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大平正芳の日中二一世紀構想 ――日中の「知の結集プロジェクト」1980年始動――

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はじめに  1980年8月、外務省所管の特殊法人で日本と諸外国との文化交流事業を行っていた国際 交流基金(以下、基金とする)は、中国の教育部(省)との共同事業として、北京語言学 院(現・北京語言大学)内に「在中国日本語研修センター」(中国名は中国日語教師培訓班) を設立した。  この在中国日本語研修センター(以下、センターとする)においては、中国全土から選 抜された大学の現職日本語教師120名に対して、一年間(一ヶ月の訪日研修を含む)の日本 語教育と日本事情の集中研修が行われ、この五年間に合計600名の教員の研修が実施され た。基金は年間2億円、五年間で計10億円の大規模予算を組み、日本からの講師の派遣、 図書教材の購入と送付、研修生の日本への招聘等の協力を行った。文化大革命の混乱期を 経て様々な異なる経験を持った中国各地の現職日本語教師への集中講座が、通称「大平学 校」(中国名で大平班)と呼ばれるものである。  本稿では、このセンター開設に至る経緯を中心に約五年に及んだ研修の企画・運営の過 程で育まれた、日中の「知の協働(コラボレーション)」の萌芽を再確認したい。 1.1970年代 日中国交正常化と中国における日本語事情  基金は、日中国交正常化と同年の1972年の10月に設立された (1) 。その主たる活動は、人 物の交流、海外における日本研究の援助、および日本語の普及、各種文化的催物の実施・ 援助、資料の作成・配布等の事業である。  基金の日本語普及事業の実施に当たっては、まず海外の日本語教育の実情を把握するこ とが最重要課題であった。日本語教育事業については、基金の設立以来、既に諸外国から 数多くの要望が寄せられていた。そこで1974年9月から1975年3月にかけて、外務省文化 事業部(当時)と在外公館の協力を得て、海外の日本語教育機関に対してアンケート調査

大平正芳の日中二一世紀構想

――日中の「知の結集プロジェクト」

0年始動――

小 熊   旭

キーワード:国際交流基金、大平学校、日本語研修、文化による平和構築

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を行い、その結果を1975年12月、『海外日本語教育機関一覧』として刊行した。この調査で 明らかになったことは、世界の中で、アジアの日本語学習者が占める割合は、北米の28% を抜いて46%と最も多く、また、アジアの中では、韓国の学習者が激増し、34%で最多で あったことである(国際交流基金『海外日本語教育機関一覧(昭和50年)』)。  この調査結果に基づき、基金は、1975年から韓国を皮切りにアジアへの日本語教育専門 家等の派遣事業を実施し、同時に日本語教育専門家チームによる「短期巡回指導」派遣プ ログラムも開始した。その趣旨は、現地の日本語教育の実情調査を兼ねながら現地の日本 語教師への研修を行い、その国や地域における日本語教育の的確な振興を図るためであっ た。  1978年8月、「日中平和友好条約」の締結と時を同じくして、中国に対する日本語教育事 業の第一回目の「日本語教育短期巡回指導」が北京大学で実施された。同年12月には、日 本への留学生受け入れ協議のため、外務省、文部省(現・文部科学省)および基金から構 成された調査団が中国に派遣された。  この協議結果を受けて、翌1979年3月から、長春の吉林師範大学(現・東北師範大学) において、日中両国政府の合意に基づき鴆小平の「改革・開放」政策による中国の近代化 に資する人材養成を目的とした「赴日留学生予備学校」が開設された。ここで中国政府派 遣留学生に対し一年目の赴日前予備教育を行うことになり、文部省は基礎科目部分を担当 し、基金は日本語教育部分を担当することになり、基金から日本語教育の専門家を派遣す ることになったのである。  1978年10月、「日中平和友好条約」の正式発効を祝する日中両国政府による記念行事の 一環として、「日本映画週間」のイベントが中国主要8都市で開催された。『君よ 憤怒の 河を渉れ』『サンダカン八番娼館 望郷』『キタキツネ物語』の3本が上映された。これら は、文化大革命後、中国の大衆向けとして初めての外国映画の公開であったこともあり、 特に『君よ 憤怒の河を渉れ』は、中国全土で空前の大ブームを呼び、主演の高倉健は中 野良子とともに大人気を博した。これらの日本映画は、文革で荒廃した中国人の心情を癒 しただけでなく、日本という社会体制の全く異なる国に生きる人々の姿が彼らに親近感を 与えたのである。「日本映画週間」は、更に二年間、上映本数を増やし、中国各地の主要都 市で開催された。こうした日本の映画および当時普及し始めていたテレビ放映番組の影響 力は大きく、翌1979年は、中国で日本語学習熱が急激に高まり、北京や上海などの主要都 市の放送局は競って日本語講座を開設した。ラジオの日本語講座のテキストは飛ぶように 売れ、100万人が日本語を学習していると言われた (2) 。  このような状況のもとに、基金は、前年から開始した第二回目の「日本語教育短期巡回 指導」のため、大阪女子大学の佐治圭三教授を初めとして2チーム6名を1979年7月14日 から9月8日まで約二ヶ月間、中国に派遣した。彼らの巡回時期に合わせて、外務省と基 金は、赴日留学生予備学校の視察を兼ねて中国各地(長春、大連、北京、上海、広州)の 日本語教育の現状調査を行った。調査団一行が北京を訪問した折、中国教育部と話し合い

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を行ったところ、中国側より以下のような要請があった。すなわち、全中国で日本語教育 を行っている大学の総数は37校で、日本語担当教員の数は約600名いるが、教育部として は、特に文化大革命中に採用された現職教員の再教育の必要性を強く感じており、できれ ば、日本から一大学あたり3名の日本語教育専門家を派遣し、学生の教育と現職教員の研 修を検討してほしいとのことであった。現状調査は、二週間という短期間であったが、中 国における予想を上回る日本語教育熱の高まりを把握し、各地の大学で出会った日本語教 師たちの熱意と学生たちの熱心さに強い感銘を受けて帰国した (3) 。  三ヶ月後、1979年の12月、政府開発援助(ODA)の案件で大平正芳首相が訪中すること となり、それに合わせて外務省と基金は大平首相の訪中記念事業について検討会議を開催 した。その際、中国の日本語教員に対する研修事業が最も中国側のニーズに沿うものであ るということになった。最終決定に至るまでには紆余曲折があったが、骨子の概略は、「日 本語研修センター・五ヶ年構想」として、中国全土の600名の日本語担当教員を毎年120名 ずつセンターに集め、日本から派遣された日本語教育専門家による研修等を五年間継続し て再教育を行うというもので、その総額は10億円という大規模な構想であった。外務省は この構想をもとに早速、大蔵省(現・財務省)との予算折衝に尽力した。基金にとっても 年間120名という多人数の研修生に対応するだけの日本語教育専門家の協力をどのように 確保したらいいのか、とりわけ、センターの中心になる日本側主任の選考という最も大き な懸案事項を抱えていた。幸いにも前述した第二回目の「日本語教育短期巡回指導」で中 国各地から選抜されて集まった多くの日本語教員たちの熱意に打たれた佐治教授が、大阪 女子大学を退職して、この仕事を快く引き受けてくれたのであった (4) 。このセンター構想 は、中国側にも歓迎されるものであった。   2.大平訪中と講話メッセージ   1978年12月18日から22日までの期間、中国では、中国現代史の分水嶺と評価される中国 共産党第十一期第三回中央委員会全体会議(十一期三中全会)が召集された。中国が近代 化を目指した、いわゆる鴆小平の「改革・開放」路線が打ち出された。すなわち、この画 期的な政策転換は、国際協調による経済的繁栄の道を選択したことを意味する。  時を同じくして日本では、1978年12月7日、大平正芳内閣が誕生した。翌1979年1月25 日、大平首相は施政方針演説の中で、自らの時代認識の下に、世界の平和にとって日中関 係のもつ重要性について次のような示唆を行っている。  戦後30余年、我が国は、経済的豊かさを求めて、脇目もふらず邁進し、顕著な成 果を収めてまいりました。それは、欧米諸国を手本とする明治以降百余年にわたる 近代化の精華でもありました。(中略)  しかしながら、我々は、この過程で、自然と人間との調和、自由と責任の均衡、

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深く精神の内面に根ざした生きがい等に必ずしも十分な配慮を加えてきたとは申せ ません。今や、国民の間にこれらに対する反省がとみに高まってまいりました。  この事実は、もとより急速な経済の成長のもたらした都市化や近代合理主義に基 づく物質文明自体が限界にきたことを示すものであると思います。いわば、近代化 の時代から近代を超える時代に、経済中心の時代から文化重視の時代に至ったもの とみるべきであります。  我々が、今、目指している新しい社会は、不信と対立を克服し、理解と信頼を培 いつつ、家庭や地域、国家や地球社会のすべてのレベルにわたって、真の生きがい が追求される社会であります。各人の創造力が生かされ、勤労が正当に報われる一 方、法秩序が尊重され、自ら守るべき責任と節度、他者に対する理解と思いやりが 行き届いた社会であります。(中略)  今日、我々が住む地球は、共同体として、いよいよその相互依存の度を高め、ま すます敏感に反応し合うようになってまいりました。(中略)対立と抗争を戒め、相 互の理解と協力に待たなければ、人類の生存は困難となってまいりました。(中略)  昨年秋、日中平和友好条約が締結され、本年元旦、米中外交関係が樹立されまし た。  これら一連の外交的展開は、アジア・太平洋地域のみならず、世界の平和と安定 に大きく寄与するものと期待しております。我が国としても、その方向に沿って、 日中間の平和友好関係を着実に発展させたいと考えております。  我が国の国際社会における立場を考えますと、先進国と発展途上国とを問わず、 また、政府、民間を通じ、必要とされる資金、物資、知識、技術を可能な限り提供 し、幅広く経済交流を進めていかなければなりません。特に、私は、留学生や研修 生の受入、学者、技術者等の派遣を通じて、相手国のマン・パワーの開発に対する 協力を重視してまいりたいと考えます(外務省『昭和55年版わが外交の近況』)。    このように、大平首相は日本の過去百年の近代化の反省と教訓を述べ、既に時代は、物 質文明から精神文明へ、経済中心から文化重視の時代へと移行していると注意を喚起して いると言えよう。共同体としての「地球社会」の一員として相互の理解と協力の下に生き てゆかなければ人類の生存はないと明快に語っている。さらに、アジアひいては世界の平 和と安定のために日中関係の平和友好関係を発展させたい、具体的には、マン・パワーの 協力を行いたいと強い意志表明を行ったのである。    1979年9月、日本は、中国政府からの近代化推進のための円借款供与の強い要望を受け、 数ヶ月にわたる交渉の結果、同年12月5日から9日まで、大平首相が中国を公式訪問した。 両国首脳は、5日と6日に会談し、日中関係全般に関して意見交換を行った。翌7日の共 同記者会見の際、華国鋒総理は大平首相に対し、中国経済建設の方針を説明し、日本及び

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その他の諸国と経済協力を強めていきたいとの希望を表明した。大平首相はこれに対し、 歓迎の意を表すとともに日本の経済協力の基本方針を説明し、日本政府として中国側に積 極的に協力を行う用意があると表明した。大平首相がこの会談において中国の近代化建設 に対する円借款供与を約束したことにより、日本の対中国政府開発援助(ODA)が始まる ことになった。  大平首相は、「国造りの基礎は人造りにあるとの認識から中国の留学生の日本への受入 れを始めとする文化面における協力及び技術協力を積極的に進める」とした。とりわけ注 目すべきは、「特に文化面における協力の一環として、中国における日本語学習を促進す るため明年度以降具体的な形で協力する」ことを表明した点である。  大平首相は、なぜこのような発言を行ったのか。7日、同首相は北京の政協礼堂におい て、外国首脳としては初めての講演(以下、講話とする)「新世紀をめざす日中関係―深さ と広がりを求めて―」を行い、以下のように述べた。当時としては極めて異例なことなが ら、この講話は、テレビとラジオで中国全土に放送された。  由来、国と国との関係において最も大切なものは、国民の心と心の間に結ばれた 強固な信頼であります。この信頼を裏打ちするものは、何よりも相互の国民の間の 理解でなければなりません。  しかしながら、相手を知る努力は、決して容易な業ではないのであります。日中 両国は一衣帯水にして2000年の歴史的、文化的つながりがありますが、このことの みをもつて、両国民が充分な努力なくして理解しあえると安易に考えることは極め て危険なことではないかと思います。ものの考え方、人間の生き方、物事に対する 対処の仕方に日本人と中国人の間には明らかに大きな違いがあるやに見受けられま す。我々はこのことをしつかり認識しておかなければなりません。体制も違い流儀 も異る日中両国の間においては、尚更このような自覚的努力が厳しく求められるの であります。このことを忘れ、一時的なムードや情緒的な親近感、更には、経済上 の利害、打算のみの上に日中関係の諸局面を築きあげようとするならば、それは所 詮砂上の楼閣に似たはかなく、ぜい弱なものに終るでありましよう(外務省前掲書)。    このように、大平首相が日中関係に対して切望していたことは、日中両国民の心と心で 結ばれた強固な信頼関係である。そして、この信頼関係は、両国民の相互理解によって初 めて生まれるものである。しかもこの「相互理解」すなわち「相手を知る努力」は、決し て生易しいことではなく、両国民の「十分な努力、自覚的な努力」がなければ成し遂げら れるものではないと訴えている。なぜなら、我々は、二千年の歴史的、文化的つながりが あるが為に、安易に考えがちであり、社会体制も生き方も、ものの考え方も違う「異文化」 関係にあることを忘れて、相手を知る努力を怠ってしまうからである。真の信頼関係が経 済的利害関係、打算や情緒的な親近感で成立しえないのは言わずもがなである。それゆえ

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に、「文化交流」が重要かつ必要であり、日中間で「文化交流協定」を締結することによっ てその確固たる制度的な基盤を整備したことについて、以下のように語っている。その背 景には、大平首相が、1972年の日中国交正常化のために外相として尽力して以来、78年の 日中平和友好条約の締結、79年の首相施政方針演説でも一貫して求め続けてきた、日中両 国の平和友好関係の強固な発展がアジア及び世界の平和と安定に寄与するという固い信念 があるのである。    相互理解を深めるうえで人の往来を盛んにすることの重要性については、あらた めて多言を要しません。私は、この点に関し、とくに両国間の文化学術面における 交流、あるいは留学生等の交流を大切にしたいと思います。今回の貴国訪問に際し、 我が国は、貴国との間に文化交流協定を締結いたしましたが、私は、今後、この協 定を基礎に双方の当事者が創意と工夫を発揮して、この面からも、両国の友好関係 が一層深まることを期待いたします。  更に、両国間で今後進められる技術協力も、この人的交流を促進させるものであ ります。  私は、貴国からのいろいろな分野における技術協力の要請に対して、今後、積極 的に対応したいと考えております。これにより単に技術の移転が行われるという技 術援助の側面のみでなく、数多くの分野で専門を同じくし、志を共にする者同士の 人間交流が行われるという点に着目するからであります。    大平首相は、この訪中期間中に日中両国間で初めての「文化交流の促進のための日本国 政府と中華人民共和国政府との間の協定」(略称:中国との文化交流協定)に署名(12月6 日)し、積極的に文化交流を行うことを通じて、両国の関係が一層深まることを期待した。  「中国との文化交流協定」は、前文と本文五条からなり、学者や芸術家、スポーツマンの 交流、奨学金の供与、大学その他の教育・研究機関における共同研究・学術調査の実施、 講演・演奏会・映画会・展覧会等の文化行事の実施、書籍・定期刊行物・視聴覚資料等の 交換についての協力を促進することを定めている。  これらは、1978年8月12日に調印された「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条 約」(以下、日中平和友好条約とする)の第三条の規定に基づき締結したものである(「両締 約国は、善隣友好の精神に基づき、かつ、平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の 原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のた めに努力する」)。  言い換えるならば、「日中平和友好条約」は、日中文化関係の対等性および相互主義等の 原則とその目的を明確にしたものであり、「中国との文化交流協定」は、それを具体化した ものである。

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 従って、これらの条約や協定を実現した日中両国による、具体的には基金と教育部によ る初めての「文化交流の共同事業」が「在中国日本語研修センター」(大平学校)プロジェ クトであると言える。  さて、大平首相によると、中国の近代化に協力するためには、まず「中国における日本 語学習を促進する」ことから始まる。相手国の言語を通して社会・文化への理解を深める ことの重要性が示唆されている。    国民間の相互理解の増進をはかる一つの有力な手段が、言語であることは、今さ ら申す迄もありません。我が国においては、古来、中国の漢籍が日本文化の一部を 構成していることは御承知のとおりであります。また近年、現代中国語の学習熱が 盛んになりつつあることは極めて喜ばしいことであり、政府としてもこれを奨励し て参りたいと考えております。  一方、私は、中国においても日本語学習に対する熱意が高まりつつあることを喜 んでおります。  私は、中国におけるこのような日本語学習の一層の振興のため、日本政府として、 明年以降具体的な計画をもつて協力することをお約束したいと思います。私は、ま た中国における日本語の学習が中国の人々の日本の社会及び文化自体に対する幅広 い関心の高まりにつながることを強く期待するものであります(外務省前掲書)。 3.大平学校のエピソード  大平首相の提唱で設立された日本語研修センターは、近代化を目指し、日本の経済成長 の経験に学びたいと願う中国側のニーズだけでなく、日中両国のパイプ役を果たす知日派 を育成したいと願う日本側のニーズにも応えるものであった。センターに関わった研修生 および日本語教育関係者達は、こうしたニーズに応えるべく獅子奮迅の活躍をしたが、そ れゆえに中国においては、センターは、通称「大平班」(大平学校)と、親しみを込めて呼 ばれることになったのである。  大平学校の当時の雰囲気について、日本側主任を五年間勤めた佐治圭三教授(故人)は、 次のように回想している。    地味にこつこつと教育と研究に打ち込み、常にひかえ目で、研修生たちの静かな 尊敬を集めておられた先生もおられた。習っていた時はむずかしくていやだったけ れど、後からその教わったものの確かな価値がわかって、改めて尊敬の念をおぼえ たと研修生たちが語る先生もおられた。「あの先生は私たちよりも若いのに、すご い」と研修生たち驚かせた気鋭の若手学者もおられた。休み時間も日曜も返上し、 時には夜遅くまで補習をしたり、ビデオを回したり、献身的に働いて下さった先生

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もおられた(北京語言学院日語教師培訓班編『紀念文集―日語教師培訓班的五年』 1985年、17頁)。    また、第一期生を指導した平井勝利派遣講師によれば、初年度の120名の研修生の内訳 は、「平均年齢男性33歳、女性が30歳であり、男女合わせて20代66名、30代32名、40代16 名、50代6名」であり、「文革勃発時の1966年にすでに大学ないし専門学校を終えていた 者およそ30名、残りの90名はいわゆる文革世代」であった。研修生の約3分の1およそ40 名は、文革の混乱期に中学、高校を終え、数年間、農村で小学校の教師をしたり、工場で 旋盤工をする等社会人として働き、職場から推薦されて大学に入った人たちである。彼は、 次のように述べる。    センターでの授業で鋭い質問をあびせたり、研究会で中心になって活躍したいわ ば精鋭部隊は文革世代である。(中略)彼ら文革世代はこと日本語の勉強において は決して“大陸的”ではない。こちらがのんびりしているとムチでたたかれるし、 準備不足で授業に出ると厳しい視線を投げかけてくる。(中略)  文革世代の彼らに見られるこのバイタリティと真剣さは、一体どこからくるので あろうか。日中交流の前線に立つすぐれた人材を養成するために、教師である自分 自身が教育・研究面でしっかりと実力をつけなければならないといった自覚が根底 にあることは疑う余地のないところだが、ほかにも理由はあるようだ。その一つは、 彼らは文革の混乱期に育ったために、小・中・高でまともな教育を受けてこなかっ た。そのため基礎学力も不足している。これからの勉強でそれをも取り返さなけれ ばならないという焦燥感。(中略)  仮に、四つの現代化を個人のレベルでとらえ、それが自分自身の仕事の上で国際 的な水準に到達することであって、そのために個人のすべての能力とエネルギーを 投入することだとするならば、彼らはまさに日本語教育・研究の分野における現代 化の模範的で先進的な部隊である。(中略)今後中国の日本語教育・研究の世界に おいて、中心になって活躍するであろうと思われる人材がかなり出てきたことは事 実であり、いささかではあるが満足感がないわけではない (5) 。    ここには、何よりも文革世代の研修生たちの突出した学びへの真剣な意欲とレベルの高 さ、そしてそれに応えようとする日本側講師の責任感が見事に語られている。大平首相の 目指した「専門を同じくし、志を共にする者同士の人間交流」の理想が実現したと言って もいいだろう。研修生たちの反応について、もう一人、現代日本語の文法を担当した村木 新次郎派遣講師の声を聞いてみよう。  多くの研修生から、「病気になやむ」と「病気でなやむ」のちがいはなにか、(中

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略)どういう場合に「窓をあけてある」をつかい、それは「窓があけてある」とど ういう点で区別されるか、といった種類の質問を毎日のようにあびせつづけられて きた。(中略)十分の休憩時間にひかえ室にもどれることはまれであった。五十分が 質問に終始することもめずらしくなかった。(中略)彼らの日本語をマスターしよ うとする意欲と情熱には恐れいるばかりである (6) 。  研修生たち本人自身の情熱と勤勉さについて、その生の声を第一期生であったジャーナ リストの莫邦富は、次のように証言している (7) 。  私たちも猛烈に勉強していた。毎日、資料室が消灯するまで研究レポートを書い ていたり本を読んでいた。日曜日もほとんど自習に費やした。研修生の宿舎となっ ていた十一号楼の夜は、各部屋からいつでも煌煌と明かりが漏れていた。大平学校 への応募は年齢制限も設けられていた。この貴重な研修のチャンスを逃すまいとい う一心で、三歳ほどサバを読んでいた者もいた。このような環境の中で勉強してい たため、中国の将来に必要な人材を養成する大任を背負っているのだというエリー ト意識と、全国各地から集まってきた同僚たちとの競争意識もあって、私たちは自 然に渾身の力を勉学に注いだ。わからない点があると徹底的に日本人講師に質問し た。質問攻めに遭い、答えに窮した若い女性講師が泣きべそをかきそうになってい るのを何度も目にした。 4.大平学校五年間の実績と発展的拡充  大平学校について、当時の中国政府(国家教育委員会、現教育部))の彭佩雲副主任(日 本の文部科学省副大臣に相当)は、『紀念文集』の中で次のように述べ、これを高く評価し ている。  故大平前首相の提唱により中国の日語教師六〇〇名の養成プロジェクトは、この 七月円満に終了し豊かな成果を挙げることができた。このことに対し、私は心から お祝いの意を申し上げるとともに、中国教育委員会を代表して、日本政府、外務省 ならびに国際交流基金にこのプロジェクトの実施のために為されたご努力に感謝申 し上げる。(中略)中国の日本語教師研修プロジェクトは、その正式名称は、「中国 日語教師培訓班」でありますが、みんなはこの研修センターに親しみを込めて「大 平学校」と呼んでおります。「大平学校」の名称は、わが国の日本語教育界では、誰 もが知っており、また日本の教育界においても非常に高い声望を得ており、まさし く中日友好の結晶であります(北京語言学院日語教師培訓班編前掲書、1∼2頁)。

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 五年間で大きな成果を上げた大平学校は、1985年に転機を迎える。日本語教師向けの研 修機関を、新たに日本研究に統合した形でより発展的に再構築し始めたのである。これは、 日本側の知的交流推進という目標とも符合していた。また、上述の彭副主任は、続けて次 の通り述べている。    中国の日本語教育は、全ての外国語教育の中で英語教育に次ぐ第二位の規模を有 しており、目下、全国には日本語専攻の大学は五六校で日語教師は九八〇人余り、 日語専攻学生数は四〇〇〇人に達しております。(中略)さらにラジオ・テレビ大 学、夜間大学、通信教育大学などで日本語を学んでいる学生を含めると相当な数に 上ります。したがって、わが国において日本語教育は、非常にやりがいのある事業 なのです。今回のプロジェクトの終了に伴い、さらにわが国における日本語教師の 水準を高めるために中日両国は双方の努力によって、一九八五年九月から新たに 「日本学研究センター」を設立いたしました。(前掲書)。  前述のように、日本政府は基金を通じ、五年間にわたり、約600名の現職日本語教師の日 本語教育の研修を実施してきた。しかし、この数は中国全土の日本語教師の実態から見れ ば未だ十分の数とはいえなかった。そのため、中国側は、従来の「日本語研修」の継続と 共にそれに加えて日本語教師の質を高めるため、新たに日本語・日本研究の「大学院修士 課程」を設けたいとする要望を寄せてきた。中国側に日本研究を通じ広く中国の発展に資 する人材を養成したいという希望があったのである。こうした要望を受けて、1985年9 月、「大平学校」を発展的に継承・拡充するために、外交官をはじめ中国の対外事務の人材 養成機関で、延安時代からの語学教育の伝統を持つ北京外国語学院(現・北京外国語大学) に実施機関を移し、「北京日本学研究センター」(中国名「北京日本学研究中心」)が設立さ れた。 おわりに  以上、筆者は日中文化交流事業の現場に多少とも関わってきた立場から、「大平学校」の 開設の経緯と実績を概観してきた。  「大平学校」は、日中双方が知恵を出し合って共同企画・運営した異文化交流の初めての 実践校であった。我々はこれまで築き上げた共有財産である知的交流の人材ネットワーク を活かし、アジア圏のみならず広く世界の「知の結集」に向けて、日中双方がコラボレー ションできる環境を有効活用することが肝要である。日中間の連携を地球規模に拡大し、 世代間でも継承していく必要がある。現代のグローバル世界において、「文化による平和 構築」を目指すなら、知的交流を中核とした官民協調による文化交流が果たす役割は、地

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球上いかなる国や地域においても年々増大している。  本稿では、敢えてかなりの紙幅を割いて大平首相の文化交流に関する言論を紹介した。 これらの「大平語録」は、二一世紀の日中関係に関わる全ての人間にとって、時には道標 として、また時には警鐘として、常に立ち返るべき原点であると確信する。 付記  本稿は、『中日教育合作実践与成效研究――以“大平班”和北京日本学研究中心為例』(学苑出版 社、2013年)の筆者担当部分である第1部第3章を日本語訳したものである。 注 (1)その目的として「わが国に対する諸外国の理解を深め、国際相互理解を増進するとともに、国 際友好親善を促進するため、国際文化交流事業を効率的に行い、もって世界の文化の向上及び 人類の福祉に貢献すること」(国際交流基金法第一条)を掲げている。2003年10月1日より、独 立行政法人となり、文化芸術交流、海外における日本語教育および日本研究・知的交流の3つ を主要活動分野としている。 (2)佐治圭三「中国研修生の燃えるまなざし」『国際交流』第44号 国際交流基金、1987年、45頁。 (3)椎名和男「日本語研修センター開校」北京語言学院日語教師培訓班編『紀念文集―日語教師培 訓班的五年』日本国際交流基金、1985年、23∼24頁。国際交流基金15年史編纂委員会『国際交 流基金15年のあゆみ』国際交流基金、1990年、60頁。 (4)同上。国際交流基金15年史編纂委員会『国際交流基金15年のあゆみ』国際交流基金、1990年、 60∼61頁。なお、センターの設置場所は、北京、上海、長春が候補に挙がっていたが、最終的 に北京に決定した。 (5)平井勝利「日本語“らしさ”を教えるために」『言語生活8月号』筑摩書房、1981年 82∼84頁。 当時は、名古屋大学助教授。 (6)村木新次郎「食べられなかった北京ダック」『言語生活9月号』筑摩書房、1981年 92頁。当時 は、国立国語研究所員。 (7)莫邦富「『大平学校』を思い起こせ」『中央公論』2001年4月号、106∼107頁。 文献 外務省『昭和55年版わが外交の近況』第24号、外務省、1980年 国際交流基金『海外日本語教育機関一覧(昭和50年)』国際交流基金、1975年 国際交流基金15年史編纂委員会『国際交流基金15年のあゆみ』国際交流基金、1990年 莫邦富「『大平学校』を思い起こせ」『中央公論』2001年4月号 北京語言学院日語教師培訓班編『紀念文集―日語教師培訓班的五年』日本国際交流基金、1985年

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