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アリストテレスのファンタシアー概念について-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第71巻 第4号 1999年3月 149-172

アリストテレスのファンタシアー

概念について

斉 藤 和 也

は じ め に アリストテレスの心理学理論において,さまざまな心的現象を説明する時に 要となるのはファンタシア一概念である。それは,いわゆる残像現象,夢,幻 覚,記憶などを説明するとともに,欲望や思考が成り立つ前提条件としての役 割も合わせ持つ概念である。ファンタシアーは,ラテン語では, phantasiaや imaginatioと訳されたが,アリストテレスでは,まだ「創造的な想像力」とい う意味あいを持つてはいない。それは,何かを心に現れさせる能力という意味 あいで理解されている。伝統的には,この能力によって心に現れるもの,すな わちファンタスマは,心像(mentalimage)であると解釈されており,この心像 が感覚印象から生じるところから,それは,感覚された対象の表象(representa・ ( 1) cf.. Ross Aristotle(1949) 142-145 (2) いわゆる創造的な想像力という意味でのφaVTao[aの明示的使用は, Philostratus(紀 元後 2~3 世紀)にみられるが,その源泉は紀元前 1 世紀のストア主義的ープラトン主義 的シンクレテイズムにある。 cf“Watson59-95 (3 ) 語源的には,rtavTao{a, rta!JTaσμαはゆανTas'ωに由来する。Hel1enisticperiodでは, φaVTaoiaはrtaνrασμαをpresentする行為であるが, Pre-hel1enistic periodでは, 向νTaslωには中・受動しかなく ,rta!JTaσ似は受動的な受容能力という意味で用いられて いる。 rtaiενo8alとのつながりを好むこともこのことと関連する。しかし, φανTao[aが 心の能力とされる限りでは,アリストテレスにおいても,それは何かを心に現れさせる能 力として,rta!JTIασμαを作り出す能力という意味あいもある。 cfSchofield251-2, n.11

φ

a!JTaolaは,こうした「能力」という意味の他に,文脈によって,この能力による「経 験J,あるいはそれに伴う生理的運動,あるいはその経験の「志向的対象」という意味で も用いられる。

(2)

150- 香川大学経済論議 1206 tion)であると考えられることになる。 アリストテレスは W'デ・アニマ』第

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3

章において,ファンタシアーの意 味範囲を次のように限定する。 「ファンタシアーとは,それにしたがってある種のファンタスマが我々に生 じるところのものであり,何かを類比的に<ファンタシアー>と言うのでな いとすれば,果たして,それは,我々が事物を判別する場合に,すなわち真 や偽を語る場合に従う様々な能力や性向の一つであるのだろうか。J (DA 428al-2) ここで,ファンタスマ(心像)がファンタシアーに従って現れるとされるのは, 先行する箇所において,ファンタシアーによって何かを心に思い浮かべること ができると言われていることを受けていると思われる。そして,類比的な意味 におけるファンタシアーを除外するのは,感覚や判断や思考などについても, およそ心に現れるものという意味において,この言葉が使われることがあるか らである。この意味でのファンタシアーを除外しておかなげれば,この規定に 続いて,ファンタシアーがこれらの能力のどれでもないという議論を展開する 意味が見失われかねないのである。 伝統的な解釈では,上述のように,ファンタスマとは心像のことであり,そ れが事物との表象関係において見られる限りで,真か偽になると考えられてい る。しかし,現在,アリストテレス解釈者の聞において,ファンタシア一概念 をめぐって基本的な理解の不一致が見られる。伝統的な心像理論を批判する Nussbaumは,その『動物運動論』の注釈本のなかで,ファンタシアーは受動 的な心像形成能力ではなく,感覚の対象を能動的に「何かとしてみる」解釈的 な能力であることを論じた。また, Nussbaumは,アリストテレスにおいて, ( 4 ) Ross (QCT)の付加(忌ρα)を採用する。 ( 5) DA 427b17-20.引用箇所の直前では r思考することは,一方ではファンタシアーであ り,他方では思念であると一般に考えられている」ことが指摘されている。また,Insomn 450al-7において,幾何学の証明を考える人はファンタスマを心に思い浮かべることが指 摘されている。 ( 6) Hicks 460, Rodier 415-6, Simplicius 208, 6., Insomn 458b24-25

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1207 アリストテレスのファンタシアー概念について -151-ファンタシアーは,ゆανra

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Eσ0αtから理解されているのではなく,ゆαfνErα,tを indexとして捉えられていることを指摘したが,この点は,多くの学者によって 認められてきたことである。Schofieldも,ゆαfνεrωからファンタシア一概念を 理解する立場を採るが, φαfνε'['(1lは, Nussbaumの主張するような中立的・記 述的な用法ではなく,懐疑的・非関与的な用法で使用されているとする。本論 の立場は,どちらかというと伝統的な解釈に立つものであり,以下の行論にお いて,NussbaumやSchofieldの解釈には難点があることを示し,伝統的な解釈 に立ち戻るべきであることを論じる。 1.心像説の難点 ファンタスマを心像と解釈することは,ギリシア注釈家以来の伝統であり, これは,ファンタスマが記憶や想起,夢,思考などの様々な心的現象の説明概 念になっていることを考えるなら,自然な解釈と言えるが,一方でデ・アニ マ』第3巻3章において不明瞭な感覚や誤謬の感覚が論じられる時には,必ず しもこれらが心像概念によって説明されているわけではないという指摘も行わ れてき足。さらに,同章後半部(DA428bl0必 9a8)では rファンタシアーは, 感覚の現実活動から生じる運動であり,その感覚が存在する時にも存在する」 とされている。しかし,対象を見ているときに,同時にその心像を心に描くこ とがどうして可能なのであろうか。このことが不可能であることは, Schofield をはじめ多くの学者が述べているところである。以上のように,心像説に向け

(7) Nussbaum (1978) Labriere, GallopなどはNussbaum説に賛成する。 Wedin,Mo-drakなどは批判的である。 (8) Alexandrus, 68, 4-10, 0[0νro.πoν rwiiKαiaν'asωypaゆ甲μα主νr

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,r7ρCIJrqJ αiσ87Jrりρ

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qJ,山 Themistius, 89, 30, 0[0νrO7rOνrtviiKα,tμoρφ手νroiJalσ0甲μarosevrfiサDxfi.., Simplicius, 208, 14,ゆανrαOU:L dμ,owvμさνrortaνrαoμαavasω,yραrtoiJσαrfj) rραyμαrt (9) Rees, Hamlyn (131 ad 427b27), Schofield, Nussbaum (10) cf.Engman 1976も同じ意見を述べている。 Thenotion of imagination contempora -neous with perception ia an obviously odd one; 1 do not simultaneously see almond -tree outside my window and imagine it

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152 香川大学経済論叢 1208 られるテキスト解釈上の問題点は,

(

1

)

~.デ・アニマ』第 3 巻 3 章には,心像概 念では説明しきれない事例があること, (2)感覚の現実活動が存在する時に同時 にその心像を持つことはできないという

2

点にまとめられる。 後者(2)に関わる箇所(DA428b10-429a8)は, Canonical Theoryと呼ばれる こともあり,ファンタシアーの規定としては重要な箇所の一つである。そこで は,感覚には,固有感覚,共通感覚対象の感覚,付帯的感覚という種別がある が,これに応じて,ファンタシアーにも種別があるとされた上で,次のように 述べられている。 「感覚の現実活動から生じる運動は,上述の三つの感覚のどれから生じるか に応じて,異なる。第一の運動は,感覚が存在している限りにおいて,真で あるが,他の二つの運動は,感覚が存在している場合でも,存在していない 場合でも,偽であり得るだろう。とりわけ,感覚対象が遠くにある場合には そうである。J(DA 428b25-30) このテキストに従う限り,三つの種別のそれぞれにおいて,感覚が存在してい ない場合ばかりではなく,感覚が存在している場合においても,ファンタシアー は働いていることになり,感覚的対象との表象関係において,それは感覚と共 に真偽に関わることになる。この規定は自然学的な観点から述べられているが, この章の中間部分(DA427b27 -428b9)では,ファンタシアーが心的能力として 捉えられ,それが他の心的能力とは異なることが明らかにされている。 Schofieldは,ファンタシアーの概念規定は『デ・アニマ』で行われていると見 るべきでありIi自然学小論集』におげる記憶や夢などの分析や『動物運動論』 などにおける動物の行動分析におけるファンタシア一概念の使用は,これの適 用と見なすことができるとしてIi"デ・アニマ』第

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章の中間部分の議論を 中心にこの概念の検討を行う。そこで明らかにされたことは,1)アリストテ レスは,ファンタシア一概念を,ゆαfν

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という動調との関連で捉えているこ と,および, 2) ファンタシアーは「非典型的な感覚経験」を総称する概念で (11) cf. Wedin xi, Nussbaum 251

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1209 アリストテレスのファンタシアー概念について -153-あることである。「非典型的な感覚経験」とは標準的感覚からその特徴のいくつ かを欠いたものであるが,たとえば,夢が眠っている人に現れる場合でも,不 明瞭な感覚対象について I~ と思われる」と発言する場合でも,これらは成功 した感覚に比べて欠陥のある感覚的経験だと考えることができる。このことか ら,

3

)

if;atνEratの懐疑的,非関与的,警戒的な用法が出てくる。それは,中 立的,あるいは記述的な用法ではない。さらに, 4) ここでいう「非典型的な 感覚経験」は心像を排除するものではないが,すべての場合に心像が現れるわ けではないことが指摘される。 では, Schofieldの解釈は,この章におけるふたつの重要な用例について,ど のように適用されるのであろうか。まずそれを確かめておこう。 【L 人影の目撃 … 不明瞭な感覚】 「感覚対象について我々が正確に能力を働かせている場合,我々はそれは 我々には人間であると思われる』とは言わないのであって,むしろ,そのよ うに言うのは,我々がはっきりと感覚していない場合である。J(DA 428a12 -15) 【2..太陽の見え … 誤謬の感覚】 「あるものについて人が真なる判断をもっとしても,同時に,そのものが偽 なるものとしてその人に現われることがある。たとえば,太陽はーブースの 大きさだと思われるが,それが人間の住む大地よりも大きいと人は確信して いる。J(DA 428b2-4) Schofieldによれば,アリストテレスは人々の言語的な振る舞いに基づき,それ を手引きとしてファンタシア一概念を考察している。このふたつの例において, ゆαfνεratは懐疑的な用法である。遠方の人影を見た人も,太陽を見た人も, ゆαfνεratと言う言葉を懐疑的な用法で使っている。【人影の目撃】は感覚との違 いを明らかにするための議論であり,【太陽の見え】は判断との違いを明らかに するための議論であるが,いずれにおいても,心像については語られていない。 (12) Rossの提案は賛成しがたい。 Hickに従い,rór,εω 村保甲府vð~~ は削除する。

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-154ー 香川大学経済論叢 1210 発言者に現れているのは,自分の感覚が真かどうかの疑わしさである。「我々に は」という言葉は,判断の主観性の意識を表しており,意識的にせよ無意識的 にせよ,自分の見た感覚与件の解釈を行っていることを意識している表現であ る。 Schofieldは,このように,ファンタシアーの解釈的な作用を認めている。 そして,はっきりしない対象が人間のように見えると或る人が言うとき,その 発言者は実際に自分が知覚したことを越えて判断を行っているので,その判断 は警戒的な言明となると考えるのである。第二の例においては,太陽の感覚的 な見えはどのようにしても小さいが,発言者は学問的な知識を持っているので, そのことを懐疑的なi

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jで表現しているというわけである。この場合, φαfνε'[',仰は中立的・記述的用法であるようにみえるが, Schofieldは通常の認識 能力の枠内において思考能力を働かせている条件下では,懐疑的な用法と見な すべきであるとしている。 では,心像説ではこれらの事例についてどのような解釈をくだしているので あろうか。ここで近代的解釈の代表者である Freundenthalの議論を参照する ことにする。 Freundenthalは,おおよそ次のような議論を展開している。ファンタシアー には,1)感覚器官,とくに目に対する現れ,

2

)

現れが真でないときに形成 される「虚偽像j, 3)以前に知覚した像の我々の中における現れとしての「表 象」および「表象能力j,という三つの基本的な用法がアリストテレスにおいて 見受けられる。このうち,重要なのは, 3) の心理学的な用法である。これら の用法において i現れj i仮象」という意味が根元的であり i表象」という意 味は,これから派生したものである。これは「感覚印象の残留 (Das

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eiben der Affectionen)jとされるが,それは,感覚の運動が感覚器官に刻み込んだ痕跡で もなければ,感覚器官に引き起こされた持続的な性質変化でもない。それは, 弦の長期間の振動運動に類比せられるような感覚器官における感覚の運動の継 (13) cf.Insomn 458b28-29r健康な人にとっても知識ある人にとっても太陽はープースの 大きさに見える。」 (14) Freundenthal15-33

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1211 アリストテレスのファンタシアー概念について -155 続である。感覚器官における運動は,血液という媒体を通って,感覚器官の内 部を伝わり,さらに感覚の中枢たる心臓にまで達するが,この時,いわゆる意 識が生じる。しかし,すべての運動が感覚の中枢に達するわけではなく,潜在 しているものもある。そして,ある条件のもとで,この運動を抑制しているも のがなくなるとき,その運動は心臓に伝わり,意識される。これは,感覚像が 外界の事物の像であるように,感覚像の像である。 このような生理学的説明に基づいて, Freundenthalは心的現象を説明する。 感覚器官に滞留していた運動が他のものと混じり合わずに心臓に達する場合, 表象能力の作り出す像は,感覚された対象の忠実な写しである。これは,いわ ゆる想像ではなく,外界の対象の表象であり,従って,表象能力は再生的能力 である。この限りにおいて,表象は弱められた一種の感覚である。 では, Freundenthalは上述のふたつの事例について,どのように解釈するの であろうか。いずれの場合でも,感覚像が不完全であることが感覚者に意識さ れているが,この不完全な感覚像がファンタシアーを刺激して,この像を補完 するというのが, Fr eundenthalの答えである。同じく心像説に立つ Buscheも, 不明瞭な感覚が生じた場合,ファンタシアーが過去の記'憶から明瞭なファンタ スマを賦活させ,不明瞭なところを補うという考え方を採る。太陽の見えにつ いては,感覚された大きさの不十分な査定が想像上の大きさの比較を呼び起こ すことによって感覚を補償すると考える。 しかし,このような説明は, Schofieldの説明を知っている我々にとっては, 次の点で問題であろう。遠方の人影は感覚像ではあるが,それが補完されてはっ きりと人間であると確認できるわけではなしむしろ確認できないこと自体の 報告を「思われる」という動調は表現しているのではないか。また,太陽の見 (15) さらに,記憶,想起,錯覚,幻覚,夢などについての説明が続くが省略する。Freundenthal 33-46 (16) Freundenthal 46-48 (17) Busche 583-4国有感覚については,星のちらちら光る現れを事例にして説明するが, アリストテレスの議論からはずれている (581)。

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156- 香川大学経済論叢 1212 えについても r思われる」と言われているのは,誤りを意味しているのであっ て,かつての知覚の貯蔵庫からの補償という説明は,不明瞭さや誤りを表現し ている言語的事実に対応した解釈とは言えないであろう。また,この説明は, ファンタシアーが感覚の現実活動から生じる運動であるという上述の規定を満 たしていなし〉点で特に問題である。これらの事例は r他のこつの運動は,感覚 が存在している場合、でも,存在していない場合でも,特に感覚対象が遠くにあ る場合は偽であり得る」との規定に当てはまる事例である。「それは我々には人 間だと思われる」との言明は,何か見えているものを知覚している時点でも, そのものが消え去った時点でも,誤りの可能性の高い言明として発言されてい る。また,太陽の大きさに関する発言も,太陽を硝子越しに眺めながらの場合 でも,太陽を見ていない場合でも,誤りを意味するものとして発言されている ものである。これらの事例で問題とされるべきファンタシアーの内容は,現に 感覚されていることから生じている運動に含まれている限りのものでなければ ならない。上述の

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2

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の規定は,一部の学者からはアリストテレスのス コラ的厳密さのなせる勇み足であり,厳密な解釈を要しないと言われるが,こ の箇所との折り合いを付けないファンタシア一概念の理解は,不十分だと言わ ざるを

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尋ないのである。 この箇所との調和という観点から見ると,

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の解釈も難点を含む。彼 は,自らの解釈はファンタシアーが偽である場合には当てはまるが,固有感覚 が存在しているときに真であるファンタシアーについては,説明することがで きないことを認めている。確かに,かなり多くの場合,ファンタシアーは偽で あるが,真である場合がある限り,

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の解釈する用法が『デ・アニマ』 におけるファンタシアーの用法であると断言することにはやはり問題がある。 また,

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は,この解釈の長所の一つは,上述の

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の規定,すな わちファンタシアーを現実の感覚の因果的な足跡とする規定を理解可能にする ことだとしているが,感覚の現実活動から結果する運動が,なぜ,感覚与件の 解釈になるのかは明らかではない。 では,これらのテキストを調和させうる解釈は,どのようなものであるのだ

(9)

1213 アリストテレスのファンタシア一概念について 157 -ろうか。ここで,少し迂回的になるが,心像説批判を行い,ファンタシア}を 感覚の解釈的局面とした

Nussbaum

の解釈を検討することにしたい。現在,一 定の支持を得ているこの解釈の心像説批判を克服するなら,我々の解釈にもあ る程度の見通しを付けることができると考えられるからである。

1

1

.

Nussbaum

の心像説批判

Nussbaum

はまず,心像説を表象論の観点、から批判する。彼女によれば,弱 められた一種の感覚としての心像理論は次の

2

点に収散するとされる。 (1) ファンタシアー

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はすべての場合において心像

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を 含み,心像は対象との類似性によってこれを表象する

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。 (2) ファンタシアーは論理的に独立したこつの過程(心像の保持とそれの注 視)を含む。 表象は一種の対象の指示であるが,対象の純粋のコピーは存在しない。心像 説には,心像は,対象を忠実にコピーする程度に応じて対象を表象するという 前提が含まれているが,対象との類似性はそれの表象の十分条件でも必要条件 でもない(類似性があるからといって,ただちに対象を表象しているわけでも ないし,対象を表象しているとすれば,それに類似しているはずだということ にもならない)。類似性を表象の必要条件とする見方には,【無垢な見え,あり のままの事物を見る一つの方法がある】という検討されていない前提が隠され ている。表象は実在の再生

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の問題ではなしむしろ解釈の問題で ある。我々が実在をありのままに見るということはなしむしろ,ピカソの絵 が我々の世界に対する見方を変えたように,我々の行う解釈が我々の世界に関 する知識を変えていると考えるべきである。 また,ファンタシアーにおいて,心像(=絵)が現れるのであれば,これを 何度も繰り返し見ることによってそこからいくらでも情報を得ることができる が,しかし,ファンタシアーには我々の解釈した内容しか含まれていない。

Nussbaum

がこのように論じて心像説を退けようとするのは,ファンタシ アー概念に対するアリストテレスの貢献が,受動的な心像形成という捉え方に

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-158- 香川大学経済論叢 1214 ではなく,対象に対する能動的な解釈という捉え方にあると考えるからである。 その能動性が明確になるのは,行動の文脈である。動物が行動する直近の原因 は欲求にあるが,欲求はファンタシアーなしにはあり得ない。欲求の対象を動 物に意識させるのはファンタシアーであるが,

Nussbaum

によれば,これは感 覚を構成している,それの「として見る」側面である。

Nussbaum

は,ファンタシアーの用例を逐一検討して,心像説を退けるが, それに代わる rとして見る」作用としてのファンタシアー解釈は,我々の見る ところでは,テキスト的には根拠がないと思われる。この点を明らかにする前 に,次の節では,心像としてのファンタスマが明瞭に現れている箇所を検討し,

Nussbaum

が言うほど心像説が哲学的に維持しがたいものではなしむしろあ る重要な意味がそこに含まれていることを明らかにしたい。 III.ファンタスマニ心像説の改訂 ファンタスマが心像として理解されるのは,まず,感覚印象の残留物として それが感覚に似ているという点である。この点が明瞭であるのは,残像現象で ある。 「感覚器官のそれぞれに対応した感覚対象が我々に感覚を作り出す。そして, それらによって生じた情態は感覚が働いているときにのみ感覚器官のなかに 存在しているのではなし感覚が去ったあとでも感覚器官のなかに存在して いるのである。J(l

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「このことは我々が連続的に何かを感覚するときに明らかである。感覚をた とえば太陽から日陰に移すと, {移す以前の}情態が伴ってくる。なぜなら, 光によって自の中に生じた運動がまだ残っているために,何も見ることがで きなくなるからである。一つの色を,自にしろ緑にしろ,長時間見つめた場 合にも,我々が視線を移した当のものの色は,前に見ていたものの色に似て (18) 正確に言うと r思考されるか表象されるかして(DA433b12)J である。思考に関して は後述する。

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1215 アリストテレスのファンタシアー概念について -159ー 見える。太陽やその他の輝くものを見つめたあと,自をつぶ、ると,注意深く 観察する人には,その見たものが,我々が見た方向にまっすぐ,まず,それ 自身の色合いにおいて現れ,次に深紅色に変わり,さらに紫になり,最後に 黒色になって消えてゆく。J (l

nsomn.

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長い引用であるが,ここから,残像としてのファンタスマがたった今感覚した ものの残留物としてその感覚印象の弱化したものであることは明らかである。 残像が時間の経過と共に弱まりやがて消えていくことは誰も否定することはな いであろうが,感覚対象が存在しなくなる時点で生じるものはすでにファンタ スマである。 Sorabjiは残像をアイステーマ(感覚印象)だとするが,残像は アイステーマを感覚対象とするものである。つまり,感覚対象が感覚活動の作 用原因であるように,外界の事物が去ったあとに残った感覚印象が残像の作用 原因となるのである。残像において我々は残存している感覚印象を見ているの である。 ファンタスマが心像であることを示すもう一方の事例は,思考の場面の分析 にある。~.デ・アニマ』第 3 巻 7 章一 8 章では,思考におけるファンタスマの位 置づけが行われている。そこでは r思考はファンタスマなしにはあり得ないJ, あるいは「思考にはファンタスマが与えられている」という文が繰り返し現わ

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れる。思考はその志向対象としてはノエーマ(思考対象)を持つが,ノエーマ が感覚的な事物の形相の中に含まれているので,思考はファンタスマなしでは 働かないのである。したがって,思考が働くときには,付随的にかならずファ ンタシアーが働くと言うことになる。このことを明瞭に示しているテキストは, 『記憶と想起について』の中の一節である。そこでは,思考することにファン タスマが不可欠であることが,幾何学の証明における図形の描画に比定されて いる。 「人はファンタスマなくして思考することはできない。というのは,思考す (19) Sobabji 12. (20) DA 431a14-17, ih1b2-4, 432a7-10

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160ー 香川大学経済論叢 1216 ることにおいて,図形を描くことにおけるのと同じ事態が起こっているから である。後者において,我々は,三角形が特定の大きさをもっという事実を 用いることはしないが,それにもかかわらず,三角形をある特定の大きさを 持つものとして描くのである。そして,思考する人は,たとえ特定の大きさ のものを思考しないとしても,ある特定の大きさくのもの>を思い浮かべる のであり,それを大きさくを持つもの>としては思考しないだけである。も し,対象の本性が大きさを持つものであるが,それが限定のない大きさであ るなら,ある特定の大きさくのもの〉を思い浮かべて,大きさであるという 観点においてのみ,これを思考するのである。J (Mem “450al-7) この箇所は,幾何学の証明を異体的に黒板に描いて証明する場面が想定されて いると解釈することもできるし,心に図形を描いて自分で証明を考えている場 面が想定されていると解釈することもできるが,いずれにしても,この箇所で は,ある大きさの図形を心に思い浮かべることが思考の働く前提条件だとアリ ストテレスが考えていることは疑い得ない。もちろん思考する人は,思考の志 向的対象としては,ノエーマ(思考対象)を持つが,それのいわば対象的に存 在する場をファンタスマの中に求めなければならないのである。この箇所では, 明らかに,ファンタスマとして心像が考えられている。それは,特定の大きさ を持ったものであるが,その大きさについて思考によってさまざまに解釈する ことが可能な柔軟な構造を持つものとされている。「思い浮かべる」と訳した言 葉は,直訳すると「目の前に置く」となり,心の中に心像を思い浮かべること を意味している。心像は「内的な注視の前に置かれる」が,外界に存在する事 物のように,それを繰り返し眺めながらそこから情報をいくらでも取り出せる ようなものとしては,内的な注視の前に置かれてはいない。思考にとって必要 である限りの情報構造を持つものが「内的な注視の前に置かれる」とき,そこ に心像が形成されると言ってもよい。情報的には限られていても,もともとの 感覚印象に似ているために,心像は感覚対象を表象する機能を持ちうると考え られる。その限りにおいて,心像は真偽の価値を持ちうる。このように,心像 という表現には,確かに「心の中に見える画像」という意味あいが含まれてい

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1217 アリストテレスのファンタシアー概念について -161-るが,アリストテレスが考えているのは,ファンタシアーは感覚印象から生じ るものであるから,ファンタスマのあり方は感覚印象の志向的なあり方に対応 しているということであろう。このことは,和音の感覚印象に対応した聴覚の ファンタスマのことを考えてみれば,理解しやすいかもしれない。我々がドミ ソの和音とドファラの和音のどちらが心地よいか考えるとき,頭に浮かんでく るのは聴覚映像のファンタスマである。これは視覚的画像ではないが,聴覚の 感覚印象に対応している映像である。それは明瞭に耳に響くものではなく,何 となくその違いがわかるようなものとして,現実の音を聞いたときに,それら を識別できる程度には,心の中に思、い浮かべられているものである。アリスト テレスはファンタスマによって主に視覚印象のファンタスマを考えていたが, 心像概念をこのような意味において理解すれば,類似性に基づく素朴な表象論 だという批判は免れることができょう。 以上のように,感覚との関係においても,思考との関係においても,ファン タスマは,心に現れ,.心の自の前に置かれる」ものとして,あたかもそれを「見 ている」かのごとくに,我々の内的な注視の作用の志向的な対象として現れる ものと考えられる。心像の第一義的な意味は,

Nussbaum

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のい うように,.心への現れ」であり,ここから表象の意味が派生するが,これに並 ぶ重要な派生的意味は,.内的な注視の前に置かれる」こと,すなわち志向的な 対象性である。感覚においては,感覚者はいわば対象と一体になっているが, ファンタシアーは,感覚から感覚対象の形相を引き離し,これを思考の前に呈 (22) 示することができる。ここは,感覚の内容が内的な注視の前で志向的な「対象 性」を獲得し,意識が対象についての意識となる決定的な場面である。 以上のように考えれば,必ずしも

Nussbaum

の批判が心像説を退ける強力な (21) アイステーマは,視覚印象や聴覚印象を総称した名詞だが,これは『デ・アニマ』にお ける感覚の本質論では現れてこない。思考が問題になってきてから登場する名詞である。 アリストテレスでは,原因としての感覚対象と志向的対象としての感覚対象は区別され ていず,同じ言葉が,一方で,自然学的な因果性の議論の中で,他方では,心理学的な議 論の中で使われるが,アイステーマも同様の使われ方をしている。 (22) DA 430a14-15, 431b2, 432a8-10.

(14)

-162- 香川大学経済論叢 1218 批判であるとは言えないと思われる。しかし,心像説を維持したにしても,多 くの学者を悩ませてきた上述の箇所の問題は残る。すべての感覚にはファンタ シアーが伴うという

Nussbaum

のテーゼ、は,この疑問に有効な解答を与えるよ うに見える。ファンタシアーは感覚とは別個のものではなく,感覚が生じると きに同時にその解釈的な要素として,感覚と一体になっているなら,同一の事 象について感覚とファンタシアーが同時的に存在していることについて,有効 な解釈を与えることができるように見えるからである。しかし,この解釈は, 後に見るように,そもそも上述の箇所を自らの解釈の適用領域から排除してい る。しかし,現在,心像説に代わる説として一定の支持を得ている解釈である から,その問題点を明らかにしておくことも必要であろう。

Nussbaum

の議論 は,テキストの逐次的な検討を含んでおり,その全面的な検討は別稿に譲らざ るを得ないが,ここでは,その説の概略とその根本テーゼ、の持つ難点について 述べることにする。

I

V

.

Nussbaum

のテーゼの批判

Nussbaum

のテーゼ、は,動物の行動に関するアリストテレスの解釈モデルの 分析から生まれてきたものであるが,これに関連するアリストテレスのテキス トは,込み入っている。『動物部分論』において,

Nussbaum

のテーゼにもっと も有利なテキストは次の箇所である。 「情動は器官的な諸部分を準備(有用な状態に)し,また欲求は情動を準備 (有用な状態に)し,さらにファンタシアーは欲求を準備(有用な状態に) する。そして,ファンタシアーは思考や感覚によって生じる。J(I

A

702a17-19)

6

章からの議論を定式化したこの箇所では,動物のすべての行動において,欲 求の生じる準備段階として,ファンタシアーが生じることが述べられている。 確かに,この定式化ではすべての行動にファンタシアーが伴うことが述べられ ているが,テキストを仔細に検討すれば,ファンタシアーと感覚と思考が,同 じ資格で,実践的推論の大前提と欲求の対象とを与えるように読みとれる箇所 もある。だが,

Nussbaum

は,感覚されたものと思考されたものを欲求に呈示

(15)

1219 アリストテレスのファンタシアー概念について 163 する

(

p

r

e

s

e

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t

)

ものがファンタシアーであるという図式を優先させる。また,た とえ,すべての行動にファンタシアーが存在するとしても,それが感覚や思考 によって生じるとされているのだから,この関係は,因果的な関係として解釈 することも可能であるはずだが,

Nussbaum

はこの可能性には触れずに,ヴィ トグンシュタインの感覚分析における「として見る

(

s

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e

i

n

g

aS)J構造を援用し て,ファンタシアーの活動は,感覚対象をつねに何かとして見ることとして, すなわち感覚の解釈的要素として,感覚の活動を構成するものだとするのであ る。 この解釈の根拠となるテキストは w夢について』の一節であるが,彼女は自 説の根拠とする箇所(a16)だけを取り出して解釈してみせる。しかし,この文脈 の中で見る限り,その解釈は成り立たないことがわかる。

n

デ・アニマ』においてファンタシアーについて語られたが,

a)

ファング シア一能力は感覚能力と同じものであるが,ファンタシアー能力であること と感覚能力であることとは巽なっている,そして, b) ファンタシアーは現 実態における感覚によって生じる運動であり,さらに, c)夢はある種のファ ンタスマであると考えられているのであるから(というのは,我々は,端的 に生じるにせよ,ある仕方で生じるにせよ,睡眠中のファンタスマが夢であ ると主張しているからである), <以上の諸前提から>夢を見ることはファン タシア一能力である限りにおける感覚能力に属することは明らかである。」

(

I

n

s

o

m

n

, 459a15-22) 「ふたつの能力は閉じものであるが,あり方 (ro

d

:

ν

α

t)が異なる」という命題 は,夢を見ることが広い意味での感覚能力の活動であることを説明するために 持ち出されたものである。夢は,アリストテレスの睡眠の定義によると,現実 問) の感覚機能が麻縛した状態において我々に生じてくるファンタスマであるが, 一方で,我々には夢において見たり聞いたりすると思うという事態が起こるの (23) アリストテレスの夢概念は狭く,隠眠中の考えは夢に含めず,専ら感覚印象の結果とし ての心像を考えている。 (24) Insomη461a26-31

(16)

-164 香川大学経済論叢 1220

ω

で,これを説明するために,夢において感覚に何らかの働きかけがあることが 理論上要請されるのである。それ故,ファンタシアー能力は感覚能力と同じで あるとされるのである。それらは広い意味での感覚能力のふたつの側面ではあ るが,ファンタシア一能力の活動は現実の感覚の活動とは重ならない部分を 邸) 持っている。 しかし,

Nussbaum

のテーゼ、によれば,これらは,能力として同じものであ るばかりではなし活動としても同じものなのであり,それらが感覚と呼ばれ ファンタシアーと呼ばれるのは,同一の活動について記述する時の局面の違い に過ぎないということになる。感覚が生じる際,常に解釈的な働きが同時に生 じているからである。

Nussbaum

は慎重に,アリストテレスの主張は,感覚能 力のすべての活動ではなしその多くの活動がファンタシア一能力の活動でも あるという主張だとするが,しかし,このようにしても,現実の感覚の不在時 におけるファンタシアーの活動をこのテーゼによって説明することはできない であろう。

Nussbaum

のテーゼでは,現実の感覚の多くの活動が常にファンタ シアーの活動であるのみならず,逆に,ファンタシアーの活動はつねに現実の 白 日 感覚の活動でなければならないからである。

Nussbaum

は,いわゆる

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c

a

lTheory

の部分(DA

4

2

8

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-

4

2

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a

8

)

が, この章の他の部分と整合せず,単に生理学的な議論をしているに過ぎないとし てこれを一蹴するが,自説の根拠とする箇所にこの部分への言及(引用文の b) が含まれていることに触れていなし亙。さらに,

C

a

n

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c

a

l

Theory

の部分には, 動物の行動に関して彼女のテーゼに反する内容が明記されている。 「そして,ファンタシアーは{感覚器官の中に}とどまり,感覚と類似して いるために,動物は多くの行動をそれにしたがって行うのである。獣のよう な動物は,理性を持たないために,また,人間のような動物は,情念や病気 や夢によってしばしば理性がかき曇らされるために,ファンタシアーにした (25) Ross(1955)269 Eijk 155 (26)

N

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a

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は自らの根本テーゼと感覚の不在時におけるファンタシアーの関係につい て説明しようとしていない。

(17)

1221 アリストテレスのファンタシア一概念について -165-がって行動する。J (DA 429a4-8)

ω

ここ、で,動物がファンタシアーに従って多くの行動を行うとされているように, 現実の感覚との接点を失った人間の行う非合理的行動や,現実の感覚の存在し ない夢の世界など,多くの場面において,ファンタシアーは単独で重要な役割 目 的 を果たすのである。このように見てくるならば,感覚とファンタシアーを活動 においても同ーであると主張するテキスト上の裏付けは薄弱であると言わざる ω を得ない。

V

.

感覚が現在しているときのファンタシアー 我々は,心像説とそれを批判するSchofieldやNussbaumのファンタシアー 論を検討してきたが,その結果,どの解釈もアリストテレスのテキスト解釈と しては大きな難点を含んでいることがあきらかになった。そして,心像を文字 どおりの心的な画像という意味ではなしいくつかの特徴において感覚印象に 似ているものと考えるなら, Nussbaumの批判をひとまずは退けることができ ることも示しておいた。では,この考え方に基づいて,件の箇所を調和的に解 釈できる道は見いだせるのであろうか。 まず,【人影の目撃】について考察してみよう。この場合の感覚は付帯的感覚 である。付帯的と言われるのは,固有感覚の感覚対象である白の感覚に付随し 。 由 て(個別的な)人聞が感覚されるためである。この場合,白ではなく人聞が付 帯的な意味における感覚対象である。付帯的な感覚対象は感覚に作用を及ぽす ことはなく,この点において固有感覚対象や共通感覚対象とは異なる。 (27) Nussbaumもこのことは認めているが,この箇所には言及していない。 (28)ρaceNussbaum 239 (29) Thurnbullは,異なる時点において感覚されたものどもを統括する総合的役割をファ ングシアーに帰したり (Frede),対象を特定の人に特定のパースペクティヴで現れさせる 解釈的役割をファンタシアーに帰す(Nussbaum)ような,共通感覚の果たすべき能動的 役割をファンタシアーに割り当てる解釈を批判した。彼によれば,いずれも共通感覚の仕 事をファンタシアーに帰したにすぎないのであり,ファンタシアーの役割は,むしろ対象 を受動的に呈示することにある。 (30) 存在論的には,人間に白が付帯するとされる。 (31) DA 418a20-24.. 4354-10

(18)

166 香川大学経済論叢 1222 さて,姿が不明瞭な何か白いものを見て「それは人間であると我々には思わ れる」と発言するとき,ファンタシアーは,この状況にどのように関わってい るのだろうか。 ファンタシア}を判別能力とする観点から考察することに解決の鍵があるよ うに思われる。では,それは何を判別するのであろうか。感覚について何らか の解釈を加えるという意味の判別をそれは行うのであろうか。しかし,そうだ とすれば,記憶の貯蔵庫からファンタスマが我々に現れて,不明瞭な感覚を明 ω 瞭なファンタスマで補償することと同じようなことになってしまう。そうでは なく,感覚が不明瞭な時には,感覚の判別に代わってファンタシアーの判別が 出てくるのではないだろうか。そもそも感覚の中に不明瞭ながらも「その白い ものは人間であると思われる」という発言に対応する内容が含まれていたはず ω) である。そうでなければ,この発言はまったくの当て推量になってしまう。感 覚が不明瞭な時には,その不明瞭な状態をファンタシアーが継承しつつ,対象 について何らかの判別を,感覚から少し時聞を置いて行うのではないのだろう か。このことについて

Modrak

の議論を手がかりに考察を進めていこう。

Modrak

はアリストテレスにおけるファンタシアー概念を解釈して,ファン タシアーとは「真なる感覚(知覚)に導くことのない条件下における感覚的内 容の意識

(

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であると定式化する。感覚的内容の意識とは, 表象のことであるが,これが要請されるのは,1)感覚の対象を正しく表象し ないか(太陽の見え), 2)感覚の対象をまったく表象しない場合であるが(幻 覚),注意するべきは,この定式化においては,感覚の成立する全体の状況が問 題にされているということである。これらの場合,感覚経験は,真なる感覚に 導くことがない条件の下でなされているが,この全体条件の中には,感覚者の (32) 本論155ページ参照。 (33) そのときには rと恩われる」という表現ではなく rと推測する」というような表現に なるであろう。 (34)

M

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d

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(1986),

M

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a

k

(1987) 82司87.

(19)

1223 アリストテレスのファンタシアー概念について -167-心身条件と外的環境条件が含まれている。正常な感覚の成立する場合でも,感 覚的な確信には,感覚自身の明瞭さとともに,感覚条件に関する知識(正常な 感覚の成立条件と現在の感覚がこの条件を満たしていること)が含まれている はずであるが,通常はこれを意識しない。だが,感覚が不明瞭な場合は,その 不明瞭さがそれの成立条件を反省させる契機になるのである。そのときには, たった今の感覚が対象として眺められることになり,それを対象として眺める 人が r~ と思われる」という判別を行うのだと考えられる。その時,その人に は感覚とその諸条件の全体が意識されている。たった今の感覚がこのようにし て対象として眺められたものがファンタスマではないだ、ろうか。 「思われる」という発言をする人がこのような反省を行うときには,実は,思 考の立場が反映していると思われる。なぜなら,言語的命題を形成する役割を 持つのは思考だからである。思考が,たった今の感覚の,成立条件をも含めた 全体を対象として認識するためにはファンタスマを必要とするだろう。つまり, 思考は,感覚の現実活動を直接に対象とすることができないので,たった今の 感覚のなぞりとしてのファンタスマを対象とせざるを得ないのである。 感覚の不明瞭さは,思考を強いて普通なら意識しない感覚を対象として認識 させるようにする。その時に,思考はたった今の感覚のなぞりとしてのファン タスマを必要とする。この状況の中で,ファンタシアーが賦活して,心的な対 象としての心像が我々に生じるのである。 【太陽の見え】の例も,上と同じように説明できると思われる。太陽がーブー スに見えることは健康人にとっても病気の人にとっても変わらない事実である (I

nsomn

4

5

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b

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2

9

)

。しかし,このことを人は,とりわけ科学を信頼している 人は信じることができないので,この見えの事実を問題にする。つまり,

Modrak

の言う状況が生じるのである。その観点、からもう一度時聞を置いて見 えを判別する操作が行われるときに,操作の対象として,たった今の感覚のな ぞりとしてのファンタスマが我々に生じてくるのである。なぜなら,太陽の見 えの大きさを疑問とすることは思考の立場から為されているからである。思考 が抑制されない限り,この見えの事実を疑い,その見えの成立要件から判断し

(20)

-168 香川大学経済論叢 1224 てそれが虚偽であると断定するが,一方,見えを反拐しでも依然としてそのよ うに見える限りは,やはり太陽はープースであると判別せざるを得ないのであ る。このような分裂的状況を【太陽の見え】は示している。 ゆ

α

f

ν

ε

ratの懐疑的な用法は,思考の立場からみて,思考が真を保持している 場合に生じる。単に不明な場合では,保留的な意味になる。そのときどきの感 覚の成立条件と思考との関係の中で,ゆ

α

f

νe

r

仰の意味は変わってくるが,本来 の意味は,中立的な「現れる」という意味である。なぜなら,思考の立場から みて,誤った感覚であるとしても,それをファンタスマの形態で対象とする剃 那においては,そのファンタスマは対象として現われてくるからである。その 内容が思考に揚み取られ,言語へと変換されるときに,その真偽値が問題になっ てくるのだと考えられる。思考が存在しないか抑制されている場合 i現れ」は そのまま受け取られることになるのはそのためである。

S

c

h

o

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d

は,中立的・ 記述的用法を退けることによって,命題を成立させる作用としての思考が,感 覚経験を対象化するために,ファンタスマの形態にこれを変換して自らの前に 置くという局面を見逃してしまったのである。 では,

S

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d

が問題として残した論点については,どうなるのであろう か。上述のように,

S

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は,ファンタシアーを非典型的感覚経験と捉え, rtaZ児racを懐疑的,警戒的用法であると解釈すれば,心像説を包摂した解釈が 可能であると主張したが,同時に,彼の説では説明の不可能な箇所が残ること も明言していた。それは,固有感覚に対応するファンタシアーがその感覚が存 在しているときには真であるとされる箇所

(

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2

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8

)

である。我々の解釈 によれば,この点もうまく説明できると思われる。付帯的感覚(人影の目撃) と共通感覚対象の知覚(太陽の見え)の場合は上述のように,感覚の真理性に 対する懐疑が先行してファンタシアーが賦活され,ファンタスマが現れてきた わけだが,固有感覚の場合は,このようなことは考えにくい。つまり,ファン タシアーが賦活される動機が思考の側に存在しないのである。自の見えの真理 性が明瞭な場合は,ファンタシアーは賦活しにくい。しかし,アリストテレス がこのような事態を意識していたことは確かである。「感覚の強さが注意を引く

(21)

1225 アリストテレスのファンタシアー概念について -16少ー

ω

ために気が付かれなく」とも,ファンタシアーの運動は存在しているはずであ る。感覚との違いを証明する議論の最終論点でアリストテレスはこのことに言 及していると考えることができる。そこでは r目をつぶっていても,視覚印象 (0ρdμαrα)は我々に現れるJ(DA 428a16)とだけ述べられているが,議論の流れ を考えると,付帯的感覚のファンタシアーに言及した後で,固有感覚のファン タシアーに簡単に触れていると考えられる。「目をつぶっていても」視覚印象が 現れるということで言いたいことは,目を開けていてもそれが現れているとい うことではなく,視覚活動が行われているときに見える感覚印象(アイステー マ)に似ているファンタスマが,目をつぶると現れるということである。 しかし,このような固有感覚のファンタスマは感覚が現在しているとき,ど のように確認されるのであろうか。自然学的には区別が可能であるが,ふたつ の運動を心的なレベルで識別することは可能なのだろうか。すでに

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はこの問題を以下のように定式化していた。 「感覚対象が現に存在して,同時に両者,則ち,感覚とファンタシアーが呼 び出されている場合は,これらの能力の違いを見つけだすことは難しい。な ぜなら,この場合,ふたつの能力は,同じ対象

(

u

πoxeIJμενoν)に関して同じ時 間において現実活動するからである。あるいは,おそらく次のようなことで はないのか。この場合にも両者は同じ対象に関して,同じ時聞において,現 実活動するが,同じ仕方においてではないのであって,感覚は外界の感覚対 象に対して賦活し,これによって動かされるが,ファンタシアーは感覚が受 け取った形相に関して賦活する。つまり,感覚に対して感覚対象がしめる立 場を,ファンタシアーに対して感覚が占めることになるのである。だが,と りわけ,これらの運動が同時に起こることから,これらの違いは捉えがたい のである。J (Tlwmis・ぉω92,4-13)

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の解釈は,自然学的なレベルに止まっていて,これでは,アリス トテレスのスコラ的な性癖のなせる業だとして,この箇所を一蹴されてしまい かねないが,心的な現象としてこの事態を確認できる事例はないものであろう (35) Simplicius 216, 20.

(22)

-170-ー 香川大学経済論叢 1226 か。 固有感覚の場合は,ほとんどが明瞭なので,白いものを見て I白いと思われ る」という発言をする場面はない。しかし,たとえば,心理学の実験でスクリー ン上に瞬間的に映された像について,何色かを言う場合はどうであろうか。ア リストテレスにおいて,名称(オノマ)は声の一種であるが,声が意味を持つ ω のは,喉からでる音が,心像(φαvrα,σ[at)と共に発せられる時である。したがっ て,スクリーンに青い円が映し出されたときに Iあお」と発言する場合,この 人は,ある心像とともにこの言葉を発したのである。この時,言葉を発してい るのはこの人の思考であり,思考は意味としてのノエーマを言葉に伴う心像の 中に認める。この場合,感覚された青を見て Iあお」という言葉を発している ように見えるが,そうではなしたった今見た青について「あお」と語ってい るのである。それは,青い円がスクリーンに瞬間的に映し出された場合でも, 同じように「あお」と言えるからである。その場合 Iあお」を発する人が,そ の言葉を向けている対象は,たった今見た育の感覚印象によって賦活された ファンタシアーに従って現れたファンタスマである。

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は,ファンタ

ω

シアーは弱化した感覚ではなく,感覚の形相であるとしたが,感覚の弱化した ものと考えても,感覚的形相は残ると考えられる。ファンタスマは感覚から感 覚の臨場感を構成するいわば質料的な要素が脱落したものである。それは感覚 印象のようなものであるが,幾ばくかの質料的要素は残っているとしても感覚 ω 印象の臨場感を欠いている。しかし,感覚的対象を見たときに,識別できるだ けの感覚的形棺はそれには残っている。「あお」と言ったとき,それとともに心 に生じるファンタスマは,感覚印象のように鮮やかではないが,どれが青なの かは識別できる状態にある。その場合,感覚的形相を保持しているので,感覚 対象によっていわば質料を備給されるだけでよいのだ。 不明瞭な固有感覚の場合,そのファンタシアーも不明瞭である。つまり,そ (36) DA 420b31-33, Int.16a19-21, 16b19-20 (37) Wedin 87fもこの考え方を採り, Nussbaumへの反駁とする。 (38) DA 432a9-10

(23)

1227 アリストテレスのファンタシアー概念について -171 れも形相レベルの不明瞭さを備えているのであって,青か緑かを識別しない不 明瞭な固有感覚から生じるファンタシアーも明瞭な感覚的形相を備えていない であろう。それゆえ,その場合は r青のようにも緑のようにも(現れて)見え る」と言うであろう。 以上,アリストテレスの解釈史の上で説明が難しいとされ続けてきた問題に ついて,一つの解決案を述べたが, Nussbaumも, Phantasiaの解釈的機能を ω) 確証するものだとして,この論点、を取りあげている。しかし,彼女の議論はヴィ トゲンシュタインの命題の下にある。彼女によれば,我々は感覚的対象が存在 しているときに声を発するが,そのとき,感覚印象と区別された何らかの心像 がこれに伴うとするなら,これらを区別をすることはできないであろう。した がって,声が何かを伝えるのは, phantasiaの能力によって外界の何かを意識す る(解釈する)ためであると考えるほうがよいとされる。また,彼女は,心像 理論では,声は外界の何かを意味するのではなく,心像を意味することになる と指摘する。この議論に対する我々の反論はすでに述べられたことから明らか である。ふたつの心的事態が同時に共存することは可能であり,感覚的対象を 見ながらそれについて言葉を発するという思考の働きの中で,感覚的印象とは 区別された言語的意味作用という心的事態が体験されており,その体験の中で ファンタスマが現れているのである。また,声が心像を指すということは,言 葉の意味作用と指示作用とは別の事柄であるから,むしろ当然なのである。声 の聴覚映像が心像に含まれる概念をシニアイアンすることを通して外界のもの を指示するのである。 参 考 文 献 Busche, H..B.. 1997, Hat Phantasia nach Aristoteles eine interpretierende Funktion in der Wahrnehmung?, Zeitschrift fur jうhilos.o

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