日本認知・行動療法学会 第44回大会 71
-エビデンス・ベイストとは何か―ナラティブ・アプローチの観点から
○斎藤 清二 立命館大学総合心理学部 【はじめに】 科学の観点から臨床心理学を論じる時、頻繁に口の 端に上る言葉が「エビデンスevidence」である。しか し、「エビデンス」や「エビデンスに基づく実践」を 巡る言説は往々にして混乱している。医学において 1990年代以降、 「エビデンスに基づく医療:Evidence-based Medicine: EBM」という概念が普及して以来、 これらの言葉は特定の意味を持つようになった。本講 演では、まずEBMについての基本的事項を再確認した 上で、2006年に米国心理学会APAが提唱した「心理学 におけるエビデンスに基づく実践(Evidence-based Practice in Psychology: EBPP)」について解説し、 最後に臨床心理学における現時点でのEBPPの位置づけ について述べる。 【エビデンスに基づく医療(EBM)】 EBMという概念が正式に医学の世界に登場したのは, ガイアットGuyatt GHによる1991年の論文においてで ある。ガイアットは,最初 Scientific Medicine(科学 的な医療)と命名するつもりであった。しかし,この 名称は同僚を含む多くの医師や科学者からの反対を考 慮して採用が断念された。『JAMAユーザーズガイド』 において,ガイアットらはEBMの基本的な 2 つの原則 を以下のようにまとめている。 1 ) EBMは臨床判断を 導くためにエビデンスの階層(hierarchy)を認める。 2 )エビデンス単独では十分な臨床判断を行うことは 決してできない。この第一原則は「エビデンスそのも のの評価」に関わり,第二原則は,「エビデンスをい かに患者ケアに利用するか」に関わる。このEBMの二 層構造は,サケットSackett DLらの1996年のEBMの定 義:「EBMとは,個々の患者のケアにおける意思決定の ために,最新かつ最良のエビデンスを,一貫性を持っ て,明示的に,思慮深く用いることである」において も明確に示されている。つまり、エビデンスとはEBM において用いられる情報であり,EBMは「個々の患者 のケアのための臨床判断」のプロセスでありEBMとエ ビデンスは異なる論理階型に属している。エビデンス は,実証主義的な科学観に従い,出来る限り厳密な統 計学的な方法論を用いた実験的あるいは準実験的なデ ザインによって作成され、研究論文として具体化され る。その質は,同じ原則に従う批判的吟味(critical appraisal)の方法によって評価され価値づけられる。 エビデンスにおいて働いている合理性は、「合法則的 合 理 性 」 で あ る。 エ ビ デ ン ス は、 一 般 化 可 能 性 (generalizability)を持つことが要求される。しか し,EBMそれ自体はエビデンスとは異なる科学的原理 に従っている。EBMは個別の事象(臨床)に関わる実 践のプロセスであり,その本体は連続する臨床判断の プロセスである。サケットらによるEBMの教科書およ び米国医学研究所の見解では、EBMは「臨床実践にお いて『最新最良のエビデンス』と『患者の意向』と『医 療者の臨床能力』を統合することである」とされる。 EBMは個別の患者への最良のケアをその揺るぎない目 的に据え,複数のレベルの異なる要素(エビデンス, 患者の価値観,医療者の臨床能力)を個別の臨床文脈 において統合し,臨床判断に結びつける営みである。 EBMのプロセスにおいて働いている合理性は「合法則 的合理性」ではなく,「合目的的合理性」をもった「複 雑な批判的思考」がEBMを支えている。したがってEBM そのものは、エビデンスとEBM (の実践プロセス)を 包含する動的な構造であり、「科学(エビデンス)を 利用する科学的な営み」としての実践科学の一つであ ると言える。 【心理学におけるエビデンスに基づく実践(EBPP)】 EBMの概念が提唱されて以来、幅広い学問的、実践 的領域においてEBMのモデルは伝搬、浸透、拡大して いくことになった。それらは、「エビデンスに基づく 実践Evidence-based Practice(EBP)」と総称される。 しかし、心理学領域においては,エビデンスとEBPが 混同される時期がしばらく続いた。その最たる例とし て米国心理学会(APA)の臨床心理学部門(第12分科 会)が提唱した、一連のエビデンスに関連した概念が ある。APA第12分科会は、実証的研究によって有効と 認められた治療法を選別し、そのリストを作ることを 提唱し、これはEmpirically Supported Treatments: ESTs(実証的に支持された治療法)と名付けられ、近 年 で は R e s e a r c h - S u p p o r t e d P s y c h o l o g i c a l Treatments:RSPT(研究によって支持された心理学的 治療法)と改名されている。現在(2018年)公開され ているRSPT(EST)には以下の説明文が附されている。 「このウェブサイトは心理学的な治療法に関する研究 のエビデンスを記載するもので、治療者の専門知識と 患者の価値観や特徴を組み合わせて、治療への最適な アプローチを決定するためのものである。このウェブ サイトは情報と教育目的のためのものであり、APAの 公式方針を示すものではなく、個人に対しての専門的 アドバイスや特定の治療法の推奨を行うためのもので 教育講演 3日本認知・行動療法学会 第44回大会 72 -はない」。すなわちRSPTは心理学的治療法についての エビデンス情報を示すものであり、実践において“利 用されるべきもの”であるということが明記されてい る。APAは2006年に心理学領域における「エビデンス に基づく実践: EBPP」についてのガイドラインを公表 しEBPPを以下のように操作的に定義した。「心理学に おけるエビデンスに基づく実践とは、患者の特徴、文 化、意向などの文脈において、手に入る最良の研究成 果を臨床技能に統合することである」。この定義は、 Sackettが2000年に公表したEBMの定義とほぼ同一であ る。さらにEBPP ガイドラインは以下のような幾つか のポイントを強調している。 1 )EBPPの目的は「実証 的に支持された、心理学的評価の基準や、事例の定式 化、治療的関係性、介入法を提供することによって、 有効な心理学的実践を促進すること」である。 2 ) EBPPとESTsの概念は異なるものである。ESTsは治療法 から出発し「その治療法がある集団に対して有効であ るかどうか?」を問うものである。EBPPは患者から出 発し「その患者において、特定の効果を得ることに役 立つ最良のエビデンスとは何か?」と問うものであ る。ESTs(RSPT)とは特定の心理治療法のことであり、 EBPPは臨床判断のための方法である。 【まとめ】 このように「エビデンスに基づく実践」については、 医学においても心理学においても合意がなされている と考えてよい。しかし、上記の学術的な定義とは異な る「エビデンス・ベイストな実践とは、科学的に効果 が実証された治療を一律に患者に行うことである」と いった通俗的な理解が一般に流布していることが「エ ビデンスに基づく実践」の普及や適切な理解を妨げる 大きな問題になっているのである。 教育講演 3