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心理的幸福主義の妥当性(一)

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論 1一一『奈良法学会雑誌』第2巻4号(1990年3月〉 説

V

心理的幸福主義の妥当性付

目 次 序 言 第 一 章 幸 福 の 概 念 第一節思想史的省察(以上本号) 第 二 節 言 語 的 事 実 第 三 節 導 出 第二章心理的幸福主義 第 一 節 必 然 的 帰 結 第 二 節 弁 証 第三節心理的幸福主義者

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序 にヨ 人間は常に自己の幸福を求めている、或はあらゆる人間行動の唯一の究極的動機は自己幸福である、という思想が 存在している。それは﹁心理的幸福主義﹂(官官

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﹀ ︺ と 呼 ばれているが、心理的幸福主義と言うと、まずベンサムの名前が思い浮かぶし、功利主義と関連づけて考えられるこ とが多い。事実、心理的幸福主義がベンサムの思想体系において占める位置は、他の誰におけるよりも大きく、また、 心理的幸福主義を最も直裁に宣言したのも ( ﹃ 道 徳 ・ 立 法 原 理 序 説 ﹄ の 第 一 章 冒 頭 の あ の 有 名 な 文 章 に 象 徴 さ れ る 如 く ﹀ 彼 で ある。確かに、ベンサムこそ心理的幸福主義の典型的且つ代表的な思想家であると言えよう。しかし、そのような理 論そのものは決して新しくはないし、況やベンサムに始まるわけでも功利主義に特有のものでもない。それは、後に 見るように、他の多くの思想家の中にも見出されるのであり、その先駆は既に古代において認められるのである。し かも、そうした思想的系譜は(少なくとも緩やかな意味においでは﹀著名な思想家を連ねており、従って、思想史の主流 を占めてきたと言っても過言ではない。心理的幸福主義は、実は古来より存在してきた一つの有力且つ伝統的な考え 方 な の で あ る 。 しかし、それにもかかわらず、心理的幸福主義は決して評判がよくなかった。と言うより、 かなり激しい反発を買 ってきたと言ったほうが、正確であろう。そのため、心理的幸福主義をハ少なくとも事実上﹀唱えた偉大な思想家たち の思想体系においても、その部分については殆ど無視されたり看過されたりしてきたのである。 それでは、そのような反発の原因は何処にあるのかと言えば、それは多分に感情的なものであった。即ち、反対論 者によれば、人聞は自己の幸福という動機によって ハ そ れ が 基 本 的 文 は 強 力 な 動 機 で あ る と し て も ﹀ 完 全 に 支 配 さ れ て い

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るのではなく、従って、心理的幸福主義は人間性を不当に毘め人間の自由と尊厳を傷つける、というのである。人間 はもっと高次の目的、 つまりそのためには自己の幸福など顧ないような高貴な目的をもつことができるのであり、人 聞を動物のレベルに押し下げる心理的幸福主義の見方は我慢がならない、というわけである。そして更に、そのよ うな反発や非難は、倫理の問題と絡むことによっていっそう促進された。と言うのは、 心理的幸福主義は﹁倫理的

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-﹀幸福主義﹂(即ち、幸福が究極的に唯一の善であるという考え方)と結びつき易いが、後者は感覚的な快楽に基づ く量的な価値計算の思想という印象を(これについては確かにベンサムに帰するところ大であるが﹀与えがちだったからで ある。かくの如き思想は人々の健全な倫理観念にとって受け容れ難いものであるが故に、そうした倫理的連想が心理 的幸福主義の評価に悪しき影響を及ぼしたことは、当然であろう。心理的幸福主義に対する感情的反発には、以上の ような二重の要因が介在していたのである。 とは言え、反発はもちろんそのような感情のレベルに止まるものではなかった。それは学問的には当然、理論的な 反駁という形をとって現れた。心理的幸福主義は事実に反しており、理論的に誤っているというのである。例えば、 3 -,心理的幸福主義の妥当性付 幸福︿快楽)は行為の結果として生ずるものであり、幸福を直接の目的とすることはできないとか、人間の欲求の対象 は個々の具体的な目的であって、幸福そのものではない、といった批判である。しかしながら、それらの当否はとも かくとして、そのような理論的駁論の背後にもやはり或る事情が存在していた。即ち、反駁せざるをえないより切実 心理的幸福主義は決して 奇異な考えではない。それどころか、冷静且つ鋭利な観察者にとって、或はまた真筆且つ徹底的な自省者にとって、 な動機があったのである。その動機とは i l l -幸福の概念を事実に即して広くとるならば、 心理的幸福主義は根本的な人間認識として抗し難い魅力をもっている。彼らはあらゆる人間(自己﹀行為の奥底に常 に何らかの自己幸福的なるものを見出さざるをえない。しかるに、何故その否定に人々が熱心なのかと言えば、それ

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は、それを認めるならば、(前述の如き﹀感覚的快楽主義や量的価値計算の招来どころか、そもそも倫理というものが 原理的に成立しなくなるように思われるからである。心理的幸福主義は自由意志に基づく利他的行為の可能性を抹消 することによって倫理の存在そのものを根底から堀り崩すに違いない、それはまことに具合が悪い、というわけであ る 。 つ ま り 、 人々が懸命に心理的幸福主義を否定しようとするのは、 ハ 本 人 は 気 づ い て い な い に せ よ ﹀ 実 際 の と こ ろ 、 心理的幸福主義それ自体の故というよりも、それが及ぼす ︿ と 思 わ れ る ) 重大な影響の故なのである。心理的幸福主 義と倫理とは相容れず、従って、後者を守るべきである以上前者を否定しなければならない、というのである。これ が実は、心理的幸福主義に対する激しい非難の背後にある決定的な事情であり動機であった。 しかし、心理的幸福主義と倫理とは果して本当に両立し難いであろうか。また、倫理にとって心理的幸福主義を認 めるわけにはいかないこと、しかも倫理的実践が現に可能なものとして存在しているということは、心理的幸福主義 の誤りを意味しているのであろうか。こうした聞いに対する解答は、むろん本論に譲らざるをえない。ただ、その問 題に関してここで一つだけ指摘しておくならば、個(個人) と全体(社会) の一致ということ、それ故幸福と倫理の 一致ということが、倫理の、従ってまた社会生活の、理想ではなかったかということである。カントに代表される如 く、哲学者たちが古来より求め続けてきたものも、 まさにそれであった。そうであるからには、倫理はその実践者自 身の幸福を排除するものではなく、倫理と自己幸福とは理念的に矛盾しないと言うことができる。それどころか、倫 理はむしろ心理的幸福主義の上にこそ成立すべきなのである。むろん、それはあくまで理念的にであって、その実現 のためには、各人の内面と彼らの社会的結合関係の双方の在り方が、理想的なレベルにまで高められなければならな ぃ。しかし、倫理と自己幸福とのそのような一致の可能性ということは、少なくとも、心理的幸福主義が倫理にとっ て相容れざる敵ではないということを、示しているであろう。また、そのことは同時に、心理的幸福主義が直ちに心

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理的利己主義を意味するものではないということも、含意しているであろ灯山岳岳亭骨除勧恥吐か険かかか

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骨骨 hv 骨 想なのであり、或る具体的現実としての自己幸福が倫理と両立しうるか否かはさておき、倫理と幸福との理念的一致 ということは心理的幸福主義の考察において忘れてはならない事実なのである。 それはともかく、心理的幸福主義はハそれにもかかわらず﹀これまで倫理学の世界における嫌われ者であった。そし て、倫理的幸福主義ハ特に功利主義﹀にとっては、それとの腐れ縁のために自らが批判される問題児であった。しかし ハ心理的幸福主義への嫌悪のみならず﹀それもまた、倫理的幸福主義者がしばしば心理的幸福主義者でもあった以上、自 然の成り行きであったと言うべきであろうか。ただ、理論的に言えば、もちろん倫理的幸福主義はその基礎づけのた めに心理的幸福主義を必要とするわけではない。また、後者から必然的に前者が導出されるわけでもない。言うまで もなく、(主観的﹀事実と(客観的﹀価値も、存在と当為も、共に次元を異にする問題だからである。しかし現実には、 倫理的幸福主義と心理的幸福主義とは常に関連づけられ、後者は前者に対して好ましからざる影響を及ぼしてきた。 5-一心理的幸福主義の妥当性付 従って、前者にとって後者は忽せにできない問題であり、自らの基礎づけのためには、越えておくことが望ましいハ ードルである。そしてまた、心理的幸福主義の問題が他の社会的諸問題にとっても非常に重要であること、のみなら ず、それ自体としても人間学上極めて興味深い問題であることは、論を侯たない。その真偽の如何は我々の人間観を 大きく左右し、人間と社会に関る多方面の思考を根本的に規定することになるであろう。 本稿は、さし当り以上のような関心と意図の下に心理的幸福主義の問題を解現しようとするものである。心理的幸 福主義は妥当するのか。もし妥当するとすれば、それはどのような意味においてであるのか。心理的幸福主義は倫理 的幸福主義とどのように関るのか OIl--これらの聞いに答えるため、以下では、まず第一章において幸福の概念を 規定する。従来の諸説ではこの点を酸味なままにしてきたがために、議論に混乱が生じているように思われるからで

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ある。幸福の何たるかが明確ならずして、 いずれにせ およそ心理的幸福主義について論じうるはずがないであろう。 ょ、続く第二章において、そのような基礎に立脚しつつ、心理的幸福主義の妥当性の如何に最終的な判定を下すこと にする。その場合もちろん、判定に資するいくつかの新しい議論を展開するつもりである。従って、判定の当否はそ れらの妥当性に依存しているが、後者は更に、それらのもつ、人々の理性に対する説得力の如何によって決定される であろう。それは後の問題として、ともあれ本稿は、斯くニ章をもって構成される。そして、その直接的な課題は前 述の通りであるが、言わば間接的な課題もしくは趣意について最後に付言しておこう。と言うのは、本稿は単に倫理 学上の一個別問題の解決をめざしているのではないからである。私はこれまで価値及び倫理の根本原理としての﹁功 利性原理﹂の理論的確立に努めてきたが、本稿もまたその一環という側面をもっている。心理的幸福主義の問題の解 明は、倫理的幸福主義たる﹁功利性原理﹂に対する理解の深化に役立つであろう。 ( 1 ﹀ ハ お そ ら く ) シ ジ ウ ィ ッ ク の 用 法 以 来 、 ﹁ 心 理 的 快 楽 主 義 ﹂ ︹ 国 ・ 自 己 問 主 円 F

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-宮 田 町 B ロ Z P F o E o p H ︼ ・

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︺という呼称が一般的であり、また、経験論的伝統や功利主義において﹁快楽﹂ ( 豆 町 田 由 民 る と ﹁ 幸 福 ﹂

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は内包的にも外延的にも同義であるが、本稿では﹁心理的幸福主義﹂という言葉を使 用する。それはもちろん、快楽という語のもつ一定の偏向性や限定性、即ちその肉体的・感覚的・情緒的なイメージを避け る た め で あ る 。 ( 2 ) 門 戸 ﹂

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-沼 y ω 由 l h N ( 3 ) 従 っ て 、 私 は ﹁ 心 理 的 利 己 主 義 ﹂ ( 宮 司 n y o -o m - s -巾 伺 0 2 5 ) という用語を採用しない。一般に、﹁心理的快楽主義﹂は ﹁心理的利己主義﹂を意味するものとされ、両者は殆ど区別されずに使用されているが、それは正確ではないであろう。何 故なら、他人の快楽やその実現を自己の快楽とすることは、しばしば起こりうるからである。むろん、そこに必然性はなく、 心理的快楽主義において目的として究極的なのは常に自己の快楽であるから、その意味で利己主義と呼ぶことは不可能では

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な い 。 し か し 、 そ れ は 非 常 に 誤 解 を 生 み 易 い 表 現 だ と 言 わ ね ば な ら な い で あ ろ う 。

第一章

幸福の概念

第一節

思想史的省察

﹁序言﹂で述べたように、心理的幸福主義の問題を取り扱う前提として、幸福の概念規定を行なわねばならない。 その場合、それが怒意的であってはならずハできるだけ﹀客観的でなければならないことは、言うまでもなかろう。し かしそのためには、足掛りが必要である。そして、その足掛りの一つとして有効であると思われるのは、歴史に残る 思想家たちがこれまで幸福についてどのまうに考えてきたかということであろう。即ち、幸福に関する思想史をふり 返って見ることが、考察の第一歩として適切である。過去の思想家たちの考えを知るならば、或る程度の見通しが得 7一一心理的幸福主義の妥当性付 られるに違いない。そこで、幸福の概念規定の予備的作業として、 まず思想史的な検討から入ることにしたい。 ﹁ 幸 福 と は 何 か ﹂ と い う 問 い は 、 まことに古くて新しい聞いである。それには、歴史上の殆ど全ての思想家が多か れ少なかれ、また自覚的にせよ無自覚的にせよ、闘ってきた。その際彼らは、そのような問題をたとえ正面から取り 上げてはいないとしても、人聞を、或は善や価値を、更には社会や国家を論ずることにおいて、実質的にそれに対し て 何 ら か の 解 答 を 与 え て き た の で あ る 。 何 故 な ら 、 ( こ の こ と 自 体 が 本 稿 の 課 題 で あ り 、 結 論 を 先 取 り す る こ と は で き な い が 、 少なくとも言えることは﹀人間の如何なる営みもおよそ幸福を技きにして論ずることはできないからである。 しかしな がら、そのように思想の歴史において常に議論の的とされてきたテ l マであるにもかかわらず、そこに見解の一致を

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見出すことは困難である。他のテIマに関する思想や哲学の歴史が殆どそうであるように、幸福論(幸福理論)の歴 史もまた変化と多様性に彩られているのである。 とは言え、同時代の人々はそれぞれの時代が置かれた客観的及び精神的な情況を共有しており、従って、(他の思想 についてと同様)幸福論についてもその時代的な傾向と変化は指摘することができる。 つ ま り 、 そこには一定の基本 的な発展段階が存在しているのである。そして私見によれば、それは大きく二つに区分することができる。即ち、 (西洋における﹀古代及び中世と近世以降とである。そこで以下、それらについて順次見ていくことにしよう。 始めに、古代及び中世であるが、そこにおける幸福の概念規定は、概括的に言えば、非常に観念的或は規範的であ るように思われる。この時代は科学的精神が未だ形成されておらず、その思考は経験的・実証的ではない。学問全体 が形而上学的・超越的な存在原理や価値原理によって貫かれており、事実に即した真理の探求ではないのである。従 って、幸福についての考察の仕方も、現実の幸福現象についての客観的な分析ではない。即ち、そこで問われている のは、﹁幸福とは何であるか﹂ではない。そうではなくて、或る特定の立場からする、﹁幸福とは何であるべきか﹂ とか﹁善き幸福とは何か﹂、﹁真のないしは最高の幸福とは何か﹂という聞いなのである。そうであるなら 或はまた ば、そのような問題の性質上当然のこととして、それに対する解答は到底一致し難いであろう。人それぞれの個人的 な性格・好み・境遇・人生観・価値観・信仰などの違いに応じて様々に変化し、従ってかなり主観的なものにならざ るをえないであろう。こうした事情が古代及び中世における幸福論を基本的に特徴づけているのである。もちろん、 このことを理解するためには、具体的に検証してみなければならない。古代及び中世の思想家は、果して実際にその ような特徴を示しているであろうか。 まず古代から、主な思想家について概観してみると│││最初の体系的哲学者と見られるのはデモクリトスである

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が、彼は原子論的機械論者であり、倫理学に関しては(当然の如くに)個人主義的な幸福主義者であった。しかし、彼 にとっての幸福とは、(その唯物論的立場にもかかわらず﹀精神的な快楽であり、 より具体的には心の安静であった。 次 に 、 ハ 或 は ま た 、 そ の 文 献 的 制 約 の 放 に 、 プ ラ ト

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﹀ にとって、幸福とは倫理的な徳によ ほぽ同時代のソクラテス ってもたらされるものであった。 ﹁幸福を生み出す条件となるものを全て自己の支配下に置いているか、或はそれに 近い状態にある人、:::そういう人があるなら:::節度のある人こそまさにそういう人であり、勇敢で思慮のある人 ハ 1 ﹀ こ そ そ う い う 人 ・ ・ ・ ・ ・ ・ で あ る よ そしてこのような倫理的幸福観は、次のような興味深い対話においてより鮮烈に示さ れ て い る 。 ﹁ ポ ロ ス μ あなたはきっとソクラテス、ペルシャ大王ですらも幸福かどうか判らぬと言い張るつもりだろ 行 〆 / d ソ ク ラ テ ス H しかもそれは、嘘偽りのないところなのだよ。何故なら、僕は、 その人がどれだけの教養をもち どの程度正義の人であるかということを、知らないのだから J ポ ロ ス H おや、幸福かどうかは全てそんなことに懸 9一一心理的幸福主義の妥当性付 ソ ク ラ テ ス H 少なくともこの僕の意見によればね、ポロス。男でも女でも、立派な善き人 ハ 2 ﹀ 聞は幸福であり不正で邪な人間は不幸だというのが、僕の主張なのだから。

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それでは何故幸福が倫理的有徳性に 存するのかと言えば、それは、人間の本質は不死なる魂にあり、幸福とは善き魂の状態に他ならないからである。 ( 3 ﹀ ﹁最も幸福なのは、魂の中に何も疾患をもたない人間だ。﹂ っていると言うのかねワ μ そ し て 、 そうした善き魂(従ってまた幸福﹀に至るために ﹁真の徳とは、節制であれ正義であれ勇気であれ、全て:::情念からのまさに浄 化︿カタルシス)であって、知恵こそこの浄めの役を果すのではないか。﹂ は、知が不可欠とされたのである。 こうしたソクラテスの思想は、小ソクラテス学派と総称されるいくつかの継承者をもったが、そのうち、 キュニコ スハ又はキユグ﹀学派の祖アンティステネスも、有徳な生活を幸福と考えた。しかし、その幸福とは自足性、従って、 心を悩ます諸々の欲望から解放された状態であった。そして、そのような無欲を実現するために、(あの有名なディオ

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ゲ ネ ス に 象 徴 さ れ る よ う な ﹀ 禁 欲 、 更には苦行を勧めたのである。他方、同じ小ソクラテス学派の一つキュレネ 質 素 、 学派を聞いたアリスティッポスは、感覚的認識論の立場から善も感覚的・個人的なものであるとし、善き感覚として の 快 楽 を 求 め た 。 つまり、同じソクラテスから出ながら逆に感覚的・肉体的な、 しかもその時々の、 快 楽 を ( 但 し 、 そ の た め に は 知 識 や 節 制 が 必 要 で あ る と し て い る が ) 説 い た の で あ る 。 これら二派の思想は、後世の倫理思想史の基本的枠組を形成した二つの思想、即ちストアとエピクロスの、原型 と な っ た 。 ま ず 、 キユニコス学派を受け継いだストア派についてである、が、 幸福とはアパテイア そ こ に お い て は 、 ( ス ト ア 派 の 代 表 的 な 哲 学 者 で あ り 作 家 で あ る セ ネ カ の ( 与 え ﹃ 冊 目 白 ﹀ 、 即 ち 、 パ ト ス を 超 越 し た 、 心 の 平 静 な 状 態 で あ っ た 。 言を借りれば、﹀﹁我々を苛立たせ或は恐怖に陥れたりするところのものを駆逐し去れば、常に変わることなき平静や 自由がその後に生ずる:::。何故ならば、快楽と苦痛とを捨て去れば、:::絶大な、ゆるぎない不変の喜びが続いて 起こり、更に精神の平和ないし調和が、また寛容を伴った広い心が生ずるからである。:::我々が幸福なる人と呼ぶ のは、:::快楽の蔑視こそ真の快楽とする人である。:::幸福なる生活とは自由にして高潔な、 また恐れを知らない 不動の精神である。:::ひとたび快楽の下に屈服した日には、苦痛の下にもまた屈服することになるであろう。. 極めて気まぐれな、且つ暴虐極まる支配力なる快楽や苦痛に交互に捕われるような者は、如何に悲惨な、 奴隷生活に従うことになるであろうか。故に、これより逃れ出て自由の境地に向かわねばならぬ。﹂ また有害な そしてこのよう なアパテイアは、我々があらゆる外的・偶然的なるものの価値を問題とせず、専ら、人聞の超個人的・自然的本性で あり且つ宇宙全体の法則であるロゴス ( 理 性 ) に 則 る こ と ( 同 時 に そ れ が 唯 一 の 善 で あ り 徳 で あ る が ﹀ つ ま り に よ っ て 、 自ら神的・普遍的秩序の一部となることによって、到達されうるものであった。 ﹁全てのストア派の人々の聞で意見 の一致を見ていることである、が、私は自然に従うことにしよう o 自然より迷い出ないこと、 また自然の法則と自然の

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規範に則って自己の形成を図ることこそ、これ叡智に他ならない。 ハ 6 ﹀ で あ る ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。 ﹂ 故 に 、 幸福なる生活はその本性に適合せる生活 つまり、世界はロゴスのもつ運命的な必然性によって支配されており、 自由になるのは内心だけであ るから、その心の在り方を世界のそれに合わせることによってのみ心の平安が得られるというのである。 ﹁ 自 由 を 与 えてくれるのは、運命の蔑視以外にはない。:::如何ように在ろうとも、在るがままの現在に甘んじ自分の境遇に親 ハ7 ﹀ しんでいる者こそ幸福者である。﹂ こうしたストア派に対して、片やキュレネ学派の影響を受けたエピクロス派は、幸福をもって人生及び哲学の目的 とし、原子論と感覚論によってそれを基礎づけようとした。そして、幸福として快楽を説いたが、その快楽とは一生 にわたる、氷続的なものでなければならず、従って、そのためには逆に(キュレネ学派と違って)快楽の追求を控え、始 め か ら ︿ 欲 求 が 満 た さ れ な か っ た 場 合 に 避 け ら れ な い ﹀ 不満の可能性を生じないようにすべきだとしたのである。即ち、 消極的・防衛的なその種の快楽は、 と呼ばれる精神的な快楽であり、完全に充足した心の アタラクシア ( 由 同 白 H1 同 一 色 白 一 ) 状態、言い換えれば不快や苦痛の欠如であった。 ﹁快が目的であると我々が言うとき、我々の意味する快は、:::道 11 心理的幸福主義の妥当性付 楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、実に、肉体において苦しみのないことと霊魂におい ( 8 ﹀ て乱されない(平静である﹀こととに他ならない。﹂ 前者は一時的且つ限定的であり、結局のところ快ではないからで あ る 。 ﹁肉体はそれ自体としては快の限度を限りないものとしている。そして、このような快を生み出すには、限り ない時聞が必要である。しかし、精神は肉体の目的ハ苦しみのないこと﹀と限度について考慮し、永遠(死後のこと﹀に 関する恐怖を解消することによって、完全な生活︿肉体において苦しみなく、心境において平静な生活)を我々に与え、 くて我々はもはや限りない時聞を必要としなくなるのである。﹂ 七、 まだまだ不十分ながら、古代についてはこれくらいにして、続いて中世に移ろう。しかし、古代の幸福論がそれぞ

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れの社会情況と各思想家の個性を反映していたのに較べ、この時代の幸福論については殆ど多言を要しないであろう。 何 故 な ら 、 キリスト教の支配したこの時代においては、思想の自由な展開の余地は乏しかったからである。あらゆる 思想がキリスト教的思考様式によって規定され、従って幸福の問題も信仰のそれと不可分であった。即ち、幸福は ︿ギリシャ的伝統に沿って)究極的な真理や善との同一性に求められたが、それは直ちに、創造主たる神との一体性を意 味したのである。そしてそれが、神の国において永遠の生命に与るという自然的欲望と︿実際には﹀結びついていたこ とは、言うまでもない。そのような人間的基盤の上に、神の固に至る信仰生活そのものが此世における幸福とされた。 神の全能と無限の愛を信じその意志に帰依すること、それこそが真の幸福だったのである。このような幸福論は、例 えば、最大の教父アウグスティヌスの次の言葉に示されている。 ﹁ 至 福 の 生 と は 、 あ な た ( 神 ﹀ を め や さ し 、 あ な た に よ って、あなたの故に喜ぶことです。:・・まことに、至福の生とは真理から生ずる喜びに他なりません。即ちそれは、 ハ 加 ) 真理にて坐しますあなたによって生ずる喜びです。﹂ 或は、﹁生命は自分を造って下さったかたに向き直り、生命の 泉のもとでますます豊かに生きなければなりません。そして、そのかたの光の中で光を見、完成され照らされて、遂 に至福なる者となるのです。﹂また同様に、キリスト教神学たるスコラ哲学の最高峰トマス H アクイナスも、﹁被造の ハ ロ ﹀ 至福は神の享受である﹂謂をこう語っている。﹁そもそも人聞にとっての究極的な幸福は、人間最高の働きである知 性の働きのうちに成り立つのであるから、もしも被造知性には神の本質を見ることが絶対不可能であるとしたならば、 人聞は決して至福を獲得できないか、それとも人間の至福は神以外のもののうちに成り立つことになるであろう。し ( 白 ) かし、これは信仰に外れている。﹂ そして、自己自身が神の姿に近づくほど、それだけ神を認識することができると (HHU よりいっそう至福なる者となるであろう。﹂ されたのである。﹁より多く愛を有する者ほどより完全に神を見て、 以上、古代と中世の思想史上の幸福論についてごく簡単に見てきた。それを踏まえて先述の総括を敷街するならば

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1 1 1 近世以前の幸福論に (むろん、あくまで一般的に)共通する顕著な特徴は、幸福というものが何らかの価値の立 場から(更にはその根底にある存在論や世界観から﹀捉えられていたことであろう。即ち、或る一定の倫理的又は宗教的 な前提に基づく幸福論であった。そこには、在るがままの経験的事実を客観的に認識しようとする意欲や態度は、始 めから存在していない。従って、そのような非経験的・非客観的立場から規定された幸福概念は、我々が善かれ悪し かれ現実に幸福としている日常的・世俗的なそれや個性的・特殊的なそれからは程遠く、 工 、 も つ こ 。 中 / 3 ザ ヂ ' a つ ま り そ れ は 、 せいぜいその一部分にすぎ 一言でいえば、現実主義的ではなく理想主義的であった。前者の立場からする幸福の探求 は、︿科学的精神と共に)ヒューマニズムと(積極的な)個人主義の土壌を必要とするのであり、そのような一般的条件 は未だ存在していなかったのである。ともあれ、理想主義的な価値の立場から幸福の概念を求めた当時の思想家たち は、そうした立場の故に幸福の﹁内容﹂を示そうとした。あらゆる幸福に妥当する普遍的概念ではなく、或る特定の 幸福内容に注目した。何故なら、理想主義的立場からすれば、中一音き幸福と悪しき幸福、真の幸福と偽りの幸福、最高 の幸福と平凡な幸福、永遠の幸福と一時的な幸福などを、区別する必要があったからである。しかるに、そのような 付 区別の基準は、当然のことながら、幸福の概念自体の中には含まれていない。従って、それは外部から持ち込まれる ことになる。しかし、斯く外的要因によって規定された概念は、必然的に客観性を喪失せざるをえないであろう。幸 福概念としての普遍妥当性は望むべくもないであろう。そのため、それら幸福の具体的﹁内容﹂は多様であったばか 13一一心理的幸福主義の妥当性 りではない。先に見たように、それらは精神的と感覚的、禁欲的と悦楽的、社会的と個人的、彼岸的と此岸的という ように、相互に対立的ですらあったのである。 このような古代・中世の幸福理論に対して、近世以降ハ又は近代﹀のそれは性格を具にする。両者の聞には、思想史 全般がそうであるように、基本的な相違がある。即ち、近代的な幸福論は、新時代における ( 文 明 の 発 達 に 基 づ く 人 間

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の力の増大によって生み出される、﹀人聞の主体性、個人の自覚、それに(それらと相関的な)科学的精神を背景として、 経験的・客観的であり、非常に現実主義的なのである。そこで認識の対象となっている幸福とは、もはや善なる幸福 でも真の幸福でも、氷遠の幸福でもない。そうではなくて、現実の幸福、人々が実際に幸福と見なしているものであり、 あらゆる人間幸福なのである。その結果、そこにおける幸福の概念規定は必然的に﹁形式﹂的なものとなった。幸福 の具体的内容を論じなくなった。何故なら、あらゆる幸福を対象とする以上、幸福内容の善悪や真偽を区別する必要 がなくなったからである。幸福の程度は問題でなくなったからである。そして、そのように形式的たることによって、 概念規定の客観的妥当性ははるかに高まった。形式的観点の故に、あらゆる幸福に共通する本質的要素へのアプロー チが可能になったのである。以下このことを明らかにするために、近世以降における若干の思想家の幸福論について 見 て み よ う 。 近世以降、特に十七世紀以降の哲学史は、周知の如く︿概括的に言えば﹀イギリスの経験論と大陸の合理論に大別さ れうる。そこで、近代幸福論の歴史についても、そのような見地から辿ってみることにしたい。まず、前者を代表す るホッブズは、幸福に関して次のように規定している。﹁人間が、折々に望むものを獲得する、ということにおける ( 応 ) 継続的成功、即ち継続的な繁栄は、人々が"至福

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と 呼 ぶ も の で あ る 。 ﹂ 或はまた、﹁至福とは或る対象か ら他の対象への欲求の継続的進展であり、先の獲得が常に後の獲得への道程にすぎないようなそれである。﹂ つ ま り 、 ①欲求の②対象の③獲得、 そしてその④継続に、幸福(至福﹀が存するというのである。 続いて、次世代の巨人であり、 満 その認識論によって経験論哲学の基礎を確立したロックは、こう語っている。 足している者は幸福宮阻害己である。﹂より具体的に言えば、﹁幸福

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と呼ばれうる最低限は、それなく しては如何なる人も満足しえないだけの、何の苦痛もない平安であり、 また同じだけの現存する快楽である。:::快

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楽と苦痛に我々の幸福と不幸 ( 5 2 2 ちが存在する。﹂ そして、その場合の﹁快楽﹂とは幅広い概念であった。﹁我々 は一方において満足、喜び、快楽、幸福などと言い、他方において不安、困惑、苦痛、苦悩、苦問、不幸などと言う が、それらはしかし同じものの程度の違いにす、ぎず、快楽

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と苦痛(宮山口)、即ち喜び又は不安、の観念に 属す浦町﹂そこで結局、こういうことになる。﹁辛骨と不幸というのは両極端の名前であり、その境界が何処にある 一方では喜びと嬉しさの、他方では苦悩と悲し かは判らない。:::しかし、何らかの程度における両者については、 みの、様々の事例によって作られる非常に生き生きとした印象を、我々はもっている。簡略のために、私はそれらを、 ︿ 却 υ なるほど肉体の快楽と苦痛のみならず精神のそれらもあるが、快楽と苦痛という名の下に包括するであろう。﹂つま り、幸福とは満足であり、そして満足は、種々様々の肉体的又は精神的な快楽によって生み出される、というのであ る 。 他方、デカルトに始まる合理論の代表者であり、デカルト哲学の課題を受け継いだスピノザも、次のように形式的 に 規 定 し て い る 。 そしてその﹁自己の有を維持 15--,心理的幸福主義の妥当性付 ﹁ 幸 福

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白)は、人聞が自己の有を維持しうることに存する。﹂ ﹁自己自身を愛すること、自己の利益、自己の真の利益を求めること、 く全てのものを欲求すること﹂であった。 より大なる完全性へ真に導 す る ﹂ こ と と は 、 更に、合理論を基本的に継承しながら経験論との綜合を図ったカントは、倫理学に関しては (所謂﹀幸福主義を徹 底的に否定したが、 まさにその故に、幸福について頻繁に言及している。そして、そのように否定の対象として語ら れている幸福であるが、 しかしそれに関する彼の見解は、経験性・客観性及び形式性という、幸福の近代的な概念規 定の特徴をよく備えており、近代幸福論の典型と言ってよい。それを整理して示せば、以下のようになるであろう。 まず、彼は幸福とは快楽的なものであるとする。幸福とは﹁理性的存在の存在全体に不断に伴う生の快適に関する

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( 忽 ﹀ 意識﹂である。また、快楽は必然的に満足をもたらすから、或は逆に後者は前者をもたらすから、 ハ お ﹀ の状態に対する満足﹂とも言われている。そして、そうした快楽や満足は欲求の充足或は意志の実現によって生み出 されるが放に、更に次のように言うことができる。﹁人聞は欲求と傾向の十分な充足を幸福という名前の下に総括し ( 辺 ﹀ ているよないしは、﹁幸福とは、この世界における理性的存在が自らの存在の全体において何事も願望と意志のま ハ お ﹀ まになしうるような状態である。﹂ ﹁幸福、即ち自己 それでは、そのような状態の(即ち幸福の﹀具体的な内容は何かと言えば、それは、 各人の欲求や意志が同一でない以上、当然各人によって異なるのである。 ﹁ 幸 福 の 概 念 は ・ ・ ・ ・ ・ ・ 主 観 的 規 定 根 拠 の 普 遍 的名称にすぎず、特殊的には何も規定しない:::即ち、各人が自己の幸福を何処に求めるかということは、快と不快 ( % ﹀ に関する各人の特殊な感情である。﹂ただもちろん、同じ人間として、そうした相違よりも共通点のほうがはるかに 多いから、或る程度具体的な幸福内容を一般的には指摘することができる。﹁権力、宮、名誉、それに健康と十分な ( 刀 V 安泰及び自己の境遇に対する満足もまた、幸福という名前で呼ばれている。﹂或は、﹁自己保存に自己の安寧、一言 でいえば幸一骨寸げという指摘もある。しかし、そこに挙げられた基本的な諸要素といえども、幸福そのものとは言い難 ぃ。幸福が満足であり、従って最終的には内面性という感覚的又は精神的なるものに依拠している限り、次のように 」与 三主F d区内 '" を わ も ざ ち る え を な え い面な ~~"、 の で あ る ﹁人聞は、全て幸福という名前で呼ばれている満足の総体については、 一定の明確な概 以上の如きカントの理論は、確かに極めて近代的であると言うことができるであろう。そこには、 古代や中世との明らかな相違が認められるのである。 これまで、近代哲学史の二大潮流を代表する四人の思想家の幸福論について略説してきた。それによって、近代に おける幸福論の (潮流の別にもかかわらず、それらに共通する)基本的特徴は既に明白になったと思われる。しかし、こ こで最後に、功利主義者の見解について見ておきたい。と言うのも、功利主義は現代における心理的幸福主義の問題

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と倫理的幸福主義の問題の双方に、 しかも直接、闘っているからである。 そこでまずベンサムであるが、彼はイギリス経験論の幸福主義的伝統を継承し、 ロずグと同様の見方をとっている。 それのみか、興味深いことに、彼の幸福に関する記述はロッグのそれと類似している。即ちその一つは、幸福の核心 が快楽にあるという趣旨の記述であり、ベンサムも﹁幸福が如何なるものから成っているか﹂という聞いに対して、 ︿ 却 ﹀ それは﹁快楽の享受であり苦痛からの保全である﹂と答えている。またもう一つは、しかしその快楽は現実には様々 の要素と結合しており、従って現象的には多様である、ということを語っている文章であり、ベンサムもロックと同 ハ 忽 ﹀ じく、﹁恩恵、有利、快楽、善、又は幸福︿これら全てはこの場合同じものに帰着するととし、更に﹁利益、便宜、 報酬﹂を付け加えている。そしてベンサムの場合には、新たに快楽計算の提唱に基づいて、十四種の﹁単純な快楽﹂ ハ お ﹀ と十二種の﹁単純な苦痛﹂を分類しているが、その広汎な包括性も快楽概念の現象的多様性を示しているであろう。 17ー「心理的幸福主義の妥当性付 次に、ベンサムの後継者として育てられた J ・

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・ミルについてであるが、もちろん彼もロ?クやベンサムと基本 ハ 引 抽 ﹀ 的には変わらない。やはり同様に、﹁幸福ということによって快楽、そして苦痛の不在が、意図されている﹂と述べ ている。但し、しばしば指摘されるように、彼はなるほど﹁幸福と満足﹂を﹁二つの非常に異なった観念﹂としてい ハ お V る。つまり、不満足な、その意味で不快な、幸福がありうるというのである。しかし、その場合の満足とは狭い意味 それであって、幸福が少なくとも何らかのハ肉体的・感覚的なそれも含む綜合的・ における ( 即 ち 主 に 肉 体 的 ・ 感 覚 的 な ﹀ 究極的な)満足としての広義の快楽に常に存していることを、否定しているわけではない。そして、ミルの特徴は実 はそこにではなく、またハそこから当然予想される、)幸福内容の単なる多様性の指摘にでもなく、その個人的・主観的 な多様性即ち個性を非常に強調している点にある。 及ぼす作用は、人々の聞で非常に異なっているので、それに対応する多様性が彼らの生活様式にないならば、彼らは ﹁快楽の源泉、苦痛の感受性、,及び種々の肉体的・精神的活動の

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ハ お ) 幸福の正当な分け前を得ないであろう。﹂ こうした認識が幸福概念の形式性をいっそう強く要求することは明らかで あ り 、 かくしてミルは、近代的な幸福理論を更に推進したと言うことができるのである。 以上、近世以降の哲学史における幸福の概念規定について簡単に見てきた。このような大雑把な概観だけからでも、 古代・中世の幸福論と近世以降のそれとの聞の相違を十分認識することができるであろう。先にも述べたように、前 者がそれぞれ或る特定の価値観や倫理的観点からする具体的・内容的な把握であったのに対し、後者は経験的・現実 的な観点からする形式的なそれとなった。即ち、近代的な幸福論は、我々が現実に経験する幸福を対象とし、 そのあ ら ゆ る 種 類 ( 内 容 ﹀ に 妥 当 す る 普 遍 的 性 質 を 求 め ん と し て 、 形 式 的 と な っ た の で あ る 。 そ の 妥 当 性 ( 真 理性)がはるかに高まったことは、先の概観に見る如く、諸見解の間の共通性や類似性が著しく増大したこと、しか も(経験論と合理論という)基本的立場の相違にもかかわらずそうであることからも、伺えるであろう o もちろん、だ そ し て 実 際 、 からと言って、その個々の(例えば、上述したホップズ以下の)議論がそれぞれ正しいとは限らない。それはあくまで個 別的な問題であり、 一概には言えない。だが少なくとも、形式的であることによって、それらの議論が多かれ少なか れ非常に広汎な妥当性を得ていることは、疑いないであろう。 始めに述べたように、本稿のテ l マである心理的幸福主義につ・いて論ずるためには、その前提となる幸福の概念を 明確にしておかねばならない。そのため本節では、更にその予備的作業の一つとして、まず思想史的な検討を行なっ てきたのであるが、上述の結論からして我々は一つの重要な教訓を得たと言うことができるであろう。幸福の概念規 定における一つの基本的な条件がそれによって明らかにされたと言えるであろう。それは何かと言えば、もはや容易 に推断されうるように、我々が現実に幸福と呼んでいる状態や事象に普遍的に認められる性質、つまり我々が幸福の 普遍的本質として客観的に語りうる事柄は、形式的にのみ認識され表現されうるということである。逆に言えば、幸

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福の具体的内容について規定することは、その客観性・普遍妥当性を犠牲にしない限り不可能だということである。 但し、単に思想史的な省察を終えたこの段階では、そのように言い切るのは尚早かもしれない。形式性の条件は未だ 示唆に止まると言うべきかもしれない。しかしともあれ、我々は思想史的省察を通して一つの有益な判断材料を得る ことができたのである。それは他の材料と相侯って幸福の客観的な概念規定に役立つことであろう。 19一一心理的幸福主義の妥当性付 ( 1 ) プラトン﹃メネグセノス﹄(加来彰俊・訳)、﹁世界の名著﹂ 6 、中央公論社、一一一六頁。点線は中略。なお、翻訳書から の引用にあたっては、漢字仮名混り・句読点・送り仮名・註記など、表記法に関する限りにおいて(まことに失礼ながら﹀ 私の流儀に変更さぜていただいた。以下同様である。 ( 2 ) プラトン﹃ゴルギプス﹄(藤沢令夫・訳)、﹁世界の名著﹂ 6 ( 前 出 ) 、 二 七 六 頁 。 ( 3 ) 同 右 、 二 九 八 頁 。 ( 4 ) プラトン﹃パイドン﹄(池田美恵・訳)、﹁世界の名著﹂ 6 ( 出 ) 、 五 一

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頁 。 点 線 は 中 略 。 ( 5 ) セネカ﹃幸福なる生活について﹄(樋口勝彦・訳﹀、岩波文庫、一一

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コ 一 頁 。 点 線 は 中 略 。 ( 6 ) 同右、一一頁。点線は中略。 ( 7 ﹀ 同 右 、 一 一 一 一

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五頁。点線は中略。因に、やはりストア派を代表する哲学者であり且つ政治家であったキケロにも、同様に 次のような言葉がある。﹁誰であろうと幸いの極みを尽くす者とは、偏に自分だけを侍んでいる者のことです。自分の持ち 物は悉く自分の中だけにあるのだと心得ている者のことです。﹂︹﹃ストア派のパラドックス﹄(水野有庸・訳)、﹁世界の名 著 ﹂ H 、中央公論社、九五頁︺ ( 8 ) エピクロス﹃メノケウス施の手紙片﹁エピクロス﹂(出隆/岩崎允胤・訳)、岩波文庫、七二頁。点線は中略。 ( 9 ) エピクロス﹃主要教説﹄、﹁エピクロス﹂(前出)、八

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頁。ところで、このようなエピクロス派の幸福観(アタラクシ ア)と先のストア派のそれ(アパテイア)とは、結果における実質的な幸福内容の点では殆ど同じである。しかるに、世間 は両者の思想を全く対照的なものとして受け取ってきた。むろんその主な原因は、﹁エピキュリアン﹂に象徴される、前者 に対する誤解(それはマキアヴェリズムの場合とよく似ている﹀にあるが、しかしそれは既に当時から根強かったようであ

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る。それについては、ェピクロス自身が人々の﹁無知﹂や﹁誤解﹂を指摘しているし︹﹃メノイケウス宛の手紙﹄(前出)、 七二頁︺、また、逆にストア派の側からエピグロスを弁護するという、セネカの次の如き興味深い一節がある。﹁私がこんな ことを言うと、我々(ストア)の派に属する人々は嫌がるが、私自身としてはこういう見解をもっている。即ち、エピクロ スの説いているところは、神聖な正しい教えであって、近寄って検討すれば厳しくすらある、と。要するに、彼の説く快楽 なるものは、小さな狭い範囲に限定され、我々が徳性のために説く法則と同じ法則をエピクロスは快楽のために説いており、 彼は快楽を自然に従わしめよと命じている。自然ハ的欲求)を満足させるところのものは、殆ど賛沢には属さないほどのも の で あ る 。 ﹂ ︹ ﹃ 幸 福 な る 生 活 に つ い て ﹄ ( 前 出 ﹀ 、 二 四 頁 ︺ (印)アウグスティヌス﹃告白﹄(山田晶・訳﹀、﹁世界の名著﹂崎、中央公論社、三六

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一 頁 。 点 線 は 中 略 。 ( U ) 同 右 、 四 八 七 頁 。 ︿ロ)トマス H アクイナス﹃神学大全﹄(山田品・訳)、﹁世界の名著﹂初、中央公論社、五二

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頁 。 ︿ 臼 ﹀ 同 右 、 三 一 八 頁 。 ( M ﹀同右、三四

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-なお、引用文にお ける丸型の傍点及び引用符は、原典においてイタリック体や大文字などの形で強調されている箇所に相当している。以下同 様 で あ る 。 ハ 尚 ) h s . R

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・ 点 線 は 中 略 。 (幻)スピノザ﹃エチカ﹄︿畠中尚志・訳)、岩波文庫、下巻二八│九頁。但し、デカルトと同じく神の実在から出発するスピ ノザには、中世キリスト教的な幸福論の表明も散見される。例えば.上巻一六三頁、下巻八七・一二九・一一二六頁参照。 ( 詑 ) 同 ・ 関 S F M 円

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(~) 1. Kant , Metaphysik der Sitten (1 797) , Ph. Bib. 42 , S.228 (c:!i) 1. Kant , Grundlegung zur MetaPhysik der Sitten (1785) , Ph. Bib. 41 , S.24 (~) I. Kant , Kritik. , S. 143. vg l. MetaPhysik. , S.345 (お) Ibid. , S. 29. .llJ~~挙:t:-H-管。 (~) I. Kant , Grundlegung. , S.10 (お) Ibid. , S. 12 (罰) Ibid. , S.17. vg l. Ibid. , S.38 (g) ]. Bentham , The Principles 01 Morals and Legislation (1 789) , Hafner , New York , 1948 , p.70 (お ) Ibid. , p.2 (~) Ibid. , p.31 (沼) Ibid. , p.33 仔. (苫) ]. S. Mill , Utilitarianism (1 861) , Collected Works of ]ohn Stuart Mill , Vo l. 10 , University of Toronto Press , 1969 , p.210

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Ibid. , p.212 (お ) Ibid. , p.270 工組知山附(町橋州問時加 wpq 割

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参照

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