香 川 大 学 経 済 論 叢 第70巻 第 2号 1997年9月 89-127
流通系列化の動揺と製販同盟の進展
一一イ言頼概念の問題性とパワー・バランスの追求傾向へのチャネル論的考察一一崖
相 銭
し は じ め に 一般的に「摩擦的」だと認識されてきた消費財分野における寡占メーカーと 大手i小売業者の関係が,最近になって「友好的」になりつつある。端的に,従 来までの日本的流通システムの特徴としての,寡占メーカー主導による流通系 列網を維持するために,各々の分野の寡占メーカーは,パイイング・パワーを 増してきた大手小売業者を公の販売チャネルとして認めることを購蕗し,時に は撹乱要因としてまで認識したが,不況の持続に伴う市場環境の変化のため,間 もなく同居すべきパートナーとして認めざるを得ない時代になっているので ある。 このような大手小売業者の急激なプレゼンスは,寡占メーカーにとって,主 に中小小売業者で構成される従来の流通系列網と当該の大手小売業者との新た なチャネルを共に抱えざるを得なくする,いわば「複合チャネル」の問題に直 面する(高嶋,1
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ことを意味する。さらに,1
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年代に入ってからいわゆ る流通価格革命の進展によって,非常にコストのかかるかっ前近代的な商慣行 を保っていた「従来の流通系列網」よりも,情報流や物流合理化への共同投資 を通じてチャネノレ管理の効率化・合理化を図ることができる「新たなチャネノレ」 へ,最近の寡占メーカーのチャネル政策の重点が移りつつある。 日本の流通・マーケテイング現場においても,この新たなチャネノレ関係の台 頭,すなわち寡占メーカーと大手小売業者の取引関係が深化することと高い相 (1) その象徴的な出来事として.1996年 3月の松下電器とダイエーの取引全面拡大が挙げ られるだろう。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
9(ト 香川大学経済論叢 244 関関係を持つものとして,従来とは異なる現象が現れている。すなわち,まず, 生産・流通・在庫様式においての投機型から延期型(同期型)への市場戦略の 変化(高嶋, 1994;嶋口・石井, 1996),次に,建値を守るために温存してきた 返品制やインセンティブの縮小ないし廃止が象徴するような商慣行の変化,さ らに,これまで商人としての世会性が認められた卸売業者の圧縮あるいは排除 等々の現象である(加藤, 1995)。 本稿では,基本的にそのような新たなチャネル関係の台頭と日本の市場にお ける状況の変化がもたらした,寡占メーカーと大手流通業者の聞での組織間関 係の協力的対応のー形態として r製販同盟」現象を分析課題として取り上げよ 」 うとする。日本における製販同盟の歴史は未だ短いが,マーケティング・アカ デミズム,とりわけチャネル組織の変容を究明すべきチャネノレ研究者達の製販 同盟への関心は,極めて高い。それは,製販同盟という実践的動向が,停滞気 味を呈していたチャネル研究に改めて魅力的な研究課題を投げ込んでいると考 えたからであろう。実際,日本における製販同盟に関する研究は着実に蓄積さ れている。流通論的あるいはチャネノレ論的立場で製販同盟の理論化が進んでお り,製販同盟の成功のための要因が分析され,さらには成功した製販同盟のケー スからその具体的なイノベーション・プロセスやオペレーションが記述されつ つある。正に「チャネJレ研究のルネサンスJ(尾崎, 1996)を呼び戻したと言わ れる程,チャネル研究における製販同盟現象の意義は大きいと言えるだろう。 しかし,そのような製販同盟現象の隆盛とそれに伴う製販同盟研究の活発化 をもって,すぐさまに従来の寡占メーカーと中小流通業者の間のチャネル関係 としての流通系列化の役割の消尽として認識してしまうことはいささか早計だ と考える。戦後の日本経済の優れたパフォーマンスの第一の原動力(石井,1984) とまで言われてきた,メーカーと中小流通業者の間の強固な長期継続的な協調 関係,すなわち「流通系列化」が,いかなる経緯で機能不全に陥ってしまった かが,ひとまず説明されなければならないと考える。すなわち,流通系列化が どのような問題点を抱えていたかを分析してから,その代わりに登場した新た な垂直的協調関係の形態の一つである製販同盟を考察するのが望ましいと思
245 流通系列化の動揺と製販同盟の進展 -91ー う。言い換えれば,なぜ流通系列化が動揺しているのか,なぜ製販同盟が流行っ ているのかを,単に現象的に一方が逆機能を呈しており,他方が順機能を表し ているからという結果論的な理解に留まるのではなく,流通系列化から製販同 盟への動向に潜めているモメントは一体何だろうかが問われるべきなのだ。そ れによって流通系列化と製販同盟が認識論的に同等な立場で議論され,結果的 に各々の長短所が見えてくるだろう。 以下では,まず,流通系列化の限界を信頼の思わぬ悪循環のループの存在か ら見極め,さらに信頼を人格的信頼とシステム信頼に分けて分析することが有 意義であることを確認する。次に,伝統的なチャネノレ研究の流れの中で,欠か せない概念であるチャネノレ協調とコンフリクトの相関関係に注目して,それに 影響を与えるパワー関係をパワー・バランスとパワー・インバランスに分けて 分析する必要があることを指摘する。そのような作業を行った後に,信頼とパ ワーというチャネノレ研究における核心概念を同時に理解する仕組みを提示する ことによって,流通系列化と製販同盟現象について,同様に批判的な考察が可 官Ziになるだろう。 II.日本における流通系列化の衰退と信頼の悪循環 1 流通系列化の動揺と新たなチャネル関係の登場 戦後から高度成長期を経て昨今の流通価格革命期に至るまで,日本企業の競 争力の源泉のーっとして取り上げられた消費財メーカーの流通系列化政策が, 縮小・撤廃の動きを示している。リベート制・返品制・インセンティブ制など に支えられながら長期継続的協調関係を保っていた,この「流通系列化政策」 は,しかし,価格を第一義的に考慮する昨今の流通不況の時代では,もはやポ ジティブな評価の対象ではない。透明な商取引を通してコストを切り下げるた めには,価格一本で還元されそうな経済合理性に基づいた臨機応変的取り組み 関係を重視する,いわば「流通革命シンドロム」が脚光を浴びていたからであ る。この実践的な「流通系列化政策」と「流通革命シンドロム」と相互に強化 作用を行う理論パラダイムとして,われわれは,各々,チャネJレ研究における
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-92- 香川大学経済論叢 246 信頼志向的パースペクティブ(以下「信頼ノfラダイム」と略する)とパワー還 元的ノTースペクティブ(以下「パワー・パラダイム」と略する)を取り上げ, 議論を展開した(崖, 1995c)。 さて,価格破壊の嵐が静まることによって,製販同盟という実践現象が脚光 を浴びている。製販同盟現象は,後述するように旧習の排除を主張する単なる 流通系列化政策のアンチテーゼでもなければ,価格を第一義的に重視する単な る流通革命の亜流でもない,特殊な垂直的協調関係のための取り組みである。 だから製販同盟現象は,ただ単に,パワー・パラダイムかそれとも信頼ノfラダ イムのいずれかで説明し切れないものであると,われわれは考える。 さらに数々の流通革命の時代を凌ぎ,生き残っている伝統的商人は,流通革 命論(すなわち,パワー・パラダイム)では,単に排除の対象となりがちだ、っ たが r取号│から取り組みへ」という新たなチャネノレ関係の時代ではどのように 認識されるか。なによりも,長らくメーカーと系列庖の聞の関係を定式化しよ うと試みてきた流通系列政策論が,単にロスト・パラダイムになってしまうの だろうか。このような疑問を解くためにも,パワー・パラダイムと信頼パラダ イムの聞の相互関係を探ることが求められる(崖, 1995c)。 そのために,本節でひとまず取り組まなければならないのは rイ言頼パラダイ ム」の信頼性についてである。信頼パラダイムについて,われわれは日本企業 の流通系列化を説明するにおいて適している(握, 1994;握, 1995 b)と考え, ある程度の認識的優位を与えたが,しかし,信頼パラダイムが必ずしも唯一最 善の代案ではない。そのため,次項では,まず, r
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言頼の問題性」を取り上げる ことから議論を進めていきたい。 2, 信頼の問題性 初期のパルネラビリティを越え,間もなく相互信頼に発展していけば,信頼 することはかけがえのない協調関係が得られ(
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,1962 ;G
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, 1988),そしてそのような信頼による協調関係は「囚人のジレンマ」状況を克服 させるたぶん唯一の選択肢である (Kondo,1990)と言われるほど,信頼の順機-93ー 流通系列化の動揺と製販同盟の進展 247 能が強調されてきた。だからこそ,信頼によって発端される長期継続的協調関 日本の流通系列化を説明するに適している(握, 1994;崖, 1995 b)と言 日本の流通・マーケティング現場にお われてきた。 しかし,流通価格革命期を経ながら, ける信頼による協調関係について疑問の声が高くなってきた。諸外国からは, 一昔前から,流通系列化,リーベト,建値制,返品制などの商慣行は, 係が, 日本の 流通・マーケティング現場でのアンフェアかっ非合理的なものであり,参入障 壁として批判されてきたが,それに対する反論として,それら商慣行が良き「信 も しカ〉し, 頼」関係の証に他ならないと強調されたことは周知の通りである。 日本国内からも
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そのような商慣 (アカデミズムからも独禁政策からも) そうなったのかを信頼のもつ思わぬ落とし穴,すな はや, 行は支持されない。なぜ, わち「信頼の問題性」 という側面から見てみよう。 信頼のバルネラビリティ 創社以来の持続的取引関係とか,苦境期を共に助け合いながら乗り越えてき た血盟的関係だと言われるがゆえに,今や明らかに慣性的な取引関係に慣れて しまった取引先と関係の解除にまでは走れないという聴きの声は,日本の流 通・マーケテイング現場でよく聞こえてくる。切りたくても切れない歪んだ義 ) 1 ( 理人情関係のために,新たな取引先とのビシネス・チャンスを失ってしまう場 このような決して望ましくない取引関係まで 合も決して少なくはない。実は, もが,信頼という名分で,根強く持続されている。 信頼というコンセプトは,信頼そのものの性格上 i信頼イコール慣れ親しみ」 という形になりかねないことは経験的事実である。さらに「慣れ親しみ」から 今まさに日本の流通系列化における 間もなく iもたれあいJ,i談合」という, 取引関係の問題点として取り上げられる樫桔に陥る恐れがある。信頼の思わぬ その側面をより具体的に この言明は, 信頼はチャンスであると同時に拘束である (Luhmann,1979)。 パルネラビリティの存在が明らかになる訳であるが, 見てみよう。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-94ー 香川大学経済論叢 248 既述したように,信頼することが,信頼のポジティブ・サム・ゲームの場面で は,かけがえのない長期継続的協調関係をもたらすが,その一方で,常にパル ネラビリティを抱えていることを意味する。 このパルネラビリティには実に
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つの側面があることをひとまず強調した い。信頼の定義として,われわれは r信頼する当事者がいつもパルネラビリティ (vulnerability)を抱えながらも相手へ依存しようとする行動的意図(behavior -al intention)Jを取り上げた(崖, 1994;雀, 1995 a)。その定義から誘導され た「信頼関係の形成プロセス」では,一方の自発的な信頼行為によって肯定的 な結果より否定的な結果が大きくなる危険性をもつこと,すなわち機会主義行 動によってその信頼行為の当事者が損を被る恐れがあることが述べられた。そ れが信頼の第1
のパルネラビリティに他ならない。しかし,その信頼の危うさ は,間もなく他方の受容とコミットメント行為によって相互信頼の段階に入る がゆえに,パノレネラピリティは克服され,結果的に信頼と協調のポジティブ・ サム・ゲーム的好循環が到来するとされた。 しかし,相互信頼による慣性的関係の持続から,第2
の信頼のパルネラビリ ティの場面が到来する恐れがあることが,改めて指摘されなければならない。 パルネラビリティのもう一つの側面は,信頼が思わず「慣れ親しみ(familiar -itY)Jに転じたことによる機会損失の発生に他ならない。慣れ親しみは,実に相 互信頼関係の確立によって第1のパノレネラビリティが無くなったところで訪れ る恐れのあるもう一つのパルネラビリティだと言える。端的に従来の流通系列 化に内在する信頼に基づいた協調関係が,慣れ合い的な商慣行に守られ,新た なチャネル関係の下で登場した魅力的な大手小売業者との取引に積極的に踏み 切れない事態,これが信頼の第2
のパルネラビリティの場面に他ならない。 (2 ) 例えば,取引費用パラダイムで論じられたような機会主義(あるいは「囚人のディレン マ」状況における裏切り)による関係特定的資産のサンクコスト化が,第1のパJレネラビ リティの場面として考えられるだろう。249 流通系列化の動揺と製販問援の進展 -95ー
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信頼と慣れ親しみ ただし,信頼と慣れ親しみの区別は容易ではない。極めて予断的ではあるが, 敢えてその概念的差異を述べてみよう。 第 1,信頼が将来志向的であるのに,一方で慣れ親しみは過去志向的である。 すなわち,-慣れ親しみのある世界においては,現在や将来にもまして,過去が 優位を占めるJ(Luhmann, 1973,訳, 32頁)に対して, ,-f
言頼は将来へと向け られているJ (同,訳, 33頁)。日本の流通・マーケティング現場の住人達は, 高度成長期には流通系列化の傘のもとで信頼のネットワークを築いた。が,昨 今の流通革命期においては,自らを改める努力をせず過去からの長い付き合い を強調するやる気のない系列構成員は,もはや信頼する対象ではなく,慣れ親 し み に 自 足 す る 清 算 す べ き 対 象 で あ り , か つ 軽 蔑 す べ き 最 後 の 人 間 像(Fu -kuyama, 1992)だという認識さえも出ていた(崖, 1995c)。 第2,信頼は,リスクがあるものの,可能性に満ちているが,慣れ親しみは, リスクこそ間もなく無くなるが,その反面可能性も無くなる。かりに,昨今の ような不況期において,取引先が,もはや信頼する対象ではなく慣れ親しみの レッテノレが明らかに付けられる場合には,取引縮小や解消の処分を下すことが 考えられるだろう。この場合,リスクは無くなるが,取引維持や拡大の可能性 も無くなる。 第3,その意味では,信頼は拡大志向的であるが,慣れ親しみは縮小志向的 である。慣れ親しみは間もなく慎むべき「慣れ合い(collusion)Jに転じかねない。 だから,信頼が協調との好循環を通じてポジティブ・サム・ゲームを繰り返す のに対して,慣れ親しみの構造は,後述するように切り捨てが一つの戦術的目 標になるがゆえに基本的にネガティブ・サム・ゲームに陥るしかないのである。(
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信頼の悪循環のループとその対応策 以上の議論をベースとして,<図1>のような「信頼→慣れ親しみ→慣れ合 い」への悪循環のループがあることが類推できる。 さて,信頼が慣れ親しみに化して,間もなく慣れ合いに陥ったところでは,OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-96- 香川大学経済論叢 250 もはや信頼の順機能は期待できない。先述した「もたれあい」や「談合」 とい う昨今の日本の流通系列化につきまとう問題点は,信頼の'慣れ合いへの転落の 際,明らかになる。では, このような信頼の悪循環のループを断ち切る方法は 何だろうか。われわれは,現実的に信頼パラダイムの問題点が顕著になった時 〈図1>信頼の悪循環 には,パワー・パラダイムに頼るしかないと思っている (握, 1995c)。その点 を考慮しながら仮説的にいくつかの議論を行ってみよう。 まず,信頼から慣れ親しみへの段階については,専門性や正統性に基づいた 非強制的パワー・ベース (われわれの用語で言えば,信頼に基づくパワー, す なわち,後述するシステム・パワー) の行使が考えられる。 そうすれば, コン フリクトを起こすことなし信頼の好循環のループに戻すことができるかもし れない。しかし,慣れ親しみが進展して慣れ合いの段階に至ろうとする際には, 少々のコンフリクトを覚↑害しても, やはり強制的パワー・ベースの行使,すな の撤廃や懲罰の実施が考慮されるだろ わち幸
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酬(リベートやインセンティブ) フ。 さらに,慣れ合い関係が闇定化された際には,仕方なく不信の戦略をとるこ とが考えられる。不信は信頼と同様に世界,の複雑'性を縮減する合理的な行為に もなりうるからである(
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。不信する相手への対応手段は,取引 の停止それとも契約違反にともなう法的措置も考慮すべきだろう。パワー・パ ラ夕、イムの究極の手段ともいうべきむき出しのパワー(naked power)の行使 もやむを得ないかもしれない。 (3 ) ただし, Luhmann (1973)は,不信の戦略をとれば,信頼から得られる「学習可能性」 が無くなると警告している。-97-ー 流通系列化の動揺と製販同盟の進展 251 しかし,強調すべきは,慣れ親しみが慣れ合いに転化し,間もなく取引相手 むやみにパワーを振るうやり方は,結 に不信を抱くまでのプロセスにおいて, 局のところ,パワーとコンフリクトのネガティブ・サム・ゲームを引き起こす まさにチャネノレ研究におけるパワー・パラダイムの悪循環の議論 になりかねないということである(崖, 1993)。不信の戦略をとるまでの,様々 できる限り,信頼から慣れ親しみへ移行する段階で上記 したような解決策を講じることが望まれる。 さて,信頼の悪循環のループから抜け出すために,最近,注目されているの すなわち人格的信頼とシステム信頼を区別し, 恐れがある, なコストを考えれば,
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-前者の後者 が,信頼の二重性, その点を説明しよう。 への転換を求める動きである。項を改めて, 人格的信頼からシステム信頼へのモメント 3 属人的信頼の問題点と組織型信頼への転換 ) 1 ( すでにマーケティング研究でも問題視され ている。その典型としては,営業マン個人に任せる営業のやり方についてであ ろう。すなわち,営業における属人的信頼が,企業の組織的目的と符合しない ことがあり得ること,言い換えれば,営業マンと取引先との「信頼関係」が, 時々,企業としての存続根拠の経済合理性の取得から逸脱して,経済非合理性 信頼の慣れ親しみ化に対しては, をもたらす「慣れ親しみ関係」に墜ちる恐れがあることが指摘されつつある。 できる限り,慣れ親しみになりやすい「営業における属人的信頼を 組織的信頼(システム信頼)へ転換J (田村, 1996)すべきであり,結果的に営 業体制も「個人型営業組織」より「組織型営業組織J (高嶋, 1995)が選好され ると言われる。確かにシステム信頼が慣れ親しみを防ぎ, そのため, 一方で信頼のもつ協 調とのポジティブ・サム・ゲームの夕、イナミックスを相変わらず内蔵するなら しかし,果たしてそうであろうか。 (4) このことを含めて昨今の営業の問題を伝統と革新の相克として捉え,解決策を示そう と試みるものとしては,石井・嶋口 (1995)を参照のこと。 それは極めて有効な戦略であろう。 ば,OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
252 香川大学経済論叢 98 社会システム論におけるシステム信頼優位説 (2) 「人格的信頼(personaltrust)からシステム信頼(systemtrust)への移行j,す なわち「自然発生的に成立した人格的信頼」から「戦術的な洞察に基づく人格 やはり Luhmann 的信頼=一種のシステム信頼」への移行を主張するのも, (1973 ; 1979)である。彼は I人格的信頼は文明化の諸条件のもとで一種のシス さらに「システム (システムの機能的能力を)信頼しており,信頼のこの共通性 すなわち「シス れば,彼は人格的信頼は,文明化された社会システムの能力, テム・パワー」への信頼に変えるべきだと訴えている。 テム信頼に変えるj (Luhmann, 1973,訳, 127頁)と述べ, 信頼は,他者も が意識されていることに基づいているj (129頁)と付け加えている。言い換え より具体的に述べよう。 Luhmann(1973)は,人格的信頼が「原始的社会」を その社会が進化・発展することによって近代社会に変わった時の, その人格的信頼のあり方を探ろうとする。彼は,人格的信頼は, 支えるが, まもなく社会 システムの存続を可能にするコミュニケーション・メディアに対する信頼, りわけ「正当化された政治的権力」に対する信頼,すなわちシステム信頼に変 えるしかないと主張する。換言すれば,人格的信頼は,正当化されたパワーへ と それは「自動的な学習を通して不 ヵ る ﹀ え 。 変 仙 川 る に れ 頼 さ 信 釈 ム 解 -アト﹂
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シ の信頼によって, 可避的に形成される」 以上のLuhmann(1973 ; 1979)の「人格的信頼の自然的なシステム信頼への 変換説」に対して,われわれは非常に懐疑的である。われわれは,構造機能主 義者のパーソンズ(T.Parsons)を補おうとする機能構造主義者のルーマン(N, ( 5) Luhmann (1973)は,コミュニケーション・メディアには,貨幣,真理,そして正当化さ れた政治的権力があると語るが,社会システムとしてのチャネル・システムに関心のある われわれにとっては,とりわけ正当化された政治的権力の議論が第一義的だと考える。 ( 6 ) Parsons(1963)のパワー観とそれへの批判を想起されたい(崖, 1995c)。機能主義者の LuhmannとParsonsの共通したパワー観と信頼観が見えてくることが分かるのである。 すなわち, Giddens(1977)によって批判されたように,集合的目標としてのユートピア約 社会システムを具現するために,両者は正当化されたパワー(すなわち権威)への信頼が 必要だと考えている。両者は,結局のところ,危うい人格的信頼の排除と信頼されるシス テム・パワーの構築の必要性という点では意見の一致に遥している。 (7) 社会システム論における目的的システムの議論は,チャネJレ論との関わりで後述する。253 流通系列化の動揺と製販同盟の進展 99- -Luhmann)の洗練した担会システム論は認めるが,両者が共に目的的システム 論者に変わりはないと思、っている。われわれは,システム信頼はすでにシステ ム・「パワー」への議論に転化しており,もはや人格的信頼がもっ好循環の協調 関係のループとは一線を画すものだと考える。 (3) 流通におけるシステム信頼の拡散 改めて強調しなければならないのは,人格的信頼をむやみにシステム信頼に 変えようとする試みは,信頼と協調のポジティブ・サム・ゲーム的好循環から は離れざるを得ない点である。信頼の信頼たる由縁は,正にそれが人格的信頼 であるからである。 風呂(1968)による「チャネル管理のパラドックス」の場面を思い出しでも 良い。寡占メーカーが,独立した主体としての商業者を流通系列化の名目で完 全内部化を試みることは,結局は,自ら諦めるしかない。寡占企業は,その試 みが,誇りをもって独立した主体として活躍しようとする商人精神を無くして しまい,壮大な信頼ネットワークの機会損失をもたらすが故に,いきおい高等 な戦略ではないことを悟る。商人の誇り=人格的信頼を,寡占企業のチャネノレ・ システムの効率性への自信に基づき,むやみにシステム・パワーへの信頼=シ ステム信頼に切り替えようとする試みは,決して得策ではないのである。 にもかかわらず,システム・パワーの構築の目的が,ただ単に人格的信頼を システム信頼に変換させるためではなく,先述した信頼の慣れ親しみ化や慣れ (8 ) 本稿では,文脈によってシステム信頼とシステム・パワーという概念を分けて使うが, 合法的なシステム・パワーへの信頼をシステム信頼として捉えるがゆえに,基本的に類似 語として見なしてよいと思、う。ただし,厳密には,システム・パワーは一種のパワーであ るがゆえに行使される場合,コンフリクトとの相関関係をもっ動的なものとして,その反 面,システム信頼はそれ自体では,協調とコンフリクトに直接影響を及ぽさない静的なも のとして認識する。 (9 ) その点で,現在大手
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本部が積極的に試みている,伝統的商人としての酒販庖や米 屋のフランチャイズ・システム化についても,新たな視角があり得る。立派なフランチャ イズ・システムが出来上がっても,必ずしも独立した商人であるが故に保っていた信頼関 係の長所が,システム信頼の構築で,すんなりと移転できる保証はないと言わざるを得な し〉。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-100- 香川大学経済論議 254 合い化の防止のためだとすれば,それは評価できるだろう。たとえば,営業に おける人格的信頼は,それが慣れ親しみや慣れ合いの恐れがある限り,システ ム・パワーへの信頼,すなわちシステム信頼への変換が望ましい。 このロジックを流通・マーケティング現場に適用すれば,最近の
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こい。 1 製販同盟とは何か (1) 製販同盟の多義性 製販同盟現象をチャネ/レ論に合わせて分析するのが,本節の基本趣旨である が,その前に,製販同盟をどのように解釈するかが明らかにされるべきであろ う。とはいえ,われわれは冒頭で,とりあえず「寡占メーカーと大手小売業者 の間の新たなチャネノレ関係の現れ」という流通・マーケティング現場の動向に 対して「製販同盟」という用語を使ったが,諸研究者によって実に様々な用語 定義が加えられている。流通・マーケティング現場で行われている有力メーカー (11) われわれは,本稿で,いちおう製販同盟という用語を使うが,最近のメーカーと流通業 者の問の新たな取り組み現象をチャネル研究のフロンティアとして見なそうとする流 通・マーケティング研究者は,その現象について各々異なる命名を行っている。まず,ア メリカの P&Gとウォルマートの取り組みをいち早く日本に紹介して議論を巻き起こし た佐藤 (1992; 1993 ; 1994) は「戦略的問販」と呼んでいる。矢作・小川・吉田 (1993) は,情報流・物流の合理化を目指した垂直的提携を強調しながら r生・販統合」と呼び, 矢作 (1994) は,組織論で既に研究されてきた戦略提携の概念 (cf山倉, 1993) を援用 して「君主直的戦略提携ー」と,渡辺 (1994) は,関係の対等性を考慮して「戦略同盟」と, 各々呼んでいる。一方,米谷(1995)は,取り組みの本質をBadaracco(1991)と野中 (1990; 1991)の考えを受け入れ,知識連鎖や知識創造にあるとみるが故に「製販戦略提携」と呼OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-102ー 香川大学経済論叢 256 と流通業者の新たな取り組み現象について,諸研究者が異なる用語で説明しよ うとすることこそが r製販同盟研究」が発展途上の概念であることを表してい るといって良いだろう。 ただし,本稿の記述においてわれわれは,基本的に特定用語の使用,および その根拠についてはあまり拘らない。とはいえ,これまで製販同盟という用語 をためらわず、に使ってきたのは,それがあくまでも流通・マーケティング現場 からの「実践的」コンセプトとして,ジャーナリズムや現場ですでにある程度 定着しているからに他ならない。 さて,このような製販同盟研究における百家争鳴の時代の到来は,製販同盟 現象を分析する次元においても,様々な多様性を表していることを意味する。 すなわち,製販同盟への参加者さらに主導者は誰であるか,そして製販同盟へ 参加する主たる目的は何か,さらに製販同盟が目指している協調関係の内容は 何か,等々が具体化されるべきであろう。 しかし,本稿では製販同盟研究におけるそのような分析次元については,そ れほど深くは言及しない。製販同盟現象の経験的側面の理論化は,すでに旺盛 に行われているので,冒頭でも述べたように,本稿におけるわれわれの関心は, かえってそのような諸研究に共通に内在しているシステム観への批判的立場に 立ちながら,あくまでもマーケテイング研究の嫡出子(風目, 1968) としての チャネル研究の方から推論的に昨今の製販同盟現象を考察することにある。そ れゆえ,ここでは最小限の製販同盟の定義に留めたいと思う。 (2) 本稿における製販同盟の定義 われわれは,製販同盟を,それに関する既存の諸研究や現場の動向から r対 び直している。そして,尾崎(1996)は,従来のチャネJレ研究の伝統をも視野に入れて「チャ ネル・パートナーシップ」という用語を使っている。他方,石原・石井 (1996)では,取 り組み関係が強固な排他的関係になってはいけないという意味を込めて「製販統合」と呼 ばれている。ちなみに,われわれと向じく「製販同盟」という用語を使うのは,高嶋(1996) である。高嶋(1996)は,流通や生産における機能商での改革という製販統合と,メーカー と流通業者との企業間関係における改革という戦略同盟を合わせ持つという考えから 「製販同盟」という用語を使っている。
257 流通系列化の勤務と製販同盟の進展 -103 立なき協調関係を目指した寡占メーカーと大手流通業者の閣の戦略的意図の連 携」として認識する。 まず,対立なき協調関係」とは,基本的に製販同盟の議論が,四半世紀聞の チャネノレ研究の中心的パラダイムであった「パワー・コンフリクト論」との対 決を回避して(尾崎, 1996), ,取号
l
から提携」へのパラダイム・シフトを促し (矢作, 1994),結果的にいわゆる 'Win-Win-GameJ(佐藤, 1992;石原・石 井, 1996)を目指していることを示すだろう。 次に,基本的に「寡占メーカーと大手流通業者」の聞のいわばビッグ同士の 垂直的関係を指し示す点である。すなわち伝統的なチャネル論は暗黙裡に大手 メーカーと中小流通業者の関係を想定してきたが,新たな動きは大手同士との 関係を重視している(石原, 1996;尾崎, 1996)。 さらに「戦略的意図」とは,垂直的協調の性格として物流・情報流の円滑化 を図る「機能的提携」と相互補完的な経営資源の共有によるイノベーションの 獲得を図る「包括的提携」に分けて,明らかに前者から後者への戦略シフトを 促している(米谷, 1995;渡辺, 1994;高嶋, 1996;尾崎, 1996;石原・石井, 1996)側面を指すだろう。(
3
)
製販同盟がチャネル研究に問いかけるもの 確かに製販同盟現象は,最近,隆盛しているように見える。アメリカでのP & Gとウォルマートのケースをはじめ数多くの成功例が報告されている。そして 日本でも,すでに大手スーパーと寡占メーカー(例えば,ジャスコと花王,夕、 イエーと味の素),中堅スーパーと大手卸売業者(例えば,相鉄ローゼ、ンと菱食), 百貨庖と大手アパレル・メーカー(例えば,岩田屋とワコーノレ),大手紳士服小 売業者?と素材メーカー(例えば,アオキインターナショナノレと東レ・帝人),最 (12) 尾崎(1996)は,水平的提携に比べて垂直的提携の製販問騒が,その相補的関係のゆえ, 比較的に成功していると述べている。その例として,アメリカの食品産業におけるECR
に 関する調査報告に基づき.ECR
が売上高に貢献したと回答したのは,メーカーで 93%. 小売企業で 73%にも達していることを挙げている。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-104- 香川大学経済論叢 258 大手
cvs
と食品メーカー(例えば,ローソンと山崎製パン,セブン・イレブ ンの一連の食品メーカーとの製品開発),等々のケースから散見されている。 チャネノレ研究者が,アメリカと日本で活発に行われている,この製販同盟現 象に関心を示すのは当然のことであろう。問題は,その製販同盟現象が,既存 のチャネル研究から,どのような位置を占めているのか,言い換えれば,それ が既存のチャネノレ研究からは説明できないまったく新たな現象であるのかであ る。さらに,だからこそ停滞したチャネル研究のルネサンス(尾崎, 1996)だ と言われるほど,製販同盟がチャネル研究者にとって戦略的インプリケーショ ンをもっ魅力的で新たな現象であるのかである。何よりも,製販同盟が,機会 主義を防止し信頼に基づいた協調関係の真髄として認められるほど,長らく チャネノレ研究者を悩ましてきた,いわば「マーケティング・チャネル問題の問 題性J (風目, 1968)を解決する動因を内在しているのかである。 われわれは,これらの疑問に答えるために,すでに前節で,人格的信頼とシ ステム信頼の議論を持ち上げた。そこでは,従来の日本の流通・マーケティン グ現場の流通系列化が,思わぬ信頼の悪循環のノレープが存在しており,それを 解決するために危うい人格的信頼を確かなシステム信頼に切り替えようとする 実践的な動向を見てみたが,それが製販同盟を理解する契機を保っていると述 べた。 そのような「実践的なモチーブ」に加えて,本節では,製販同盟をチャネノレ 研究の伝統から分析してみたい。すなわち,製販同盟の「アカデミック・モチー ブ」を探りたいと思う。だから,われわれは,多くのチャネル研究者が,急い で製販同盟の現場に走ることとは対照的に,取り急ぎ,製販同盟論が保ってい る「世界観」を聞い直し,それから一昔前の「拡張組織論」と「パートナーシッ プ論」におけるチャネノレ協調観との比較を行うことが求められると思っている。 しかし,そのためには,少々冗長になる嫌いがあるが,チャネル論に多大な影 (13) 風呂(1968)によれば商人の自律性を一方で制限しながら,他方では製品価値実現上 の諸操作,商品在荷,市場危険などの経済的負担を商人に負わせようJ(148-149頁)と する商業資本系列化政策の論理的矛盾こそがチャネル問題の問題性」とされる。259 流通系列化の動揺と製販問盟の進展 -105-響を及ぼしたとされる社会学における考え方をひとまず覗き見る必要がある。 2リ 「社会システム」としての目的的チャネル観とチャネル関係のニ菌性 (1)社会学のジレンマとチャネル管理のパラドックス 社会学の基本課題は,パーソンズの言う「ホップ持ズ問題」に凝縮されている。 すなわち,個人には主体的な選択の自由があって完全に自分の利益だけを追求 することができるにもかかわらず,言い換えれば利害の不一致からつねに対立 や闘争関係に帰結するはずであるにもかかわらず,社会秩序が成り立つのはな ぜ、かという聞いこそが,社会学が解明すべき課題になるわけである。すなわち, 無秩序な「個人意志」と秩序ある「集合意志」の相関(大津,
1
9
9
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)
は,その まま社会学のジレンマになり,社会学は長らくそのジレンマの解決に取り組ん できたとも言える。 寡聞を恐れずに言えば,社会学が未だそのホップズ問題に内蔵されている社 会学のジレンマの解決に成功したとは思えない。しかし,構造機能主義の旗を 挙げながら,本格的にホップズ問題の解決を試みるパーソンズの社会システム 論は注目に値する。彼の社会システム論は,諸桂会科学に大いに影響を及ぽす ことになる。遅れてきた社会科学としてのマーケティング,なかんずし製造 業者と販売業者という「個人水準」のロジックを越えて,チャネル組織という 「集合水準」のロジックで説明すべき定めをもっマーケティング・チャネル論 には,当然ながら,パーソンズの社会システム論の洗礼を受けることになる。 (14) 社会学の巨匠達も,ホップズ問題の解決には悩んでいたようだ。例えば,ウェーパーは, 個人と集合の対立軸の中で個人に優先性を与え,個人の行為の意図せざる結果として集 合の秩序が確立されるという。彼は,有名な『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の 精神』で,敬度なカルヴアン派の「個人」的な禁欲生活が,原型的資本主義制度という「集 合」を生み出したと強調する。ただし,やはり個人の行為のみで集合の秩序を説明する論 理の飛躍を補うために,彼の社会学には間もなく,個人と集合を繋ぐ役割を果たす特権的 な個人,すなわちカリスマが登場する。それに対して,デュルケムは,ウェーパーの考え 方に反駁して,かえって集合に優先性を与えている。すなわち,集合には個人の水準に演 絡できない性質が存在するという反論で自殺論』で詳しく記述されている。ただし, なぜ集合の水準が個人の水準とは逸脱する様相を表すかを説明するにおいて成功したと は言い難いだろう。このような個人と集合の間の謎を解決すべく,パーソンズが社会シス テム論を提唱することになるのである。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-106- 香川大学経済論叢 260 そもそも,個々の主体の意志を貫くわけでもなければ,市場メカニズムのルー ルに従うわけにもいかない,いわば中間組織としてのマーケティング・チャネ ルには,特殊の相互関係が含まれている。具体的に言えば,チャネルの意図的 構築者である寡占メーカーは,商人に対して,一方で自社製品の差別化された 価値実現を確保するため,他方で市場危険の緩衝帯を確保するために r現実的 な高等な打開策」として「売買関係」でもなければ「代理関係」でもない特殊 な関係を要求する(風日, 1968)。しかし,寡占メーカーが商人に要求する「自 律性制限」と「独立性維持」の同時的追求がもっ自体的な矛盾が,絶えずチャ ネル関係を不安定にする,いわば「チャネル管理のパラドックス」の場面を演 じさせる。このチャネル管理のパラドックスをどう解決できるか,言い換えれ ば,独立性・中立性をもっ社会的主体としての商人の「個人意志」を,どうす れば寡占メーカーが構築しようとするマーケティング・チャネルという「集合 意志」に従わせることができるか。まさにチャネル管理のパラドックスは,社 会学のジレンマと不可分の関係をもつものにほかならない。
(
2
)
目的的システム論としてのチャネル拡張組織論の問題性 ノfーソンズの社会システム論とスターン(
LW. S
t
e
r
n
)
の「社会システムとし てのチャネル・システム論」を論じる前に rチャネル拡張組織論」と呼ばれる パラダイムについて述べなければならない。Ridgeway (1957), Berg (1962), Mallen (1963)等による拡張組織論者の共通し た考え方は,チャネル「組織」形成時の協調を前面に立て,チャネノレ利潤をめ ぐる分配衝突をチャネル「組織」形成後の摩擦的・過程的衝突と考慮する,い わば「協調の先行メカニズム」を信じていた点である(風呂, 1968)。詳しくは, チャネ/レ・メンバー間の固有な衝突を協調に転化させる客観的なメカニズムを (15) 風呂 (1968)で取り上げられた「売買関係」と「代理関係」のご商性の問題は,田村 (1971) では「内部組織的性格」と「市場組織的性格J,石原(1969)では「売買取引」と「チャネ ル取引J,米谷(1975)では「組織的要素」と「反組織的要素」として,各々言及されてい る。「社会学のジレンマ」のマーケテイング・チャネル版とも言うべき「チャネル管理の パラドックス」については,一昔前にすでに注目されていたと言って良いだろう。
261 流通系列化の動揺と製販同盟の進展 -107二一 持っていないものの,当時の流行的な「システムズ・アプローチJ(cf McCam-monニLittle,1965)を無分別に導入したり,近代組織論のマーケティング論へ の導入のブームに便乗してバーナード理論をマーケティング・チャネル論に勝 手に適用したりして,結果的に「学的概念構成物(academicconcept)Jにすぎ ない(Mcvey,1960, p引327)チャネlレ組織を「操作システム (anoperating sys -tem)Jとして(McCammon=
L
i
ttle, 1965, p..327),かつ「目的システム(apur -posive system)Jとして認識することによって協調をア・プリオリに設定してし まったこと,これが拡張組織論者達に投げられた批判に他ならなかった(風呂, 1968)。
拡張組織論者の考え方は,浪漫的な啓蒙思想家の社会契約説の範鴎を超えな いと言ってよいだろう。というのは,個人では還元できないコモンウェルスと いうシナージ的利益を求めて個人の合意で成り立った集合(国家)であるが故 に,それに抵抗することは自己矛盾だと言い切る啓蒙思想家の考え方のように, 拡張組織論者は,自律性をもっチャネル・メンバーとは言え,彼らが個別利潤 を超えるチャネル利潤を求めて,チャネル*J3.織に参加することは,すでにチャ ネ/レ協調への約束(協調のア・プリオリ性)を前提にしておわだからこそ, 自律性・独立性に基づくコンフリクトは消耗的衝突にすぎないと認識したので ある。 アメリカにおける行動科学的マーケティング・チャネノレ論の大御所のスター ンは,いち早く,拡張組織論の「協調のア・プリオリ性」に異議を提起し,そ の代わり Parsons(1960)の構造機能主義的社会システム・モデノレに注目して, チャネノレ・システム論の基本モデルを完成した(Stern,1969)0 Stern(1965)に とっては,チャネノレの姿は,ホップズの「万人の万人に対する戦い」そのもの だったようだ。たとえば, Ridgeway (1957)の自動車産業(と農機械産業)に対 する一つの拡張されたシステム (oneextended system)の認識に対して r共利 共生的チャネル関係(benevolentchannel relationship)の存在の証拠はなく, 実際にあったのは,短期目標を達成するための自動車製造業者の専制的支配 (despotic control)であったJ (Stern, 1965, p.. 302)と反論している。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-108- 香川大学経済論叢 262 そのような拡張組織論者のチャネル認識に不満をもったスータンが注目した のが,パーソンズの社会システム論に他ならない。一見,社会学のジレンマの 解決に成功したように見えるParsons(1960)から影響された Sternには,紛れ もなく社会システム論の考え方が含まれている。Stern(1965)においては,個人 の行動をコミットするための規範の重要性,複合組織の特徴としての多重の役 割の規定,そして組織聞の統合のための忠誠の重視が強調され,いよいよ Stern=Brown (1969)においては,有名な役割・パワー・コンフリクト・コミュ ニケーションの構造変数と目標達成・適応・統合という機能変数で成り立つチャ ネル・システム論の基本モデ、ルが出来上がることになるのである。端的に言え ば,チャネノレ協調はア・プリオリに得られるのではなく,撤密なチャネル管理, 具体的には決まった役割を遂行させるために,パワーであり得るべきコンフリ クトを統制す}ることによって辛うじて得られるとされる。 Gaski(1984)が語っ たように「チャネル研究におけるパワー・コンフリクト論」を通じて,スター ンは拡張組織論の問題点だ、ったチャネ/レ協調のア・プリオリ性を克服しようと したのである。
(
3
)
チャネル・システム論の協調観:パワーによる協調のア・プリオリ性 の解決 機能主義論一般にも当てはまるだろうが,とりわけパーソンズの社会システ ム論に対しては多くの批判が提起される。第 1,相変わらずシステムの目的論 的解釈に偏向していること。それ故に,システムの維持を機能の準拠として, 機能要件の働きがすべてシステム目的に向かつて調和するようなモデ、ルを生み 出してしまったといわれる。第2,パワーを権威(あるいはリーダーシップ) として認識した結果,ノン・ゼ、ロ・サム・ゲーム的ノfワー観を抱くと共にコン フリクト・パースペクティブが欠如していること。それ故に,システムの構造 の下層に隠された利害関係やそれをめぐる支配・抑圧の社会事実が軽視され, (16) このことについては,石井(1983)で詳しく議論されている。})ii
263 流通系列化の動揺と製販同盟の進展 -10チー 結果的にシステムの構造と過程に内在する矛盾・緊張・葛藤などの事象を的確 に説明できなくなってしまったとされる。第3,絶えざるシステムの歴史的過 程,即ち社会システムの動的変動過程が見逃されており,結果的に超歴史的楽 観論またはユートピア的モデルの提示に留まってしまったこと。それ故に,機 能主義の出発点であり,批判の標的であった社会進化論(古典的な社会有機体 論)に復帰してしまったといわれる (cf中, 1986; Giddens, 1977)。 以上の批判をよく吟味すれば,パーソンズの社会システム論とチャネル拡張 組織論の聞の思わぬ類似性を見つけることができる。概して言えば,両理論は 共に,相互作用関係や機能的依存関係を行うべき各々のシステム構成要素が, 実は一定の共通目的を追求しているという,目的的システム観を描いているの に他ならない (cf風呂, 1968, 155頁)。拡張組織論が,協調のア・プリオリ性 に陥ってチャネル協調のメカニズムの究明に失敗したように,結局のところ, ノfーソンズも社会学のジレンマの解決にまでは至らなかったようだ。 では,パーソンズの社会システム論から学び,自前のチャネル・システム論 を展開したスターンは,どのような帰結に至ったのか。その答えは,既述した ように rパワーによるコンフリクトの抑制ニチャネ/レ協調の達成」という図式 である。すなわち,チャネル・コンフリクトとのトレードオフ関係としてのチャ ネノレ協調を認識した(崖, 1993)からこそ,チャネノレ研究においては,チャネ yレ・コンフリクトを解決する手段としてのチャネル・パワー研究が一大ブtーム になったわけである。このように,チャネル研究がチャネル・パワー研究に収 飲される事態については,ニつの注目すべき見解がある。第1,チャネノレ・リー ダーの行使するパワーが「システム全体の目標のため」という名のもとに正当 化されてしまう(加藤, 1987, 111頁)ので,拡張組織論と同様の目的的システ ム観が描かれているという見解がありうる。 しかし,先述したように, Ridgeway (1957)などの拡張組織論的チャネル認識 を激しく批判したスターンであるからこそ,自前のチャネル・システム論のそ の後の展開においては,目的的システム論というレッテルを外すためか,かえっ てパワー・コンフリクト論へ傾斜していく (Gaski,1984)。それ故に,かえってOLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-110ー 香川大学経済論叢 264 暗いイメージのチャネJレ・システム観を描いてしまったという第
2
の見解のほ うが説得力がある(崖, 1993;雀, 1995 b)と思われる。パーソンズの社会シス テム論から学んだものの,スターンと彼を追従するチャネル・システム論者は, ノ~-ソンズのコンフリクト・パースペクティブの欠如とパワーのノン・ゼ、ロ・ サム・ゲーム的理解という目的的システム論批判のごの舞を踏んではいけない と,暗黙的に合意したように,チャネル・システム論をパワー還元主義的な理 論に塗り替えたのである。(
4
)
パワー・バランスによるチャネル・コンフリクトの解決:製販同盟の 論理 以上から,スターン流チャネyレ・システム論は,いちおう拡張組織論の目的 的システム観(すなわちチャネル協調のア・プリオリ性)のレッテルから免れ るように見える。ただし,それは,パワーによるコンフリクトの解決としての チャネル協調の達成にすぎない。チャネル・システム論は,拡張組織論の楽観 的チャネ/レ世界観の問題性を解決するために,かえってパワーとコンフリクト の相互関係を探る暗欝なチャネル世界観を描くことになってしまったのである (雀, 1993)。
しかし,現実的には,チャネル・メンバーはパワーとコンフリクトの相互関 係による協調の達成という消耗的なプロセスを経るのではなく,信頼に基づく 安定した長期継続的な協調関係を求めている。チャネノレ理論とチャネノレ現実に (17) 本節では,いちおうアメリカのチャネル・システム論に焦点、を絞っているが,日本の交 i歩論もほぼ同じく,チャネル協調とコンフリクトのゼロ・サム・ゲーム的理解に従ってお り,それ故,チャネル理論とチャネル現実はかけ離れていた。これについては雀(1993) を参照のこと。 (18) 日米のマーケテイング・チャネル論の経緯を振り返ってみると,:?e.って規範政策的側面 を保持してきたことが分かる。日本の交渉論が,メーカーによる流通系列化の理論化にお いて,当時の日本の寡占メーカーの強固な流通系列政策に対して,チャネル管理のパラ ドックスを予兆しながら,絶えざる交渉によるチャネル協調の達成を促していたことか ら,その規範性が覗ける。そして,アメリカのチャネJレ・システム論も,アメリカの寡占 メーカーと販売業者が一歩も譲らず、対立していたからこそ,市場か組織かの両者択ー的 なチャネル政策をとっていたことについて,かねてからシステム的行動をとることを促 していたことから,その規範政策性が覗ける。265 流通系列化の動揺と製販同盟の進展 -111 おける食い違いが明らかになったわけである。このような,理論と現実の相違 のため,そしてチャネlレ論に与えられた規範政策性のため,チャネル・システ ム論は,行き過ぎたパワー・コンフリクト論化(Gaski,1984)への自己反省的な 動きを見せ始める。チャネノレ研究におけるパートナーシップ論の登場がそれで ある。 ノfートナーシップ論の展開においては紙面の制約上省略するが,とりわけ注 目すべきは,チャネル・メンパー聞の関係において,対立ではなく改めて協調 を強調する点である。それは,言うまでもなく,拡張組織論の目的的システム 観を克服すべきチャネノレ・システム論のパワー・コンフリクト論化がもたらし た帰結である。言い換えれば,拡張組織論の協調のア・プリオリ性の克服のた めに,チャネyレ・システム論は長らくパワー論を中心とする協調のメカニズム を究明してきたが,結局は現実のチャネノレ像(それとも求めるべきチャネノレ像) とはかけ離れたパワーとコンフリクトの激戦場を描いてしまい,それに対する アンチテーゼとして同志的組帯関係を強調するパートナーシップ論が台頭した と言える。いわばWin-Lose-Gameから Win-Win-Gameへの大転換が求めら 目 的 れたのである。われわれは,昨今流行の「関係マーケティング、論」から本稿に おける分析対象の「製販同盟」に至るまで,協調的関係を前面に立てることに よってチャネル関係を説明しようとする一連のパラダイムには同様の認識が保 たれていると考える。 われわれにとって最大の関心は,パートナーシップ論をはじめとする協調関 係重視的パラダイムが,パワー論の極半告をどのように克服したかに置かれる。 チャネル・リーダーによるパワーの行使がコンフリクトを引き起こし,そのコ ンフリクトを抑えるために改めてパワーを行使するしかない,スターン流チャ ネル・システム論におけるパワーとコンフリクトの悪循環を解決するためには, パワー論における認識転換が必要となったに違いない。われわれは,その結果 (19) Arndt (1979)の内部化市場モデル, Dwyer et al..(1987)の関係的交換モデルなどから 始まる,いわば協調的関係を重視する一連の研究群がパートナーシップ論として呼ばれ ることになる。詳細は高嶋 (1994)の第3章を参照のこと。 (20) 関係マーケティングについて詳しいことは,嶋口 (1994)を参照のこと。
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
112ー 香川大学経済論叢 266 として現れたのが,チャネル・メンバー聞のパワーの均衡性,すなわちパワー・ バランス
(
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o
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r b
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)
を強調する動きだ、ったと考えている。 何よりも,すでにチャネル・システム論においても,多くの研究はパワー・ インバランス(
p
o
w
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m
b
a
l
a
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c
e
)
にコンフリクトの原因を帰している。即ち, パワーの不均衡の構造下に大きいパワーを持つチャネル・メンバーはその利点 を利用しようと試み,小さいパワーしかもたないメンバーはその関係に不満を 感じ(
A
n
d
e
r
s
o
n=
N
a
r
u
s
,1
9
8
4
)
,従ってパワー不均衡のチャネル関係は「低協 調」と「高コンフリクト」として特徴づけられてきたのである (cfDwyer
e
t
a
l
叶1
9
8
7
;
Robicheaux=EI-Ansary
,1975; Stern=Reve
,1
9
8
0
;
Anderson=
Weitz
,1
9
8
9
)
。そのようなパワー・インバランスによるコンフリクトの発生を防ぐためには,容易にパワー・バランスによるコンフリクトの抑制,さらには協 調関係の強化が,パートナーシップ論をはじめとする最近のチャネノレ論の方向
と な っ た の で あ る (cf
Gundlach =
Cadotte
,1
9
9
4
;
B
u
z
z
e
l
l
=
Ortmeyer
,1
9
9
5
;
Shamdasani =
S
h
e
t
h
,1
9
9
5
)
。ただし,企業のサイズ,マーケット・シェ ア,経済的資源等々の格差から,寡占体制下のチャネル現実はやはりパワー・ インバランスが常態であったが故に,パワー・バランス・モデJレは,概念的枠 組みにすぎなかった。それが,パイイング・パワーを増した昨今の大手小売業 者(Power R
e
t
a
i
l
e
r
)
の登場によって説明力を強めることになる。結果的にパ ワー・バランス・モデルが現実のチャネルを説明する有用な道具になり,かつ パワー・コンフリクト論化したチャネル論の問題を解決したとも言える。パワー の側面で均衡のとれたチャネル関係が顕著に協調的になるというパワー・バラ ンス・モデノレは,間違いなくパートナーシツプ論を経て昨今の製販同盟論に至 るまで最も重要な部分になりつつある (cf渡辺,1
9
9
4
)
。 (21) すでに,石原 (1982) は,いち早く規模格差と取引依存度(販売・仕入依存度)の概念 をもって,パワー・バランス・モデルを提示したが,それが昨今の小売業の集中度の拡大 とそれによるメーカーの販売依存度増大によって現実味を増している。ちなみに,最近の 大手小売業者のパワー増強とそれによるメーカーとの対等な取引関係の樹立は, POSシ ステムの普及などによる大手小売業者の交渉力に基づくものとして,石井(1983)の情報 処理パラダイムから適切に説明できる。267 流通系列化の動揺と製販同盟の進展 -113ー 以上から,われわれは,パワー概念に主に拘ってきたチャネル論のセンチメ ントが,パワー・バランスによるコンフリクトの防止と協調の達成という見解 に,概ね合意に達していると推測できる。しかし,果たしてパワー・バランス による協調関係が,前節で述べた信頼による協調関係とどのように区別される か,そもそもパワー・バランスを中核概念とするパートナーシップ論あるいは 昨今の製販同盟論の世界観は,拡張組織論の目的的システム観の批判から逃れ るだろうかは,依然として疑問である。それについては,次節で述べることに しよう。
I
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信頼パラダイムとパワー・パラダイムの相互関係 一流通系列化と製販同盟の類型化一 1. 信頼パラダイムとパワー・パラダイム再論 第II節と第四節における議論を振り返ってみよう。まず,第II節での議論は, 基本的に日本の流通系列化を説明するために経験的な意味での「信頼コンセプ ト」を中心として行われており,反面,第III節での議論は,概ねチャネル論の 理論的中核概念である「パワー・コンセプト」を中心として述べられていた。 われわれは,前者の考え方をチャネルにおける「信頼パラダイムJ,後者の考え 方を「パワー・パラダイム」と呼んだ(崖, 1995c)。 Fukuyama (1992)によれば,人聞は歴史の出発線上に立ωって以来,絶えず、対 立と闘争の時代を走ってきたが,東西イデオロギーの対立の終着によって,やっ と「歴史の終わり」の時代が到来したとされる。さらに,歴史の終わりの時代 の問題点として,彼は対立による葛藤はないだろうが,そのぶん向上意欲も薄 れてしまい,相互に特色のない馴れ合い体質になってしまうので,改めて常に コンフリクトの種が蒔かれ紛争の恐れがつきまとうものの,優越意識に燃えて おり,そのぶ、んやる気が充満している,歴史線上に回帰する恐れがあるとされ る。われわれのコンテキストで言えば, Fukuyama (1992)の歴史の終わりの時 代は「信頼ノTラダイムの世界J,歴史線上の時代は「パワー・パラダイムの世界」 と呼び換えてよい。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-114- 香川大学経済論議 268 右派へーゲ、リアンとしてドイツ観念論に拘っている