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【討論】「正しさ」という正規の思考は消
えていくのか
2017/9/17 今回の討論参加者 高橋源一郎(作家、明治学院大学教授) 波頭亮(評論家、日本構想フォーラム幹事) 南場智子(ディー・エヌ・エー代表取締役会長) 西川伸一(AASJ 代表理事、JT 生命誌研究館顧問) 山崎元(経済評論家) 島田雅彦(小説家) 茂木健一郎(脳科学者) 上杉隆(メディアアナリスト)科学は「対称性」で発展した
西川 僕は「なぜ 17 世紀に近代科学が誕生したのか」という疑問を本にも書いて研究 したのですが、結論としての着地点は、キリスト教は他の一神教と異なって、神と人 間が対称的になれたことです。それによって、科学研究が進み近代科学が誕生したの です。 キリスト教では、聖母マリアは神の母という位置付けだから神と人間が対称的になれ た。それがすごく大事なことだったんですね。 一方、仏教を見ると「成仏する」ということから、もともと神と人間には対称性があ ったのですが、宗教のヒエラルキー性をなくそうとする人がたくさん出てきた。高橋 さんのお話に出てきた、親鸞などです。2 また、脳科学的に考えると、数万年前に言語が誕生し、その後にエリート主義のよう なものが生まれています。その意味で、対称性と非対称性の問題は科学的にも興味深 いテーマですね。 西川伸一(科学者、AASJ 代表理事、JT 生命誌研究館顧問) 島田 いま西川先生がお話ししたように、近代科学は宗教を切り離すところから始ま り、その後科学主義がヨーロッパで浸透していったのだけれども、どこかでキリスト 教保守主義の伝統は長いこと存続してきました。 科学的、論理的、あるいは資本主義的な考えや感覚が発展しても、キリスト教保守主 義的な感覚は、確かに今も非常に粘り強く存在しています。この状況が、ときに理性 的な判断を超えて、悪くするとファシズムに至ったりしています。 文学がこの問題に関わるときは、どちらかというと科学よりも宗教に近いスタンス で、非理性的な行動を人間が捨て去れないものとして扱ってきたと思います。 ロシア文学でいうと、ドストエフスキー作品のポリフォニーという終わらない対話 (独白)は、どんどんカオスになり、収拾がつかない状態になっていきます。この対 話の根拠にはやはり宗教が強烈に存在しています。
3 文学では、大衆に支持される感覚に迎合していく立場と、真実として存在している多 様な意見を担保する立場が、アンビバレンツとして今も存在し続けています。 島田雅彦(小説家) 高橋 ドストエフスキーは、信仰心があつく、宗教とは切り離せない作家です。 でも、『カラマーゾフの兄弟』では、無神論者(イヴァン)に対してアリョーシャ (ドストエフスキー自身)の信仰心の勝利を描くつもりだったものが、どう読んでも イヴァンのほうが魅力的に見えます。キリスト教が素晴らしいと褒めたたえているわ けではありません。 どういうことかというと、作家にとっては、どんなイデオロギーよりも「書くことそ のもの」が優先されているからです。時には自分の思想を裏切っても、です。 結局ドストエフスキー自身が本当は何を考えていたかは誰にもわかりません。言うこ とと書くことが矛盾しているから。でも、それも含めて一つの世界があるのです。 島田 とりわけドストエフスキーの場合は、トルストイやバクーニンとは違って、思 想性がなく、政治犯や異端を取り込むなど、徹底的に多様というかアナーキーです。
4 高橋源一郎(作家、明治学院大学教授)
若者が見ている世界
茂木 レビー小体型認知症というものがあり、この患者さんは、目の前に女の子の幻 影がたまに現れたりします。ふつう科学では正規的な説明として、この幻影を確率モ デルで表します。しかし、もうひとつ説明の仕方があり、それが複雑性です。 決定論であるカオス的遍歴では、「思考がめぐる中で、何かの理由であるところに行 くと、レビー小体型の患者さんは女の子の幻影を見る」というように説明されます。 要は、科学と決定論の違いは、世界をどう見るかの違いです。 例えば、なぜトランプ氏が大統領になったかを説明するとき、グローバル化に対する アメリカ第一主義みたいな言説が正規的な説明です。しかし、「世界はカオス遍歴に なっており、理由はないがトランプ氏が当選した」という説明のほうがおそらく真実 に近い。 高橋さんのお話に出てきた「断片性」も、必ずしも非科学的なのではなく、複雑系の 科学から見ると、説明がつくものなのではないかと思います。 今の科学では、確率的な世界観が正規の領域になっていますが、科学においても非正 規な見方は存在しています。文学だけでなく。そこが面白いなと感じました。5 あと、質問なのですが、高橋さんの話の中で、聞き取り調査中に「犬が死んじゃっ た」というような断片を集めて解釈しないという話を、学生たちはみんな面白いと言 ったそうです。しかも、正規の話である授業がつまらなくなってしまったと。 僕は安易な世代論には迎合しませんが、今の若者は、見ている世界観がわれわれ世代 とは、だいぶ違うのでしょうか? 茂木健一郎(脳科学者) 高橋 それは違うと感じます。僕も世代論は採りませんが。やはり年長世代は、どこ かでイデオロギーの刷り込みを受けて、そこから逃れてきましたから。例えば、戦後 民主主義、東西対立、マルクス思想など。 その痕跡がやはり今も残っています。だから、正規なものに対して理解もできるし、 反対もできる。一方、今の若い子は、そういうイデオロギーに、そもそも触れたこと がない。だから反発もしませんね。 学生と話していて面白かったのは、ベ平連の反戦デモの映像を見て、「これヤバいで すね。面白いですね。こんな楽しい動きは初めて見た」と。 島田 デモが未開の民族の踊りに見えた(笑)。 高橋 今の学生はデモを「これは集団ダンスなのか?」という目で見られるんです。 イデオロギーの洗礼を受けた世代は、その耐性があるので、強いものに強く、逆に弱
6 いものを感じる力がちょっと苦手です。一方、若い世代はとても感受性が鋭いと思い ます。 根本的には変わっていませんが、受け取り方が違っていて、今の若い人の感性はとて もフィジカルです。先日、学生に 1970 年代の青春映画「八月の濡れた砂」を授業で見 せたんです。 一同 懐かしいですね。 高橋 湘南の高校生の物語です。どんな話かというと、主人公(高校生の男の子)の お母さんにブルジョアジーの恋人ができて、最後にその男が持っているヨットを乗っ 取ってしまう。母親への反抗として。 他にも、ライフルを撃ったり、ペンキで落書きをしたりと、青春の反抗をしていく泣 ける物語です。学生に感想を聞いたら、あまりに意外な答えが返ってきました。 一つは、「ライフルを撃つ、ヨットを乗っ取るのは犯罪ですね(笑)」。もう一つ は、「あんなに汗かきまくっていて暑苦しいですね(笑)」。われわれだったら、犯 罪は想起しないでしょう。もっとやれ、と思ってしまう。 また、汗については、僕は気づきませんでした。彼らは、僕たちが気づかないことに 気づく。感覚のアンテナは優秀だけど、虚弱なイメージもあります。 これは世代論というよりも、生き物の進化論で、過酷な時代に対応するよう心身が変 わってきたのだと感じます。
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正しさの軸はどこへ行くか
波頭 われわれは、何かを評価するときに、正しいかどうかの軸で対象を相対化しよ うとする思考の方法論が刷り込まれています。一方、今の若者は、正しさの軸が希薄 ですね。面白いか面白くないか、あるいは快か不快かという軸なのでしょう。 高橋さんは、次の時代を迎えるにあたって、われわれの刷り込みを問題視されていま す。この先、若い世代も過酷な社会環境と厳しい生活に追いつめられて正しさの軸や 功利性の軸が復活することになるのか、あるいは今の傾向が続いて正しさの軸が消え ていくのか。 言い換えると、限界を超えている資本主義の宿痾(しゅくあ)ともいえる格差と非民 主主義的な関係が、BI(ベーシックインカム)によってアウフヘーベン(矛盾を解決 する)されるとか、AI が発達して今のインテリジェンス優先主義が土台から崩れ、人 間の価値は感覚や感情に収斂していくのか。そういったイシューになると思います。 この 2 つのシナリオは、どちらも現実の兆候が見えるようになってきています。 あともう一つ、感想として、私も 15 年ぐらい前、親鸞をごりごりと読んだ時期があり ました。そのとき、私もキリストの贖罪(しょくざい)と同じことを書いてあること に気づきました。ですが、私が感銘を受けたのは親鸞ではなく、一遍でした。 親鸞は「1 回念仏を唱えるだけ」で悪人をも救おうとしましたが、とはいえ、念仏を 唱えた当の民衆一人一人は 1 回念仏を唱えただけで本当に救われる実感を持てたのか というと、実はそうでもなかったのではないかと思ったのです。 一方、「踊り念仏」の一遍上人は、改めてすごい人だと思いました。一遍について行 って踊り狂うことで、理性つまり正規の正しさの押しつけを脱することができた。 つまり現実的解脱を得て、不安や恐怖や迷いから逃れ、主体的に彼岸に行くことがで きたのだろうと思えたからです。8 波頭亮(評論家、日本構想フォーラム幹事) 島田 仏教はキリスト教に比べると、異端に対する扱いがゆるいですね。いろいろな 宗派が出てくる。そして、念仏仏教の後に出てきたのが禅宗です。禅は一種のニヒリ ズムであり、また、ある意味エリート主義です。 これを現代と対比させると、安保闘争で石を投げていたときは、念仏仏教的な大衆性 があったけど、その後のニューアカデミズムになると、一気に禅っぽくなりますね。 言葉はどこまで信頼できるのか 山崎 高橋さんは前回のスピーチで、狭い合理性の中で「正しさ」を考えると、罠に はまってしまいやすい。そこから抜けるためには、正しさに抵抗して現実の複雑さに 立てこもるのがいい戦略だという話をされました。 ただ、その現象あるいはイメージを言葉にすると、うまく伝わるとは限りませんね。 言葉はある程度の規則、論理性があって広く伝わるものですから。現実には、そのイ メージ、現象を言葉で表現したとき、多くの現実を取りこぼしていると思います。 そこでお聞きしたいのですが、作家の方は、この言葉に対する信頼感を、どのくらい 実感しているのですか。
9 山崎元(経済評論家) 高橋 それは、とても大切なことです。 言葉への信頼について言うなら、もともと小説家は言葉を使うしか手がないわけです ね。親鸞の称名念仏も言葉しかありません。それは言葉が有益で素晴らしいからでは なく、言葉しかないからです。ある意味、言葉は限定的なものです。そのことは、よ くわかっています。 例えば、素粒子学の科学者の話で、有名なニールス・ボーアとハイゼンベルクの対話 というのがあります。素粒子論は、方程式(数式)にすると波動性と粒子性を同時に 表現できます。 しかし、これを言語で表すと、「波であり、粒である」となって、誰もイメージでき ない。「では、どうすればよいか?」とボーアが聞くと、「それは言葉の限界だよ ね」とハイゼンベルクは答えています。つまり、そもそも言葉には限界があるわけで す。 どういう限界かといえば、認識の限界です。もっと言うと、人間性の限界です。言葉 は、雑駁で十全には表現できないものだと、僕は思っています。 しかし、だからいいのです。なんでも完璧に表現できてしまったら、つまらないです よね。人間も、欠点だらけだから、素晴らしかったり、悲しかったりするのです。
10 *明日に続きます。