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ソクラテスの知とその哲学的立場

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Academic year: 2021

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(1)Title. ソクラテスの知とその哲学的立場. Author(s). 式部, 久. Citation. 學藝. 第一部, 3(1): 1-11. Issue Date. 1951-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3507. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . ‐ ・ . - ・・- - -- . ・▼ ● --- .・ ‐- -.- - .- . 第 3 巻・ 第 1 号・. -. - - -. ・ー.・‐ -- -- .- - - -.- - . -- - .- - r ‐. 学. 璽. 第 一 部. ・‐・‐ .・. ・. 昭和26年9月. ソクラテス の 知とそ の哲学的 立場 式. 部. 久. 北海道学聾大学旭川分校哲学研究室 Hi l i sl ic 、V s i a l無 難U : T1 do s ・ ・ c S「 crat i l i ′ s ph s 1 n and Hi oph s caI Standpoint o 日 lr 無 ・ 知. の 知. 2 . 学 の 理 念 3 . 実 践 的 立 場. 序 ソクラテスの立場の論究に向けられたこの小論は二部 プラトンの資料による分析 (1 に分れている。 .皿) .= . ・ V. ▽) とで と、 その立場の哲学としての意義の論定 (I . . . ある。 第一部に於いてはソクラテスの全活動を畢覚知の 問題として捉え、 その立場を無知の知に拠っ て 分 析 し . ・. た。 無知の知は知識批判の知である。 知の確実性批判に 於いては自然学の理念に従い乍ら、 意義の批判に於いて は之と全く異つた実践的立場に立ち、 之が前者を更に規. 定しているのがソクラテス的知である。 ソクラテスの問 題は畢寛実践知の問題である。 而もソクラテスの全活動 は批判的愛知的であるにと .ゞまつていて、 この立場から . ● . ・ する体系的知識としての哲学を実質的に展開 して はいな. し、 。. 第二部に於いては、 先ず存在者の認識が経験を拠点と すべき所か ら、 科学をギリシャの学の理念の 展 開 と み. て、 そこに知識を求めることの必然性を見た。 而も科学 に限界を設定 しようとするのは、 その立場がいわゆる意. 識 ー級としての抽象的立場であるが故である。 生存の全 体は実践的鱈理に関心的 である。 そこにソクラテス的な. 実践的立場の必然性があると見るのがソクラテスの立場 に対する論結で ある。 1 . 無知の知とソクラテス的鰯話篇 その自負 ヘラス最高の知者であるという自負の高さ、. から、 「知慧を愛し自 己自身をも他人をも吟味しながら. )と感じて、 遂に状況の求める Pの托命1 生きること」 を両 n ソクラテスの哲学精紳の牡美な迄の 断、 死をも甘受した. 烈しさ、 それらは 「アポ ロギア」 の中に剰す所なく描き. 次 5 . 全 体. 的. 生. つくされ・ ている。 史家バーネ ット及テーラーは、 例のデ ルポイの市 I H托をソクラテスの自然学よりの轄機として、 それが他ならずソクラテスを教化活動に駆ったこの自負 )が、 そのソ と .使命感を生んだものであると云っている2. クラテスの全教化活動の意味は、 まさ しく この知の愛 、 を自ら生き、 他人にも生かしめようとしたことに ,ある。 然らばその知とは如何 なるものであったか、 この事を明. らかにすることがソクラテスの哲学を明らかにする所以 であろう。 「知の愛. i を・ 「哲学」 に園成したのは彼や その周辺であるが、 如何なる知の愛を彼は求めたもので. l i あろうか。 その知とは彼自ら人間並の知 (an t l r ne op 3 ) h i ) s と規定 o )a した所謂無知の知であるから畢覚 こ の , l. 問題は、,無知の知の意味を明らかにすることを通して究 められねばならない。 ソクラテスの激化活動が 「無知の知」 を明にするこ と にあったことも先ず明らかにされなければならない。 そ .プラトンの所謂ソクラテス的対話篇の主要意 のことは、 図を分析することによって容易に知られる。 プラ トンの 意図は色々な主題の下での論議の展開の中にソクラテス の知概念を明にする事にあったものと思われる。 例えば 「エウテュ プロソ」 である。 メレトスによって、 不敬度と青年堕落の罪によって告 .父を殺人の罪によって告発した 発されたソクラテスが、 エウ チュ プロ ソ、「敬慶なこと、 不敬度なことについて、 4 )と揚 それがどうであるか非常にはっきり知っている」 言するエウ ・チュ プロソに対し、 微震とは 何かを問いたず. ねる対話が、 この篇の内容を篇している。 所が徴鹿とは 何かと云う間に答えたエウチコプロソの定義は、 悉くソ クラテスの分析に耐えることが出来ず、.却ってソクラテ スは 「そこで我々は もう一度初めから微塵とは何である. ・ ‐.- - .

(3) . vo l .I .3 , No. ●. GAKUG霊[ sEcT1 oN ^. 5 )ということを結論 す る かを考察 しなければな らない」. Sep t embe r ,1951. て、 単なる臆見の 人に過ぎないと云うことを明にする断 におかれていると解すべきであろう。 それによって却つ. のである。 その限りソクラテス的対話は稔りを結ばない 不毛のロ ゴスである。 然 しこ でソクラテスは争論家流 . て、 或種の人々が世人の評判の中では成功しているが、 それは実は知識あるが故ではなく して、 鱈なる思いなし に単に説伏を求めたのではない。 プラトンの意図は単な ‘ る思い なしは決して鱈の知、 贋理ではないこと 、 を明 に こあった。 その篇に しようとしているソクラテスを描く}. に依ったに過ぎぬ事を明にしようと しているので ある。 こ 1でもロ ゴスの不毛は無知の知の否定的性格に根 ざし. たのである。 多くの徴度 なものというあらわれを知って いるのみで、 鱈に知っているということば出来 ない。 そ. しうべきものがあるな ら って他に何か知っていると主張・. ソクラテスは次々にエウチュ プロソの定義の不備をつい. ている。 「だが贋なる思いなしと知識とが何か種類の違 うもの だと云うこ とは、 決 して想像ではないと思う。 却. ういう事をソクラテスは明 かにしようとしているのであ る。 「敬虚とは何か」 と云う対話の主題が問題であるよ. ばーーそのようなものは僅かではある が--このことも 9 ) この事 亦その知っていることの一つだとするだろう」 1 を明にすることが重要なのである。の 「プロタ ブラス」 も学者 プロ タゴラスの知識が果して. りも、 知らないことを知らしめるこ との方が問題なので ある。 無知の知を明にす ることなのである。 その篇にさ. しあたりソ クラテス対話は否定的になるのである。 ロ ゴ スの不毛なのが、 こう 解 し竃却っ て生 きて来る。 「・ メノン」 も同じ不毛なロ ゴスである。 「穂は教えら れネ写るものか否かJ を主題とし乍ら、 得られたこと はと 云えば、 徳 が知識であるとすれば数えられ得るが、 現実. には徳の教師は全 ギリシャを探しても得られない所を 見 れば徳は教え得るものではなく従って 知識ではないかも. 贋正のものであるかの嶺討 に当てられたもの な の で あ 1 1 ) 諸億の底に於いて-つであ」 るもの、 即ちもろもろ る。 の現象の底のーつである贋実の存在を把握していない限 」り 遂に プロタ ゴラスの知識も-つの思いなしに過 ぎな 、 いことを明にすることに当て られたものなのである。 ′ 斯様にソクラテス的対話篇は、 結局ソクラテスの無知 の知を明かにする 意図になるものである。. 知れない。 実生活での効用は単に贋なる思い なし(doxa l the a e s) によっても得られるかも知れない、 ということ. i 1 i l t ra S 28e ) o 。g a s。c ・ AI l I tll920 2 sophy Pa r o t I I I: Gr eek Phi e , . Bunl , JO 1 6 3 p .. である。 疑問の提出に縫っている。 一体この不毛のロ ゴスの意図する所は何であったろう かo 思い なしの贋なるものの意義を積極的に述べる所に. Tay lor: Soc t ra esl932. 松浪信三郎訳ソク ラテス、 綜合出版蔵 54~57頁 賢者ソクラテスが人倫の始租となった遵すじがこの l托物語に) いや し a l 罰 箇所に示され ていると見る。 「( くも何らか主眼点があるとするならば、 それは何よ りも光ず、 ソクラテスがその生涯の中程に或期間の 危機を経て、 その結果一の 『使命』 をはっきりと意 ● 識 したと云う歴史的事実を記徴しようとの意図のもキ. この 篇の意図があったであろうか。 徳は知識では ないか も知れないというのはソクラテス ,の積極的主張であった であろうか。 確かに・「知識が指導している時だけ人間に G ) とってその仕事 が正Lくうまくなされるのでは ない」 「贋実の思いなしは行篇の正 しさにかけては思慮に劣ら. と に 書 か れ たも の に 速 い な r」 3 ogi a . Apol ,20d i 4 ・ yphro . Eut ,4e; 16d .5 . 6 9 6 7 o D 1 eu , e; 97b . , ,98c. 7 )と自ら云って{ まいる。 然しそのよ r ない指導者なのだ」 盾 しな ソクラテスの見解と矛 他の対話篇での うな主張は いで あろうか。 「プロタ ゴラス」 篇 M窓を主題と したも のであるが、 此所でソクラテスは、 徳は教え得ぬもので. i ー i 8 l am 9 ・ ophon: Memorab . ×e 9 1eno . 此 ,98b 2 5 278d 参 照。 lo . 術 Meno 80e , Euthydemus 7 dー. はなかろうかとい う疑を提出し乍 ら、 プロ タゴラスの所 セノ 論に反対 して、 徳は知であることを論じて行く。 ク・. 所 「詔想起説をソクラテスが説くのは、 知的探究は知 ・諭家の好議題 ・と云う雫 者にも無知者にもあり得なv への駁論を意図 してである事がわかる。, 1ー . ソクラテス的対話瀞の殆 どすべてが、 光ず学者と を捉え束って、 之に無知者ソクラテ 称讃される人物・. ポソの簡単 な叙述の中での 「正義もその他の徳もすべて 8 )ことの説明も 「プロ タゴラス」 知であると彼は言った」. に於ける説明に極めて近似 Lている。 勿論知 (ソ ピア、 ソー プロ シュネー) 、 失醍識 (エ ピステー メー) の意味に もよることであるが、 一般にソクラテス が知 識に対して. ・る所・に 眼 を 向 け られ た い。 ス を 対 比 さ せ てし. ることは困難 .思いな しの有意味性を主張していたと解す 論 する が 張 していたことは後 である。 その逆をこそ主 「メノ ソ」 の意図は、 むしろ実際生活での成功者、 例え. ”. 翠の理念--知の確賓性 ではこの自 ら無知の知としたソクラテスの知とは如何 なるものであったか。 無知の知は完全に表 現 す れ ば、. ば政治家、 或いはソフイ ステスが決 じて知者ではなくし 2.

(4) . 第 3 巻 第 1 号‘. 学. 憩. 「自己について、 何も知らないことを、 知らないと考え る事が最高の知である」 と云うことである。. 先ずこ}で、 ソクラテスの問題が最高の知、 贋の知の 問題であることが取り出されねばならない。 「無知の知」. はこの間への解答に他ならない。 当時のアテナイの青年. が如何に矢噌識熱にぅかされていたか、 その事を知るにソ ) し、 叉, クラテス的対話篇は好箇の資料を奥えて呉れる1. その原因についても我々は史家の十分な説明をもってい 2 ) そう云うソ ピステースの流行に対しての批判的反 る。 省がこの無知の知として現れているのである。 その反省. の立場はさし当つては二つあると考えられる。 一は認識 論的であり、 一は実践論的である。 前者は知の確実性の 問題であり、 後者は知の意義の問題である。. 確実性の問題は上の定式の形式分析によつてぅかゞわ ′ れる。 上の定式は一般的には、 「A について、 それがa A 「 となる をaと であることをaと考える」 。 簡単には 考える」際に対象 A に対して表象a が正しくおかれるこ とである。 之に対して員の知ならざるもの、 不確実なる 知、 低き知は「A であるものを non‐a と考える」 ,事であ り、 只今の場合は、 ソク ラテス自ら言う如く、 「知らな. いことを知つているように考える」 ことである。 即ち対 象 △に対して表象bが誤っておかれていることである。 然しこの定式は知の一般的図式であって、 ソクラテス的 知概念を特段に明にするものではない。 それを明にする. に は、 A を non‐a とせず してaとすることが如何にし. て可能であるか、 の問題に対してソクラテスのいだいた 解答を見なければならない。 知識は常に A を a.b.c と. 考える構造を持つのであるが、 如何なる時に a.b.c は 対象 A に対して正しく おかれているのであろうか。. この問題に対するソ ,クラテスの解答は、 A が諸現象形 、てみられた ころの .なる形におし 態の底において もっと , 「敬度 こある。 「エウテュ プロソ」 に・ 時、 であるというも 鷺に於 一であり はあらゆる行 いて自己同 、 また不敬慶ば. 敬慶とば全然反対であるが自己と似ており、 何ものにせ よ……一つのある相 (イデア) を持っているのではない 3 ) と云う、 その一つの相を把えた時であると云うに か」. ある。 エウテュ ブロソに しろ〆ノ ンに しろ、 虞知を持つ ていないのは、 この一つのエイ ドスを把えてい ないによ る。 「メノ ソ」 の結論が 「穂 が何であるかをそれ自体と 4 ) 事が根抵的だ、 とい 1 th、 して (auto k t ) 探ねる」 1 o a u a う事になって来るのは自然である。 贋の知が思いなし、 この区別が更 私見● 、 評判 (何れも ドクサ) と区別され、. に、 現象と現象の底にあるーなるものとの区別に基けら れている。 即ち知の確実性は対象の実在性に基づくと云. うのがソクラテスの解答なのである。. 第 一 部. ・ ,. 昭和26年9月. 所で他方 「メノン」 には、 厩実の思いなしと知識との. ) i i t 区別を、 「原因の推埋をもって (a . a slogismoi).縛」6 ってあるか否かにおいている。 見かけの知識を主題的に. 坂上げた 「ゴルギァス」 において、 見かけの知識と員の エムベ{リア デクネー. 知を、 夫々経験知と?緩和と して峻別 し、 次の様にいって いるのも同じ考方である。 「けだし 【経験知は】 それが hy anl もたらすものについて、 本性・( i t ) s n) それが如何 なるものであるか何ら説明を持たず、 従って各々の原因 (アイテイア) を云うことが出来ない。 私は所で説明を β )例えば 持たぬ (ァ白ゴソ) ものをキ緬知とは呼ばない。 」. 料理術は経験知であるが、 医術は術知である。 後者は. i i i t s l a を探ね、 説明を輿える事が ( phys ogon dounai) ,a. 出来るに対し前者はそうしないで慣れと経験 に よ っ て i ika ie be 7 i i (t ) r l np r ) にすぎない故である。 e a 然るに、 ロ ゴスを奥える、 本性を尋ねる、 原因を知る. というチ崩そ ロの本質と、 .対象を、 その底の一なる存在に於 て労る事とは別事ではない。・ロ ゴスを輿えるとは言語的 に表現することであるが、 同時にそれはミュトス的 (説 話的) 表現に対しては論理的表現を意味していなければ -般に事実を単に事実と して・ ならない。 論理的とは- ゞは なく、 包橋関係を明にするこ とであり、 と 1にロゴス的 とは当然に原因の探究をもたねばならない。 その如き原 因の探究が究極する所、 即ち先に述べた現象の底に実在 するーなるものに到るのである。 之に対 して、 原因に迄 湖らない知識は、 その事によって矛盾的であ り う る か ら、 従って単なる臆見として、 誤謬の可能性の中に嫌う ものとして 見なされねばな らないのである。 かくて我々 は、 知の形式的本質を鴬ず確実性 が、 ソクラテスの無知 の知に於ては根源湖及性と論理性の中 にあると考える。. 「ゴルギアス」 に於ける所謂 術知 (テクネー) がソクラ. テスの知識批判を支える理念なのである。 こ. にあるも. のは学知の理念である。 そしてこの点に於いてソクラテ スの批判は全く自然学の理念をその立場としている。. タレスに始る所謂哲学のいだいた理念は、 論理性と根 源湖及性という学一般のそれであった。 バーネットは哲 . 学の始組タレスを学の人( l ce)と 呼 ば る べ a man ofscie・ 8 ) i き最初の人と云っている。 此所で彼がタレスをs c en c e の人として坦なる実際的計算的事実的天体知識の人と区. l dona i 別するのは、 合理的説明・( ogon di ) の要求が中 心をな じ(いるからである。 アリストテ レスは術 を知 (テ クネ-) を経験知 (エムベイリア) に対比 して、 それが. i 「何故」 (To diho i t ) 並に 「原因」 (a i ー a) の知識で が タレス あるといっている 、 はそう云う意味でのi 緬知的. なものを持った点に於いて、 学の始胆と考えられている のである。 勿論バーネットは哲学をこの意味の科学と全. Q ノ.

(5) . Vo l .3 .I , No. Septembe r ,1951. GAKUGRI S I r1oN A ~ L. 一のものと考えるのではない。 哲学の究極の 間 は 実 在 l o l i (rea ty ,on) で ある と い う。 ) ア リ ス トテ レス もソ ピ. ・のは、 原因原理の中でも究 アとかソポスとか呼ばれるも 1 1 ) 確かに哲 極的原因の知識や知者で あると云っている。. 学は単にロ ゴスを持つところにあるのでは なく、 それを 究極原因に迄係らせている所にある。 根本前提そのもの. の認識とそれから導出されるもの 認識とをアリス トテ 2 )所以であろう。 然 し究極原因は、 原因 レスが区別する1 を求めるという学の理念の内部的展開に他な らないとす. れば、 両者の間に原理上の区別はあり ,得ないであろう。 e i lt 而して実在 ( on y) とは、 かくて求めるべき究極 ,ra マケア」 に於い のものに他ならない。 「エテイカ・ニコー て ア リ ス トテ レ ス が ソ ピ ア を ぱ ヌ 「 ス と エ ビス テ ー メ と. の両者を 包むものと考えうるのは、 両者が原理上分離し 3 1 ) たものではないことに基いているであろう。 ビユシオロゴ{. ‐そう云う原理に迄ロ.ゴスを求めた所謂自然学者の実在. i もと s) と 呼 ばれて い る。 ピ ュ シス は. は ピ ュ シス (phys. 特定の物体を構成する特定の素材を 意味したが、 この中. には、 種々の形に現れるものがその底に於ては一つのも 1 4 ) のであると .の老が含まれている。 彼らの実 在 探 究 に. は、 凡ゆる多様な蔓様の底にあるものとしてのこの ピュ シスの理念が宿っていたのである。. このピュシスの理念の中にある多様な現象の底の一つ 実在の理念は、 ソクラテス的知識批判の根抵にある理念. に同じものである。 ロ ゴスを奥えると云うソクラテス的 知の要求はそのま 初期自然学者の学の理念であり、 そ の確実性の根拠と しての実在するーなる対象は、 自然学 者の究極存在としてのピュシスに全く相 願ずる。 ピュシ. l 12 1 c V7 ,13 . Et .皿 ラ . Ni ,6 ; I i b i i 14 B t: n I p ur e .27 . Lege P1 a 9i to: , s8 c「恐らくこの様に語る人は、 火. や水や池風が万物の源初である と考え、 之らのも の. を ピュ シ ス と名 づ け る の で しょ う。」 b 15 i dp t: i .105一109 . Burne. 「プロタ ゴラスや ゴルギアスが否定的態度で対した ぐある … … ソ フィ ス ト の のは宗教ではなくて科学‐ 時代とは就中科学への反動の時 代 な の で あ るo」 . ( p .109) プロ タ ゴラ ス は Zenon の 弁 証 法 の矛 盾. 的帰結から科学に反対 したと云われている。 人は万 も常識主義への逃避 物の尺度と云 う相対主義的命題. な の であ 的には習俗主義者 であったコ 従って 道徳 、 る。 (P .114一115). ー = . 賓騰的立場--知の意義 叡然し無知の知は単に知識の確 実性の批判にとfまら ずゞ 知識の意義の批判をも含んでいる。 「私は何も知ら ない」 というソクヌテス的知の内容は確実性批判からの み生れて来るのでは ない。 知っている事 が、 知識がその. 篇に求めらるべき知の意義を充足してい ない所からも生 れて来ているので ある。 実在する一つのものふ把握によ ってロ ゴスを輿えるという形式的知概念を更に基礎づけ るものがあるのである。 無知の知を明にするにはこの事. の把握が必要で ある。 而 してそれは 先に示した無知の知 の定式 「自己について、 それが知らない 事を知らないと. 考える」 の中の自己という面、 即ち知り叉知らないのが 自己について ゞあると云う面の分析によって得られる). 問われているものは自己であり、 問うものは目巳であ る。 而も自己を問うことば人間に固有のあり方である。. .の目巳は、単なる対象 A として ゞ 従って問われている当 スの理念の中にあるものも、 単なる感覚的 あらわれをた れば く自己を問うているものとして明かにされなけ はな だちにものム知識とすることへの反対であり、 単なる恩」 ならない。 然るに自己はこの知ることに於いて自己のも ラスや ゴ ′ いな しへの反対である。 ソクラテスが プロタ ゴ のをもち得、 叉もち得ないものである。 自己を問うとい ルギアスに反対 して、 それらの所謂 学 者 が実は知を持 うことはよく 生きることも、 悪しく生きることも出来る つものでない事を明にすることに努めたのも、・一つには ものと しての人間が・ 自己の本東鑑トの関心にもとづい , 之らの人々 が一つの原理に迄論理的要求を貫くことを捨 と て発する間である。 従ってロ ゴスを典えると い う こ・ 5 )事に理由があ てて、 常識主義の中に引こ もろうとした1 は・ こ に於いては何が善であるかを明 か にすると云う りた。 ことでなければならないであろう。 知、 更に間はこの意 味での実践的のものであって始めて意義をもつことが出 1 . 「プロタ ゴラス」 冒頭参照 1 ) 来る。 1I lor i 2 〔 ) . 39 ・ Tay , △. 屑.: ib 知の意義を実践性の中に見た ソクラテスの論じた問題 3 配 th h o 5d ) r, 、 ′ . u y1 4 . D1eno loob; 98a .5 6 as 465a; 50la .7 . Gorgi bi dp 8 t . 18 . Burne ,John : i. i l t 9 t r o e cs: 1le s .98!a . Ar 11 i b i d lo B r: ・ 1 r n e p . . =, Met ,983a ,982b. ・然である。 勇敢と が、 倫理的なものであったことは当 . は、 敬度とは、 旗闇とば、,正義とは何かと云うこと、 更 に徳は 教えうるか、 諸徳は相 互に異つた ものであろうか. 而もこの女日く、 実践の問 題を主要な関心におく点においてソクラテスはむしろ プ と云うの が彼の好題であった.

(6) ‐ 、 ・. 第3巻. ●. 第1号. ー ・・ -. - -‐ .. 学. 整・ 第 γ 部. 6年9月 昭和2. 2 ) 叉時代の要 ロタ ゴラスに等 しい立場にあるのであり、 3 ) 求に従ってもいる。 知識 の意義づけと主題 に 関 し て. 事象的研究によって ではない。 欧州教化史上ソクラテス の位置の重要 性はまさ しくこの実践的思惟の導入の中に. は従ってソクラテスは自然学と全く異つた立場にある。 そして自然学に決別するに至った理由についてはソクラ テス自らの証言が 「バイ ドン」 に大凡次の如く見えてい. ある。. 4 ) る。 ソ ク ラテ ス は 「自 然の 探 究 ヒ ス トリ ア」 に 従 っ た. が、 それは、ミ個々のも のが何故に生 じ、 叉何故に減 ・ ・ し、 叉何故に存 在するのか、 その原因を知ることは素. 二. ′. 観認識論-実践論的批判の前に露 呈せられるのは 「私 は知らない」 と云う事である。 無知の知批判はこ に否 定的なものと して現れる。 然し批判の否定性は積極性と まない。 善をその実在する-なる相に於いて 杷え 離れて‘ ′ ると云う実質的要求はこの知識む移りの理念から直ちに導. 出される。 確かに、 善が客観的妥当性に於いて把えられ であった。 然し既存の自然 、ないとき、 善についての或判断が如何 にして単なる ドク , 学的体係の中では遂に 「何故」 は明にされなかった。 サの城を越えて、 贋の認識で あり得、 実践を正しく基礎 偶々アナクサ ゴラスの体系に関心を惹かれるが、 それ づけうるであろうか。 シュテソ, エルは員の認識が客観 晴 しい こ と に 思 え た か‐ ら. は存在.について の一種の目的観的説明がその中に見ら れ る かも 知 れ ぬ と 考 え た か ら であ る。 ア ナ ク サ・ゴラス に 対 して、 ソ ク ラ テ ス は そ こ で 「存 在 す る も の ども に. ついて心にかなった原因を考えてくれる人」 という期 待 を か ける。 而 も 彼 が ア ナ ク サ ゴラ ス に 見 出 したも の. は依然と して質料的原因の体系にす ぎなかった。. 此所には極めて明瞭に、 ソクラテスが既に して一種の 目的観的要求を持っていたことが語られている。 「個々 のものの存在の原因を明にする知」 とは哲学の知識に他 ならないが、 彼が自然学の体系に却って道を失は ざるを 鴇なかったのは、 彼の求める存在の原因が 或ものの善 、 悪を明にL得るものでなければならなかったrか ら で あ る ・ 。 そして その如き要求は正に自己の問題として、 自ら よく生きることも悪しく生きることも出来る自己に関る 自己の問題として現れて来るものである。 さL当っては知の実践的意義付は確実性に関する自然 学的観点と並んでソクラテス的知の今一つの立場である と考えることも出来る。 無知の知は認識論的 実践論的 批判知である。 然 しこの二つの観点は並例しているので はない。 実践的 観点が更に根抵的である。 そのことはこ. こに言及Lた,「パイ ドン」 の目的観的要求の中に鮮かに 現れている。 自然学の理念は、 ロ ゴスを実在するー者に. まで求めると云う謂わば学の理念としてソクラテス に眠 り上げられるのであるが、 その実在する一者は実践を基 礎づけうるものであるべき 二とが、 「バイ ドン」 のソク. ラテスの表白する所である。 この観 点は事実のぅちで考. 察することをやめて、 言葉に逃げて言葉の中で考察する というソクラテス自らの方法論の● の中に更に決定 的に現 れている。 存在者を事実のうちで考察するとは勿論自然 学の方法である。 然るに事実の内には遂に自らの求める. ものを見出し得ないとソクラテスが考えるのは、 畢覚被 の問題が実践の理念の探究にあるが故で ある。 実践の理 念は思想の吟味によって得らるべきであって、 存在物の. 的存在としての善に呼覚されて生じ、 行篇の善もそこか 6 )「ソクラテスは ら生ずる事を凡そ次の如く云っている。. こう信じたつ 世界がその固有の存在に於いて、 その秩序 . ▼ に於いて、 その関晩に於げ・て純粋に忠実に把握せられる 時には、 この世界から我々の内面に向って直接に我々の 活動的態度を規定する力が働いている。 こ ”こすべての. 認識の明証性が興えられるのである。 この確実性が人間 の中心となるとき、 そうしてそれが我々の行篇を1 呼びさ 々 何等か ま し、 我 に の答を要求するとき、 そこに贋の固. 有なる認識 が成立するのである。 そうでなければそこに ・. あるものはた ゞ臆見と、 自己欺腕と幻影とであるにすぎ ぬであろう。」 キ 然し叉ソ,クラテス について善の客体性の問題に立入る とは危険である。 その如き客体的存在と しての善、 即 こ. 善のーなる形をソクラテスが実質的に把握していたと考 えるこ とは無知の知からは困難なのである。 バーネット 及びテーラーの如く、 「園家」 「饗宴- } 「バイ ドン」 等 の所謂中期諸篇をもすべて、 根本的には、 ソクラテス的 のものと考えて、 イデア的存在論をソクラテスの思想に 帰すという事は出来難い。 批判に含まれる積極性は基底 的であるに止まる。 ソクラテスの知は飽くまでも無知の 知でしかない。 善の体系の把握は無知の知の要求である. にとゞまって、 ソクラテス自身によっては実現されなか ったと見る他ない。 ソクラテスの激化活動が専ら否定的. に働いたことは之を裏書する。 弁明に現れる晩年のソク ラテス,は事実その如き何らかの知識を所有して いること. を何ら示していない。 実践的立場からする究極の原 因を たずねると ・うことは、 従ってソクラテス的知の課題で あったにとゞまる。 哲学は体系的知識として ではなく、 その如き知への愛として、 ソ・ クラテス に於いては あった のである。 哲学がその原義、 知への愛に於い て最もよく 妥当するのはこのソ クラテスの知に於いてである。 ソク ラテス的立場よりの体系的知識の実現は プラ トンに委ね.

(7) . Vo l .3 .I , No ,. . ・. GAKUGE1 sEcT・ON A .. ・. られねばならなかった, 「画家」 の思想は 全くこのソクラテス的知の理念の上 r に打ちたてられた体系で ある。 「国家」 の思想とはもと. デァを体系の頂点とする倫理的知識論的な より、 、 善のイ それを云う。 この思想は、 かのソクラテス的 知の確実性 の 依り所として の実在する一着のイ デーと、 目的観的存. 在原理のイ デーとを所謂善のイデア説に於いて統 ーL、 ヒ 更にかくの如き認識の可能性をば、 実践的に、 主体の- 昇に基づけ、 加えて、 ソクラテスがその倫理的思索に於 いて保持したポリス主義、 滞納主義をもその中に組 入れ ている。′ソクラテスの認識論↓実践論的反省の存在論的. ス的立場からす るならば、 実に 体系化である。 ソクラテ. という他ない。 然 しそれと共 展開であり体系構成 見事な にこ では哲学は無知の知の如き知の愛ではなく実質的 に知識の体系となっている。 批判的性格は内にかくれて 来 る。,. ・. ある。 この二つの理念はその歴史的意義を離れて 筒如何 なる意義を持ちうるであろう ,か。 アリストテレスの 「究極原因を認識したと信ずる時に 1 ) との のみ、 その各事物を知つていると言うのである」 滴切に表現し 湖及性を極めて 言は、 ギリシャ的学の根源 ている。 而も究極原因的 原理に迄謝ることば思惟の要求. の必然的展開であり、 知識の確実性は論理的思惟に媒介 ・股者に迄濡せられ されることによって、 個々の経験が÷ 念と ,しての らば ギリシャ的学の理 る所に基くと ,するな 、. 論理性と根源湖 及性の意義を誰 しも承認せざるを得ない であろう。 然 しその実質的内容と しての所謂宇宙論につ いてはまた、 歴史的 意義以上のものを認めるこ とは不可 能である。 此の理念に基く存在者の知識の実質的発展は. 科学の中に実現されっふある。 ギリシャ的学の理念的有. 意義性と実質的不毛性、 従っては、 近代科学の能産性が 承認されると して、 それは科学のもつ如何なる特性によ. ソクラテスを主知主義とみることは勿論可能である。 問題が畢覚知の問題に帰するこ とは彼の論ずる所であっ. るであろうか。. た。 然し何が畢覚知の問題に帰するので あるか、 そ の事 が更 に重要である。 それは他な らぬ生の問題で あった。 よく生きるこ とは如何に して 可能であるか、 それが畢党. い る。. 4 知の問題に帰 した当の問題であった。 こ. の意味でソクラ 的 テスの立場は決定 に実践的である。 従って主 知主義の 語によって・ 知の 刺こ生の最高の 意義を認 めるもの・ 知 、 の自足性の主 張を意味する限り、 それ がソクラテスに無 線であるのは云うまでもない。 只、 生のよってもって正. しきか否かを決するものが、 単なる臆見の中 に で は な く、 論理的、 根源湖 及的学知の中にあることを主張 した. 限りに於いて ソクラテスの主知主義は語られ得るので あ る。 彼にとって哲学は観照的思弁では なく生であるコ . 1 l l ・ s t ・ . エ ウ ・ プラ ツ テ イ ン の 鴬 に エ ,282e . 民uthyde ビステ ー 〆 ← は 求 め られ る, 2 tagoms 318e プロ タ ゴラ スは 自分 の術が修身 . Pro. 薄家術たることを他の学者に比 し誇っ ている。. b dp i 3 or: i .39 . Tayl 4 z I; 99e . Phaedo 96a”loo .5 ー i k〔 le tumsl931 t 6 l l i er t ・ys g ^l t ap l l z us‘ Me e e . S , Ju. 山内得立、 存在諭史、 角 川書店、 による,123頁 ーV . 科 畢と存在者認識. 以上の如きソクラテスの知はその否定的批 判 性 の 底 に、 思惟の課題を積極的に指示 している。 ロ ゴスを究極. ける原理を求めると云う 原理にまで、 而も実践を基礎づ ・ 哲学と共通の基盤に生 前者はギリシャ初期 こ とである。 れ、 後者は思惟の課題に関してソクラテス独自の貢献で. Sep t ・ber m cn ・ ,1951. 科学の勝利の鍵は実験 的方法の構造の中に秘め られて. もとより実験的方法は、 概観的には、 ギリシャ学の中 に萌芽的に現れており、近世経験論のみならず更に Kant 認識批判の範型をもな した方法であった。 ギリ シャ的世 界は総じて 観 (テオリア) の世界で ある。 実験は観察に. 根を持っている。 然し近代科学の実峨性は単 なる観察と は構造を異にする。 叉近世経験論 及カントの 認 識 批 判 も、 実験を飽型としながら科学を基礎づけ得ていない。 近世経験論及カントの経験主義は存在者の認識を経験. にもとづかせようとす る限り勿論先ず正当である。 存在 者 (on) それが我々の問題であるが、 この存在者は主観. の外に存するものでありながら、 主観に於て 認識される 他ない。 認識が存在物と存在物との関係であることは、. 認識関係の基礎構造と して認めなけれ ばならないであろ う。 それは認識対象の観念的、 実在的を問う 前に認識構 港の前概念として 立て られねばならない。 知識の贋篤は 2 ). まさに此の構造の上で問題となるのである。 こ に認 識は主観 ‐客観的 の通路を要求するであろう。 所で人間. 【客観 存在は斯様な存在者と存在者の交渉として主観的‐. 的である。 この点に即して人間の生存を経験 と呼ぶとす れば、 経験が認識を基礎づけるは当然である。 ・ 籾周知の如く近世経験論は経験によって何よりも先ず. 知覚を意味した。 ロックは言う 「心は何処から推理 と知 識のすべての材料 を得るので あるか。 こ れに対 して 私は 一語を以て経験 からと答へる。 この経験にすべての我々. の知識は基くのであり、 結 局知識は経験に由来するので ある。 外界の感覚的対象に対 して、 叉は我々自身によっ.

(8) . 第3 巻 第1号. 学. .. 馨. 第 一 部. 昭和26年9月. て知覚され反省される内界の我々の心の作用に対して向. 之等の形而上学的思惟の経験よりの遊離に見出したカン. けられる我々の観察が、 我々の悟性に思考のすべての材 料を供給する所のものである。 これ等の二つが知識の起. 7 トは、 自らの場所を先ず 「経験と云う稔り多き底地」 ) に見出している。 この際カント認識論の基調が超越論的. 原であり、 我々の持ち叉は自然に持ち得るすべての観念 S )と。 有機的存在の は、 これによって生ずるのである。」 存在交渉としての経験は身体的一括静的であるが、 その 初発性に即 して経験を根源的には知覚的の ものと見るこ とは許されるであろう。 然 し斯様に知覚的経験の中に存 在者認識の基礎をおくと言う事は、 知覚的事実を直ちに. 客観的なものとして定立するを許す事を意味するもので はない。 その如き客観定立の素朴性は言う迄もない。 経 験はなるほ ど存在者間の交渉として主観的-客観的であ るにしても即身的知覚的である限り自己の内に鎖され主 観的のものにとどまる, そこに素朴なる客観定立のもつ 主観性、 非客観性が存在 し、 経験がこの素朴なる定立に スの言 とどまる限り、 経験はソクラテスやアリストテレ. う如く、 学知たり得ぬ単なる経験に堕せざるを得ない。 この学的認識の篇には存在交渉はロ ゴスの媒介によって 即身的知覚の直接性を超える事を必要とする。 経験の認 識論的意味は、 客観認識たりうる所にあり、 存在定立が. 主観に於て行われながら客観的でありうる所にあるが故 である。 所で客観定立に必須なロ ゴス的媒介の機能と しての思 惟を、 理性の名の下に、 贋理認識の方法と見 倣 し た の. が、 形而上学的認識論であった。 主客交渉に於ける客観 定立の虞理性、.即ち存在者の客観的知識は経 験 が個人. 的、 主観的ではなく普遍的、 超主観的である所にのみ可. 能である。 こ に思惟 が、 即身的知覚に対 して、 この 普遍性を一身に負うものとして 版上げられて来る意味が. ある。 かくて学はむしろ直接経験よりも論理的思惟の中 にある と考えられるのである。 然るに思惟の 非 即 身 性 は・ そのことによつて主客 交渉の直接性をも捨てる が故 に、 知識の形式的極として、 直観なくしては却って空虚 くan t ) たらざるを得ない。 「我々 が 明 断 に 判 明 に (1 4 ) と言うデカルト認識 認識するものはすべて員で ある」. 論の基礎命題が存在者認識を基礎づけ得ない 所以 で あ ) 「可能的思考」 「論理 る。 か る認識はカ ントの所謂5 的可能性」 を示すにとゞまり 「客観的妥当性」 「実在的 可能性. 1 とは無縁である。 周知の如く、 形而上学的存在認識の成立し得ざる所以. であることは何らこの事と矛盾するものではない。 超越 論的 とは経験の基礎を明にするものに他ならない。 彼自 ら明瞭に言っている、 「あらゆる荷も可能的な る思弁的. .ふなる .理性認識を経験の単なる対象にのみ制限すること S ) と。 然しカント的経験 直観と概念と は勿論である」 、 を二契機とするカント経験は果して贋に経験的認識を基 礎づけうる- ものであったであろうか。 直観と概念、 知覚 と思惟の相 互媒介は、 確かにこの論の指向する所ではあ る。 然 しその媒介は先天概念による直観の統一に成るも のであろうか。 塞間の先天直観性、 因果縄畦の必然性は 9 ) 前科学的概念に過ぎないのではなかろぅか。 ・知覚而 して知覚 カントに於ける直観と概念の媒介は、. 的観念の悟性による統一と云う近世経験論のそれと基本 的には相違のないものと考えられて いる。 知覚は知覚と して、 悟性は悟性と して、 二契機は分離している。 然 し 果して科学的方法の中核としての実験の構造はその様な ものであろうか。 実はカント自ら科学的方法の中核を実 験の中に見出し、 そこに自己の経験構造の分析をもとづ l o ) 然るに彼が実験の中に見出したも けたものであった。 のは、 経験に於ける思惟の構成と云うことであった。 先 天概念による直観の統一と云う認識の構造は之に基いて. し・る。. ,. 実験は確に構成的である。 単に受動 的ではなく能動的. であり、 単に身体 的知覚的ではなく思惟的である。 然 し 経験を権利づけるもの、 経験に認識方法としての権威を 典えるものは綜合契機と しての思惟、 悟性の機能である のではない。 そうではなくて、 思惟的-知覚的なものと して行動的である所にある。 知覚而して思惟による綜合 という媒介形式に於いては、 経験の主観的-客鋤的とい う構造をになうものは知覚のみである。 然るに経験はそ れが主観的-客観的である断に認識方法と しての権能を 要求し得る可能性があった。 実験は組織化せられた経験. であって、 そこでは知覚と思惟とは相互に惨透 し合い、 知覚と思惟とが相互惨透的に媒介し合い乍ら、 斯様なも. のとして主観的-客観的である。 そこに実験の認識方法 としての権能がある。. 実験の認識論的構造の中核は、 知覚と思惟、 直観と論 を此の点に関聯させて明に しようとしたのは Kautで あ 理の相互惨透性にある。・それによって実験は初発的経験 った。・デカルト、 ス ピノ ザ、 ライプニッツの形而上学的 の主観的制約を止揚 し、 他方思惟の客観よりの遊離を止 ・ 体系が出でて時を経ず して、 形而上学は追放され見捨て 揚しているも これに対して知覚と思惟との分離は、 形而 上学的思惟に地盤を提供する。 蓋し、 経験は思惟に媒介 られた老女になり下っていた。 それは 「嘗ては方学の女 6 ) にすぎない。 その原因を せられざる知覚そのものとしての直接性にと ゞま る 限 王と呼ばれた時代があった」 7 ‘.

(9) . l Vo .3 .1 , No. ・. GAKUGBI sEcnoN A. SepL embe r ,1951. 原理が存在者の説明の篤に要求されることは あ り 得 な. り 、 その素朴性の故に、 他方却って思惟の自由なる飛縄 , を許すが敵である。 知覚的経験の素朴と思惟の窓意とは 対隙的である。 シェリ ソグ、 ヘー ゲル等の自然哲学は何. い。 論理性と根源朔及性 というギリシャ的学の理念の実 現は科学的世界像の中に求め・らるべきである。. れも経診の素朴の許容した思惟の自由なる飛躍に他なら. かくて 存在物の先天概念 による統一という形而上学的 試みが稔りをもたない事は明 である。 存在物の知識は科 学の中 に求められねばならない。 然 し究極原理からの統. ない。 近代 科学のもつ実隙実測 という方法は、 まさ しくこの 直観と論理の相互惨透を具体化 している限りに於いて、 知識の方法たることを主張することが出来る のである。. 一的説明が実現せられたとしても、 実質的科学の成果を 直ちに究極的のものとしうるか否かは尚問題である。 少 くともカントは之を哲学の重要な問題と している。 所謂. そう Lて近世の認識論が知覚と共に問題とした数学的方 1 )も この謬透の具体化に奥かる限りに於いて重要な 法1. 理性批判が之である。 フオルレソダーは カントの批判と 1 2 ) 「道徳 は事実の基礎づけに他ならないと云つている。. 意味をもって いるb 経験は一面知覚器官に依存 し、 その 限り性質的個別的である。 その一般化の可能性は、 経喰. 的理念及び美的感情の事実と並んで、 学とい う事実が存 する。 印刷された書物の内に現存するこの事実から超越 諭的法は発足する。 学という客観的事態をそれは基礎づ. が数理的媒介をうけることによって、 数量化さ れてくる ことに存する。 而 も経験の数量化は単に、 個々の知覚領. け、 その可能性の制約を指摘 し、 その前提を確定せんと するのである。 」 と。 然し事実の存立を端的に前提する. なけ る性質的経験を一・股化ーて客観定立を基礎づけ 域に方 るのみならず、 更に・ 個々の知覚領域を越えて経験を一 般化する。 知識 が個々の経験手段にもとづけ ら れ る 限 り、 存在物はそれ ら個々の経験領域の性質規定に依存す ・ るご とによって、 未 だ主観的制約を十分に越えていると られるこ は云い得ない。 性 質規定が数量規定におきかえ とによって、 始めて、 知識は主観に於いて得 られるもの ・主観的制約を十分に越えるこ とが出来るの であり乍 ら、. ものは批判ではあり得ないであろう。 端的に事実的とし. て存立を前提されているものを取り上げて、 その存立し 得るか否かを問うものでなければならない。 前提を確定 することば批判の成果である。 実質科学は確にその如き. 存立の基礎を問わる べき批 判の余地を残 している, 蓋 し. 先逃せる如く、 科学的知識の、 客観が主観に於いて 知ら れると云う構造の中では、 知識の客観性を基礎づけるも ‘ のは筒不安定である。 科学ほ認識論的反省による批判を. である。 の分化 、斯様にして、 経験領域の 差異に塵ずる諸学科へ が可能となり 更に ること 統一され 、 、 は、 共通の説明に 出 ことが 一学科内に於ける諸分科も亦共通の説明をもつ. 必要とする。. 斯様 な認識批判によって存在者の原選を探究する方法 の思惟する を販ったのは近世の哲学であった。 デカルト ,. 来る。 所謂自然とは、 斯様にして 共通の説明によって統 一された存在物の総体である。 それは高度に媒介的経験 によって構成された ものである。 それは論理による媒介 が経験を分化する限り高 度に分化的であり、 経験の分化. 我 が それであり、 「経験 一般の可能性の制約は同時に経 1 3 ) に云う制約を担うも・ 験の対象の可能性の制約である」 のとしてのカントの先鞭統覚がそれである。 こふには顕 著に近世的思惟の傾向が現れていることは見逃せない,. が高度の論懲的媒介を前提する限り高度に媒 介的 で あ り、 その限り、 素朴なる主観に於て最も客観に直接的で あると考えられる知覚的事実に比 しては、 高度に非直接. けだし、 アリストテ レス及中世の哲学に於いては存在者 には一つの秩序が、 被造物と しての秩序が考えられてい. にでは なく科学の中にその実現を望まねばならないであ. る。 存在者はすべて客観として自己に対 し、 自己の認識 に現れる限りに於いて存在する。 現象とは経験である。 存在は自 己の認識に基け られねばな らない。 こ “こ現れ. 至らなければ求 る。M) ,そこでは存在者の基礎は稗にまで 於い を紳との関係に められ得ない。 然るに近世は存在物 てみる .事を止めた。 此所に認識論主義きが代っ て 登 場 す. 的で あり乍ら、 却って形成せられて来る知識 に 於 い て は、 その客観に最も近いものとなるのである。 かくて、 ギリシャの学に見られたかの存在者の統一的 説明の理念は、 その直系を自任する形而上学的思惟の中. ろう 諭態と直観は穆透的に働かねばならない。 勿論科 学内実が常に説明の究極性を求めていると云うこ とは出. るものが前述の主 観的原理である。 然L認識 論 的 反 省 は、 単に近世哲学の傾向という歴史的 意味をもつにとゞ まるものではなく、 却って科学的存在者認識の発展の中. 来ない。 然 し、 現在までに事実的に諸現象の統一的説明 が 完結 していない としても科学の発展はその可能性を示 している。 自然の自己法則の完結 性は少なくとも理念的 ・ には承認せられねばならない。 即ち経験の経験概念によ る完結的説明の可能性を認めねばな らない。 形而上学的. で 自ら要求されるもので ある。 認識論的反省はそこでは 存在者詔織の主観的契慶として働き、 それによって存在 者それ自身の知識の成立に興っている。 量子力学の段階. 8.

(10) . 第3 巻 第1号. ー. 学. 鰹. 昭和26年9月. 節 一 部. においてはも早 客観の知識‘ , まそれに興かる主観的契機. の諸科学に対する我々の態度を凡そ次の如く 省 み て い. の反省なしには成立しないo 認識批判は、 事実の存立を 前提 し而してその権能を基礎づけるという如き、 .認識自. 2 ) る。. .. 精密 な経験諸科学に対する零敬から、 哲学も之を模. 体から分離的に働くべきものではなく、 それ自身認識発 展の積極的媒介契機たるべきものである。. かくて存在者の認識は科学の発展の中に求むべきであ る事は極めて明かである。・科学の認識論的構造がその事. 範として同じ精密さによって錘敬を填り もどそうとし た。 「研究のすべての対象が成程特殊諸科学に分配さ れはした。 しかし哲学はそれに伍 して、 それ が全体を. , 科学的対象とすることによって、 それ自身に対して正 -当性を輿えようと欲した。」 然 し人々の人生を基礎づ. を示している。. ける哲学への愛はこの科学的哲学によって補されなか. l 1 i t ・ ap ca 983a . nle ys. 2 ‐i68頁 N. Har t ‐ . 高橋里美 : 認 、議論、 岩波 161. った。 彼らは経鹸科学そのものを求めた, .然し人が哲 学に於いて求め得なかったものを諸科学が興えねばな. 3 . 加藤卯一郎訳、 悟性論、 上巻、 岩波 80頁 4 . 三木訳、 省察、 岩波 54頁 ; 九鬼、 近世哲学 史稿. らなくなると、 そこに再 び錯誤が生じた。 「科学の内 に彼の生の根拠を、 彼の行動の指導を、 存在そのもの. n ] an l l の立 場. 98頁 、 5 Kant: K. d. r . V. ,,B A口merku l ) g 6 redel 1 l .a . 0. Vor . a .t. を求めた者は失望せざるを得なかった」. , Vor r ed .2 . XXW. けだし科学は次の点に於いて限界をもつが故である。. 1 . 科学的事物認識は存在認識ではない。 2 . 科学的認識は人生に対する如何なる目的も奥える ことが出来ぬ。. 7 1 i i i i i nder: Ges ch.d. 四・ z ) . vor .虹 l g l92ー . Le s ,ヱ89. 8 .a . 0. V .2 . XXW . Kanta 9 然科学汎論 . 石原純、 目 、 角川書店,36一45頁 , ー0 rede 2 e s ・ b . v. vor . 皿一XK .,K.d.r. la II t lder; a ,a ,0 . Vor. 岩 波版. 3 二 科学はその固有の意味への間に対して答を典え得 ない。 こ科学の限界をヤスパースが云うのは、 科学的世 こユー. 第 二 巻 64頁. 「ダ・ヰ ンチに取ってあ らゆる確実性の母は実験を 通 して獲得せらるべき経験である。 然 し経験は必然 性即ち精密なる思惟と結合せねばならなぬ。 そ して - 崖数学と力学との中に於v この精密なる思惟は- ・ての み完全な確実性を輿える ,のである。」. 界像の体系としての非完結性を念頭においてではない。. 例えば、 認識論的反省なくしては科学の知識が未だ基礎 づけ られたものと見倣されない事を云うのではない. そ. の如き認識論的反省が科学的認識発展自体の内から要求 .. ー2 l i i nde r: a .a . ○. S.189 . Vor 13 (ant: a .a . 1 .O S .197 14 i i i degge ts r: Se n und Ze . He .24 「何物かによ. され、 更にそれが知識内実の実質的契機となり乍ら完結 的世界像を形成する事は先越した 問題は科学の立場と 人間の生存との関係に宿っている。 科学の主観は自然的な人間生存の全体ではない。.. る組立と云う廃義の被造性が古代存在概念の本質的 構造契機である。」. 科学的経験の主観は、 もとより生存の全体にもとづく ものではあるが、 知識の客観性の要求とその如き生存の 主観的制約の故に、 一度その全体的立場を否定して、 抽 . 象的立場に立つことが要求される。 人間はその自然的生 、. V . 全体的生と賓繊的思惟 現代科学をその高度の発達にも拘らず、 存在者の本質 の論理的説明の理念に於いて、 ギリシャ的学の理念の展 開と見る事は正当であろう。 その発達の鍵を握る、 実験. 存に於いて生理的、 心理的、 直会的、 歴史的に特殊的で あり、 而も身体構造、 高官組織、 衝動的要求、 実際的関. に於ける直観と論理の相互穆透も、 ギリシャ的学の方法 に対して異質的なものではない。 然るにソクラテスは自. 心、 習慣的鯨承ば人を個人的に閉鎖する。 こ1には個別 的、 独断的、′偶然的、 相対的な臆見の毘が置 か れ て い. 然学の理念を知の不確実性 に関しては取りあげながら、. 実践的思惟の要求から事象的研究を捨て 概念的研究に. る。 こふに自然的生の主観的なものが客観的なものに超 えらるべき理由がある。 然るに主観的なものは個人的で ある。 主観的なものは超個人的なものに超えられねばな. 1 ) この実践的原理の探究を生の究 向ったものであった。 極の問題として坂上げようとする所に彼の立場の独自性. があった。 果 して如何なる意義をそれは持つものであろ うか。 こ ではヤスパースの科学観を緒とLてこ の問題. らない。 科学の主観は斯様にして自然的生存の全体を否 定 した超個人的なものである。 我々は カント に 従 っ て. の概括的論定に進みたい。 ヤスパースは自らの哲学の鳥隙的説明を・「実存哲学」. 之を意識一般と呼ぶことも許されるであろう。 もとより カントの用語と共にその形式主義をも導入 しようとする. に於いて試みるに当って、 その緒論に於いて最近数十年. のではない。 すでに前節にそれについては批判した。 た 9.

(11) . Vo l .3 .1 ,, , No. GAKUGE1 sEc1 loN A ・. だ具体的な実験的主観と しての科学主観も、 自然的 生存. 非固定的であり概念化はこれを失うこと ると云われ .であ ′ 、 る。 然 し一般に生哲学的生の特質は新興性の肯定にある と考えるこ●とが出来る。 「生が贋理である」 と云うこと. -度否定的に超個人性に向って超えるご とによって成 を- り立つものである点から、 之を意識一般と呼 ぶ の で あ る。・・. sep t embe r ,195ー. は、 「生が員理である」 ことを根抵においている。 人間. ,. の生物学的所奥が従って生哲学的生の根本概念である。. 意識一般 は抽象的である事を勿論まぬがれない。 科学. が贋値評債的主場に立たず、 只管事実を事実として詔適. 有機体、 ,環境、 適腫、 本能、 情緒等がかくてその根本髄 噂となる。. するということの中にこの抽象性は現れている。 科学的 法則の成立は生存のあり方としての関心の欠如という、 意識一般の抽象性に懸っている。 目的的関心の否定の上. こ ▲では生の目的聯関は 生を目的と し、 生を贋狸とし ている。 従って生のより以上 ( l nehr Lebe ) はあり得 l l l l L 上 b ても生より以 (melras een) はあり得ない。 然. に立っている。 従って 科学的認識は日的を輿えることが 出来ず、 科学の固有の 意味への間に答を輿 えることが出. し果して生はそのま 員理であるのであろうか, 生は自 ら贋理であると主張することの中に、 質理なき生 に陥り. 来ないと云われるのは当然 である。 勿論学の意味への間. 自ら目的たるを主張することの中に目的なき生に陥るの. に全く答える事が出来ないと云うのでは ない。 学の自律 と云う観念がこの立場から生れて来る ・ , 学の自律とは学. ではなかろうか。 生を贋理とすることによる生の絶対化 は鍵理の相対化に他ならない。 こ▲からも亦生存の目的. は学の鰯にあり、 その意義付の鴬に何等他のものを要 し ないということである。 学の自足性の承認で ある。 然る. が明らかにされ学の意味が輿えられる事は期待され得な. に斯様な観念は学が生の様態として現 れたものであり乍 ら、 か る立場的反省を欠いて、 それ が立つ〔いる意義. い。 かくの如き生も意識一般に等 しく抽象的であると云 わねばならない。. 一般の立場を絶対観ずる断に生れて来るものである 即. 確かに生存の目的を典え学の意味を典えうるものは全 体的生である。 然 し全体的生は、 それから否定的に生れ. ち学の自律とは意義 一般の立場になるものを意義一般の 次元から意義づけんとするとき生じて来る観念に他なら. た意識一般に対立的な自然的所輿的生に同じものではな. ない。 アリストテ レスの中に知の自足 .性の主張を見出し 3 ) 的にアリストテレスの観照 主義を語 て、 これと聯関. い。 その如きはついに即目的 なもののもつ抽象性を免れ ない 全体的生は、 新興的生が一度自らを否定的に意識. )ことが--そのアリス トテ レス解釈の当否は措き- る4. 一般に超え乍 らその意識一 般を謂わば止揚的に自己の内. - -可能であるのも、 学の自立の観念と立場の抽象性の相 関を物語って ・る。 学の成立の鴬には成程 意義一般の立. に包み取ることによって可能となるものである。 新興的 ・却って新興的生は贋理の中 生 が賞遮であるのでは ない。. 場の有意義性は云う迄もないが、 それを絶対脱すること によって学を生の目的聯関より断とうとすることは抽象. に入ることによってよく生たり得るのであるる 生は学的. 知識の媒介なくしては単なる所興と して即目的な無内容. 的たるを免れない. の中に崩壊Lなければならない。 同時に意識一般も全体. 所謂生哲学の立場はこの如き科学的知識の自立性を肯. 的生を究極的のものとして自らの 意義がそこから奥えら. -般的立場の縄対性を否定す ん じない。 学、 理性、 意識- る。 科学的主 観は意識-般として抽象的で あり いこ 耳こ. れるものであることを認めねばならない。 意識一般は斯 様な全体的 生の取る一つの立場である。 もし意識一般の. 定すると考えるが故であ る。 基底的な生が学を包むべき であって、 その逆ではない。 学は 生の目的聯関に入り生. いであろう。 誠型は 所 奥 的 所興が贋理で あるのではないと共に、 贋. 生れて来る所謂学的贋理は、 従ってその立場の基底を篇 す生を包み得ず して ・必然的にこの基底的な生を制約し否. に下属すべきであって、 生が学に下属すべきではない。 もし究極的にして諸他一切を意義づけるものを償埋と呼. ぶとすれば、 ,生をこそ贋理と呼ぶべきであって、 学知は その意義をこの生から典えられねばなら ないであろう。. 純然 テ性を主張するものが あれば、 それは却って自らの基. 底としての生を否定することによって自滅せざるを得な. da ben) ではなくそれはむ し ろ 課 題 的 ( (da s sg e e g . b fg 生は贋理の中に入ることに よって ) である e n e e au g 。 よく生たりうると云う場合、 贋狸は端的に輿えられてい るのでなく、 実現さるべきものとして課題的に典えられ ているd 此断に生の実践的であり行動的たるべき所以が ある。 実践的 とは課題的という事である。 而も課題的に. 知識の贋理性は探究的行動の成功によって奥えられると )は、 その行動としての生をま さ する プラグマティ ズム6. 輿えられている贋理は知られたものとして典えられては いない。 全体的 生は虞理に関心的である。 生存のあり方は自己. しく私の呼んだ意味での贋選と しているのである。 断で斯様な立場を 「生が贋理である」 との命題に表現 か し得るとして、 その,生とは何である ,う 。 生は流動的、 ー0.

(12) -- ー ー ー ・ ー .・ ー. 第3 巻 第1 号. 学. 璽. への関心であるとい うのはハイデッガーの人間解釈のモ )が、 全体的生は自己がそれによって目巳 チーフである6. たりぅ ,るものとしての贋理に関心的であることを本質と する。 それは端的所輿の中に嫌うものとしての自然生の. 関心ではなく、 自然的 生を否定的に虞醒の実現に包み入. れんとする全体網生の関心である。 ぃ に思惟が本質的 には実践的たるべき理由があり、 実践が思慮的たるべき 理由がある。 斯様に して全的生の立場を究極的とみることが出来る. とするならば、 この立場からする実践的思惟の究極性の 主張の必然なることが認められるのであろう。 常に自己 の良く生きることへの関心を説いたソクラテ スの実践的. 思惟の意義も自ら明かである。 然し乍ら、 斯くの如き全体的生よりして如何に して虞 理の把握が保証されうるであろうか。 そのことに関して は極めて多くの問題を残 していることは否定出来ない。. カントの実践理性の優位の思想は勿論充分な解決ではな. い。 思惟は普遍的知識を指向する限り意識一般の立場に. 第 一 部. 昭和26年9月. つ限りそとに生れる所謂哲学が絶対的のものではなく、. 歴史的相対的のものである事は認めなければならない で. あろう。 然し全体的生の歴史性の承認 も終局の 解決では ないであろう。 そこには全体 的生の、 立場としての可能 性の問題が鋭く浮び上って来る。 然し今はその論究を今 後に残して一先ず論を終りたい。 . 1 edo 99e . Pha 2 i l: Ex l hy l938 鈴 木 spe s s t s oso } en sphi . Ja ′ Kar -. 三郎訳、 実存哲学 理 -恕諺 16‐26頁. 3 177aー78a)観 照的 な ビロ ソ c . Bth , Ni . ×,7 , 8 (1 ,. 1的に して自足的な最高 の生活であると述べ . ビアが荊 られ てい る。 叉 ヱー41a(電,7). 4 . バーネット「アリストラレス」(服部英次郎訳) 剣 元就、 大思想家 1942 参 照。 バー ネ ッ トは ア リス ト テレスの観照主義を彼がイ オニア人であったことに 聯関づけている。 特に 32一42頁. ‐ 5 l l l i t us s e r rand : 上 t s . も t rn Phi s e , Be .of 下ye , . . p .847-856 に よる。 6 degger i . 1ヱe ,&. o be s -唱43 ・S ,4ヱ. 高坂正願、 カント、 弘文堂 61頁、 カ ントの理 ‐性が 関心を有する理 ‐性であることが指摘されている。. 立つことを必須と しないか。 少くとも金的生の立場にた. 上代文 学の光彩感と 色 彩 感 土. 田. .知. 雄. 北海道学製大学旭川分校国文学研究室 l f Br i l l l co lour Ch ikno ll t i ia t sUCHIDA : T1 C Es 〕 se o , e c Se1 ・ ・ ( , 1 cy ユ1 s i n Ancient Japanese Literature .. り入り給ひ、 岳に放たしめ給ひき。 侮りて名を賜ひて醤 わが上代の文学精静が 「清明」 であることは、 すでに )が指摘して居られるが、 今その形成の過 久松潜」博士1 程を、 光彩感と色彩感の側面から考察してみよう。 上代 人の光彩感と色彩感とは、 常に審美的であったとは云い )は上代人の・ 難い。 森本治吉氏2 自然感情を段階的に見て 居られるが、 本論においても、 上代の光彩感、 ならびに 色彩感の展開を、 四段階と見たいと思う。. 先ず第一段階として、 それらは畏怖や崇敬の情に基く 呪的宗教的な性質を帯びていた時期と云 え よ う。 雄 略 )に、 [膜、 三諸の岳の紳の形を見まく欲りず」 と云 紀3. われた天皇が、 少子部運蝶蹴の持ち来つた 「大きなる 麹」 を見て、 「畏みて目を蔽ひて見給はず、 殿の中に1 謂. とあるのは、 まったく と鴬しき」 .. ま抱こ かおや. 「其の雷箸嵩霜き」. 目精赫赫な」 るによるのである。 古代信仰において・. 叙、 雷、 蛇が循環して、 その対象となっていること は 、 )がすでに説いて居られるが それらが稗 折口信夫博士4 、. 秘的勢能を認められたのは、 主としてその 光輝能力によ. ’低級な文化階層にある民族 ることは明かである。 叉、5 が、 他の蔵会集園の成員の 「邪覗」 を恐怖するのは 実 、 に甚大である。 静代紐において、 葦原の中っ圃に 「多に 蜜火の光く稗」 があるというのは、 日向種 族の出雲種族. に対する恐怖の表現とみることができよう。 元来、 心意 Eな人ほど、 きら● のコ跡巷 きら光る現象に対して、 抵抗する. ことができない張烈な刺戟を受けるものである。 それゆ. 1 え、 光輝 (G i anの や燦欄 (Bund t l e ) に 対 しては、 原. .・ ‐. .

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