在日青年の苦悩
1970年代における在日韓国留学生の逮捕と
在日大韓基督教会の対応
The Suffering of Zainichi Youth:
Arrest of Zainichi Students in the Republic of Korea
and Response of the Korean Christian Church in Japan
in the 1970s
金 宥良
Yooyang Kim
キーワード 在日大韓基督教会、軍事独裁政権、在日、苦悩、逮捕、死刑判決 KEY WORDSThe Korean Christian Church in Japan(KCCJ), Military Dictatorship, Zainichi “Living in Japan”, Suffering, Arrest, Death Sentence
要旨 1970年代の朴正煕大統領の軍事独裁政権下にあって、多くの在日韓国留学生が、国 家保安法及び反共法違反等の嫌疑で逮捕された。その中の1人に、在日大韓基督教会 の派遣神学生の金哲顕氏がいた。韓国神学大学での留学2年目が終わろうとする1975 年11月22日、韓国中央情報部は、同上の嫌疑で彼を逮捕したと発表した。裁判の結 果、死刑判決が下されたが、大統領特赦により無期懲役に減刑され、その後、釈放さ れて、1989年に日本へ戻った。 本稿は、始めに、総会所属の派遣神学生であった金哲顕氏の逮捕及び裁判の過程に おける総会の救出・救命運動の姿勢とその具体的展開を概観する。次に、金哲顕氏が 留学前に所属していた青年会の様々な救援活動の内容と限界性を考察する。最後に、 この在日青年の苦悩は未だ癒されることなく今もあり続けていることを指摘する。
SUMMARY
Under the military dictatorship of President Park Chung-hee in the 1970s, many Zainichi students were arrested on suspicion of violating the National Security Law and the Anti-Communist Law, among others. One of those arrested was Kim Chul-hyun, who was dispatched from the Korean Christian Church in Japan(KCCJ). While he was studying at Korea Theology College and nearing the end of his second year of studies, it was announced on November 22, 1975, that he had been arrested by the Korean Central Intelligence Agency(KCIA). At the conclusion of his trial he was sentenced to death, but the death sentence was commuted to life imprisonment by a special presidential pardon. Then he was released and returned to Japan in 1989.
This article first provides an overview of the stance that was adopted by the KCCJ in rescue and life-saving movements for Kim, a student belonging to KCCJ, during his arrest and trial. Next, the article examines the contents and limits of rescue and the advocacy activities that were carried out by the Youth Association, of which Kim was an active member before going to South Korea for his studies. Finally, the author points out that this suffering of Zainichi youth still continues, without being healed. 1.はじめに 1970年代の朴正煕大統領の軍事独裁政権下にあって、多くの在日韓国留学生が、国 家保安法及び反共法違反等の嫌疑で逮捕された1。その嚆矢とするのが、1971年に起 こった「在日僑胞学生学園浸透間諜団事件」と呼ばれるものと言える2。1971年4月20 日、韓国陸軍保安司令部(KCIC)は、大統領選挙期間を狙い民衆蜂起を起こし政府 を転覆しようと暗躍していたとして「在日僑胞出身大学生」4名を含む「北傀間諜」 10名と、彼らを中心とした4党の「間諜関連者」41名の、合わせて51名を、去る17日 に一網打尽にしたと公表した3。この逮捕者の中に、2年間のソウル大学校大学院修士 課程を修了し、新学期には教養課程部の助手が予定されていた徐勝氏が含まれてい た4。 また、1975年11月22日になると、韓国中央情報部(KCIA)は、母国留学生を「仮 装」して学園に浸透した「北傀間諜一党」21名を検挙し、国家保安法及び反共法違反 等の嫌疑で去る20日にソウル地検に送致する一方、関連容疑者を引き続き捜査中であ
ると発表した5。いわゆる「11・22学園浸透間諜団事件」と呼ばれるもので、逮捕者 の半数を超える13名が在日韓国留学生及び在日青年であった。しかも、その中の1人 に、在日大韓基督教会(以下、総会と略す)から派遣された金哲顕神学生が含まれて いた6。 金哲顕氏は、同志社大学大学院修士課程を修了した後、総会の派遣神学生として、 1974年4月、韓国神学大学(現、韓神大学校)に留学した。そして、留学2年目を終え ようとしていた1975年11月22日、韓国中央情報部によって金哲顕氏が拘束されたこと が公表されたのである。その後の裁判の結果、彼に死刑判決が下されたが、1977年3 月1日の大統領特赦により無期懲役に減刑され7、その後、1988年10月3日の「開天節」 に、光州矯導所から釈放され8、1989年3月16日、日本へ戻った9。 本稿は、まず初めに、総会の派遣神学生であった金哲顕氏の逮捕及び裁判におい て、総会がどのような姿勢で救出・救命運動を展開したのかを概観する。その次に、 金哲顕氏が留学するまで活動していた青年会においても、当時の時代的・政治的制約 の中で様々な救援活動が展開されたが、その活動内容と限界性について考察する。そ して最後に、この在日青年の苦悩は、未だ癒されることなく今もあり続けていること を指摘し、「贖い」の業こそ「在日」教会の果たすべき使命であり宣教の課題である ことを明示する。 2.総会の対応 総会は、1973年10月11日、大阪西成教会で行われた第1回任職員会において、来 年、同志社大学大学院修士課程を修了する予定の金哲顕氏を、「伝道師の試験(試取) を受けた後、母国へ2年の留学に送ることとする」決議がなされた10。さらに、翌年 の1974年2月5日から6日まで、在日韓国基督教会館(以下、KCC と略す)で行われた 第2回任職員会において、金哲顕氏の韓国神学大学での2年間の留学を「承認」し た11。こうして、金哲顕氏は、「総会の牧師候補生」として韓国神学大学に留学する こととなり12、同年4月11日に韓国へ出発した13。金哲顕氏は、韓国神学大学で留学1 年目を無事に終え、新たに2年目を迎えることになるのだが、同年12月16日から17日 まで、東京セミナーハウスで行われた第2回人事局において、金哲顕氏の留学2年目 を、「延世大学の聯合神学大学院」で残りの「留学1年を許諾」している14。しかし、 金哲顕氏は、2年目も継続して韓国神学大学に在籍することとなった。 こうして、金哲顕氏は、総会の許諾の下、韓国神学大学で留学2年目を迎え、その2 年目を終えようとしていた1975年11月22日、韓国中央情報部は、在日同胞留学生を含 む21名を国家保安法及び反共法違反等の嫌疑で摘発したと発表し、その中に「総会の
牧師候補生」であった金哲顕氏が含まれていることが明らかとなった15。これを受け て、総会は、韓国中央情報部の公式発表から3日後の11月25日、KCC において臨時任 職員会を開き、「金哲顕神学生救出委員会」を組織することを決議し、さらに、「声明 書を文書化して新聞記者団に発表する」こと、そして、「救出委員会は、1973年度の1 年間の金哲顕君の動向と証拠品を積極的に収集すること」を併せて決議した16。 金哲顕氏は、1975年12月15日、ソウル地方法院において起訴された17。そこで、総 会は、翌年の1976年4月28日、大阪西成教会で行われた第3回任職員会において、「金 哲顕神学生救出の件」について話し合った。この任職員会で決議されたことは、① 「減刑、嘆願運動や上訴は、救出委員会に一任する」、②「救出委員会は、判決の日ま では、その名称を変更しないこととする」、③「委員会改編と経費募金問題は、救出 委員会関西地方委員と関西地方任職員会に一任することとする」というものだっ た18。 ところが、翌月の5月14日、ソウル地方法院における第1審で、金哲顕氏の死刑判決 が下された。そこで、総会は、6月7日、KCC で救出委員会を開き、名称を「金哲顕 神学生救出委員会」から「金哲顕君救命委員会」へと変更した。そして、委員会の名 称変更に伴って表明された「金哲顕君」の「救命の主旨」文において、「助命と減刑 が、私たちの国家と民族に有益となるだけではなく、海外に住む僑胞と教会に大きな 力となります」とまとめた19。7月5日、KCC において行われた第1回救命委員会にお いて、朴正煕大統領に「嘆願書」を送付することを決議した20。また、総会は、9月7 日から16日まで、5名の代表団を韓国に派遣し、韓国の各教団代表たちと協議を持つ と同時に、韓国当局及び裁判長に「在日同胞の実態を報告して、私たちの哀情を訴 え」た。そして、この時、金哲顕氏との面会を果たした21。しかし、その間の9月14 日、韓国高等法院で行われた第2審判決においても、第1審と同じく死刑判決が下され た22。 金哲顕氏の死刑判決が下されてから最初の定期総会(第32回総会)が、1976年10月 12日から13日まで、大阪西成教会で開催された。その総会において、「金哲顕君救命 委員会」から報告があり23、さらに総会2日目の「献議案討議」において、崔京植総 務の「緊急動議」により、「金哲顕君救命嘆願に関する件」が取り上げられ、①「金 哲顕君救命に対して100万円の財政援助」、②「嘆願書に署名すること」、③「閉会礼 拝時に一次献金をすること」を決議した24。 崔京植総務は、本総会の総務総括の中で次のように報告している。 教育局は、今年は特に〈金哲顕神学生〉の問題に因る青年指導に腐心してきてお り、この問題は昨今年にあって、私たちの総会の大きな試練の焦点となってきた
ものである。…(中略)…。この問題の解決のために、総会傘下の各教会と機関 が物心両面で惜しむことなく協力して下さることは、ひとつの生命は天下より貴 いという信仰と、将来有望な青年のために、共同体の愛と教会の責任を果たそう とした発露であろうし、また、このことが究極にあって、私たちの国家と民族と 教会を生かす道であると信じる故に従うものであろう。特に救出委員会(第マ マ審判 決まで)と救命委員会一同(委員長 洪永其牧師)の格別な苦労、及び、数次に わたった祖国訪問と交渉、そして、先般の2審判決時に総会長の金元治牧師をは じめ代表5名(金元治総会長、呉允台曾経総会長、李仁夏曾経総会長、洪永其委 員長、兪錫濬 KCC 館長)の派送により、母国教会の協力を得て朴大統領に嘆願 することができ、また上記の5名は、金哲顕君の率直な心情を聞くことができ て、そのことで祖国の教会と私たちの教会との間に、この問題に対するより正確 な理解をはっきりさせることができた25。 さらに結語で、「はじめに申し上げたように、過ぎる一年、私たちの教会は、宣教 70周年に向かって躍進する過程で、金哲顕問題のような思いもよらない試練に、とて も難しい試練を被ったが、しかし、その試練の中で、再び希望の光を探すことができ たのであり、宣教に対するより固い使命と、より深い神様の信仰をもつことができた ことを喜んで告白するところです」と述べている26。 また、「金哲顕君救命委員会」の委員長であった洪永其牧師は、次のように報告し ている。 私たちの総会が推薦して韓国神学大学に派送した金哲顕君(武庫川教会 金守東 長老 次男 29歳 同志社大学院神学研究科卒マ マ業)に対して、総会傘下の教会と多く の教友たちが祈祷して下さり、物心両面で協助して下さったことを真心から感謝 いたします。金哲顕君の事件は、私たちの教会の伝統から見て理解することがで きない、それこそ青天の霹靂のことであって、哲顕君の自白したとおりの思想と 行動が、私たちの青年会と教会で一度もともに分かち合ってみたことがなかった ために、より一層、在日同胞の特殊な状況から起こった悲劇的な事件と知り、私 たちは真正に痛悔するところです。私たちの総会は、この事件が発生した後、早 速、救出委員会を組織し、第1審(死刑)以後は救命委員会に再構成して、金哲 顕君の救命のため、あらゆる力を尽くして来ました。いま第2審も極刑に終わ り、大法院に上訴中であるが、私たちは、哲顕君が信仰を根拠に悔悛して、新し い人間になることを願うと同時に、再びこのようなことが起こらないように自責 して、この事件を契機として、在日同胞と私たちの教会が、真正な意味で神様の
御心に従って、民族と国家の繁栄に寄与することができることを願いながら、金 哲顕君の減刑、助命の嘆願を継続していこうと思うので、全教会の支援と協力を 懇切に付託いたすところです27。 総会は、第1審の死刑判決により、「金哲顕神学生救出委員会」から「金哲顕君救命 委員会」という名称へと即座に変更した。この救命委員会の主な活動は、以上で示さ れているように、全教会へ向けた救援運動のための寄付金の付託と助命嘆願のための 署名の要請であった28。 そうした中、同年10月25日から30日まで、洪永其委員長は、韓国の各教団及び韓国 基督教教会協議会(NCCK)を訪問して救命の嘆願をし、協力を付託した。また、12 月23日から29日まで、金元治総会長、黄義生副総会長、洪永其委員長は、大法院長等 に嘆願と陳情を行った。しかし、その間の12月28日、大法院において行われた第3審 判決においても、金哲顕氏の上告は棄却、さらに、翌年の1977年2月18日に提出した 再審請求も却下され、金哲顕氏の死刑判決は確定した29。ところが、翌月の3月1日の 「三・一節」大統領特赦により、死刑から無期懲役へと減刑された30。それを受け て、総会は、3月7日から15日まで、「本国各教団」並びに「国家責任部署」を「歴訪」 し、翌月の4月27日、第3回任職員会において、「金哲顕君救命委員会は自然解散す る。但し、今後も継続減刑運動をなし、事務所を総務室に置く」ことを決議した31。 ところで、総会は、上記の総務総括や救命委員会報告等で見られる通り、当時の軍 事独裁政権下にあって行われた裁判に対して、あるいは一切の面会謝絶の中で行われ た金哲顕氏の「自白」に対して、抗議あるいは批判を何ら展開することなく、かえっ て「自白」を認めた金哲顕氏に対して反省と悔悛を要求した。そして、「民族と国家 の繁栄に寄与する」ものとして、総会がその役割を果たすことを願い求めたのであ る。総会は、結局のところ、金哲顕氏が日本に帰国するのを待つことなく、1年半で 実質的な救出・救命運動を終えた32。このことは、「民族至上主義」の限界を克服す ることを願って教会批判を展開した、在日青年の熱情と苦悩に対して真摯に向き合う ことをしてこなかった教会指導者の姿勢を傍証するとともに、在日青年が向かうべき 新たな方向性、あるいはそのための何らかの方策を提示することができなかった総会 の本質を露呈しているだろう33。 3.青年会の対応 このような総会の対応にあって、在日大韓基督教青年会全国協議会(以下、全協と 略す)は、金哲顕氏を救出するために、独自の救援活動を展開した。まず、1976年1
月14日から15日まで、神戸学生青年センターで行われた全国青年指導者研修会におい て、「金哲顕神学生拘束事件をめぐつママて提起された総会の宣教のあり方を問うととも に、在日同胞の生き方の模索として提起された崔昌華牧師の日本国籍確認闘争を批判 的に検討するなかてママ、『キリスト者の歴史参与』の問題を問うた」34。 そして、関東地方会青年会においては、同年4月25日に、「金哲顕神学生の為の祈祷 会」を開き35、5月16日には、「金哲顕神学生の苦難を共にする祈祷会」を持った36。 また、関西地方会青年会では、5月30日に、「金哲顕神学生の為の祈祷会」を開催し、 この時に「見解文」を発表した37。また、全協では、6月19日、大阪教会において、 「金哲顕神学生救出の為の祈祷会」を開き、「金哲顕神学生が受けている苦難を、在日 同胞が置かれている状況の中からとらえ直し、それを我々の苦難として受けとめ、共 に祈った」38。ところで、この祈祷会を開催するにあたり、大阪教会の「堂会」にお いて、「政治的」という理由で教会の使用を一時拒否されている39。 また、8月11日から14日まで、長野県の野尻湖で開催された青年会全国修養会にお いて、「金哲顕神学生拘束事件の第1審死刑判決や、この事件を通して起つママてきた全協 に対する圧力等で全協はそれまで、闘ってきた同胞の解放に対する闘いを十分してこ れなかつママたことの反省から、青年が協力して、本国教会闘争や在日同胞の問題に主体 的に関わつママていくことが確認された」40。そして、9月18日から19日まで、KCC で行わ れた青年会全国協議会において、「金哲顕神学生に対する、第2審死刑判決に対する抗 議声明が採択された」41。また、翌年の1977年1月14日から15日まで、兵庫県の御影で 行われた全国青年指導者研修会では、「青年会の歴史と聖書における解放と自由の概 念について学ぶ中で、今日の青年会の果たすべくママ役割について話し合った。また、12 月に韓国大法院で死刑確定判決を下された金哲顕神学生の救出活動についても話し合 われた」。そして、「金哲顕神学生救出の為の祈祷会」を、大阪教会、京都教会、武庫 川教会、布施教会、大阪西成教会、川崎教会でそれぞれ行った42。 関西地方会青年会による「金哲顕神学生祈祷会」は、その後も続けられ、1977年12 月13日には京都南部教会で、1978年1月28日には大阪北部教会で、また同年6月3日に は京都南部教会でそれぞれ行われており43、11月5日に平野教会で行われた関西地方 会青年会の献身礼拝では、「献金は金哲顕神学生(※の)家族のために」捧げられ た。また、翌年の1979年4月22日、大阪北部教会で行われた関西地方会青年会の献身 礼拝においても、「献金は金哲顕神学生のために」捧げられた。この時の説教は、カ ナダ長老教会の宣教師であり関西地方会の牧師であった、ジョン H. マッキントシュ 牧師(John H. McIntosh)が担当した44。 こうして、青年会は、独自の活動として祈祷会を継続的に開催し、また、嘆願書や 声明書を発表して積極的に救援活動に取り組んだ。しかし、その取り組みは、時代
的・政治的制約もあって、結果として、それ以上の進展を見ることはなかった45。 その後、時代が下って、1981年1月14日から15日まで、神戸学生青年センターにお いて第12回教会青年指導者研修会が開催され、その中で「金哲顕氏問題」について話 し合われたが、当時の状況を知らない青年が多くなった青年会において、もはや取り 組むべき具体的方策を提示することはなかった46。また、全協は、金哲顕氏が日本に 帰国した1989年の時点においても、これまで取り組んできた救援活動に対する「真摯 な反省」と、これから取り組むべき新たな展望をもはや提示することはなかった47。 4.おわりに 当時、KCC の幹事であったマッキントシュ牧師は、「金哲顕神学生救出委員会」の 委員ではなかったが、ソウル地方法院で開かれた1976年3月24日の第1回公判から死刑 判決が下された同年5月14日の第9回公判までの中、第1回公判と第3回公判に出席し た。第1回公判は、1976年3月24日に行われ、マッキントシュ牧師は、総会代表及び金 哲顕氏の母親と、同志社大学教授及び学生とともに出席した。この第1回公判で、金 哲顕氏は、起訴事実を全面的に認めた48。また、マッキントシュ牧師は、4月17日に 行われた第3回公判に、金哲顕氏の父親及び兄とともに出席した49。こうして、金哲 顕氏の家族とともに、2度にわたって第1審の公判の現場に立ち会ったマッキントシュ 牧師は、金哲顕氏の逮捕と死刑判決について、晩年の著書の中で次のように述べてい る。 宣教のあらゆる取り組みには、つらい時もあり、それがずっと長びくようなこと もある。在日韓国・朝鮮人が、分裂支配のもとにおかれている本国情勢に対し て、民族の統一を願って何かしようとすれば、本国の政権ににらまれスパイ事件 の主役のように扱われ、つるしあげられることも時々あった。在日大韓基督教会 総会の神学生として育てられた金哲顕さんは、1975年のいわゆる11・22事件の 際、捕えられ、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のスパイとして軍事裁判で死 刑宣告を受け、今でも韓国の刑務所で生きた証人としてたたかっていて、私たち の消えない痛みとして残っている。いつまで続くのか? 私は彼らの家族ととも に、いつまでなのかと天に向かって一緒に叫びたい50。 このように、マッキントシュ牧師は、「金哲顕さん」の逮捕と死刑判決が「私たち の消えない痛み」として今もなお残り続けていることを明確に告白している。それに 対して、李仁夏牧師は、晩年の著書の中で次のように回顧している。
80年代に入り、世界のエキュメニカル連帯が大きな転換を迎えた。民主同志会の 苦悩も、韓国内の民主化の闘いの末に捕らえられたキリスト者を守るため、日韓 を問わず当局のゆがめられたシナリオから来る誤解を避けるため、細心の注意を 払い、一般市民との連帯には用心深く対応した。東京には南北の情報が乱れ飛ん でいたからだ。ある団体から、キリスト者は所詮日和見主義だと罵倒もされた。 在日の若者たちが統一の夢を抱いてソウルで政治犯として捕まったとき、その家 族に会うことも敬遠した。いまだに心の痛みを覚えている。私の所属教団の神学 生が逮捕されて死刑判決を受けたときだけは、身内と考えて助命運動に走っ た51。 ここに、総会全体が在日青年の苦悩に対して取った態度が表明されている。つま り、総会は、「当局のゆがめられたシナリオから来る誤解を避けるため、細心の注意 を払」うあまり、総会の派遣神学生であった金哲顕氏の逮捕と死刑判決というこの苦 悩を、在日青年全体の苦悩として引き受けることができなかったのである。そして、 総会は、どこまでも「民族と国家の繁栄に寄与する」ものとしての態度を守り、在日 青年が批判した総会の中に確固としてある「民族至上主義」を止揚することはなかっ た。マッキントシュ牧師もそうした総会の中にあって、何か具体的な教会批判を展開 したと言うことはできない。但し、マッキントシュ牧師は、自身の指紋押捺拒否闘争 の渦中で記した著書において「私たちの消えない痛み」と告白するように、在日青年 の苦悩を「私たちの痛み」として真摯に引き受けるべき使命があることを感得してい たと言えるだろう。しかし、この在日青年の苦悩は未だ癒されることなく、今もなお 「私たちの消えない痛み」としてあり続けているのである。これは、「私たちの消えな い痛み」を解消することこそ、今もなお在日青年の苦悩に真摯に応答することができ なかった「在日」教会に突き付けられている喫緊の課題であることを証明している。 それ故に、「在日」教会は今こそ、死刑判決が下された金哲顕氏の中に、そして政治 犯として逮捕された多くの在日青年の中に「私の隣人」を見出し、断腸の思いで駆け 寄って「治療」を施し、その「身代金」を全額支払う「贖い」の業をなすことが求め られている52。何故ならば、この「贖い」の業こそ、「在日」教会が本来取り組むべ き宣教の課題に他ならないからである。 * 本稿は、2013年9月10日から11日まで、西南学院大学で開催された日本基督教学会 第61回学術大会において行った研究発表に加筆・修正を施したものである。
注 1 「100名ほどの在日韓国人政治犯が確認可能だが、まだ全容は明らかになっていない」。石坂浩一「在 日韓国人政治犯」、国際高麗学会日本支部『在日コリアン辞典』編集委員会編『在日コリアン辞典』 明石書店、2010年、167頁。 2 徐勝『獄中19年―韓国政治犯のたたかい―』岩波新書、1994年、26頁。 3 『東亜日報』、1971年4月21日。桑原重夫『日韓連帯への道 在日韓国人「政治犯」救援運動から』ユ ニウス、1980年、17頁。吉松繁『在日韓国人「政治犯」と私』連合出版、1987年、60頁。 4 徐勝、前掲書、3頁。徐勝氏は、1971年10月22日の第1審で死刑判決を下されたが、1972年12月7日の 第2審で無期懲役に処せられ、それを受けて上告したが、1973年3月13日、大法院によって上告が棄却 され、無期懲役が確定した。その後、19年間の監房生活の中で、1988年12月に懲役20年に減刑され、 1990年2月28日、「非転向囚釈放第一号」として釈放された。韓勝憲著、舘野晳訳『分断時代の法廷 南北対立と独裁政権下の政治裁判』岩波書店、2008年、27-30頁。石坂浩一「徐兄弟事件」、『在日コ リアン辞典』、250-251頁。徐君兄弟を救う会『徐君兄弟を救うために』第13号、1974年6月。 5 『東亜日報』、1975年11月22日。『朝日新聞』、1975年11月22日。 6 さらに、1975年12月に、第2次の逮捕者として、5名の在日韓国留学生が検挙されていることが救援組 織によって判明した。また、1977年4月に、第3次の逮捕者があり、そのうち3名が在日韓国人であっ た。桑原、前掲書、114、146-147頁。 7 『神戸新聞』、昭和52年3月3日。『朝日新聞』、1977年3月10日。 8 『東亜日報』、1988年10月3日。『朝日新聞』、1988年10月3日。 9 姜聖律「金哲顕氏の “ 帰国 ” に思うこと」、『1989年(1988年度)全協ニュース VOL.3』全協中央委員 会出版部、1989年8月、ページ記載なし。総会は、金哲顕氏の釈放を受けて、1988年12月6日に行われ た第4回任職員会において、「金哲顕氏に聖誕献金から20万円を慰労金として支払う」ことと、「政治 犯釈放のために代表団を派遣する」ことを決議し、同年12月19日から22日まで、3名の代表団を派遣 している。『1989年度 第40回総会 総会録』在日大韓基督教会総会、1991年、24、53、107、154頁。但 し、この『第40回総会録』には、金哲顕氏の日本帰国について何の言及もない。 10 『1974年度 第30回総会 総会録』在日大韓基督教会総会、1975年、24頁。 11 同上、25頁。 12 同上、33-34頁。 13 同上、66頁。同上、68頁参照。 14 『1975年度 第31回総会 報告書』在日大韓基督教会総会、1976年、66頁。 15 総会は、韓国中央情報部が発表する前の11月4日、韓国神学大学長の公文によって、金哲顕神学生が 連行された事実を受け、11月10日、その事情を調べるために、呉允台牧師と洪永其牧師を韓国へ派遣 している。『1976年度 第32回総会 総会録』在日大韓基督教会総会、1977年、97頁。 16 同上、34頁。委員長は洪永其牧師。委員の中にジョン H. マッキントシュ牧師及び李仁夏牧師の名前 はない。同上、58、68、80頁参照。在日大韓基督教総会・金哲顕神学生救出委員会「金哲顕神学生逮 捕に関して」、1975年11月25日付、同上、102-103頁。 17 同上、97頁。起訴内容として、「1973年3月9日~5月26日、80日間、入北。間諜教育を受けて帰日。 1974年、韓国神学大学で留学学友3名を包摂。75年4月まで反体制運動、それゆえ国家保安法と反共法 違反となる」と記録している。 18 同上、36頁。ソウル地方法院裁判長貴下宛「嘆願書」、同上、104-105頁。「嘆願事由」の中で、「金哲
顕君の事件を通して、私たちの教会としては、二、三世青年たちに対する監督の不十分なことと、指 導が不徹底だったことを不憫に思うと同時に、今後再び、このような事件が発生しないように、より 一層の(深々な)注意を誓うところです」と記している。 19 同上、98-99頁。 20 同上。大韓民国朴正煕大統領閣下宛「嘆願書」、同上、106-107頁。「嘆願書」の最後に、「金哲顕の減 刑助命」が「愛国心を培養するのに有益となることを信じて」とある。 21 同上、99頁。代表は、金元治総会長、洪永其委員長、呉允台曾経総会長、兪錫濬長老(書記)、李仁 夏曾経総会長の5名。中央情報部長宛『嘆願書』、1976年9月1日付。 22 同上、97頁。金哲顕君を救う会会報『金哲顕君(同志社大学神学部卒)の命を救え !!―金哲顕君を救 う会』、1977年2月1日。「救う会」については、清水昭「『金哲顕君を救出する会』について」、『福音 と世界』新教出版社、1976年3月号、43-44頁、を参照のこと。 23 『第32回総会録』、12頁。「報告書」、同上、90-95頁。 24 同上、17-18頁。同上、25、62頁参照。『1977年度 第33回総会 総会録』在日大韓基督教会総会、1978 年、48頁。「同志社大学」から10万円の献金が寄せられている。『第32回総会録』、101頁。 25 『第32回総会録』、42-43頁。 26 同上、44頁。 27 同上、97頁。 28 『第33回総会録』、49、50頁参照。 29 同上、76、125頁。金哲顕君を救う兵庫県民の会『事務局ニュース No.14(部内)』(1977年3月12日) によれば、再審請求却下は「2月14日」とあり、さらに抗告、再抗告、再々抗告も却下(2月15日)と の報告がある。 30 『第33回総会録』、125頁。注7参照。 31 同上、51、125頁。『統一日報』、1977年3月12日参照。 32 但し、1978年の第34回総会時に、「金哲顕君に関する報告と嘆願書の署名要請」がなされている。ま た、1979年の第35回総会時には、「金哲顕君に書信を送る件」が提起されている。『1978年度 第34回 総会 総会録』在日大韓基督教会総会、1979年、25、107頁。『1979年度 第35回総会 総会録』在日大韓 基督教会総会、1980年、17、83頁。KCC は、同志社大学神学部を中心とした金哲顕君救援会に協力 しつつ嘆願運動を継続するとした。『第34回総会録』、64頁。『第35回総会録』、75頁。 33 この点に関しては、拙論「在日青年の教会批判―1970年前後の在日大韓基督教会における『民族主体 性』の問題をめぐって―」、『基督教研究』第75巻第2号、2013年12月、17-29頁、を参照のこと。崔京 植総務は、救命委員会の解消直後に開催された第33回総会の総務総括で、「金哲顕神学生問題の波動 に因り、比較的、長時間苦悶してきた結果、その問題に対する在日同胞青年としての理解の課程(マ マ)から得た結論は、より堅固な土台の上に立った信仰だけが、今後、どのような難しい問題が自身 の上に迫って来てもそこで対処し、責任ある自己を表現することができる道を発見したのであった」 と述べ、さらに、「母国教会との関係では、金哲顕問題で各教派が救命活動に積極的に協力し、大き な成果を見せたことに感謝する」と報告している。『第33回総会録』、61、63頁。 34 『第32回総会録』、92-93頁。主題は「同胞の解放を指向する教会」。副題は「福音伝道と基督者の歴史 参与の問題を考えて―福音宣教の課題」。講師は金元治総会長と崔昌華牧師。「崔昌華牧師の日本国籍 確認」については、姜泰洙「『日本国籍確認』への疑問」、『燈台』在日大韓基督教青年会全国協議 会、第32号、1976年8月、61-65頁、を参照のこと。その中で、姜泰洙氏は、「崔牧師の主張を一言で いうならば、我々は事のつまりは日本に住むのだから早く日本国籍を取得し、法的に安定した地位を
獲得した上で日本人社会の民族的排他主義と闘って行けばよい、ということになるだろう」とまとめ ている。 35 『第32回総会録』、54頁。李仁夏牧師が関東地方会教育部として報告。関東地方会教育部が後援。 36 『燈台』第32号、15頁。 37 同上、26-27頁。『関西地方会録』では、「金哲顕神学生のための祈祷会と報告会」は「5月10日」と記 録しているが間違い。2部においてマッキントシュ牧師が説教を担当している。場所は京都教会。参 加者は100名以上。『1977年度 第27回関西地方会 会録』在日大韓基督教関西地方会、1976年、17頁。 この時の崔京植救命委員会事務局長の談話として、「彼は祖国の分断と、在日同胞であるが故の一人 の犠牲者であろう。彼は、在日同胞青年が持つ苦悩と情熱を余りにも真剣に受けとめ、追求しようと した為に、政治的に利用され引き裂かれてしまったのだ」と語っているのは注目すべきである。『金 哲顕君救命委員会ニュース No.3』、発行年不明、4頁。 38 『第32回総会録』、93頁。在日大韓基督教会青年会全国協議会「声明―5・14金哲顕神学生死刑判決に 抗議する―」、1976年6月付、『燈台』第32号、8-10頁。なお、同声明文は『福音と世界』に掲載され た。『福音と世界』新教出版社、1976年10月号、55-56頁。 39 『燈台』第32号、6頁。「堂会」は当該教会の牧師と長老で組織される。姜泰洙「この度の一部牧師・ 長老の訪韓について」、『福音新聞』第322号、1976年5月15日。総会は、1976年7月22日、有馬温泉で 行われた第4回任職員会において、「福音新聞5月15日号の姜泰洙君の投稿に対して総会の立場を明ら かにするための論説を掲載することとする」と決議した。『第32回総会録』、38頁。 40 『第32回総会録』、93、99頁。主題は「同胞の解放と宣教の自由をめざして」。講師は崔京植総務と金 顯球牧師。 41 同上、93頁。 42 『第33回総会録』、93頁。主題は同じく「同胞の解放と宣教の自由をめざして」。講師は金安弘牧師と 李清一幹事。 43 『第34回総会録』、42、45頁。崔忠植牧師が総会青年局及び関西地方会青年部の部長として報告。『関 西地方会録』によれば、「12月13日」ではなく「11月3日」と報告している。『1979年度 第29回定期関 西地方会 会録』在日大韓基督教関西地方会、1979年、19頁。 44 『第35回総会録』、46、47頁。崔忠植牧師が関西地方会青年部長として報告。『1979年度 第30回定期関 西地方会 会録』在日大韓基督教関西地方会、発行年不明、16頁。 45 当時の青年会の状況については、『燈台』在日大韓基督教会青年会全国協議会、第43号、1996年8月、 144、171-172頁、を参照のこと。 46 『1981年度 第36回総会 総会録』在日大韓基督教会総会、1982年、71頁。マッキントシュ牧師は説教者 として参加している。李相鎬「金哲顕氏のこと」、『燈台』在日大韓基督教青年会全国協議会、第37 号、1981年8月、46-48頁。同上、49頁参照。金聖孝「指導研への思い入れ」、『燈台』在日大韓基督教 青年会全国協議会、第38号、1982年4月、41頁。李博「《ʻ82夏期修養会》全協発題」、『燈台』在日大 韓基督教青年会全国協議会、第39・40合併号、1986年6月、14頁。『第40回総会録』、88頁。 47 姜聖律、前掲書。その中で、「ただはっきりしていることは、どんな理由であれ、我々が哲顕氏を 『見捨てた』という事実、そして今の在日大韓教会に集う人々が、この事実について知らないか、あ るいは知っててもあえて触れようとしないという状況、そのような “ タブー ” を持ったまま平然と活 動している全協、あるいは在日大韓教会とは、いったい何者なのだろうか?(現役の中央委員がそん なことを言っていいのか、という批判もあるだろうが、あえて言う)」と述べており、また最後に、 「我々は過去と現在を知り、それに対する真摯な反省がないかぎり、第二、第三の哲顕氏が生まれな
いという保証はどこにもないのである。後輩として、今は哲顕氏には『お帰りなさい』の一言しか言 えない」と語っている。 48 第1審公判の状況については、清水昭「日韓の傷の谷間で―金哲顕氏の死刑判決をきいて」、『福音と 世界』新教出版社、1976年7月号、58-61頁、を参照のこと。 49 『第32回総会録』、98頁。『燈台』第32号、14頁。「金哲顕神学生公判の経過」、『福音新聞』第322号。 50 マッキントシュ宣教師の在留権訴訟を支援する会編『マッキントシュ牧師の「在日」にかける夢 ― 宣教活動25年、指紋押捺を拒否して』キリスト新聞社、1987年、49頁。 51 李仁夏『歴史の狭間を生きる』日本キリスト教団出版局、2006年、220頁。 52 ルカによる福音書10章25-37節。「私の隣人」とは誰か。イエスは、この問いを発した律法学者に、ひ とつの譬え話を語り、逆に彼に問い返した。服装や出で立ちは、その人の身分や民族、性別や出自を 如実に表現する。ところが、エルサレムからエリコへ下って行く道中で倒れていたのは、追い剥ぎに 襲われ、祭司服も民族衣装も着ていない、裸同然で「血」を流し、息も絶え絶えの身元不詳の人物で あった。人の「血」に出自も民族も性別も貴賤の別もない。「祭司」と「レビ人」は、この裸同然で 「血」を流した瀕死の人を見て、道の向こう側を通って行った。ところが、「旅をして来たサマリア 人」は、その「血」を流した瀕死の人を見て憐れに思い、駆け寄って治療を施し、さらにこの人を自 分の家畜に乗せて宿に運んで介抱した。しかも、この「サマリア人」は、それだけに留まらず、その 人の「身代金」を全額支払おうとした。こうして、この「サマリア人」は、「血」を流した瀕死の人 の身分や民族、性別や出自を何ら問うことをせず、ただこの人の中に「私の隣人」を見出し、断腸の 思いで「癒し」と「贖い」の業をなした。