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久多の木造五輪塔

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Academic year: 2021

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久多の木造五輪塔

 

 

 

はじめに

二〇一〇年三月、京都市左京区久多中の町に所在する志古淵神社に平安時代後期の制作と思われる木造五輪塔が保 存されていることがわかった。 ︶1 ︵ 本五輪塔には年紀の墨書があるほか、X線透過装置による撮影などによって納入品の 存在も知られ、二〇一二年三月に文化財的価値のきわめて高いものとして京都市指定文化財になった。 志古淵神社が所在する久多地域は、上の町・中の町・下の町・宮の町・河合の五つの集落からなる、滋賀県との県 境 に 接 し た 山 村 で あ る。 康 平 七 年 ︵ 一 〇 六 四 ︶ に 藤 原 氏 の 法 成 寺 領 で あ っ た こ と が 知 ら れ、 ︶2 ︵ 十 二 世 紀 に さ か の ぼ る 古 い 歴 史 を も つ 地 域 で あ る。 ま た、 志 古 淵 神 社 は、 創 建 未 詳 な が ら 社 伝 で は 延 暦 十 二 年 ︵ 七 九 三 ︶ の 創 建 と 伝 え、 確 実 な 史 料 と し て は 天 福 元 年 ︵ 一 二 三 三 ︶ ﹁ 久 多 荘 田 代 注 進 状 ﹂ に﹁ 上 宮 敷 地 三 段 ﹂﹁ 下 宮 敷 地 二 段 ﹂ な ど と み え る。 ︶3 ︵ ま た、 室町時代より伝わる花笠踊は国の無形民俗文化財に指定されている。このように久多地域および志古淵神社は、古い 歴史をもつ地域、神社で、平安時代後期の木造五輪塔を伝存するにふさわしい場所と思われる。 ︶4 ︵

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25 (宮﨑) しかしながら、本品に関する伝承は地元に一切残っておらず、伝来を知る手がかりは皆無といってよい。そこで本 稿では、木造五輪塔の概要を報告すると共に、久多地域に伝来した背景も考慮しながら、墨書等について若干の検討 をおこないたいと思う。

 

木造五輪塔の概要

1   外観の観察による知見 久多の木造五輪塔は、檜材様の針葉樹の芯部分で制作され、五輪に方形の基壇を伴うものである。塔高は二九・三 糎、基壇部で横八・四糎×奥行七・八糎となっている。保存状態はたいへん良好で傷みが少ない優品といえよう。制 作 し た 工 人 に つ い て は、 本 五 輪 塔 の 中 軸 線 が や や 傾 き、 削 り 出 し も 粗 い こ と な ど か ら、 熟 練 の 工 人 と は 思 わ れ な い。 し か し、 面 取 り や 水 輪 部・ 空 輪 部 の 球 形 の 削 り 出 し に は 注 意 が 払 わ れ て お り、 丁 寧 に 仕 上 げ ら れ た も の と い え る ︵図 1︶ 各部分の法量は次のとおりである。 基壇   高八・二糎   最大幅八・四糎 地輪   高五・五糎   最大幅八・一糎 水輪   高四・四糎   最大径七・八糎 火輪   高三・二糎   最大幅七・五糎 風輪   高三・一糎   最大幅七・〇糎 空輪   高四・九糎   最大径六・七糎

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本 五 輪 塔 の 各 部 に は 墨 書 が み ら れ る ︵ 図 2︶ ︶5 ︵ 五 輪 部 の 四 面 に は 種 字 ︵ 梵 字 ︶ が 墨 書 さ れ、 三 面 ︵ 表 面・ 両 側 面 ︶ ︶6 ︵ は、 そ れ ぞ れ﹁ 空 ﹂﹁ 風 ﹂﹁ 火 ﹂﹁ 水 ﹂﹁ 地 ﹂ を あ ら わ す﹁ ケ ン ﹂﹁ カ ン ﹂﹁ ラ ン ﹂﹁ バ ン ﹂﹁ ア ﹂ の 種 字 が 記 さ れ て い る。 ︶7 ︵ ま た、 背 面 に は 釈 迦 如 来・ 多 宝 如 来・ 阿 弥 陀 如 来・ 観 音 菩 薩・ 勢 至 菩 薩 を そ れ ぞ れ あ ら わ す﹁ バ ク ﹂﹁ ア ﹂﹁ キ リ ー ク ﹂ ﹁サ﹂ ﹁サク﹂の種字が記されている。 一方、基壇部の四面にも次のような墨書がみられる。 図 1 久多の木造五輪塔 図版Web非公開

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図2

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︵ 表   面︶ ﹁摩訶般若/波羅蜜多/心經観自在/菩薩﹂ ︵ 左側面︶ ﹁南無阿/弥陁佛/妙法蓮華經﹂ ︵ 右側面︶ ﹁己卯歳/平治元年/十二月九日/施入僧寂念﹂ ︵ 背   面︶ ﹁入道西念﹂ 表面は﹃般若心経﹄の冒頭句が記され、左側面には阿弥陀仏への帰依をあらわす念仏と、おそらく﹃法華経﹄への 帰依をあらわす題目と思われるものが記される。そして、右側面には年紀と施主と思われる僧侶名、背面にも僧侶名 が記されている。 こ れ ら 墨 書 の う ち、 空 輪 部 と 風 輪 部 の 種 字 が 釈 迦 如 来 と 多 宝 如 来 を あ ら わ す の は、 ﹃ 法 華 経 ﹄ 巻 四、 見 宝 塔 品 第 十一に釈迦の﹃法華経﹄説法中に多宝塔が出現し、塔内にいた多宝如来が釈迦の教説を讃嘆し、正しいことを証明し て、半座を空けて釈迦とともに併座したと説かれることに関わるものと思われる。この種字と基壇部の題目の墨書を あわせて本五輪塔に法華経信仰をうかがうことができよう。一方、背面の火輪部から地輪部にかけて阿弥陀如来と観 音菩薩、勢至菩薩をあらわす種字が記され、阿弥陀三尊をあらわしたものと思われる。この種字と基壇部の念仏の墨 書をあわせて本五輪塔に浄土信仰もうかがうことができよう。さらにこれら法華信仰と浄土信仰の要素を示すことか ら本五輪塔が天台系にゆかりのものであることを想像させる。 基 壇 部 の 墨 書 で も っ と も 注 目 さ れ る の は 平 治 元 年 ︵ 一 一 五 九 ︶ 十 二 月 九 日 ︶8 ︵ と い う 年 紀 で あ る。 こ の 年 紀 を 信 じ れ ば、 本五輪塔が五輪塔としてはかなり古い時代の制作例ということになる。 五 輪 塔 の 制 作 は、 文 献 上、 十 一 世 紀 頃 に さ か の ぼ る と さ れ る が、 遺 品 と し て は 十 二 世 紀 か ら 確 認 で き る 。 ︶9 ︵ 表 1は 十三世紀までに年紀の判明する五輪塔の遺品を一覧にしたものである 。 ︶10 ︵ まず、五輪塔の意匠を施した最古のものは①

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29 (宮﨑) 1   年紀の判明する平安・鎌倉期の現存五輪塔 年紀 材質形状 指定 備考 所蔵 ① 保安三 ︵一一二二︶ 瓦文様 最古の五輪塔の造形 ︵法勝寺小塔院︶ ② 康治元 ︵一一四二︶ 銅製錫杖文様 重文 最古の立体五輪塔 静岡・鉄舟寺 ③ 天養元 ︵一一四四︶ 土製五輪塔五輪塔 重文 兵庫・常福寺 ④ 久安三 ︵一一四六︶ 陶製五輪塔五輪塔 重文 最古の陶製五輪塔・在銘五輪塔 愛知・愛知県陶磁資料館 ⑤ 長寛二 ︵一一六四︶ 水晶製経軸軸端 ︵平家納経︶ 国宝 最古の水晶製五輪塔 広島・厳島神社 ⑥ 長寛二 ︵一一六四︶ 銅造梵鐘文様 重文 兵庫・徳照寺 ⑦ 仁安四 ︵一一六九︶ 石造五輪塔 重文 最古の石造五輪塔 岩手・中尊寺釈尊院 ⑧ 嘉応二 ︵一一七〇︶ 石造五輪塔 重文 大分・個人蔵 ⑨ 承安二 ︵一一七二︶ 石造五輪塔 重文 大分・個人蔵 ⑩ 治承五 ︵一一八一︶ 石造五輪塔 重文 福島・玉川村 ⑪ 文治二 ︵一一八六︶ 木製五輪塔形造像銘札 重文 納入品 静岡・願成就院 ⑫ 建久八 ︵一一九七︶ 水晶製三角五輪塔 国宝 納入品 山口・阿弥陀寺 ⑬ 建久八 ︵一一九七︶ 銅製錫杖文様 重文 埼玉・歓喜院 ⑭ 建久九 ︵一一九八︶ 銅製三角五輪塔 重文 滋賀・胡宮神社 ⑮ 正治元 ︵一一九九︶ 水晶製五輪塔 重文 納入品 京都・峰定寺 ⑯ 建仁八 ︵一二〇三︶ 板彫五輪塔 重文 三重・新大仏寺 ⑰ 弘安四 ︵一二八一︶ 木造五輪塔 重文 最古の木造五輪塔・納入品 奈良・東大寺 ⑱ 弘安六 ︵一二八三︶ 木造五輪塔 重文 愛知・性海寺

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で、 保 安 三 年 ︵ 一 一 二 二 ︶ 年 に 建 立 さ れ た 法 勝 寺 小 塔 院 の 瓦 の 文 様 で あ る 。 ︶11 ︵ 立 体 の 五 輪 塔 と し て 最 古 の も の は ② で、 康 治 元 年 ︵ 一 一 四 二 ︶ の 銅 製 錫 杖 の 飾 り に な る が、 単 体 の 五 輪 塔 と し て 制 作 さ れ た 最 古 の も の は ④ で、 静 岡 県 湖 西 窯 跡 出 土 の 久 安 三 年 ︵ 一 一 四 六 ︶ の 陶 製 五 輪 塔 で あ る 。 ま た 、 石 造 五 輪 塔 と し て 最 古 の も の は ⑦ で 、 仁 安 四 年 ︵ 一 一 六 九 ︶ の 中 尊 寺 釈 尊 院 の も の で あ り、 木 造 五 輪 塔 と し て 最 古 の も の は ⑰ で、 五 輪 塔 自 体 に は 年 紀 を も た な い が、 弘 安 四 年 ︵ 一 二 八 一 ︶ に 造 立 さ れ た 東 大 寺 の 四 天 王 像 ︵ 重 文 ︶ の 持 国 天 像 に 納 入 さ れ た 小 型 の 木 造 五 輪 塔 で あ る。 つ ま り、 こ れ らの五輪塔の遺品を見渡してみると、平治元年の年紀をもつ本五輪塔は、在銘五輪塔としては二番目に、木造五輪塔 としては現存最古の遺品であるといえる。 そこで年紀の真偽を確かめるべく特別行政法人文化財機構奈良文化財研究所の年輪年代研究室の協力によりマイク ロフォーカスX線CT装置による撮影をおこない、年輪年代の測定をおこなった。しかし、残念ながら有効な測定値 をえることができず、年紀を確かめるには至らなかった。ただし基壇部の墨書の書風をみる限り、新しいものとは思 われず、石造五輪塔のプロポーションの変遷に照らせば、地輪部の全体に対する割合の低さや、水輪部の球体として の不整形さなど、古い形態を示したものと考えられる 。 ︶12 ︵ これらの点から判断して、本五輪塔が年紀のとおり十二世半 ばにさかのぼる作品として認めうると考える。 この年紀は平治の乱勃発の日にあたっている。本五輪塔と平治の乱とに何らかの関係があるかどうかは未詳とせざ るをえないが、興味深い点として指摘しておきたい。なお、これら墨書がすべて一筆かどうかについては、種字の部 分と他の墨書では比較しにくいので留保せざるをえないが、基壇部の墨書については、おおむね同筆とみてよいよう に思われる。ただし背面の﹁入道西念﹂と他の三面の墨書とではやや趣を異にしているともいえ、異筆の可能性も考 えられよう。

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31 (宮﨑) 次に基壇部左側面の年紀と僧侶名の墨書だが、これは﹁施入僧寂念﹂が本五輪塔 を造立したことを示すものと考えるのが妥当であろう。しかし造立の目的について は明記されていない。造立目的について、基壇部背面の僧侶名の墨書が関わるもの で あ る な ら ば、 ﹁ 入 道 西 念 ﹂ の 追 善 供 養 な ど が 候 補 と し て あ げ ら れ る。 両 僧 侶 の 比 定については後述することにしたい。また、保存状態のよさに留意するならば、本 五輪塔が仏像の納入品であった可能性もあるのではないかとも思われる。 以上が外観の観察による知見である。次にX線透過装置などによって知られる納 入孔および納入品の知見について述べたい。 2   X線透過装置等による観察の知見 本 五 輪 塔 に 納 入 品 が あ る の で は な い か と い う こ と は、 目 視 に よ り 基 壇 部 と 地 輪 部 に 納 入 孔 ら し き 切 り 込 み が あ る こ と で わ か っ て い た。 そ の た め、 ま ず、 大 谷 大 学 博 物 館 で X 線 透 過 装 置 に よ る 撮 影 を お こ な っ た。 そ の 結 果、 納 入 品 の 状 況 ま で は 十 分 に 確 認 で き な か っ た が、 当 該 部 分 に 納 入 孔 が あ る こ と が 確 認 さ れ た ︵ 図 3・ 4︶ さ ら に 当 初 わ か ら な か っ た 空 輪 部 に も 頂 上 部 か ら 彫 り 込 ま れ た 納 入 孔 が あ り、 そ の 底 部 に や や 不 整 形 な 球 形 の 納 入 品 が あ る こ と も 判 明 し た ︵ 図 5︶ そ の 後、 上 述 の マ イ ク ロ フ ォ ー カ ス X 線 C T 装 置 に よ る 断 層 写 真 の デ ー タ を、 島 津 製 作 所 分 析 計 測 事 業 部 応 用 図 4 基壇部(X 線画像) 図 3 地輪部(X 線画像) 図版Web非公開 図版Web非公開

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技 術 部 京 都 ア プ リ ケ ー シ ョ ン 開 発 セ ン タ ー の 協 力 に よ り 三 次 元 に 画 像 化 す る こ と が できた。それによって各納入孔の状況はずいぶんと明らかになった。 ま ず、 基 壇 部 の 納 入 孔 は、 背 面 か ら 粗 く 彫 り 込 ま れ て 不 整 形 な 方 形 を な し て い る。 納 入 孔 内 部 の 法 量 は、 高 さ 二・ 八 糎 × 横 二・ 一 糎 × 奥 行 二・ 一 糎 で、 厚 さ 〇・ 八 糎 の 蓋 で 閉 じ ら れ て い た。 納 入 品 は、 納 入 孔 奥 に 押 し 込 ん だ 形 で、 手 前 に 若 干 の 空 間 が あ り、 削 り 屑 ら し き も の も 確 認 で き る。 納 入 品 は、 渦 巻 き 状 に 巻 か れ て お り、 紙 の よ う な も の と 思 わ れ る が、 願 文 あ る い は 結 縁 者 の 交 名 な ど が 納 め ら れ て い る 可 能 性が考えられよう ︵図 6︶ 次 に 地 輪 部 の 納 入 孔 は、 基 壇 部 同 様 に 背 面 か ら 粗 く 彫 り 込 ま れ て 不 整 形 な 方 形 を な し て い る。 納 入 孔 内 部 の 法 量 は 高 さ 二・ 三 糎 × 横 一・ 七 糎 × 奥 行 一・ 五 糎 で、 厚 さ 〇・ 八 糎 の 蓋 で 閉 じ ら れ て い た。 ま た 納 入 孔 奥 半 分 は 手 前 に 比 べ 高 さ が 低 く な っ て い る こ と が わ か る。 納 入 品 は、 納 入 孔 い っ ぱ い に 詰 め 込 ま れ た 状 況 で、 渦 巻 き 状 に 巻 か れ た よ う に も み え る が、 折 り 畳 ん だ よ う に も み う け ら れ る 箇 所 も あ る。 そ の 様 子 か ら 納 入 品 の 材 質 は 基 壇 部 同 様 に 紙 類 あ る い は 布 類 で は な い か と 思 わ れ る。 や は り 願 文 あ る い は 結 縁 者 の 交 名 な ど が 納 め ら れ て い る 可 能 性 が考えられよう ︵図 7︶ 最 後 に 空 輪 部 の 納 入 孔 は、 頂 上 部 よ り 縦 に 粗 く 彫 り 込 ま れ、 円 筒 形 を な し て い る。 納 入 孔 内 部 の 法 量 は、 径 一・ 四 糎 ︵ 上 端 ︶ × 深 さ 一・ 六 糎 で、 厚 さ 〇・ 図 5 空輪部(X 線画像) 図 6 基壇部(3D 画像) 図版Web非公開 図版Web非公開

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33 (宮﨑) 八糎の蓋で閉じられていた。基壇部・地輪部とは異なり、納入孔の痕跡が目視で確認できなかったのは、蓋を閉じた 後、再整形して仕上げられていたためと思われる。納入品は、丁寧に二重の袋状のものの底部に納められ、納入品の 固 定 の た め か 詰 め 物 を し た 状 態 で あ っ た ︵ 図 8・ 9︶ 納 入 品 は 径 〇・ 二 五 糎 ほ ど の や や 不 整 形 な 球 形 で、 断 層 映 像 か ら き わ め て 高 密 度 の も の と 思 わ れ る。 材 質 と し て は、 玉・ 水 晶 や 真 珠 と い っ た も の が 考 え ら れ よ う ︵ 図 10︶ ま た、 二重の袋状のもののうち、外側は、上端を閉じず、底部を丸く閉じた円筒状に織られた布類と思われ、太い糸と細い 糸 に よ っ て 織 ら れ た も の と み う け ら れ る ︵ 図 11︶ 内 側 も 底 部 を 丸 く 閉 じ た 円 筒 状 の も の で あ る が、 上 部 は 完 全 に 閉 じず、包み込むような状態になっている。このうち内側の袋自体は三層構造にみうけられ、外皮と内皮が薄く、その 内 側 は 厚 く な っ て い る ︵ 図 8・ 11︶ 材 質 は 外 側 の 袋 状 の も の と 印 象 は 異 な り、 繭 や 樹 皮 の よ う な も の で は な い か と 思 われる。 図 7 地輪部垂直断面(CT 画像) 図 9 空輪部水平断面(CT 画像) 図 8 空輪部(3D 画像) 図版Web非公開 図版Web非公開 図版Web非公開

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納 入 品 で 注 目 さ れ る の は 空 輪 部 の 球 形 の も の で あ る。 こ れ が 舎 利 の よ う な も の を 想 定 し て 埋 納 さ れ た も の で あ る と す る な ら ば、 五 輪 塔 の 三 昧 堂 起 源 説 と の 関 係 で 注 意 さ れ る。 五 輪 塔 の 三 昧 堂 起 源 説 は、 古 い 五 輪 塔 の 地 輪 部 が 低 平 で、火輪部の傾斜も緩いことから、そのモデルを三昧堂に求めるものである。十一世紀から十二世紀にかけて墓上に 遺 骨 を 納 め た 塔 あ る い は 堂 が 造 立 さ れ た が、 寛 弘 八 年 ︵ 一 〇 一 二 ︶ の 一 条 上 皇 の 場 合、 そ の 形 状 に つ い て﹁ 堂 一 間、 其 様 如 三 昧 堂 ﹂ ︶13 ︵ と み え、 久 安 元 年 ︵ 一 一 四 五 ︶ の 待 賢 門 院 璋 子 の 場 合、 そ れ が 法 華 三 昧 堂 で あ っ た こ と な ど か ら、 そ の塔あるいは堂は三昧堂であったとされている。三昧堂はおおむね正方形の平面プランをしており、その屋根には舎 利 を 納 入 す る 宝 珠 を あ げ て い る こ と か ら、 こ の 形 状 が ま さ に 塔 を イ メ ー ジ さ せ、 そ れ が 五 輪 塔 の 起 源 と み る の で あ る。 ︶14 ︵ この所説にかかわって、空輪部に舎利状の球形のものを納入する本五輪塔は、五輪塔の三昧堂起源説に密接に関 わる遺品として重要といえよう。 さらに球形の納入品を舎利と想定すると、それを納める二重の袋状の素材についてもヒントを与えてくれる。納入 品を納める二重の袋状のうち、内側は繭や樹皮のようなものではないかと述べたが、それを考える上で鎌倉時代の納 図 11 空輪部納入品(3D 画像) 図 10 空輪部納入品(CT 画像) 図版Web非公開 図版Web非公開

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35 (宮﨑) 入 品 と し て の 蓮 の 実 製 舎 利 容 器 が 注 目 さ れ る。 蓮 の 実 製 舎 利 容 器 の 遺 品 は い く つ か 伝 存 す る が、 そ の う ち 嘉 元 二 年 ︵ 一 三 〇 四 ︶ 造 立 の 木 造 聖 徳 太 子 像 ︵ 南 無 仏 太 子 像   奈 良・ 伝 香 寺 蔵 ︶ の 納 入 品 の 事 例 が 興 味 深 い。 本 像 納 入 品 の 蓮 の 実 製 舎 利 容 器 は、 高 さ 約 二・ 七 糎 で、 蓮 の 実 に﹁ 緑 る り ︵ 瑠 璃 ︶ ﹂ と﹁ 白 舎 利 ﹂ 二 粒 を 籠 め、 欅 材 の 宝 珠 形 の 栓 を し た ものである。この栓も実は五輪塔の上半部、つまり空輪部・風輪部・水輪部をかたどったものであり、蓮の実本体を 含めて全体としてまさに五輪塔を模した舎利容器といえる 。 ︶15 ︵ この点、本五輪塔の空輪部にみえる袋が蓮の実である可 能性が考えられよう。 なお上述のように本五輪塔が三昧堂起源説や蓮の実製舎利容器との関連性をもつこと自体、本五輪塔の制作年代の 古さを示しているものとも考える。 次に基壇部の墨書にみえる僧侶名について考えてみたい。

 

木造五輪塔の墨書僧侶名

1   基壇部の墨書「入道西念」 平 治 元 年 の 年 紀 に 信 を お く と し て、 十 二 世 紀 中 頃 に し ぼ っ て、 ﹁ 西 念 ﹂ と い う 僧 侶 を み て み る と、 二 人 の 僧 侶 が あ げ ら れ る。 一 人 は 峰 定 寺 を 開 山 し た 観 空 西 念 で あ り、 も う 一 人 は 出 土 資 料 に み え る 西 念 で あ る ︵ 以 下、 二 人 を 区 別 す る ため、前者を﹁観空西念﹂ 、後者を﹁西念﹂とする︶ 。 ︶16 ︵ 前 者 の 観 空 西 念 は、 房 号 を 観 空 と い い、 三 滝 聖 人 と 称 さ れ た こ と が 知 ら れ る が、 生 没 年 は 未 詳 で あ る。 ﹃ 大 悲 山 縁 起 ﹄ ︶17 ︵ に よ れ ば、 武 家 に 生 ま れ、 二 十 一 歳 で 父 の 喪 に あ い、 そ の 遺 言 に よ っ て 二 十 五 歳 で 出 家 し た と い う。 ま た、 ﹃ 法 華 経 ﹄ を 千 五 百 日 も 書 写 し 続 け た り、 常 行・ 常 坐 三 昧 に ふ け る な ど 天 台 系 の 僧 侶 で あ っ た と 思 わ れ る。 ﹃ 保 元 物 語 ﹄

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や﹃ 大 鏡 ﹄ に よ れ ば、 保 元 元 年 ︵ 一 一 五 六 ︶ 鳥 羽 院 の 病 に 召 さ れ 受 戒 の 師 と な っ て い る が、 そ れ 以 前 か ら 交 流 が あ っ た も の と み ら れ、 久 寿 元 年 ︵ 一 一 五 四 ︶ 鳥 羽 院 の 勅 願 に よ っ て、 観 空 西 念 は 峰 定 寺 を 開 山 し 、 ︶18 ︵ 本 尊 千 手 観 音 菩 薩 坐 像、 不動明王および二童子像、毘沙門天立像を安置し 、 ︶19 ︵ 当寺に住している。峰定寺は、京都市左京区花背原地町に所在す る、 も と 天 台 系 の 本 山 修 験 宗 寺 院 で あ る。 創 建 後、 諸 堂 が 整 備 さ れ て い く が、 寺 伝 に よ れ ば、 平 治 元 年 ︵ 一 一 五 九 ︶ 十 月 に 鳥 羽 院 発 願 で、 藤 原 通 憲 ︵ 信 西 ︶ が 奉 行 し、 平 清 盛 が 工 を 督 し て 大 門 を 造 立 し た と 伝 え る。 観 空 西 念 を 鳥 羽 院 に引き合わせた人物については藤原通憲ないしは平清盛があげられ、とくに峰定寺と平家の関係の深さから、清盛で はないかと類推されている。 次いで後者の西念は、上述のように出土資料にのみ名をみせる人物で、観空西念にまして関係史料が乏しく、生没 年未詳である。ただし、その出土資料によって幾ばくかの行業を知ることができる。 当 該 資 料 は、 明 治 三 十 九 年 ︵ 一 九 〇 六 ︶ 十 一 月 に 京 都 市 下 京 区 松 原 通 大 和 大 路 東 入 る の 地 で 出 土 し た も の で、 保 延 六 年 ︵ 一 一 四 〇 ︶ 八 月 付﹁ 供 養 目 録 ﹂ ︵ 紺 紙 金 泥 ︶ 、 ︶20 ︵ 永 治 二 年 ︵ 一 一 四 二 ︶ ︶21 ︵ 三 月 付﹁ 供 養 目 録 ﹂ ︵ 紙 本 墨 書 ︶ 、 ︶22 ︵ 康 治 元 年 ︵ 一 一 四 二 ︶ 六 月 付﹁ 極 楽 願 往 生 歌 ﹂ ︵ 紙 本 墨 書 ︶ ︶23 ︵ な ど が あ る。 こ の う ち 二 つ の﹁ 供 養 目 録 ﹂ は、 西 念 が 康 和 年 間 ~ 保 延 年 間 ︵ 一 〇 九 九 ~ 一 一 四 一 ︶ に か け て 修 し た 読 経・ 写 経・ 造 仏 の 目 録 と な っ て お り、 そ こ か ら 四 十 年 に わ た っ て お び た だしい作善をおこなっていたことが知られる。両目録によれば、西念は保延六年八月九日に﹁天王寺之西門者極楽之 東門通﹂として﹁天王寺之西海﹂に身を投じ往生を遂げようとしたことがあり、両目録もそのためのものであったら し い。 ま た、 奉 納 や 転 読 は 鞍 馬 寺 な ど 京 辺 の み な ら ず、 長 門 や 越 前 の 気 比 宮、 加 賀 の 白 山 な ど 広 範 に 広 が っ て お り、 その財力も大きなものがあったと思われる。 以上、二人の﹁西念﹂を紹介したが、史料にみえるあり方を時代を追ってみると、西念から観空西念へと連続して

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37 (宮﨑) いるようにも感じられ、同一の人物ではないかとも思われる。しかし、観空西念は二十五歳で出家したというが、西 念 は 保 延 六 年 ︵ 一 一 四 〇 ︶ 三 月 三 日 に 出 家 し 、 ︶24 ︵ そ れ よ り 四 十 年 前 の 康 和 二 年 ︵ 一 一 〇 〇 ︶ ︶25 ︵ か ら 在 俗 な が ら 仏 道 修 行 し て いたことが確かめられる。もし観空西念と西念が同一人物であるならば、観空西念は五歳から仏道修行していたこと になってしまう。したがって、両者は別人と考えるべきであろう。おそらく西念は観空西念より年長で、観空西念が 峰定寺を開山した久寿元年 ︵一一五六︶ 頃には、七十代後半以上の高齢であったと考えるべきである。 そ れ で は 本 五 輪 塔 の 墨 書﹁ 入 道 西 念 ﹂ に 比 定 す る な ら ば、 ﹁ 入 道 ﹂ と い う 言 葉 に 若 干 問 題 を 有 す る も の の、 両 者 と もに可能性が考えられる。しかし、後述のとおり観空西念がもっともふさわしいものと考える。 その理由として、まず第一に観空西念の創建した峰定寺と本五輪塔を伝存した久多地域とに密接な関係を見出すこ とができるのである。平治元年 ︵一一五九︶ 四月日付﹁前太政大臣家政所下文案 ﹂ ︶26 ︵ には次のようにみえる。 前太政大臣家政所下   大悲山寺 可任彼寺所進注文、以久多・針幡・大見三箇所見作田参拾伍町為寺領事 在 久多田拾伍町 針幡田拾伍町 大見田伍町 右、大悲山寺寺僧注申云、件三箇所田地者、法成寺御料也。而依有便宜、可為寺領。其替立改他所、可為法成寺 之領。自余全所申請之、依請、件田地三十五町可為寺領。又作人同随寺役之由、被下   院宣畢者。件田地三十五 町并作人等、可令従彼寺。至于杣山者、為平等院・法成寺修理杣所、経年序也、抑彼作人等、若可立当杣者、任

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傍例可勤仕両方之役。兼彼三十五町之外田畠新開田地等、不可成妨、寺僧等宜承知、不可違失、故下 平治元年四月   日案主惟宗 別当右大弁兼遠江守藤原朝臣判   大従主計允阿倍 和泉守藤原朝臣判       大書史主計允兼 太 ︵ママ︶ 后宮属惟宗判 散位藤原朝臣判 少納言兼侍従安芸権守平朝臣判 皇太后宮権大進藤原朝臣 この文書によれば、法成寺領内の田地三十五町が峰定寺領となったことが知られ、その田地のうち十五町は久多に 所 在 し て い た。 ま た、 永 暦 元 年 ︵ 一 一 六 〇 ︶ 五 月 日 付﹁ 前 太 政 大 臣 家 政 所 下 文 案 ﹂ ︶27 ︵ に は﹁ 可 令 任 先 度 御 下 文 状、 免 除 三 滝 聖 人 申 請 田 地 参 拾 伍 町 内 久多十五町 大見五町   針幡十五町       所 当 年 貢 雑 事 等 事 ﹂ と み え、 法 成 寺 領 内 の 三 十 五 町 が 峰 定 寺 領 に な っ た の は、峰定寺開山である三滝聖人つまり観空西念の申請によるものであったことがわかる。さらに後世の史料だが、寛 政五年 ︵一七九三︶ に穐里湘夕が著した﹃都花月名所 ﹄ ︶28 ︵ 飛泉には ○久多瀧    大悲山 峯定寺奥院と称す。開山観空上人入定の瀧といふ。今も読経の声風に谺し遠く耳底の客となりぬ。これを訪ねて 山中に入れば杉間のあらし飛泉の声と変じ跡なしとぞ。 と み え、 ﹁ 久 多 の 滝 ﹂ は 峰 定 寺 の 奥 院 で あ り、 観 空 西 念 の 入 定 の 場 所 と 伝 え て お り、 峰 定 寺 と 久 多 の 密 接 な 関 係 を う かがわせる 。 ︶29 ︵ したがって、久多に伝存する本五輪塔の墨書﹁入道西念﹂に比定する僧侶としては、峰定寺開山の観空西念がもっ

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39 (宮﨑) ともふさわしいと考えるのである。 2   基壇部の墨書「施入僧寂念」 ﹁ 西 念 ﹂ と 同 様 に 十 二 世 紀 中 頃 に し ぼ っ て、 ﹁ 寂 念 ﹂ と い う 僧 侶 を 探 し て み る と 常 磐 ︵ 大 原 ︶ 三 寂 の 一 人 で あ る 寂 念 が あ げ ら れ る 。 ︶30 ︵ 常 磐 三 寂 と は、 常 磐 に 別 荘 を も ち﹁ 常 磐 丹 後 守 ﹂ と 称 さ れ た 藤 原 為 忠 ︵?~ 一 一 三 六 ︶ の 三 人 の 息 子、 寂超・寂念・寂然のことである。 寂 念 は 為 忠 の 二 男 で 、 俗 名 を 藤 原 為 業 と い い 、 生 没 年 未 詳 な が ら 、 長 承 元 年 ︵ 一 一 三 二 ︶ ︶31 ︵ 頃 よ り 寿 永 二 年 ︵ 一 一 八 三 ︶ ︶32 ︵ 頃までの足跡がたどれ、若きより歌人として活動していた。父の逝去後、常磐の地を受け継いだらしく、その地に御 堂を建立している。父為忠は白河院の近臣で、母の橘大夫女なつともも白河院逝去時に側に控えるなど夫婦揃って白 河 院 に 仕 え て い た 。 ︶33 ︵ ま た、 為 忠 は 鳥 羽 院 に も 仕 え、 な つ と も も 鳥 羽 天 皇 皇 后 待 賢 門 院 藤 原 璋 子 の 女 房 に な っ て お り、 寂念自身もまた待賢門院蔵人をつとめている。 寂 念 の 出 家 時 期 は 判 然 と し な い が、 俗 人 と し て み え る 確 か な も の は 保 元 三 年 ︵ 一 一 五 八 ︶ 正 月 三 十 日 に 蔵 人 で 対 馬 守に任じられた史 料 ︶34 ︵ で、僧寂念としてあらわれるのは﹁永万二年重家家歌合﹂で、女の二条院内侍三河と歌合に参加 し た 仁 安 元 年 ︵ 一 一 六 六 ︶ の 夏・ 秋 頃 の こ と で あ る ︶35 ︵ 。 し た が っ て、 そ の 出 家 時 期 は、 保 元 三 年 正 月 三 十 日 か ら 仁 安 元 年秋頃までといえよう。時期的にみて墨書﹁寂念﹂の候補として十分に想定しうると考える。そうであるならば、寂 念の出家は平治元年十二月九日以前ということにもなる。 さ て、 先 に 基 壇 部 墨 書 に つ い て、 ﹁ 寂 念 ﹂ が﹁ 西 念 ﹂ の 追 善 供 養 の た め 造 立 し た の が 本 五 輪 塔 で は な か っ た か と 想 定したが、その点にかかわって両者の関係についてふれておきたい。観空西念が鳥羽院と深い関係をもっていたこと

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は上述のとおりだが、寂念もまた白河院、鳥羽院および待賢門院と浅からぬ関係にあった。特に鳥羽院をめぐって両 者に親交があったとみておきたいと思う。また、観空西念は西行とも親交があったらし い ︶36 ︵ が、寂念もまた﹁永万二年 重家家歌合﹂で西行とともに参加しており、弟の寂然は西行と親しかったことが知られている。このことから西行を めぐっても両者の関係を想定することができよう。さらに観空西念と寂念が﹁念﹂の字を共有することから師弟関係 も想像させるのである。したがって、本五輪塔の造立目的を﹁寂念﹂による﹁西念﹂の追善供養であったとひとまず 考えておきたい。

おわりに

以 上、 久 多 の 木 造 五 輪 塔 の 概 要 を 報 告 す る と と も に、 墨 書 に つ い て 縷 々 憶 説 を 述 べ て き た。 推 測 を 重 ね た も の に なってしまったが、本五輪塔が文化財としてきわめて貴重な遺品であることは指摘できたのではないかと考える。い つ か 本 五 輪 塔 を 解 体 修 理 す る こ と で、 納 入 品 が 明 ら か に な り、 本 五 輪 塔 を め ぐ る 諸 問 題 が 解 明 さ れ る こ と を 期 待 し て、ひとまず擱筆することにしたい。 ︵ 1︶   本品は久多自治振興会の所蔵になるもので、二〇一〇年五月より大谷大学博物館に寄託されている。 ︵ 2︶   長承二年︵一一三三︶七月十二日付﹁明法博士中原明兼勘注﹂ ︵﹃平安遺文﹄二二八一号文書︶ 。 ︵ 3︶   岡田浩佐家文書。 ︵ 4︶   志 古 淵 神 社 に は 鎌 倉 時 代 初 め の﹃ 大 般 若 波 羅 蜜 多 経 ﹄︵ 京 都 市 指 定 文 化 財・ 久 多 自 治 振 興 会 蔵・ 大 谷 大 学 博 物 館 受 託 ︶ も 伝来している。宮﨑健司 ﹁京都市左京区久多の ﹃大般若波羅蜜多経﹄ ﹂︵ ﹃博物館研究﹄ 四七ノ三 ︿五二五﹀ 、二〇一二年︶ 参照。 ︵ 5︶   図 2の実測図は京都市文化財保護課の作図による。

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41 (宮﨑) ︵ 6︶   納入孔のある面を背面とみて表記する。 ︵ 7︶   一般的に五輪の種字は ﹁ア﹂ ﹁バ﹂ ﹁ラ﹂ ﹁カ﹂ ﹁キャ﹂ であるが、 本品の水輪部から空輪部には空点がある。この真言は ﹁大 日如来の秘密の真言﹂として、灌頂後、重ねて修行した上で、教授されるものという︵村上泰教氏の教示による︶ 。 ︵ 8︶   平治元年十二月九日を新暦に換算すれば、 一一六〇年正月二十六日となるが、 平治元年を一一五九年と便宜的に表記する。 ︵ 9︶   ﹁解題   納骨五輪塔﹂ ︵﹃日本仏教民俗基礎資料集成﹄二︿元興寺極楽坊Ⅱ﹀ 、中央公論美術出版、一九七八年︶ 。 ︵ 10︶   ① の 年 紀 は 建 立 年 次 に よ る。 ③ の 年 紀 は 伴 出 し た 天 養 元 年 銘 の 経 瓦 に よ る。 ⑪ は 願 成 就 院 蔵 不 動 明 王・ 二 童 子・ 毘 沙 門 天 像︵ 重 文 ︶ の、 ⑫ は 鉄 舟 寺 蔵 鉄 製 宝 塔︵ 国 宝 ︶ の、 ⑮ は 峰 定 寺 蔵 釈 迦 如 来 立 像︵ 重 文 ︶ の、 ⑰ は 東 大 寺 蔵 四 天 王 像︵ 重 文 ︶ 持国天像の、それぞれ納入品になる。遺品そのものに年紀をもつのは②④⑥⑦~⑩⑪⑬⑭⑯⑱である。 ︵ 11︶   法 勝 寺 跡 か ら 出 土 し た も の と し て は、 瓦 当 に 五 輪 塔 を 描 く 軒 丸 瓦 や 五 輪 塔 文 を 押 印 し た 平 瓦 な ど が あ る。 な お 法 勝 寺 跡 出 土五輪塔文の平瓦と同印でつくられた平瓦が大阪府豊中市山ノ上遺跡や大阪府堺市大保遺跡からも出土している。 ︵ 12︶   註︵ 9︶に同じ。 ︵ 13︶   ﹃権記﹄寛弘八年七月二十日条。 ︵ 14︶   註︵ 9︶に同じ。 ︵ 15︶   杉﨑貴英﹁蓮の実を用いた祈りのかたち︱数珠・副葬・像内納入品﹂ ︵﹃

Kabunken News Letter

﹄六、二〇一二年︶参照。 ︵ 16︶   以 下、 西 念 に つ い て は 多 賀 宗 隼﹁ 僧 西 念 ﹂︵ 同 氏﹃ 論 集 中 世 文 化 史 ﹄ 下︿ 僧 侶 篇 ﹀、 法 藏 館、 一 九 八 五 年 ︶ を 参 照。 ま た 観 空西念については、中野玄三﹁峯定寺諸像の系譜︱長寛元年造立仁王像の銘文を中心にして︱﹂ ︵﹃国華﹄九二六、一九七一︶ も参照。 ︵ 17︶   ﹃大日本仏教全書﹄一二〇︵寺誌叢書四︶所収。 ︵ 18︶   峰 定 寺 に つ い て は 菊 池 京 子﹁ 大 悲 山 峰 定 寺 ︱ 附   花 脊 別 所 の 民 家 ︱﹂ ︵﹃ 史 窗 ﹄ 一 三 号、 一 九 五 八 年 ︶、 田 中 幸 江﹁ 古 刹 歴 遊① 峰定寺︱懸崖の寺︱﹂ ︵﹃日本美術工芸﹄ 四四八、一九七六年︶ 、同氏 ﹁信西撰述 ﹃大悲山寺縁起﹄ をめぐる諸問題﹂ ︵﹃説 話 文 学 研 究 ﹄ 四 一、 二 〇 〇 六 年 ︶、 同 氏﹁ 京 都 の 北 山 ︱ 大 悲 山 峰 定 寺 を と り ま く 宗 教 世 界 ︱﹂ ︵﹃ 日 本 文 学 風 土 学 会 紀 事 ﹄ 三二、二〇〇八年︶を参照。 ︵ 19︶   峰定寺諸像については、中野前掲論文︵註︵ 16︶︶を参照。 ︵ 20︶   ﹃平安遺文﹄補六四号文書。 ︵ 21︶   永治二年四月二十八日に康治と改元。

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︵ 22︶   ﹃平安遺文﹄補六七号文書。 ︵ 23︶   ﹃平安遺文﹄補六八号文書。 ︵ 24︶   保延六年八月付﹁供養目録﹂に﹁一、奉死後料儲仏経目録﹂に﹁奉一躰出家日供養 保延六年三月三日          ﹂とみえる。 ︵ 25︶   保 延 六 年 八 月 付﹁ 供 養 目 録 ﹂ に﹁ 一、 奉 年 来 日 別 勤 行 仏 経 目 録 ﹂ と し て﹁ 始 康 和 二 年 至 于 保 延 六 年 宛 日 別 一 躰 奉 摺 写 供 養 毗 沙門天王目録﹂とみえる。 ︵ 26︶   ﹃平安遺文﹄二九七七号文書。 ︵ 27︶   ﹃平安遺文﹄三〇九六号文書。 ︵ 28︶   ﹃京都叢書﹄五。 ︵ 29︶   久 多 の 古 老 に よ れ ば、 幼 い 頃 は 祖 母 に 手 を 引 か れ 峰 定 寺 に 参 詣 し た と い い、 現 在 は 峰 定 寺 へ 大 回 り な 車 道 し か な く、 約 十五粁、車で三十分ほどかかるが、直線距離では約五粁程度で、以前は徒歩で比較的短時間で行き来できていたという。 ︵ 30︶   常 盤 三 寂 に つ い て は、 岩 橋 小 弥 太﹁ 常 磐 の 三 寂 ﹂︵ ﹃ 国 学 院 雑 誌 ﹄ 五 九 ノ 四、 一 九 五 八 年 ︶、 玉 井 幸 助﹁ 大 原 の 三 寂 と 三 人 の姉妹﹂ ︵﹃学苑﹄二二一、一九五八年︶ 、武田容子﹁常磐三寂についての一考察﹂ ︵﹃立教大学日本文学﹄二三、一九七〇年︶ 、 井 上 宗 雄﹁ 常 盤 三 寂 年 譜 考 ︱ 付 範 玄・ 三 河 内 侍・ 隆 信 略 年 譜 ︱﹂ ︵ 同 氏﹃ 平 安 後 期 歌 人 伝 の 研 究 ﹄、 笠 間 書 院、 一 九 七 八 年 ︶、 鈴木左内﹁藤原為忠の事歴とその子常盤の三寂の出家をめぐって﹂ ︵﹃智山学報﹄三七、一九八八年︶を参照。 ︵ 31︶   ﹃中右記﹄長承元年正月二十日条に﹁伊豆守藤原為業 蔵 人﹂とみえる。 ︵ 32︶   治承四年 ︵一一八〇︶ から寿永二年 ︵一一八三︶ までのものとされる ﹁一品経懐紙﹂ ︵国宝 ・ 京都国立博物館蔵︶ に法師品 ・ 述懐の二首を遺している。 ︵ 33︶   ﹃ 長 秋 記 ﹄ 大 治 四 年 七 月 七 日 条 に﹁ 女 房 な つ と も 為忠 妻 、 い は ひ を 宇賀茂女御 主重助女也、   ︵○清茂按伊波比乎者、賀茂神 号賀茂女御、亦見続世継 両 院、 資 遠 大夫 尉 、 資 盛 安芸 守 等 許、 候 臥 内 奉助起居﹂とみえる。 ︵ 34︶   ﹃兵範記﹄保元三年正月六日条に﹁ 従五位上      藤為業 従下一     ﹂とあり、同月三十日条に﹁対馬守藤原為業 蔵 人﹂とある。 ︵ 35︶   永万二年八月二十七日に﹁仁安﹂と改元している。 ︵ 36︶   ﹃撰集抄﹄第五﹁近衛院之三位発心ノ事﹂ 。 ︵本学教授   日本古代史︶ ︿キーワード﹀五輪塔、久多、峰定寺

参照

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