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(1)

私の歩いた山々・海外編

エベレスト街道

(2)

山の旅・心の旅( 海外編 )

「 エベレスト街道 」

<前篇>

2009 年 10 月 9 日~10 月 26 日の記録

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(4)

山の旅・心の旅(海外編)

「エベレスト街道」

<前篇> はじめに 1.私たちのエベレスト街道トレッキング 1-1.カトマンズからナムチェ・バザール 1-2.ナムチェからディンポチェ 1-3.ディンポチェからカラバタール 1-4.帰り道…ロブチェからルクラ 2.私たちのスタッフと現地の人たち 2-1.私たちのスタッフ 2-2.現地の人たち あとがき・追伸 <後篇> 3.エベレスト街道から望む素晴らしき峰々 3-1.「ナムチェ・バザール」周辺の峰々 3-2.「ディンボチェ」周辺の峰々 3-3.「カラバタール」周辺の峰々 調査資料:クーンブ山群・周辺の峰々[写真と記録]

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はじめに ●山を好きになった者は、必ず一度は「海外の山々」へ自らの思いを募らせる。 特に、情報の多い「ヨーロッパ・アルプス」が注目され、あこがれの的となる。 今は、「ヒマラヤ」かもしない。私の若いころ「海外」に行くことは、仕事だ としても珍しい時代だった。まして遊び(登山)でとなると、かなり難しい環 境だった。今は制限などないと思うが、当時は海外への外貨持出しは一人「O Oドル以内」といった規制があったように思う(昭和30年代後半)。 ●もっとも、海外旅行・海外登山は今の若い人たちにとっても、余裕のなくな った現在の我が国の経済環境・雇用環境では難しいかもしれない。一方、若い 時には憧れだけで、実際には行けなかった中高年が、経済的・時間的ゆとりを 得て、ツアーで大挙して行く時代になった。 ●私の山登りの時期は4年間ほどと短かった。勤め(公務員)ながら、大学へ 行くことになり、山岳会の山行でさえ経済的にも時間的にも難しくなった。丁 度、大学が「全共闘時代」であったことも影響していた。こうして私自身は、 海外の山々への思いを心に閉じ込め、登山そのものから離れざるを得なかった。 国内の岩を攀じ、沢を遡行し、四季の山々を駆け廻った、先輩や仲間たちは、 その後「ヨーロッパ・アルプス」や「ヒマラヤ」に行った。 ●私も世代(団塊の世代の少し先輩)特有の「会社人間」となり「仕事一筋」 で過ごした。その40数年から解放され、自由になった60歳代の前半、すっ かり忘れ心から離れていた「山」が、再び私の中に蘇った。「会社人間」から 「家庭人間・地域人間」になることに、抗(あらが)うように山登り・山旅に のめり込んでいった。岩や沢や雪は除き、月に最低2回以上「山」を訪ね、地 元・近郊の山から、上越国境・八ヶ岳連峰、そして南・北アルプスへと行動範 囲を広げていった。そして足かけ 5 年の歳月が過ぎた。 ●65 歳を過ぎ、自分の先行きの年限を意識するようになると、改めて私に海 外の山への思いが募ってきた。なんとか若い時の夢をかなえたいとの思いが強 くなってきた。経済的・時間的条件は何とかなるにしても、体力的(特に高山 病・長期トレックなど)・気力的(周囲を納得させることなど)な条件が問題 となる。だが、すべての条件が適うまでに、私の年は待ってくれない。 ●昔の山岳会のOB・OG会の年次の総会に参加するようになり、懐かしい大 先輩が、ヒマラヤで半年は生活しているという話…。現役の方が、海外登山を 専門とする会社に勤めているという話…、「ヒマラヤへ行こう」と、会ではや や後輩となるOGの方の、積極的な仲間集めなど…、これらが重なり、ヒマラ ヤへの私の決心を固めさせた。

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1.私たちのエベレスト街道トレッキング 1-1.カトマンズからナムチェ・バザール [10月9日・10日(移動日)] ●10 月 9 日の昼近くに日本・成田を出て、実質 9 時間程度のフライトで、イ ンド・デリーに現地の夕方到着、ここで空港近くの有名なラディソンホテルに 一泊して、 10 日の早朝・4時起床し、ネパール・カトマンズに飛んだ。2 時 間程度のフライトで午前中にカトマンズのホテル(サンセット・ビュー・ホテ ル)に入った。このホテルは、ネパール人(夫)と日本人(妻)の経営だそう で、日本人の泊まり客が多い。ホテルのロビー横の応接室の書棚には「日本の 図書」が並び、日本の新聞もおかれていた。フロントやレストランでは日本語 が通じとても快適だった。レストランの日本食もメニューが豊富だった。 ●空港に迎えに来てくれた現地旅行会社の方々(社長とチーフ・ガイド)と、 ホテルのロビーで今後の打ち合わせを行う(トレッキングのスケジュールや装 備のことなど)。大きなバックを貸してもらい荷物を詰め替えることにする。 私は心配なので厳冬期用の寝袋も借りることにした。

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●この昼にみんなと食べた「ヒマラヤ蕎麦」は日本の「信州蕎麦」と変わらず、 飲んだ「エベレストビール」も、日本のビールと同じ味わいだった。写真にあ るように庭も綺麗に手入れされていて気に入った。ここで両替(円からネパー ル・ルピー)もできた。100NRがこの時は 120 円程度のレートだった。後で わかったが、タメル地区の私設両替屋ではレートが悪く 130 円程度だった。 ●午後からは、登山用具などの買出しに、2 組に分かれてタクシーで、繁華街 のタメル地区に出向いた(20 分ほどで 200NR)。カトマンズの街はどこも、 大変埃っぽい、しかもゴミが散らかって汚い・臭い、大勢の人が行き来し、た むろしている、車やバイクのクラクションがやたらうるさい…と残念ながら日 本人の感覚では「ほめる」ところが無い。 ●タメル地区は繁華街で、あまり広くない路地に様々な商店が並び、露店も並 んでいた。道での物売りも多く、少しでも興味を示したりすると、かなりしつ こく付きまとう。驚いたことに、山の道具やが、店の 10 軒に 1 軒の割合ぐら いある。品ぞろいも豊富だ。価格も日本の半額以下だ(ただし品質はわからな い)。みやげ物を買うのは帰りの日(10 月 23・24 日)にと言われているので、 私は「ヒマラヤ(エベレスト街道)の地図」(300NP・約 360 円)を買った。 写真 T-03.ホテルからカトマンズ市街 写真 T-04.タメル地区(繁華街) 写真T-01.泊まったサンセットホテル 写真T-02.ホテル前でメンバー勢ぞろい

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[10月11日(カトマンズからルクラ・バクディン)] ●ホテルを 8 時に出発し、空港の国内線のターミナルに行く。ルクラへは 9 時 20 分の予定だが遅れるだろうとの話し。結局は臨時便の扱いで、大幅に遅れ 11 時過ぎにやっと出発になった。 荷物が多くて人間は 15 人ほどしか乗れな い小さな飛行機だった。天候の都合でヒマラヤの峰々は雲の中だった。山間部 の向い勾配の狭く短い滑走路に降り立った。待機場もターミナルも本当に狭く 小さい。我々を乗せてきた飛行機は客なしで直ぐ戻っていった。 ●ルクラのロッジ兼レストランで遅い昼食。現地のスタッフは出発準備に忙し かった。2 時過ぎに出発。街外れからトレッキングの雰囲気となり、途中のロ ッジの庭には「黄色いコスモス」が綺麗に手入れされ咲いていた。日本の「菊」 に似た白い花も見かけた。マニ石とマニ車をたくさん見かけた。 ●夕方近くに「バクディン」の街道に面した小奇麗なロッジに着いた。予定で はナムチェまではロッジ泊、その先はテント泊とのこと。ロッジの部屋は 2 人 用のベットが左右にあり、自前の寝袋で寝る。食事は、スタッフのコック担当 が、ロッジの炊事場を借りて食事を作る。われわれに同行しているシェルパの 若い「ラジャン」や、やや年配の「ニマ」が給仕をしてくれた。 写真 T-05.ルクラの飛行場・乗った飛行機 写真 T-06.ルクラ郊外のロッ村 写真 T-07.街道のマニ石とマニ車 写真 T-08.バクディンの我々のロッジ

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[10月12日(バクディンからナムチェバザール)] ●6 時 30 分起床・7時食事・8 時出発の予定だが、いつものように朝早くから 目覚める。昨日は半日の歩きだったのに腰が痛い。スタッフが朝のお茶と洗面 器のお湯を我々の部屋に運んでくれる。至れり尽くせりの「もてなし」だ。 ●「バクディン」を出発し、渓谷沿いの平らな道を行く。我々のペースがわか らないせいか、30 分おきに休憩・トイレとなる。地図ではここまでいくつか のビューポイント(VP)が示されているが曇りで何も見えず。途中「モンジ ョ」で国立公園の入口のゲートを通る。その先の「ジョサレ」で昼食となった。 ミルクティーがとても美味しかった。日本食に似ているヤキソバを食べた。 ●渓谷沿いに進み、「ナムチェ・バザール」への 600mの登りの入口の吊橋に 着く。ここの河原には、外国の多くのトレッカー(団体)が休んでいた。日本 の団体もいた。1 時過ぎから登り始める。我々のガイドの有川さんに高地特有 の「歩き方・呼吸の仕方」を教わり、忠実に守りながら登った。1 時間おきの 休み、2 ピッチ過ぎに「峠」のようなところに出ると、ナムチェの集落の端が 見えた。土産物屋の密集した街中に我々の泊まるロッジはあった。 写真 T-09.ナムチェへの 600mの登り口 写真 T-10.恐怖のつり橋・牛も馬も通る 写真 T-11.登り切った峠からナムチェ 写真 T-12.ナムチェの我々のロッジ

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1.私たちのエベレスト街道トレッキング 1-2.ナムチェからディンポチェ [10月13日(ナムチェ・バザール・滞在日)] ●エベレストを初登頂した英国の「ヒラリー卿」をサポートしたのが「テンジ ン」で、彼らシェルパ族が作った集落がここナムチェ・バザールだ。標高が 3400mあり、我々のトレッキングの最初の高度順応をここで行うことになった (裏手の丘の標高 3700~3800mまで登って慣らす)。 写真 T-13.ナムチェの集落のマニ車 写真 T-14.裏の丘からナムチェの集落

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●ナムチェの集落は平地がほとんどない。チベット仏教の宗教施設(僧院や仏 塔・マニ石・マニ車など)が多い。我々もマニ車を回しながら、シェルパの「ダ ジャン」の「音楽的なお経」を聞きながら丘を登る。高原が広がり、高山植物 や草紅葉が彩を添えていた。エベレスト・ビューホテルへの道でも、雲の切れ 間の青空に白い峰の一部が見えとても気持ちがいい。ホテルのテラスは外人た ちで賑わっていた。正面の「ローツェ」の左に続く稜線の上に「エベレスト」 の頂が少し顔を出していた。来てよかったと感激する一瞬だ。 ●帰りはホテルから「シャンボチェ」の高原を戻り、エベレストを空からの観 光する、ヘリや軽飛行機の飛行場を通ってナムチェに戻った。ロッジでの夕食 に時間があるので、街中の土産物屋を見て回った。国際電話やインターネット もできる店が何軒かあった。ここでも山の道具屋がたくさんあった。 ●ロッジに戻り、入浴やシャワーができないので、全身を大きめのウエット・ ティシュで拭き、ひげも剃ってさっぱりする。予定の着替えもし、荷物の整理 もした(計画の 3 日に一度のペースで実行)。夕食では、ここから先は「高山 病予防のためアルコール禁止」となるので、ビールをたくさん飲んだ。 写真 T-15.エベレストビューホテルへの道 写真 T-16.ホテルのベランダで記念撮影 写真 T-17.シャンボチェの飛行場 写真 T-18.ナムチェのきれいなロッジ

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[10月14日(ナムチェ・バザールからデボチェ)] ●トレッキングの一日は、6 時 30 分起床、7 時朝食、準備して 8 時に出発だ(朝 の標準的タイムスケジュール)。 歩きは休みを含め午前に 3~4 時間、昼食に 1 時間ほどかけ、午後に 3 時間ほどの歩きとなる。夕方は 3~4 時にロッジや テント場に着き、お茶の時間になる。夕食と談話は 6~7 時ごろで、だいたい 1 時間ほどかける。就寝はその後だが、いつも早め(8 時前後)に寝ついた。 ●ルクラからナムチェまでは、ロッジや民家や畑など集落も続き、人通りや荷 物の往来も頻繁で、なかなか「ヒマラヤ・トレッキング」の雰囲気ではなかっ た。後でわかったことだが、飛行場のあるルクラとナムチェは、大きな集落で あり、集落間の人の往来や生活物流も必然的に多いということだ。 ●ナムチェから先は、正面や左右に「白い峰々」を見ながらの、本格的なトレ ッキングとなる。昨日までの雲の多い天候が吹き飛び、完璧な快晴となった。 エベレストビューで、出し惜しみの感があった峰々が、雪のない前衛の山々(積 雪は標高 6000m以上)越しに真白き姿を見せている。とても快適だ。 写真 T-21.正面にローツェ・アマダプラム 写真 T-22.サナサの分岐・左ゴーキョ方面 写真 T-19.ナムチェから本格トレック 写真 T-20.エベレスト街道を行く

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●左からの尾根状の山肌の曲がり角にくると、新しい展望が眼前に広がり、仲 間たちとそのつど感嘆の声を上げる。最初の仏塔のある曲がり角からは、朝の 逆光でまぶしい「タムセルク」が対岸から迫り、行く手には「ローツェ」と「ア マ・ダブラム」がさらに近づいて見える。街道はナムチェからやや下り気味で、 ゆったりとした歩きに時間のたつのを忘れる。これが桃源郷かと思う。 ●ドゥート・コシ川を渡ると「ブンキタンガ」の集落に着き昼食、私はベジタ ブル・チャーハンとブラック・ティー(紅茶)を頼んだ。ここは標高 3250m、 目指す「テンボチェ」は 3860mで、ナムチェへの登りに匹敵する 600m以上の 登りが待ち構えていた。楽だった午前中のしっぺ返しがきた。花の咲いていな い石楠花の大きな木を見ながら、辛い登りが続いた。2 時間あまりの登りで、 3 時にテンボチェの僧院のある丘に着いた。僧院を見学させてもらった。 ●今夜の泊まりは初めてのテント生活…。この丘では風が強いとのことで、川 沿いのテント場まで 20 分ほど下った。テントは 2 人 1 張りが基本、食事は専 用大型テント、トイレも専用のテントだった。この日は気温がかなり下がった ので、テント場のロッジのストーブのある食堂で、暖かい夕食となった。疲れ ていたようで、慣れないテント・シュラフでも 8 時前に寝込んだ。 写真 T-23.ドゥート・コシの渓谷を渡る 写真 T-24.ブンキタンガのレストラン 写真 T-25.テンボチェの僧院 写真 T-26.デボチェのテント場

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[10月15日(デボチェからディンボチェ)] ●デボチェから「ディンボチェ」への道は、さらに「ヒマラヤを歩く」の感が 強まる。次第に近づいてくるヌプチェ、ローツェ、アマ・ダブラムを正面に見 つつ、高度も上げていく。今まで眼下の深い渓谷だったドゥート・コシ川がど んどんせり上がってきて、我々の歩く道に並んでくる。4 時間近く歩いて「ソ マレ」で昼食、この日はネパール・ラーメン(日本のインスタントラーメン風) と、胃の調子が良くない「Nさん」が頼んだ、蒸かしジャガイモを食べた。こ れが意外とおいしかった。私は今のところ食欲は衰えていない。 ●今日の行程のデボチェ(標高 3820m)からディンボチェ(標高 4410m)へ の道は、私にとっては未体験の高度の行動となる。昨日の午後から、高山病の 予兆なのか「Iさん」の歩みが遅い。私たちも有川さんの指示でペースをあわ せ、高度順応を兼ねる。激しい動きは禁物で直ぐ息切れがする。深呼吸を続け ながら登り続ける。立ち止まったら10回以上さらに深い呼吸を意識的に行う。 これで軽度の「頭痛や吐き気」といった高山病の初期症状が消える。ただ、昨 夜の寝不足と、我々の歩きが超ユックリなこともあり、なだらかな道を歩きな がら睡魔が押し寄せてきた。 写真 T-27.街道の正面 アマダプラム 写真 T-28.ドゥードコシ渓谷がせり上がる 写真 T-29.パンボチェのカンニ(仏塔門) 写真 T-30.ソマレの集落で昼食

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●左手に「ペリチェ」へ行く道とわかれ、川沿いに下り小さな橋を渡る。アイ ランド・ピーク方面の氷河から流れてくる支流の「イムジャ・コーラ川」を右 手に見ながら小高い丘を登ると、大きな仏塔が見え、足元には「ディンポチェ」 の集落が広がっていた。その一角に、我々より随分早く着いたスタッフが準備 してくれたテント場があった。ゆっくりな歩きだったので 4 時になった。 ●正面に「ヌプチェの長い峰から鋭い峰のローツェ、その肩にローツェ・シャ ー」と 7000~8000mの峰が迫ってくる。中央は「アイランド・ピーク」、さら に右手には「カンレアム」と 6000m の峰々が連なる。右手真横には「アマ・ダ ブラム」が今までとは全く違う山容を見せてくれる。 ●「眠気やあくび」も高山病の初期症状らしい。夕方、テント場で仲間と有川 さんに「血中酸素飽和度」を計ってもらう。私の初期値は 75%、異常値らし い…メーターをつけたままで深呼吸を繰り返すと 87%まで上昇して正常値の 範囲になった。調子の悪い「Iさん」は 80%台に上昇しないらしい。一番熱 心にヒマラヤを目指し、高山病の講習も受けていた「Iさん」だけにショック だ。明日は滞在日なので様子を見ることにする。 写真 T-33. ディンポチェの丘の仏塔 写真 T-34. ディンポチェのテント場 写真 T-31. ペリチェとの分岐の川 写真 T-32. ディンポチェの丘・ローツェ

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[10月16日(ディンボチェ・滞在日)] ●今日はここディンボチェで滞在。標高 4300mで本格的な高度順応を行う。 朝方、左手のローツェから正面のアマ・ダブラム、右手のカンテガ、タムセル クの峰々の頂に陽光が差し込んでくる。神々しさを感じる瞬間だ。遅い朝食の あと出発、集落の東側から仏塔のある丘に登る。標高 4500mから今まで隠れ ていた北側の峰々が一気に見渡せる。左手には「タボチェ」と「チョラチェ」 が険しい山容を見せ、正面遠くには「ロブチェ」や「ヌプチェ」など、チベッ トとの国境に近い峰々が連なる。集落の裏山(といっても標高 5616m)の途 中(4600m)まで登り、11 時 30 分にはテント場に戻った。 ●ディンボチェの裏山に登る途中で、一緒に出発した「Iさん」がやはり体調 不良でテント場へ引き返した。先に進んでいた我々は、サーダーたちとそのま ま半日を高度順応で過ごし、昼近くにテント場に戻った。有川さんと「Iさん」 は、高山病予防のためナムチェまでこれから戻るという。残念だが「安全第一」 なのでお別れとなる。昼を済ませてから、ウェット・ティッシュで 3 日に一度 の全身拭き、ヒゲ剃り、下着・上着の着替えをした。そのあと「Mさん」と集 落の散歩をした。陽が陰ってくるとさすがに寒く感じる。 写真 T-37.朝のタムセルク・カンテガ 写真 T-38.Iさんと有川さんは下山 写真 T-35.朝もやの中のローツェ山群 写真 T-36.滞在日はユックリの朝食

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1.私たちのエベレスト街道トレッキング 1-3.ディンポチェからカラバタール [10月17日(ディンボチェからロブチェ)] ●今日は標高 4900mを超え、実質のアタックキャンプ地となる「ロブチェ」 の集落まで登る。昨日の裏の丘の仏塔まで登り、標高 4500mのなだらかな高 原を行く。この高度でも午前の陽光のもとで、寒からず暑からず快適だ。乾燥 しているので汗もかかない。ただ、意識して深呼吸しないと息苦しい。草地の ドゥーサの高原を「ペリチェ」から来る道と合流するまで歩く。合流地点でク ーンブ氷河のはずれに到達、氷河の亀裂に「緑の湖」が見える。 写真 T-39.ディンポチェの集落とローツェ 写真 T-40.ドゥーサからタウチェとツォラチェ

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●「ツクラ」の集落で昼食となる。また流動食のラーメンと、もらったジャガ イモだ。アタック前なのにみんな食欲が無い。ここからツクラ・パス(峠・4830 m)まで 200m近い登りとなる。標高から本当に辛い登りとなった。峠付近は エベレストで遭難した世界の登山家の慰霊碑がならび異様な雰囲気だ。ただ、 ネパールの多色の旗がはためくところから見えるアマ・ダブラムが素晴らしか った。ここに慰霊碑を建てることを許可したわけがわかる気がした。 ●一時間ほどで、今日のテント場(アタックキャンプ)の「ロブチェ」に着い た。既にテントが張られていた。今日も一日長丁場で本当に疲れた。今日のテ ントは「独り」の順番、明日の「登頂日」は早朝出発のため食後すぐに寝る。 4時に起床・4時半に朝食・5時に出発・10~11 時までには登頂の予定と、 夕食時にサーダー(シェルパ頭)の「ぺンバ」から伝えられる。直ぐ出発でき るよう必要なものをサブザックに準備する。デジカメ(カシオ)のバッテリー が警告水準になり、もうひとつの広角・ズームのデジカメ(キャノン)ととも に充電済みに交換する。寒さで機能低下しないようシュラフの中に入れて寝る。 わが身も借りたシュラフと自分のシュラフとダブルで使う。 写真 T-41.ツクラの集落で昼食 写真 T-42.ツクラパス(峠)の慰霊碑 写真 T-43.荒涼としたロブチェの集落 写真 T-44.ロブチェのテント場

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[10月18日(登頂・ロブチェからカラパタール)] ●テントは「独り」の順番で静かでゆとりのスペースだったが、登頂前の気持 ちの高ぶりと、マイナス 10 度を超える寒さもあり、例によって一晩中「ウト ウト」の状態が続いた。夜中に2度もトイレで目覚める。いつもは満天の星空 なのに、今日は真天に星が輝いているのだが、周辺(山の頂より)は、雲か霧 のせいで星が霞んでいて天候が心配になる。 ●4時前に目覚め、4時半にテント食堂に集合、食欲が無い中、日本と同じ味 のインスタント・ラーメンがうまかった。まだ暗い5時に「ロブチェ(4910m)」 を出発、この日一気に「カラパタール・ピーク(5545m)」に挑む。集落(テ ント場)下の小川を横切り、クーンブ氷河沿いの岩場の道をヘッドランプ頼り に歩く。この標高になると、少しの動きでも息切れが激しくなる。歩きながら も意図的に深呼吸を繰り返す(高度順応の「有川マジック」を忠実に守る)。 明るくなってきたが相変わらず雲が多い。 ●テント場から見えた「正面のヌプチェ:7855mと右のメラピーク:5820m」 が道筋の右手になり、その頂きが朝日に染まり始めると、ランプから開放され る。左手は「ロブチェ・イースト:6119m」と「ロブチェ・ウエスト:6145 m」が連なり、私たちの行く先の陽光を遮る。標高が 5000mを超えてくると、 寒々しく荒涼とした世界(雪と岩)が広がってくる。生き物は「苔にも似た丈 の短い草」が、氷河の地表にこびりついているといった感じだ。 ●氷河の行く手(西から北側)は、晴れ間に青空が広がり、ロブチェの右手奥 に「チャングリ:6027m」と「チュンブ:6859m」が重なり、さらに右手に一 段と高い「プモリ:7161m」が連なる。エベレスト・BCに続く氷河の奥(北 側)には「リングトレン:6713m」や「クンブチェ:6639m」がエベレストの 北西コルに連なっている。景色は雄大だ。ただ、我々のいる氷河もかなりの標 高なので、峰々の頂への仰角はそれほどきつくない。 写真 T-45.夜明けとヌプチェの雄姿 写真 T-46.振り返ると遠くにタムセルク

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●7時を過ぎても、行く手の左(東や南側)の「ヌプチェ:7855m」や、エベ レスト方面の峰々にかかる雲は取れない。サーダーのペンバは「大丈夫、もう 少しで晴れる」というが、折角のチャンスなのにと心配する。 ●歩き始めて約 3 時間あまり、8 時に岩場の展望地で休憩する。多分ここが「ロ ブチェ・パス(峠)」で標高は 5100m位か。ここで岩陰に身を隠し「ヒマラヤ でのキジ撃ち」をする。バランスが悪く「最中」にも息切れがした。自分のも のだからと「臭い」のを我慢して深呼吸をした。8 時半に「ゴラクシェプ:5140 m」の集落に着く。何度かの休みを入れて 3 時間半、5000m超の標高での歩み としては、まずまずのペースだった。ここのロッジで長めの休憩をとった。 ●9 時過ぎにロッジを出発、少し下って湖底のような白砂の窪地を横断して、 北の正面に聳える「プモリ」の、手前の二段に続く黒々とした丘(これがカラ パタール)を登る。急斜面が続き、連続の登りはさすがにキツイ…早朝から 3 時間以上歩いた後だし、なんといっても空気が薄い(標高=5500mで平地の 50%の酸素量)ので息が続かない。ここで本当に高度障害の危機感を持つ。た だひたすらゆっくりと登り、立ち止まっては深呼吸を繰り返す。 写真 T-47.ロブチェパス(峠)で一休み 写真 T-48. ゴラクシェのロッジが見える 写真 T-49.白砂の湖底からカラバタールへ 写真 T-50. カラバタール頂上・プモリを背に

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●深呼吸で少し楽になって振り向くと、それまで雲に隠れていた「エベレス ト:8848m」の、雪の飛び散った黒い「岩壁と頂」が姿を現していた。世界最 高の頂きからうすい筋状の雲が風にたなびいている。私は今、麓からそれを眺 めている。これは現実なのだろうか。何十年かの思いがここに凝縮する。蒼空 に所々雲が浮かんで、とてもいい絵(画像)になっている。 ●ロッジから見た丸いドームのような丘(一段目)を登ると、そこから大きな 岩の堆積した緩やかな尾根がさらに続いている。私の高度計は 5400mを指し ていた。仲間(Nさん・Mさん)が先に行く。離れないようにと思うのだが、 息が続かず身体もいうことをきかない。Hさんはダジャンと後から登ってくる。 思考能力がなくなってくる。視界が狭まる。それでも、無機質な岩の堆積のな かに自らの足場を選んで歩いた。標高 5500m、50%の酸素、体験したことの ない浮遊感が付きまとわれながら、ただひたすら歩を進めた。 ●苦しい息遣いの中、外人たちの歓声で顔を上げると、我々のサーダーが直ぐ そばで、笑顔で手を差し伸べてくれていた。11 時半、ついに、私はカラパタ ールのピークにたった。この登りで休み休みとはいえ2時間半もかかった。 強 風の中、みんなで健闘をたたえて握手、そしてみんなで写真を撮った。この目 で見たかった世界最高峰エベレストは、正面から我々を見据えていた。 写真 T-51.エベレスト(中央の黒い峰)・ヌプチェ(右の鋭鋒)を背に

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[10月18日(登頂・カラパタールからロブチ)] ●山頂での 30 分ほどの時間があっという間に過ぎていった。サーダーに促さ れて 12 時少し過ぎには下山を開始する。登ってきたルートの反対側を岩場か らなだらかな丘へと下る。ちょうどエベレストBC側から、白い砂の湖底のよ うに見えるゴラクシェプの窪地に下っていく。空気の薄さはさほど変わらない のだが、登りに比べると随分と楽に感じる。 ●この下りの正面に、雲の切れたエベレストの黒い岩肌とその鋭い頂きが氷河 を隔てて対峙している。隣のヌプチェがエベレストに増して素晴らしい山容を 見せている。下のゴラクシェプのロッジが見えてきた。登りにかかった時間の 半分もかからずに着いた(13 時)。ロッジで昼食の予定も、我々は全く食欲が 無かった。お茶を頼んで、持参していた行動食を少しだけ口にする。我々が食 べないので、気の毒にサーダーなどスタッフは昼食なしになってしまった。 ●ゴラクシェプから、テント場のロブチェまでの帰り道は遠い。行きに正面に 目指したヌプチェやプモリを背後に、氷河の行く手には、今までの長い道中で 我々を慰めてくれた「クーンブ山群」が、例の何度も紹介する「アマ・ダブラ ム」をはじめ広がっている。右手に「タウチェとツォラチェ」が我々を見送り、 遠くの「カンテガやタムセルク」が少しずつ近づいてくる。ロブチェには16 時近くにやっと着き、私たちはテントにへたり込んだ。長い一日が終わった。 写真 T-52. 眼下にゴラクシェプの集落 遠くはクーンブ山群の峰々の広がり

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1.私たちのエベレスト街道トレッキング 1-4.帰り道・ロブチェからルクラ [10月19日(ロブチェからデボチェ)] ●ロブチェからデボチェに一気に下る。当初予定の「ナムチェから一日でルク ラ…8 時間」の予定は、ナムチェで合流する「Iさん」の体調を考えると難し いので、この日の行程を長め(往路の登りでは 2 日分)に頑張ることにする。 8 時出発、目標達成の充実感と、身体の疲れからか熟睡し体調はいい。 ●クーンブ氷河をタムセルクやタボチェを正面に見ながら下る。息苦しさは感 じない。慣れたせいか、下りのせいなのか。氷河のはずれから岩床が続き、そ こに小川が流れ始めている。何故かホッとする瞬間だ。ツクラ・パス(峠)を 過ぎて、往きに辿った「ディンボチェ」への道を左手に見て、川沿いを下ると 「ペリチェ=4320m」の集落に入る。ロブチェから半日で 600m近く下ったこ とになる。ここの大きなロッジで昼食となる(何を食べたか記憶にない)。 写真 T-55.ペリチェの大きなロッジ・昼食 写真 T-56.ショマレ付近の灌木の紅葉 写真 T-53.登頂の翌日はゆっくりと起床 写真 T-54.氷河のはずれには小川が流れる

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●「ペリチェ」と、往きに泊まった「ディンボチェ」とは、ロブチェから同じ 距離にあり、今日の宿泊地の「デボチェ」まで、往きの一日の行程を午後の半 日で走破する。12 時 30 分にペリチェを出発、丈は低いが赤く色づいた潅木の 道を黙々と歩く。往きにはあれほど感激した峰々もチラッと見る程度に。陽の 傾きと追いかけっこで、デポチェの往きのときとは少しはなれた場所に着いた。 今晩は最後のテント泊・テント食堂だ。ロッジのテーブルと椅子を借りて、レ ストラン風の豪華な感じになった。 [10月20日(デポチェからナムチェバザール)] ●今日はデボチェから、仲間の「Iさん」が独り待つ「ナムチェ・バザール」 へ戻る。丈の高い樹木がおおくなり、湿度も高く空気も濃くなって、平地の快 適な感じに戻ってきた。ディンボチェの僧院の前で一休み。見慣れたアマ・ダ ブラムやタムセルクが朝の陽光に綺麗だ。往きに苦しんだ 600mの下りもあっ という間に終わる。渓谷はまだ深いが、山並みはだんだん低くなってくる。 写真 T-57.でポチェのテント場 写真 T-58.天と食堂で豪華なディナー 写真 T-58.ディンポチェへの登り 写真 T-59.チベット仏教の僧院

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●往きに感動した景色をふり返り、ふり返り歩く。だんだん別れの寂しい、悲 しい感情にとらわれる。山肌の曲がり角からはるかかなたにナムチェの丘が見 えている。天候は雲が多くなってきた。往きもそうだったが里に近くなると雲 がかかる(午後になるとなのかも)。やっとナムチェの集落が眼下に見える丘 に着いた。懐かしい繁華街に戻った。ロッジで「Iさん」の笑顔を見て安心し た。夕食までの間、女性二人と買い物に行き、ケーキを食べコーヒーを飲んだ。 [10月21日(ナムチェからバクディン)] ●ナムチェ・バザールの村外れで「チェック」、来た時期よりも本格的なシー ズン入りでトレッカーが増えてきた感じだ。一休みで久々の「全員そろっての 記念撮影」をなる。見晴らしのきく峠で、「カヌー」を持ち運んでいる欧米人 の団体に遭遇した。この先、どの辺でドゥード・コシ渓谷を下るのだろうか(英 語ができないので聞けなかった)。 写真 T-60.ナムチェバザールへの道・工事中 写真 T-61.なつかしい ナムチェの繁華街 写真 T-62.ナムチェ村外れで勢ぞろい 写真 T-63.ヒマラヤの渓谷でカヌー?

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●いよいよ往きに登りで苦しんだ 600m の標高差を下る。登り出は気付かなか ったが、渓谷はいまだ深く、両岸が迫ってなかなかの見どころだ。ここでも大 勢のトレッカーや荷運びの「牛や馬」に会う。道でも、吊り橋でも牛馬が優先 され、何度か脇によけたり、橋の端で待たされる羽目になった。でも、帰り道 は気持の焦りは全くなく暢気なものだ。日本人の団体や個人とも出会った。 ●両岸の山並みが低くなり、川筋が近づいてくると、石垣で囲まれた「牧草地」 が点在し、「畑に野菜を植えている民家」が増えてきた。さらに、集落には「き れいな花に彩られたロッジ」が軒を連ねる。とても人間臭くなってきた。やは り、ナムチェとルクラをつなぐ街道は、トレッキングの道というより、生活の 道の感がする。集落も大きく往きかう人々も大勢となる。 ●帰りには、一気にルクラまで行く予定が、急遽泊まることになった「バクデ ィン」のロッジは、往きのロッジとは違うところだった。あと一日で実質的な ゴールなる。長かったような、あっという間のような…不思議な思いだ。感傷 に浸りながら「解禁となったビール」を痛飲した。 写真 T-67.谷が浅く・何回目かのつり橋 写真 T-68.野菜を栽培する民家 写真 T-64.ナムチェからの 600mの下り 写真 T-65.ドゥート・コシ渓谷・谷は深い

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[10月22日(バクディンからルクラ)] ●バクディンからルクラまでは半日の行程、ますます谷は浅く、川の両側には 平地が広がり、畑や牧草地、民家やロッジが多くなってきた。集落も短い間隔 でありますます「里」の感が強まる。やはりずいぶんと景色が変わるものだ。 ●往きのVPだった「タドコシガオン」から見える「クスムガングル(6367m)」 が、雪を頂くヒマラヤの峰々との最後のお別れとなった。この辺のロッジは「宿 泊」より、トレッカーや観光客目当ての「レストラン」が主のようだ。花で飾 られた広い庭に、椅子とテーブルが 並べられている。日本のNPOが支援す る「リンゴ園」もあった。気候的に合うのだろうか。 ●昼近くに懐かしの「ルクラ」に着いた。往きに立ち寄った「ロッジ」がこれ からの昼食と、泊まり場になる。食事の後、皆で土産物を買いに出かけた。孫 や娘たち、その亭主たちへのお土産を探す。夕食と一緒に、長い旅の仲間(ス タッフ)との「お別れパーティー」をした。長い旅のご協力ありがとう。記念 撮影を一緒にして、なぜかジンときた。 写真 T-69.山並みは低く谷は浅く里は近い 写真 T-70.ルクラ付近の集落・民家の畑 写真 T-71.ヒマラヤの不思議な松(針が柔い) 写真 T-72.ルクラの繁華街

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[10月23~25日(ルクラからカトマンズ)] ●10 月 23 日は、ここ「ルクラ」から「カトマンズ」へ。朝の食事を済ませて、 ゆっくりと飛行場に向かう。往きのフライトはえらく待たされたが、帰りは予 定通りではないものの、早めに搭乗することが出来た。カトマンズの空港から、 往きに泊まった「サンセット・ビューホテル」に直行する。昼食は久々に「ヒ マラヤ蕎麦」を食べ、「エベレストビール」を飲んだ。午後はどこへも出かけ ずゆっくり休んだ。夕方から疲れからか微熱が出て、夕食もとらずにずっと寝 ていた。NHKの日本語放送(衛星放送?)を聞いた。 ●10 月 24 日は予備日、トレッキングの行程や、昨日の戻りのフライトが予定 通りだったので、今日は「カトマンズの世界遺産」の観光となった(寝たおか げで体調は良くなった)。その後、観光ガイドとタメル地区で食事をしたり、 買い物をしたりした。自分で山での熊よけに使う「カウベル…牛の首につける 鐘」や、家族への追加の土産や、友人へのヒマラヤのカレンダーなどを買った。 夕方にホテルに戻った。夜は、現地の旅行社の主催で、「ボージャン・グリハ」 という現地では著名(高級?)なレストランでお別れパーティーがあった。民 族舞踊が何組も入れ替わり結構楽しく過ごせた。 ●10 月 25 日は午前中ホテルで帰国の準備。NさんやHさんは、この日もタメ ル地区へ買い物に出かけていった。ホテルのレストランで日本食の昼食を食べ てチェックアウトする。Nルピーはなくなったので US ドルで清算した。 ●ネパール・カトマンズから午後の便でインド・デリー空港へ、ここから直接 日本へ帰る日本航空のカウンターへ行くことになった(トランスファー)。ほ ぼ定時にデリーを発った。早々に機内食となるが、胃腸が受け付けない。日本 のキリンビール(一番搾り)ばかり飲んだ。長い旅は終わった。

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2.私たちのスタッフと現地の人たち 2-1.私たちのスタッフ

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●今回のエベレスト・ツアーは、日本の旅行会社W.N.(有川氏…「登稜会」 現役)と、私たち(登稜会OB・OG)とで企画・計画、ネパールの旅行会社 M.T.(アドヒカリ氏)に現地まとめをお願いした。以下に紹介するメンバー が実質的な現地ガイドとなる。写真S-01.は、トレッキング最終日となった「ル クラ」のロッジで記念撮影した。また、彼らのサインももらった。 写真 S-02. の左が有川氏(写真 S-03.も)、中央がアドヒカリ氏、右がカトマンズ観光ガ イドのプラカス氏。 ●行きの最初に泊まった「バクディン」のロッジでも、ほぼ全員の紹介をサー ダー(シェルパ頭)の「ペンバ」から受けたが覚えられなかった。彼らとの最 終日になる「ルクラ」のロッジで、長旅の無事と彼らのアシストやサービス感 謝しつつ、改めて全員集合して記念撮影と、みんなのサインをもらった。 ●エベレスト街道・トレッキング中に私たちに同行してガイドやアシストして くれる「スタップ」はシェルパ頭(サーダー)のペンバ氏、サブのニマ氏・ラ ジャン氏の 3 人だ。もう一人のサブのファルバ氏は、コック長のパーサン氏や その助手、荷物運びのポーターや 7~8 頭の牛たちの牛飼いの「スタッフ」は、 我々とは別行動でロッジの間、テント場の間を行動する。 写真 S-02.我々の総合スタップ 写真 S-03. WNの有川さん

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●同行のスタッフのうち、サーダーの「ペンバ」とは日本語で会話する。 サブの「ニマ」はカタコトの日本語、若い「ラジャン」は英語だけ。我々 のほうも使い分けて会話は成立し特別に不自由はしなかった。陽気で明る くいのがいい。特にコック長の「パーサン」は、時々我々と一緒になり、 愉快な日本語を連発して、我々を和ませてくれていた。 写真 S-08.我々のトレッキングサポート 写真 S-09. ディンポチェでテントキーパー達 写真 S-06.サブの Phurma 写真 S-07. コック長の Parsang 写真 S-10.もうひと組の仲間・荷役のヤク 写真 S-11.同・ルクラでお別れ

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2.私たちのスタッフと現地の人たち 2-2.現地の人たち ●テーマ 1.の「トレッキング」の冒頭で…カトマンズの街はどこも、大変埃 っぽい、しかもゴミが散らかって汚い・臭い、大勢人が行き来したむろしてい る、車のクラクションがやたらうるさい、と残念ながら「ほめる」ところが無 い…と紹介したが、そこに生活する人たちにとっては、これが当たり前の「日 常」なのだろう。全く「苦」にしている様子はない。 写真 S-15.カトマンズ・タメル地区…宗教的なお祭りか…特別な衣装の行列 写真 S-13.カトマンズ 人も牛もバイクも 写真 S-14.市街 バスを待つ人たち

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●どんなに埃っぽく臭くうるさくても、多くの人や車が行きかう。「喧騒」さ は「バイタリティ」でもある。人々の顔に屈託のない、底抜けの明るさがあり、 生活の実感がある。ヒンズー教にしてもチベット仏教にしても、信仰が人々の 心の支えになっているのも間違いないだろう。 ●首都の「カトマンズ」を離れ、エベレスト街道沿いの集落では、産業が無く 農業も土地が狭く痩せていてままならない。厳しい自然と向き合う必死さが 人々の中にある。生活のほとんどがこの街道を行く私たちのような「トレッカ ー」が相手の「ロッジでの食事・宿泊・みやげ物…観光業?」しかない。街道 の奥の高地の集落は春・秋のシーズンしか居住しないという。 写真 S-12.カトマンズの観光地でリンゴを売るおばさん達 写真 S-16.ナムチェのじいちゃんと孫 写真 S-17. ペリチェのロッジの奥さんと子供

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●現地の若い人たちの仕事といえば、観光に直接かかわる仕事(ガイドやロッ ジの仕事等)以外では、「街道を行く荷物運び」しかないようだ。街道を囲む 美しい山々は私たちを感動させるが、30~40Kgのボッカを仕事にしている彼 らはどのように感じているのだろう。 写真 S-20.ナムチェ・祭りで踊る若者たち 写真 S-21.ナムチェの若者たちと I さん さ 写真 S-18.デポチェロッジの子供 写真 S-19.パクディンロッジの家族と N さん 写真 S-13.カトマンズ 人も牛もバイクも 写真 S-14.市街 バスを待つ人たち 写真 S-22.街道で遊ぶ幼い兄弟 写真 S-23.街道で一休み中の若い娘さん

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●カトマンズの最終日(10 月 24 日)の夜、現地の旅行社の主催で、「ボージ ャン・グリハ」という現地では著名(高級?)なレストランで、お別れパーテ ィーがあった。疲れきっている胃腸にはかわいそうだったが、カレーを始めと する「ネパール料理」が沢山並べられた。「エベレストビール」ばかり飲んだ。 「ネパールの民族舞踊」は全部で 4~5 組の踊り手が、部屋単位の客席を訪れ た。男女の恋愛をコミカルに演じるものもあり楽しめた。 写真 S-24. ネパール民族舞踊 写真 S-25. 打ち上げのパーティー

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あとがき ●計画し決断してから足掛け一年半、富士山や雲取山での何回かの訓練を思い だした。未知の物事に対する不安や、どうしても感じてしまう年齢的な限界な ど、実行までに付きまとう様々な思いや感情も、こうして目標に到達して、無 事に終わってしまえば、何のことはない。ただ、帰ってきて時間がたった今… 自分の中で何かが変わった…そんな気がしてならない。 ●出かける前は、「高い山へ行く」ことよりも、「海外へ出かける」ということ の重みをかなり感じていた(別に秘境への冒険・探検に行くわけではないのに)。 それだけ気持が内向きで、小さくなってしまっていたのか。飛行機は国内も含 め10年以上も乗っていなかった。海外に出かけるのも十数年ぶり。仕事で使 っていた「10年パスポート」の期限はとっくに過ぎ、改めて10年物を取り 直した。空港での手順や入出国の手続きもほとんど忘れてしまていた。国際的 なテロ防止のためのシステムが新しく加わっていた。だが、「ヒマラヤへ行く」 という目的のためには、細々とした準備や、忘れかけていた手順・手続きも、 なんの苦にもならなかった。すべてが大したことではなかった。 ●この紀行(記録と写真)をまとめていると、チベット側からもエベレストを 見てみたい、さらにヒマラヤの別の 8000m峰のコースを歩いてみたい、…さ らにさらに「ヨーロッパ・アルプス」「ニュージーランド」「カナダ」「中南米」 「中国・スークーニャン」など、思いは飛翔する。しかも「単独で放浪的に」 往きたいものだ。現実は、当分難しい。ただ、そのための準備は、今年から始 めた。資金集め(貯金)と語学習得(英会話)だ。いずれも 2~3 年たてば展 望が開けるだろう。10年パスポートも取ったことだし。 ●「今回のヒマラヤ行き」で、「外(海外の山々)を見て歩いて、改めて内(国 内の山々)の良さを知る」…、そんな感情や思いも貴重な体験となった。奥秩 父をこよなく愛した「田部重治」が、その著書「山と渓谷」で、日本(北)ア ルプスと奥秩父の山々を対比して、「日本アルプスには、壮厳な超越的な天に 憧憬する心持を味わった」と述べ、「(奥)秩父には一種の魅力と一種のあたた か味とをもって私たちを引き入れなければ止まないものが漂っている」と述べ ている。エベレストをめぐるヒマラヤの峰々と、国内の峰々を対比すると、ち ょうど似た感情が湧いてくる。国内の山を歩くとき「自然との親和性」をいつ も意識する。それぞれの良さがあるということだ。

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■追伸 トレッキングでの高山病の予防・医薬品の用意 ●的確な高度順応を行えば、高山病の症状が出る、出ないは、基本的には「個 人の体質、その時の体調」だろうと私は考えている。私たちは、ルクラ(標高 約 2800m)からカラバタール(同 5500m)の間(エベレスト街道)、ナムチェ・ バザール(同 3400m)と、ディンポチェ(同 4400m)で滞在日を設け、その 日はそれぞれの標高から 300~400mを登り降りした。順応の効果はあった。 ●私たち(男性 67 才・65 才、女性 61 才・55 才)は合同で、準備段階の 7 月 に富士山(標高 3776m)に 2 日続けて登頂した。登り降りの速さで個人差は 出たものの、高山病の初期症状(頭痛や吐き気、めまいなど)は 2 回とも出な かった。ただ、3400mを超えてからは、息切れはした。そのあとは別々にトレ ーニングすることにした。私は 7~9 月に、高度順応で富士山に日帰りで3回、 体力強化で雲取山に日帰りで 3 回、そのほか南アの鳳凰三山、甲斐駒ケ岳(黒 戸尾根)に登った。仲間で最高齢であり、高血圧なので、人一倍トレーニング した。低圧・低酸素室など検討したが使用しなかった。 ●結果として一人(女性:Iさん)はディンポチェまでに、高山病の初期症状 が出て、ナムチェまで高度を下げて回復した。彼女は富士山で症状は出なかっ た。多分、直前の時期に仕事が入り、忙しさで体調が良くなかったのかも。他 のメンバーは、寝不足や食欲不振などに苦しめられたが、ロブチェ(同 4900 m)で一晩過ごし、カラバタール・ピークまで登ることができた。 ●準備した医薬品は、流行していた新型インフル用の「タフミル」、高山病予 防の「利尿薬」「睡眠薬」など、後は、ガイダンスで指示される薬品等や「フ ァーストエイド」の類。現地で必要だと感じたのは、鼻腔の乾燥を防ぐスプレ ーのようなもの、手の乾燥を防ぐクリームなど。実際に、乾燥して鼻から血が 出たり、指先のが裂けたりした。 ■追伸 トレッキングでの装備 ●ガイダンスで指示されるが、国内の登山の装備と同じでいいと思う。ツアー の主催者によるが、事前に言えば装備はほとんどレンタルできる。タッフルパ ック(大きめのバック…荷役用で汚れる)は全員が、私は、自前の寝袋が不安 なのでレンタルした。ツアーでは、マットや枕、寝袋のインナーまで用意され ていた。私は、防寒の服・手袋などの必要性は感じなかった。 ●問題は服装…私は、下着類は 3 日に一度交換(6 セット)、ズボン上着類は 6 日に一度(3 セット)を用意して過不足なかった。

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■追伸 トレッキングでの現地宿泊事情・食事事情 [ 宿泊事情 ] ●我々のトレッキングでは、ルクラからナムチェ・バザールまでは「ロッジ泊」、 その先のデボチェからロブチェまでは「テント泊」と計画されていた。シーズ ンなので、先へ行けばいくほどロッジは少なくなりこれだけの人数の確保は難 しくなるらしい。逆に、近くはテント場が少なく確保が難しい事情もあるよう だ。少人数のトレッカーは、ロッジ・オンリーで行くらしい。ネットに書いて あるように「汚い」とか「虫が出る」とか、不便や嫌なことは無かった。ベッ トに薄いがマットレスとシーツがあり、持参している寝袋で寝るのが普通のや り方。2 人 1 部屋が基本で小奇麗だ。ただ、建築的な部屋の造作はあまり良く ない。間仕切りが薄く、隣の音など筒抜けだった。 ●テントは、3~4 人用のテントを、2 人で使用し快適だった(我々は男が 3 人 だったので交代で 1 人 1 張りにした)。テント(フライシート付)の床にはマ ット敷かれ「枕」まであった。寝袋のなかに使う封筒状の毛布(インナー)も 配られた。ロッジはもとよりテントでも寒さはあまり感じなかった。ただ、標 高 4900mの「ロブジェ」ではマイナス 10 度以下になりさすがに寝付かれなか った(私の寝袋は 3 シーズン用+NASAの防寒シート付カバーだったが)。 写真 S-01.パクディンのロッジの 2 人部屋 写真 S-02. ルクラのロッジの 2 人部屋 写真 S-01.パクディンのロッジの食堂 写真 S-02. ルクラのロッジの食堂

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[ 食事事情 ] ●トレッキング中の食事は、朝・晩が我々のスタッフ(コック長・他)の調理 する食事。昼食や休憩のお茶はロッジのメニューから注文した。我々のスタッ フは結構、日本食に詳しく、現地の素材ながら和食風の味付け料理が多かった。 もっともパンやインスタントラーメンも出た。彼らスタッフがどんなに工夫し てくれても、我々の胃腸は日々疲れてきて、何も受け付けなくなる。 ● ネットでは「油」のせいだというがそうではないようだ。結局は「おかゆ」 「千切り風大根おろし」「野菜スープ」が人気になる。仲間の持参した「ごは んですよ」や「ふりかけ」も流行る。コツク長やスタッフには申し訳ないが仕 方が無い。(正露丸は毎食後 2 錠づつのんだ) ● ロッジの昼食も「カレー」「やきそば」「やきめし」「ラーメン」など、あと 「豆のスープ」「卵スープ」など、日本の味とは多少違うが見慣れ食べ慣れた 料理が多かった。飲み物も「紅茶」や「ミルクティー」「コーヒー」などほと んどある。行動中に必要な「ミネラルウォーター」もどこでも売っていた。料 金は食べ物で 200~300NP、飲み物で 50~150NPといったところ、観光用で やや高めながら、日本円でほぼ 500 円以下でまかなえる。 写真 S-03.ルクラのロッジでのランチ 写真 S-04.ナムチェのロッジでのディナー 写真 S-05.街道途中のロッジのランチ 写真 S-06.街道途中のランチ・べジカレー

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山の旅・心の旅( 海外編 )

「 エベレスト街道 」

<後篇>

2009 年 10 月 9 日~10 月 26 日の記録

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山の旅・心の旅(海外編)

「エベレスト街道」

<後篇> 3.エベレスト街道から望む素晴らしき峰々 3-1.「ナムチェ・バザール」周辺の峰々 3-2.「ディンボチェ」周辺の峰々 3-3.「カラバタール」周辺の峰々 調査資料:クーンブ山群・周辺の峰々[写真と記録] <前篇> はじめに 1.私たちのエベレスト街道トレッキング 1-1.カトマンズからナムチェ・バザール 1-2.ナムチェからディンポチェ 1-3.ディンポチェからカラバタール 1-4.帰り道…ロブチェからルクラ 2.私たちのスタッフと現地の人たち 2-1.私たちのスタッフ 2-2.現地の人たち あとがき・追伸

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3.エベレスト街道から望む素晴らしき峰々 3-1.「ナムチェ・バザール」周辺の峰々 ●「ルクラ」の飛行場から土産物屋の並ぶ集落を抜けると、渓谷と高原状の台 地の展望が開ける。いよいよトレッキングが始まる。最初の宿泊地「バクディ ン」までは、エベレストの氷河から流れるドゥート・コシ川の渓谷沿いの道を 歩く。歩きやすい整備された道だ。ただ、荷物を積んだヤク(チベット牛)や 馬なども通る。両側には 4000~5000m級の山々が迫る。 ●両岸から迫る山々が険しく、渓谷は狭まっ てきた。岩肌からほとばしる水流が見事な滝 をつくっている。落差 100mを超えようかと いう滝が、我々の歩く道の近くに落ち込む。 さらに先には、はるかに見上げる 500m近い 岸壁を一条の水流が流れ落ち、途中から霧と なって散って行った。 ●雲の多い天候のせいもあり、ヒマラヤの前 衛の山々すら見えない。山肌の木々も痩せて 急斜面にへばりついている。谷あいの狭い平 地にロッジ(兼レストラン)が点在し、屋根 や壁の彩りの華やかさがわずかに目立つ。 写真 01.ガット集落からクスムカングル 写真 02.ナムチェの丘からコンデ・リー

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●「ガット」集落の手前のクスム・コーラ(ドゥート・コシ川の支流)の谷合 いに最初のビューポイント(以下VP)があると地図に書き込まれている。往 路(10 月 11 日)では渓谷に雲が垂れ込め、気付かずに通り越した。写真 01. は、この地点から見えるはずの「クスム カングル:標高 6367m」。復路(10 月 22 日)に気づき、晴天も幸いしてこのVPから撮影することができた。往 路を行く時期は 10 月の初旬から中旬にかけてで、雨季の明けた直後だったせ いか、「ナムチェ・バザール」に到着するまで、雲の多い日が続いた。 ●最初の宿泊地(ロッジ泊)のバクディンを出て間もなく、地図は「コンデ・ リー:6186m」のVPを示しているが、この日(12 日)も渓谷沿いには雲や 霧がかかり、遠くの展望はきかない。写真 02.は、翌日(13 日)の高度順応の ための滞在日にナムチェ・バザールの裏の丘から撮影した。 ●10 月 13 日は高度順応のための滞在日となった。ここナムチェ・バザールは 標高約 3400m、裏の丘に広がる「シャンボチェ」や「クムジュン」の集落は 標高約 3700~3800mあり、日本の富士山と同じ高さだ。ナムチェのロッジの 窓から見えた「コングデ・リー」は、裏手の丘に立つと正面(南側)に横長の 白峰が映える(写真 02.)。その左手(東側)には、朝日に眩しい「タムセル ク:6608m・カンテガ:6685m(写真 03.)」が見え圧倒される。 ●なだらかな丘をさらに登り「エベレストビュー・ホテル」へ向かう道から、 エベレスト街道の秀峰と言われる「アマ・ダブラム:6812m(写真 04.)」が、 北東にその山容を見せる。ビューホテルのベランダからも見える。その右手に 「ローツェ:8516m(写真 05・06)」、さらに右手の 5000m級の黒い峰の間に「タ ウチェ:6542m(写真 06.)」が、雲の切れ間に見えた。写真はないが、右手 には「カンテガ」や連なる「タムセルク」も身近に見ることができる。このホ テルからの眺望の素晴らしさを目標とするツアーもある(高山病の危険も少な く、トレッキング日数も短くできる)そうで、晴天のときの 180 度以上に展開 する山並みを想像すると「なるほど」と思う。 写真 01.ガット集落からクスムカングル 写真 02.ナムチェの丘からコンデ・リー

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●これから我々が辿る「エベレスト街道」は、エベレストの氷河から、秀峰「ア マ・ダブラム」の麓を回り込んで流れる「ドゥード・コシ渓谷」に沿って続い ており、その道筋の見る位置により、この秀峰の山容の変化を楽しむことがで きる。街道を歩む我々を見守っているかのようだ。 写真 05.タウチェ(左)とローツェ 写真 06.ローツェ(左)とアマ・ダブラム 写真 03.街道の秀峰 アマ・ダブラム 写真 04.朝日のカンテガ(左)タムセルク

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3.エベレスト街道から望む素晴らしき峰々 3-2.「ディンボチェ」周辺の峰々 ●10 月 14 日、滞在したナムチェを出発。本格的なエベレスト街道・好展望の トレッキングが始まった。ナムチェから「テンボチェ」に向かう途中のVPか ら、左手に「タウチェ」、奥の中央が「ローツェ」、そして右手が「アマ・ダブ ラム」のラインアップ(写真 07.)が見える。右手の「タウチェ」をクローズ アップ(写真 08…手前の雪のない黒いピーク(無名)は右が「5610m峰」、左 が「5724m峰」)。タウチェもこの先、街道の最奥に近い「ロブチェ」方面まで 行くと、山容を大きく変化させ興味深い。 写真 07.タウチェ(左)とローツェ 写真 08.タウチェと左右の雪のない無名峰

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●これらの山群は、右からの尾根筋の角々を曲がるたびに現れ、我々を感動さ せる。秀峰の「アマ・ダブラム」も山容を少しずつ変えている。この日(14 日)は、後半に 600mの標高差のキツイ登りをこなした後に、僧院のある「テ ンボチェ」に着く(ここにもテント場はあるが風が強い)。さらにドゥード・コ シ渓谷まで下った小さな集落の「デボチェ」で最初のテント泊となった。 ●10 月 15 日のデボチェから「ディンボチェ」への行程は、ドゥート・コシ川 の深い渓谷沿いをさらに進む。振り返れば「カンテガ・タムセルクの山群・写 真 09.」、さらに左手に「マランフラン:6573m・写真 10.」と思われる山群が 雪のない前衛の山々の上に顔をのぞかせている。 ●「ソマレ」の集落辺りまで来ると「アマ・ダブラム」(写真 11.)は、地図 上では右手真横の位置になる。肩の峰が主峰と同じ高さに見え、今までとは山 容が変化しているのがわかる。また、ローツェとその黒々と広がる南壁、左手 に続くヌプチェの長い頂(写真 12.)も一段と間近に見えている。 写真 09.カンテガ(左)とタムセルク 写真 10.カンテガの左手マランフラン(?) 写真 11.ソマレからのアマ・ダブラム 写真 12.ローツェ(右)・ヌプチェ

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●10 月 16 日に「ディンボチェ」で高度順応の滞在を行う。朝、南西に「カン テガ・タムセルク・写真 13.」の白い峰が朝日に浮かんでくる。また朝日を真 上・逆光に「アマ・ダブラム」(写真 14.)浮かび上がる。ここでは、最初に ナムチェで見た山容と真逆になる。肩のピークが本峰の右に位置している。 ●今日の泊まりのディンボチェのテント場からは、ローツェ氷河の奥に「ロー ツェ」、「ローツェ・シャー:8400m」さらに右の手前に「アイランド・ピーク: 6183m」(写真 15.)が位置する。さらに右手には「バルンチェ:6734m・カンレ アム:6430m(写真 16.)」と 6000m の峰々が「アマ・ダブラム」まで連なる。 カンレアムの左手のピークは 8000m峰のマカルーのようだ。 写真 13.カンテガ(左)とタムセルク 写真 14.逆光の朝日にアマ・ダブラム 写真 15. ローツェ(左)から右下の アイランドピーク 写真 16. バルンチェ(左)のピークから マカルー、右手にカンレアム

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3.エベレスト街道から望む素晴らしき峰々 3-3.「カラバタール」周辺の峰々 ●10 月 17 日はディンボチェ(標高 4410m)から、最終キャンプ地の「ロブチ ェ(標高 4910m)」を目指す。昨日の裏の丘に登りドゥーサの高原を行く。左 手には「タウチェ:6367m」と「ツォラチェ:6423m」(いずれも写真 17.) がのしかかるように迫る。その右手には「ロブチェ・ウエスト:6145m・イー スト:6119m」や、そのさらに奥には「チュンブー:6859m」の峰々が「プモ・ リー:7145m」(写真 18.)まで続く。高原の散歩道といったところ。 写真 17.タウチェ(左)とツォラチェ 写真 18.ロブチェピークからプモリ(右)

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●川沿いを辿る「ペリチェ」からの道を合わせて、「トクラの峠(標高 4830m)」 を登ると、真正面に「プモ・リー」がそびえ、「リングトレン:6713m」「クム ブチェ:6639m」の山並みが続く。数多くの慰霊碑(遭難碑?)のある丘から、 今まで辿ってきた道を振り返ると、カラフルな旗が風にはためく先に、あの「ア マ・ダブラム」(写真 19.)が端正な姿を見せていた。 ●10 月 18 日は最終目標への登頂日、ロブチェからゴラクシェの集落をへて「カ ラパタール」へ一気に登る。朝はまだ暗い 5 時に出発。クーンブ氷河の右手に 見える「ヌプチェ」(写真 20.)も、行く手にそびえる「プモ・リー」(写真 21.) も雲に遮られて寒々しい。 写真 19.トゥクラ先の峠の慰霊碑の場所…アマ・ダブラム 写真 20.ロブチェを出発・朝のヌプチェ 写真 21.プモ・リー(左)からリントレン

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●5000mを超えてくると、思考や行動が鈍くなる。ただ黙々と歩き、明るく開 けた「ロブチェ・パス(峠・標高 5110m)」で一休みする。先にはゴラクシェ の集落が見え、その先に雪のない「黒い丘(カラパタール)」と、その背後に 「プモリの白い峰」(写真 22.)が切り立っている。東側はまだ雲が部分的に 覆い、エベレストの「北西コル」の先(チベット側)に「チャンチェ:7553 m」(写真 23.)が顔を出している。この時間では、コルの右手に続く稜線(エ ベレストのピーク)からヌプチェにかけては雲に隠れてその「頂」は見えない。 ●ロッジで休んだ後、9時からカラパタールの登りに入った。丘の最初のキツ イ登りをこなすとなだらかな高原になる。エベレストやヌプチェにかかってい た雲が次第に切れ、時々ピークが見え始める。空はあくまで青く(…紺碧の空)、 たなびく雲の白さと対照的だ。 写真 22.ゴラクシェからのプモ・リ― 写真 23.北西のコルの先 チャンチェ(中央) 写真 24.カラバタールの登りからエベレスト(中央の黒い峰)とヌプツェ(右の鋭鋒)

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●カラパタールのピークへは岩の堆積した尾根筋を登る。苦しい息の中、振り 返ると世界最高峰の「エベレストの黒い岩壁と頂(標高 8848m)」が、そして 「ヌプチェ」の鋭峰が青空に広がっていた(写真 24.)。カラパタールのピー ク(写真 25.…観測用の鉄組と色の旗がある)は見えるのだが、体が先に行か ない。11 時半にやっとピーク(標高 5545m)を踏んだ。その直下で、仲間と シェルパ達と握手して、記念の写真を撮った(写真 26.) ●山頂での 30 分ほどの時間があっという間に過ぎた。サーダーに促されて 12 時少し過ぎには下山を開始する。この下りの正面に、雲の切れたエベレストの 黒い岩肌とその鋭い頂きが氷河を隔てて対峙している。右隣のヌプチェが素晴 らしい山容を見せている。登りで正面に目指したプモ・リーを背後に、氷河の 行く手には、今までの長い道中で我々を慰めてくれた「クーンブ山群」(写真 27.)が、例の何度も紹介する「アマ・ダブラム」をはじめ広がっている。右 手にタウチェとソォラチェが我々を見送り、遠くのカンテガやタムセルクが少 しずつ近づいてくる。ロブチェには、16 時近くにやっと着いた。私たちは、 テントにへたり込んだ。長い一日が終わった。 写真 25.カラバタール 背景プモ・リ― 写真 26.エベレストを背景に記念撮影 写真 27.ゴラクシェから クーンブ山群(左のアマダプラムから右のツォラチェまで)

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■エベレスト街道から望む峰々…「写真と記録」

コンサイス「外国山名辞典」から 写-19 写-20 写-21 写-27 写-26 写-03 写-04 写-02 写-01 KusumKhangaru 写-06 写-25 写-11 1 写-14 写-12 写-05 写-24 写-22 写-23 写-16 写-13 写-15 写-07-08 写-17 写-09 IslandPeak 写-10 KanguLeam

参照

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