• 検索結果がありません。

讃岐砂糖史(一)-香川大学学術情報リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "讃岐砂糖史(一)-香川大学学術情報リポジトリ"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

岡 田

唯 雷

言 緒 産業ほ政令坐存の凛素であります。故に古今寛西を問はず何れの部観﹂何れの地方にも、疑って各 ′ 々其他の慮業を奨励、保護し、財源の富餞を謀って居るのであ 蓮の廟展をはか.るか為に、常に畢若や賓務家の周に、積極滑極南方固から該政策を盛んに研究され′、 伺腰すれば渾保の曹、溝零将軍が元礫以来財政の窮乏を救はんが薦に、自ら節倹々希って天下を率 女濱々賓行されつ∼あるのであります。本嬢亦産業の技輿に勤め、財力の充賓を謀って居られるので あります。 ゐ又時に大に殖産興業にカを菰し、ひいて全図の各藩に於でも亦大に産業を奨励して、府橙の充賓を 謀るやうになつ咋9監瞭我高松藩む殖産にカを菰し、英重松年額恭︵五代︶は港内の地勢を察し、製糖 め俵七興さんどせられたのである。こ∼に於て向山周慶が製糖法の研究ごなり、後寛速水、水村盲、 管内涙東灘や壌業保健政策の漸術ごなb、濱にせく潜内の富妻強潤なちしめる美空つセのであ功ます 海こ巻 第こ城

讃 岐砂糖史

︵一入四︶ 土六

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(2)

世間嘗協者は賓に惨憾たる苦心を以て最も精緻なる経螢を施して凍たもので、今日の虐政潜ま錐も或 履三舎を避けなければ蒐らぬやうのこどが為りけ七月中か、ごも恩はれる。 京大二蘭文革博士︵周行長︶は嘗て徳川時代史を濁ずる時、常時の自治政策や各藩の産業政策中最も よ車模範どすへきものは多々ある、然るに今日の翁政者にして地方改善の策を説くもの、勧業の政策 を諦するもの、叫度口を開けば直に欧兼の改発を設くだ云ふこどは、嘗言笑止千万でないか、切角我 固の歴史上に立沢なよい模範がある切に、何々革んで自ら求て遽幽の策をまねやうごするのであるか ざ成慨費ゃか髄はぎるものゝ如くであり 現今本顆に於て官民共に産業施設上大鶴努力して居るやうであるが、其効果を見るどまだく隣燥 に比し遜色なしどは云へないミ思はれます。此時にあたり、既往の産業史複願るぞ云ふこどは決して 無駄ではあ凋まいビ思はれます。此意鹿に於て我が歯岐砂糖兜綾此反省材料宣して、叉産業奨脚改発 の塵考ビして、最も線故の近いものビ思ふのでありまサ。然し此砂糖史は大垂二年の曹稿やあうます が、少し補正を致し大昭にも賓業尋問拳校で費行する本誌の貴重なる紙面を汚すこヾJになりましたや ぅな次第でありますから、皐に諸貿の倒批正を仰きたいビ思ひます。 併しこ、﹂に妄念の鰯御こゼゎりをして置きたいこノミがあちますっ私は讃岐製糖の今萎欲して振ほ な︰いの滋、再び昔にか・へしたいどは患ふものではあ′bません︰。﹁それは晋て台鞠放術の際、彼甘薦侭や 讃岐砂糖免 ︵︼八五︶ こ七

(3)

腰精工場並に高雄港の砂糖積出しの盛況尊を詳細に威容し、且つ常時線督府糖務課長眞喜皐致氏︵領 媚ほ硝㈹避鴇窮難雛諺折鶴鮎︶よらも製糖上の所見を抵き、我讃糖は到底今後白本糖業界に簸 ち出し得るものでなく、僅に農家の副業ビして一家庭工業に滞足しなければならないビ云ふこどをど っくに承知し居㌔且つ其後台潜磯以外持南洋糖は勿論遠く釆の玖喝糖奪がぎんく輸入され、之等 は皆甘泳が強くて、倍額が大に安いビ車ふ状況になつて凍たのですから も馬鹿々々しくなつで務ました、之必克明潜以後に於ける産業改発の壁化写交通運輸の便開け、生産 物の供給が世界的になつて凍たのであらますから、所謂時代趨勢の然らしむる所ミ締めなければなむ ません。故に其慶遷を推究し、其一時盛況を見るやうになつた道行き即ち如何にも眞面冒に奮問努力 して凍光跡を研究する宰同時に、僻ほ二面には現今の生産物中にも亦鼎癖に於て、﹂此慶目を見るやう になる物が 某−節 砂糖の起原爆釆 砂糖の原料である骨膜が、印輝に有ったこゼは大建に青いこごであります。輝迦加水の観光に一﹁イ クシ貰−クス、タイルダーカ王﹂ごいふ人があえ順箭︶彿典に之を撲謬しで甘庶増長王ぞ云って居る のでも知るこ宰が鴇凍左す9 夢こ態・第二兢 ︵血八大︶ こ八

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(4)

印度魔の甘庶が酋は古く希職人宣爆風ったものであり皇す。希臓人で姶て之を談ったのは西紀前四 世紀の人チオフラスース三富ふ着で、﹁農訝の頻で蜜の如きものが出凍る﹂ご日ふて居ます。之ほ憶に 甘庶其物を言ったのであh︰ます。又それ以後の希魔人中には﹁蜜蜂のカによらすして一稀の蜜の如き ものができる、 生み出す、但し露の如ぐ柔から満る、 ﹁甘薦から慶する蜜の部分を集めたものである﹂虻去って居る。之等は印度から希臆人に借間して居る 箔が、古記銀、に見えて居るものを拾ひ集めたものであるけれざ、希魔人で異に印度Ⅵ甘葦賽物を目撃 したのは、西紀前四世紀末で蜃歴山大ヰが印度侵入の時であうます。基陣後聾した希脱人で印度慶甘 煮の撃を目撃して話した人があり皇す。 羅馬人で砂糖の蓼を語った人は、希臓人よりは後で西紀前一世紀の八である。英語によるど﹁砂糖 は甘庶より取ったもので、異色は白く歯間に入るビ砕け易い、其太さは菟のやうで巣用のみに用ひる﹂ 官云って居る。此話は氷砂糖を言ったのである。 肯くよトノ砂糖ぼ印度に優し、海陸路によりて希臆、履馬、支那に輸入した故に、希腺人、雁馬人は 古てより之を印度塵せして話して居る、加之英語で砂糖をSu笥−ビ云ふのは、薮原ラテン語Sacch彗︻ヨ ︵ダウカルム︶より凍陀ので、此ラテン語は叉梵琴晋■kp∵ヱサルカラー忍1jち砂糖の意味︶から凍たもの 讃岐砂糖史 ︵︼八七︶ こ九

(5)

第こ・令 弟こ鴎

︵一八八︶ 三〇 であるから1欧州諸図の砂糖を呼ぶ語は、、其原印度語﹁サルカラ!﹂に基く牒のであるっ都て東洋方面

では砂糖りこどが石蜜亡いふ名で始て漢虹に現はれてゐる。斯の名の始て見えてゐるのは前撲時代で

洗の霊長謂卵霧韻︶今の編著志から石蜜二警献じて莞孟るのが、支牒で砂糖怠

ぇた始めだせ思はれる。石壁古い、ふ名から察する㌔之は砂糖の塊か、多分は兼砂糖の類を云ったも

のでありませう。何れにしでも砂糖に緬係あるこごは懐かである。其後三周時代になり、奥の観に甘

藍の栽培があつた。其蔵培せられた地方は其の餞内の南端たる交址地方︵約詣姻︶であそ呉線地理志 セ▲1 電交址に甘庶あり、太さ数寸其味醇黄なり。窄って以て錫轟の意︶どなす、之を隠せば凝って氷の 如七﹂ミ記してあるのは、.留碍甘庶を親培七1又製糖の革も知ってゐたこだが分る。而tて常時こん な七して得た砂糖は、巳に石蜜孟言潔甘庶儲去って鼠烏思後唐の薫時代︵舶蒜朗鮎にな

遺品讐の交繁盛に菅、太濱遥美空に造姦糖法を取らせ・た。由て揚粧地方︵約削韻鹿︶

濫甘庶を栽え→之を作擁しで砂糖を製造させたが、盛時印度方面から庸に輸入した物よトも其娩﹁屏

優れて屑た三言よサ。︵醐僻媚摘︶而して砂糖の名も亦健棒代から見えてゐる。糖字の意は飴で、甘 凛儲だぁる錫ぺ同意簸で、約ま巧妙に似て偽のやうな甘いものざ云ふ意である。︵如那轡

第〓節 痩園への砂施像未

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(6)

考課天象天平膠蜜年間︵㌫等療膠撃典凍朝の時、勅て紡糖患携へで雅たどいふ。由ち東大寺献物 帳紀錬に庶糖二斤サニ匁三郷敵軍耕したやうに韓されでゐる。之が我観に砂糖を鬼各劾あ.らしい.。∵けい デマプラ れぎも調味には用ひられや、申貸切尤なつても甘味は専ら千歳嘉を成じ、其汁で付けた。室町時代に なり汁塊に供せられたのは百合砂糖飴で千歳粟煎は最も多う用ひられた。常時飼は砂糖の唸入は甚だ 禰で高僧でぁるから、大抵魔用に供せ宣れ英子等に用ふ亮こぜは甚だ藤で、羊糞にも唯の草糞ミ砂 糖羊螢己の別があり、饅頭に砂糖饅頭、英銀簡がありょした。永織元勉の頃、厳に輸入があつたけれ ぎ∵賃其鼠計少で薬用に供せられ、ノ嗜好品写サ牒までには管掌った。慧年豊議詫間︶ 薩摩大島の人、荘川智が琉球に赴く海丑で凰風に退ひ、菜部に漂着しで偶然製糖礪を習ひ、.給金庶秤 を大島に移柏し、漸次鬼界ケ畠、種子ケ島等に移植しました。家光婿箪の時︵ニ慧錆間︶農種を琉球 に求め、老な各藩に分ち、後寛写真紅紀駐中︶の頃白糖氷糖精選の術をむ知るやうにな・つセっ然し 敢禽抄進歩は益々飲食の調味を上進させ、漸次支部、和蘭よも砂糖の輸入を檜加し、元祓の頃は毎年 の輸入願四官僚萬斤に上好ましね。壷て菓子の製造も長足の進歩ぉし、天和の頃︵錮鮨鐙︶京の本町桔 梗屋河内が製造した英子の銘は、大約百七†飴種︵さ∼れ石や夜の櫻。給衣っ寝覚。唐衣或ほ梅花餅 薄雪餅。棒餅。唐饅麟。氷饅頭。鬼勢讐等︶あb、二十年後質永の頃︵ニ詣鐙間︶せ丑英子の.賢一 首九十鎗櫻の多きに止った票ふこどせあそ︵捌翫溜陀㌫馴攣 讃岐砂糖史 ︵一入九︶ 享一 一■

(7)

訂■r 弟こ巻 第二挽 二九〇︶ 三こ 音宗購寮の時に元疎以凍財政の疲弊を救捺せん焉、自ら節倹を行ふて天下に範を示し、叉時に大に 苑座興菜に努めたから、外糖喩入の漸く多くならう音′るのを防で焉、孝保十年︵忙雛艶糾︶庶苗を琉 球から引き、親ら小牲役に命じて吹上庭園に試作し、傍ら支那め孝夫衡を喝し家臣に製糖術を畢ばせ た。文人を四方に遺して物産を巡検させたりして、民業奨励の故に遺したものであるか.ち、諸藩亦能 く其怠ぉ受け、競ふて問屋を興すやうになりました。 吹上御苑は盲宗盈の時∵茶事の精華美なのは骨毀たれ、優に鵬二の小峯を点して休息の用に供せ られ、其他苑内粛悉く鋤卒けて試僚場ビせられ、遍開所、檎所、天文所、鞠瘍、薬草製所、酒造所 英手製所、砂糖饗所、穀物収集場、綿尊倒立場の類を設げられ云々旦1徳川太軍記﹂に見えてゐるが 怨L白糖を嚢する法は未だ詳しくはなかった。普時の人は何れも舶郊のものどのみ思ってゐたが、 明和五年︵紅舶翫年︶戊師河原め百姓太郎左衛門主芸者が砂糖の製造を始め、近憐の人々は後に付′ て製糖ぉ琴んだこ字曾武江年表に記してぁる。之は源内の製法に墟つ欠か否やは分らない。 第三節 誅峨への砂糖偉尭 昔時高松藩主盆準剋恭︵雛綱︶薄肉の地勢山が高くないから樹木が茂らない、河は凍くて水利滑降を 映ぎ、草書が頻りにやつてきで封内は年々麦類し、人民は犬に心配して居る妖を察して、木村官ぺ寛

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(8)

速水を擢用し大に殖産興業に慧ょした。娃事由年︵紅釦髭年︶年賀牒名して、薬誓己︵謁ほ︶ 朝鮮、和蟹の薬精農林園内梅水魔索鹿︵船舶柳琴附近影柵させ、又源内は安原白峰ぷ鮮人膚 を移植し、花畑︵粕艶園︶に甘牒の栽管しましたが、農二年︵轟転時︶宗吾長賢遊㌣同三

年始て江戸に出て、後天工開物にならつて物顛品砥石著し、蟹磨十三年五月に出版し呈し彗

﹁掛頬品隋附餓﹂に人参培養法さ甘庶培養並に製造を説き、源内は自番で甘庶を掩めて糖汁をどる

所を励に示し、命ほ次のやうに記してあります。

﹁有人盛培養は予手白根レ之数年略其意を得たるに似たり甘庶の如きは是を製するこビ不義政雄レ

不レ得衰精評議宰に記する所七予が倣く試る研ごを以電記レ之甘慮可誌の地此払曾根試るビ数年に

至れば自其法り許なるこどを得ペし是不レ如査問老農云々﹂

之は源内が机上の基諭を以て、濫すに人を琴ってはならないこどを恐れての注意セあ・りませう。

故忙甘潰培養払は其方法を説いた迄で、まだ賓地に裁ては殆ん㌻試みなかったものビ見てよからう

ど思はれる。

00 元凍頼恭盈は魂草採取左か製法ゼ云ふやう撃⋮に非常な趣奴を有して居たので、毎年秋冬春採薬

ざ耕して、′南は安原の奥、東は阿波琴西は金毘羅山隈う吏痕薗方、草木方、衰外御小性英数人、奥

横目−A指し副へ、功徳卒賀源内∵後は地価玄琴深見件兵衛が頭取ビして、五日或は七日泊りで出 讃嘆砂糖鹿 ︵一九こ 三三 遜

(9)

第こ魔∵ 儲二披 〓九こ︶ 三四 かけ、菓州は勿論珍舛珍木を数多撮取り∵高松へ拝蹄て夫々栢付けた。 チウゲン 叉栗林中梅木原に柵を引まはして薬園をつてう、地田玄武を頭取正し、中間を専任哀して付ききら せ、御小性薬園方輪番で日々其凝螢にか∼り、蹄ほ臨時手倦人等もあつた。就中薬園係中に倉知爾次 郎ゼ云ふ薯があつて、能くぁの旨を含み、本草畢を深く研究し、頭取モ示し合せて和人塵初め諸薬草 の萬御国益ビなる、べき品々を撰び、追々樺山に嬉し秤々選抜も手に入り、購求眩度御国益己なるべき 勢に克ったが、鱒次郎は病気宜なう、刺へあの逝去、こなり中道で挫折したこごは甚だ惜むぺきだご ﹁稔各選挙﹂に詳細でぁる位だから、昔時層恭藩章は藤澤が早く製糖法を興したこどを聞き、之を待ん ご池田玄丈に意を倦へ﹂此に其門人向山同慶が製糖法を研究するの動機をつくつたものでぁるどいふ こどを察し得られます。 ヅ斗ヤマ

第四節 向山周慶時宗

︻こ白鳥村向山カツ民衆系国政拳 向 山 政 永﹂

長男

1佐五右衛門政久鱒憫鋸幣束増概砲架諾卯謂鎧助淑舶来軌既納酎㌍摘心努甘藍作り 二男 −輿右衛門卵卵価諾未謂張霜鋤鮒鯛朗欄鮎譜加蘭佐?木又右街門租也 死

即珊十三月数

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(10)

︻二︼捻中家滅家譜、登仕錬及向山戌年急峻参照

同日砂糖製法の哉猶必出枯可仕儀月又御閻魔¢垂線痘痕繁発

芳年より固葵に志し東都−こて発な経たり故に高な侯lこ召出され00甘庶み申開締り兄政久ミ T鮎∵卵′政孝調如胡棉㍍朋詣顆芸正院琵周警 婁

T女 ミ ス葉琴寛政二戌年七月晋

讃岐砂糖鼻

義正院法山原腐植土 門弟の娘意lこよ甘塩骨本葬見蝕寺内元向陽庵 分罪韓村 ︵妻︶智正院寺山揮発大郷欝詐等無用雄和舶用断髪琵に姦 よ女ユ カ鵬謂謂㍍ほ鵬舘糾軌幣鯛即諾て回向致審

﹁佐五右衛門政隣摘帥纏綿 砂糖献納

一新吾政常蒜針配術鮒鮎娼紬鮒㈹馴罷宗絹酎摘雛政経中芳仰灯られ明治三年二月御領脊薄 明治五年洩観博哲吾輩瘍局安岡君御放出に際L香川廠へ出鋭遊ほされ上申仕侯 明治十︼牛 七 月廿こ日卒法名蓮室院篤信課義居士

三水郡井上村松原佐重聖で計永

−金 太 夫譜㌔酎年斉音卒慧警居士

炎文叉御 六 ニニ九御 己卯申垂 致候棟心甜御林重囲薬草¢義出精仕御用l= 立慎嘩可仕旨硬仰付 同 同月二日砂糖一件鬼達而中波低温相心得別耐水砂糖仕方立猶此上相働下風に多分担来候梯可致候倣て

幣蛸敗

† 文化七午年二月六日卒貯名英照院啓蜂蜜弥風土 匪 j卯 九月甘六日行年七十四鼓

三月二十五 六月十六日

γ屯﹁苛 仙 イ′﹁ノヽ,叫パ︻H‖引 御用向御免被成 郎にして三本松国師兇島何希り枠 天保こ年三月向山家相綬致良二十二其後佐五着 む 任 農登勉敏伯父常澄ミ相計り事和三栄亥年圃舟へ

御成

芸禁譜︸ 〓九三︶ 三五

(11)

少年 ヤマ シウ ケイ

第五節 向 山 周 慶

︵耗糖共進曾報骨、向山肴砂糖開基蹄、向山氏系嘩家語感岐糖兼之沿革、大神那砂糖兜、定固三郎戊誹︶ 第こ巻 第二兢 1清 1脛 Ⅰ汲 ∫常 ﹂▲ゝ﹁・・l :− − ∫︳l上■り

巨財Ⅳ周澤改質﹂根譜鐸紀綱紺詣胱紺謂紺

一向 山 ス 要 ヤ 0 0 蓮 之之之 進助助手

好哉取帽㌍醐謂酎庵弟

︵一九四︶ 三六 天明六丙午年四月こ十日 信教童子 宰和三亥年十月二†三8 安知者予 寛政九己年九月†四日 如部費予 寛政九巳年九月二十五日 ︹向山成年思帳︺ 専政守梨疎凡む酎辟片廿九臥.。.行年四十こ 晴正院藩光周連居士

望姦

囁薄塩雛鰯彊聯瀾瀾瀾窯郎那語ら闊娼嘉韻

見性寺に葬ろ

街安岡問嘉弘剋個儒扶 年政五三永化り 月挿木 十破 臥 四元子戌二二相 十貰七八曹日勤 十一子十二月十日河野ミ吹名 同十一 八日甘輔 ミ吹名 聞十亥二月†九月 是 置 文政十亥十二月 間 十二月朔日療用致 日 六三月月 歳月二廿 可申旨談仰付 七月晦本科相行 首御扶持カ 九 日奥野師 倍音 受病 院始発水成居士 本現 死 ︵和琴家癖家州謡、 破 仲 居出 相中購 御候候 秩所lこ 特鋪付 の 家 衷欝 術茂 カニ こタL ヽロー ̄ ̄リ′1脚 二 入漁勧 山鹿 繚之  ̄ノ1三 ■−■− 丑迄 衰同位候 月役十 二判一 一 †二日御薬坊 候得 lこ典 法子骨組 相四 っ棒父 由日 以哉 ”秩破潜 描仰都 向○改革 談付合 童侯山○召来 成 玉 手へミ○出相 下 持 付凍攻○沸上 破 水勒学○虫御 成 松方吹○亜観 下 申不 破一砂

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(12)

向山周慶は葦三牒葦藍齢新年︶九月十六日、大内郡欝に莞、少時傑を藩廃︵憫顔珊︶池田玄 まに琴び、傍ら殖産に志し堅忍ネ紋でぁゎ︰ました。 贋暦年閥、薄ま漑恭は深く対内の衰微を塵へましで、甘庶栽寧晶屈したけれぎ、戯糖の法がよく なかったので失敗をしました。そこで頼恭ほ鎗意玄痩に命じて製糖法を研兜させましたが、中途で玄 或は病死しました。玄或は臨終に際し周慶を招き﹁儲糖の革は汝生涯心に銘し、必ず我君の本懐を達 するやぅにせよ。﹂軍兵々過言されたから、周慶は大に感激し、誓って素志を達しやうざ等心製糖研究 に従容し、家事を顧みなかったこごが十数年であつ七三嵩ひます。 周慶、苧京蒜んだ時、薩摩の牒其︵ほ遽ミ︶が儲く製糖法を して其侍授を頼みましたけれざも、固の大祭であるからだ云って承知してくれなかったが、周慶は他 日に於て必ず其払を授かちたいものビ思ケて、蹄観食も屡々書を遭って矢張ら交情を厚くして居まし 。 後天朗八年蔽朗舶斬新鍼牒鹿妻蒜大火の時、償塵某は此炎に遭ひ皇した。周慶は之を聞き特に厚く それを救助し皇した研が、某は書をまこし其厚誼を深く謝して凍り、且つこの爵恩に報る食製糖韓を や 倦へやうど日つで凍ました。同慶は犬に葛び、庶に上京英数を受け、蓬に多年の志を達し、始て白樺 四五†斤を饗しました。︵帥根調攣 ヽ 讃岐砂糖史 ︵一九五︶・ 三七 祭 一一ii遥

(13)

舞こ懇葡二疲

︵﹂九大︶三 二意眉︵霜調︶薩摩の人、畠溜陶業をして藁岐に入り、病にかゝ品川堤防︵駅削朗相即︶で非 常に苦んで居ょしたや向山政久一︵詣︶寓.之々見て之.を磯ひました。此時伺慶は層を琴で居たかち其満 人の焉に診療を施して遂に癒えました。所で改良助が匪州人である空間いて、周旋は親しぐ饗糖港智 蒔き、叉自己の抱負を含めて旅費を輿へ郷里薩摩に給う、厳粛を求めて凍させよした。 数年の後艮助は甘庶数董を携へて、再び向山の家に締り、周慶及見放久、輿石街門、英子政臍等を 助けて邸外ニケ所に試件栽培し、且つ益々製魔の研究に努めまして、.遂に氷糖、東糖、霜糖を選出し ました。次で政久は寛政二年、輿右街門は同†一年に死にょしたから、周慶は専ら甥政隣ビ協力しで 益一々臥く研究姦み粕漂享聖年︵翫監年︶砂糖蟹澤忙献し、且つ選奨勘の必要品きました。 此篭月寸習藩は同慶を召して薬望己皇し′た。︵榊閏謳ほ人︶時に芋八鹿でぁきます。をれ から藩ほ財政の困難を救済する唯叫策空しで、令を下し大に甘贋栽培を励めヽ且つ其牧稽期に際し周 旋を封内に派遣して、周く製糖の秘術を授けさせ、こ∼に頼恭藩主の邁志は同慶が殆んざ数十年間′の 苦心濫より、舶凍糖を凌鮎するの優等品ができるやぅになり、終に讃岐砂糖の基恕廟†やう弘光つセ 其功蹟は賓に偉大なるものでぁります。蓬に阿波土佐其他十数ケ閉亦皆我讃岐め法七習ひ、戯糖を以 て生活の機軸ごしたものが非常に多くなちました。 周計文政二年︵配胡散碑粕晋月廿昏高松の邸︵諾聖︶でや官芭たが、L軒弟の慧に.よう

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(14)

温骨の本葬を混低音内元欄陽庵に行ひ、親愛々浅村︵附銅覿︶に分葬んまtた。宰年七十四濠﹂法名議 題法山周慶居士。夫人は三木牒志︵顆琳軸郷瑠︶蛋佐嘉 周優豪儀三年、即文政五年二月十日後しました。法名義正院寺山大姉。末男用達は父の功により、文 政二年†二月薬妨ま七人扶持仰付けられ、七年後残し、其芋周澤亦親父の功により東坊主に召出され 儲十人扶持に加噂されました。 良勒ほ周慶の穀年即文政二年十一月廿一日死にました。僅人之々湊耐用慶塞側に葬りました。良助 は子がなく引田村境屋から夫婦養子をしたが、子孫代々費で後頭屋に韓任しました。 ︻鎗.淡︼ 製糖創業の際は農民骨之を一宇相俸ビし極て神聖なものどし、又秘密を守ったものであちます。 左に其﹂鰍むあザませう、如何に常時製糖業の食かっ¥jミ1、′八億の素朴で透ったこミが分りま す。 ︻引田腰板創瀬の時倦層の周文︼ 神 文 の 革 叫、白砂糖種々製港之秘尊御倦授破下侯上着徒山手相倦外地固着勿論雄一家兄弟猥トに他倦授仕間 数革 葦岐砂糖史 轡 〓九七︶ 三九 __.===≡≠当

(15)

門向山象砂糖開基碑︼ 魔末に鮨野権現の沖符︵鳥の墨塘︶を添へてある。著し誓約に達ふ疑ひある者があれば、此沖符を水 肥浮べて呑ませう虻忽ち其徴証がある古田ひます。 弘竺真紅射撃有産の孫、林兵衛及郷入が嗣を建て恥郎明朝こひ、砂糖紳手しました。之は 向山の向せ良働の良ゼを取合せて名けたものであbます。 今年層羞碑を企セ、層偲高尾養︵輌醐鰭附朋鐸順嫡︶に碑蒼撰んで貰ひ、嘉永三年︵鮎獣牒︶九月

に竣功しました。

審普 天黒星太紳宮。八幡大神宮。春日大明紳。金比津大権現。熊野標現。牛ま辞財天。其外日 本犬小の紳紙。可蒙御瀞者也偽而 前文加俸

失砂潜夢甘夢作乏人家食物之用不多奥食止音節之羞革保年間声琉球志保仁其法於薩州立書斎械

滞こ′魔 弾二張 一∵製法之諸道見決而他見仕間数事

着於相背衰

寛政十叫己未九月甘七日 ︵周犀が召出サル、五年掛︶ 礫

田 中 入 部 右 衛

外 三 十 七 名 〓九入︶ 四〇 門 、

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(16)

︵石碑の側面の宏に記あb︶ 里正向山政常乃毅同姓也鴻功如此而威儀位階晦之恐建請藩府而及焉此怒也。大里正木郁恵短波瀬

芦記思菩輿レ裔常相識鶉不レ可レ僻於蓮焉叙義軍藩係乏以顔銘田

糖利潤及レ人不み方兼学其嗣l野之今又婿衰建り碑乃凍乞姦文l央小善必銀微功不邁今念之功夫也伺 助也蕩幕政牽邸諭慶歯大内湊邑入鹿文政式季己卯九月二す六H病毅年七十四粛己毅後其郷入野砂

創迦砂糖泰薬妨軍給己月俸麹革軍書苗払妄動内製已砂糖義甚多皆以レ之得レ利蓋亦国中富餞之鵬

夢易佐芝二人同払勉励製已出磯糖。紫糖東糖東館成乏皆得論品義和三年努亥園府以森本書画且能

製仁砂糖身己蓼衰傘亦宥恕州人良幼者衰レ蔚時得短大困湯璃該拾麹癒艮助本革撃造砂糖術仙㌍是

撃干京師蒔有G疲州贋叢生琴筒型あ糖象乃就孝義法政髄達衰術i。閏府聞義龍逮衰術︼乃召出令レ ﹂ 原索衰準眈久尭尊命薗池田玄皮革捜詣之恕不レ儲短夷時有高山蕗夢即玄女弟子也象年鰐少批遊.

庶是雷秤挺挺愚生。

袈璃占砂 卓然向倉得レ法螢明。 其術蓬弘助丘図甘l可螢 弘化三歳丙午仲夏 讃岐砂糖史

似竹非竹有汁甘滴。

畜人索レ術其術難〟成。 乃龍製出妙究ち其精¶ 今建巳此碑︼勒巳爵功名.町 薄 儒 二九九︶ 四一 高 尾 養 撰

(17)

際㌢ 魔こ怨 第二兢 ︵こ00︶ 固二 正直亦助之途絶於郡中之条農夫而資焉孟皆因此功者耳時 嘉永三年庚戊秋九月下院 明瀧三年向良明静を改て∵観客赦ミ云ひ、里人は嘗砂糖紳ピ稀し、同十三年綿糖共進骨を大阪に開

警、周襲糖酎良の功警追賞して金吾固を†讐れ羞帥銅豊岡十九年香川郡志

ふ甘 村松島︵紀州糎︶に習苧郎根神警稀しました。

周慶死後の糖菜

周慶の死後に於ても、.同人生前の製糖に隣する深い研究ビ藩の製糖葵勒によりまして藩中家ふて甘 濃を栽培t製糖牒産出は年々遜ふて多きを加ふるに至りました。併し常時未だ製糖者に対する遺留の 保護特典を輿ふるこどが無かったかち甘庶の刈取かむ、砂糖に製して大阪へ積出し之生月捌くまでに は、多額の凝用ヤ要する′焉に、該資金敵通の困難に窮する者が多く、且つ時に天魔に遭遇し、或は商 人の軒策に苦めらる∼ かつたご云ふ箪である。其常時流行した子守唄は能く其賞状を穿ち待て居るビ思ひます0 コモ 砂療作るなら懸から作れ 第大筒 ﹁塘薫保護勧奨法 コ彗 カF 未は薦着で門に立つ ︵深雪謂︶

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(18)

切角盛大に赴いた製糖業が前申す如く悲況睾階花ものですから、清廉は大に之を慶へ糖業保護のこ

ぜを奉行所、勘定場、吟味方、札禽所等に任し之を救はうだしたが、まだ其方睦宜しきを得なかった

所があづたものか容易に元の盛況には臨場ませんでした。\ ︵奉行所︶ 親政が英軍務を取扱ふ役所 ︵勘定場︶ 二倍の財務を管理する役所 ︵吟晩方︶ 薩政の枢機を執り行ひ諸官紆の事務を吟放する役所で奉行に属するもの ︵凡骨所︶.藩札螢術所で今の紙幣をつ′、る役所 潤し計ら常時農産物中砂糖に讐ものはでのであるし、加ふるに天壌ハ年︵虹榊枇軸桝飯漂の執

ハヤミ 次位荷役で特に財務に長して居た寛速水ビ云ふ人があち呈しで、凝恕藩主の命を奉し、贋業のこゼは

農務に属するからごて之を郡奉行杉野九郎右衛門に保護勧奨のこざを凝げて嘱托しました。九郎着荷

門は又之を代官の竹内輿四郎に重し、輿四部は叉更に農夫宮内辰五郎に諮りましで、紙静々曙饗し糖

業資本金を貸付する等のこだに付協議をしました。時王群議官出、或は消極的勤倹主義を唱へるもの

があれぼ、積極的殖産保護ま義を唱へるものもあり、或は右両者の折衷ま哉を唱へるものもあつたⅥ

れぎ執政は針輿四讐謀一り、噺岩層糖菜保層雲宮内辰五郎︵脚謂択ほ志坤礪議︶の左記建議

を探うました。

讃岐砂糖史 ︵二〇こ 園三

(19)

第こ懸 第二兢 ︵二〇こ︶ 西周 元密度民は一般に無智で事理が赤らないため、見目前の小利を貪ら、遠大の思慮がないど云ふこご が現今の賓情であるから、糖業は辛抱強ソ、勉めで行けば莫大の利益を得られるこどを解せや、暫く して何か鵬寸の故障に遭ふビ直ちに之を優してし篭う。殊に琴に慣れ新に向はないビ云ふこごは﹂ 之亦農民の常であるから、理屈を詭て之を誘導した所で容易に其餌を改めさせにくい、是が保護勧 奨脅密接にしても其効果の拳がらない所以である。︻故に今之を隆盛ならしめるには、宜しく優 宜の方法を立てるべきである。 即ち塵糖地方に於て名望透る里登庄屋役︶及農民中り有志を選んで、宛えや誘導の層任を持たせ、 肥料の資金を貸附け、為替の便を輿へ、納税の融通を滑にし、或は其業に翻橡なるものがあつたら ば、必ずそれを賞し、又之を戯零するものがあれば必ずこれを欝し、又保護町名にする諸般の貸輿 金ほ地方資産家の人お選び、確賓の方法を軍で之に任せるど、共著は自ら之に・注意するのみならず 叉自分がもつてゐる多数の小作人にも其菜に徒事させるやうになり、藩鹿は拗輿の為に官吏を派邁 する必要もないかち﹂大に官民の費用を省くこごが出家るであらうだ。 直ちに披擢して﹁砂糖方叔調引ノ専﹂どし、次て﹁砂糖方﹂を置き元締役に登用されました。この後、 辰五郎は三十六年の久しい間取勉﹂日の如くにして遂に大成功を蓬げ、明治三年に至う隠退をしまし た。昔時藩應は之を優待し、特典を以て終身二人扶薄を賜ひ且つ嗣子にも家督奇相癒するこごを許し

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(20)

ました。斯く別途に賂身緑を賜ふ三富ふこどは本薄絹触の特典であつたど申し主音も 第七節 糖菓保護政窯車施普初の困琴 之よう党務か辰五郎の建策を納め、天保六年に藩札を馨行したが、常時藩の財政ほ頗る困難を極め わから、人民は儲疑催の念を抱き藩札を正金に引換へて呉れビ札愈所に出願するものが多く、焉に札 合併は殆んざ閉窒せん宣する時にあ詑り、権道を以て正金を支出し放らに砂糖を買上げました。そこ 七人或は藩厳に正金の準備貯蓄あるこどを信じ、藩札引換を猶改したど云ひます。 又此頃突然幕府巡検使より本港紙幣六貫目︵九十三両親︶を、正貨に交換しやうだ云ふこどを照督し 七務ましセ研が、之に應ずべき正貨がないから、執政は辰五郎に試り、遽に少許の正貨王統際どを出 して砂糖を買上げ、之を版貸して交換の資に供したけれざ、即日交換の出凍なかった三富ふかざによ ち、巡檜使は公然常時郡奉行であつた田原三卒に向つて其嫉を幕府に具申しやうざ照合して凍たこご がぁるゼ云ひます︵今其眞書が存して居るのである︶。これで小も共闘難状況が想像できます。 而して六年敏行の紙幣は僅々囲萬繭︵錆描紺測れ郁代隙雛現駅㍍伸銅兢紳増蓑駆姉射細指摘詣膵謂四︶ であつたけれざ、漸次該業に向ひ、爾後年々貸下げ金が増加するにつれて紙幣を檜敬し、遂に七十萬 乃至八十満席の多額に達しました℃共闘紙鮮を出して正金を回収するのだから、同一の紙幣ほ数†回 讃岐砂糖史 ︵二〇三︶ 四五 _ぷ

(21)

第こ奄 一 ︵こ〇四︶ 四六 償金に薙じて歯庫に復する三石ふ畢賓だから、賓に皆局薯ビ雌も濠想外の盛況藍蓋したのに驚いたご 云ひます。 ︻大阪砂糖曾所を設けやうどした時の苦心談山 前に申した製糖業老が叫時大ぢる悲境に陥った原因の一つは、今の阪神即ち常時兵庫大阪地方仲買 人は製糖業者の積み出した砂糖代を成るべく安︿買ひこなして、己れのみ暴利を得やうごの好策を施 した結果でありますから、藩がこ∼で眞面目なる製糖業着たる農民を保護する焉には、〓櫻の倉庫制 度をつくら、次節で述べるやうに兵庫大阪に積み出しヤ虞糖を、最Å商偶に潜れる時、まで藩庫に預け 履くこどにして、草月るべき時機を旨く見定めるペき顧問商人を選任して厭く必要があり、木津川の 品川屋雀兵衛を選定しましたが、此島川庵は昔時の大阪商人中では最も信用の高い人格ある豪商であ やますが、高松潜位の小藩の御抱へ腰間を規んだ所で、容易に承諾させるこどは困難でありました。 此時其簸川屋を我手に入れる為には秤々のエ失をめぐらした。其淡片が偽って属トます。 初め大阪に合併を設けやうどする時、竹内輿四郎は最も其計裔にカを毒したもので﹂先づ時の勘定 番術で大阪蔵屋敷留守居役たる藤判三太夫︵蝕爛虎︶をやって、木津川の黒川屋を説いて曾所の相談役を 托しましたが、其交渉が容易に賂捗しなかつ票ら、輿四郎は安らに又町人後藤勘囲風韻開閥警頗︶ を大阪に派遺し宗匠、大望ポ盈紆騒ゴビ茶事を以て交トを深くさせょした。之は深い計裔折ら出た串

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(22)

であちました。即ち黒川短は頗る茶事を好み、木津宗匠に師事して居たものだかち∵高松の方からも 茶人儀藤勘四郎を出して茶事で社務親交を厚くし、終に禾津宗詮の斡旋のもどに黒川屋を應諾させる やぅに有り、爾後藩の大津川倉庫に山積する砂糖槍は、毎年黒川屋の指固に任かせ、最も有利め時期 に貸出しを行ひ、非常打てる利益を得て之を繋留者に分配したものですかち∵落下の農民は犬に喜び、 何 に響かせ†製糖業の面目智一新したのであります。⊥−れより糖菜保護政策の本領を鴇ペるこどに致し ます。︵未完︶. 此の設備托一九二〇年¢創立にか∼り日本にほ未だ一般lこ知られて居ない轢で†けれ共、日本も既に加入して 居り、猫進も観際聯盟にこ入る以前lこ之に加入して居り、米国の如きほ、国際聯盟に入らずして寧ろ国際討米食譲 朗に入り、非常にカを入れて居ります。之lこ加入ぜる固にして己に閣内委員み設け車いろものこ十ニケ固、曾貝取 ︼八重ニ︵一九二六年九月現在︶巴藍に常設本部がぁり、各固要員.い屠り、叉時々各国の代表を招集して、大小¢ 食議な開き、観際聯盟ミも連絡み取って行動し、其寧日的ミサる併任各国民の協調に依り貿易ね螢逢せしめ、各 観艮の稲利己国際平和私追及すろlニぁり、商用語商業棟式の統一の簡捷を計り、無用の障害ね撤厳し、仲粥裁列 及和解の制を設けて居ります。鰐衆ほ金玉大なも¢ミなるでせぅ。;圭・⋮⋮⋮⋮︵加水愈々報第四十一紙より︶ 讃岐砂糖免

国際商業曹議所

︵二っ五︶ 西セ

久我眞三郎

一』

参照

関連したドキュメント

目について︑一九九四年︱二月二 0

[r]

 昭和大学病院(東京都品川区籏の台一丁目)の入院棟17

人間は科学技術を発達させ、より大きな力を獲得してきました。しかし、現代の科学技術によっても、自然の世界は人間にとって未知なことが

料からの変更を 除く。)又は、 第二九一五・二一号の産品へ の 他の号の材料からの変更 (第二九一二 ・ 一 二

以上の報道等からしても大学を取り巻く状況は相当に厳しく,又不祥事等

続いて川崎医療福祉大学の田並尚恵准教授が2000 年の