽᾨ㑆ᓥᘏᷧኅ㨫 ᆎዬᆓ㨮᧲ᴡṷ㨮 ฬ㨫ᝪવᆓᷡᐽᾊ 㑆ㆫᱝ㨫 ዬᆓ㨮ฬ㨮᳁వ ᷡੇ㓉ਃᐕ. 㨫⥄ᘏၔㆫ᧪㨫 ᧇੑᆓዬ㨮ᆓ ᷡੇ㓉ᐕ㑆ᓥ㈎⋵Ꮣ ㇹᣂᐣኅㆫᱝ㨫. . 㓙ᢥ ᳃ਥᆓ㈕̖ᆓ ᷡశ✜㑆⥄㙍ᆖਃ৾Ꮢ ㆫ᧪㨫. ᷡೋ ᳁. ᘏᷧ. ᷡೋ ᳁. ᘏၔ. ᷡೋ ᳁. ᘏᷧ. ᷡೋ ᳁. บᎺ. ᷡೋ ᳁. ㈎⋵ẘ ㇹᴼṷ㨮 ᆓᷡೋ⥄㈎⋵ẘἫ Ἣㇹತ ᧲MO㨮ผ㝵ኅർ ತᯅಽዬᱝ㨫⥋Ꮗ ᯅ MO ઍ㨫. ᷡᧃ ᳁. ᷡᧃᑙ೨ኅਔఱ ᒉ㨮࿃ઍએℂ㜬ὑᬺ㨮 Ꮢ㎾ Ꮢ㎾ኅᯅ㗡 ⵍᣖ㐳㨮ఱᒉ ᑙ೨ 㨮ർMO㨮 ᑪอᴡጯㅧੌ৻ ධMO ኅ ᐳኅᯅ㨮੦ฬኅ ᯅ㗡㨫. . ਛ৻▎ಽ ᡰḓ ᆔળർጊਅ . ḓፉ. ඥ㨮ሼㅴޕ. Ꮢ㎾ᑙ೨ኅ 㨮ർMO㨮 ධMO ᅱጊㇹᮦ᮸ਅ㨮 ർMO㨮᧲ධ MO. ᷡೋᆓᓥᘏၔಽㆫ᧪ ᱝ㨮࿃อᐳ೨㤛 ᑙ㨮ฬᑙ೨ኅ㨫. ᱝᵷᄺቡᄤ⡛ੑ ᐕ ㅴ჻⚥ ቭ⥋ᄥᏱඳ჻ㅢ ್㙷Ꮊᅖ㨮ሼሶ 㙍㨮ภႌὑᆎ 㨫 ೨㤛ᑙਁᥲਃ චਃᐕ㊀ୃ శ✜ ᘏᷧ⋵ᔒ ޕ. . . ᳃એᆓὑਥ㨮ᷡೋ ᓥᘏၔㆫ᧪㨫. . ᆓ㓸ዬ㨮ฬ㨫ᝪ᳃࿖ ㈎⋵ㅢᔒタ㨮ഏ᳁ઍ ಽዬᄢႍ ᧲㇠ㇹኅ㨮᧲ ᤨㆱㇳᆭਯ㔍ᦝᆓ㨮 㗡ᯅ⠪㨮ᑪ ධMO㨮ධMO ᷡೋ࿃ῳ⥄บᎺ ᐕ㨫 ᧪㨫. ධṷ㨮ᣥὑ ᆓᚲ㨮ṷਯ ↪ᢛᴦ৻ᔕോ㨮 ᖅ↱ᆓ▤㨮 มṷ㨮Ṷൻὑ ᴼṷ㨫. . . 24.
(25) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. ᷡ ᳁. ᷡ ᳁ ᷡ ᳁ ᷡ ᳁ ᷡ ᳁ ᷡ㧫 ᳁ ᷡ㧫 ᳁. . ᨋ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. . ᨋ ᷡੇ㓉 ᳁ 㑆. ᨋ ᷡੇ㓉 ᳁ ᐕ㑆. . ᨋ ᷡหᴦ ᳁ 㑆. . ᨋ ᷡశ✜ ᳁ ᐕ㑆. . ᨋ ᷡᧃ ᳁. . ᨋ ᷡᧃ᳃ ᳁ ೋ. ᨋ ᷡ ᳁. . . ㇑ ᷡ㧫 ᳁. ㇕ ᷡᐽᾊ ᳁ ᐕ㑆. 25. ⵧቊಽዬ ⽎ጊ㓷ᨋᷧ㨮 ᤨ㨮ฬਃర㨮ሼᢥ ᑧᄈᎤᧄ ⪇㨮 ⋵ᰓᢳ 㩙㩙 㨮 ᮦ㨫 ⵧಽዬၔ ㇌⋧㨮㇌テఱᒉ㨮⥄ ౝ㐷㨮㐷 ᔂ᱕ ᶏᦍ㎾ᐭ೨ ᔂ᱕⋵᧪㨮ዬᶏᦍ㎾ᐭ ᄖ㨮㔤ᯅ㐷㨮 ⋵ ೨㨫 ᳯ᧲╬ಣ㨫 એᆓዬᓧฬ㨮 ർ㇠ㇹኅ㨮᧲ ⨿ᯅ㎾ ⒓┻╃Ⴄኅ㨮᳁వ ർMO㨮᧲ർMO ᷡᤨ⥄ᐣᯅㆫᱝ㨫 ⨆ጊㇹ ㎠ᑙㇹᣉኅႤ ⯥ཕ. ᵩႤ㎾ ᵩႤ㎾ᣂደኅ ⠧ደ 㨮ർMO㨮 ኅ ർMO. ዬᚭᆓ㨮♽⠧ደኅ ਯಽᡰ㨮ᷡᤨㆫᱝ㨮⒓ ᣂደኅ㨫. ඨᶆㇹኅᐣ㨮 ᘏၔ ർMO㨮 ኅ MO ᳯ᧲ ᧲㇠ㇹอ┨ኅᯅ ᧲㇠ㇹ 㨮᧲ධMO㨮᧲ ẜ㦖ṷ ධMO ᘏၔ㎾ዊኅ㨮 ᘏၔ㎾ ർMO㨮ධ ᄢኅ MO ㇠ㇹอ㚍 ᣂ⦼〝ਈᣂ㜞〝 ᑪ ਯ㨮♽⥄ὼ 㨮㜞Ⴄბᑪቛ ዊ. ዬᆓ㨮એᆓ᳁ᓧ ฬ㨮᳁వᷡᤨ⥄ᘏ ၔኅಽᱝ㨫 ዬ⫃₺ਃᆓ㨮ᆓ⥄ ᳯ᧲ẜ㦖ṷㆫᱝ㨮Ꮗ ઍ㨫. ᑪ. 㧫. . વᷡᤨಽᡰ ㆫ⥋ᘏᳯ⨆ᵮ㑉 ᑪ㨮⒓ᣂደ ኅ㨫. . ♽ᄢኅಽዬ᧪ᱝ㨮❥ ⴖᚑ㨮⒓ዊኅ㨫. ᐕᲛἫ อ㊀ᑪ㨫. ᨋᆓዬὑਥ㨮ᷡᐽ ᾊ㑆⥄ᑪㆫ㨫. ᆎዬᨋᴍਔᆓ㨮ฬ㨫 વ㨮ፏ㑆᧪ካᵄ⚻ ༡ᧁ᧚⥌ን㨮ਫቭᑪ ㅧᄥᄦ╙ᱝ㨫ᨋᆓ ᷡੇ㓉㑆⥄ᵩႤㆫᱝ㨫. ಣᣂᴡႤㄝ㨮ᨋᆓ ዬᓧฬ㨫㕙 ✕㕗㋕〝㨮Ꮗ ၔ⋧ㅪޕ อᴍᆓᄖㆫ㨫 ᨋᆓሶቊ❥ శ✜ᘏᷧ❐ᔒ⒓ ⴖ㨮ਫએᨋᴍ ᨋᴍ㨫 ਔᆓฬ㨫. ㈎⋵ᦸ ㇠ㇹヽ㒽ኅ ዬᨋᆓ㨮ᷡశ✜㑆 ᤐㇹਅ 㨮ർMO㨮 ᓥ㈎⋵ᦸᤐㇹਅᨋㆫ ᱝޕ ർMO ᨋ ㈎⋵ᦸ ㇠ㇹอቊ㨮 ᨋᆓᷡᧃᓥ㈎ᦸᤐ ᤐㇹਅ ർMO㨮ർ ㇹਅᨋㆫ㨫 ᨋ MO ካᵄMO㨮 อోㇱᄖㆫ㨮 ካᵄ಄ ᨋᆓᷡᧃ᳃ೋ⥄ካᵄ MO㨮㇠ㇹᯅᑲ ὑ㔀ᆓ㓸 㕒ⴝ ಄㕒ⴝㆫޕ ዬ㨫. ᧲㇠ㇹ㇑ኅᯅ㗡 ㈎⋵㇑ 㨮᧲ධMO㨮ධ 㓖㎾ MO ㇹ ㇕ኅ㨮 ㇹᩉ㓖㨮᧲ ᧲ ධMO㨮᧲ධ MO㨮 MO ᧲ർ MO. . . ඨᶆㇹ⇇ဇᯅ㨮 ᳃ਥᆓᨋ㨮ᷡหᴦ㑆 ർMO㨮ධ ⒖ዬᱝ㨫 MO. ᑪψ ᧲㇠ㇹ᳖ᑚ〓ᨋ ᳯ᧲ ኅ㨮᧲ർMO㨮 ᧲㇠ㇹ ർMO ኋᷰ. . . ㇠ㇹᨋኅㄝ ᨋᆓᷡੇ㓉㑆ᓥᑪ MO㨮MO ㆫᱝ㨫. ᐣᯅ㎾ᨋᴍർ ᵩႤ㎾ MO㨮ᐣᯅ MO. . . . 㒽ᆓዬ㨮྾ Ⅳ❸ᳯᴡ㨮๒ ᒻ㨮࿃એቯฬ㨮ヽ㨮 ᣇ⸒හᵮ㨫. . . ᆎዬᨋᆓᓧฬ㨮ේฬᨋ ኅ̖ᨋᆓ⥄ᑪㆫኋ ᷰ㨮อಽㆫ⥋ᱝ㨮Ꮗ ઍ㨫. એᆎዬᨋᆓᓧฬ㨮 ᨋᆓቡᤨ⥄ᑪ ㆫᱝ㨮ኋᷰቡ⒓ ⯃ᷰ㨮อ⺽㖸ᡷ ⥱ኋᷰኋᷰ㨫 㧔㗁㧕. . ዬᚭ㇑ᆓ㨮㈎⋵㇑㓖㎾ ㆫ᧪㨮Ꮗઍ㨫. ᏇၔᏒⴝ ਯਛ㨫. . ㇕ᆓᷡᐽᾊ㑆⥄㈘ ㇕ኅಽዬᱝ㨫. .
(26) 立命館東洋史學 第 33 號. . ㇕ ᷡశ✜ ᳁ 㑆. ㇕ ᷡት⛔ ᳁ ᐕ㑆. ㇹ ㇕ኅ㨮 ᧲ MO㨮 ᧲ർ MOψ ᪢㎾ ṙ ㇹ ᧻ਅṷ 㨮᧲ MO㨮ผ 㝵ኅධ MO. ㇕ᆓᷡశ✜㑆⥄ㇹౝ ㇹ↰ᐣ㨮᧲ ㇕ኅㆫ⥋᪢㎾ṙอ MO㨮᧲MO ㆫዬ㨮Ꮗઍ㨫. ㇕ ᷡೋ ᳁. ᲑႤ㎾ႍ㗡㨮 ዬ㇕ᆓ㨮ᷡೋ⥄㈎⋵ ㈎⋵㇑ ධMO㨮᧲ർ ㇑㓖ㆫᱝޕ 㓖㎾ MO. . ㇕ ᷡ㧫 ᳁. 㓞. વቡᧃอⵧᱝᑪㅧ ㇹ₺ኅ㨮᧲ ৻⧎㨮⒓₺ኅ㨮એ MO㨮᧲MO ฬ㨫. . ㇕ ᷡ㧫 ᳁. 㓞. ㇹ₺ṷ㨮᧲ ౝṷ㨮ᣥᏫ₺᳁ᚲ MO㨮᧲MO 㨮ฬ㨫. . ㊄ ᷡੇ㓉 ᳁ 㑆. ㈎㖧Ꭸ ທ㎾ Ꮢ ㇹ. . ్ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. ᄢṷ్ ㇹᬢᧁ苝㨮 ኅ㧔᪢ ᧲ർMO㨮ർ ㎾㧕 MO. . ్ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. ㈎⋵Ⴎ ㇹ⠧ᑙ㨮ካ ႐్ኅ ᵄർMO㨮ർMO. . ్ ᷡੇ㓉 ᳁ 㑆. ㇹᷡ᳓ṷ㨮 ㈎⋵Ⴎ ᧲ർMO㨮ർ ႐్ኅ MO. ㊄ᑨᘮ㨮ᨆ㖧Ꭸ⊕㔕ᵷ㨮 ㆫዬ㨯㨯㨯ޕ ᬢᧁ苝㨮એ苝ᓧฬ㨫 ਛᚭᄙ⟜్₺ਃ ᆓ㨮్ᆓᷡᐽᾊ㑆⥄ ᄢṷ్ㆫ᧪㨫 㓸ዬ్ᆓ㨮్᳁ᷡ ᐽᾊ㑆⥄㈎⋵ᣂႮ႐్ ኅㆫᱝ㨫 ᳃ᄙ్නਔᆓ㨮్ᆓ ᷡੇ㓉㑆⥄㈎⋵Ⴎ႐ ్ኅㆫ᧪㨫. . ్ ᷡೋ ᳁. ᄢ. ్⛽Ꭺ. ᑪ. ᧲๓ዊ⊕. ్ ᳃࿖ ᳁ ᐕ. ᘏၔർ 㐷్ኅ. . න ᷡశ✜ ᳁ 㑆. ᄺൻ. . න ᷡశ✜ ᳁ 㑆. ㇹ නኅ. . ᆗ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. 㧫. ᆖ ᷡ ᳁. 㔕㦖ㇹ ᆗጊ㎾อ⊖ਂႍ ᆖኅᶆ. ᆖཅ⸒หᒉཅℰ. 㔕㦖ㇹ 㤀᳓ㇹᮮጊอ ᆖኅᶆ. ᆖᓼዅ. ᆖ ᷡ ᳁. ዬ ㈎᧲ᆗኅ᳓ ṷ㨫. ᆗዏ. . ᳃ਥᆓ㇕㨮ᣥ ♽₺ᆓᏩᎿ㨮 ᐕ೨ᓥ㈘㇕ኅ ㆫᱝ㨫 ਛᄙ㇕ᆓ㨮ᣥ ♽₺᳁㓹ㄘ㨫ᑪ Ꮗᐕ㨫. . . . . ᲑႤ㎾్ኅ㨮 ్᳁ᷡ೨ᦼ⥄ᑪ᧪ ධMO㨮ർ ᱝ㨫 MO ᆎዬᆓ㨮ฬ㨫ᝪ ඨᶆㇹኅ㨮 વ㨮ᷡੇ㓉චᐕᆓ ർMO㨮ᘏၔධ వ⥄ጊᄥේㆫᱝ㨫 MO ᳃࿖ᐕ్ᆓ⥄ᘏ ၔർ㐷్ኅㆫ᧪㨫 ᤨዬᆓ⒓ኅ㨫න ♿ਃᆓὑᆓ㓹ㄘ㨮 ㇹනኅ㨮᧲ อᆓ⪭㨮නᆓ⥝ᣰ㨮 ർMO㨮ർMO ᡷฬනኅ㨮නᆓᷡశ ✜㑆⥄ᄺൻㆫ᧪㨫 ㇹᷡ᳓ṷ㨮 ᳃ᄙ్නਔᆓ㨮్ ᆓ㨯㨯㨯නᆓ⥄㈘නኅ ᧲ർMO㨮ർ ㆫ᧪㨫 MO. . . ṷ㨮ṷ㗡ᩉ᮸ ᚑ⬺㨮᳓㕙੦࿃ਯ 㒶㤥㨮ᣥὑὖ⬑⦁ ᴱㆱ㘑ਯ㨮 ฬὖᳯṷ㨫. ㇹὖᳯṷ㨮 ਛએ₺㇕㝵ਃᆓዬ ᧲ධMO㨮ධ ᄙ㨮ᷡት⛔ᐕ㑆వอᓥ MO ᧻ਅṷಽዬᱝ㨫. . ్ ᷡ೨ᦼ ᳁. . ዬ్ᆓᓧฬ. . . . ⴡㆫዬ ᳯ᧲㍌ဌᏋ ධ㐷ᄖඨ ⴝ㨫 ሶᆓㆫ 㤀᳓ㇹᩅ ⪆⠪㨫. . . 26.
(27) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. . ᆖ ᷡ ᳁. ᔂᎺ. ၔౝḓᯅ⇎. ᆖᲞ㨮ภ⥄⯲㨮⥄ᔂᎺ ⾘᧪㈎㨮ㆀኅၔ ౝ㨯㨯㨯ޕ. . ᣉ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. ㈎. ၔౝ⟵㐷ౝ. ⠫ఌᣔ⿅ୃ⡯㇢ᣉ శ㗼㨮ሼノ┨ޕ. . ᣉ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. . ᣉ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. . . . ㇠ㇹอᣉኅ㨮 ਅᐣᣉ MO㨮ධ ኅ MO ㇠ㇹ᧘ኅ⳩㨮 ਅᐣᣉ MO㨮ධ ኅ MO. ᷡ᥊ካ⋵ቇᢎ⻀ ᣉ⧷ᭃ㨮⍮ᐢ᧲ᴡ Ḯ⋵ᣉᔨ⊝ อ㨫 ਈ᧘ኅ⳩ᣉ ᆓหቬ㨮ᑪ อ㨮ㆀฬอᣉኅ㨫. ᷡᐽᾊ㑆ᣉᆓᓥਅᐣᣉ ኅㆫૼޕ. ᷡੇ㓉ೋ᧘ᆓᄖㆫ㨮 ዬᣉᆓ㨮ᷡੇ㓉ᐕ㑆ᓥ ਅᐣᣉኅㆫ㨫 ⮀ᆓዬ㨯㨯㨯ᧄ♿ ᩅ ᷡశ ㇠ㇹ⮀ኅႤ㨮 ᐕઍవᓟᄖㆫ㨮ዬᩅ ᄺൻ⋵ ᳁ ᐕ㑆 MO㨮ධMO ᆓ♽శᐕ㑆ᓥᄺൻㆫ 㨫 ᵩႤ ᘏ ᵩ ᷡᐽᾨ ㇠ㇹᑙᵩኅ㨮 ᵩᆓᷡᐽᾨ㑆ᓥᵩႤ ᷧ㧫 ᵩ ᳁ 㑆 MO㨮MO ᵩኅ㗡ㆫᱝ㨫 ኅ㗡 ਰᶆㇹㇹᵩ㒸㨮 ᵩ ᷡੇ㓉 ᝪ⠨ᵩ㒸ਔᆓᷡ 㧫 ർMO㨮 ᳁ 㑆 ੇ㓉ᐕ㑆ㆫᱝቯዬ㨫 MO ඨᶆㇹ᧲ᳯᴪ㨮 ᵩ ᷡት⛔ ᳃ਥᆓ㚏ᵩ㨮ᵩᆓ 㧫 ർMO㨮᧲ർ ᳁ ᐕ ᷡት⛔ੑᐕㆫ᧪㨫 MO. . ᵩ ᷡೋ ᳁. ᔂ᱕ ၔౝ↞ᷧ ⋵. . ᵩ ᷡೋ ᳁. 㧫. . ᵩ ᷡᧃ ᳁. . ὑ໊࿖ፏਯ อ. ᷡੇ㓉 ᳁ ᐕ. ⢫ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. . ⢫ ᷡੇ㓉 ᳁ 㑆. . ⢫ ᳃࿖ ᳁ ᐕ. . ⨆ ᷡທ⼾ ᳁ 㑆. 27. ካᵄᏒ ㇠ㇹਃጀᭈਅ ⊕ኹ 㨮ධMO㨮ධ MO ᣋ ඨᶆㇹᑙอ㒸㨮 㙍ᆖ ർMO㨮᧲ධ MO. . . ᵩᆓᑪ⊕㦖 ₺ᑙᣋ⠰ᓧฬޕ. . . Ꮢ㎾ᵩኅᄢౖ 㨮ካᵄർ MO㨮ධMO Ꮢ㎾ᵩ⇇㨮ካ ᷡᧃᵩᆓᓥᵩႤ㎾ㆫ ᵩႤ㎾ ᵄർMO㨮ධ ᧪㨮࿃ฬᵩ⇇㨫 MO. ᚭએ⢫ᆓὑਥ㨫 ⾌Ꮢ㎾⢫ኅ㨮ካ ⢫᳁ቬ⎼⸥๋ޟᘏ᧲ ᘏᷧ⋵ ᵄർMO㨮ർ ᳓⇃⢫᳁㨯㨯㨯ᐽᾊᐕ㑆 MO ⺒ำ↭⠪ᆎㆫ⨡ ޕޠ. . . ᵩ᳁ఱᒉὑ໊ㅴ ḓⰂᯅධ㨮 ჻⺾⼏ᄢᄦᵩ⚻ ᵩ㜞ㆀ㨮ሼᒾᚑ㨮࿃ᛚㄑ ㇺᯅ㨮ὖว ✈㨮ሼ᳭ੳਯอ㨫 㣪ോਈఱᵩ੫㆐⥄ ᯅ㨮ၔᬢኅ ᷡหᴦㅴ჻␞ㇱ ᯅ㨮ဋዻᱝ ਥᵩᔕ㨮శ✜ ᔂ᱕⋵᧪㨫 ᵷ㨫 ⠜ᨋᵩཅṑὑ อ㨫 ᷡೋ㨮ᵩᨱᱝኅᑪ 㨮ฬᵩኅ㨫อ࿃ᵩኅ ⥝ᣰ⊒㆐㨫. ඨᶆㇹኅ㨮 ᆎዬᆓ㨮ฬ㨫ᝪ ጊᄥ ർMO㨮ᘏၔධ વ㨮ᷡੇ㓉චᐕᆓ ේ MO వ⥄ጊᄥේㆫᱝ㨫. . . . ᳃࿖ᐕ. ్ᆓ⥄ᘏၔ ർ㐷్ኅㆫ ᧪㨫. . ฬ᳓ᷯ⇃⢫ኅ㨮 ฎฬ᳓⏷⇃㨫శ ✜ᘏᷧ❐ᔒタ㨮 ޟᓾ㐷ㇹᚎᷧ㉿㨮 ྾࿑᧲ධ㨮〒ၔ ੑච㉿㨮᳓⏷ ⇃ޠ㨫⢫᳁ቬ ⎼⸥๋ޟᘏ᧲ ᳓⇃⢫᳁㨮⋧વ♽ ⥄ቡᄢఌቯ వ↢ ⢫K ޕޠ. . ੇ㓉ᐕ㑆ౣㆫૼᱝ㨫. . ᳃ਥᆓ㒸㨮ᷡᐽᾊච ᐕㆫᱝ㨫⢫ᆓ㨮᳃ ࿖ᐕ⥄㙍ᆖㆫ᧪㨫. . ㈎⋵⨆ ᘏၔ㎾ጊ೨㨮 ᆎዬ⨆ᆓ㨮ᷡທ⼾㑆ᓥ ጊ㎾ ർMO㨮᧲MO ㈎⋵⨆ጊㆫ᧪㨫. ⏉ጊ೨ ධ ጊ⣉ ฬጊ೨ 㨫. .
(28) 立命館東洋史學 第 33 號. ⨿. ߆. ᐣ. ߎ. ᷡశ ᐕ. ᳁ . ㇚ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. . ㇢ ᷡ ᳁. . ୵ ᷡᐽᾨ ᳁ 㑆. . ໊ ᷡೋ ᳁. . ໊ ᷡ ᳁. . ᄐ ᷡᐽᾊ ᳁ એอ. . ᄐ ᷡທ⼾ ᳁ 㑆. . ቊ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆. . ቊ ᷡੇ㓉 ᳁ ᐕ. ඨᶆㇹᄥᐔᯅ㨮 ᳃ᄙᐣ₺ਔᆓ㨮ᐣᆓ ㎾ᶏ⋵ ർMO㨮ർ ᷡశච྾ᐕᓥ㎾ᶏᐣ ᐣᏒ MO Ꮢㆫᱝ㨫 ྾㕙Ⅳᴡ㨮ฬ㨫ᚭ ㈎⋵ᆗ ㇹᴡ㨮᧲ એ㇚ᄐ๓ਃᆓዬᄙ㨫㇚ ጊ㇚ኅ ർMO㨮ർMO ᆓ⥄ᐽᾊ㑆ᓥ㈎⋵ᆗጊ ㇚ኅㆫ᧪㨫 ᧲㇠ㇹ⊕㢱ᯅ㨮 ᳯർ ਥ㇢ਔᆓ㨮㇢ᆓ⥄ ᧲ධMO㨮ධ ᐣᯅ ᳯർᐣᯅㆫᱝ㨮Ꮗઍ㨫 MO ㇠ㇹㅴ჻ლ㐷 㧫 㨮ർMO㨮 ୵ᆓᷡᐽᾨ㑆ㆫᱝޕ ർMO ᷡೋ㨮৻໊ᆓਃർṪ ᘏᷧ⋵ Ꮢ㎾໊ኅ㨮 ᳃㨮ᳯ㝼ᤨ⠡⦁ ਃർ㎾ ർMO㨮ධMO ⎕↥㨮ὑᛂ᠇ᴊ⦁ዞ ᑪ⨲ᚱᱝ⪭⣉㨫 ᦡᆓᷡᤨ⥄▤ㇹᄖ ർ㇠ㇹ ർ㇠ㇹ᧲ṷ㨮᧲ ᦡಽㆫ᧪ᱝ㨫ዬᚭ ⇃㉿Ⴄ ർMO㨮ർMO ໊ᆓ㨮ὑ⇃㉿Ⴄ໊᳁ ਯಽᡰ㨫 ྾㕙Ⅳᴡ㨮ฬ㨫ᚭ ㇹᴡ㨮ካ એ㇚ᄐ๓ਃᆓዬᄙ㨫㇚ ᵄ᧲ർMO㨮ർ ᆓ⥄ᐽᾊ㑆ᓥ㈎⋵ᆗጊ ㇚ኅㆫ᧪㨫㓐อᄐ๓ੑ MO ᆓ੦ធあㆫᱝቯዬ㨫 ካᵄ᧲ർMO㨮 ᄐᆓዬ㨮ฬ㨫ᄐ ᑪ 㚢᧲ർMO㨮 ᆓᷡທ⼾㑆⥄ᑪㆫ ർ㇠ㇹᄐኅ ᱝ㨫 ካᵄධMO㨮 ᘏᷧቊ ቊᆓᷡᐽᾊᐕ㑆⥄ᘏ ධMO㨮㇠ㇹ ኅ ᷧቊኅㆫૼ㨫 ਃጀᭈਅ ᆎዬቊᆓ㨮ቊኅṷ ካᵄർMO㨮 ਯർ㨮ฬ㨫ᝪવቊ᳁వ 㧫 ኅ᧲ർMO㨮 ᷡੇ㓉ච྾ᐕㆫ ඨᶆㇹอቊ ᱝቯዬ㨫. ቊ ᷡੇ㓉 ᳁ ᐕ㑆. ㈎⋵ ㇠ㇹ೨ቊ㨮 ᓥอቊಽㆫ⥋ᱝޕ ㇠ㇹอ ർMO㨮MO ቊ. . ቊ ᷡཅᘮ ᳁ 㑆. ㎾ᶏ⋵. . ቊ ᷡశ ᳁ ᐕ㑆. . ቊ ᷡ ᳁. . ᓢ ᷡᐽᾊ ᳁ ᐕ. ᓢ ᷡᐽᾊ ᳁ 㑆 ᷡᐽᾊ ᓢ ⥋㓾ᱜ ᳁ 㑆. . ᏇၔᏒⴝ ਯਛ㨫. . ᑪㅴ჻╙㨮 ฬ㨮୵ᆓᄖㆫ㨮 ด৻ᚭޕ. . એอㄝ⒳↰㨮 ㄝ㝼㨮⊒ዷ ᚑ㨮એᆓ ฬ㨫. . . . 㧫. . . . ㈎ᄢᴕᵆⴝᠪ㥏 Ꮛ. ᶏს❢ቊᄢ. ㈎⋵ ㇠ㇹᴤゞ㨮 ዬቊᆓ㨮శ㑆ᓥਛ ㇠ㇹਛ ർMO㨮MO ቊㆫ㨫 ቊ ㈎᪢ㇹᴪጊㄝ ᘏᷧ⋵ ቊᓳ ኅ ඨᶆㇹ႑ᳯᯅ㨮 ᳃ਥᆓᓢ㨮ᓢᆓ 㧫 ർMO㨮ർ ᷡᐽᾊචᐕㆫ᧪㨫 MO 㙍ᆖ. ㈎⋵ທ㎾. ቊ⢫ੑᆓዬޕ. ቊᆓዬ㨮એᆓ᳁ ᓧฬ㨮ቊᆓᚑ ൻᐕ㑆㈎⋵ർᷰ ᐗᑪਃㅴ ㆫᱝ㨮ሶቊ❥ⴖ㨮 ၴޕ ᓔධಽᑪਔὑ ೨ቊ㨯ਛቊ㨮ᱝቊ ὑอቊ㨫ਛቊᷡ శ✜㑆άᲛ㨫 ቊᄢὑ㎾ᶏᆎ ቊብ᳭ਃ ቊޕ ේὑ⨹㨮࿃ᣧᐕ 㐿ㆊ៦ᴤဌ㨮ㆀฬ ᴤゞ㨫. . . . ᓢዏ⾫. ධ㚂⒓೨ヽ㨮ᓢᆓዬ ㈎⋵ᄤ ㇠ㇹヽ㨮 ᷡᐽᾊ⥋㓾ᱜ㑆㈎⋵ ┬ㇹ MO㨮ධMO ᄤ┬ૼᱝ㨫. . ヽિ᳓ਛਯ㒽 㨫ヽ⠪㨮ᣇ⸒ೣ ᵮޕ. . 28.
(29) 清代寧波沿海部における開発と移住 本田治. . ᓢ ᷡ㓾ᱜ ᳁ 㑆. ᓢᆓవ㈎⋵᧲ㇹⷰ ㈎᧲ㇹ ㇠ㇹᒛᓢ₺㨮 㖸ᐣ㨮อಽㆫ⥋㈎⋵᧲ ᄢბᓢ MO㨮ධ ㇹᄢბᓢኅ㨮ᷡ㓾ᱜ㑆 ኅ MO ౣㆫૼᱝ㨫. . ᓢ ᷡੇ㓉 ᳁ ᧃ. ㇠ㇹ▤ᳯጯ㨮 ᓢᆓᷡੇ㓉ᧃ㈎ᄢბ ㈎᧲ᄢ MO㨮ධ ᓢኅㆫૼ㨫 ბᓢኅ MO. . ᓢ ᷡੇ㓉 ᳁ 㑆. ㇠ㇹ⪇ኅ ᘏᷧ⋵ ᓢᆓᷡੇ㓉㑆ᓥᘏᷧ 㨮ካᵄMO㨮 ਃർ ਃർㆫ㨫 ධMO. . ᓢ ᷡశ ᳁ ೋ. Ꮢ㎾ᓢኅᐣ㨮 ᷡశೋ㨮ᓢᨱᓥᘏ ᘏၔ᧲ ർMO㨮ർ ၔ᧲㎾ᯅ᧪ᱝቯዬ㨫❥ ㎾ᯅ ⴖᚑ㨮ㆀฬᓢኅᐣ㨫 MO. . ᓢ ᷡశ 㧫 ᳁ ᐕ. . ᓢ ᷡశ ᳁ 㑆. ඨᶆㇹ㒽㜞㨮 ዬᚭਥᆓᓢ㨮ᓢᆓవ ർMO㨮᧲ർ ᷡశ৾ᐕㆫᱝቯ ዬ㨫 MO. ࿃⽺≘㨮ฬ௸ ↰₺㨮อᓢᆓૼᱝ ᑪ㨮⻃௸ᡷᆗ㨮 ᐗ፰ᓢᆓ⒓ᆗ ᓢ₺㨮ᒰᆗᒛห 㖸㨮 ᡷ 㕟 ᤨ౮ὑᒛᓢ₺㨮 ᴪ↪⥋ޕ ධ㚂⋭⚖㊀ ὐᢥ‛⼔න ⊕㔕ᐣ ↮⸽ੱ ᦠ㒮 ὑᧃᷡೋ ᵽ᧲ቇᵷઍੱ ‛㤛ቬ⟺⻠ቑ ಣޕ ⪇ᓢੑᆓዬ㨮ᓢ ᆓᑪ৻セᄢ ᤴ႐ 㨮⪇ኅੱ ৼ⥝ᣰ㨮࿃ฬ⪇ኅ 㨫. . ᓢ ᷡਛ⪲ ᳁. ᧲㇠ㇹ ᄢბ ၔౝḓ . ㇹ㘴⾠ᓢ⾠ཅ㨮ሼዏ ޕ. ㆫ㈎ᆎὑᓢ ᔕṽ㨮ᄺᓢ₺ὑ 㨫. ᓢ ᷡ ᳁. 㧫. ㄻഞ㇢ᓢ㡅ᐸޕ. ᓢ ᳃࿖ೋ ᳁ ᐕ. 㓸᷼ᴡᯅ. ඨᶆㇹ㒸ᐢᐣ㨮 ਰጊㇹ ᳃࿖ೋᐕ㨮ᓢᆓ⥄ ർMO㨮ർ ⯃ ਰጊㇹ⯃ㆫ᧪㨫 MO. . ᩵ ᷡశ ᳁ ທ⼾㑆. ᘏၔ. . ᩵ ᷡ ᳁. ᘏᷧ. ർ㇠ㇹ᩵ኅ㨮᧲ એᆎዬ᩵ᆓᓧฬ㨮᩵᳁ ർMO㨮᧲MO వᷡᤨ⥄ᘏᷧㆫᱝ㨫. . . ᷡᤨ⒓㊄ኅᯅ㨮એᆎ ዬ㊄ᆓᓧฬ㨫อᓢผொ ᧲㇠ㇹ ᧲㇠ㇹᖶ㚧ᯅ㨮 㒸⻉ᆓ⡝ዬ̖ᓢᆓ♽ᄢ ᄢბ ᧲MO㨮ർMO ბᓢኅಽዬᱝ㨮Ꮗ ઍ㨫 ඨᶆㇹ෩ኅᳰ㗡 ᳃࿖ᐕᓢᆓካᵄ ካᵄ 㨮ർMO㨮 ㆱ㔍⥋ᱝ㨫 ർMO ඨᶆㇹ ඨᶆㇹᮮᴡ㗡㨮 ᳃࿖ᐕᓢᆓ↱ㇹ 㒽㜞 ർMO㨮ർ ౝ㒽㜞ㆫ᧪㨫 MO . ᩵᳁వේᘏၔ㨮ᷡ శທ⼾㑆᷿ᆗḓ㨮 ᘏၔ㎾᩵ኅ㨮ካ ㎠㔤Ღ⑲㨮᥊⦡ ᵄർMO㨮᧲ ఝ⟤㨮ㆀ⾼ᑪᚱ㨮ቯዬ ධMO อ⊒ዷᚑ㨮એᆓ᳁ ᓧฬ㨫. 29. . ᧲㇠ㇹዊᓢኅ㨮 એਥዬᓢᆓᓧฬ㨫ᓢᆓ ᧲㇠ㇹ ᧲MO㨮᧲ർ ᷡశ㑆⥄㈘ᓢኅ ᓢኅ MO ಽዬᱝ㨮ฬዊᓢኅ㨫 อᐳ⍹ᯅ㨮ฬ 㚍㇢ᯅ㨮એᯅᓧ ฬ㨫. ᓢ ᳃࿖ ᳁ ᐕ. . ᆎዬ㒽ᆓ㨮ಣᐔේ 㜞㨮ฬ㨫 ᐕ㒽ᆓᄖㆫ㨫ฬ ᴪ↪㨫. ᵩႤ㎾ ㇠ㇹ㚍㇢ᯅ㨮 ♽ᓢᆓዬ㨮ᧃᷡ ᵗᏒ ർMO㨮ർ ೋᓥᵗᏒᓢኅㆫᱝ㨫 ᓢኅ MO. ᓢ ᳃࿖ ᳁ ᐕ. . . ᓢ ᧃᷡ ᳁ ೋ. ᓢ ᷡ ᳁. . . . ᆎዬ㒸ᆓ㨮㒸᳁వ ᷡೋ⥄ᐢ᧲ㆫ ᱝቯዬ㨮ฬ㨫. . . .
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