• 検索結果がありません。

'Begriffsschrift' という名称について

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "'Begriffsschrift' という名称について"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Begriffsschrift という名称について

飯 田

フレーゲがその著『概念記法』で提示しているものは、一個の言語であ る。「概念記法 Begriffsschrift」というのは、述語論理の言語の最初の実例 でもあるこの言語に、かれが与えた名称である。しかしながら、この名称の 構成に忠実であろうとする訳語、日本語ならば「概念記法」(1)や「概念文

字」(2)、英語ならば、 concept writing (3)や conceptual notation (4)など、 そのどれを取っても明らかなことであるが、現在この名称が、述語論理の言 語一般を指すものとして使われることは決してない。つまり、フレーゲの提 出した言語そのものとは対照的に、その言語にかれ自身が与えた名称は、そ れ以後の論理学や哲学において市民権を得ることはできなかった。実際、こ の名称には何か古めかしいひびきがある(5)。この名称をいま見たり聞いたり するとき、そこに時代錯誤的なものを感じるのは私だけではないだろう。 なぜフレーゲは自身の言語を Begriffsschrift と名付けたのだろうか。ま (1)『フレーゲ著作集』で採用されたのは、この訳語である。 (2) 石本新(編)『論理思想の革命』一九七二、東海大学出版会。

(3) G. Frege, The Foundations of Arithmetic, trans. by J. L. Austin, 1950.

(4) G. Frege, Conceptual Notation and Related Articles, trans. and ed. by T. W. Bynum, 1972, Oxford University Press.

(5)「ひょっとして」と思って、たまたま私の手元にあった独和辞典(『独和大辞典コンパ クト版』一九九〇、小学館)で Begriffsschrift を引いてみたところ、おどろいたこと には、ちゃんと項目が立っており、⑴表意文字、⑵論理記号、という二つの語義が与え られていた。しかし、私の同僚の Wolfgang Ertl氏にたずねてみたところ、 Begriffss-chrift という語はまずほとんど用いられないということである。ほかにも、この章を 書くにあたっては、Ertl氏からいろいろと教わることが多かった。ここに感謝する。

(2)

た、この語は、フレーゲ以前からあってよく使われていた語なのだろうか、 それとも、これはフレーゲによる造語なのだろうか。この二つの問いはたが いに無関係ではない。もしも Begriffsschrift という語がフレーゲ以前から 用いられていた語であるのならば、その用法は、フレーゲがこの名称を選ん だ理由の一部であったかもしれないからである。 フレーゲと現代論理学の始まりといったことについて話したり書いたりす るたびに、こうした問いが私の頭をかすめないわけではなかった。しかしな がら、この問い自体がこれまで、私の関心の中心を占めることはなかった。 そのわけは、何よりも第一に、『概念記法』の序文においてフレーゲがこの 名称の由来を説明しており、その説明を受け入れることにとくに問題を感じ なかったからだろう。フレーゲによれば、かれが自身の式言語を Begriffss-chrift と名付けるのは、それが「概念内容 begrifflicher Inhalt」を表現す るためのものだからである(6) だが、この説明を受け入れたとしても、 Begriffsschrift という語が、当 時一般に使われていた語なのかどうかという問いは残る。さらに問題なの は、「概念内容」は、1879年の『概念記法』に特有の用語であって、少なく とも『算術の基礎』以後の著作には決して現れないという事実である。「概 念内容」は最終的には、意義(Sinn)と意味(Bedeutung)の区別が確立さ れるとともに、思想(Gedanke)と真理値(Wahrheitswert)の二つに分割 されたというのが、一般的な解釈である。したがって、概念記法がなぜ「概 念記法」と名付けられたかについての『概念記法』におけるフレーゲの説明 は、『概念記法』の時期に関しては通用するかもしれないが、『算術の基本法 則』の時期にはもはや通用しない。それにもかかわらず、『算術の基本法則』 でフレーゲは、自身の言語を「概念記法」と呼ぶことにためらいを示してい るようにはみえない。そうすると、先に挙げた二つの問いのうちのもう一方 (6) Begriffsschrift, S. IV.邦訳『フレーゲ著作集第1巻』藤村龍雄編、一九九九、勁草書 房、三頁。

(3)

もまた、フレーゲはなぜ自身の言語を Begriffsschrift と呼び続けたのかと いう形で生き残ることになる。 1 ジョナサン・バーンズという学者がいる。このひとは、著名なアリストテ レス学者である(7)だけでなく、ソクラテス以前の哲学(8)、古代の懐疑論(9) さらには、帝政ローマ期の論理学(10)に至るまで、きわめて広い範囲にわた って多くの刺激的な研究を著しているひとである。そのバーンズが、スイス で出ている『ディアレクティカ』という哲学雑誌に、その名もずばりの 「Begriffsschrift とは何か」というタイトルの論文を発表している(11)。この 論文を読むことによって、私が以前から抱いていた疑問のいくつかは解け た。まず、はっきりしたことは、 Begriffsschrift がフレーゲの造語ではな く、それ以前から使われていた語だということである(12)。先行する指摘は あるにせよ、バーンズはまず、二つのテキストに注意をうながす。ひとつは

(7) 最新のオックスフォード版の英訳アリストテレス全集(The Complete Works of Aristotle: the Revised Oxford Translation,1984,Princeton University Press)の編者 であるとともに、『分析論後書』の 解付き翻訳(Aristotles Posterior Analytics,1975, Clarendon Press)があり、ほかにもつぎのような著書および編著がある。J. Barnes, Aristotle,1982,Oxford University Press(Past Masters);J.Barnes(ed.),Cambrid-ge Companion to Aristotle, 1995, CambridMasters);J.Barnes(ed.),Cambrid-ge University Press.

(8) J. Barnes, The Presocratic Philosophers, 1979, Rev. ed. 1982, Routledge & Kegan Paul(Arguments of the Philosophers).

(9) J. Barnes, The Toils of Scepticism, 1990, Cambridge University Press. (10) J. Barnes, Logic and the Imperial Stoa 1997, Brill.

(11) J. Barnes, What is a Begriffsschrift? Dialectica 56(2002)65-80.論理学や数学 基礎論に詳しいひとならば、「ディアレクティカ」という名前に聞き覚えがあるはずで ある。「ゲーデルのディアレクティカ解釈」という名称は、それが述べられたゲーデル の論文がこの雑誌の第12巻(1958年)に掲載されたことに由来する。

(12) ただ残念ながら、どれぐらい一般的に使われていた語であったのかは、バーンズの 記述だけからではわからない。

(4)

トレンデレンブルク(Friedrich Adolf Trendelenburg 1802-1872)による も の で あ り、も う ひ と つ は フ ン ボ ル ト(Wilhelm von Humboldt 1767-1835)によるものである。さいわい、このどちらのテキストも、私自身目に することができたので、順番に紹介しよう。 トレンデレンブルクの名前を『岩波哲学・思想事典』で引いてみると、 「ベルリン大学の実践哲学及び教育学教授。有機的世界観を標榜してアリス トテレス主義を復興した。ヘーゲルとその学派没落の立役者」とあり、「そ のつど根本から新しく開始するのが哲学的思惟だ、とする当時の習慣に対し て、哲学的課題の歴史的研究を重視した。哲学史を有機的なプラトン主義と 無機的なデモクリトス主義との対立史と見て、自身はプラトンに与した。哲 学研究史上の影響は絶大」と結ばれている。つまり、アリストテレス学者と してのバーンズにとっては、その評価はともかく、学問上の先輩にあたるわ けである。 フレーゲは、実際のところ、『概念記法』序文の一節への においてトレ

ンデレンブルクの『哲学への歴史的寄与』第三巻(Historische Beitrage zur Philosophie,Bd 3,Vermischte Abhandlungen,1867,Berlin)への参照を求 めている。その に対応する本文は、つぎのようになっている。

ライプニッツもまた適切な表記法のもつ利点を認識していたし、恐ら く、それを過大評価していた。普遍記号学、すなわち、哲学計算あるい は計算者(eine calculus philosophicus oder ratiocinator)という彼のア イデアは、余りにも巨大だったので、それを具体化しようという試みは

単なる準備段階を出ることはなかった(13)

参照を求められているのは、この論文集の最初に再録されている、1856年に 行われた講演「普遍記号学へのライプニッツの試みについて Uber

(5)

izens Entwurf einer allgemeinen Charakteristik」である。これだけなら ば、これが Begriffsschrift という名称の由来といったい何が関係あるのか ということになろう。 こうした疑問はもっともだが、フレーゲが 記号を付した「哲学計算ある いは計算者」に対応する表現を見つけるためにトレンデレンブルクの論文を 最初から読んで行けば、そうした疑いは自ずから消え去る。というのは、そ うするひとは、そうした箇所に行き着く前に Begriffsschrift という語に出 会うからである。 人間の精神は、記号に多くを負うが、つぎのような可能性をここにみ る。すなわち、既存の言語にある語の代わりに、記号と物、記号の形と 概念の内容とを直接接触させ、概念において区別されている特徴は区別 されたものとして、結合されている特徴は結合されているものとして表 現するような記号を 案するほどまでに、記号をさらに発展させる可能 性である。科学は、そのある分野においてそれ独自の理由から、こうし た Begriffsschrift をスタートさせている(14) こうした Begriffsschrift の例としてトレンデレンブルクは、十進法表記に 従うアラビア数字を初めとする数学の記号を挙げている。そして、目指して いた表現 calculus philosophicuse oder calculus raiocinator が見つかるの

は、いま引用した箇所の次の次の頁(15)においてである。

さて、このことは、バーンズも断っているように、フレーゲ研究者のあい だでは前から知られていた。フレーゲの遺稿の最初の管理者であったハイン

(14) 私が参照することができたのは、フレーゲが参照を求めている論文集ではなく、ト レンデレンブルクのこの論文が最初に活字になった Abhandlungen der Konigl. Akademie der Wissenschaften zu Berlin 1856からの抜刷である。引用箇所は p.39であ る。

(6)

リッヒ・ショルツがすでに、自身のもっていた『概念記法』に Begriffss-chrift という名称がトレンデレンブルクに由来するという趣旨の書き込み をしていたことが、『概念記法』が再刊された一九六四年以来知られていた はずだからである(16) とはいえ、私自身はバーンズの論文によってはじめてショルツの書き込み の件を知ったので、あまり大きな口は叩けない。しかしながら、トレンデレ ンブルクのテキストはライプニッツに関するものであり、そこに Begriffss-chrift のような用語が現れてもそれほど意外ではない。むしろ私がおどろ いたのは、バーンズが挙げているもうひとつのテキストの方である。 こちらも、バーンズがはじめて見つけたのではなく、フレーゲ研究者とし て著名なクリスチャン・ティール(17)が最初に指摘した(18)ものであるという。 トレンデレンブルクのテキストをフレーゲが読んだことはまず疑いえない が、逆に、いまから挙げるテキストをフレーゲが読んだというのはほとんど ありえないことのように私には思われる。それは、バーンズも注意している ように、トレンデレンブルクのテキストが最初に活字になったのと同じベル リン学士院紀要(Abhandlungen der Koniglichen Akademie der Wissens-chaften zu Berlin)に載ったものである。それはトレンデレンブルクのもの が載ったのよりもおよそ三十年前のことであり、その著者はウィルヘルム・

(16) G.Frege,Begriffsschrift und andere Aufsatze.Mit E.Husserls und H.Scholz An -merkungen. Herausgegeben von Ignacio Angelelli. 1964, Georg Olms. p.115. (17) かれの学位論文(C. Thiel, Sinn und Bedeutung in der Logik Gottlob Freges,

1965)は、ドイツ語圏におけるフレーゲ研究のはしりである。また、ティールは、『算 術の基礎 Die Grundlagen der Arithmetik』の百周年を記念して刊行されたエディショ ンの編者でもある。

(18) C.Thiel, Nichts aufs Gerathewohl und aus Neuerungssucht:Die Begriffsschrift 1879 und 1893 in I. Max und W. Stelzner(eds.), Logik und Mathematik: Frege-Kolloquium Jena 1993,1995,W.de Gruyter,Perspektiven der Analytischen Philoso-phe 5.

(7)

フォン・フンボルトである(19)

ティールが発掘してバーンズが紹介しているフンボルトのテキストの標題 は Über die Buchstabenschrift und ihren Zusammenhang mit der

Spara-chbau という。これはフンボルトの全集の第五巻(20)に収録されているので 比較的容易に目にすることができる。問題の Begriffsschrift は、全集版で 112頁から113頁にかけて全部で五回現れる(21) この語が最初に現れるその少し前から訳してみよう。 語の個性というものは、どんな語であってもその論理的定義以上のもの であり、それを聞けばただちにそれ固有の効果を心に引き起こすほど に、音と密接に結合している。概念を追い求め、音を無視する記号は、 それゆえ、これを不完全にしか表現できない。こうした記号の体系は、 外界および内界の抽象的な概念を再現するしかできない。だが、言語と は、この世界自体を―たしかに思 の記号に変えてではあるが―その豊 かで色とりどりで生き生きとした多様の充実した全体において含むもの でなくてはならない。だが、純粋に概念だけに基づき、ある決まった音 によって表される語から大きく影響されないような Begriffsschrift と いうものは、これまで存在しなかったし、これからも存在しえない。 まずいやでも気付くことは、トレンデレンブルクの先のテキストとこのテ キストとのあいだでの、Begriffsschrift という観念に対する態度のちがい である。この観念に対してフンボルトは基本的に否定的である。フンボルト (19) バーンズは、 Begriffsschrift はフンボルトの造語ではないかと推測さえしている (J. Barnes, Op. cit., p.74)。

(20) Albert Leitzmann(Hrsg.), Wilhelm von Humboldts Werke. Funfter Band. 1823 -1826, 1906, B. Behrs Verlag(Photomechanischer Nachdruck, 1968, Walter de Gruyter).

(21) 私自身たしかめてはいないが、バーンズによれば、トレンデレンブルクのテキスト で Begriffsschrift が現れるのは、先に引用した箇所一回だけだという。

(8)

の言語観にとって音は決定的な重要性をもっている。概念を直接に表現する ことを求める Begriffsschrift には、音を無視することによって言語の豊か さを捨て去るという大きな欠陥があり、この欠陥は、Begriffsschrift が、 言語を異にする人々のあいだでのコミュニケーションの助けになりうるとい う長所によっても償われることはないとされる。 さて、 Begriffsschrift という語の由来に戻れば、バーンズが、また、か れに先立ってティールが指摘していることであるが、それをフンボルト以前 にさかのぼろうとすれば行き着くのは、フランス語の ideographie である。 バーンズが引用しているシャンポリオンのテキストによれば、それは「言語 の音ではなく観念を描く」文字を意味する(22)。つまり、ある意味であっけ ない結末ではあるが、Begriffsschrift とは、表意文字のことなのである。 それゆえ、一九一二年にジュールデインが、フレーゲの仕事を紹介する際に Begriffsschrift の英訳として ideography という語を用いた(23)ことは、こ の語の由来を えるとき正当なものといえなくはない。 これで、 Begriffsschrift という語はフレーゲの造語ではなく、それまで に少なくとも半世紀の歴史をもつ語であることがわかった。だが、フレーゲ に先立つ用例のどのような特徴をフレーゲがこの語にこめようとしたのか は、まだ完全に明瞭というわけではない。ここでおそらく必要なのは、歴史 的な探究というよりはむしろ、概念的な整理である。 2 バーンズは、いかにもアリストテリアンらしく、『命題論』冒頭の有名な 一句

(22) J. Barnes, Op. cit., p.73.

(23) P. E. B. Jourdain, The development of the theories of mathematical logic and the principles of mathematics: Gottlob Frege Quarterly Journal of Pure and Applied Math-ematics 43(1912)237-269.

(9)

話された言葉は心的経験の記号であり、書かれた言葉は話された言葉の 記号である(24) を軸に、自身の議論を展開している。かれは、有意味な音声から成る体系を 「アリストテレス的言語」、有意味な書字から成る体系を「反アリストテレス 的言語」と呼ぶ。アリストテレス的言語は、書字法を備えていてもよいが、 それは本質的ではない。同様に、反アリストテレス的言語にとって、発音規 則は、なくてもよいエキストラである(25) 自然言語はすべてアリストテレス的言語だろうか。フレーゲは、そう え ていたようにみえる。バーンズは多くの証拠を挙げているが、なかでも興味 深いのは、1882年に発表された「概念記法の科学的正当化について」のなか のつぎの一節である。 …自然な思 を、それが Wortspracheとの相互作用において形成され てきた通りに叙述することが重要なのではなく、聴覚と密接に結びつく ことから生じた思 の一面性を補完することが重要なのであれば、文字 のほうが、それゆえ、音声よりも好ましいことになろう。視覚に訴える 記号に特有の長所を利用し尽くすためには、その表記法(Schrift)は どの Wortspracheとも全く異なっていなければならない。これらの長 所が Wortschrift においては全くといってよいほど真価を発揮しないこ とは、ほとんど言をまたない(26) ここに現れる Wortsprache は邦訳では「自然言語」と訳されているが、そ れは正当だろう。 Wort とは基本的に、言われるもののことであるから、 (24) 16a3-4.

(25) J. Barnes, op. cit., pp.70-71.

(26) Über die wissenschaftliche Berechtigung einer Begriffsschrift SS. 53-54.邦訳 『フレーゲ著作集第1巻』二〇七頁。

(10)

自然言語とは第一義的には音の体系なのであり、よってアリストテレス的言 語なのである(27)。「聴覚と密接に結びつくことから生じた思 の一面性」と いう箇所もまた注目されるべきである。これに対して、フンボルトは、先に 引用した一節のなかで「概念を追い求め、音を無視する記号」の不完全性と いうことを強調していた。この対比は、興味深いだけでなく、きわめて重要 な問題群に触れていると思われるが、この点について論じることは私の手に 余る。 さ て、 Begriffsschrift と い う 語 は、こ の 引 用 の 最 後 に 現 れ る Worts-chrift と対比される仕方で導入されている。 しかし、かの長所をよりよい形で利用する、他の種類の表記法が既に存 在している。算術の式言語は、音声の媒介なしに直接事柄(die Sache) を表現しているので、概念記法の一つである。算術の式言語は、概念記 法として、簡単な判断の内容を一行のうちに納めることができる簡潔さ を達成している。そのような内容―ここでは等式あるいは不等式である ―は、相互に帰結する通りに、互いに上下に書かれる(28) 「算術の式言語」は、本質的に書字の体系である反アリストテレス的言語の 一例である。実際、 5+7=12 という式は、本来、このように書かれたものであって、それをどう読もうと も、それによって異なる式になるわけではない。数学の式をどう読むかは本 質的なことではない。そもそも読み方をもたないような式があってもかまわ ない(29) だが、フレーゲがここでしているように、算術の式言語を表記法であると (27)「言語」という日本語の表記自体が、言語とは、言われるもの、語られるものである というアリストテレス的観点の表現となっていないだろうか。 (28) 前々 に同じ。

(11)

述べることは正しくない。たしかに、算術の式言語は事実上その表記法と切 り離せないから、フレーゲがこう言いたくなるのもわかる。しかし、概念 上、言語と表記法とは区別されなければならない。 この点からみたとき、フレーゲが Begriffsschrift という語を選択したこ とはやはり不幸であったと言わざるをえない。算術の式言語が Begriffss-chrift のひとつであると言われていることからみれば、BegriffssBegriffss-chrift は言 語の一種である。他方、 Begriffsschrift が Wortschrift と対で導入されて いる点からみれば、それは表記法の一種である。言語としての Begriffss-chrift は、バーンズの言う反アリストテレス的言語であるが、表記法として の Begriffsschrift は、表意記法(ideography)のことである。バーンズに よれば、「概念内容」という観念が捨てられ、したがって1879年の『概念記 法』における説明が通用しなくなった後でもフレーゲが、自身の言語を Be-griffsschrift と呼び続けた理由は、それが⑴表意記法によって書かれた⑵ 反アリストテレス的言語であるからであり、また、 Begriffsschrift がもと もと表意記法を意味する語であることをフレーゲが知っていたからだとい う。 たしかに、反アリストテレス的言語は、音の体系ではないから、その表記 は、表意記法とならざるをえない。したがって、反アリストテレス的言語と しての Begriffsschrift は必ず、そ の 表 記 法 と し て も Begriffsschrift で あ る。つまり、⑵ならば⑴である。しかしながら、その逆は成り立たない。す なわち、表意記法の存在は、それによって表記される言語が反アリストテレ ス的言語であることを必ずしも意味しない。日本語がよい例である。たとえ ば、 (29) 概念記法の式をフレーゲがどう読んでいたのか―あるいは、そもそも読んだのか― は、おおいに興味をそそられる問題である。フレーゲの晩年の講義に出席したカルナッ プの回想によれば、フレーゲは黒板に式を書いては説明を与えたとのことであるが、そ れ以上の具体的なことは述べられていない。

(12)

降雨 雨降り 春雨 に共通に現れる「雨」という字は、同じものを表していると えてよいだろ う。しかも、この三つで「雨」はたがいに異なる仕方で読まれるから、「雨」 が表しているものは、音ではなく、フレーゲの言う「事柄」だということに なる。つまり、この例は、日本語が表意的記法をもつ言語だということを示 している。これはたぶんだれもが認めることだろう。しかし、日本語が、本 質的に書字の体系である反アリストテレス的言語であるということにはなら ない。(では、日本語はアリストテレス的言語なのかということになるが、 この点についてはすぐ後で論じる。) 3 前節で述べられたことを整理しよう。 まず、 ⑴アリストテレス的言語 ⑵反アリストテレス的言語 という区別がある。他方で、言語的表現を行う体系的方法には (A)発音法 (B)表記法 の二つがある(30)。⑴は音声の体系であるから、必ず (A) を備えていなけ ればならず、(B1)はエキストラにすぎない。それに対して、⑵は書字の体

(13)

系であるから、必ず (B1) を備えていなければならず、(A) はエキストラ にすぎない。さらに、(B1) には、 (B1)表音記法 (B2)表意記法 という二種類がある。 ⑴にとって表記法はエキストラにすぎない(表記法をもたない言語は、多 数知られている)。そして、本来話される言葉を記録にとどめるための記法 としては、(B1)と(B2)のどちらでも可能である。素人 えでものを言う のは危険だが、たとえば、漢字の音読みは、日本語の音を表すために漢字を 用いる方法に対応し、訓読みは、日本語の意味―語が指す物事―を表すため に漢字を用いる方法に対応しているように思える。この例があたっていない としても、アリストテレス的言語が記法をもつならば、それは必ず表音記法 でなければならないということは正しくない。 それに対して、⑵は本来、音声をもつものではないから、⑵が必ず備えて いなければならない表記法は(B2)にならざるをえない。ただし、原理上 は、反アリストテレス的言語が、もともと備えていた表記法に加えて、それ を声に出して読むための発音法を獲得し、今度は、そうした読み方を示す新 しい表記法を備えるように至るということはありうる。そして、この新しい 表記法は、表音記法でありうる。したがって、反アリストテレス的言語が表 音記法をもつことはありえないわけではない。だが、これはたぶん原理上の 可能性にとどまる。 以上のことに、さらに二点付け加えておきたい。 第一に、すべての言語が、アリストテレス的言語と反アリストテレス的言 (30) もちろん、手話にみられるように、このどちらでもない方法もあるが、ここでは問 題を単純化するために、発音法と表記法だけに限定する。

(14)

語のいずれかであるわけではない。実際のところ、この二つの言語類型は連 続的なスケールの両端に位置するとみなした方が現実的である(31)。現代日 本語は、アリストテレス的言語と反アリストテレス的言語の中間に位置する 言語であるとみなすべきだろう(32)。たとえば、われわれは話のなかでしば しば、多義性を解消するために「漢字でどう書くか」ということに訴える。 これは、現代日本語においては、すべての単語と言わなくとも、かなりの範 囲の単語に関して、その同一性が表記法に依存することを示している。それ ゆえ、現代日本語は完全なアリストテレス的言語ではない。しかし、それ は、現代日本語が、論理学の言語やコンピュータ言語のような反アリストテ レス的言語であることを意味するものではない。 第二に、アリストテレス的言語にとって、表記法は外的な付加物であるか ら、複数の異なる表記法が可能であり、そのうちのどれによって表記される かは言語の同一性に影響を与えない。もしも仮に日本語がアリストテレス的 言語であったならば、表記法として、かなだけを用いようが、かなと漢字の 両方を用いようが、あるいは、ローマ字を用いようが、それは同一の言語の 異なる表記法でしかない。それに対して、日本語と音声的に異なるものは決 して日本語ではありえない(33)。反アリストテレス的言語はこれと対称的で ある。この言語にとっては、発音法が外的な付加物である。数学の式がいい 例である。「5+7=12」は、日本語風に読まれようが、英語風に読まれよう が、同じ式であることに変わりはない。しかし、表記的にまったく異なるも (31) バーンズは、「中立的言語」という第三の言語類型を立てているが、アリストテレス 的―反アリストテレス的という対立が連続的なものであるとは えていないようにみえ る。 (32)「アリストテレス的―反アリストテレス的」という用語が用いられているわけではな いが、これは、石川九楊が多くの場所で強調している点と合致する。たとえば、つぎを 見られたい。石川九楊『二重言語国家・日本』1999、NHKブックス。 (33) しかし、この逆、つまり、日本語と音声的に同一であれば必ず日本語であるという ことは成り立たない。日本語と音声的に同一であるが、意味を異にする言語というもの が えられるからである。

(15)

のは、同一の言語ではありえない。(ここには、いわゆる「記法的ヴァリア ント」は同一の言語とみなすべきか、それとも、異なる言語とみなすべきか という厄介な問題があるが、これについてはまた別のところで触れる機会も あろう。) フレーゲが『概念記法』で提示したものは、ひとつの反アリストテレス的 言語である。反アリストテレス的言語である以上、それはある特定の表記法 と本質的に結び付いている。そして、この表記法は表意記法に属するもので なくてはならない。フレーゲは自身の言語を Begriffsschrift と名付けた。 たしかに、それは、表記法の名前としては、そのもともとの意味―表意記法 ―にかなうものではある。しかし、表記法は言語と同一ではないのだから、 言語の名前としてはふさわしいものではない。 新しい言語の名称としてふさわしいものが、フレーゲの手近になかったと は、私は思わない。『概念記法』の完全な形の標題はどうだっただろうか。 それは「概念記法、算術の式言語に倣った純粋な思 のための式言語」であ った。「純粋な思 のための式言語」という表現をフレーゲは利用できただ ろう。これでは長すぎるならば、ただ「式言語」でもよいだろうし、「論理 的式言語」でもよかっただろう。実際、 Formelsprache は、自然言語を指 す Wortsprache と対をなす表現として、十分適切だと思われる。 この現実世界よりも、ほんの少しだけ改善された世界にわれわれが生きて いたならば、われわれはたぶん、フレーゲの著作を別の標題のもとで知るこ とになっていただろう。それは、たぶん、「純粋な思 のための式言語―算 術の式言語に倣って構成され、概念記法によって表された」といったもので あっただろう。

参照

関連したドキュメント

存在が軽視されてきたことについては、さまざまな理由が考えられる。何よりも『君主論』に彼の名は全く登場しない。もう一つ

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

人の生涯を助ける。だからすべてこれを「貨物」という。また貨幣というのは、三種類の銭があ

親子で美容院にい くことが念願の夢 だった母。スタッフ とのふれあいや、心 遣いが嬉しくて、涙 が溢れて止まらな

彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に

これからはしっかりかもうと 思います。かむことは、そこ まで大事じゃないと思って いたけど、毒消し効果があ

遮音壁の色については工夫する余地 があると思うが、一般的な工業製品

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から