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談話室-香川大学学術情報リポジトリ

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「一般教育」をめぐって

村 岡 貴 子

ぶことは有益であると考える。そして,現 代社会が抱えるさまざまな問題,国際政治 の問題,環境問題,医療問題,現代人の生 き方を問うような問題,州…と,私達−・人 −・人が決して現在も将来もー・時も無視でき ないような問題が山培している現実を見れ ば,学んでおく適時的共時的学問は枚挙に 畷がない。そうすると,今,大学でこそ, 自由に学べる機会が用意されていれば,社 会に出てからも必ずや役に立つと言えるの ではないか。そのような視点で以下,特に 教育ということについて述べる。 世の中には,しばしば対立する立場や視 点から物事を分析するということがある。 「親」と「子」,「上司」と「部下」,「生産 者」と「消費者」等々,挙げていけばきり がないが,その中に「教師」と「学生」と いうのもある。教師達は自分もかつては 「学生」であったのに,ひとたび教壇に立 つと,教師サイドに偏向した態度をとりが ちである。これにはいくつか理由が考えら れるだろう。まず,自分が学生だった頃の ことはすっかり忘却の彼方に,自分が何ら かのイメー・ジを持つ「教師」という立場か らでしか教育が語れなくなっている場合。 次に,自分が学生だった頃首尾よくいった 経験から,学生達にも学生として好ましい 香川大学に赴任してまだ日が浅く,こち らの状況は十分つかめていないが,これま での数年間の教育経験から自分なりに考え てきたものと自分の学生時代の印象などか ら,以下,述べていきたいと思う。そして, それは,これまでの自分に対する反省でも ある。 私の場合,大学卒業後,大学院に進み, そしてそのまま大学関係で仕事を始めたの で,最初の卿ま,どうも学生気分が抜けな い時期があった。(これほ私個人の現象だ から,ここに『ので』を使うのは適当では なかったかもしれないが)たとえば,授業 の「準備」のことを,つい「予習」と言っ てしまい,同僚から「もうそろそろ『準備』 に言い換えたら?」などと言われたことさ えあった。しかし,学生気分が抜けないと いうのは,何も悪いことばかりではない, と今にして思う。そのことから話を始めて みる。 その前にことわっておくが,これは特に −・般教育だけに限った談論ではなく,広く 学問研究と大学教育に教延できるものでも ある。ただ,「−・般教育科目」は,いわゆる 専門科目ではないとよく区別して論じられ ることがある。が,専門でないものであっ ても,その筋道の立て方や分析の仕方を学

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貴 子 とを忘れてはいけないのだ。 そこで,実際,教師にとっても学生に とっても刺激になる有意義なま受菜とは?, を考えなければならない。私見でほ,教師 対学生,学生対学生のコミュニケー・ショソ が非常に重要だと考える。コミュニケー ショソを行うことによって,相手の考え方 を理解し,また,自分の意見や感想を他に 知らせることができる。そうして,自分で はわかっていたつもりのことが相手に十分 説明できないことに.よって自分の理解度粧 反省を加えることができるからである。さ まざまなインタ−・アクションがあってより 深い理解が生み出されるだけでなく,視野 を広げて物事を分析していくという姿勢の ようなものも身につくのではないかと思っ ている。 では,コミュニケー・ショソができる場や 雰囲気とは,どのようにして作り出せば良 いのか。教養を身につけ,学問を研究する には,まず,それら対象に関心を持ち,追 求していこうとするモーティべ−シぎソを 持つことが不可欠である。無理やり,いや いやながら本を読んでも講義を聞いても, 所詮残ることはないだろう。仮に身につい たとしても本来興味がなかったものはすぐ に忘れてしまう。従って,教師は学生が興 味や関心を少なからず持つような材料と彼 らに合うような教室運営を考えた準備に時 間を割くべきである。ここで,大切なこと は,学生達が,どのような勉強をしてきた か留意しておく必要があるということだ。 つまり,彼らの多くが,大学入学以前の学 校生括で,多くの場合,知識注入型の孤独 なマラソソに耐え続けてきたという事実を 直視することである。(これには,また別 の社会と教育の深刻な問題が存在するが, 村 岡 122 と考える感度を強要,あるいはすすめよう とする場合。もう一つは,自分が学生だっ た頃失敗した多くの経験から,学生達には そのような誤った道を歩んでほしくないと 切に願いながら,自分のとは反対の,ある いは別の方法を模索している場合。このよ うに並べてみて,以上のいずれの場合にも 欠けていると思うのは,「教育」の対象に あるのは,「学生」という括弧で一応くく られてiよいても,個性豊かな生身の人間の 集団であるということだ。(今,集団の人 数の多少は問題ではない)ごく当然のこと を言っているまでだが,この「個性豊かな 生身の人間の集団」というところが重要で ある。先の,教師の偏向した傾向のうち, 自分が学生であった頃のことを全て忘れ 去ってしまっている場合は論外として,教 育者は,自分のかつての経験や反省のみに 基づいて教室現場で何かをしようとして も,思い通りにならない場合が多々あると いうことを常に肝に銘じておかねばならな い。すなわち,相手は自分とは全く異なる 「他者」であり,かつて成功した方法だか らといって,目の前の学生達も同様の反応 をしてくれるとは限らないのである。ま た,逆硬かつて自分が失敗したやり方だか らといって,目の前の学生達も同じ経路を たどるとは限らないとも言える。刻々と変 化する時代の流れを追っていけば,世代間 のものの考え方の「ずれ」に容易に気づく はずである。(もちろん,これはどちらが 良いとか悪いとかという問題ではない)教 師としてiま,まずは学生の様子を十分観 察,考慮し,彼らのレベルや興味に合った

ものを,最初のうちは特に試行錯誤的に開

発していく地道な作業が求められる。要

は,学生の反応も常に視野に入れておくこ

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ここでは触れないでおく) 大学に入学、してからも,従来のような受 け身の姿勢だけでやっていけるようでは, 教師も彼らも不幸である。実に悲しいこと である。税金の無駄遣いである!かと言っ て,彼らの全てが最初から複雑なディス カッショソやディべ−トに意欲的に参加で きるとも思えない。自分の受けてきた教育 を振り返っても,これまで,そのような敢 極的な態度で授業というものにのぞむ訓練 を受けたことがないという事実が指摘でき る。いきなり,もっとロを開けと言っても 無理なのである。そこで,できることな ら,少人数で,意見交換のとりやすい雰囲 気の中で授業をすることが望ましい。ま た,やむを得ず,多人数になってしまって も,−・部の発表の担当者の学生だけでな く,他の学生達も常に何らかのタスクが与 えられていれば緊張感を少しでも持統さ せ,刺激的な授業にできる可能性が高くな る。極端に言えば,自分は今日は黙ってい ても,出席さえすれば良いという安易な気 持ちでは授業に出てはいけないぐらいの申 し合わせのようなものがあればなお良い。 情報網が発達し,着実に世界は狭くなっ てきている。学生達が,もう,「これくらい の点数さえとれば合格」とか「これくらい 単位をもらえれはとにかく卒業できる」と かいう,目先のことだけ,自分のことだけ を考えて渡っていける世の中ではなくなり つつあると思う。何のために大学に入り, 何が勉強したいのかを問い直すところから 始めなければならないのではないだろう か。そして,教師は,学生の意見に耳を傾 けるだけでなく,交通整理もしなければな らない。つまり,彼らの自主性を尊重しな がら,問題解決への−・歩−・歩の過程を見 て,ポイントを押さえながら,口出しをし ながら,学生を導くのである。 そして,もう−・つ,まだ具体的に考えは まとまっていないが,冷たい競争社会に 「仲間意識」や「協調の精神」を育ててい ければすばらしいことである。複数の人間 が良い意味での「妥協点」をみつけていく べく共同作業を行うシミュレーションが, 今,大学でこそ可能なのではないだろう か。

一般教育2ヶ月の随筆

岩 月 謙 司

キサス州;83年∼86年)→日本石油㈱中央 研究所(横浜;86年)→本社(東京;86年) →筑波大学生物科学系(内地留学;87年) →日本石油化学㈱筑波生命科学研究所(88 はC.め∼こ: 大学院を出てから,まるで渡り鳥のよう に各地を点々として来ました。 大学院→テキサス工科大(アメリカ・テ

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謙 司 3つ目は感動がないこと,である。 個々の情報にほどんな意味があるのか? あるいは知識として統合した場合,全体と して何が言えるのか?という発想が乏し い。情報同士あるいは知識同士の連絡がな いのである。 これでは,情報はフロッピーディスクの ように記憶されているだけとなる。だから 肝心の本人は,流行を追いかけるだけで, 他律的存在になり,自己主張しているよう で,その実マスコミに扇動されているだけ である。 科学的分析・思考ができないので,事実 も感想も頭の中ではごちゃごちゃになって いる。「∼と仮定すると」と但し番きして も,また「∼という説もあります」と断っ ても,更に「私は∼と想像しています」念 を押しても,説も仮説も事実も想像も区別 されないまま依械的に記憶されてしまう。 何でもかんでも機械的に記憶することが 学問だと思っている学生が少なくない。そ のため物事の見方や解釈の仕方が,ムード 先行に陥りやすく,判断も視野峡窄的で, かつ自分独自のものの見方をもっていな い。だから,世間の価値観やマスコミ流の ものの見方を素直に信じてしまう。 授業で社会の価値と違った話をしようも のなら「先生は間違っている」と強い口調 でやられてしまう。自分の頭で考えたり, 自分で判断する,ということを知らないの である。知らないから権威を頼るという悪 循環を繰り返す。自分の中の偏見を疑おう としない。偏見があるとははじめから思っ ていないのである。 名誉などの■アクセサリー・で自分を飾るこ とには熱心だが,アクセサリー・の意味,あ るいはそれを身につけた自分自身をまった 岩 月 124 年′−92年)→香川大と,いろんな土地に住 み,いろんな世界を見てきました。 教育学部・生物学教室に釆てまだ2ヶ月 余りの新米ですが,一腰教育および大学に 関する私見を述べたいと思います。何も知 らない新任教官の戯言と思ってご批判ご指 導いただければ幸いです。 新米教官の悩み: 生物学を教える私の場合,授業の準備を していて−・番困ったのは,「−L般教育で教 えたいこと=−・般科学雑誌に載っているこ と」という現状であった。 昔と違って今はクオ・−ク,ニュ.−トン, 科学朝日などカデフルで質の高い雑誌が刊 行されている。雑誌だけなく,否籍も充実 してきて,平易に解説した優秀な入門杏が 実に多くなった。TVもかなり質の高い番 組を制作するようになってきている。それ らを見ていると一腰教育は,これらの雑誌 ・番籍・TVで充分のような気にさえなっ てしまう。 マスコミが大学の一腰教育を肩代わりし ているような現実の前で,自分は何を教え たらいいのか悩まずにはいられなかった。 なぜなら,−・般教養としての知識の畳と幅 は,これら雑誌・書籍・TVで充分のよう に思えたからである。 意外な事実: しかし,学生に敢えていて重大な3つの 傾向を発見した。 大多数の学生は,情報の畳は豊富でもそ れらの情報はスポット的で互いに統合され ていない,という事実,もう一つは,事象 を科学的に分析して考察していない,とい う事実,つまり,表面的にしかものごとを 見ない(見ようとしない)こと,そして,

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く問わないというチクハグな行勒をするの が,現代学生気質のようである。 以上のような理由で,個性を発揮できな い。個性が乏しいから,心の底から沸き出 るような興味や積極性が出ない。従って, 理解することの面白さ,知ることの喜び, という感動を味わうことは不可儀となる。 どうやら受験勉強に集中するあまり,学 問とはただ単純に記憶するもの,受け身的 にやらされるもの,そして辛ぐて面白くな いものという固定概念ができあがってし まっているようである。 「早く専門を勉強したい」という学生の 気持ちもわかるが(平成3年虔アンケート 調査結果より),単純記憶中心の学習スタ イルから抜け出さなければ,1年次から専 門科目を受講したところで結果は同じであ ろう。今度は専門の授業が面白くないとい う不満にすり変わるだけである。 一般教育で何を教えるべきか: 知識に対する姿勢がこのようでは,大学 に釆ても来なくても結果は同じになってし まう。授業料を払わずに囲杏館で本を読ん でいる方がマシになる。いずれにしても, フロッピーディスクのような記憶(情報) の羅列では何の役にも立たない。 一般教育で教えるべきことは,単なる基 礎知識の伝授ではなく,概念を教えるこ と,あるいほものの見方・考え方,そして 科学的な分析の仕方を教えること,記憶と 記憶を横の線でつないであげること,学問 の楽しさを教えること,ではないだろう か,と思う。そして,それこそがマスコミ ではできない大学だけの講義であり,大学 の春巻;意義のような気がする。 前期を従来通りのマスプロ教育にして, 後期または2年次の−・般教育を10人∼20人 程度のゼミ形式にするのも悪くないと思 う。 いずれにせよ,−・般教育で概念や方法論 をきちんと教えていれば,学生が専門に進 んだ時,専門知識の意味付けや記憶の交通 整理ができるようになるし,学問の全体像 も見えてくるようになるほずである。 しかし逆に,大多数の学生がフロッピー ディスクのような記憶で卒業していくよう な事腰が続けば,そのうち大学は,学問の 場としての存在意義を失うのではないだろ うか。実用的な専門学校の方が重宝される ようになるかもしれない。 学生側の問題点: さて,学生の姿勢にも問題がある。休み 時間は「若さは爆発だ!」といわんばかり の熱気があるが,授業が始まると,とたん に変身して通夜の客と化す。「このたびほ どうも…」「ご愁傷さまで…」の雰囲気だ。 元気のいい学生ほど「通夜の客」になる傾 向が強いように見うけられる。 おとなしく静かに講義を聞くのが礼儀だ とばかりに,学生は『常識人』となる。質 問ほないか?と再三言っても,深窓の令嬢 よろしく奥ゆかしい面々である。自己主張 などしたら「ええカツコして」と,自分− 人だけ仲間から浮き上がってしまうことを 恐れているらしい。その証拠に,紙に杏か せるといろんなことを番いてくる。もっと もその半数以上は,授業とまったく関係の ない質問が多い。 「今朝TVで突然変異だという青いカエ ルを見たんですが,どうして緑ではないの ですか?」。教官を,TBSラジオの「子供 電話相談室」のおじさんぐらいにしか思っ ていないようである。 不思議なのは,通夜の晩であるはずなの

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謙 司 れた某旧帝大の先生がおられたが,学生に 対する皮肉と絶望感,そして苦い自嘲が込 められているように感じられた。 さて,授業が一・校時日であるせいか,遅 刻が多い。9時になっても受話登録者の三 分の−・もいない。九時半頃を過ぎてから も,こちらが黒板を向いたスキに忍者のよ うに入ってくる。神業である。振り向くた びに人数が増える。 更に悪いことには,学生にやる気が失わ れると,こちらもやる気を失う。悪い学生 は授業していると目立つので余計に始末が 悪い。いくら−・生懸命授業の準備をして授 業に臨んでも,学生がこれでは本当に悩ん でしまう。かといって,手を扱いたり,こ ちらが情熱を失えば,今度は小数の其面目 な学生を失望させることにになる。 しかしガラガラに空いた教室では,熱弁 をふるう気力も萎えてしまうし,授業の終 わり頃になると出席カードだけ出すために 教室が満杯になるというこの現実の前に, 新米の教官はなす術を知らないのである。 こうなった原因: 学生の非ばかり安めるのは片手落ちとい うものだろう。社会全体が,物事の表面ば かりを見,そして体裁だけ取り繕うことし かしないから,形ばかりの大学生ができあ がってしまうものと考えられる。 マスコミが大学をレジャーランドと言う のはかまわないが,何も大学が怠慢だから こうなるのではない。学生が自主的に大学 をレジャーランドにしてしまっていること を誰も問題にしないからである。 ではなぜ問題にしないか?世間が卒業証 香しか見ないからである。 誰も大学教育の中身など問わないから, 「赤信号,みんなで渡れば怖くない」と同 岩 月 126 に,授業中に私語をすることである。女子 学生がほとんどで,いつもメンバ−は決 まっている。注意して仲間から浮き上がら せてやろうかと思ったこともあったが,面 白くない授業をしているから私語もでるの であろうと,自分を責めることにした。 「講義がつまらないから私語も増えるの だ」という学生の投番が,昨年英新聞の投 書欄に載っていたことを思い出したからで ある。 しかし,冷静に考えてみれば,つまらな い授業なら受けなければいいはずである。 そして,「つまらない講義なら私語をして みんなに迷惑をかけていい」という論理は まかり通らない。 東京の某女子大学の先生が,私語をして いる学生を安めたところ,「あら,あたく したち,今,先生がお話しなさったことに ついて話し合っていたところですけれ ど…」こうなると,もうつける薬がないと いう感じがする。 そもそも,「魅力がない,つまらない」と いうのは,学生自身の勉強不足である可能 性も高いであろう。わかりやすい講義を期 待すること自体甘えきっている証拠であ る。 先生によっては情熱はあっても説明がへ タな人がいるかもしれない。それならば, つまらないと文句を言う前に,自分で勉強 するなり,その先生に理解の助けとなる参 考暫を推薦してもらうなりの努力をするの は学生として当然のことではないか。 こんな状態では,学生による教官の評価 など不可能である。落語か漫才師でないと 教官は勤まらなくなる。 かつて,『学生は単位を取るため,教師 は給料をもらうために教室に来る』といわ

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じ論理で学生ほ安心して大学をレジャー・ラ ンドに格下げするのである。 だから授業は「単位取りグー・ム」と化す のである。学問でなくてゲ−ムであるとこ ろが悲しい。ユ・ニプレス32号を見てもわか る。「いかに楽をして単位をとれるかとい う所に重点がおかれているように…」と明 確に香いてある。そして,授業が面白いか どうかの記載はあるものの,『楽勝』かど うかが中心テーマである。 「どの講義がどのように面白くで,どん な人に向くのか」というガイダンスが自然 発生的に生まれるものだろうか?という幻 想を,新米教官はため息をつきながら抱く のである。 結論(大学の将来像): 卒業証杏だけで中身を問わないというこ とほ,教育の中身を誰も問わないというこ とにほかならない。商品の中身を誰も期待 しないのに,「卒業証番」あるいは大学と いう名前だけを期待されるという組織が, 社会の中でどれほど長続きするだろうか? ここから先は,新任教官の戯れ語と思っ て読んでいただきたい。会社にいた頃, 「研究開発;21世紀への生き残り戦略」を 作成した時に調べあげた事実を基に私見を 述べる。 日本では,ヨーロッパに10年,アメリカ に20年遅れて1980年代で経済が飽和し,19 90年に入ってバブルも崩壊した。89年未に は38915円(東証)もあった株価が,今や6 年前の価格に戻ってしまった(1万6千; 92年6月下旬)。 日本の経済力と面詰とから計算すると, これから地価はど−ク時の3分の1に,株 価は1万1千円まで下落するはずだ,と予 言する評論家も現れた。恐ろしいのはそれ が本当のように響くことだ。 世界金融の中心であるアメリカ経済も先 行きがまったく不透明である。景気の指標 がまだら模様で,どう動きつつあるのかす らはっきりしない。ECもしかりである。 旧ソ連邦はすでに崩壊してしまった。あと 数十年ないしは教育年は復活しないだろ う。 半世紀続いた米ソの大国による世界支配 の構図が崩れたために,タイ・カンボジア ・フィリピソ・ミャンマー・などの束南アジ ア,中南米,そして中近東と,いづれも以 前からくすぶっていた政治・経済の問題が 急浮上した。湾岸戦争やユー・ゴスラビア内 戦もこれと無関係でほない。次の安定状態 が来るまで,世界的な激動が起こるのは避 けられない状況である。 日本は80年代で,「モノ其似による経済 発展」と「高度成長経済」は共に終了した。 これはつまり,これまでの日本経済を根底 から支えてきた「物其似による技術立国」 という前提が根底から崩れたことを意味す る。 だから90年代においては,−・流企業,大 企業といえども安泰ではいられない。残念 ながらこれに気づいている人は少ない。企 業のトップでさえしかりだ。高度成長時代 に青春時代を過ごした人は,自分の若かっ た時代のやり方に固執してしまうものらし い。 90年代という時代は,80年代までの経験 や常識が通用しない時代である。この変化 に気がつかない会社は,21世紀を迎える頃 にツケが回ってくることになる。今後の10 年間に,さまざまな企業の栄枯盛衰(吸収 合併を含む)が観察されることになるだろ う。そんな時代に突入したのである。

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岩 月 謙 司 「自分の所属する魁織にしか関心がな い」あるいは「組織の中での自分の立場し か考えない」という現象は,日本全体の債 向のようである。 自我の安定を所属する機関の権威に頼っ たり,また組織の中で自分の居場所の確保 に必死になるために余裕がなくなり,この ような・エ・コノミックアニマルが発生する。 日本人というのは一般に大局的視野や大局 的思考は不得意のようである。 かつての高度成長時代においては∴阻織 内部の争いは,部局間の競争を生み,会社 全体の士気を高めるというメリッ†・もあっ た。たとえ内部抗争のために会社の組織が 多少乱れても,拡大するマーケットに助け られ続けてきた。だから皆安心して,内部 抗争をしていたのである。 しかしこれからは,社内の派閥争いや縄 張り争いは致命的である。そんなことをし ている間に,肝心の会社が倒産してしま う。マーサットは拡大しないからである。 それは大学などの公的機関でも同様であ る。学内で「おらが村の利益」を争ってい る間に,香川大学が消滅することも,この 激動の時代には充分に有り得ることであ る。 例えば,産業と最も関係の深い通産省の 研究所。製品科学研究所や化学技術研究所 等ではすでに政敵中である。生き残りのた めの統廃合である。改組をやれば,自分の 活躍の場がなくなる人も当然でてくる。事 実,そのために企業や大学へ転出した人 (転出せざるをえなぐて転出した人)もす でに出てきた。 歴史的必然である。「身分を保証された 公務員なのに」と文句を言ってもはじまら ない。時代の流れには誰も逆らえない。 128 こういう時代環境においては,何事も変 化が激しくなる。だから企業のみならず公 的な機関も,うまく機能している組織だけ が21世紀まで残ることになるはずである。 社会の中での大学の位置づけや,社会から 大学への期待も大きく変化する。 例えば,知識の伝授機関としての大学を ありがたかったのはモノ其似文化が全盛の 頃の詣である。『モノ真似技術立国』して いた過去の時代においては,大学も企業も 役割分担がうまくいっていたし,物其似の 才能を保証する大学というブランドもそれ なりに機能していた。 しかし,今や日本は欧米諸国から真似る ものがなくなった。もの其似の才能は不要 になったのである。そして情報の大衆化が 進み,学生数(大学院生も)も増え,知識 は大学だけのものではなくなった。もはや 大学は,知識の殿堂というかつてのパワ、− を行使できなくなっている。 社会からのニーズに答えるたあだけに大 学があるのではないが,しかし,社会から の安静を無視したり社会とのかかわり合い を断ち切っての大学の存在も有り得ない。 昭和30年からつい最近まで,日本は高度 成長経済を謳歌してきた。貧しかった時代 においてほ,ともかくモノを安く大魚に生 産することが至上命令であった。環境保護 だとか地球規模的視野などと言う前に,貧 しさからの脱出が先決であった。 かくて日本は,驚くべき短期間に経済成 長を遂げて先進諸国の仲間入りをしたが, その過程でエコノミックアニマルという非 難を受けた。自分の所属する組織にしか関 心がなく,世界全体の調和を無視して『神 風特攻隊』のごとく視野狭窄的にビジネス に奔走したからである。

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通産省の次は農水省関係の研究所の改組 が本格化するだろう。そうなれば,その次 は文部省関係の磯閑,すなわち大学となる のは必至である。 高度成長時代の古き良き安定の時代は, もうとっくに終わったのである。高度成長 はまだまだ続くと思いたいのが人情だが, 残念ながらそれが幻想であることはこれか らの株価や地価の動き,そして企業の栄枯 盛衰(吸収合併も含む)を見れば,思い知 らされるはずである。 「香川大は国立だから大丈夫…」と,着 任早々の私は無関心を装いたいのが本音だ が,時代の波ほ大学にも押し寄せることに なるだろう。90年代の日本においては,大 学が大学らしく機能していなければ,消滅 するのは避けられない。 来年から受験者数が減ってくる。これが 向かい風となるだろう。 受験者総数あるいは卒業生の質,そして 教官の発表論文数とその質*注が,大学に おける魅力と実力(機能)のバロメーター となるだろう。逆に言えば,受験者総数が 減り,質の悪い卒業生しか送り出せない大 学,あるいは,質の悪い論文しか出せない 大学は,統廃合のかっこうの餌食になると いうことだ。 大学がレジャーランドのままでいいはず がない。大学がそれなりに校臆していなけ れば,いつ消滅しても不思議ではない時代 だからである。もうすでに多くの国立大学 が生き残りをかけて,魅力ある大学作りを 摸索し始めた。学部学科の改範の他,名称 を変更しただけという姑息な手段も目立つ が,それでもいい学生をたくさん生得した 大学が生き残るのである。 このような時代の流れの中,新米教官 は,香川大学の中で「個人として何ができ るか?」を現在摸索中であるが,教育と研 究をきちんとやるという古典的アイデアぐ らいしか浮かばない。 個人ではあまりに微力だ。香川大に在籍 しておられる多くの優秀な諸兄の知識と知 恵を結集し,集団で取り掛かるべきテーマ であると思われる。 ******************** *注:論文の数と質について − ナ:/バー・ワンからオンリーワンへの 転換一 私見だが,論文の数だけで業絞を判断す るのはあまり利口なやり方ではないと思わ れる。なぜなら「日本人の発表する論文 は,たとえその人が発表しなくてもいづれ 誰かが発表するであろうという内容が多 い」「日本の研究者がいなぐても世界の科 学の進歩はそれほど遅れないだろう」とい う20年以上も前からの指摘に賛同している からである。 発表数が多いことにほ異存はないが,発 表数が多いからといってノー・ベル質が取れ るわけではないし,また社会を変えること もできない。たとえ1編でも,独創的な新 しい概念を提供したり,新技術開発の論文 であれば,それ百本以上の国際的論文に匹 敵する。 「ナンバー・ワン」を礼賛する風潮から, 「オンリー・ワン」を重視する風潮に,まず は香川大学から改める必要があると思う。 現在,スタッフの業績公開がブームに なっているが,発表論文の羅列をやっても あまり意味があるとは思えない。発表論文 がないのも恥ずかしいが,たくさんあって も流行を追いかけただけの論文や独創性の

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謙 司 てしまう。科学は100m競争とは逢うはず である。 公務員の身分の安定さを考えれば,大学 という研究機関は,思いっきり独創性を追 求することが可能な場である。二流の研究 老が独創性を追いかけると,独善に陥る危 険があるが(将来の私の安かもしれない が),たとえそうであっても,独創性は求 めなければ永久に出てこない。論文の本数 稼ぎのための流行追従盲信型研究をして21 世紀まで大学が生き残れるとは思えない。 穴埋め研究の大事さも認める。そうやっ ていろいろな知識が集帯することにより, 科学が発展してきたし,独創的研究の礎に もなってきた。しかし,もうそろそろ高度 成長型の効率重視の研究態度から効果重視 の研究態度に転換してもいい頃ではないだ ろうか。 科学・技術立国をめぎす明日の日本のた めには,どんな形でもいいから,社会を変 えることができなければ,枚能していると は言い難くなるからだ。大学が学問のトレ ンドや産業のトレンドを造り,そして社会 や教育のあるべき姿などの具体的提言ので きる機関であり続けることが重要であると 思われる。 オンリーワンを大事にしても,その99% は独りよがりの独善的研究におわるかもし れない。しかし,残りの1%が当たればそ れで充分ではないか。効率だけ追求する と,ナンバーワンは生まれてもオンリーワ ンは永久にうまれない。 自由と独立,それが本来の大学における 研究・教育の姿ではなかろうか。 岩 月 130 ない論文ではこれもまた同等に恥である。 その分野のナンバーワ∵ノであっても学問の 流れを変えることができなければ,ただの ペーパー・フ・アクトリーでしかない。従一う て,業績を公開する時は,どんな独創性や 新しい概念が含まれていて,それがどのよ うに学問や社会の流れを変えたか,等を記 載する必要があると思われる。 このようにしないと,研究校関としての 大学の価値は上がらず,社会の中で機能し ないからだ。また,論文数だけを問題にす ると,論文数という単一・の価値観で教官を 評価する風潮が生じてしまう。ろくでもな い論文を国際誌に発表するのに忙しぐて教 育がおろそかになるのでは,ますます大学 の価値を下げ,自分の首を絞めることにな る。 私の専門の動物生理学で詔をすれば,国 際託といっても程度の低いものもあり,本 数稼ぎだけが目的ならそれほど苦労はしな い。だから「これを発表しても世の中には なんの影響も与え.ないだろう」ということ がはっきりしていても発表は可能だ。で は,−L流国際誌ならばいいのかというと, それにも問題がある。流行を上手に追いか けている研究は−・般に−・流誌には出やすく なる。出ること自体はいいのだが,問題な のは,一流誌が受理してくれたことですっ かり安心してしまい,独創性を忘れ,トレ ンドを上手に追いかけることしかしなくな ることだ。また一哉誌信仰はとりもなおさ ず自らの判断放棄を意味する。前述の学生 の権威迎合と同じである。このような発想 がある限り,いつか誰かが発表するであろ う論文を先を争って出すことにのみ終始し

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感 雑

寺 林

優 られていた。 教育学部ということもあり専門の講義は 少なかったが教官仙人あたりの学生数は私 立大学の2けたも小さく密度の濃いもの だった。教官は学生の指導に熱心で,何も 知らない我々に本当の初歩から教えて下さ り,そのときに教育の理想像は寺小屋教育 であると感じた。指導する立場になって初 めて,そのような教育にはたいへんな忍耐 力が必要であることを思い知らされた。 私は教育学部に在籍していたが,同じ地 球科学を学んでいる学生達が何を考え何を しているのかを知りたく,また不安で理学 部の地球科学科に出入りし,そこの院生や 学生と交流を持つことに努めた。我々の研 究は内容に関しては遜色なくグローバルな 視点という点では明らかにリードしていた が,理学部の学生の基礎知識の豊富さと問 題意識の違いを思い知らされた。理学部で あってもー・般教育課程での講義は教育学部 の理系とは講義内容はさほど変わらず共通 のものも多かったので,意識のちがいは彼 らは卒業生や大学院生の研究する姿をかい ま見,刺激され一腰教育課程のときから専 門移行後の研究をかなり意識して過ごして きたことによるのであろう。そのときには 縦割りをうらやましく思った。 今の学生をみているとその大部分が現:在 の縦割のメリットを全く生かしておらず, そして孤独を極度に嫌い恐れているようで 私が大学の一腰教育課程の時には他の大 部分の学生と同様に新しい人間関係を満興 し,部活動に励んでいた。スキー部に所属 していた私はいつも雪を求め夏山を含める と1年の何分の1かは雪の上に立っていた 計算になる。いろいろな出来事や出会いが あり大学は人生のただの通過点にしかすぎ ず,受験戦争と就職地獄の間の一時のパラ ダイスであるかのように感じていた。その ような生活にも疑問と将来への不安が生じ 始めた2年の後期に専門課程に移行した。 そこに待ち受けていた世界は同じ大学生 活とは思えないくらい異なりかつ新鮮で あった。移行後は地学教室に所属したがそ こは環境がひじょうによく整えられ,地方 大学しかも教育学部であるので高額な分析 装置などは皆無に近かったが研究に必要な 基本的なものはよく整い限られたスペー・ス を有効に使っていた。それらはもちろん全 て教官の努力によるものである。各人には 備え付けの机と本棚が与えられまずほ自分 の机の前に座ることを習慣づけることから 始まり,それまで飛び跳ね回っていた我々 にとって最初は苦痛の毎日だった。ヲピー ほ研究に関するものであれば無制限にでき 時にはコピー・室のA4の用紙を−・晩で使い 果たしたこともあった。偏光顕教鏡に至っ ては教授の研究室に.ある最高級の機種を使 う自由さがあった。当時の環境はその後大 学院生として在籍したどの大学よりも整え

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寺 林 優・桜 井 佳 樹 132 ある。研究とは孤独との闘いであることを 知るのは彼らが卒論に追い込まれた時なの であろうか。その瞬間が其の学生生活であ ると思うのだが。

まわり道・旅・人間形成

桜 井 佳 樹

しかしこの旅において主人公はドイツを 北から南まで縦断するのだが,ダニンダー スが出発地として北部の小さな町グリエッ クシュクット(日本語に訳せば「幸福の 町」)を選んだのは皮肉としか言いようが ない。出発地としての幸福なんて。そうい えば,日本にも同じようなことがあった。 あの北海道の「愛国駅」から「幸福駅」と いう著者の観光ルートは今なお存在するの だろうか。 このように,旋が人間形成に理想的な形 で反映することはもはやないかもしれな い。しかし,旋の意義を認めるというこの 人類の英知から我々が学ぶことができるの は,「教養」というものを考える際には「時 間」及び「空間」を考慮すべきだと言うこ とではないだろうか。単に何を学ぶべきか という領域論に加えて,いつ学ぶのか,ど こで学ぶのかという観点を組み込むべきで あるように思う。「一般教養」を平板なも のにしないためには。 数年前,日本でも大きな反響を呼んだ映 画『ベルリン・天使の詩』を振ったドイツ 人の映画監督ダイム・グェソダースの作品 に『まわり道』(1975年)という映画があ る。これは彼の友人である小説家・劇作家 のペー・クー・ハントケのシナリオを映画化 したものであるが,いわゆるゲーテの教養 小説『ゲィルヘルム・マイスター・の修業時 代』の現代版といえる作品である。人間が 何か学ぶため,何か別の存在になるため, 何者かになるために旅立ち,さすらうこ と,この動きが現代においていかに措かれ るかをモチーフとした映画である。しかし 現代においては,世界を把握するための修 業時代としての旋が理想的に措かれること はない。この映画のオリジナル・タイトル が「Falsche Bewegung」(間違った動 き)と付けられたように,この映画は世界 を把握しようと希望しながらも,その反対 のこと,つまり自分の動きが自分を無へと 導き∴結局のところもはや一歩も動けなく なる自分を発見して終わるのである。

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「聴音」を問う

瀬 戸 郁 子

持っていたという証である。そして①と② のグルーピングによってもたらされる音楽 的な意味は余程ちがう。しかしこれを下記 のように変化させると,②のようなグルー ピング(アナペスりは何度くり返しても 決して起こらない。 毎日毎日私達はグルー・ビングによって, 青菜の意味を解読し,情報交換や意思疎通 をやりおおせている。共通のグルーピング を共有しているからこそ意味が通じるの だ。ワ¶・・・・プロを打っていれば,このことに はよく出くわす。私の最近の例。「しぜん としまでつながった」とインプットした ら,「自然都市まで繋がった」と返ってき た。私の要求は「自然と島で」だったのに。 この例の場合,ワープロが示してきた文節 化でもそれ自体,文としての意味は成立す るが,文節化によっては,全く意味不明の 返事が返ってくることがあるのほ,皆さん よくご経験の通り。音楽は言葉のような意 味伝達がその機能ではないが,「音楽がわ かる」ということの重要な鍵ほグルーゼン グが撞っている。 ◎ ■一))l■一 )■} − ̄ ) )l l ̄ ))1 ⑳ 止Lエコ」ヒ⊥ヒーーコ いノ)「 一)) ̄】 しかし熟達した演奏家なら,いやそうで なくとも音楽的経験のある音楽愛好家な ら,このメロディーを③のようには決して 演奏しない。なぜならこのメロディーの持 つ主和音的性格から,どの2分音符もこの メロディーの構造音であると直感的に判断 するからである。ゆえに実際は(参のように 演奏される。ところがちょっと待っていた だきたい。ところが,ところがである 。小 学校の教科番(あるいは指導杏)の拍子の 説明(それは音楽学や音楽分析のうちの 化石的な成果の写しなのだが)をよく憶え

ておられる優等生の諸氏なら,自信を持っ

て③に固執されるであろう。ここに理論と 実践を区別してしまったことの大きな落し 穴がある。あろいは科学主義がもたらし た,知に対する客観価値主義による誤謬 (M.ボランニー)だと断罪されるだろう (大袈沙?)。なるほど(診のような演奏(即 ち解釈)ほ拍子の説明(即ち−・般的な理 d こ.二二.こ___二_上 こ......二..上 こ_二」ユ (9 −−−」■ ■ ▲ lJ l 」 たとえば上のメロディー・を1回演奏した だけなら,グルーゼソグは(Dの様に遂行さ れる。しかし,2回,3回とくり返し演奏 するうちに,③のグルーピングが優勢と なって①においかぶさってくる(実際に 歌ってみれば一月(耳?)瞭然)。それは視 覚のゲシュタルトと同様,音にも近接の原 理がはたらくからであり,②のようなグ ル・−ビングをこのメロディー・が潜在的に

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瀬 戸 郁 子 こうだ。このメロディーの主和音的性格か らそれぞれの2分音符にス†レス(ハーモ ニヅクアクセソり がかかり,アナペスト によるグルーピングが起こる。それがこの メロディー・のいわば生得的なグル、−ビング だ。しかしそれ以上に2分音符はいやがお うでもメトリックアクセント(拍節による アクセソり とデュレー・ショソアクセント (音長によるアクセソり を負荷されてい る。これらはすべて楽譜による情報であ る。といってこれらをそのまま表現したの では,このメロディ・−はゴツゴツしてしま う。そこで青果家は⑤のようなグルー・ビン グで済奏する。潜在的な■アナペス=にダク テイル(−)))の網をかけるのである。 即ち,複数のアクセントが重なった2分音 符の(そのまま放っておけば異常な)突出 を防いで,メロディー・全体をなめらかにす るために,2分音符の構造音としての力を 弱めるように演奏する(ところが当の御本 人はこのような意味付与のコードが存在す ることに気づいておられないようだ。「そ れは演奏家の勘だ」と考えておられる音楽 家が多く,またそのような風潮が演奏界を 支配しているために,すぐれた演奏も職人 芸としてうっちゃってしまわれる。そうす ると音果(特に演奏に関して)は,もはや 科学や学問と同等の研究領域として認めら れず∴孤立化してしまうことになる。事実 このような因果関係が今もなお続いてい る。)。ただし付け加えて−・言。見方をかえ れば,単純なグルーピングしか要求しない ような作品はすぐれた作品とは言いがたい ということ。そうではなくて,ここで示し たような(これは最もシンプルな例だが, もっとも他の要田が介入しては焦点化でき ないからだが)グルーゼソグのアンピグァ 134 論)からは決してまちがっているわけでは ない。しかし音其的才能や(文部省の大好 きな)音楽性からするとクレームがかか る。教科杏に従っていれば学腎指導要領の 言う通り,音楽性が培われるはずなのに, 一体この矛盾は何だ。早く言えば,答えは こうだ。音楽を演奏するということは,即 ちその音楽をどう解釈しているかの表明で あり,それは楽譜上の情報に意味付けをす る作業であり,分析的に説明する(いわゆ る知的に分かる)ということを超えている ものだ。楽譜はそれ自体では「音楽」では ない。楽譜(見たもの)を生きた音楽(聴 こえるもの)にするための意味付与の媒介 コー・ドというものが存在するのである。そ れは言語によって一・般化され法則化される ことを,本質的に嫌う性格を持っている。 それを獲得するには,音楽的経扱をコツコ ツ積み上げていくことしか早道はない。そ して初めて音楽的直感として内蔵される。 その一つがグルー・ビングなのである。 もしどうしてもこのメロディーせ楽譜か らストレートに④のような添乗を促すよう にするためには,下記のように杏き直さね ばならない。 こう(アウフタクトに)すると,③のよ うに演奏される危険性はなくなる。ところ が,またところがである。何と音楽家は実 際は⑥のようにも演奏しない(この程度の 例なら高度の青果性が問われるというわけ でほないが,それでもあまりにシンプルな 課題ゆえ,音楽性が赤裸々に露見してしま うということは充分ありうる)。しかけは

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レンツの妙が練りなす世界が万華鏡のよう に楽しめるということが,すぐれた青菜作 品のバロメー・クー・の一つとなりうるという ことである。‘それを「奥深い作品」と人々 は言う。 ざてご存知,「ちょうちょう」。 わけだ。それでは前のAとA’の差異はど うか。AとA’の差異は出だしの緊張感に さらに拍車をかけて,もっと大きな変化に 出くわすのではないかという予期を与え る。このように2つのA’は見ると聴く とでは大違い,なのである。こういうこと が起こるのほ,言語と同様に私達が知らな いうちに,前後のパターンと関係づけて音 楽を聴いているからだ。ではBはどのよう に聴かれるのだろう。ふりかえれば,レミ ファ(m’r)はファレレ(mりを,ミフ・7ソ(m r)はソミミ(m)を逆行して変化させた ものだということに気がつく。しかし聴い ている(あるいは歌っている)時にiよ,私 達はそれを知らない。その類似性は音楽的 な時間の隔たりによって隠されている。と ころが私達がこれらを含む,A,Bという 大きい規模のパター・ソの性格を感知できる 以上知らないとは言えない。実ほ私達は, 関係性のうちに,暗黙的に知っているの だ。だからこネ・Bに出会っても,突飛だと は思わずに,同音の連続とレミファ,ミ ファソという上行するたたみかけに揺すぶ られて次第にゴー・ルの実現を期待するよう になる。このように音楽ほ見たものと聴い たものとは−・致しない。即ち意味読解から 意味付与へ媒介するコードが存在するので ある。音楽は,全体像を破壊することなく 部分を取り出すことができないシ′ロモノ だ。「音楽がわかる」ということは音楽の 文脈に感応し,先を感知できることと言っ てもよい。それをパターン認識と言っても はずれてはいまい。だから先程の授業のよ うに,部分を取り出してそれに「ついて」 の意味を云々したところでそれは動かぬ, 冷たい知識でしかない。 音楽教育には「聴音」という基礎的な教 米国では「ボートソング」,英国では「微笑 む五月」。ところが実ほスペイン生まれ。 そしてわが国最初の遊戯唱歌だそうだ。 先生 「この曲はどことどこが同じで すか。」 優等生 「前半のおわりと後半のおわり のところです。」 この授業の末路は決まっている。ニ部形 式で(AA・ 恭々しくいただくのだ。それは音楽の「知 識」であって,情報を伝達しただけにすぎ ない。こういう授業は青菜に「ついて」知 ることには熱心でも,音果を「わかる」こ とには疎い。 さて,本当に2つのA’は同じだろう か。確かに見れば「全く」同じだ。ところ が聴けば決して同じではない。前のA,は 続く感じがするのに,後のは終わった感じ を与える。なぜか。後のA’はBというと ても不安定な感じをもつもののあとで現れ るから,私達に安堵感を与えて,やがて終 わろうとする気持ちが強く働く。誰でも激 動のあとには平穏を望む。即ちこのAは, 到着ともどりの2つの役目を果たしている

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郁 子 ているからである。この構造性に従って私 達ほ媒介コー・ドとしてグルーピングを持っ ている。というより文化に応じて学習され ていると言った方が的確である。というこ とは聴音は単なる音当てやリズム当てでは なく,この意味読解一意味付与における媒 介コードの学習ということを大きな目的と せねば,教育上の地位を見失ってしまうだ ろう。実際ふりかえれば,戦時中には聴音 教育が敵戚の種煩を聴きわけるということ に利用(悪用?)されたという事実があ る。これは利用した側にのみ受任があると いうだけではなく,それまでの聴音教育の 姿勢にそのような音当て的なそぶりがあっ たからではないかと自己反省すべきだろ う。ところが現在でもランダムに−・音をた たいて音名を答えさせる,ということを 堂々と入試で実施しているというところも 見かける。このような基礎的な教育の使命 は日常の音楽的経験で役に立つ文脈で,生 徒達の音尭的な諸能力を高めてやることで はないのか。 音楽教育にたずさわっている人々にこそ このような音楽の認知プロセスに気づいて ほしい。もし気がついていなければ,次の 様な恐ろしいことが起こりうる。先程の3 のメロディーを⑤のように演奏しておきな がら(それが常識なのだが),生徒に聴音 の正解として2のように記譜することを要 求するということ。あるいはこれを聴音課 題の作り手の側から言いかえれば,アウフ タクトにしか聴かれないメロディーを知ら ないで強起の果譜に.押しつけるというこ と。これは知らなかったでは済まされない 事件だ。もしこれが医療だったら告発され よう。だから教育は怖い。 媒介コー・ドはグー・ムのルールのような存 瀬 戸 136 育(ソルフェージ ュ)がある。いわば外国 語教育のヒ1アリングテストのようなもの だ。聴いたものを畜き取って,楽譜にする という課題である。ところが何度も述べて きたように,青菜は密かれたものと聴いた ものとの間にはギャップがある。前出の例 からもお察知のように,一つの例として音 楽の認知のグルーピングと小節線によるグ ルーピングとは−・致しないと言うことがで きる。それが普通だ。私達は日常音楽を聴 いている時に,小節線の存在を意識してい るだろうか。しない。小節線はあくまで便 宜上のものでしかない。さらに⑤のグルー ピングで説明したように,良い演奏とは各 パラミタ(音高,曹長,ハーモニー等)の アクセントの一飯をはぐらかすように,あ るいほ弱めるように表現するのが常識に なっている。小節の頭の拍の位置は聴き手 にはますますわからなくなる。聴音のプロ セスは,演奏老の行う意味読解一恵味付与 というプロセスとは逆向きだ。先生が(杏 かれた)あるメロディーを(大抵の場合) ピアノで演奏(意味付与)して,それを生 徒が記譜(意味読解)するのである。これ は私達が友人にあでて,旅の報告をしたた め,友人がその手紙を読むという時行われ る,2つの意味読解と意味付与とプロセス が暗黙的であるということでは似ている。 しかし音楽の「意味」は言語の意味とは 違って固定できるものではないし,また何 かを表示するという桟能をも持っていな い。ところがそれでも音楽的コミュニケー シぎソ(共有)が成立する(同文化に身を 置いているという前提での話だが)という ことは,音楽を聴く人間の側にも人間に よって聴かれる音楽の側にもある種の構造 (あるいは構造性)といったものが存在し

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在に近い。ゲt−ムをしている時,そのルー ルには私達は感知していない。けれどル・− ルを知らないとゲームに参加できない。音 楽の経験を蕾み,直感が培われると,この ような媒介コードのようなものにはいちい ち感知しないで音楽を楽しんでいる。つま りそれを暗黙的に働かせることに成功して いるわけだ。音兼がわかるということは極 上の暗然知なのだ。 つまり「音楽がわかる」ことに貢献しな いソルフェ∵−ジュ(聴音も含めて)はあり えず,ソルフェージュとはどんな音楽的経 験をも,将来に向かって発展させることが できるような柔軟性を持った力を与えてや るものでなければ,教育的な意義はない。 ということは,ソルフェージュというもの はやがては忘れられるべきものであっ七, 忘れられて(あるいは内化されて,と言っ た方が無難か)初めてその使命を達成し た,と言える運命にあるものなのだ。 一般教育の現代的意義

そ の Ⅱ =

山 田 素 子

にアメリカの大学で保持されなくなり,カ リキュラムにおいて学生は,古典の素養を 必ず要求されることはなくなってきてい る。このことを憂えて,Allan Bloomは TheClosingoftheAmericanMind「アメ 「人類社会という最大の枠の中で,今日 までに,成功を納めてきたと一応思われる ものは,西欧文明と云えるでしょう。科学 文明は,西欧文明と共に培われてきた。 しかしながら,「地球を共有する人類と いう観点に立つ現代社会」においては,も はや西欧文明は一つの‘school’(脈・主義) に過ぎないものと考えられる。 その証左として,ルネッサンス以来,絶 え間なく続いてきた西欧社会的教育の土台 が崩れてきている。いわゆる‘goodeduca− tion’と云われるものは,ギリシャ・ロー・マ 以来の古典の素養が基礎となっている。古 典を思索の土壌として,時々の「現代性」 が創造され続けてきた。自他ともに認めら れてきたこの伝統が,今日,西欧社会,特 リカンマインドの終焉」(1987),E D HirschはCulturalLiterary「教養が国をつ くる」(1987)をそれぞれ物している。 今,地球上のあちらこららで民族意識の 目覚めと,歴史の紐解きが始まっている。 そして「人間とほ?」という大きな課題を 抱えて,「時間」と「空間」の広がりを確か めるとき,地球社会がコンセンサスを得る ような教養としてのカリキヱ.ラムづくりの 必要に迫られている。

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仮想座談会 138

仮想座談会

「大学英語はどうなる?」

− このたび,大学設置基準の改定が発 表されましてから,どこの大学でも−・般教 育の根本的な見直しが活発に議論されてい るようであります。わが留辺重大学におき ましても,一般教育科目を担当されている 先生方を中心に,各学部・学科・教室で其 剣な取り組みがなされつつあります。とり わけ教養課程の外国語教育についてはいろ いろと問題が多いようでございます。 そこで本日は,外国語,それもとくに英 語に焦点をしぼって,現在の教養課程にお ける外国語教育にはどういう問題があるの か,本来どうあるべきなのか,これからど うすべきなのか,といったことについて, 英語の先生を中心に人文科学・社会科学・ 自然科学の各分野をご担当の先生方にお話 し合いいただくことにしました。ひとつ忌 悍のないご意見をお聞かせいただければと 思います。 なお,ご発言は,先生方が所属されてい る学部や学科・教室等を代表するご意見で はなぐて,あくまでも先生方個人のお立場 でお願いいたします。 司会は私,イタリア美術史・イタリア語 を担当しています教養部の札幌が務めさせ ていただきます。どうぞよろしくご協力の ほどお願いいたします。 でほまずはじめに,教養課程のこれまで の英語教育をどういうふうにご覧になって いるのかといったことからお伺いしたいと 存じます。はじめに,長年本学で教鞭を とってこられました商学部の阿寒先生に口 火を切っていただきたいと思いますが,い かがでしょうか。 阿寒 私はもうかれこれ35年ちかくこの 大学で教えているんですが,はっきり言っ てこの頃の学生は英語ができませんなあ。 昔はこんなことはなかった。これは英語だ けじゃない。私が教えている経済学でも学 生の質が年々落ちているなということをい つも感じているんです。大学教育が大衆化 して勉強する意欲が初めからない者までが はいってくるからこういうことになるんで しょうが,それにしても今の状態では,わ たしのところなんかゼミで英語の本が使え ないんです。英語の先生方もご苦労なさっ ているんでしょうが,もっときびしくする かどうかして力をつけていただかないと, 正直言ってこのままじゃどうしようもない んじゃないかと思っています。理科系の学 生はどうですか? −では,理学部で化学を教えておられ る野付先生,いかがでしょう。 野付 私もはっきり言わせていただけ ば,今の学生の英語力はひどいもんだと思 います。私たちの分野では大学院へ行った りして研究者の道に入ると外国語,とくに 英語は不可欠ですから,それを考えると学

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部生の段階から英語の勉強をきちんとやっ ておく必要があるわけです。学術雑誌に 載った論文を読むだけでなく,論文を発表 するのに英語が番けないといけませんし, 学会での討論が英語ですから聞いたり話し たりもできないと研究者同士の情報交換が できないで孤立してしまうことになりま す。 宇登呂 私も理科系ですから,野付先生 と同じ考えですが,率直に害って今のよう な教育では,将来自然科学の研究者になっ た場合に使いものになるような英語は身に つかないんじゃないかと思うんです。これ は本学の英語教育がどうこうというのでほ なくて,−・般に日本の大学での英語教育ほ この際,根本的に考え直してみる必要があ るのじゃないか。でないと,自然科学だけ でなく,おそらくどの分野でも,世界の舞 台で外国の学者と対等に仕事をすることは 困難じゃないでしょうか。 網走 宇登呂先生がおっしゃるのは,要 するにもっと役に立つ英語を教えるべき だ,ということなんですね。私も基本的に はそのお考えに賛成です。「役に立つ」と 言っても,むろん,外国へ観光旅行した り,缶詰のレッテルを読んだりするのに役 に立つというのではなぐて,言ってみれば 国際レベルでの知的な活動の役に立つ英語 という意味なんです。私は哲学の専攻です から理科系の方々ほど違和感はなかったの ですが,それでも学生時代の授業でシェイ クスピアの戯曲を教科香に使ったりワーズ ワースの詩を暗記させたりする先生がいま したが,あんなのは考えものだと思うんで すが,どんなものでしょうか。 −お話がいきなり具体的になってきた ようですし,英語教育についての具体的な ご指摘もありましたので,このあたりで教 養部の富良野先生に英語担当者のお立場か らご発言いただきたいと思います。 富良野 大学の−般英語については従来 からいろいろ言われていますが,なかなか 難しい問題がたくさんあって,担当者の間 ですら必ずしも考え方がすべての点で一・致 しているわけではありません。 そもそも言語は,言語学や文学・修辞学 といった学問分野での研究対象であると同 時に,どの言語でもそうなんですが,あら ゆる分野における研究の道具でもあるわけ です。そして,いわゆる「−・般英語」は主 として英語という言語の道具としての側面 にかかわっています。しかしこの二つの面 は切り離せない一つの実体のあくまでも二 つの側面なのですが,これを曖痍にしてお くと誤解や混乱のもとになる。英語は道具 ではありますが,これに習熟するには知的 な訓練がいります。英語の語感を養いエッ センスを身につけるのに,シェイクスピア やワーズワースを読むのは決してとんでも ないことではなくて,むしろもっとも正統 的な方法と言えるかも知れません。なぜな ら,すぐれた文学の言語ほど密度の高い音 譜はないからです。ただ,それだけではい けない。英語教師のなかには,あたかも文 学の言語以外は無価値で,英会話や新聞英 語を教えるのは論外だという人があるかと 思えば,文学を教えていたのではいつまで たっても英語が使えるようにならない,そ もそも大学の英語教師の大半を文学部出身 者が占めていることが問題だ,とまで言う 人もあります。 −お話を引き戻すようで申し訳ありま せんが,わが留辺重大学の現状について, 初めに阿寒先生がちょっとふれられました

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仮想座談会 140 ミで英語の本が使えないということを言い ましたが,うちの学生はほとんどが単位は ちゃんと:取っているんです。だのにゼミで 英語の資料を渡して読んでこいと言っても どうも理解できていないみたいです。それ に,読めないだけじゃなくて,就職試験で 少し番いたり話したりさせられてもあまり できていないらしい。卒業生がぼやくんで す,このごろの後輩はどうなっているんだ と。 富良野 先生方がおっしゃっているの は,一腰英語では−り体何を教えているの か,ちっとも役に立たない英語を教えてい るのじゃないか,ということだろうと思い ます。たしかにそう言われても仕方のない 部分もありますが,私に言わせていただけ ば,これには混同と誤解がある。外国語だ けでなく母語でも同じなんですが,音譜の 修得には技術的な面,つまり,その言語の 基礎レベルの読み,番き,聞き,話す四技 能の修得がまず第1段階にあります。次は 社会的なことばの使い方と言いますか,例 えば,時と場合と相手によってどういうふ うにことばを選択して使うかとか,隠され た意味や感情を察知したりするというよう な,社会生活のいろいろな場面で必要な複 数レベルの言語の使い方を修得する段階。 それから,実社会におけるそれぞれの専門 分野や職業で必要とされる技術的なことば の使い方を修得する段階。という3つの段 階があると思うんです。これらは少しづつ 重複しながら連続しているわけですが,− 応分けて考えることにしますと,大学では 言語修得のこれらすべての段階を教えるの かというと,そうはならない。英語の場 合,大学に入学した時点ですでに第1段階 の基礎技能的な面は修得しているはずなん けれども,これについてもう少し現状分析 をお願いしたいと思いますが,網走先生い かがでしょう。 網走 私は,とくに文科系の学生には, 英語に限らずもっと外国語をやらせるべき だと思っています。つまり,現状には不満 を感じています。西洋哲学をやるには英語 なりドイツ語なりフランス語が読めなけれ ばどうしようもない。先生方のなかには外 国語は選択でいいという方もありますが, 私はそんなのは大学じゃないと思います。 どんなカリキュラムにしろとまでは言いま せんが,まず読めること,そして外国の学 者と学問的な交流ができる程度に話せるよ うな教育を是非やっていただきたいと思う んです。残念ながら現状ではちょっと程遠 い感があると言わざる得ません。 早生呂 うちの学生は英語の単位をたく さん落として先生方にご迷惑をかけていて 肩身が狭いんですが,それでも実験なんか で留学生と英語で結構うまくコミュニケー シュンをしているんです。この前も実験室 で一人の学生に「おまえ,英語は苦手なん じゃなかったのか」と聞くと,「単位はと れていないのがだいぶあるんですが,こう して話すんだったらなんとかやれます」と 言うんですね。私はなんだか妙な気がしま してね。英語がちゃんとできているのに単 位がとれない。じゃあ一体どういう英語が 大学の英語なんだろうかとねえ。 − これはまた事きびしいお言葉です が,大学のこれからの英語教育がどうある べきかを考えるのに大切な問題を示酸され ているようにも思えます。富良野先生いか がでしょう。 阿寒 ちょっと今のことに関連して私に もひとこと言わせて下さい。私はさっきゼ

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