社会主義的所有と契約
藤田 急騰
.社会主義的所有と契約﹂
西
1
達
雄
本書は、著者が東京大学社会科学研究所における助手論文として 書かれ、すでに﹁社会科学研究﹂ ︵第八巻第三・四号、第九巻第一 号︶に分載きれた分牝、本書の第四章にぞくする部分を加えて、一 書にまとめられたものである。 本書の内容は、﹁はしがき﹂に述べられているように、今日わが くにで少なからぬ学問的関心をひきつけている近代市民法の存在性 格は、近代市民体系の否定によって形成せられたそれの体系的対立 物である社会主義法一理論的に想定された﹁未来社会﹂としての社 会主義社会の法ではなく、歴史的現実として形成されてあるソ同盟 の法1の理論的把握と無縁ではなく、近代市民法の存在性格はその 体系的対立物の分析をとおしてあきらかとなる、との問題意識にた って、特殊歴史的法範疇として存立するところの、社会主義的所右 の運動形態としての契約の法的構造巨社会主義的所有には、全人民 的所有と協同組合的所有という二つの形態が存在するが、本書は、 全人民的所有の運動形態としての計画契約の法的構造、を分析しょ へ ら うとする。本書が直接の分析対象を計画契約範麟においたのは、そ 五六 れが、全人民的所有に直接立脚する生産セクター内部における﹁市 民法﹂の原基的諸範躊の論理的展開の焦点であると考えたからであ り、全人民的所有を起点とし、計画契約を焦点とする﹁市民法﹂の 原基的諸範疇の展開構造の分析こそが、近代小縄法の体系酌対立物 の把握とい・窒視点からする社会主義社会の﹁市罠法﹂の理論的・体 系的把握にとってもっとも本質的な問題領域をなす、というみとお しにたつからである。本書の副題が﹁全人蔑的所有の運動形態とし ての計画契約の法的構造﹂とつけられた所以である。 したがって、本書は、協同組合的所有・個人的所有の構造分析お よびそれらと全人民的所有との、社会主義的拡大再生産過程におけ る相互連関は直接には対象としていないし、社会主義社会における ﹁市民法﹂の全体系の理論的把握までには至っていない。また﹁結 びにかえて一のこされた課題﹂にも述べられているように、本書が 直接に課題としたのは、全人民的所有の運動形態としての計画契約 の法的構造の分析であるが、そのかぎりにおいてさえ、 1 生産手段と労働とを結合せしめる労働契約の問題。 五 資本欄社会において存立する法人範曉あるいは社会主義的協 同組合組織を基盤とする法人と、全人民的所有の自己規定の特殊的 契機として展開される法人範曉とを比較しつつ、それらの本質的相 違と相対的連続性をあきらかにすること。 皿債権範瞬の問題i全人民的所有に直接立脚する生産セクター 内部においていかなる意味において債権範躊が成立するか、物権と 債権との対立、陵刷の論理が社会主義社会では揚棄されるという問題と、社会主義社、会において債権範疇そのものが成立するかどうか の問題、ならびに責任範疇の問題一責任範臆とボスラスチョート範 疇との内在的連関、責任範疇と計画原理との結びつき。 皿 契約履行の段階における計画契約の規範構造の展開において ﹁市民法﹂上の権利・義務関係が多くのばあいに行政法上の問題に 転化しつつ、それとからみあって存在している姿態の追求。 V ﹁人民民主主義国﹂において生起している法的諸現象との全 面的な比較研究、などの問題が残されているものの、序章のほか四 章にわたり詳細に、全人民的所有の法的存在構造を分析起点としつ つ、全人民的所有の運動形態としての計画契約の論理構造と規範構 造を分析することによって、全人民的所有の自己規定の特殊的契機 として展開せられる計画契約範聴の存在構造を把握しようとつとめ ている。 二 序章﹁社会主義杜会における﹁市民法﹂の論理構造﹂で、社会主 義的社会構成体において﹁市民法﹂が存立することの必然性、その 量冨。ロq.雲器と、そこに存立する﹁市民法﹂の特殊歴史的性絡と、 計画契約が祉会主義的構成体において存立する﹁市民法﹂の一つの 原基的範疇であるというばあい、それは﹁市民法﹂の原基的諸範聴 の展開構造においてどのような位置をあたえられるか、という問題 を、一般的な形で述べている。まず著者は、全入民的所有と協同組 合的所有という二つの形態が存する社会においては、商品生産も価 値法則も存在する、との前提にたつ。商品と商品の相互的主体転換 祉会主義的所有と契約 という原理の妥当する経済的諸関係が祉会主義構成体にも必然的に 成立し、そこに、相互に独立した法的人格者流の平等の権利・義務 を構造的型とする法的関係の形成される可能性がある。市民法の形 態規定性を商品交換という社会過程の形態規定性によって基礎づけ られるものとすれば、近代市民法と一走の歴史的連続関係をみるこ とができる、それは決して、﹁万里の長城﹂によって隔絶されてい るのではない。いうまでもなく社会主義的﹁市民法﹂は、近代市民 ヘ ヨ る た ぬ む 法と質的に区別される、にもかかわらず、断続と飛躍を媒介としつ つなお﹁定の歴史的・論理的連続性がある。社会主義的﹁市平法﹂ の特異性は、公法・私法という二元構造を揚棄して=兀構造をとっ ていることであり、国家による社会の指導から遮断された、自己完 結的な私的自治の世界は存在しない。そこには、いかなる意味にお いても﹁私法﹂ 貯ω鷲貯9β目は存在しない、したがって、 ﹁私法 の公法化﹂という問題もない。近代市民法の原基的範疇は、私的所 有権・契約・法的人格であるが、社会主義的構成体ではそのような ね も ミ も も ヘ へ も ヤ も も 抽象性と普遍性をもつ市民法の原基的範疇はなく、特殊具体的であ る。.また、近代市民法の端初・起点は契約であるが、ここでは、全 人民的所有それ自体が起点・端初である、という。 第一章 ﹁全人民的所有の法的構造﹂は副題に示されているよ うに、全人民的所有の法主体的契機における単一性と多様性の相互 媒介的統一について論ずる。全人民的所有は国家的極右であるが、 国家に属する所有権の実現は個≧の国営企業を媒介しておこなわれ る。この国家の地位と、=疋の国有財産に対して独立の主体的権利 五七
社会主義的所有と契約 ︵財産権︶をもつ法人としての国営企業の地位との相関関係の分析 がなされる。まず、国営企業がその管理下の国有財産にたいしても つ財産権の性格について諸≧の見解を批判しつつ、 ﹁問題は、なに よりもまず、個≧の国営企業の一定の主体的権利︵財.産権︶の内容 が占有・使用・処分の地利であることを一応前提とするとしても、 それらの主体的権利が、その対象たる個≧の姿態の財産の経洛的属 性およびそれに対応した法的規制の具体的相違に応じて﹂、 またそ の経済的機能に応じて、どのような具体的規定性をうけるか、とい うことであるとして、つぎに、占有権・使用権・処分権・返還請求 権について述べ、最後に、国営企業が﹁法人﹂としてあらわれるこ とに表現される具体的人闘関係の問題にはいる︵国家意思を端的に 担い、国家意思実現の媒介環であるととともに、労働者集団と一体 となって法人の﹁人的基体﹂をなす﹁管理者﹂11企業長と、他方、 企業長と︸体となって法人の﹁人的基体﹂を構成しつつ、従業員と して生産活動をおこなう﹁労働者集団﹂との問題︶。 第二章 ﹁人民的所有の運動過程を媒介する計画契約の論理構 造﹂は計画契約が社会主義的生産セクターにおいて展開される﹁市 民法﹂の一つの原基的範疇として、成立すべきことの.考察である。 も む し ヤ へ り も 計画契約が計画契約として成立することと︵近代契約との相対的即 し セ い ヤ ぬ も ヤ も 続性︶、 計画契約が計画契約として現象することは︵近代契約との へ も も た へ お も 異質性︶、相互に媒介しあって統一的全体としての計画契約をなす、 この計画契約の計画性のモメントと契約性のモメントは相互の間に 一定の矛盾をはらみつつも、.動的な展開過程の中に相互媒介的に統 五八 一されてゆくことの論理の操究、それはまた、独立採算制・契約・ 計画という三つのカテゴリーの相互媒介的結合という論理構造の探 究でもある。計画契約は、諸≧の計画契約型に具体的に表現される が、もっとも典型的な生産物の分配・再分配過程を媒介する納入契 約について分析がすすめられる︵いうまでもなく全人民的所有を基 礎とする国家組織法体法人間の契約であり、相異なる所有者間にお ける商品交換を媒介する契約についてではない︶。 補説として、全 人民的所有と協同組合的所有關の経浩関係を媒介する契約︵売買契 約の特殊形態︶についてふれている。 第三章 ﹁計画契約の論理構造の規範的表現︵計画契約の規範 構造における計画性のモメントと契約性のモメントとの結合︶﹂ は ヘ へ 第四章と同題であるが、本章は契約成立の毅階における展開につい て述べる。第一節は﹁計画化と契約成立との規範的連関構造﹂と題 し、計画規制機関の計画化行為が、 ﹁市民法﹂的法律行為としての 契約の締結をその必然的な効果としてもっための︵契約の締結を義 務づけられる︶規範構造についての考察がなされる︵フオンド化生 産物の分配計画と契約締結との関係︶。 ソ同盟における学説を批判 しつつ著者は、契約締結義務は第一次的には当事双方の計画規制機 関にたいする義務でありつつ、しかもそのことの反射として、相互 に相手方にたいする義務としてもあらわれる規範構造という。第二 節は﹁計画契約の繍結にたいする集中的規制形態一契約関係設定の ための範型としての基本条款﹂と題し、特定の生産物の納入契約を 規制する基本条款について考察している。基本条款は納入者・需要
者それぞれの側の中央機関の協定という形式で表現される、契約の 一般的・典型的な範型であり、これに反する契約は無効となる。そ の点を通じ契約が、計画契約である点があきらかにされる。第三節 ﹁計画契約関係展開の組織構造﹂はそれぞれの経済管理体系に属す るおのおのの経済組織が、計画課題の実現のために相互にどの﹁よう な仕方で契約関係、契約による結合関係に組織されるか、という問 題をとりあつかっている。各薄紅管理体系の間で締結される総体契 約︵それは﹁市民法﹂上の契約であるが、総体契約自身は地方契約 の締結を保障するような一連の組織的行為をなすべき義務を設定す るにすぎない一商品ぬきの契約︶と地方契約︵総体契約の具体的展 開として、生産物納入の直接的実現にかんする権利・義務を設定す る1商品をともなう契約︶、並びに直接契約の問題を取りあつかう。 第四節﹁契約の締結﹂は﹁合意﹂のモメントと、いわゆる﹁契約前 係争﹂の問題を分析する。契約において、個ヒの国営企業は国家の 意思を表現しつつ、同時に独立の自己の意思を表現する。社会主義 社会には、近代市民法におけるような﹁意思の自由﹂はないが、計 画に表現される客観的法則の認識に立って行動を決定する﹁自由な 意思﹂が存する。合意を成立せしめるために、また計画の遂行を保 障するために、契約締結前に係争を解決すべき規範構造として﹁契 約前係争﹂なるものがある。これらについての分析。 あ も 第四章 ﹁計画契約の論理構造の規範的表現﹂は契約履行の段 階における展開について述べる。第一節では計画契約の基本的原則 へ む ヤ へ も である現実的履行の原則について、第二節では契約履行における当 社会主義的所有と契約 事者の連帯性の問題について、第三節は契約不履行にたいする物的 責任について、考察している。近代市民法では、現実的履行と履行 も も にかわる貨幣的等価の給付︵損害賠償︶は同格であるが、計画契約 においてはその現実的履行は国民経済の計画的・均衡的発展の法則 も も も も を直接の基礎としているから、契約の不履行は国家規律の違反とな る、それゆえ現実的履行の確保のためには法的手投ばかりでなく、 へ 非法的強制諸手段が動員される、ことなどについて説かれる。つい で債権者が契約の現実的履行に積極的に協力すべき義務の近代市民 法との特異性が説かれる。物的責任については、違約罰と損害賠償 について分析がなされる。前者については、違約金のとりきめは契 約の有効な成立要件たること︵義務的約定違約金︶、 現実的履行へ の強度の﹁刺戦﹂的機能をもつこと︵罰金的違約金︶についで、それ は損害賠償の予定としての性絡をもつかどうかについて諸≧の見解 も も も も も を批判しつつ、損害賠償制度からの相対的独立性︵補償的機能をも もっこと︶を説く。損害賠償については、計画契約においても﹁完 r全賠償の原則﹂が当然存在すること、しかし﹁失われた利得﹂とは ﹁計画利潤﹂をいい、そこに計画契約における損害賠償の特殊性が あることについて説明が加えられている。 三 せんご、ソヴェトに関する研究は各方面にわたりいちじるしく活 発である。ソヴェト法の研究もその例外ではない。否、水準が高い かどう.かはともかく一段と活溌だとさえいえよう。ソヴェトに関す る研究がなぜ活造化するに至ったかについては多くの理由をあげう 五九
社会主義的所有と契約 るが、せんご、学問に対する障害が一応取りのぞかれたこと、せん ごにおけるソヴェトの異常な発展が大きな原因をなしていることは いうまでもないが、ソヴェト法に関する戦前の文献を求める者は、 ソヴェト法律学体系が遂次刊行され、雑誌﹁ソヴェト法学﹂さえも つに至った現在に比べ、その余りに少ないのに驚くにちがいない。 その意味で、ソジェト法の研究は他の研究分野に比べて一段と活澄 であるといって差麦えないであろう。わがくににおけるソヴェト法 研究については、山之内教授﹁日本におけるソヴェト.法研究﹂ ︵社 会科学研究七巻二・三・四合三号 一八九頁以下︶、藤田勇・木田 純一両氏﹁日本におけるソヴェト法研究︵﹁ソヴェト法学一巻一 号︶、長谷川正安・稲子恒夫両教授﹁第二十圓覚大会とソヴェト法 学の転機そしてわれわれのソヴェト法研究﹂︵同誌一巻六号︶、木 田純一助教授﹁ソヴェト法研究のあゆみ﹂ ︵同誌二巻一号︶など に詳しいのでここに喋≧するまでもない。ただ長谷川教授は、﹁日 本のソヴェト法研究の.欠陥は、=言にして﹁輸入法学﹂という言葉 で表現できる﹂といい、つまらぬ翻訳よりは﹁内容的には若干問題 もあろうが、アメリカの学者タウスターの﹁ソヴェト同盟の政治権 力﹂やサマーヴイルの﹁ソヴェト哲掌﹂、 あるいは日本の栗田賢三 の﹁社会主義と自由﹂のほうが、はるかに学問的な水準も高く、ま た、利用できる内容をもっていることを指摘したい。これはなぜで あろうか。これは、これらの著作が、アメリカや日本のインテリゲ ンツイヤのソヴェト同盟についての関心を出発点として、資料を厳 選吟味しながら、ソヴェトの一般大衆ではなく、資本主義諸国のイ 六〇 ンテ、リゲンツイヤにわかるように問題をときほぐしているからであ る。このような研究の態度をとることは、醗訳とはくらべものにな らない非常な努力を必要とする。ぎんねんながら、われわれソヴェ ト.法研究者のはたして幾人が、このような苦労ある道をえらんでき ただろうか﹂ ︵前掲論文同誌二五一六頁︶、と.暴きびしい批判を加 えられている。たしかに教授の指摘される通りだと思う。し.かしわ も モ も も たしはやはり、ソヴェト法専攻の学徒が資料を厳選吟味し、教授の も も も ヘ へ 指嫡される諸≧の欠陥を克服しつつ、大いに醗訳に努めてほしいと ねがう。かつて、 ﹁山之内教授は﹁社会主義国家と法﹂のなかで、 ﹁ソヴェト法の研究のためには、ロシア語の修得が絶対に必要であ る。現在ソヴェト法に関する文献は、その殆んどがソ同盟において 刊行せられ、科学的水準の高いソヴェト法研究は、ソ同盟以外の諸 国においては、一、二の例外のほかは、殆んど求めることができな い。従って、ソヴェト法研究は、ソ同盟の文献によらなければ不可 能であるといっても、さしつかえない。われわれの武器としてロシ ヤ語の必要なことは、おのずから明らかであろう﹂といっておられ る。ソヴェト法の研究には特にそのことが強調される理由があって も、それは他の外国法の研究においても亦然るであろう。しかし、 学問は象牙の塔のものであってはならず、学者は自己の研.究を民衆 に解放するの任務を負うといわねばならない。高山・長谷部両氏に よって邦訳され.たため、資本論研究は、どれほどか民衆に近づいた ことであろう。ソヅェト法が民衆に近づくためには、その手がかり が与えられなければならない。ソヴェト法の研、究はソヴェトの文献
によらなければならないとすれば、必要なことは原典の邦訳がつぎ つぎと公にされることであろう。その意陳で雑誌﹁ソヴェト法学﹂ が、ソヴェトの諸論文を訳出し、ソヴェト法律学体系が、逐次刊行 されつつあるのは淘によろこばしいことといわねばならない﹂と書 いた︵彦根論叢三三号︶。アメリカにおけるソヴェト研究は相当な ものであるらしいし、東ドイツよりドイツ語の文献も数多く出され てはいる。しかし、ソヴェト法研究は原典を通じるのが正攻法であ ろう。ところで現在、ソヴェト法専攻の学者は別として、法律学徒 のうちロシア語に堪能な人がどれほどあらうか。ソヴェト法研究が ロ も ぬ ち 特殊部落化しているのにはいろんな理由があろうけれど、ロシア語 が多くの法律学者の身についていないことがきわめて大きな理由を なしていはしないかと思われる。せめて原典がより多く蘇訳きれた ら多くの法律学者がソヴェト法に近づいていくのではなかろうか。 それはともかく、著者はすでに﹁国家と法の理論﹂上・下巻を麟 駅してソヴェト法研究上大きな寄与をされたのであるが、今度刊行 された本書はおそらくせんごわがくにで刊行された唯一のソザェト 法の本構的研究といっても過言ではないであろう。渡辺・長谷川両 教授﹁法学研究の動向﹂︵思想四〇二号=二〇頁︶は﹁旧来のよ うに法技術的要請に従属した外国法制の紹介、導入にとどまること なく、それぞれの歴史的社会の、それぞれの歴史的段階での社会諸 関係の究明の一環としての法制度の研究が数少いとはいえ、ようや く地味に根を下しつつある﹂といい、この観点から最近のきわめて すぐれた力作として本書をあげているがゆえなしとせない。薯者は 社会主義的所有と契約 ﹁わたしの研究にとって社会科学研究所があたえてくれた条件は、 おそらく現在、わが国でもっともめぐまれたものであったといって よいであろう﹂といわれているが、そのすぐれた語学力でソヴェト の文献を存分につかって、弁証法的にすすめる論理は淘に見事であ る。ただ若干希望を述べれば、文章が余りにも專問的で難渋といお うか生硬といおうか、とにかくもう少し読みやすい交章であってほ しいこと︵文申ときどき引用されるマルクスやエンゲルスなどの文 章はいかにも生き生きとしているし、おなじソヴェト法研究でも、 たとえば稲子助教授﹁社会主義の民法と、現代マルクス主義の民法 理論﹂などはだれにでもとっつきやすい︶、 ソヴェトの文献にあり がちなおなじことの繰返しを整序してほしいことなどであるが、内 容的にはつぎの点をあきらかにしてほしかったことである。 薯者は、社会的所有に二つの形態が存在する社会には商晶生産も 価値法則も存在し、そこに﹁市民法﹂の存立基盤をみいだしている が、二つの所有形態にそれほどこだわる必要があるのかどうか、つ まり、二つの所有形態がなくなる共産主義の段階では価値法則は存 在しなくなるのかどうか︵この点につき臼杉教授﹁価値の理論﹂︶、 存在しないとすれば﹁市民法﹂は存立基盤をもたないのかどうか、 あるとすれば、本書において分析対象とされている全人民的所有に 直接立脚する国営生産セクター内部において作用する価値法則とは ちがうのかどうか、についてである。ともあれ、誉者のごとき若く すぐれたソヴェト法研究者によって、社会主﹁義社会における﹁市民 た 法﹂の全体系の理論的把握が完成される日るが待たれるのである。 ︵一九五八・三・こ五︶ 六一