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青花皿にあしらわれた十字紋の氏素性を探る: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

上間, 篤

Citation

名桜大学紀要 = THE MEIO UNIVERSITY BULLETIN(12):

1-19

Issue Date

2006

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/8044

(2)

名桜大学紀要12号 1-19(2006)

育花皿にあしらわれた十字紋の氏素性を探る

上聞 篤

要旨 近年今帰仁城跡の郭内か ら、統一王朝以前 にこの城 を本拠 とした勢力の出自に関係す ると見 られる品々が出土 している。かかる出土物の中で生活、宗教、軍装備、娯楽、装身具 などと関 わる品 目は、一様 に元朝 に仕 えて江南地方で活躍 した西城 出自の色 目人 との関わ りを示唆す る 特徴 に彩 られているo関係する出土物の一つ に異色の十字紋 をあ しらった青花 と呼ばれる元朝 期の器が存在する。本稿では、 この十字紋の装いに看取 されるギ リシャ趣味及び騎馬文化の要 素 を手掛か りとして、 この十字紋 と元朝期の江南地方 に駐屯 した色 目系騎馬軍団、なかんず く キリス ト教徒勢力 として名 を馳せたアラン (阿速)衛都兵団、 との関係 について考証す る。

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ABSTRACT

A numberofexcavateditemsh-om thesiteofNakijinCastleclearlyrevealthattheruling clanoccupyingthecastlepriortotheadventofaunifiedkingdom inOkinawaconsistedofa highlysophisticatedmilitantgroupofmenofforelgnOrlgln.Amongtheexcavateditemsrelatlng tolife,religl

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n,militaryequlpment,entertainment,Ornamentandsoforthwhichsuggesttheir distinctconnectionwiththeYuanperiod,thereexiststheimageofaChristiancrossdrawnon apleCeOfporcelain.Thispapertracesitsorlglnandbackground丘.om thestandpointofan equestrianpeopleofIranianstockcalledAswhowereChristiansandplayedaslgnificantmilitary roleaswellinsouthernChinathroughouttheYuanEra.

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はじめに

14世紀の中葉以降か ら15世紀の初頭 にかけて然 る武装集団が根城 とした今帰仁城の郭内か ら、十字紋 をあ しらった元代の青花 と呼ばれる陶磁器が出土 している。上に紹介 した写其資料 はその写 しであるIo これを見れば分かるように、この器の内底 には、縦軸 と横軸が同 じ長 さ にそろえられた十字紋が描かれている。 またこの十字紋の中心軸 には、 もう一つの十字紋が配 され、それは然 る草花 を模 してあ しらわれている。 この十字図柄は明 らかにキリス ト教 との関 わ りを示す ものであると考えられるが、そ もそ も十字架 を形作 るにあた り、それぞれの軸 をす べて同 じ長 さにそろえる様式上の伝統 (因みにローマ ・カ トリックの十字架は縦長を旨とする) といったものは、元来ギ リシャ正教の影響が及んだ地域 において尊ばれて来たものである。面 白いことに、この十字紋の中心軸 にあ しらわれたもう一つの十字意匠にもギ リシャ文化 との繋 が りを努常 とさせる装いが見て取れる.それをよく観察 してみると、十字に配 された基軸部の 四葉か らはそれぞれに一条の細い茎が伸 び、さらにその先端 には細やかな花弁が折 り重なる花 冠が描かれている。これら三つの要素、すなわち① 四つ葉、②一条の細い茎、③その先端 に花 開いた小 さな花冠 といったものの存在は、そこにあ しらわれている十字紋が四葉のクローバー をモチーフに して描かれたものであることを示唆するOクローバーに関 して少 しく付言するな らば、バルカン半島及びその東方に隣接するアナ トリア地方においては、つ とにクローバーを 豊穣の象徴 として崇める宗教が行われた。 この種の古代宗教 に由来する信心の類は、今 日で も ヨーロッパ を始め、広 く世界の各地にその命脈 を保 っている。かたや植物学 もギ リシャ世界 と クローバーとの霊妙 な関係 を説 く。それによれば、元来クローバーは、前出のバルカン半島や アナ トリア地方 を原産地 とする野草である. 日本ではクローバーを<うまごや し>などと呼び 習わ しているが、古来ユーラシア大陸の騎馬遊牧社会 において馬の飼育に不可欠 とされたシロ ツメクサすなわちクローバーが、西域 (今 日のウズベキスタンのあた りを指す)か ら東アジア の漠土に移植 されることになるのは、かつて名馬の確保 に執念 を燃や した後漢の時代 に遡る出 来事である。 ところで元王朝 は、13世紀の後半期 に同王朝 に仕 えて南宋攻略に功範のあった西域及び中 央アジア出自の騎馬部族 を平定後の江南地方に留め置 き、彼の地の経営に乗 り出す。かかる軍 勢の中核 には、元来西方のカフカズ山系 を故地 としたイラン系民族のアラン (阿速)族などが 名を連ねた。彼 らは トルコ系種族のキプチ ヤク族 と同様 に、武門の徒 として、最後 まで元室に 忠誠 を尽 くした民 として知 られる。中で もアラン族は、元朝治下の漠土において、先祖伝来の ギ リシャ正教 を奉 った軍閥 として名 を馳せた存在であった。上に指摘 した花紋 ・草花十字紋 に

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青花Jnlにあしらわれた十字紋の氏素性を探る 看取 されるギ リシャ的趣 向な らびに騎馬文化の要素 は、元朝治下の杭州近郊 において彼 の地の 治安維持 に奔走 したアラン (阿速)衛都兵 団 との関わ りを示唆す る。以下 にかかる視点か ら、 表題 に掲 げた十字紋の氏素性 について考 えてみる。 (Ⅰ) モ ンゴル ・ウル ス とキ リス ト教 西欧のキ リス ト教社会がモ ンゴル ・ウルスの動 向 に畏怖 の念 を抱 き始め るのは、皇帝 オゴデ イ (在位1229-41)が1230年代 の末期 に敢行 した西域親征 に呼応 して、バ トウ (チ ンギス ・ カンの長子 ジュチの息子)配下のキプチ ヤク人な どか らなる精鋭部隊が、遥か西方のボヘ ミア やポーラン ドのあた りにまで軍事侵攻 を行 ったことに端 を発す る。 ただな らぬ事態 に見舞 われ た ヨーロ ッパのキ リス ト教社会は、急速その対策 に迫 られるが、当初 は皇帝 フェデ リッコ二世 (1220年 に神聖 ローマ皇帝 に即位) と教皇 グレゴリオ九世 (在位1227-41) との間に生 じた

蝶が足 かせ とな り、 ヨーロ ッパ各地の封建勢力が一枚岩 となって防衛網 を張 り巡 らす まで には いた らないOかかる不穏 な状況 を危供 してその対策 に乗 り出すのが グレゴリオ九世 の後継者 と して登場す る教皇 イ ノセ ン ト四世 (在位1243-54)である。新教皇 は迫 り来 る危機 を回避す る方策 として、手始めに ドミニ コ修道会 とフランシス コ修道会か ら医療 に従事す る布教僧 を募 り、北東 ヨーロ ッパな らびに西 アジア各地の異教徒 の世界へ送 り込 む。 フランシス コ修道会は、 教皇庁のかかる布教方針 に則 り、当時 ガザ リア (本来 はハザール人の国の意)の呼称 で知 られ ていたクリミア半島の一角 に伝道の拠点 を設け、独 自に布教活動 を展開す る。 クリミア半島は、 かつてその北方 に連 なるアゾフ海の豊かな海産物 を介 して、古代 ギ リシャの都市 国家 とも縁 薄 か らぬ関係 にあ った土地柄 であ るが、13世紀の中葉 には、 ジェノバ、ベ ネチ ア、 ピサ出身の 商人たちが、 この地 を経 由 してキエ フ (硯 ウクライナ共和 国の首都)のあた りにまで交易 を 目 的 として進 出 していた。かのマル コ ・ポーロの父ニ コロな ども、当初 はかか る交易 ルー トで商 いに従事 した冒険商人であった。従 って、当時 ガザ リアを拠点 に活動 したフランシス コ修道会 の僧侶 たちは、 カ トリックの教 えを広める宣教活動 に専念す る傍 ら、一方では前 出のイタリア 商 人たちを精神的 に薫陶す る存在 で もあ った。13世紀 の中葉 にフランシス コ修道会が他の修 道会 に先 ん じて南 ロシアの ジュチ ・ウルスやその東方 に連 なる中央 アジア一帯 の地理や文物 に 造詣 を深めることとなったのは、 この修道会が教皇庁の布教方針 に沿 って早 くか らガザ リアの 周辺地域 で宣教活動 に従事 していたことによる ものであった。 ひるが えって、バ トウ、バ イダル、 カダン、スベティな どに率い られたアジア系遊牧民 の騎 馬軍団は、1341年 を迎 える頃には、 ヨー ロ ッパの奥深 くにまで攻 め入る。 ところが明けて1342 年 を迎 える と、剰悼 さを売 り物 とした遊牧民 の軍勢 は、あたか も引 き潮の ごと くコ-カサス方 面へ取 って返す。 この退却劇 は まさ しくオゴデイ崩御 の落 とし子その ものであった。皇帝が死 去 した折 りのモ ンゴル ・ウルスでは、臣民 は下 々に至 るまで遍 く皇帝の死 を悼 む喪 に服す こと が求め られた。西方の ジュチ ・ウルス を率 いたバ トウとい え ども、皇帝の死去 に伴 うこの慣行 には従わ ざるを得 なか った。 オゴデイが世 を去 った ことによ り、アジアの遊牧民が束 ヨーロ ッ パで展開 した軍事行動 は、中途で雲散霧消す ることとなった。 さて、東方のモ ンゴル ・ウルスが オゴデイの崩御 に伴 い、世継 ぎの問題 をめ ぐって不安定 な 内政状態 に陥っていた頃、西方の ヨーロ ッパでは、即位 したばか りの教皇 イノセ ン ト四世が、 モ ンゴル皇帝 に宛てて親書 を したためる。教皇 は、 フランシス コ修道会 か ら二 人の僧侶 を抜擢

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して親善傍 に任命 し、それぞれに自らの親書 を託 してモ ンゴル ・ウルスヘ差 し向ける。 この大 役 を仰せ付 かるのが、以下 に少 しく紹介する、 カル ビこ とルブルクである。重大かつ命がけの 任務 を拝命 した両 人は、以後それぞれ に自らの信心、知識、人脈 、縁故 などを駆使 してモ ンゴ ル ・ウルスの本 陣へ旅立つ。 カル ビ二は

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年 の復 活祭の 日にフラ ンスの リヨンを発 ち、一 路北東 ヨーロ ッパの内陸部 を経 て東方へ向か う。途 中あ またの災難 に見舞 われなが らも、つい には カラコルム北方 に陣 を張 る皇帝 グユ ク (在位

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のお膝元 に到着す る。 カル ビ二 には、皇帝の宿営地内 に滞在用 のゲルが宛がわれる。 しば しの逗留 を経 て グユ クとの謁見に臨 んだカル ビ二は、居並ぶ寵臣 を介 して、カ トリックの数 えに帰依す ることを諭 した教皇の親書 を奉呈す る。役 目を果 た し終 えた カル ビ二は

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年後の

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年 の秋 には リヨンに戻 る。 その 後 の カル ビ二は、旅先 での体験 や見聞 を報告書 にまとめて任務 を終 える20 一方 、 ルブルクが同様 の任務 を拝命 す るの は

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年 の こ とである。彼 は旅 を立案す るにあ た り、前任者 カルビ二の経験 や見識 を参考 には した ものの、それ らを安易 になぞるようなこと は しなか った。ルブルクはアジア内陸部への旅 に先立 ち、 しば らくコンスタンチ ノープルに逗 留 し、彼の地でアルメニア人の聖職者や商人たちと接触 を図 り、モ ンゴル ・ウルスに関する諸々 の情報 を収集する。その間、折 を見 ては′トアジアやエ ジプ トへ も足 を運び、アラビア語 とモ ン ゴル語 の習得 に励 む。 また彼 は机上 の文献資料 にも注意 を払 い、必要 とされたあ らゆる知識の 獲得 に努めた。 ルブルクが旅立 ちに当た りあ らか じめ身に付 けていた とされる黒海周辺 な らび に中央 アジア一帯 の地理 や文物 に関す る知識 は、彼が 日頃か ら座右 の書 と した聖 イシ ド一 口

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世紀 にセ ビリアの大 司教 を務 めたスペ イ ンの碩学

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の著作 に負 うものであ っ た。かかる周到 な準備 を経 てルブルクは、先 に述べ たガザ リアを経 由 して カラコルム近郊 に陣 を張 る皇帝モ ンケ (在位

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の本陣 を 目指す。 ルブル ク も旅 にあ っては筆舌 に尽 くし がたい困難 と危険 に遭遇す るが、 コ-カサ ス平原 にさしかかるあた りか らはサル タク (バ トウ の息子)が差 し向けた案内人 を立 てて東進 し、い くつ もの ジャムチ (駅伝) を乗 り継 いでモ ン ケの宿営地 に到達す る。モ ンケに親書 を奉呈 し終 えたルブルクは、帰途 に際 し、カル ビ二が辿 っ た北方ルー トを避け、 自らは南 回 りの コース を辿 る.彼 は先ず西進 して コ-カサス平原へ向か い、そこに さ しかかるあた りで南-折れ、一路 アラン族の住 むカフカズ山系の丘陵地帯 を右手 に見 なが らカス ピ海の西岸部 をイラ ン方面 に向か って南下す る。その後は彼の地下都市の存在 で知 られるカ ッパ ドキアな どを経 て ヨー ロッパ に戻 る。ルブルクも帰還後 には、 自らの旅 につ いて記 した報告書 を作成す るが,理不尽 に もそれは久 しく闇 に葬 られて しまう。その原因は、 時の封建貴族 と聖職者 との仲違いにあ った とされている。 その一方で、ルブル クと同時代 を生 きた英 国の フランシス コ修道会士 ロジャー ・ベー コンがルブル クの著作 に造詣 を深めていたこ とは、後 にルブル クの名誉 の回復 に役 立 った。 ルブル クの見聞録 は

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世紀仲 葉 の中央 アジ アに関す る情報 にす こぶ る詳 しく、その内容 は今 もって読者 をひきつけて止 まない魅力に満 ち ている。 この時代 の中央 アジアに言及す る文献資料の中で、ペル シャ語やアラビア語で記 され た文献 を除けば、質 ・量 ともにルブルクの見聞録 を凌駕す る ものは他 に存在 しないのではなか ろ うか3。 ルブル クが旅 に先立 ち、念入 りに収集 したロシア南部 な らびに中央 アジア一帯 の地理及び気 候風土 に関す る情報 は、後 に彼 がその地域 を実際 に踏破 したことによ り、それぞれについての 正否が確 認 されることになる。例 えば、 ドン川 とボルガ川は、各 々が独 自の水系 を有す る川で

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青花皿にあしらわれた ト字紋の氏素性を探る あ り、また中世の西洋人が海だ と見な していたカス ピ海は、実際 には海ではな く湖であるといっ たことなどが、ルブルクによって西洋 に伝 え られる。 さらにルブルクは言語 に も深 い関心 を示 し、多 くの言語学上 の発 見 を成 してい る。13世紀の中葉 に黒海の西辺 ・北辺 な らびにクリミ ア半島一帯 に雑居 した多様 な種族集団の内、 コマ ン族 は トル コ系種族 のキプチ ヤク人 と親縁 関 係 にあ り、同様の関係 はカングル人や トル コ人な らびにウイグル人な どに も認め られ ること、 一方 タタル人 とモ ンゴル人は本来異 なる言語集団に属す るが、バ シキル人の言語 とハ ンガ 7)ア 人のそれは共通の祖語か ら派生 してお り、 ロシア語 ・ポーラン ド語 ・ボヘ ミア語 ・ス ラブ語 な どはパ ンダル語 と親縁 関係 にある とす る言語学上の見識 は、そのいずれ もがルブル クの発 見 に 負 うものである。加 えてルブルクは、当時中央 アジア一帯 で行 われていた種 々の宗教や人々の 風俗 ・習慣 な どといった ものに も鋭い観察眼 をもって臨み、それ らについて実 に事細 か に書 き 記 している.中で も彼が、当時中央 アジア一帯 で広 く行 われていたネス トウリウス派のキ リス ト教 について述べ ている くだ りは、カ トリックの教 えが東方 に伝 わる以前 の彼 の地 におけるキ リス ト教の実態 を詳 らかに伝 える ものであ り、その学術的価値 は比類 な きものに数 え られ よう。 ルブル クによれば、13世紀の中葉 に中央 アジア一帯 で広 く行 われていたキ リス ト教 (主 と し てアルメニア教会及びネス トウリウス教会 を指す)なる ものは、 イエス ・キ リス トの名 を唱え、 胸元で十字 を切 り、定め られた 日に断食 を行 うとい った、極 めて単純化 された教 え と服務規程 に終始す る ものであった。 さらにルブルクは、彼 の地のネス トウリウス教 団の寄異 な伝統 に言 及 して、男子の信徒 には誰彼 とな く司祭 になる地位が保証 されている、 とも述べ てい る。 さら にルブルクの記述 は、俗信 とキ リス ト教が混在一体化 した特殊 な風俗 について も触 れていて興 味 を喚起す る。当時中央 アジアのキルギス人や トル コ系種族の間では、手の甲や額の中央部 に 記の刺青 を施す といったことな どが行 われていた ようである。 またキルギス族 の女性 たちには、 首筋の うな じにIFEの刺青 を入れた者 も散見 された とい う。それは、悪霊や疫病 か ら身を守 るた めの呪いの類であった とされる。 この種 の風習が、古 来ユー ラシア大陸の騎馬遊牧民 に広 く流 布 した記紋 を崇める信仰 (把紋 には悪霊 を払 いのける力が宿 る と信 じられていた) に根 ざ した ものであった ことは間違い なかろ う4。 ちなみ に手 の甲に記紋 を刺青す るな どとい う風習 は、 かつて琉球諸島の宮古 島あた りで も行 われた ものであ り、いずれかか る風習 については、文化 人類学の視点 な ども踏 まえた比較考証が なされることを期待 したい。 (Ⅱ)モ ンテ ・コル ビノ と元朝 13世紀の後半期 を迎 える と、 アヴィニ ョンの教皇庁 は、一人の フランシス コ修道会士 を東 アジアの元朝へ派遣す る。その人物 とは、後 にアラ ンの近衛兵 団 (元朝 に仕 えた色 目系騎馬軍 団の一つ) とも親交 を深めることとなるモ ンテ ・コル ビノ、その人であるoモ ンテ ・コル ビノ は、ハ ン ・バー リク (現北京) に到着後 ただちに布教活動 を開始 し、ほ どな くしてオ ング ト部 の中に多 くの改宗者 を得 る。元朝 における布教活動 に確 かな手 ごたえを得 たモ ンテ ・コル ビノ は、折 を見てその事 を報告書 に したためてアヴィニ ョンへ送付す る。書簡 はガザ リアを経 由 し て、先ず フランシス コ修道会の総監 ヨハ ネス ・デ ・ムーロの元へ 回送 された。モ ンテ ・コル ビ ノの書簡 をアジアか ら携 えて来た人物 は、 トマス ・デ ・トレンテ ィーノ と名乗 るフランシス コ 修道会士であった。後 に トレンテ ィー ノはイン ドで殉教す るが、その亡骸 はザ イ トウ- ン (泉 州)に移送 され、埋 葬 された5。元朝下 で 自分 の身 に起 こった出来事 や カ トリックに帰依 した

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信徒集団 について詳述 したモ ンテ ・コル ビノの書簡 は、西欧の聖職者 たちに驚 きと賛辞 を持 っ て迎 え られた6。か くしてモ ンテ ・コル ビノは、元朝 のおお らかな宗教政策 に も支 え られ、王 朝 のお膝元 にカ トリックとい う宗教 の種 を播 いて半生 を送 る。モールによれば、モ ンテ ・コル ビノは、1246年か1247年のいずれかの年 に産声 を上げた とされ、生誕地はイタリアのアプリ ア近郊 にあるモ ンテ ・コル ビノ

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が有力視 されている。彼 は元室のお膝元で 24年 に及ぶ布教活動 に身を捧 げた後、1328年 にハ ン ・バー リク (トルコ語で王の郡の意)で 永眠す る。享年81歳 または82歳 であ った。 ところでモ ンテ ・コル ビノは、つ とに聖職者の道 のみ を歩 んだ人ではなか った。彼の前半生の履歴 には、兵士や教師な らびに裁判官 といった職 業 に従事 した経歴 も見 えている。教師時代 の彼 は、前 出の神聖 ローマ皇帝 フユデ リッコ二世 の 宮廷 に召 されて御前進講 を行 った ことで も知 られる。学術 界において もモ ンテ ・コル ビノは並 の人ではなかったことの証である。 また元朝へ入朝後の彼 は、彼の地で新約聖書 をモ ンゴル語 に完訳す る とい う偉業 も成 し遂 げている。モ ンテ ・コル ビノは、言葉 を操 る術 において も破格 の能力 に恵 まれていたのである7。 さてモ ンテ ・コル ビノを元朝へ派遣 したのは、教皇 ニ コラス四世 (在位1288-1292)であっ た。ニ コラス四世 は、 カ トリック教会 史上初 めて フランシス コ修道会か ら教皇 に推挙 された聖 職者であるが、彼 は東方世界 と外交関係 を結 ぶにあた り、モ ンテ ・コル ビノの能力 を高 く評価 して任 用 した。1280年頃、時の フランシス コ修道会の総監 イオア ンネ ・デ ・ベ ルシナェ ッ ト は、モ ンテ ・コル ビノを布教僧 として中近東方面へ送 り出す。派遣先 における彼の働 きを詳 ら か にす る手立 てはないが、当時彼 はイランの イル ・カン朝 に拠点 を置いて宣教活動 に従事 して いた もの と推測 される。彼が1289年 にイル ・カン朝のアルグン ・カンの親書 を携 えて ヨーロッ パ に戻 った経緯 などは、その辺の事情 を物語 る。 アヴィニ ョンに戻 ったモ ンテ ・コル ビノは、 腰 を落 ち着 ける間 もな く、同年の7月 には早 々 とリエチ を発 ち、再 び東方のイランへ向か う。 この度のモ ンテ ・コル ビノは、 イル ・カ ン朝-の答礼便 な らびに元朝-の特使 として、教皇ニ コラス四世が ク ビライ ・カー ン、アルグン ・カ ン、 ジャバ ラハ (シ リアの ネ トウリウス教団の 最高位聖職者) な どへ宛 てた親書 を携 えていた。モールが訳 出 した内容 を参照すれば、 クビラ イへ宛 てた親書 は1289年 7月13日に作成 され、 アルグンとジャバ ラハへのそれは同年の 7月 15日に作成 された こ とが分 か る。 かか る一一一連 の動 きに着 目 した江上波夫 は、モ ンテ ・コル ビ ノが携 えて来 たアル グ ン ・カ ンの親書 の内容 に言及 して、それは 「(中略) アルグン .カー ン の意 を体 したサ ウマの勧説 による ものであった (中略)」 と述べ ているバO上の引用 に登場する アルグ ンは、モ ンテ ・コル ビノ と直接 に交 わ りのあ ったアルグン ・カンその人であ り、後者の サ ウマは、 クビライの命 を受 けて元朝 か らイル ・カン朝へ赴いたネス トウリウス教 団の高位聖 職者 にあたる人物 である。後 にサ ウマは、イル ・カ ン朝 を経 て西欧へ も赴 き、時の宗教指導者 や有力 な封建諸侯 を訪ね歩 いて元朝の有様 を説いて回ることとなる。モ ンテ ・コル ビノとサ ウ マが直 々に出会い を果た したか否かは判然 としないが、二人の一連の動 きか ら推察す るに、両 人は仲介者 のアルグン ・カ ンを介 して、個 々の存在 を把握 していた もの と憶測 される。 ところ でアル グン ・カンがモ ンテ ・コル ビノに託 した親書 には、元朝の クビライが ヨーロ ッパの ラテ ン世界 との交流 を大 いに望 んでいるこ とが記 されていた。親書 に盛 られた上述の内容 は、江上 が指摘す るように、アルグ ンがサ ウマの進言 を受 けて作 成 させ た ものであ ったことは間違いな か ろ う。 それは ともあれ、13世紀 の後半期 にイル ・カ ン朝 を経 由 して西欧に伝 え られた元朝

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青花皿にあしらわれた十字紋の氏素性を棟る に関する諸 々の情報 は、一人サ ウマに負 うものばか りではなかった。イル ・カン朝の都 ダプ リー ズには、同王朝が広 くユーラシアや北 アフ リカの諸地域 か ら招集 した知識 人 らが一堂 に会す る 学術研究の殿堂があった。その地で展 開 された学術研 究の営 みは、 ア ッパ ース朝 における 「知 恵の館」 ならびにスペ インのアルフォンソ賢王が深 く関与 した 「翻訳者 の館」 な どにおいて展 開 を見た同様の営み に勝 る とも劣 らない輝 か しい ものである。 「集 史」 <モ ンゴル史 を世界 史 的な彩 を添 えて語 る>と命名 された歴 史書 はイル ・カン朝の ダプ リーズにおいて編纂 された。 またこの歴 史書 を補完する 目的で編 まれた もの には rフランク史』 と命名 された′ト編集 な ども 含 まれているが、かかる著作物が完成 を見 るまでには、複数の西欧出身者 の献 身的 な働 きが必 要であったことは明 らかである。 イル ・カ ン朝ではつ とにカ トリックの僧侶 た ちが活躍 した こ とが知 られてい る。彼 らの中か らは、学僧 として ダプ リーズの学術街 に居 を構 え、 ヨー ロッパ の諸相 を伝 える執筆活動 に携 わ り、彼の地の学術 の振興 に貢献す る者 も現 れた と推 断 され る。 さて西欧 と元朝 は、かかる経緯 を経 て歴 史的な出会い を果 たす ことになるのだが、それに至 るまでの一連の動 きには、 トウルイの子孫 たちが深 く関与 していることを見逃 してはなるまい。 トウルイ家は、モ ンケ、クビライ、フラーグらを輩 出 した家柄 として知 られるが、門閥の祖 トウ ルイは、チ ンギス ・カンの末子 と して生 を受 けた人物 である。 トウル イは、つ とにユ ーラシア 大陸の遊牧民の慣 わ しであった末子相続 の伝統 に則 り、家督 としてチ ンギスが統率 した中核 軍 団の大半 を相続す る。 しか しなが ら皇帝の地位 は実兄のオ ゴデイに譲 る。若か りし頃の トウル イは才気みな ぎる武将であった。金朝計略の際 には、地形 の険 しい中国の南西部か ら金朝軍 に 攻め入 るや、矢継 ぎ早 に相手方の軍勢 を打 ち破 って進軍 し、 オゴデ イの軍事作 戟 を勝利へ と導 く。かかる武勲 に輝 いた トウルイであったが、上述の侵攻作戦が終息 し、 アル タイ山系東方の 本拠地へ戻 る段 に至 り、病 に倒 れて悲運 の最期 を遂げる。 トウルイには、シウル クテこ と呼 ば れたケ レイ ト族(トルコ系)出身の妻がいた。彼女 は、良妻賢母 の鏡 と してモ ンゴル人の間にそ の名 を残す。寡婦 となった シウルクテ二は、オゴデイ家 に輿入れす ることを回避 し、 ひたす ら モ ンケ、 クビライ、 フラーグらの後見役 に専 念す るo嫡男のモ ンケは、長 じてモ ンゴル ・ウル スの四代皇帝 (在位1251-59) に即位 し、次男 クビライ (在位1260-94) は漠土 に元朝 を興 し、中東 の経営 を託 された末弟 の フラーグは、バ グダ ッ ドのア ッパース朝 を駆逐す るな り、北 方のイランにイル ・カン朝 を創建す る。 これ らの名君 を世 に送 り出 した シウル クテ二は、仏教 のみな らず、回教やキ リス ト教 にも造詣 を深 めた才女であった。彼女 は、私財 を投 じて、サマ ルカン ドにマ ドラサ (回教徒 の子弟 を教育す る学校) を建設す ることに も尽力 した9。モ ンケ、 クビライ、そ して フラーグらは、か ように慎 み深 くて知性豊かな母 シウルクテ二の訓育の下で 育 ったのである。やがて クビライ家 とフラー グ家 は、互い を隔てた空間の障壁 を乗 り越 えて相 和 し、13世紀後半期 のユ ー ラシア大 陸 に広 く西 欧社会 を も見据 えた新 た な世界秩序 を構 築 し て見せ る。彼 らを突 き動か した動機 に思い を馳せ る時、その背後 には、おのず と才媛 シウルク テこの影の存在が見 え隠れす る。 ひるが えって再度 イル ・カ ン朝 に向か ったモ ンテ ・コル ビノは、彼 の地で

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年 に及ぶ逗留生 活 を経 た後の1291年 にイ ン ド-向けて旅立つ。 イ ン ドでは、ボ ンベ イを経 由 して東岸のマ イ ラプールを目指 し、その地 に建つ聖 トマス教会 に投宿 して旅の疲れ を癒す。一説 によれば、彼 が乗 り合わせた船がボ ンベイに寄港 した際 には、元朝 か らベ ネチアへ帰 国の途上 にあったマル コ ・ポーロと奇遇の出会いを果 た した とも伝 えられ るが、事 の真偽 は走かではない。 また一年

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余 を過 ごす こととなった聖 トマス教会では、300人に上 る求道者 に洗礼 を授 けた といわれてい る。やがてモ ンテ ・コルビノはイン ドを旅立つが、彼が最終 目的地の元朝 に到着するのは1294 年のことである。下船地 となった港町は、当時蒲一族が一大拠点 とした泉州であった。泉州か らハ ン ・バー リクへ は、陸路で3カ月の旅 を要 した。かかる最中、 クビライは、彼 自身が久 し く待 ち望 んだ この遠来の使者の入洛 を待 たず に世 を去 る。 クビライが他界 したのは1294年の 2月18日の ことであった。結局 ニ コラス四世がモ ンテ ・コル ビノに託 した親書 は、次期皇帝 に即位 したテムル (成宗、在位1294-1307)に奉呈 された。因み にモ ンテ ・コル ビノが南海 路 を経て元朝 に辿 り着 くことがで きた経緯 については、ペルシャ湾岸の北岸一帯 を出自とした ペルシャ系画商 ・蒲一族 らの存在 を無視 しては語れ まい。蒲一族は、末代の頃か ら江南地方 を 拠点 に して南海路の交易 に従事 していたことで知 られるペルシャ系の回商集団であるが、 とり わけ元代 には、この門閥の人々が泉州 を拠点 に して大いに活躍する。 クビライが配下の正規軍 を投入 して南末の平定に乗 り出 した際、蒲一族 は宋朝 に見切 りをつけて元側 に降る。蒲一族の かかる動向に着 目した桑原陳蔵 は、「清書庚が末 を捨 てて元 に帰 した事 は、宋元の運命消長 に かな り大 きな影響 を及ぼ した」10、 と述べ ている。引用 に登場す る蒲寿庚 とは、宋代 に泉州の 財貨 を目当てに襲撃 して来た海売勢力 を撃退 した立役者 として も知 られる人物である。後に宋 室 は、蒲寿庚の手腕 を高 く評価 し、彼 に提琴市舶 (外 国貿易 にかかわる商談や交渉 を取 り扱 う 役所の長官)の役職 を授 ける。モ ンテ ・コル ビノが、イン ド・東南 アジアを迂回する航路 をさ したる支障 もな く通行す ることがで きたのは、イル ・カン朝や元朝の威光 もさることなが ら、 これ らの王朝下で活躍 した蒲一族 に代表 されるペルシャ系 回商 らの陰の支えがあったればこその ことであった。 ところでモ ンテ ・コル ビノを迎 えたハ ン ・バー リク周辺では、にわかに彼 を誹誇中傷する風 評が巷で噴かれるようになる。一頃の彼は、命 をも奪われかねない険悪 な状況に追い込 まれる。 彼 に関する事実無根の噂 を巷 に流 したのはネス トウリウス教団であった。やがてモ ンテ ・コル ビノを苦境 に陥れた嫌疑の数々は、皇帝に仕 える宮仕 えの者 によってその真相が明るみにされ、 彼 を翻弄 した一連の騒動 は落着する。モールが訳出 した資料 には、モ ンテ ・コル ビノの失墜 を 狙 った首謀格の面々 らが家族 もろとも蟹居 を命 じられ、辺境の地へ追放 された経緯が記 されて いる11。因み にモ ンテ ・コル ビノが教皇庁へ送付 した書簡 には、かかる一連の事件 や出来事 も 記 されていた。元朝か ら送付 された書簡 を手 に した教皇 ク レメンテ五世 (在位1305-14)は、 1307年、モ ンテ ・コル ビノをハ ン ・バー リクの大司教 に任命 し、併せ て彼 の要請 に応 じて、 フランシス コ修道会か ら7名の僧侶 を抜擢 して元朝へ差 し向ける。 これ らの僧侶たちの中で実 際に元朝 に入朝 を果た したのは、アン ドレア ・ド・ベルジオ、ジェラル ド・アルブイユ、ペ レ グ リーノ ・ド ・カステーロたちの3名であ った。1312年、 ク レメンテ五世はモ ンテ ・コルビ ノの さらなる要請 に応 え、新たに5名の修道士 たちを元朝へ向かわせるが、彼 らの うちの誰一 人 として元朝 に辿 り着いた者 はいない。新参の僧侶 を迎 えて展開されたモ ンテ ・コルビノの布 教活動は、元朝か らの財政的な援助 (僧侶 たちには元室か ら布教 を支 える援助の一環 として給 金が支払 われた)に加 え、ペテロ ・ド・ルカロンゴ (ダプ リーズか ら元朝 までモ ンテ ・コルビ ノと旅 を共 に した商人)の支援 にも支 えられて発展の一途 を辿 る。ほ どな くしてハ ン ・バー リ クには、ルカロンゴが寄進 した土地 に三つの教会が創建 される。 まもな く彼 らの布教活動は江 南の地 にも及び、元朝期 には世界最大級の貿易港 と謳 われた泉州 (中近東系回商の間では、ア

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青花皿にあしらわれた十字紋の氏素性を棟る ラビア語でオリーブの木 を意味す る<ザイ トウ- ン>なる通称で知 られていた) には、新 たに 二つの教会堂が創建 される。鐘楼つ きの教会堂は、泉州在住のアルメニア婦人の計 らい と喜捨 によって建設が進め られた12。新 たに誕生 した司教 区には、前出の ジェラル ドが初代 の司教 と して赴任する。 ところで泉州の教会 は、当時蒲一族が一大拠点 とした蕃坊 の一角 にあった。蕃 坊 とは、漢土 における外国人居留地 を指す呼称 であるが、宋 ・元期の この地区では、住民主体 の自治権 に加 え、外国人の特権 に配慮 した治外法権 も認め られていた。 またこの居留区内には、 蕃学 と称 された学問所 (中国の学問に加 え、ペルシャ語やアラビア語 などの語学 も伝授 された) が開設 され、宋代 には、この蕃学 を巣立 った外国人の子弟の中か ら科挙の試験 に合格す る者 も 現れる。蒲寿庚 などは、まさしくかかる人材の一人であった と見 なされる。モ ンテ ・コル ビノ が到着 した頃の元朝では、蒲轟庚 に代表 されるペルシャ系 イスラム教徒 たちの交易 に関する知 識や技術が大いに歓迎 され、重用 された。その結果、元朝下では自由貿易が益 々盛況 を博 し、 王朝の財政 を大いに潤す こととなる。当時中近東地域 と中国を結ぶ交易路の経営 は、ペ ルシャ 湾岸 を出自とした蒲一族 らの得意 とす る分野であった。かのパスコ ・ダ ・ガマの航海で さえ、 その内実は、イスラム教徒の航海技術 に頼 らな くてはならなかった一面 を覗かせる。 ダ .ガマ の船には、一行が東アフリカで雇い入れたイブン ・マージ ド (イ ンド洋の航海に熟達 したオマー ン出身のイスラム教徒) なる航海士が同乗 していた13。 ダ ・ガマ一行が、東 アフリカか らイス ラムの航海術 (北極星の高度 を測定 して陸地 との距離 を把握する技術) に導かれてイン ドに到 達するのは1498年の ことである。 因み に、モ ンテ ・コル ビノは、 この ダ ・ガマの イン ド到着 より204年 も先駆 けて漠土に降 り立 っていることを忘れてはなるまい。 (Ⅲ)ア ラン騎馬兵 団 とモ ンテ ・コル ビノ 元朝 に仕 えて中華本土で活躍 したアラン騎馬兵団の事蹟 に立 ち入る前 に、あ らか じめこの民 族の出自と文化の性格 について少 しく述べてお くことにす る。そ もそ もアラン族は、元来 コ-カサスの大平原で遊牧生活 を生業 としたイラン系の遊牧民であった。 この民族 を総称するアラ ンなる呼称 は、本来アー リア人 を意味する言葉 に由来す るといわれ、 4世紀の後半期 に東方か ら進入 して きたフン族 に株欄 される以前の彼 らは、 自らをアイリヤと呼び、自らの遊牧版図 を アイリヤーナ と呼び習わ していた と伝 えられる.アラン族 は、先達者のスキタイ人やサルマ タ イ人 らの騎馬遊牧文化 を継承 した民族集団であった。 コ-カサス平原 を遊牧版図 とした頃のア ラン族は、天蓋 を施 した牛車 に家財道具のすべてを積み込み、それに寝泊 りしなが ら、午や羊 を追って生活 を営 む典型的な遊牧の民であった。彼 らは飼育 した家畜の ミルクや肉を常食 とし たが、必要 に応 じて猟犬 を解 き放 って猪狩 りを行い、その肉は食用 に、骨は道具や装身具に、 脂 は灯明の燃料 などに用いた。バ クラクによれば、英国に古 くか ら伝 わる狐狩 り (近年 この歴 史ある狩猟方は、動物愛護の精神 に反する とい う理由か ら、法的に廃止 される) などは、歴史 を遡れば、かつてローマ軍団に傭兵 として仕 えたアラン族が ヨーロッパ に導入 した猪狩 りの手 法 に由来する ものであるといわれる14。 アラン族の集団内では、ユーラシア大陸の主たる遊牧 民の例 に漏れず、一夫多妻制が行 われた。部族の長 を選出するにあたっては、世襲制 によらず、 集団の中か ら統率力の資質に恵 まれた人物が選ばれた。彼 らは奴隷制度 を認めず、彼 らに臣従 を誓 った民は、養子縁組の儀式 を経て迎 え入れ られ、分け隔てのない扱いを受けた。宗教 は独 特の祖先崇拝に拠 り、戦場で勇敢 に戦 って潔い死 を遂げた同胞の霊魂 を奉 り、それを崇拝 した。

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一方でアラ ン族 は、戦 いの神 を奉 ることも行 った。刀剣 はそれの象徴 と見 なされ、宿営地 には 刀 を地面 に突 き立 てて畏敬 の対象 とした。 アラン族 にとっては、馬の存在 も格別 な ものであっ た。男 たちは、幼少の頃か ら馬の背で過 ごす ことを常 とし、乗馬 によらず して地面 を歩 き回る 人々を蔑みかつ忌 み嫌 った。 かかる文化 の特色 に彩 られたアラン族が、モ ンゴル ・ウルス と直接 に対峠す ることになるの は1230年代 の末期 の ことである。モ ンゴル ・ウルスの二代皇帝 に即位 したオゴデイは、父チ ンギスの遺志 を継 ぎ、版図拡大の一環 として、カフカズ山系北辺地域の制圧 に乗 り出す。バ トウ が配下の精鋭部隊 を率いて ヨーロ ッパ に侵攻 したのは、モ ンゴル ・ウルスの この版 図拡大路線 に呼応 した ものであった。 カフカズ山系北辺部の丘陵地帯で展開 された軍事作戦 には、モ ンケ、 グユ ク、ポ リ、 カダー ンらの軍勢が投 入 された。1239年、モ ンケ配下の軍勢が、 カフカズ山 系 の山懐 に陣 を構 えるアラン族 と一戦 を交 える。 アラン族 は、 カス ピ海 に流れ込むテ レク川の 河畔 に自らが構築 したマ ガス城 に陣 を敷いてモ ンゴル軍 を迎 え撃つ。 アラン族の勇猛果敢 な抵 抗 は

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カ月半 に及ぶが、仕舞 い には軍勢 に勝 るモ ンケに軍配が上が る15。攻防戦の最 中にアラ ン兵士が見せ た猛 々 しい戟いぶ りは、モ ンゴル軍の指揮官 に強烈 な印象 を与 えた ようである。 モ ンケはカフカズ を去 るにあた り、 アラ ン王ハ ン ・フ一 ・ス- (杭忽恩) に対 して、臣下の中 か ら 1千名 を選 び出 してモ ンゴル軍 に供 出す ることを命 じる。王 はこの要求 を呑み、モ ンケに 1千名のアラン兵士 を差 し出す。モ ンゴル軍 に仕 えた初期のアラン騎馬千人隊は、かかる経緯 を経 て創設 された ものであった。部隊の指揮 はア一 ・タ一 ・チ- (阿答赤、ハ ン ・フ一 ・ス-の長子) に託 された。モ ンケのモ ンゴル本土への帰還 に際 し、 ア一 ・タ- .チ-配下の千人隊 もモ ンゴル軍 に従軍 して東方-移動す る。黄鐘識が亡 き師の志 を継 いで編纂 した F元 史氏族表 二』 には、モ ンゴル ・ウルスの本拠地 に到着 したアラン王ハ ン ・フ一 ・ス-が、モ ンゴル王室 か ら金符 を授 か った経緯が記 されてい る16。叉同著 は、上述 の内容 に言及 した条おいて、東方 -移動 したアラ ン部隊の総勢 に関 して 「千戸」 なる漢字表記 を用 いて記 している。 この記述内 容 は、 アラン部隊の東方へ の移動が兵士 だけに限 られた ものではなかったことを裏付 ける もの と して注 目され る。そ もそ もモ ンゴル軍 団の千人隊 に抜擢 されたアランの武人たちは、東方へ の移動 に際 し、各人が各 々の家族 を同伴 し、必需品の一切 を幌つ きの牛車 に積 み込み、命綱の 家畜 を引 き連れて新天地へ と向か ったのである。その数は単純 に見積 もって も数千 人に上 り、 よって彼 らの集 団移動 は、 さなが ら小規模 の民族移動 の様相 を呈す る ものであった と考 えられ る。モ ンゴル ・ウルスの本陣へ到達 した後の アラン部隊は、やがてモ ンゴル軍の左翼陣営 (モ ンゴルの伝統 では北 を背 に して右 を右翼、左 を左翼 とす る) に組 み込 まれ、漢地の北東部 (規 山東省) あた りに配置換 え となる17。後 に彼 らは、 クビライに仕 えた31の色 目系兵団の中で も 映 え抜 きの軍閥 として、元朝 と命運 を共 にす ることになる。因みにモールの記述 を参照すれば、 元朝末期 におけるアラン人の総 人口は、非戦 闘員の婦女子 を含 めて、 3万人余 に達 していたこ とが分 かる18。 ひるが えってモ ンゴル軍 と一戦 を交 えた頃のアラン人は、ギ リシャの東方正教 会の流れを汲 むキ リス ト教 に帰依 していた。 アラ ン族 は、 ローマ帝国の コンス タンチヌス帝が、 コル ドバ出 身の司教 オシオの説教 に導 かれてキ リス ト教 に帰依 す る (西暦323年)以前か ら、ギ リシャ世 界 とは深 い杵 で結 ばれていた。古代 のギ リシャ世 界 とコ-カサス一帯の イラン系遊牧民 との結 びつ きは、紀元前期のスキ タイの時代 (前7世紀 -前3世紀) にまで遡 る もの とされ、両者の

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青花皿にあしらわれた十字紋の氏素性を探る かかる結 びつ きは、中央 アジアの諸民族 にギ リシャ神話が断片的に伝播す る契機 ともなった。 ビサ ンナ ン時代が到来すると,ギ リシャ世界ではアラン人 (モ シュコ-ワによれば、アラン人 が騎馬戦士集団 として出現す るのは紀元1世紀 の後半期 以後の ことである19)が軍事部門 にお いて頭角を現す。 6世紀の初頭 にビサ ンテ ン軍 を統率 したアスバル将軍はアラン人であった20。 アスバルが東 ローマ世界にあ って ビサ ンチ ン軍 を率いた間にあっては、5世紀の後半期か ら約 1世紀 に渡 り北 アフリカに存続 したヴァンダル ・アラン王国 も安泰であった。話は本筋 に戻 り、 ルブルクが中央 ア ジアを踏破 した13世紀 の中葉 にあ って も、 カフカズ山系 な らびにその周辺 部に住むアラン族は、依然 としてギ リシャの精神文化の懐 にあった。その頃の彼 らが、ギ リシャ 人の聖職者 を迎 え入れ、ギ リシャ文字 を用いて自らの言語 を記 していた事実はその ことを物語 る21。一方でアラン族 は、先達のスキ タイ族やサルマ タイ族が得意 とした騎馬遊牧文化の物づ くりの技 を継承 した民 として も知 られていた。 とりわけ彼 らの金属加工技術 は、他 に追随 を許 さない高度なものであった。アラン人に引 き継がれた騎馬民族 に特有の物づ くりの技 は、彼 ら の尚武の気質 ともあいまって、とりわけ軍装品の生産にその威力 を発揮 した。かかるアラン文 化の特色 は、時のモ ンゴル ・ウルスが最 も必要 としかつその育成 を図 らねばならない もので も あった。既述 において、カフカズを後 に したアラン族が、最終的には漠土の山東省の周辺 に配 置換 えになった経緯 を述べておいたが、それは当時の山東省一帯が鉄鉱石の産出地であったこ ととも無縁 ではなかった。軍装品に関 して若干付言するならば、元来鎖帽子の製作 とその着用 はサルマ タイ人やアラン人に始 まるとされている。バ クラクによれば、 ローマ帝国軍団に新 た に創設 された騎兵隊及びそれに伴 って導入 された刀身の細 いサーベルや鎖帽子 といった軍装備 の類は、東方出自のサルマ タイやアランの軽騎兵装備 に習 った ものであった とい う22.時代 は 遡 るが、かつてローマ帝国で一世 を風離 したカエサル将軍 (前100-前44頃) は、ポ リステネ ス ・アランと名づけた愛馬 に跨 ってローマ軍 を率 いた とされる。主人を乗せて一 日に160キロ メー トルもの疾走 に耐 え、 しか もそれを7日か ら8日間に渡って持続することが可能であった とされるアランの名馬は、紀元前期の ヨーロ ッパ において も知 られた存在であった23。 中国で は後漠の時代 に

漢軍が名馬 を求めて西域へ攻め込んだことがあったoそれは汗血馬の名で知 られたフェルガーナの騨馬 を獲得するのが主たる目的であったといわれている。興味深い こと に、鎖惟子が西域か ら中国へ伝播 したの もこの時代 に遡 るものの ようである24。加 えてこの漢 王朝の軍事行動は、名馬の獲得 (連れ戻 った馬 は少数 に留 まった)のみならず、首宿 (うまご や し)が中華本土に移植 される契機 ともなった25。話 は戻 り、刀身が細 くて反 りの浅い太刀や 鎖椎子の製作技術 に代表 されるアラン人の優 れた金属加工技術 は、13世紀 にあって も健在で あった。ルブルクの報告 にもそれを証左する くだ りがある。ルブルクはモ ンゴル本土か らの帰 途に際 し、カス ピ海の西岸部 を南進 して ヨーロッパに戻 るが、彼 はそのあた りで鎖椎子 を纏 っ たモ ンゴル兵の一団 と遭遇する。その際ルブルクは、騎乗のモ ンゴル兵か らアラン人 らが もの 作 りの技 に長けていることやモ ンゴル兵が身に纏 っている鎖惟子 はアラン人の手 に成 るもので あるといった事実 を告げ られる26。 ウランバー トルの国立歴 史博物館 の収蔵品 を紹介 した刊行 物 には、大モ ンゴル時代 の もの とされる鎖帽子が掲載 されている27。かかる収蔵品は、かつて モンゴル ・ウルスに軍装品を供給 したアラン人の工房で製作 された ものであろうと推察 される。 さて凍土 に配属 されたアランの武 人集団は、クビライの登場 によって一躍活躍の場 を得 る。 元朝 を興 して漠土東北部の主 となったクビライは、版図の拡大 を目指 して物資の豊かな江南地

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方の併合 に乗 り出す。いわゆる南宋計略である。南乗への侵攻作戦が終盤 に差 し掛かる頃に元 軍の総指揮官に任ぜ られたバヤ ン (伯顔)は、キプチ ヤクやアランに代表 される西域出自の騎 馬軍団を前線 に配置 して南未 に攻め入 る。先 にオゴデイが敢行 した征西の際には

漢人系の兵 士 たちが前線 に配置 されて先鋒隊 を担 った。かかる戟術 には、異種族出身兵士 らによる前線か らの離脱 を阻止する狙 いがあった。南宋攻めに際 しては、前例 とは逆 に、西城出自の騎馬民族 が先鋒隊 を担 い、前線 に赴いた。 ところで元朝の正規軍 を率いたバヤ ンは、13世紀 にあって す こぶる国際感覚 に秀でた逸材 であった。バヤ ンは、血筋の上ではモ ンゴル人であったが、彼 の感性 は深 くイラン文化の只中で育 まれた ものであった。バヤ ンの父 ジヤグー タイ (代 々祈祷 師を輩出 したバー リン部の出身)は、フラーグの征西軍 に従軍 してイランへ向か う。バヤ ンも その父 を追 って西方へ渡 り、 フラーグが創建 したイル ・カン朝 で成長す る。バヤ ンは、1260 年代 の半ばにフラーグの使 臣 として元朝 を訪れるが、その際 クビライの強い要望 を受けて漢土 に踏み とどまる決心 をす る。 またバヤ ンの来朝 は、複数のラテ ン人を元朝 に招 き入れる契機 と もなった。縁 あってバヤ ンとの知遇 を得たラテ ン人 とは、ニコロとマテオを名乗 るベネチアの 商人たちであった。後 にニコロは、息子のマルコ ・ポーロを伴 って再度元朝入 りを果たすこと となる。先行研究 によれば、ニコロとマテオは、サマルカン ドに近いブカラとい う町でバヤン と偶然 に出会 ったのだ とい う28。 イランの文物 を始めペルシャ語 (宋 ・元期 の東 アジアにおけ る通商語) にも精通 していたバヤ ンは、元朝 に仕 えた色 目系軍団を登用するにあた り類 を見な い采配振 りを発揮す る

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F元史氏族表二J には、元朝 に仕 えて栄達の道 を歩んだアラン人士の 面 々らが,それぞれの家系図に基づいて紹介 されている。その中で元室 に仕 えて江南地方に活 躍の場 を得 るのがエ リア ・パー トウ- .エル (也烈抜都見) とその子孫 たちである29。一族の 祖エ リアは、虎退治の豪胆談で も知 られる人物である。伝承 によれば、エ リアは、襲いかかる 虎 をやにわにひね り倒 し、その舌 を鷲づかみにするや、短刀で応戦 して猛獣 を仕留めたとされ る30。真相は ともあれ、 この武勇談 にはアラン族が誇 りとした尚武の精神が活写 されていて面 白い。 ところで この武人を呼ぶパー トウ一 ・エル (前出のバ トウとパー トウーは同根の名前) なるモ ンゴル風の名前 には、ある種 の意味合いが込め られているようである。その意味 をモ ン ゴル語 に求めれば、パー トウ-は 「頑強な」 を意味す る形容詞 に相当 し、エルは 「男」 を意味 する名詞 にあたることが判明す る。ならば、パー トウ- .エル とは 「強靭 な男」 を意味する尊 称 の類であった と判断 されるが、 またそれは、取 りも直 さず上 に紹介 したエ リアの武人像 をも のの見事 に表出する もので もある。平時 に実施 された元朝軍の軍事訓練では、時に兵士たちが 解 き放たれた虎 を相手に腕試 しの戦いを繰 り広 げることがあった。武人エ リアの荒武者ぶ りを 伝 える逸話 は、かかる軍事訓練 との関わ りも指摘 されて面白い。 ところで武人エ リアは、揚州 近郊での攻防戦の最 中に戦死 した と伝 えられる310 また常州攻めに際 しては、アランの先鋒隊 の兵士 たちが酒 を振舞 う南宋側の策略 にはま り、不意討 ちを食 らって全滅するとい う事態が発 生す る32.それに激昂 した元朝軍は、常州の町に一斉攻撃 を仕掛 け、町中の住民 を一人残 らず 惨殺 して しまうとい う手荒なことをやってのける。一族の祖エ リアが他界 した後 も二代 目のイ エ ・ス一 ・タイ ・エル (也達夕見、長男) とユー ・ワ一 ・シー (玉唾失、次男) らは、父親の 遺志 を継いで元朝軍の先鋒隊に踏み とどま り、南宋の平定のみならず雲南-の侵攻作戟 にも従 軍す る。 かかるアラン兵団の軍功 を称 え、南末の都が陥落す る前年の1272年 には、クビライ の命により新 たに左右両翼か らなるアラン近衛部隊が創設 され、江南 と華北 にそれぞれ配置 さ

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青花皿にあしらわれた十字紋の氏素性を探る れる33。 アラン人士 を中核 に据 えたこの近衛部隊は元朝が崩壊す る寸前 まで存続 し、元朝 と運 命 を共 にする。南末が平定 された後 もエ リア家 とその配下の軍団は治安維持部隊 として江南地 方に踏み留まり、元朝の国策に大 きく寄与する。元朝の枢密院は、エ リア家三代 目のイー ・チ一 ・ リー ・タイ (亦乞里夕) ならびに四代 目のパ イ ・チュ- (拝住) らを継続 して任用 し、他の色 目系兵団 と共 に、元朝 にとって不可欠な食料供給基地であった新江方面の治安維持 にあた らせ る。 この辺の事情 に着 目した江上波夫 は、オ ドリコ ・ダ ・ポルデノーネの報告 に基づ き、1320 年代の揚州や杭州 に有力 なキ リス ト教徒勢力が存在 したことを伝 えている34。上 に述べた状況 証拠 を踏 まえれば、江蘇 パ折江の両地方 に存在 した とされるこれ らのキ リス ト教徒勢力 なる も のが、先祖伝来のギ リシャ正教 を奉 っていたカフカズ出自のエ リア家 とその配下のアラン近衛 兵団であったことは明白である。 さて、モ ンテ ・コル ビノが1328年 に永眠 した後 のハ ン ・バー リク周辺では、元室 に仕 えて アランの近衛師団を統率する地位 にあったアラン人の有力者 らが、時の元室 に対 して、モ ンテ ・ コルビノの後任 を求める要請活動 を展開する。彼 らはアヴィニ ョンの教皇庁 に宛 てて懇請書 を 作成する。モールは問題の懇請書の内容 に言及 して、それには1336年の 7月11日の 日付が記 載 され、署名欄 には7-ティム ・ジュエ ンス、カテイセ ン ・トウンギ、ゲ ンボガ ・エ ヴェンジ、 ジョハネス ・ジュコイ と名乗 る人物 らが名 を連ねている、 と述べている35。モールの研究 にお いて、これ らのアラン人士 は、 7-テ ィムが福走 (アラン王家五代頭首 :知棺密院事すなわち 元朝軍統合参謀の一人)に、カテ イセ ンが香山 (フ一 ・ティ ・ライ ・ツー家四代頭首 :七代皇 帝武宗ならびに八代皇帝仁宗 に仕 え、衛都指揮使 としてアラン左翼近衛部隊 を統率) に、ゲ ン ボガが者燕不花 (ニエ ・クラ家四代頭首 :武官の人事 や軍隊の訓練 な らびに兵馬 ・軍装備 ・兵 器 に関する諸事 を司る兵部尚書や財務 を扱 う大司農丞 などの役職 を兼務)にそれぞれ比定 され ている36.アラン人士 らの要請に応 えて十四代皇帝 トゴン ・テムル (順帝、在位1333-70)は、 1336年 にフランシスコ修道会の僧侶 アン ドレアを団長 とす る総勢15名か らなる使節団をアヴィ ニ ョンの教皇庁へ派遣す るO修好使一行 には、前出の者燕不花 らの姿 もあった。1338年 、使 節 団はアヴィニ ョンに到着 し、教皇ベ ネデ ィク ト十二世 (在位1334-42)に謁見す る。謁 見 の儀 に同席 した者燕不花以下のアラン人士 は、モ ンテ ・コルビノの後継者 を懇願する旨の要請 を行 う。ベ ネデ ィク ト十二世 は、早速32名か らなる答礼健 を遣 わす ことを決定 し、元朝 か ら の要請 に応 えた。使節団の団長 には、マ リニ ヨー リとフアン ・デ ・フロレンシア とい う二人の 僧侶があたる。一行 は1338年 に元朝 か らの使節 団に同行 してアヴィニ ョンを発 ち、1342年 に はハ ン ・バー リクに到着す る。宮廷での謁見の儀 は同年の8月19日に執 り行 われ、答礼健 は ヨーロッパか らの献上品に西域産の名馬 を添 えて順帝 に奉呈する。一行 は、ハ ン ・バー リクで 3年余 を過 ごした後、帰還の遠につ く。帰途 に際 しては、元室の助言 を受け入れ、東南 アジア を迂回 して中近東方面へ向か う南海路 を選択する。一行が乗船 した泉州では、出発 に先立 ち、 当地のカ トリック教会の鐘楼 に吊るされていた大小二つの鐘 にそれぞれ名前 (前者 にはアン ト ニーナ、後者 にはジ ョアニーナ と命名) を授 けて中華の地 を後 に した37。 尚、元室は答礼使 た ちの帰還 に際 し、国庫か ら旅の路銀 として相応の金品 を一行 に提供 した。元室の懐の深 さと気 風 の よさが印象に残 る。 因み に、泉州港 を船出 した答礼便一行 は、1353年 にはアヴ ィニ ョン に帰着 している。

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(Ⅳ)西域 出 自の色 目系駐屯部 隊 と反元勢 カ モ ンテ ・コルビノの後任人事 をめ ぐって展開 された既述の外交交渉が展開を見 る中、元朝の 食料供給基地 として重要 な役割 を担 っていた斬江周辺では、後 に元朝の屋台骨 を崩壊へ と導 く 反元勢力の台頭 を見 る。元朝政府 は、みずか らの権益 を保護 し擁護する方策 として、江蘇

漸 江の両一帯 に西域の諸地域か ら召集 した最強の騎馬軍団を配置する.その規模 について、中国 の歴代官制制度 を研 究 した和 田清 は

、「

(

中略) これを見 るとき三十七翼の中三十一翼迄が揚子 江沿岸 に配置せ られたのであ り、殊 に江唯のデルタ地帯 には二十翼の寓戸府が集中せ られ、ま た北支那の大都 より、杭州、平江 (蘇州)、慶元 (寧波) を結ぶ元朝の経済的大動脈の線 に沿っ て兵力の多い上寓戸府が配置せ られてゐたことを知 りうるであろう。即ち江准地帯 とこの経済 的大動脈が元朝 では軍事的 に重要視 され特 に強大 な軍備が な されてゐたのである」38、 と述べ ている.元末に江南沿岸一帯の海充の民 を束ねた万国珍、江蘇の塩徒の衆 を率いた張士誠、紅 巾の勢力 を巧みに操 った朱元堵 (明朝 を興 して洪武帝 を名乗 る) らは、これ らの色 目系駐屯部 隊を相手に武力闘争 を展開 した。上述の漢人系領袖たちの中で、エ リア家の四代頭首パイ ・チュ-と直接 に刃 を交 えたのが万国珍及 び張士誠配下の勢力であった。 なお万国珍 は、14世紀の前 半期 に配下の勢力 を率いて漸江東端地域の台州、慶元、温州一帯 を支配下 に置 き、そこに元朝 とは一線 を画す独 自の政権 を樹立 したことで も知 られる。万国珍 とその勢力について研究 した 寺地道 は自著 の論文 に、 この勢力 と対峠 した26名 に及ぶ元側 の武将や守臣 らについて、実名 を掲 げて紹介 している39. これ らの人名中、華 人系の名前である と見なされる ものはわずかに

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つで、それ以外 はすべて異民族の名前がず らりと並ぶ。前者の華人系 と判断 される人物 らは 恐 らく華北人であったろう。元朝治下の中国では、華北 人は江南人 とは別格 に扱 われ、前者 に は元朝 に官僚 として仕 える道 も開かれていた。一方、漢人 といえども江南人に対 しては、官僚 に仕官する道は閉 ざされていた。モ ンゴル人の江南 人に対するこの ような徹底 した被差別的態 度は、元末の江南地方に排外主義 を唱 える勢力の台頭 を生み、やがてはそれが元朝の屋台骨 を 根底か ら揺 さぶ ることとなる。15世紀 の中葉 に編 まれた r締田詩話J なる詩撰集 には、元末 期の色 日系 人の動向 を詠 んだ-篇の詩が採録 されている400脚注 に紹介 したその内容 を見れば、 新江東端部 を支配下 に収めた方国珍の勢力がいかに色 日系人 を忌み嫌 っていたかが分かる。 と ころで先 に言及 した寺地の人名 リス トの しんが りには、「辞任等」 と名乗 る元側の守将が登場 す る。 この人物の存在は、本 旨との関わ りおいて、重要 な意味 を持つ。万国珍が傘下の勢力 を 率いて元側の色 目系軍団を相手 に臨戦態勢 にあった頃、エ リア家の四代頭首拝住は配下の阿速 (アラン)衛千人隊 を率いて漸江地方の治安維持 に奔走 していた。考察 に付 した諸事 に基づけば、 寺地の人名 リス トに記 されたこの 「拝住寄」 なる守将 と方国珍や張士誠 らを相手 にアランの近 衛兵団 を率いて奮戦 したエ リア家四代頭首の 「拝住」 は同一人物であったと見なされる。そ も そ も 「拝住」 なる呼称 は明 らかにモ ンゴル系の人名 なのであるが、面白いことに、この人名の 後尾 に現れる寄 なる語 は、中国語で義兄弟の義 に用いる言葉である41。中国語 におけるこの言 葉の用例 を踏 まえれば、当時辞任は、部下の兵士たちから尊崇 と敬愛の意を込めて 「パイ ・チュー 見様」 と呼 び慕われていた もの と解釈 される。 ところで先 に触れた和 田の論文 を参照すれば、 斬江地方 を含む長江のデルタ地帯 に配置 された色 目系軍団の兵力 については、単純 に見積 もっ て も14万人に上 る規模 を誇 る ものであ ったことが判明す る。往時 に拝住が率 いたアラン部隊 もかかる駐屯部隊の一翼 を担 っていたわけである。

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青花皿にあしらわれた十字紋の氏素性を探る さてかかる兵力 を誇 った守備隊 も、14世紀の前半期 に至 っては、反元諸勢力 と対峠 して敗 退 に追い込 まれる。杭州近郊 を守備範囲 としたアランの守備隊 も同様の運命 を辿 ったわけであ るが、残念なが らこの軍団のその後の顛末 を詳細 に伝 える文献資料の存在 は知 られていない。 桑原隙蔵の研究には、元朝崩壊後の華北及び華南 において虐殺 されたアラン人のことが見えて いる42。 しか しなが らそれ とて も、その内容 はほんの一行 にも満たない断片的な ものに過 ぎな い。文献資料 をめ ぐるこの ような状況 にあって、先 に r蹄田詩話」 を引いて紹介 した逃避劇の あ らましは、守備隊壊滅後の色 日系人の動向の一端 を今 に伝 えるもの としてす こぶ る注 目され る。それには、方氏勢力の台頭 に伴い、断江地方か ら東方の海原の彼方-逃避 した然 る色 日系 人のことが詠 まれている4㌔ この逃避劇が伝 える内容 は、今帰仁城跡で発掘 された元朝期 の出 土物 との関わ りにおいて、意味深長 な内容 を学 んでいるO-体14世紀 中葉 か ら15世紀初頭 に かけて今帰仁城 を拠点に周辺域 を支配 した武装勢力は、不思議 なことに十字の形状 に格別の思 いを寄せ る人々であったことが種 々の出土史料か ら読み取れる。 この勢力 と十字図柄 との関係 は、冒頭 に紹介 した十字紋の他 に、異色の凸型ス タンプ状マ ンジ紋 (卍紋がユーラシア大陸の 騎馬遊牧民 に崇拝 されたことについては先 に言及 した)、約枚椀 に施 された十字紋 (因み に陶 器 に約枚 をあ しらう芸術的趣 向はイランに始 ま り、その歴 史は紀元前 の 4千年紀 に遡 る44)、 後期今帰仁勢力の領袖 ・撃安知の所有物であった と伝 えられる刀剣千代金丸 (後世の命名)の 鐸 に透か し彫 りにされた四葉のクローバーを模 した十字紋 (その傍 らにはクローバーの花紋及 び猪 目紋が確認 される)、r中山世譜』が伝 える琴安知最後の行状45な どといった ものに及ぶ。 またこの勢力 との関わ りを示す発掘遺物 には、食糧残淳 としての麦の炭化粒 、左 回転式の携行 用石臼 (小型であることか ら騎馬遊牧文化 との繋が りが指摘 される)、騎馬民族の軍装備 との 関係が指摘 されるへ ら型の扇平鉄46、流線形骨製ヤジ リ (ヤ ジリの素材 を動物の骨 に求める伝 統は遊牧文化 に特有の もの47)、片端 に小 さな穴が穿 たれた短冊状 の携帯用石製 ヤス リ (内モ ンゴル地方か らも類似の ものが出土 している。モ ンゴル軍団の騎馬武者が常時携行 しなければ な らなかった装備品の一つ4A)、鉄製の小刀類 (つ とに西域 出 自の騎馬戟士 は名 うての短刀使 いであったことで知 られる。虎 と格 闘 したパー トウ ・エルの豪胆談 を参照)、虎 の牙 (細工 を 試みた と見 られる鋭利 な切込み痕 を残す)、武人たちがナル ドの遊 びに興 じていたことを窺 わ せるサイコロと小 円形の石駒 (イラン起源のこの陣取 り遊 びは中国に伝播 して双六 と命名 され るo考案者 はササ- ン朝のホスロー一世 <在位531-579>に侍 医 として仕 えたブズル グ ミフ ルである とす る説が有力49)、長方形の薄い鉄板 (無数 に しか も整然 と小 さな穴が くり貫 かれ ている。その正体は甲胃に縫い付 けた防護板であった と見なされる。「文永の役」 の際、博 多 近郊で戦死 したモ ンゴル兵の防護服 に も類似 の鉄板が縫 い付 け られていた50)、青磁椀 や青花 椀 に記 されたパスパ文字 (クビライの命 を受けて、チベ ッ ト仏教の高僧パスパが考案 した文字 体系。モ ンテ ・コル ビノがモ ンゴル語 に翻訳 した新訳聖書 はこの文字で記 されていた可能性が 高い51)、精巧 な出来栄 えを誇 る現代風 のハサ ミ (類似 のハサ ミはウランバ ー トルの国立歴 史 博物館の収蔵品にも見 られる)、などといった ものがある。 これ らの品々は、そのいずれ もが 元朝期の文化的状況や西域 出自の騎馬文化 との繋が りを色濃 く反映する。因みに騎馬文化 とい えば、今帰仁城跡か ら出土 した青花椀 には、その胴面 にキルギス族の騎馬武者の像 をあ しらっ た ものや52、アラン族の守護神像 (四足獣の背 に二股 に分かれた羽 らしき突起物 を持つのが特 敬) を撃髭 とさせ る飛走馬 をあ しらった ものなどもある5㌔ かかる出土物の存在 は、14世紀前

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半期 の終 わ り頃か ら15世紀 の初頭 にかけて今帰仁城 を根城 とした武装勢力が、元末に万国珍 や張士誠 らの勢力 によって漸江地方か ら排除 された色 目系騎馬軍団を出自に持つ人々であった ことを立証する ものになると判断 される。 このたびの論考 を通 して、問題の青花皿に配 された 十字紋 には、ギ リシャ文化 と騎馬文化の融合 を示す意匠が施 されていることを見た。一体元朝 期の江南地方 にあって、ギ リシャ正教 を奉 り、騎馬軍団を編成 して元朝 に仕 えたキリス ト教徒 勢力 といえば、アラン (阿速)衛都兵団を除いては他 に類 を見ない。かかる状況証拠や本稿の 第三項 において詳 しく考察 したアラン騎馬千人隊の来歴 をめ ぐる諸事 を鑑みるとき、問題の青 花皿 に措かれた十字図柄の正体 は、元室 に仕 えて江南地方で武勇 を馳せたキ リス ト教徒勢力、 すなわちエ リア家及びその配下のアラン騎馬衛都兵団にゆか りの十字架紋 に相違ないもの と解 釈 される。

おわりに

元朝 を打倒 して漢民族の王朝 を樹立 した宋元埠は、新たな国造 りを進めるにあた り、漢土か ら外 国人勢力 を極力排除することに腐心 した。因って明朝初期 の江南地方では、とりわけ前出 のイラン系 出自の蒲一族 らがその煽 りを諸 に被 ることとなったO明朝初期の官警はこの一族の 動向に呪み を利かせ、彼 らの中か ら官職への仕官 を志す者がおればそれを拒み、 また仕官 に際 してこの一族 との関係が疑 われた者 に対 しては、その者の血筋 を三代 に遡 って詮索するほどで あった。明朝のかかる撲夷思想 に基づ く対外 ・対内政策 (明代 に琉球王朝の盛衰 を左右 した海 禁政策 もその一つであった) は、結果 としてこの王朝のキリス ト教 に対する姿勢にも反映 され る。漢人 を主 とした王朝の確立 とその久 しき安寧 を希求 した明朝 は、先行のモ ンゴル王朝 とは 対照的 に、西洋伝来のキ リス ト教 を漠土 か ら退 ける姿勢 を終始貫 く。 ところが16世紀の中葉 以降、異教徒 に対す る布教の志 を御旗 に掲げたイユズス修道会が、 よりによってかかる明朝体 制下の漠土 に数多 くの布教僧 を送 り込んで来る。後 に利現賓の浜名で広 く知 られることとなる イユズス修道会の僧侶 マテオ ・リッチ (1582年 にマ カオに到着。西洋 人 として始めて漢文 に よる本格 的な著述 を行い、1610年 、北京 にて死没) もその一人であった。 リッチは、漢文 に よる著述 を通 して、江戸期の 日本の漢学者 にも影響 を与 えたことで知 られる、西洋ルネッサ ン ス期 の学問に研鐙 を積 んだ博学の人であった。 ところがかかるリッチで さえ、明朝政府か ら布 教の許可 を得 ることは終生叶わなかった。明朝政府が この ようにキ リス ト教 を禁教 に した背景 を鑑みれば、 このたび考察 した十字架紋皿 といった類の ものを明代の交易の観点か ら扱 うこと にはす こぶ る差 し障 りを覚える。因ってこの出土遺物の氏素性 をめ ぐる問題 に関 しては、やは り中世今帰仁勢力の民族的出自、なかんず く元朝配下のアラン衛都兵団の動向 といった もの、 と絡めて論考することが肝要であると認識 される。

参照

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