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戦前の新聞資料にみる泡盛ならびに泡盛産業を取り巻く様相: 沖縄地域学リポジトリ

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Author(s)

萩尾, 俊章

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(36): 1-28

Issue Date

2013-03-29

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/11481

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戦前の新聞資料にみる泡盛ならびに泡盛産業を取り巻く様相

萩尾 俊章 はじめに 沖縄県の名酒泡盛は、明治以降の近代期において産業として大きな発展を遂げる。近代 の泡盛は伝統的な酒造技術を継承しながらも、近代日本の経済に組み込まれ、荒波にさら されていく時期でもある。新聞資料はこうした泡盛や泡盛産業に関する近代期の状況を考 察する資料として有効である。 しかしながら、戦前期の新聞とはいえ刊行物としてまとめられたものや原紙なども含め ると数多くのものがあるために、ここでは抽出の対象を限定した。また、掲載記事が長文 のものは必要に応じて抜粋をおこなった。新聞資料の出典は主として次の3冊を使用した。 ①琉球政府『沖縄県史 16 資料編6 新聞集成(政治経済1)』1967 年 ②琉球政府『沖縄県史 17 資料編7 新聞集成(政治経済2)』1968 年 ③琉球政府『沖縄県史 19 資料編9 新聞集成(社会文化)』 1969 年 記事の選定にあたって、内容は泡盛製造に関する酒屋の状況(戸数)と製造高、出港税 問題と泡盛流通、泡盛の原料米、飲酒慣行の普及と風俗改良運動などを扱っている記事を 取り上げた。なお、1908 年(明治 41)に酒造組合設立問題が記事として多く取り上げら れているが、初出の事項でもなく、紙幅の都合もあることから、本稿では割愛した。 新聞記事で明らかに誤植と思われるものは正字とし、漢数字や旧字などは記載形式のま ま表記した。引用記事の出典については頻出することから、当該箇所に書名を上記①~③ の番号に換え頁を付して〔 〕書きで示すこととし、また、新聞掲載時の表形式等につい ては本稿に再録する際、便宜上新たに表番号を付した。 1.酒屋の戸数と製造高の変遷 琉球王国時代、王府は泡盛の製造を首里三箇(現在の赤田・崎山・鳥堀)の焼酎職 40 戸にのみ許可していた。しかし、琉球藩設置後の 1875 年(明治8)~ 1876 年(明治9)

HAGIO Toshiaki: Some Aspects of the Development of Awamori and the Awamori Industry as reported in

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頃からはこうした特許的な制度はしだいに緩和され、酒造りは民間でもできるようになり、 誰でも一定の免許料を納めて届け出れば、酒の製造が許可された。(1)つまり、酒造の自由化 の時代が始まったのである。これにともない、泡盛の生産はしだいに伸び、市場は県内に 広がりをみせるとともに、泡盛は沖縄県の重要な産業の一つとして発達していくことにな る。 『沖縄県統計書』には泡盛の醸造戸数、醸造高が示され、主として那覇・首里・島尻・ 中頭・国頭・(久米島)・宮古島・八重山島に区分された地区別の変動が見て取れる興味深 い資料である。(2)久米島は 1893 年(明治 26)まで区分に示されている。同統計書によれば、 1893 年(明治 26)には、県下の泡盛製造業者は 447 戸にまで増えている。そのうち沖 縄本島の業者は 107 戸で、なかでも 102 戸は首里の酒屋であった。 1900 年(明治 33)10 月9日付『琉球新報』「本県の実相(六)」には、「本県に於て 現今工業として見るへきものは織物漆器泡盛の三業に過ぎず而して其産出高を問へは曰 く」〔① p.234〕とし、1897 年(明治 30)調として泡盛 17,851 石、348,094.500 円を 示している。ただし、『沖縄県統計書』によると、明治 29 年は 20,553 石、明治 31 年が 17,370 石であり、この時期は次項に記す税制の影響もあり、泡盛の生産高は減少傾向に あった。 また、1901 年(明治 34)8月 17 日付『琉球新報』の「他府県人の沖縄観(続)」には「(前 略)黒糖、泡盛、反布、漆器は当地重要物産なる事兼て承知致居候処実見して其盛況に驚 き申候(後略)」〔③ p.120〕とあり、泡盛産業の盛況ぶりが認識されている。 1914 年(大正3)5月 10 日付「産業の琉球(三)」『沖縄毎日新聞』には、沖縄の工 業は製糖業を第一とし、その他に阿旦葉帽子、泡盛、織物、漆器、製藍、畳表が重要なも のとして、表1のように過去3年間の製品価格が示されている〔② p.497〕。 本表からわかるように、大正期においては生産額としては製糖業が圧倒的ではあるが、 泡盛業はこれに次いだ位地を占めていた。 ところで、1901 年(明治 34)2月 23 日付『琉球新報』「泡盛醸造戸数」によれば、「首 里区の泡盛醸造戸数は百二十八戸にして一戸平均使用人夫拾人とすれば千二百八十人は泡 (1) 大城将保「近現代の泡盛」『沖縄県酒造協同組合 10 周年記念誌』沖縄県酒造協同組合 1988 年、140 頁。 (2) 本稿では「酒類の醸造」『沖縄県統計書』1883 年(明治 16)~ 1940 年(昭和 15)を参照した。な お、戦前の統計資料や新聞記事では「泡盛醸造」の用法が頻出するが、現在では「泡盛醸造」は一般 に使用されない。酒類に関しては醸造酒(日本酒・ワイン他)と蒸留酒(泡盛・焼酎他)の分類があり、 混同を避ける意味合いからも、著者が使用する場合は「泡盛製造」とした。

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盛醸造家が使用し居るに付き泡盛輸出の増加すると共に随って人夫賃も騰貴すると云ふ」 〔① p.280-281〕とあるように、泡盛の移出増加にともない(3)、人件費の高騰も課題となっ ていた。 『沖縄県統計書』には 1901 年(明治 34)の首里の泡盛醸造戸数は 129 戸とある。新 聞記載とは戸数に1戸の相違はあるものの、この時期は首里区の泡盛製造者はおおよそ 120 戸代で推移している。ただし、同統計書により当時の首里区製造業者数の変遷をみる と、1895 年(明治 28)120 戸、1896 年(明治 29)114 戸、1897 年(明治 30)は統 計がなく、1898 年(明治 31)225 戸、1900 年(明治 33)129 戸と推移し、1898 年(明 治 31)の 225 戸がきわめて突出している。泡盛の生産量は 1896 年(明治 29)20,553 石、1897 年(明治 30)17,851 石、1898 年(明治 31)17,370 石、1899 年(明治 32) 17,372 石、1900 年(明治 33)16,173 石と特に大きな変化がないにもかかわらず、戸数 のみ 100 戸近い急激な増加については統計上の数字に疑念が残る。統計書は記載ミスの 可能性も考えられるが、1898 年(明治 31)は酒の自家用醸造が禁止された年であり、そ うした禁止を目前に自家用醸造を目的としてにわか酒造所が一気に増加した可能性も否定 できない。明確な根拠が示せないため速断は避けるが、いずれにしても、首里地区は近代 においても泡盛生産の本場であったことに変わりはない。 一方、税制の出港税賦課などの影響下で、首里の泡盛業への懸念を危惧する声もみられ た。1901 年(明治 34)2月 15 日付『琉球新報』の「世事涓滴」には、正覚坊の筆によ る「(前略)首里の維持策として俗耳に入り易いことを述ふれは地形と位地と区民とに相 応した事業を撰はねばならぬさてこの三拍子揃った事業は何かと云へは第一泡盛だ泡盛製 造事業に就ては此程の出港税に対する運動抔が先つ先つよくやったと云ひつべしだこの呼 (3) 新聞記事では県内外との取引で「輸出」・「輸入」の用語が頻出するが、厳密に言うと国外との物品取引 が「輸出」・「輸入」であり、国内の地域間による物品取引は「移出」・「移入」にあたる。したがって、 本稿では著者が使用する場合、国内での取引に相当するものについては「移出」・「移入」と表記した。 [表1] 明治 44 年 明治 43 年 明治 42 年 砂糖 4,092 千円 2,565 千円 3,751 千円 織物 328 千円 343 千円 363 千円 製藍 41 千円 38 千円 50 千円 漆器 63 千円 42 千円 43 千円 畳表・呉座・筵 51 千円 41 千円 29 千円 泡盛 991 千円 947 千円 982 千円 阿旦葉帽子 557 千円 201 千円 347 千円

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吸を忘れず益々一致協力して進まは三ヶ金城は現在よりはよくなるとも衰頽することはあ るまい(後略)」〔③ p.107-108〕とあり、泡盛業が首里地区にとって欠くべからざる産業 であることが強調されている。 特に注目されるのは 1900 年(明治 33)1月 27 日付『琉球新報』の「第十三回首里区会」 には議案として「酒造免許税付加税改正の件」が挙げられている点である。首里地区には 多くの泡盛製造業者がいたにもかかわらず、当時はまだ酒造組合も設立されていなかった ため、こうした地域の重要な産業に関わる議案が区会で取り扱われていたのである。 さて、1905 年(明治 38)11 月3日付『琉球新報』「酒屋の増加」によれば、「本県泡 盛酒の徳用のものたるが故に次第に他県への販路拡まり又一面には酒精原料の供給に充て んか為め非常に泡盛醸造業者を増せり本年一月一戸二月二戸三月三戸四月一戸五月八戸六 月九戸七月三戸八月十戸九月三戸を各増加し去月廿七日迄の現在数は百六十一戸なり之を 昨年四月の数に比ふれは四十七戸の増加を見るに至れり之を地方別にすれは首里百二十四 戸那覇三十戸中頭郡七戸にして中頭郡にては平良に二戸西原三戸宜野湾一戸美里一戸な り」〔① p.674〕とある。このように、1905 年(明治 38)にかけて沖縄本島中南部の地 域では、泡盛の製造業者が軒並み増加していた状況にある。 このことを示すかのように 1905 年(明治 38)11 月 11 日付『琉球新報』の「本年の 泡盛と酒精の産出」では「泡盛の需要は年々歳々増加し今や只に内国のみならず延いては 満韓の地に及ばんとす」〔① p.676〕とまでいわしめている。この背景は同年 11 月 15 日 付『琉球新報』の「県治一班(一)」に示される。「泡盛は日清戦争当時非常に多量を醸造 し四万石以上となり翌廿九年には一万九石余と減し三十三年迄は同様なりしも三四五年に は非常の減少となり二千石余となり再ひ戦争の影響を受け勃興するに至れり」〔① p.676〕 とあり、日清戦争による特需が功を奏していた。 1905 年(明治 39)4月 13 日付『琉球新報』の「県下の泡盛業」〔① p.705〕には、次 のように 1905(明治 38)年度の月毎の製造戸数の増減が掲載されている。 「泡盛の醸造は年々歳々増加し昨年度の如きは泡盛の出港高一万九千石余に達し随て其 醸造戸数も益々増殖し殊に昨年中の増加は著しきものにして左表の如き数を示せり 即ち昨年四月百二十四戸なりし酒屋は本年四月に至りては二百〇七戸となるに至り一ヶ 年間に実に八十余戸の増加を見たり尚区域別にすれば那覇五十一戸、首里三十一戸、島尻

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十五戸、中頭十戸なり」とあり、泡盛製造業者の急激な増加がみてとれる。 さらに、1906 年(明治 39)10 月 21 日付『琉球新報』「県下の酒屋」〔① p.789-790〕には、 「県下に於ける酒屋は昨三十八年四月末には百二十六戸のみなりしも昨年末に至り酒精の 輸出夥しくして泡盛を原料に用ひしにより泡盛の醸造高著るしく増加し其の最も旺盛なり し本年一月には泡盛醸造戸数百九十二戸に増加したりしも本年夏期泡盛の不捌と酒精製造 の衰へしとは大に泡盛の衰頽を来したる程なるも製造戸数は益々増加して左の如き数を表 せり」とあり、次表3も合わせて掲載され、泡盛製造戸数は乱立気味の様相を呈していた。 しかしながら、こうした好況は長くは続かず、「酒造税法」が沖縄県にも適用された 1908 年(明治 41)以降、泡盛の県外移出量は激減していく。『沖縄県統計書』によれ ば、1907 年(明治 40)に 20,523 石あった移出量は、1908 年(明治 41)には 5,908 石、 1910 年(明治 43)には 3,012 石、そして 1915 年(大正4)には最低の 1,082 石まで 落ち込んでしまう。一方、酒造業者数についても、1907(明治 40)年に 174 戸あったも のが、1908 年(明治 41)には 167 戸、1915 年(大正4)には 117 戸とこちらも次第 に減少していった。 [表2] 年 月 製造戸数(戸) 増 減 38 年 4月 124 ― ― 同   5月 131 7 ― 同   6月 140 9 ― 同    7月 143 3 ― 同   8月 153 10 ― 同   9月 151 ― 2 同  10 月 166 15 ― 同  11 月 166 1 1 同  12 月 179 13 ― 39 年 1月 198 19 ― 同   2月 204 11 5 同   3月 207 5 2 [表3] 郡区別 明治 38 年4月 明治 39 年1月 明治 39 年9月 中頭郡 7 6 12 島尻郡 1 13 16 首里区 108 124 133 那覇区 10 49 52 合 計 126 192 213

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1912 年(大正元)10 月 1 日付『琉球新報』の「酒造戸数」〔② p.357〕には「四十四年度(十 月一日より翌年九月三十迄)那覇税務署管轄区域内に於ける現在の酒造戸数は百三十七戸 にして前年度に比し十九戸を減じたり是れを郡区別にすれば左の如し」として次の表4を 掲げてある。 これを見ると、泡盛の生産の中心地である首里区の醸造戸数が大きく激減しているのが わかる。酒税法の改正により泡盛の県外移出量が減少し、このことが大きく影を落として いると推察される。 [表4]           〔△は減の増の部〕 地名 本年度 前年度 増減 那覇区 22 戸 23 戸 △ 1戸 首里区 93 戸 111 戸 △ 18 戸 島尻郡 15 戸 15 戸 ― 中頭郡 7戸 7戸 ― 1914 年( 大 正 3) 4 月 17 日 付『 琉 球 新 報 』「 首 里 区 の 泡 盛 業 」 に は、「 大 正 二 年度末調査に依れば首里区に於ける泡盛醸造戸数は八十六戸にて一ヶ年醸造総高 二万四千七百二十八石八斗此価格八十九万二百三十七円三十四銭醸造職工男九十七人女 八十六人なり之れを其の前年度即大正元年度に比すれば戸数に於て二戸を減ぜるも醸造高 は三千七百六十八石二斗を増し価格に於て七万二千八百七十一円〇九銭の増収を見たる訳 なり」〔② p.484〕とある。 1913(大正2)年度のみでは首里の泡盛業は増収だったとはいえ、大正期の経済は第 一次世界大戦による特需はありながらも、その後の戦後恐慌によって不況となり、泡盛業 界もその波に飲み込まれていくことになる。 ところで、1908 年(明治 41)9月 15 日付『琉球新報』「本紙の第一号」には、「最初 の琉球新報則ち十五年前の今月今日を以て肇て刊行されたる本紙(中略)本紙第一号に顕 はれて居た、区内物価の四五を紹介しよふなら(中略)清酒が寿と云う銘酒で以て八円拾銭、 泡盛二斗入上等が三円、並二円七拾銭」〔③ p.370-371〕とある。 本記事からわかるように、泡盛は「上等」「並」との等級区別があったようである。こ の点は 1909 年(明治 42)12 月5日付『沖縄毎日新聞』「宮古と八重山(六)」〔② p.97-98〕 が参考となる。「宮古の商業(つづき)(前略)販売する泡盛は皆な水を混合し其の水の多 少に依りて上酒中酒の二種あり」とあるように、泡盛のランクは原料の相違や味覚の評価

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等ではなく、水混合の多寡による度数で上中等の区別があったことが判明する。 また、新聞には「商況と物価」と題した記事が定期的にみえるが、1901 年(明治 34) 4月 17 日付『琉球新報』〔① 294-295 頁〕には「泡盛 極度一石ニ付 十九円五十銭」 とある。おそらく、一般には泡盛の度数が高い上ランク「極度」を指標として景況を示し ていたと考えられる。 なお、1900 年(明治 33)10 月 17 日付『琉球新報』の「本県の実相(十)」〔① p.241〕 には興味深いデータが記載されている。少々長くなるが、記事内容を掲載しておく。 「△泡盛 泡盛製造業は割合に能く整へり而して今日唐米の輸入か百万円以上に上るも 泡盛と至密の関係あり且つ輸出に於ても泡盛は反布と常に伯仲する位ひにて今までの処に ては内地に於ても常に好評を博せり昨年の如き東京に於ける小売相場一升に付五十銭乃至 六十三銭なりき今全国に於ける日本酒類の産額を見るに上流社会に供給せらるゝ所のもの は一進一退寧ろ減退の傾むきあれども下流社会に供給せらるゝものは年々増加するに至れ り [表5]    (単位:石) 年次 清酒 白酒 味醂 25 3,495,573 1,834 24,254 26 3,719,193 1,938 30,759 27 3,599,547 2,180 31,440 28 3,970,289 2,171 32,029 29 4,636,114 2,577 39,304 30 4,140,169 2,742 42,145 白酒の如き味醂の如き食品に使用するものは勿論年々増加せり然るに清酒は年々寧ろ減 少の傾きを示せり是れ蓋し酒税増加の結果価格か非常に騰貴したる故下流社会に華客を減 したるに依るなるべし即ち是に反して下等酒類の増加年実に甚し左表を看よ [表6]    (単位:石) 年次 濁酒 焼酎 混成酒* *表中では「濁成酒」となっ ていたが、本文に合わせ「混 成酒」とした。 25 31,073 50,314 4,700 26 31,174 53,370 5,669 27 28,084 52,060 5,587 28 27,243 59,705 6,862 29 27,219 64,115 1,719 30 85,514 68,062 12,366

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然るに本県の状況は如何と云ふに廿七年来製造戸数は増加したれども産額は非常に減少 せり即ち左の如し 是れ出港税の増加の結果として輸出か減少したるに依るべし最も安価にして年々の増加 最も甚しき混成酒に就ては衛生上余程八釜敷議論もある位なれは我泡盛製造家にして今少 しく生産費を節減するに工夫をなし今少しく安価に供給するに至らは内地に於ける需要決 して少なからさるべし(後略)」 [表7] 年次 製造戸数 焼酎(単位:石) 27 334 40,382 28 266 19,705 29 273 20,553 30 454 17,851 この記事の前段に登場する唐米は、後半の泡盛の原料米でも触れるので、ここではあま り詳述しないが、明治 30 年代前半でもすでに泡盛の原料として重要視されていたことが 指摘できる。 また、沖縄では本来はあまり馴染みのなかった清酒が相当数量移入されており、白酒(醸 造酒の一種)や味醂(蒸留酒が前提となる調味料)といったものも移入品目として登場し ていることは興味深い。 「下等酒類の増加年実に甚し」とあるのは具体的には濁酒、焼酎、混成酒を指している。 濁酒は醸造酒、焼酎と混成酒は蒸留酒に関係するものであるが、これらは下等酒類と考え られ、高級酒のイメージではなかったこともうかがえる。 2.出港税問題と泡盛の流通 戦前の泡盛産業をみるとき、とくに看過できないのが税制度である。酒に関する税制は 酒造産業に大きな影響を与えたからである。 全国的な税制は 1880 年(明治 13)に制定された。これを「酒造税則」というが、この「酒 造税則」は沖縄県には適用されなかった。その代わり、「焼酎税」という免許料があてが われていた。(4) 沖縄県の「焼酎税」は本土の酒税に対して格段に安いもので、市場での価格を泡盛と他 県の焼酎で比べると、泡盛は焼酎の六割位の値段であった。したがって、重い税にあえぐ 本土の業者と沖縄の泡盛業者の間には大きな差があった。とくに同じ蒸留酒としてライバ (4) 大城将保前掲書、144 頁。

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ル関係にある九州の焼酎には不利な税制であった。 こうした状況に対し、鹿児島を中心とする焼酎の業界や鹿児島県当局は 1884 年(明治 17)以来、再三その改善策を政府に要請していた。九州の焼酎業界が政府に強く働きかけ た結果、1888 年(明治 21)には「沖縄県酒類出港税」という法律が公布された。この法 律は県内に出荷される泡盛はそのままであるが、県外に移出される泡盛・焼酎には一石に つき3円の税をかけるというものであり、他県との差を縮める目的があった。(5) 1896 年(明治 29)には、「酒造税法」が公布されたが、これも沖縄県には適用されなかっ た。その代わりに、同年 10 月に「沖縄県酒類出港税」が改正・施行され、出港税率は一 石につき第一種(清酒・白酒・味醂)は6円、第二種(濁酒)は5円、第三種(焼酎 ・ 酒精) は7円と、約二倍に急騰したのである。このうち泡盛は第三種に分類されていた。 このような税制の変化はあったものの、泡盛の生産は順調にのび、業界は景気のよい状 態が続いた。県外への移出は 1898 年(明治 31)まで全体として伸びをみせている。当 時の沖縄の重要移出品としては既述のように砂糖、泡盛、反布があげられた。泡盛は砂糖 に次ぐ重要な移出品目だったのである。その後、酒造造石税が幾度か改正されたが、 その 度に沖縄県酒類出港税も改正され、増額により負担はしだいに重くなった。1898 年(明 治 31)の改正では、泡盛一石につき7円から 13 円と、税額はおよそ二倍近く引き上げら れた。大幅な税収を目指したものであり、これは泡盛業界にとっては大きな負担であった。 そのため、全国の酒造業関係者の反対運動に呼応する形で、沖縄県では出港税増加の中止 を求めて、首里の酒造家総代が立ち上がり、上京して要請活動を行っている。 1898 年(明治 31)12 月 11 日付『琉球新報』には「酒造家総代の上京」と題した記 事が掲載されている。「今般政府に於ては全国酒造税を上けて壱石七円の税を十二円に増 加せむとの計画あるより全国酒造家は目下反対運動をなしつゝあるが酒造税増徴の結果本 県の出港税を増加せらるゝとの噂あるより斯くては泡盛の輸出減少して当業者の不利益尠 からされはとて本県の泡盛製造家は事情を当局者に陳述して出港税増加の中止を請はむ為 め請願委員として玉城次良新里屋真の両氏を撰定したる由なるが両氏は愈々昨日出港の便 船より出発上京の途に就きたり因に記す玉城氏は中学校を卒業し曽て第五高等学校に在学 したる事あり新里氏は区会議員故新里氏の子息にして両氏とも酒造家中の名望家なりと云 ふ」〔① p.83〕という内容で、 危機感を募らせていた。 そして、1899 年(明治 32)10 月 29 日付『琉球新報』の「酒類出港税に付一言」〔① p.160〕では、酒類出港税に絡む密輸問題について次のような苦言を呈している。文章は (5) 大城前掲書、144-145 頁。

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長いが、そのまま掲載しておきたい。 「沖縄県酒類出港税則本年一月を以て改正せられ同時に従前の税率は増加して一石十三 円を賦課せらる而して当県下より他府県に輸出せる者は重に那覇区の商人にして出港船毎 に税金を那覇船改所に納め焼酎の船積を為せり今本年度即ち卅二年四月以降に徴収せられ たる税金は実に五万余円に昇れり然して本年度は税率増加の結果として前年度に比すれは 輸出石数頓に減少を来たせし傾きあれども頃ろ左の説をなすものあり 一本県下各港湾に於て津口手形を願ひ出で出船する船舶は概して数石の焼酎を積入れて 各間切向きとして出船すといへとも其実際は大島郡宇検方又は徳の島に向け焼酎の商業を 為すもの多かりし而して該船舶より密輸せる焼酎は年々数千石を下らす悉く該島に於て売 却し尽せりと 以上果して事実なりとすれは正業を営む那覇区其他の商人の利益を害する実に莫大なら ん当局者に於ては宜しく周到なる取締方法を講せされは年々密輸の増加するも決して減少 するの期なかるべし抑も従来の取締法たるや所謂儀式的にして完美の域に達せす姑息なが らも其吏員として県下の各港湾に年に僅々二三回の視察を為さるゝに止まりて平常は各間 切役場に一任して殆んど不頓着の姿なりと果して然らば実に恩典的取締と云はさるを得ん それかあらんか近時発刊の沖縄時論記事中に那覇の税務属か山原船より三百円位に当る焼 酎の密輸出を為したりと之れ架空の構造説とし信を措くに足らすとするも誰か其当局者の 取締法に深重ならざるを訴へんや当局者も進んて従来の取締法に根本的の改善を加へられ 完全なる取締に良果を得られんことを希望の至りに堪へす一寸一言如件」 こうした状況下にあるため、1901 年(明治 34)の前半には、表8のように、酒類出港 税に関する新聞記事が頻出する。 酒類出港税はその都度改正されていた。酒類を他府県へ移出する者は、主として那覇の 船改所に税金を納め、泡盛 ・ 焼酎を船積みしていた。一方、県下の各港湾では津口手形を 申し出て数石の焼酎を積載して、各間切に運んでいたが、実際には既出の記事にあるよう に、奄美大島宇検や徳之島方面に酒を密輸する者が年々増加していた。これは出港税の増 税による影響であることは必至である。こうした事態をうけて、1904 年(明治 37)から は、酒類を移出する港は那覇港のみに限定され、取締が強化されることになる。

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さて、1901 年(明治 34)3 月 13 日付『琉球新報』の「本県出品物の景況」には、泡 盛と焼酎の価格差が話題とされており、「▲泡盛と芋焼酎 泡盛は二升四合入六十銭芋焼 酎は仝二升四合入二十四銭より三十銭迄の価格なるを以て鹿児島の焼酎よりも最も安値な れば望み手多くこれも直ちに売約済みと也たり」〔① p.285〕とある。そのため鹿児島か ら沖縄にきて焼酎を調達し、それを鹿児島に出荷するという商人も現れる状況であった。 このことを示すものに 1900 年(明治 33)10 月5日付『琉球新報』「寄留商人案内」があり、 「古川吉衛門氏は那覇区字東百八十二番地に商店を開き商業は茶並に雑穀類を販売し又多 く泡盛を買ひ入れ鹿児島へ輸出し居れり」〔① p.232〕とあるように、寄留商人の中には 泡盛を鹿児島へ移出する者がいたことがわかる。したがって、寄留商人のこうした商売は 既述のように鹿児島産の焼酎を圧迫する要因にもなっていた。 1900 年(明治 33)9 月 23 日付『琉球新報』「泡盛の輸出高並に税金」には「本県の 泡盛は旱魃後増々騰貴したる上に本年は例年に比して輸出高最も多くなりたる為め首里区 の泡盛醸造者は非常に繁忙を極め居るとのことなるが本年四月一日より同九月廿一日即ち 一昨日迄の調査に依れは泡盛の輸出高は総計六千十六石一斗四升一合にして其の税金は 七万八千二百九円八十三銭三厘今これを首里区の泡盛醸造者の戸数に配当すれは一戸に付 き五十一石四斗二升余にして明治卅年度は七千五百拾七石本年は半ヶ年に就て六千十六石 一斗四升一合に達し居れは本年は卅年度の倍に及ぶべしと云ふ」〔① p.223-224〕とあり、 泡盛業界としては活況を呈していた。 [表8] 見出し項目 新聞名・年月日 「酒類出港税の返電」 『琉球新報』明治 34 年1月1日〔① p.265〕 「酒類出港税と砂糖税」 『琉球新報』明治 34 年1月 15 日〔① p.268〕 「酒類出港税に関する上京委員」 『琉球新報』明治 34 年1月 21 日〔① p.271-272〕 「出港税増加に対する陳情委員」 『琉球新報』明治 34 年1月 23 日〔① p.272〕 「泡盛の輸出増加」 『琉球新報』明治 34 年1月 25 日〔① p.273〕 「昨年度の泡盛醸造高と輸出高」 『琉球新報』明治 34 年1月 25 日〔① p.273〕 「酒類出港税の後報」 『琉球新報』明治 34 年1月 29 日〔① p.273〕 「出港税案の修正」 『琉球新報』明治 34 年1月 29 日〔① p.273〕 「酒類製造家に警告す」 『琉球新報』明治 34 年1月 9 日〔① p.276〕 「酒類出港税改正法案」 『琉球新報』明治 34 年2月 11 日〔① p.277〕 「焼酎営業総代の視察談」 『琉球新報』明治 34 年3月 21 日〔① p.285〕 「焼酎営業総代の視察談(承前)」 『琉球新報』明治 34 年3月 23 日〔① p.289-290〕 「焼酎営業総代の視察談(承前)」 『琉球新報』明治 34 年3月 25 日〔① p.290〕 「焼酎営業総代の視察談(承前)」 『琉球新報』明治 34 年3月 27 日〔① p.291-292〕

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1901 年(明治 34)10 月 13 日付『琉球新報』の「泡盛の輸出非常に減ず」には、「本 月一日より増税実施となるや本県商人は到底引き合はざる見込みなるを以て各商店とも手 控へをなし居る有様なるが近日出港の薩摩球陽の両汽船より輸出せし泡盛は僅か二十本に して孰れも大島並に徳島行なりと云ふ」〔① p.345〕とあり、また「他府県人の沖縄観(三)」 〔『琉球新報』1901 年(明治 34)10 月 17 日〕には、「(前略)泡盛焼酎は当地の特産物 にて日々大島又は内地に向けて輸出する額頗る多し(後略)」〔③ p.129〕、「三十四年県内 事略」〔『琉球新報』1902 年(明治 35)1月1日)〕に「泡盛は一昨年来増税問題の為(中 略)内地への輸出全く杜絶し僅か百石位つゝ大島与論の各島へ輸出するの有様となりしよ り(後略)」〔① p.361〕とあるように、増減の変化はありながらも、奄美大島方面へは継 続的に移出が顕著だった様子がうかがえる。 ただ、1898 年(明治 31)5月 17 日付『琉球新報』の「泡盛の気配」には「同品は昨 今大に不活溌となり直段も従然に比すれは二斗の代価より弐拾銭位の直下げを為すに至れ り而して昨今市場に於ける取引相場を聞くに(二斗入)大島向四円三十銭鹿児島向三円弐 拾銭なりといふ」〔① p.25〕とあり、奄美大島と鹿児島ではなぜか奄美大島の方が取引相 場の価格が高かったことがわかる。 この時期、1901 年(明治 34)1月1日『琉球新報』「管理局長と焼酎営業者」では、「(前 略)其の談話の要領は近来与那原、勝連、平安山辺より焼酎を他府県へ密輸出するもの続々 輩出せし(後略)」〔① p.262〕との指摘がなされている。 首里の泡盛は、那覇港や沖縄本島東海岸の港(与那原港・平安座港など)を通じて、国 頭地方のみならず、与論島や徳之島・沖永良部島など、いわゆる「道の島」へ移出されて いた。しかしながら、『旧慣調査資料』の「諸港津巡視」報告にもみられるように、(6)那覇港 以外の移出酒類は正規の手続きを経たものはごくわずかだったらしく、密輸されていたと 表現した方が実態に近いものと考えられる。 ところで、1902 年(明治 35)9月 13 日付『琉球新報』「那覇港重要輸出入品」には、「当 地各汽船会社の調査に依れば昨年中の那覇港重要輸出入品の数量並に仕向地仕出地は左の 如し」〔① p.405〕として輸出と輸入品目の表が掲げられている。その中から泡盛と関連 品目を次に抽出した[表9・10]。いずれも数量の単位は不詳である。泡盛は九州の鹿児 島と熊本県の三角への出荷が特筆される。また、移入品目では、後述する原料米と関連す る唐米が神戸・大阪から多量にもたらされていること、清酒は数量が不記載ながら鹿児島・ (6) 琉球政府『沖縄県史第 21 巻資料編 11 旧慣調査資料』1968 年、464-483 頁。

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神戸・大阪から、洋酒も同様の地域から移入されている点が注目される。   [表9] ▲輸出 品目 数量 仕向地 泡盛 4,470,823 鹿三角   [表 10] ▲輸入 品目 数量 仕出地 唐米 143,858 神 坂 白米 29,178 鹿 麦 4,011 神 坂 粟 998 仝 上 清酒 鹿神坂 洋酒 880 仝(坂) 一方、1902 年(明治 35)9月 15 日付『琉球新報』の「各離島間の輸出入」には「昨 三十四年中開運会社の運輸並に仁寿の両汽船にて各離島へ輸出又は那覇港へ輸入したる貨 物及び其の価格は左の如し」〔① p.406〕として、那覇港から各離島へ移出した品目の中 に泡盛があり、下記に一覧として抽出した。 註釈として、「右輸出表中米穀並に泡盛塩は一俵一斗入素麺一箱五貫なり価格は円未満 は除けり」とある。 本表からは首里を生産拠点とする泡盛が、離島を含めた県内各地に流通している状況が みてとれる。表中、名護が2箇所記載されている理由が不詳であるが、やはり宮古や名護、 八重山への移出量がきわだっている。また、与那国や鳥島にも泡盛が流通していたことは 摘記しておきたい。 これより4年程前になるが、1898 年(明治 31)4月に掲載された「国頭農事改良意見 (続)」〔① p.1-10〕には、大宜味間切、今帰仁間切、本部間切、伊江島の輸出入品目数量 と価額が掲載されている。それによると、大宜味間切では焼酎 13,270 升(2654,000 厘)、 今帰仁間切では焼酎 28,480 升(5696,000 厘)、本部間切では焼酎 25,840 升(5168,000 厘)、伊江島では焼酎 140 升(28,000 厘)が移入されている。大宜味間切、今帰仁間切、 本部間切では石油や大豆、白米など他の品目をおさえ、移入額では焼酎がトップであり、 国頭地域にも多くの泡盛がもたらされていたことが指摘できる。伊江島では焼酎の移入額

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は低いが、逆に移出品目として「芋酒」があり 440 升(79,200 厘)を移出している点が 着目される。芋酒(甘藷焼酎)も商品として流通していたことがわかる。『沖縄県統計書』 によれば、1896 年(明治 29)には伊江島に 636 戸の甘藷焼酎醸造者がいて、300 石の 生産をしている。この生産量は宮古島の下地間切、今帰仁間切に次ぐ位置にあった。 こうした状況の中、1904 年(明治 37)になると、酒税のかけ方が変わり、従来は同種 の酒類は一律 16 円だったものが、アルコールの度数により税額に差が設けられた。30 度 以下は 17 円、35 度以下 22 円、40 度以下 27 円、45 度以下 32 円となり、度数が高く なるにしたがい税の負担が重くなるしくみであった。清酒などのように低アルコールのも のであれば大きな影響はないが、度数の高い泡盛には不利な税率であった。まさに泡盛を 標的にした税の改正だったといえる。したがって、泡盛業界にとっては大幅な増税になり、 大きな打撃となり、泡盛の移出は不振に陥っていく。 税制との絡みで逆境にあるなか、対外的には新たな動きもみえる。それは「朝鮮へ泡盛 の初輸出」『琉球新報』〔1905 年(明治 38)3月7日〕である。 「本県の泡盛はこれ迄重に九州地方へ輸出し居りたるか去る二月十五日より初めて十八 石九斗五合を朝鮮へ輸出するに至れり依て近頃朝鮮より帰県したる商人に就て該泡盛の景 況を聞くに朝鮮人は非常に酒を好むも西洋酒、日本酒の如き高価のものは容易に買はず只 今筧焼酎を飲み居るも本県の泡盛は該焼酎よりも低価にして味も非常に勝り居るを以て朝    [表 11] 品目 個 価格(円) 仕向先 泡盛 2,540 25,400 宮 古 仝 1,670 16,700 八重山 仝 35 350 西 表 仝 24 240 与那国 仝 75 750 鳥 島 仝 225 1,250 久米島 仝 98 980 名 護 仝 2,360 4,720 仝 仝 98 196 伊平屋 仝 30 60 伊 江 仝 135 270 本 部 仝 30 60 粟 国 仝 25 50 渡名喜

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鮮向きとしては最も宜しく亦た代価の点に至っても朝鮮にては二合瓶壱打にて壱円四十銭 殆んど当地の値段に比し三倍以上の高価なり然して運賃の如きは四斗入にて大抵二円の見 込にて朝鮮の輸入税は英韓条約に依り二割を徴収するとのことなれは充分なる利益を得る に至るべし本県の商人は宜しく同地へ商業を試みては如何ん」〔① p.653〕とある。 ただ、その後朝鮮への泡盛輸出がどれくらいの時期までおこなわれたのかは、新聞資料 からは明確ではないが、翌年に次のような記事がみえる。1906 年(明治 39)11 月2日付『琉 球新報』「本県直輸出入品」に、「(前略)本年は僅に去月に泡盛十三石三斗九升五合を朝 鮮に輸出せしのみなり本県泡盛は朝鮮人の嗜好に適し居れども余り高価なる為め支那より 輸入せらる強度の火酒を用ふるにより泡盛の売行は好況ならず(後略)」〔① p.792〕とある。 本記事からするならば、後述する泡盛価格の高騰の影響もあり、輸出価格にも大きく影を 落としていて、芳しい状況ではなかったことが理解できる。したがって、朝鮮への泡盛輸 出はそう長くは続かなかったと推察される。 [表 12]  (単位:石)  輸出先  大阪   鹿児島   大島    外    計   1月 563,590 402,085 53,662 3,749 1,023,086 2月 607,425 403,405 15,885 535 *1,027,250 3月 421,567 485,895 33,740 457 941,659 4月 597,555 576,505 20,275 327 *1,194,662 5月 918,945 1,074,731 11,460 24,687 2,029,823 6月 980,995 1,424,710 9,595 450 *2,415,750 7月 1,014,665 1,212,658 17,780 1,419 2,246,522 8月 827,540 1,433,849 15,050 3,552 *2,279,991 9月 80,510 1,118,538 7,500 440 1,935,138 10 月 5,873,664 8,615,277 194,402 ― *1,206,988 11 月 484,375 815,073 18,885 37 1,318,370 12 月 318,630 556,630 26,945 181 902,386  * 新聞記事では集計数字に誤植があったので、正しい合計に修正した。 この時期の県外移出については、1908 年(明治 41)1月1日付『琉球新報』「泡盛輸出高」 〔① p.927〕には、泡盛の県外輸出高が大阪、鹿児島、大島とその他に区分して示されている。 1907 年(明治 40)の泡盛の県外輸出高は総計3万 1,897 石1升であった。 各月によるばらつきもままあるが、大都市圏である大阪に比して、意外にも鹿児島への 移出高が多いことがわかる。鹿児島を中心に九州は焼酎文化圏であり、泡盛の消費が高かっ たことが推察される。なお、10 月には大島を除き、大阪と鹿児島への出荷量が8~ 10 倍 と極端に伸びており、何らかの特別な事情があったと推察されるが、この点については新

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聞には関連情報は記されていない。 さて、1908 年(明治 41)10 月1日からは、「酒造税法」が沖縄県にも適用されること になった。これにより沖縄県は「酒造免許税」と「酒造造石税」、それに出港税と計3本 の酒税が課せられることになる。造石税の税率は全国の3分の1ではあった。なお、全国 と同率の造石税が課せられるようになるのは 1920 年(大正9)のことである。 新たな酒税法の適用は泡盛にどのような影響を与えたのであろうか。1909 年(明治 42)1月 27 日付『琉球新報』の「泡盛雑記」には、早速県外移出の減少が指摘されている。 「昨年一月初旬より仝年十二月迄の泡盛の県外輸出高は総計一万二百五石六斗二升五合 にして一昨年と比較する時は約七八千石の減少を来せり惟ふに昨年は十月以降造石税実施 の結果泡盛の県外へ輸出せらる者甚だ尠く課税酒出ざるに当り漸く余命を繋ぎて今日に至 れる相様なれば昨年が輸出に於て一昨年よりも減少せるは当然の現象ならん参考の為め昨 年中の泡盛輸出高を差向地別に記載するば左の如し [表 13] 差向地 東京 大阪 鹿児島 神戸 大島 計 輸出石数 27,600 3,866,145 6,274,280 50 37,550 10,205,625 ▲課税酒不振の声諸々方々に起りしにも不拘既成品の売行きは漸く順調に趣き目下那覇 区内に貯蔵せられある泡盛の現在高は千八百四十九石二斗二合に迄減少せり」〔② p.10-11〕 とある。1907 年(明治 40)と 1908 年(明治 41)では7~8千石の減となっていた。なお、 移出先は鹿児島がやはり圧倒的に多く、次いで大阪、奄美大島、東京の順であった。 引き続き 1909 年(明治 42)1月 29 日付『琉球新報』には「泡盛の輸出不況」と題して、「県 下泡盛の県外輸出は頗る不況にして出荷捗々しからざるか之に就き某泡盛商の談によれば 輸出不況の原因は種々あるべきも昨年見越製造高多くして現品滞停せると又た一は鹿児島 及び東京などに製造所出来て九州其他の顧客を引つけ居るは重なる原因にして当地同業者 の警戒を要すべき事ならんとなり」〔② p.11〕とあり、県外の焼酎業界との競合について も指摘されている。 さらには、1909 年(明治 42)9月3日付『琉球新報』にも「泡盛輸出の不況」として、「県 下に於ける泡盛の輸出高は昨年度に至り約四分の一に減じ居れるのみならず本年度に至り ては増々減少しつつあるを以て泡盛製造業者の内には目下製造を中止するもの続々輩出す ると云ふ(中略)四十一年度は約四分の一を減するに至れり依て其の減退せし理由を聞く

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に昨年よりは鹿児島にて中馬、海江田、我部抔の商人が泡盛を製造し居りて其の代価は本 県の泡盛よりも極々安価なりし為め九州地方の輸出は鹿児島より直接に輸出し居れるを以 て本県の輸出高は斯く減少し居れりと云ふ」〔② p.83-84〕とあり、泡盛業界の苦境が紹 介されている。 [表 14] 見出し項目 新聞名・年月日 「本県酒類出港税」 『琉球新報』明治 41 年1月 24 日〔① p.933〕 「造石税其の他の可決」 『琉球新報』明治 41 年2月 28 日〔① p.941〕 「本県造石税案等」 『琉球新報』明治 41 年3月8日〔① p.941〕 「本県酒税法其他公布」 『琉球新報』明治 41 年3月 28 日〔① p.949〕 「泡盛県外輸出高」 『琉球新報』明治 43 年6月 16 日〔② p.160〕 「泡盛輸出の衰頽」 『琉球新報』明治 44 年 10 月 28 日〔② p.286-287〕 「泡盛相場維持決議」 『琉球新報』大正4年1月7日〔② p.591〕 「泡盛相場高騰」 『琉球新報』大正4年3月8日〔② p.633〕 「泡盛県外輸出の今昔(一)」 『琉球新報』大正4年6月9日〔② p.635〕 「泡盛県外輸出の今昔(二)」 『琉球新報』大正4年6月 10 日〔② p.636〕 「泡盛県外輸出の今昔(三)」 『琉球新報』大正4年6月 12 日〔② p.639〕 「泡盛移出難」 『琉球新報』大正4年6月 17 日〔② p.642〕 以上のように、酒税法に加えて、東京や九州地区における焼酎製造業の発展なども泡盛 の移出高減少に影響を与えていた。泡盛を取り巻く厳しい状況について、表 14 のような 記事が紙面を賑わしていた。新崎寛綽による「泡盛県外輸出の今昔」『琉球新報』〔1915 年(大 正4)6月9日~ 12 日② p.635 ~ 639〕においては、泡盛移出が振わない原因について も言及している。このあたりの考察と分析はすでに西原文雄がおこなっているので、本稿 では割愛した。(7) 3.泡盛の原料米について 泡盛の原料米に関して、現在はタイ米を使用していることがよく知られているが、一般 の人びとの間では古くからタイ米を使用していたと勘違いする向きも多い。しかしながら、 古い時代からタイ米を使用していたのではなく、本来は沖縄の地元の米や粟を泡盛製造の 原料に用いていた。琉球王国時代、王府が公認した泡盛製造は首里三箇に限られ、王府の 役所から米や粟の原料が支給されていた。1879 年(明治 12)の琉球王国の解体とともに、 近代以降は泡盛の原料は首里の製造業者といえども自前による調達が必須となった。 (7) 西原文雄「明治大正期の泡盛と税制問題」『沖縄史料編集所紀要』第2号 沖縄県沖繩史料編集所  1977 年、73-78 頁。

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『旧慣調査資料』の中の「焼酎製造営業人検査」では、1893 年(明治 26)頃の醸造場 の概況や醸造方法、蒸留器などについての記述がみえる。(8)原料は米と粟を用いるとし、粟 のみを用いることはないという。米価が高騰したときには米と粟を同じ割合で混交して仕 込んでいた。原料の米は唐米(朝鮮米もしくは支那米)と先島の粟を用いた。唐米は那覇 商人により輸入されていた。また、先島の粟は蔵所や宮古宿の公売品を現金で買い取って いたという。この点からすれば、この明治 20 年代半ばにはすでに焼酎の原料として地元 の米に頼らずに、唐米を輸入していたことになる。 さて、1901 年(明治 34)1月1日付『琉球新報』「明治三十三年本県事略」には重要 輸入として、「砂糖は純然たる本県農産物なれど泡盛、反布の如きは其原料他府県より輸 入し居るに付き唐□米は昨年六月頃より十二月迄一ヶ月平均一万俵位綛は仝じく一ヶ月平 均二万斤位の輸入あり又其の外大豆小麦素麺の如き年々輸入を増し大豆小麦は一ヶ月平均 一千俵以上素麺は仝じく一千二百箱以上にして前述の如く下半季は輸入額大に増加せり」 〔① 264 頁〕とある。「唐□米」ということで、一文字不明な文字があるが、この時期も 同様に他府県を経由して唐米の類を輸入していたようである。 明治 30 ~ 40 年代の新聞資料には、泡盛の原料米そのものという記述ではないが、次 のように市場で輸入米が販売されている様子や米の輸入等を示す記事も比較的よく散見さ れる。 A「米穀其他の物価」『琉球新報』〔1899 年(明治 32)12 月5日付〕 「昨今那覇市中の米穀其他諸物価を聞くに頗る人気好しとの事なるか即ち地白米三斗五 升入五円廿銭餅白米三斗入四円五十銭蘭国米三斗入三円七十銭西貢米三斗入三円五十六 銭シャム米三斗入三円六十銭唐餅米三斗入四円東京米上三斗入三円廿銭同中三斗入三円 (中略)泡盛一斗入一円九十銭にして米穀は客月初旬頃の相場に比して少きは二十銭多 きは一円二十銭宛の騰貴ありと云う」〔① p.167〕 B「経済界の近況」『琉球新報』〔1900 年(明治 33)7月 19 日付〕  「(前略)米穀は本件輸入品中最も多額に上るものにて支那米の如きは例年十万石位ひの 輸入あるが昨今は何れの店も売行捗々しからず倉庫に堆積せるの有様なるが先月中の輸 入高は当地にての調査はわからされども大阪よりは四万俵出したりと云ひ居る由」〔① p.213〕 C「旧年末の市場」『琉球新報』〔1901 年(明治 34)2月 17 日付〕 「例年旧十二月廿二三日よりは那覇区の各雑貨店並に那覇市場は人気大に引き立ち(中 (8)琉球政府前掲書、265-270 頁。

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略)其の外食用品は布、素麺、茶、大根、醤油、味噌、唐米等にして(後略)」〔③ p.108〕 D「南清航路補助の請願弁明書」『琉球新報』〔1901 年(明治 34)3月 23 日付〕 「大阪商船会社に於て(中略)福州に対しては沖縄より基隆、基隆より陸行して淡水、 淡水より厦門、厦門にして香港福州線に接続するものなり故に米穀の直輸入を以てこれ を見れは(中略)(沖縄県の泡盛に用ゐらるる小米は特に卸□に目べり多し)等損失尠 からず(後略)」〔① p.287-289〕 E「他府県人の沖縄観(続)」『琉球新報』〔1901 年(明治 34)8月 15 日付〕 「(前略)別封那覇市場の写真進呈致候豚の子を頭に載せた女クバ笠を被ぶり荷車を押し 行く男がガチマル樹下の南京米小売商、路傍大傘の雑貨店(後略)」〔③ p.119〕 F「酒税改正と本県の酒屋」『琉球新報』〔1904 年(明治 37)11 月 27 日付〕 「(前略)本県の泡盛が多少の利を見るは強度即ち四十五度の品を輸出するにありて四十 度以下となれば実際引合ぬ所より(中略) 第一 中以下の生活に影響する事下等唐米の輸入は大に中以下の生活を助く殊に本年 の如き旱害を被りたる時は中以下の人民は専ら粉米に依りて生活す酒屋が衰微すると きは自然唐米の輸入を減し随ふで生活費にも多大の影響を受くるは必至の勢なり」〔① p.609〕 G「本県直輸入品」『琉球新報』〔1906 年(明治 39)11 月2日付)〕 「本県に直接海外より輸入され居るは茶、米穀、傘、仙香及糸類等にして重に南清より 輸入せられ輸入品も年を逐ふて増加の傾きあり其の経路は阪神地を経て当地に輸入され 或は支那ジャンクを以って台湾に運ばれ台湾より当地に輸入され居れり(後略)」〔① p.791〕 H「経済雑爼」『琉球新報』〔1909 年(明治 42)9月3日付)〕 「(前略)運漕業者に就ては泡盛壺四斗五升入一個の運賃鹿児島迄三十二銭とすれば 一万四千六百十六石一斗六升五合に対する運賃額一万三百九十四円五十六銭位に達す尚 亦々泡盛の原料たる唐米三斗入一俵の運賃十六銭とすれば六俵にて泡盛一石を製造する には唐米八万七千六百九十六俵を使用す其の使用高八万七千六百九十六俵に対する運賃 額一万四千三十一円三十六銭位に達す(後略)」〔② p.84〕 各新聞記事からわかるように、那覇あたりの市場には東京米や外国産の米がもたらされ ていた。国外からは中国の唐米(支那米)や南京米、蘭国米、西貢米、シャム米などがみえる。 この中で蘭国米は別の那覇小売相場新聞記事〔① p.219〕には「蘭国米」とあり、一方で は那覇卸売相場新聞記事〔① p.218〕に「ラングン米」とあることから、ラングン米と想

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定される。西貢米はサイゴン米である。このように、シャム米など東南アジア地域の米が 多く流通していたことが判明する。 一方、泡盛の原料米としては唐米や、後述のように朝鮮産の粟が流通していた。ただし、 こうした泡盛の外国産原料のあり方は首里・那覇を中心とした泡盛製造業者にかかわる問 題であり、その他の地方にある製造業者では様相を異にしていた。 1914 年(大正3)5月9日付『沖縄毎日新聞』「産業の琉球(二)」には、河野生の筆 により「(前略)米は其の産額僅か五万石、常食物として県民を養ふに足らず、農作物の 第三位にあり、その地勢上水田に適する土地少きと旱魃の際灌漑の設備を欠けるに基くも のにして一年二回作をなすも他府県の一回作にだに及はず、粟は宮古、八重山を主とし宮 古にありては甘藷と共に常食に供せらる、品種は早生種に赤粟、晩生種に黒粟、米粟、赤 粟あるも一般に栽植せらるゝは赤粟、黒粟の二種なり、米と共に泡盛の醸造に供せらる」〔② p.495〕とある。宮古や八重山の泡盛業者においては、地元の米とともに粟が原料として 利用されていたことがわかる。 また、1914 年(大正3)5月 11 日付『沖縄毎日新聞』「産業の琉球(四)」にも次の ような記事がみえる。 「琉球泡盛の名は既に人の熟知する所内地にて一名を芋焼酎と云ふと雖も、之れが醸造 に甘藷を用ふるは極めて少量にして従来は粟を用ひ近時は外国砕米を用ふ。味甘醇、一種 の香気ありて之を掬ひ数觴すれば忽ち酣暢して快云ふべからざるものあるは其の酒精度の 高きが為めなり。然るに此の琉球泡盛は近来鹿児島地方に類似品現はれたると造石税及出 港税の課せられたる以来比較的低廉なりし価格に影響し県外移出減少し造石税実施前移出 一万二千石に達したるもの一昨年の移出高三千石昨年は砲兵工廠の臨時注文ありし為漸く 四千二三百石を出し得たるのみ、元来琉球泡盛は其の品質他の及ばざる処なれば生産費を 節減せば漸次其の不振を挽回する事を得ん。幸ひに四十四年泡盛の本源地首里に醸造組合 設立し又本年度より技手を常任し生産品の節約、製品の改善を講じつゝあり。泡盛醸造所 は首里に七十軒、那覇に三十軒、大なるものは七百石を産す。醸造方法は甕の中にて醗酵 せしめ、これを絞らずして直に蒸溜釜に入れ蛇管を通じて液槽に取るものにて極めて簡易 なり」〔② p.499-500〕とある。 さて、こうした泡盛の原料米の外国への依存過程はどのような理由によるのかというと、 既出の新聞記事からも推察されるように、課税による泡盛価格の上昇ならびに米価等の高 騰にあった。 1909 年(明治 42)1月3日付『琉球新報』の「泡盛業の盛衰と県下利害の関係大要」 には「(前略)明治三七八年頃の本県泡盛醸造は、戦時中軍用品工業用に使用せられたる

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結果として随分の増加を見たるが、其後此の方面の需用が減じたるにより、県下の泡盛業 に影響し、年々多少宛の減額を見つゝあり、中には斯業家にして不景気に堪へす、廃業の 已むなきものさへありき。本県泡盛醸造は原料品たる袋米の価額の高まるにつれ、朝鮮粟 などに乗り換へつゝあり、其の結果製品の品位下劣に陥りつつあると反比例して政府の賦 税は著しく増加を見つゝあり、彼是事情綜合して考へ来たれば、増税後増すべき税額が却 て拾七八万円の減収を見んとするは、本県下営業者が増税の為めに直接の大打撃を受けた るものにして、(中略)斯業家は外国輸入有税の米粟により原料とせり(後略)」〔② p.1-2〕 とあり、米価高騰が外国産米への転換に影響していることが示されている。 また、1912 年(明治 45)1月 28 日付『琉球新報』「泡盛騰貴の源因」〔② p.316-317〕 には、「本県の泡盛が旧臘以来漸次騰貴し来り猶ほ今後に於いても騰貴せん模様なるに依 り其の原因の郡辺に在るかに就いて聞く処に依れば酒造業者にては近来米価騰貴せるを以 て粟を原料とし醸し造し来りたるも在荷薄く漸次減少し殆んど品切れの有様なるに依り勢 ひ営業不振となり其の為め泡盛の価格を騰貴せざれば迚ても均衡を保ち難く本月の中旬頃 までは三円七十銭なりしも下旬よりは四円に協定し今後早くて三月下旬若しくは四月上旬 に於て安南暹羅等より新米輸入満州等より新粟の輸入を見されば下落する見込なく却て二 月上旬頃よりは猶ほ騰貴するやも知るべからずと然れども(中略)酒造組合創立以後廃業 をなせるもの十戸現在休業せしもの二戸あり」とある。合わせて次の粟と泡盛の価格表を 掲載してあり、これらの価格高騰の一端が示されている。 [表 15] 月 別 粟一俵価格円 泡盛価格円 12 月上旬 3,400 3,100 12 月下旬 3,560 3,200 1 月上旬 3,920 3,500 1 月中旬 4,120 3,700 1 月下旬 4,400 4,000 また、1912 年(明治 45)7月4日付『琉球新報』の「泡盛製造原料騰貴」には、「琉 球泡盛酒造組合は昨日に至りて卸売販売価格を訂正し従来五斗以上三円八十五銭のものが 四円に一斗以上五斗未満四円のものが四円十銭に値上げしたるが其れに就き語る処に依れ は製造原料が一昨日より騰貴せるに依るものにて粟は一俵二十六銭、米は一俵四十銭の騰

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貴をなせり去れは従来の相場にては迚ても引合はずその為めに急に変更したる次第なりと 云ふ」〔② p.341〕とあり、原料である粟・米の高騰により泡盛の販売価格が引き上げら れていることが報じられている。 1912 年(大正元)12 月 14 日付『琉球新報』の「焼酎の前途」に「本県の特産たる焼 酎は年々衰微に赴きつゝある其反対に全国に於ける其需要は増加しつゝありて当業者の気 を強からしむるものありと云ふ今ま鹿児島の大成酒造会社の技師の談を掲けて以て参考に 資すべし(中略)今や焼酎の売行は殆んど全国に拡り其需要益々増加して各製造業者は其 設備の拡張に多忙なる状況にあり焼酎が俄かに斯かる盛運に際会せしは一種不可思議の感 なき能はざれども之必竟するに生活難の声漸次一般社会に拡かりたるに起因するものと云 ふべし米価の近年益々昂騰して生活難の大原因をなせるのみならず米を原料とせる清酒の 価格にも影響を及ぼし来れりされば今日高価なる清酒を飲用して酔ひ求むるよりも安価に して且つ効能多き焼酎の小量を以て飲料に供するの経済的なるは言を俟たず故を以て中流 以下にありては好んで焼酎を飲料するに至るは必然の勢なりと(後略)」〔② p.377〕 このように米価の高騰が泡盛価格や清酒価格を高騰させ、庶民の消費行動にも影響を与 えていたのである。 鹿児島県出身の田中愛穂は 1923 年(大正 12)に沖縄県立農林学校の教師として赴任 し、当時の泡盛製造の実態を調査し、1924 年(大正 13)に『琉球泡盛ニ就イテ』を著した。 同書においても、原料に古くは粟を用いていたが、当時は粟を使用することはほとんどな く、外米のシャム白米や台湾米、県産米、内地米などを使用していたと記録している。(9) 以上のように、新聞資料やその他の記録資料から類推すると、明治 20 年代以降から大 正期にかけて、米価の高騰などの要因もありながら、首里・那覇を中心とした泡盛業者は しだいに中国やラングーン、シャム等の外国米に大きく依存していく状況が指摘できる。 酒シャム(タイ)米については、造組合関係の記録によれば、種々の米を試した結果、泡 盛に一番適した米であることが判明し、酒造組合連合会が一括購入を始める 1928 年(昭 和3)以降に定着したようである。(10)その理由としては、タイ米は麹やモロミの工程で温度 の管理がしやすいこと、麹として扱うにもサラサラして作業がしやすいこと、さらにはア ルコールの収量が多いことなどがあったといわれる。 4.飲酒慣行の普及と風俗改良運動 日本における飲酒の大衆化・日常化は、江戸時代の中期以後に始まったといわれる。酒 (9) 田中愛穂『琉球泡盛ニ就イテ』(1924 年)永田社 1978 年復刻版、252 頁。 (10) 沖縄県酒造組合連合会『沖縄県酒造組合連合会誌』1977 年、65-73 頁。

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屋の出現とともに、いつでもふんだんに独りでも飲めるようになり、家庭でも晩酌をたし なめるようになっていった。いわゆる「独酌」の様式が生まれたのである。独酌は近代の 明治から大正時代にかけて町方を中心に広まっていった。(11) 明治時代になると、西欧のビール醸造が伝来するとともに、日本の酒造業界へも技術の 見直しを含め大きな影響を与えた。酒造技術の改良や酒質の向上を目的に国立の醸造試験 所が創設され、酒造の近代化が政策的に取り組まれた。日清戦争〔1894 年(明治 27)〕 や日露戦争〔1904 年(明治 37)〕により、兵士の出征や凱旋の際に祝宴を催す機会が増 えるとともに、戦地での戦勝は必ず兵士の飲酒につながり、飲酒習慣を身につけた者が故 郷に帰るという新しい慣習が地方に広まった。(12)こうした風潮の中で、一般庶民の間でも独 酌や晩酌などの習慣が始まったといわれる。 資本主義の発達は都市的生活の拡大をもたらし、街には酒屋、飲食店が増えていく。祝 いや見舞い、慶弔事に酒を贈ることは当然の礼儀とされ、お中元やお歳暮に酒を贈ること も人気を博すようになった。地域によっても差はあるが、一般の人々が普段から酒を買っ て飲む習慣が広まるのは明治の中頃からであり、思いのほか新しいスタイルなのである。 沖縄における一般庶民の飲酒慣行の普及については、先行研究や調査資料があまりない ため、不確かな面が多い。地域により変差があるとはいえ、文献資料や民俗事例などから すると、明治中期以降に徐々に広まっていったと考えられる。 1901 年(明治 34)1月 25 日付『琉球新報』の「芋の葉露(田舎生活)」には、天南 生の執筆による記事が掲載されている。「(前略)この宴会は村事務所に会し豚豆腐抔の煮 しめを肴とし泡盛を飲んて楽しむまでにて三味線を弾し鼓をたゝくが如きことはなし(中 略)カラカラと称する饅頭形の瓶に泡盛を容れ四方盆と称する杯台に小さき杯を乗せて出 すさすれは上席のものより飲み順序に廻はせは各手酌にて飲む輪環又輪環(中略)村落に 於て男子に欠くべからざるものありそは椰子の実の酒器也これは藤を以て装飾し携帯に便 なる様に造れり小なるものは壱二合を容るべく大なるものは六七合を容るべし(後略)」〔③ p.106〕とあり、都市部を離れたムラにおける一般的な宴会の様子が記されている。酒器 であるカラカラを上席から順に酒の座を廻す輪環作法は宮古のオトーリと淵源を共通にす る民俗である。泡盛の入れ物に椰子の実の酒器が重宝されている点も興味深い。 ムラにおけるこうしたある一定のルールをもった行事や祭事における飲酒と位置づけら れるものとは別に、日常的な退廃的飲酒行為といえるような記事も目に止まるようになる。 (11) 柳田国男「明治大正史 世相篇」『日本の名著 50 柳田国男』中央公論社 1974 年、212-225 頁、 及び窪寺紘一『酒の民俗文化誌』世界聖典刊行協会 1998 年、160-161 頁。 (12) 朝治武「飲酒の社会史」『酒の文化誌』大阪人権歴史資料館 1989 年、44 頁。

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兎耳兵衛の筆による「風俗談片」〔『琉球新報』1899 年(明治 32)11 月 21 日付〕には「(前 略)▲金武間切の男女取締(中略)同間切の人間程酒を好むものは県下中にも稀なるべし 朝起くれば茶湯を飲まずして酒を飲む風習なるが今回の土地割抔には協議は別にして朝か ら晩まで酒を飲み遂に口論を惹き起こすのみならず女の戸主抔は泥酔して路傍に倒れ家族 の扼介となるもの多しとか(後略)」〔③ p.54〕とあり、飲酒の無秩序なあり方が蔓延する 様子もみえる。 また、引き続く「風俗談片」〔『琉球新報』1899 年(明治 32)11 月 27 日付〕にも「▲ 土地割換と飲酒田舎の風習として些細なることゝ雖も飲酒せざれば協議が纏まらざる由な るが去る五六月より各地方とも土地割換を始めにし毎日飲酒に耽り今に至る迄協議一定せ さる処ありと云ふ斯くの如き風習は今に改良せざれば後に悔むこと多々あるべし(後略)」 〔③ p.55〕とあり、地方での日常的な飲酒行為の広まりが指摘されている。 一方、都市地区における飲酒の様子も新聞記事から垣間見える。1901 年(明治 34)8 月 27 日付『琉球新報』「他府県人の沖縄観(続)」には新参生の古手紙として「(前略)徹 夜の酒宴に歌ふやら騒くやら酔はらって喧嘩するやらにて近所合壁は安眠妨害に迷惑する 事なども当地の警察眼には何とも映せさる様子に御座候(後略)」〔③ p.122〕とある。また、 引き続き同年8月 29 日『琉球新報』「他府県人の沖縄観(続)」にも、「(前略)芝居見物 人は勝手に泡盛に酔ぱらって高声に管を巻き山芋を掘り人の鼻先を無遠慮に下駄を踏鳴ら して通り傍若無人に人の席を犯すなど腹の立つ事深山有之場内は丸て蜂の巣に石を投けた 如く役者の口跡なとは迚も聞取れへくも候はず(後略)」〔③ p.123〕とあり、様々な場面 で飲酒する機会が増えていることが看取できる。 個人の飲酒慣行が広がりをみせるとともに、泡盛以外の様々な酒類が市場にも現れてく る。1901 年(明治 34)10 月 17 日『琉球新報』「他府県人の沖縄観(二)」には「衣食住(前 略)酒は存外普及しをりて片田舎にて麦酒葡萄酒正宗あり併し土人の好んて飲む者は泡盛 酒にて一合代一銭二三厘より一銭七八厘計なり(後略)」〔③ p.127-128〕とあり、ビール やブドウ酒、清酒などが流通していたことがわかる。しかし、地元の人々は好んで泡盛を 飲んでいることが紹介されている。 このような状況に呼応するように、沖縄の新聞紙面には酒に関する広告もみえはじめる。 泡盛のほか、ビール、清酒、葡萄酒などが広告として登場する。(13)なお、本稿では原紙の広 告資料までは対象としていないので、内容は別稿に譲ることとしたい。 また、那覇市史による写真集『那覇 百年の歩み』には、代表的寄留商人の店、西本町 (13) 沖縄県教育委員会『沖縄県史研究叢書 17 植物標本より得られた近代沖縄の新聞』(2007 年)の 33 頁・ 147 頁・194 頁・196 頁をはじめ多くの箇所に酒に関する広告がみえる。

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にあった米穀、酒類、醤油の卸問屋森商店の写真が紹介されている。写真の正確な時期は 不詳であるが、明治期と思われ、その看板には清酒「白鶴」が描かれている。(14)さらには、 那覇市営バスの写真が掲載され、「那覇市営バスは昭和 10 年1月 23 日に創立し、那覇・ 首里間を往復した」との説明がある。その車告には石川酒造醸の銘柄として「アサヒ泡盛」 がみえる。(15)こうした泡盛をはじめとする酒類に関する広告媒体の動きと銘柄の確立は連動 していると推察される。 さて、この時期、新聞記事には既述のような飲酒行為の様相に並び、酒宴や酒の飲み方 への批判的な論調も登場するようになる。 1900 年(明治 33)10 月 27 日付『琉球新報』には「紳士の対面と虫拳並に舞方」と して虫拳を「野蛮の酒宴なり」〔③ p.93-94〕と指摘し、酒宴で披露される虫拳を否定的 に紹介している。(16)また、1902 年(明治 35)7月7日付『琉球新報』の「虫拳論」では 具体的にその弊害を記述している。「虫拳は本県人の酒席に殆んど欠くべからざるものゝ 様になれり下流社会の者共が之を以て酒席唯一の娯楽とするは左まて咎むるに足らすと雖 とも中流以上の仲間に於てこの野蛮的の勝負が繁昌するは本県人士の対面にも関するのみ か子細にその影響を(中略)第一健康を害す 虫拳は無理酒を飲ましめ之が為め健康を害 すること小少ならず(中略)第二怠惰の風を助長す 宿酔の為め頭痛岑々常務にも堪へざ るは飲酒家の常なり(中略)第三共同的の娯楽を妨く 虫拳の趣味は両人相対の勝負にあ り(後略)」〔③ p.154〕というような具合である。 無論、酒を無理強いして飲ませることはよくない行為であるが、人間社会における酒の もつ意味合いや役割は度外視して、批判の矛先が「酒」や「泡盛」そのものへ向けられる ことになる。 「名護通信(名護間切○○村の蛮風)」〔『琉球新報』1899 年(明治 32)11 月3日付〕には、 「(前略)二、該村には二三の金持ありしか揃ふて飲酒する中には必す富勝負するか御前は 何程の金あるか等至りて野鄙なる争をなすものありて其くせに酔毎に自分の下人と迄金勝 負するかといふ話あり(後略)」〔③ p.52〕と飲酒と富勝負の悪習を指弾している。また、「風 俗談片」〔『琉球新報』1899 年(明治 32)11 月 17 日付〕には兎耳兵衛の執筆により「(前 略)▲薪木は泡盛とさへ云へは訳のはからぬ話しなるが国頭地方の薪木は開墾地に居るも のが毎日壱人に二把宛□津口迄運び泡盛弐三合と交換する風習ある故薪木は泡盛と唱へ居 (14) 那覇市企画部市史編集室『激動の記録 那覇百年のあゆみ』1980 年、19 頁。 (15) 同上書、92 頁。 (16) 虫拳とは沖縄の方言で “ ブーサー ” と呼ばれる手の指を使った男子の遊びである。親指は人差指に、 人差指は小指に、小指は親指に勝つルール。大人の酒宴でも座興としてよく行われ、負けると酒を飲 ませたりした(沖縄タイムス社『沖縄大百科事典(下)』1983 年、343 頁)。

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