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評定所文書・得姓家譜にみる医術断簡 : 御医者稲嶺成英: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

評定所文書・得姓家譜にみる医術断簡 : 御医者稲嶺成英

Author(s)

徳元, 剛

Citation

浦添市立図書館紀要 = Bulletin of the Urasoe City

Library(5): 25-32

Issue Date

1993-12-24

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/22706

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[研究論文]

評定所文書・{尋姓家譜にみる医術断簡

一 御 医 者 稲 嶺 成 英 一

は じ め に 琉球王国時代に活躍した医者といえは、尚益の兎 唇手術を行った高嶺徳明 (1653-1738)、初めて牛栢 種痘を行ったと伝えられる仲地紀仁 (1789-1859)、 『御膳本草jを著した渡嘉敷通寛 (1794-1849)らか 知られている。大きな業績を残したことて彼らは疏 球の医学史にその名を残しているわけであるか、こ こてはあまり名の知られていない或る医者の活躍を 史料の中から掘り起こしてみようと思う。彼の名は 得姓稲嶺成英、上に挙けた医者達の次世代にあたる。 ]. 得 姓 家 譜 得姓稲嶺家は、代々医者を輩出してきた家柄てあ る。系図から関連する人物を挙げるとともに、家譜 から彼らの医歴を抜粋する。 2世 3世 4世 5世 6世 成應ー(成政)一成安 成珍

[成英 成備ー(成維)一成保一成惇 成債=得永隆 (1695-1751)は、康煕55(1716)年、 医道稽占のため豊氏仲碩元達・元平の弟子となった。 康煕59(1720)年、進貢使に従い中国て詠術・薬方を 学んた。薙正元 (1723)年、剃髪し元祥と称えた。 因みに、医者の剃髪と医名については、東恩納寛 惇「医方漫談」(全集第9巻)に詳しい。それによる と、昔の僧侶と医者は身分・階級の外にいた。出家 徳

して僧侶になる人か髪を剃るのと同し様に、医者と なる人も剃髪した。更に、僧侶は医者を兼ねること もあった。そこに医者の剃髪の由来かある、といわ れているらしい。また当時の医者は、本名の他に医 者としての名前も持ったという。芸名ならぬ医名て ある。彼は、仲嶺元達・元

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の弟子てあることから、 名乗頭の「九」をとり「元祥」を称えた。 彼は、苑正冗 (1723)年、鹿児島て川添喜庵に内科 を、西尾永林に外科を学んに乾降9 (1744)狂、国 王尚敬の足術に合

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治療を行った。足痛とは、いかな る疾病てあったのたろうか。何ら詳しい日己心かないe 成應=得祐享(1723-1784)は、乾隆14(1749)年鹿 児島て古後順榮に内科を、原田

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頂固に外科を学んた。 成安=得臭民 (1782-?)は、嘉慶16(1811)年、 鹿児島て馬場長雲1こ医術を学んた。追光10 (1830) 年、国場按司の病気(病名は記されていない)を冶 療した。道光25(1845)年、異国方御用人二階堂右八 郎の熱病を冶掠した。 成保=得偉行 (1819-?)は、道光25(1845)年、 年頭使に従い、鹿児島て宮内玄清に医術を学んた。 成珍=得庭蒟 (1807-1834)は、道光13(1833)年、 中国て王騰芳に医術を学んた。 成淳=得逢吉 (1845-?)は、同冶12(1873)年、 呂姓渡嘉敷通茂に従い、鹿児島て沖瑞雲に医術を学 んた。因みに、呂姓も代々医者を輩出してきた家柄 て、『御膳本単』を著した渡嘉敷通寛もそうてある。 そしてもう一人、成英 ~1号庭蘭は、この論又の主 人公てあるから、次に詳しく取り上ける。 稲嶺成英のプロフィール 稲嶺成英は、唐名を褐庭面といい、嘉慶23(1818) -25

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-年8月25日生まれ、卒年は不明である。道光23 (1843)年、医術を学ふ目的て、年頭使の馬氏桃原親 方良輔に随って鹿児島へ渡り、馬場玄仙に師事する。 24年3月帰国し、同年12月1日下庫理番医者寄役と なる。25年1月医者足となる。26年2月5

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医者相附 となる。しかし、同年 8月、尚溶中城主子の崩御に より、退役を命しられる。恐らく尚溶の附医者を勤 めていたのてあろう。

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月15日再ひ下庫理番医 者寄役となり、11月医者足となる。28年聞得大君の腫 物を治療する。29年 3月15日、馬氏国頭王子正秀の附 臥者として此児島へ渡る。 12月22[」、医者相附とな る。 これか「得姓家譜」にみる医者としての稲嶺成英 のプロフィールてある。しかし家譜には、同冶 3年 甲子 8月17日申 [I座に叙されたことを最後に、彼の 没年、また道光29年以降の医術に関わる記事がない。 幸いにして彼の活躍は、評定所文書「年中各月日記」、 特に咸豊 5年のそれに詳しい。そこて彼の活躍をそ れらの中から拾い上けてみよう。

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咸 豊

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年 以 前 の 「 成 英 」 記 事 道光28年「年中各月日記」(『琉球王国評定所文書』 第 3巻)の目録に、 ー、砂糖方横目病気に付、御医者足稲嶺筑登之親 実上詰込致椋治候様、且快柑成時々致見廻候 様、那覇役人より問合・返答井向々へ通達之 事。 (5月) ー、砂糖方横目本田清兵衛殿御病気之節致療治候 医師、勲功御取持被仰付度被申出候段、那覇役 人より問合返答之事。 (8月) とある。家譜からも道光28年当時稲碩は医者足の位 であることが分かり、「年中各月日記」の記事と符号 する。 砂糖方横目本田清兵衛の病気かとういうものてあ ったか、目録だけしか記載されていないので、その 辺のところは分からない。ただ稲嶺か、本田清兵衛 の病気を治捺して、その勲功を讃えられたことが知 られるのみである。 道光29年「年中各月日記」(『琉球王国神定所又掛』 第5巻)の目録に、 ー、産物方御日附束郷諒ん衛門殿御病気付、御

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久 者足渡嘉敷親雲上・稲伽筑登之親玄」韮IJ屁に て、時々療治を被請候得共御快無之付詰込被 仰付候様、那覇役人より問合・返答井向々へ通 達之事。 (正月) 一、江物力御目附束郷源左衛門殿致死去、右に付 御用筋有之、島次飛舟被差立候儀に付、数ヶ条 之事。 (2月) とある。医者足渡嘉敷親雲上とは、呂姓渡嘉敷通起 のことてあると考えられる。稲嶺は彼とともに東郷 源左衛門の治療の為に雇われるか、容態が良くなら す、詰込て治療に当たることになる。ところかその 甲斐なく、東郷源左衛門は

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月に死去する。つまり、 彼らの治療が及ばなかったのてあろう。 咸豊2年「年中各月日記」(『琉球王国評定所文掛』 第5巻)の目録に、 ー、異国方伊集院次左衛門殿病気付、御医者相附 稲嶺親雲上御雇被申出、那覇役人より問合・ 返答、且御密院稲嶺へ通達之巾。 (4月) ー、伊集院次ん衛門殿病気付、稲碩親雲上療治を 被受候処、同人風引付、御医者渡嘉敷親雲上御 雇、且五六日程は詰込被仰付度、那覇役人より 問合・返答井御書院渡嘉敷へ通逹の事。 (4月) とある。異国方伊集院次左衛門を治療するべき稲嶺 か風邪をひいてしまい、医者渡器敷親雲上と交代す るという、おかしなことになっている。因みに、伊 集院次佐衛門は5月に死去している。 以上か、咸豊5年以前の「年中各月日記」に見る 稲嶺成英の活躍てある。それては次に咸豊5年「年 中各月日記」(『琉球王国評定所文書』第9巻)を見 - 26

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-てみよう。この史料には、彼に関する記事か多く出 ている。

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咸 豊

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年の診察事例 (I) 小松相馬のカルテ 〇小松相馬様御事、御持合之琳病御再発、段々御 療冶被成候得共快体不相見得候付、御医者稲 嶺親雲上被請療治度候間、明早朝御屈相成候 方取計呉度旨、別当を以御申出有之候間、其通 被仰付早々御返答被仰越度、此段致御問合候c 以上。 五月六日 御鎖之側御方 糸洲親雲上 川平親雲上 右御申出之通被仰付被下度旨、被逹 上聞柑済候間、明早朝罷下那覇役人引合御療 治可被相勤候。此段致問合候。以上。 五月六日 稲嶺親雲上 国吉親雲上 〇小松相馬殿御持合之麻病御再発被成候付、御 医者稲嶺親雲上御屈被仰付度旨、御申出有之 候段申来候付、其通被仰付被下度旨、被逹 上聞相済候間、此段致問合候。以上。 五月六日 御書院 国吉親雲上 守衛方小松相馬の淋病か再発し、治療を受けてい たか、なかなか様態かおもわしくない。そこて、医 者稲嶺親雲上(成英)を雇い治療を受けたいとの申 し出があり、那覇役人糸洲親雲上・川平親雲上から 鎖之側に連絡が届く。許可が下りたので、その申し 出通り明る<早朝 (5月 7日早朝)から小松相馬の 冶療にあたるよう、日帳主取国吉親雲上から書院な らひ稲嶺親雲上へ連絡か行く。稲嶺は書院付の医者 てある。 淋病とは、淋菌による尿道枯膜の炎症てある。尿 中に淋菊を含んた膿状の物か混じり、放尿時に激し い痛みを伴う。小松相馬の病状か詳しく記されてい ないのは残合てある。再発ということなのて、慢性 化した状態たったのてはないか。

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小松相馬様御病気之儀、漸々御快相成居候褐 共、夜前より些熱出候付、御医者稲領親雲上今 日より詰込、致御療冶候方可取計旨、別当を以 御申出有之候間、其通被仰付度、此段致問合 候。以上。 附、稲嶺は内分より留置申候。 五月十七日 糸洲親雲上 /II半親雲上 御鎖之側御方 右之通甲来候付、今日より詰込致御療冶候様 被仰付度旨、被遥 上聞相済候間、随分入念御療冶可被相勤候。 以上。 五月十七日 稲娯親雲」

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国吉親雲上 右之通甲来候付、今日より詰込致御療冶候様 被仰付度旨、被達 上聞相済候間、此段致問合候。以上。 五月十七日 御書院 小松相馬の病状が段々快方に向かっていたか、 5 月17日夜前に微熱か出、引き続き稲嶺の冶療を受け たいとの中し出を受け、那覇役人糸洲親雲上・川平 親雲上から鎖之側へ連絡がある。その申し出につい て許可が下りたのて、日販主取国吉親雲上から稲嶺 親雲上へ指令か行く。この事は、苔院にも連絡か届 く。稲嶺はその間も仮屋に詰めて、小松祖馬の冶療 を続行している。 〇小松相馬様御病気之儀、漸々御快相成居候喝 共、未全御平癒無御座、尤日数も相込居候付て は、早々御全決相成候方取計度候間、御医者渡 嘉敷親雲上も相合致御療冶候て可官と、稲嶺 親雲上沙汰有之、随分其通請原治候様仕度候 間、今日より渡嘉敷も御雇、可成程毎日罷下、 自然御用に差支候儀も候はヽ一日越罷下、稲 27

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-嶺相合致朕冶候方取計呉度、御仮屋守を以御 申出有之候間、御雇被仰付、今日早々罷下候 様、左候て日々下方之儀も何分御取究を以被 仰越度、此段致御問合候。以上。 六月八日 糸洸親雲上 川平親雲上 御鎖之側御方 右之通申来候付、今日より毎日罷下為致御療 治候様被仰付被下度旨、被達 上聞相済候間、此段致問合候。以上。 六月八日 国吉親雲上 御習院 只今罷下、里主引合御療冶可被致候。以上。 六月八日 渡嘉敷親雲上 小松相馬の病気が段々快方に向かっているとはい え、未だ全快てはなく、治療に日数もかかり過きて いることから、完冶を期すべく同業の渡嘉敷親雲上 と二人掛かりで冶療に当たるのが良い、と稲嶺は判 断する。医者渡嘉敷親雲上とは、恐らく呂姓渡嘉敷 通起(?-1866)ではないかと思われる。渡嘉敷通寛 の嫡子といわれている人てある。それを受けて、稲 嶺に続き渡嘉敷も雇いたい、毎日ということで差し 障りがあれは一日越しても宜しい、治療の為那覇へ トってもらいたい旨、仮屋守を通して那覇役人へ中 し出かある。史に那覇役人から鎖之側、日帳_じ取国 吉親雲上から書院ならひ渡嘉敷親雲上へ連絡が走る。 〇小松相馬様御病体、御医者渡嘉敷親雲上・稲嶺 親雲上へ相尋候処、冦気は去十二日より相去 居候得共、少熱御持通之上、昨日より又候御痢 病被成、昼夜六度完、今日も八ツ之比迄にて六 度御痢腐被成、至今日は惣御気分不宜候付高 麗御服用、尤御食事は是迄之通粥茶碗にて四 度被召上候段承申候。人参杯にて御尋御品被 御進儀も候はヽ、早め之方御取計被成度、此段 致御問合候。以

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六月十七日 糸洲親雲士 川平親雲上 御鎖之側御力 那覇役人が渡嘉敷・稲領に、小松相馬の病状につ いて質している。冦気が 5日前から治まりはしめた とはいえ、微熱がまた続いている。述気とは、一種 の熱病のことてある。その上更に昨日から卜痢を誘 発している。気分も相変わらず優れない様(て、高 麗を服用している。高麗とは、高腿人参のことてあ ろう。『原色和漢薬図鑑』(保育社)によれは、高脆 人参は病弱者の滋養強壮とともに、下痢にも効果か あるとされている。また、食事は1日に4度粥を摂っ ている。 6月17日、小松相馬の病状が悪化する。夕方、渡嘉 敷親雲上も詰込て稲嶺とともに治療に当たってもら いたいとの申し出があるが、その直後に小松相馬は 死去してしまう。 本文入相時分到来候処、追て御死去被成候段、後 条之通申来候付、不及 上覧候也。

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公相馬様御事、先刻御問合仕置候通、惣御気 分不宜候付、些御決被成御座迄之間、御医者渡 嘉敷親雲上も詰込致寮冶候方取計呉度、御用 達永谷次郎太殿御申出有之候間、其通被仰付 度、此段致御問合候。以上。 六月十七日 御鎖之側御力 糸洲親雲」一 川平親雲

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小松相烏殿御事、入相時分御死去被成候段、那 覇役人より問役を以夜五ツ時分申来候付、早 速御古院当善舎場親雲上御取次達 上聞候事。 附、御葬式之次第、委細別段日記に相見得 候也。 (2) 野元一納右衛門のカルテ 咸豊 4年「年中各月日記」(『琉球王国評定所文書』 第8巻) 7月中の目録に、 ー、産物方横目病気付、御医者相附稲嶺親雲上御

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雇被申出候段、那覇役人より問合・返答井御書 院稲嶺へ通達之事。 とある。産物方横目野元一納右衛門の病気とは、淋 病てある。彼の病気は咸豊 4(1854)年 4月頃に発病 している。はじめ泊村の長田親雲上という医者を雇 ったが、病状が一向によくならず、そこで 7月中旬 頃に医者相附稲嶺親雲上を雇いたい旨申し出があっ た。 咸盟5年「年中各月日記」(『琉球王国評定所文書』 第9巻)に、 産物方御横目野元一納石衛門殿淋病御煩被成 候付、御医者稲碩親雲上御傾被請療冶、御全快 被成候間、其功御取持被仰付度、別紙之通御申 出有之候間、其御見合被仰付度、此段致御問合 候。以上。 三月廿八日 御鎖之側御方 糸洲親雲」ペ

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平親雲上 とある。稲嶺親雲上の冶旗によって、野元一納右衛 門の病気(淋病)か全快したことか分かる。そこて 稲嶺の功労か讃えられる。 稲嶺の冶療かとういうものてあったかを知るため に、次の史料を見ることにしよう。 〇 覚 右は、私事去誕四月初比より淋病相煩、昼夜無 差別式拾度計ツ、小用に差越、毎度惣て血仮 にて痛甚つよく、安眠も出来不申致難儀申候 付、旧村長田親雲上へ療冶相頼申候処、色々と 被尽手、交も伝法有之肉桂・高麗等被相加療冶 被致候得共、薬功無之、同六月比 1こ罷成難儀難 延口已に難病に成立塩梅御座候付、同七月中 旬比より右稲嶺へ療治相頻申候処、高脱・肉桂 等惣て取引、山薬迄壱日に三枯ソ、相用ひ申 候処、一七日計より其薬功如神、干今押通快方 に向立、九月初方迄にて本腹仕申候。療治方 付ては入念ー涯骨折いたされ誠感心仕申候。 医功御取持も御座候はヽ何欺願出之剥其功労 御取持有之候は別て仕合之至奉存候。此段申 出候。以上。 卯三月廿七日 親見世 産物方掛見聞役 野元一納右衛門 この野元一納右衛門の申出によって、稲嶺親雲」こ の治療方法かとういうものたったか、朧気ながら分 かる。 先す、彼の

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り任てあった1日村の長田親雲上か野元 一納右衛門にとのような冶療を行ったかを見てみる ことにしよう。鴻とも伝

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竹之肉桂・高麗等被相加療 冶被致候」。つまり、淋病という病気には昔から肉 桂・高麗あたりか効果かあると言われてきたことか 分かる。しかし、これらの薬功によっては野元一納 右衛門の淋病は地えなかった。長出親裳」:の治療方 法に誤りかあったのか、またはおそらく同じことか も知れないか、彼の医者として技術か未熟たったの か。 これに対して、稲嶺親雲上の冶療方法については こう記されている。「高麗・肉桂等惣て引取、山薬迄 壱日 1こ三枯ツ、相用ひ申候」。長田親雲上か用いた高 麗・肉桂等を使わす山薬を用い、

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度それらを野 元一納右衛門に投与した。その薬功あって「一七日 計より其薬功如神、手今押通快力に向立、九月初方 迄にて本腹仕申候」0 3週間ほとてその効果かあらわ れ、 9月初め頃には全快したということてある。 (咸豊 5年「廻又」) 〇産物方横目野元一納右衛門殿、去年四月初比 より淋病被相煩、昼夜無差別弐拾度計完小用 に差越、惣て血便にて痛甚御有被及難儀候付、 医師相頼療冶を被受候得共其験無之、漸々難 病に罷成候付、同七月中旬比より其方療冶を 被受候処、楽庄致的当日々押通快方に向立、九 月初方迄に被致本腹候由。療冶に付ては入念 一涯骨折致、出精感心被致候間、医功取持有之 度旨、一納右衛門殿被甲出、殊勝之儀に被思召 候。以後其御見合可被仰付候条、猶以医業致 29

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-出精候様可申渡旨、御差図にて候。以土。 卯四月廿一日 嘉数親雲上 伊舎堂親雲士 御医者相附 稲嶺親雲上 咸豊

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年「廻文」(国立公文書館、

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号)によれ は、野元一納右衛門の病状がどういうものたったか か分かる。「昼夜無差別弐拾度計完小用に差越、惣て 庸1便にて桁甚御布被及難儀候」。昼夜を問わす1日に

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回もの排尿、その度に血尿が出たこと、ひとい痛み を伴ったことが分かる。 野元一納右衛門の治療に成功した稲嶺は、既に述 べたように、 5月小松相馬の治療にも当たるわけて ある。しかし小松相馬の場合にはその治療に失敗す る。というより、彼の力が及ばなかったと言った方 が良いのかも知れない。 (3) 大窪八太郎のカルテ

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大窪八太郎殿御事、今月十五日方より風邪御 煩、漸々熱気強相起候付、大和医者又は高江洲 里之子親雲上へ療治為致候得共、いまた御快 体無御座、至極御心配被成居候間、御医者稲嶺 親雲上御雇、今日より那覇へ下通にて高江洲 相合致療治候様取計呉度御申出有之候間、其 通被仰付、御返答も早々被仰越度、此段致御問 合候。以上。 七月廿六日 御鎖之側御方 糸洲親雲上 川平親雲上 右之通申来候付、其通被仰付度旨被達 上聞相済候間、致問合候。以上。 七月廿六日 御書院 兼城親雲上 早々罷下、里主・御物城引合可被致療治候。 以上。 七月廿六日 稲嶺親雲上 大窪八太郎か10日程前から風邪熱に苦しんでいる。 これまで大和医者と高汀洲親雲上という医者の治療 を受けていたか、貝合が一向に良くならない。病状 が心配なので稲嶺を府い、今円 (7月26日)から那覇 に通って、高江洲とともに大窪八太郎の治療にあた るようにと、習院ならびに稲嶺へ連絡がいく。

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大亦八太郎殿御病気に付ては御尋等被御逍方 にも可有御座哉、御病気之様子委く中上候様 被仰越趣致承知、稲嶺親雲上より承合候処、最 初は昼夜共時として熱為差発事候得共、到当 分は夜は相治、且御食事も粥小茶碗にて日に 五六杯程相通応病体候ては相済候処、御腹中 湿畳候てくはり相付、其上根気も御不足祖立 候付、療治方六ヶ敷難病之由、右に付ては御尋 御使等被下方にも可有御座哉、川上式部様御 仮屋守に付て内分相伺候処、右御使不被御逍 様取計度旨承申候間、此儀は先寄御見合被成 候方可宜哉と存中候。此段申上候。以上。 八月二日 御鎖之側御方 糸洲親雲

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川平親雲上 鎖之側から大窪八太郎の病気について色々尋ねら れることもあるのて病状を詳しく知りたいというこ とで、稲嶺にそこのところを質したところ、初めの 頃は昼夜とも熱に苦しんたが、近頃では夜は熱も治 まり、食事も粥を小さい茶碗て1日に5-6杯摂っ ており、この様子ては病気としてはもう大丈夫では あるが、患者に気力と体力がなく、そのことが治療 を難しくしていると答えている。 〇御医者稲嶺親雲上事、親類病気付、昨朝首里へ 罷登、右親類致病死、五日之忌柑懸居候処、八 太郎殿御事、夕部より熱気甚強、今日至候ては タ部よりも別て強柑成居候間、是非今日より 罷下候方取計呉度、別紙之通御申出有之候間、 其通被仰付、御返答も早々被仰越度、此段致御 問合候。以上。 八月八日 糸洲親雲上 川平親雲上 30

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-御鎖之側御方 〇 稲嶺親雲上 右者、御親類病気付、昨朝首里へ被罷登、右御 親類被致病死候由、就ては只今五日忌相掛候 段しらせ有之、忌中に付ては、此方何そ差支無 御座候間、今日より又々御雇早々被罷下候様 奉願候。勿論私事、夕部より熱気甚強、今日に 至候ては夕部よりも別て強相成甲候付、今日 より是非御下り被下候様御取計被下度奉頼候。 以上。 八月八日 大窪八太郎 Ill平親雲ト 糸洲親雲上 右之通申米候付、今日より忌御免被仰付候間、 早々罷下療治方可被相勤候。以上。 八月八旧 稲嶺親雲上 国吉親雲上 稲嶺は、彼の親類が病気なので昨日 (8月 7日)の 朝首里に登る。しかし、その親類は病死してしまい、 稲嶺は五日忌として喪に服している。その間は身か 「椒れ」ているのて、公の場に出ることは禁忌される。 これは、死人を出した家の人々か、公の場に出るこ とを、感傷的な意味において一時止める(例えぱ悲 嘆の為に)という意味ではなく、目分の身に降りか かった「祗れ

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によって公の場に迷惑をかけないと いう意味である。 しかし大窪八太郎は、自分の病気の冶療の為には そんなことに構っていられない。夕ヘの高熱か今 E は更にひとい。そうてあるから、是非冶療を受けた いと申し出る。 そういう訳て忌御免ということて稲嶺は、大窪八 太郎の病気の治療の為、那覇へ罷り下ることになる。 (4) 市来半之丞のカルテ 成豊 5年「年中各月日記」に、 〇御附役市来半之丞殿御事、去月未比より熱病 被御煩、此程表医師小村純康殿療冶を被請候 得共、御快体ネ相見得候付、御医者稲嶺親雲上 被請療治度候間、御雇相成候様、尤何そ重方に は無之候得共、長々日数を込段々療冶被致候 ても其験不相見得候付、稲嶺療冶を被請候 はヽ早々御全快可被成

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之御含にて、可成程 翌明日より御雇相成候万取計呉度旨、御同役 黒田藤十郎殿御申出有之候間、共通被仰付度 此段致御問合候。以上。 十一月十八日 御鎖之側御力 右之通申来遂披露達 糸 洲 親 雲

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川平親雲上 上聞相済候間、此段致問合候。以上c 十一月十九日 御習院 右申出之通被仰付度旨被達 兼城親雲上 」聞相済候間、今日より罷下那覇役人引合御 療治可被相勁候。此段致通達候。以上。 トー月十九日 御医者 稲嶺親雲上 兼城親雲上 とある。御附役市来半之丞か先月 (10月)頃より熱病 にかかり、表医師小村純康の冶旗を受けていたか、具 合かとうも良くならない。そこて稲嶺の治療を受け たいのて彼を雇いたい。それ程ひとい状態てはない けれとも、長い間かけて治療しているにもかかわら す全快の兆しかないのて、明日 (11月19日)から稲碩 を雇えるように取り計らって欲しい、との申し出か ある。 〇御附役市来半之丞殿御病気為療冶方御医者稲 嶺親雲上、西村名嘉真筑登之親雲上宅へ詰居 候付、今日より詰中用水壱はつ宛毎日汲入候 様被仰付度旨、稲嶺申出有之候間、構之阿へ被 仰渡度、此段致御問合候。以上。 十一月甘五日 御鎖之側御方 糸洲親雲上 川平親雲上

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市来半之丞の熱病の治療にあたって、仮屋である 西村の名嘉真筑登之親雲上宅に、今日 (11月25日)か ら毎日水を汲み入れておくようにとの稲嶺の申し出 に対して、その通り仰せ渡すように那覇役人から鎖 之側へ連絡がいく。 〇御附役市来半之丞殿御病気之儀、漸々御快方 に相成候付、今日より先は那覇医者高江洲筑 登之親雲上療治を被請候間、稲嶺親雲上は 時々罷下致相談候方取計呉度旨、御同人御申 出有之候間、其通被仰付度、此段致御問合候。 以上。 十一月廿八日 御鎖之側御方 糸洲親雲上 川平親雲上 稲嶺の治療のおかげで、市来半之丞の熱病が段々 快方に向かっている。これから先は那覇医者高江洲 筑登之親雲上に治療させるので、稲嶺は時々那覇に 下って様子を見て欲しいとの申し出がある。 お わ り に 評定所文書の文中によく見掛ける病名に、先島等 の疱癒、それに役人等の淋病・熱病がある。ここて は後者を取り上げて、その上で特に咸豊5年前後に活 躍した稲嶺成英という一人の医者にスポットを当て る形で、当時の病気• その治療方法・医者派遣の手 続き等について、患者のケース別に取り上げてみた。 評定所文書には稲嶺だけではなく、他にも色々な 医者が登場してくる。稲嶺の事項にしても、ここに 取り上げたものだけではなく、ただ割りと内容か詳 しく記されている事項を抜き出してみたに過ぎない。

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