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ニヒリズムから価値哲学へ : <ポスト・モダン文化>の哲学者としてのリッカート(1)

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Academic year: 2021

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(1)131. ニヒリズムから価値哲学へ -<ポスト・モダン文化>の哲学者としてのリッカート(1). ft &軒 (平成11年9月20日受理) 序章「哲学史的評価」とその吟味. しかし,単一の価値尺度によって合理化を遂行しよう とする「近代(モダン)」の営みが,かえって合理化の. 現代フランスの思想家リオタールは、現代哲学の状況. 完遂が不可能であることを暴露してしまい,結局,自己. を概観した『ポスト・モダンの条件』という著作の中で, 「極度の単純化を憧れずに言えば」という留保をつけた. 崩壊に至ると指摘したのは, 1979年のリオタールではな く, 1924年のリッカートであった4。リッカートによれ. 上でのことではあるが,真理や正義といった価値に依拠. ば, 「近代」は「発展の障害となる前時代の伝統」 (KP. して,自らを正当化するような思想を「モダンの思想」. 138)を吟味し,合理化しようとする「主知主義」によっ. と,正当化を与えるこのような「メタ物語」に対して不. て始まった。しかし,この「主知主義」の批判的な眼差. 信感をつきっけるような思想を「ポスト・モダンの思想」. しは自らが依拠する基礎づけ自体へも向けられるように. と呼んでいる1。このような分類に従うならば,リッカー. なり, 「懐疑論」を引き起こし,さらには, 「不合理主義」. トが「モダンの思想」に属し,もはや過去の思想家であ. をも生みだすことになる。 「近代」には<合理的基礎づ. るということには疑問の余地がないように思われる。と. け>という側面と<批判的解体>という側面との自己撞. いうのも,リッカートは, 「実在」に関する認識が可能. 着的な対立が内在しているのであるoそして. 1 9世紀. となるためには, 「実在」から超越した「価値」が前提. 末から2 0世紀初頭にかけてのドイツ哲学において,こ. とされざるをえないとし,このような「価値」に依拠し. の対立は,自然科学に範を仰ぐ「実証主義」と, 「坐の. て,諸学問の体系を構築しようと目論んだからである。. 哲学」に代表される「不合理主義」との対立として現れ. 実際,彼は, 「諸学問の危機」が叫ばれた1 9世紀末か. るoリッカート自身は「哲学が文化哲学として一面的な. ら2 0世紀初頭にかけて, 「危機」の克服を目論む新カ. 不合理主義だけではなく,一面的な合理主義をも同様に. ント派の旗手として注目され,日本においても大きな影. 回避しなければ,今日時代を支配している紛糾はいっも. 響を及ぼした。しかし,最近出版された新カント派につ. 繰り返される.ことになるであろう」 (KP31)と述べ,こ. いてのモノグラフィーは新カント派を次のように評価し. の対立項のどちらにも与することなく, 「現代文化をそ. ている。 「[第一次世界大戦後すでに]新カント主義が過. の多様性と差別性において理論的に把握するような哲学」. 去の哲学であることが,すなわち,過去のものとなりつ. (KP137)を構想することを試みた。. つある1 9世紀の哲学,世紀末の哲学であることが露わ. ここで,特定の価値尺度による合理化を目指す「主知. にされた」。これに対して,将来の哲学者であることが. 主義」が「モダン」の思想に相当し, 「生の哲学」の代. 証明されたのは新カント派ではなく, 「価値の転倒」を. 表と見なされているニーチェが「ポスト・モダン」の思. 試みるニーチェであった2。その後, 「現象学,実存哲. 想家たちに大きな影響を及ぼしていることを考慮に入れ. 学,生の哲学」の影響を受けた「現代思想」の展開の中. るならば,リッカートを単純に「モダン」の哲学者にす. で,リッカートは忘れられた哲学者となり,アクチュア. ぎないと見なし, 「過去の時代の哲学」として片づける. ルな思想家として論じられることはまれになった。 「新. ことはもはやできなくなる.確かに,彼は,ニーチェを. カント主義が現代の哲学上の論争に占めている比重を. 持ち出すことであらゆる「価値」は全て否定されたとす. [新カント主義よりも]一・二世代新しいヴィトゲンシュ. る軽薄なニーチェ主義者には厳しい批判を向けており,. タインやハイデガーといった哲学のそれと比較してみれ. その点では,安易な「近代批判」に対して批判的な立場. ば,新カント主義が現代哲学の舞台に登場するにしても それはどちらかといえば,歴史的な現象として,すなわ. を取っている.しかしながら,彼自身は,ニーチェのア. ち,過去の時代の哲学としてにすぎないということが,. 封じ込めてしまおうとするような反動的な反・ニーチェ. ただちに明らかになる」3。このような評価は決して特. 主義者では決してない5。むしろ,彼は,ニーチェを批. 殊なものではなく,むしろ,広範に見られるものである。. 判しつつも,ニーチェによる近代批判を真剣に受け止め,. ・兵庫教育大学第2部(社会系教育講座). ンモラルな側面を持ち出すことで,ニーチェ的な批判を.

(2) 132. その上で自分自身の立場を主張している。すると,リッ カートによるニーチェとの対決,リッカート自身の理論. リズムの克服をはかっていることを明らかにする(第三 章)。. 展開を考察し直すことによって,リッカートの思想を現 代の「ポスト・モダン的状況」に関わる思索として捉え. 第一章ニーチェに対する批判と共通性. 直すことが可能となる。リッカートは『モダン文化の哲 学者としてのカント』という著作の中で, 「どのように. リッカートは『フィヒテの無神論論争とカント哲学J]7. 考えてもカントを現代の哲学者と見なすことはできない。. の「追捕」 (1924)の中で彼が哲学を学び始めた時代の哲 学の状況を次のように回顧している。 「一方では,直接 の印象あるいは体験を目当てにしたいずれにせよ個別科 学的に仕込まれた精神的態度と,他方では,情意の要求 に駆られてあらゆる感性界の彼岸を暁望する形而上学的. 彼の思索を現代一般の「精神」と関連づけようとしても, 彼の最も重要な業績は, E]下のところ「生の哲学」とし て学問においても好まれ,流行している極端な直観主義 や不合理主義とはまったく正反対のものであると言わね ばならない」 (KP6)と認めつつも,カントこそが,流行 の哲学を克服する見方を提示していることを示そうとし た。まったく同じことが,リッカート自身にも当てはま るoリッカートはもはや境代の哲学者とは見なされてい ないが,現代の哲学者たちの思索を可能ならしめている 地平を切り開くのに一定の役割を果たした。その意味で は,彼を「ポスト・モダン文化」の哲学者として位置づ け直すことも不可能ではないのである。 リッカートの思索を「ポスト・モダン文化」に対応し うるものとして位置づけ直すことによって,リッカート を「現代思想」の地平から見れば「過去の哲学者」であ ると見なす哲学史的「通説」を訂正し, 「2 0世紀哲学 の歴史」というこれから展開されるべき課題に寄与する ことが可能になる。その際,二つの課題を設定すること が必要となるOリッカートの「価値哲学」は一見したと ころ「モダン」に属するように思われる。しかし,この 「価値哲学」は,ポスト・モダンの思想の特徴と見なさ れる「反・モダン」的批判がもたらすニヒリズム的状況 から出発しつつも,それに留まることなく,それを克服 することを試みている。第一の課題は,前期リッカート の思索を解り上げ,ニヒリズムを克服する「価値」定立 のあり方を明らかにすることである。しかしながら,こ のような「価値」の思索を徹底化させる中で,中期以降 の思索の転回が引き起こされ, 「価値」と「実践」との <絡み合い>が主題化されることになる.この主題化に よって,リッカートは「現代思想」が可能となる場の準 備に参画することになる。このことを明らかにすること が第二の課題となる6。 本論文では,第一の課題に取り組み,以下の順序で論 じていくことにする。まず, 「価値」の問題を取りあげ, 前期リッカートの思索の出発点がニ-チェの思想と共通 しており,ニーチェの価値批判を受け止めることができ るということを示す(第一章)。しかし,前期リッカー トはニーチェのようにニヒリズムにとどまることなく, 価値の再建を試みている(第二章)。そして,まさにこ の試みの中で,リッカートは「価値」が「判断行為」と の相即関係によって支えられていることを見出し,ニヒ. 思弁。この二者の帝離に悩むものは独りパウルゼンの思 惟のみではなく,我々の時代の哲学も同様なのである。 人は本来の学を,経験の実り多い地盤に限るが,この場 合世界観の要求は満足せられないから,空想でもってつの夢の国を創り上げ,その材料は心情のねがいによっ てもたらされる。事情はほぼこうなのである。かくて人 は「直接なる生」の哲学を,同時に又「形而上学の蘇生」 を要求する。おうおう超感的彼岸は感性的此岸において 直接に体験されるはずである,何となれば結局すべては 「体験」されるはずであるから。かくして混乱が完成さ れる」8。すなわち, 「世界観の要求」が当時の経験論的 な「主知主義」によっては満たされないため,その制約 を超えるような「直接なる生」に依拠しようとする「不 合理主義」 (例えば,ショーペンハウア-の思想)が広 まっていたというのである。 しかし,リッカートはこのような傾向に対しては批判 的であった。なぜならば,学によっては捉ええないとさ れる「生」の直接性に依拠しようとする「生の哲学」は, 学の放棄にはかならないからである。彼は,あらゆる認 識が前提とせざるをえない「価値」の問題を思索するこ とによって,このような「不合理主義」を克服すること を試みる。これが彼の思索の基本的なモチーフとなる。 後に彼はこの「価値哲学」を体系的に展開しようとして 『哲学の大系』という著作に着手する9。しかし,当時 の流行思想は反・体系性を標梼する「生の哲学」であり, 彼の立場と対立するものであった。そのため,彼は改め て『生の哲学』という著作を著し, 「生の哲学」に対す る批判を展開している10。 この著作において,リッカートは「生の哲学」を「生 が万有(Weltall)の本来的な「本質」であると説明し, 同時に生を万有を把握するためのオルガノンとする」 (PL6)立場と規定し,ショーペン-ウア-,キルケゴー ル,ベルクソン,ニーチェ,ジェームス,ジンメル,ディ ルタィ,フッサール,シェ-ラーといった当時の代表的 な思想家たちをすべて「生の哲学」に数え入れている11。 このような「生の哲学」は「固定的な体系性」に基づく 「概念的思考」によっては流動的な生の実相を把握する.

(3) ニヒリズムから価値哲学へ. 133. ことはできないとし,これらを批判し,代わりに「生動 性,直接性,根源性,直観的不合理性」 (PL28)に依拠. 実際には現実に存在する様々な実践的行為との関係の中. するとされる。リッカートは中でもニーチェの思想を典. で成立したものであることを明らかにしようとしたが,. 型的な「生の哲学」と見なしている。実際,ニーチェは. この主張は,リッカートの批判を考慮に入れても,依然. 「超越的価値」の定立が「生」を抑圧するとし, 「諸価値. として有意味である12。リッカートは, 『生の哲学』に. の転倒(die Umwertung der Werte) 」を試みている。 しかるに,リッカートにはこのような「不合理主義」. おいては. 「生の哲学」のこのような積極的な側面を評価 することはなく,その点では皮相的な理解にとどまって. する「価値」の内実が自己完結したものではありえず,. は受け容れがたいものであった。彼は著作『生の哲学』. いると言わざるをえない.そのため,リッカートによる. において「生の哲学」を以下のように批判している。す. 批判は, 「モダン」を批判する立場(反モダン)を, 「モ. なわち,思惟は概念によって可能となるのであり,概念. ダン」の「価値」に依拠して,批判するという図式の中. は体系を前提とするのであるから,概念や体系の否定は. にとどまっているかめような印象を与えてしまう。この. 思惟の可能性の条件を否定することになってしまう。従っ. ように,リッカートは, 「生の哲学」に代表される「不. て,生という現象を思惟するためにも,概念や体系が前. 合理主義」のもたらす帰結を受け容れがたいものと見な. 提とされなくてはならない。その上,硬直化した枠組み. し,一貫してこれを批判しており,彼が不合理主義に代. を乗り越えていくことに「生」の本質が存するとされる. わるものとして「価値哲学」を主題的に展開しているこ. のであるが,そもそも,そのような乗り越えが可能にな. とを考慮にいれるならば,彼が「モダンの思想家」とし. るためには,その乗り越えを意義づけるなんらかの「価. て位置づけられていることももっともなことのように思. 値」が前提とされているのでなくてはならない。例えば, このことはニーチェ自身の哲学についても当てはまる。. われるのである。 しかしながら, 「近代批判」に対するリッカートによ. 彼はキリスト教的道徳が「奴隷道徳」であることを「暴. る批判はこのような形式的な側面にとどまるものではな. 露」する。しかし,この「暴露」という行為は「真実」. い。そのことを明らかにするためには,まず,彼の批判. という価値を前提としている。このようにして,リッカー. を思想史的背景の中に位置づけ,そしてさらに,彼の批. トは自分の価値哲学を「生」の把握のみならず, 「生」. 判を彼自身の思索の流れの中に置き直すことが必要にな. の存立のための前提条件と見なす。 確かに,ある価値は別の価値にとって代わられるかも. る(後者については第二章を参照)0 リッカートは近代哲学の流れを三つの傾向から考えて いる13。まず第-が「独断的主知主義的傾向」であり,. しれない。しかし, 「価値という形式」そのものは否定 することはできない。 「ニーチェが試みたようなあらゆ. 第二が「懐疑論的感覚主義」であり,第三が「反主知主. る価値の転倒は学の課題ではありえない。それだけでは. 義」である。彼によれば, 「主知主義」そのものはギリ. ない。そもそも,価値が価値として転倒されるなどとい. シア以来のものであるが,それが, 「近代」になって,. うことが可能であろうか。人間による価値づけや価値へ. 特定の尺度による基礎づけのみを追求しはじめたとき,. の態度が価値そのものと取り違えられてはならない。こ. 「独断的主知主義」となる。例えば,彼は,デカルトを. のような価値づけや価値への態度は影響を受けて変化し. 近代哲学の最初の体系家であると考えているが,デカル. うる。したがって,ある価値が別の価値にとって代わり, 評価されるようになるということは起こりうるかもしれ. トは「明噺・判明な知」に「認識」を基礎づけようとし たのであった。しかし,このような究極的な基礎づけは. ない。しかし,だからといって,この価値そのものが転. 結局は挫折し,自分自身の基盤を蝕み, 「懐疑論」に至. 倒されるなどということはありえない。これらは変わら ぬままである。価値としての価値は変化しえない。私た. 義の嫡子である14。しかし, 「人間悟性の心理学的分析. ちの価値への態度が変化を被るだけなのである」 (PL. は,しだいに,世界の本質を認識する能力をますます疑. 185f.)e確かに,以上のようなリッカートによる批判は,. わしいものと見なすようになってゆき,そして最後には,. ることになる。例えば,イギリス経験論は近代の主知主. 「生の哲学」の「遂行矛盾」を指摘しているという点で. あらゆる主知主義に反感を持っているように思われる極. は有効なものである。 「生の哲学」は<それまで思惟さ. 端な感覚主義に頼るようになった」 (KP132)Cこのよう. れてこなかったもの>を証示しようとするあまり, <そ れまで思惟が依拠してきたもの>に対して批判的になり. な動きはやがてヒュームの懐疑論へと至ることになる。 ヒュ-ムは「合理主義」の独断を吟味する中で, 「合理. すぎる傾向があり,その結果, 「遂行矛盾」に陥ってし. 主義」の基盤そのものを掘り崩してしまった15。また,. まう。しかしながら,このような「遂行矛盾」は形式的. 1 9世紀後半においても, 「経験論」の影響を受けた. なものでしかなく,そのことによって「生の哲学」によ. 「心理学主義」が,自然科学に範をとった心理学によっ. る批判すべてが無効になってしまうわけではないという. て学を基礎づけようと試みたが,やはり失敗する結果に. 解釈も可能である。例えば,ニーチェは,超越性を標模. 終わっている。リッカートはこのような心理学主義を.

(4) 134. 「懐疑論的感覚主義」に数え入れている。さて, 「主知主. いるのは,表象と表象との相互関係にすぎないというこ. 義」のこのような挫折は「主知主義」の限界を露にし, 「不合理主義」への道を切り開く。まさに,このような 「不合理主義」として「生の哲学」が登場したのである。 「近代」を,あらゆる既存の「制度」に対して批判的な 眼差しを向け,徹底的な合理化を求める運動と規定する ならば,それらの「制度」を解体してしまう「生の哲学」 もまた近代の思想の嫡流にはかならない。このように,. とになってしまう。しかし,そうであるならば, 「実在」. リッカートは「モダン」の「主知主義」が「懐疑主義」 を生みだし, 「不合理主義」へと転化していくという流 れを歴史の趨勢として考えている。したがって,彼はそ の出発点からして, 「不合理主義」のみならず, 「主知主 義」に対しても批判的な眼差しを向け,狭量な「主知主 義」の克服をも目指している。そのための前提条件とし て, 「不合理主義」からの批判を受容し,その「意義」 を承認してもいるOそのため,リッカートの思想はこチェの批判的思索と通底する部分を持つことになる。 リッカートがニーチェに直接言及するのは,主として 『生の哲学』や『現代文化の哲学者としてのカント』と いった文化批判を行った著作においてであるが,ニーチェ との共通性がより明らかになるのは,意外なことに,む. には「現象」を基礎づけるだけの権能が欠けているとい うことになる。このようにして, 「素朴実在論」は破綻 することになる。すると, 「実在」は主観のもつ表象か ら独立でなくてはならないということになる。これが 「形而上学的実在論」である。しかしながら,そのよう な「実在」は主観には到達し得ないものであり,とうて い容認しがたい。結局,リッカートは「素朴実在論」に せよ, 「形而上学的実在論」にせよ, 「実在」による基礎 づけという考え方を批判し,退けることになる。 かくして,リッカートは,主観は意識されたものの領 域を超越することができず,人間が直接・間接に知りう るのは(自己の意識全体と言語を介して知られる他者の 意識からなる) 「内在的世界」の出来事だけであると考 えるようになる。実在論批判の必然的な帰結が内在論な のである。 「すなわち,一方では,知は意識が到達しう るよりも広い範囲には到達しえないという命題が自明な ものと見なされ,それにともなって,意識の「外部」の 物の実在は少なくても問題的なものにとどまらざるをえ ないということになる」 (GE(2)3)。しかしながら,こ. しろ『認識の対象』16や『哲学の体系』において展開さ. のような「内在の立場」にとどまるかぎり,あらゆる表. れたリッカートの理論的な思想においてである。以下で は,二つの点で,リッカートの思想がニーチェの思想と 通底しあっていることを示す。 まず第-に,両者ともに「現象」を背後から支える 「背後世界」を否定している。. 象はともに同じ資格しかもちえず,そこには客観的なも のを主観的なものから区別するための尺度が存在しない. ニーチェが, 「現象」の背後にあって,これを支える ような「背後世界」を否定していることはよく知られて いる。ニーチェによれば,人間は「現象」の背後へと遡 及することはできないO 「境象」を支えるとされてきた 「背後世界」は,生成変化する「現象」の世界に不安に なった人間が「担造」したものでしかないというのであ. いては,ニーチェと同様にニヒリズム的であるO さて,第二に,ニーチェもリッカートも,認識におい て認識主観の実践が果たす役割をともに重視している。 通常,認識は実在によって導かれるが故に,客観的なも. る。「プラトニズム」や「キリスト教」に見られるよう に,人間は「背後世界」を措定することによって, 「現. る。両者はともに,認識を支えているのは認識主観の実 践であると考える。. 象」を意味づけしてきた。しかし, 「背後世界」の批判 とともに, 「現象」はそのような価値を喪失することに なるoそれがニヒリズムである。このようにニーチェは 考えている。 リッカートもまた「背後世界」を拒否している17。リッ カ-トは「現象」を支えるような「実在」を否定する。 伝統的に認識とは「客観的な対象と主観的な表象との一 致」であると考えられ,主観の持つ表象は実在の模写, 実在の記号であると見なされてきた。このような考え方 は「模写説」ど呼ばれている。しかし,実在がなんらか の仕方で主観によって把握されうるのであれば,把握さ れた実在もまた一種の表象であるということになる。す ると, 「対象と表象との一致」ということで考えられて. ということになる。後で見るように,リッカートはこの ような状況の中で,客観性がいかにして可能となるのか を思惟しようとするのであるが,少なくとも出発点にお. のとなると考えられているのであるが,実在論を否定す るとき,もはや認識は実在に依拠することができなくな. まず,ニーチェは,キリスト教道徳を批判するにあたっ て,道徳が例えば神といった超越的な根拠によって支え られているわけではなく, 「ルサンチマン」をいだく 「弱者」たちがその状況を逃れようとして,道徳を作り 出すのだと考えている。また,一般に「真理」は各認識 主観の窓意からは独立であると考えられているが,ニー チェによれば, 「真理」とても認識主観にとって都合が よいように担造されたものでしかない。人間は生きるた めに真理を必要とするのであるO 「背後世界」という基 礎づけのあり方を批判する中で,彼は, 「価値」や「真 理」といった, 「現象」に対する意味づけはすべて認識 主観の何らかの「パースペクティヴ」からなされた「解 釈」にすぎないと考えるようになる。 「真理」とても認.

(5) ニヒリズムから価値哲学へ. 識主観が生みだしたものだというのである。. 135. ことができる。. そして,以上において見たように,リッカートもまた, 「真理」や「価値」が実在的な根拠によって支えられて. 第二章超越論的観念論. いるわけではないと考える。例えば,実在性は実在物に よって確認されうるようなものではない。彼の考えによ れば,実在性や真理は,判断主観が価値にコミットし, その「規範」に従って判断することによって産出される (この点については第二章において論じる) Oリッカー. 第一章において見たように,リッカートはニーチェに よる「モダン」批判を真筆にうけとめ,その主張を受容 していた。しかし,リッカートは単なる「モダン」批判 にとどまることなく, 「モダン」とは別の仕方で価値を. トは, 「理論理性」には,価値へのコミットメントとい. 定立することを試みている。この章では,彼の「価値」. う「実践理性」が先行していると考える。 「思惟や認識. 定立の試みがいかなるものであったかを明らかにする。. に関する広範にみられる考え方によれば,表象すること. さて, 「実在論」とは真理が実在に支えられていると. と判断することとを互いに関連しあっていると見なし,. いう考え方であり,真なる命題を偽なる命題から区別す. これらを感じることや意欲することと対置する。これに. る基準を実在に求めることができるという考え方であっ. 対して,我々は,もし心的な出来事一般について同様な. た。ただし,リッカートはニーチェと同様にこのような. 分類をなさねばならないとすれば,表象することを一方. 考え方を否定していた。しかし,実在論を否定するとい. の組に,そして,肯定的あるいは否定的に判断すること. うことは,真なる命題と偽なる命題とを区別する基準を. を感じることや意欲することとともにもう一つの別の組. 表象の外部に求めることを否定することである。このよ. に分類しなくてはならないと考える。完全に展開された 判断の中にも一つの「実践的な」態度が,しかも判断の 論理学的な意味にとって本質的なものとして,存在して. うに実在に支えを求めない立場をリッカートは「内在の 立場」と呼んでいる。しかし,その結果,いかなる主張. おり,この態度は肯定においては何ものかを承認し,香. も単なる表象にしか支えられていないという意味におい て同等の資格しか持ちえないということになってしまい,. 定においては何ものかを拒絶する」 (GE(2)106)。確か. 真なる命題を単なる主張から区別する基準が失われてし. に,最終的にはリッカートはニーチェとは別の帰結を引. まうことになる。このように,意識内容の世界に留まる. き出すことになる。しかし, 「真理」や「価値」には認. 限り,あらゆるものは表象にすぎないため,客観的な認. 識主観のコミットメントが先行していると考える点では,. 識は不可能となってしまう。かくして,認識に客観性を. ニーチェと同様な考え方を取っているのである。. どのように保証するかが大きな問題となる19。. 以上において見てきたようにリッカ-トはニーチェに. 「内在論」を出発点としつつも,真理を説明しようと. 代表される「近代批判」を真撃に受け止め,その主張と. する一つの試みが心理学主義である。心理学主義によれ. 同様な地点に立っていた。実際,リッカートの思想の出. ば,認識は認識するという意識の作用によって生みださ. 発点は近代的主知主義とそれが生みだした懐疑論との対. れるのであるから,この作用を分析することによって,. 立状況にあった。しかしながら,リッカ-トはその地点. 認識を説明することができるとする。しかしながら,リッ. に立ち止まるわけではなく,この対立を克服するような. カートは心理学主義の着想を退けるOたとえ,心理学主. 仕方で,一旦は批判された価値を再建することを試みて. 義の主張するとおり,認識が心的な現象であり,認識作. いる18。このようなことを考慮に入れるならば,リッカー. 用に依存しているにしても,認識の内容と認識の作用は. トの思想を単純に「モダン」の側からの単純な反動と見 なし,ニーチェによって乗り越えられてしまっていると. 区別されなくてはならない。認識することと認識された. 考えることはできない。むしろ,彼はニーチェ以降の状. あるとされた事態は,ある個人がそれを認識するかどう. 況を踏まえ,それを克服しようとしているのである。と. かに関わりなく,妥当するのでなくてはならない。した. すれば, 「ポスト・モダン」という符丁で,あらゆる. がって,認識作用によって認識内容を説明することは不. 「価値定立」はもはや不可能になってしまったとする. 当である。そもそも,認識が認識作用に依存していると. 「軽薄なニーチェ主義」や,アウシュビッツを持ち出す. しても,認識作用を導く客観的なもの(認識の対象)が. 内容は別の次元のものである。例えば,認識され,真で. ことで,ニーチェ的問いじ込めようとする「反ニーチェ. なければ,それを支える作用すら,ほかならぬ当の認識. 主義」が未だに存在する現在においても,リッカートの. の作用として把握されることもありえないはずである。. 思索は有効であり,簡単に「過去の思想家」として片づ. このように,実在的な認識作用と認識された内容とを区. けることはできないということになる。それどころか, 今求められている価値の再建の試みの先駆であり,ニー チェの思想の射程を測るゾンデともなる。そのような意. 別していないという点で心理学主義は不十分である(vgl. GE(2)94)Cそもそも,心理学が対象としうるのは心的 作用として存立している表象やその複合であるが.これ. 味で,彼は「ポスト・モダン」の思想家であると考える. らをただちに主観的で個別的であると言うことはできな.

(6) 136. いにしても,だからといって客観的で普遍的であるとは. 象結合であり,表象という点では同等である。しかし,. 決して言えない。しかるに,認識の内容そのものは客観. これはこれらの主張がすべて客観性の裏付けを欠いてい. 的で普遍的でなくてはならない。このように,認識の客. るということを意味する。これに対して, 「判断する主. 観的な「妥当」それ自体は心的作用を超越しており,ら. 観」は,真と見なされる表象結合を,偽と見なされる表. はや原理的に心的な表象としては現れえない。心理学主. 象結合から区別しなくてはならない。しかるに,この区. 義は主観的表象の上に客観性を基礎づけようとしており,. 別それ自身は客観的なものでなくてはならず,もはや表. 必然的に挫折せざるをえない20。. 象的ではありえなかった。このように「判断する主観」. このように,内在論が, 「超越的なもの」を見つけだ すことができない場合,真理を功利的なものと見なす,. は内在的領域にとどまる限り,不可能な区別をすること を求められることになる。. すなわち,役立つような命題を真理と見なす立場が生じ. そこで,リッカートは単なる表象結合と認識とを比較. る。 「それゆえ,首尾一貫しているように思われるのは,. することを通して,認識を単なる表象結合とは別な客観. 超越的な事物が実在することをひとたび疑わしいと考え. 的なものにしているもの,ただし,実在とは異なった仕. るようになると,世界に対しても純粋に理論的な立場に. 方で,認識の客観性を可能ならしめているものを「認識. 立とうとはもはや思わなくなるということである。その. の対象」と名づけ,これを探求する。 「認識の概念には,. 場合,かろうじて表象が意味を持ちうるとすれば,それ. 認識を行う主観の外に,認識される対象が属している。. は,その表象が個人の快不快の感情と結びつき,個人を. さしあたり「対象」という名称のもとに理解されねばな. 意欲や行為へと動機づける場合にのみである。すると,. らないのは,認識する主観に対立するものに他ならない。. 世界が意味を持ちうるのは行為においてのみということ. ここで認識する主観に対立するというのは,認識がその. になる。学問が価値を持っのは,生きるために利用しう. 目的を達成しようとするならば,この対象に従わなくて. るものを学問から引き出すことを期待しうる場合にのみ. はならないという意味においてである。認識の目的は真. である。これが純粋な内在の立場,あるいは,実証主義. あるいは「客観的」であることに存する。私たちの問い. の避けられない帰結である」 (GE(2)76)cすでに見たよ. は,認識の対象とは何かである。別の言い方をすれば,. うなニーチェのパースペクティヴ主義も手の流れの中に 位置づけることができる。しかし,これは,認識を個人. 何によって,認識はその客観性を獲得するのかである」 (GE(2)l)e. 的な実用性に委ねてしまうことになり, 「超越的価値」. まず,リッカートは表象と認識とを区別する端的なメ. の放棄につながってしまう。リッカートはプラグマティ. ルクマールを「問いに対する態度決定」として定式化す. ストやニーチェのように認識の客観性を断念することを. る。というのも, 「問いは,それが一義的である場合に. 回避しようとする210. は,判断を構成するすべての表象的要素をいっもすでに. 問われているのは,主観的で個別的な作用がどうやっ. 含んでおり,問いに欠けているのは判断によって要求さ. て客観的な普遍性を産出しうるのかである。心理学が認. れる決定だけである」 (GE(2)96)からである。この「問. 識作用の事実的な側面しか考察しえないのに対して,諺. い」に対して, 「肯定」 (あるいは「否定」)が付け加わ. 識論は,まず,心理学的出来事の領域からは独立した論. ることによって,単なる表象結合は「認識」となる。. 理学的意味の領域への超越を明らかにし,そしてその上. 「一義的な問いに対する答えの本質は,その問いがそも. で,その超越がどのようにして可能となるのかを思惟し なくてはならない。. そも答えられうるのであり,それゆえ,要求された判断 が可能であるなば,肯定,あるいは,否定の内にのみ存. さて,以上において見たように,リッカートは,心理. する。論理的な判断の理想は,すでに問いの内に存する. 学主義やプラグマティズムがもたらす帰結を拒否してい. 表象的な構成要素を肯定することや否定すること無しに. た。この帰結はこれらの立場が表象と認識とを混同する. は考えられない」 (GE(2)96)22。. ところから生じていた。心理学主義批判が明らかにした. リッカートは,アリストテレスにならって,もともと. のは,認識の存在(判断という心的作用)と認識の内容. 真理は表象に存するのではなく,判断の内にあると考え. とを区別しなくてはならないということである。表象を. る。判断とは単なる表象結合ではなく,その結合に真. 直ちに主観的で個別的でしかないと言うことはできない. (偽)という価値,しかも,表象に還元されえないよう. にしても,だからといって客観的で普遍的であると言う. な価値を是認することなのである。例えば,ある音を聞. こともできない。したがって,客観的で普遍的であらね. くことと,ある音について判断を下すこととは,表象と. ばならない認識盲表象と同一視することはできない。認. しては違いがないが,まったく別の事柄である。前者が. 識には表象に還元されえない客観的な要素が含まれてい. 内在的領域にとどまっているのに対して,後者はそこか. るのでなくてはならない(vgl. GE(2)89)C 「表象する主観」にとってはあらゆる主張は単なる表. ら超越したものにコミットしているからである。 それでは, 「判断する主観」が「判断」によって「表.

(7) ニヒリズムから価値哲学へ. 象」を「認識」へと高めるとはいかなることか。リッカー トはこの問題を考えるために, 「実在性」の判断を具体 例として考察する。すなわち,リッカートは実在性の判 断を導き,この認識に客観性を付与しているのは何かと いう問題を考察する。それというのも,認識は基本的に 実在物に関する判断であり, 「Ⅹが存在する」という認 識があらゆる認識の存立条件となるからである23。 伝統的な考え方(例えば,実在論)によれば,実在物 が実在性の判断の正当性を保証するとされる。すなわち, Ⅹが実在するが故に「Xが実在する」という認識が成り 立っとされる。しかし,これは循環である。というのも, 「Ⅹが実在する」という認識が成立するためには「Xが 実在する」ということを認識しなくてはならなくなるか らである。. 137. たりうるというのである。 「それゆえ確かに,明証性は, 心理学的に見れば,快の感情である。しかし同時に,明 証性は,他の感情には欠けている固有な特徴と結びつい ている。その特徴とは,明証性が判断に超時間的な妥当 性を賦与し,そうすることによって,判断に,他の快の 感情によってはもたらされない価値を与えるということ である。だが,ここから私たちの問題に対して,ひとっ のとても重要な帰結が生じる。いかなる判断の内にも認 められる価値は,超時間的であるから,私たちが表象し, 時間的形象として始まりと終わりを持つようないかなる 個人的な意識内容にも依存していない」 (GE(2)112)C 判断を下す主観は主観的・個別的条件に規定された経験 的主観ではなく,それらの個別的な条件を捨象し,客観. るいは,範噂はあらゆる個々の特殊な知覚や経験に概念. 的な規範に従属する判断主観でなくてはならないのであ る。 確かに, 『認識の対象』 (第二版)におけるリッカー トは論理的なものと心理的なものを明確に区別しえてい ないため,奇妙な表現が散見される。例えば,リッカー トは「私は,判断しようとするとき,私が同意をよせる 明証性の感情によって,同時に自分が拘束されているの を感じる。すなわち,私は窓意的に肯定したり,否定し たりすることができないのである」 (GE(2)112f.)と述 べている。しかし.ここでリッカートは明証,確実性と いった論理的なものを感情という心理的なものと混同し てしまっている27。厳密に考えるならば, 「明証性の感 情によって拘束されている」ではなく, 「明証性によっ. 上先行している。あるいは,個々の経験や知覚は規範の 承認によって,所与性の範噂によって「生みだされる」. て拘束されて.いる」と言わなくてはならない。また, 「私の判断を,したがって,私の認識を導いているもの. (erzeugt)」 (GE(2)182)26。. は,こう判断するべきであって,別様に判断すべきでは. けれども, 「判断する主観」による「肯定」という行 為が単なる表象を客観的認識に高めるということになる. ないという,直接的な感情である」 (GE(2)115)とも述. そこでリッカートはカントにならって,実在が判断を 導くのではなく,反対に,判断が実在を規定すると考え る24。 「この判断[実在判断]は,実在的であるものに ついて言明するがゆえに,真であるとされるのではない。 そうではなく,私たちは,判断によって実在的であると 認められるべきものを-・-実在的であると呼ぶのである」 (GE(2)117)25。 しかし,以上のように考えるならば,実在すると判断 することによって,実在物が「産出」されるということ になる。そして,実際,リッカート自身も次のように述 べている。 「当為を承認する判断という形での思惟,あ. と,個別的行為の上に客観性を基礎づけるという矛盾し たことを行っているのではないかという,心理学主義に 対する批判と同様な問題が生じることになる。これに対 して,リッカートは次のように答える。 「いかなる判断 においても,判断を下す瞬間に,前提されているのは, その瞬間に存在する価値感情に依存することのない,超 時間的に妥当する何ものかを承認しているということで ある。この超時間的な妥当性に対するこのような信仰こ そが,論理的な判断(私たちは肯定あるいは否定をこう 呼びたいのであるが)の固有性を,快楽諭的な判断とは 対立的なものにしている」 (GE(2)112)cすなわち, 「実践的態度」が「単なる表象結合」と「認識」とを区 別するといっても,このような判断を導いているのは, 主観の個別的で主観的な作用ではなく,あくまでも,普 遍的で客観的な(それ故,もはや実在的ではなく,むし ろ,それを超越している) 「価値」なのである。このよ うな「価値」に従うからこそ,判断もまた客観的なもの. べているが,これまたミスリーディングな表現である。 しかしながら,リッカートが心理的なものと論理的なも のとの区別を自覚していないかというとそうではない。 「判断を下すに際して重要となる必然性は,表象するこ との必然性の場合のように「∼でなくてはならない (M也ssen)」といった必然性ではない.判断の必然性は そのようなものではありえない。それというのも,私た ちが自分から独立した力によって自分が規定されている と感じるとき,その判断の本質は承認の内に存し,承認 しうるものはただ価値のみであるからである。それゆえ, 私たちが判断の必然性ということで理解しているのは, 肯定をもたらす心理学的強制のことではない。ましてや, 判断の必然性は因果的必然性とは何の関係もない。すな わち,判断の必然性は原因ではなく,論理的な根拠なの である」 (GE(2)114)ときわめて,正当に表現してもい る。まさに, 「心理的強要」ではなく, 「論理的理由」に よって「判断主観」は判断を下すのである。 このようなリッカートの弁明を考慮に入れるならば,.

(8) 138. リッカートが,誤解を招きやすい表現を用いてまで,主 張したかったことは以下のようになる。すなわち, 「単 なる表象結合」と「認識」とを分かつものは,主観が, それ自身はもはや主観的とはいえず,超主観的な妥当性 を持っ「価値」 (それゆえ,価値自身はもはや実在的で はない)に照らし合わせて,ある「表象結合」に対して 解る「実践的態度」である280確かに,この「実践的態 度」はさしあたり主観的で個別的なものでしかない。こ の点においては心理学主義と同様である。し′かしながら. この「実践的態度」が客観的で普遍的な「価値」によっ て導かれているため, 「認識」は客観的で普遍的なもの となりうるのである。この点で心理学主義とは異なって いる。このようにして,彼は価値の領域(認識の客観的 な枠組み)を発見する。すなわち,客観性は,価値に従. 当為は,何ものかが存在するためには,承認されざるを えない当為であり,それゆえ,意識一般からは独立して おり,超越的でなくてはならない」 (GE(2)150)。すな わち,世界と関わる上で,実在性の判断という認識は一 つの価値である。生物は実在性の概念なしに存在するこ とはできるかもしれないが,それは単なる生存でしかな い。実在性という価値にコミットして初めて,実在と非 実在とが区別されるようになり,この区別こそが他の認 識の基礎となる。したがって,この実在性という価値を 疑うことは認識全体を不可能にしてしまう。従って,実 在性を価値として承認しないわけにはいかない。 「超越 的当為は-・-端的に疑いえない判断もまたこれを暗黙の 内に承認しているのであるから,いかなる懐疑からも免 れている」 (GE(2)132)Cむろん,何を実在と見なすか. とする者は,すべて,実在的なものと非実在的なものと を区別すべLという規範に従わざるをえない。このよう な意味で実在性という価値は客観性を持つと考えられる。. という点では議論の余地があるであろう。しかし,実在 性の概念そのもの,すなわち,実在と非実在を区別すべ Lという価値そのものは否定されえない。 以上のような実在判断の例が示すように,客観的な価 値を疑うことは不可能である。というのも,客観的な価 値が無ければ認識が不可能となってしまい,それととも に客観的な認識が不可能であるという懐疑論の主張その ものが矛盾に陥ることになってしまうからである30。 「この[当為を承認する]判断を変形して,この判断が もはや,主観から独立な当為の承認を含まないようにす ることは可能であろうか。明らかに不可能である。なぜ ならば,私たちがすでに証明したように,あらゆる判断 の本質は判断の必然性の承認に存し,この判断の必然性 はいつも,認識する主観から独立した一種の当為として 現れるからである。どれほど好きなように,判断を変形 し,超越的実在性との関係から遠ざけようとも,判断の 持っ真理という価値を,超時間的に妥当する,それゆえ, いかなる認識主観からも完全に独立した超越的価値とし て承認せざるをえない。かくして,超越的な当為は,判 断を下す限り.無条件に承認される。そして,それゆえ, この当為は端的に疑い得ないのである」 (GE(2)129)C もしも何物かを認識しようとするならば,真理がある ということ,無条件に妥当する判断があるということは 疑いえない。別の言い方をすれば,真理を価値として承 認することなしに,認識は存在しえない。 「理論的主観 は判断必然性に依存している。認識の対象としての超越. もちろん,実在性を価値として承認しないことも可能で あろう.しかし,リッカートは次のように述べている。 「世界がそのもとに包摂される概念のピラミッドの頂点 は・--何か存在するものについての未だ未規定な表象と いう意味での存在概念ではなく, 「何ものかがある」と いう真なる判断である。この判断は確かに個人的なもの ではありえず,やはりひとつの判断である。すなわち, この判断は一種の判断として「当為」を承認する。この. 的当為は--・疑いえない。というのも,この当為があら ゆる判断の条件であるからである。いやそれどころか, この当為はあらゆる懐疑の条件であり,したがって,懐 疑主義を含むあらゆる「立場」の条件でもあるからであ る」 (GE(2)141)。例えば, 「音を聞くとき, 「音を聞 いている」と判断するように強いられる」 (GE(2)130)c このような命題を疑うとき,認識のほとんどは崩壊して しまうことになる。 「それゆえ,事実を確認する判断も. うことによって,はじめて可能となるのであり,価値が 客観性の可能性の条件になっている。 それでは. 「判断において承認される当為が(意識内 容を超越し,認識主観からも独立した,それゆえ)超越 的な意義を持ち,必然的に承認されるべきであるという ことを疑うことは果たして可能であろうか」 (GE(2)128)。 そしてさらに「価値」の客観性はいかにして保証される のか。このような疑問をリッカートは検討する。このよ うな疑問に対して,例えば,ニーチェは,認識に客観性 を付与する「価値」を,人間が自己の権力を拡張するた めに定立したものにすぎないと批判していた。リッカー トは,このような問題に対して, 「認識論的懐疑」を遂 行することによって,すなわち,認識が前提とせざるを えない条件を検討することによって,答えようとする2㌔ そして,彼は,懐疑を無限に続行すれば,最後には,あ らゆる認識の可能性の条件となるもの,それゆえに,疑 いえないものが明らかになると考える。 リッカートは実在判断を例にとってこのような問いを 検討している。実在的なものとそうでないものとを区別 することには実用的な意味があるだけではなく,あらゆ る認識の前提となっているという点で理論的な意味もあ ると考えられる。実在性は一つの価値なのである(vgl. GE(2)117)。この価値を承認し,これにコミットしよう.

(9) ニヒリズムから価値哲学へ. 判断必然性の超越的意味を承認する。純粋に事実的な判 断を疑うことはできないのであるから,事実的なものに 関する超越的な判断必然性もまたあらゆる疑いから守ら れている」 (GE(2)130f.)(vgl. GE(2)152)C さて,リッカートは認識論の課題を客観的な認識を可 能ならしめる「認識の対象」を考察することであると規 定していた。以上において見てきたように,この課題の もと,リッカートは,判断の分析を通して,認識を表象 から区別し,判断が客観的な価値にコミットせざるをえ ないということを明らかにした。しかるに,このような 価値は認識されうるあらゆる必然性を可能ならしめるも のである。それゆえ,その必然性を疑うことはあらゆる 真理を崩壊させてしまうことになる。そのような意味で, 判断の必然性は「認識論的懐疑」に耐えうるものである。 そこで前提とされる当為は認識内容が可能になるための 超越論的な図式であり,その意味で意識内容からは超越 している。それゆえ,これこそが認識に客観性を付与す るもの,すなわち, 「認識の対象」であると見なして良 い。このようにリッカートは考え, 「対象を認識が従う ものと特徴づけるならば,判断において承認される当為 のみが認識の対象でありうる」 (GE(2)122)と述べるに 至る。 第三章正当化の問題. 139. 第二に,肯定の形式が先行する。実在という形式は規範 に基づくのみならず,規範の承認にも基づいているので ある」 (GE(2)171)と述べている。このようにリッカー トは,まず,判断を導く形式と,判断によって生みださ れた実在の形式とを区別した上で,前者にはさらに「規 範」が先行するとしている。彼はこれらの概念を次のよ うに規定している。 「これに応じて,三つの形式的な要 莱,すなわち,超越的規範,範噂,超越論的形式が相互 に区別されうる。 ・--規範は当為あるいは対象の形式で ある。範噂は判断作用の形式であり,この判断作用が承 認によって超越的なものを把握し,認識の所産を成立さ せる。超越論的な形式はすでに成し遂げられた認識の所 産の形式であり.そのことによって同時に実在性の形式 でもある」 (GE(2)173f.)。すなわち, 「規範」が「表象」 を分節する形式であり, 「範噂」が具体的な判断におい て「表象」に「規範」を適用する形式ということになる。 先ほどの, 「実在性」を例として考えるならば, 「規範」 とは「実在性」を「価値」 (対象の形式)として認め, これをそうでないものから区別すべLという「当為」の ことである。そして, 「判断作用の形式」であるとされ る「範噂」こそが,いかなる表象を「実在」と見なすべ きかという「形式」のことであり,これが「表象」に 「価値」を是認し,両者を結びつけることになる32。そ の結果, 「超越論的形式」という実在の形式が産出され. 以上において見てきたように,客観的であるという権 能を有していない単なる表象結合に客観性を付与するの は,判断行為であり,判断行為を単なる主観的行為にと どまらせないのは,その判断行為が,価値を承認するも のならだれもが従わざるをえない価値に,他の判断主観 と同様に,従属しているからであった。このようにして, 認識の客観性が生みだされる。しかしながら,このよう な解答は新たなる問いを引き起こす。すなわち,価値に 従うとはいかなることか,そもそも,それぞれの判断に おけるそれぞれの「従属」はどのようにして正当化され るのかという問題である31。 確かに,前期リッカートは,普遍的な価値を個別的な. る。リッカートはこのような用語上の区別を導入してい る。 このような.区別の導入は何を意味しているのか。まず, 判断を導く形式と実在との区別は彼の「超越論的観念論」 の立場から帰結するものである。すでに見たように,実 在が判断を導いているのではなく,判断が実在を導いて いるのであり,その判断はさらに「価値」 (「規範」 )に よって導かれていた。そして,この「価値」は「認識」 を可能ならしめるものとして,不可疑的であった。その ような意味で, 「規範」はア・プリオリなものとして前 提されざるをえない。むしろ,ここで重要なのは, 「規 範」と「範噂」との区別である。たとえ, 「実在性」を 価値として認め, 「実在」をそうでないものから区別す. 判断へと「通用」することについて,用語上の区別を行 い,整理を試みていないわけではない。彼は「私たちは, 厳密であるために,すなわち,判断の形式が実在性の形 式の再生産であると理解されるのを避けるために,あら ゆる判断において,一般的に形式と内容を対置するだけ ではなく,形式的なものの中においても,遂行された判 断の形式,すなわち,同時に現実性の形式でもある狭義 の形式と,当為の承認の作用としての形式,すなわち, 規範の肯定としての形式とを対置しなくてはならない。 --. べLという「規範」を前提せざるをえないものとして承 認したとしても,さしあたり,それは形式的なものでし かなく,どのようなものを「実在」と見なすかが分から なければ,この「規範」は実質的な意味を持たない。反 対の言い方をすれば,いかなるものを「実在」として見 なすかによって, 「規範」の内容が決まってくる。ある いは, 「真」と「偽」の区別を「価値」として承認して ち,いかなるものを「真」と見なすのかが規定されてい なければ判断を下すことができないのである。このよう. 遂行された判断の形式と現実性の形式あるいは狭義の形 式にはまず第-に,当為あるいは規範が,そしてさらに. にして, 「範噂」を導入することが不可避的になる。そ れどころか, 「価値」は, 「範噂」を介して, 「実在」に.

(10) 臼HI. おいて現実化されると言うこともできるのである。この. て正当化されえない」ということが暗黙の内に前提とさ. ように,リッカートは「範噂」という名称のもとに,. れていることが分かる。. 「適用」の問題を考えていないわけではない。 しかし, 『認識の対象(第二版)』にはこれ以上の論究. ただし,適用が前もっては正当化されえないという帰 結はリッカートにとっては致命的な欠陥とは言えないo. はもはや見られず, 「範噂」が具体的にいかなるもので. リッカート自身が規範あるいはその適用形式としての範. あるのか,そしてさらに, 「範噂」がどのようにして正. 噂を具体的な判断において役立っような判別基準として. 当化されるのかについての実質的な考察は行われていな. 導入しているわけではないからであるO例えば,リッカー. い。したがって,この問題については,前期リッカート. トは実在性の判断においてその判断を正当化するような. の根本的立場を考慮に入れた上で,考察しなくてはなら. 要素を提示することを目的としているわけではない。. ない。. 「私たちが「合理主義的に」与えられたものの内容を,. さて,すでに見たように,リッカートは実在論を拒否. それらを超えて横たわっている一つの原理から演揮しよ. していた。これは,認識主観が「実在性」を直接にその. うとしていると考えるとすれば,それは私たちの見解の. ものとして表象することができるわけではないというこ. この上ない誤解であろう。私たちが探求しているのは,. とを意味している。すなわち,実在的なものと実在的で. 判断の内容ではなく,内容の肯定であり・--,判断の形. ないものとの区別を特徴づけるメルクマールが直接にそ. 式である」 (GE(2)168)Cそのような要素の提示は認識. れとして知られうるような仕方で存在しているわけでは. 論の課題ではない。というのも,認識論の研究対象は認 識の内容分析ではなく,認識の形式の分析であるからで. ないということである。 「自分が今文字を見ているとい う判断が真理であることを示すために,当為の直接な感. ある。 「与えられたものや事実的なものをもことさらに. 情,すなわち,このように判断する必然性の感情以外に, 何らかの根拠を兄いだそうと試みるが,そのような根拠. 問題としようとする私たちの試みは,他の認識論的な探 求の場合のように,個々の事実や個々の知覚の内容的な. は存在しない」 (GE(2)118)。ということは.実在論と. 規定に関わるのではないことは明らかであり,ただ,そ. は別の仕方で認識に客観性を保証するためには,内在性. れらの事実や知覚の存在のあり方,すなわち,事実的な. の領域にとどまり,表象相互の関係から,実在的なもの とそうでないものとの区別をしていかざるをえないとい. ものが与えられているということにのみ関わる。別の言 い方をすれば,認識論的に興味をひくのは,これやあれ. うことになる。しかしながら,この区別そのものはもは. やの特定の事実が与えられるそのあり方であって,この. や表象的ではなく,したがって,直接にそれとして知ら. 知覚されたものを他の知覚されたものから区別する内容. れるようなものではない。これは前もっての正当化を否. ではないのである」 (GE(2)167)。すなわち,認識論が. 定することである。すなわち,これこれの条件を満たし. 課題とするのは認識の可能性の条件であって,認識の内. ていれば,実在と見なしてよいという正当化ができない. 実ではないというのである。. ということである33。. だからと言って,リッカートは「適用」の正当化をまっ. もちろん,人があるものを例えば文字と見なすのはど. たく不可能であるとしてしまったわけではない。彼が拒. のような場合であるのかを検証することは不可能ではな. 否したのは,あくまでも「一定の基準による前もっての. いかもしれない。しかし,それはもはや認識論の課題で. 正当化」のみである。認識主観は前もっての基準による. はなく,個別科学の課題である。ただし,その場合でも,. 保証を受けることなく,判断を下さなくてはならない。. 個別科学の探求に先だって,そのあるものが実在的であ. そして実際に,そのようにして,認識主観は判断を下し. ると判断され,それがなにものかとして是認されている. ている。だが,これらの判断すべてが無条件で正しいと. のでなくてはならない。このように「判断」の基準の検. 見なされるわけではもちろんない。認識主観が判断の正. 証は,常にすでに「判断」が下されてしまっている場合. 当性を後から吟味することは可能である34。ただし,こ. にのみ可能なのである。しかも,ここで検証された基準 に従うからといって,認識が正当化されるとは限らない。. の吟味においては,客観的な基準が明示的に示され,そ れのみによって正当性が判別されるわけではなく,複合. このように「判断」の基準の提示は,認識論的に見れば,. 的な要因が考慮に入れられなくてはならなくなるであろ. 二次的なものでしかない。. う。このような吟味は,認識論,あるいは,哲学が前もっ. 実在論批判という前期リッカートの根本的な立場に忠. て規定すべきことではなく,具体的な探求の実践の中で. 実に考えるならば,リッカートのいう範噂は前もっての. 遂行されるべきことである。このように前期リッカート. 正当化を与えるような種類のものではありえない。正当. は,哲学の課題ではないとしながらも,内容の吟味は可. 化を求めるとすれば,基準が必要となり,基準を求める. 能であり,実際に吟味されていると考えているのである。. ことは実在論への逆戻りを意味するからである。これに. さて,リッカートの「超越論的観念論」の主張によれ. ともなって,前期リッカートにおいては「適用は前もっ. ば,客観的であるという権能を有していない単なる表象.

(11) ニヒリズムから価値哲学へ. 結合を客観的なものとするためには,主観による是認と いう判断行為が必要であり,さらに,この判断行為が単 なる主観的行為にとどまらないのは,それが超越的な価 値に従属しているからであった。すると,ある認識が客 観的なものであるかどうかは,その認識を下した判断が 「認識の対象」たる価値に正当な仕方で従属しているか どうかにかかっているということになる。そこで,この 従属がどうやって正当化されるのかが問題として浮上し たのであった。しかるに,以上において見てきたように, リッカートの認識論は,認識の可能性の条件の形式的提 示のみを目指しており,その都度の判断を導く「規範」 や「範鳴」を具体的に規定することは目的としていなかっ た。それゆえ,価値は「理念的なもの」として規定され るにとどまった。そもそも,個々の判断を規定する「規 範」や「範噂」がいかなるものであるのかは,判断行為 が行われる具体的な状況の中の中において初めて考察し えるようなものである。したがって,哲学が前もってそ れを規定してしまうとすれば,それは明らかな越権となっ てしまう。前期lトソカートはこのように考え,個々の判 断を正当化する基準を具体的に規定することは考察の外 に置かれていた。しかしながら, 「従属」や千適用」の 「正当化」が具体的に遂行されえないからといって,認 識の客観性が脅かされるとリッカートが考えていたわけ ではない。すでに見たように,現実問題として,認識の 吟味は具体的な状況の中で遂行されている。その場合, 個々の判断を導いている「規範」や「範噂」のすべてが 明示化されるわけではないにしても,実践の行われるそ の都度の状況の中で,常にすでに「判断」を規定してし まっている「規範」や「範噂」は想定されており,その 都度の状況の中で問題となった「規範」や「範噂」が検. 141. 想定されているにすぎない。したがって,実際に,これ らを明示化しようとすると,具体的に下された判断を通 して,考察するよりはかない。このように考えるならば, 普遍的であるとされる「価値」と,個別的であるとされ る「実在」とは,形式的に見ても,また,内容的に見て も,相即関係の内におかれることになる。まず第一に形 式的な側面から言えば,一方で, 「実在」が可能である ためには,判断主観は単なる表象を実在的であると判断 しなくてはならず,この判断が単に主観的な行為にとど まらないためにはさらに超越的で普遍的な「価値」によっ て支えられている必要かあった。しかしながら他方で, 「価値」そのものは非表象的にしか存在しえず,むしろ, このような判断行為によって「実在」へと関係づけられ ることによって,はじめて「価値」が現実化されるので ある。そして第二に内容的な側面においても相即関係が 見られる。すなわち,一方で,判断主観は「価値」に従っ て,それ自体は個別的な「判断行為」をなすことによっ て,単に主観的でしかなかった表象結合を客観的な認識 にし,最終的に「実在」を産出する。ただ,他方では, 「価値」の内実がいかなるものであるかは, 「判断」がこ の「価値」をどのように適用しているか,すなわち,症 出された「実在」によってはじめて規定されうるのであ る。確かに, 「価値」と「実在」は名目上区別されてい るけれども, 「価値」と「実在」との問には相即関係が ある35。確かに,前もっての正当化は不可能である(そ もそも両者は次元を異にする)にしても,だからといっ て,吟味が不可能になってしまうわけではなく,実際に, 判断が下される状況の中で様々なファクターと関わりつ つ,認識の吟味はなされうる。ここに.前期リッカート の特徴を見ることができる。. 討されることになるのである。このような意味で,必ず しも明示化されないとはいえ, 「判断」を下すに先だっ. 終章「近代」をめぐって. て常にすでに「規範」や「範噂」は想定されてしまって いる。このような「規範」や「範噂」に従って「判断」 を下すとき, 「価値」が実現されることになる。しかる に,このような「価値」にコミットしようとする者はみ な,この「価値」を実現することができるように,判断 を下すのでなくてはならない。このことは,さきほどと 同じ「規範」や「範噂」に従うということと同義である。 この従属の正当化もまた前もっては不可能であるが,現 実的にはその都度の状況の中で吟味されうる。まさに, この「価値」にコミットしようとするという条件に服す るとき, 「客観性」もまた創出されることになる。 このように,リッカートにとって, 「規範」やその適 用である「範噂」の内容はそれ自体明示化されうるよう なものではなく,具体的な規定に役立ちうるようなもの ではない。これらは常にすでに基準の吟味に先行し,逮 に吟味を可能ならしめるような「理念的なもの」として. すでに見たように,リオタ-ルは「モダンの思想」を, 真理や正義といった価値によって正当化を与えるような 思想であると規定していた。そして,リッカート自身も, 近代哲学が「主知主義」として開始すると考えていた。 例えば,彼は,デカルトを近代哲学の最初の体系家であ ると考えていたが,デカルトは「明噺・判明な知」に 「認識」を基礎づけようとしたのであった。このように 「近代」は,諸現象を基礎づけ,正当化することを追求 したが,それはある特定の領域を実体として絶対視し, その実体によって諸現象を基礎づけることであった。そ のような意味で,近代の哲学は, 「観念論」も含めて, 「実在論」と同様な構造をしていたとみなすことができ る。ここでこの特定の領域が経験を超越すると見なされ ると,形而上学的実在論(例えば,プラトニズム)とな り,この領域が経験の内におかれると,経験的実在論と.

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