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子規連句私解 獨吟百韻「灯ともさぬ」の巻 : 其二十九〈四ゥ三句目〉

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全文

(1)

大島富朗



讀めば似た事のある



川の瓦解に家族ちり

雑の五句目、久しく人事が続く。

前句が



なれば馬琴好みの子規、

『南総里見八犬傳』

の里見家で

受け、

「里見家の瓦解に家臣ちり



に」

と軽く遁げても無難な所。

どそうせざりし点に彼の伊予松山藩士族という終生捨て得なかった自負心

注1

矜持の、恐らく無意識な表出が窺える。

それは、図らずも朝敵の汚名

注2

を着せられ御一新の時流から取り残された

名門親藩士族が等しく抱いた

(であろう)

矜持でもある。

土佐藩、安芸広島藩の建白を容れた「



川」十五代将軍慶喜が大政奉還

を上表したのが慶応三年

1867

十月十四日

(前日十三日付で薩摩、翌十四日に長州 藩、 討幕の密 勅 注3 が各々下さる)

それに先立つこと約一ト月、

九月十七日

松山藩領内温泉郡藤原新町にて子規こと正岡常規出

注4

隼太三十五歳

(藩御馬廻格)

、母八重二十三歳。

年譜的にみて当然乳幼児期の子規の預り知らぬことながら、

奇しくも



川の瓦解」即ち幕末



明治御一新

(文明開化)

という歴史的激動の時を、

言うなれば一片田舎四国松山の地で過していたのであり、短かい子規の生

涯、三十六年は日本の近代国家への歩みと重なる。政事と文事、分野こそ

違え伝統的韻文の旧弊打破を志し実践した子規は明治元勲達から一歩遅れ

そして一歩早く舞台から下りたとはいえ時代の申し子、或る意

明治人であった。

ところで、

伊予松山藩久松松

家は家

弟定勝

永禄

三年

1560

源姓

平氏及葵章

」を

されて

以来

の名

注5

、九

国は

聟養

子とはいえ

御三



の一つ田安

宗武

の二

であり

改革

で名を

せし

老中

平定信

石高

十五

万石

藩といえど将軍家と

い親藩

え幕末

新の

には

応の

対処

られた

模様

下、時

系列

で松山

時の動

を「



川の瓦解」に重

ながら

略述

整理

してみる。

当然

整理確認

付句

解の上でいえば無

横道

、なれど明治と

されて

ほぼ

代約三十年、富国

強兵



殖産興業

を国

となし近代国家日本

たらしめ

くの

外患

を抱えながら日

清戦争

した二十八年も残

ところ二

の十月下

新の元勲

重ぬ

といえ

未だ

政治の

に重

をなして

り、一

回顧

をもって

られる

学苑 日本文 学紀要 第 八一九 号 三六 ~ 五六(二 〇〇 九 一)

子規

獨吟百



ともさぬ」の

二十九



三句目



(2)

輝やかしき回天の覇

注7

と「



川の瓦解」

政奉還と共に誕生、

僅か六歳

にして家督相続、其の後四十日余にして父尚武と死別、父の記憶十分なら

ざる幼少期を、

後に服部嘉香をして、

「武士の妻としての、

松山士族とし

ての面目をよく保たれたものと思ったことであった

注8

」とその人となりを述

懐させた母八重をはじめ、外祖父元藩儒大原観山及び他の士族親戚等々に

育まれた子規の自我、仮令慰み草なるにしろ記憶から欠落していると推測

される「



川」と敢えて付けた発想、前句が歴史的事象と異なる狂言綺語

の「



」、

にも拘らず歴史で応じた手練を、

これ又後日のことながら自

筆墓誌銘に「父隼太松山藩御馬廻加番タリ」

「母大原氏ニ養ハル」と記す、

その文言に窺い知る強烈な士族意識を終生持ち続けた子規の自我形成を、

「瓦解」

する



川」

家に与した主家久松松平家の立場を視野に入れつつ

読み解かんとするからに他ならぬ。



元治元

年 1864

一月二十一日

勝成

十三代十五代 代藩 主 

、将軍家茂に従い参内、孝明帝に拝





同年七月二十二日

去る禁門

(蛤御門)

の変

注9

に際し、

その迅速な行動叡聞に達し勝成参

内の上褒賞の勅語を賜う



同年十月

第一次長州征伐につき来る月十一日、

四国海路先鋒たるの幕命を

受く





同年十一月十三日

勝成自ら後軍を卒して

出陣



同年十二月二十七日

長州征伐軍解

の命あり

注  ( 翌 年一月一日、勝成松山 帰着 )

応元年

注 1865

四月二十五日

将軍家茂、長

征伐

(第二次)

為進

発、六月二十二日入

後に

下坂

、大

坂城

本営

とす



応二年

1866

五月

征伐先鋒

紀伊中納

( 徳 川)

より

出兵

の命

る、

養子

後軍を

いて

出兵

津浜

(六月五日)



同年六月八日

十六日

松山藩

島郡

にて

激戦

同年七月二十日

家茂、征長軍相

継ぐ

坂城中

にて

年二十一。

同年八月五日

家相続

同年十二月五日

に十五代将軍

、同月二十五日

合体攘夷派

の孝明

(異母 妹和 宮 は家茂に 降嫁 )

御、

年三十六。

家茂の死、征長の

不首尾

、孝明帝

御と

ち続き一

国の

が強まった。



応三年

1867

月二十日

藩主勝成、

理由

致仕隠居

い養子

定昭

が家督相続し第十四

代藩主となる



同年

月二十三日

定昭

、「

溜間詰

判列

セラ

ル、

キ熟

上命

(3)

スヘキ旨

翌二十四日

加判列上席

辞表

将軍

上ル」

(以下、カギ括弧付引用は「家譜」 の記述)

※同年十月十四日

将軍慶喜、大政奉還

注 

の上表提出



同年十月十九日

定昭、

「願

加判列上席

免セラル」

※同年十二月九日

王政復古

注 

の大号令渙発、同月十二日

将軍慶喜出洛、大坂に

入る



同年十二月十三日

定昭、慶喜に従い「大坂

着シ中ノ島藩邸

」入る



慶応四年

1868

一月三日

戊辰

(鳥羽伏見)

の戦

注 

、薩長に錦旗下賜

(同五日)

、幕府



会津桑

名松山藩他賊軍となる

※同年一月六日

慶喜、天保山沖停泊中の幕艦開陽丸にて大坂脱出帰東

同十

一日夜品川沖投錨

十二日未明浜御殿へ、後刻江戸帰城の上

恭順の意を示す

二月二十三日

江城を出て上野寛永寺大慈

(現在の寛永寺)

に謹慎蟄

注 

四月十一日

江戸無血開

注 

同日同院を退去し謹慎地水戸へ向う

五月十五日彰義隊

上野

戦争、七月十九日新封地駿府に移住

、二十三日宝台院に入る

明治二年

1869

九月二十八日

謹慎免除



同七

定昭、大坂を出、十日夜帰松



十一日

松山藩追討

の勅命土佐藩へ下る



二十三日

土佐少将使者金子平十郎小笠原唯八の両名来りて追討の勅命の旨を

通達



二十六日

勝成、定昭恭順の意を表し共に常信寺へ退去

翌二十七日

土佐藩

士将深尾左馬介に城地を托し二心なき旨の書面提出

注 

二十八日

州へも同じく書面差し出す

注 



同年二月二十三日

城領地共に土佐少将預り

定昭に謹慎の勅命下る



同年五月二十二日

注 

、蟄

を命ぜ

領は養

成に下

賜の上



を命

軍事費十五万両

納を命ぜら

注  (八月二十三日完納 注  )



二十五日

定昭、温泉郡東野村吟松庵に蟄

注  (明治二年 1869三月六日 放免される も「国 務 并 ニ 家事 ニ 関係 スヘカラス ト ノ 命 ヲ 蒙 ル 」)

の後、養父勝成

致仕

り再

受け継ぎ

松山藩

事に

ぜられ

たが

(明 4  1  14

、明治五年七月十九日



去、

年二十八

歳。

二十三

にして「加判列上席」

、「家

川家

親属

え「慶喜

退

候段

を所事

し」

結果

、心なら

も「

朝敵

被目

」謹慎

蟄居という

辛酸

経験

、寛永十二年

1635

七月



初代

松山十五

に入封して以来十五

三十六年に

及ぶ久

松松平家の藩政、

後の

(4)

藩主定昭侯、



川の瓦解」

に殉じたとも譬うべき、

激動の波に翻弄され

た思えば短かい生涯といえよう。

時に子規六歳、父常尚隠居

注 

により正岡家第八代当主、三月七日父急死、

享年四十歳、死因は脂肪変化とも脳充血

注 

とも、孰れにしろ些か若死の感否

めぬものあり。

「父のなんたる死の何たるを知らぬ」

「余が当時の所行、げにあさましか

りきと思はぬはなき程也」

と述べる父の面影、

『筆まかせ』

第一編

明治

二十二年の条中「

注 

」から引く

(傍点引用者)

我父にておはせし人は佐伯氏より来て孫嫡子となりて曾祖父の

あとを継ぎ給ひしが、明治五年即ち余が六歳の時、四十歳を一期

として空しくなり給ひしかば、余は少しもその性質挙動を知らず。

只その大酒家なりしことは誰もいふ処にて、毎日



一升位の酒

を傾け給ひ、それが為に身体の衰弱を来し、終に世を早うし給へ

り。某の話に死後暫時にして皮膚尽く黒色を呈せしかとかいへば

脂肪変化にはあらざりしかと疑はる

(略 )

父は武

。さりとて学

。余が家に天元の書、一部と竹を黒白に染めわけたる算木、

百本許り残りゐしが、こは花火とか何とかのために少し学ばれた

りとか聞きたり。父は高

、し

と、そのみまかり給ふ前にも非常の発達の為に苦しまれし

が、便所に行かんといひ給へり。医者も「動き給ふ宜しからず、

そこにて取り給へ」とすゝむるに聴き給はず。終に母によりかゝ

り給ひて便処

(ママ)

へ行き給ひしと

(略)

こうした父の面影、後天的に培われたものに相違なく、折に触れ類縁の

者たちが語ったその人となりが紡ぎ出した父親像であろう。

が、一方で、



さんは名を隼太と言はれ、劍



といふことを聞いた

もあったが、正

といふ



のみで、

赫々

たる名のある方でなかったが、酒

といふこ

とでは



(略)

と語る

池内

( 信嘉 )

印象

が注

される。

「大酒家

注 

」「酒

みといふことでは



」とする点で

共通

するも

のの、子規の「武術にもたけ給はず」

「高慢にして強情」

「意地わるきかた

なり」

信嘉

がいう



で入身といふことに

じて居られた」

「正

い人」

じ常尚の

印象

でありながら

で正

反対

である。

に子規の

それは

自画

像と

じても

言でなき

ほど

に相

をなそう。

か「大酒家」という

あれ

、また「

赫々

たる名のある方でなか

った」

をしていわしめたにしろ、

平凡

士族

(一 市井 人)

であ

った

(と思わしめる)

常尚が

か六歳の

幼児

に家

り隠居した

中、

傍からあれこれ

忖度

するのは

しいが、

の折に

朝敵

となりし親藩

しく

わったであろう、時代に翻弄され取り残される

たる思い

を、

「毎日



一升位の酒」

らせ、

に生

いのち

めたと解するのは

な一

を出るものではないが

当な

か。

が、

少し

言を

ける。

常尚七歳

常武

(子規曾祖父)

の孫

子、

父の死

( 嘉 三年 1850)

により

(5)

十八歳で家督相続

大小姓入り。

以下、

略年譜的に



(後出、 宝来研究 ノートに依るが一部稿者補記)

二十五歳

(安政四年 1857

長男数馬誕生

(妻は倉根半蔵娘 注  、十八歳)

二十七歳

(同六年 1859)

妻死亡、享年二十歳

三十歳

(文久二年 1862

数馬死亡、享年五歳

三十三歳

(慶応元年 1865

後妻八重

(大原観山長女)

を娶る

三十五歳

(同三年 1867)

次男子規誕生

三十七歳

(明治二年 1869

家焼失

注 

三十八歳

(同三年 1870)

長女律誕生

四十歳

(同五年 1872)

一月隠居、三月病没

先きに

極く平凡な士族云々」

と述べたが、

「正岡家系」

(松山市立子規 記念博物館所蔵)

を整理要約した同館学芸員

(当時)

宝来淑子は研究ノート

「「正岡家系」の新事実

注 

」の中で、

(略)

常尚が跡目相続した嘉永三年は、

尊王派倒幕派入り乱れて

騒然とする中、松山藩でも海上防衛上三津浜の警固を強化する。

常尚の任も、

江戸詰め

(ママ)

あるいは三津浜警備をくりかえし、

(倉 根氏)

亡き後長男数馬を倉根氏に預けて江戸詰の間に、

長男もま

た失ってしまった

と論じるが、

往時の松山潘が置かれた政治情況

(既述)

を勘案するに、

士常尚の境遇が格別であったともいえず、その意味からしても普通であろ

う。

むしろ注目したいのは彼の家庭の在り方である。慌しく江戸



松山勤番

を繰り返す間に見まわれた妻子の相継ぐ不幸と、松山藩追討令に際し抗戦

論に組した藩儒大原観山

(武右衛門)

の長女八重を後添となすも

「餘り名

聲の高くない正岡へ嫁せられたといふことは、時々人の



にも上る



釣り

合はぬ



と見られたものであつた

」との世評、その上「養母といふが

好と

て居るので、酒の

めに家政も

しく、

八重

さん

出でたの

ぢや

けれ

お婆さん

隼さん

とが

呑ん

しま

たので

ぢや

」。

る、

常尚

自身

にとり

しから

る世間なれ

廻廃止

る別組

織千城

配属

知行百石取

となるがその

中養母

の失

、家

屋丸

焼け

(明治二年十二月五 日夜

という不

事を

す。

い「

遠慮

」を

い出るが「不

及其儀候

」との

沙汰

事に

屈託

える一方、

版籍奉還

(明 2  2  8 上 表 、同 年 6  18認可 )

した藩

制改革

ぎ早

に実

れ、

下家

臣団

解体

禄官級

にまで

(明 3 閏 10  16)

中、

化に

応出来ぬま

ま、

な物

いながら酒に

逃げ

らぬ

常尚の生

といえ

う。

後妻として嫁すこと五年、一男一女を

たものの二十八を以て

寡婦

とな

昭和

二年五月十二

八十三歳を一

とした八重、

さん

二人は、

も別

で、

の出の





へ嫁せられたが

注 

」、十四

三人

「餘り名聲の高くない正岡へ嫁」した事情

るべくもないが、



注 

」子規

看護

と彼の

い出に半生を

した

無償

なる母

慈愛

える時、

生士族意

りし子規に

えた

影響

、たとえ

ば外祖

観山から

けた

る者



士族としての

反骨

文の

素読

まれし儒学的

精神

と儒者の

観山の長女たる母八重に

る「武士の妻としての松山士族

としての」

ある生き方が、

子規の

背柱

バツクボ ー ン

であり

たる事実に

気付

(6)

く。

しかし、士族意識と故郷意識は別物、僅かに『散策集』あるのみ。彼の

松山との



りは朋友との書簡が主、あとは「海南新聞」への俳句寄稿ぐら

いであった。十七歳で上京、学生の時は夏期休暇中に帰省すること度々な

れど日本新聞社入社、八重律の東京移転以後では大患養生を兼ねた五十余

日の帰松が最後。

故郷松山における来し方の自身を語ることあれど松山を語る

注 

ことなき子

規と違い、同じ松山士族の血を継ぎ子規の衣鉢を受けた虚子は様々に維新

の変革を物語る。そこに綴られた物語は旧伊予松山藩士族が嘗めた「



の瓦解」と連動した辛酸に他ならず、同時に「



川の瓦解」が招来せし旧

の「瓦解」が齎した士族身分の者が等しく体験した混乱と困惑である。

たとえば「店のある百姓家

注 

」の記述、

(略)



川家の親藩であつて



王の旗幟を鮮明にしなかつたといふ

ことの爲めに長土二



藩の



圍攻



をうけて忽ち降

するの止む

なきに至つたといふことは松山藩士の元氣を挫いたことが一

でなかつた。殊に

女子に至つては天下の事

を明かにして居る

わけでなく、只何ともしれぬ



大な力の壓

を感じて、





とし

て乘り



んだ



長の官



等を理由もない畏怖の眼を以て見た。ひ

とり官



ばかりでなく何物に對しても自我を主張し自己の權利を

主張するといふやうな



氣がやゝもすると



けやうとした

(略) (略)

それが



間もなく廢藩置縣となつて



長の





が馬に跨り



を聳かし明治政府の官



として松山市中を



行するやうになつ

たので、



はこれを界として世間に





つてしまつたのである

(略)

當時の現



を見るに



びなかつた點もあつたらう

(略)

生計が豐かでなかつた松山の士族は此養



事業の勃興で各



新しい生計の



を見出さうとしたのであつたが、然しそれは豫期

に反した

又、

「死に



えた

においても松山藩の

時がもう

に物語

られ、

うとこ

てば官

軍負

ければ

賊軍

、明治維新の

に生まれた

そのままの現

である。

する

分あるが

いてみる。

「余が十

!

"

後の

數年

間に

る物語である」と虚子が述

る時

代背景

、七歳

長の子規、

その上京

数年

間、松山中学

に重なる。

靜溪

から

を学び、

詩会

詩作

中、政治、

演説

にまた

中した時でもあり同時に子規がそ

の身で体験した現

でもあった。

春秋

の此の

#

藩士や

家族の爲めに

しい

中行事

の一つであつた。

其頃

もう縣

$

%

兵營

等の

&

物は

もとの

や家

老屋敷

のあとにあつた

などには他

'

々と入



んで

た。市中の大きな

邸宅

は大

(

事、書記官、

旅團

長、

$

%

長などが

占領

して、もと

家の

主であつた主な

藩士は大

(

さい家に

移つて

た。

春秋

#

の時

には

さい家から、

古風

晴着

た家族

)

蒔繪

*

な重

握飯

鮓位

めて、中には

+

提げ

て、

見物に出

けるのであつた

(略)

時分の

事や

旅團

長の

威勢

はたいしたものであつた。殊に維

新當時の藩

佐幕

いて土

、長

等の

,



圍を受けた

(7)

苦い經驗があるので舊藩士が藩閥出身の大官の



に頭の上らなか

つたのは



理あることであつた。若し彼等が職業を求めようとす

るならば極めて



を低くして彼等の門戸に出入し、さうして極め

て卑賤な小



に登用されるのを無上の光榮と心得なければならな

かつた。其處で藩士の多くは俄に百姓にならうとしたり商賣人に

ならうとしたりしたが其等は



ね失敗した。城の北手に在る士族

邸などは殆ど軒を



ねて取り壞たれ、其あとは畑になつたり竹藪

になつたりした。大きな門と土



とだけが殘つてゐて、其中に



いたり竹の子が

びてゐたりしてゐた光景は子供心にも

不思議に眺められたところのものであつた。……さういふやうな

時に當つて其等の藩士が舊藩主の

先を祭つた





に能樂を

催ほし、家族が其を見に行くといふことは、流れ



んで來た他



人の勢力を無



し、自分等に



行して生れて來た新しい



會と



交渉であるといふ事だけでも彼等に取つては非常に樂しい數日で

あつたに相



無い

(略)

誠に、

藩破れし士族の苦難の季節、

「取り壞たれ」

荒れ果ててゆく城下

の姿を面の当りに見ずして死に行きし常尚、膝を屈して小吏たる屈辱を味

合わずに済みし分幸福であったかも知れない。反面、政治への志を文事の

改革へと転向した子規への影響を考えずには居られぬ。孰れにしてもひと

つの時代の終焉、



川の瓦解」は用無用を問わず、

「家族」を始めとし多

くのも

を「ちり



に」させてゆく。

注 1 拙稿 「子規連句私解 其十一」 (「学苑」 767号 平 16  9 )、 29~ 31頁の注 3 ~ 9 参照 2 慶応四年一月十八日、十九日両日に渡り大小姓格以上の藩士に示された 勝成定昭両殿の 「 御意」 に、 「臣定昭家筋 之 儀 者 徳川家親属 之 儀 ニ 付、 是迄 慶喜 与 進 退 ヲ 倶 ニ 致候段 、 忠 を 所 事 ニ 尽 し 候 而己 」 という 報恩 尽忠 の 義 を 専 ら となした 結 果ゆえの 汚名 の無 念 が 滲 み出る。 「御意」 通達 は 次 のと お り (「 信夫 私 記 補注 」による) 、 今朝松 下小 源太山本 新 三郎 従京都帰着 之 処 、徳川 氏 朝 敵 与 有 之、 朝   御 追討 被仰 出、 就 而 者 我 等 も 同様 与 有 之、 問 罪 之 師 被 差 向 候 御 達 被 相成 候 旨 、 尤 我 等儀 朝 敵 与 相成 候 筋合 聊覚 無之、心 外 之 至 ニ 候 、 速 ニ 登 京 、徳川 氏 始 朝 敵 与 相成 候 儀、 申開 も 致 度 候 得 共 、 京都 御 幼帝 ヲ 州奸 臣等 奉抱 、 迚 も 趣 意 貫 通 者 不 致 儀 与 存 候 間 、 討 手 之 人 数 当 地 江 到 着 候 ハヽ 右 筋合、 飽 迄 応 接 致候 含 ニ 候 得 共 、 万 一彼不取用 妄動 之 儀 致 懸 候 ハヽ 無 拠決 心いたし 防戦 之 外 無之、 乍併 一 同 趣 意相 違 、 同 意無之面 々 者 、 何国 江 立去 候 共 、 聊 恨 与者 不 存 、 乍去二 百年 来 主 従 与 相成、 右 之 趣 意 承引 致 、当 城 を 枕 とし 刃 に 血塗 先 途 を 見 届 死生 を 倶 に 致 呉 候 ハヽ 、無 此 上 満足 ニ 存 候 との 御意 有 之。 但 、大殿 様 ニも 右 御 同様 御 決 心 被 遊 候 旨 御意 候 事 「 朝 敵 与 相成 候 筋合 聊覚 無之」 「心 外 之 至 」「 州奸 臣」 「 防戦 之 外 無之」 「城 を 枕 とし 刃 に 血塗 」「死生 を 倶 に 」「無 此 上 満足 」等 々 の文 言 の 端端 に 血 気 に 逸 る若さ (定昭 二 十一 歳 ) と一藩 存 亡 の 危機 に 瀕 した 高揚 がある。 又 、 趣 意に不 賛 同 の者に 対 し「 聊 恨 与者 不 存 」と 述べ るのも 挙 藩一 致 し事 に当らんとする意 識 が 窺 われよう。 但 し 今 日の 眼 から見る時、どこか 芝 居 狂 言 ( 例 えば 『仮 名 手 本 忠 臣 蔵』 ではなく  『 忠 臣 蔵』 の城 明 け渡しの 件 くだり など) じ みた 印象否 めぬが。 右 「御意」 の 後 に 補 足 的 な事 項 の 記 述 があり ( 筆 者は 本 私 記 の 記 述 者 池 内 信夫 即 ち 虚 子の 父 か) 、 そ れに 依 れば藩士の反応 及 び 結 論 は、 御意之 趣 一 同 奉 畏 夫 諸 士一 同 大 ニ 立 出 候 処 寛猛 両 説 々 有 之、 然 処 到

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王師御防戦与極ル筋毛頭無之間飽迄御恭順之思召御至当之旨申上ニ相 成 即ち、 抗戦論恭順両論出でしも 「王師 (朝廷) 」 の軍に抗せず恭順との 方向で諸士意見収束、結論具申、それを受け改めて同二十日各々の役向 頭から諸士に藩主定昭の意向が示され、併せて昭定の歎願書も。 それに依れば、 宇内 之 形勢御熟考 之 上御改心被遊、先御恭順 之 方 ニ 御国論相居御決議被遊 候付、一統可奉拝承旨、水野主殿殿被申聞候旨、 御歎願書左 之 通 臣定昭伏 而 奉歎願候、 今般従朝 徳川慶喜を始、 臣定昭等 ニ 至迄、 朝 敵 与 被目、御追討被仰出候趣伝承仕、驚愕恐縮不絶悲歎 之 至候、元来慶 喜儀 者 宇内 之 形勢 を 祠察 し 政権を奉還候故、大政御一新 ニ 相成候処、下輩 之 者共右深意 ヲ 取惑候族 も 有之、 就 而者 万一闕下騒擾引起候 而も 恐入儀 ニ 付、 為鎮撫一先下坂罷在、其後当正月始 ニ 至 リ 上洛 之 催有之、先用 之 人数差遣 候処、如何ナル行違 ニ 候哉、伏見鳥羽御固人数 与 及戦争候付従朝 、慶 喜を朝敵 与 被目、仁和寺宮将軍 トシテ 下坂被致候趣 ニ 付、早速大坂城相開、 東帰相成候儀 与 奉存候、既 ニ 十余世御預 之 政権を奉還、将軍職 モ 相辞 し 候、 又々此度大坂開城 之 所置振 ニ而も 朝 恭順 江 之 儀 者 、青天白日天下 之 共 ニ 所知 ニ 御坐候、 臣定昭家筋 之 儀 者 徳川家親属 之 儀 ニ 付、 是迄慶喜 与 進退 ヲ 倶 ニ 致候 段、 忠を所事 ニ 尽し候 而己 、補 翼 之 所不至御 譴 責 被為在候 ニ 於 而者 幾重 ニも 奉 恐入候 得 共、奉 対 朝 一 毫 之 異 心無之儀 者 天 地鬼神 所 照覧 御 座 候、右等 情実貫 通不在候 朝敵 与 被目候儀 ニ 可有御 座 哉 与 奉存候処、 当今朝政 清 明 万 機 御一新 之 折柄 、 右慶喜始定昭等無 他 之 心 腸 、御 洞 察被成下、 朝 敵 之 目御取 消 相成、 従 前 之 通入洛被差 免 、 皇 国 之 御為天下 与 共 ニ 尽 力 仕候 様 被成下度、此段 偏 ニ 奉 懇 願候、 誠 恐 誠惶泣血百 拝 正月 廿 日 松平 定昭 十 八 (十 九 ) 日の 「御意」 に みる憤怒 の 情 の 拙 さに 比べ 右 「御歎願書」 は整然 とし た然るべき文章 、慶喜大政奉還、将軍職 返 上、大坂開城東帰 も 須く 朝廷に 対 し恭順の意 志より 出し こ と、鳥羽伏見の戦争も「行違」 に よ る 偶発的な もの なり し こ と等々を 冷静沈着 に、 臆 せず 陳述 して いよ う 。「 偏 ニ 奉 懇 願候、 誠 恐 誠惶泣血百 拝」と結 ぶ が決して 卑屈 で は ない 。 「徳川家親属 之 儀」 「忠を所事 ニ 尽し候 而己 」、 私欲あ っ ての行 動 な ら ざ り し ゆえ の 自負 か。 次 な る 家臣一 党 に よ る 歎願書も同 然 。 主人 伊予守 儀、 先 達 而 登 京 仕候 以 来 皇 国 之 御大事朝 夕 万 変 之 御 時節 、 若 年 之 身 ニ 乍 不及徳川家 ニ 付従、 精 々尽 力 仕候処、 今日 之 形勢 ニ 立 至、 終 ニ者 徳川家朝敵 之 名 を 相 蒙 、主人等迄御追討 之 御 沙汰 御 座 候哉 ニ 伝聞仕、悲歎 泣血 之 至 ニ 不奉 堪 儀 ニ 御 座 候、 若 年 之 主人補 翼 之 所不至 者 於 士 民 も 一同奉恐 入候 得 共、 皇 国 之 御為 与 存 込 、 愚 意 之 所及 者 相尽候段、何 分 ニも 聞 食 被為 分 、 格別 之 御 慈憐 を 以 、 御追討御 免 被成下候 様 仕度、 伏 而 奉歎願候、 泣血百 拝 頓首 謹言 、 慶 応四辰 年 正月 廿 日 伊予 松 山 士 民 共 補 注『 松 山 市史料集』 第三巻近 世論 2 (同 史料集編集委員会編 、 松 山 市 役所 発 行、 昭 61  4  1 ) 所収、 1141~ 1154頁 。 筆録 者 池 内 信夫 は 高浜虚子 の 父 。 「 は 劍 と水 泳 の二 技 に熟 して ゐ た 。 武 士をも つ て家を 興す と い ふ こ とが 武 士としての 本來 の 面 目で あ る と こ ろ から は 男 子 として 踏 む べき 正し い を 踏 み 來 つ た ので あ つ た 」「 は 私 な どゝ は 異 つ て 劍 槍 で 鍛へ た 頑 な 體 格 を 持 つ て ゐ た 」「 は 武 の ほ かに御家 流 の 字 に 堪 能 で あ つ て其 爲 に 長 く 筆 を めて ゐ た 。 能 樂 に趣 味 をも つ て御殿に 能 の催し な ど あ る 時 は 地 謠 として召し出され た 」「 は 貨殖 の こ とに は く 門外 で あ つ た 」「 は 元 來 江 戸 の藩 邸 で 生 れ た ので ( 略 ) は 何 彼 に つ けて江 戸 を 懷 して ゐ た 」等々「 店 の あ る百 家」

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の中で描出する (『定本高濱 子全集』 第 七卷 毎日新聞社刊、 昭 50  1  5  75~ 84頁) 。 3 『國史大辭典』 10、当該項目 (毛利敏彦執筆) 193頁参照 就中 「朕為 二民之父母 一 是賊而不 レ討、 何以上謝 二先帝之霊 一、下 報 二万民 之深讐 一 哉、 諒闇而不 レ 顧者、 万不 レ可已也、 汝宜 下 体 二朕之心 一 殄 二 戮賊臣 慶喜 一、 以速奏 中回天之偉勲 (返り点引用者) と認められた 「朕之心」 即 ち「賊臣慶喜 ヲ 殄戮 スベシ 」は勤皇志士たちの心を鼓舞するに相応しい檄で ある。尚、本密勅、今日では正式のものと認め難い、とするのが定説で ある。 4 『全集』第二十二卷所収資料「正岡家戸籍」 ( 725頁) 参照 5 『松山市史料集』 第二巻 考古編 2 古代 中世編 近世編 1 文化編 (昭 62  4  1 ) 所収、 「久松家譜 上 下」 「松山御家譜」 、 景 浦直孝 『伊豫 史精義』 (同 籍刊行會出版部刊、大 13  12  13) 等々参照 6 主に 「信夫私記」 (注 2 補注に同) 、「久松家譜 下」 (注 5 に同) 、景 浦 勉 編  監修 『幕末維新の松山藩』 (えひめブックス、 平 1  3  31) 、 徳 川家及び 維新関係の比較的入手可能な書としては、 『國史大辭典』 、『日本の歴史』 19  20  21 別巻 4 同 5 (中央公論社刊) 、 松 浦玲 『徳川慶喜 増補版 』 (中公新書 397、 ・97  7  25) 野 口武彦 『 幕末歩兵隊』 (中公新書 1673、 ・02  11  25) 、 同 『長州戦争』 (同 1840、 ・06  3  25) 、 落合弘樹 『秩禄処分』 (同 1511、 ・99  12  20、井) 上 勝 生『 幕 末 維新』 (岩波新書 1042、 ・06  11  21) 司 馬遼太郎 『最後の 将軍 ― 徳川慶喜 ― 』 (文 藝春秋 刊、 昭 42  3  25) そ の 他適 宜参 照 7 二十 年四月 二十日、 鹿鳴館 伊 藤博 文主 催仮装 舞 踏会 に おけ る山 縣有朋 の 仮装 補注 な どそ の 好例 である。 補注 「 黒衣 の 胴 に 小  子の 小袴 を 着け黒筒袖 の 戎衣 を 羽織 り 韮 山 笠 を 面 深に 冠 り大 小 と つ て十 字 に さ す まゝ に 呼 子の 笛つけ たる 陣 を にして ぞ立 たれたる ハ 天 晴 れ二十 年 の 長 か な 其 印 に 竒 兵 萩原 鹿 之 助源 有 と 名 たる 白絹 の 短册ハ其昔 し 數 の 戰塲 に用ひ さ せ たる 軍 とて 殊 に 由 し く見 え さ せ たり」 (「 東京 日日新聞」 明 20  4  23付 記 事 ) 。 詳 し く は 拙稿 「子 規連句 私 解 其 十 六 」「同 其 十七」 (「 学苑 」 779  780号 平 17  9 、 10 ) 参照。 8 「子 規 の母と 妹 」 (『全集』第十一卷、 月 報 1 昭 50  1 ) 9 「久松家譜 上」 (以下「家譜」 と 略称 ) 、勝 成 の 件よ り、 同 年 七 月 十 九 日松平大 膳 大夫 (毛利 敬親 引用者注) 家 来 兵 器 ヲ 帯 シ 入 京 ス 、 堺町 中 立 売乾蛤 等 諸門 ノ 衛 兵 伐 テ 之 ヲ 退 ク 、勝 成 見 兵 ヲ 率 ヒテ 参 内禁 闕 ヲ 護 シ 後 紙屋 川 ニ 出 張 ス 、 同 二十一日 洛 中 鎮静 ス 因 テ 人数 ヲ 紙屋 川 ニ 留 メ 、 勝 成 ハ 寺 ノ 内 妙 寺 ニ 帰寓 ス 、 和 久 屋 町 ノ 邸 兵 火 ニ 罹ル故ナリ 同二十二日 召 ニ 依 テ 参 内 前 日 騒 擾 ノ 時 速 ニ 参 内 、 護衛 ヲ 勤 ムル褒賞 ノ 勅 語 ヲ 賜 フ 、同 日 紙屋 川 ノ 固 メ ヲ 免セラ ル (『松山市史料集』第二巻 以下、 『史料』第二 と 略称 所収、 947頁) 10「家譜」 (同 前 頁) 、 同 年 十 月 日不 詳 長 防追 討 ノ 惣督尾 張 大 納言 慶 恕 ヨ リ 、勝 成 四 国 ヨ リ ノ 一 番 手 ナ ル ヲ 以 テ 、 来 月 十一日 敵境 ヘ 兵 ヲ 進 ム ヘ キ ノ 令ア リ 、 11「家譜」 ( 947~ 948頁) 、 同 年 十二 月 毛利大 膳 家 来 禁闕 ニ 迫 リ 、 発砲 セ シ 重 臣 ノ 首級 ヲ 斫 テ 罪 ヲ 謝 ス 、 因 テ 同二十七日 惣督 ヨ リ 解 兵 ノ 令ア リ 12 こ の 年 の定昭の 動向 は 慌 し く 、 そ れは そ の まま 松山藩が 置 か れた 立 場 そ のものである。 「家譜」 、定昭の 件 ( 949~ 950頁) に よ れ ば 、 二 月 五 日松山 ヲ 発 シ 、同二十二日 京 都 ニ 到 リ 伝 奏 邸 ニ 於 テ 天 機械 ヲ 伺 フ 、同二 十 四 日 将軍 上 洛 ノ 事 ヲ 周旋 ス ヘ キ ノ 勅 命 ヲ 蒙 ル 、同 二 十 六 日 京 都 ヲ 発 シ 三 月 十 三 日 江 戸 ニ 帰 ル 、同 年 五 月 十 五 日 将軍 自 ラ 長 防 征 伐 ト シ テ 進 発 ノ 時 随従 ヲ 蒙 ル 、同 月四 日昭徳公 (家 茂 引用者注) ニ 謁 見 ス 公手 自 ラ 陣 羽 織 ヲ 贈 ラ ル 、 同 年 五 月 五 日 軍 ニ 従 テ 江 戸 ヲ 発 ス 、同 年 六 月 二十 三 日 禁 御所 ヨ リ 召 ニ 依 テ

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京都 ニ 到 リ 参内 ス 、伝奏野々宮中納言定功 ヲ 以 テ 将軍上洛ノ事周旋 ノ 御褒詞 アリ、 同 日京都 ヲ 発 シ 同二十四日大坂 ニ 到 リ 中 ノ 島邸 ニ 居 ル 、 同 年七月朔日 和泉国堺町 ノ 警衛 ヲ 蒙 ル 、同年九月十三日将軍上洛 ノ 随従 ヲ 蒙 ル 、同十五日 将軍 ニ 従 テ 大坂 ヲ 発 シ 同十六日京都 ニ 到 リ 寺町西林寺 ニ 寓 ス 、同二十四日又将 軍 ニ 従 テ 京都 ヲ 発 シ 同日大坂 ニ 帰 ル 、十月二日再将軍 ニ 従 テ 大坂 ヲ 発 シ 、同三日 京都 ニ 到 リ 又西林寺 ニ 寓 ス 、 同 五日将軍滞京中三条大宮 ノ 警衛 ヲ 蒙 ル 、同 年 十一月四日将軍 ニ 従 テ 京都 ヲ 発 シ 同五日大坂 ニ 帰 ル 、同月七日進発 ノ 随従 ヲ 免 セラレ、 養父勝成四国海路先鋒 ノ 援助 ヲ 蒙 リ 、 同九日堺町 ノ 警衛 ヲ 免セラ ル、同十二日大坂 ヲ 発 シ 同二十三日松山 ニ 到 ル 13「家譜」 、勝成の件 (同前、 947~ 948頁) より、 六月五日養子定昭 ヲシテ 後軍 ヲ 率 ヒテ 三津 ニ 次セシム、 勝成ハ所領適地ニ接シ領内 ノ処分多事ナルヲ以テ、松 山ニ留守シ定昭ヲシテ代 テ軍ヲ総轄セシムルナリ、 同月総督 ヨリ 敵境進入 ノ 令アリ、 若年寄京極主膳正大 小目付等松山ニ到リ 大林寺ニ宿陣シ 惣督ノ令ヲ伝フ、 同十一日前軍進 テ 周防国大島郡安下庄 ニ 入 ル 、同十六日敵 源命峠 ニ 在 リ 前軍 ノ 先隊正面 ヨリ 山路 ヲ 進 ミ 、次隊 ハ 東 ニ 廻 リ 普門寺坂 ヨリ 登リ、 応援隊 ハ 西 ニ 廻 リ 笛吹峠 ヨリ 進 ミ 三方斉 シク 山上 ノ 敵 ヲ 攻撃 ス 、敵 嶮 ニ 倚 テ 拒戦 シ 驟 ニ 破 ル 可ラス、佐久間大学 来宮伝左衛門 佐伯弥兵衛等此 ニ 死 ス 、其 他死傷猶多 シ 因 テ 兵 ヲ 収 ム 、 前軍退 テ 興居島 ニ 次 ス 、 此日幕府海軍厳島ニ在ル者 島郡久賀ヨリシ、我前軍安下 大 庄ヨリシテ同時ニ挟撃ノ約アリ、 我兵約ノ如ク進撃ス、 幕府ノ海軍ハ期ヲ過テ到ラス、 翌十七日幕軍久賀ヲ攻撃ス勝タス、 四国ノ諸兵猶豫シテ未タ進マス、 幕府海軍モ芸州口 ノ味方ヲ援テ四国ノ海路ニ向ハス、我孤 軍進入シ難キニヨリ退ヒテ時機ヲ待ツ、 (略) 他に前出景浦『伊豫史精義』の内「江戸時代 第十七章 幕末に於ける 諸藩の活動 松 山藩」 ( 762~ 765頁) 、 野 口武彦 『長州戦 争 』 第 四章 「第二 次 征 長」 の内 大島口の戦 闘 ( 162~ 170頁) 等参 照。 尚 「家譜」 は 味方の 戦 さぶ り や 死者の 名 、藩兵の 勲を記すが 松山軍の戦 さ 後の 暴虐 行為 補注 に 触 れ る ことせず 。 そ の 性格 上 已 む を 得ぬか 。 補注 松 井利 彦 は 「 こ の 行 動 が 松山藩の 立場 を 悪くした こと は 容 易 に 想像で き る」 と 指摘 (『定 本高濱虚 子 全集 』第七 巻 毎 新聞社刊 の 解説 、 426頁) 、 野口 も 「大島に上 陸 した 松山兵の略 奪 暴 行 は 内 外 に 批判 を 呼び起 こ し 、 こ の戦 争 に お ける幕府の大義 名 分 を 著 しく 傷 つ け た 」(前 掲 『長州戦 争 』、 168頁) と 記す。 但 し 、 景 浦の 『史精義』 が 「 士民 を 憮恤 し 、兵 士 を し て 刧掠 を 行 ふ こと な か ら し め 」 云 々 と 記 述 せ る は (前 掲 書 、 763頁) 同 書 の 性格 及 び 史 談会 と いう組織 、時代等々 か ら 判 断 し て 無理 か ら ぬ も の で あ ろ う 。 孰 れ に し ろ 、 洋 の東西 古 今 に 限 ら ず 戦 さ に 道 義 は な い 。 14 勝成 隠 居定昭 江 家督 相続 之 願 書 、「家譜」 に は 次の 通 り、 参 考ま で に 引 く ( 952~ 953頁) 。 居 城 伊 予 国松山 高 拾 五 万石 松 平 隠 岐 守 卯 三十九 歳 補注 養子 同 式部 大 輔 卯 二十六 歳 私儀 年来 持病 之 風疾 ニ 而 難 儀仕候 処、 昨 年以来 別 而 病勢 相 募 行 歩不自 由 之 上、 胸痛眩暈強種 々 療 養 差加 候 得 共 、 全 快 不仕候 間先 達 而 御所 より 父子 之 内 被 為 召 候 節 モ 、 無 拠 同 氏 式部 大 輔 差 出 申 候 、其 後 ニ 無 油 断 手医師 江 申 付 療 養 仕候 得 共 、 持病 之 儀 ニ 付 急卒 全 快 之 見 留 無 御 座 候 旨 申 出 候 、 当 節 柄 永 々 引 篭罷 出 臨 時御 用 御 座 候 節 出 勤 難 相 整 候 而 者 誠 以 奉恐 入 候 、 依 之隠 居 被 仰 付、同 氏 式部 大 輔 江 家督 無 相 違 被 下 置 候 様 仕 度 、此 段 奉 願 候 、 以上、 慶 応三 丁 卯 年 八 月 廿 九日 松 平 隠 岐 守 板倉 伊賀守 殿 稲葉 美濃 守 殿 松 平 周防守 殿 小 笠原壱 岐 守 殿

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願い通りに事叶いし沙汰書付け、以下のごとし。 松平隠岐守名代 拾五万石 小堀 数 馬 養子 式部 大輔 病気 ニ 付願 之 通隠居被仰付家督無相違式部大輔 江 被下之、 慶応三 丁卯 年十月廿一日 補注 この年齢不審、勝成は天保三年 1832六月二十四日生、隠居年齢三十五歳 のはず、 同じく定昭、 弘化二年 1845十一月九日生、 当年二十三歳である。 15「家譜」 ( 954頁) に、 一、同年同月廿三日 明廿三日五 ツ 半時二条城 江 罷出候様板倉伊賀守 ヨリ 申来候 ニ 付、 定昭登 城仕候処溜詰其侭加判 之 列上座 ヲ 命セラレ候処、 重 キ役柄 之 儀 ニ 付熟 考 之 上御受可仕旨申述候、且又名伊豫守 ト 相称候様命セラレ候事 とあり。続けて、 一、同年同月廿四日 定昭役儀 之 辞表左 之 通今日差出候事 私儀 今般意外奉蒙冤命候付 而者 身命 ヲ 拠御報効 (ママ) 可仕 者 勿論 之 儀 ニ 有之候処、短 才無智殊 ニ 重大 之 御役柄仮令心力相尽候共、 寸分 之 功可有之 トモ 不奉存 且又当今 之 時勢物情不平穏候 ニ 付 而者 、兵 力 ヲ 練武備 ヲ 固一方藩 任相 之 守候儀第一 之 儀 与 奉存候処、 此度家督被仰付候、 初政 之 儀身 ヲ 以士民 ニ 先立一段励精不仕候 而者 兵力 モ 振兼可申奉存候間、 何 卒格別 之 御憐愍 ヲ 以御役儀御免被成下早々帰邑被仰付候様仕度、 此段偏 ニ 奉歎願候、 以上 九月廿四日 松平 伊豫守 斯る辞意、十月十九日名代小堀右膳が登城、以下の通達を申し渡さる。 松平 伊豫守 内願 之 趣 モ 有之候間御役被成御免候 将軍家茂大坂城中にて病没、慶喜徳川宗家相続という時流の 最 中、定昭 老 中 職 任命、同受 諾 、 翌 日辞 職 願 提 出、 後 二十日 余 で辞 職承認 、日 為ら ずして大政奉 還 上表、 未曽 有の政 治的難局 、 幕府 の 混迷手 に 取 る よ うで ある。松 山 藩にあ っ て も 、 前 年六月 安 下 圧 に お ける 失態 、 対す る 諸 藩の 顰蹙 、藩 主 勝成の隠居 ( 見 方を 替えれば引責か 、 ひ と たび 家督 譲 る も 十五代 藩 主 として 復活 、隠居 理由 「 風疾 」 も 或 いは 建 前 的 な も のの可 能性 大、 八 十一歳 の 長寿 を保 つゆ え ) 、 養子定昭家督相続、 そ の間に大政奉 還 上表、 徳川、 松平 両 家にとり 激動 の一年 余 の月日であ っ た 。 子 規 、生 後 七 日 目 。 16 外 新 報 記 」第一 號 慶 應 四年 閏 、 月 (ママ) 十三日 の 記 事 よ り、 慶 應 丁卯十月十三日 京地 に 於 て被仰出候上意の御書付 我皇 國 時 の 革 を 觀 るに、 昔 王綱紐 を 解 て相家 權 を 執 り、保平 の 亂 、政 權 武 門 に 移 りて よ り、 我 宗に 至 り に 寵眷 を蒙り、二 百 餘 年子 孫 相受け、 我 其 職 を奉 す とい へど も 政 刑當 を 失 ふ少 か ら ず、今 日の 形 勢に 至 る も 畢竟 の 致 す とこ ろ慚愧 に 堪 へ す 候。 況んや 當 今 外 國 の 際 日に 盛 な るに よ り、 々 權 一 に不出候ては 綱 紀 立が た く候間、 從來 の 舊 を 改め 政 權 を  に 歸 し、 廣 く天下の 公議 を 盡 し、 聖斷 を仰 き 同心 協 力し、共に 皇國 を保 護せバ必 す 海 外 萬 國 と 並 立 つ べ く、 我國 家に 盡 す とこ ろ 之に き ず候。 乍 レ 見 ミ義 も 有之 候は ゝ聊忌偉 を 憚 ら ず可申 聞 候 (『 幕 末 明 治 新 聞全集』 第四 巻 世界文庫刊 、昭 36  11  18 所収 当 該 報、 220頁) 17 同 前 当 該 報 同十二月九日 御 よ り被仰出候御書付 寫 川 府 從 御 委 任の大政 上、 將 軍 職 辭 の 兩條 斷 然 被 聞 召 候 樣 (ママ) 、

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抑癸丑以衆 (ママ) 、未曾有の國體 (ママ) 先帝頻年被惱 宸襟候御次第、衆庶のし るところに候。 依 レ 之被決叡慮 王政復古國威 囘の御基ひ被爲在 (ママ) 候 間、自今掎 (ママ) 關幕府廢 し、 今先づ假に惣 (ママ) 裁、議定、參與の三職を置 き萬機可爲行 事 武創業の始めに基づき縉  (ママ) 、武辨、堂上、地下 の別なく至當の公儀を盡し、天下の休戚を同しく可被  叡慮 (ママ) に付各 勉勵舊來驕  (ママ) の汚 (ママ) を洗ひ、盡忠報國の誠を以可被奉公候事 一 覧 勅問御人數國事御用掛り、儀奏、武奏、守護職、 司代惣 て被廢候事 (三職人名他三項目あるも略) 一 和宮御方先年關東え降嫁被爲在候得共、其後將軍薨去且 先帝攘 夷の叡願より被許候處、終始奸事の詐謀に出、御無詮の上は旁一日も 早く御 京被爲在度、 日御 公 被差立候間、其旨被心得候事 右の通り御確定以一集被 仰出候事 (同前当該巻、 221~ 222頁) 大号令の一項目に皇女和宮の処遇を挙げるが同女降嫁が朝廷にとり如何 に重大な懸案であったかが窺われよう。尚、御所方の「御書付寫」と断 り、 而も読み易く、 訓み下し文にして掲載、 誤写せる漢字 (右に ( ママ) を付した) も多々あれどさせる意味に違いなく当時の新聞報道事情を勘 案するに無理からず、 許 容の範囲と解すべきである。 『國 史 大 辭 典』 2 所 収 、 項 目 「 王政復古の大号令」 ( 小西四郎執筆 ) に 原 漢文を載せる ( 460 頁) 。同 じ く 注 16、「大政奉 還 」 の 上奏文も同 『大 辭 典』 8 、 788頁の同項 目 ( 執筆 者 同前) 中 に漢文訓読 体 で 収 める。 18 中外 新聞 外篇 」 卷 之 六慶 應 四 年 四 月 の同 戦 さの 記 事 (新聞 記 事とし て 管見 に 入 る 最 も早い 松山潘 の名ある報道である) 、 慶應 四 年 正 月 九 日出、大 坂商 人よりの來 書 拔 正 多人數 伏 見 へ 掛り京 表へ 御 越 相成 候 中 、御 蕃 に お いて 相咎 られ候處、御 へ 願に 罷 出候 由 に被 二 答 一候間、 然 ら ば飛 具 を 預 置 罷 出候 樣 にと 彼是論 中 、 長 、 仕 、 。 合戰暫 時の 由 に候得共、 昨七 日に 及び 見 物 として 罷 越 候 へ ば 、 歩兵  士分 の 死骸 三 百 人 計 有 レ之、其 餘死亡 仕 候 も多 分 有 レ之候 四 、 鳥 、 大 路邊 の 合戰 は大 合戰 に御 座 候。 尤 京方は 長土 の三 藩 、大 、 阪 、 桑 、 高 、 松 等 の 兵 にて、 鳥 、 大 路 、 淀 邊 に 土 は 四 へ 、 、 楯 、 苦 戰 致 され候得共、大 、 敗 にて 鐵 大 玉藥 等 多 分 置 !軍に 相成 申 候。 鳥 、 大 路 、 富 の 森 、あた ご村 、 淀 邊 に、大 阪 方 歩兵 、同差 圖役 、 其 外 士分 の 死骸 多 分 御 座 候。 就 レ 中 、 鳥 、 富 の 森 、あ た ご村 邊 の 戰 は大 合戰 と 相 見 え 死骸 澤 山 に御 座 候。 淀 落城 仕 候 由 申 上候得共、御 城 は無 二 條 一、 城 下 不 レ殘燒失 仕 候間、 此段 問 合 候 へ ば 殿 樣 は 江戸詰 にて候得共、 家老 始在 城 の一 家 中 不 レ 京方 へ 降參 仕 候。依 レ 之別 條 無 レ 之 由 。當時御 城 ヘ 御 室 宮 樣 、 山 宮 樣 、 其 外 御堂上御三 樣 方 副 將にて、 日 月 の御 旗 を御守護有 レ之、 御 陣取 被 レ 爲 レ在候。 、 " 筋 へ 放火 仕 、大 阪 ヘ 不 レ 引 取 申 候。依 レ之京方先 鋒 長土 細川侯 人數御 警衛 にて出 張 有 レ 之候。其 外 備州阿州 の人數 #根竝 に 膳 御 加勢 として御 固 有 レ 之、 勢田 は 膳 侯 より御 固 め 嚴 重に被 レ 候。 $川 、 府 、 と 申 事、 兵 は 昨 今日の間に 不殘 紀 州 へ 御 引 上げ 相成 申 候。 (前出『新聞 全 集 』 第三巻 %昭 36 & 11 & 10 '所 収 当該新聞、 269頁。 傍点 引 用 者 ) 掲載日付との時間差を 見 れ ば 戦 さの 速 報 迄 とはいか ぬ が「 正 月 九 日出、 大 坂商 人よりの來 」 とある 説明 キヤプシヨン を 信 ずれ ば 現場 を「 見 物 」し た 者 の 目 撃 情報に 近 いといえる。 「 土 俵 は 四 斗 へ 土 砂 を 盛 り 入 、 楯 に 致 し」 には 現 実 味がある。 又 「 長土 より無 、 法 に 發 仕 候」という 見 方、 歴 史

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的事実の検証とは別なひとつの証言であり、言葉の内側に在る「大坂商 人」 の心情が垣間見える。 因みに、 一坂太郎 『幕末歴史散歩 京阪神篇』 (中公新書 1811、 ・05  8  25) は、 付録として 「 明治二十四年二月 保勲會識」 語を有する『戊辰戦記絵巻』前篇を載せており貴重、同戦争から六十年 後の昭和三年正月「東京日日新聞」に連載された「戊辰物語 補注 」は当時の 民心の動向を知る回顧録として頗る面白い。 補注 後日、 「五十年前」 「維新前後」と併せ、同新聞社会部編『戊辰物語』 (萬里閣書房刊、 昭 3  5 ) の標題で出版 未見 、現在、 岩波文庫 ( ・83  1  17) が収める。 尚、 同文庫は篠田鉱造 『 増補 幕末百話』 ( ・96  4  16、 底本は昭和四年萬里閣書房刊) も収める。 直接戊辰戦争と関係薄い が時代相を知るに裨益するところ大である。 19 次に引くのは、慶喜及び徳川家処置に関する「小田原侯佐倉侯始四十三 藩の 願書 補注1 」、 『中外新聞外篇』卷之二 慶応四年四月 の記事である。 各藩 願書 て奉 二 言上 一 候。 私ども儀先 以來 川家臣屬にて有 レ 之候ヘ共、 普天率土王臣王土の儀に有 レ之、況や累代 分の官位封秩頂戴罷在奉 レ 蒙 二 莫大の天恩 一 候得共、 今般御政事御一新、 萬分の裨補も無 レ 之、 恐 惶戰慄仕罷在候。 然るに去る正月三日不 レ料も 川氏當主入 折柄先 驅の 共行 より 外の戰爭 畿の 地 に 於 て 烟 を動候 段承 知仕、一 同 驚 失錯 罷在候 處 、 終 に 此度 奉 レ 二 御 靈怒 一、御 討被 二 出 一 段 、 實 に當主不 束 より 生 候事、今 辨疎 可 レ 樣 にも無 レ 之候得共、 元 來當 主儀は先年來先 非常 の 寵眷 をも奉 レ蒙、 決 て二心無 レ 段 は、天 地  明も 照 覽爲 レ 在、 億兆 の人 庶 も 承 知仕候儀に御 座 候。 乍 レ 然一時 號令 不 レ の 處 より 右等 の不始末に及候 段 は重 々 奉 二 恐入 一、坂 城 も   去、 江戸歸 城 後も恐惶 愼 罷在、先 墓墳 の 佛寺へ閑居 仕候次 第 、私共  川氏恩 意 を 受 罷在候 身 分に 取 候ては、 實 に 片 時も 坐 傍觀 罷在候不 レ 忍 、 何卒 天 地 覆 載の御 仁慈 を以、 寛宥 の御 處 置 被 二 出 一 候 樣 仕 奉 レ 願候。 乍 レ 然私共 川氏に 附 屬罷在候 身 分にて、 今般の儀 如 何 にも 諮 爭 抑止 可 レ 致筈 の 處 、 其 儀に不 レ 及 段 、 多罪 の 身 を以 訴 仕候儀、 非 分 を不 レ顧奉 二 恐入 一候ヘ共、 何 分にも前 申 上候當主 愼 恐惶の儀も有 レ 之、 且 は 川氏 先奉 レ 二 一恭順 の を 盡 し、 亂 を げ 治を 致 し、 奉 レ 二 宸襟 一 勲を 思召 不 レ レ 、 何卒 格 別の御恩 典 を以て 寛 恕 の 御 沙汰 被 二 成 下 一 候は ば 、 獨 り 川氏 再 生 の御恩 澤 のみなら ず 、 關 東  州 百萬の 生靈 鋒鏑 の も相 !れ、 盛 大御 復古 の御 盛 にも 可 レ 被 レ レ 稱 を 乍 レ 螻蟻繊芥 の 衷 御 酌 取 被 二 置 一、 幾 重にも御 執奏 の儀、 泣血 流 涕 奉 二 訴 懇 願 一 二月 同 様 の 歎 願書は、慶喜 水 戸 退 去 謹慎 後も同 志 連 署 百十 名 をも っ て 閏 四月 廿七 日付 補注 2 、五月にも徳川家 役 人共の 名 をも っ て大 總督參謀衆 に 宛 補注 3 てて出 される。 右 歎 願書の文面で注 目 されるのは戊辰戦争を 飽 く ま で「先驅の 共行 、 、 より 意 外の戰爭」と 規定 する 点 である。この 立場 は注 2 に引く、正月 廿 日付 松平定 昭の 歎 願書中の 「先 用 之 人 数差遣 候処、 如 何 ナ ル 行 ニ 候 哉 、 伏 見 鳥 羽 御 固 人 数 与 及戦争候」 と 全 く同 じ 文言である。 偶発 を主 張 する この文言も後日の 歎 願書から 姿 を 消 し 朝敵 となりし 身 を恐 懼 一 途 に 蟄 居 謹慎 、 恭順 の 赤 心を 哀 訴 し 寛 恕 を願 う 姿 勢 に 転 ず る。 補注1 本 歎 願書「三月二日各藩 名 代の重臣 等 太政官 辨 事 "へ 奉りし」との 後記あり。同『新聞 全 集 』 第 三巻、 257~ 258頁 2 同『 新 聞 全 集 』 第 四巻 所 収、 「 #外新 報 」 第 三十 八 號 慶 月十四日 應 四年五 に 掲 載記事「御家 名 之儀に付 差 出し候 歎 願書」 ( 184~ 185頁 ) 3 補注 1 に同 じ 、卷之十五 慶 應 四年五月 「 川家臣 歎 願書」 ( 295~ 296頁 ) 20 川の 瓦解 」 を いくつかの新聞記事によ っ て 示 す。 松 山 藩 士 正 岡

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