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「男性身体」としてのプロレスラーの身体表象

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Academic year: 2021

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要旨:本論は、プロレスラーの身体を題材にして「男性身体」という概念をいかに捉えたらよいのか、という問いを検 討していく研究ノートである。「男性身体」は、「近代パラダイム」あるいは「覇権的なものの可視化されたフォルム (姿)」という位置づけで捉えられる。  まず、プロレスラーの身体がいかに「男性身体」を表象しているかについて検討する。つまりレスラーの身体がいか に「理性」に訴求するように身体加工されているのかということに着目する。次にプロレスとは、二項対立構造や権威 的ヒエラルキー制度の中で展開されているのだということを指摘する。続いて、プロレスのスペクタクル性について指 摘し、「男性身体」との関係を述べる。最後にレスラーのアイデンティティについて触れ、それが「男性身体」を変容 させる可能性をもつという仮説を立てて本論は閉じられる。 キーワード:男性身体、プロレスラーの身体、覇権性、スペクタクル、アイデンティティ 0.本論における「男性身体」とは何か  本論における「男性身体」の概念とは、すでに拙稿ⅰ で述べてきたように、近代パラダイムの具現化された ものである。「男性身体」は「男性」と「身体」から 成る言葉であるが、なぜ「男性身体」を近代パラダイ ムの具現化と言うのかといえば、それは次の理由によ る。一つ目は、近代におけるパラダイムが、男性中心 主義に置かれていることが明らかになっていることが 挙げられる。フェミニズム理論は、現代社会における 男性性の覇権性を明らかにしてきた。それによれば、 男性中心主義は、近代知を担うものとして「男性」を 無自覚に措定してきた。そして、近代知の外にあるも のは「女性」が担うものとして理解してきたのであ る。言い換えれば、理性的なものは男性が担い、理性 的でないものは女性が担うものとされたということで ある。理性的でないものとは、つまり理性でコント ロールできないものであり、具体的には身体の問題や 感情の問題などを指している。ヴェヴレンⅱやジンメルは、流行現象なども理性的でないとして、女性の問題 として扱っている。  そうなると近代パラダイムにおいては、身体の問題 は女性が担う概念ということになる。しかし、本論で はあえて「男性身体」を扱う。このことは近代パラダ イムからすれば、一見矛盾した二つの言葉を並べてい ることになる。しかし、近代パラダイムにおいて男性 の身体は、男性中心主義によってその“フォルム”を 中心に語られてきた、という問題の指摘が二つ目の理 由なのである。これはどういうことかと言うと、女性 の身体が、セクシュアリティという近代パラダイムか らすれば隠蔽するべきカテゴリーで語られてきたこと とは反対に、男性の身体は、目に見える公的なものと して語られてきた、という問題なのである。モッセが 紹介するようにⅳ、男性の裸体は、ギリシア彫刻を範 とする,理性と美的な調和によって成立する身体フォル ムであった。管理が行き届き、無駄や余剰のない肉体 が奨励されてきた。つまり、「男性身体」という概念 は、「覇権的なものの可視化されたフォルム(姿)」 であるというわけである。   1.本論の目的  本論は、上述の「男性身体」という概念を、プロレ スラーの身体を題材に検討していこうとしている。そ の検討を通して、近代パラダイムの絶対性に対して、 ある種の疑義を提示しようとする研究ノートである。   1.1.なぜプロレスラーの身体なのか  プロレスは「ジャンルの鬼子」と呼ばれるほど、定義 付け困難な文化的領域といわれる。(小林正幸2002 ⅴ  小林によれば、プロレスを定義しようとすると、

「男性身体」としてのプロレスラーの身体表象

学芸学部 被服学科 川野 佐江子

大阪樟蔭女子大学研究紀要第1号(2011) 研究ノート

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「“スポーツか否か”、“真剣勝負か八百長か”、 “格闘技か否か”、“単なる娯楽か否か”、“メ ジャーかマイナーか”、あるいは“芸術か否か”とい う問いを訴状してしまう。つまり、我々が生きる世界 の論理の正当性の問題として迫ってくるのである。」 (小林2002)という。この「我々が生きる世界の論 理」とは、まさに「近代を支えるパラダイム」と換言 可能である。そして、プロレスを定義しようとするこ と自体が、すでに言説内に現象を追い込む近代知内の 出来事であることもわかるのである。また、小林に よって挙げられた定義のために対比された二項は、 「A or B」ではなく、「A or no A」であることに注 目しておきたい。これは、近代パラダイムですでに言 説化された「A」と、言説化できていない「no A」 という区分でもある。一般的に言えば、「理解できる もの」と「理解できないもの」という区分と言える だろう。この場合の「理解できないもの」は「out of knowledge」と言い換えできる。つまり、知識の外に あるもの、言説化できないものを指す。このことから わかるのは、プロレスは、言説の内側にあるのか、外 側にあるのかを、常に問われながら存在してきた、と いうことである。  プロレスがそういう問われ方をしてきたということ は、プロレスラーにも同様の視線が向けられて来たと いえる。一般にプロレスといえば、プロレスラーがそ の身体を使って行う格闘技を指すのであるから、その 主題は当然のことながらプロレスラーが担うことにな るだろう。そこで本論が注目したいのは、プロレス ラーのその身体についてなのである。  プロレスラーの身体は、プロレスが問われてきた 「A or no A」への問いと、その問い自体をいかに問 い直すか、という二重の問いを、提示してくれる。格 闘する身体は、近代パラダイムの視点からは「男性身 体」であり、鍛え上げられた筋肉や、強さや大きさ は、常に肯定的意味をもってその「男性身体」を装飾 している。半裸の肉体は、公然の肉体として観衆の前 に提示されている。しかし、格闘すること自体がそも そも理性的と言えるのか、鍛え上げ作り上げた肉体は むしろ不自然な肉体なのではないのか、などの逆説的 な問い返しを、常にはらんでいるのである。  そこで本論は、さらに具体的に近代パラダイムの 抱える問題をプロレスラーの身体に結びつけて検 討していくために、特にWWE(World Wrestling Entertainment)ⅵというアメリカのプロレスリング団 体に所属しているレスラーに注目して検討を行ってい く。WWEでは、自らの興業をプロレスPro-Wrestling とは呼ばず、「スポーツ・エンターテイメントsports entertainment」と称しており、その興業内容も、高 度なレスリングの格闘技術を見せるだけに止まるも のではない。そこではレスラーがそれぞれギミック gimmickによってキャラクター設定をされており、そ の役回りを現実のことのように演じることで、ストー リーを持ったレスリングがリング上で展開されてい る。また、ロッカールームでもそのストーリーはつな がりをもって展開され、観衆に対し、さも楽屋を覗い ているかのように公開されるのである。そして観衆 は、その連続して展開されるストーリーを追いなが ら、現実と虚構が混在したエンターテイメントを楽し むのである。  WWEのレスラーの身体を取り上げることで、「“ス ポーツか否か”、“真剣勝負か八百長か”、“格闘技 か否か”、“単なる娯楽か否か”、“メジャーかマイ ナーか”、あるいは“芸術か否か”という問い」と、 その問いの立て方自体がどのような構造からなってい るのか、を検討することが可能となる。  まずは、プロレスラーの身体について、「男性身 体」の具現化である側面から見てみたい。 2.近代パラダイムの象徴としてのプロレスラーの身 体 2.1.裸体  多くの場合、プロレスラーはほとんど裸体でレスリ ングを行う。レスリングは、肉体同士の間の格闘議で あり、武器や道具を持たないことがルールとして規範 となっている。したがって、裸体であることは、まさ に丸腰であることの証明であるのだ。裸体は、近代パ ラダイムからすれば、自分ではどうにもならない「理 性の外」にあるものであった。しかしひとたび「裸で いることが、正しい」という規範の下では、その裸体 は「野生」から一気に格上げされて「正義」とされ る。  またさらに、「野性味」を取り除く努力として、さ まざまな加工が施されているのが、プロレスラーの身 体である。最初に注目されるのは、その筋肉である。 先に、近代パラダイムにおける理想的な身体フォルム は、ギリシア彫刻であると述べた。美と調和を保った フォルムは、そこまで作り上げる肉体の自己管理が必 要である。つまり、そのフォルムは、自己と自己の肉 体を正しく管理し維持できる理性的な人間であるとい う証明になるのだ。また、筋肉は力強さの証明でもあ

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る。男性に強さと逞しさが要求される近代パラダイム において、筋肉は「男性」の象徴つまりは「覇権」の 象徴であると言えよう。  次に、その裸体は脱毛とタンニングが施されている ことが多い。まず脱毛についてであるが、先にレス ラーの体毛は、頭髪か髭に限定されることが多いとう いことを述べておきたい。あるいはギミックで体毛 を強調するレスラーもいる。胸の体毛は古典的な「男 らしさ」の善玉的(ベビー)ギミックになるが、背中 まで体毛に覆われるようなレスラーは、たいてい悪役 (ヒール)で怪物的なギミックを与えられているケー スが多い。  さて、レスラーの脱毛についてであるが、これは一 つの身体加工であると言える。つまり、もともと人間 の皮膚に備わっていた体毛を除去してしまうことで、 これ以上のない「丸裸」に「加工」してしまうという わけである。しかし、皮膚を露わにしてしまうこの脱 毛行為は、一方で「丸裸」の隠蔽にもなっている。つ まり、本来は体毛があることが裸体の「自然な状態」 であるわけであるが、脱毛行為によって「自然な状 態」の裸体とは一線を画す、別な「不自然な状態」の 裸体へと加工してしまっているのである。ここでは 「不自然な」裸体によって、「自然な」裸体はどこか へ隠されてしまっているのである。しかしこの「不自 然な」裸体は、理性によって加工された正しい自然な 身体として近代パラダイムによって認識される。人間 の生々しい野生の部分を除去することで、公的身体と して公共の場に登場できる裸体になるのだ。  次ぎにタンニングであるが、WWEのレスラーのタン ニングは、非常に美しく施されている。 図1 脱毛とタンニングを施したWWEのプロレスラー(ラン ディー・オートン)  ルドフスキーⅶは、「よく陽灼けした人物は、陽灼け していない人物よりもよくみえるし、少なくとも健康 にみえる。たとえその陽灼けのしかたが均等でなく、 身体中まばらであった場合でさえそうなのである。」 (ルドフスキー 1971=1979:171)と述べている。こ こでは、タンニングの視覚的効果と、一般の陽灼けが 「不思議なパターンを皮膚のうえに残してしまう。」 (同上:171)ようにムラができるものであることも示し ている。ところが、レスラーのタンニングは、そのま ばらなパターンが見られないのである。タンニング・ マシーンの技術も進んでいるのであろうが、タンニン グ後の皮膚の色が、彼のもともとの皮膚の色であるか のように、仕上げている。そして出来上がった皮膚に オイルが塗り込まれ、ぴかぴかに磨かれるのである。  実はタンニングtanningとは、日焼けという意味とし て使われることが多いが、もともとは革を鞣すという 意味がある。バッグや靴などの革製品の加工方法の一 つで、毛皮の毛と脂肪とを除き、タンニン(渋)をつ かって革を柔らかく美しく整える一連の作業をtanning と言う。鞣すことで、生物の一部としての皮は、死ん だり腐ったりしないモノとしての革へと作り替えられ るのである。つまり、レスラーの脱毛−日焼け−オイ ル塗布という一連の皮膚加工の工程は、まさにこのタ ンニングの工程と同義であることがわかる。換言すれ ば、レスラーは自分の皮膚を「革」へと変質させるべ く鞣し、加工し、仕上げていると言うことになる。脱 毛とタンニングは、レスラーの身体をつつむ表層を、 生身の皮膚から切り離して、「不自然」ではあるが 「管理された」人工の、モノとしての表皮に替えるの である。  脱毛とタンニングは、筋肉の動きの細部まで観察す ることができるという効果のほか、つるんとした皮膚 感が、生身の皮膚をして彫像のような印象―それは まるで人工の皮膚のように―という視覚的効果をわ れわれに与える。加えて、タンニングの効果とオイル の効果によって、肉体はブロンズ像が光るように磨か れて、まるで生身の人間ではないような印象さえ与え る。“美しく”体毛を刈られて整えられた「不自然 な」人工の肉体で、WWEのスーパー・スターと呼ば れるレスラーの身体になるのである  そして、これらプロレスラーの身体は、同時に脱-性化されている身体である、と言えるであろう。先に 述べたように、性的なものは女性が担うものとしてき たのが、近代パラダイムであった。自分ではコント ロールできないものとしての性的な部分を、自己の手 中で管理し、いかに身体から排除するのかが、人間

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(man)にとっての課題であった。性的なものは、常 に近代パラダイムによって隠蔽されてきたことは、す でにフーコーⅷも述べている。男でもなく女でもない 一つのオブジェとしてのフォルムでなければ、公共の 場に提示できるはずもない。近代パラダイムからすれ ば、プロレスラーの身体は、公的身体であらねばなら ないのだ。  以上のように、プロレスラーの裸体について検討し た結果は次の通りである。 まず、プロレスラーの裸体は、正義に基づく身体であ ること。つぎに、力や強さが強調される身体であるこ と。つぎに、理性によって管理された身体を求めて、 「自然」でなまなましい身体部分から距離を置くよう に「加工」されていること。さらにその理性的管理の 結果、公的身体として観衆の前に披露できる身体にな れること。これらの結果は、プロレスラーの身体が、 正義や正しさ、秩序、強さなど、近代パラダイムにお ける「男性」が担うべき要素を具現化していることを 示している。また、プロレスラーの身体は、わかりや すく視覚的効果を中心に訴えてくるフォルムで提示さ れていることがわかる。以上のことから、プロレス ラーの身体は、近代パラダイムを根拠にした「男性身 体」を表象していると言えるのである。 2.2.ベビーとヒール−善玉 vs. 悪玉の構図  近代パラダイムでは、二項対立の構図が論理構造に 深く根づいていることは知られている。WWEにおけ るベビーとヒールⅸの抗争ストーリーは、この二項対 立構造の最も典型的な形式に乗っ取って展開されてい る。 図2 ヒール(オートン)vs.ベビー(シナ)  図2はWWEのトップレスラーの2人であるが、左 側がヒールのギミックを与えられているランディー・ オートン、右側がベビーのギミックを与えられている ジョン・シナである。ヒールは伏し目がちにこちらを 睨み付け、ベビーは顎を上げてやや微笑みながら自信 たっぷりの表情を見せる。あくまでもギミックとして 与えられた設定であるが、同年代同士の彼らの抗争劇 は、観客にとって非常に分かりやすい。ベビーに声援 を送る観客もいれば、ヒールに歓声を上げる観客もい る。どちらに肩入れして観戦するのかは、ここでもま た観客の「好きか嫌いか」の二項からの選択によって 決定される。このようにプロレスの展開は、レスラー の善玉性か悪玉性かだけがストーリーを作るのではな い。WWEでは、ベビーレスラーやヒールレスラーに向 けられる、観客ひとりひとりの好みとしての好きか嫌 いか、社会的倫理から見た良いか悪いか、など、いく つもの主体が同時に配置されながら、それぞれの主体 がそれぞれの二つの対立軸を作ることで、プロレスが 展開されているのである。  ベビーとヒールは、1人のレスラーに対して固定化 されているわけではない、というところがWWEの特 徴でもある。あるとき突然、それまでベビーだったレ スラーが「裏切り」、一気にヒールへと転換する、と いうストーリーは、むしろWWEの定番ストーリーと言 うべきかもしれない。その逆もしかり、ヒールがある きっかけでベビーへと変貌していく。その変化の様子 は、そのレスラーの身体によって明確に表現される。 観客はその劇的な出来事の“目撃者”としてその場に 立ち会うのである。それまでは、複数の対立する二項 があちこちに飛び回っていたが、ギミックの逆転劇の 場面では、それまで混乱していた複数の二項が、唯 一、入れ替わる二項として集約され、レスラーの身体 で可視化されるのである。 したがって、試合を理解する第一の鍵となるのは、レ スラーの身体である。(ロラン・バルト1957=2005ⅺ 2.3.タイトル制度  WWEは、管轄するタイトルを複数持っている。 WWE王座、US王座、世界ヘビー級王座、インターコ ンチネンタル王座のほか、タグマッチ用の王座や統一 女子王座である。各タイトルにはその保持者の証とし てベルトが用意されている。これら複数のタイトル間 における優劣というものは明文化されているわけでは ないが、権威性の最も高いタイトルはWWE王座であ ることが了解されている。WWEはWorld Wrestling Entertainmentの略であることからわかるように、 WWE自体がすでにworldであることを自称している。 従って、WWE内におけるタイトル王座がWWEにとっ て“真の意味”での世界一ということになる。レス ラーたちは、このタイトルの奪取を最終目標にリング に上がっているのである。

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 これらのタイトル制度の意味するものは、権威的ヒ エラルキー制度の肯定であるといえよう。タイトルが 特にプロレスという意味における権威の象徴であるこ とは、次のエピソードからも伺える。  2000年の前後にロックという大変な人気を博したレ スラーが活躍した。彼は祖父、父に続いて3代目のプ ロレスラーであり、その祖父も父もタイトル獲得経験 者であった。したがって、WWEとしては血統的にも正 当な若きレスラーとして売り出し、結果として彼自身 も何度もタイトルを獲得した。その人気はハリウッド が注目するところとなり、彼は俳優業にもその才能を 発揮するようになる。ある時期、映画の撮影のために 長期間リングから離れた時期があった。そして久々に WWEのリングに帰ってきたとき、観衆は一斉に彼に ブーイングを浴びせたのである。熱狂的なファンたち は、プロレスを片手間に、俳優業にいそしむロックを 許さなかったのである。ロック自身もこのブーイング には愕然としたと言われている。この後のWWEのス トーリーでは、ロックの持っていたタイトルは、売り 出し中の新人レスラーに奪取され、ロックは王座陥落 ということになった。  つまり、WWEのタイトルは、プロレスそれ自体を World Wrestling Entertainmentの世界で権威的に引き 上げる役目を担っており、その結果としてタイトルは 権威性ヒエラルキーの頂点に置かれることになる。  このタイトル奪取によって、レスラーは、当然のこ とながら、非常に魅力のある立場になれるわけであ る。タイトルを奪取すると、そのレスラーには単なる 名誉のほかに莫大なギャンティを獲得することができ る立場になれるわけであるが、逆に言えば、そう簡単 に手に入るものではないことは予想できる。  WWEのタイトル制度が、オリンピック競技などと 大きく異なるのは、単に試合を勝ち進めばタイトルを 掴めるというわけではないからだ。タイトルを獲るた めにはレスリングが強く巧いことは最低条件である がⅻ、観客の視覚に訴える試合運びや人気、レスラーの 個性、WWE経営陣からの興業価値からの評価などの総 合的な結果としてチャンピオンが「創られる」のであ る。したがって、WWEタイトルの獲得は、オリンピッ クの金メダル獲得とは異なる部分でも非常な困難さが あるわけである。  しかし一方で、このタイトル制度は、非常に合理的 な制度であるともいえる。まず、レスラーがなぜ日々 格闘し続けなければならないのか、といったプロレス 存在の根幹問題を可視化させてくれる。次に、たった 一つの王座を頂点に置き、そこから各レスラーたちの WWEにおけるポジショニングを可視化させてくれる。 そしてレスラーからすれば、目指すべき目標が明確に 設定できる、ということである。  以上のように、近代パラダイムとWWEのタイトル 制度を検討すると、WWEのタイトル制度が近代パラ ダイムのある部分のひな形であることがわかる。それ は「創られた権威性」と「合理的な組織形態」に現れ ている。「創られた権威性」とは、「その根拠の説明 は不能だけれど言説化してしまったある種の覇権的な イデオロギー」である。正しいことや、道徳的である こと、理性的であること、男性中心であること、など は、換言すれば根拠のないディスクールに過ぎないこ とがわかる。それと同時に、そのディスクールに向 かって制度と規律をもって社会を構成しようとする動 きが「合理的な組織形態」である。覇権的イデオロ ギーを制度で下支えし、保持していこうという動きで あり、合理的かつ合目的的である。  以上のことから、WWEのタイトル性もまた、近代パ ラダイムの典型的様相だといえるのだ。 3.近代パラダイムのパロディとしてのプロレスラー の身体  これまで、プロレスラーの身体を巡る近代パラダイ ムの象徴的な部分について検討をしてきた。しかし、 この近代パラダイムには、それが過剰に発揮されると むしろ近代パラダイムに抗するものが出現するという 宿命を持っている。この宿命性について、レスラーの 身体を使って検討していく。 3.1.スペクタクルな身体  ロラン・バルトの『現代社会の神話』「プロレスす る世界」の冒頭では「プロレスの美点は、それが過度 なスペクタクルということである。」と記述がある。 バルトも指摘しているように、「プロレスが提示する 身振りは、その意味作用が頂点に至るまで活用され た、過度の身振りである。」とされ、「この誇張の機 能はまさしく古典劇のものと同じである。」と論じら れている。  プロレスラーの身体に現れる過剰な誇張は、かれら の身体に表象される近代パラダイムに対しても向けら れる。この件の具体例として、ストーンコールド・ス ティーヴ・オースチンというレスラーを挙げておく。

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3.1.1.スティーヴ・オースチンの身体  オースチンは、先述のロックと同年代である90年代 後半から00年代前半を中心に人気を博したレスラーで ある。ロックとの抗争劇は当時の大人気カードであっ た。オースチンに与えられたギミックは、彼が気に入 らないものは権威的なものであれ何であれ、すべてを 破壊する、という激しい暴力性であった。彼はたとえ WWEのオーナーⅹⅲに対してであっても、気に入らなけ ればリング上で叩きのめす、というパフォーマンスを 演じ、理性や秩序、権威性といった近代パラダイムの 価値基準の根底を、その身体で破壊するレスラーとし て、観衆から絶賛された。その一つ現れに、後にオー スチンの代名詞となる「Austin 3:16」という彼の発言 があるので、紹介しておく。  ジェイク・ロバーツというスター・レスラーが実生 活で薬物中毒になり、ヨハネ福音書3章16節ⅹⅳの神の 言葉で薬物を断ち切った、という実話がWWEにはあっ た。この後、ロバーツは敬虔なクリスチャン・ギミッ クで再びWWEのリングに復活し、ファンからも喝采を 浴びた。ところがオースチンは、復活したロバーツを 嘲笑し、「ヨハネ福音書3章16節なんて知らないけれ ど」の後に、「Austin 3:16 says, I just whooped your ass!」と叫んだのであった。

図3 ストーンコールド・スティーヴ・オースチン

 この“事件”について小林は次のように論じてい る。

「Austin 3:16 says, I just whooped youⅹⅴ ass!」とス トーンコールド・スティーヴ・オースチンが叫んだと き、彼は西洋世界の構造化をもたらす価値規範を完全 にパロディ化し、その身体には西洋世界の不可視の悦 びが顕在化したのである。(小林2002)  近代パラダイムを支える倫理や道徳観は、言うまで もなくキリスト教をその基底においている。「Austin 3:16」は、絶対的権威である神の言葉から、その権威 性を一気に剥奪してしまう。「Austin 3:16」と叫んだ オースチンの身体は目に見えているが、近代パラダイ ムの外側に存在する「Austin 3:16」は、近代パラダ イムの内側からは決して見ることができない。見えな いものを覗きたくなるのは、バタイユの言うところの 「禁止への侵犯」であり、この欲望もまた近代パラダ イムからすれば排除すべき対象なのである。つまり、 絶対的権威性が過剰に働けば働くほど、オースチンの 身体ではその権威性をパロディ化し、無効にさせてし まう。絶対的権威性をそれ自体の外側へと追いやるの である。  オースチンの身体は、近代パラダイムをパロディ化 させ、その覇権性を失墜させることに成功した。しか し、その後のオースチン自身はどうなったのだろう か。  オースチンの「気に入らないものは全てたたき壊 す」というギミックは、オースチンの生の感情を出す というギミックでもあった。その結果、オースチンは リングの外でもWWE幹部と軋轢を起こし、家庭生活も 崩壊していく。秩序や理性という近代パラダイムの外 へと向かおうとするオースチンの身体は、現実の社会 ではとうぜん受け入れがたい存在として残ってしまっ たのである。  近代パラダイムから可視化される「スペクタクル」 な身体は、近代パラダイムの外に出て行ってしまった とたん、近代パラダイムの排除の対象になってしまう のである。「スペクタクル性」は、記号である。ま た、その記号を乗せた身体と、それを同じパラダイム の内側から読み取ることのできる観客との間に交わさ れる夢であり、エンターテイメントなのである。   3.1.2.記号の総体  バルトは、『現代社会の神話』のなかで、プロレス ラーの身体について次のように述べている。 レスラーの身体は、闘い全体を萌芽状態で含んだ、 基盤となるような記号を制定している。(バルト 1957=2005:13) 床に押さえ込まれると、大げさにマットを叩いて、す べての人々に彼の状況の耐え難い性質を印象づける。 要するに彼が作成するのは、自らの不満をめぐって 延々と作り話を続ける気難し屋といった、面白おかし

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いイメージを、彼が正当に体現しているのだと、観客 に理解させる目的を持った、諸記号の複雑な総体なの である。(バルト1957=2005:13) 観客に届けられるのは、〈苦痛〉、〈敗北〉、〈正 義 〉 の 偉 大 な る ス ペ ク タ ク ル で あ る 。 ( バ ル ト 1957=2005:14)  バルトは、レスラーの過剰な苦悶の表情や身振り手 振りは、儀式的に執り行われる記号であって、観客は 現実のレスラーの苦しみを臨んでいるわけではないと 述べる。「観客は図像学上の完全さを味わっているだ けである。」とも続ける。この議論を裏付ける具体例 として、WWEにおけるプロレス技について触れてお く。  敗北の図像学上として、プロレスの動きの中で特徴 的なのは、「バンプ」と呼ばれるいわゆる「やられ 技」である。相手からの攻撃を受けると、吹っ飛んだ り、転倒したり、時には跳ね上がったりする動きであ る。バンプの効果は、相手の技の強さや大きさを誇張 して観客に見せることができ、ショー・アップにつな がることにある。それと同時に、その衝撃をかわして 身体的ダメージを最小限にすることにもある。最近の WWEのレスラーでバンプの旨さを評価できるのは、 リック・フレアーという80年代を中心に活躍し何度も タイトルを獲得して、2008年に引退をしたベテランの レスラーである。彼は、ギミック上はヒールであるこ とが多かったが、長年、視覚的に訴えるプロレスを目 指し実践してきたレスラーとして、有名である。たと えば彼は、頭からの流血が目立つようにと、髪を金色 に染めているほどである。Nature boyというニック ネームを持つ彼のギミックは、理性をなくして暴れ回 るラフファイトが有名であったが、実際の彼の技は、 基本に忠実で堅実なレスリングに裏付けられていた。 したがって、派手な動きや過剰な動作や、あり得ない ほど前のめりな倒れ方のバンプなどは、後輩が範とす るような身体所作なのである。  フレアーのプロレスキャリアの後半は、彼のバンプ でもってWWEの興業に大いに貢献したと言えるだろ う。観客は、フレアーの苦悶の表情や、リングの中を 転げ回って苦しむ姿などを期待している。フレアーは 敗北や苦しみをスペクタクルな記号としてその身体上 で表現し、観客に提供するのであった。 図4 関節技に苦悶の表情のリック・フレアー    バルトは、プロレスの技の中では「押さえ込み」よりは 「チョップ」の方がよりスペクタクル性が強い形状だと述 べている。しかし、筆者は「押さえ込み」の方がスペクタク ル性が強い、と考えている。バルトの言う「押さえ込み」と は、プロレスで3カウントのフォールを取るまでの過程を指 していると思われるが、実際「押さえ込み」はフォールでは なく、ギブ・アップを狙う技も多く含んでいる。筆者は、この ギブ・アップを狙う「押さえ込み」である関節技や絞め技に こそ、よりスペクタクル性が現れていると提示したい。  具体的には、関節技の「シャープ・シューター」という技 を検討してみよう。 図5 シャープ・シューター  この技は、別名「サソリ固め」などとも呼ばれる。図5に あるように、相手をうつ伏せにし、相手の腰の部分を中心 に固定して、交差させた膝を高く持ち上げながら、相手の 腰に圧力を加える。  このとき、この技を掛けられているレスラーは、身動きが とれず、腰を不自然に反らされることで、激しい苦痛が生 じている。リングのマットに接しているのは、最終的には胸 の辺りだけとなり、顎は上がり、相手と自分の体重が首下 に集中することで呼吸も困難になる。多くの場合、その苦 痛のためギブ・アップを受け入れざるを得なくなる。この技 は、腰と脚の関節を拘束して相手の動きを封じるのである

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が、この技を掛ける側も、相当の力技となる。図6からもわ かるように、この技の図像は、技を掛けられている方は地 面に押し込まれて苦悶の表情をし、掛ける側は観客に強力 ぶりをアピールできる姿勢と表情を保てる形になる。 図6 シャープ・シューターを掛けるブレッド・ハート  関節技は、激しいチョップやキックなどと異なり、苦悶や 痛みの状況が長時間に渡る技である。逆に言えば、観客は バルトの言う「〈苦痛〉、〈敗北〉の大スペクタクル」を、時 間をかけてゆっくりと堪能することが可能となるのだ。日常 ではあり得ないほど屈折した身体は、それだけでスペクタ クルな身体である。日常ではあり得ない身体的苦痛を、長 時間にわたって与え続ける側もまた、「常軌を逸した」スペ クタクルな身体なのである。チョップやキックのような一瞬 の苦痛との比較は、どちらが理性的でないのか、という問 いに結びつく。つまり、どちらが近代パラダイムに抗してい るのか、ということと同義なのである。  ところで、スペクタクルな身体が記号の総体であるなら ば、それは結局、記号理解を前提にした近代パラダイムの 世界内の出来事ということになる。したがって、プロレス ラーの身体が、スペクタクルな身体である時は、プロレス ラーの身体もまた近代パラダイムの世界内にある、というこ とになる。どれほど近代パラダイムに抗するような荒技を展 開しても、それは「〈苦痛〉の記号」として解釈される世界 枠からは逸脱しないのである。 3.2.近代パラダイムから逸脱した身体  スペクタクルな身体である限りにおいて、近代パラダイム の枠内であることは、すでに述べた。つまり、プロレスラー の身体はいつまでも近代パラダイムの枠内に留め置かれる ということである。しかし、そうなのだろうか。その検討に あたり、ここでは、ギミックというプロレス特有の性格設定 について触れておきたい。  WWEのプロレスラーの身体には、少なくとも三重のアイ デンティティが共存していると仮定しておく。まず、最も外 側にあって、外部から可視化されるための「ギミックとして のアイデンティティ」が挙げられる。次に、ギミックを設定 される「プロレスラーとしてのアイデンティティ」が挙げら れる。最期は、そのプロレスラーとしての身体の持ち主であ る、1人の「個人としてのアイデンティティ」である。この三 つのアイデンティティの中で、もっとも近代パラダイムから 逸脱可能なアイデンティティは、ギミックの部分であると考 えられる。ギミックのアイデンティティは、近代パラダイムを 逸脱しても、その身体を保持する個人としてのアイデンティ ティとは一線を画している。したがって、あるプロレスラー の身体が近代パラダイムを逸脱しても、それはギミックの部 分だけであって、同じ身体は他のアイデンティティを呼び出 すことで再び近代パラダイムの内側へ戻って来られる。先 述したオースチンの身体は、個人としてのアイデンティティ がギミックとして採用された不幸によって、ギミックの逸脱 性は個人アイデンティティの逸脱を招き、実社会で不幸な ことになった。このような実例から、実際に同じ身体上で複 数のアイデンティティを切り分けられるのかという問題は 検討されなければならない。しかし、本論においては、一 つの身体に複数のアイデンティティを保持しているだろうプ ロレスラーの身体を検討することで、「身体」は近代パラダ イムの内と外を現実に往復している、という問いを提示して おきたい。 4.まとめと成果  本論は研究ノートして、近代パラダイムと言い換え可能な 「男性身体」という概念を、プロレスラーの身体を題材に 検討していこうとした。そのまとめと成果は次の通りであ る。  まず、プロレスラーの身体は、近代パラダイムの秩序に 乗っ取り、公的な「男性身体」のフォルムを保持しようとし ていることがわかった。換言すれば、プロレスラーの身体は 「男性身体」でなければ、公衆の前に披露することができ ない、というそもそも近代パラダイムの世界内に存在してい る、ということがわかった。  つぎに、一見過剰な出来事や行為から構成されているか に見えるプロレスラーの身体は、スペクタクルな身体になる ことで、より近代パラダイム―つまり「男性身体」で在り続 ける、ということが確認された。  成果としては、まず、プロレスラーの身体が、近代パラダ イムからの逸脱―つまり「男性身体」からの乖離の可能性 を持っているか、という問いを立てたこと。つぎに、その応 答は、プロレスラーの身体における複数のアイデンティティ への検討からのアプローチ可能なのではないか、という仮 説の設定である。

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 本論は研究ノートの位置づけであるため、箇所箇所に 議論の余地をふんだんに残している。たとえば、キーワー ドに対する概念説明の不足や省略、饒舌な部分とそうでな い部分が混在するなど、課題を抱えている。とはいえ、これ まで研究対象として注目が希薄だった「男性身体」を取り 扱い、その方法としてプロレスという題材を用いるという本 論は、新たな学問領域の創出に対しても貢献できる視点を もっているものと考える。今後も引き続き、関係資料を精査 し研究を深めていくつもりである。 以上 ⅰ  川野佐江子、2009『消費社会の中の「男性身体」~ 交錯する「男らしさ」と〈マスキュリニティ〉の行 方』、立教大学学位申請論文 ⅱ ソースティン・ヴェブレン、1998『有閑階級の理 論』(高哲男訳)ちくま学芸文庫 ⅲ  ゲオルク・ジンメル、1999『ジンメル・コレクショ ン』(北川東子・鈴木直訳)ちくま学芸文庫 ⅳ  ジョージ.L. モッセ、2005『男のイメージ 男性 性の創造と近代社会』(細谷実・小玉亮子・海妻径 子訳)作品社 ⅴ  小林正幸、2002「プロレス社会学への招待 イデオ ロギーとテクスチュア」『現代思想 2月臨時増刊  総特集プロレス』青土社 ⅵ  2 0 0 1 年 以 前 は W W F ( W o r l d W r e s t l i n g F e d e r a t i o n ) ま た は W W W F ( W o r l d W i d e Wrestling Federation)という名称であったが、 まったく同じ略称のWorld Wide Fund For Nature (世界自然保護基金)に名称の改変を求める訴訟を 起こされて敗訴、2002年WWEと改称した。 ⅶ  バーナード・ルドフスキー、1979『みっともない人 体(からだ)』(加藤秀俊・多田道太郎共訳)鹿島 出版会 ⅷ  ミシェル・フーコー、1986-1987『性の歴史Ⅰ・ Ⅱ・Ⅲ』(渡邊守章訳)新潮社 ⅸ  ベビーはベビーフェイスを指し、善玉を意味する。 これに対し、ヒールは悪玉という設定である。 ⅹ  「アメリカでは、プロレスが〈善〉と〈悪〉の間に おける一種の神話的な闘争であることは、すでに 指摘されてきた。」ロラン・バルト、1957=2005、 「プロレスする世界」『現代社会の神話』(下澤和 義訳)みすず書房 ⅺ  ロラン・バルト、1957=2005、「プロレスする世 界」『現代社会の神話』(下澤和義訳)みすず書房 ⅻ  過去のストーリーでは、レスラーでない人物が、そ の奸策をもってチャンピオンベルトを獲得した、と いう展開も行われたこともある。当然のことなが ら、プロレスの権威性が失墜する自体であり、この チャンピオンはヒール中のヒールとしてストーリー は展開された。 ⅹⅲ  WWEのオーナーであるビンス・マクマホン氏は、 悪徳オーナーというギミックで、しばしばストー リー展開に参加する。 ⅹⅳ  聖書でもっとも有名な言葉とされている。日本 語:「神は、実に、そのひとり子をお与えになっ たほどに、世を愛された。それは御子を信じる者 が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのち を持つためである」英語:"For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life."

ⅹⅴ  原文ママ 【参考文献】 マイケル・R・ホール、1993『プロレス社会学』(江 夏健一監訳、山田奈緒子訳)同文館 香山リカ、1996『テクノスタルジア』青土社 小田亮、亀井好恵編、2005『プロレスファンという装 置』青弓社 斎藤文彦、2008『みんなのプロレス』ミシマ社 スコット・M・ビークマン、2008『リングサイド』 (鳥見真生訳)早川書房

参照

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