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昭和期におけるスミス租税第1原則の解釈について--ひとつの序章---香川大学学術情報リポジトリ

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昭和期におけるスミス租税第1.原則

の解釈について

−・ひとつの序貴一 山 崎 怜 Ⅰ・もんだい。ⅠⅠ・花戸龍蔵博士とスミス租税籍1原則。 ⅠⅠⅠむすぴにかえて。 Ⅰ われわれほ,さきに明治・大正期におけるスミス租税第1原則の解釈をめぐ って8類型を検出し,その意味内容に・ついて試論的な規定をあたえた。1)小論 ほそれ紅つづく昭和期をとりあげようとするものではあるが,全面的な分析・ 構成ほしばらくおき,もっぱら故花戸龍蔵博士の所説を紹介・吟味すること に限局される。花戸博士の解釈ほ.以下紅みるように,われわれのいわゆる第3 類型の1種としてもっともすぐれたものであり,これを確認することほ昭和期 における他の諸解釈を吟味するさいの,いわば1っの分析基準を提供するであ ろう。

論述の便宜上,まず租税第Ⅰ原則2)とその解釈類型とを説明しよう。・そ、の全

文1パラグラフをつぎのように分解したい。

〔A〕各国の臣民は,各人の能力にできるだけ比例して

〔B〕つまり国家の保護のもとで

〔C〕かれらがそれぞれ享受する収入にできるだけ比例して,政府を支

持するために貢納すべきである。 1)山崎 怜「明治・大正期紅おけるスミス租税第1原則解釈の諸類型−・ひとつの接 近−」,『香川大学経済論叢』第39巻第2号,1966年6月,1・−38ぺ−ジ。

2)AdamlSmith,AnInqui−ryinto the NatuYIe and Cause/Sq/the VVbalth qf

Naiions,1776,Cannan’sed、,VOllⅠⅠ,p小310邦訳,水田 洋訳『国富劉宇.f:≧世界 の大恩想15,1965年7月,240−41・ぺ、一一汐占傍点は,以下ことぉりのないかぎり,すべて

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J967 香川大学経済学部 研究年報 7 ー2ク ー・ 〔■D〕1大国民における政府経費と個々人のかんけいほ,大所有地の経 ジョインI・テナント 営費とその共同借地人たちのかんけい紅似ているのであって

〔E〕この共同借地人ほすべて,この所有地での各自それぞれの利益に

比例して貢納の義務をおって:いる。

〔F〕この原則をまもるかまもらないかということが,いわゆる課税の

イクオリティ 公平または不公平である。 〔G.)このさいきっぱりのべておかねばならないのだが,前述の3魔の 収入【賃金・利潤・地代.〕のうちのただひとつに終局的に負担されるす べての税は,それがはかの2つの収入に影轡しないかぎり,必然的に 不公平になる。

〔H〕以下さまざまな租税を検討するさい紅,わたくしほ,この種の不

公平についてはめったに.これ以上あまり注意をむけないで,たいてい のばあい紅考察を,税の影轡をうける特定種類の私的収入にたいして さえ負担の不公平をまねくような,特定の租税がひきおこす不公平 に,限定するであろう。 解釈類型の第1は,〔B〕および〔E〕を重視しつつ,租税を「国家の保護」ま たほ「利益」の代償とみなし,税税根拠論としてほ利益説(応益主義),〔A〕, 〔C〕および〔E〕における「比例」のダームをとらえて,租税負担配分論として ほ比例税主義であるとする。ここで特徴的なことは,第1に「利益」がわれわ れのいわゆる「個別的利益」3)であり,〔B〕の「保護.」の「利益」ほ〔C〕の「それ ぞれ享受する収入」と個別分割的に.等倍され,納税者それぞれの「収入」の大 小がただちに,納税者それぞれのうけとる「保護」の大小に対応する(10の「収 入」を草受する納税者が10の「保護」をうけとるとすれば,1の「収入」を享受する納税 者は1の「保護」をうけとる)。第2にこれは〔A〕匿おける「能力」のことばや 〔G〕と〔H〕の叙述などほはとんど無視してかえりみない。要するに.スミスの取 税は「収入」の保護利益の手数料,個別計算可能な受益者負担金であるとさ れ,現実の税制たるまぎれもない強制性や−・般性や能力原則に.てらして,その 3)山崎 怜「個別的租税利益説と全般的租税利益説」,『日本財政学会ブレティン』(Ⅰ), 日本財政学会,17−20ぺ・−汐。

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昭和期におけるスミス租税雄1原則の解釈について −−2ノー・・ 虚構性と擬制的性格が唾棄されるのである。したがって,同時にこ.こでは〔B〕 紅おける「もとで」(unde工)と【E〕紅おける「での」(in)ほ,個別分割的含意を うけて,往々それぞれ「より」と「たいして」に誤訳された。 解釈類型の第2は,〔G〕と〔H〕を捨象する点でほ第1とおなじであるが,とく に〔A〕紅おける能力と第1原則以外の叙述箇所,とりわけ例の累進税の合理性 主張を重視しつつ,比例税主義を否定はしないけれども,「収入」が「能力」と「保 護」とに等置されるがゆえに,「収入」を媒体とする能力説と利益説の−・致をみ いだし,利益説のなかに能力原則の生誕をみるのである。あるいほ,〔A〕や〔C〕 におけるスミスの「比例」をことさらに税率を論じたものとしないのである。 だが,かかるものとして統一的紅むすびつけられた利益説(じつほ個別的利益 説)と能力説とほ本来,異種のものである。前者が租税根拠論に属するとすれ ほ,後者ほ蘭税負担配分論に属する。前者が国家と納税者とのあいだのもんだい だとすれば,後者は納税者相互間のもんだいである。もしも,このさい「利益」 と「能力」とをあえて−・致させ,根拠論と配分論とを一触∵致させうるとすれば,納 税者の「能力」を国家からの受益であるとしなくてほならない。「能力」が「 収入」にありとすれば,人々の「収入」額ほかれらの「国家の保護」に.よる 受益蔓・二に−・致しなぐて−はならない。しかし,たとえば勤勉な労働者が10の「収 入」を,怠惰な労働者が1の「収入」をかせぐばあいに,前者は後者の10倍の 「利益」を国家から享受するという命題の論証ほおそらく不可能なのである。 もとより,他の条件にしてひとしければ,前者ほ後者の10倍はど勤勉であると いうことほ十分に可能である。 富の源泉が労働であると宣言する経済学の自立と生誕ほ,そのような「保 護」と「収入」の個別計算的対応をゆるさない。 また,かりにかかる計算が万一・に.も可能だとしたら,〔A〕に.おける「能力」 のタームは有名無実となり,事実上,第2ほ第1に.氷解しざるといってよい。 「能力」というダームの現出も経済学の自立と生誕にふかいかんけいがある。 解釈類埋の第5は,以上の欠陥を克服する。そのために」はまず〔G〕および〔H〕 をふくむ第1原則のすぺてを生かして歴史的総体把握をこころみる。〔G〕はあ きらかに単税主義を排撃する課税の普遍性の揚言であるほかに解釈のしようほ なく,そこで〔B〕における「保護」を「個別的保護」でほなく「全般的保護」

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ブタ67 香川大学経済学部 研究年報 7 −こ−22−− とみなし,「保護」を〔C〕における「収入」と個別的軋対応させないならば, いいかえると,「収入」の大小をそれに比例する「国家の保護」の大小による ものとしでではなく,労働や節倹紅よる(経済学の自立と生誕)ものとしたなら ば,〔E〕における「■それぞれの利益.」というのほ「個別的利益」を意味するの イクオリティ でほなく「全般的利益」を意味し,したがってニ〔F〕における「課税の公平また は不公平」とほこうした「■全般的利益」を前提とする課税の普遍性のもんだい

に.はかならない。普遍性と平等性の混濁を基調とする第1原則ほ.阻税根拠論と

しては全般的利益説の事実上の唱道であり,また,したがって根拠論が同時決 定的に.配分論を規定しえないことの表明であり,この事情こそが〔A〕における 「能力」と〔C〕における「収入」のことばの必然的現出をささえ.たのである○ 例をあげれば,スミス紅おいてほ,画期的にも賃金・利潤・地代という3つの 税源が規定されたことほ周知であるが,このうち賃金に/たいする税が結局は償 金騰貴をとおして他に稗嫁されるとの理由(基本的に・は賃金は税負担カをもたない から)で実質上は税源からはずされた。これは〔G〕に.おける「不公平」,すなわ ち普遍性紅反するとほいえ,配分論の視点から経済学的紅・論拠づけられたので ある。同様のことほ資本維持の見地から利潤にもかなり適用され,税源は主に・ 著移的剰余たる地代にもとめられる。また,生活資料の消費については著珍品 ・便宜品・必需品の順に税負担能力が規定された。これらはいずれも配分論と いう独自の視点からする税源論であり「能力」論であり「収入」(純収入)論 である。とはいえ,他方でほ.,第1に危急存亡噂に根拠論としての全般的利益説 が配分論的に.とりだされ,算2把.敷地地代のうち普通地代を超過する部分のよ う紅主権者の「良好な統漁」4)による「収入」ほ「全般的利益」をよりおおく 享受するのだから,さ)いくらかおおく貴納すべきであるとして,おなじく根拠 論としての全般的利益説が配分論的軋基礎づけられた。しかし,前者は非常時の 4)A.,Smith,0♪巾 Cii.,p」329い邦訳<下>,257ぺ−ジ。 5)よ・りおおく事受す争といっても,これほ結果的にそケであるに・すぎない。国家ほあく まで「全般的利益」をあたえたのであるが,それが強度の不労所得であるがゆ.え軋「利 益」の効果がよりおおくなるとみなされるのであった。だから,それは「個別的利益」 なのでほない。

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昭和期におけるスミ.ス租税算1原則の解釈について

−2βT

ものであり,6)後者は根拠論とほ別に.配分論としての「能力」論からも事実 上,主張されているのであるから,利益説における根拠論と配分論の帝離とい うスミス的世界ほ−・賞してこいるとみなくてほならない。7) さらに,この第5の立場ほ第1原則以外での全般的利益説=能力説の叙述, すなわち「社会を防衛する費用および最高為政者の威厳をたもつ費用ほ,とも

に.その社会全体の−・般的利益のために,投下されるものである。だから,それ

らがその社会全体の−・般的員納紅よって−,すなわち,すべてのさまざまな成員

がそれぞれの能力にできるだけ比例して貢納するこ.とによって,まかなわれる

のが妥当である一」8)の理解をも可能とし,また,〔耳〕や〔C〕や〔E〕,それに↓、 ま引用した1文などにおける「比例」について,厳密な比例性のはかに.,対応 とか即応ていどのルースな使用方法を,スミスをふくむ同時代人の用法のなか で傍証しうるのである。9) しかしながら,そうした解釈を十全紅こころみるために.は国家論の領域でほ いわゆる自然権にもとづく契約説の崩壊(ロック主義の解体)と自然史的政府観 の成立(スコツt・ランド歴史学派の形成)があきらかにされること,他方では固有 の経済学的思惟の生成が国家論でのかかる旋回に重畳するものとして把握され ること,この2つがとくに要請されよう。10) 6)もとより,これは税収確保をめざすスミ.スの産業資本家的執念を表白したものであ り,全般的利益説が小生産者急進主義の納税拒否権を拒否することに通ずるもの、として 遠視されるペき論点である。 7)なお,スミスが裁判費・地方費・交通費・教育費など紅かんして個別的利益説二個別 的貢納(手数料・地方税・通行税・授業料)の原理を適用したことは事実であるが,発 1に.,それらはいずれも部分的に主張されたに.とどまり,かかる諸費用をめぐる全般的 利益性と全般的員納性が消去されたとかんがえるのは大きなあやまりである。籍2に, これらは凝費論中で言及され,租税算1原則を主軸とする公共収入論のなかで叙述され ないこと匠澄志すぺきである。 8)A・Smith,Obl− eiiりp,300l邦訳<下>,232ぺ−iy。 9)たとえば,ケイムズの『人間史素措』(1774年)をみよ。 10)注3)の小論のはか,山崎 怜「スミス財政思想の基礎視角−イギリス近代思想 における国家の把握とアダム・スミス岬」,『財政学の課題』(花戸龍蔵博士古稀記念 論集),千倉書房,1962年9月;同「ケイムズ卿の租税根拠論(Ⅰ)」,『香川大学経済論忍』 寛37巻策2・3合併号,1964年8月など。

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J967 香川大学経済学部 研究隼報 7 ■・・・=βぜ −一− ところセ,この第5の立場をとるわれわれからすれば,従来の諸解釈は窮極 のところ第1または第2に属し,第5のものは基本的には皆無であった。それ はおそらく個別的利益説をうたがうことのできない予断に.ささえられつつ,ド イツに対比するイギリス和税思想の位置づけが,たん紅形式的になされたから である。 とはいえ,すでに明治・大正期をとりあつかった前記小論でものべられたよ うに,第2の解釈類型のなかから個別的利益説に.安住しえないものがあらわれ たのであり,堀江帰一博士ほ明治・大正期でのそうした稀有な所説の主張者で あった。わが花戸龍戚博土ほこれをさらに1歩すすめた昭和期におけるもっと も卓抜な主導者である。このばあい,掘江博士が元来第2の類型にありなが ら,第5の類型への地歩を事実上かためたがゆえに,あえて後者紅かぞえられ たのに反し,花戸博士ほ前者の立場軋あるというよりも,すでに屈心ほみずか ら後者に移行しているとおもわれる。これほはとんど自覚的な第5の立場であ るといいうるかも知れない。 Ⅰ工 さて,花戸博士ほ.まずスミスの国家観に.ふれ,「経済的個人主義者が必ず個 人主義的国家社会観をとるとはいひ得ない。スミスは国家の原契約説紅反 対する。スミスにおいては個人とともに周家があった。」11)『道徳感情論』に.よれ ば,「営々がそのうちで生れ且つ教汚され,しかもその保護の下で生活を続 けてゐる国家又は主権国ほ,普通の場合においてわれわれの善行もしくは悪行 が,その事・不幸に大なる作用を及ばしうる最大の社会である。従ってかかる 社会は,自然に.よって最も強力紅否々に推薦されてゐる.」1わし,「祖国愛ほ人 11)花戸龍蔵『財政原理学説』(千倉晋房),1951年2月,51−2ぺ− 汐。なお,この苔の序 輩部分のみの単行版が『財政思想史』(古典編)と過され,1959年6月,千倉書房から公 刊された。博4のスミスにかんする叙述ほそのままこれによってもよむことができる。 また,博士紅は論文「アダム・スミスにおける国家と課税原則」(『国民経済雑誌』辣82 巻雄5弓,1950年11月,1鵬15ぺ−ジ)がある。これほ博士のスミス論のさきがけをな す労作であるが,事実上,『財政原理学説卵こ収録されたから,ここで改めてとりあげる ことはしない。

12),13)ASmith,The Tkeo7・y qf’MoralSenlime71is,Bohns Standard Library,

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昭和期におけるスミス租税第1原則の解釈について −2∂・一 類愛から生ずるものと牲思はれない。・、1′吾々ほ自国を単紅人類の大社会の1 部として愛さない。即ち書々は祖国を祖国自体のために.愛するのであって,羞 のやうな考慮とは何等関係がない。自然のあらゆる他の部分の体系と同様に., 人間の性向の体系を考案した叡智ほ,人類の大社会の利益が,各個人の主な注 意を,彼の諸能力と理解力との範囲内における最大限であるところの,特定部 分紅向けることによって−,最もよく促進しうると判断したやうに.思ほれる一」;1$) と。そこで博士はいわれる。「羞■のスミスの章句によれば,吾々が生れながら 紅しでそのうちにある祖国ほ,これを建設しかつ鵜持することが,神の特別の 愛情による配慮であって,各人はその属する祖国を愛する天賦の性向をもって ゐる。…神が喜寿き人間に・課した任務は,自己・家族・近親・友人・祖国に対 する配慮であり,それ以上の大人類社会のごとき大部門紅対する配慮は神の仕 事である。換言すれぼ,人間配慮の領域ほ,自己から祖国までの小部門,神の 配慮の領域ほ国家を超へた大人類社会といふ大部門であって,人間と神の配慮 の領域が,区別されてゐるのである(〟・5・息LいE・,pp”348,426)。かくて,スミ スにとって国家ほきほめて一重要である。即ち「社会の平和と秩序とほ,悲惨な 人々の救済すらよりも,遥かに塵要であり」(∫∂∠■♂・,p・331),また「国防ほ富裕 よりも,ほるかに屈要である(Ⅳりq/凡,VOl・Ⅰ,p・429)。川・スミスが雷魚・ 権勢・身分階級の差異を是認するのほ,この社会の平和と秩序のためである (〟・5,B…L・E,pp…331,371)。.」14)〔命題1一国家主義的側面〕 しかし,同時に,博士紅よれば,「スミスは排他独占的な帝国主義着ではな かった○スミスほいふ,「フランスとイギリスはそれぞれ相手国の海軍力と陸 軍力の増大を恐れる若干の理由をもってゐる。しかしその何れかが,相手国の 国内的幸福と繁栄,相手国の土地の開発,エ業商業の発達増大,港湾の安全と 数,凡ゆる自由・芸術や科学の発達に嫉妬を感ずるならば,かかる2大国属の 姑券を下げることほたしかである。右の諸事実ほ吾々がそのうち紅住んでゐる 世界の兵の改展である。かかる事実ほ人類紅利益を与へ,人間の性質を高尚紅す る○かやうな諸政長に・おいて各国民ほ他に抜きんでようと自ら努力せねばなら 理学説』,52ぺ・一汐。 14)前掲,花戸龍蔵『財政原理学説』,52−3ぺ・−ジ。

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香川大学経済学部 研究年報 7 J967 一一2β 山一・ ぬばかりでなく,人類愛より,近隣の国民の優越性を妨害しないで,むしろこ れを助長するやう紅努力すべきである。かかる諸改良ほ凡て国民競争の適正な 対象であって国民的偏見や嫉妬の対象でほない」(Jみ紘,p・・336)と。この章句ほ スミスが他の箇所で論じてゐる個人間のfair play論(Ibidl・,p”120)を国家間の 競争に.ついて論じたものに外ならない。・またスミスほ,国民を犠牲紅して 少数者の幸福の鱒木をほ・かる国家専制主義者でほなかった。 スミスが常紅 念願したものほ,国民大多数の幸福であった。即ちいふ,「僕解・労働者及び あらゆる種類の職人は,すべての大政治社会の大部分を形成してゐる。だから 大部分のものの状態を改善するものほ,断じて−全体にたいする不利益と見られ る筈がない。如何なる社会と雌も,その成員の大部分が貧困と悲惨であると き,繁栄でも幸福でもないことほたしかである」(Ⅳ−げⅣりVOl・Ⅰ,pl・80)と。.」15) (命題2・一非国家主義的側面〕 主として『道徳感情論』を中心にかかる2命題を抽出された博士はただらに 『ブラ−スゴク講義』にうつり,ここでその国家観に.おける2命題が統治の2原 理として結実する事情をかえりみつつ,あらためてこれを「国家観と統治原理 に.おける二元論」16)と呼称する。『講義』に.おける統治原理とほすでに知るよ う紅「権威」(AutboIity)の原理とイ功利」叩tility)の2原理であり,前者は「肉 体的・椅神的に.強きもの,年令に長じたもの,富・門地において優越したものに 対する同感により…‖・服従する原理」17)としてトーリ党を支配し,後者は「㌧ヨ.り 大なる弊害を避けるために・公共制度に朋従する原理」1さ)としてウィッグ党を支 配したのであった。前者ほ「政府が神聖な制度であり…これに反抗すること は,子供がその両親に逆ふのと全く同様紅罪悪であると主張し.」,19)後者は「政 府の効用とこれより享ける諸利益のために政府に服従する.」20)としたのであ る。スミスほこの2原理により,プリテ∵/の「混合政体.」をそのものとして説明 しえたばかりでなく,原契約説を論破しえたのでもあった。 博士ほ,この二元論を終始スミ.ス解釈の指標として揚言され,また重視され 15)同上,53−1トページ。 16)同上,78ぺ−汐。 17),18),19),20)同上,54ぺ→ジ。

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昭和期におけるスミス租税第1原則の解釈について −“27・− るのだが,とく紅わが租税第1原則の解釈にさいして,つぎ軋みるごとく†と りわけ,その有効性を強調されたのである。 すなわち,〔A、〕から〔.F〕までを原文ならび紅邦訳文で示したあと,博士ほ 「この課税の第1原則紅ついては主として,能力説であるか或ほ利益説である かの問題を巡って論議されるのが普通であるが,私ほこの原則のうちに次の3 つの問題即ち課税の−・般性,課税の根拠および租税負担の分配原理を見ようと する・・l。」21〉 (イノ 課税の一般性(普遍性) 〔A〕匿おける「各国の臣民」や〔E〕におい て共同借地人の「すべて」が貢納すべしとする点,また〔G〕の「8大収入源で ある地代・利潤・賃銀の1つに負担となる課税が不平等であると論ずる点より 見て」スミスが阻税の・一腰催を主張することほ.明瞭である,22)と博士はいわ れる。これは,〔G〕を意識的にとりあげた1点だけでも,ま一ったく異例の創見 であった。 (ロ)課税の根拠 〔B〕,〔C〕の「章句から,租税の根拠に・関してスミスが 国家保護説をとるものと解釈することほ,必ずしも不当なりといひ得ないであ らう。け■だし市民政府の発生ほ,もともと財産保護の必要からであってイ多年の 又ほ恐らく多くの世代に.わたっての労働に.よって獲得した落重な財産の所有者 が,1夜たりとも枕を高くして眠り得るのは,市民的治安府の保護があればこ そである」(Ⅳ・〃/ⅣリVOlいⅠⅠ,p‖203)からである。併しながらスミス吟おける 国家と人民との関係は,単に功利的な財産保護申開係のみではない○ イ政 府は屡々その国民の保護のために.ではなく,それ自体のために維持される」 (エ♂√わ〝β・ざq/■A♂α彫5沼よ摘,p打269)。1…人間ほ大社会を維持し愛するやうな性 質を賦与されてゐる。人間がこの天賦の性質に従って国家を維持することは ・‥人間の自然的義務であった。」23〉 ひるがえって,〔C〕における「■貢納すべきで ある」(oughttocontribute)という,この「強い命令又ほ義務を表現する語」た るoughtほ「第1原則以外の3つの課税原則匿おいても,また,租税に・関して 21)同上,76−7ぺ一汐。博士は「配分」というぺきところをしばしば「分配」とかかれ た。 22),23)同上,77ぺ一一汐。傍点は花戸博士。 24)同上,77−8ぺ一汐。

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ユタ67 香川大学経済学部 研究年報 7 ーー ござ −−・ 他の箇所即ち第4編の末尾においても」みられ,〔A〕の「服従の主体を表はす 「臣民」(subjects)なる語とともに使用されてゐることは,特に留意されるべき である。何となれば,第1原則ほ課税原則の冒頭に掲げられ,しかrもこの原則 全体が臣民の義務の形で提出されてゐるからである。従って第1原則の初めの 部分は,臣民の主億者又ほ国家に対する公民関係と国家又ほ国庫の側よりの課 税権の表現と看徹しうるであらう。即ち吾々は,第1原則に・於てスミスが国庫 原理と「租税義務艶」とを主張してゐるものと解釈して大過がないであらう。.」24) 〔命題1一国庫主義と租税義務説〕 だが,「かく解釈す・る場合紅直ち紅起る問題ほ」〔D〕に.おける「共同小作人 の比愉との関係である。たとへこれが1つの比喩であるにしても,これを全く 無視し得ないことほ勿論である 。この点について私ほ.,スミスが租税の経済的根 拠を論じてゐるものと理解したい。」25)〔命題2一非国庫主義と租税利益説〕 そ・して,つづけて「即ち,スミスほ相.税の根拠として,「臣民」としての公 民関係と,国家の保護に.よる−・般利益の「受益者」としての経済関係(功利関 係)との二元論をとるものと解釈したい。/租税の根拠に関するこの二元論と の関連に.おいて,既述の統治原理に関するスミスの二元論を想起すべきであ る。既述の如く,スミスに.おける統治原理は,権威の原理と功利の原理とがあ り,前者ほ主.として君主政治において−,後者は主としで民主政治において行は

れる。而してあらゆる統治において権威と功利の二原理がある程度共紀行はれ

るのであり,曽て−のブリテンが混合政体であった。而してホイッグ党は,政府

の効用とこれより受ける諸利益のために.政府常服従し,トーリー党は政府が神 聖なるが故紅これ紅従ふ,とスミスは説明したのであった。従来ほとんど未解決 のままに.あるスミスの阻税論ほ,その国家観と統治原理における二元論を顧み ることによりて,ほ.じめてヨリ長く理解し得るであらう」,28)と。これもスミス 租税根拠論にかんする先例をみない卓見であることは指摘するまでもない。 25),26)同上,78ぺ−・ジ。傍点は花戸博士。なお博士はスミスの所説を「曽てのブリテン ●●●● が混合政体であった」という過去形で説明されているが,スミスみずからは.これを現在 形でのぺ「曽て」はこの「混合政体」の基盤たる2党派が形成された時点にかけて一説明 したのである。過去形でとらえられると,スミスの弁護論的性格があいまいに.なる。こ の点,同上,54ぺ一−ジの説明の方が無難である。

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昭和期におけるスミス租税籍1原則の解釈について −2・9− (ハ)租税負担の分配原理 「手数料」とことなる和税の−一髄應を「・−・般 的利益」にたいする「−・般的員納」としておさえ,「租税が特別利益に対する 特別員納」(筆者のことばでいえば,租胡が個別利益に対する個別員納)を「差引い た残余であり,これに対してもほや等価比例の交換原理を適用し難い」のであ るから,「村税の分配ほ,恰も何れの項目にも割宛てるぺき標準をもたない間 接費(p戯費)overheadcostの分配に似たものがある。ス ミスはかかる性質の 租税の分配を各人の能力に.,換言すれば,国家の保護の下で各人がそれぞれ享

受する収入に出来る限り比例せしめんとした。スミスが能力軋比例せしめんと

したのはこの第1原則に於てのみでほ.なかった。即ち経費支弁の結論に於てい ふ,「社会を防衛する経費及び主権者の尊厳を保つ経費は,共にその全社会の 叫般利益のために.支出される。それ故,両経費がその社会の全成員悉くが各自 の能力に出来るかぎり正確に比例して:醸出し,その全社会の−・般員納によって 支弁されることほ合理的である(Ⅳ・q/−〟りVOl・ⅠⅠ,p・300)」と。//欝1原則と ここに.引用した章句とより見て,スミスが「租税能力説」をとり,その儀カの 内容を収入(所得)に求めたことほ明瞭である。.」27)〔命題1一租税負担能力説・〕 そして−,例によって,つぎのよう紅いわれる。「併しながら他方においてニ, 租税の根拠紅関して述べたと全く同様紅,共同小作人の比喩において,「その

土地に.おける利益に比例して−」撼出すべしとする所論もまた全くは無視し得な

い。即ちスミスほここで国家が国民紅与へる「−・般利益」に要する費用を,国 民各自が国家において有する利益に、比例して,配分すべきことを説くのであ る。而してここに国民各自が国家において有する利益の内容は,能力のそれと 同じく,「収入」である。」28)〔命題2−租税利益説〕 「かくの如くして吾々は,スミスの第1原則に.おいて,能力説と利益説との 二元論を見るのであるが,能力説が公民関係に,利益説が経済慨係に・基くこ と,而してまた,この二元論がスミスの国家観と政体論とに関連があること は,さきに租税の根拠に.関して説明したところと全く同様である。‥/以上 において述べたスミスの第1原則の解釈は,能力の語に着日して能力説,「利 27)同上 79ぺ−汐。 28),29)同上,79−80ぺ一汐。傍点は花戸博士。

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J967 香川大学経済学部 研究年報 7 − 30・−一 益」なる語とスミスの自由・個人主義思想とを前提としての利益説,能力と利 益の両語がある故を以て能力説と利益説との併用説,であると解釈して,これ 紅対して充分な根拠を示さない多くの学説に.比較すれば,−・定の論拠を説明し 得たであらう。少くとも解釈上,1っの手掛りを与へたと信ずる.」,呵と○ みられるように.,花戸博士はスミスにおける租瀧を国家の「山般的利益」に・ 応ずる ト・般的貢納」として慨定し,30)第Ⅰ原則はこの ト・般的貢納」の系列 のなかで検討されたのである。われわれのことばでいえば,「全般的利益」に・ たいする「全般的貢納」が租税なのであった。だから,「個別的利益」にたい する「個別的貢納」は固有の意味での租税収入でもなく,また,『諸国民の富』 第5篇第2章「社会の−・般的あるいほ公共的収入の源泉について」の主題でほ ありえなかった。ここから,博士のばあい,税税第1原則の理解について,は ぼ,3っの斬新な視角が導出されたとおもわれる。 第1に.,租税論の全領域的把握である。博士ほ,普遍性・根拠論・配分論という 租税論の主要領域を第1原則のなか紅みいだされる。租税の「−・般的貢納」性認 識がこれを可能としたのである。個別的利益説でほ.,根拠論と配分論とは.同時決 定的であるから,両者の区別は意味がないし,必要でもない。むろん普遍性のも んだいも提起されようがないし,〔G〕以下の文章に関心を示すこともできない。 第2紅,根拠論と配分論の帝離の当然の帰結として,〔A〕の「能力」と〔B〕 の「保護」,あるいは〔C〕の「収入」と〔B〕の「保護」とが個別分割的紅等雷さ れることがない。これほ画期的なことである。 第3に・,それに.もかかわらず,「保護」ないしほ「■利益.」のダームと「国庫 原理」の現出ほ否定すべくもないから,第1原則は二元論としてかんがえるべ きであり,これを『道徳感情論』にほじまり『講義』を経て『諸国民の富.』に.いた る,全スミス体系での「国家観と統治原理における二元論」の系論に属する2 命題とするのである。根拠論における「公民関係」(義務説)と「功利関係」, 配分論紅おける「能力説」と「利益説」が相互紅脈絡づけられるとともに.スミス 社会科学体系のなかでこれを整合的に理解しようとされたのである。租税欝1 原則の理解のために.,これだけの周到な方法論的準備と展望がなされたことは 30)同上,72−5ぺ−汐をもみよ。

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昭和期におけるスミス租税箆1原則の解釈について −・βヱー かつで皆無であった。 ⅠⅠⅠ わが租税第1原則は,かくしで博士に‥おいて個別利益説の亡霊から解放され たのである。とくに.租税配分を間接費配分紅なぞら.え,能力原則現出の必然性 を鮮明紅とらえたのほじつに.印象的であった。それだから,もちろん〔B〕の“un− de工”や〔二E〕の“in”が誤訳されるわけがなかった。31) スミス解釈の博士に.おける卓越性はこれをいくらたたえてもたたえすぎに・ほ ならないであろう。しかし,それにもかかわらず,ここで若干の重大な疑問を 提出せざるをえないのである。それほ,とりもなおさず,第5の解釈類型とし ての博士の脆弱性を指摘することに.なるであろう。 まず第1に・,第1原則の二元論的性格を「国家観と統治原理に.おける二元 論」紅帰一・させるのほ,それだけ体系把握の複眼レンズが広角紅ほなるものの, 論点の本来の解決で咋なく,根本解決をさら紅延期することに・ならないであろ うか。われわれが他の機会にのべたように、,「スミ‥スにおける「自由主義」的 側面と「国庫主義」的それとを,「権威」と「功利」の混合政体の叙述紅むす鱒 つけて理解しようとされるのはスミスに.おける首尾−・貰性をたんに・かれの 表面上の叙述のうえでもとめようとするものであり,したがって二元論的把捉 ほスミスの文章紅おけるおおくの二元的叙述を混合政体のふたつの柱に帰一・さ せること紅のみ重点が.おかれるので,もんだいはそれではその、「権威」と「功 利」のかんれんほどこにあるか,とあたらしく提起されざるをえないために.,こ れは,主題の本来的な解決でほなく,むしろ,そのありかをただしく提起した出 発点の設定であるといいうる。」32)二元論が二元論なり紅統一・視角から内的に 整序されなければ,−・定の自己完結を有する解釈とほいいがたい。「少くとも解 釈上,iつの手掛りを与へた」とする博士の説明が謙譲であるかどうかは別と して−,このさい,想起されてよいのである。 第2に.,〔A〕の「能力」と〔B〕の「保護」,それ紅〔C〕の「収入」が個別分割 31)同上,76ぺ−ジ。なお,誤訳例については澄1)の小論を参照。 32)山崎 怜「“安価な政府”をめぐる諸解釈にンついて」,『香川大学経済論道』第誕巻籍6号, 1966年2月,53ぺ−ジ。

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ヱ967 香川大学経済学部 研究年報 7 ーβ2− 的に等置されないのはさすがであるが,〔E〕の1文がこれをあいまいに・してし まったとおもわれる。〔E〕における「利益」を「全くは無視し得ない1とする 博士は,この「利益」と〔C〕の「収入」とを,「■而してここ紅国民各自が国家 において有する利益の内容は,能力のそれと同じく,「収入」である」とのべ て,断定的に等置され,事実上ほ「能力」,「保護」,「収入」の3者をむすびつ けたかのようである。だから,博士は「スミスにおける能力説と利益説との二 元論ほ,能力と利益の内容をとも紅収入に.求め,結局,「収入に比例する」こ とが租税負担の分配原理となる.」SB)といわれた。これほ.根拠論と配分論の折角 の帝離をふたたび第2の解釈類型に逆行させる感がないでほない。だが,もと より,ひとたび「一・般利益」の旗手となった博士であるから,〔E〕の「利益」 を個別的利益とかんがえるわけ紅はいかないとすれば,「国屈各自が国家に・お いて有する利益の内容は……「収入」である」とする博士の論定ほほとんど理 解しがたいというはかはない。われわれは,スミスの主観的な意図や政策的な ねらいとほ別に,この〔E〕を〔G〕以下の文章とおなじく,事実上,課税の普遍

性の主張であって,相磯配分の原理を個別利益説的紅主張したものとはかんが

えない。 第3に.,博士ほ.〔A〕およぴ〔C:〕の「比例」(inproportionto)を文字どおり比 例税主義とされ,これを「収入に比例する」配分原理としてくりかえ.しのぺら れた。博士ほいわれる。〟「第1原則は…・…能力又は利益把.正確に比例すべ きことを要求する。それ故,そのかぎりスミスが租税の比例税主義を採用する ことは明白である。.」84〉 ところが,これも周知のように,スミスは他方では比例 税主義を否認するいくつかの叙述をおこなったことも事実であるから,博士は これを上記原理紅たいする「修正」として加味せざるをえなくなる。博士紅し たがえば,「この「収入に.比例する」原理は……‥分配(納税者の貧富)の見地と 収入の源泉(国家の保護を受ける程度)とが考慮されて,そのかぎり修正されるの である.」,$5)と。 33)前拇,花戸龍蔵『財政原理学乱』,80ぺ−・ジ。 34)同上,81ぺ−汐。 35)同上,80ぺ岬汐。博士ほこの2つの修正を(A)と(B)にノわけられたが,葦1原則分析 のための区分とまぎらわしいので,以下,便宜上(1)と(2)におきかえる。

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昭和期に.おけるスミス租税籍1原則の解釈紅ついて. −・ββ− この「修正」ほ興味のある深刻な内容をもつので,ややくわしく紹介しよ う。 (1)分配の見地と租税の平等性 スミスは家賃税紅かんする説明のなか で貧乏人ほ収入の大部分を生活必需品に支出す・るが,富裕な人ほ奮珍品と虚飾 品紅支出するという。「壮大な邸宅ほ,かれがもっているはかのあらゆる香俸 品と虚飾品を飾りたてひきたたせるのにもっとも有利である」とすれば,「家賃 支出の仝生活費に.たいする割合は,財産の程度のちがい紅応じて−ことなる。… 最高程度の財産のばあいに.……最高」であり,「財産のていどがさがるにおうじ てこの割合も減少し‥・・∵最低ていどの財産において−ほ・一腰匿この割合も最低と なる」とのぺ,つづいて「だから家賃税は−・般紅富裕な人にいちばんおもくか かるだろう。そ・してこの種の不平等には,おそらく,ひじょうに.不合理なもの ほな紅もないだろう。富裕な人が公共の経費にたいして,その収入に比例して だけでなく,いくらかそれ以上に寄与サるというのは,ひじょうに不合理なこ とではない」β6)とする,例の累進税の合理性主張となったのは有名である。博 士ほ「不平等」と「■不合理」の,かかるつかいわけにとくに関心をよせ,「ス ミスのこの所論において,「平等」と「合理」とが異る原理の上紅あることを 注意せねばならない。この場合紅おける平等は,交換原理(等価比例の原則)紅 おける平等を意味し,国富の増加ほこの平等の原理に.よってよく期待されるの である。之紅反して,スミ.スがここに几、ふ「合理」ほ富者が貧者よりも重き負 担をなすべきことを意味する。それ故,ここ紅いふ平等・不平等は「生産」の 見地紅ある紅反して,合理・不合理ほ「分配」の見地紅立つといひ得る.」,き7) と。「分配の見地」の確立が「合理・不合理」の観点をうみ,これが納税者間 の貧富を視野にいれるというわけである。S8) 36)A.Smith,Wealth qf.Naiions,VOl.ⅠⅠ,pp.326−27.邦訳<下>,255ぺ・−i>。 37)前掲,花戸瀧蔵『財政原理学説』,81ぺ−・ジ。 38)博士によれば,「スミスが租税論において貧富間の分配問題に・論及してゐるのは,家 負税に.関するもののみ」ではなく,タ−ンパイク通行税へ・の批評や窓税への論評にさい して,これをとりあげた。しかし,この通行税と窓税への批判はそれらの負担の実質的 な逆進性を論難したものであり,累進税の主張なのではない。つまり,それらは第1原則 の〔A〕,〔C〕を比例税主義理解の立場から解釈しても十分に処理されうるもんだいである とおもう。

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香川大学経済学部 研究年報 7 J967 ー∂4−− (2)収入の源泉と租税の平等性 博士把よれば,「スミスの利益説はそ の能力説と同じく,収入に比例するを要求した。しかる紅他方紅おいて,その 利益が国家の保護即ち国家の善政紅負ふ場合には,かかる利益紅対して特別課 税を要求する.」39)のであり,例の敷地地代が普通地代を超過する部分は「良好 な統治」に負う「収入」だから,政府維持のために特別に.課税されてよいとす る1文を引用され,「スミスほ,国家が国民紅与へる「−・般利益」のうちに.も 特別利益が見出されるならば,かかる利益に対して差別的に重く課税せんとす るものである。刷出来るかぎり利益主義紅よらんとするスミスの意図……‥ほ 収入の源泉如何によって,換言すれぼ,その収入が各人の努力や経営の宜しき に起因するか,もしくほ国家の善政紅負ふか紅よって異る課税をせんとするも のである。“…敷地地代の場合にあっては,これほ結局,敷地の独占性と敷地 地代の不労所得に.対して重課するに外ならない。。」40)ところでかかる特別課税 ほ.,経費論のなかで対象となるいわゆる「特別利益」紅たいする「特別貢納」 が「特定の地域又は特定の成員が国家の施設又ほその労務より直接的に受ける 特別利益に.対して支払ふ租税である」の紅反し,これは「国家給付紅.よって.直

接的払うける特別利益に対して支払ふものでなく,国家給付より受ける−・般利

益のうちでその程度が大なる利益をうけるものが納める租税である。それ故,

前者の特別税紅は交換原理が準用されるが,後者の特別税紅対してほ,交換原 理は適用され難い。」後者を「−・般利益に.対する−・般貢納としての租税の中で, 論ずる理由」ほここ紅ある,41)と。 ∴以上の2点の「修正」に.ついてかんがえたい。(1)における「合理・不合理」 と「平等・不平等」の意義づけほすこぶる示唆紅とむ解釈である。なぜなら, スミスが従来の「平等・不平等」論に.紫縛されながらも「合理・不合理」論を 導入して富者紅たいする垂課を論拠づけようとする独自の轟意が博士に・よって あざやかに.あとづけられたからである。しかし,この「平等」と「合盟」とを,も しも,たんに「生産」と「分配」のそれぞれに個別にかんれんさせて−のみ理解 されるならば,それ−はやや機械的なスミス把握であるとおもわれる。スミスが 家賃税を擁護するのは「分配」の見地の魂でなく,浪費的支出たる家賃への税 39),40),41)同上,82−4ぺ一汐。傍点は花戸博士。

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昭和期に.おけるスミス租税儲1原則の解釈紅ついて −∼・aヲー・ としで十分に・「生産」の見地紅たっていた。それだけではない。−・般にスミス が賃金税を批判するとき,そして地代税を推奨するとき,あるいは必需品税を 批判して奮移品税を推奨するとき,「分配」の見地と「生産」の見地とは同時 に・考慮されていたのである。「収入紅比例する」原理が「修正」されたのほ何 も家負税のばあいにかぎらない。ということほ,そもそも「収入に㌧比例する」 原理の理解そのものにもんだいのあることを示さないであろうか。第1原則の 〔斗〕,〔C〕にJ、う「比例」はいわゆる厳密な「比例性」のほかに.,たんに「対 応」サーる(応ずる)といったル−スな使用方法をふくんでいたのである。前者 の力点が税率規定であるとすれば後者のそれほむしろ課税標準規定である。ス

ミス時代の“in proportion to”ほかならずしも厳密に税率を論じたものでほ ない。42)われわれほ「合理・不合理」のなかに「平等・不平等」の基準もふくま れ,両者ほ流動的に・つかわれているものとかんがえるが,43)それでも「平等・ 不平等」紅包摂しえ.ない「合理・不合理」の世界がスミスによってあたらしく 提起されたととほたしかであり,これをみぬいた博士の慧眼に.ほおどろくばか りである。 (2)の分析ほ一層すぐれている。スミスの「−・般利益」が「収入の源泉」に よってほ,結果としての(意図された壇接の「個別利益」ではない)「大なる利益」 をもたらすことによる「特別課税」是認の根拠づけは,「−L般利益」がもと もと労働と骨おりをその源泉とする「収入」に.対応する(われわれのいわゆる経済 学の生誕に対応する)ことを事実上,認識しえ/ているはずである。だから,労働 と骨おりに・もとづかない「収入」が「保護」またほ「長好な統治」に依存する ことは当然であり,したがって「…・般利益のうちでその程度が大なる利益」に たいする特別課税もまた当然である。これほ「全般的利益」=「全般的貢納」 の定式にたいする「修正」でほなく,その正統の系論紅属する。ここでも博士 ほ「比例」の文字紅・こだわりすぎたのであろうか。その分析内容はまったぐす ぐれており犀利であるが,逆にその結論に.ほどうしても賛同できない。 これを要するに2つの「修正」はスミス租税配分論の独自性を意識的紅とり 42)注9)にあげたケイムズの著作もその1例である。 43)イギリス経験論ほかかる流動性をつねにもっているキおもわれる。

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J967 香川大学経済学部 研究年報 7 ー∂6−・・ あげ,「分配の見地」と「収入の源泉」の両面から,そ・の能力説の意味を解 剖・補説した点では他紅類をみないものであった。しかし,いずれも「修正」 でほ.なく,第1原則の外延にあるものとわれわれほかんがえる。 このようにみてくれば,博士の所説に.ついて,つぎのごとき方法論上の指摘 もゆるされるであろう。博士ほスミスの叙述を検討されるばあいに,はとんど かならず,さまざま紅対立す・る2要因を発見され,この要因別に.整理・論究さ れるのがつねであった。このことほ諸範疇が複線的に.定立されているスミスの 研究にたいして,その諸範疇をとりだすという稀有な貢献を可能紅したのであ る。複眼的・複線的スミスをおさえるにほ,これは是非ともやりとげなければ ならぬ作業であった。人々はこのことに.おもいをいたすことなく,しばしば, 単眼的・尊線的スミスに.満足してきたのである。博士の最大の寄与ほかかる2 要因の発見である。そ・れほ容易紅みえ.てもっとも困難な作業であった。いわば ロードス島である。だが,もんだいほつぎに.ある。この2要因を位置づける媒 介項をみいだし,これを全体として:構成しなくて−ほならない。スミスの限は.複 眼であって■も精神は1つである。この複雑なものを統一する精神ほいか紅して とらえうるか。「国家観と統治原理における二元論」ほいかに.して−1つの精神 たりうるか。われわれは「凝威.」を「■功利」化し「功利」を「権威」化す−るスミスの論 理を別の機会把おいてのぺたから,44)ここでくりかえすことほしないが,そう した媒介づけが必要なのである。そうすれほ「自由主義」と「国庫主義」の対 比と同時紅両者の依存の局面があきらかになる。・そして,このととは博士の 「−・般利益」の「−・般」が「権威」に,「利益」は「功利」に連絡することを みずから明示し,45〉〔E〕の「利益」に足をとられて,この「利益.」と「収入」を 等記させたり,「能力説が公民関係に・,利益説が経済関係町基く」とすること がいかに.形式主義であるかを教えている。あるいは,「統治の原理として,権 威と功利の何れ紅重点」をおいたか,「公民関係と経済欄係とのうちで,何 れを遠くみたか」と博士ほ問い,「スミスの国家論と第1原則に・おける命題の 44)注32)に‥あげた小論をヰ.よ。 45)それであるから花戸博士ほ折角の「−・般利益」の忠義を低下させられる。われわれが 「一・般」を「全般」というのはその「権威」の面を強調するためである。

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昭和期におけるスミス租税発1原則の解釈について −−β7一 橋成(能力紅関するものを主文とする)とより見て,前者紅アクセントをおく」46)と こたえるのも同様である。「重点」は両者におかれたというのが,ただしい。 もしも,博士が「国家観と統治原理」の領域でほ自然権にもとづく契約説の 成立と崩壊過程(ホップズからロックを経てスミ.スにいたる)とさら紅自然史的政 府観の成立(スコットランド歴史学派)とをかえりみられていたら,また経済学 の領域でほ.労働=生産認識を上記国葬論の旋回に照応させて一迫求されていた ら,成果はおそらく無限であった。しかし,ついに.その課題を博士は後進にゆ ずって,ふたたびドイツ崩政思想史研究に.かえってゆかれた。47) 附記 この小論を花戸博士の墓前に.ささげる。 46)前掲,花戸瀧蔵『財政原理学説』,80ぺ一汐。 47)花戸博士に.おける創意にみちた第1原則解釈について,なぜに」専士はかかる先例のな い業績をのこしえたかというもんだいがある。それほおそらく社会価値説の立場紅たっ 折衷自由主義が,博士のばあい,厳格な古典精読主義とむすびついていたからであっ た。それほまた私学・商大系の潮流促さおさしたものであった しかし,このことにつ いではなお,かんがえたい。

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