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ハンス・フォン・マレーの「ナポリのフレスコ画」について (上)

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(1)

ハ ンス・ フォン・ マ レーの「ナポ リの

フ レス コ画 」 につ い て

(_上

)

高 阪 一 治

(昭和58年5月20日受理)

※図 版 に お け るM.―

G.と

は, Meier― Graefe,

Juhus:Hans von Marees. Bd. 2, A/1unchen

1909に お ける図版 を指 し

,G.L.は

Gerlach―

Laxner, Uta:Hans von Marees. Munchen

1980に お ける図版 をい う。

1

ナ ポ リ湾 に面 した にカラ ッチ ォー ロ通 り

"沿

いの

,今

日の ヴ ィッラ・ コムナー レ (市立公 園

)の

まん 中に

,

ドイ ツの動物学者 ア ン トン・ ドール ン

(Anton Dohrn)に

よって設立 され たナポ リ臨海

研 究所 (Stazione Zoologica di Napoll)があ る (開所 は1874年2月)。 一 階 に有名 な水族館 を もつ

この研 究所 の三 階

,当

初 ホール として予定 され

,後

図書室 として使 用 され た (1955年 まで)(幣[屋 に, ハ ンス 。フ ォン・マ レーの フレスコ画が四面 の壁 にわ た って描 かれてい る (図 1, 2)。 北 の主要壁 には3,50×

4,98mの

サイズを もつ「漕手

J(M.―

G Nr.201,G.― L.120/1/4)(図

3)を

中心 に して, 四点の縦長 の作品(「帆船 の あ る」(M.―

G.Nr.197,G―

L.120/1/1)(図 4)「海 と断崖 の あ る」(M. ―

G Nr.198,G.―

L.12C1/1/2)(図 4)「か もめのいる」 (M.― G.203,G.―

L.120/1/3)(図

5)「漁 夫 と女性 と子供のいる」(M.―

G.202,G―

L120/1/5)(図

5))が

,左

右 に二点づつ描かれている。 また西壁 には「漁 に出かける漁夫たち」(3,50×

4,08m,M―

G208,G―

L120/Ⅱ /1)(図

6)が

, 東壁 には「ペルゴラ」(3,50×

4,08m,M。

一G.224,G.― L.120/Ⅲ

/1)(図

7)が

見 える。南壁 には 「二人の女性のいるオレンジ苑J(4,73×

2,36m,M.―

G.216,G― L120/1v/1)(図

8)と

,「オ レ ンジを もぐ男J(4,73×

2,36m,M―

G,214,G.―L.120/Ⅵ

/2)(図

9)の

二点の フレスコ画がある。 これ ら一連の フレスコ画 は

,マ

レーの芸術上 の発展 に とって重要な ものであ り

,彼

の作品群 にお いて とりわけす ぐれたもの というにとどまらず

,19世

紀 の ドイツ絵画の中にあって も高い評価 をえ ているものである。

Frリ

ンテ レンはこの連作 を「マ レーの生涯 において画期的な意味 をもつでもの

(2)

78 語守 とみなした し

,Bデ

ーゲ ンハル トも

,そ

れ らを「マ レーの決定的な転換点

Jに

して「マ レーの制作 における頂点のひ とつΨとみたのであった。 フォン・アイネムによれば

,ナ

ポ リの フレスコ画 は「彼 〔マレー〕の芸術発展における頂点のひ とつであるとともに

,19世

紀 ドイツ美術のひ とつの極致!) ともいうべ きものなのであって

,先

のデーゲンハル トも,こ れ を「 この時代 の ドイツ絵画の もっとも 重要な一連の作品f)中に数 え入れたのであった。

Lグ

ローテは,「ナポ リの連作 は

,ぽ

つん と孤立 し た嶺 をかたちづ くる。 ただレーテル作のアーヘ ンの フレスコ群 と

,そ

れ にまたおそらくは, コルネ リウス作のグ リュプ トテークにおける連作の個々の ものが

,マ

レーの もの と並び立 つであろうが, しか し

,マ

レーの高 さに達することはない。」)と 述べてい る。 テーネスのい うようにF)フ レスコ画が描かれてある部屋 は,実際入 ってみると,図版等でみて想像 していた割 には狭 く感 じる。東西

13,55m,高

さ7,57mとぃ う比率か らすれば

,一

― グローテ もい う ように

G…

南北4,96mと 狭すぎて

,東

西に細長 い部屋 となっている (図10)。 , さて

,マ

レーが この部 屋 をフレスコ画 で飾 る こ とにな ったの には

,以

下 の よ うな経緯 が あ った。 ア ン トン・ ドール ンは,イ ェー ナの地 で

,若

い生理学者 として大学 の私講師 であ った頃 か ら甲マ レ ーの友人 で あるア ドル フ・ ヒル デブ ラン ト

,お

よび

,歳

はあ ま り違 わないのに この彫刻家 の学校時 代 の先生 に して友人 で あ った

,イ

ギ リスの詩人 チ ャールズ・ グラン トと

,親

交 を重 ね てい た。 ドー ル ンは1870年 以来

,海

洋物研 究 のため

,ナ

ポ リに臨海研 究所 を設立 す る計画 を懐 いてお り

,す

で に その頃か ら、 この計 画 は二人の友人 の知 る ところ とな っていた。 プ ロシア・フランス戦争 (1870/71 年

)の

た め

,計

画 の実現 は遅 れ ざるをえなか ったが

,1872年

の は じめには

,よ

うや く

,ナ

ポ リ湾沿 いの ヴ ィッラ・ レアー レ (今日は レアー レ 〈王 立〉 でな く

,コ

ムナー レ 〈市立〉 とな って い る

)の

まん 中に

,研

究所 の建設 が始 まった。 ヒル デブ ラン トは偶 然 に も,この夏

,ナ

ポ リに滞在 して いて, 企画 の修正 を した り,研 究所 の フ ァサー ドを考 え るな どして協 力 したよω希望 に燃 えていた とはいえヂ ドール ンの資金 は乏 しか った11)成立 して間 もない ドイツ帝国等 か ら補助 を受 ける ことが で きた もの の

,そ

の他 に も援助 を求 めて

,各

地 を訪 れ ざるをえなか った。 1873年 1月

,

ドール は この た め

,

ド レースデ ンヘや って きた。 一方

,第

一 回の イタ リア滞在

(1864-70)を

終 え

, 2年

を母 国 で過 ごしたマ レー は

,1872年

4月 に ドレー スデ ンに移 っていた。 この間

,ベ

ル リー ンで は ヒルデブ ラン トとと もに一軒 の家 を借 り, 共同の ア トリエ と して使用 したが (1870年10月

),

ドレー スデ ンで は

,マ

レーの芸術保護 者 に して友 人で あ った コンラー ト・ フィー ドラーの援助 に よ り

,コ

ッペ ル家の庭 に自分用の ア トリエ を建 てて もらって

,制

作 して いた。母国 ドイツにな じめず

,イ

タ リアヘの思 いが彼 の内部 で大 き くな ってい たより

(3)

アヽンス・ フ ォン 。マ レーの 「ナ ボ リの フ レス コ画Jにつ いて (上

)79

1873年 1月

,マ

レーはフィー ドラー とともに

,

ドレー スデンで

,

この若い動物学者 と会 ったよ働ド ールンのことは

,お

そ ら くヒルデブラン トか ら聞か されていたであろう二人は

,こ

の場で

,本

人の 日か らその計画 を知 ることになった。 ドールンの構想する ところでは

,研

究所 は

,

もちろん第一 に

,彼

が心酔す るダーウィンの精神に もとづいて

,自

然界 での生存競争 による種 の洵汰 を観察 し

,ひ

いては包括的な生命の研究活動 を行 うところであった。 しか し

,自

然科学の実証主義が横浴 し

,専

門化 も始 まった当時にあって

,自

ら 科学者であ りなが らも

,

これ にい くぶん批判的であった ドール ンが

,

この研究所 を利用す る者 に求 めたものは

,幅

広 い教養 という理想であった。研究所 は

,自

然界のみな らず

,精

神界 にも深い理解 を示す ことのできる

,国

の垣根 をこえた「学者の家族的な集い

J(マ

イアー・グレー フェ

)と

,い

わ ば「国際的な学者共和国」(グローテ)となるべ きなのであった。 その具体化が

,一

階の水族館 はむ ろんの事 として

,美

しい自然にか こまれ た濡洒で品のある建物 と

,そ

の建物 の二階の

,ロ

ッジアか らナポ リ湾を見渡せる部屋 とであった。建物全体の中で

,

この もっとも景色の よい所を

,

ドールン は研究者のための憩 いの場 に して

,自

,音

楽ず きということもあって

,

ここで皆が音楽 を楽 しめ た ら,と考えていた。この小 さな音楽ホールに

,何

か心の休 まるものがあれ ばなお一層いいのだが, と彼は語 ったよ4) この話 は二人 を

,

とりわけマレーを感激 させた。 フィー ドラーが席 をはず した時

,再

度のイタ リ ア行 きの機会 をそこに見たマ レーは

,

ヒルデブラン トと二人で

,フ

レスコ画 と彫刻 とで もってその ホールを飾 りたいと申 し出た。おそら くは,何 らかの形で生物学 と結 びつ くことを仄 めか しなが らf) 一― こうして

,マ

レーに とっては生涯 ただ一度の フレスコ画の制作の依頼が

,彼

に舞 いこんだので あった。 ドールン とマ レーの双方に

,問

題 がないわけではなかった。 ドールンの側 にあったのは

,い

うま で もな く

,資

金 の問題 である。画家は ドールンの事情 をよ く知 っていたので

,報

酬などもらうつ も りはなかった。 ただ

,諸

経費は

,支

払 って もらうつ もりであった。 しか し

,こ

れ も

,

ドール ンには 不可能 になった。「 ナポ リの フレスコ画」の費用のすべては

,結

,フ

ィー ドラーが負担 したよω マレーの側 にあった問題 は

,意

外 に も

,こ

のフィー ドラーであった。 た しかにフィー ドラーは, 1866年に二人が ローマで知 りあって以来の友人であ り

,そ

2年

後 にマ レーの方で

,シ

ャック男爵 (後伯爵

)と

の関係が と絶 えると

,そ

の立場 になって以来のマ レーの芸術保護者である。 しか し, 通常考 えられているような全幅の信頼が

,二

人の間 にあったわけではない。マ レーに対するフィー ドラーの貢献 は

,P.ヒ

ル シュフェル トのいうように甲 どんなに高 く評価 して もしす ぎることはない が

,二

人の間に

,

とりわ けフィー ドラーの方に

,小

波が立 った こともあったのである。1873年の は じめ

,マ

レー と ドールン との間で研究所の三階ホールの装飾の話が まとまってか ら

,

フィー ドラー の許 に

,こ

の企画に対 する彼の考 えを尋ねる ドール ンの手紙が届 けられた。 フィー ドラーの表向 き の返答 は

,こ

の企てを行 うと決める前に

,マ

レー としルデブラン トの二人がナポ リに行 き

,実

際に

(4)

80 F霊 その場所 を見て か らに して は どうか, とい う ものであ った。 やれ る とい うな らばやれ ば よ し

,い

い 結果 が予想 で きな けれ ばや めれ ば よ し

,春

の旅 に終 わ るだけの ことで

,そ

の限 りでは ドー ル ンに責 任 は及 ばない

,

とい うものであ った89 しか し

,マ

レーの これ までの作品には未完成の ものが多い こともあって

,

これに高い評価 を与 え ず '9し か も

,こ

れ まで彼のア トリエに一度 た りとも入れて もらえなか った ことを

,信

頼 に欠ける仕 打 ちだと感 じていた(20フ ィ

_ド

ラーは

,少

し遅れて別便 を送 り

,本

当は手紙 という形 でな く口頭で 伝 えたかったのだが とことわ りつつ

,こ

の仕事 はマ レーには荷が重いのではないか

,彼

では不適当 ではないか と告げて

,

ドールンに再考 を促 している子りだが, この フィー ドラーの危惧 は

,

ドールン の心 を動か しはしなかった。 マ レーは1873年 5月 9日 に ドレースデンを発 ち,ま ずヴィーンに向った(10日着。13日 まで滞在)。 彼の弟子であ り「芸術 と並んで彼の心を占めた唯―の女性rかであるメラニー・ タウバー と再会す る とともに

,ヴ

ィー ン万国博覧会 に出品 された (オース トリア博物館

)ヒ

ルデブラン トの彫刻二点 を 見る。おそらくはまた

,当

時有名 であったハ ンス・ マカル トの作品を もま°ついで グラーツに向い, ヒルデブラン トと落 ち合 い

,ヴ

ェネチア

,フ

ィレンツェ

,ロ

ーマにそれぞれ少 しばか り滞在 して, ともにナポ リに入 ったのは

, 5月

20日であった子° 3 さて

,マ

レー とヒル デブ ラン トに よる音楽 ホールの装飾 の進 み具合 につい ては

,種

々 の手紙 な ど か ら

,ほ

ぼ跡 づけ られ る。 まず これ を挙 げてみ よ う。 作業場 をこしらえ

,具

体的な計画 と諸々の構想を練 り始めたのが

,1873年

6月 7日であるV9同年 6月29日付の手紙の中で

,マ

レーは

,様

々なスケッチが完成 したことを告げヤ°7月20日付の手紙で は

,明

日から (1873年7月21日

)実

際にフレスコ画を描 き始めることを一― しかもフリーズから一 一告げている子り同年11月25日付のフィー ドラーに宛てたマレーの手紙には

,少

し前 (原文では「日 曜 日に

Jと

なっている

)す

べてのフレスコ画が完成 して

,明

日の夕刻には

,フ

ィレンツェに向けて 旅立つことが書かれている子8)最初二夏を要すると考えられた°9制作期間は

,結

局一夏で

, 6ケ

月を 必要 としなかったP制作の順序については

,北

壁から西をへて南へ

,そ

して最後に東壁へ といつた ように

,北

を背にして右か ら左へと進められたと考えられる『1) この間

,こ

の部屋の装飾 に ヒル デブラ ン トが関与 した度合 いは

,マ

レーの計 画 が変 わ り

,構

想 が 大 き くな るに したが って

,増

してい った。 この部屋 の装飾 プラ ンについて は

,

ドール ンは何 もいわ なか った。すべて は

,マ

レー とヒル デブラ ン トの二人 に任 された。 それ も

,1873年

4月22日 付 の手

(5)

ハ ン ス・ フ ォ ン・ マ レー の 「 ナ ホ リの フ レ ス コ画 」 に つ い て (上)81 紙 に明 らかなように 'か 計画 を立て

,進

めたのは

,マ

レーであった。 1873年 7月 5日 付の手紙か ら分 るように '働 最初マ レーは

,た

だ数人の人物 を彼が描 き

,

ヒルデブ ラン トには

,な

にが しかの部分的作業 と彫刻制作を担 当 して もらうつ もりであった。 この ことはす でに 6月 6日 の手紙で明 らかであ り

,

ここには, ヒルデブラン トは当然

,彫

刻的な部分 を引 き受 け て くれるだろうが

,

しか し

,絵

も描 いて もらわねば困 る

,

と書かれている°しか し

,画

家 自身の手 紙ではないが

,画

家の近 くにいたグラン トのそれによれば

,す

でにこの年の 5月 末の段階で

,元

々 の計画 は

,ロ

ッジアの向かい側の主要壁 を

,

ヒルデブラン トの手 になる二つの暖炉 と一つの泉 とと もに,マレーの手 になる一つの大 きなフレスコ画で飾 る,とい うものであった ことが明 らかである伊° したがって

, 7月

5日 に近 い時点 までは

,マ

レーは

,マ

イアー・ グレーフェの指摘するようにっ主 要壁 にあたる北壁の装飾だけを考 えていた

,

と推測することができる∫ω ところが

,先

の7月 5日 の手紙には計画の変更が告 げられ

,ホ

ール全体 を上か ら下 まで飾 ること に決 めた ということ

,そ

してそのための準備作業 は完了 した こと

,更

,い

くらかの時間がかか る だ ろうが

,す

べてが関連 しあっている複数の絵が壁面 を被 うことになる

,

ということが語 られてい る。 そ して

,

まだこの段階で も

,10月

までに仕上 らないな ら

,来

年の夏 もこちらに こなければな ら ないと書かれている∫7) この手紙 に述べ られている「すべてが関連 しあっている複数の絵

Jが

どんな もの であるか とい う 点 については, 7月20日付の手紙で明 らかになる。 「・―主題 はすべてLeben(生

,生

,人

生)か らとられてい ます。洞窟 や島

,岩

の 見える浜辺

,建

物―― とともに描 かれた海。 そ して この海 には

,網

をひろげ

,一

漕 の船 を海へ と押 しやっている漁夫たちがお り, この船 その ものの中には

,

ドールン や クライネンベルク

,グ

ラン ト

,

ヒルデブラン ト

,そ

れに私 自身の 肖像が見 える。 海 ぞいの居酒屋。 そ して また今度 は

,ま

った く陸にあがって

,窓

のあ る側 には実物 大のオ レンジ苑 とそれ に相応 しい人物 たち。人物 たちはすべて等身大です。 この他 には

,二

つの描かれた

,芸

術 と学問の巨大彫像。主要壁の下の方には二 つの暖炉部 分。 またまん中には

,水

の流れる泉。人物の大部分 は裸体です。一般的な もの につ いては

,

これ位 です。…99 と告げ られている。手紙の この部分 ははなはだ興味深い。 というの も, ここに述べ られてい る構想 は

,今

日われわれがナポ リの一室 に見 る形 とは異 なってお り

,

したがって

,現

在 の形 をもた らした 造形理念 ともいうべ きものを考 える際の重要な示唆 を含 むと思われ るか らであ る。 さて, この点は後 に述べるとして

,こ

うしたマ レーの計画の変化 に ともなって

,

ヒルデブラン ト の役割 はどうなったか。 この点 も

,同

じ手紙 の中で明 らかになる。 そこには

,す

べての建築的な も

(6)

82 〒罫 阪 の同様 に

,フ

リーズ と付 け柱はヒルデブラン トの考 え出 した ものであること

,そ

して全体 は二人の 共同の計画 にもとづ くものであること,五点の主要図のスケ ッチはマ レーの手になる ものであって, 一部は ヒルデブラン トの手になることが述べ られているよ9 しか し

,マ

イアー・ グレーフェによれば

,マ

レーは

,ヒ

ルデブラン トとい うこの上 もない協力者 をえて

,喜

びのあま り

,人

に向ってはこの彫刻家の役割 を誇張 したのだ

,

ということになるよω同研 究者の考 えるヒルデブラン トの貢献 は

,本

質的に

,描

かれた建築部分 とフ リーズ とに限定 され るの であるよう 結局 の ところ,ヒルデブラン トの手 になる もの としては,ま ず以下の ものがあげられ るであろう。 一―北壁の大 きな画面 を律動的に分割す る付 け柱 と隅柱

,お

よびそこに描かれた装飾的 な絵。同 じ く北壁 に描かれた二つの貝殻形壁亀。 これ は

,南

北の壁の建築上の釣合を考 えて

,南

壁 の両端の戸 の形 を くり返 した ものである。 この壁亀の下

,壁

画の描かれていない部分 にあった二 つの暖炉 (今 日で はその名残 りが見える)。 さらに

,南

壁中央の戸の ま向いに当 り

,今

日ではこの部屋の出入 口 と なっている北壁下部 にあった

,描

かれた泉。南壁 に見 られ る仮面や静物 を描 いた装飾画。力日えて, 画面 それ ぞれの上部 にあ る

,グ

リザ イユの浅浮彫 によるフ リーズ。最後に

,こ

の研究所 に指針 とな る精神 を付与 したダーウィンとベアの二人の学者の胸像 (ブロンズ)!勢 さらに彼 には

,こ

れ ら以外 に

,準

備段階での様々な協力が加 わるのであるよ°したが って

,た

しか にヒルデブラン ト自身がある手紙の中でいうように子°創作 としての絵 とフレスコ画については完全 にマ レーの ものであるとして も

,

ヒルデブラン トが この企てに果 した役割 は

,決

して小 さ くない と 思われ る。 なぜな ら

,こ

れ らの活動の他 に

,彼

には

,友

情で結 ばれた協力者“°として

,主

たる制作 者に上々の成果 をあげさせた とい う功績が付 け加わるか らであ る。 これについては,「ペ ルゴラJの ところで触れ ることになるだろう。 ところで

,可

能ならばその両脇 に二点の芸術 と学問の巨大彫像 を考 えていた泉や

,二

つの暖炉 な どは

,今

日では見 られない。 それ らは

,こ

の音楽 ホールが図書室 に変わる時点で

,取

り払われたの であった。 この変更は

,1876年

1月28日付 のマ レーの手紙の中に

,ご

く近 い未来の こととして告 げ られている!ω なお

,こ

の「 ナポ リのフレスコ画

J連

作 に関する素描のい くつかは

,画

家の生地であるヴッパー タールのフォン・ デア・ ハ イ ト美術館 に保存 されてあ るスケッチ 。ブ ックの中に見出 され る。油彩 習作 については

,画

家 はそれ らをロッジアに置 きざ りにしたのであったが

,マ

イアー・ グレー フェ によって見出されて

,今

日, ドイツの所蔵する ところとなっている。 カル トンについては

,何

も残 っていない。 フレスコ画に特有の点の跡 は

,す

でに制作終了時 に

,ほ

とん ど気付かれないようにさ れて しまった子の ところで

,今

日見 られ るフレスコ画連作 は

,本

質的には三度 にわたる (1909年と1956年

)修

復 を

(7)

ハ ンス・ フォン・ マ レーの 「 ナ ポ リの フ レス コ画Jにつ いて (上

)83

経たものである。すでにマイアー・ グレー フェが書いているように

,こ

の研究所 の度重 なる改造の ため

,深

い亀裂 と漆喰が壁か ら離れる とい う結果が生 じたか らである9さ らに同様 のことは

,第

次大戦 によって もた らされた。1956年夏 に行われた修復 は

,ヴ

ァチカン美術館の経験 ゆたかな修復 家の手 になる ものであるよ9 4 北壁 には四人 の漕手 の図 を中央 に して

,両

脇 を縦 に細長 い絵 が三点づつ 占め る。西 には

,浜

辺 に 網 をかつ ぐ者 たち と

,船

を海 へ と押 し出す者 たちが見 える。南 に目を移せ ば,オ レンジの樹 々 の下, 男性

,女

性 が

,あ

るい は働 き

,あ

るい は憩 って い る姿が 目に入 る。東 に転 じれ ば

,こ

の研 究所 に関 わ る者 た ちが

,テ

ーブ ルを囲んで

,そ

れ ぞれ思 い思 いの仕種 で描 かれている。 これ ら一連 の フレス コ画 を貫 くもの は

,一

一 た とえ建 築部分 に よって 中断 され る こ とはあ る として も一一 海 の水平線 で あ る。 これが企画面 を秩序づけ

,統

一 の ある もの としてい る。灰緑色 がか った黄褐 色 が色彩 の基本 色調 をしめ,「夕方 に近 い,おそい年後の気分ザωを醸 し出 している。人物像の大 きさは総 じて同 じで, 画面の手前に描かれ ている。 ここには

,マ

イアー・ グレーフェのい うように 'D程 度差 はあって も, 海の描 かれていない画面 はない。 北の主要壁か ら見 てみ よう (図

3, 4, 5)。

た しかに五点の絵 は

,付

け柱 と二 つの貝殻形壁亀, および暖炉の跡 によって分割 されてはいるが

,

しか し

,こ

れ を連続す る一つの纏 まった絵 として見 ることは

,明

らかに可能である。 なぜな ら

,帆

船のある縦 に細長 い絵 に描かれた島の描 く曲線 は, 付 け柱 と暖炉の名残 りをはさんで隣の図の

,画

面 に平行 に描かれた台状の岩の頂上 に接続 し

,そ

れ はまた

,中

の描かれた付 け柱 をはさんで

,中

央 図の左端 に見 える断崖 に接続するか らである。また, この中央図に描かれた平底船のつ くる水平線 は

,同

様 の付 け柱 をはさみ

,隣

の図の二人 の人物の乗 る船のつ くる水平線 につなが る。右端のか もめのいる図になると

,た

しかに連続 するものはす ぐに は見つ けに くいが

,そ

れで も

,進

む船の残す波の泡立 ちは

,左

隣の図 との連続 を暗示 し

,ま

,か

もめの進 む方向が同一であることも

,そ

の連続性 を強めるのに役立 っている。 事実

,デ

ーゲンハル トのいうように

,ヴ

ッパータールのスケッチ・ ブックには

,四

人の漕手の乗 る船 と

,そ

の隣の二人の人物の乗 る船 との元来の連続性 を具体的に示すものがある。 これに もとづ き

,デ

ーゲ ンハル トは

,さ

らに

,建

築部分 は消極的,否定的な役割 を担 うもの とは考 えられていず, む しろ造形全体の一部 として有効 に機能 しえていることを指摘 して

,空

間 とフレスコ画 と建築飾 り の大規模 な調和が

,北

壁全体の各部の比率か ら生 まれているの も

,二

人の芸術家の共同作業 のなせ る業 だ と述べているすか このように

,北

壁全体が連続するものならば

,そ

れ は

,海

の光景 を描いた もの として

,デ

ーゲン

(8)

84 高 ハル トの い うよ うに

,一

種 のパ ノ ラマ画 として見 る こ ともで きるだろ う伊3)南壁 か らは

,ロ

ッジアに 通 じる三 つの ガ ラス窓 を通 して

,現

実 の ナ ポ リ湾 を見渡 せ る し

,ま

,マ

イアー・ グレー フ ェの い うようにす°北壁の崖のある島は

,カ

プ リ島 を思わせる ところがあるか らである。 た しかにこの光景 は

,ナ

ポ リ周辺 に取材 して

,自

由に改変 した ものであるだろう伊 しか し

,こ

こには

,

グローテのいうように

,ナ

ポ リとい う語 に連想 され る「感傷的な常套手段J はない。空 は通例 の青 さを持 っていない し

,ヴ

ェスヴィオの山 も見 られない。 およそどこか を切 り とったような特定の風景の一断面 というもの もない。 それでいて

,こ

の情景 は新鮮で

,現

実感 に富 み

,特

徴の ある もの となっている『°すなわち

,こ

こにはイ リュージョンとい うものはあって も

,そ

れは

,い

わゆる観光絵葉書 にみ られ るようなそれではな くて

,大

胆な造形 に もとづ くものなのであ る。 中央 図 を見 て み た い(図 3)。 海 の水平線 は画面下 四分 の一 を しめ

,枠

に平行 に走 り

,永

遠 な もの, 不動 の もの として

,画

面 に安 定性 を与 える もので あ る。一 番手 前 には波 の打 ち寄せ る岩 がおかれ, その上 には蝦や貝が姿 を見せ てい る。 こうした海 の水平線 や岩 の形づ くる水平線 を くり返 すのが, 左端 に描 かれ る島の台地 の よ うな頂上部分 で あ り

,画

面 右下 四分 の一 を しめ る

,四

人 の漕手 の乗 る 船のつ くる水平線であるよつこれ は もう一度

,四

人のほぼ揃 った高 さの頭部がつ くる線 によって くり 返 され る。 こうした水平線 と対比 をなすのが

,四

人の漕手の立 った姿勢 とそれ を受 ける舶先 の垂直 であ り

,切

り立った崖のつ くる垂直線である。水平・ 垂直 とい うこの両者 を媒介 し

,船

の進 む方向 を示 すのは

,舶

先か ら突 き出た竿のつ くる斜めの線 である。 それに して も

,な

ん とも大胆 な構図で ある。四人の漕手は塊 って面 をな し

,舶

先がわずかに中央 をしめるだけで

,残

るは蓬かな空 と海 ば か りである。画面の重心 は完全に右側におかれている。舶先 が画面中央 におかれているの も偶然で はないだろう。 なぜな ら

,先

のデーゲンハル トのいうように

,舶

先の位置 は

,両

側の付 け柱の まん 中にあた り

,そ

れ らを くり返 していると見 られるか らである。 船 は漕手の操 るオールで もって波間を疾駆 し

,画

面 に運動 を導入する。運動感 を強めるのは

,白

く泡立 つ波 と空 に漂 う雲 もさることなが ら

,四

人の漕手の律動的な漕 ぐ姿勢 であ り

,オ

ールのつ く る平行 に描かれた斜めの線である。人物たちの頭頂の高 さは一定 に保 たれ

,左

端 に覗 く島の高 さと 見合 っている。 かれ らは

,あ

たか も磁石 に引 き寄せ られ るかの ように '3馬 をめざして漕 ぎ進 む。 漕手のモデルは

,西

壁 に見える人物たちと同様 に

,研

究所 に研究材料 を届 けに くる土地の漁夫た ちであった,9この図に描かれた漁夫たちは

,少

しも美化 されていない。 グローテのい うように

,か

れらは力強 く

,荒

々 しい。 いや

,た

しかに野蛮です らある∫ω力 を合わせて船 を漕 ぐという単調で激 しい労働の さ中

,こ

の懸命 に働 く者 たちは

,一

漕 ぎした直後の

,オ

ールを水 から上 げる瞬間の

,少

し斜め前に傾 いだ姿を見せているゆ ここには

,い

わゆる平行表現 (Parallelismus)⑫が

,強

い効果 をあげている。画面手前の二 人 と, この二人 によって多少 とも重ね描 きされて幾分みえない向 う側 の二人 による並列描写。また

,表

(9)

ハ ンス・ フ オン・ マ レーの 「 ナポ リの フ レス コ画Jについて (上

)85

の見 える左側 の二 人 とうつ む き加減 の右側 の二人 による並列描写。 つ よ く前方 に突 き出 された太 い 腕 の平行描写 。 また

,

この手 によ つて握 りしめ られたオー ルの

,鋭

角 をな して交 わ る三種 の平 行描 写。――「 こうした平行的描写 が

,

この原始人的な労働の果て しのない律動 を鳴 り響 かせ る」°ので ある。二本 の交叉す るオール と

,伸

びた腕 のつ くる鋭角をなす三角形の一角が

,船

の進 む方向性 を 錫 く指 し示 している。 四人の群像 はこのように交叉 しているが

,明

瞭な空間性 を妨 げることはない。各 自は頭部 や衣服 や動 きによって個人的 に区別 されている。 とりわけ

,前

列左側 の男の腰 に巻かれてい る赤 い帯 と, 後列右側の男の被る黄色の帽子 は鮮やかで

,著

しい絵画的効果 をあげてい る。程度差 こそあれ

,い

ずれ も鋼のような筋肉を見せるこの屈強の男たちの周 りには

,海

の大気が漂い

,拍

子 を とって歌 う かれ らの声 を

,こ

ち らに屈 けて くれる。 しか し

,そ

の歌は

,外

国人の よ く耳 にする甘美なナポ リの 歌ではない。 もっとぶ つきらば うな

,古

来ナポ リに伝わる

,生

活に密着 した歌だろうと指摘 したの は

,マ

イアー・ グ レーフェであった '° 四人の漕手の部分 には

,油

彩習作が残 っている

(M―

G。 200,G.―L.120/1/4a.ベル リーン国立 美術館〈西〉

)(図

H)。 これ は

,19世

紀の ドイツ絵画の中で も

,ス

ケールの大 きさ

,構

,そ

して書 き下 ろしの新鮮 さで際立 つ

,

もっとも見事 な ものの中に数 えられ るものであ り甲°また

,彼

の最高傑 作 とも目されたものである°フレスコ画以上 に色鮮やかなそれは

,

しか し

,フ

レスコ画 と本質的に 異なるところのないものである。 さて

,つ

づ く船 の画面 に目を移 してみ よう(図5)。 ここには

,左

側 に網 を手 にして立 ち

,遠

くを 眺める船長 と

,右

手 を軽 く船べ りにあてがい

,左

肘 を船べ りに支 えて類杖 をつ き

,何

事か物思 いに 沈 みなが ら

,す

べ るように進 む船の跡 に見入 っている中央の女性 と

,少

年のかすかな姿が描かれて いる。中央図の力強い運動の後 につづ くのは

,す

べるような

,静

かな水上の浮遊 であ る。ナポ リ風 の縁な し帽子を被 った白髪 の船長 は

,隣

の図の漕手の頭の高 さを受 ける一方で

,頭

部の向 きを変 え ている。 これ によ り

,帽

子 と左肩か ら腕 にかけ

,下

へ と流れ る線が生 まれ るが

,や

がてそれは

,夢

見 ごこちに坐 っているヴェロネーゼ風の女性へ と達す る。 さらに

,

この線 は

,女

性 の右腕 をへて肩 か ら頭部へ と上昇 し

,つ

いには少年の少 し傾 げた頭部 に接続す る。漕手の ものよ りは幾分 ましに見 える船長の衣服 に現われた髪 と

,左

肩 をやや露 に した女性の身 につける衣服 に見 える同様の もの に は

,強

い白のハ イライ トが付 されて

,は

なはだ絵画的である。マイアー・ グレー フェは

,漕

手 に力 を見 るように,こ の女性 に天性 の優美 を認 めたのであっだγ)こ の図に叙情 的なモチーフを見出 し,そ れが絵画構造 とあいまって

,こ

の図を19世紀絵画の

,忘

れ ることので きない頂点の一 つ としている と述べたのは

,デ

ーゲ ンハル トであるが甲 この図の雲 には

,ば

ら色が増 している。 北壁右端の画面 には

,隣

の図の船の静かな滑走 を受 け

,一

羽のか もめが

,鏡

の ような水面すれす れ に飛び

,船

を追 うところが描かれている(図 5)。 ここに もかすかに帆船が認め られ

,北

壁左端の 図の帆船 と岩 はだを見せ る島 とを くり返す一方で (図

4),東

壁への移行部 となっている。

(10)

86 Fヨ 阪 さて

,北

壁 全体 を もう一度 眺 め渡 す と

,際

立 つの は

,や

は り中央 図 であ る。 ここには

,大

胆 な画 面構成 と

,明

快 で力強 く律動 的 な平行描写 が顕著 であ る。 マ レーは1873年 7月 3日の手紙 の中で, 自信 を示 して,「 か な らずや斬新 さが, と りわ け拍子 (Takt)んゞあ る こ とで し ょう。」 と書 いたが甲9 ここにい う斬新 さや拍子 とは

,今

述 べ た もの を指すの であ ろう。 いわ ゆ るパ ラ レルな描 写 な る もの は, もちろんマ レー には じまる ものなの で はない。 ルー ヴルに あ る紀 元前

8世

紀 の雪花 石膏 には

,は

な はだマ レー の図 に似 たモチー フが見 られ る し(図12):7ωル ネ サ ンスの時代 にはパ オ ロ・ ウ ッチ ェロの戦闘図 (ロン ドン

,ナ

シ ョナル ギ ャラ リー

)や

ボ ッテ ィチ ェ ッ リの「神秘の降誕

J(ロ

ン ドン

,ナ

シ ョナル ギ ャラ リー

)が

あ り

,近

くは ダヴ ィッ ドの「 ホラテ イウ ス兄弟 の誓 い」(ルー ヴル

)や

ゴ ヤの「1808年 5月 3日」(プラ ド

),マ

ネの「皇帝 マ クシ ミリア ンの処刑」(マンハ イム市立 美術館 )に も

,パ

ラ レル な描 写 は認 め られ る。しか し

,わ

けて もホ ドラ ー こそ,これ を絵画制作 の中心 に据 えた者 としてあ げ られ

,パ

ラ レ リスムス は通常

,か

れ に帰 され さえする。 とはぃぇ

,同

じ ドイツ語 圏での先例 となるの は

,一

― 直接 の関係 はな い ものの一― マ レ ー その人なのである了1) 画面 の四分の三 を開 け放 ち

,等

身大 の人物群 で面 をつ くり

,力

強 く

,

しか も律動 的 な運動 を画面 に定着 させ る ことによって

,画

家 は

,雄

大 なモニ ュメ ンタ リテ ィー を ここに実現 したの であった。 5 西壁 に 目を転 じてみ よ う(図6)。 同 じ く

,漁

夫 の立 ち働 くところを描 いた もの であ るが

,北

壁 に 比 べ る と

,こ

こには裸体が 多い。漁夫 は くり返 す まで もない として

,船

と網 とが

,こ

こに も登場 す る。画面手前左 には

,網

を手 に した二 人 の男 が一群 をな し

,右

には

,同

じ数 の人物群 が

,船

を水 辺 へ と押 しや って いる。左 のグルー プの す ぐ後 ろには

,ほ

とん ど垂直 に切 り立 った崖 のあ る岩 山が迫 り

,崖

の つ くる垂直線 は,こ の人物群 へ と落 ちかか る。同様 の こ とは右 の グル ー プについて もい え, 後 景 の 幾分 なだ らかな崖 のつ くる

,下

へ と流れ落 ちる線 は

,船

の グルー プヘ と接続 し

,右

端 の人物 に至 って また上昇す る。 直立

,や

や前屈 み

,深

い前屈 み とい う三 つの姿勢 を見せ る左 の グルー プの二 人 の

,三

つの頭 頂 と 網 の つ くる線 は

,扇

形 とい うよ りも矩形 に近 く

,左

か ら右 へ と流れ て

,腰

を深 く折 った男 の腕 か ら 手 へ

,そ

して網の先へ と達 してい る。 この形 は

,す

ぐ後 ろの崖 の空洞 となった形 に一度

,そ

して も う一 度

,他

の グルー プに落 ちかか る後 景の岩 山のつ くる線 とな って くり返 され る。油彩 に よるこの 図の全体 ス ケ ッチ (M.―

G.206,G―

L.12C1/H/1a)で

,こ

の左 の グルー プの

,左

端 の男 が こち らを向 き

,ま

ん中の男 は うつむいて

,第

二 の男 の腰 を折 る度合 いは幾分浅 く

,三

者 の結合 は緩 やか であ る。 仕事 の厳 しさの表現 に もかけ

,左

端 の男 に至 って は

,微

笑 む よ うにす ら見 え る。 この二 人 だけ を描 いた等身大 の油彩 習作 で は (M.―

G207,G.― L.120/H/16),フ

レスコ画 と同 じ姿勢 に変

(11)

ハ ンス・ フ オン・ マ レーの 「 ナホ リの フ レス コ画 」 について (上

)87

え られ て いる。右 の船 の グルー プは

,全

体 スケ ッチで もフ レス コ画 とほ とん ど変 わ りが な いが

,た

だ右端 の髭 を生や した男 は

,腰

の部分 を下 穿 きで覆 ってい る。 い ずれ の男 たち も

,そ

の筋肉の表現 に

,

また関筋の機能 の描 出 に

,努

力 が払 わ れ て いて見事 で あ る。右 の グルー プの二人の男 は

,両

手 を船 に あ てが い

,強

く踏 ん ばって

,全

身の力 を こめ て船 を押 して い るが

,大

き く開 かれた両脚 は

,平

行 に描 かれ て力強 い斜 めの線 を形成 し

,前

傾 姿勢 の上 半 身 と運動 して

,画

面 に運動 を導 き入 れ て い る。 マ イアー・ グ レー フ ェは

,こ

れ らの人物 た ちを

,オ

デ ュセイアーに描 かれ る闘 う古代人 になぞ らえたがγ切二人の漁夫の押 す船 も

,ど

こか海神 ネプ トゥー ヌスを思わせる1731第二 の男 に助 けられ

,

どうや ら水 に浮かんだらしい。 この画面の支配的な色 は黄褐色で

,人

物 ではば ら色が加わ って明 る くな り

,岩

において煙草茶色 に描 かれ る。 白い下穿 きと

,同

じく白い鉢巻 きは

,こ

の画面の輝 きを高め

,

また人物 を区別 するの に役立 っている。 さて

,こ

の図 を構想する際のきっかけとなった可能性のある作品に

,ア

ンセルム・ フォイアーバ ハの メデアの図がある。 これはマイアー・ グレーフェによって指摘 され74,新 しいカタログで も

,そ

の可能性 を残す記述がなされている9引き合 いに出 されているフォイアーバハの ものは

,1866年

作 のテンペ ラによる「 メデア

J(ブ

レスラウ

),そ

して

1年

後 に描かれた異版で

,以

前ベル リー ンの国 立美術館 にあった もの

,そ

れに ミュンヘ ンの新絵画館にあ る油彩の「メデア

J(1370年

)である (図 13,14,15)『°これ らいずれの「メデア」でも

,画

面左手奥 には岩山が配 され

,そ

の手前か ら画面右 半分 にかけて海が描 かれ ている。 そ して画面右手の浜 には

,数

人の男たちが

,帆

をたたんだ船 を海 へ と押 しやっている。 このモチーフはマ レーの もの とよ く似 てお り

,マ

イアー・ グレー フェは

,マ

レーが これ らの絵 を見たのは確かだ し

,制

作中 もこれ らを思い浮かべたであろう

,

と書 いているう これ を受 ける形 で

,ゲ

ル ラハ・ ラクスナーは

,マ

レーがナポ リに着 く前に

,ヴ

ェネチアの フォイア ーバハ宅で見 た可能性 を示唆 している9 筆者 もまた

,こ

の可能性 を認 める者である。 しか し

,そ

れに して も

,モ

チーフが共通 しているだ けに

,マ

レーの もの とフォイアーバハの もの とを比べてみると

,相

違点が著 しいと両図の判型の違 いはい うまで もないとして,先の研究者の共 に指摘するごとく,マレーの画面では人数が減 らされ, より緊密で堅牢な画面構成が生 まれている。先のマ イアー・ グレー フェの言 にもかかわ らず

,フ

ォ イアーバハの ものに比べ ると

,マ

レーの画面 には

,神

話的 な要素 はほとん ど感 じられない。画面右 端の人物 に

,そ

れが予感 され る程度 である。北壁 中央図 と同様 に

,骨

太な漁夫の図 となっている。 北壁が 8月 末 に完成 したのにつづき

,西

壁 は

, 9月

末に終了 した子9 6 海 と漁 夫 の世界 を描 いた これ ら両壁 の図 に比 べ る と

,南

壁 に描 かれた二点の フレス コ画 は

,図

(12)

88

高 形態が異 なるばか りでな く

,扱

う対象 も異なって

,ず

いぶん と静かで穏 やかな絵 となっている (図

8,9)。

南壁 のフレスコ画 は

,左

右のいずれ も

,水

際か ら離れた陸の光景であ り

,右

の図は西壁 と の関連 を保って

,男

たちが耕 し

,収

穫す る とい う

,労

働 の色合 いを留めた作品である。一方

,左

の 図は

,潤

い と憩 いを強 く感 じさせ る絵であ り

,東

壁の世界 に通 じるものである。南壁左右の図 を結 びつけるものは

,画

家が よ く行 った ソレン トを思わせるオ レンジ苑であ り

,そ

の上

,図

の上部 ほぼ 三分の一を占める夕方の空である。さらに

,画

面奥 に

,水

平 に帯 のように描かれ る石塀が加わ るが, その向 うには

,海

のあることが予想 され る。両図 とも

,基

本的 には水平・ 垂直の構図か ら成 り立 つ ものであ り

,そ

の くり返 しは

,幾

重 にも認め られ る。 しか し

,夏

の日の遅 い昼下 りを思わせ るの ど かな光景 とそこに漂 う詩情,力日えて

,自

然の豊潤 さを見せ るオ レンジの樹葉 のつ くる微妙な曲線 と によって

,そ

の厳格 さは

,ほ

とん ど感 じられないまでに

,和

らげられてい る。 右の図か ら見てみ よう(図9)。 人物 は男性 ばか りで画面手前 に二人が配 され

,残

る一人 はやや後 方に描かれている。明 らかに世代 の描 き別 けがなされてお り

,画

面左手前 には二人の子供が見 える。 裸体の一人 は地面 に腹 ばいになってオレンヂの実 と戯れ

,そ

の横 の着衣の子供 は地面に坐 りこみ, 何か考 え事 をしているところが一一 また眠 っているようで もある一―,共に側面観で描かれている。 画面右手では

,

もっ とも目立つように

,裸

体の遅 しい男性がほぼコン トラポス トの婆勢 をとり

,両

手 をあげてオレンジをもいでいる姿が

,背

面か ら描かれ る。 この男性 の右脚元近 くと裸体 の子供の 脚元 に

,二

匹の兎が描 き添 えられている。そしてやや奥 まった ところで

,着

衣の老人が

,シ

ャベル を手 に

,一

人耕 している。人物の膚の色は

,

これ までの フレスコ画のそれ よ りも赤味 を増 し

,自

在 に描かれた空 と雲

,樹

間か ら覗 く背景 は鮮明である。樹葉の緑 は明暗に富み

,土

の部分 は黄褐色が 支配的である。油彩習作 を見れば (M.―

G.211,212,G.―

L.120/Ⅳ/2b,2c),フ レスコ画 と異 なっ て

,子

供が もう一人

,オ

レンジを手 にして描かれてお り

,老

人の姿は

,は

じめはよ り若 い

,中

年の 男性 として考 えられていたことが半」る。 さて

,こ

の絵 に見 られるオレンジをもぐ男の図 は

,す

でにスペ イン旅行後の1869年か ら70年にか けて制作 された「オ レンジをもぐ騎手 と裸体 の女性」 (M.―

G149,G.― L.94)(ハ

,モ

リッツブ ルク国立美術館

)に

認 め られ

,他

,大

作の「ヘ リペ リデス

J(第

二版

1884-87.M―

G.418-421,

G.―

L143)(ミ

ュンヘ ン

,新

絵画館)に もつなが るモチーフである。 しか し

,グ

ローテのい うよう に

,こ

こナポ リでは

,ソ

レン トのオレンジはまだ「ヘスペ リデス」の りんごではないし

,実

を もぐ 者の裸体性 も

,一

面で は

,ま

だイタ リアの南の地 における人間の自然な状態 を留めている♂°とはい え,この図はどこかの一角を映 した ものではな く

,一

般的 にいえば,「夕暮れの理想的な風景の中に 描かれた裸体

,

という古典的なエ レギー」りの範疇に属すものである。 さて

,モ

チ ー フか らすれ ば

,多

くの研究者 の指摘 す る ごと く甲 この画面 が「人生の諸段 階」 (Lebensalter)に あたることは事実である。周知のように

,

この主題 は

,中

世 に も見かけられ るも のの

,ル

ネサ ンス以降

,と

りわ けバ ロックのネーデルラン ト絵画や版画において

,し

ばしば描 かれ

(13)

′ヽン ス・ フ ォン・ マ レーの 「 ナポ リの フレ ス コ画 」 に つ いて (上

)89

た寓意的表現である。 その含む ところの意味 は

,無

常 (Vanitas)に 似て

,地

上の もの は移 ろいやす く

,若

さも美 も衰 びゆ く運命にあ り

,や

が てすべての ものには死が訪れ る

,

とい うものである

P

従来

,こ

の図が

,上

述の主題 に属する ものであることを指摘 しなが ら

,そ

の意味解釈 にまで立 ち 入 ることを避 けていた観のあったこれ までの研究者 に比べ

,ゲ

ルラハ・ ラクスナーは筆 を進 めて, 二 匹の兎に注目した。 そ して これ を

,こ

の主題 に合致するように

,時

の はかなさの象徴だ とみな し て

,図

像解釈 を深めたのであったす° 筆者は

,同

研究者が兎 に着 目 したことに敬意 を払 う者である。なぜな ら

,こ

の ことによって

,本

図の意味解釈への突破 口が生 まれたか らである。 しか し

,こ

の兎 とい うの には

,時

のはかなさとい う意味 もさることなが ら,多産性 や平穏,牧歌性 といった意味のあることも忘れ られてはならないず9 ゲルラハ・ ラクスナーの見解 に立てば

,こ

の図は文字通 り

,は

かなさを合意 することになるだろ う。 しか し

,こ

れは後 に述 べるところであるが

,画

家は

,少

くともこの時期 においては

,人

生の無 常 を感 じる どころではな く

,至

福 の状態にあ り

,ま

,自

己をとりまく世界 に対 して も

,肯

定的に 眺めていたのである。 この観点か らすれば

,こ

の図 における兎の意味 は

,豊

,多

,平

穏 といつ た ものを指す と考える方が納得が行 く。 しか し

,そ

うなれば

,ま

た別 の疑間が湧 く。 では

,な

ぜ こ こに,「人生の諸段階」とただちに判 るような描 き方 を

,画

家 はしたのか

,

というものである。 これ までの多 くの研究者間にあった暗黙の了解の ように

,も

ともとこの図 は

,形

は「人生の諸段階」の ようである として も

,大

した意味のないものだ

,

と考 える他はないのだろうか。図像解釈の余地 は 残 されていないであろうか。さて

,筆

者 は

,こ

の図が男性 ばか りであ ることに注 目 したい。しか も, 耕作する という

,労

働 を直 ちに意味する作業に老人 を当て

,

これを奥 に描 き

,収

穫 という比較的楽 な仕事に体躯豊 かな青年 を当てて

,こ

れを画面手前に

,も

っとも目立 つような形で描 いていること に

,注

意 したい。管見によれば

,こ

の図は南壁 のもう一つの図 と密接 に関連 するものであ り,° また 東壁の「ペ ルゴラ」の図 とも南壁全体 として関連す るものであって

,先

で論 じるべ き筋合の もので あるが

,こ

こで予め語 るべ きことは

,南

壁 は男性 と女性

,労

働 と憩 いの対比的構成 をとりつつ

,愛

によって両図は結 びつ き

,そ

の愛 と牧歌性 を奏でるものであること

,そ

して

,力

点 は至福 さにあ り, 「人生の諸段階」に見 られ るはかなさは

,た

とえこれを認 めるにした ところで

,か

すかに暗示 され るにとどまる, ということである。 しかし, これについては後 に詳 しく述べ よう。 ガラス戸 をはさんで隣の図を見れば

,画

面右手前 に二人の女性が描かれ,少 し離れては樹の後 ろ, 石段の手前に男の子が眠 る図 となっている (図8)。 水平・ 垂直の構図が基本 となっていることは, くり返す まで もない。ただ

,

この図では

,女

性 たちが腰 かける石のベ ンチ と

,二

段 ばか り高 くなっ た地面のつ くる水平線が著 しい ことを指摘するに止めるが

,

これ も

,女

性 の衣服の髪のつ くる大 き く流れ る

S字

状の曲線 のため

,す

っか り和 らげ られている。女′性の顔 はい くぶん青 白 く

,所

によっ てバラ色が さす もの となっている。赤味がかった膚 をもち

,眠

って しまった男の子 は

,大

地 に寝 そ

(14)

90 Fヨ べ る男の子 とい う点で右 の図の子供 と同様で

,両

図 を媒介する役 目を担 っている。髪 は黒 っぽ く, 両手 は前に合わせて こち らを見つめる

,左

側の女性 の衣服 は

,灰

緑色が基本 である。上半身 はやや 影になって暗 く

,下

るに したが って明るさを帯 び

,白

,そ

れ もやや黄味がかった白となって輝 く。 この女性の方を向き

,眼

をみつめなが ら相手の腕 と膝 とに軽 く手 を置いて

,何

か話 しかけてい る風 にみ える隣の女性の髪 は

,赤

味の さした金色で

,衣

服 は弱め られた専赤であ る。衣髪 は

,左

の女性 のそれ よりも深 く大 きく,ま るで藝で彫 られたようである。胸 まで垂れた肩掛 けは

,明

るい黄色で, 北壁中央図後列の漁夫の被 る帽子の色 を思わせる。樹々の間か ら洩れ る空の青 さは

,隣

の図の それ にもまして鮮やかに目を射 る。憩 い語 らう二人の若 い女性

,眠

って しまった男の子―― と

,こ

の図 は南国の昼下 りの

,の

どかな静 けさにみちている。 「ペル ゴラ」の図 とともに, この二人の女性 の図は

,グ

ローテや ランクハ イ ト, フォン・ アイネ ム等のいうように

,

ドイツ 。ロマ ン派において盛んに描かれた友情画

,な

い し友情 肖像画の部類 に 属す ものである。た とえそれが

,一

― フォン・ アイネムの指摘するように一一 古典的な単純 さを見 せるものであるとして も伊° この文脈 の中で

,

とりわ け

G.シ

フは

,オ

ーヴ ァーベ クの「イタリア とゲルマニア」に注意 を促 して

,マ

レーが これ を,`最初のイタ リア滞在の折

,ロ

ーマで見 た可能性 を示唆 した(図16)伊かオーヴ アーベ クの「イタリア とゲルマニア」 は

,制

作者 とフランツ・ プフォール との本目互 の友情 を記念す る一方で

,つ

ねづね南方の芸術や 自然

,お

よび詩情 に寄せ る北方の憧憬 に根 ざ して

,こ

の二 つの異 質な ものの融和を

,ま

た融合を

,視

覚化 しようと試みたものであったよ° 一見すれば

,マ

レーの図 との共通性 は

,二

人の若 い女性が

,親

しげに肩 を並べて坐 っている点 ぐ らいである。た しかにマ レーの場合で も

,右

側の女性の手は相手の衣服の上 に置かれてはいるが, か といって

,ォ

ー ヴァーベ クの もののように

,手

を握 りあっているわ けではない。のみな らず

,左

の女性の身ぶ りと視線 は

,シ

フのいうように

,少

々疑 いを含むように とられかねない ものである9 周囲の情景 もまった く違 うし

,造

形の処理 も全然異なる。 しか し

,

とりわ け相 違するのは

,両

図の もつ雰囲気であって

,寓

意的表現の明 らかな「イタ リア とゲルマニア」 に比べ

,マ

レーの ものは自 然な日常的光景を描 いた ものの ように映 り

,風

俗画の境界 に近づ きさえす る。すなわち,「いかなる 寓意的内容の

,い

や実際

,伝

統的な意味での主題の欠如 こそザ。この絵の特色 と見 られかねない。 ところで

,こ

の左 の女性 の容貌 は

,す

でに触れたマ レーの弟子に して

,画

家の愛の対象であった ヴィーンの一女性

,メ

ラニー・ タウバーに似ていることが

,早

くか ら指摘 されていた写つこれ を裏書 きす るように

,画

家はこの女性 にあてて

,つ

ぎの ように書いている。 「いずれお分 りになることですが

,今

日私 は

,も

うオレンジ苑の中に

,一

人の等身 大のGio nettaを描 きこみ ました。あなたの愛すべ き姿をこれに代 えることがで きれ

,私

にはそれが一番 よかったのですが。雪か

(15)

ハ ンス・ フ オン・ マ レーの「ナポ リの フレスコ画」 について (上

)91

と。つ ま り

,画

家 は,メ ラエ ー・タ ウバ ー その人 をGio nettaと して描 きたか ったのだが

,そ

う もい か ず

,結

,彼

女 の面 影 を留 め る程度 に描 かれ たの だ

,

とい うこ とにな る。 マ イアー・ グ レー フェ に よれ ば

,こ

こに語 られ てい るの はフ レスコ画 で はな く

,失

わ れ て しまった下絵 (M.―

G.215)の

ことだ とされ る♂働けれ ども

,メ

ラニー・ タウバー との類似 は

,フ

レスコ画において もいえるのであ るから

,引

用 に問題 はない。 さて

,

もう一度マ レーの画面 に帰れば

,左

の女性 は画家の愛の対象であ り

,か

つイ タ リアの女性 として考 えられ

,描

かれたものであることが

,推

測 され ることになる。 この点 を考慮 に入れて

,

こ こに改 めてオーヴァーベ クの ものを眺めてみ ると

,右

のゲルマニアに擬せ られた女性 の金髪 は

,マ

レーの図の右の女性 に も認め られる。 さらに

,双

方の二人が腰 をかける石造のベ ンチは

,ほ

ぼ同 じ 形

,人

物 に対する同 じ比率で もって描 かれ

,そ

の右の方は

,

ともに女性の衣服 に隠れて見 えな くな っている。加 えて

,オ

ーヴアーベ クの左の女性 の襟元の金の縁 は

,マ

レーの図では

,右

の女性 の, 特徴的な形 をもった黄色の肩掛 けとなって現 われている。 また

,

この肩掛 けは

,オ

ーヴ ァーベ クの 図の右の女性の

,胸

元 までかかる

,編

んだ長 い金髪の変形 と思 えな くもない。追加すれ ば

,マ

レー の図の左側 の女性

,す

なわちメラニー・ タウバーの面影 を残す女′性の黒 っぽ く見 える髪 も

,よ

り正 確 にいえば

,黒

ずんだ黄褐色の茶色

,つ

ま り焦 げ茶色であって

,こ

れは

,オ

ーヴァーベ クの左側 の 女性

,す

なわ ちイタ リアに擬せ られた女性のそれ と

,基

本的には一致する。 それに何 よ りも

,マ

レ ーは, これ まで女性の衣服 を, こんなに も明 るい色で

,ま

た こんなに も豊かに描いた ことはなかっ た。 この点か らして も

,他

か らの角虫発 を考 える余地 はあると思われ る。 シフはほ とん ど上ヒ較 らしい 比較 をせず

,議

論 を進 めて先の ような結論 に達 したが

,少

し違 った推論 を立てることも可能なので はなかろうか。 一見 なんの変哲 もない南国の一光景 に思えるこの図は

,ま

ず第一に

,友

情画の系列 に属す もので ある。 さらに考 えられ るべ きは

,オ

ーヴァーベ ク同様 の

,画

家のイタ リアの地 に対す る憧憬の念で ある。 これは

,一

般的には

,南

方に対する北方の憧憬 とい える ものであろうが

,も

とよ りこれ も, 個人的な願望 に根 ざす ものであった。実際

,画

家 は

,あ

る手紙 の中で

,は

つきりと述べたのであっ た。夏の夜の暑 さをのがれて

,小

船 に乗つてソレン トヘ行 くのだ

,

と。そしてそこの情景 を述べた 後, 「 ソレン トは,その庭 とともに,も うこれだけで,ひとつの河ヽさな楽園です(ein kleines Paradies)。 暇があれば

,毎

週で も行 くのですが。」° と語 ったのであつた。陳腐な言葉 として真面 目に受 けとられないか も知れないが

,

これ まで

,マ

レ ーの辿 って きた道 を思 えば

,文

字通 りに受 け とるべ きだ と思われ る。 さらに

,こ

の図 に加わ る第二 の要素は

,

この手紙の受 け取 り人であるヴィー ンの女性 との

,純

粋 に個人的 な愛の要素で ある。以

(16)

92 語罰 上の三 要素が

,本

図 の二 人 の女性 の形 に凝縮 してい るので あ る。 東壁 の「ペ ル ゴ ラ」 の図 (図

7)に

顕著 な

,男

性 の友 情 と釣 り合 い を とるかの ように描 かれ た こ の女性 の友情 の図 は

,一

面 で は「南 方 に対 す る北 方 の愛gOを 語 る もの で あ り

,左

の女性 が イタ リア を

,右

の女性 がゲルマニ ア (実際 には ドイ ツ

)を

,そ

れ とな く意味 させ られてい るのであ ろう。 し か し

,そ

れ に して は, この イタ リアは

,オ

ー ヴアーベ クの もの とは異 な り

,相

手 の方 に顔 を向 けず に

,こ

ち らの方 を見 つめてい る。 それ はなぜ で あ ろ うか。 ここで

,同

じ壁 の もう一 方の図 につ いて 記述 した時

,終

わ りの方 で述 べた こ とと

,絡

まって くるので あ る。 南壁 の一 方の 図 に

,純

粋 に個人 的 な要素 が あ る とすれ ば

,

もう一 方の 図 にそれ を認 めて も一 ― も しそ うい うこ とが可能 な らば――

,不

自然 で は ないの で はな いか。一見明 らかに「人生 の諸段 階」 を意味 す る とみ られ る

,

この一般的 で

,

しか も日常 的 な場面 に

,そ

うした もの を暗示 す る もの はあ るの だ ろ うか(図 9)。 筆者 には

,そ

れ はあ る と思われ る。端 的 に指摘 すれば

,画

面右 手 前 で果 実 を もいでい る男性 が

,そ

れ で あ る。先 に触れ た よ うに

,こ

の図 で は

,耕

作 す る とい う骨 の折 れ る仕事 は老人 に割 り当 て られ

,実

を も ぐとい う比較 的易 しい仕事 が青年 に割 りふ られて

,こ

の青年 は退 し い背面 を見 せ なが ら

,

もっ と も目立 つ ように画面手前 に置 かれ てい る。 もちろん

,こ

の配置 に対す る説明 は

,た

しかに造形上 か ら も可能 で あ る。 た とえば

,こ

の等身大 の男性 は

,画

面手前 に置かれ る ことによって画面 にモニ ュメ ンタルな効 果 を もた らし

,ま

,豊

か な体格 を見せ る裸体 を背面 か ら描 かれ る ことに よって

,そ

の効果 を強 め

,理

想性 を高 め るの に役立 つ

,

とい ったよ うに。 こうした説明 は

,

もっ ともで あ る。 しか し

,

この説明 では

,兎

は十分 に説 明 で きないで あ ろ う。せ いぜ いの ところ

,の

どか な理想郷 を暗示 す るのであ る といった

,一

般 的 な説 明の域 を出 ないであ ろ う。 そ うして

,南

壁全体 としての結 びつ きも

,こ

う した一般的 な規定 で終 わ って しまうことであ ろ う。 筆 者 はむ ろん

,こ

う した規定 が誤 っている とい うので はない。画家 は実際

,南

壁 の図 の元 に な っ た ソレ ン トを理想郷 だ と考 えていたの は

,先

にみた通 りであ る。 ただ私 には

,南

壁 の図 に は

,

こう した一般 的理解 で済 ます こ とので きない合意 が秘 め られ てい るので はないか

,

と思 えるの であ る。 その根拠 は

,第

一 には南壁 右 の図 にお ける

,仕

事 内容 に比 した世代 の割 りぶ りにみ られ る幾分 の不 自然 さで あ り

,第

二 には

,も

う一 方の二 人 の女性 の図 にみ られ る個人 的 な要 素 を考 えた場 合 の

,同

壁 の二 つの図の関連性 であ る。 ヴ ェル ナー・ ホー フマ ンは

,南

壁 の二 図が

,そ

れ ぞれ男性 的原理 に

,

また女性 的原理 に支配 され てい る ことに着 目 して

,つ

ぎの ように述 べた。 「 Ⅲ…女性的 な ものへの敬意 〔

Huldigung:求

愛 と も読 め る。筆者〕に答 えてい るのが, 連続性 を手 に入 れ るには変化 と無常の代価 を支払 わねばな らない ことを弁 えている, 男性 的な認識 であ る。 周到 に区別 しつつ

,マ

レー は

,二

人 の女性 を一一 これ は クー

(17)

ハ ンス・ フォン・ マ レーの「ナポ リの フレスコ画」 について (上

)93

ルベの「 セーヌ河畔 の娘 た ち」 を思わせ る一―

,成

熟 した生 の中心 のた め に置 き, 男性 には よ り早 い

,あ

るいは よ り遅 い生 の段 階 をあてが って い る。女性 が果 実 を懐 胎 し

,男

性 が それ を 自分 の もの とす るのだ。彗° と。二人 の女性 が クールベ の

,引

用 に挙 げ られ た作 を思わせ る とす る こ とに は

,筆

者 は意見 を異 に す る。 しか し

,ホ

ー フマ ンが

,こ

の両 図 に男女 の関連 をみたの は

,は

な はだ興 味深 い。 また

,LD.

エ トリンガー は

,こ

の図 につい てで はないに しろ,「 マ レー芸術 の告 白的 な性格 Jを 指摘 したのであ った∫η さて

,両

図において 目立 つ ものは

,右

の図では再三述べているこの裸体の男性

,左

の図では二人 の女性の中の左側の女性であることは

,歴

然 としている。右の図は

,一

応「人生の諸段階

Jと

いう 寓意的表現 をなぞ りつつ も

,左

の図のように個人的な契機 を秘めてい ること

,そ

してその ことは, この男性像に指摘できるのではないか,と 私 は先 に述べた。 この ことについて

,説

明すべ き時が き た ようである。 問題 となるのは

,

この男性 が背面か ら描かれていることと

,実

を もいでいるということ,さ らに 兎の存在

,そ

して もう一方の図の女性が こちらを見ていること

,で

あ る。 この男性がその立派な体 格 か らして

,人

生の充実期 を

,絶

頂期 を意味 しているの は明 らかであ り

,

しか も

,手

前に大 きく描 かれることによって

,今

がその時 であることを強調 している。 さて

,世

代 か らいって も, また

,両

図において もっ とも日立つ ことか らして も

,同

じ南壁 に描かれた この男性像 と

,他

方の女性が

,何

らかの形で関連するのではないか と見 るのは

,不

自然ではない。 では

,何

の関係が あるというのだ ろう。それ は

,兎

が暗示する。 兎は

,デ

ューラーや クラーナハ

,テ

ィツ ィアーノなどの作品 に

,

しばしば登場 して くる。 たとえ ば

,精

密 に描かれ た

,あ

の有名 な水彩画の「兎

J(W248)は

別 にして も

,デ

ューラーは木版画「三 匹の兎のいる聖家族」

(B102)や ,1509年

の素描 「教会堂の中の聖家族」

(W466)に ,ま

た銅版画 「アダム とイヴ

J(Bl)の

中にも

,兎

を結 き添えている。クラーナハの兎 を描いた ものには

,素

描 「楽園の中のアダム とイヴ」(ド レースデン

,焼

失)があった。しか し,こ こでわ けて も重要なのは, ティツィアーノの ものである。 なぜなら

,マ

レーは

,第

一次 イタ リア滞在の折

,シ

ャック男爵か ら の依頼 を受 けて

,四

点 ほどルネサ ンスの作の模写 を行なったが一― とはいえ

,ど

の作品 を模写せ よ という依頼主か らの指定 はなかった一―

,テ

ィツィアーノの もの も

,こ

の中に入 っていたか らであ る伊 つまり

,こ

の ことは

,テ

ィツィアーノに対するマ レーの特別の関心 を指す ものに他ならない。 事実「ペルゴラ」の図において は

,テ

ィツ ィアーノか らの影響 が指摘 され ているのである(後述)。 さて

,そ

のティツィアーノは

,い

わゆる「聖愛 と俗愛」(ローマ

,ボ

ル ゲーゼ

)の

図の中

,左

の着衣 の女性の横の野原 に

,二

匹の兎 を小 さ く描 きこみ,またいわゆる「兎 の聖母」(ルーヴル)はむろん の こと,さ らには,彼の もの とするには多少疑間が残 るとされ る「エジプ ト逃避途上の憩 う聖家族」

図 7  東壁   ペルゴ ラ
図 9  南壁 右側   オ レンジを もぐ男

参照

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