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近代史研究への一つの接近--明治期銀行史研究を例として---香川大学学術情報リポジトリ

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近代史研究への一つの接近

−一明治期銀行史研究を例として−

伊 丹 正 博 1い はじめに 明治期を対象とする史的研究は,極めて多種多様である。いわゆる「講座派」 「労農派」による資本主義論争を口火として,「明治維新」の性格規定や,産 業資本確立期の措定など,それぞれ数多くの争点を生み出し,すでに半世赤己近 く論争が続けられていることは周知の通りであるが,その研究の進展は,領域 の拡大と専門分野の深化を進めているのが現状である。 さて,私ほ近代日本経済史を専攻するものとして−,主として,明治期の史的 研究にかんして思いつくことを,若干のべると共に,大学教養課程における− 般教育のあり方についても少しふれて見たいと思う。 21.近代的銀行の発生と性格についての問題 先にものべたように,明治大正期を対象とする近代史は,政治史,思想史, 社会史的なもの,あるいは,土地制度を中心とする農業史あるいは.資本主義発 達史の中での産業史といったものが,一・般化されているが,ここでは,私自身 の専攻分野である,金融史,銀行史といった特殊領域を中心に考えてみたいと 思う。 いうまでもなく,銀行のような金融機関は,発生史的に見れば,古代にもそ の塀似的形態を見つけることができるであろう。たしかに,古代ギリシャ・P l−・マ時代の宝物殿をそれになぞらえる人もあるようである。 しかし,本来的な銀行の役割一商業手形の割引,信用創造−と言ったも のを考える時,普通には18世紀以降イギリスに見られる近代的銀行が浮び上っ てくる。それを更に,わが国にあてはめた場合,どのように取り扱えばよいで あろうか。 すぐなくとも,わが国における金融枚関の系譜は.,江戸時代の両替商金融を

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経て,明治以降の銀行へつながることを否定はできない。しかし,−−・方,そこ には,単に,縦書きの帳簿や諸伝票類を横書きにかえたというだけではすまさ れないものがひそ・んでいる。「上からの資本主義化」という言葉と同様に,明 治の銀行制度は,いわば海外からの移植そのものであるという指摘もある。た しかに,そう言っておかしくない事実は幾らでも列挙できよう。けれども,わ が国ではじめて「銀行」という名称をつけた,いわゆる「国立銀行」に.は,銀 行という名前だけで,現在の銀行とむすびつけるには,余りに靡銀行的要素が 見出されるのである。 たとえば,初期の国立銀行の考課状(営業報告書)の末尾に折り込みで付せ られている半季の貸借対照表は,たしかに横書きにはなっているが,.縦書きの 漢数字をそのまま横に並べただけの場合が多く,アラビア数字はほとんど見る ことができない。(もちろん,私が主としで九州・四国地方において手にした 史料によるが) また,この時期の銀行一国立銀行一に見られるェピソ・一ドとして有名な ことは,銀行の行員と顧客の人的関係であろう。たしかに,初期の行員には頭 取以下の役員をはじ∼引日武士である士族が多かったことによるが,銀行を幕稽 制時代の幕府か滞の役所・一笑際,これらを母体とした銀行も幾つかあったの であるが−と同一・視もしくはそれに代るものとでも言ったような意識で見て いたようである。したがって,顧客に対する態度が極めて高圧的な場合の多か ったのも当然であろうか。彼等ほ,預金着であろうと,顧客を呼び捨てにし, 「金を預ってやる」式であったようだ。銀行内の呼称にしても,行員側の席は, 頭取役場,支配人役場のように「役場」という名称を使用しているのに・対し, 顧客の待ち合所は,「人民控所」と呼んでいた。 これには,両者とも国立銀行に対する考え方にずれがあったと見られるふし もある。すなわち,この時の国立銀行は,いうまでもなく,アメリカのナショ ナル・バンク制度をモデルとしたもので,その訳語から釆ているのであるが, このナショナル・バンクをそのまま「国立銀行」として訳出したのである。こ れについては,正確には「国銀行.」だが,それでは語呂が悪いので「国立」と したと言う詰もある。とにかく,これは,ナショナソレ・′ミンク・アクトによっ

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伊 丹 正 博 14 て設立される銀行であるから,機能的に言え.ば,後に使用されるように/なった 「国法銀行.」の訳の方がより適している。(ステ・−ト・バンクは従って「州法 銀行.」の訳が用いられる。) 国立銀行は.あくまでも民間の一私立の一銀行に他ならない 。(同銀行は 別な観点から言えば,日本における最初の本格的な株式会社である。)しかし, それを官立(政府立)のように.思い込む老のあったことは,やはりこの銀行制 度のもつ移植性,政府の手による「天下り式」政策から来るものであると言っ ても,そう大きな違いはないであろう。 かつて,武家社会の中にあって,「金(かね)」と\…、うものに対する,あるい は金融業に対する蔑視を深く刻み込まれていた武士達一封建諸大名と家臣団 −−は,幕末段階にいおける商品流通の全国化,貨幣経済の進展の中で,武士と しての理.想と現実のギャップに.おち込み,「’金」を排除しようとしながらも, その流れの中にまき込まれて行く。その意識は,明治維新以後の文明開化の進 展する中で,なお,くすぶりつづけていたのではなかろうか。 たとえば,第五国立銀行と島津家との関係を追って行くと,しばしば奇妙な 錯覚に陥いることがある。現存史料に見る限り,その密接なつながりを否定す ることは,ほとんど不ず能であろう。しかし,一一L方,そのつながりを明確に示 す材料も極めて乏しく感じる。第五国立銀行創設の際の資金の出所を島津家と 指摘することはできるが,公式的な形がとられていないので,跡づけることは むつかしい。島津家一鹿児島県庁一第五国立銀行という−・本のラインは, 後の二者(県庁と銀行)の主要構成人物が島津家の旧家臣であることからも肯 定できよう。しかし,彼等の銀行に対する考え方には,かなり大きな違いがあ った。かつて,幕末の封建領主財政の危機の中で,薩摩滞の財政建て直しに大 きな功績をあげながら,不遇な結末を強いられた調所笑左衛門広郷の例を繰り 返すまでもなく,文明開化の西欧化政策が行われている段階やも,なお有力な 思想としては,あえて近代化を好まない保守的思想も有力であった。 これを襲付けるのは,明治9年,第五国立銀行が資本金を50万円から30万円 に減額するに際して,かなり意見の対立が見られるが,初代以来の頭取その他 の役員,あるいは政府当局者といずれも島浮家の家臣であり,島津家忙対する

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主従関係の意識は,まだ十分残っていると見られ,意見対立も■また,基盤は同 じであった。したがって,銀行への島津家の出資について賛成派である奈良際 繁(旧島津家家臣,二代目頭取,沖縄県知事)は,「我々互■.ニ島津家へ尽スノ 精神ハ何事二限ラス易キヲ拾テ難キヲ取ル者ナリ」(『第五国立銀行沿革事誌』) とのべ,一・方島津邸内の強硬な反対論者,内田政風は,「銀行営業ノ如キハ質 屋漂卜等シキモノニシテ堂々クル華族家ノ従事ス可キ業務ニアラズ殊二公ノ御 趣旨ニ・モ惇戻スル老ナリ」と主張していたが,結局は御当主島津久光の意見 が,銀行持続諭となったため,島津家出資は継続したのである。 以上に.述べたことは,やや特殊な事例の如き感じをうけるかもしれないが, 当時の彼等の銀行に対する考えは,肯定も否定も,同じ意識の上に立っていた と思われる。士族達が近代的金融機関としての銀行の価値を評価し,その業務 に.抵抗なく入って行けるためには,お傭い外国人のアラン・シャンドによる詳 細な銀行実務教育と日本の銀行制度確立の父ともいうべき渋沢栄一の努力が結 実するのをまたねばならなかったのである。 渋沢栄一すよ,士族ではあるが,すでに幕末にヨ、−・ロッパにわたり,2年足ら ずではあったが,ヨ・−ロッパの先進諸国における産業・経済事情や政治情勢を 視察し,株式会社制度輸入によって,資本を集め大企業を建設することこそ急 務と考え,「合本主義」を提唱し,更に「官尊民卑打破」(いわば民主主義) をその目標においていたようである。 以上にのべて来たことは,銀行という極冶て近代的な,資本主義発達史にお いても最も畳要な役割を果していると考えられる制度に,極めて保守的な接触 の仕方をたどる場合のあったことを指摘しておきたかったからである。 3.府県農工銀行の性格 明治期の銀行の設立経過につい■ては,いろいろなコ、−・スを指摘できよう。 先述の国立銀行は初期の主流をなすものであり,国立銀行条例による保護の みならず,国立銀行券の発行権を持っていたことは,大きな特権であった。こ れに対し,他の−・般私立銀行は,自らの資金で営業を続けなければならず− 未だ,市中の遊資を十分に集めうるはどの力をもっていなかったので−,そ の規模別,地域別の格差は,かなりその性格に影響を与え,三井銀行等の旧御

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伊 丹 正 博 16 用商人系の銀行と,地方の町と村に族生する小私立銀行では,更に.大きな相違 をもっている。 しかし,明治20年代初頭の銀行設立プ・−・ムを経て,劇応安定期に入り,日清 戦争終了後の,いわゆる産業資本の確立期と目される時期に.は,国立銀行の普 通銀行移行にともない,はば,日本の銀行制度は,中央銀行としての日本銀行 と,商業銀行としての普通銀行という基本型が出来上り,これに加えて,産業 勃興期に対応して,農業・工業への資金需要に応ずる特殊金融株関が創設され ることになる。その主要銀行の1つは,日本勧業銀行と府県農工銀行のいわゆ る勧・県政策の実施であろう。 このような殖産興業政策とつながる銀行制度,あるいは,土地抵当を主とす る不動産銀行などの構想は,大蔵省や農商務省などで古くから検討されていた ことではあるが,実現までにはさまざまな曲折があった。 さて,農工銀行の設立は,日本勧業銀行と共に,明治29年1月の日本勧業銀 行法案・蔑工銀行法案・農工銀行補助法案の3法案同時に議会に提出され,3 月に成立し,4月18日法律第82,83,84号として公布され,その実現をみた。 かくして,明治30年10月の静岡県農工銀行の設立を皮切りに,相ついで各府県 に設立され,33年8月の徳島県阿波農工銀行の設立に.よって,全国各府県にそ ろい,46行をかぞえたのである。 このような農工銀行の設立は,明治10年代後半に,財政金融政策の推進者た

る松方正義を中心として,これら特殊銀行設立に.ついての準備が進められてい

た。それは,初めは中央にただひとつの大境模の銀行として設けると言う考・え から,中央に不動産金融を行なう銀行を作ると同時に,これと「輔車唇歯」の 関係の農業銀行を,各地方に設置するという計画に変った。 このように,直接,殖産興業政策を推進させるための銀行から,むしろ,小 農保護の政策をかなり含んだ,農業金融機関としての色彩の,はっきりしたも のに変化して来た原因は,明治10年代後半から,20年代にかけての,いわゆる 「紙幣整理にともなう原始蓄積の進行(農民層の分解)に影響された」ものと 考えられる。 ・かくて,この農業銀行は,その対象に中小工業をも含めることによって,農

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工銀行と言う名称の下に発足することになったのであるが,その目的および性 格ほ,次のような言葉で示されている。 「■当銀行ハ明治29年法律第83号農工銀行法ニヨリ組織セラレ,専ラ本県内農 工業ヲ改良発達セシムル為メ,長期低利ノ資本ヲ供給スルノ激闘トシテ設立 セラレタル・モノニシテ,特二厳重ナ政府ノ監督ヲ受ケルモノナレノミ,貸借手 続ノ如キモ,勢ヒ他ノは・般営利的銀行等ノ如ク単純ナル能ハサルモ亦,実二 止ムヲ得サルナリ,然レトモ,当銀行ハ借入請求者ヲ侍ツニ十分ノ注意卜親 切トヲ以テ・ン,勉メテ繁雑ナ手続ヲ省キ,及フ丈,ソノ便利ヲ計り,以テ県 下農工業老ノ薦望二副ワンコトヲ期待スルモノナリ,‥…い」(安心院家文書 『大分県農工銀行営業案内』) このように,勧銀と同様,長期低利の貸付を行なう金融校閲であるが,その 営業内容を見ると,先ず,貸付については,「第一・貸付ヲナスベ年番業ノ種 類.」として,次の7項目が列記されている。 1,開墾排水潅漑及耕地土質改良 2.耕作道路ノ築造又ハ改良 3… 殖林事業 4.種苗肥料其他農工業用原料ノ購入 5.農工業用ノ器具器械及油単獣畜ノ購入 6.農工業用建物ノ築造又ハ改良 7.前各項ノ外農工業ノ改良 以上のように細かく規定した上,更に追記して,「右二列記シタル以外ノ資 金ニハ,貸付ハナサザルモノニシテ,例へ貸出ノ後卜錐,猥リニ英日的以外二 使用シタルトキハ,当銀行ハ貸付金ノ払戻ヲ請求ス可ケレハ,借主ハ初メヨリ 十分注意アリタキモノナリ」としている。 これによって見れば,農工業と劇応記されているとは言え,その日容は,ほ とんど,農業者を対象としたものであったと思われる。 貸付には,年賦償還貸付と定期償還貸付の2種類があり,前者の場合は, 「事業ノ種類卜性質トニ因り,−・ケ年乃至五ケ年迄ノ据置年限ヲ定メ,此期限 内ハ単二利息ノミヲ仕払ヒ,其後償還スへキ元利金ハ,三十ケ年以内ノ約束期

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伊 丹 正 博 18 間二於テ,済崩シノ法二依り,年々均等ノ金額ヲ定ム.」ものであって,当然, 一・般農工業者には抵当物件を求めたが,「市町村其他法律ヲ以テ組織セル公共 団体」についてほ,無抵当セよいとしていた。 一・方,後者の定期償還貸付は,5カ年以内であって,特に.,農工業者20人以 上の連帯者に貸付ける場合に限り,無抵当貸付となっており,この定期償還貸 付の【・般農工業老に貸付ける金額は,銀行が既に年賦償還に.貸出したる総金筋 の5分の1を超過L.ない範囲であった。 この20人以上連帯者に対する無抵当貸付は,農工銀行法制定の一つの目標で あった,「小農保護」にもとずくものである。ト……農工業老二十人以上ノ連 帯老二無抵当貸付,即対信用ノ道ヲ開キタルハ,小農小工業者ニシテ勤勉力行 信用確実ナルモノニ,資本ヲ得セシメソカ為メニシテ,猥リニ資力■アル農工 業老二対シ,適用スルモノエアラズ………」(「農工銀行営業案内」)となってお り,それ故に銀行は,この貸出の場合,特に.規定を設け,20人以上の連帯者借 入にかんするものは,その契約書,及び各自の資力,信用と事業の大小との関 係などを調査して,−・定の規準に.合わせて貸付を行って−いる。その規準でみる と,20人以上の連帯老の無抵当貸付は,土地を所有しない小作人にも融資を可 能にしているわけであるが,金額その他の点からは,かなり制限があったと言 えよう。 さて,一・方重要なことは,抵当物件であり,農工銀行設立の趣旨からもうか がえるように,農工業者への長期低利の貸付金であるから,その抵当は当然, 不動産であった。すなわち,「当銀行二於テ,抵当トシテ徴スへキ・吏ノハ,不 動産こテ,永続スへキ確実ナリレ収益ノ見込アルモノニ限り」第一・抵当たること としたが,建物は保険付であること,地金銀,国債などを含み,更に,抵当物 に制限を加わえて, ①明治17年第て号布告地程条例第4粂によって免租地になった,公立学校用 地,墳墓地,用悪水路,溜池,堤塘井梁,鉄道用地,禁伐林,及び公衆の 使用する道路。 (参学校,社寺,病院,劇場,その他共同使用の建物と敷地。 (訪島工業に使用しない宅地建物。

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④境坑,石坑,池沼,鉱泉地。 ⑤入会地 ⑥数人所有ノ不動産(ただし,共葡老一・同が承諾の上,その全所葡権を抵当 とするときほ構わない)。 というように規定している。 結局,抵当物件となる不動産は.,農工業に使用している土地建物ということ になる。これに対して■,抵当物件を要しない公共団体の場合は,その市町村の 戸数や税収など,財源をどの程度もっているかどうかを詳しく記載して提出さ せていたようである。 このような農工銀行の設立を容易にするために,政府は轟工銀行補助法を制 定してトいるが,これによって.■,各農工銀行の営業区1域を管轄する府県に対し て,政府ほ総額80万円を限度(払込資本金の3分の1以下)として株式引受金 を交付し,これによる府県の出資分については.,5カ年間は利益配当を行なわ なくてもよいことに.した。 更に,虔工銀行の株式が,−・ロ20円という比較的小額のものであったので, 小魚工業者でも株主になりうる道があったことも注意しなければならないが, 恐らく大部分の株主は,地方の豪農・中小地主・商工業者であったといえよ う。 ほじめにのべたように.,農工銀行設立の盛況に対して批判的な意見をのべる ものもないではなかった。その一人は,『東京経済雑誌』の主宰者田口卯吉で あり,彼は,土地抵当の危険を排除すれば,国立銀行,私立銀行であっても, 必ず低利で融通するであろうとのべ,特に,農工銀行が,その資本金の5倍の 額の農工債券を発行できる点を追求して, 「……然るに此の法律となりて実施せらるる所の農工銀行は.其資本金二十万 円以上にして−,百万円の債券を発行するものなり,当分我府県に於て百二十 万円の資金を有する銀行は大銀行なり,決して以上の如き小口の貸付を為す に適せざるべし,且其性質に就いて観察するに,英資本金の三分の一・は政府 より下付するものなり。故に二十万円の資本を集めたる銀行当局者は之を三 十万円の資本となし,百五十万円の債券を発行するものなり,=十万円の資

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伊 丹 正 博 20 金あるもの俄に百八十万円の資金を運転するに.当りては,焉ぞ謹慎自重なる を得んや,銀行の道理に於て諸預金に.して資本金の三倍以上とならば大に戒 心すべしとの言あり,夫れ銀行暑が其資本金三倍以上の預金を受くるに就い ては,非常の勤勉と注意とを要することなり,然るに.尚ほ三倍以上とならば 其の気弛み貸付に注意せずして数多の滞貸を生ずるの憾あり,然るを況や地 主若しくは政党具に.して俄に.銀行当局者となり,五倍の債券を発行して集め たる貨幣を貸付くる場合に於てをや」 と断じて了いる。これがため農工銀行は,業務の安全をはかるためには,新しい 事業(’開墾・排水・築堤等)忙は貸し出さず,豪商や大地主の所萌する土地に

貸付けることになり,彼等がこの低利の恩典に.あずかり,しかも,この資金は

商業へと流れるであろうとのべている。さら忙この後5年経って,彼ほ「農工 銀行の害」と題する論説を発表し,各県の農工銀行が,立憲政友会か憲政本党 かに属して政争を繰り返していることをのべている。たしかに,彼の指摘する ような農工銀行内部での政争が各地で表面化しているのである。 4.沖縄県農工銀行と自由民権運動 農工銀行のもう一つの特殊例は,沖縄県農工銀行の問題である。 農工銀行が全国的に創設された明治30年から33年へかけてゐ時期は,沖縄に おける自由民権運動の最盛期であり,独裁王として−沖縄に君臨した知事奈良尿 繋が,沖縄の代表的な民権家謝花昇と,はげしい抗争を繰り拡げた時期であ る。そしてその重要な抗争の場となったのが,創設直後の沖縄県農工銀行であ った。しかも,謝花昇は同農工銀行の常詰取締役をつとめ,奈良原繁ほ農工銀 行創設に.努力したのみならず,はじめにふれた通り,鹿児島・沖縄と密接な関 係を有した第五国立銀行の三代目の頭取であった。したがって,沖縄県農工銀 行の創立初期の経過は,どうしても謝花昇とその同志たちの奈良原知事に対す る抵抗運動−いわゆる「沖縄の自由民権運動」・−−と切りはなせないわけで ある。 ここでは,紙数の関係もあって,これ以上立ち入ることは控えるが,沖縄の 民権運動は本土の民権運動がほとんど終焉した時期に昂揚し,本土と沖縄の近 代化過程における大きなずれ一明治政府の沖縄統治策が,その植民地的政策

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実行の域を出ず,日清・日露という重大な国家の対外戦争期において,南方に おける国境線の一つとして沖縄諸島をみていたのではないかという−を如実 に示していたのである。 5.むすびにかえて 以上は,極めて断片的に私の研究分野から拾い出した諸問題であるが,たま たま,私が携わる機会のある−L般教育の課目としての「社会科学概論.」や「哲 学S一」(共同研究科目)においても,このような問題を持ち込んでも良いので は.ないか,−あるいは,積極的に学生と−・緒に考えてよいのではないか−− と考えている。極めて狭い領域のことを,学部の枠を越えた学生達に話すのは 問題といわれるかもしれないが,歴史科学の場合,十分に腰を落着けて話せば, ある程度の理解ほ可能であり,少し指導をすれば,それを拠りどころにして, 普遍的な問題へと拡げて行くことが可能であると思う。 【・般的な,概論的な話で,高校までの授業の繰り返しの感を与えるよりも, 極めて専門的な課題を考える中から,−・般的な諸法則を体得させることが必要 でほないか,「個」から「全」へと進むことば,人文・社会科学等でほ可能で あるのみならず,むしろ効果的なのではないかと考えている。 (1975.7小25) (追記) 本稿では一切の注を省略してある。より立入った問題について は,たとえば下記の私の関連論稿を参照して頂ければ幸いである。 0「創設期第五国立銀行の史的研究一島津家との関係とその士族銀行的性 格をめぐって−」(秀村選三編『薩摩滞の構造と展開』所収)西日本文 化協会刊 0「沖縄県農工銀行の創設と謝花昇一沖縄金融史研究の一・駒−」(『地方 金融史研究』第6号1975.4.全国地方銀行協会刊)

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