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アメリカ社会における司法審査制度の機能論(2)

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(1)Title. アメリカ社会における司法審査制度の機能論(2). Author(s). 籾岡, 宏成. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 68(2): 63-71. Issue Date. 2018-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/9700. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文・社会科学編)第68巻 第2号 Journal of Hokkaido University of Education(Humanities and Social Sciences)Vol. 68. No.2. 平 成 30 年 2 月 February, 2018. アメリカ社会における司法審査制度の機能論⑵ 籾 岡 宏 成 北海道教育大学旭川校法律学研究室. The Role of Judicial Review in American Democracy, Part 2 MOMIOKA Hironari Department of Law, Asahikawa Campus, Hokkaido University of Education. ABSTRACT In the United States of America, contrary to the standpoint of “democracy-assisting judicial review,” an ardent advocate of judicial supremacy, there has been a rising powerful trend dubbed the “Anti-Court movement” acutely criticizing judicial reviews wielded by the Supreme Court. This Article introduces and summarizes the works of several prominent Anti-Court scholars in modern America, including Larry Kramer, Mark Tushnet, and Cass Sunstein. We find that what they have in common are; a deep reverence toward democracy in America and political results, and a mistrust of elites such as judges, lawyers and legal academics.. Ⅲ.司法審査制度廃止論 前稿では,司法審査制度に民主主義を促進する機能ないし側面があるという立場の論者による議論をいく つか紹介した1。そうした議論は,出発点においては押し並べて,ビッケルの「反多数者主義の難点」という 前提, すなわち裁判所は反民主的であるという前提を根本的に切り崩すことに主眼が置かれていた。そして, 司法判断と民主主義との間には親和性が見られることなどを根拠として,司法審査制度はアメリカ社会の中 で一定の機能を果たしているのだという肯定論が展開されていることを確認した。 本稿では,そうした司法審査制度の「肯定論」とは真逆を行くいわゆる「反最高裁(Anti-Court)学派」 による司法審査制度廃止論を検討することにする。とりわけ,歴史的観点から司法による最小統治を説くラ リー・クレイマー,独自の憲法理論から大衆立憲主義を主張するマーク・タシュネット,司法最小主義を説. 1  拙稿「アメリカ社会における司法審査制度の機能論⑴」北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)67巻1号65頁(2016 年) 。. 63.

(3) 籾 岡 宏 成. くキャス・サンスティンなどの論稿を取り上げ,それぞれの司法審査制度否定論を吟味する。 1.司法最小統治論(ラリー・クレイマー) 司法審査制度に対する包括的な反対論を展開し,反司法主義の急先鋒とされるのが,現在スタンフォード 大学ロー・スクールで教鞭を執るラリー・クレイマーである。2004年に刊行された著書『人民自身:大衆立 2 では,合衆国最高裁判所にではなく人民にこそ合衆国憲法をめぐる優越的な解釈権が与 憲主義と司法審査』. えられているという,クレイマー独自の「大衆立憲主義」論が展開されている。本書の叙述の大半は,アメ 0. 0. 0. 0. 0. リカ建国時代の政治家らが司法部に過度の負担がかかるような事態を,いかに想定していなかったかに注ぎ 込まれている。合衆国憲法制定当時の発想からすれば,本質的に立憲主義は規範的な議論ではなく,歴史的 な議論であるというのが,クレイマーの出発点である。 クレイマーによれば,合衆国憲法に関する究極的な解釈権限は人民に付与されているという。そもそも, アメリカ建国当時においてはそれが現実に行われており,人民は,選挙やタウン・ホールなどの政治的チャ ンネルと,暴徒化・暴力的な抵抗などのより直接的な行動の両方によって,自らの権限を行使していた。ク レイマーは,憲法制定者らが司法審査制度を考え出したという議論を徹底的に否定する。そうではなく,司 法部は持ち込まれた事件について判断を下す中で憲法についての解釈を示すのは可能であるが,その法的判 断は他の政治部門を拘束しないといった,ある種の緩やかな権力分立制度が初期の政治家たちの頭の中にあ り,実際にそれが実務として運用されていたのだと彼は主張する。こうした歴史観に基づいたクレイマーの 大衆立憲主義は,この時点での司法審査制度の運営を否定するものではなく,彼の言葉を借りれば,「裁判 官が(憲法に関する)最終的な発言権を持つことを否定しているに過ぎない」3ことになる。 しかしながら,歴史上のある時点から,上記の「緩やかな」権力分立制度という概念が薄らいでいく。司 法審査は,特定の限定された形態の制度へと強引に変えられることになるが,これは連邦政府による高度な 統制(High Federalism),エリート主義,商業的利益,大衆支配を恐れたマディソン派などの産物であると いう4。19世紀の中葉(クレイマーの研究対象はこの時代で終了している)までには,裁判官たちは時として 司法審査という制度を利用しようと試みるようになるが,そうした時でさえ,大衆的・政治的な利益集団か らの強烈な抵抗に会っていた事実を指摘する。 本書では,結語にあたる最後の2つの章とエピローグにおいて現代の司法審査制度について論じており, ここで著者のクレイマーの語気が最も強くなっている5。彼はレーンキスト・コートが権限を拡大していたこ とについて強烈に批判を加えているが,それはレーンキスト・コートが過去のどの時代の最高裁よりも「司 法積極主義が顕著」であり,司法上の権限を「自らの論理的な結論」に引き込んでいると彼が信じているか 「憲法を形成する過程から普通の人々を追放する」という悲劇である「司法部に らである6。最悪なことに, よる権限の簒奪」を大衆の側が受け入れてきた7。人民は,建国当時に有していたのと同じように,憲法を解 釈する最終的な権限者であるという本来の姿を取り戻すことに自覚的でなければならないと,クレイマーは 説く。. 2  Larry D. Kramer, The People Themselves : Popular Constitutionalism. and. Judicial Review (2004). 本書を紹介した邦. 語文献としては,木南敦「憲法の番人はだれか」アメリカ法〔2005-2〕303-309頁がある。 3  Id. at 208. 4  Id. at 128-30. 5  Id. at 227-53. 6  Id. at 225. 7  Id. at 233.. 64.

(4) アメリカ社会における司法審査制度の機能論⑵. しかしクレイマーは,いかにして人民を元来の任につかせるかについては,ごく簡単にしか触れていない。 本書の最後の章において,実務的に人民立憲主義が何を意味するかについて繰り返し問われていることに驚 きを隠せないと述べ,この点を明らかにするべく以下の一文を本書に掲載している。 過度に独断的な最高裁に対しては,無数の政治的な反応がある。すなわち,最高裁の判事らを弾劾す ることは可能であるし,最高裁に対する予算を大幅に削減することも可能であるし,大統領は最高裁 の命令を無視することは可能であるし,連邦議会は最高裁から裁判管轄権を奪ったり,その規模を縮 小したり,新たなメンバーで囲い込みを行ったり,非常に厄介な責任を押し付けたり,またはその手 続きを改めたりすることも可能なのである8。 クレイマーが本質的に求めているのは,司法部を再び政治の枠組みに入れることであるが,それは,通常の 政治過程を通じて「人民」が自分たちの声を届けるのが本来の姿であるからである。結局のところ,本書は 大きく2段階の主張から成り立っている。第1には,司法審査は本質的に危険で,歴史にそぐわない制度で あるというものである。第2には,反乱,市民の不服従,適用拒否のいずれかを組み合わせることが,司法 審査制度の廃止のために必要であるという議論である。 2.大衆立憲主義理論(マーク・タシュネット) クレイマーとともに大衆立憲主義の立場を強力に擁護しているのが,ハーバード大学ロー・スクール教授 のマーク・タシュネットである9。法学の世界に衝撃を与えたとされる彼の代表的な著書『裁判所から憲法を 奪う』10は,挑発的で哲学的な内容の書である。タシュネットは,司法審査制度そのものを廃止する「大衆 立憲主義(popular constitutionalism) 」11を本書で提唱している。司法審査は本質的に非生産的であり,より 骨太の(すなわち大衆の)憲法的価値の生成を阻害するものであり,しかも民主主義や少数者の権利の保護 を著しく促進するものではないと,彼は考えている。簡潔に言えば,民主主義にも個人の権利にも何の利益 をもたらさないのが司法審査制度の実態ということになる。 タシュネットの業績における主張の核心は,他の反最高裁学派のそれと同様に,現在アメリカ合衆国で実 践されているはずの民主主義に対する深遠な崇敬に根ざしている。より正確に言えば,我々の諸権利を実現 してくれることを司法に求めるという誤った期待がなければ花開いていたはずの民主主義の理想像が,タ シュネットの主張の根底にはある。タシュネットに言わせれば,人々の意思に憲法上の拘束力を持たせるこ とは,最高裁が道を譲りさえすれば,常に可能なこととなる。例えば,無料の住宅供給といった社会福祉政 策に関する権利を定めた条項を立法府が合衆国憲法第14修正に入れることは,最高裁がこれを阻止しない限 りは,十分に可能なことである。 タシュネットは周到な議論を展開している。連邦主義や各部門の組織構成などの,合衆国憲法中の多くの 特質は,自らを擁護するために司法部を必要としない「独立執行性」にあると,彼は指摘する12。例えば, 大統領が合衆国憲法第2編に列挙された項目の1つである法案拒否権を発動することによって,同編の範囲 を広げようと試みた場合,国家として大統領の行動を制限するためには,最高裁に何らかの行為を求める必 要性はなく,世論の声,連邦議会の抗議,報道機関による圧力,執行府内部での論争などが,大統領を辞任 8  Id. at 249. 9  タシュネットの経歴および憲法思想の概要については,大河内美紀「マーク・タシュネット 批判法学最後の雄?」駒 村圭吾他編『アメリカ憲法の群像 理論家編』179-201頁(尚学社,2010年)を参照。 10 Mark Tushnet, Taking. the. Constitution Away. from the. Courts (1999).. 11 Id. at 177. 12 Id. at 110.. 65.

(5) 籾 岡 宏 成. へと追いやることが可能である。 主として民主主義に深く関連する憲法上の他の諸権利についても,司法審査制度がなくてもこれらを保障 することが可能である。というのも,それらを保護するための政治的・構造的なインセンティヴを合衆国憲 法自身がすでに創造しているからである。一般的な期待とは裏腹に,連邦議会は少数者の諸権利を十分に認 識することが可能である。その例としてタシュネットが提示するのは,妊娠中絶と銃の保有に対する権利で あるが,これらは両者とも強力な大衆的支持があるため,司法審査制度が存在しなくても存続しうるもので ある。合衆国憲法を保護すべく司法部以外の他のアクターが空白地帯に入り込むため,司法の機能を削減す ることが大衆的民主主義の再活性化に結び付くと,タシュネットは主張する。 最後にタシュネットは,司法審査が民主主義や少数者の諸権利に対して特別な利益を与え続けてきたとい う主張を斥ける。その一例として彼が指摘するのは,合衆国最高裁は合衆国憲法第1修正という剣を用いて, 選挙活動における資金供給や誤解を招くような企業の言論を制限する立法部による規制を憲法違反として無 効としてきたことである。タシュネットに言わせれば,これによる帰結は,司法審査によって資金力の豊富 な利益団体が政治的な力を増大させるというものであって,少数者の諸権利を守るといった模範的な姿とは 程遠いものである。さらにタシュネットは,個人の諸権利に過度に焦点をあてることは,草の根的な政治運 動を弱体化させるに過ぎないという,ジェラルド・ローゼンバーグを始めとする論者の一般的な見解に与し ている。 簡潔に言えば,司法審査制度は,アメリカ社会における実践的な政治哲学を促進するのではなく,阻害す る存在ということになる。司法審査が諸権利を促進する潜在能力は現実には「かすかに聞こえる騒音」に過 ぎない13。最高裁が明示しない場合でも,合衆国憲法は政治的なアクターに強力な影響力を行使するという 点において,憲法は「独立執行的」であるという理由と14,政治的アクター自身が,憲法的な議論に関与で きる能力を示してきたという理由の両方により,司法審査は過分で無用の制度である。つまるところ,司法 審査制度の存在がなくても,アメリカ国民は立憲主義を採用することができ,しかもそれを執行することが 可能なのである。 このようにして見ると,タシュネットの『裁判所から憲法を奪う』は,クレイマーの『大衆立憲主義と司 法審査』と双璧をなす書であると言える。クレイマーの著書が歴史的な背景を提供しているのに対して,タ シュネットは深い洞察を含めた理論を提供している。両者に共通しているのは,大衆には憲法的な問題を独 自に解決する能力があり,最高裁が人民の特権に介入するのが常態化することは百害あって一利なしという 認識である。 3.司法最小主義(キャス・サンスティン) クレイマーやタシュネットが司法審査そのものを否定し,そもそも最高裁が行動す「べき」なのか否かを 問題としているのに対して,最高裁が「いかに」行動するのかについて強い関心を示しているのがキャス・ 16 において彼は, 「司法最小主義(judicial minimalism)」を提唱 サンスティンである15。その書『眼前の事件』. しているが,それは,民主的熟議の余地を残し定言的なルールを回避するような,事件を判断する際の過程. 13 Id. at 153. 14 Id. at 96. 15 サンスティンの経歴および主要業績については,森脇敦史「キャス・サンスティン リスクと不確実性の憲法学」駒村圭 吾他編『アメリカ憲法の群像 理論家編』255-74頁(尚学社,2010年)を参照。 16 Cass Sunstein, One Case. 66. at a. Time: Judicial Minimalism. on the. Supreme Court (1999)..

(6) アメリカ社会における司法審査制度の機能論⑵. のことである。 司法最小主義には, 「狭さ」と「浅さ」という二つの特徴がある17。「狭い」裁定とは,目の前にある事件 を解決することであって,適用範囲の広いルール作りを回避し同様の事件を未解決にするものである。この 立場によれば,連邦議会や未来の最高裁に同一の争点に回帰することが許容されることになる。「浅い」裁 定とは,深い哲学的思考や憲法的な考察を回避するものであり,主要な根本原理について意見が一致しない 可能性のある政治的アクターが, 「不完全な形で理論化された合意」に達するのが許容されることになる18。 サンスティンの見解によれば,こうした司法最小主義は,最高裁判決におけるオコナー裁判官の意見や,司 法的「中庸性」についての語りとともに,最高裁入りする前のロバーツ裁判官の発言の中に散見されるとい う。 サンスティンは,司法最小主義には2つの主要な利点があると考えている。第1には,司法最小主義には 民主主義を促進する機能があるという点である。包括的な法廷意見を用いて議論を打ち切るのではなく,政 治的アクターを特定の方向へ導くことによって,最高裁は,対話や民主的参加を促進し,政治的過程を通じ て議論されている論点の実質的な解決を達成することができる。第2の主要な利点は,最高裁の能力の制度 的な「狭さ」と司法最小主義との間の親和性である。専門家の知見を活かして誤りを適切に修正できる立法 機関とは異なり,最高裁には政策に関する専門知識が根本的に欠落している。このことが意味するのは,最 高裁が包括的なルール裁定の過ちを犯す危険があるということだけではなく,修正機能を不全にするような 先例を過度に尊重する価値観を習得していることも含まれている。それに対して司法最小主義は,こうした 2つの危険を解消するものである。司法判断に要するコスト,司法の過誤から生じるコスト,そして想定外 の帰結というリスクを切り下げることによって,司法最小主義は社会全体が被る被害を最小限にとどめるこ とが可能となる。 サンスティンが『眼前の事件』において論じているのは主として司法判断の過程であるものの,この著書 は政治的な観点から書かれたものである。サンスティンは,司法最小主義を促進しているとして1990年代の 最高裁の諸判決におけるケネディー,オコナー,ブライアなどの裁判官の意見を高く評価している。その上 で彼は,一見すると逆説的に映るかも知れないが,リベラルと看做されるウォーレン・コート時代の原理的 な革新は,政治的勢力による「立入り禁止」の憲法的な領域を創造したものであるから,保護されるべきで あると説いている。こうして,裁判所へのアクセス,公民権,投票権といった重要な諸権利に関する「合意 の上の枠組み」が存在していることになる。 サンスティンは,これを「司法最小主義の中核」と呼んでいる19。この中核部分を超えていくのが司法に よる革新であって,これについて彼は疑念を抱いている。本質的にサンスティンの議論の中心は,どの部門 が問題を解決するのに最善の地位にあるかという,制度上の能力に関するものである。次に見るように,ロー ゼンが最高裁そのものに積極主義の正当性がないから危険だと論じているのに対して,サンスティンは,そ もそも最高裁は積極主義に対する適格性を有していないのだと考えている。 4.最も統治を行わない部門としての最高裁(ジェフリー・ローゼン) 他の反最高裁学派の論者にとっては,司法にどこまでの権限を認めるかの判断を司法自身に委ねることは 回避しなければならない。これに対してジェフリー・ローゼンは,政治的帰結に関わる試みから最高裁自身. 17 Id. at 10-11 18 Id. at 42. 19 Id. at 62.. 67.

(7) 籾 岡 宏 成. が撤退することを求め,その代わりに「党派主義的な司法の自己抑制(bipartisan judicial restraint)」を擁 護する。人民が立ち上がることをクレイマーが求めていたのだとすれば,最高裁による自己抑制をローゼン は求めていると言えるだろう。なお,前稿では司法審査が多数者主義であると説く論者としてローゼンを取 り上げたが20,本稿では多数者主義的であるがゆえに最高裁の自己抑制を説くという趣旨で彼の議論を紹介 する。 ローゼンが問題とするのは,効率性と信頼性である。最高裁が政治の茂み(political thicket)にあまりに も頻繁に立ち入ることによって,自らの権限が危機に陥ることになるとの懸念を彼は示している。ローゼン にとっての理想の最高裁像は,政治部門に不要な介入をせず余計なことも言わない「謙抑的」な存在となる ことである。 ビッケルと同様にローゼンは,最高裁は敬譲と抑制という立場に戻り,大衆的多数派が憲法上の大半の問 題を扱うことを許容すべきであると考えている。彼は,左派・右派を問わず,司法部を「ハイジャック」し 自身の理想像にアメリカを再構築しようと目論んでいる過激派を激しく非難する。左派のリベラル派の中で は,死ぬ権利,中絶する権利,同性婚,国際法の積極的援用を推進しようとする論者に,ローゼンは批判を 加える21。右派の保守派の中では,広く人民の支持を得ている多数のリベラルな連邦の政策を無効にするこ とを公言している,最高裁裁判官のスカーリアによる原意主義を彼は激しく攻撃する22。 司法積極主義の熱烈な信奉者らは,最高裁が提示できる正当性の源泉が極めて限定されたものであること を忘れていると,ローゼンは考えている。最高裁がその権限を行使できるのは,反多数派の動きが根源的な 原則を保持するために必要不可欠な,真に例外的な場合に限られる。そうした場合の例としてローゼンが挙 げるのは,1954年のブラウン対教育委員会事件判決(Brown v. Board of Education of Topeka, 347 U.S. 483)および一人一票原則について判示した1964年のレイノルズ対シムズ事件判決(Reynolds v. Sims, 377 U.S. 533)である。ローゼンが理想とする裁判官の1人であるフランクファーターは,前者においては両義 的な態度を示しており,後者においては反対意見に回っている。党派的司法抑制は,あと知恵の中で最もよ く機能するものなのかも知れないとローゼンは指摘する。 ローゼンは大概の場合において,大きな司法判断に対しては批判的である。彼が懸念するのは,最高裁が 「国全体の憲法に関する見解」にあまりにも先に進んだ判断を示す場合には,その結果として生ずるであろ 「アメリカ人民の多数によって活発にかつ集中的に異議を唱えられる」 う憲法上の混沌・混乱状態である23。 ような憲法原則の名において,ある法律を違憲と判断することは,仮にあるにせよ,あくまでも例外的なも のにすべきであると彼は述べる。そうした論点には,中絶を行う権利,アファーマティブ・アクション,大 統領権限などが含まれるが,これらについては多数派者が自分たちの考えを反映させればよいということに なる。 クレイマーと異なるのは, 「人民による抵抗」を期待する粘り強さがローゼンにはない点である。むしろ, 憲法的な議論は連邦議会やホワイト・ハウスで行われるはずのものであって,最高裁はそれらの政治部門の 見解には敬譲を払うべきであるという。ローゼンにとっては,反多数者主義的な行動は許容されないのだか ら, 反多数者主義の困難という問題はそもそも全く不問に付されることになる。彼は次のように記している。 裁判所が激しく争われている政治的論争を簡略化して結論を急ごうとするとき,…問題となっている. 20 拙稿,前掲・注1,71頁参照。 21 Jeffrey Rosen, The Most Democratic Branch: How 22 Id. 23 Id.. 68. the. Courts Serve America xv (2006)..

(8) アメリカ社会における司法審査制度の機能論⑵. 政治的論争の究極的な帰結に対して劇的に影響を与えることもなく,自らの正当性を危機に晒すこと は起こりがちである。長期的な視点に立つと,アメリカの多数者は常に自分たちの思い通りにしてい るのだ24。 そしてローゼンにとっては,それが本来の望ましい姿ということになる。 5.反最高裁学派の共通項 論じている焦点や範囲に異なる点はあるものの,本稿で取り上げたクレイマー,タシュネット,サンスティ ン,ローゼンらの論者には共通した認識が見受けられる。彼らの議論の重なり合う部分を整理・検討するこ とは,司法審査肯定論との接点となる論点を見出し,司法審査制度をめぐる議論の全体像を把握するのに役 立つものと思われる。 恐らく最も重要なのは,反最高裁学派の立場の論者たちが共有するのは,政治的部門の方が合理的に機能 するのだという強い確信である。すなわち,アメリカ国民の全てが政治に参加しており,そこから排除され 周辺化される者は皆無であるという前提である。確かに少数者は一定の政治的争いに敗れることもあるかも 知れないが,すべてを失うわけではない。なぜならば,少数者が他の集団と提携関係を結び自らの利益を促 進することは,決して容易というわけではないにせよ,その途が閉ざされてはいないからである。これは, 「単数の少数者ルールではない,複数の少数者ルール」25というロバート・ダールによる有名な文言に典型 的に表れている。 ダールがそうした言葉を残したのは,依然として人種差別が熾烈を極めるなかで,アメリカ社会が全ての 国民の政治的平等を正式に宣言しようとしていた,ある意味で特殊な時代においてであった。反最高裁学派 の論者らも, そうした人種的不正義の時代の異常性について異議を唱えているわけではない。むしろ彼らは, 多数者による政治がその本来の機能を果たした一例として,そうした暗黒時代からアメリカが進歩を遂げた ことを評価している。当時はひどい時代だったかも知れないが,現在は格段に良くなっている。しかしこれ は司法判断が社会の中で適切に機能したからというわけではなく,政治過程がうまく機能したためであるか ら,大衆部門に信頼を置くことが可能なのである。ローゼンとクレイマーは,民主過程の欠陥を是正し, (と りわけ黒人の)投票権を拡張したとして,ウォーレン・コート時代の司法による革新と,ケネディーおよび ジョンソン政権のリベラリズムとの連携を賞賛する。表現の自由,投票権,不当な州法からの自由などの保 26 となっていて,裁判所や連邦議会によって覆ることはあり得ないと, 護は, 今や「基本的なコミットメント」. サンスティンは述べている。換言すれば,通常の政治過程が正常に機能しているがゆえに,裁判所の重要性 は薄れているというのである。 しかし,だからといって,反最高裁学派の論者たちが現代の政治における不完全さに盲目的であるという わけではない。むしろ,欠陥が長期にわたって継続している場合には,それは必ずといっていいほど,他な らぬ最高裁による失敗が原因となっていると説く。タシュネットは,政治過程へのアクセスの保護について 最高裁は特に無頓着であると主張し27,ローゼンは,それについて最高裁は政治的リスクを冒してまで熱心 に取り組んでいないと主張する28。いずれの議論によっても,最高裁は問題を引き起こす存在であって解決. 24 Id. at 5. 25 Robert Dahl, A Preface. to. Democratic Theory 131-32 (1963).. 26 Sunstein, supra note 16, at 63. 27 Tushnet, supra note 10, at 10. 28 Rosen, supra note 21, at 120, 144, 149, 208.. 69.

(9) 籾 岡 宏 成. 策ではない。解決策を提示するのは司法部以外の他の部門ということになる。 民主的過程に対するこの信頼は,誰が合衆国憲法を解釈すべきなのかという問題に拡張する。反最高裁学 派の論者たちは,政治的部門により幅広い解釈権限が与えられていると捉える立場に与している29。クレイ マーは,人民による憲法解釈能力に対して「相応の敬意」を払うことを要求している。彼は,合衆国憲法が 「あまりにも複雑または難解である」という概念を斥ける30。タシュネットは,適切に任命されさえすれば, 連邦議会は憲法上の価値を保護するのに極めて卓抜した仕事をするに違いないと考えている31。サンスティ ンも同様に,司法最小主義によって,アメリカの憲法システムが熱望している「熟議の民主主義(deliberate democracy) 」が促進されるのだと説く32。 この「人民」に対するある種の崇敬は,裏を返せば,エリート支配に対する深い不信とも言える。法学者, 弁護士,裁判官,そして表向きにはリベラル派の善行者でさえ,人民が民主的過程へ参加するのを阻害して いると彼らは考えている。エリート層は大衆を見下すものであって,自分たちの知恵だけで,裁判所を通じ て憲法上の諸権利を保護することができるのだと言いたげな態度をとっているという。 反最高裁学派の法学者にとって,司法審査制度を擁護するリベラル派は, 「貴族の現代版」である33。リベ ラル派は,市民の「心情や性格の脆弱性」を見くびっており34,「投票に対する根強い恐怖心」を抱いてい 「人民が行うであろうことに恐れを感じ」, 「人民による直接のコントロールから隔離された小 る35。しかも, 規模の組織」のみが支配権を行使できると考えている36。さらには,「司法的利益集団」は,「国家としての 多数派の見解に無関心」なまま暴走している37。 こうした発想が,とりわけ裁判所に対する不信に結びつくのはごく自然なことである。サンスティンが懸 念するのは,情報収集,政策立案,誤りの修正といった能力の欠如に対して,裁判官らがあまりにも無自覚 「深い熟慮というベニヤ板」を であることである38。クレイマーは,司法判断の内容が世論と異なる場合に, 映し出すロー・クラークに最高裁の裁判官たちが牛耳られていると考えている39。ローゼンの見解によれば, 最高裁裁判官たちの態度には傲慢さが見受けられ,現実には反動的な判断を示しているに過ぎない場合でも, 世論を促進・リードし,自説に世論を捻じ曲げる能力が自分たちにはあると近視眼的に誤信している40。 最後に,反最高裁学派の論者に共通して見られるのは,レーンキスト・コートおよびロバーツ・コートに 対する深い憤りである。彼らはいずれも政治的にはリベラルであって,彼らの主要な批判が出てきたのは, レーンキスト・コート時代の終盤であった。その意味では,時期的な問題として彼らの怒りは,その当時に 政治的な争点となっていたものに向けられている。タシュネットは,企業による言論を最高裁が保護したこ とに対して憤りを表明していた41。サンスティンは,アファーマティブ・アクション,選挙資金規制,少数. 29 Kramer, supra note 2, at 246. 30 Id. at 248 31 Tushnet, supra note 10, at 65-70, 107. 32 Sunstein, supra note 16, at 24. 33 Kramer, supra note 2, at 247. 34 Id. 35 Tushnet, supra note 10, at 177. 36 Kramer, supra note 2, at 246. 37 Rosen, supra note 21, at xv. 38 Sunstein, supra note 16, at 255-57. 39 Kramer, supra note 2, at 240. 40 Rosen, supra note 21, at 80, 202. 41 Tushnet, supra note 10, at 129-33.. 70.

(10) アメリカ社会における司法審査制度の機能論⑵. 者保護を目的とした議会の立法権限などを狭める趣旨の最高裁判決を批判していた42。クレイマーは,銃規 制法,ドメスティック・バイオレンス規制法,障がい者保護法などを最高裁が覆したことを攻撃していた43。 ここから分かるのは,こうした反最高裁学派の論者が批判の対象としているのは,司法部全体というよりも, 合衆国最高裁そのものであるということである。 さらに言えば,反最高裁学派は,リベラル派の論者たちが唱える「包括的な憲法理論」のどれ一つとして, 保守派の躍進を阻止したものがないという認識で一致している。ジョン・ハート・イリィ,ジェッシー・ チョーパー,ローレンス・トライブ,ブルース・アッカーマンなどによる業績は,少なくともその当時は全 く説得力がなかったわけではないにせよ,結局は何の役にも立たなかったことになる。ある政治学者が論じ たように44,新奇な解釈上のテクニックの創出に固執すると,結局は法学界と法実務との間に溝が生じ,そ の時代の政治的な問題にリベラル派が解決策を提示できないという帰結に陥るのである。反最高裁学派の議 論の出発点は,司法審査を肯定するリベラル派の試みが悉く失敗に終わっているという前提である。 6.小 括 以上述べてきたように,反最高裁学派の論者の業績にはいくつかの特徴が見られる。それらを要約すると, ①アメリカ民主主義に対する崇敬ないし固執,②戦後のリーガリズムの潮流を牽引してきた法学者,裁判官 などの法曹界およびエリート層に対する徹底的な不信,③レーンキスト・コートおよびロバーツ・コートの 最近の最高裁判決の多くに対する拒絶反応,ということになる。 これらの中で,前稿で検討した司法審査肯定論者との比較で言えば,②および③については反最高裁学派 を特徴づける固有のものであるのに対して,①は両者に共通するものと言えるだろう。①の民主主義と司法 審査制度の関係は,いずれの立場にとっても,依然として極めて重要な論点であり続けている。なぜならば, 司法による判断が独善的に暴走することなく民主主義と合致することは,司法府による行為に対して正当性 を付与する要素の1つであることに変わりがないからである。 そうなると,民主主義的であるか否かの1つの指標でもある「世論」ないし「民意」と,最高裁による憲 法判断(とりわけ違憲判決)との関係がどのようになっているのか,すなわち世論と違憲判決との因果関係 ないし相関関係に関する客観的な証拠の有無が,議論の進展への鍵となるはずであった。しかしながら,残 念なことに,反最高裁学派も司法審査肯定論者の両者とも,実証された事実に基づく議論を展開しているの ではなく,特定の時代の最高裁による諸判決への考察に囚われていたり,過度に規範的な議論に終始したり で,決め手ないし十分な説得力に欠けているという印象は拭いえない。 次稿以降では,世論と違憲判決との関係について,統計的な分析を駆使し実証的に検討した研究なども紹 介していきたい。. 追 記 本研究は,日本学術振興会の科学研究費補助金(基盤研究(C) 「平等権違反をめぐる司法の機能論に関す る実証的検討」課題番号25380002,平成25-28年度)による成果の一部である。 (旭川校教授). 42 Sunstein, supra note 16, at 3, 8, 249. 43 Kramer, supra note 2, at 227-30. 44 Keith Whittington, Herbert Wechsler’s Complaint and the Revival of Grand Constitutional Theory, 34 U.Rich.L.Rev. 50943 (2000).. 71.

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