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兵式体操の成立と軍の対応

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Academic year: 2021

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(1)Title. 兵式体操の成立と軍の対応. Author(s). 遠藤, 芳信. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 34(1): 199-212. Issue Date. 1983-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4919. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 兵式体操の成立と軍の対応. 遠. 1. 藤. 芳. 信. はじめに --‐学校における軍隊教練導入の構想 --. 近代日本が1 87 2年の 「学制」 と187 3年の徴兵令を発足させたとき, 軍隊の教練 (主に歩兵科の 教練・演習, 操練) を, 学校や民間社会に大衆的に導入しようとする試みが構想されていった こ 。 の 構 想 は, や がて お よ そ, 二 つ の 方 向 と して あ ら わ れ て い っ た。. 第一の方向は, 学校での教練を軍事予備 教育として位置づけ, 兵役年限短縮と結合させようとす る 構 想 であ る. こ の 構 想 は, 1880 年 代 に 入 っ て, さ ら に, 二 つ の 潮 流に 分 れ て い っ た そ の 一 つ は , 。. 軍事予備教育の中では特に軍隊の教練の技術的側面を追求し, 大衆的な教練をしだいに特定の少数 者に限定して課するもの であっ た。 これは,187 0年代後半から1 880年代前半にかけて, 主に文部省 系o文官系官僚によ って主張さ れた。 その二つは, 軍事予備教育◎兵役年限短縮を目的にしつつも , 特に, 国家防衛の精神や愛国心の育成, および, 軍隊の教練の大衆的な普及 を強調するものであっ た. これは, 主に, 自由民権運動の活動家などによっ て主 張された。 第二の方向は, 軍隊という一つの集団としての生活の営みの構造や機能の教育的意義 (文明や資 本主義を促進させる精神的態度の養成) と結合させつつ, 軍隊の教練の大衆的普及を通して, 国民 教育に寄与していくことを目的にするも のであっ た これは,1 880年代後半において,森有礼によっ て 構 想 さ れ て いる.. しかし, 以上の第一と第二の構想は, ともに, 主として, 軍隊の外部から生まれた共通点がある . そして, 特に, 第一の方向の第二の潮流と, 第二の方向が発展するならば, 住民の大衆的な軍事 の 訓練, および, 住民の自主武装に転化しかねない側面をもっていた。 本稿では, 以上のような学校などに対する軍隊の教練の大衆的普及に対して軍隊側 が消極的姿勢 や対応を示してきたことを, 兵役年限短縮や軍事予備 教育との関係 で考察するものである 。. 1 1 学校における 「歩兵操練」 教授の構想--一 軍事予備教育偽兵役年限短縮を目的とする 軍隊教 練の導入 -- 軍事予備教育や兵役年限短縮を目的にしつつ, 軍隊の教練を一般民間において実施しようとする 1 ( )は 学校 構想は, 187 3年徴兵令前後からあらわれている。 たとえば,1873年の「山田顕義建白書」 , 教育の整備の先行と大衆的な軍隊の教練の普及によっ て, 短期間の軍隊服役が可能になることを構 想していた. すなわち, 山田顕義は, まず, 学校教育の整備o拡 充によって (人民一般の知識り教 養の向上) , 人民大衆に 「国権」 や 「各自所有ノ権」 の保護り固守を理解させることの重要性を強調 199.

(3) . 遠. 藤. 芳. 信. している. つぎに, 山田は, 一般 民間での軍隊の教練の具体的な実施に関しては, 「国民中貴賎貧富 ノ別ナク幼稚ノ時ヨリ頻隣交ニ於テ普通学ヲ教へ兼テ採器調練ヲ 演ハシ(割注略 -- 遠藤) 是し人民 ラシテ各自文武ノ道決シテ偏 ナルヘカラサルラ知ラシメ」 と 「文武」 の両立を強調する立場から, 「文部所轄ノ諸小学校学則ニ増加スルニ陸軍所要ノ技術体術演陣ノ如キ者ヲ以テシ, 童子年齢十歳 ヨリ十六歳迄ノ者ラシテ毎日 一時間又ノ、三十分時間之ヲ教練シ, 毎日曜日ニ於テー村落ヌハー郡ニ 召集合併シ之ニ付スルニ其地在住ノ陸軍下等士官ヲ以テシ陣法ヲ演セシムヘシ. 如此シテ八年若シ クハ十年ヲ経ノ・ , 皇国壮年ノ人民悉ク文武ノ大概ヲ了解シ, 遂ニ老少ノ別ナク文 武ヲ知り続々絶ユ ルコトナキニ 至ルヘシ. 於是始テ兵卒ヲ徴募シ隊伍ニ編スヘシ. 其徴募ノ・各地ニ付シ招集スヘシ. 此時二当テノ・其徴募二応スル者ラ斉歳悉ク皆読書筆算ヲ知り技術体術演陣ヲ知 ル, 故二入営ノ日二至 り教授スヘキ者ノ・陸軍所要ノ数件ニ過キス. 是以滞営ノ日数ニケ月又ノ、三ケ月ニシテ 十分ナルヘ シ.」と述べ, 文部省管轄小学校における軍隊の教練の大衆的な実施によって, 兵役期間短縮(2~3 カ月) が可能になることを構想した. 以上のような山田顕義の 建白書にみられるような学校にお ける軍隊の教練の導入の構 想の方向 は,やがて,1870年代末期から1880年代前半にかけて,さらに二つの潮流としてあらわれていった. 879年と1883年の徴兵令改正と, 自由民権運動の活動家の主張から検討してみよう. この問題を, 1 1 ) 徴兵令改正と学校における軍隊教練の導 入の構想 ( 1879年徴兵令改正の際に, 6月 23 日付をもっ て元老院の議定に下付さ れた内閣の徴兵令改正の ) の第一章第二条の中に, 元老院の修 原案 (第146号議案 「徴兵令及ヒ近衛兵編制改正ノ儀布告按」 正委員 (7月10日の第一読会で選出さ れる) は次のような項目を加設した. 第二条第一項 学校ニ於テ生兵教練, 中隊教練ノ課程ヲ卒リ タル者平時ノ、服役未タ終ラスト錐モ 2 ) 在営ーケ年ノ後願ニ依り帰郷ヲ許スヘシ( すなわち, 以上の項目は, 学校における軍隊の教練の実施と在営期間短縮とを結びつけようとし たものである. なお, この修正委員は, 津田出, 山田顕義, 佐野常民, 細川潤次郎, 中島信行, で あ っ た. しかし, 上記修正委員の第 二条第一項の加設は, 佐野常民他より提出さ れた意見書 (号外 3 ( ) )が否決されたために(後述) 第27号意見書, 「公立学校ニ於テ兵隊教練ノ 課程ヲ設クル件」 , 第二 た 削 さ れ て い 日 に 除 3 読会の9月1 っ . ところで, 上記の佐野常民他より提出された意見書は, 修正委員の上記の第146号議案第 二条第 一項の加設と結合したものであるが, さらに,「予備徴兵井ニ国民軍籍ニ 在ル者ラシテ予メ執銃ノ技 演陣ノ方ヲ知ラシメ有事ノ日直ニ 其用ニ適セシメントス然ラハ則宜ク学校ニ於テ生兵教練中隊教練 ノ課程ヲ立テ ー週中ニニ三時間之ヲ教授セシムヘシ」 と, 在郷中の兵員にも教練を施すことを構想 していた. そして,「布告案 各地方公立学校ニ於テ年齢十二歳以上ノ生徒ノ為メ兵隊教練ノ課程ヲ 設ケ授業候儀ノ・適宜タル可ク候条此旨布 告候事」 と, 広範囲の国民子弟に教練実施を布告しようと した. 以上の 点に関して, 同意見書提出者の一人 であった佐野常民は, その起草の主旨として,「本 案起草ノ主 旨ノ・瑞典ノ制度ヲ響酌セシ者ナリ抑同国ノ多ク常備 兵ヲ設ケスシテ其大国ノ間ニ特立ス ル者ノ・人民幼童ノ時ヨリ学校ニ軍陣ノ事ヲ習フノ制アルラ以テナリ故ニ ー旦事アルニ際シテハ全国 挙テ皆ナ隊伍ニ編制シ俄頃ノ間精練ノ兵ヲ得ルニ足ル是し其弾丸黒子ノ 地ヲ以テ善ク諸大国ト対時 4 ( )と スウェ ーデンの民兵制を模放した大衆的な軍隊編制の 一環としての学校で 独立スル所以ナリ」 , 1880年3月~1881年4月文部卿) は, の軍隊の教練の実施を主張した. これに対して, 河野敏鎌 ( 5 ( )と述べ るとともに 主に教練施行の財政費用の未確立(時期尚 「夫し兵ノ・凶器ナリ戦ノ・危事ナリ」 , 早) を理由にして強固に反対した. 河野敏鎌らの反対者は, 学校での教練の施行が地域の政治結社 の政治活動などに 利用されることを警戒していたものと考えられる(斉藤利行の発言など) .そして, 200.

(4) . 兵式体操の成立と軍の対応. 結局, 9月12日の第三読会における採決の結果, 廃棄説が半数になり, 議長(織仁親王)職権によっ て, 同意見書は廃棄に確定決議されていっ た 以上のような元老院での1 87 9年徴兵令改正をめ ぐっての学校における軍隊の教練の導入が議論 1 87 8年11月設立) に対して, 「歩兵操練」 された約1年後に, 文部省は1 88 0年9月に体操伝習所 ( の一科を加設することを決定した. そして, 体操伝習所における歩兵操練 (軍隊の歩兵科の操練, 教練) の教授のために, 陸軍教導団より教官として士官一人下士官三人が招聴された (毎週三回の 実施) . ところ で, この時の士官とは長岡外史歩兵少尉であった. 長岡は1881年7月 5 日まで体操 6 ) この間 体操伝習所の生徒は 1881年4月から陸軍戸山学校 伝習所武科教官に任 じられていっ た( , , . で射撃演習 (毎週一回) を施行するなど, その教練演習の技術を高めていっ た。 この時期の体操伝 習所における歩兵操練の教授は, 軍隊の教練の内容方法をそのまま忠実にに摂取しようとする位置 づけが強いものと考えられる。 さて, 以上のような文部省, 体操伝習所における軍隊の教練の内容方法の教授と摂取に対して, 学校における軍隊の教練の導入を一歩進めたものが, 1 88 3年12月の徴兵令改正 であっ た。 1883年 徴兵令第12条は, 「現役中殊ニ技芸ニ熟シ行状方正ナル者及ヒ官立公立学校小学校ヲ除クノ歩兵操練 科卒業証書ヲ所持ス ル者ノ・其期末夕終ラスト難モ帰休ヲ命スルコトアル可シ」 と, 特に小学校を除 く官立公立学校の 「歩兵操練科卒業証書所持者」 に対しては, 現役三ヵ年の期間を短縮し, 帰休さ せることがあると規定していた, この1883年徴兵令第12条の規定の成立経過の詳細は不明 である が,1883年徴兵令改正の最終的段階において成立したものと考えられる.この第12条の成立経過は およそ次の通りである. まず, 1883年9月 6 日付をもって太政大臣三条実美宛に上申された陸軍卿大山巌発の「徴兵令御 ( 7 } ・ 改正之義ニ付上申」 添付別冊の陸軍省案の徴兵令改正第1 2条は,「現役中殊ニ技芸ニ熟シテ行状方 正ナル者ノ・其期 末夕終ラスト難モ帰休ヲ命スルコトア ル可シ」 とさ れ, 官立公立学校における 「歩 兵操練科卒業証書所持者」 云々の文言は明記されていなかっ た. しかし, 同徴兵令改正案が内閣原 案になって元老院で議定された後に, さらに内閣の参事院によっ て勘査されたのであるが, 参事院 議長福岡孝悌 ( 1 881年4月~18 83年12月文部卿) は, 同第12条を 「現役中殊ニ技芸ニ熟シ行状方 正ナル者及ヒ官立公立学校 小学校ヲ除ク ノ歩兵操練科卒業証者ヲ所持ス ル者ノ・其期末夕終ラスト離 8 } モ帰休ヲ命スルコトアル可シ」と修正 して,12月 27 日付をもって太政大臣宛に進呈したのである( . 以上の参事院による同第12条の修正も含む徴兵令改正案は, 参議の回議を経て上奏裁可された。 そ して, 官立公立学校における 「歩兵操練」 が開始されたのである。 ところ で,1 883年徴兵令第12条における歩兵操練は, 兵役期間短縮を前提にしており, 軍事予備 教育としての性格が強いものであっ た。 しかし,1879年徴兵令改正の際に元老院に提出された佐野 常民らの 「公立学校ニ於テ兵隊教練ノ課程ヲ設クル件」 の意見書などと比較すると, その対象者は 小学校を除く官立公立学校に限定されており, 非大衆的なもの であったことはいうまでもない. 以上のように18 83年徴兵令において,歩兵操練科卒業証書所持者の兵役期間短縮が規定されるな かで, 各府県も歩兵操練科の設置に着手するようになった. それは, 各府県が, 歩兵操練科の教授 を郡区駐在官や隊付下士に依頼しようとしている状況からわかる。 たとえば, 名古屋鎮台司令官滋 野清彦は, 1 884年3月31日付をもっ て陸軍卿宛に, 「各県学校歩兵操練科教授方ノ儀ニ付同」とい う同書を発している. そこでは, 「駐在官ラシテ(歩兵操練科の~遠藤) 教授方各県ヨリ依頼越候向 モ有之右ノ・郡 区駐在官ノ・勿論常備現 隊駐屯ノ地ニ在テハ隊付下士ノ内ヲ以テ公務ノ都合ニ依り依頼 9 ( )と 伺 っている この中で 「郡区駐在官」 とは 1883年6月後備軍司令 ニ応シ教授為致可然哉」 , , , 。 部条例中改正によっ て郡区に駐在するようになった陸軍下士 (曹長あるいは軍曹, 1~3名) であ 201.

(5) . 遠. 藤. 芳. 信. る.. 文部省は, 以上のような府県における歩兵操練科の設置の動きのなかで, 具体的にその対策が求 め ら れ て い っ た. す な わ ち, 1884 年 2 月 28 日に, 体操伝習所に対して, 官立公立学校(小学校をの. ぞく) の歩兵操練科の程度や施行方法および小学校における歩兵操練科施行の適否などの調査を命 じた. この歩兵操練科調査は, 1883年徴兵令第12条における「歩兵操練科卒業証書所持者」云々の 1 0 ( )とされている しかし 森有礼が1884年5月に文部省御 規定 (前述) の 「事後処理問題の一つ」 , 。 用掛に勤務するようになっ てから, 文部省は歩兵操練科の調 査およ び官立府県立学校における歩兵 操練科の設置に関してはさらに積極的になっ ていっ た (もちろん, 後述のように, 学校における軍 隊の教練の導 入に関して森有礼個人の独自の 位置づけもあっ たものと考えられるが) . たとえば, ま 務に従事させ ず, 文部省は, 同年6月に歩兵大尉倉山唯永を文部省御用掛兼体操伝習所勤 , 倉山に 歩兵操練科調 査をすすめるの であった。 つ ぎに, 文部省は体操伝習所や 府県立学校における歩兵操 練科用の銃器の貸渡しを陸軍省に数回依頼しているが, そのなかで, 特に, 財政不足によ って歩兵 操練科実施が 「鷹賭」 することになれば非常に 遺憾 であると指摘している. すなわち, 同年9月 22 日付の文部卿大木喬 任発陸軍卿西郷従道宛のスナイ ドノ嚇し貸渡しの照会文は,「当省二於テハ目下経 費非常二遍迫ノ際ニテ何分右銃器 (スナイ ドノ嚇し~遠藤) 御譲受ノ運ヒニ至り兼ネ各府県二於テハ 僅少ノ学資金ヲ以テ猶 更相当代価納付之儀ノ・相整ヒ申間敷随テ之力為メ自然歩兵操練科ノ実施ヲ跨. 賭セシムルノ場合ニ可立至右ニテハ甚タ遺憾之次第ト存候条可成御操合ヲ以テ御交付相成候様致 1 1 ) 度」 と 述べ て い っ た( 。. その後, 体操伝習所は11月15 鋤こ, 歩兵操練科調査の 結果を文部省に復申した. そこでは, 特 に, ①歩兵操練科の内容を 「生兵学・柔軟演習・号令・中隊学・解説」 の款に分け, そ・の程度を中 隊運動ま でにし, 修業期間を4カ年にすること, ②小学校では柔軟演習を課すことが適切 であるこ と, を報告した。 この中で, ①の歩兵操練科の 内容は, 後述の兵式体操の内容と 比較すると, 若干, 程度が低いと考えられる(測図や行軍演習は ない) . かく して, 文部省は, 官立府県立学校における 『文 部省 第 十 二年 報』 歩兵操 練科 のお お まかな教授 内容 を明かに す る こ と が できた の であ る ( 586~587 ペ ー ジ), 2 ) 自由民権運動の活動家と, 学校における軍隊教練の導 入の構想 (. 以上のような1883年徴兵令改正にあらわれた非大衆的な軍隊の教練の導 入の中で,その教練の大 衆的普及を構想していたのが自由民権運動の活動家の一部であっ た。 彼らは, 学校における軍隊の 教練の導入を国家防衛や軍事予備教育に結合させようとした (愛国心の育成, 兵役期間短縮など) . たとえば, まず, 長野県の自由民権運動系の教育ジャーナリ ズムの一つであった『月桂新誌』 (月 桂社発行) は, 「生徒体操ラシテ練兵式ニ擬セシムルノ得失」という論題の誌上討論会を掲載してい る. これによれば, 以下のように, いずれの論者も学校 体操を軍隊の教練を模倣して 実施すること 1 2 ) に は 積 極 的に 賛 成 し て い る( .. 上条燈司 「其方タル (現在の学校体操) 進退区々ノ範囲ニアリ動産一整乱スヘカラサルラ以テ生 徒ノ嫌 厭謂フヘカラス殆ト屠所ノ羊タルカ如キノ状アルノミナラス其利 益モ亦著キラ見ルヘカ ラス故ニ余輩ノ・早クモ其改正ヲ望ミシニシ藩 氏ノ卑見吾人ノ信任ニ背カス現行体操ノ無益ヲ説 キ木銃ヲ製シテ練兵式ニ代フヘシトノ 議を発セシ(中略) (その利点としては) 大ニ国家ヲ保ツ ノ気力ヲ増シ精神ヲ堅フスルノ余益アルラ信シ其実施ヲ翼望シテ措サリシ」 田中耕夫「(練兵式の利 点は)精神ヲ活発ニナサシムルコト疑ヒナシ奈何トナレバ生徒快ニ競進ノ 気力ヲ有シ倶ニ々々嵐縮ノ如何ヲ争ヘハナリ又タ壮者トナリテ我国役 タル徴兵ニ編入セラルル ニ至ルモ其隊旅ノ大綱 ヲ知覚シ得ノ・大ニ階級ノーツト為ル可シ」 202.

(6) . 兵式体操の成立と軍の対応. 川口方二郎「(練兵式の利益は) 童児ラシテ剛毅ノ心胆ヲ発シ兵事精神ヲ養ハシム其健康ヲ保チ筋 骨ヲ強クスル登ニ論ヲ得ンヤ (中略) 尚ホ進ミテ撃剣ラモ教ヘンコトラ熱望スルモノナリ」 太田伯一郎「(練兵式の利点は)身体ヲ強壮スルノミナラス精神ヲ活発ニシ記憶力ヲ増加シ(中略) 旦徴兵服役ノ時間ヲ減シ未タ服役セサル者モ国家ノ緩急ニ応スルノ際目ラ其事ニ熟ス等枚挙ニ 暇アラサルナリ」 気賀沢玉童. (賛成). 浅井例「(練兵式の利点は)他日国家ノ軍備ニ徴発セラルルモ其嘗テ修業調練セラルルノ技術ヲ以 テ之レニ当り其国民タルノ義務ヲ尽スニ於テ瑳朕ノ患ナカルヘシ」 また, 小野梓は, 『国憲汎論』 ( 1882年12月)において, 「兵権ヲ挙ケテ之ラーニノ種族ニ委セス 分テ之ヲ天下ノ民ニ付与スルカ如キハ民権ノ消長ニ於テ其関ス ル所甚少ナラサルラ見ル」 と述べ, 「海内ヲ挙ケテ皆兵ナ ルノ精神」 を 「民権ノ消長」 の観点から把握していた。 その観 点に も と づ い て, 小野は 「小学教育ノ法規ヲ修正シ児童体操ノ課ニ編スルニ操銃ノー項ヲ以テシ予メ練兵ノ備ヲ 為サシメハ他日兵役ニ服スルニ当テ数月ノ練習能ク熟兵ヲ出スラ得ルラ知 ルナリ果シテ然ラハ服役 ノ年限ヲ短縮スルモ余し兵ノ生熟ニ於テ大関係ナキラ知 ルナリ」 と, 学校体操に軍隊の教練を導入 1 3 〉 することは兵役期間短縮の利点を生むと主張した( . ところで, 自由民権運動の活動家の中で, 軍隊の教練の大衆的な実施に対して特異な動きを示し たのが桜井静であっ た。 桜井は,1884年1月21日付をもっ て次のような「私立歩兵科学校設立ノ儀 1 4 ) ニ付御願」 を東京府に出願している( . 古来国家ノ盛衰廃興スル所以ノモノラ考フルニ未タ曽テ兵力ノ強弱ノ・兵士ノ多寡練否ニ関セサ ルハナシ況ヤ方今西洋各国武力維し競ヒ撰奪維し事トシ常ニ耽々トシテ他ノ寡隙ヲ窺ヒ虎狼厭フ ナキノ欲ヲ遥フセント欲スルノ時ナルラヤ此腕力世界ニ立チ此虎狼ト交ル登ニ之力備ナクシテ可 ナランヤ大政府夙ニ弦ニ観ルアリ時ニ従ヒ宣ク制シ本邦古昔ノ制ニ基キ海外各国ノ法ヲ響酌シ徴 兵令ヲ制定頒布シテ全国募兵ノ 法ヲ設ケ以テ国家保護ノ基ヲ立テサセラ ル惟フニ国民タルモノ奮 進国家ニ殉エ応分ノ義務ヲ尽スヘキノ秋ト被存候依之今般私立歩兵科学校ヲ設立シ国民中常備現 役ニ服務スヘキ年齢以前ノモノラ訓練教導シテ歩兵科程ヲ卒業シ其技芸ニ熟達セシメ度 (以下略 ~遠藤) これによれば, 桜井は, 西洋列強の武力による帝国 主義的攻略に対して, 日本国民も武力 (軍隊 の増強) をもって 「奮進国家ニ殉エ応分ノ義務ヲ尽スヘキ」 であると強調 している. そして, その 目的にもとづいて, 軍隊の訓練を重視し, 特に軍隊入営前の予備的な訓練の強化を強調し, 私立歩 兵科学校を設立して軍事予備教育を実施しようと構想した. 以上の桜井の私立歩兵科学校の設立構 想の細部に関しては不明であるが, 桜井は,「徴兵忌避の弊風を洗除し士気を振作せんには兵士を優 待するにありと徴兵慰労義会なるものを設け広く 資金を募り免役者に資金として金円を贈与せんと 1 ( 5 }と紹介されているように 徴兵制や軍 隊強化に対しては積 せしか陸軍省より聞届けられさりき」 , 極的な支持を示していた。 また, 上記の私立歩兵科学校に関しても,「陸軍の士官を増して之れか教 1 6 ( )と紹介されているが 兵 官に充て卒業者は在役 一年にして帰休の特典を得せしめんと出願せし」 , 役期間短縮を目的にしていた。 以上の桜井静の私立歩兵科学校の出願に対 して,東京府は1月 25 日付をもっ て陸軍省に 処置を申 1 7 ) 陸軍省は これに対して 基本的には不許可の意向を固めつつも, 文部省の意見を聞 し入れたく , , 。 こうとして文部省に照 会した。 しかし, 文部省においても, 2月 28 日付をもっ て, 普通学務局浜尾. 新が陸軍卿官房長児島益謙宛に, 当局ニ於テハ従来私立学校へ右様之庇保 (歩兵科学校設立の認可~遠藤) ヲ与へ候儀ハー切無 203.

(7) . 遠. 藤. 芳. 信. ・御省ニ於テーニ御許可不相旨ニ有之候ニ付テハ亦可申進儀モ無之候 之候而シテ今回請願之条項ノ 将又兵事之学校ノ・目ラ尋常学校ト相異り私設之儀ノ・其関係不砂儀ニ可有之旦本人申出之学校ノ・単 ニ歩兵操練ノミラ授クル演習所ニ類スルモノニ 候 と, 桜井静出題の私立歩兵科学校は, 「単ニ歩兵操練ノミラ授クル演習所ニ類スルモノ」であると 1 8 ) 以上のような文部省の反対意見の結果 陸軍省も桜井静出願の私立歩兵科学校設立を 回答した( , . 不許可することを決定し,4月17日付をも って芳川顕正東京府知事宛にその旨を本人に達すること 1 9 ) を 申 し 入 れた( .. 以上のように, 自由民権運動の活動家たちが, 兵役期間短縮の目的も含みつつ, 軍隊の教練の大 衆的な普及と実施を構想していたことは注目される. なお, 陸軍省, 文部省が, そう した軍隊の教 練の大衆的な普及と実施に反対した背景には, 1882年11月福島事件以降, 1885年2月に至るま で の自由民権運動の左派の闘争と軍隊の教練の大衆的な普及・実施との結合を警戒していたものと推 定される. 1 1 兵式体操の開始と森有礼 1 ( 1 ) 東京師範学校と体操伝習所における兵式体操の本格的施行 ①森有礼と体操改革 軍隊の教練を 「兵式体操」 と換称して学校に導入したことに重要な役割を果したのは森有礼であ る. 森は1884年4月にイ ギリスから帰国した. そして,翌5月 7 日に文部省勤務を命じられたが(参 2 0 ( ) 事院議官兼任) , 8月に 「徴兵令改正ヲ請フノ議」 を上奏しようとした. そこでは, 森は, 国民皆 ー 参〆国務ニ必要ナル 兵を徹底しなければならないと強強するが,「智能ニ富ミ技芸ニ長シ及ヒ学術ライ 目的」をもつ者を服役させてはならないと指摘した. しかし, そう した学術上・在学上の理由をもっ て服役できない者をして,「其学校ニ在ルニ方テハ須ラク兵式ノ操練ヲ演習シ, 尚武ノ気象ヲ養成シ 以テ国民タルノ分ヲ守ラシムヘシ」 と, 当該学校で軍隊の教練を演習させ, 尚武の精神や国民とし ての自覚を養成すべきことを強調 した. ここで, 森は, 軍隊の教練が精神上の教育に意義があると 把握しているが, 大久保利謙が「(森は) 徴兵制が青年の訓練上にも絶大な効果がありと認めて, こ 2 1 ( }と指摘しているように 徴兵制によっ て編成された軍隊 れを教育上から必要視したの であ (る)」 , という組織や集団 (教練もふくめて) の教育的意義を認めたからであろう. 以上のような森有礼の学校における軍隊の教練の導入の構想の後,翌1 885年5月 5 日には東京師 ペ 『文部省第十三年報』 5 ージ) と, 軍隊の教練を換 範学校の体操科中に 「仮ニ兵式体操ヲ加フ」 ( 称した 「兵式体操」 が仮設定されていっ た. また, 5月12日には, 文部省は 「兵式体操用銃器取扱 要領」を2府42県に通知 した. そして, 森有礼自身は, 8月に東京師範学校 監督に 任じられていっ た. こう したなか で, 東京師範学校と体操伝習所において兵式体操が本格的に実施されていくので あ る.. まず, 東京師範学校の体操科中に仮設定された兵式体操は, 陸軍に模倣して実施されようとして いた. たとえば, 体操伝習所長野村彦四郎は, 大木喬任文部卿宛に9月10日付をもって, 東京師範 ノ・訓練上甚夕候便宣ト存候条 学校生徒に兵式体操実施の際に 「号令礼式之模様-ニ兵式ニ則り候ノ・ 爾来行軍等御施行之節司令役ノ位置ニ立ツ教師或ノ・優等生徒ラシテ『サーベ ル』 (割注略~遠藤)ヲ 2 2 ( )と 兵式体操教授の際の「サーベ ル」携帯を伺 っ ている これに対して 文部卿は9 帯 バ シメ度」 , , . さらに1 0月6 月1 7日付をも っ て 「サーベ ル」 携帯を陸軍省と協議し (陸軍省は異存なしの回答) , 204.

(8) . 兵式体操の成立と軍の対応. 日付をも って三条実美太政大臣に伺うのであっ た そして 12月 3 日に文部卿の同は許可された( 2 3 ) 。 , . こうしたなか で, 東京師範学校での兵式体操は, その後, 技術的な訓練の側 面では相当の段階にま で進んだものと考えられる。 たとえば, 大木文部卿は 12月 9 日付をもって大山巌陸軍卿宛に 「先 ,. 般当省所轄東京師範学校生徒兵式体操実施致候処追々進歩シ室内射撃銃ニテハ不充分ニ付射阜室内 2 4 ( )と 射的演習 が進歩したの で村田銃の使用と購入を依頼 してい 両射的演習ニハ村田銃相用度候」 , る.. 次に, 兵式体操の本格的施行に際して注目さ れるのが1 885年末期からの体操伝習所の体育・体操 の改革である. すなわち, 体操伝習所は, 兵式体操の導入によっ て ①寄宿舎での生活そのものを , 軍隊的に行うこと, ②軽体操 (普通体操と改称される) の指導o指揮方法を軍隊的に行うこと を , 開始した. この結果, 普通体操は, 兵式体操と並置されるのではなく 兵式体操をベースに して展 , 開されることになった. このような体操伝習所の体育り体操の改革に関して 文部省は次のよう に , 2 5 ) 全 般 的に 報 告 して い る( .. 体育法ノ改良 (文部省報告) 体操伝習所ニ於 テハ体育法ヲ改良シ内部 ヲ整理スルノ主 旨ヲ以テ此ノ程其ノ取調ニ着手セリ其 ノ要領ノ・該所本科伝習所員ニ兵式体操ヲ課スルニ朝夕ノ起居動作モ亦兵式ニ拠ラサレハ其ノ目 的 ヲ達ス ルニ妨アリ旦清潔整理 守規ノ良習ヲ培養スルハ薫陶上欠ク可ラサルラ以テ寄宿舎ノ構造等 兵営ニ異ナルモ其ノ取締法ノ・兵営ノ法ヲ活用シ而シテ従来軽体操ノ、日光風寒ヲ避ケンカタメ重モ ニ室内ニ於テセシム却リテ教育上ニ害ア ルラ以テ体操室ノ・唯雨天ノ訓錬用ニ供スルモノトシ又従 来ノ軽体操ヲ普通 体操ト改称シテ生兵学中ノ隊列諸運動ヲ加へ旦其ノ号令ノ音調ノ・兵式ニ 準ヒ又. 軽体操中筋肉二関係アル要用ノ挙動 警察蜂鳥選 及間隔ノ取扱等ノ ・従前二拠ルト離兵式体操ト支 将紛雑ノ患ナカラシメ ンカタメ其ノ整頓法等ノ如キハ悉ク兵式ニ則ルヘク又訓錬中ハー層 姿勢着 眼意気ニ注意シ充分正整確実ナラ シメ規矩アルモノハ決シテ之ヲ寛仮セス其ノ実行シ得サル分ノ、 漸次削除スヘキ等ナリ 以上のような兵式体操の本格的施行のなか で 兵営式にもとづく 体操伝習所の寄宿舎生活の管理 , 規則としての 「体操伝習所舎則」 や 「伝習員敬礼及服従ノ 定則」 が規定されていったものと考えら 2 6 れる( 1. ②体操伝習所におけ る体操修業員の養成 さて, 体操伝習所は, 以上のような兵式体操の本格的施行のために 陸軍現役下士を 教官として , 従事させようとした. すなわち, 大木文部卿は 1885年10月 22 日付をもっ て大山陸軍卿宛に 「今 ,. 般当省所轄体操伝習所ニ於テ兵式体操実際着手致候処教員不足差支候ニ付尚相当之現役下士三名ラ 2 ( 7 )と 現役下士三名の 教員派遣を照会している この照会に対する陸軍 シテ該所授業ニ従事相致度」 , 。 省の回答は不明 である, しかし, その直後, 文部省は 兵式体操に依拠して学校体操および学校 教 , 育全体を改革する目的によって, 陸軍予備役下士を体操教員として養成することに着手した すな . わち, 体操伝習所におけ る体操修業員の養成 の着手である . まず, 文部省は11月12日付をもって体操伝習所に 対して「兵式体操及ビ軽体操教員養成ノ要領」 を達するとともに ( 『文部省第十三年 報』3ペー ジ) , 陸軍省に対しては, 「今般兵式体操実施準備ノ 為メ当所轄体操伝習 所ニ於テ左ノ要領ニ依り兵式体操及体操ノ 教員タルヘキ者ヲ教養シ卒業ノ後ハ 主トシテ府県立学校ノ 体操教員タラシムヘク存候条乍御手数陸軍歩兵下士ノ中ヨリ右修業員タルヘ キ者御撰抜ニ預り度 此段及御依頼候也」 と, 兵式体操教員養成 のために歩兵下士を修業員として撰 2 8 〉 この陸軍省宛の依頼文には 修業員の養成要領が付されている これ 抜してほしいと依頼した( 。 , . によれば, 第一に, 「体育ノ改良就中兵式体操実施準備ノ為〆」に 修業員を召募して 4カ月の間 , , , 205.

(9) . 遠. 藤. 芳. 信. 「兵式体操及軽体操ニ関スル学術並ニ其教授法ヲ伝習シ体操教員タルヘキ者ヲ養成スル事」 とされ ている. ここでは, 体操 (の教員) は 「兵式体操」 と 「軽体操」 の二系列 (の教員) から把握され ているが, 軽体操自体は兵式体操に 適合するように実施されることはいうまでもない. そして, 兵 式体操と軽体操を修業した教員を一般的に 「体操教員」 と称するのであった。 第二に, 修業員の定 員を25名と し, 翌1886年1月10日を期して体操伝習所に入所させるとした. そして, 修業員の資 格者としては, ①歩兵下士 で常備現役 を離れて1カ年以内の者 (従軍歴のある者は1カ年の期限を 適スル者」 超過しても採用することがある) づ 「体格 , ②「品行端正ニシテ精神気力ノ体操教員タルニ 正整身体強健」 (身長5尺2寸以上) で, 年齢満35歳以下の者, と条件をつけている. 第三に, 体 操教員として就職した 時, 当初三ヵ年間は 「基本官費塾 ノ職務」 に係わるものの他は, どのょう な 5名とされて いるが, 11月 25 事故があっても辞職しては ならないとした. なお, 修業員の定員は2 申進書においては 即宛の修業員旅費支出の 日付の大木文部卿発大山巌陸軍り ,不合格者数を約25名と 2 9 ) 文 部 省 と して は お よ そ5 0名 が志願することを予想していたものと考えられ 見 込 ん でい る の で( ,. 8日付をもっ て(文部省達第13号) る. さらに, 文部省は11月1 , 府県に対して, 以上の要領によっ て養成さ れた体操伝習所修業員 (すなわち, 兵式体操を修業した者) を府県立学校の体操科教員と して採用する場合の 要領を達した (その要領は, 上記陸軍省宛の要領と同 じ). ,ころで,以上のようにして18 85年末期か ら東京師範学校と体操伝習所において本格的に実施さ と れることになっ た兵式体操に対 して, 文部省はどのように 意義づけてい た だろうか. これに関 して. 帥発大山巌陸軍卿宛の体操修業員撰抜の依頼文は次のように述べ は, 11月 25日付の大木喬任文部“. ている (前略, 以下略は遠藤) . (前略) 当省ニ於テ兵式体操ヲ施設スルノ方法タル目下府県ニ於テ施行セル歩兵操練トハ全 ク其趣ヲ異ニシ平素起居動作ノ則, 被服銃剣寄宿舎等ノ制ヨリ以テ射的行軍野営ノ業ニ至ル迄 -ニ軍律軍制ニ則り務メテ響酌 差略ヲ加ヘス而シテ其之ヲ施設スルノ旨趣タルヤ学校教員タル 者ニ欠クヘカラサル精神気力品格ヲ養成シ特ニ勇武剛毅忍耐威重等ノ諸徳ヲ具へ及ヒ規律ヲ守 り秩序ヲ保ツノ 習慣ヲ得セシムルヲ以テ第一義トシ夫ノ 身体ヲ健康ニシ躯幹ヲ強壮ニス ルカ如 キハ之ヲ第 二義ニ措キ候次第ニ有之畢覧彼方法ニ依り此旨趣ヲ達シ以テ本邦教育ノ気風ヲ一洗 セントスルノ 一点ニ外ナラス候就テハ修業員御撰抜ノ際ノ・先ツ下士ノ現役 ヲ終り未タ時日ヲ経 ザルモノ即チ在営中ノ習慣気風ヲ失ハサルモノノ中ニ就キ志操容儀品行体格ノ最モ優勝ニシテ 他日学校生徒ノ模範 トナルヘキ者御 精査ニ預り度夫し修業員其 人ヲ得サラン 歎兵式体操施設ノ 挙ノ・菅ニ本邦教育ノ気風ヲ一洗ス ルノ目 的ヲ達スルラ得 サルノミナラス適々 以テ徴兵令ノ所謂 兵卒帰休法ノ媒介タルニ至ルヘキ 歎ト憂慮ニ堪ヘス候条 (以下略) これによれば, 兵式体操は軍隊という 組織・集団の生活全体 を通して行うところの 「精神気力品 格」 の養成を目 的としている. したがって, それは, 学校の日課表 (学科課程) 上に単に軍隊の教 練を導入したもの ではなく, 学校の生活に軍隊の 生活や仕組みを導入しようとしたものといえる. そのことによ って, 「本邦教育ノ 気風ヲ一洗セントスル」という日本教育 全体のおもむきの 改革を意 図しようとしたの である. 以上に対して, 陸軍省は各鎮台に体操修業員撰抜に際しての志願者調査を照会し, さらに, 11月 1月 25 30 日付をも って陸軍卿官房長より各鎮台宛に, ◎修業員志願者の 人名書提出の際は, 上記1 日付の文部卿の修業員養成の趣旨にもとづいて, 「優劣ニ従ヒ順次ニ 人名御記載有之度」こと, ②志 願者上京と不合格者帰京の 際の旅費は文部省で支出すること, ③志願人名書は, 2月 20 日までに陸 1 3 ) しかし 各鎮台では 提出期限の12月20日までに志願者の 軍省に提出するこ と, を通牒した( , , . 調査をすることは容易 ではなく, 期限日までに志願者人名 書を提出したのは名 古屋と広島の両鎮台 206.

(10) . 兵式体操の成立と軍の対応. のみ であった. 遠隔地の熊本と仙台 の両鎮台は期限日までに提出することは困難であると通報した が, 東京と大阪の両鎮台は期限日後も何も通報しなかった。 このように, 各鎮台が体操修業員志願 者を調査することが困難であっ たのは, 調査期間が約1カ月 間の短期間であっ たことの他に, 現役 満期の下士の中で修業員として志願する者がほとんどなかっ たためであると考えられる こうした 。 状況の中で, 陸軍省武学課長真鍋斌は12月 24日に総務局長桂太郎に修業員志願者人名書提出の督 促 (東京鎮台に通報し, 大阪鎮台には電報を発する), を申進し, かつ, その督促の旨を文部省に通 2 栂 牒した 1 他方, 体操伝習所は, 修業員の 「伝習ノ要旨」 と 「教科」 を規定し, 12月 9 日付をもっ て文部省 より認 可された。 その「伝習ノ要旨」によれば, 「兵式体操及軽体操修業員 伝習ノ要旨ノ・他日其ノ府 県立学校ノ体操教員タ ルニ方り生徒ノ技術ヲ長シ身体ヲ強健ニスルハ勿論精神志操ヲ鍛錬シ威儀品 格ヲ修整スルノ 道ニ熟達セシムルニ在り」 と精神的方面の養成に力点を置いている また 「教科」 , 。 は軍隊の演習教練のカリキュ ラム編成のように 「術科」 と 「学科」 から構成されているが その内 , 3 3 容は下記の通りである( も. 術 科. 毎週十二時. 兵式体操 生 兵ヨリ中隊ニ至 ル諸演習. 体 操 {饗 毎週十五時. 学 科. 毎週六時 毎週九時 時間適宜. 軽体操 整頓法 隊列運動 矯正術 徒手体操 唖鈴体操 球竿体操 根棒体操 木環体操 豆嚢体操 付 戸外運動 兵学ノ 大意. 測図. 人体ノ構造組織各機関ノ作用 学校衛生ノ概略 体操術ノ原理 教員ノ責務. 兵式体操ノ生兵ヨリ 中隊ニ至 ル諸演習及柔軟演習ノ・実業並ニ 講解トス 全期間中適宜ノ時間ヲ以テ射的演習行軍演習野外演習ヲ為サシム ルモノ トス 術科ノ 復習教授 法ノ講究ノ・演習中ニ含ムモノト ス こ れ を 翌 1886 年 5月 26 日文部省令第9号 「尋常師範学校ノ学科及其程度」 における兵式体操の 内容 ( 「生兵学中隊学行 軍演習兵学大意測図」 ) と比較するならば, 行軍演習を除いて, 尋常師範学 校の兵式体操の内容とほ ぼ同じになっている。. ③高等師範学校体操専修科における専修員養成 体操伝習所は1885年12月 28 日に東京師範学校の付属になったが,体操修業員の採用 はそのまま 引 き つ が れ た. そ して, 翌 1886 年 2月 10 日付をもって陸軍省は 修業員志願者のなか で2 5名を合 ,. 3 4 ) また 森文部大臣は 2月 23 日 格とし,4 0名を不合格にしたことを森有礼文部大臣に通牒した( , 。 , 付をもって, 修業員合格者25名を東京師範学校付属体操伝習所に入学させたと陸軍大臣に通牒し 3 5 ) かく して 東京師範学校付属体操伝習所において兵式体操を基本にする修業員の教育が関始 た( , . され, 同年6月14日に上記25名は卒業した。 他方, 東京師範学校は同年4月 29 日に高等師範学校と名称変更され, 同校付属体操伝習所は廃止 207.

(11) . 遠. 藤. 芳 信. されたが, 高等師範学校に体操専修科が設置された. 体操専修科は師範学校の体操教員を養成する 目的をもって設置されたもの であるが, 体操伝習所体操修業員の 養成を継続している面がある. 体 操は, 「普通体操」 と 「兵式体操」 に区分されているが, その内容は従前の修業員養成のものと 大差 3 6 ) しかし 修学期間は9月初旬から1 40名募 0カ月間と 延長されている. また, 入学資格( はない( , . 3 7 ( ) 集)において, 「陸軍歩兵下士又ノ・陸軍歩兵上等兵ノ常備現役ヲ離し一箇年以内ノ者」 とさ れてい るように, 上等兵にまで資格者を広げている. これは, 前回の修業員の応募状況 (競争率2 .6倍) と, 募集人員の増加等によっ て, 入学者を下士だけ では確保 できないと判 断したためであろう. た とえば, 高等師範学校では6月に,「陸軍歩兵下士ニシテ満期 現役ヲ離しーケ年以内ノ者ノ、其数僅々 8 ( 3 )という理由 でも って 下士に関しては 「一筒年以内ノ者」 を 「二ヶ年以内ノ者」 に ナル趣ニ付キ」 , 修正し, 募集対象者を拡大している. なお, 専修員志願者の試験は最寄りの鎮台で実施されること になり, この試験に際 しては, 歩兵大尉倉山唯永が東京・仙台に出張し (7月 5 日 ~ 8月 12 日) , 3 9 { ) 月 日) 4 日 ~ 9 2 1 張している ( 7月 治が名古屋・大阪・広島・熊本に出 歩兵少尉松石安 . 2 ( ) 森有礼における兵式体操の大衆的普及の構想と陸軍武官招曙問題 これより先, 森有礼は, 1884年12月19日に埼玉県尋常師範学校において, 東京師範学校 で試験 的に実施している兵式体操の 趣旨を演述している. そこでは, 特に, 教員として要求される気質を, 「従順」「友情」「威儀」 として把握し, 兵式体操はこの三つの気質を養成するもの であると 強調し 4 0 ) 次に 1887年 起案と推定されている (大久保利謙) 「閣議案」 と 「兵式体操に関する建言案」 た( , . では, 兵式体操を教員養成だけでなく 一般人民の中に (中学校以上の諸学校と, 郡 区の人民を対象 に) 大衆的に普及しようと構想している. すなわち, 兵式体操の普及によ って, 「忠君愛国」「人民 護国ノ精神」 という精神・ 気風・気力を養成しようとするの であった. たとえば, ① 「中学校以上 諸学校ノ教科時間ヲ割キ,乃チ体操ノー科ノ、文部ノ管理ヲ離しテ之ヲ 陸軍省ノ施措ニ移シ,武官ヲ簡 4 1 ( )と 中学校以上の学校における兵式体操の施行と 撰シ純然タル兵式体操ノ練習ヲ以テ之ヲ任ス」 , , ② 「文部省ノ・簡易平易ナル教課書ヲ敷キ, 人々ノ楓詞又ノ、講議ニ使ナラシメ, 陸軍省ノ、体操練兵ノ 初歩ヲ教へ毎戸長スハ毎郡 ノ管掌スル所トシ, 一月ニ一度或ハニ度時間ヲ限り, 其区域内ノ人民ヲ 学校ニ集〆, 聴講又ノ・運動ニ従事セシメ」 とか 「学校ニ在サル者ノ・別ニ壮者ノ 隊団ヲ編テ之ヲ郡区 ノ郷勇ト為シ, 亦陸軍ニ嘱托シテー週ニ二回, 体操ヲ為サシムヘシ」 と, 郡 区毎に大衆的に兵式体 4 2 ) そして ①②ともに 陸軍省の管理のもとに実施 しようとし 操を実施することを構想 している( , , . ているが, 森有礼は兵式体操によっ て 「人民護国ノ精神 忠武恭順ノ風」 を養成し, そう した気風の 4 3 ( )ことに 寄与していくことを目 ざした 力によっ て「文明ヲ進」め 「生産ニ労働シテ富源ヲ開発スル」 の である. このようにみると, 森有礼の兵式体操の構想は, その大衆的普及を目 ざすとともに, 資 本主義勃興期における国民の精神的態度 (進取の精神・ 気力などによって資本主義を推進させるこ と) を養成しようとしたものとして位置づけられる. ところで, 森は, 兵式体操の陸軍省移管や軍人による兵式体操の教授 を強調 している. 特に, 森 は, 従来の体育・体操の教授においては, 軍人から伝習した者が教授していたために 「身軍籍ニ在 ル者ヲ購シテ教師に充ツ コト稀ニシテ, 其大数ニ至テハータヒ之ヲ軍人ニ習ヒ伝ヘテ其技ヲ演スル 者ヲ以テ之ニ任ス, 故ニ其志気ニ至テハ素ヨリ厳粛ナル規律ヲ身所テシテ武毅順良ノ風教中ニ 感化成 4 4 ( )と 述べ 軍人が直接的に教 授する場合と比較し 長セル軍人ト日ヲ同フシテ語ルヘカラサルナリ」 , , て, 「規律」「武毅順良」 の点では見劣りするものがあると指摘している. 以上のように, 軍人・武 官 (特に現役) による兵式体操の教授を重視した森と文部省は, 1886年3月に, 東京師範学校の校 長として, 陸軍省総務局制規課長歩兵大佐山川浩を任じた. これは, 兵式体操開始による東京師範 4 5 ) その 学校の改革に際して, 文部省の小牧昌業が陸軍省と交 渉して実現したものとされているが( , 208.

(12) . 兵式体操の成立と軍の対応. 交渉経過の詳細は不明 である。 他方, 陸軍省としては, 将校の定員問題 (士官の不足) や兼勤禁止などもあって, 文部省の学校 の教官として現役将校を積極的に勤務させることはしなか った. 2月に体操伝習 所が東京師範学校付属になった時, 文部省御用掛兼勤体 たとえば, まず,1885年1. 操伝習所勤務の歩兵大尉倉山唯永と歩兵少尉松石安治が東京師範学校御用掛として勤務するに際し 886年1月 4 日付をもって森有礼文部大臣宛に次のように照会している. す て, 陸軍大臣大山巌は1. なわち,「歩兵大尉倉山唯永歩兵少尉松石安治之両名御省御用掛兼勤体操伝習所勤務之処今般該所東 京師範学校ニ付属セラレ候ニ付勤向井手当亦従前之通ニテ更ニ東京師範学校御用掛ニ命度云々御照 会之趣了承此儀ニ付テハ先般御省嘱官へ清水 (俊) 歩兵少佐ヲ以テ及御答置候通此傷兼勤為致候儀 ノ・其兼勤ノ道ノ・御省ヨリ閣議ヲ経テ御 ノ・今般之内訓ニ対シ不相成儀ニ付於御省兼勤必要之儀ニ候ノ・ ( 4 6 ) べき 閣議請議による了承を経て行われる 開キ相成度」 と, 倉山と松石両名の兼勤は文部省からの であると指摘している。 そして, もし, 閣議を経なければ, 倉山と松石の両名は 「単ニ師範学校御 4 7 ( )と たんに東京 用掛ニ命候付テハ当省ヨリハ出仕ヲ免シ後備軍躯員ニ不致ニ ハ不相成事ニ成候」 , 師範学校御用掛に命 じることになり, その場合には両名は後備軍躯員に転 ずることになると指摘し て い る.. 次に, 文部省は, 現役の在職士官を高等師範学校だけ でなく高等中学校の兵式体操の教官として 888年10月 5 日付をも って, 兼任させようとしたことがある. すなわち, 森有礼文部大臣は, 1 当省所轄学校ニ於テ兵式体操ノ法ニ依り施スヘキ教育 法ノ儀ノ・陸軍武官タル者ラシテ担当セシ ムルニアラサレノ・教導上宣キラ得サル次第有之候ニ付従来往々後備軍躯員等ヲ採用致居候得共学 校ニ依り在職 士官ノ兼任ヲ必要トスルモノ有之候ニ付テハ 兼テ高等師範学校ヘハ大尉 一名兼任致 居候処尚第一高等中学校ニ於テモ生員最多旦概ネ少壮ノ者ニシテ其兵式体操教官ノ主員 タルモノ ハ在職士官ヨリ兼任セシメ候儀必要ニ有之候付右壱名兼任セシメラレ候様致度ハ ー応陸軍省ヘモ 内協議ヲ遂ケ候処同省ニ於テハ 目下士官欠員ノ際ニ付高等師範学校ニ 兼任ノ分モ定員 士官中ニテ. 、兼任差支無之趣ニ候間同 ハ兼任為致兼候都合ニ有之候処陸軍本省ニ定員外ノ士官ヲ被差置候へノ 省定員外二大尉弐名(縞 錘 腕 霧)被差置当省べ兼任候致度此段請閣議候也 と, 第一高等中学校の兵式体操教官に在職士官を任じたいと述べ, 陸軍本省の定員外士 官二名の 4 8 ) これに対 して 法制局は10月15日付 をもって以上の文部大 設置のために閣議を請議している( , . 臣の閣議請議の内容を陸軍省に照会し, さらに, その追書で,「第二第三第四第五中学校ニ対シテモ. 請求有之次第御差支無之御意見ニ候哉」 と, 他の高等中学校への在職士官の兵式体操教官兼任の請. 4 9 ) 以上に対して 陸軍省は 10月 29 日付をもって, 法制局宛に, 求の際の支障もあわせて照会した{ , , . 大尉二名 の定員外増 置は支障はないが, 第二, 第三, 第四, 第五高等中学校に対しては 請求があっ 5 0 ) しかし その後 陸軍省は 12月11日付をも って, 法制 ても多数なので支障があると回答した( , , , . 5 1 ) すな れるのであっ た( 2 9 日付の回答書の返却を申し入 入 として上記1 0月 」 「 書面御戻申 局宛に . わち, 陸軍省は第一高等中学校の兵式体操教官兼任のための在職士官一名の定員外増置に賛成しな い方針に傾いたのである. 以上のように, 森有礼と文部省は, 特に高等師範学校と高等中 学校の兵式体操教官として 現役の 在職士官を兼勤させようとしたが, 陸軍省はそれにみ合っ た積極的な対応を示さ なかっ たことが, 1 8 80年代末期における兵式体操成立の特質と して指摘することができる。. 209.

(13) . 遠. 藤. 芳. 信. I V 兵式体操に対する1890年代以降の軍の対応 1 ( ) 1890年代における軍事予備教育と学校教育に対する軍の期待の論理 以上, 考察してきたように, 1880年代末期からの兵式体操の成立に対しては, 軍は表面的には積 極的な対応を示していないが,その対応の論理を明かにするためにはその後の189 0年代以降の状況 5 2 ) も 検 討 して お く こ と が 必 要 であ る( .. 軍事予備教育や学校教育における兵式体操などに対する軍の期待を考察するためには, 軍隊教育 の中の演習教練の性格・目的を検討しておくことが必要 である. 軍隊教育における演習教練の内容・方法を規定した1874年10月陸軍省達布第3 71号生兵概則や, 18 87年11月陸達第1 38号軍隊教育順次教令によれば, 新兵としての基本的な教育は約6カ月間 で 終る. 他の野外演習の期間を見積っ ても1年間で終了し, 現役3年間の残余の期間におけ る教育の 主なるものは, 復習と精神的方面の教育 (軍紀, 服従の教育, 「軍人精神」と称される精神的方面の 教育) が中心になっ ていた. また, 1889年2月監軍訓令第1号 「軍隊教練ノ要旨」 は, 教練の技術 的方面の習熟は容易だが, 命令に対する服従や軍紀の維持の教育は困難なの で一層重視することを 強調 して い た.. したがっ て, 以上のように軍隊教育の演習 教練が, 精神的方面の教育を重視していたので, 在営 年限(現役3年) の短縮に対しては, 軍は反対と消極的態度を崩さなかっ た. たとえば, 1 89 1年12 月の第二回帝国議会衆議院において, 天野三郎提出の徴兵令第三条改正 案 (陸軍の現役3年を2年 にすることなど) が審議されている. 天野は, 現役年限短縮の理由の 一つとして, 「歩兵ノ如キノ\ 一 箇年ニシテ」 熟練の域に達してしまうこと, 新兵は 「六箇月ヲ経ルト」 「一人前ノ兵隊トナル」 こ 5 3 ) これに対して 政府委員岡沢精 (陸軍次官) は 「無形的ノ教育 即チ軍人特 となどを主張した{ , . , , 有ノ精神, 此特有ノ精神ヲ酒養致サナケレバ, 軍人ノ用ノ・為シマセヌ, 此精神ヲ濁養センニハ, 逆 5 4 ( )と 批 判 し て い っ た モ 僅 ナ 年 月 デハ, 能 タ 為 シ 得 ラ ル ル コ トノ・出 来 マ セ ヌ」 , .. 以上のような軍隊教育の中の演習教練における精神的方面の教育の重視の立場によって, 軍が学 校教育や軍事予備教育に対する対応の論理が決定されてくる. 上記の天野三郎によれば, 天野は同 徴兵令第三条改正案を第一回帝国議会にも提出したことになっ ている(審議に至らなか った) . その 際,「昨年本案ヲ議会ニ提出シマスルニ当り,私ノ手許ニ蔓薫版ヲ以テ,兵役期限論ト云フモノガ廻ッ テ参りマシタ ÷÷ 此議場デ ゴザイ マス, 案スルニ政府ノ或部分ノ人が, 注意ニ寄越サレタモノト思 ( 5 5 )と天野が述べているように 同議場に「兵役期限論」が撤布されたとな ている この「兵 ヒマス」 っ , . 役期限論」とは, 実は, 国学院大学図書館梧陰文庫に所蔵されている『兵役期限論』 (整理番号B- 3558) であ る. そ こ では, ドイ ツ 帝 国 議 会 (1890 年 6 月) に お け る フ ォ ゲ ル・フ ォ ン・フ ァ ル ケ ン・. スタイ ン中将の演説の一部が邦訳・紹介されているが, 学校における軍事予備教育に対する軍の対 応が兵役期間短縮との関係 で次のように主張されている. すなわち, 尋常ノ学校ニ於テ兵学中某ノ予備教育ヲ授クレハ之ヲ以テ現役年期ヲ短縮スルラ得ヘ シト誤レ ルノ甚シキモノト謂フヘシ吾輩ノ・身体ノ遜捷伍列間ニ於ケル吃然タ ル軍人ノ態度姿勢及命令服従 月貫習ニ関スル教育ノ・尋常ノ学校ニ於テ如何ニ之ヲ奨励 スルモ到底真ノ軍隊中ニ於テスル如ク整 然タルコト得ス故ニ是ノ如キ予備教育ノ・吾国民学校即チ軍隊中ニ於テスル教科ノ補助トナス能ノ・ サルモノナリ と, 学校における軍事予備教育 導入と兵役期間短縮とを結合することを批判 し, 学校では軍隊に おける命令服従の慣習などに関する 教育は不可能であると指摘した. 210.

(14) . 兵式体操の成立と軍の対応. 以上のように, 軍は, 学校における軍事予備教育と兵役期間短縮とを結合させることに 反対の構 えを示しつつ, 日清戦争後は特に規律的な教育にとどめること を学校教育に求めていっ た. ( 2 ) 日清戦争後における軍事予備教育と学校教育などに対する軍の期待 軍隊における精神的方面の教育を重視した演習教練の性格を背景にしつつ, 軍事予備教育や学校 教育などに対する軍の要求り期待が大衆的に展開されたのは, 日清戦争後からであろう。 そこ では, もちろん, 日清戦争の軍の教訓として 「精神教育の重視」もあっ たことも見のがすことはできない. たとえば, 参謀本部が 「日清戦役ノ実験ニ依り」 意見や教訓を各師団に求めたことがあるが, その 中で 「精神教育」 の重視の意見を提出したのが, 第四師団歩兵第 八連隊第九連隊や第五師団歩兵第 5 6 ) 二一連隊の各部隊に顕著にみられる( 。 さて, 日清戦争後に, 以上のような軍隊における演習教練の性格を考慮しつつ, 学校教育に対す る軍の期待を大衆的に明かに したものとして, 歩兵中佐東条英教の 「陸軍教育と国民教育との関 5 7 ( }という 帝国教育会における演説がある ( 1896年12月) 係」 。 そこでは, 東条英教は, 第一に, , 「平時に於ける軍は一つの大きな学校であります」 と述べ, 軍それ自体を国民教育機関と しての学 校として性格づけ, 学校教育を軍隊教育の予備教育として位置づけている。 第二に, 以上の軍の予 備校としての学校教育における 「兵隊的の教育」 (操銃運動や隊列運動などの訓練) が「戦争の出来 る様にしたいと云ふのが目的であると云へば吾々は苦笑を以て之を迎へるよりは外はない, 唯誠に 御苦労様と云はなければならぬ, 併し腹の中には私かに馬鹿々々 しいと云ふ念慮が起るのです」 と 5 8 ) 述べ, 規律的な精神の教育にとどめて, 軍事予備教育としては意義づけないことを強調 している( 。 以上のような東条英教の学校における軍隊の教練の実施や兵式体操などに対する見解は, その後 一貫して陸軍部内の意見としてつづいていくのであっ た。. Gめ 3巻, 23ページ. ( 1 )「山田顕義建白書」 明治文化研究会編 『明治文化全集』 第2 前期第7巻所収 『 元老院会議筆記 』 元老院会議筆記刊行会 2 3 4 5 () (X) () . 88 1年の項. 8巻陸軍教導団之部, 1 ( 6 )防衛研修所戦史部所蔵教育総監部稿本 『陸軍教育史』 明治別記第1 2月 「徴兵令改正並施行ノ件」 所収. 88 3年陸軍省1 ( )国立公文書館所蔵 『公文録』1 ( 7 ) 8 2 8号所収. なお, 4月 )防衛研修所戦史部所蔵 〈陸軍省大日記〉 中 『明治十七年四月 大日記 諸鎮台』 総木第1 ( 9 12日に 「同之通」 の回答が発される. 96 7年, 不味堂書店, 39ページ, 1 1 ( 0 )今村嘉雄 『十九世紀に於ける日本体育の研究』9 2号, 同 『明治十七年 3 0号所収. 他に, 同上書第1 皿前掲 <陸軍省大日記〉 中 『明治十七年九月分 諸省院庁』 第7 3号参照. 3 従五月八月迄 諸庁院庁』 第2 0年3月 16日, 第 56 号, 1~3 丁, 1880年 3月21日, ( ) 内は遠藤. 8 8 ( 1 2 )『月桂新誌』 第5 5号, 1~3丁, 1 )小野梓 『国憲汎論』 上巻, 明治文化研究会編 『明治文化全集』 第28巻, 76ページ. Q 3 2号所収. 5 1 4 )前掲 <陸軍省大日記〉 中 『明治十七年四月 大日記』 総火第3 ( 899年. 8ページ, 1 ( 1 5 ) Q 6 )中村尚武編述 『房総名士叢伝』 前編4 1 )前掲 く陸軍省大日記〉 中 『明治十七年従一月至十二月 諸府』 所収. ( 7 2 4号所収. 回前掲 く陸軍省大日記〉 中 『明治十七年従一月至四月 諸省庁』 第1 1 )注( 1 4 )に同じ. なお, 兵事に関する学校の管理問題に関しては, 拙稿 「近代日本教育史研究の課題」 日本教育史研 ( 9 98 2年3月. また, 私立兵学校の設立に関しては, ジャー 5ページ参照,1 究会編『日本教育史研究』第1号,70 ,7 要ヲ論ズ」( 1 888年5月) がある. 「 私立兵学校ヲ設クルノ必 第1号の論説 ナリ ズムでは 『日本之兵事』 9 72年, 宣文堂書店, ( ) 内は遠藤. 6ページ, 1 1 ( 2 0 ) ( 2 )大久保利謙編 『森有礼全集』 第1巻, 38ページ, 「解説」2 1号所収. ( 2 2 )前掲 く陸軍省大日記〉 中 『明治十八年九月 大日記』 第25 01号所収. 0号, 第3 )前掲 く陸軍省大日記〉 中 『明治十八年十二月 大日記 日』 総日第6 ばめ組 211.

(15) . 遠. 藤. 芳. 信. 鰯 『官報』 第 717 号, 244~245 ペ ー ジ, 1885年 11月 19 日.. 回 『官報』 第81 8号所収, 1 886年3月 27 日. 解 )前掲 く陸軍省大日記> 中 『明治十八年十二月 大日記 月』 第3 14号所収. 翻 り前掲 〈陸軍省大日記〉 中 『明治十八年十一月 大日記 月』 第29 3号所収. 2琳 ( 3 の前掲 〈陸軍省大日記〉 中『明治十八年分壱ノ大日記編冊補遺』 第39号所収. 文部省における11月 25日付の文 書の起草者は不明であるが, 森有礼文部大臣の秘書官に従事したことがある木場貞長が「森子は英国から帰りて, 文部省の御用掛となりしが, 其の上に文部少輔もあれば, 文部卿も居ったが, 御用掛が独り省の内外に重きをな して, 他を圧して居った.」 と18 85年の文部省について回想している点と, 文書の趣旨の点からみて, おそらく 起草者は森有礼であったものと推定される (国民教育奨励会編集 『教育五十年史』92ページ, 1 2年) 92 . 岡前掲 〈陸軍省大日記〉 中 『明治十八年目七月至十二月 総務局』 所収. 倦め『官報』 第7 4 1号所収, 18 85年12月1 8 日. 縄前掲 〈陸軍省大日記〉 中 『明治十九年一月 大日記 土』 総土第2 8 0所収. 鯛前掲 〈陸軍省大日記〉 中 『明治十九年従一月至二月 諸省院庁』 所収. ◎ 『官報』 第8 47号所収, 1886年5月1日. ◎ 『官報』 第8 55号所収, 188 6年5月11日. 縄東京都公文書館所蔵 〈東京府公文〉 中 『明治十九年普通第二種往復録 兵事課』 所収, 1 886年6月1日付高等師 範学校長山川浩発東京府知事宛の報申書.なお,山川浩高等師範学校長は5月13日付の東京府知事宛の照会文に おいては, 体操専修科生徒入学資格者を, 陸軍駐在官と協議のうえ, 勧誘してほしい旨を照会している. 触 り前掲 〈陸軍省大日記〉 中 『弐大日記』 乾1 88 6年7月総会第11 0号所収. 縦地1 絡み はめ は )注αのの4 ペー 4 82~4 85 3 4 9 4 4 4 なお 4 3 6 3 ジ 3 8 , , , , , 兵式体操を文明進歩の目的をもって位置づけたも . のとして, 大村長衛「兵式体操ノ必要ニ感アリ」『大日本教育会雑誌』第27号( 1 8 86年1月)がある. そこでは, 「兵式体操ノ・徴兵令ノタメニスト誤認シテ徒ニ歩法等ノ形式ニノミ流ルル勿し宜ク国人ノ気質ヲ造成シテ国ノ 文明ヲ拳固ナラシムルラ目的トスヘキナリ」( 5 8~5 9ページ) と主張されている. ◎江木千之翁経歴談刊行会 『江木千之翁経歴談』 上巻54 8ページ, 1933年. 健碑7 )注似 )の総土第1号所収. ( ) 内は遠藤. ただし, この照会文の 「内訓」 の詳細は不明. なお, 18 86年2月 26 日勅令第2号各省官制第2 2条は,「各省大臣ノ・所部ノ官吏ラシテ他省ニ渉り又ノ・他省ヨリ兼官セシムルコトラ得 ス若シ止ムラ得サル要用アルトキハ之ヲ閣議ニ提出シテ裁可ヲ請フヘシ」と兼任の扱い方を規定している. また, 「後備軍躯員」とは, 将校下士および同等官で, 常備予備両軍服役年限を終った者ならびに陸軍の一定の規則に よって後備軍に転する者である. はめ鰹節の6 1 )前掲 く陸軍省大日記〉 中 『壱大日記』1 8 88年1 0月 29 日総閣第4 22号所収. 回木下秀明著『兵式体操からみた軍と教育』( 1 9 82年, 杏林書院)は本稿と重復する部分(体操伝習所における体操 修業員の養成など) があり, 森有礼などの兵式体操開始を「軍事先取り政策」として位置づけ, 「陸軍にとって好 ましい性格のものであった」と性格づけているが( 1 3~15 4ページ) 5 , 森がその大衆的実施と普及を構想していた 点では軍上層部からは警戒される内容をもっていたのではないだろうか. 倦め鎚 ) ( 5 5 )『第二回帝国議会衆議院議事速記録』 第7号, 1891年12月 7 日, 54, 70, 68 ペ ー ジ. ◎参謀本部印刷 『団隊編制, 諸勤務令, 兵器, 材料等改正ニ関スル意見』 第二, 第四師団之部, 同第五師団之部, 1895年 12月, 所収.. 師東条英教 「陸軍教育と国民教育との関係」『兵事新報』 第1 1号~15号, 1897年2月 8 日~ 4月 8 日所収. 回その結果, たとえば, 日露戦争後であるが, 壮丁入営前教育においては「術科」(演習教練の実技的教育)を行わ ないような指示も軍から出されるようになった.すなわち,190 8年1月 27,28 日の福島連隊区郡市兵事主任会議 において福島連隊区司令官吉成蘭之助は, 「近来各郡市共合格壮丁ニ対シ入営前ニ於テ軍事教育ヲ実施スルニ至 りタルハ頗ル喜フベキコトニシテ軍隊教育上ニ資スル鮮少ナラサルラ信ス然しトモ術科ニ関スル事項ノ・却テ軍 隊教育ニ妨害トナリ教育当事者ノ迷惑トナ ルノ外何等益スル処ナキラ以テ断然才 テハサルコトニ注意アリタシ」と 口演し, 「術科」の教育は入営後の軍隊教育に対して「妨害」となっていることを述べている(福島県文化センター 歴史資料館所蔵 〈福島県庁文書〉 中 『目明治四十一年至同四十四年 第一種兵第七, 九号 兵事主任会書類金鶏 勲章年金関係』所収) . また, 田中義一も, 入営前の軍事予備教育の度が過ぎると, 入営後の軍隊教育の際には「所 謂半可通となって居るから」「兎角不熱心となる傾きがある」 と指摘している (田中義一 『社会的国民教育』1 19 ページ, 19 15年, 博文館) . (本 学助 教 授. 212. 函館 分校).

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