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産業革命期における「勤労」育成の問題 : マシュー・ボウルトンの活動

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(1)

産業革命期における「勤労」育成の問題 : マシュ

ー・ボウルトンの活動

著者

生越 利昭

雑誌名

経済学論究

67

1

ページ

1-35

発行年

2013-06-10

URL

http://hdl.handle.net/10236/11308

(2)

産業革命期における「勤労」育成の問題

マシュー・ボウルトンの活動

The Problem of Developing “Industry”

in the Industrial Revolution

the Case of Matthew Boulton’s Activity

生 越 利 昭  

The purpose of this paper is to elucidate the distinctive features of developing “Industry” in the Industrial Revolution, by studying the case of Matthew Boulton’s activity. The most distinctive features are (1) the original style of management and innovation by adopting scientific knowledge through the intellectual interchange among many savants, and (2) the improvement of working conditions, by introducing the insurance system and others. “Industry” originally means “industrious works” but came to mainly represent “industrial activities” as a whole during this period.

Toshiaki Ogose

  JEL:B12

キーワード:勤労、マシュー・ボウルトン、ジェイムズ・ワット、ルナー協会、保険組合 Keywords:industry, Matthew Boulton, James Watt, Lunar Society,

the Insurance Society

はじめに

「産業革命」をめぐっては、近代的産業社会成立の画期として、また封建制 から資本主義への移行を完成させた歴史的転換期として、これまで膨大な研究

が蓄積されてきた。しかし、そこには基本的な解釈の対立が存在する。「機械

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る1)。これに対し、資本主義的生産体制 =賃金労働雇用システムの成立を重視 する論者は、経済と社会の質的変化を強調する2)。しかし、量的変化を強調す る論者も、産業革命がもたらした社会変容の問題を無視することはできない し、してもいないはずである。また、新体制の担い手が、大量の労働者層と、 合理的経営を担う資本家的経営者層であることも否定しえない事実である。そ れゆえ、その実態を解明することが、この時代の問題を理解する核心であるこ とは明らかであろう。そして、これについての従来の研究は、一般に、両者を 「労働対資本」の構図によって、対立的に描き出してきたように思われる。 しかしながら、本論では、この両者を対立的にではなく、相互補完的な関係 として捉え、両者を結ぶ鎖となる共通のキーワードが「勤労industry」である ことを強調する。原始的蓄積過程は、「勤勉な労働者」育成のための強制的装 置(労役場や労働学校など)を作り上げ、「怠惰な労働者観」と一体となった 「低賃金経済論」を生み出したが、やがて勤勉な労働者が広範に存在する状況 を踏まえて、高賃金や労働環境の改善が労働のインセンティヴを与え、生産力 を向上させることができるという「高賃金経済論」を生み出すことになる。 この過程は同時に、労働者を雇用する資本家的経営者自身の自己変革の過程 でもある。資本家的経営者は、それまでの外国貿易資本や高利貸金融資本によ

1) 代表的なものは、ロストウの「離陸 take off」概念であり(Rostow, W.W. (1960a), The

Process of Economic Growth, 2nded.. 酒井・北川訳『経済成長の過程』1965 年。─ (1960b), The Stages of Economic Growth: Non-Communist Manifesto.  木村 健康訳『経済成長の諸段階』1961 年)、ハートウェルも成長率の上昇を強調する(Hartwell, R.M. (1967), The Cases of the Industrial Revolution in England, p.8)。これは シュンペーターの「革新 innovation」概念にも通じる(Schumpeter, J.A. (1912), Theorie

der wirtschatlichen Entwicklung, 3te Aufl.(English Edition, Theory of Economic Development, Cambridge, MS: Harvard U.P.,1934.)中山・東畑訳『経済発展の理論』岩

波書店、1937 年。岩波文庫版、1977 年)。

2) ホブスボームは、マルクスの原始的蓄積過程の徹底的分析を継承し、量的変化の一面的強調を批判

する(Hobsbaum, E.J. (1968), Industry and Empire, the Pelican Economic History of Britain, vol. 3, Penguin, p.34)。宗教的エートスと合理的経営方式の意義に着目した ウェーバー(Weber, Max (1904-5), Die Protestantische Ethik und der 〈Geist.〉 des

Kapitalismus. 大塚久雄訳、岩波文庫)も、「自由な競争原理」を重視したトインビー(Toynbee, Arnold (1956), The Industrial Revolution, originally published 1884, p.38)も、こ の立場に属するだろう。

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る「譲渡利潤」獲得(安く買って高く売る利ざや稼得方式)から脱して、自ら の勤労と合理的経営によって剰余価値(付加価値)=富を生産する独立生産者 として活動し、技術改良による生産力の飛躍的向上を果たす産業資本家に成長 していくのである3) 本論は、産業革命開始期における労働者および産業資本家の両者における 「勤労」が、どのような形で育成されたか、を解明しようとするものである。 特に、産業革命を推進した合理的経営者=企業家が、自らの進取の気性に富ん だ企業家精神をいかに育み、その実践的能力をいかに発展させたか、その技術 革新や合理的経営を支えた知的基盤はいかなるものであったか、に焦点を合わ せる。この側面を解明するため、本論ではマシュー・ボウルトンの経営活動を 事例として取り上げ、彼に関係する様々な人脈や組織、知的背景などを探究す る。さらに、この過程において、「勤労」育成のために、いかなる経営構想が 展開され、いかなる制度が生み出されたか、を明らかにする。

1. ボウルトンの経営活動(1)─「ソーホー製造所」の事例─

マシュー・ボウルトン(Matthew Boulton, 1728-1809)は、バーミンガム において、著名な技術改良家ジェイムズ・ワット(James Watt, 1736-1819) との共同経営によって「蒸気エンジン」の生産体制を実現し、各種産業への蒸 気エンジン活用の道を開いた、産業革命の推進者である4) 3) この問題をめぐる経済学形成史については、生越利昭(2012)「経済学形成期における労働=生 産思想」『商大論集』第 63 巻 3 号で考察した。 4) ボウルトン研究は、2009 年のボウルトン没後 200 年を契機に盛んになり、従来のワットと 提携した蒸気エンジンの製造販売への集中的関心とは別に、ボウルトン独自の経営活動に注目 する、新たな評価が行われつつある。例えば、Goodison, N. (2002), Matthew Boulton:

Ormolu (Christie’s). Mason, S. (2005), The Hardware Man Daughter: Matthew Boulton and his ‘Dear Girl’ (Phillimore & Co. Ltd). Mason, S. (ed.) (2009), Matthew Boulton: Selling What All the World Desires (Yale University Press).

Dick, M. (ed.) (2009), Matthew Boulton: a Revolutionary Player (Brewin Books). Kenneth Quikenden, Sally Baggott, Malcolm Dick (ed.) (2013), Matthew Boulton:

enterprising industrialist of the Enlightenment (Ashgate). わが国では、ボウルトン

はワットと比べて知名度が低く、大河内暁男(1978)『産業革命期経営史研究』(岩波書店)の 優れた研究はあるが、それ以後も研究は少なく、最近の岡部芳彦の緻密な研究がその空白を埋め

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彼は、当時バーミンガムの郊外だったスノウ・ヒルのスレーニー街で、同名 の父が金属製造業を営む作業所の裏手の家で生まれた。彼の家は、祖父ジョン

がスタフォードシャーのリッチフィールドLichfieldからここに移り住んで以

来、靴や半ズボンの留め金に用いるバックルやボタン製造を営む「小間物業者

Toymaker」だった。彼は、John Hansted牧師(St.John’s Chapel, Deritend

の教区司祭)のアカデミーに入学し、そこを終了した14歳から、父から実地 教育を受け、17歳の頃には早くもエナメル製や象嵌模様の鋼鉄バックルを発 明するなど、父の事業を拡大するまでに才能を開花させた。彼はすべての天賦 の才能を合わせ持つ幸運児で、ハンサムな顔立ちと頑健な身体をもち、社交的 で魅力的な人物であった。また、他人の発明の才や熱意をすぐに見抜く洞察力 を備え、それらのアイデアを素早く応用する勇気とエネルギーをもっていた。 1749年、21歳の時に父の事業の共同経営者になり、28歳でリッチフィール ドの豊かな織物商(Luke Robinson)の長女メアリーと結婚した。しかし59 年にこの妻メアリーが突然他界し、続いて父も亡くなり、失意のうちに彼は 単独で父のビジネスを受け継ぐことになる。彼は、この頃にはすでにバーミ ンガムの指導的企業家にまでのし上がっており、1760年には、弱冠32歳で、 Buckleshapes(バックルの革帯つけ金具)の輸出請願書を下院に提出し、その 代表証人として下院に出頭したほど周囲から認められる存在となっていた5) 1761年の1月頃、水車を動力とする大規模なマニュファクチュア工場の建設 を構想し、バーミンガムから1マイル半ほど離れたハンズワースHandsworth 教区に土地の賃借権を1,000ポンドで買い取った。必要な職人、木材、レンガ その他を準備したうえで、7月頃から、ここに幾棟かの職人の住居と多数の作 つつある。岡部(2001)「18 世紀イギリスにおけるマーケティングと消費社会─ M. ボウルト ンの事例を中心として─」『大阪大学経済学』51-3. および 岡部(2012)「M. ボウルトンのク リスティーズにおける展示即売会」『神戸学院経済学論集』43-3/4. 5) これに関しては、当時の下院委員会の次のような記録がある。「バーミンガムの金属製造業者

Matthew Boulton 氏によると、Warwick と Stafford 地域のバックル製造業に雇われてい る人は 800 人以上になる。その収益は、道具生産や原材料準備に雇われている人手を除いて、 年 30 万ポンドである。バックル類は、銅、真鍮,鉄、錫、スペルター(亜鉛)から出来てい て、大部分のバックルは宝石の模造にガラスがはめ込まれている。」(Dickinson, H.W. (1937),

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業場を備えた大きな建物一棟を建て、水車を作り直した。これが「ソーホー製 造所Soho Manufactory」6)である。この建物は、クリーム色をしたパラディ オ式の三階建で、正面から見ると宮殿のように堂々としたものだった7) 翌年には、ヨーロッパ市場に詳しいフォザギル(John Fothergill, 1700-82) と14年間のパートナー契約を結び、各人5,000ポンドを出資し、ボウルトンが すでに投下した資本を含め、総資本約2万ポンドで「ボウルトン=フォザギル

商会Boulton and Fothergill」をスタートさせた。これは、ソーホー製品の市 場をロンドン始めヨーロッパ大陸にまで拡大することを目指し、最初から大量 生産体制を構想したものであった。正式契約日は、1762年6月24日である。 ソーホー製造所で作られる製品は、主要なものとして、バックルの他に、鋼 製ボタン、メッキボタン、金属製装身具、鋼製時計鎖、各種メッキ金属器、オー マールー製装飾品8)、鼈甲象嵌製煙草入れ、鋼象嵌バースメタル9) 製ボタン、 などであった。しかし、このような装飾品は、上流階級の需要に依存しており、 需要の開拓が先決であったため、ボウルトンは、ロンドンに製品展示場を開設 し、ロンドンのサロンに出入りして上流階級の人々と知り合いになり、ソー ホーを広く認知してもらうよう努めた10)。ロンドンでは国王ジョージ 3世と 王妃サファイアとも同席する機会を得るなど、多くの著名人と知り合い、「ソー ホーを訪ねることが上流社会や著名外国人の間の流行となる」状況を作り上げ た11)。このような市場開拓のための宣伝活動に力を注いだことは、ボウルト ンの先駆的で近代的な経営手腕を表す特徴である。 この頃始まった周遊旅行の見学先にソーホーが選ばれ、1772年にオーマー 6) ちなみに、このソーホーという名称は、狩りのときの掛け声を表すものであり、ロンドンのソー ホーにちなんで名づけられたものと思われる(Ibid., p.44)。

7) 詳しくは Demidowicz, George (2013), The Origins of the Soho Manufactory and its

Layout, in Quikenden & Baggott & Dick (ed.) (2013) pp.67-83. その図 5.3 から、 1805 年まで次第に建物が拡張された様子がわかる(p.70)。 8) オーマールー ormolu というのは、日本では「オルモル」とも呼ばれ、銅・亜鉛・錫の合金で、 金箔を被せた装飾用金属器。 9) Bath Metal は、銅と亜鉛の合金。 10) ロンドンのペルメルにあったオークションハウスであるクリスティーズで展示即売会が行われ た。これについては岡部(2012)の前掲論文参照。

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ルー製造に着手し、展示ギャラリーとティー・ルームを開設して以来、訪問客 は激増した。ロシア、フランス、スペイン、ドイツ、ノルウェー、デンマーク、 オランダ、ポーランドなどの海外からの大使、アイルランド総督などがソー ホーを訪れ、サミュエル・ジョンソンも1774年9月20日にソーホーを訪ね たことを日記に記している12)。共同経営者のフォザギルは、ヨーロッパ各地を 訪問して、販路拡大に努めた。1766年に建築したボウルトンの私邸ソーホー・ ハウスは、自らの生活のためよりも、こうした訪問者のための迎賓館の役割を 果たした。同じ頃ルナー協会Lunar Societyが組織され、およそ月一回集まっ て知的交流が行われたが、ソーホー・ハウスはその主会場として使われたので ある。 また、この頃のボウルトンの活動で注目すべきは、バーミンガムに検査所 を設置するための請願運動である。銀製品を出荷するためには、その品質を 保証する検査所の検印が必要だったが、検査所はロンドン以外では、バーミン ガムの最も近くでも72マイル離れたチェスターにしかなく、様々な弊害が生 じた。ロンドンに検査に出すと、デザインが模倣され価格を値切られ、チェス ターに検査に出すと、長い悪路を運搬しなければならず、荷馬車の経費が高く つき、製品が壊れることが度々だった。そこでボウルトンは、バーミンガムに 検査所を創設するために、1773年1月にロンドンに出て、請願書を議会に送っ た。同じく請願書を送って競合するシェフィールドと対抗し、ロビー活動を通 してキャンペーンを展開した。1773年1月の彼の日記には、彼のパトロンと して40人以上の貴族のリストがメモされている。ロンドンの金匠と関連業者 は、自分たちの独占を脅かす地方の進出を警戒して、バーミンガム製品を「安 物Brummagem」の模造品と中傷し、地方産銀製品は安くて悪質な偽物とい うレッテルを貼っていた。これに対してボウルトンは、ロンドン製の銀プレー トを22品買い込み、その銀含有量が基準より低いことを見つけ出して反撃し た13)。これが功を奏してか、同年518日に議会で承認され、528日に 12) Dickinson (1937) pp.72-3.

13) See Robinson, E. (1998), ‘Matthew Boulton and the Art of Parliamentary Lobbying’, Historical Journal, VII.

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国王の裁可が出た。そして8月31日にバーミンガム検査所が開設されたので ある14) しかしながら、「ソーホー製造所」の経営状態は、当初から芳しくなかった。 それは、上流階級向けの装身具や高級金属器の生産であるだけに、高度な技術 が必要で、需要は大幅に拡大するはずがなく、大量生産には向かなかったから である。それにもかかわらず、ボウルトンは、収益よりも企業活動を優先し、 大規模生産体制を維持したため、商会は日常の運転資金にも支障をきたすこと になった。1769年には借金をせざるを得ず、1772年にはこれを返済するため ボウルトンが土地を手放さなければならなかった15)。友人のジェイムズ・キ ア(James Keir, 1735-1820)16)は、早くからソーホーの経営に助言し、製造 所の大規模化に伴って、ボウルトン単独で管理運営と製品販売を統括すること が困難になったことを理由に、製造部門と販売部門の分離という経営組織の改 組を提案した。ボウルトンは当初これに逡巡したが、その後認識を改め、1778 年から80年まで2年間、キア自身にソーホー製造部門の管理運営を任せ、新 規の経営方法を導入した。しかし経営は改善せず、ボウルトン自身、1775年 からワットとの連携でスタートさせた蒸気エンジン製造・販売事業に集中し、 次第にボウルトン=フォザギル商会の経営を縮小し、ついに1781年末に解散

14) 詳しくは、Baggott, Sally (2013), Hegemony and Hallmarking: Matthew Boulton

and the Battle for The Birmingham Assay Office, in Quikenden & Baggott & Dick (ed.) (2013) pp.147-61. 15) この土地資産は、1767 年に亡妻メアリーの妹アン Anne と結婚した結果、リッチフィールド の妻の実家ロビンソン家の財産のうち、各娘 14,000 ポンド分の土地相続権が、両方ともボウ ルトンに贈与されたものである。さらに 1764 年に義兄 Luke Robinson の死後、ボウルトン がその財産を得たという事実も、フランクリンの手紙によって知ることができる。Dickinson (1937) p.35. 16) 化学者で著作家。エディンバラ大学で医学を学び、22 歳で入隊、10 年ほど勤めた後 1766 年将軍 Captain になるが、1768 年に軍を辞め、新たな仕事を求めて学生の頃から知っていたダーウィンに再 度連絡し、1770 年に West Bromwich の Hill top に居を構え、1772 年重化学工業地帯 Black Country の Stourbridge 近くの Amblecote に、ガラス工場を建設した。さらに Tipton に アルカリ工場を建設し、石鹸、製陶用の鉛白、フリントガラス用の鉛丹 Litharge などの製造で成功 した。Jones, Peter M. (2009), Industrial Enlightenment, Science, technology and

culture in Birmingham and the West Midlands, Manchester U.P., p.117. Court,

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した17)

2. ボウルトンの経営活動(2)─「ソーホー鋳造所」の事例

ボウルトンは一貫して動力源に関心をもち、「ソーホー製造所」の建設も大 規模生産を可能にする水車利用のためであった。ただ水車はつねに水不足の問 題をかかえており、1765年末には、水源用の貯水池に揚水するために、蒸気 エンジンを活用しようとして、どんな蒸気弁が一番良いかを友人のベンジャミ ン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706-90)に尋ねている18) ところで、パートナーになるワットは、スコットランドのグリーノック Greenockで、1736年1月19日に生まれた。彼の父はこの町で種々の木工品、 建築用品、船具などの販売を営む商工業者であった。ワットは特別に繊細で神 経質、高度な人見知りで、初期教育は母による家庭教育であった。子供のころ から父の扱う商品の製造に興味を持ち、その地のグラマースクール卒業後には 数学器具職人になることを決断しグラスゴウに行くが、グラスゴウ大学自然 哲学教授ディックの紹介でロンドンに出て一年間の職人修業をし、その後グ ラスゴウ大学の数学器具職人になった。1763年に自然哲学講座所有のニュー コメン・エンジンを修理する機会があり、その欠陥に気づいて、1765年5月 に分離型コンデンサーと空気ポンプを考案した。実験のための資金をジョゼ フ・ブラック博士(Joseph Black, 1728-99)19) から借り、さらにその紹介で、 17) このような経営状況については、大河内暁男(1978)19-26 頁。フォザギルの利益優先主義が 一因だったという見方もある。ボウルトンは何よりも品質管理と納期厳守という信用を重視し た。Dickinson (1937) p.45. 18) 大河内暁男(1978) 34 頁。フランクリンがどのようにしてボウルトンを知ったかは明確でない が、彼の二回目のイギリス滞在中(1757-62 年)に、バーミンガムを訪ねる機会があった。その ときに、自然科学の問題について手紙を交換している。ここでの蒸気エンジンに関する手紙の交 換は、彼の三回目のイギリス滞在中(1764-75 年)のことであった。Dickinson (1937) p.38. 19) 化学者、潜熱の理論で著名。スコットランド系アイルランド人の父ジョンがワイン商人として フランスのボルドーに定着、そこで生まれた。グラスゴウ大学で医学を学び、その後エディン バラ大学に移り医学博士の学位を取得、医者を開業するが、1756 年グラスゴウ大学の医学教授 に迎えられ、そこでワットやアダム・スミスと知り合う。66 年にエディンバラ大学の化学教授 に就任。地質学者ジェイムズ・ハットン(James Hutton, 1726-97)とともに、スミスの遺稿 集を『哲学論文集』(1792 年)として出版したことでも知られる。J.G. クラウザー(鎮目恭夫 訳)『産業革命期の科学者たち』(岩波書店、1964 年)10-164 頁。

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1765年10月から、バーミンガムのジョン・ローバック博士(John Roebuck, 1718-94)20)が経営するスコットランドのボウネス Bo’nessの炭鉱でそれを応 用した。同じ頃、レシプロ・エンジン(往復回転エンジン)のデザインを考案 している。1766年から器具の小売販売ビジネスを始め、1767年にローバック のパートナーであるサミュエル・ガーベット(Samuel Garbett, 1715-1803) に会うためバーミンガムを訪れた。このときソーホーも訪ねたが、ボウルト ンが不在で会えず、「ソーホー製造所」の精緻な装置や組織を見学して驚嘆し た。この時またエラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin,1731-1802)21) も会っている。 結局ボウルトンとワットが出会ったのは、翌1768年、ワットがロンドンに 行った帰路にソーホーを訪ねたときであった。彼らはたちまち意気投合し、そ れ以後、蒸気エンジン改良に関する定期的な報告を兼ねた文通を始めている。 ボウルトンは、1769年1月にワットが蒸気エンジンの特許を得ると、直ち にパートナー契約による企業化を申し入れた。そして1770年、ワットから特 許権使用の許可を得て、ボウルトン自身が自家用蒸気エンジンを試作した(た だし、技術的欠陥のせいか失敗)。企業化は、ローバックがワットの特許権を 共同持分していたためすぐには進展せず、ローバックが深刻な資産危機に陥っ た1772年に、ボウルトンが彼の持分をすべて買い取ることでようやく決着し 20) シェフィールド生まれ、ノーサンプトン非国教徒学院で学び、医学を学ぶためエディンバラ大 学に進学し、そこで化学に興味を持ち、ブラック博士と知り合った。その後ライデン大学に留 学し、1743 年に医学博士号を得て帰国、バーミンガムで医師を開業した。しかし、化学への関 心から、工業薬品や硫酸製造法の改良に成功し、1749 年にバーミンガムの産業家サミュエル・ ガーベットと提携してスコットランドのプレストンパンズに硫酸生産工場を建てた。その後実 業に専念するため医者を辞め、1760 年にスコットランドのキャロン河のほとりに製鉄工場を創 立した。さらに燃料の石炭を調達するため、ボウネス炭鉱の開発に力を注いだ。しかし、その 技術者魂が高じて、新技術開発のため全財産を投じて資金繰りが困難となり、1772 年に破産し た。クラウザー 125-30 頁。 21) 医者、物理学者、詩人、博物学者。1757 年にリッチフィールドに移り住んで、ボウルトンの妻の実 家 Robinson 家の侍医になってから、ボウルトンと知り合い、親しい友人となった。1779 年頃 から自然哲学の全領域を論じる野心的な詩集を書き始め、1789 年に『植物園 Botanic Garden』 として発表した。

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た22) ワットは、1773年に妻に先立たれ、74年晩春にバーミンガムに移住して、 この年に蒸気エンジンの改良に成功した。ボウルトンは、企業化の見通しを立 てるために、この改良されたワットの蒸気エンジン特許権の延長を図り、それ まで培った人脈を使って請願運動を展開し、1775年5月に改めて25年間の特 許権が認められた23)。これを受けて、同年61日に、ワットとの連携によ

る「ボウルトン=ワット商会Boulton and Watt」を設立したのである。

この蒸気エンジンの製造は、ボウルトンの先見の明により、当初から各地の 製造所の動力源を大量に供給するための大規模生産体制として企画された。そ れは、ボウルトンが兼営する「ソーホー製造所」の機械設備を用いて製造され、

1776年3月にワット式蒸気エンジンの第1号が完成した。これは、衆目を集

める画期的な事件で、Aris’ Birmingham Gazett24) は詳細な記事を掲載した。

ただし、この生産体制は、「ソーホー製造所」だけでは様々な部品をすべて一 貫して製造することができないため、様々な専門職人が製造した部品を需要先 の現場で組み立てる方式で乗り切るしかなかった。その部品の技術水準の差異 や規格標準の欠如のために、エンジン組み立てには多くの日時と技術を要し、 その作業のために、ボウルトンかワットなど、信頼できる技術者が現場で監督 する必要があった。彼らは経営者であると同時に技術者であり、すべての仕事 の責任を担い、たゆまざる改良への努力と勤労精神が彼らを支えていた。 この頃、蒸気エンジンの主な需要先は、コーンウォール銅山地域であった。

22) これらの経過については、基本的に Gale, W.K.V. (1946), Soho Founry, W. & T. Avery

Limited を参照。また大河内暁男(1978)の第 1 章も参照。

23) この請願は、下院の激しい反対にあったが、その急先鋒はエドマンド・バーク(Edmund Burke,

1729/30-97)で、それを「不埒な独占」として非難した。ボウルトンもロンドンに出て院外工 作に奔走した。Dickinson (1936), James Watt, Craftsman & Engineer, Cambridge, repr., 2010, p.89. 原光雄訳『ジェームズ・ワット』(創元社)、115 頁。Uglow, Jenny (2002),

The Lunar Men − The Friends who made the Future, 1730-1810, p.252. クラウ

ザー 146-7 頁。

24) これは、Thomas Aris が 1741 年に出版した週刊新聞 Birmingham Gazette で、1743 年

にライバルの Warwick and Staffordshire Gazette を吸収し、それ以後バーミンガムで唯 一の新聞となった。Aris の名を冠してこう呼ばれている。

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深い鉱山の揚水ポンプとして、ニューコメン型エンジンは燃料(石炭)消費が 多すぎて使い物にならず、これに代ってワット式蒸気エンジンに対する需要 が増大し、1777年頃から軌道に乗り出したのである。ただ、この地域の鉱夫 たちはエンジン使用料の支払をごまかすなど、狡猾だった。そこでワットは、 ニューコメン型エンジンよりも石炭の量を節約した分に応じて使用料を支払 う方式を導入し、メーターの記録をチェックする必要があった。その結果、ボ ウルトンとワットは、ソーホーから遠く離れたコーンウォールに家を買い、ど ちらかが常駐しなければならなくなった。この状況に対処するため、新たな 人材が緊急に必要となったが、そのとき現れたのが、ウィリアム・マードック (William Murdock, 1754-1839)である。彼は、優れた機械技術能力を有した スコットランド人で、自分の才能を発揮する場所を求めて、有名なソーホーに やってきた。ボウルトンは、彼との会見で、その才能を素早く見抜いて採用し た。マードックは、その才能と勤勉さを立証し、やがてコーンウォールでの技 術問題の責任者として派遣された。彼はそこで19年間過ごし、ソーホーに変 わらぬ忠誠をつくした25) ソーホーで製造する蒸気エンジンは、往復運動によって水をくみ上げるポン プ用原動機として、各種の産業で使われ始め、その後も需要が大幅に増大する ことが期待された。それに加えて、この往復運動を回転運動に変換する新たな 装置が発明され、飛躍的な需要拡大が見込まれることになった。ワットは最初 クランク装置を蒸気エンジンに備えて回転運動に転換する方法を考案したが、 これがバーミンガムのピッカード(James Pickard)によって模倣され、1780 年に彼が先に特許を得たために、ワットはこれに対抗して、新たに「太陽遊星 式歯車装置」を発明し、1781年10月25日にその特許を取得したのであった。 これを備えた回転式蒸気エンジンが1782年に最初にソーホー製造所に設置さ れ、その性能を確認した後、1783年からソーホーの主要製造品として各種産

25) この詳しい状況については、Boulton, Watt and the Soho understanding, published by

Museum of Science and Industry, Newhall Street, Birmingham, 1968. 特に pp.15-17 を参照。

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業用に幅広く販売されることになった26) 回転式蒸気エンジンの大量生産体制を企画したボウルトンは、部品の規格 化とエンジン自体の標準化によって規格の統一を実現し、現場の職人がエンジ ンの維持管理や修理を自分でできるようにした。これは、製造するエンジンの 標準設計図を作り、それに従って規格品を製造することで、迅速な大量生産と 費用削減を可能にし、その後の機械制大工業の先駆けとなる画期的方法であっ た。こうした努力の結果、蒸気エンジンの販売数は、1775年から85年までに 総数が66台に達し、88年10台、90年14台、91年15台、92年26台と、年 平均16-17台程度で順調な発展を見せることになった27) しかしながら、営業成績は当初から芳しくなく、1792年までは利益を計上 したことがなかった。経営は借入金のやりくりで維持され、エンジン販売が 順調に拡大した後も、経営は特許使用料によって支えられていた。しかし、特 許の有効期限は1800年であり、それまでに大幅な経営改善をすることが緊急 課題となっていた。そこでボウルトンは、製造工程の合理化、一貫的大量生 産を可能にする集中作業場の建設を計画した。その建設地は、ソーホーから1 マイル西にあるバーミンガム運河の堤防に沿ったスメジック地区Smethwick で、1795年8月にワットがケネディー氏(George Kennedy)から18.5エー カーの土地を購入し、そこに工場建設を始め12月には完成するという突貫工 事であった。この建物のデザインは、機能重視の極めてシンプルなもので、装 飾や外来者のための設備には一銭もかけなかった。こうして1796年1月30 日には、新たな「ソーホー鋳造所Soho Foundry」が正式にスタートした28)

そしてすでに1794年には、ボウルトンの息子(Matthew Robinson Boulton, 1770-1842)とワットの息子(James Watt Junior, 1769-1848)も経営に加わ

26) Roll, Erich (1930), An Early Experiment in Industrial Organisation being a

his-tory of the firm Boulton & Watt, 1750-1805, Longmans, pp.108-111.

27) Roll (1930) p.119. Tann (ed.) (1981), The Selected Papers of Boulton & Watt, vol.1, The Engine Partnership, 1775-1825, MIT Press, pp.16-7. ただし、ロイ・ポー ターによると、エンジンの生産台数は意外に少なく、1800 年までで総数 490 台(年 12 台程 度)しか作られなかったという。ポーター(目羅公和訳)(1996)『イングランド 18 世紀の社 会』法政大学出版会、473 頁。

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り、新商会“Boulton, Watt, and Sons”を発足させていた。この新たな体制 になってようやく蒸気エンジンの販売経営は黒字に転化していくのである。 ボウルトンの経営活動は他に、キアとの連携による転写機の量産販売を行っ ていたことが注目される。これは、営業文書や作業用図面を複製して保存して おくための機器で、1779年夏以降、化学者キアの高い技術能力を借りて、転 写用インクと転写用紙の開発を進め、1780年に完成したものである。1780年 3月20日には、新たな「ワット=ボウルトン=キア商会」を設立し、転写機の 製造販売のための企業化をスタートさせている。この新商品は、競争相手がな く大きな需要が見込めるだけでなく、予約募集販売という市場の状況を十分に 把握した方法の採用によって堅実な生産が確保され、またキアの市場開拓の 新しい宣伝方法の導入によっても大きな成果を上げ、広く販売=普及していっ た。この事業は、1794年に特許が消滅した後でも、順調に続いた29) このような事業の成功を元に、ボウルトンはさらに、1788年には造幣所Mint を創設し、貨幣鋳造にも事業を広げた。これは、通商取引の飛躍的拡大にもか かわらず、少額貨幣の鋳造が追いつかず、各地で円滑な取引に支障を来してい た当時の状況に対応するためのものだった。王立造幣局でも、重いプレスを手 作業で動かす旧式の造幣技術のため、金貨も銀貨も一つずつ刻印するしかな く、大量の造幣ができなかった。偽造も不可避であり、特に熟練した金属職人 が多いバーミンガムでは、ボタン製造機械で簡単に鋳貨を偽造することができ た。ボウルトンの計算によると、銅貨の3分の2が偽物だった30) ボウルトンは、ワットと共にパリの造幣局を訪ねた際、蒸気エンジンを利用 した新たな造幣技術のヒントを得て、1788年にサンプルを完成させ、それに よって新投資が不要でコストが半減しうることを確認して、造幣所を建設した 29) Dickinson (1937), pp.108-9. これについては、大河内、27-32 頁にも詳しい。

30) 1789 年 4 月 14 日のボウルトンの Lord Hawkesbury への手紙。Industrial Revolution:

A Documentary History, Series One: The Boulton and Watt Archive and the Matthew Boulton Papers from the Birmingham Central Library, Matthew

Boul-ton Correspondence and Papers, A listing and Guide to the Microfilm Collection, by Adam Matthew Publications, 1994. 以下 Boulton Papers と略記する。

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のである31)。その後まもなく、アメリカ植民地からは銅貨、シェラレオネ会社 からは銀貨の大量注文が入り、続いて各地からも注文が入った。また、この当 時、鋳貨不足を補うため地域通貨やトークンtrade tokenと呼ばれる代理貨幣 が製造業者によって鋳造されており、民間業者の経済力と独立を示していた。 鉄鋼王ウィルキンソンは、いくつかのトークンを大量に5年間にわたってソー ホー造幣所に注文した32)。トークンの注文は、イングランドのランカスターか らサウサンプトンまで、スコットランドのダンディーやグラスゴウからアイル ランドのオファリーまで、広範な地域の企業や個人から舞い込み、さらに10 年後の1797年には、王立造幣局から鋳貨の注文が入った。こうして、造幣所 の経営はきわめて順調に推移した33) このようなボウルトンの多様な経営活動を支えたのは、何よりも彼に先天 的に備わっていた類い稀な先見性であり、機械設備の充実した集中作業場にお ける大量生産方式が今後の産業形態の趨勢であることを早くから認識し、それ を固く信じて、赤字経営をも覚悟の上で一貫して保持し続けた経営理念であっ た。彼がどんな逆境においても、この理念を保持し続けることができたのは、 自らの実践的な企業経験において、自己の力で問題解決の方法を見つけ出し、 幅広い知識や視野を身につけるたゆまない努力と精進のお蔭であり、また、新 たな技術の将来可能性や他人の能力を瞬時に見抜く判別力によって、多くの有 能な人材を周りに集めて彼らと協力し合う人脈のお蔭であった。彼の経営構想 力は、こうした人脈の知的ネットワークから広範で先駆的な知識や技術を吸収 して作り上げられたものであった。 このような個人的知識・才能や合理的経営精神の育成が、進取の気性に富ん だ近代的企業家の形成に深く関わっていたのであり、この時代の多くの有能な

31) 建設費は 7000∼8000 ポンドだったという。Tann, Jenifer (2013), Matthew Boulton − Innovator, in Quikenden & Baggott & Dick (ed.) (2013) pp. 47.

32) 彼は、すでに 1787 年に、Anglesey にある Thomas Williams’s Parys 造幣所に、自分の

名前を刻印したコインを注文している。これは君主以外の名前を刻印した最初のコインだった。 この経緯は、Uglow (2002) pp.416-9.

33) ソーホー造幣所の詳細は、Duty, R. (1998), Soho Mint and the Industrialization of

Money (Smithsonian). および Clay, Richard (2009), Matthew Boulton and the Art of Making Money, Birmingham Books を参照。

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発明家=企業家が機械的大工業制度を生み出し、産業革命を推進するのに決定 的な役割を果たしたと言えよう34)。この時期、 “industry”の原語である「勤 労」が多くの近代的企業家の経営活動によって遂行された結果、その主要な意 味が次第に企業活動全体を表す「産業」へと転化していったのである35)

3. ボウルトンの経営=勤労を支えた知的基盤

ボウルトンは、初等教育を終了した後に正規の学校教育で学ぶということは なく、14歳で父の仕事を実地教育で学び始めた時からずっと、実践的な活動を 通して、必要な知識や知見を独学で会得していった。彼の手紙が示すように、 その教養と計算能力は抜群であり、ソーホーの図書館に自然科学書を中心に 広範な蔵書を所有し36)、そこからも高度な知識を吸収していたことが伺える。 その努力は並大抵でなく、当時の科学情報について鋭敏なアンテナを張り巡ら せ、それを自らの製品開発に応用できる可能性をつねに探っていたのである。 この時代のイギリスは、科学知識が広く普及し、民衆の知的レベルの向上 も著しく、政治的社会的文化的に安定した状況を作り出し、全体に楽観主義的 傾向が広がっていた。そのため、科学知識を現実社会に応用しようとする動 きは、科学者自身の側でもそれを受け取る市民の側でも非常に高まっていた。 それゆえ、都市における科学知識の商品化や消費が拡大し、科学の巡回講義が 各地で行われるようになり、聴衆は、科学器具の消費や大衆娯楽と同じような 感覚で科学講義を聴きに集まって来た。バーミンガムでの最初の巡回科学講義 34) これについて、大河内は、「企業者個人の経験的必要の範囲内で、その解決策の企業化可能性が 認識され、そこに新業種新企業が計画されるという事情は、産業革命期イギリスにおける経営構 想の特徴であった」と言っている(54 頁)。

35) OED (2nd.Edition, 1989) によると、14 世紀に刻苦精励 diligence を意味するフランス語の industrie やラテン語の industria が転化し、1538 年の Sir Thomas Elyot による『ラテン 語英語辞典』では「勉強と刻苦精励を包含する徳性 vertue(=virtue)」と記載されている。ま た、「産業」という意味は 16 世紀ころから使われ、サミュエル・ジョンソンの Debates Parl. (1741 年)には、「より正直で有益な industry によって生計をたてる」と言う表現がある。

36) その中にはディドロの百科全書やネッケルのフランス経済関連書もあり、ボウルトンは、フラン

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は、1747年のBenjamin Martin (1704-82)によるものだった37)。 ボウルトン自身が科学実験に初めて興味を抱いたのは29歳の頃で、電気に 関するものだった。それは、1756年にリッチフィールドに移り住んで医者を 開業したエラズマス・ダーウィン博士(Erasmus Darwin, 1731-1802)の影響 や、1757年にホーンブローアー(Joseph Hornblower, 1696 -1761)38)がバー ミンガムで行った電気実験(身体に電流を流して痛みをなくす)によっても刺 激された。彼は、ノレ(Jean-Antoine Nollet , 1700-70)39) やフランクリンの 実験概説書を所蔵し、電気実験器具を獲得する手配をしていた。そのフランク リンは、少なくとも1758年と60年の二回バーミンガムを訪ね、二回目には、 ガラスの不伝導性を証明するボウルトン自家製の実験装置を目撃している。ま た、1767年に出版されたプリーストリー(Joseph Priestley, 1733-1804)40)

History and Present State of Electricityは、電気実験について強い印象を与

えた。ボウルトンはまた、天文学にも多大な関心をもち続けていた41)

科学の産業への応用を模索していたボウルトンは、バーミンガム地区周辺

に多くの科学者が住んでいることを背景に、1766年頃に科学分野に対する共

37) Jones (2009) p.73. これについては、ほかに Mokyr, J. (2002), The Gifts of Athena:

Historical Origins of the Knowledge Economy, Princeton.

38) コーンウォールに移り住んでニューコメン型エンジンを組み立てたことで知られる。ジョゼフは 1755 年から 60 年までバーミンガム近郊に移り住み、晩年はブリストルで過ごした。息子のジョ ナサン(Jonathan, 1717-1800)がコーンウォールの事業を引き継ぎ、後にワット型エンジン導 入の際に関与した。その 4 番目の息子 Jonathan Carter(1753-1815)は、1781 年に取得し た蒸気エンジンの特許をワットに特許侵害として告発され、1799 年に正式に敗訴したことで有 名。Dickinson (1936), James Watt, pp.132-3. 原訳 172-4 頁。クラウザー 95 頁。また、 ジョゼフの 4 番目の息子ジョサイア(Josiah, 1729-1809)は、1753 年にアメリカ植民地に渡 り、アメリカ最初の蒸気エンジンを製造したことで知られる(William Nelson (1923), Josiah

Hornblower and the First Steam Engine in America, Newark, New Jersey, repr.

by Ulan Press, 2012)。 39) フランスの物理学者で王室に自然哲学を講義し、1747 年に検電器を発明。電流を身体に流す実 験で知られる。Uglow (2002) p.13. 40) 酸素の発見者として知られる。非国教徒差別に対する批判と寛容思想を説き、人間の平等な権利 を主張し、政治的急進主義の立場から、フランス革命を支持した。1791 年のバーミンガム暴動 に巻き込まれ、家や実験室を焼かれ、難を逃れた後、やがてアメリカのペンシルヴァニアに渡っ て、そこで生涯を閉じた。 41) Jones (2009) p.77.

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通の関心をもつ人々の集まりを組織した。共同企画者は、友人のエラズマス・ ダーウィンとウィリアム・スモール博士(William Small, 1734-75)42) であ り、毎月満月が一番近い日曜日に各メンバーの家に集まって様々な情報を交 換する会合を開くというものだった。それは当時の暗い夜道を帰るのに月明 かりを利用することができるという単純な理由で、それにちなんで「ルナー 協会Lunar Society」と名付けられた。この開催日は、後にプリーストリーが 入会した1780年から、彼が日曜日に行う牧師職の仕事を妨げないよう、月曜 日に変更された。このメンバーは当初8∼10人から始まり、ワットは、1774 年にバーミンガムに到着して以来の会員で、他にジェイムズ・キア、製陶家 ジョサイア・ウェッジウッド(Josiah Wedgewood, 1730-95)43)、時計製造業 者ホワイトハースト(John Whitehurst, 1713-88)44)、少し若い世代のウィ ザリング(William Withering, 1741-99)45)、エッジワース( Richard Lovell Edgeworth, 1744-1817)46)、トーマス・デイ(Thomas Day, 1748-8947) 42) 卓越した物理学者、化学者、技術者。数年間ヴァージニアの William and Mary College の

数学・自然哲学教授を務めていたが、フランクリンのボウルトンへの招待状をもって 1758 年に 帰国し、バーミンガムに居を定め、ボウルトン家の医師になった。彼がグラスゴウにいたワット と最初に接触を図り、キアの仲介でエッジワースと知り合いになった。早世したため、会での活 動は短い。

43) 陶器業の家系に生まれ、1754 年 Burslem で当時の著名な陶芸家 Thomas Whieldon との共

同経営で事業を開始し、59 年にアイビーハウス工房を借りて独立。63 年頃から王室御用達陶 芸家 Queen Potter になり、クリーム色陶器を完成させて Queen’s Ware の名を賜った。69 年に著名な陶器製造所エトルリア Etruria を開設。ボウルトンと共同でいくつかの陶芸作品を 生産した。長女スザンナはエラズマス・ダーウィンの息子と結婚、その子がチャールズ・ダー ウィン(1809-82)であり、孫にあたる。チャールズは別の孫エマ Emma(ジョサイア・ウェッ ジウッド 2 世の子)と従兄妹同士で結婚し、大財産を相続した。 44) チェシャー Cheshire の時計職人の家に生まれ、正規の教育期間は短く、父から技術を教えら れ、1736 年にダービーで開業する。 45) 医師、植物学者、化学者、ロイヤル・ソサイエティ会員。浮腫(dropsy)の治療に初めてジギ タリス(digitalis)を用いた。鉱物のウィザライト witherite(毒重土石 BaCO3で炭酸バリ

ウムから成る)は、彼の名にちなんだものである。

46) アイルランド出身の著作家・哲学者でロイヤル・ソサイエティ会員。4 回の結婚で 22 人の子供

をもつ。1761 年にオックスフォードに出てから、イングランドやフランスで相当期間を過ごし、 1782 年にアイルランドに帰国して、地所 Edgeworthtown の経営に尽力した。

47) 豊かな慈善事業家。ルソーの自然主義に 18 世紀イギリス道徳を融合させようとした童話 The

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中核メンバーであった。印刷業者ジョン・バスカヴィル(John Baskerville, 1706-75)48)、クエーカー教徒の商人サミュエル・ガールトン( Samuel Galton, 1719-99)49) も後に加わった。臨時会員には、著名な鉄鋼業者ジョン・ウィル キンソン(John Wilkinson, 1728-1808)50) やエディンバラ大学教授ヒュー・ ブレア(Hugh Blair, 1718-1800)もいた。 この会は、共通に科学を愛する人々の集まりであり、宗教や政治的立場と は一切関係がなかった。ボウルトン、キア、ウィザリングは国教徒、ダーウィ ンは徹底した自由思想家free-thinker、ワットはスコットランド長老派、ガー ルトンはクエーカー、プリーストリーはユニテリアンでキリスト神性否定論者 だったが、自由な思考と知的関心でつながっていた。思想に関わりなく、外国 からの大物科学者の来訪を記念して「臨時の会議」を開くこともあった。 ルナー協会に議事録はなかったので正確ではないが、ジョーンズの調査によ ると51)、正式に定例会が開かれるようになった1775年から1805年頃まで、 月一回程度、計150回の会合が開かれたことがわかっている52)。主要な論題

48) 肩付き印字 superior type の発明者で、標準労働時間 standard works の発案者。町はずれ

の Easy Hill で漆塗工と印刷屋を営む。

49) ロイヤル・ソサイエティ会員。豊かな文筆家で、化学や博物誌に熟達する。18 世紀半ばにバーミン ガムに来て、ボウルトンの父が経営したスノウ・ヒルの金属製造所からほど遠くない Steelhouse Lane で、銃器製造所を経営した。彼の同名の息子(Samuel Galton, Junior, 1753-1802)は、 1774 年に父の経営する製造所の共同経営者になるが、そのクウェーカー教徒信仰と武器製造との 矛盾に悩まされた。ルナー協会については、Uglow (2002) および Schofield, R.E. (1963),

The Luna Society of Birmingham: a Social History of Provincial Science and Industry in Eighteenth-Century England, Oxford. また The Lunar Society, read

by H. Carrington Bolton at the Founding of the Lunar Society of New York, April 27, 1888, repr. in The Correspondence of Priestley, pp.195-219.

50) Staffordshire の Bradley で製鉄業を経営し、彼のシリンダーの精度がワットの蒸気エンジン を完成させることを可能にした。その蒸気エンジン第 2 号は彼の錬鉄工場の巨大な空気ポンプ を動かすのに使われた。娘がボウルトンの息子と結婚するなど親交は深かったが、1794 年頃か ら不和が始まり、1796 年 8 月 5 日に最終決裂して、友情関係は終わった。プリーストリーの 義兄でもある。 51) Jones (2009) p.91. 52) Schofield(1963, p.17)によると、「ルナー協会」の名称が明確になるのは 1776 年頃からで、 定期的な会合は 1780 年までなかったので、1765 年頃から組織された状態は Lunar circle と 呼ぶべきだと言う。

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は、物理学、化学、鉱物学、冶金、光学、それに教育に関するものであり、技術 問題よりも自然科学が彼らの最大の関心事だった。プリーストリーとボウルト ンの所有する設備十分な実験室は、革新的な科学実験を可能にし、1782-3年 に行われたプリーストリーとワットによる水の分解実験はその代表的なもので ある。 こうした科学知識の実践的応用への関心は、ワットがグラスゴウ大学で多く の教授たちと知り合いだったこととも関係し、スコットランドにおける学問風 土の影響を受けていた。グラスゴウやエディンバラは数学研究の中心地として 知られ、エディンバラ大学はウィリアム・ロバートソン学長の指導下で、実践 的科学知識の社会的応用の基地になっていた。バーミンガムを含むウェスト・ ミッドランド地域は、スコットランド低地地方の科学者や製造業者との交流が 深く、ルナー協会員はそれを熱心に利用していたのである。 こうした交流を通した科学知識の習得は、ボウルトンの実業に直接間接に大 きく貢献した。ルナー協会の関係者を中心にして、彼と親交のあった人々の多 くが、ジョーンズの言う「科学者・製造業者savant-fabricants」であり、その ビジネスの中からさらに新たな人材が育成されていった53)。例えば、レニー (John Rennie, 1761-1821)は、1780-81年にエディンバラ大学でブラック教 授とロビソン教授(John Robison, 1739-1805)54)の教えを受けた後、ワット を訪ね、ボウルトン=ワット商会の代行でロンドンのBlackfriarsにあるthe

Albion Flour Millsで蒸気エンジンの組み立てに携わり、その技術を高めた。

1791年に土木事業の経営に乗り出し、運河や橋の建設で顕著な業績を残した (ウォータールー橋の建設は有名)。またエワート(Peter Ewart, 1767-1842) は、エディンバラ大学卒業後に、レニーに弟子入りした関係で、ソーホーの圧 53) Jones (2009) pp.126-7. ただし、産業革命期の代表的な企業家リチャード・アークライト(Sir Richard Arkwright, 1732-92)やジョン・ウィルキンソンは科学それ自体には関心を示さな かった。 54) グラスゴウ大学卒業後ロンドンに出て海軍に入り、そこで高度な数学能力を発揮した。ケベック やポルトガルに遠征して帰国後、ジョン・ハリソンの海事クロノメーターのテストチームに参加 する。その後 1766 年に、グラスゴウ大学のブラックの後任として化学教授になる。その後エ ディンバラ大学の自然哲学教授になる。晩年に陰謀説論者になったことでも知られる。

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延機を動かす水力タービンを始め、ワット式蒸気エンジンに必要なシャフトや ギアなどを製造し、その後独立してストックポートでエンジン製造者になっ た。これとは違って、マードックは、共同経営者の提案を断って、一貫して経 営責任のない従業員の立場で、ソーホーに忠実に貢献し続けた。このような人 材の育成も、経営の根幹は有能な人材にあるというボウルトンの考えに沿うも のだった。 ボウルトンは、ソーホーの経営を引き継がせるため、一人息子のMatthew Robinson Boultonに幼い頃から計画的な教育を施した。彼は、イートンから ケンブリッジのトリニティ・カレッジで学び、複式簿記などのビジネス知識や 科学研究に対する積極的な関心をもつよう奨励された。1786年12月から語学 習得のためパリに遊学し、帰国後の1787年10月に、パリで作られている華麗 な鋳貨のための金型の状態をチェックする仕事を割り当てられた。またドイツ にも留学し、1790年10月に帰国したときからソーホー造幣所で重要な役割を 果たすことになり55)、先述したように、 1794年からはワットの息子とともに 共同経営者として、その後のソーホーを支えることになるのである。これは、 ボウルトンの人材育成の最も目立った成功例であろう。 ボウルトンは企業収益よりも、自分自身および若い部下たちの能力開発に熱 心で、知識欲を満たす情報収集と科学を応用した新たな製品の開発に没頭した。 それはまさに産業資本家としての「勤労」の具体的表現であったといえよう。

4. 勤労意欲の育成と環境整備

ボウルトンは、開明的であるだけでなく思いやりのある人物で、雇用する労 働者の福祉を改善しようとする彼の計画は、当時としては例外的で注目すべき ものであった。この頃の雇用主たちは、通常、労働者の人間らしい生活のため の条件整備にはそれほど関心を示さなかった。ところがボウルトンは、「ソー ホー製造所」内で、古いタイプの親方がその弟子に示したような人道的配慮お

55) Tungate (2013), Workers at the Soho Mint (1788-1809), in Quikenden & Baggott & Dick (ed.) (2013), pp.180-190.

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よび技術指導と訓育を維持しようと試み、それが顕著な成功をおさめた56) 「ソーホー製造所」では、1770年には700人から800人の労働者が雇われ ており、1000人が働ける大きな作業棟の中に100以上の作業場があり、個々 の労働者が分割された仕事を遂行していた。「川岸長屋Brook Row」と呼ば れる労働者の宿泊用テラスハウスが川に面していた。1771年に工場を訪れた シェルバーン伯57) は、ボタンが生産される工程を次のように記録している。 「単独の労働者の手でボタンを完成させるのでなく、できるだけ多くの異なる 労働者の手に分割し、一個のボタンが50人の労働者の手を通じて作られ、労 働者は一日に多分1,000個のボタンに手を加えている。ソーホーで製造される 生産品の範囲は、広範な技量と専門化を必要とした。男も女も子供も雇用さ れている。圧延、プレス加工、切断、模様うち出し、彫版、バニシ仕上げ、金 メッキ、その他多くの金属加工工程である。58) 56) この頃の労働条件の過酷さについては、従来から多くの事例が示されており、資本家と労働者と の対立的関係を裏づける根拠とされてきた。しかし、産業革命初期の経営者たちは、自らが雇用 する労働者を勤勉に働かせるための様々な工夫をしており、ただ過酷な条件で労働者を強制的に 酷使していたわけではなかった。マルクスによって「他人の発明の盗人であり、最も俗悪な男」 と評せられたアークライトでさえ、自ら盟主として君臨するクロムフォード工場村を建設し、労 働者住宅、礼拝堂、日曜学校、宿屋の建設、市の開催などのほか、工場内規律によって、勤勉と 秩序と清潔のための労働環境を整備しようとした。小松芳喬(1979)は、アークライトが「労 働者を使い捨ての消耗品と看做す」ことなく、企業の成功のために「労働者の福祉への関心が必 要であるのを、経験により体得している事実」を強調している(『産業革命期の企業者像』(早稲 田大学出版部)、特に 73、68-9、138-9 頁)。ボウルトン同様に、労働環境整備と技術指導を重 視したのは、ウェッジウッドである。彼は、「家父長的労使協調主義から理想的工業村エトルリ アの建設」を実行し、そこに「工員住宅、学校、病院、孤児院、図書館、共済組合などの施設を 充実した」のである(天川潤次郎(1981)「第 1 章 発明家と企業家」荒井政治・内田星美・鳥 羽欽一郎『産業革命を生きた人びと 産業革命の世界③』有斐閣、33 頁)。ただし、この問題は 複雑で、十分な検討を要するので、本論では暫定的な解釈に留めておく。

57) William Petty Fitzmaurice, 1737-1805。 2 代目シェルバーン伯(2nd Earl of Shelburne, 1761-1805)。1804 年初代ランズダウン侯爵(1st Marquess of Lansdowne)。小ピットの盟 友であり、1766 年からのピット内閣の「国務長官 Southern Secretary」に任命される。ロッ キンガム内閣の後、1782 − 83 年に英国首相を務め、アメリカ独立問題に関するパリ講和条約 の交渉に当たる。ノース&フォックスの対抗によって倒閣するが、ノース&フォックス連立内閣 は短命で、1783 年 12 月に小ピット内閣が成立し、それに協力する。1773 年からプリースト リーを家庭教師兼秘書として採用し、彼の酸素発見に寄与した。

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ボウルトンは、洗礼名によって労働者を識別するようにし、彼らの実生活を 改善するために、工場の建物を漆喰で塗り、光と清潔さを保ち、換気をよくす るなどの配慮をした。また、製造所内での健全な生活づくりを推進し、野卑な 会話や汚い習慣や卑猥な落書きを取り締まる「作業所規律委員会」を作った。 違反者には、当時としては大額の1シリングの罰金を科したほどである59) しかしながら、こうした規律重視にもかかわらず、当時の労働者を取り巻く環 境はひどいもので、すべてを忘れさせてくれる飲酒習慣が労働者に蔓延してお り、健康に悪いジンやリキュールを飲んで身体を害する労働者が多かった。ボ ウルトンは寛大で気の長い人であったが、彼の雇用する熟練労働者が泥酔によっ て倒れる事態に憤慨した。彼はワットに次のように書いている。「Bedwarth

のSam Evansと若いPerrinsは、二人とも大酒飲みで、怠惰、愚か、不注意、

かつ思い上がった悪漢である。」「われわれの鍛錬する作業所は、全面的な改善

を望んでいるが、以前よりも悪化している。Peploは、妻の死以来飲み続けて

いる。Jim Taylourは9日間も飲み続けている。Taylourは以前にも女のため

にしばしば泥酔していた。60) 作業所で働いている人々は、概して勤勉であった。彼らの労働時間は、夏に は朝6時から夕7時まで、冬は朝7時から夕8時までと長く、その間に朝食 に1時間半、昼食に1時間の休憩がとられ、実働は約10時間半であった。週 6日間働き、その間に40時間の残業をしたことが記録に残っている61)。 ソーホーの賃金は当時の標準よりも高く、他地域のトップ職人と同等の額を

afterwards First Marquees of Lansdowne, repr. by Biblio Bazaar (Large-Print),

2009,Ⅰp.277. Cf. Uglow (2002) p.212. M.B. Rowlands (1979), A History of

In-dustrial Birmingham, City of Birmingham Education Department, p.18.

59) The Workers in SOHO, being the third part of Matthew Boulton of Birmingham,

by the City of Birmingham Museum & Art Gallery, 1972.

60) ボウルトンからワットへの手紙(1782 年 3 月 26 日と 4 月 6 日)in Boulton Papers. Cf.

Roll (1930) p.64.

61) 当時の一般的慣行として、朝 6 時から夕 6 時までの 12 時間体制で、朝食に 30 分、昼食に 1

時間、ときにはお茶の時間に数分の休憩が認められたという。永田正臣(1981)「イギリス産 業革命期の製鉄業と労働関係」『駒沢大学経済論集』13 巻 1 号、18-19 頁。また、1802 年 5 月 25 日の記録では、労働者の氏名と共に、残業の提案がなされている。Tann, Jenifer (ed.) (1981) p.248.

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受け取っていた。記録によると、子供が週2シリング6ペンス、未熟練労働者 が5シリング、渡り職人が10シリング、熟練職人が15シリングから1ポン ド、見習い工や日雇い労働者はそれより少なく、個別作業場で働く銀職人は特 別に高く、すべての賃金は、彼らの技能と経験に応じて支払われていた。また 労働者の賃金は、経験を積むにつれて上昇するのが当時の慣例であり、それを 経営者側も受け入れていた。ただし、1770年代頃から、合理化と労働喚起の ため出来高払い制が検討され、90年代までにソーホーのエンジン製造所の取 り付け作業のほとんどが出来高払い制になった62) ソーホーの組み立て職人の多くはスコットランドから来ており、週12シリ ングから15シリングの賃金が一般的だった。これは、1779年にウィルキンソ ンが、同じスコットランド職人に支払った「近隣では高額」な8∼9シリングの 賃金と比べても高かった63)。他地域では、 1770年代のWorcesterやBurslem の陶器工場の労働者が週約9シリング、北部の紡績工が週8シリング7ペン ス、シェフィールドの刃物工労働者が週13シリング6ペンスだった。コーン ウォールでは賃金が非常に低く、ボウルトンとワットが熟練組立工に支払った 週18シリングは、顧客たちに衝撃を与えたほどである。これに比べて、綿工 業を基盤に発展したマンチェスターでは、James Lawsonのレポート(1803 年)によると、週16∼18シリングが普通であり、必要な熟練技術者に対して は、最低でも週57∼58シリングを支払う用意があった64)。 この頃にはまだ、従来型の徒弟制が厳然と残っていた。通常、貧民の子供 は未熟練の安い労働を提供するために奉公に出された。彼らは可能な限り最も 安い労働として、食糧を与えられる代わりに過酷な労働に服した。その最も 低俗で悪辣なものは、救貧対象の貧民の息子、捨て子、孤児、浮浪者を、貧民 監督官が一定の金額と交換に親方に引き渡し、その下で過酷な労働が課され た。これに耐えられなくなって逃げ出す見習工も多く、1776年や1796年の 62) Tann (1981) p.13. 1802 年 10 月 30 日の記録では、日雇い労働者が 20 人、出来高払い労 働者が 34 人で、賃金は平均 15 シリング程度だった(p.249)。

63) Boulton to Watt, 1779, Oct.4, in Boulton Papers.

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Aris’ Birmingham Gazatteには、逃げ出した見習工の手配広告が掲載されて いる65)。それは偽装された奴隷制と言ってもよいものだった。 他のタイプの見習工は、技術を習得して渡り職人の資格を得るために、父親 が息子のために料金を支払って、主人の「秘術」や商売上の特別な技術を習得 するものだった。見習工の父親たちはしばしば主人の友人や隣人であり、料金 を払う余裕のある中流階層に属し、徒弟制度は、若者が排他的な職人サークル やビジネス世界に入るための特権を得る制度として機能していた。 多くの人が彼らの息子を見習工として雇ってくれるように盛んに頼んでき たが、ボウルトンはめったにそれに応じなかった。彼は、徒弟制はあまりに保 守的な訓練法で、急速な工業化に対応できず、古い職人気質の伝統的な方法に よるだけでは、進取の気性に富んだ労働を提供し得ないと認識していた。彼 は好んで「普通の田舎の若者」を雇用し、彼自身のやり方で彼らを訓練した。 彼は、1768年に「我々のビジネスの最も奴隷的な部分におかれている、父の ない子供、教区内の年季奉公人、慈善院収容の子供を雇う」とさえ公言してい た66)。救貧対象となった孤児や不運に見舞われた貧民の子供を収容する建物 を建設し、彼らに十分な食糧を与え技術訓練し、その才能を伸ばそうとしたの である。彼ははっきりと次のようにも言っている。「私は、より多くの普通の 田舎の若者を訓練してきたし、今もしている。その中で才能を現すものは皆、 それを引き出すよう教えられる。私は彼らから、巨大な堕落した資本で(in a

great & Debauchd Capital)設立されたどんな製造所よりも、大きな利益を 引き出す。67)

このように、ソーホーは、貧民のための労働訓練所の機能も果たしており、 それを通してボウルトンは、自らの特別な技能を伝達することができる有能な

65) 1776 年 4 月 15 日付の新聞には、John Pardo と Elizabeth Fullard について、1776 年 7 月 3 日には、Joseph Pountney について、1796 年 2 月 1 日には、George Harding につ いての手配が記載されている。

66) ボウルトンから Peter Bottom への手紙(1768 年 3 月 30 日)in Boulton Papers。Cf.

John Lord (1966), Capital and Steam Power, 1750-1800, p.58.

67) James Adam(1728-94)への手紙(1770 年 10 月 1 日)in Boulton Papers。 Dickinson (1937)pp.60-1.

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若者を探していたのである。彼自身、1789年にスタフォードシャーの「貧民

監督官Overseers of the Poor」に任命されている68)

ボウルトンはまた、12歳以下の子供は雇わなかった。彼はすでに高度な機 械を使い、高い技術をもつ労働を必要としており、小さな子供は使い物になら なかった。労働者階級の子供を教育する論議が高まるのは19世紀末であるが、 それは工業化が進んで、もはや未熟な子供の労働を求めなくなったからである。 ボウルトンの実践は、その点ではすでに、19世紀段階に入っていたと言える。 ボウルトンは科学的な経営方式を導入した。労働者を労務管理するために、 自分の代理となる監督と班長を訓練して現場を任せ、自らは軍事本部の司令官 のように、工場の中にある事務所に座って作業を指揮した。ハンマーやエンジ ンの音に囲まれ、それが中断したらすぐにわかり、機械が早すぎたり遅すぎた りするときは、それに応じて指令を出すことができた69)。この監督鍛錬制度に ついては、労働者を監視して徹底的に働かせるだけでなく、従順で冷酷な監督 を厳しく鍛え上げ、なおかつ彼らを支配下に置いて操縦する点で、残酷非道な 労務管理システムという評価がある反面、他方で、有能な人材を監督として育 成し、やがて彼らが独立して経営者になるよう指導した積極的側面を評価する 見方もある70)。少なくともボウルトンの労務管理には、後者の評価が当ては まるように思われる。先述したように、彼の下で育ったマードック、レニー、 エワートの例はそれを示している。 ボウルトンの工場組織の著しい特徴は、現代風の「社会保険制度」に類似し た原理を採用したことであった。それは、労働者が病気や失業期間が続くと家 族全員が飢えるしかなかった当時としては、まったく独創的で驚嘆すべきもの だった。ボウルトンは、「保健組合Insurance Society」を組織し、すべての労

68) Reel 42, no.16, 1789 Ap.15, Appointment of Matthew Boulton and John Wiggin as Overseers of the Poor of the Parish of Handsworth. Signed J Carles; B Spencer. 1p folio, in Boulton Papers.

69) J.L.Hammond &Barbara Hammond (1974), The Rise of Modern Industry,

(Haskell Horse Publishers Ltd.) Reprint of the 1925 ed., p.119.

70) これについては、Melling, Joseph (2013), Dark Satanic Millwrights? Forging

Fore-manship in the Industrial Revolution: Matthew Boulton and the Leading Hands of Boulton and Watt, in Quikenden & Baggott & Dick (ed.) (2013) pp.163-77.

参照

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