初期庄園と村里万祢とのかかわりについて
ー八世紀中・後期の播磨国赤穂を中心にー
は
じ
め
に
関連史料の整理と問題の所在
八世紀中期以後九世紀にかけて王臣家・寺社・諸司による大小規模の 占点地(初期庄園)の設定が進行していく。八世紀中期がその一つのピー クであり、造東大寺司による北陸・畿内・中四国などで行われた大規模 な庄園設定はその一環である。ただ、その多くは設定後まもなくその経 営が行き詰まっている。天平勝宝八年(七五六)に同時に立券されてい る阿波国新島庄と因幡国高庭庄の場合、いづれも大河川下流域の低湿地 上に複数の圧地を設定しているのであるが、両庄とも比較的短期間の間 に経営が行き詰まっているのはその一例である。 従来の研究史において、八世紀中期時点に設定された庄園の経営の比 較的短期間でのゆきずまりの理由ないし背景についての掘り下げが十分 行われているとはいいがたい。みておく必要のあることの一つは庄園が 設定されている場で展開している生産活動と庄園経営とのかかわりにつ いてである。上か・りする占点地設定とその内部の開発の進行はその場で 展開している生産活動に何らかの影響を及ぼすことは確実であり、その 影響が否定的なものであった場合は両者の対立の激化とそれに伴う庄経丸
営のゆきずまりが生ずることは当然考え得る。さらに八世紀末、山背盆 地への選都に伴い、王臣家らの占点地設定が平野の世界を越えて山野河 海の世界に拡大していく。占点地設定の八世紀中期につぐ大きなピ を迎える。律令国家は山野河海上で展開している占点地規制に本格的に 乗り出すのであるが、規制に際して重視されたのが設定された占点地が 当該地で行われている民業に否定的な影響を与えていないかどうかであ り、ここでも占点地設定とその場での生産活動とのかかわりが焦点に な っ て い る 。 本稿では八世紀中期から後期にかけて姿をあらわしている播磨国赤穂 郡の海沿いの地(山野河海の地)に所在する東大寺と大伴氏の塩山を取 り上げ、在地の生産活動と王臣家らの占点地設定との関わりを見ていく。 この塩山にかかわる関係文書として、平安遺文には次の三通が収められ て い る 。 A 延暦二一年(七九三)二月二九日 播磨国符案 東大寺牒案 B 欠 年 C 播磨国坂越・神戸両郷解 延暦二一年四月一七日 これと関連して、仁平三年(一一五一二)七月二日播磨国東大寺領荘々文書目録に *4 、八
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九世紀の赤穂所在の東大寺の塩山関係文書が赤穂 庄券関係文書として次のように整理されている。 ( 史 料 一 ) 一、赤穂庄公験 二枚 貞観十七年塩浜預僧庄解 周年預僧口解 イ 二枚 ロ 枚 同五年塩浜治田山四至郡解 /'¥ 二枚 在仁平元年国符四至注文 周年四至内損伐禁断寺牒国符 此外承和以後文書四通、加絵図 延暦十二年塩山解 二枚 請文 ホ この目録のうちイ・ロ・ハについては現在では原文書ないしその写し は失われているが、ニ・ホと上掲の A 1 C との対応に注意したい。まず 目録のニについて﹁塩山解﹂とあり上掲の C に対応すると考えられるが、 こ のC
については平安遺文では末尾が扉風はりつけのため読めないと なっており、不完全なまま利用されてきていた。一九七 0 年 代 に な り 、 勝浦令子氏が東大寺文書影写本ゴ了六に延暦一二年五月一四日づけの国 判をふくむ断簡があり、それが平安遺文所収解状に接続するものである ことを指摘した *50 この発見によりこの解状の完全な形とその末尾に 付された国・郡判の存在が明確になり、仁平目録のニは次の二通の文書 として完全に復元されることになる。 ①、延暦二一年四月一七日 播磨国坂越郷万祢解状および赤穂郡判 播磨国判 ②、同年五月一四日 次に目録ホについて、この原文書が平安遺文所収の A とB
てよく、次の二通により構成されていることになる。 ③、延暦二一年二月二九日 ④、欠年 播磨国符 東大寺寺牒 つまり延暦年間の塩山にかかわる文書は仁平の時点で二巻計四通に整 理された形で現存することが確認されるのである。そのことをふまえ、 四通のうち①・②文書をとりあげ、大伴氏および造東大寺司の塩山のお かれている場の状況についてみておきたい。勝浦氏の復元によると全文 は次のようである(勝浦氏の復元の一部を小口氏が補訂している部分は そ れ に 従 っ た ) 。 ( 史 料 二 ) 赤 穂 郡 坂 越 郷 神 戸 両 : ・ : ・ 解 申口所勘問東大寺塩山事 部 下 大 墾 生 内 ・ ・ ・ 東 大 寺 山 右件山者、自天平勝宝五歳迄七歳、所謂故守大伴宿禰之点山井葦原墾田 所云、預当郡人秦大短之目代也、所作塩堤、而不得彼堤堅、無所治事大 矩等退却、而白勝宝八歳輿少墾生自中尾立堺柱、寺家山数三十余町許大 墾生山云、仰宛山守使令治守林、経序年、然自八歳以来、不預:・宿禰家 使、而以去延暦七歳七月一日、専前少援大伴宿禰山到来、更改大串尾立 堺柱、因蕊寺家主所林木悉伐損、少操家等、而今寺僧等来、当土人夫追 召堺勘問、何細子先後行事証申、件山者、・:当郷比郡比国之人夫等知寺 山、随山使等口状、様給塩焼奉地子事実申、仰注具状、以解、 延暦十二年四月十七日 坂越郷万祢外従八位下川内入鹿若湯座倉足長美口口 川内夫凡君 神戸里神人広永 他国祖足 神人口代 神人乙君 六人部稲人 里 長 他田真作 坂越郷収納口口口 津長若鳥里足 勘郡司 擬大領外従八位上秦造 擬少領無位秦造雄鯖 擬主帳正八位上播磨直 初期rt園と村里刀祢とのかかわりについて(丸lif) 国依解状判許如件 延暦十二年五月十四日 従六位上行少目爪工造三仲 正六位上行大援紀朝臣長田万 従五位上行介阿保朝巨人上 ①文書前半部分の解状について、署名部分に坂越郷万祢と神戸里万祢 とがあらわれている。従来この解状は﹁坂越・神戸両郷解状﹂と呼ばれ てきたが、この両者の関係について、﹃赤穂市史﹄は神戸里を坂越郷内 の一集落と見る考え方と隣接する揖保郡の神戸郷の南端が旧赤穂郡堺に 及んでいると推測されることから神戸里はそれにかかわる存在と見る考 + A T a u え方との二つをあげており、両者の関係をどのようにみるのかにつ いての明確な答えは出ていない。しかし署名している一一名の万祢につ いて、署名順に整理すると次のようになる。 イ、坂越郷の万祢として三名が連署。 ロ、神戸里と記した上で里長を含め六名の神戸里関係者が連署。 ハ、坂越郷収納使として一名が署名。 ニ、津長として一名が署名。 イとハに坂越郷の名前があらわれており、その中間のロに神戸里の名 前があらわれている。両者を地理的に併存する存在と見る考え方にたつ と、この署名順は不自然である。その考えに立つならば、坂越郷関係万 祢と神戸里関係刀祢とはそれぞれまとめて署名がなされているはずであ り、そのことからいって神戸里を坂越郷を構成する単位の一?とみた方 が妥当である。 関連して解状の冒頭が﹁赤穂郡坂越郷神戸両[ ・:﹂となっているが、この解状の写真版によると、﹁両﹂の下に三 四字ほどの欠字があり、その最初の文字は残画があるが、 性 が 高 い 。 つまり﹁坂越郷神戸両里:・﹂となるものと考えられる。両里 とあることについては、署名部分に神戸里が複数(たとえば東西あるい は上下)から構成されていたという痕跡がなく、今後の検討をまつが、 少なくともこの解状の名前を坂越・神戸両郷解状とするのは不適切であ り、坂越郷全体の万祢と坂越郷を構成する単位の一つである神戸里の万 祢の両者が解状を提出しているという点で、﹁坂越郷万祢解状案﹂にす べきものとしておきたい。 その神戸里の位置についてであるが、﹃赤穂市史﹄によると郷土史家 の佐方渚果が﹁神部﹂という地名がかつて千種川右岸で国鉄赤穂駅西側 すなわち現在の野中地区に存したことを指摘していたという。大伴氏お
よび造東大寺司の塩山が所在する﹁大墾生山﹂は現在のハブ山であるこ とはすでに指摘されているところであるが、野中地区は塩屋・加里屋(後 の赤穂城下町)などとともにハブ山の麓にあってそれをとりまく形で連 申 品 T00 なっている集落の一つである。このことと、上記の解状で署名者の 半数以上が神戸里の万祢であることとをふまえると、渚-果の指摘通り古 代の神戸里はハブ山とその山麓の諸集落が所在する場を含んで広がって いたのであり、﹁神部﹂地名はその遺称とみるべきであろう。 和名抄では赤穂郡は八郷から成り立っている。そのうち七郷までは何 らかの形で山陽道にかかわって設定されているのにたいして、坂越郷の みは郡の南部、山々で北部の諸郷からは隔絶された山が直ちに海に迫る *9 瀬戸内海に面して所在している。この坂越郷の広がりについて﹃大 日本地理志料﹄は揖保郡那波より赤穂市塩屋にいたる旧赤穂郡の海岸一 帯に比定している*叩 o この比定地の状況をみると、近世以降塩田が展 関する千種川河口付近(現赤穂市街)は古代においては大きく湾入して おり大津川も流れ込んでいたが、その奥まった部分に大津が位置してお り、ハブ山はその背後の山である。この千種川河口から東に山を越えた 部分が坂越湾であり、坂越浦が位置している。さらにここから山を東に 越えたところに相生湾が深く湾入しており、那波を始めとしていくつか の津が位置していた*日 o つまり複雑に入り組んだ海岸線の各所、人間 の居住が可能な場にいくつかの浦集落が点在しており、それら浦集落を 構成要素として坂越郷が成り立っているのであるが、神戸里はおそらく、 大津を中心に所在していたのであろう。そして万祢についても神戸里な ど小単位の万祢と郷全体の万祢とがそれぞれ存在し、合わせて坂越郷刀 祢集団を構成していたのである。律令国家地方行政機構としての郷里制 は八世紀中期には廃止されている D この神戸里が郷里制の里とどのよう な関係にあるのかは不明であるが、郷のもとの小単位にも万祢がいたこ とに注意しておきたい。 解状は三つの部分にわかれており、要旨次のことが述べられている。 第一の部分で天平勝宝五年(七五三)から三年間大伴氏が海の世界とも いうべき赤穂の地に進出してきて秦大矩を代理にして大規模な塩堤を築 こうとしたが失敗し、その後天平勝宝八年に造東大寺司が塩山を設定し、 以後山(守)使のもとで造東大寺司(東大寺)の塩山として三 上存続しているという、この地における塩山の変遷の歴史をのべている。 第二の部分で延暦七年になって大伴氏がこの地への再進出を試み、塩山 の木を切るなどして東大寺との聞に紛争がおき、そのなかで大伴氏や東 大寺の使者が頻繁に現地にきて勘問を・つけるという現時点の両王臣家・ 寺社のせめぎあいとそれへの在地のかかわりについてのべている。そし て第三の部分で大墾生山に位置する東大寺の塩山について、山守使のも とで当郷比国比郡の人夫がそれを寺山であることを承知した上で塩を焼 いて地子をだしているということが確認できる旨をのべている。 この解状は初期の万祢にかかわる重要な史料として研究史上で重視さ れてきたことは周知の通りである*問。ここで注目したいのは、第一に 七五 0 年代から九 0 年代に至る数十年間という比較的長期にわたって造 東大寺司および大伴氏の塩山の動向を明確にしていること、第二に解状 が紛争の対象となっている塩山の所在する神戸里の刀祢が中心になり、 それに上部の坂越郷の刀祢も加わって作成されているが、王臣家らの塩 山のあり方が万祢の言葉を通して在地の立場から具体的に語られている 点で希有な史料になっていることである。そのことをふまえて本稿では
次の諸点について検討してみたい。 まず第一に解状の第一と第二函部分にかかわって、大伴氏や造東大寺 司が始めてこの地に進出してきて占点を行う七五 0 年代について、この 時期における双方の塩山の設定や経営がどのようになされたのか、また 村里刀祢は王臣家・寺社の動きとどのようにかかわるのかについてみて いく。第二に解状の第二の部分と第三面部分とにかかわって、七八 0 ・ 九 0 年代について、この時期における全国的な山野河海上での王臣家・ 寺社・諸司の大規模な占点地設定の展開とそれへの律令国家の規制の展 開のあり方について見た上で、赤穂における大伴氏と東大寺との紛争の とその解決方のあり方について、王臣家らの土地占点の展開への国家規 制の強化の一環という観点からみていきたい。第三に延暦時点の占点地 規制における、村里万祢の証言及びそれへの郡司証判のもつ意味につい て、当時の律令国家の占点地規制の基本方針との関連で考えてみたい。 初期庄園と村里刀祢とのかかわりについて(丸山) これらの諸点を分析することで、八世紀中・後期の段階に、とくに山 野河海上で展開する王臣家・寺社・諸司の占点地(初期庄園)とその置 かれた地域とのかかわりの一端が浮かび上がってくるものと考える*10
第一章
七
五
0
年代の赤穂
ー大伴氏および造東大寺司の塩山の設定と経営ー
本章では七五 0 年代において、大伴氏と造東大寺司が塩山をどのよう に設定し、どのような方向での経営を志向し、またその際村里万祢が塩 山の開発・経営にどのようにかかわっていたのかを上掲の刀祢解状の第 一の部分を主たる素材にみていく。 赤穂をふくめた播磨国は八世紀中・後期の時点では塩浜ー塩田採献法 を取り入れた新興の塩生産地になっている*Ho広山尭道氏は大伴氏が 作ろうとした堤を揚浜系汲潮浜を造成するための﹁土留め堤﹂と推定し、 比較的幼稚な技術でも造成可能であるが、それができないということは 八世紀中期時点では採献砂浜にはほとんど人工が加えられていない入会 的性格の強い自然のままの海浜であったろうことを指摘している*10 すなわち大伴氏は入会的に利用されていた浜の一角を囲い込む形で人工 塩浜を作ろうとしたのであろう*目。大伴氏のこの開発を在地で支える ものとして登場している秦氏は新島圧における粟凡直氏や高庭圧におけ る国造勝磐と同じく赤穂郡の郡司級の豪族である。これは同時点の因幡 国高庭庄や阿波国新島庄など平野の世界の周辺部に設定された庄園にみ られる、中央からの高度な技術を導入した内部開発を在地の豪族層を動 員して行うということと同じことを大伴氏が志向しているとみてよい が*1、結局天平勝宝五(七五三)年から三年間という短期間でその企 てはゆきづまっている。 王臣家・寺社の動きを在地側からみている上記解状では、この大伴氏 の塩堤作りについて堤を﹁堅﹂くすることができないままに、すなわち 堤による水のコントロールに失敗して﹁退却﹂したと記している。失敗 の時点から数十年経過した後のものであるにもかかわらずその記述は 生々しい。また﹁退却﹂という言葉を用いていることからみて、万祢は 大伴氏の行動について失敗が当然という、批判的な立場に立っていると みてよい。これは大伴氏の進出がそこで行われていた従来の在地製塩の サイクルを無視し、それに否定的な影響を与えるものであったこと、そ れゆえに大伴氏の占点にたいして在地の側からの抵抗ないし非協力という事態が起こっていたことをしめすものである。わずか数年間のことで あったが大規模開発工事の強引な推進とその失敗という事.実はそれへの 抵抗ということとともに、坂越郷の人々に長く語り伝えられていたので あり、そのことが数十年後の万祢解状での具体的かつ詳細な記述という ﹂とになってあらわれているのである。 この大伴氏のあとを引き継ぐ形で天平勝宝八年に造東大寺司が塩山を 設定する。解状によると造東大寺司は山に堺柱を立てて三 O 町余を寺家 の山として確定しそこに山守使を置き﹁林﹂を治守しているとあり、比 較的安定した経営がなされている状況がうかがえる。以下この塩山経営 のあり方について、同じ造東大寺司の近江国勢多庄のあり方と対比しな がら検討していきたい。 天平宝字五年(七六一)末から六年夏にかけて、石山院の増改築工事 がおこなわれた。この造営には材木や檎皮を山で採取し石山院まで運搬 しかっ石山院の建築や檎皮葺を行った木工・櫓皮葺工、さらに残材を奈 良まで筏に組んで運んだ梓工など多様な集団が﹁様﹂ないし﹁雇﹂とい う形で組織され活動している。このうち様は一定の作業を集団が請負い その作業に要する功銭あるいは食料は集団の﹁長﹂に一括して支払われ る請負の方式を、雇は単独での雇用をそれぞれ指すのであり、とくに様 の方式は在地の労働力を寺社などに雇用する場合に用いられる一般的方 式として注目され多くの分析がなされている*10 様方式で組織されている集団としては檎皮葺を請負っている羽栗巨大 山、倉古万目(大伴虫万日)、力部広万呂の集団などが知られているが、 浅香氏によると、このうちの羽栗巨大山を長とする集団は大石柚での槍 皮採取の活動を行なうとともに石山院における檎皮葺の作業に従事して いる*問。大石柚は田上盆地背後の山間部、大石(旧栗太郡大石村)を 指しているが、この地は近江・山城・大和・伊賀四国国境地帯に広がる 山の世界の一角に位置する。そして大山は四国国境地帯山間部の一角で ある太神山から発した天神川が田上盆地に流れ込む地に近く位置する田 上郷羽栗に本買をもっ上層農民である*加。すなわち大山は平野の世界 と山の世界とをつなぐ山口の地ともいうべき地を足場に大石柚など山の 世界に進出して活動を行うとともに石山院の建築現場など平野の世界で 檎皮葺作業を行っている存在である。 次に倉古万目を中心とした様工集団について次の史料をみたい*20 ( 史 料 三 ) 謹 解 申櫓皮葺工等食功請 二 十 七 人 鐘 棲 檎 皮 葺 料 メh、 仁ヨ - ・ ・ 略 ・ ・ ・ 右、二人同心給申、津国手島郡上秦郷戸主倉真万日戸口古万呂 山背乙容郡小野郷戸主島部広嶋戸口足嶋 天平宝字六年六月二十一日 村万祢大伴虫万目 この史料は上掲の坂越郷万祢解状と並んで初期の万祢にかかわる史料 の一つであり、村万祢大伴虫麻目が浮浪出自の檎皮葺工に代って造石山 * ヮ “ 院所とのあいだに請負契約を結んでいるものである20請負契約は大 伴虫万目が行っているが、契約の結果として支払われる功銭・食料・材 料は倉古万呂が受け取っており、四人ほどの人員で檎皮葺の作業を行っ
ている*20古万呂については、他の八人の仲間とともに月借銭を返さ ずに逃亡しているとして造東大寺司の下級官人である国麻自にその行方 を追及されている*加。鬼頭清明氏は天平宝字元(七五七
)i
六年に平 城京で大規模な改作がなされており、このような造営事業の盛行は一般 公民への苦役をもたらし律令体制の基盤のほりくずしにもつらなるが、 労働力と物資が平城京に集中され経済的活気をももた、りしたことを指摘 し て い る * お o 造東大寺司もこの時点大規模な造営活動をおこなってお り、特殊技能をもち本貫を離れてその技能を必要とする場で働く技術者 を多く抱えていたと考えられる。古万呂の借銭の踏み倒しの背景は不明 であるが、問題を起こした後に石山に姿をあらわしているのは、このよ うな技術をもった集団の造営現場を求めての浮浪とみてよいであろう。 初期庄園と村里万祢とのかかわりについて(丸山) 古万邑らの集団は本貫を離れて各地の建築現場をわたり歩いている櫓皮 葺に関する専門的な技術者集団とみてよいのである。さらに様檎皮葺工 以外についても、西山良平氏は田打ち・田植えという重要な農業労働が 連続する正月中旬から四月にかけて田上山作所で伐木に従事する様木工 集団の存在を指摘し、この集団は柚周辺に存在し伐木を主たる生業とす る柚人集団であるとするが、このような集団がその他にも多く存在して い る の で あ る * 加 。 このようにさまざまな技術をもちさまざまな出自をもっ多様な技術者 集団が石山院造営へ参加しているのであるが、そこでみておきたいのは これら諸集団と勢多津に位置する勢多庄とのかかわりについてである。 勢多津は琵琶湖周辺と都を結ぶ水上交通ル!ト上の要津であるニと、ま た勢多津に架けられた勢多橋の陸上交通路上での重要性については指摘 * 汀 されてきているところである20それとともにこの津は田上盆地背後 の四国国境地帯の山の世界あるいは広くは琵琶湖周辺の山の世界と平野 の世界との接点としての役割を果たしている津でもある。羽栗巨大山の 集団の場合、石山院での檎皮葺作業が終わった後も大石柚で檎皮採取を 行っていたように山の世界における檎皮採取は持続的に行っているし、 平野の世界における活動も石山院造営に限定されるのではなく、国街・ 郡街・社寺などの建築現場での活動を考えてよいであろう。そして大山 の集団にとってこのような二つの世界にまたがる活動を展開する拠点と なっているのが勢多津であり、また他国から流入してきている古麻呂も 交通の要衝の地としてのこの津を拠点に活動している存在とみてよい。 勢多津に位置する勢多庄は石山院造営に際して必要な諸物資の交易・ 蓄積の機能を果たしていたが*却、この庄の庄領が必要物資の供給地に なっている田上山作所・甲賀山作所・大石山などの山作所に﹁領﹂(な いし将領)として派遣されているケースがしばしばみられる。たとえば、 橘守金弓は天平宝字六年(七六一)二月二九日造石山寺食物用帳に﹁庄 領猪名部枚虫、橘守金弓、下充如件﹂とあるように*2、勢多庄庄領と してあらわれるとともに、周年二月五日甲賀山作物雑工散役帳に*3、 甲賀山作所の﹁領﹂としてあらわれ主として山から石山寺までの材木輸 送の責任者として残材輸送を含めて活動している*出。このように石山 院造営に必要物資を確保すべく広く活動を行う勢多庄庄領のもとに上記 にしめしたような多様な技術者集団が様・雇の方式で組織され活動して いるとしてよいのである。 ハブ山にある大伴氏や造東大寺司の塩山は千種川河口 * 回 近くに所在する赤穂大津に近接している。このような設定のあり方 は意図的であり、塩山経営の拠点になる庄・所は瀬戸内海水上交通路上 赤穂にもどる。の津の一つであるこの赤穂大津におかれたとみてよいであろう。そして 上掲の解状に造東大寺司の塩山に組織されている労働力に当郷すなわち 坂越郷の者のみならず、﹁比国比郡﹂の者すなわち本貫を離れて活動し ている者がふくまれていることが記されているが、これは勢多圧との対 比でいうと造東大寺司の塩山経営においては必要とする諸技術者集団の 組織の方式は庄・所を拠点に様・雇の形でおこなうという方式がとられ ていることのあらわれとみてよい。すなわち赤穂大津に千種川を利用し て同じ赤穂郡の他の諸郷から、あるいは海運を利用して播磨国の他の諸 郡さらには備前固など他国からそれぞれ本貫を離れて流入してきて活動 している製塩技術者や運輸業者が造東大寺司の塩生産・運漕にも組織さ れているのである。その組織の中心になっているのが勢多庄の圧領に対 応する存在とみられる山守使であり、この山守使は赤穂大津を拠点に活 動しているとみてよいであろう。 勢多津における勢多庄のあり方との対比でもう一つ見ておきたいのは、 庄官としての山守使が津を拠点に活動する製塩技術者の個人や集団を必 要労働力として組織する際における在地の万祢とのかかわりについてで ある。時代がやや下がるが貞観一 O 年 ( 八 六 八 ) 三 月 一 O 日太政官符﹁禁 * 3 制材木短狭及定不如法材車荷事﹂ 3 は材木の規格を規定通りにすること、 車載の材木量を規定通りにすること、この二点を山口・津頭に表示する とともに改めない﹁賃車之徒﹂にたいしては﹁当所刀祢﹂が決罰するこ とを定めている。交通の要衝の地においてその場の刀祢(当所刀祢)が そこに集散する人と物の規制を行うということは八世紀中期でも同様で あり、赤穂の場合上掲解状にあらわれている﹁津長﹂をふくめた坂越郷 の村里刀祢集団がその役割を果たしているとみてよく、赤穂大津を拠点 に製塩あるいは地域の外への塩の運搬に従事していた集団はその規制の もとで諸活動を行っていたものとみるべきである。 同時点の勢多津について、上記史料三で村万祢大伴虫麻呂が倉古万呂 にかわって造石山院所と様契約を結んでいる。このつ村しがどのような 広がりを指すのか明らかではない。しかし古万目が勢多津に他国から流 入してきた存在であり、かつ勢多津が勢多郷のある栗太郡側(勢多川左 岸)に所在するので*加、村万祢虫麻呂は複数の万祢から成り立ってい る勢多郷刀祢の一人とみてよい。 つまり虫麻呂をその一員とする勢多郷 万祢は勢多津に集散する人と物を規制し管理するという点では坂越郷刀 祢と基本的には同じ性格をもつのである。 そのようにみてくると、検討を要するのが勢多津において万祢集団の 一員である大伴虫麻目と勢多津に流入してきている倉古麻目との聞の関 係をどのようなものとしてみるべきであるかということである。これに ついて直木氏は刀祢虫麻呂を在地有力者層であり、流入してきた古麻呂 を﹁隠首﹂としてかかえている﹁浮浪長﹂ともいうべき存在とされてい る。すなわち両者を浮浪長と浮浪との関係にあるとみた。直木氏のこの 考え方にたいして、浅香氏は上記史料については古麻呂が長の資格を欠 くゆえ、異例の措置として村刀祢大伴虫麻日が﹁差出人﹂になったもの であり、様工の多くは石山近辺の手工業家族であるとして、浮浪と様工 *5 集団との関連を否定的にみているし 3 、岡藤氏も功銭・食・材料のす べては古万目がうけとっており、虫麻目は保証人又は差出人であり実際 の作業には参加していなかったことから、様工集団を浮浪的性格と一般 v h ﹁ρ 0 化できないとしている 3 3 0 勢多津で活動する様工集団のすべてが浮浪的性格をもっとはいえない
ことは諸氏の指摘の通りであるが、ここを拠点に活動する集団のなかに 本貫を離れて活動する人々がふくまれていることも見落とすべきではな い。注意しておきたいのは古万目である。古万呂は他所から流入してき ているのであるが、岡藤氏らの指摘の通り羽栗巨大山と同じく様工集団 の長であり、﹁自立﹂した存在とみてよい。ではなぜ﹁自立﹂できるは ずの古万呂にかわって村万祢が造石山院所との間に様契約を結んでいる のか。それについて、次の史料を手掛かりに考えてみたい*30 ( 史 料 四 ) 一、牧裏事 右、依八月三日大風雨、河水高張、河辺竹葉被漂朴埋、但以外竹原井野 山之草甚好盛 初期庄園と村唱ノJ祢とのかかわりについて(丸IlI) 一、牧子六人、長一人、丁五人 右、率常件人、令見妨守井上下御馬以次砥承、望請於国司挑給牒書、而 如常止役、欲得駆使 一、給衣服而欲令仕奉事 右、件牧子等、為貧乏民、其無衣服率仕奉醜 以前事条、具録如件、例謹請裁、以謹解 天平勝宝六年十一月十一日 知牧事擬少領外従八位下吉野百嶋 この牧は畿内の大河川の河原上に位置する紫微中台の牧であること、 ここで活動している長一人・了五人からなる牧長・牧子の集団は牛馬の 飼育とならんでその牛馬を用いた交通・運輸業にも従事する集団であっ *8 たことはすでに指摘されている30この紫微中台の某牧の牧長・牧子 の集団は勢多庄のもとに組織されている大山や古麻目を長とする様工集 団と基本的に同じ存在であり、知牧事はこの集団に食糧や資財を支給す ることで牧の必要とする仕事に組織しているのである。ここでみておき たいのは第二条後半に﹁望請於国司議給牒書、而如常止役、欲得駆使﹂ とあって、知牧事が紫微中台にたいして国司に働かけて牧子らの﹁役﹂ を止どめ﹁駆使﹂できるようにしてほしいと求めていることについてで ある。﹁役﹂の内容は明記されていないが、関連して次の史料をみてお き た い * 泊 。 ( 史 料 五 ) 太政官符 応徴寄住親王及王臣圧浪人調庸事 右浮宕之徒集於諸庄仮勢其主全免調庸、郡国寛縦曾無催徴、繁一冗積習常 有規避、宜令国宰郡司勘計見口、毎年附浮浪帳、全徴調庸、其庄長等聴 国検校、若有庄長拒揮、及脱漏一口者、禁身言上、科違勅罪・: 延暦十六年八月三日 この官符は﹁浮宕之徒﹂の王臣家などの庄・所への集中と調庸不輸と いう事態に対応すべくだされたものであるが、ここにみられるような﹁浮 浪﹂の王臣家・寺社の庄・所への集中はすでに八世紀中期には開始され ていたとみてよいのであり、史料四における、紫微中台某牧で知牧事の もとに組織されている牧子集団は他国からの流入者など本貫を離れて活 動している﹁浮宕之徒 L 的な存在であり、牧子らに課されようとしてい
る﹁役﹂は調膚であったとしてよい。知牧事が牧子の﹁役﹂の免除を求 めているのは知牧事が史料五の﹁庄長﹂と同じく調膚徴収の責任をもた されていたことのあらわれであろう。 この某牧の牧子集団と勢多津を拠点に活動する様工集団との性格が基 本的に同じであることからみて、勢多庄に組織されている様工・雇工の うち古万呂などの他国からの流入者の調庸についても当然問題になって くる。本買を離れて外部からの流入してきている浮浪については貞観官 符でしめされるようにその活動は万祢集団の規制下におかれていること をふまえるならば、その規制のなかには調庸徴収もふくまれているとす べきである。その点で上記史料四の村万祢虫麻呂が流入してきて活動し ている古万呂にかわって造石山院所との間に契約を結んでいるというこ とも、流入してきた浮浪は津を管轄する刀祢の規制の下で調庸徴収に応 ずることを条件に刀祢の名前のもとで活動先の庄・所と様契約を結んで いるということをしめすとみてよいであろう*判。 このように圧・所が浮浪的な労働力を組織する場合、調庸の徴収とい うことをめぐって在地の万祢を無視した組織はできないということは八 世紀中期の赤穂でも同様であった。すなわち赤穂の中心的な津である赤 穂大津は当郷出自の製塩技術者および他国・他郷から流入してきている 製塩技術者らの活動の拠点になっており、これら製塩技術者は坂越郷の 村里万祢の規制下で活動していると見てよい。そして村里万祢集団は調 庸の徴収のためには山守使と共同してこれら浮浪労働力を確実に把握す る必要があり、一方造東大寺司の経営にとっても当地出自の技術者の組 織化とともに他地域から流入する技術者の組織化も必要としていた。そ れゆえに村里万祢と塩山との間では浮浪の調庸徴収をめぐっての代理契 約の存在は十分考えられるのである。 このようにみてくると、造東大寺司の塩山経営は大伴氏の塩山占点と その内部の開発が中央からの高度な技術を導入しての製塩業の大規模展 闘を志向し在地との間に激しい摩擦を起こしていたのとは様相を異にし ていたとしてよい。もちろん、在地製塩が展開している場への上からの 塩木山の設定であるだけに在地の生産活動に否定的な影響を与えている こと、また製塩および製品としての塩の搬出労働力をめぐっての関係に ついても、浮浪労働力の調庸をめぐっての緊張関係が考えられることな ど、すべてが円滑な協力関係のもとに進んだとは思えない。しかし、塩 木山内部の伐木サイクルは守られているようであり、かつ製塩に組織さ れた人夫がその木を用いて前面の浜で他の製塩従事者とともに入会的に 塩を焼き地子を出しているという形をとっているとされており、従来の 共同体の枠内で行われてきた製塩を中心とした在地の生産活動との聞に 決定的な対立を引き起こすものではなかったことにはまちがいない。塩 山の経営に必要な浮浪労働力も刀祢を媒介として組織するということも、 このようななかでおこなわれるのであり、このことが七五 0 年代まで造東大寺司(引き続き東大寺)の塩山が存続していた背景に なっていたのである。
第二章
七八
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・ 九
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年代の赤穂郡と島上郡
延暦七年(七八八)に至り、一旦手を引いた大伴氏が塩山の再設定を 試み既存の東大寺塩山との間に堺争いを引き起こす。以後一二年まで紛 争が続くが、本章では延暦四年(七八五)に始まる山背盆地への遷都に刺激された王臣家・寺社らの山野河海上での占点地設定の展開とそれへ の律令国家の規制の動きという全国的な動向のなかにこの塩山をめぐる 紛争とその解決のあり方を位置づけ、その特質について考えてみたい。 延暦三年(七八四)六月、藤原種継らが造長岡京使に任命され、都 城・宮殿の造営が開始されるが、その開始半年後の周年二一月に次のよ う な 詔 が だ さ れ る * 制 。 ( 史 料 六 ) 詔日、山川薮沢之利、公私共利、具有令文、如問、比来或王臣家、及 諸司寺、包井山林、独専其利、是而不禁、百姓何済、宜加禁断、公私共 之、如有違犯者、科違勅罪、所司阿縦、亦与同罪、其諸氏塚墓者、 旧界、不得折損 初期圧園と村里刀祢とのかかわりについて(丸山) ﹁山川薮沢﹂すなわち山野河海の地に設定されている上毛利用を目的 としている占点地の展開を規制したものであるが、この詔にかかわって 延暦一O年(七九一)六月に次のような勅が出されていることに注意し : 、 * 必 o A ' れ B M ( 史 料 七 ) 先是去延暦三年下勅、禁断王臣家及諸司、寺家等、専占山野之事、至 是遣使山背園、勘定公私之地、各令有堺、怒聴百姓、得共其利、若有違 反者、科違勅罪、其所司阿縦者、亦与同罪 山背国で上掲の延暦三年詔の具体化が﹁公﹂と﹁私﹂とを区別すると ともに、存続を認める﹁私﹂(山野上で展開する王臣家らの占点地)に ついて無制限に拡大しないようにその堺を限定するという形で行われて いるのである*品。さらにこの山背国のケ
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スと関連して翌延暦一一年、 山城国に隣接する摂津国島上郡についてだされている次の史料をみてお き た い * 4 0 ( 史 料 八 ) (延暦十一年)四月丙成、摂津国島上郡菅原寺野五町、梶原僧寺野六 町、尼寺野二町、或寺家自買、或債家所償、並縁法制、還与本主、大井 寺野二十五町、贈太政大臣正一位藤原朝臣不比等野八十七町、贈太政大 依 臣正一位藤原朝臣房前野六十七町、故入唐大使贈従二位藤原朝臣清河野 八十町、或久載寺帳或世為家野、因随旧給之 この﹁野﹂がなにを指すのか直接示されていない。しかし島上郡が淀 川沿いに広がっている郡であることをふまえると、この﹁野﹂は淀川河 原上に所在する上毛利用を目的とした占点地とみてよいであろう*40 以下この﹁野﹂の実体について検討してみる。 ここにあらわれる﹁野﹂は五1
六町以下の小規模占点地と数十町単位 の大規模占点地とからなりたっている。このうちまず小規模占点地につ いてみておく。延暦二年(七八三)六月一七日太政官牒によると*4、 摂津国西成郡江北にある寺家(東大寺)庄の地と同国東生郡江南にある 勅旨庄の地とを交換し駅家にしている。大谷治孝氏は、ここでいう勅旨 圧は勅旨省が新薬師寺より買得した三町二反余の地の一部であり、寺家 庄とは東大寺の新羅江庄四町の一部であるとしている*40このような難波京の京域外の川ぞいに設定された交通・運輸活動の拠点としての役 割を果す数町単位の小規模庄家は、大谷氏ものべているように、他にも 多く存在したとみてよい。延暦一五年(七九六) 一一月一二日太政官符 ﹁応聴自草野国崎坂門等津往還公私之船事﹂において*将、九州からの ﹁公私船﹂が難波に集中しているとのべられているように、長岡京・平 安京と山城盆地での新都建設のつづくなかで難波津が発展している状況 がうかがえるが、延暦二年という長岡遷都前夜の時点でこれら圧家群が 難波津を構成するものとして立ちあらわれつつあったのである。 このような難波津のあり方との対比で島上郡にかかわって注目したい のは山崎津の存在である。足利健亮氏は嘉承=一年(八五 O ) 以前の旧山 崎橋について、当時山背と摂津の国堺になっていた水無瀬川が淀川に合 流する地付近に架けられておりこの橋が平城京から太宰府に達する太宰 府道(山陽道)の淀川渡河点であったと指摘している。旧山崎橋はしば しば流失しており常時架けられていたのではないとされており、橋が所 在していた周辺は淀川を上下する船も停泊するとともに、淀川渡河点と しての役割をも果たしていた山崎津になっていたとしてよい*40この ように山崎津を摂津国島上郡と山背国乙訓郡とにまたがって淀川沿いに 広がる津とみなすならば、史料八にあらわれている島上郡の小規模占点 地は難波津に所在する勅使庄あるいは新羅江庄と同じく、山崎津内部の 摂津国側の淀川沿いに所在する交通・運輸の拠点としての小規模庄家と みてよいものと考える。また大規模占点地についても、その広さからみ て、淀川河原上に設定された牧とみるのが妥当である。時期はややさか のぼるが先に史料三としてかかげた天平勝宝六年の紫微中台の某牧と同 様な山崎津内の小規模圧家群とも密接な関連をもちながら津の背後の河 原上に所在する交通・運輸業の拠点としての役割をも果している牧とみ て お き た い 。 このように史料八の﹁野﹂を山崎津にかかわって設定されている王臣 家らの大小規模の占点地とみれば、山崎津は水無瀬川をはさんで摂津国 島上郡と山背国乙訓郡にまたがって所在しており乙訓郡側にも山崎津に かかわる大小規模の占点地(野)が展開していたことは間違いなく、そ れら占点地が史料七の占点地規制の対象になっているとみてよい。山 背・摂津両国の場合、大阪湾沿いあるいは淀・桂・鴨・木津など諸河川 沿いの長岡京に向かう交通ル
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ト沿いの津にかかわって濃密な占点地群 の展開をみておいてよく、それらへの規制・整理が延暦一 にわたってなされているのである。 山背国での占点地整理が行われたのと同じ年の延暦一 O* 。
太政官符﹁応定樽丈尺事﹂に 5 、﹁今聞、大和摂津山城伊賀近江丹波播 磨等園、公私交易之樽、多有違法、徒費其価、不中支用、此則故挟好心、 詐偽公私、{且仰所出園、長一丈二尺、広六寸、厚四寸令作﹂、すなわち 両国をふくむ都と海・河の交通路により結びついている諸国における交 易樽の寸法の不正確さを正すことが命じられている。遷都を契機にした 都城・宮殿の造営にともなう材木などの山野河海上での産物への需要の 増大、それら産物の都への運搬にともなう交通・運輸業の活発化がしめ されているのであり、その背後にはこれら諸国における王臣家らの占点 地の展開が想定されるのである。従って、王臣家らの﹁山林包井﹂につ いて禁断を加え﹁公私共之﹂するという﹁還公﹂の方針を打ち出した延 暦三年詔は*日、これら諸国では実施されているとみるべきであり、山 ・摂津における津にかかわる占点地への規制はこのような動き 城(背)の一端をしめすものであった。 このように延暦三年詔の具体化が全国的に進んでいることをふまえ、 赤穂にもどる。上掲史料二によると、延暦七年にいたり東大寺の塩山内 部に食い込む形での大伴氏の塩山再設定が行われ、それを契機に東大寺 と大伴氏との紛争が起こる。このような大伴氏の塩山の再設定という行 動はそれが延暦七年に始められているということからみて、選都に伴い 畿内・近国の諸国の山野河海上で展開している王臣家らの活発化する土 地占点活動の一環であろう。そして延暦一二年に至りその紛争に対する 国司裁決がなされるのであり、それにかかわって作成されているのが﹁は じめに﹂で整理した①
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④の四通の文書である。この国司裁決をめぐっ ては、焦点になっている塩山が赤穂大津という津に近接して所在してい ることからみて、山背・摂津両国において直前の延暦一 0 ・ 一 年 に 延 暦三年詔にもとずついて津に関わる王臣家らの占点地への規制が行われて 初期庄園と村里)J祢とのかかわりについて(丸山) いたこととの関連を考える必要がある。以下そのことを念頭に裁決の過 程をたどってみる。 ( 史 料 九 ) 国符赤穂郡内(司ヵ) 禁断山壱処 彼郡坂越郷墾生山者、主東大寺 四至限、依先官符旨 右、得彼寺僧慈親状日、件山不遵禁制、氏(民ヵ)窓伐損、何請処分者、 国判、件山以去天平勝宝八年有 莫令伐損、符到奉行*5 勅特所献入也、郡宜承知、厳加禁断、 介笠朝臣江人 大嫁多治比真人清見 小援大伴宿禰国守 少 目 爪 工 造 コ 一 仲 延暦十二年二月二十九日 裁決の最初にあらわれる郡司宛の国符(③文書) が提出した本公験に基づき東大寺の塩山であることを確認し、内部の伐 損(大伴氏の侵入)を禁止しているのである。しかしこれで紛争が決着 したのではなく、直後に①②の史料(上掲史料二)が出される。そこで は村里万祢の証言がなされ、その証言についての郡判が付され、それに 基づいて国判が出されている。③と①・②とのかかわりについて最初の 裁定で決着がつかず、再度裁定がなされたと見る見方もだされてはい るが*回、両文書の聞がわずか a ヶ月しかなく、これは成り立ちがたい。 加藤友康氏は九世紀においては、郡司による独自の図券類の勘検が郡 における図帳の存在を前提として行われていたこと、田地掌握の基礎が 国の機能を郡が代位する形で郡に裾えられていることを指摘する*50 これは田地のみならず、郡内の山林・原野を含めた土地に対していいう ることであろう。厳密には八世紀段階であるが、赤穂のケ 郡図をもとに土地の掌握にあたるという体制になっているとみておきた い。とするならば、この郡司への国符は国司が本公験に依拠した判断を 郡司に提示するとともに、郡司の土地掌握権に基づいてその確認を求め たものとみるべきであろう。郡司はそれを'つけて﹁当土人夫﹂を召喚し 喚問している。そしてこの郡司からの問いに対しての村里万祢により代 表される﹁当士人夫﹂の返答(証一一一口)が村里万祢謹申であり、国司はこ の郡司から伝達されてきた謹申に基づいて東大寺塩山への﹁判許﹂を行っつまり③は東大寺提出の本公験に基づく国司の判断で あるのに対して、①②はそれとは別な郷万祢および郡司の証言に基づく 国司の判断なのである。問題は両者の関連である。それについて④文書 て い る の で あ る 。 を検討してみる。 ( 史 料 一 O ) 寺家 牒播磨国赤穂庄(郡ヵ)司 応禁断塩山一処 在坂越郷墾生山者、其四至知官符 件塩山者、頃年之関与他相誇、既所切損、今依本官符井村里万祢証 申市重宛行、国郡判許於寺家己畢、宜承知状、厳加禁断、勿令切損、但 官符井国郡判在於寺家、今以牒、牒到准状、故牒、 牒 年月日を欠くが、塩山が東大寺に重ねて宛行われる旨の国・郡の判許 があったことを・つけて、塩山内部の他者による伐採の禁止の励行を東大 寺が赤穂郡司に求めているものであり、延暦一二年五月一四日以後の文 書である。ここで﹁今依本官符井村里万祢証申而重宛行﹂とあることに 注意したい。ここでいう本官符は③文書(史料九)にあらわれている天 平勝宝八年勅のことを指し、村里万祢謹申は①の坂越郷万祢解状(史料 一一)を指すことは明らかである。播磨国司の東大寺への塩山の宛行い(判 許)は本官符の存在と村里万祢の証言の二つに基づいてなされているの である。このことは国司による本公験に基づく判断のみでは塩山の東大 寺への宛行いにはならない、それとは別に万祢の証言と郡司の証判に基 づく判断が必要とされるのであり、この両者があって始めて国司の宛行 いが成立することを意味する。 問題はこの播磨国司の東大寺への塩山判許のあり方と延暦三年詔との かかわりについてである。これについて、延暦一一年の摂津国島上郡の ﹁ 野 ﹂ の ケ
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ス(史料八)との対比で検討してみる。研究史の上で、こ の史料が何の目的で出されているのかについての論議はなされていない。 内容を見ると、占点地は五・六町の小規模占点地と数十町規模の大規模 占点地とに区別され、それぞれに返還理由が記されている。菅原寺など の小規模占点地の場合は正当な形での買得したものや負債のあるものか らの質取地であるので﹁法制﹂により本主に﹁還与﹂するすなわち返還 する。そして大井寺・藤原氏の大規模占点地について、大井寺の野につ いてはそれが寺帳に古くから記載されているゆえに、また藤原北家三代 の野については﹁世為家野﹂こと、すなわち﹁世﹂が当該の野を﹁家﹂ (藤原北家)の野としているゆえにいずれも従来通りに賜う、すなわち 返還するということである。 この史料八が延暦三年詔に基づく占点地規制にかかわって出された史 料ということをふまえるならば、延暦三年詔の摂津国における具体化の 過程で国司が誤って収公した王臣家らの占点地を、それぞれ理由を付し て返還する(占点地としての引き続く存続を認める)旨を記したものと つまり、この史料には諸国における延暦三年詔に基 づく上毛利用を目的とした王臣家らの占点地整理の基準ないし原則が提 みるべきであろう。 示されているとしてよいのである。 赤穂にもどり、東大寺塩山の播磨国司による存続許可の判許とこの史 料八の島上郡の大規模な野(牧)の摂津国司による存続許可とを対比し てみる。赤穂郡の塩山は本官符と村里万祢謹申(およびそれへの郡司の 判許)の二つが存在したゆえに国司の判許がえられた。島上郡では大井寺の野が﹁久載寺帳﹂ゆえに、藤原北家三代の野は﹁世為家野﹂ゆえに 摂津国司はその存続を認めた。このうち大井寺の﹁久載寺帳﹂と赤穂に おける東大寺の本官符とは対応する。いずれも公験ないしそれに相当す るその占点地の由緒を明確にするものの存在ということであろう。 藤原氏の﹁世為家野﹂については赤穂における村里万祢謹申とそれへの 郡判に対応する。﹁世﹂は山崎津を含む淀川沿いの地域の村里刀祢集団 と島上郡郡司を指すのであり、藤原氏の野が当該地域の民業の妨げに なっていないことを村里万祢が証言しそれに郡判を加えたものが上申さ れ、それに基づき摂津国司が野の存続を認めること、それが﹁世為家野﹂ の意味である * 5 0 つまり問題になっている牧にせよ塩山にせよ、それ が所在する地域で﹁民業﹂の妨げになっていないことが村里万祢・郡司 により保証されているということであろう。 このように島上郡と赤穂郡とで、牧ないし塩山の存続の判許基準が一 初期庄園と村里刀祢とのかかわりについて(丸山) 致していることは、赤穂においても延暦三年詔の諸国における具体化の 一環として裁許がなされていることをしめす。ただ、注意しておきたい のは、赤穂の場合播磨国司は延暦一二年二月に天平勝宝八年の本官符に もとふついて東大寺の塩山としての存続を認め、さらに同年五月には四月 の村里万祢解状にもとずついた東大寺の塩山の存続を認めているように、 占点地の存続が認められるための二つの条件は、それぞれについて国司 の確認がなされていたのに対して、島上郡の場合、大井寺と藤原氏の野 について、それぞれ一つの条件を満たしていることが占点地引き続く存 続許可の理由とされているようにみえることについてである。これは島 上郡においては一つの条件を満たせば占点地の存続が認められたという ことではない。やはり二つの条件を満たす必要があり、ただこの史料で はもう一つの条件は満たされているのであり、焦点になっている方の条 件についての判断が記されているとみるべきであろう 一 方 なお、先にみた延暦一O年の山背国で延暦三年詔の具体化としてなさ れている公私の地の勘定(史料七)には山崎津にかかわっての乙訓郡側 に所在する占点地の規制・整理も当然含まれており、島上郡側と同一基 準で実施されているとみてよい。このように延暦一 摂津・播磨で延暦三年詔の具体化が占点地を大規模占点地と小規模占点 地とに区分した上で、それぞれについて、占点地としての由緒が明確で あるか否か、占点地の存在が当該地域における民業の妨げになっている か否かを基準にして、それに適合しない占点地の収公ということで進行 しているとしてよい。この三国以外の諸国でも同様な整理が進行したと 推測されるが、このような延暦コ一年詔の具体化の過程の到達点をしめす のが延暦一七年(七九八)一二月八日太政官符﹁寺並王臣百姓山野薮沢 浜嶋毒収入公事﹂である。全文は以下の通りである (史料二) 右被右大臣宣日、奉勅、准令、山川薮沢公私共利、所以至有占点、先頻 禁断、如聞、寺井王臣家及豪民等不俸憲法、独貧利潤、広包山野、兼及 薮沢、禁制萄樵、奪取鎌斧、慢法蜜民莫過斯甚、 不論有官符賜及旧来占買、並皆収還、公私共利、墾田地者、未開之問、 所有草木亦令共採、但元来相伝加功成林非民要地者、量主貴賎五町以下 作差許之、墓地牧地不在制限、 b 但牧無馬者亦従収還、其京城側近高顕 山野常令衛府守、及行幸経過顕望山岡依旧不改、莫令研損、 並具録四至、分明腸示、不得因此濫及遠処、仰国郡官司専当札察、知慣
常不俊違犯此制者、亦六位以下科違勅罪、五位己上及僧尼神主等録名申 上、仰聴投彼使人申送所司、登時示衆決罰以懲将来、若所司阿縦即同違 勅座、要路勝示普令知見、其入公井聴許等地数、具録申官、不得疎略、 官符は前半で山野・薮沢の地で王臣家・寺・豪民の占点が広範囲に行 われそれが民業を妨げている現状を指摘した上で、後半でそれへの律令 国家としての対応策を
a
・ b ・c
の三部分にわけで打ち出している。ま ず 、a
部分で第一に勅施入という上からの国家公認の占点地(有官符賜) と古くに買得した占点地(旧来占買)というその由緒が明確である占点 地についても収公するという原則を強調するとともに、第二に墾田地に ついてはその内部が未聞の聞は上毛利用を第三者に開放すべしとしてい る 。 b 部分ではすべての占点地の収公というa
部分でだされている原則 の除外規定、すなわち存続を認める占点地を列挙している。その第一は 民要地ではなく、かつ相伝し手を加えている五町以下の占点地、及び使 用している限りでの墓地・牧(面積制限なし)であり、第二は官が必要 と認めた上毛利用を開放しない都周辺の山林である。最後にc
部分で存 続を認められる占点地についてはその四至を明確にすること、国郡司は 定められたことを厳密に実施し存続を認められる地や存続を認められな かった地を太政官に報告すべきことを指示している。 この官符で規制の対象になっているのは上毛利用を目的とした占点地 に限定されている。それはa
部分で墾団地は収公の対象からはずし、そ の内部の上毛の利用の開放のみを定めていることで明確である。そしてa
部分で上毛利用を目的にしだ占点地について、由緒が明確な占点地と いえども本来は収公さるべきものという原則を強調しつつも、 b 部分で は占点地を五町以下の小規模占点地と牧・墓地などの大規模占点地に区 分し、それらが民要地に設定されているのではなく(民業の妨げになっ ているのではなく)、かつその占点地を現実に用益している限りにおい て存続を認めている。その際 b 部分で存続が認められるためには前提と してa
部分における占点地としての由緒があるという条件が満たされて いる必要がある。その意味でa
部分と b 部分で提示されている二つの条 件が満たされている場合にのみ占点地の存続は認められるのである この官符でしめされる占点地存続の基準と、山背・摂津・播磨におけ る延暦コ一年詔の具体化過程での占点地存続の基準、それは摂津国島上郡 の ケ l ス(史料八)により明確にあらわれているが、とは明らかに対応 する。すなわち官符ではa
部分でしめされる﹁賜有官符﹂あるいは﹁旧 来占買﹂という占点地としての由緒があった上でかつ b 部分でしめされ ている民業の妨げにならない限りでの占点地の存続が認められるが、こ のうち﹁賜有官符 L は赤穂郡の東大寺の塩山での天平勝宝八年の本官符 ゃ、島上郡の大井寺の牧でいう﹁久載寺帳 L に 、 ﹁ 旧 来 占 などの小規模占点地における ﹁債家所償﹂など、占点地の由緒 一 白 買 ﹂ が明らかであることに対応する。そして b 部分でいう民業の妨げになら ない限りでの占点地の存続許可については、対象になっている占点地に ﹁ 世 為 家 野 L と い う 一 一 一 一 口 葉 に 象 徴 さ れ る 、 そ れ が つ い て 、 の妨げになっていないことの村里万祢の証言及びそれへの郡判が対応す る。さらに延暦一 O 年の山背国について﹁勘定公私之地、各令有堺﹂と いう作業がなされている(史料七)が、 ﹁勘定公私之地﹂は王臣家らの それぞれの占点地について存続を認められるものであるか否かの選別、 いいかえればa
・ b 両部分でしめされている s 一つの条件を満たしているか否かの判断を行うということに対応するし、 ﹁各令有堺﹂はその選別 の結果存続を認められた﹁私 L 地について
c
部分でいう存続を認める 占点地の四至を明確にし無制限に拡大しないようにということに対応す る このように延暦一七年宮符は延暦三年詔に基づく占点地への規制強化 過程の総決算として出されたものである。延暦七年に始まる赤穂におけ る塩山をめぐる紛争の解決、すなわち東大寺への塩山の再判許も延暦一 七年官符で集大成されるこのような占点地整理の一環としてなされたも のである。関連して、上掲万祢解状が他国・他郷の人の流入に触れてい ること、しかも内容的に、流入してきた人々が地子をだして塩を焼いて い る 、 つまり秩序だてた活動がなされている旨を述べていることに注目 したい。延暦三年詔が出された翌年選都の年でもある延暦四年六月二四 日に太政官符﹁応勘定他国浮浪事﹂が出されている。この官符は天平八 初期圧l詞と村明刀祢とのかかわりについて(丸山) 年(七三六)格に浮浪について編付せずに名簿に録して調膚を輸せしめ よとあることにもとづく他国浮浪の把握強化を命じたものである*日 o そして、延暦一六年八月官符﹁応徴寄住親王及王臣庄浪人調庸事﹂(史 料五)は王臣家らの庄に集中する浮浪の調庸を庄長の責任で徴収すべき ことを命じた官符であり、延暦四年官符をより具体化したものであるこ とは間違いない。さらにこの延暦一六年官符にいう﹁庄﹂には柚や塩山、 水上交通路沿いの津に設定される野など山野河海上に展開する王臣家ら の占点地が含まれているとみてよく、この官符が延暦一七年官符に対応 して、山野河海上に設定される占点地に集中する浮浪への把握強化を目 的として出されていることも間違いない。 このようにみると、延暦四年官符の他国浮浪の把握強化は延暦三年詔 の山野河海上の占点地への規制強化と密接に関連しているのであり、遷 都にともなう王臣家らの占点地の展開がそこへの浮浪の集中を生み出し つつあることをふまえ、それへの規制強化という形で諸国で具体化され、 それが延暦二ハ年官符として庄に集中する浮浪について庄長にも責任を 持たせながら浮浪帳に記載するという形で集大成されているとしてよい の で あ る 。 つまり延暦三年詔と延暦四年格、および延暦一七年官符およ び同一六年官符とは、それぞれ一体のものとして把握すべきものなので ある *60 つまり延暦三年詔の具体化の過程においては、占点地そのものの整理 とあわせて、そこに集まっている浮浪の把握強化を伴ったものになって いた。赤穂での塩山をめぐる紛争についての村里刀祢証言に他国他郷か らの流入の問題が取り上げられているのは、国司にとって塩山存続を判 許するためには、そこで活動する﹁浮浪しを郡司・刀祢が把握し、調庸 の徴収などが円滑に行いうることの保証が必要であったためである。お そらく、万祢は占点地をめぐるその証言のなかでこの問題に必ず触れる ことを求められていたのであろう。第三章
律令国家の占点地規制と村里刀祢
このように延暦七年から一二年にかけて行われた赤穂郡における塩山 をめぐる紛争はこの延暦三年詔の具体化の一環として、二つの条件が満 たされている限りでその存続を認めるという原則のもとに、その解決が 図られ、東大寺への再判許がなされる。ここで注目すべきは民業の妨げ になっていないことの証明は村里刀祢の証言およびそれへの郡司証判によってなされていることである。以下そのもつ意味について、延暦一七 年官符がだされてしばらくたった時点で出されている大同元年(八 O 六 ) 閏六月八日太政官符﹁応蓋収入公勅旨井寺王臣百姓等所占山川海嶋浜野 林原等事﹂出および翌々月の八月二五日太政官符﹁合四箇条事
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﹂ い う 二つの官符を手がかりに、この時点における律令国家の占点地規制の基 本方針とのかかわりという側面から考えてみたい。 ( 史 料 二 一 ) 応壷収入公勅旨井寺王臣百姓等所占山川海嶋浜野林原等事 右件検案内従乙亥年至子延暦二十年、一百二十七才之間或頒詔或下格 符、数禁占兼頻断独利、加以氏々祖墓及百姓宅辺栽樹為林等、所許歩数 具在明文、又五位以上六位以下及僧尼神主等、違反之類復立科法、今山 陽道観察使正四位下守皇太弟侍兼宮内卿勲五等藤原朝臣園人解日、山海 之利公私可共、而勢家専点絶百姓活愚吏阿容不敢諌止、頑民之亡莫過此 甚、伏望、依慶雲三年詔旨一切停止、謹請処分者、右大臣官一、奉勅、 イ今知所申、則知徒設憲章、曾無遵行、率由所司阿縦市令百姓有妨、宜 一切収入公私共之、若有犯者依延暦十七年十二月八日格行之、一無所宥、 自今以後、立為恒例、ロ但山岳之体或於国礼、漆菓之樹触用亦切、事須 蕃茂並勿伐損、其菓実者復宜相共、又山城国葛野郡大井山者、河水暴流 則堰堤論没、採材遠処、還失潅概、因蕊国司等量便禁制河辺無令他研、 諸国若有其類者、不論公私不在収限、ハ其寄語有轍占無要者、事覚之日 必処重科 ( 史 料 二 二 ) 合四箇条事 一氏々祖墓及百姓栽樹為林等事:・① 右件案太政官今年間六月八日下五畿内七道諸国符日、氏々祖墓及百姓 宅辺栽樹為林等、所許歩数具存明文者、去慶雲三年三月十四日詔旨日、 氏々祖墓及百姓宅辺栽樹為林井周二三十許歩不在禁限者、又去延暦十七 年十二月八日格日、元来相侍加功成林非民要地者、量主貴賎五町己下作 差許之、墓地牧地不在制限、但牧無馬者亦収還、若以嶋為牧者、除草之 外勿妨民業、又入公井聴許等地数具録申官者、斯則官符所謂明文、更無 有 疑 。 一 原 野 事 : ・ ② 右件依同前符公私可共、案和銅四年十二月六日詔旨日、親王己下及 豪強之家、多占山野妨百姓業、自今己後、厳加禁制、但有応墾関空閑地 者、宜経国司然後聴官処分者、然則除民要地之外、不要原野空地者、須 聴官処分、偏不可拘無用之土。 一 山 岳 於 国 為 礼 事 ・ : ③ 右同前符日、山岳之体於国為礼、又山城国葛野郡大井山等類、並勿伐 損者、須国司親巡歴覧山岳、検録四至分明時示、勿令百姓疑傍結彼心。 一 漆 菓 事 : ・ ④ 右同前符日、漆菓之樹触用亦切、事須蕃茂並勿伐損、其菓実者復宜相 共者、夫桑漆二色依例載朝集帳、二戸三百根己上宜任戸内、若有剰余亦 相共之、但宅辺側近元来加功、栽栗為林者、准上条量貴賎許之、務折中。 以前七道観察使解日、今聞、諸国司等官符到日施行諸郡、郡司下知郷 邑、而後相倶匙(黙ヵ)爾曽無争指示、然則百姓之愚可共楽成、或暗寂 麦何暁符旨、理須国司案検前後詔旨格符井官符之内所載事類、披捜彼此、発明上下委曲陳喰再三教誠、則将繁庶知帰手足有措、市偏執目前須聴不 聴、常瀬巡検可一不無示、毎下官符、民疑尋問、良宰在境量如之、伏請、 下符諸国、毎事存限務加教喰、無数致憂煩、謹請処分者、右大臣官一、依 請 この二つの官符が桓武天皇の没後わずか数ヶ月後の出されていること を念頭にその内容をみていくと、史料一二では延暦二 O 年に至るまでの 間占点地規制がさまざまになされてきたにもかかわらず守られていない ことをのべた上で、三つのことを指示している。すなわちイの部分で公 私共利の徹底を延暦一七年二一月官符の遵守ということでなさるべきこ とが強調される。ロの部分は次の三点にかかわる規制である。すなわち、