更にこ の 目的 は 、 教育にの み 止 め る こ となく 、 これが社会 的 生 活 の 福祉と繁栄に寄与ナ ペきことを主張するのである。 かくの如き教育 目的 実現の為に 、 タ ゴ ー ルはいくつかの方法論 を 掲げ る 内 に 、先ず教 育の場所 、 つ まり環境を第 一 に 強 調 し 、 こ の 環境の内 、 最も重要な要素を雰囲気である と する。宗教的 雰 囲 気 は 、無限 なるものへの信仰をかりたて、 そ の姿を感ぜしめるも のであるというのである。 そ して彼は 、 天 地自然 の巾にその場を 求め、教室という牢獄の如 き ものから教育 を 解放せんと寸 る 。 そ こ で は、﹁目に見えない悩れの雰聞気 に よ っ て ﹂ 、無限 なるもの との親密な交感を得られるからである。そういう環境に於ける教 師 と生徒の 結びつきは 、 生命と愛をきず なと した調和にあり 、 生 活の愛を通して共に学ぶものとなる べ き で あ る と す る 。 知識も 生 活の愛 を 通して集められなければならない こ と 、特 に生きる宗教 は、教えの課業の形では一段与される べ き で も な く 、 又決った時間 に授けられる様な断片 的 なものでなく 、 生活の絶え間ない実現の 段階を繰り返して得られていく様な努力 が自然 に為さる べ き こ と を教育の方法とするのである。 更に又、タゴ ー ルは理想的教師像を 述べる 中 、 ﹁ 職 業 と し て で はなく、生活の 一 部とし て生徒の学課の手助けをする﹂教 師 を 摘 さ 、教師 の 教育活動は それ自 身 宗教 的 生活であるべきことを強調 す る の で あ る 。 即 ち 、 教師の魂の成長に伴って生徒の魂 を成長せ し める様な 、人間 愛と真理愛に 満 ちた教師 こ そ 彼の教育に求め ら れ る も の で あ る 。 あ る 。 以上 タ ゴ ールの教育は 、 宗教の 世界を志向し 、 教育すること は 宗教するこ とであ り 、 人問先成 の 宗 教国念 を教育に 一 致 せ し め て い る 。 タ ゴ ー ル に 於 け る 教育は 、 宗教の生 き た 姿なので つ ま り 、 あ る 。 z;士二? アIて
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﹁宗教と教育﹂の問題に つ い て 私は以前に あ る 新聞 に 書 い たこと は あ る が 、 実 の ところ全くの門外漢 で あ る 。 そこで 関係文献を探(
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したとこ ろ 、 戦前戦後を通じ て そ の 研究書 の地富さに 今 さ 、 り な が ら持嘆し た 次 第 。 机上 の域におい て はもはやす べ て 論じ尽され て い る と 言 っ て も過言では あるま い 。 4→
考祭 の 分 野 宗教と教育という 問 題 に つ い て 考 え る べ き 範囲 に つ い て 凡 そ の 見当を つけてみると 、 ①﹁宗教と教育との関係 ﹂。宗教 という社 会現象と教育という社会科学の 一 分野とはいかな る 相 互 関係 に お い て併存し て い る か 、 つまり宗教と 科 学 、 宗教と道徳 、 宗教と政 治との関係が論ぜられるよう に 、 宗 教と教育との関係 の 仕 方に つ い て も考 えてみること が 、 こ の命題解決の先決問題 であ る 。②﹁宗教々育﹂。教育の中には歴史教育 、 語学教育 、 数学教育等 種々の単元がある。その単元の一つに宗教々育を加えて 、 宗教々 育の場所 、 機会あるいは方法について具体的に考えてみねばなら ぬ 。 と こ ろ が 一 口 にのい広てめ極は図範そ宗もてっいと育々教。、 そ の 広 さ を 適 当 に 整理すると凡そ次の如し。 民 衆 僧 aヨヨコて 教コ円to; -者 教育侶 教 教 コ円to;- 育々 々未
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} 親 両 教育 等 で が 、 以上のうち 、 こ﹀では学校教育の面について考えてみよう︵特 に 義 務 教 育 ︶∞
学校教育に関する法規 一 般に戦後の日本人は第 二 次世界大戦時の神道教育に こ り て 、 学校は宗教々育宏しではならぬと自戒し、あるいは誤解している ようであるが、新憲法第二十条、教育基本法第九条によれば 、 官公 立学校は﹁特定の宗教のための宗教々育﹂を施してはならぬが 、 宗教々育そのものは寧了奨励している。 では特定の宗教にかたよらぬ宗教々育とは何か。これは昭和二 十一年八月十八日の衆院本会議における文部大臣田中耕太郎の演 説に明かで 、 氏はこれを﹁宗教的情操教育﹂と表現し 、 智育に対す る徳育という重要な任務を負うべきものと規定した。また昭和二 十 三 年七月に教育 刷 新委員会が時の総理大臣に提出した建議案で は ﹁ 宗教心に基く敬度な情操の洞養は平和的 ・ 文 化 的な民主国家 の建設に欠くことのできない精神的碁礎の一つであ り 、 ことに人 間性の重要な一面たる宗教的欲求を正しく啓培することは教育本 来の使命にも添うことになる﹂と宗教々育の重要性を強調した。 つ まり 一 宗一派に備しない宗教々育とは宗教的情操教育の意味 であり 、 また人間性の重要な一面たる宗教的欲求 、 すなわち人間 である以上はだれでもが持っているはずの宗教的本能 、 そ れ は 一 条一派に偏向する以前のものであるから 、 これを啓発し培養して ゆこうという訳である。 しかし人 間 本来の宗教的欲求とは一体どんなものか 、 この矧が 明確に把握されぬ限り 、 いかに宗教的情操の洞養の必要性が叫ば れようとも所詮は空理主論にす 、 きぬ。けだし日本の場合 、 宗教的 情操とはかくの如きものだ と 明示することは悶離である。たとえ ば欧米のごとくキリスト教 一 本 で 統 一 さ れ て い る な ら 、 ま だ 宗教 的情操とは何かに答えることは可能である。しかし日本の場合は 神道あるキリスト教あの新興宗教ありで、実々種々一雑多なものが 混在している。 ゆえに 、 ある宗教々育反対論者は﹁ 一 宗 一 派に偏 し ない宗教的 情操の油養は 、 いうべくして行ないえない。校庭に樹木は植えて もよいが、情とか杓とか桜とかの具体的 な 木 を 植えてはならぬとc
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いうのと同じ で あ る ﹂ と い う 。 一 応 も っ と も な 議論であ る 。 こ︾に至って、われわれはハタとゆきづまら ざ る を 得 な い 。 宗 教専門家ですら宗教的情操とは何かに対して明快な指示を与えら れる人はまれであるのに 、 まして学校の現場の先生に宗教的情操 と は何 か に つ い て 確固 た る 信 念をもって当る人は稀有 で あ ろ う 。 し た がって 生徒を導 く にも導きょう が な い と い う も の で あ る 。 そ こ で 、 こ の 宗教的情操教育に つ い て 、 私 は だ い た い 三 つの答えを 用 意 し た 。 日 宗教的情操教育 ①宗教々育に 利用 できる単元。角度合か えてそ れでは 一 京 一 派 の 宗教と教材として宗教的真理を教えることの で きる機会はない か という方向に目を転ずれば 、 この問題は簡単に処理できる。この 角度から言えば宗教的情操を全身にみなぎらせた人に各宗の祖師 がある。これにふれる学科に歴史がある。また寺院教会 の 見学は 社会科でやれる。等々 、 宗教的情操を養う機会は多すぎ る 程現存 の教育の場にころがっている。しかし、これらの機会を通し て 宗 教的情操を生徒に与えるためには 、 現場の学科担当の教員がいか に宗教を把握しているかということにかかってくる。ゆえに 宗 教 家は現場の教員と啓発すべく留意することが緊密である 。 ① 純粋宗教の立場 で・:。次 に既成 の教団の教義は一宗一派に偏 し て い る が 、 それら教団の祖師の宗教まで遡ればそこに純粋宗教 的要案を見出すことが必ず出来る 。その純粋宗教を宗教 情操教 育 に盛りこ め ば よいのでは な い か と いうこと で あ る 。 但し そ の 純粋 宗教なるも の を 祖師のどこで掴むか。たとえばわれわ れ は日蓮教 団 に所属してい る が 、 祖師日蓮ま で 遡 っ て そ こ に見出 す べ き純粋 宗教とは何かということ を 考 えると 、 これもま た 問題かと思 う 。 そこで私は次のような 提言 を し た い 。 ﹁ 日 蓮 聖 人 は こ う い わ れ た﹂﹁ 日 蓮 宗 で は こう い う ﹂ ﹁法 華経 に はこうあ る ﹂ ﹁ 仏陀はこう教 えら れ た ﹂ と い っ た の で は 一 宗 一 派 に偏す る こ と に な る から 、仏 陀 の 教 え だけ 、 法 華 経 の 精神だけ 、 日蓮聖人の精神 だ けを与え て 、 誰の教 え であるか を言わな けれ ば 、 それ は 一 宗 一派に偏 し な い 宗 教精神と し て 通 用 するのではな い か 。 こ の 際は南無妙法蓮華経 を 唱えよとい うこと も 言 え な い 。 人 は そ の よ う な 布教 は 日 蓮聖 人 の 宗 教の広 宣 流布 に は な ら な い で はないかとい う かも知れ な い 。 しかし現代 と い う 場 に は 一教団 の 利 害関係も 全 く離れた、純粋 宗 教 を 要求す る む き も あることを 我々は認識す る 必要があ るのではな か ろ う か 。 そ し て 日蓮聖人の 名を弘め なくと も 、 日蓮聖人 の 法 を 弘めれば 、 日 蓮聖 人も必 ず や 喜ばれるの で は な か ろ う か 。 ①私立学校の 宗 教 々 育 ︵ 略 ︶
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制 結語 宗 教々育 の 重要 さ に醒めよ ①我々宗教家は た とえ自坊の発展 、 日蓮宗の教団 の発展 に直 接 関 係なくとも、積極的に日本人 全 体 の 宗 教心の向上 に 骨 折 る こ と を 惜しんではならない。①伝立学校は 自 己の持つ責任の重大 さ に 醒めて 、 り宗教々育に貢献せねばならない。 事情の許すかぎ