• 検索結果がありません。

清代における農業生産力の停滞と農民の搾取 : 対満植民の中国経済史的背景(一)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "清代における農業生産力の停滞と農民の搾取 : 対満植民の中国経済史的背景(一)"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

清代における農業生産力の停滞と農民の搾坂 二〇

清代に

おける

農業生産力の停滞と農民の搾取

i対満植民の中国経済皮的背景el一

ノ、

は し が き 匹       ノ        ききに発漏した拙稿﹁満洲における旗地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民﹂において中国本土より漢人の農民が加速度的に満 洲に移住した有力な原因として,かれらの中国農村における窮乏化が考えられると述べたが、このような事態を必然的ならしめた中国 経済史的根拠ないし背景を今後数回にわたって次の順序で究明し発表していきたいと思う。  一、清代における農業生産力の停滞.と農民の搾取   e 農業生産力の相対的減少    鋤 耕地拡張の行き詰り    ⑧ 人口の激増と農業生産力の相対的滅少   ◎ 専制国家および官僚11土地”商業資本による搾取︵以上本号に掲載︶  二,専制的官僚国家と交通および商業の発達   の 専制的統一国家の成立の根拠一水の理論と民族対立の理論   ⇔ 専制国家の存立条件としての水運路体系の展開と商業および都市の発達   同 專制国家の存立条件としての駅伝制・陸路体系の展開と商業および都市の発達  三、宮僚11土地H商業資本の発達と農民洗亡   8 専制君主的官鐙国家の成立と傭兵給養の問題

(2)

 ◎ 便羅による兵糧調達と商業資本の農村滲透  ⇔ 専制的宮僚国家と塩の専売  ㈹ 塩専売の専制中国における歴史的意義   ⑧ 塩專売と官僚H商業盗本の蓄積  鱒 農業の商品生産化と手工業の発達  ㈹ 綿業を中心とする農業と手工業と商業資本  ㈹ 貨幣経済の進展と農村滲透  ㈹ 官僚”土地H商業資本による農村解体と農民洗亡ないし植民 ① 拙稿﹁満洲における占地的奴隷制荘園の形成・崩壊と漢人の植民﹂ ︵彦根論叢三二号︶こ六頁。 ’

       一 農業生産力の相対的減少

 先ず老えなけれぽならないことは、清客をふくむそれまでの中国社会を支えてきた経済的根底は支配的には農業生産力

であったと、いうことである。もっとも、当時すでに相当な程度の鉱業および工業の発達が見られたが、而もなお近代技術

を媒介とする資本主義的鉱工業とはことなって、その生産力に干しい限界のあったことはいうまでもないのであり、この

点から見ても、広大な土地を有する中国としては、その総生産力の圧倒的な部分を形成したものは農業であったといわね

ぽならない。

 ところで、この農業生産力を相対的に著しく停滞せしめたものとして、先ず中国本土におげる農地拡張の行き詰り、人

口の加速度的増加、生産技術の停滞性などが一応あげられてくる。      卜

 ω 耕地拡張の行き詰り      −

 清代における中国本土の耕地拡張の行ぎ詰りは、次に揚げた満洲をのぞく中国の登録耕地面積の年代記推移とこ三頁に

     潜代における農業生産力の停滞と農民の控取       二一

(3)

     清代における農業生産力の停滞と農民の搾取

示した小竹文夫氏の推定による実際耕地面積の年代別推移を見ると萌らかである。

明、万暦七年︵一五七九年︶ 順治十八年︵一六六一年目

雍正二年︵一七二四年︶

乾隆十八年︵一七五三年︶ 嘉慶十七年︵一入=一年︶ 同治十一年︵一八七二年︶ ︹備考︺ 全中国登録

耕地面積

七、OOO

五、入.○〇 七、四〇〇 七.五〇〇 七、九一五 七、五七六 満 洲 耕 地  ︵千頃以下四捨五入︶

    六A

   二五B

   二二九C    二二〇D

  ①

満洲を除く 中国の耕地 七、○○〇 五、入○〇 七b三九四 七.四七五 七、六八六 七、四四六 二二   これらの数字の算出の耳擦については、やがて述べるが.ただ中国登録耕地総計に含まれている満洲耕地面積の典擦は、それ ぞれ小竹丈夫著﹁近世支那経済史研究﹂にかかげられた各省別登録耕地統計によるもので、その頁数を示せば.それぞれ右書のA は一八九頁、Bは一九七頁、Cは二〇九頁、Dはこ一九頁である。上掲せる数字の単位はいずれも千頃である。

 すなわち満洲をのぞく登録耕地は順治十八年から嘉慶十七年までの百五十年の間に約一八八万頃増加し、これを順治十

八年の五八0万頃に比すれば、三二%の増加を示している。併し順治十八年の数字がとくに過少であると考えられる。と

いうのは、この年は清明戦争が終った年で順治の初から開墾奨励が行われたにも拘らず、未だ荒れ残された土地も少なく

       

なく而も清朝が創業勾汝で官僚機構も充分確立されて居ないのに、清にとって異民族たる漢人民をして課税目的のための

耕地登録に向わしめることが如何にも困難であり、その隠匿も特に多かったと考えられるからである。これにくらべると

       

小竹氏もいわれる如く、明の画歴七年の数字の方が既耕地面積の基準としては、より適当と老えられる。蓋し、この年は

未だ明末の動乱期に入っていないので耕地放棄も少なく、また明の多年に亘る治政のために、年と共に隠匿耕地の摘発も

累積して来たと考・兇られるからである。ただ万暦七年の数字はもと約八○○万頃とされているが、これにはやがて述べる

(4)

ように少なくとも一〇〇万頃から一三〇万頃の誤りがあると考えられるので、直りに七〇〇万頃として見れば嘉慶十七年

までのこれに対する増加率は僅かに九・八%となり、六七〇万頃として見れば、この増加率は一四・七%となる。

 家に小竹氏による実際耕地推定面積を見ると衣の如くである。       ④    清代の実際耕地推定面積︵単位千頃︶  清     初    一二、五〇〇

 乾隆時代  =二、五〇〇

 嘉慶時代  一四、五〇〇

 小竹氏の推定の方法は別に述べるとして、この推定面積につき清初の数字と嘉慶のそれを比較すれば、その増加率は一

六%になる。ところが嘉慶の推定数字には、康熈以降雍正、乾隆と加速度的に増加した満洲の数字も含まれていることは

       

小竹氏の推定についての叙述から窺われる。推定は登録耕地を基礎とするので、嘉慶の推定数字﹁四、五〇〇千頃と嘉慶

+七年越登録耕地面積数︵満洲を含む︶七、九一五千頃.とを比較すれば前者は後者の一・八三二倍となる。そこで同じ年

における満洲の登録耕地数二二九千頃の一・八三二倍を前者から差引いた一四、0八○千頃が満洲を除く中国の実際耕地

推定面積となる。清初の満洲耕地面積は順治十八年の登録民地六〇九頃が挙げられているに過ぎないし官地、旗地につい

ては明らかでないので、これを一応度外視すれば、清初の推定数字に対する嘉慶の・溝洲を除く中国の・実際耕地推定数

字の増加率は一二・六%となる。

 別に述べるように、基礎となる根本史料の数字自体に問題があるので、正確な意味で増加率をいうことは出来ないが、

右のことから中国本土の耕地拡張に甚しい限界のあったことだけは結論されて大過ないと考える。

       ⑦

  漕朝時代の耕地面積の推移については、われわれは小竹文夫氏の厳密な考証的研究﹁清代の耕地闘、墾﹂に学ぶことが出来る。ただ小      清代における農業生産力の停滞と農民の搾取       二三

(5)

済代における農業生産力の停滞と農民の搾取 二四 竹琴の教える如く﹁従来支那の文献に表はれた田畝統計なるものは、主として各地方政府が田蛍草入を測定して中央送金あるひは送糧 の標準としたいはゆる定額の合計であって、定額外の調査不行届あるひは隠蔽されたる耕地等は含まれてないのであるから、一畝の大 いさの地方的差異を別としても奏錆珊の数額と実際その時の耕地面積とは全く別物なのである。それでもしこれらの統計を基として実 際の耕地面積を求むるなら、よほどその前後の社会事情を考察し、ある種の潤断と考慮とを加へねばならぬ。また荒地の開墾すなはち 耕地面積の増加のごときもほぼ同様で、単に奏鋪冊に表はれた定額の差異をもつてその隣国に新たに開墾された田畝数額と見ることは よほど危険な・ことである。なんとなれば.新らしく王朝が建てら.れた当初におい.ては、大体諸事寛大でめつて耕地であっても定額の中 に入らなかったものが、漸次年代を経ると共に調査正出が厳重となって薪に定額の中に加へられるがごとき.実際の耕地面積は不変で        ⑧ あって定額に変化を来たす場合もありうるからである。﹂  ところで小竹氏が万暦大明会典、明史、続文献通義等によって述べている所の万暦七年︵一五七九年︶の統計によると天下土田の総        ⑨ 数は七、〇一三、九七六頃二八年余とある。この土田は民田の意味で、このほか当時の屯田の数六四四、000会頃及び官田の数を加       ⑩ えると、耕地面積はおおよそ八百万頃に近くなる。ところがこの万暦の数字に疑義の生ずるのは、小竹氏が前掲の論文において、民       ⑪ 田総数につき、万暦の数字と酪≧等しくなった乾隆十八年の統計をとり上げ、各省別に両年代の数字を対比しているのを見ると湖北, 湖南両省の田畝数は万暦が二、一=六、一九九頃に対し.乾隆は八七九、二〇〇畝となり、一、三三七、九九九頃の減となっているこ とである。各省の数字を比較して減の最大なのは山東の三五一﹃五九九頃、増の最大は四川の三二四、三一九頃である所から見ても、        @ 湖北湖南の耕地が一三〇万頃近くも減少したとすることは如何にしても不合理と考えられる。そこで仮りに万暦の数字が誤って百万頃 多く見積っているとすれば、その総面積は七〇〇万頃となり、=二〇万頃を誤っているとすれば六七〇万頃となる。  清朝で天下土田の面積がやや正確に調査記載されたのは、順治十八年の奏鎗冊からで同年の天下田土総計五、四九三、五七六頃四〇       ⑬ 畝とあり、これに官栄、屯田の数を加えても六〇〇万頃に達しないとされる。それは恐らくは五七〇万頃乃至五八○万頃位と考えられ   ⑭ ている。  次に康煕大笠会典所載の康煕二十四年︵=ハ八五年︶の奏錯実数は民田総計六、〇七八、四三一頃一畝余で、これに官荘、屯田の数        ⑯ を加えると大約六百三四十万頃となる。       ⑰  雍正二年︵一七二四年︶の奏錯冊によれば、民田合計六、八三七、九一四頃二七影面で、これに直二瀬田総計三九四、五二七頃九七       ⑱ 畝余︵清朝丈献通各巻一二︶及び石動、学田等を加えると登記された耕地全面積は約七百四十万頃となる。

(6)

       へ  も  も  ぬ  へ  も  も  へ  なお、康煕五十二年︵一七=二年︶の上諭に﹁薫習陳西人多雨少、故百姓倶往二四今一開墾、ド⋮:今四川之荒地開墾甚多、⋮⋮先年 人添田多、一敵之田其値銀不レ過二重曳一、薫習二人多価貴一、一重之熱意至二数両一不レ等.煮出二京師国辱地心、民舎市塵日以増多、献

      、、、、、、、、、、、、・、、、⑲

無二空際一、今歳不二特田田大牧︼、即芝薦棉花皆得二牧穫[、如レ此豊年而、米里尚費、皆由二入多田少故一重⋮⋮﹂とあって,終始人多く 耕地少なきことを問題としている。なお、雍正元年︵一七二三年︶の上諭にも同様に人多くして地少なきを憂えて百方開墾の必要を説い

ている輪翌二年の上論には義国家休養生息・数+年来戸冒警璽宙止有二壁塗㌦手季一天下農墨無二力禁桑牧倍馨・家

       ⑳ 室盈寧必不レ可レ得﹂と述べて入口増加に比して耕地の少なきことが問題とされている。       @  而して乾隆掌典所載の乾隆十八年︵一七五三年目の奏錯冊によれば同年の民田総数は七、○八一、一四二頃八入畝で、これに官荘、        屯田、学田等を合すると登録耕地総面積は約七百五十万頃となっており、石偏二年間ら二十九年間に総面積で約十万頃の増加しか示し ておらぬ。なお民田が二十数万頃の増加を示したに拘らず声総面積でこのようになっているのは、屯田地畝が民田化し逆に約二十五万       @ 頃に減じたことにも原因している。乾隆三十一年︵一七六六年︶の奏鎗冊によれば同年の民田言合計七、四一四、四九五頃五〇畝で、       ⑳ これに屯田総計三九二、七九五頃六七敵余と宮荘、官田の数その他を合すると量地総面積は約八○○万頃に近づいている。  嘉慶大総会典の天下田土総数は嘉慶十七年︵一一八二年中の奏錯冊によったものであるが、これには屯田、道導、官荘地、官田等を        ⑳ 含んでおり,その総計は七、九一五、二五一頃九六畝余とある。四十六年前の乾隆三十一年︵一七穴六年︶の数字と殆ど変らない。耕        ⑳ 地面積の増加が殆ど停滞していることがわかる。  ところが同治十三年︵一八七四年︶の戸部則例号するところによると同治十一年︵一八七二年︶の奏鎗冊天下田土の総数は七、五七 六、九九八頃五六畝で.六十年前の嘉慶の数字に比べると総数に於て約三十五万頃減じているが、これは主として道光三十年︵一八五 〇年︶より同治三年︵一八六四年︶まで続いた太平天国の乱の影響と考えられる。ただ奉天に於て約十万頃を減じているのは明らかに 記録の闇違いと考えられる。  光緒大話会典に見える光緒十三年︵一八八七年︶の奏年忌によれば、各省の田土の合計九、一一九、七六六恒等畝となっており、こ れを嘉慶十七年︵一八一二年︶の天下土田総数に比すれば、約百二十万頃細くを増している。そこで小竹氏は両年度の統計を各省別地 目甥に比較検討している。ところで問題なのは山東の民田の二七九、五三六頃の増加と江癬の屯田三七一﹃七七九頃の増加で、両省と も古くから最も開墾されていた土地で.この年問にこのような農地の増加があったとは考えられぬ。奉天、吉林、黒龍江に於ける耕地 増加は当然考えられるが、吉林は民地九〇頃の減少となっており、黒竜江は公田八一六頃としかなっていない。要するに光緒は嘉慶、 清代における農業生産力の停滞と農民の控取 二五

(7)

     清代における農業生産力の停滞と農民の搾取      二六       ⑳  同治と近いと見られる。        ⑩   小竹氏による蓋置実際耕地面積の推定は次の如くにして行われている。すなわち先ず農商部の耕地統計のうち二代に近いもので、而  も他の年度に比し詳報同県も非常に少なく内容も比較的厳密となっている民国六年︵一九一七年︶及び同七年の統計を用い、その平均田  畝数を以て実際耕地面積算定の基礎とする。この場合.未報告分は喬年度統計を以て補って各省別耕地総数を出し、次に各省全面積に  対する耕地の百分比を出して検討し.明らかに不合理と思われるものは之を合理的に訂正する。この方法は劉、陳二氏の﹁中国農田       ⑳  統計﹂ ︵oQ窮蕩け冨。而腎要目霊鼠一詳O匡罫︵〇三日Φω㊦国8口。巨。㍉8讐鉾竃霞魯璽一露。。︶のそれに従ったといわれる。次に光緒十三年︵一  八八七年︶の登録耕地面積の統計をとりあげ、各省別に右の基準統計と比較し検討して不合理な点は是正し、その合計を出す。ところ  で光緒より民望にかけて電話以外の他省において非常な耕地の増加のあった証拠がないから、右の基準たる実際耕地面積合計から満洲     ヘ ヤ        の開墾増加数を差引いた約千五百五十万頃がまた光緒の実際耕地面積だと想定される。そしてこれと上述の登録耕地面積の比をとる。  これが出来れば.清朝各年代の登録耕地面積数をもとにして実際耕地面倉岳が推定されて来るわけである。ただ光緒の登録耕地面積総  数を小竹氏は九百余万頃と見ているから、これに比すれば、実際耕地面積と考えられる千五百五十万頃は一.七二倍となる。然るに嘉  慶について同種の倍率を見ると本文に述べた如く一・入三二借となっている。この点については小竹氏の説明がないから疑問が依然と  してのこる。この倍率は年代が遡るに従って隠匿率が大きいという点を考慮してのことであろうか。

  側 人口の激増と農業生産力の相対的減少

 女に、近代における人口増加の加速度性ぱ二八頁の人口統計図表を見ても明瞭であるが、更に女に掲げる統計表におい

て順治十八年目一六六一年︶の人口とこれから百五十年目である嘉慶十五年︵一八一〇年︶ の人口とを比較すれば明らかで、

陳長衡氏法による順治の︵b︶九五百万と嘉慶十五年の︵b︶二六七百万について見れば二二八倍、小竹氏の順治の︵げ︶

一二六百万と嘉慶十五年の︵c︶三四八百万をとって見れば二・七六倍となり、嘉慶の年亥を二年後の十七年︵一入一二年︶

の︵c︶三六一百万をとれば二・八七倍となる。前に述べた如く、耕地がこの百五十年問に僅かに一三%前後増加してい

るに過ぎないのに、人口は実に二八○%前後の増加を示しているのである。勿論、この時代の中国の統計に大なる欠陥の

あることは屡汝述べられる所であり、従って、この増加率の正確度も問題なわけであるが、それにしても耕地の増加率と

(8)

入口の増加率との間には大きな開きのあったことだけは否定出来ないといわねばならない。

 清朝時代の人口の推移については、主として小竹丈夫氏の研究﹁席代における人口﹂に基づいて次の如き数字が得られ

る。 ! 清代に於ける人口の年別推移︵単位百万︶ 一六六日年︵順治一八︶ 一六八五年︵康熈二四︶ 一七〇九年︵康煕四八︶ 一七一〇年︵康煕四九︶ 一七二〇年︵康煕五九︶ 一七二一年︵康囲川六〇︶ 一七三〇年︵雍正 八︶ 一七三五年︵雍正一三︶ 一七四一年︵乾隆六︶ 一七四二年︵乾隆 七︶ 一七四三年︵乾隆 八︶ 一七五〇年︵乾隆一五︶ 一七五五年︵乾隆二〇︶    At 一 入東

四 P華

≡三 録 諭、 見を竹

る饗b

)算陳

一 出長

四人薔

三 口氏 1

巽匿≡

五   五三 1

   A

ニー人中

〇九丁華

  、数録

   ar

   よ小 一・一

髓│

ニー入氏

一五九 一六四 一七九 一八五

轟撃墜 蕨矯紙

  一一四    九五   一二〇    一〇〇   =二八   一一五   一五〇    一二五   一五三    一三〇       G小竹氏の認        める入[[ ー ー 一六三 清代における農業生産力の停滞と農民の控坂 一 一九九 二〇〇︵郵︶ 一二九 ニ開毛      B

孟量三錘

     考

二七      et

一一一

シ里

五四二出竹

○一六人氏

    口

一六二 一八○ 二七

(9)

清代における農業生産力の停滞と農民の搾取 一七六六年︵乾隆三一︶ 一七七四年︵乾隆三九︶ 一七七五年︵乾隆四〇︶ ︼七七六年︵乾隆四一︶ 一七八五年︵乾隆五〇︶ 一七九〇年︵乾隆五五︶ 一七九四年︵乾隆五九︶ 一七九五年︵乾隆六〇︶ 一八○○年︵嘉慶 五︶ 一八〇五年︵嘉慶一〇︶ 一八一〇年︵嘉慶一五︶ 一八一二年︵嘉慶一七︶ 一八一八年︵嘉慶二三︶ 一八一九年︵嘉慶二四︶ 一八二〇年︵嘉慶二五︶ 一八一二年︵道光 元︶ 一八三〇年︵道光一〇︶ 一八四〇年︵道光二〇︶ 一八四八年︵道光二八︶ 一八五一年︵三豊元︶ 一八六〇年︵威豊一〇︶ 一八七〇年︵同治 九︶ 一八八二年︵光緒 八︶ 一八八五年︵光緒一一︶ 二〇八 二一二 二六四 二六八 二八八 三〇一 三一三 二九六 二九五 三三二 三四八 三三三 三四八 三〇一

  1

三五五 三九四 四一二 四二六 四三二 i 1 二〇一

 ー

ー 二四二 二五一 二六七 二四八 二⊥2 二六四 二六八 二八入 三〇一 三一三

六四三九

一八二五

竹典 s as (王 c晦も小竹氏も三五〇とする︶濁三亀 二八五 二八五

 一

1 三四四   ⑰ 三五五 三九四 四コ一 四二六 =驚︵太平天国の乱、捻匪、回教徒の乱等の影響︶劉⑳ −  三入二︵ポポフ説小竹馬同意︶ ミ七七 二八

代中目

ロのオ雌

4冠σ ・

曜 ; …8’ag’…A’ 一心伽一熊。韓鋒と轡 @    東肇録・教 氏の一独二塁享 輪。 旨:

‡岬ぎ知、}小卿

巌字 . 卜 ’ 1 一’←一堰f又・路晦衝氏の数字 1 ♂ ⋮劉 ,’8

i

鈎意 亀 ;A” , 勘・遍 e i, が ﹄

1

ρ! ︸翻 1 9 c ρ 4 ト弩 太平天爵の孟し

簸〆

㎜冨〃〃     の @ .一◎1 C㌍一 谷臨 庵

1縫

4

縢鍛繍

x?oσ年 fe夕。拝 leae年 η夕ρ早 1700ty ’締6専

(10)

一八九〇年︵光緒=ハ︶ 一八九四年︵光緒二〇︶ 一九〇〇年︵光緒二六︶ 一九〇一年︵光緒二七︶  一九一〇年︵宣統 二︶  ︹備考︶遅の東華録の数字は一八七〇年︵同治九年︶     研究﹂二八三−二八五頁︶。     法によって算出した人口で小竹氏はこれを実数に近いと見る。  潜代の入口統計は乾隆六年から殆ど毎年について存在するが、それ以前については順治八年から年別の人丁数の統計があるのみで, 人口統計はこれに基づいて算出するより外に致し方ない。  ところで人日というのは、少なくとも清代に.おいては、成年勇子の意味で、この調査はこれに賦役を証する目的と関連して行われたの    ㊥       ⑭ である。そこで、人民としてはこれを免れるために隠匿を行う傾向のあったことは当然である。また官吏は戸口の増加報告は中央の送 附税額の増加を来すので故意に少なく報告しようとするのが常であり、且つ実際調査を行わず任意に作立するこどが多かった。最後に        ⑱ この調査は土藩の民戸を・王とし、官吏、軍人の外、楽戸、乞食、僧道、奴僕等は殆ど調査の外にあった。  かくて灯心以前の人口については,右の事情を考慮して登録人丁数を修正し、これに基づいてその算出を行わねばならぬということ になる。  小竹氏はこの算出方法については、先づアミオ︵蝋﹄陰陰巳。↑層.寓㊦暮ΨΦ8昌8葺き二.臣馨。ぼρH霧訟9窪。霧.冨砂即昌ωし霧巨8琴。。し。。・諺撰Φ。。唱 9ρ働霧O臣琴誌。.曰く。ピ<H・︶の研究から出発する。すなわち、乾隆帝に信任せられ、満漢望薄にも精通した彼が、乾隆八年の全国人口一 億四千二百五十余万を算出したが、実数は正に二億なるべきだといい、全人[[の約三割近くを隠匿未報とするわけであるが、小竹氏はこ れを前挺し、更に一戸ご丁の戸数が全戸数に嵩むる割合を一割と仮定し、結局右の三割からこれを差引いた二割を未報告分とする。そこ        ㊧ で入丁数を二割増したものを実際戸数と見倣し.これに毎戸平均五人として、五倍して人口を算出するという方法をとる。前掲人口統 計表の認及び。はこの方法によって算出したものであるが、前者は東華録所載の人丁数を基礎とせるに対し、後者は清朝文献通考の人丁 数に基づいている。ただ小竹氏は戸口推測の標準としては少しでもその呈露の大なるものが実相に近いという見解から後者をとるべき       三四四 四一=        四二一        三六六

四二六︵羅3⑪ 四二六

四三八︵海関推計︶三九〇⑫四三八        まで。その後は各種の資料から小竹氏が引用したもの︵小竹氏﹁近世支那経済史      ゴは東華録の人丁数を小竹秘法によって算出した人口数。 dは清朝丈献通考の人丁数を小竹氏 清代における農業生産力の停滞と農民の搾取 二九

(11)

    溝代における農業生産力の停滞と農民の搾取       三〇     、−        ⑰ ものとしている。  陳長衡氏は社章を課丁と解して、大体に戸数に相当するものとして.東華録の数字を基礎とし一家平均五人として人口を算出する方法 をとる。げはこの方、法に基づいて算出した入[[である。  ところで右の如き賦税に関連してなされた入丁数の調査は、雍正末年の丁銀灘入地税の令によって従来定額の下男に課していた丁銀 を田賦に繰り入れて徴牧することにしたのでその必要も弱まり、自然に行われなくなった。  ところが乾隆五年︵一七四〇年︶戸部の議によって各省督撫をして毎年十一月戸口の総数を造報せしめることになり,これが当時全 国的に行われた自警制度た・る保甲制を利用して実施きれることになった。この調査は個人及びその移動を主とし警衛に利する点に重き がおかれたものである。乾隆六年から出ている入口統計はかくしてつくられたものである。而して.保甲制による人口調査は、前の人 丁数のそれと異って、賦税と関係がないので、隠匿の理由もなくなったが.他面、保正、甲歯並びに地方官をして任意報告するの風を       ⑩ 助長した点は考えねばならぬという。また、乾隆二十二年に保甲に上して、一紳衿の家も齊民と一体に編列すべきこと。一、客民内地 にあって貿易し或は産業を転落する者は土著と一律に順編すべきこと。一、寺観筆画は僧綱道紀をして冊報せしむべきこと。一、四川 の遊民は土著と一例に編査すべきこと。一、塊場井底の工人も竈戸に従って堪注すべきこと。一、鑛廠、煤客の工人も冊報すべきこと 一、漁麟商船の乗組員を造報ずべきこと。 一、各省山居の棚民、広東の寮民、二品の番子土民、雲南の漁民及び苗人を稽査すべきこと       ⑪ 等、十五条の規定を設けているが.これから見れば当時までは、これらが調査外におかれたと考えられる。乾隆時代の人口統計につい ては、これらの点を考慮する必要が生ずるわけである。ところで小竹氏は前にも述べたように乾隆八年︵一七四三年︶の人口を二億と するアミ島島を採り.東華録の一億六千万台との差を約四千万として、東華録の数字にこれを加えたものが大体において実数に近い人    ⑳ 口とされる。乾隆三十九年︵一七七四年︶までは、このようにして算定されるが、東華録の数字は.同三十九年と四十年との問に約四 千万の差をもつている。そして四十年以降は後者の数字につながるようである。そこで小竹氏は四十年以降は四千万を加える必要がな いという。どうして三十九年までと四十年以降との蘭にこのような大きな数字の開きが出来たかについては、乾隆帝が人口の繁庶を以 て太平を誇称せんとしたので、 地方官がこの上意に迎合するために故意に多心したためだというサバpフ︵哩・ω僧魯母。臨団蓉。凱ω魯Φ        ㊥ q①9邑。馨亀窪切。く8涛。弓琶σq。。畠昏器詳巳ω器Oぼβ鐸↓。。U。。︶の説が述べられているQ小竹氏はこの考え方に同意されるが、而も数字と しては四十年以降をほぼ実数に近いと見ているようである。ただ若し、四十年以降の数字はほぼ実数に近いとするならば、地方官が上 意に迎合するために故意に多湿したと見る見解を受容れることはどうであろうか。乾隆五十八年の上諭に﹁朕査するに上善各省奏報す

(12)

る民数、これを康煕年間の計に較ぶるに十悪倍を増す。承平臼久しく生歯日に繁く外国自ら前のごとく充裕なる能はず、且つ、匿舎占 むるところの田土もまたただに倍徒のみにあらず、これを生ずる者寡くこれを食む者衆し。管見だこれを憂ふ﹂とあり、太平の誇称ど ころか、入口過剰を憂えており、また﹁国玉祖の称するによるに従前弁ずるところの分数は歳々滋生の数を還して一律雷同これに似た       ⑳ りと。⋮⋮各省本年応に進むべき民望均しく展べて明年底にいたり、明し再び疏升あらば定めて当に予ふるに処分を以てす﹂というて 統計の信号すべからざるを怒っている。これから見れば、人口の多きを太平の誇飾となす点に上意ありとして人口の過大報告の結果が このような上諭となったのでもあろうか。そうとすれば四十年以降の数字は過大数字となるし.更に三十九年以前に四千万を加えるこ とにも問題が生じてくる。何故ならば、前掲の統計表に見らるる如く三十九年以前の数字に四千万を加えたものが四十年以降の数字に つらなるからである。更にこの考えをおしすすめるならばアミオの乾隆八年人口二億説に対する反対論とならざるを得ない。そして.

麟の立馨とるものは、陳長身氏で彼は薩六年2億四千三募をほぼ姦に誓として、それ罎の数字は統計嵩の如く算定す

る。  なお、威豊二年︵一八五二年︶以降は東華録の数は激減している。これは道光三〇年︵一八五〇年︶から、同治三年︵一八六四年︶ まで続いた太平天国の乱及び威豊五年︵一八五五年︶から同治十二年︵一八七三年︶まで重いた回教徒の乱の影響で未報告が多かった ことに基づくと考えられる。勿論前者の乱だけでマックゴーワン︵ヨ.霧,Φ暑き.団響。蔓。㎞O巨轟.︶は三千万の人命が失われたといい ロックヒル︵芝ンく噂男oo財ぼ目噂b昌Hbρ巳同やぎけ。け閏。勺ob庫蜀凱。昌。隔O匡昌斜一β醤。宣。詳。隔⇔ぽ①ω旨蹄﹃ωo昌言置H目。。け冬日畝oo㎞o塚お0轟■おOU︶は二       ⑲ 千万の減少が生じたというている。その外、苗族の乱が乾田六〇年︵一七九五年︶より嘉慶一一年︵一八〇六年︶まで白蓮教の乱が嘉 慶元年︵一七九六年︶より同九年︵一八〇四年︶まで、天理教の乱が嘉慶一八年九月一一二月,捨匪の乱が嘉慶一九年︵一八一四年︶       ⑤ より同治六年︵一八六七年︶まで繁き.其他多くの叛乱があり、嘉慶以後.とくに威豊以後の潜代は内乱時代ということが出来る。これ が人口の実質的変動にも影響があったと見られるのであり、陳長奮氏も威豊時代は増加なしと見ているQ  このほかにも清代の入口については各人各説が夫々の年次についてあり、殆ど牧拾のつけようがない様である。そこで諸説の異同を 数字で整理して作成したのが前掲の統計表であるが、これを図表としたのがその次に掲げた統計図表で、このようにグラフにとって見 ると一見牧拾のつかぬように見えた清麗の人口統計に対してもその時々の実数には問題があるにしてもその傾向に対してはかなり明確 な判断を下しうるようになる。そしてその時々の人口についての見解なり数字なりの適否は、このグラフに現われた趨勢から逆に判定 が出来て来るのではないかと思われる次第である。 清代における農業生産力の停滞と農民の搾取 一}

(13)

     清代における農業生産力の停滞と農民の搾取       三二

 上述の如く清代の中国本土における耕地拡張の行き詰り之人口の加速度的増加は、それだけで、農業経.営が零細化の方

向を辿ったことを物語るというても過言ではないであろう。   中国の農業経営が如何に圧倒的に零細化していたかは、民国二十年代以降については、ロシング・バック︵﹄・﹃・口きぎ冒導伽d窪冒餌一  訟8ぎ○駄昌斜おωN︶を始め、中国においては、土地委員会その他によって調査研究きれ、わが国においてそれが天野元之助氏︵支那農  業経済蝦上一八八頁以下︶によって集大成されている。併し、われわれがここで問題としている時代については、かかる資料を期待す.  ることは勿論無理なことといわねばならない。

 そして、かかる傾向はまた農耕の労働集約化を伴うことも当然であり、またこのことは農耕技術の停滞化を来すことも

亦当然なことといわねぽならない。而して、かかる条件の下では、土地牧町逓減の法則の作用は免れないので、ここに農

業生産力の停滞は避けられなくなる。入口との関係においては農業生産力は相対的に減少するともいいうるであろう。

@@@@@@@@@@@@

本稿二三頁以下参照。 宮崎市定氏﹁科挙﹂四〇頁以下参照。 小竹文夫氏﹁清代の耕地開墾﹂近世支那経済史研究 小竹氏﹁清代の耕地開墾﹂右書−二三九頁。⑤小竹氏 小竹氏 小竹氏 小竹氏 小竹氏 小竹氏 小竹氏 小竹氏 小竹氏

同署同国同同同同

書書書志書書目書

      一七四頁。 ︵昭和十七年十月︶        同書 二三六頁。⑥小竹氏 同書 一七八頁。 一六九頁一二三九頁に掲載。⑧小竹氏 同書 一七一一一七二頁。⑨小竹氏 同書 一七三頁。 一七四頁。⑪小竹氏 同書 二〇一頁。⑫小竹氏 同書 二〇二頁。⑬小竹氏 同書 一七四頁。 甲八○頁。⑮小竹氏 同書 一八六i一八七頁。⑯小竹氏 同書一八八頁。 一八九頁 ⑱小竹氏 同書 一九二頁。 一九二頁。⑳⑳小竹氏 同書 一九三頁。⑳小竹氏 同書 一九七頁。⑳小竹氏 同書 一九九頁。 二〇〇頁。⑳小竹氏 同書 二〇三、二〇四、二〇五頁。⑳小竹氏 同書 二〇八頁。⑳小竹氏同書 二一八、二一九、二二〇頁。⑳小竹氏 同書 [=一〇頁、なお二二二一二二三頁の統計表参照。 二三〇頁以下。⑳小竹氏 同書 一七三頁、二三一一二三二頁。⑫小竹氏 同書 二三六頁。 二=頁。

(14)

@@@@@@@@

小竹氏﹁目代における人口﹂ 小竹氏 小竹氏 小竹氏 小竹氏 小竹氏 小竹氏

同量同同同同

書書墨書書書

清代後半期の内乱については矢野仁一氏﹁近代支那史﹂      同書 二四一i二九三頁掲載。⑭小竹氏 同書 二八○頁。⑳⑳小竹氏 同書 9二八一頁。 二八七頁。道光時代も大体東華録の数字をそのま㌧採ってよいといわれる。 二八五、二八八頁。⑳小竹氏 同書・二八五一六頁。⑭小竹氏 同書 二八九頁。⑪⑫小竹氏 同書 二八五頁。 二六二i三頁、二四六頁。⑭小竹氏 同書 二四六頁。⑯小竹氏 同書 二四七頁。⑯小竹氏 同書 二六四頁。 二六一頁。⑲小竹氏 同書.二六五頁。⑲小竹氏 同書 二七〇頁。⑭小竹民 同書 二七五頁。 二七六頁。㊥小竹氏 同書 二七八頁。㊥小竹氏 同書 二七七頁。⑭㊥小竹氏 同書 二八○頁。 二七九頁。⑰小竹氏 同書 二七六頁。⑲小竹氏 同書 二八一−二八二頁。駒小竹氏 同書 二八八頁。       ︵昭和十五年︶一九四頁以下第十一章以下第十九章に詳論している。

二 専制国家及び官僚匹土地U商業資本による搾取

 かくの如く農業生産力が人口に対して相対的に減少したとさえ考えられる事態なのに、清代国家による賦税の搾取がこ

      ①

れまた相当な激しさで増加して行った。いま小竹氏の研究によって国家歳入定額を各時代別にあげると次の如くである。

順治一入年︵一六六四年︶ 由康 ?四H年︵一六八五年︶ 雍正 二年︵一七二四年︶ 乾隆二八年︵一七五三年︶ 嘉慶一七年︵一八一二年︶

糧銀糧銀糧銀糧銀糧銀

この数字は国家歳入額とはいえ、 日二、五七六千両  六、四七九千石 二四、四〇九千両  四b三三一千石 二山ハb ご一山ハニ千︸圃  四、七三一千石 二九、六一一千両  八、四〇六千石 三二.八四五千両  四b 三五⊥ハ千石 実は地丁雑税の総額で、 清代における農業生産力の停滞と農民の搾取        ② 塩課とか関税は含まれていないので、       三三

大体農家の負担と考え

(15)

◎      清代における農業生産力の停滞と農民の搾.取

て大過ないであろう。それが、銀雪分は順治一八年の二一、

二、八四五千両となっている。

      三四

五七六千両から各時代毎に増加し、嘉慶一七年には遂に三

  滞納は実物納である。大体、租税は蔵並までは実物納時代というてよく、唐末から青苗鑓法ことに両税法で、銭納も行われるように  なり.宋代においては銀納のこともあったが,銀鼠が麦配的になったのは、明代の金労銀法から一条鞭法の施行によってである。清代  も初めは明の遣制をついで凡て賦税は銀をもつて納むるを原則とし、実際にも専ら降納が行われた。後.銀の社会的需要が多く、専ら  銀納とすれば、その不足から銀価を昂騰せしめ、民困を招くとの理由で、法令上は銀銭高組ということにしたが、実際には多く銀納が用           いられたという。併し、少額ではあったが清興にもなお実物糧納が存在し、漕糧と称し、各州県から中央に漕罪する外、残りは地方に

       ④

 おける備荒用の常平倉に貯諾することになっていた。これは時代の推移とともに減じて言納化する傾向があり、威豊以後は悉く銀で牧          納し、これを以て江南の米を買上げて漕糧官寺の名のもとに中央に送附したと見られる。  それは兎も角として、大体において上述の如く国家の農家に対する租税の重圧.が年と共に増大したことは否めない。  ところが当時の宮僚機構によって中稲搾取が行われ、この負担が更に累加したことに注意を向けねばならない。というの

は、中国では、古くから夫汝の県に租税の割当が行われ、知県としては夫汝割当られた租税額を、而も大抵はその十分の

       

八位納めたらよいので、時には水量とかいうような口実を設けて五割位しか出さない揚合もあるという。併し、実際人民

から徴牧する税額はこれより遙かに多いので、そのうちから上級政府に出す割当額の外、役所の諸費用はこのうちから支

出するのである。従って、ここに官僚の中等搾取即ち中興の生ずる可能性があるのである。また地租は両で定めてあるが

両と銭との比率は市価に関係なく知県が任意に定める。例えば、いま市価で一両が一千二百文という場ムロ、役所で租税を徴       、       ⑧

牧するとき一両を一千四百文に定めて之に従わせて搾取する場合もあるという。狩野直喜氏が、英人ブレナンの調査に従

       ⑨

つて、知県によって隠匿される税額は年六千万両に達し、一入の知県の所得は平均四万六千両になるだろうといわれる。

もとよりこれは憶測に過ぎないであろうが、ただその中飽が如何に大きかったかが想像される。勿論、中飽するのは知県

(16)

に限るわけでなく、凡ゆる階級の官僚が凡ゆる機会に乗じて中寺につとめたことは周知のことである。されば入民が﹁租

      

税一を納めんがために実際は十を支出する﹂といわれる所以である。

 ここに官僚による人民の搾取と官僚資本の形成ないし蓄積が問題になって来る。すなわち右に述べたように租税の割当

制のため、なかば公然と官僚の中鷺が行われたわけである。これが前述の如く農家の租税について行われたばかりでなく

関税を含む商税及び特別税たる酒税とか茶税とか塩税等についても行われてくる。また専売品取扱商人の特許について、

牧賄その他の中闇搾取の行われたこともやがて響町について述ぶる通りである。その外、軍事品を含む官需品の購入及び

税金等の中央送金其他の取扱商事の指定及び取扱価額について官僚とこれら商人との闇に特殊な関係を生じたのである。

 かようにして官僚の手に富が蓄積され、ここに官僚資本の形成ないし蓄積の生ずる根源があったわけであるが、それが

とくに商業資本との特殊な抱合の下に顕著な発達をとげて行ったことは、右の叙述のうちにもぼぼ推測出来るが、やがてこ

の稿の続篇において史実によって明らかに述ぶることとする。ただ、ここで商業資本の発達と相々媒質的に官僚資本が発

      

達したことは、貴金属ことに銀の貨幣的使用の増進と深い関係をもつと考えられる。すなわち銀を含む貴金属の貨幣的使

用の発達は、外国貿易という多額取引と厚いで塩、茶の如き専売品乃至官需品等多額取引と関連して生じ勝ちであり、そ

して商業資本の蓄積もまたこうした所に貴金属貨幣を媒介として発達し勝ちであることは当然考えられる。即ち多額の取

引と貴金属貨幣の便用と商業資本の発達は、相互媒介的に進展すると考えられるが、これが旧い中国の如き独裁君主的官

僚国家においては、独裁的官僚の各種の干渉とそれにからむ商人との特殊な関係から官僚資本の生成発達を可能ならしめ

るのである。そして貴金属貨幣はその蓄積手段として大きな役割を演ずるわけである。たとえ租税割当制度があっても、

現物納の揚合、とくに貨幣経済の発達が不充分な中合は、その中飽と隠匿にも困難と限度があるが、貴金属貨幣が行われ

るようになると、かかる限度は取り除かれ、ことにこの中中が商業資本との抱合において行われるときは、その蓄積は著し      潜代における農業生産力の停滞と農民の推取       三五

(17)

     清代における農業生産力の停滞と農民の搾取       三六 く促進して来る事は当然考えられることである。

 商業資本ないし高利貸資本と官僚との抱合関係はまた科挙なる官吏登用制度とも関連をもつていたといわれる。という

のは科挙の受験準備をする者が、その準備中の生活費其他の費用或は資格獲得後に任官するまでの費用を高利貸ないb商

       

業資本より借入れることが行われたからであり、この外、任官後に転任の際転任旅費一少なくとも清適は転任旅費が支給

       ⑬

されなかったので一−を借入れることも行われ、また有利な役得立入のある地位への転任運動或は売官における猟官とその

       

買入等のための贈賄資金の融通も行われたといわれ、それがまた両者の木可分な抱合関係を生むことにもなったのである。  官僚資本は何よりも先ず土地所有に投ぜられて謂わゆる土地資本の形態をとった。それは、やがて官吏が野に下った際、

この土地所有を基礎に前歴を背景として郷紳となり、その一族を読書人階級に引上げて地方に勢力をもち、次いで、同族

       

子弟の官吏への出世を準備せんがためであった。官吏になることは、一族にとって名誉であり、そして有利な﹁営業﹂で

   

あるが、それは世襲でないのでその点を右のようにして補うことが自然と行われて来たわけである。

 女に宮僚は有利な商業資本に出資する。官吏の商業ないし金融業等への投資はその秘密を維持する匿名量質組織の発達

    

を促した。ここに官僚資本と商業資本の抱合は発展する。このように官僚資本と抱合する所に旧い中国の商業資本の特色

があるが、これらの資本は前期的資本の一般的特質として高利貸資本を兼ねて来る。実は官僚資本との抱合が商業資本の

官吏への金融をその原因の一つとする旨を述べた所からもこのことが窺われる。こうした前期的資本は地主への金融とそ

の焦付から、土地所有を得て土地資本化することも極めてあり勝ちなことである。

 このように官僚資本と結合する商業資本は、土地資本としては地代牧取を通じ、商業資本としては農産物の安価な買付

と手工業品の高価な販売を通じ、更に銀面比価の変動による動議両価格の差益の取得を通じて、そして最後に高利資本を

通じて、農民の搾取を幾重にも強化して来る。

(18)

 かくて官僚資本と土地資本と商業資本と高利貸資本との相互媒介的結合は旧き中国資本の根本的性格をなすということ

になる。このような資本関係を表わすのに、以下においては官僚闘土地H商業資本という表現を用いることとする。

 こうした中国の資本関係の形態は、根本的には、その再生産の基底に地主一小作的農業をもち、これの商品生産化従

って貨幣経済化を促がす商業資本の発達が、専制君主的官僚国家の支配の下に行われたというそうした中国社会の再生産

構造を反映すると考えることが出来よう。 ① 小竹丈夫氏﹁近世麦那租税上にわける物納と銭納﹂同氏著﹁近世支那経済史研究﹂一五五、一五六頁。

②小竹氏右書一五六頁。

③小竹氏同書一四三i一四四頁。唐代に青苗を植えている田畝を調査して青苗簿を造り、これによって国税をかけた︵鞠清遠著   六花謙哉、岡本午一訳﹁唐代経済史﹂昭和十七年、一四九頁、一六一頁︶。初めは実物納だが、安史の乱後は銭納になっている︵同   書一六〇頁︶。この青苗銭も他の税と同じく夏と秋に納入する両税法に従うのである︵同書 一六三頁︶。 明代の金墨銀法は正統元   年︵一四三六年︶から行われ、米麦四型を銀一両に換算代納せしめる税法であり.一条記法は、諸税目を銀納による単↓税化した   方法で略≧万暦年間に完成したと見られる。この点については清水泰次著﹁中国近世社会経済史﹂ ︵昭和二十五年六月︶九一頁以   下及び一〇↓頁以下参照。

④小竹氏右書一五八頁。⑤小竹氏同書一六〇頁。⑥小竹氏同書一四七頁、一六〇i一六一頁。

⑦⑧⑨ 狩野直喜氏 読書饗余一七一−一七二頁、なお大上末広氏﹁支那国民経済序説︵上︶﹂経済論叢 三四巻 五号 八六頁。 ⑩服部宇之吉著﹁支那研究﹂︵大正+五年︶四二頁。なお地方官僚政治機構と関連して夫々の官僚が如何に中尊を行ったかについて   は、この書の一〇一四九頁﹁支那地方官の職務﹂に詳しい。 ⑪ 大上氏 前掲論文︵上︶八七頁。⑫⑬服部氏 右書 一七一↓二頁。 ⑭売官と猟官の慣習に関しては、服部氏右書一四頁以下及び地塁氏﹁支那社会研究﹂五〇二頁以下参照。売官ブローカーの暗躍.運   動費の金融業者による融通等についても述べてある。 ⑮一族のうちから官夏を出す乙とは、同族にとって如何に名讐で、あるかは、﹁陣場現形記﹂に子弟が郷試に合格した同族の感激と配   賀のことが述べてあるか、門前に二本、墓地に二本家廟に二本、の旗竿をたて、身分ある郷押に﹁孝廉第﹂と書いてもらった額を 清代における農業生産力の停滞と農民の搾取          / 三七

(19)

    清代における農業生産力の停滞と農民の控取      三八   かげ.盛大な覗宴を催す場面が描かれている。 ︵橘雲霞 前掲書 四六四頁以下参照︶。    なお科挙についでは、宮崎市定氏の研究﹁科挙﹂ ︵昭和二十一年十月︶がある。清朝時代の科挙制度を見るに.その試験制度は   学校試と科挙に別れ.更に学校試は、県費、府試、院試の三段、十数回の試験に別れる︵九一頁︶。最後の院試で合格したものは生   員となる︵九一頁︶。生員は.官吏に準ずる礼遇を与えられ科挙に赴くことが出来、更に径役を免ぜられる。地方の官吏は総督、巡   撫より知県に至る迄,三友と称する私費の顧問をおくが、生員はこの盟友となることが出来る。又官界に出入出来るが故に、納税   とか訴訟とかに代理人となることが出来るようになる︵九二一九四頁︶。 後段の試験たる科挙は更に郷試、会試、殿試の三段に別   れる︵一〇五頁︶。郷雲に合格すれば挙人となり、殿試は天子自ら行い、之に合格すれば進士となり,初めて高等文宮たる資格を得   る︵一〇五頁︶o ⑯ 橘撲民 前掲書 五二四頁。 ⑰この合賜制度はよほど古くからあったらしく、既に明清時代には一般に普及していた。近世においては官僚の商業行為が禁ぜられ   ていたが、この匿名合野の組織を通じて商業への投資が行われた。尚、佐伯富岳﹁清代における詩業資本について﹂ ︵東洋史研究   酬弟十一巻  笹州一号︵昭和二十五年︶ 五六頁参照O

参照

関連したドキュメント

[r]

経済学・経営学の専門的な知識を学ぶた めの基礎的な学力を備え、ダイナミック

 良渚文化の経済的基盤は、稲作を主体とする農耕生

このような背景のもと,我々は,平成 24 年度の 新入生のスマートフォン所有率が過半数を超えると

      ヘ ヘ へ も ヘ へ も   あ も ヘ へ ゐ ヘ ヘ へ も も ヘ へ も ヘ ヘ カ ヘ

ヨーロッパにおいても、似たような生者と死者との関係ぱみられる。中世農村社会における祭り

(1)

基本目標2 一 人 ひとり が いきいきと活 動するに ぎわいのあるま ち づくり.