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第 1 章 概 観 ( 国 土 民 族 気 候 社 会 歴 史 等 ) 1. 正 式 国 名 フィリピン 共 和 国 (Republic of the Philippines) フィリピンの 国 旗 は 青 と 赤 のストライプ 白 の 三 角 形 太 陽 と 3 つの 星 から 成 り 立 つ 青

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第 1 章 概観(国土、民族、気候、社会、歴史等)

1. 正式国名

フィリピン共和国(Republic of the Philippines)。

フィリピンの国旗は青と赤のストライプ、白の三角形、太陽と 3 つの星から成り立つ。青は愛国心と正義、赤は自由と独立、 白は平和を意味する。3 つの星はフィリピンの主要な 3 地方 (ルソン地方、ビサヤ地方、ミンダナオ地方)を表し、太陽が独立を、太陽から出る8 つ の光線はスペインからの独立運動で中心的役割を果たした8 つの州を表している。

2. 人口

9,586 万人1。地方毎の人口分布は、ルソン地方約56.2%、ビサヤ地方約 19.4%、ミンダ ナオ地方24.4%である。マニラ首都圏に全人口の約 13%が集中している。又、工業団地が 集中するマニラ首都圏南方のカラバルソン地域には、マニラ首都圏の人口を若干上回る 13.3%が居住する。人口増加率は年率約 1.9%2

3. 国土

フィリピン共和国は、7,100 余の島々からなる東南アジアの島嶼国家である。国土の西 側は南シナ海、南側はセレベス海、東側はフィリピン海に面している。フィリピンの国土 面積は日本の約80%にあたる約 30 万平米で、大きくはマニラ首都圏を含むルソン地方、 ビサヤ地方(中心都市セブ)、ミンダナオ地方(中心都市ダバオ)という 3 つの地域に分 けられる。

4. 首都

フィリピンの首都はマニラ首都圏(メトロマニラ)で、国語であるタガログ語では「マ イニーラ」と発音される。「ニラッド」という植物のある町を意味する「マイ ニーラッド」 が地名の由来である。

1(出所)IMF 推定 2011 年 2(出所)NSO2010 年国勢調査

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5. 気候

熱帯海洋性気候。雨期は6~11 月、乾期は 12~2 月、最も暑くなる暑期が 3~5 月で 12 月~2 月の朝夕は比較的涼しく過ごし易い。年間平均気温は 27°C 前後で、真夏には 36~ 37°C に達する日も少なくない。 図表 1-1 フィリピン(マニラ)の月平均最高/最低気温と降水量 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 降水量 (mm) -- 12.1 9.1 15.9 133 150.8 292.9 305.8 237.5 137.2 81.3 58 最低気温(℃) 24 24 25 27 27 26 26 26 26 26 25 24 最高気温(℃) 30 30 32 33 33 32 31 31 31 31 31 30 図表 1-2 フィリピン(マニラ)の雨温図 0 50 100 150 200 250 300 350 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月10月11月12月 降水 量(mm ) 0 10 20 30 40 気温 (℃) 最低気温(℃) 最高気温(℃) 降水量 (mm) フィリピンでは、毎年20 前後の台風が通過し、その内 6~9 は上陸する。大型の台風は、 毎年フィリピン各地で甚大な被害をもたらしている(図表1-3)。 図表 1-3 フィリピンにおける最近の主な台風被害 年月 台風名 (フィリピン名) 台風名 (国際名) 被害状況 2012/12 Pablo Bopha 死者: 1,146 名 被害総額: 約 10.4 億ドル 2011/12 Sendong Washi 死者1,268 名 被害総額:約 4,700 万ドル 2011/9 Pedring Nesat 死者: 464 名 被害総額: 約 3.3 億ドル

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年月 台風名 (フィリピン名) 台風名 (国際名) 被害状況 2009/10 Pepeng Parma 死者: 約 500 名 被害総額: 約 6 億ドル 2009/9 Ondoy Ketsana 死者: 464 名 被害総額: 約 2.4 億ドル (出所)国家災害調整委員会等情報から作成

6. 民族

フィリピンの民族は主にマレー系であり、その他に中国系、スペイン系、これらの混血 と少数民族が存在する。

7. 通貨

フィリピンの通貨はペソ(PHP)で、2013 年 3 月現在、1 ドル=約 40.68 ペソ、1 円=約 0.43 ペソである。

1,000 ペソ紙幣 500 ペソ紙幣

8. 言語

国語はフィリピノ語 (タガログ語を基礎とする)。公用語として広く英語が使われている。 その他、セブ島のセブアノ語をはじめ、80 前後の方言が使われている。

9. 宗教

カトリック教約80%、その他のキリスト教約 10%、イスラム教約 5%である。

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カトリック教会の中

10. 歴史

3 (1) 先史時代 フィリピン人の先祖はマレー系の人々である。まず、2 万 5000 年から 3 万年ほど前、 ネグリト族がアジア南部からマレー半島を経てフィリピンに移住し始めたといわれる。そ の後、紀元前1 万年~紀元前 8000 年頃から、新石器文化を伴った原始マレー人達が渡来 し、紀元前1500 年から紀元前 800 年頃には、農耕文化をもったマレー人がフィリピンに 定住し始めた。又、マレー系の人々の移住が始まった後の比較的早い時期に中国人も渡来 してきたと考えられる。 (2) 10 世紀 - ラグナ銅板碑文からわかること フィリピンの歴史は、16 世紀のマゼランの到着とその後のスペイン支配の時代からしか 語られないことが多いが、1990 年に発見された「ラグナ銅文碑版」に記された内容は、ス ペイン人到来の6 世紀前、10 世紀頃のフィリピンにおいて、黄金による金銭取引や、法律 による統治が行われていたことを伺わせるものである。フィリピンの考古学者アントン・ ポストマの解読によると、ラグナ銅文碑版に記されていたのは、西暦 900 年頃、「ドゥン ドゥアン(現在のマニラ市トンド地区と考えられる)の首長が、ある政府高官の黄金によ る負債を不問にすることの証明書のような内容で、証人の名前や管轄地区なども記されて いたという。しかしながら、出自が不明確なことから、この「ラグナ銅文碑版」の真贋は 未確定である。

3 (参考文献)鈴木 静夫著「物語 フィリピンの歴史」等

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(3) 14 世紀 - イスラム教の伝来 14 世紀後半頃には、中東からインド、東南アジアを経て中国までを繋ぐ航路で海上交易 を行っていたイスラム商人の影響を受け、フィリピン諸島にもイスラム教が広まり始めた。 1450 年頃には、フィリピンで最初のイスラム王国であるスルー王国が誕生し、マレー半島 のマラッカ王国生まれのアラブ人、シャリフル・ハセム・シェド・アブ・バクルがスルタ ン(王)に就任した。フィリピンにおけるイスラム教は、スペイン人がやって来る頃まで にその勢力をマニラ湾まで伸ばしていた。 (4) 16 世紀~19 世紀 スペイン占領時代 1521 年、スペイン王の信任を得たポルトガル人航海者のフェルディナンド・マゼランが 現フィリピン領ビサヤ諸島のサマール島に到着した。その後、同じくビサヤ地方のセブ島 で、セブ王をキリスト教に改宗させ、その他のセブ島周辺の首長たちにもキリスト教への 改宗とセブ王への服従を要求するが、セブのマクタン島のイスラム教の首長ラプラプが改 宗や服従を拒否し、1521 年 4 月、マゼラン軍はラプラプ軍との戦闘となる。この戦闘で マゼランが殺害され、マゼラン軍は破れる。 マゼランの次にフィリピンにやって来たルイ・ロペス・デ・ビリヤロボスは 1543 年、 スペイン王フェリペ2 世(当時は皇太子)の名に因み、現在のフィリピン諸島を「ラス・

イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas)」と名付けた。これがフィリピンという国 名の由来である。 1565 年、メキシコからセブに到着したミゲル・ロペス・デ・レガスピは、その後 1571 年にマニラをフィリピン諸島の首都と宣言し、マニラに現在も残る城壁都市イントラムロ スの建設を指示した。 レガスピは、スペイン植民地政府の初代マニラ総督に就任し、現地 住民のローマンカトリックへの改宗とスペイン支配確立を進めた。 スペイン占領時代、フィリピンは、季節風を利用してマニラとメキシコのアカプルコと の間を船(ガレオン船)で往復して行われた交易、いわゆるガレオン貿易の拠点として栄 えた。マニラ発のガレオン船は、現インドネシアとなる香料諸島の香辛料、中国・東南ア ジアの磁器、象牙、漆器、絹製品をアカプルコに運んだ。これらの品々は、アカプルコか ら更に陸送、海運を経て、最終的にはスペインまで届けられた。ガレオン貿易は、アジア からの品物を、当時オランダの制海権下にあった喜望峰を通らずにスペインに運ぶルート であった。アカプルコからの帰路は、マニラに銀が運ばれた。ガレオン貿易の進展に伴い、 中国人、日本人のフィリピンへの移住や、南米から連行されてきた黒人などもマニラに住 むようになる。特に、ガレオン貿易で活躍した主に福建省出身の中国人とフィリピン人と の間での混血が進み、中国人はフィリピン社会に同化していった。 スペインは、現在のフィリピンの全域を支配下に治めることはできず、ミンダナオ島の イスラム教徒や、更に南のホロ島のスルー王国などは、スペイン統治時代300 年以上に渡 って抵抗を続けた。 スペイン統治下のフィリピンは、フランス、イギリス、オランダ等からの攻撃を受けて

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おり、イギリスは 1762 年スペインに宣戦布告し、東インド会社の軍がマニラを攻撃、そ の後マニラは2 年間だけイギリスの占領地となった歴史がある。 1565 年に始まり、250 年に渡ってスペイン人が独占的に行っていたガレオン貿易は 1815 年に廃止され、1834 年にはマニラ港は正式に自由港として開港された。1809 年、マニラ に初めてイギリスの商館が設立された後、イギリスを中心に米国、フランス、スイス、ド イツなども次々とマニラに商館を設立した。自由港となったマニラからは、マニラ麻、砂 糖、タバコなどの農産物の欧米への輸出が増大し、これらの商品作物を栽培するため、農 場経営の大規模化や土地所有の集中が進んだ。少数の富豪による大土地所有制度はハシエ ンダと呼ばれ、農民が土地を持たない小作農化が進み、こうした社会構造は現代フィリピ ンの農地解放の遅れや貧困問題にまで影を落としている。 (5) 19 世紀末 - スペインからの独立と米国による支配 マニラが自由港となり、貿易自由化によって、欧米との貿易が拡大すると、フィリピン でも高等教育が拡充し、海外から自由主義思想が入ってきた。やがてナショナリズムが高 まり、学生や知識層を中心に、スペイン本国政府への改革要求を強め、民族運動の動きが 高まって行った。特に、後にフィリピン独立の父として「国民的英雄」となるホセ・リサ ールが1887 年にスペインで発表した『ノリ・メ・タンヘレ』(我に触るな)という小説は、 スペインによる植民地支配の圧政で苦しむフィリピンの現状を描き、スペイン支配を厳し く告発し、その後の民族運動に大きな影響を与えた。リサールは1896 年 12 月 30 日、ス ペイン政府により暴動の扇動容疑で銃殺刑となった。 スペインからの独立を求める革命勢力の中心人物エミリオ・アギナルドは1898 年、米 国とスペインの戦争(米西戦争)においてフィリピンの独立を口頭で保証した米国側を支 援し、亡命先の香港から米国艦隊とともにフィリピンに帰国した。アギナルドは 6 月 12 日にスペインからの独立を宣言したが、同年 12 月にスペインと米国はパリ講和条約を締 結、スペインはフィリピンを約2,000 万ドルで米国に売却し、米国がフィリピンの統治権 を手に入れた。フィリピンの独立を口頭で保証しながら文書化せず、主権を奪い取った米 国の統治に反対するアギナルドは、米比戦争に突入、1899 年 1 月 23 日にフィリピン共和 国を樹立して初代大統領に就任したが、1901 年米軍に捕らえられ米国の主権を認めざるを 得なくなった。 米国支配時代には、スペイン統治時代に台頭した大土地所有者が一層強大さを増す一方、 小作農や労働者達の貧困は解消されなかった。このため各地で農民や労働者による運動が 激しさを増し、フィリピンにおける共産主義の拡大につながっていく。 米国からの独立を求める動きは続いたものの、1935 年になってようやくマヌエル・ケソ ンが大統領に選ばれ、10 年かけてフィリピンの米国からの独立を準備するコモンウェルス 政府(米自治領政府)が発足した。しかし、その 10 年を経ずして太平洋戦争が勃発した。

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(6) 1940 年代前半 - 日本占領時代 日本軍は、1941 年 12 月 8 日の真珠湾攻撃による日米開戦と同時にマニラにも侵攻、同 月ダグラス・マッカーサーがマニラ湾のコレヒドール島に逃れ、1942 年 1 月 2 日に日本 軍がマニラを占領し、軍政を開始した。その後、4 月にバタアン半島、5 月にコレヒドー ル島の米比軍が日本軍に降伏、更に同月、米国極東陸軍(ユサフェ)の全軍が降伏を宣言 した。降伏後、米政府はフィリピン人による抗日ゲリラ部隊を組織して日本軍への抵抗を 続け、当時のマニュエル・ケソン大統領は、米国のワシントンで亡命政府を建てた。バタ アン半島での米比軍降伏後、日本軍が米比軍及び民間人の捕虜を収容所に移送する際、食 料や水も不十分な中、疲弊した捕虜を、炎天下、長距離徒歩で移動させた結果多数の死亡 者が出たことは、「バタアン死の行進」として広く知られている。バタアン陥落の 4 月 9 日は、「勇者の日」(Araw ng Kagitingan)として現在でもフィリピンの国民の休日となっ ている。 一方日本軍は、1943 年 10 月 14 日に軍政を終了させ、親日派のホセ・ラウレルを大統 領とするフィリピンの独立を認めたものの、実質的には軍政下と変わりなかった。1944 年に入ると戦局は米軍優勢となり、10 月にはマッカーサー率いる米軍がレイテ島に上陸。 マッカーサーと共に帰国したセルジオ・オスメニャ大統領がレイテ島タクロバンにコモン ウェルス政府を再開させた。1945 年 3 月、マニラ市街戦を制した米軍がマニラを制圧、8 月15 日に終戦を迎える。フィリピンでは、52 万人近くの日本人が戦没4している。 (7) 独立後のフィリピン、マルコス政権、戒厳令からエドサ革命まで 終戦の翌年、1946 年 7 月 4 日、フィリピンはマニュエル・ロハス大統領が就任し、米 国からの独立を宣言してフィリピン共和国が誕生したが、その後も米国の影響を強く受け 続けた。1965 年に就任したマルコス大統領は、経済政策などの実績が認められ 1969 年に 再選された。マルコス政権は、1972 年に戒厳令を布告、強権的な独裁政治で 20 年間に渡 ってフィリピン大統領としての権力を握ったが、1986 年、マルコスの政敵ベニグノ・アキ ノ元上院議員の暗殺や、大統領選挙での不正を機に起こった独裁支配に反対する民衆蜂起 による「エドサ革命」で失脚し、ハワイに亡命した。 (8) マルコス後、第 2 のエドサ革命とそれ以降のフィリピン マルコスの失脚後、フィリピンは暗殺されたベニグノ・アキノ元上院議員の夫人、コラ ソン・アキノ大統領が国家元首となるが、アキノ大統領在任中は国軍によるクーデター未 遂事件が7 回も起こり、バギオの大地震やビナツボ火山の爆発による大きな被害に見舞わ れ、それらがきっかけで駐比米軍の撤退が決定したほか、農地改革も進まず厳しい時代で あった。 1992 年に就任した軍人出身のフィデル・ラモス大統領は、規制緩和を推進し、電力供給

4 (出所)厚生労働省

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の安定化や比較的高い経済成長率の達成等、一定の成果を上げた。多くの日本企業がフィ リピンに製造拠点を作り始めたのもラモス政権期である。 ラモス大統領の任期満了後、1998 年の大統領選挙では大学中退、人気俳優出身のジョセ フ・エストラーダ大統領が誕生したが、不正蓄財疑惑によって2000 年 11 月に弾劾動議が 成立し、失脚した。当時副大統領だったグロリア・マカパガル・アロヨが大統領に昇格し、 フィリピンで2 人目の女性大統領となった。アロヨ大統領は 2004 年の選挙で再選され、 2010 年まで 10 年間大統領の座にあった。アロヨ政権期間中の 2006 年には日比二国間で の経済協力協定(JPEPA)が締結されている。又、アロヨ大統領の任期中、フィリピンは IT/BPO のオフショア拠点として世界中から認知が高まり、40 万人を超える雇用と売上 70 億ドルの産業に急成長した。 2010 年 5 月の大統領選挙では、故コラソン・アキノ大統領の息子であるベニグノ・ア キノ3 世(通称 ノイノイ)が勝利し、第 15 代大統領に就任した。 図表 1-4 フィリピンの歴史 年月 主な出来事 約3万年~ 2万5000年前 ネグリト民族がフィリピン諸島に移住。 紀元前1万~ 紀元前8000年 頃 フィリピン諸島に新石器文化を持った原始マレー人が定住し始める。 紀元前1500年 ~ 紀 元 前 800 年 農耕文化を持った古マレー人が定住し始める。 10世紀 現在のブラカン地区に、法律による支配が行き届いた成熟した社会が形成されてい たらしい5 982年 フィリピン諸島が「モ・イ」という地名で中国の史書「文献通考」に登場する。 14~15世紀 スールー諸島にイスラム教が伝わり、フィリピンで初のイスラム王国であるスールー 王国が誕生。 1521年 マゼラン一行がビサヤ地方サマール島に到着。 同年、マゼランは現セブ州マクタン島の首長ラプラプ軍との戦闘で殺される。 1543年 スペイン皇太子フェリペ2世の名にちなみ、現フィリピンが「イスラス・フィリピナス」(フィ リピナス諸島)と命名された。 1565年 スペインとのガレオン貿易が始まる。(1815年まで続く) 1571年 マニラを首都とし、スペインによる植民地支配が始まる。 1614年 キリスト教を信仰し、日本を追放されたキリシタン大名高山右近がマニラに到着。翌 年2月にマニラで死去。 1762年 マニラがイギリスに占領される(1763年にパリ条約が結ばれ、1764年に再度スペイン 統治に戻る)。 1834年 マニラが自由港として開港される。 1896年 フィリピンのスペインからの独立運動の指導者とされ、今日でも「国民的英雄」と称え

5 1990 年に発見された「ラグナ銅板碑文」記されていた内容(西暦 900 年の裁判記録のようなもの) から推察される。

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年月 主な出来事 られるホセ・リサールが、暴動を扇動したという容疑で銃殺刑となる。 1898年 米西戦争。6月12日、アギナルド将軍がカビテ州カウィットで独立を宣言。 12月10日、米西パリ講和条約調印。 スペインは米国にフィリピンを2,000万ドルで売却。米国によるフィリピン統治が始ま る。 1935年 独立準備政府(コモンウェルス)発足。 1942年 1月、日本軍がマニラを占領。軍政開始。 4月、バタアン半島陥落。 1946年 7月4日、米国から独立し、フィリピン共和国となる。 ロハス大統領就任。 1956年 日比賠償協定調印。日比の国交回復。 1965年 マルコス大統領就任。 1966年 アジア開発銀行(ADB)本部がマニラに設置される。 1972年 マルコス大統領が戒厳令布告。 ベニグノ・アキノ上院議員他の活動家らを一斉に逮捕。 1981年 戒厳令を解除。マルコス大統領三選。 1983年 8月、ベニグノ・アキノ元上院議員暗殺事件。 1985年 12月、上記暗殺事件の容疑者26名全員に無罪判決。 1986年 2月革命(ピープル・パワー、エドサ革命ともいう)によりマルコス大統領失脚。コラソン・ アキノ大統領就任。マルコス大統領はハワイに亡命。 1987年 新憲法(現行)制定。 1991年 ピナツボ火山爆発。 1992年 フィリピン国内の米軍基地が全て撤退。 ラモス大統領就任。 1998年 エストラーダ大統領就任。 2000年 エストラーダ大統領、不正蓄財疑惑に端を発した弾劾裁判と、第2のエドサ革命(ピー プルパワー2)により任期途中で失脚。 アロヨ副大統領が大統領に就任。 2006年 日本との間で2国間の経済協力協定(JPEPA)締結。 2009年 コラソン・アキノ元大統領死去。 2010年 ベニグノ・アキノ3世大統領就任。 2012年 アキノ政権、ミンダナオのモロ・イスラム解放戦線(MILF)と2016年の自治政府設立に 向けた枠組みで合意。 (出所) 鈴木静夫著 「物語 フィリピンの歴史」(中公新書)、及びフィリピン観光省によるフ ィリピン基本情報 (http://www.premium-philippines.com/info/history.html) 等より作成

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ひとくちメモ (1):フィリピンの財閥 フィリピンの主要な産業は財閥によって担われており、その存在は無視することができない。フィリピン における登録事業者数は約82 万社あり、その内 99.6%が零細中小企業である。「大企業」とされる土地を除 く総資産総額が1 億ペソ以上若しくは従業員数が 200 人以上の企業は約 0.4%、約 3,500 社である(2011 年)。 その内、フィリピン証券取引所への上場企業は292 社のみ(2013 年 4 月時点)である。中でも経済を握っ ているのが財閥であり、アヤラ財閥に代表されるスペイン系、そしてコファンコやヘンリー・シー等の中華 系がある。なお華僑系フィリピン人の数は全人口の 1%強に過ぎないが、経済の過半数を占めると言われて いる。 代表的な財閥の概要(2011 年資産額の高い順) *コファンコは 2012 年に経営権からは退いた。 (出所)各社年次報告書等より作成 小売(シューマート)や金融(バンコ・デ・オロ)、不動産事業を展開するヘンリー・シーは長者番付でも 連続フィリピントップの座を獲得しており、2013 年における総資産額は約 135 億ドル、フォーブスが毎年 発表している資産10 億ドル以上の世界億万長者ランキングの 2013 年版では世界 68 位であった。なお、当 世界長者番付にはフィリピン人が11 名含まれていた(世界で 1,426 名、日本人は 22 名)。シー財閥は国内 市場に留まらず、2012 年 12 月には中国で 5 つ目のショッピング・モールをオープンするなど海外展開にも 積極的である。又、フィリピン国内ビール市場のシェア95%以上を占め、キリンホールディングスも出資し ているサンミゲルグループ(元ソリアノ財閥、現コファンコ財閥)は、食品事業における海外メーカーの買 収、そして発送電・石油精製・鉱業・通信・インフラといった事業の多角化により業績を拡大させている。 一方、財閥の影響力はその莫大な資金力を梃子に政治や立法、行政にまで及んでいる。例えばフィリピン では選挙時に多大なキャンペーン費用がかかる。2010 年の大統領選で当選したコファンコ家のニノイ・アキ ノ大統領の場合、約4 億ペソを費やしたと報告されている(法律による上限は約 5 億ペソ。立候補者一人に つき有権者一人あたり各10 ペソまで)が、資産家でない候補者の場合、財閥を始めとしたビジネス界から の資金援助によって数千万~億単位の選挙キャンペーンを行う。 財閥と日系企業の関係を見ると、例えば日系商社が財閥と合弁で工業団地を開発・運営したり、財閥企業 との合弁や提携によって小売やインフラ事業に参入したりといった例が見られる。 名称 業種 主要企業 資産額 (2011年、 億ペソ) 売上高 (2011年、 億ペソ) コファンコ* (中華系)

食品、養鶏・飼料、航空 San Miguel Corporation(持株会社)、San Miguel Brewery(酒)、 San Miguel Pure Foods(食品)、Philippine Airlines(航空)

8,905 5,358

シー (中華系)

銀行、小売、不動産 SM Investments Corp.(持株会社)、Banco de Oro(銀行)、SM Department Stores, SM Supermarket, SM Hypermarket(小売)、 SM Prime Holdings, SM Land Inc., SM Development Corp (不動産)

4,491 2,003

アヤラ (スペイン系)

銀行、食品、通信、不動産 Ayala Corporation(持株会社)、Bank of the Philippine Island(銀行)、 Ayala Land(不動産)、Globe Telecom(通信)、Manila Water Co.(水道)、 IMI(電子)、Ayala Automotive Holdings(自動車)

3,576 1,075

ゴコンウェイ (中華系)

航空、小売、食品、石油化 学、繊維、通信、不動産

JG Summit Holdings(持株会社)、Cebu Pacific(航空)、Robinson's Land (不動産)、Universal Robina(食品)、Robinsons Supermarket(小売)

3,148 1,231

アンドリュー・タン (中華系)

酒、不動産、リゾート、食品 Alliance Global Group(持株会社)、Emperador Distillers(酒)、 Megaworld(不動産)、Golden Arches Development Corp(マクドナルド・フ ランチャイズ) 2,205 661 アボイティス (スペイン系) 電力、建設、不動産、造 船、金融、食品、リゾート

Aboitiz & Company, Inc、Aboitiz Equity Ventures(持株会社)、Aboitiz Power(電力)、UnionBank(金融)、Aboitiz Land(不動産)、Aboitiz Construction(建設)、Tsuneishi Heavy Industries(造船)等

2,010 720

コンスンジ (中華系)

建設、電力、水道、不動産 DMCI Holdings(持株会社)、D.M. Consunji, Inc.(建設)、DMCI Power Corp(電力)、DMCI Homes(不動産) 842 478 ロペス (中華系) 高速道路、水道、電力、通 信

Benpres Holding(持株会社)、MERALCO(電力)、Maynilad Water System(水道)、ABS-CBN(テレビ局) 771 250 ティ (中華系) 金融、不動産、自動車、卸 電力

Metrobank Group(金融)、Philippine Savings Bank(金融)、Federal Land (不動産)、Toyota Morter(自動車)、Global Business Power(卸電力)、 Philippine AXA Life Insurance Corp(保険)

701 80

ユーチェンコ (中華系)

銀行、建設、自動車、保険 House of Investments(持株会社)、Rizal Commercial Banking Corp(銀 行)、Great Pacific Life Assurance(保険)、EEI Corp(建設)

200 155

ルシオ・タン (中華系)

銀行、タバコ、農園、ビール Share Holdings(持株会社)、Philippine National Bank(銀行)、Allied Banking Corp(銀行)、Fortune Tabacco(タバコ)、Asia Brewery(ビー ル)、Eton Properties(不動産)

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11. 教育

(1) フィリピンの教育制度 フィリピンの義務教育は6 年である。初等教育への就学率は約 90%6、識字率は約95% と高いレベルにある7。フィリピンの教育制度は、ごく最近まで初等教育(義務教育の小学 校)6 年、中等教育(高校)4 年、高等教育(大学)4 年であった。大学入学前の教育が 10 年間 というのは、他のASEAN 諸国と比べて最も短く(図表 1-5)、これを他国並みにするため に2011 年から、「K to 12」8 と呼ばれる、幼稚園 1 年、初等教育 6 年、中等教育 6 年、 高等教育(大学)4 年というシステムへの移行が順次始まっている。 以前は、6 年間の小学校を卒業後は 4 年間の中等教育(ハイスクール)を経て大学進学と なっていたが、中等教育が2 年延長になり、4 年間のジュニアハイスクール(中学校)の 後は、大学進学前に2 年間のシニアハイスクール(高校)での教育を受ける事になる。 従来の制度では、フィリピンの大学卒業年齢は 20 歳であったが、新制度では日本と同 じく22 歳になる。2012 年 6 月、新制度の下での初めての小学 1 年生が入学した。現在の 計画では、2024 年に初めて K to 12 の全課程を終了した卒業生が大学を卒業する。2024 年までの移行期間中、2022 年と 2023 年には大学卒業生が極端に少なくなる事が予想され、 新卒者を採用する企業側は備えが必要になるであろう。 図表 1-5 アジア各国の教育と大学入学前の教育年数比較 国名 基礎教育年数 大学進学前の 教育年数 ブルネイ 11/12 13/15 カンボジア 12 13 インドネシア 12 13 ラオス 12 14 マレーシア 12 14/15 ミャンマー 11 12 フィリピン 10 10 シンガポール 11 12/14 タイ 12 12 ベトナム 12 14/15 (出所) SEAMEO-INNOTECH, 2011 のデータを元に作成された教育省(DepEd)、高等教育委員 会 (CHED)、技術教育技能開発庁(TESDA)による K to 12 パンフレット記載のデータより作成

6 (出所)外務省「諸外国・地域の学校情報」 フィリピン (http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/01asia/infoC11400.html)

7 (出所)UNESCO Institute for Statistics

8 「K to 12」とは、幼稚園 (Kindergarten)と、12 年間の基礎教育 (小学校 6 年、中学校 4 年、

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(2) フィリピンの高等教育

フィリピンの高等教育(大学)進学率は約 25%9である。フィリピンの主要な大学とし

ては、国立のフィリピン大学 (University of the Philippines)が最大で、マニラ首都圏ケ ソン市ディリマンキャンパスの他、ラグナ州ロスバニョス、ルソン島北部のバギオ市、パ ナイ島イロイロ州のイロイロ市などのキャンパスがある。私立大学としては、アテネオ・ デ・マニラ大学、デ・ラサール大学、サントトマス大学などが有名である。 図表 1-6 に示す通り、フィリピンの高等教育機関卒業生数は年間約 48 万人おり、その うちの約24%が経営/ビジネス関連学部、ほぼ同じ約 24%が医学及び医療関連の学部、次 いで約12%が教育学部、IT 関連と工学系の学部の卒業生がそれぞれ約 10%ずつとなって いる。医療関係を専攻する学生が多い理由は、看護師として海外で就労する事による高収 入を目指す者が多いためである。 図表 1-6 フィリピンの高等教育機関卒業生数 2010 年卒業 学部/学科 人数 構成比(%) 経営/ビジネス関連 117,339 24% 医学及び医療関連 115,466 24% 教育 56,209 12% IT 関連 49,913 10% 工学系 49,705 10% 海事 14,433 3% 社会/行動科学 12,602 3% 農林水産業 10,107 2% マスコミュニケーション 5,382 1% 人文 5,240 1% サービス 5,155 1% 自然科学 3,912 1% 法学 2,800 1% 芸術 2,361 0.5% 建築、都市計画 2,217 0.5% 数学 1,995 0.4% その他 27,026 6% 合計 481,862 100% (出所) 高等教育委員会(CHED)データより作成

9 (出所)外務省「諸外国・地域の学校情報」 フィリピン (http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/01asia/infoC11400.html)

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ひとくちメモ (2):外部機関からみたフィリピン政府のガバナンス評価

フィリピン政府のガバナンス力は、他のASEAN 諸国に比べて著しく劣っているのだろうか。この点につ いては、世界銀行とブルッキングス研究所が215 ヶ国を対象として、民間企業、市民、専門家等に対して行 っているサーベイ(Worldwide Governance Indicators)から示される 6 つの指標が参考になる。

6 つの指標とは、①民意と説明責任(Voice and Accountability)、②政治的安定と暴力のない社会(Political Stability and Absence of Violence/ Terrorism)、③政府の能力(Governance Effectiveness)、④規制監督の 質(Regulatory Quality)、⑤法の支配(Rule of Law)、⑥腐敗の抑制(Control of Corruption)であり、各 指標0~100 のスコア(パーセンタイル・ランク)で評価される。 フィリピン政府のガバナンス力は、ASEAN 加盟 10 ヶ国中 6 位であり、 2011 年の 6 指標の平均点は 35.8 とちょうど ASEAN10 ヶ国の中央値に 等しい(右図)。項目別にみると、相対的に高く評価されているのが、 「民意と説明責任」である。フィリピンのスコアは48.8 と、その他 9 ヶ国の平均(25.2)と比べて倍近く高い。又、「政府能力」も 55.9 と高めである(下図左)。一方、「政治的安定と暴力のない社会」 は9 と極めて低い評価である。 又、時系列で見ると、「民意と説明責任」は一貫してASEAN 他国より20 点以上高く、「政府の能力」は ASEAN 他国と同レベル 若しくは若干上回っており、2011 年に改善が見られた(下図右)。 1996 年以降大きく悪化し他国に 40 点近く差をつけられているのが 「政治的安定と暴力のない社会」と「腐敗の抑制」であり2011 年まで 過去数年改善は見られない。 2010 年に就任したアキノ大統領が最優先課題として掲げた「汚職撲滅」の結果が 2012 年以降に現れる ことを期待する。 項目別に見たフィリピンとASEAN 他国のスコア比較 フィリピンと ASEAN 他国のスコア差異推移 (注)フィリピンのスコアからフィリピンを除くASEAN 諸国の 平均スコアを引いたもの

(出所)World Bank 資料より作成(http://info.worldbank.org/governance/wgi/index.asp)

0 10 20 30 40 50 60 ①民意と説明責任 ②政治的安定と暴力の ない社会 ③政府能力 ④規制監督の質 ⑤法の支配 ⑥腐敗の抑制 フィリピン ASEAN平均(除くフィリピン) 国名 平均点 シンガポール 86.4 ブルネイ 72.4 マレーシア 60.9 タイ 43.1 インドネシア 35.9 フィリピン 35.8 ベトナム 34.0 カンボジア 24.5 ラオス 20.2 ミャンマー 4.1 平均値 41.7 中央値 35.8 -50 -40 -30 -20 -10 0 10 20 30 40 1996 1998 2000 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 ①民意と説明責任 ②政治的安定と暴力のない社会 ③政府の能力 ④規制監督の質 ⑤法の支配 ⑥腐敗の抑制

参照

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