106 東京経済大学 人文自然科学論集 第一四五号 一 ( Kritik )で あ (1 ( る 。本 節 で は ま ず、こ の 論 点 に か か わ る ア ド ル ノ の主張を確認することからはじめたい。 (一)他律への抵抗 自 律 と い う こ と が ら の す ぐ れ た 実 質 と な る の は、 「抵 抗」で あ り、 「批判」である。いいかえれば、 「他律」に対する抵抗、つま り(すでに第三節で確認した、他律についてのアドルノの視点を ふ ま え て い え ば) 、既 存 の も の、与 え ら れ た も の に 適 応 し、同 化 してしまうことへの抵抗、そのことにこそ自律の積極的な内実が ある。こうしたアドルノの視点は、さまざまなテクストのうちに 見いだされるものであるが( cf. GS. 8. 138 ; GS. 10. 464, 604, 644 ; GS. 20. 3 (2 ( 35f. )、こ こ で は さ し あ た り、本 稿 の こ れ か ら の 議 論 に 少 し 関 連 す る こ と に も な る た め、直 接 に は「成 熟 性」 ( Mündig -keit )と い う 自 律 と 重 な る 概 念 を め ぐ っ て 述 べ ら れ た 関 連 す る 一 節を、あるエッセイの冒頭部から引いておく。 一 はじめに 二 問題の設定 三 自律と他律 四 抑圧としての自己支配 五 他律としての自律 (以上、一四四号) 六 抵抗と批判 (以下、本号) 七 〈開かれること〉としての自律 八 結びにかえて
六
抵抗と批判
何ほどか確固とした自己のあり方を前提とし、自己支配と重な りあうような自律の概念を批判するアドルノの視点は、しかし同 時に、すぐれた意味での自律の概念を探り出すことに向けられて いる。そうしたアドルノの視点にあって自律の積極的要素とみな されているのは、まずは「抵抗」 ( Widerstand )、ないし「批判」 論 文〈開かれること〉としての自律
―
アドルノにおける「自律」概念の再構成(下)―
麻
生
博
之
〈開かれること〉としての自律
二
weil er für sich selbst gedacht hat
)といった「後見をもたない」 ( nicht bevormundet werden )自律的なあり方は、実際のところ は、 「あ ら か じ め 与 え ら れ た 見 解」や「と も か く も 現 存 し て い る さまざまな慣例」にそのまま適応することを拒み、そうした既存 のものごとに対して批判的に向きあうことができるような力にお いてこそ、実質的に示されることになる。他律に対する抵抗にこ そ自律のすぐれた実質を見いだそうとするこうしたアドルノの視 点 は ま た、 「成 熟 性 へ の 教 育」と 題 さ れ た あ る 対 談 で の 次 の よ う な発言にも明確に示されている。 ……今日、成熟性が具体化することになる形態、それをあら かじめ簡単に想定しておくことはまったくできません。なぜ なら、そうした形態はおそらく、私たちの生活のあらゆると ころで、まさしく実際にそのあらゆるところで、そもそもは じめてつくり出されなければならないはずのものであるから です。したがって、成熟性のそれだけが現実的な具体化は、 そうするつもりのあるわずかな人びとが全力をあげて、教育 が異議申し立てへの、そして抵抗への教育であるように企て ることにあるのです。 ( EzM. 145 ) 成熟性の、あるいは自律の現実的な「具体化」のためには、ま ず は「異 議 申 し 立 て へ の、そ し て 抵 抗 へ の 教 育」 ( eine Erzie-hung zum Widerspruch und zum Widerstand )を実現すること ができなければならない。与えられた知識やすでにある現状に簡 民主主義の前提、すなわち成熟性は、批判と対になっている。 成熟しているのは、自分自身で考えたがゆえに自分自身で話 し、たんに受け売りで話すことをしない者、つまりは、後見 をもたない者である。そのことが示されるのは、しかし、あ らかじめ与えられた見解に対して抵抗する力においてであり、 そしてまたそれと同じことであるが、ともかくも現存してい る さ ま ざ ま な 慣 例 に 対 し て 抵 抗 す る 力 に お い て で あ る。 ( GS. 10. 785 ) 「成 熟 性」と は、よ く 知 ら れ て い る よ う に、カ ン ト が 論 文「啓 蒙とは何か」において「啓蒙」を規定するうえで(否定形におい て)用いた概念で あ (3 ( る 。それは、カントの思考にあっても実質的 には、いわば自ら考え行為するという広義の自律と重なりあう概 念であったといえ る (4 ( が 、アドルノは、たとえば啓蒙をめぐるカン ト の 思 考 の 核 心 と な る も の を「自 律 的 で 成 熟 し た 人 間 と い う 理 念」 ( EzM. 107 )と 規 定 す る よ う に、し ば し ば 明 示 的 に 成 熟 性 を 自 律 と 等 置 し て
―
「自 律、す な わ ち 成 熟 性」 ( die Autonomie, also die Mündigkeit )( EzM. 136 )といったかたちで―
用いて いる( cf. GS. 8. 535 ; NS. IV-15. 2 (5 ( 57 )。 そうした成熟性ということがら、それゆえ自律は、しかし先の 一 節 に 示 さ れ て い る ア ド ル ノ の 視 点 か ら す れ ば、あ く ま で「批 判」と「対になっている」 。つまり、他律に抵抗する力において、 はじめてその実質が「示される」ものである。たとえば「自分自 身で考えたがゆえに自分自身で話す」 ( für sich selbst sprechen,104 東京経済大学 人文自然科学論集 第一四五号 三 さしあたっては当然のものとも思われるこうした疑問は、しか しながら、アドルノの思考に対してはあたらない。なぜなら、ひ とまず簡潔にいえば、これもまたすでに見たとおり、自律概念に 対するアドルノの批判のひとつの要点は、しばしば想定される意 味での自律について、じつはそのものが「他律」の要素をはらむ ことを主張する点にあったためである。そしてそれゆえにまた、 他律への抵抗とは、同時にいわば、ある意味での「自律」への、 あるいは「自己」への抵抗ないし批判を意味することになるため で あ る。他 律 へ の 抵 抗 と い う 自 律 の 積 極 的 概 念 に は、 「批 判 的 な 自己反省」という要素が含まれることになるこの点について、次 にもう少し立ち入って確認しておきたい。 (二) 「自己」への抵抗 これまで想定されてきた自律の概念は、じつはしばしば逆説的 にも、他律を意味するものとなっている。そのように考えるアド ルノの視点については、すでに第五節で確認した。たとえば個人 の自律、自己決定とみなされるものについても、そこで自分自身 の欲求・好み・意見等々として想定されているものは、むしろ他 者たちとの社会的関係、世界との関係のなかでこそかたちづくら れ、何ほどか他律的なかたちで可能になっている。あるいはまた、 自己支配というあり方について考えてみても、それはいわば内面 化された他律となっているだけでなく、そこに前提される硬く堅 固な自己のありようそのものが、ともかくも現にある既存の外的 な事物のあり方へと適応し同化することにその起源をもっている。 単に適応してしまうことなく、むしろそれらを批判的に疑い、あ るいはそれに抗うことが可能であることにおいて、はじめて成熟 性、自律は具体的なものとなりうる。 他律に対する抵抗こそが自律の実質となる。自律の積極的概念 をめぐるこうしたアドルノの視点に対しては、しかしここでひと まず粗描したかぎりでは、おそらくさまざまな疑問が向けられう るように思われる。まずさしあたって生じざるをえないと思われ るのは、他律への抵抗として自律を積極的に把握するアドルノの 視点と、これまでいくつかの論点にわたって確認してきた自律概 念に対するその批判との関係にかかわる疑問であろう。 すでに見たとおりアドルノは、いわゆる個人の自律についても、 カントが想定するような強意の自律についても、それらが堅固な 自己を前提とし、抑圧としての自己支配と結びつくかぎりで、き びしく批判を向けていた。しかしながら、アドルノの思考におい て批判されるそうした自律のあり方は、じつはそのものが、他律 への抵抗という積極的な自律の概念と十分に両立しうるものでは ないのだろうか。たとえば、カントが主張する理性的な自己規定 についてはもちろん、ミルが想定しているような個人の自己決定 についても、そうした自律を貫くことは、しばしば同時に、外部 から与えられ課されるものごとを拒否し、それに抵抗することを 意味することになるはずで あ (6 ( る 。そうである以上、それらの自律 の概念を強く批判する一方で、他律への抵抗という点には自律の すぐれた要素を積極的に見いだそうとすることは、およそ不整合 であるといわざるをえないのではないだろうか。
〈開かれること〉としての自律 四 るとすれば、それはそもそも批判的な自己反省に向けた教育 としてだけでしょう。 ( GS. 10. 676 ) 「自 分 た ち の 憎 悪 と 攻 撃 的 な 憤 怒 を 殺 害 さ れ た 者 た ち に 向 け て 発散させ」ることを阻止するためには、つまりはアウシュヴィッ ツ の 再 来 を 防 ぐ た め に は、何 が 必 要 な の か。 「批 判 的 な 自 己 反 省 に向けた教育」がそれである。このように主張するアドルノの視 点について、ここでもう少し言葉を足しておく。つまり、これま で確認してきたいくつかの関連する論点と関係づけながら、少し 具体的なかたちで整理してみることにする。 ま ず、同 じ 講 演 の な か の す で に 引 い た 一 節 で は、 「ア ウ シ ュ ヴ ィッツの原理に逆らう唯一本当の力」となるものが「自律」と規 定されていた。そして先ほど確認したとおり、自律の実質は他律 に対する「抵抗」として把握され、成熟性の具体化には「抵抗へ の教育」の実現が不可欠とみなされていた。アウシュヴィッツの 再来を阻むためには、たしかにまずは、現存し続けている反ユダ ヤ主義、多様なレベルでの民族・人種差別や優生思想等を喧伝す る言説に適応してしまうことなく、それに対して批判的に抗い、 断固として抵抗しうること、その意味での自律が、いうまでもな く不可欠であろう。とはいえ、そうした抵抗の対象が、ただ外部 にのみ想定されるのでは、じつはまったく不十分である。たとえ ば典型的には、さまざまなかたちをとった反ユダヤ主義や優生思 想を内面化し、それに同化してしまうような事態がたえず可能で ある 以 (8 ( 上 、抵抗とは同時に、ほかならぬ自分自身の欲求・好み・ アドルノはこのように主張していた。 そうであるとすれば、しかし抵抗としての自律とは、たんに文 字どおりの「他律」に対する抵抗、批判を意味するだけではあり えないことになる。同時にそれは、いわば他律としての「自律」 に対する批判であり、あるいはまた、そのような自律の主体とな る「自己」そのものに対する抵抗であるのでもなければならない。 つまりは、そうした意味で自己自身のありように対しても抗い、 批 判 的 に 向 き あ う「批 判 的 な 自 己 反 省」 ( kritische Selbstreflexi-on )、あ る い は「批 判 的 な 自 己 省 察( Selbstbesinnung )」こ そ が、 アドルノの視点からすればまた、自律の積極的概念をなすものと な (7 ( る 。 本 稿 の や や 初 め に(第 二 節 の な か で) 、ア ド ル ノ の テ ク ス ト に お け る 自 律 の 用 例 を 確 認 す る う え で、 「ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ 以 後 の 教育」と題された講演から印象的な一節を引いておいた。同じ講 演のその一節に少し先立つ箇所で、たとえばアドルノは、いわば 「ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ」を 相 対 化 し よ う と す る 歴 史 修 正 主 義 的 な 傾 向を批判しながら、次のように述べている。 殺害された者たちに罪はありません。……罪があるのは唯一、 省察することなしに自分たちの憎悪と攻撃的な憤怒を殺害さ れた者たちに向けて発散させた人びとだけです。そのような 省察を欠いたあり方が阻止されなければならないのであり、 人間は、自ら自身に反省を向けることなく外部に向かうこと を、やめなければならないのです。もしも教育が有意味であ
102 東京経済大学 人文自然科学論集 第一四五号 五 するということは、あらためて考えてみれば、はてしてどのよう にして可能なのだろうか。たとえば、もともとは外部から与えら れたはずの既存の規範やイデオロギーに、むしろすっかり順応し、 それを深く内面化してしまっているといった場合、もしくは、硬 く堅固な自己であることがいわば常態化し、自己目的にさえなっ ているという場合、いったい自己反省はいかにしてはじまること が可能なのだろうか。そしてまた、自律概念とのかかわりそのも のについてもあらためて疑問が生じざるをえないように思われる。 というのも、抵抗としての自律とは、これまで確認してきたかぎ りでは、他律に対し徹底して抵抗し批判を行うというもっぱら否 定的なことがらであるはずであり、しかも「自己」そのものに対 しても批判的に抗うべきものであった以上、それはもはや、自律 のいわばミニマムの意味となる「自己」規定、つまり「自ら」考 え決定するということがらとさえ、ほとんど結びつけて考えるこ と が で き な い よ う に 思 わ れ る た め で あ る。そ し て そ の か ぎ り、 (第三節で確認しておいたような、 )少なくとも「自己規定」とい う意味での自律の概念そのものは共有しているはずのアドルノ自 身の視点が、いわば宙に浮いてしまうことになるのではないか、 そう思われるのである。 アドルノが考える自律の積極的概念、すなわち抵抗としての自 律の概念は、しかしじつはたんに否定的なものなのでは な ((( ( い 。む しろ先どりしていうなら、既存のものではない何かに開かれ、そ れに呼応することができるということ、そうしたことにこそ、よ り積極的なその実質が想定されているといえる。そしてそのよう 考え方等に対する批判的な反省でもありえなければならないはず である。あるいはまた、迫害や暴力を追認し、それに加担するこ とになるような、他者に対する「無関心」ないし「冷淡さ」が、 (すでに言及したように、 )抑圧としての自己支配に、そしてそこ に前提される堅固な自己のあり方に基づくのだとす れ (( ( ば 、抵抗と はまさに、当の頑なな自己支配に対する抵抗であり、そしてまた 硬く堅固な自己のありようそれ自身に対する批判であるのでなけ ればなら な ((1 ( い 。 抵抗としての自律とは、文字どおりの他律に対する抵抗である とともに、自律というかたちをとった他律に対する抵抗であり、 そこに前提される自己のあり方そのものについての批判的反省で な け れ ば な ら な い。 「自 ら に 対 し て 批 判 的 に 抗 う( sich kritisch wenden gegen sich )ことができる」ものこそが、すぐれて「自 律 的 な 自 我」な の で あ る( GS. 7. 178 )。こ う し て ア ド ル ノ の 視 点 にとっては、他律に対する断固とした抵抗、批判的な自己反省と なりうるような徹底した批判、まずはそこに、すぐれた意味での 自律の概念が見いだされていることになる。抵抗もしくは批判と しての自律というこうしたことがらは、とはいえ、あらためて少 しつきはなして考えてみるならば、はたしてどれほど自明なもの だろうか。少なくもこれまでの議論の範囲においては、その成り 立ち、またありようについて、むしろいくつもの疑問が生じてこ ざるをえないようにも思われる。 たとえばまず、その実際の可能性についての疑問が生じうるで あろう。つまり、自己自身のあり方に抗い、それを批判的に反省
〈開かれること〉としての自律 六 からはじめたい。 (一) 「経験」と自律 「経 験」の 概 念 は、ア ド ル ノ の 哲 学 的 思 考 に と っ て き わ め て 重 要な核心的概念のひとつとなるもので あ ((1 ( る 。たとえばアドルノは、 あるべき認識の成り立ちにかかわる議論において、そしてまた広 く 実 践 や 倫 理、芸 術、文 化 等 め ぐ る 多 様 な 議 論 の な か で、 「経 験 をなす能力」 ( Fähigkeit, Erfahrung zu machen )の決定的な意 義についてくりかえし論じている。そのような経験の概念につい て、ところでアドルノは、ときに自律の概念と、またそれをめぐ る諸概念と重ねて論じてもいる。ここでもやはり、教育をめぐる ある対談から、それにあたる一節を引いてみる。さしあたっては 意識ないし思考のあり方に言及しながら、アドルノはこう述べて いる。 ……ほんらい意識というものをかたちづくっているのは、現 実へと、つまり内容へとかかわる思考であって、すなわち、 主観におけるさまざまな思考の形式や構造と、それ自体は主 観ではないものとの関係です。こうしたより深い意味での意 識ないし思考能力は、たんに形式論理的な過程なのではあり ません。それは文字どおり、経験をなす能力と一致するので す。考えることと精神的な経験をなすことは同じひとつのこ となのだ、そう私は言いたいと思います。そのかぎり、経験 への教育と成熟性への教育は、私たちが詳しく述べようとし な意味での自律のありようにおいては、同時にまた、批判的な自 己反省のいわば起点について一定の見通しをつけることができる ようになるだけでなく、自己規定ということがらとの連関につい て 洞 察 す る こ と も 可 能 に な る よ う に 思 わ れ る。た だ し、い わ ば 〈開 か れ る こ と〉と し て、抵 抗 な い し 批 判 を、つ ま り は 自 律 を 捉 えようとするそうしたアドルノの思考の道筋を明らかにするため には、少なからず入りくんだ議論が必要となる。節をあらためて その議論に踏み込んでみることにしたい。
七
〈開かれること〉としての自律
他律に抵抗し、自己に対して批判的に抗いうることにすぐれた 実質が見いだされる自律の概念は、じつはただ否定的なあり方に 尽きるものではない。むしろアドルノの思考を少していねいに辿 ってゆくなら、いわば既存のものを超え出る何かへと開かれ、現 にあるものでない何かに呼応してゆくようなあり方にこそ、その より積極的な実質が見いだされていることになる。ただし、そう したアドルノの視点は、じつはテクストのなかで必ずしも直截に 示されているものとはいいがたい。それはむしろ何らかの他の概 念を介在させることで、はじめて明確になってくるものであるよ うに思われる。そのためのひとつの決定的な鍵となるのは、すぐ れ た 意 味 で の「経 験」 ( Erfahrung )の 概 念 で あ る。ま ず は、 (お そらくは意外にも、 )積極的な意味での「自律」の概念を「経験」 のそれと重ねあわせるアドルノの視点について確認しておくこと100 東京経済大学 人文自然科学論集 第一四五号 七 うか。 そ れ は 端 的 に い え ば、ア ド ル ノ の 視 点 に あ っ て は、す ぐ れ た 「経験」の概念のもとに見込まれている特質こそが、 「自律」の実 質とみなされていることがらのさらなる内実を意味することにな るからである。後者が、他律に対する、つまり既存のものごとへ の適応に対する抵抗であり、同時に批判的な自己反省を意味する ことについては、すでに立ち入って確認した。それでは、前者に あたるのはどのようなことがらなのだろうか。ひとことでいえば、 それは「開かれる」ことである。つまり、既存のものではない何 かへと開かれ、呼応しうるようなあり方がそれにあたる。とはい え、そのような経験の特質とみなされることがらは、そのものに ついてもう少し説明が必要であるだけではなく、そもそも自律の 概念との結びつきにかんしても自明ではない。批判的な自己反省 ともなる抵抗は、なぜ「開かれる」ことと重なりあうことになる のだろうか。以下では、このことを考えてみるため、まずはアド ルノが考える経験のひとつの特質についてあらためて確認するこ とから出発したい。 (二)開かれることと批判 アドルノの思考において、すぐれた意味での経験の概念にはさ まざまな特質が見込まれている。そのうちで、おそらくは決定的 なもののひとつとなるのが、いわば既存のものではない何かへと 開かれ、呼応するというあり方である。たとえば、 「音楽社会学」 を め ぐ る 講 義 を も と に し た あ る テ ク ス ト の な か で は、 「経 験 を な てきたように、互いに同一なの で ((1 ( す 。( EzM. 116 ) 思考というものは元来、 「現実へと、つまり内容へとかかわる」 も の で あ り、 「そ れ 自 体 は 主 観 で は な い も の」と 関 係 す る。そ れ ゆ え に、 「経 験 を な す こ と」と 思 考 す る こ と は じ つ は 一 致 し、そ の か ぎ り で、 「経 験 へ の 教 育」と「成 熟 性 へ の 教 育」は「互 い に 同 一」で あ る こ と に な る。 「経 験 を な す 能 力」を 育 む こ と は、つ まり、自ら思考することができ、自律的であることが可能となる ようにし向けることと、同じことがらである。別のテクストの言 葉 づ か い に そ く し て い え ば、 「経 験」の 能 力 を も つ こ と と「自 己 規定的な存在」 ( selbstbestimmtes Wesen )であること、あるい は、 「経 験 を な す こ と」と「何 ら か の こ と が ら に 対 し て 自 由 に ま た自律的にふるまうこと」 ( zu irgendeiner Sache frei und au -tonom sich zu verhalten )、この両者は不可分に結びあい、重な りあっている( GS. 10. 683f., 482 )。 このように経験の概念と自律のそれとを重ねあわせるアドルノ の視点は、しかしむろん、にわかには理解しがたいものであろう。 経験と自律ということがらにかんする通常の捉え方
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たとえば、 経験をまずは知のあり方にかかわる何ほどか受動的な働きとして、 そして自律を行為主体のすぐれて能動的なあり方として想定する ような見方―
からすればいうまでもなく、これまでに確認して きたアドルノ自身の自律の概念をふまえてみても、やはりただち に了解することは難しいはずである。いったいなぜ、あるいはど のような意味で、経験と自律とは重ねあわせて把握されるのだろ〈開かれること〉としての自律 八 でに(第二節で)言及したアドルノの鍵概念にそくしていえば、 「客 体 へ の 自 由」 ( ibid. )
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こ そ が、す ぐ れ た 意 味 で の 経 験 の 譲 りえない特質をなすことになる。 経験の特質をこのように際立たせるアドルノの視点に対しては、 とはいえ少し疑問が生じるかもしれない。というのも、新しいも のに開かれるということがらが経験の特質となることは、考えて みれば、ごくトリヴィアルなことであり、ことさらに述べたてる 必要はないようにも思われるからである。アドルノの視点からす れば、しかしそのことは、やはりすぐれた経験のあり方として強 く確認されておかれなければならない。なぜなら、知の成り立ち に は「同 一 化」 ( das Identifizieren )と い う 概 念 的 思 考 の 働 き―
あるものを概念の下に包摂し、何かとして同定する作用―
が避けがたく伴われている、そうアドルノは考えるからで あ ((1 ( る 。 人が経験のうちで何かあるものごとを知る場合、そこではすでに この同一化が作用している。つまり、世界のなかでそのつど新た に出くわす経験の内容を、既存の概念の下に包摂し、既知の何か として同定することが、いいかえれば、すでに見知った「カテゴ リ ー の 類 例」 ( NS. IV-16. 123 )と し て と り 押 さ え る こ と が 生 起 し て い る。あ る 講 義 に お け る ア ド ル ノ の 言 葉 に そ く し て い え ば、 「主 観 は、自 ら が 経 験 す る も の を、い わ ば 暴 力 的 に 概 念 の 下 に 呪 縛 す る( bannen )」の で あ り、そ の こ と に よ っ て 経 験 の 内 容 に 「閉 ざ さ れ た 性 格」 ( geschlossener Charakter )を も た ら す の で ある( NS. IV-(. 3( 1 )。 こ う し て、し ば し ば 経 験 に お い て は、 「外 部 か ら ふ り か か っ て す能力」にかんして端的にこう述べられている。 ……経験をなす能力は、まだ整理されていないもの、是認さ れていないもの、固定的なカテゴリーに包摂されていないも のへとかかわる構えのうちで具体化する。……経験そのもの の可能性と、新しいものに呼応する可能性とは、同一のもの である。もしも素朴という概念にまだ何か正当な意味がある と す れ ば、そ れ は こ の よ う な 能 力 の こ と で あ ろ う。 ( GS. 14. 377 ) 「経 験 を な す 能 力」は、い わ ば「固 定 的 な カ テ ゴ リ ー に 包 摂 さ れていないもの」へと「かかわる」 ( sich einlassen )能力として はじめて具体化する。あるいは、 「経験そのものの可能性」とは、 す な わ ち、 「新 し い も の に 呼 応 す る 可 能 性」 ( die [ Möglichkeit ], auf Neues anzusprechen )の こ と で あ る。新 し い も の、つ ま り 既存のものではない何か、それゆえ既知のものごとを超え出る何 ごとか、そうしたものごとへとかかわり、呼応することができる というまさにそのことにおいて、ほんらい経験は可能となる。な ぜなら、少し粗っぽくいえば、経験とはたんなる分析判断、ある いはトートロジーではないからであり、そこではそれゆえに、何 ほどか新しいものごとへのかかわりが不可欠であるはずだからで あ る( cf. NS. IV-(. 3( 2f.; NS. IV-16. 123 )。ま さ に そ の か ぎ り、 新しいものへと、既存のものごとではない何かへと「開かれてい る こ と」 ( Aufgeschlossenheit )( GS. 14. 377 )―
す な わ ち、す(8 東京経済大学 人文自然科学論集 第一四五号 九 としての自らのあり方を揺らぐことのない何か絶対的なものとみ なすこと、そうしたことから当の主観を「守る」のは、ただ「批 判的な自己反省」だけである。そのつどの経験の内容に対する同 一化のありようを批判的に反省し、自らがつくった「壁」に抗う こ と
―
す な わ ち、 「主 観 が 自 ら 客 観 の ま わ り に 織 り な し た ベ ー ルを引き裂く」こと、それゆえ「客観に対する暴力」を「破壊す る こ と」 ( GS. 10. 752 )―
、そ の よ う な 自 己 反 省 こ そ が、閉 ざ された知の圏域からの脱出を可能とし、つまりは、既存のもので はない何かへと開かれ、呼応するという、すぐれた意味での経験 のあり方を、実質的にはじめて可能にする。まさにそれゆえに、 「自 己 反 省」と は い わ ば、す ぐ れ た「経 験」に と っ て の「酵 素」 ( Ferment )で あ り( GS. 6. 57 )、あ る い は 逆 に、 「自 己 省 察 の 欠 如」 ( mangelnde Selbstbesinnung )は そ の ま ま「経 験 す る 能 力 の欠如」 ( mangelnde Fähigkeit zur Erfahrung )を意味すること になる( GS. 10. 561 )。 こうした批判的な自己反省は、とはいえむろん、必ずしも容易 なものではない。むしろしばしばきわめて困難である。なぜなら、 経験の成り立ちにとって思考の働きはやはり不可欠であり、そし て「思考するとは、すなわち同一化することである」 ( GS. 6. 17 ) からである。しかしその一方で、経験とはあくまで、世界のなか で現に生をいとなむ主体がなすものである。経験の内容は世界か ら否応なく到来し、しかも何ほどか「身体の反応」と一体化した 情 動 的、非 認 知 的 な か た ち で 受 容 さ れ る( NS. IV-(. 5 ((1 ( 11ff . )。そ のかぎり、経験の内容そのものには、同一化という概念的思考の く る」そ の 内 容( NS. IV-(. 3( 2 )が、そ れ ゆ え ま た 既 知 の も の ご とではないはずの何かが、むしろ主観にとって何ほどか既知のも のの下に包摂され、既存の主観における知の圏域のうちに閉ざさ れてしまっていることになる。もしもそうだとすれば、そのよう な閉ざされた経験のあり方から、あるいはいわば「主観の自らの う ち へ の 囚 わ れ 」(Gefangenschaft des Subjekts in
s ((1 ( ich )( GS. 10. 74 ( )か ら 脱 し て、新 た な も の へ と 開 か れ、そ れ に 呼 応 す る と い うことは、いかにして可能であろうか。すなわち、すぐれた経験 のあり方に向かうことは、いかにすれば可能なのだろうか。その ために不可欠であるとアドルノが考えるもの、それが批判的な自 己反省であり、総じて批判ということがらである。 『否定弁証法』 のなかの、思考による「論証」と「経験」とのかかわりを主題と した一節から、短く引いてみる。 ただ批判的な自己反省だけが、主観の充足が陥る偏狭さから、 そ し て ま た、 [主 観 が]自 ら と 客 観 の あ い だ に 壁 を つ く り、 自らの対自存在を即かつ対自的なものとして想定することか ら、当の主観を守るのである。 ( GS. 6. 41. [ ]は筆者) 主 観 が 自 ら と 客 観 と の あ い だ に「壁」を つ く り、 「自 ら の 対 自 存在を即かつ対自的なもの( das An und für sich )として想定 する」こと、いわば経験の内容となるものごとへとそのつど開か れるのではなく、むしろたえずそれを同一化して自らの知の圏域 のうちにとり込むこと、そしてまた同一化を遂行する思考の主体
〈開かれること〉としての自律 一〇 の実質が見いだされるがゆえに、ただちにまた、そうした批判が 可能にすることがらを、すなわち既存のものごとではない何かに 開かれ、呼応するというあり方を、より積極的なその内実として い る こ と に な る。 「開 か れ て い る こ と に 向 か う」 ( zur Aufge -schlossenheit tendieren )こ と、そ れ が つ ま り は「自 律 的」で あ るということである( GS. 14. 377 )。 あらためて整理しながら少しだけ具体的に考えてみよう。まず、 アドルノの視点にあって自律とは、他律に対する抵抗であり、同 時にそれは自己自身に対する抵抗、すなわち批判的な自己反省を 意味するものであった。したがって自律的であるとは、たとえば、 現存する世界ないし社会における支配的な規範やイデオロギーに 抵抗できるということであるとともに、何らかの既存の規範やイ デオロギーといったものに順応している自らのあり方についても 反省をくわえ、それを批判することができるということである。 あるいはまた、他者に対する「冷淡さ」に帰結するような頑なな 自己支配のあり方を、そしてそこに前提されている硬く堅固な自 己のありようそのものを問いただし、それに抗うことができると いうことである。 そのような抵抗としての自律とは、しかしたんに否定的なこと がらなのではない。たとえば、既存の抑圧的なイデオロギーに順 応している自らのあり方に抗うこと
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それゆえまたその前提と なっている現実の抑圧的イデオロギー自体にも抵抗すること―
は、むしろ同時に、そのようなイデオロギーにそくして調整され た知において同一化され、それに覆われてしまっていた世界のあ 認知的な作用からはいつでもすでに逃れさり、それによっては十 全に包摂しえない多様な要素がはらまれうることになる。そして それゆえに、同一化の営みはつねにどこかしら綻びを生じ、何ほ どかわりきれなさを引き起こす可能性を伴っている。 自己反省が少なくとも可能である、そう考えることができるの は、まさにこのためである。つまり、たとえば(アドルノがしば し ば 用 い る 概 念 に そ く し て い え ば)あ る 種 の「矛 盾」 ( Wider -spruch )と し て も 現 わ れ る よ う な、そ う し た 同 一 化 の 綻 び を 起 点とすることでこそ、経験の成り立ちに不可欠でもある同一化の そのつどのあり方を、そしてまた、思考する主観が陥ることにな る「自らのうちへの囚われ」を問いに付し、それに批判的に抗う こ と が 可 能 に な る。い わ ば「概 念 か ら 逃 れ さ る」 ( dem Begriff entfliehen )も の に「そ く し て」こ そ「自 ら を 吟 味 す る」こ と ( GS. 6. 358 )、ま さ に そ う し た か た ち で 自 己 反 省 と い う 批 判 の 営 みが可能であることにおいて、すぐれた意味での経験は、つまり 既存のものごとではない何か、既知のものを超え出る何かへと開 かれることは、現実に生起しうることになるので あ ((1 ( る 。 (三)開かれることとしての自律 こうして、批判的な自己反省ということがらがすぐれた経験の 概念となぜ重なりあうことになるのか、その点はひとまず明らか になった。そして、まさにそのことによって、アドルノの考える 「自 律」の さ ら な る 内 実 が 同 時 に 見 定 め ら れ た こ と に も な る。自 律ということがらは、自己反省という徹底した批判のあり方にそ(6 東京経済大学 人文自然科学論集 第一四五号 一一 た思考は、そのうちに蓄積された経験の総体を対象に向け、 対象を覆っている社会的な網を引き裂き、その対象を新たに 見いだす。 ( GS. 10. 468 ) 既 存 の も の ご と に 対 す る 批 判 は、 「対 象 を 覆 っ て い る 社 会 的 な 網」 、い わ ば 現 存 す る 世 界 の な か で 成 り 立 つ「呪 縛」と し て の 知 の あ り よ う を「引 き 裂 く」 ( zerreißen )こ と に お い て、 「そ の 対 象を新たに見いだす( neu gewahren )」ものとなる。そのような 「開 か れ た」 ( offen )思 考 の あ り 方、つ ま り は「客 体 に 対 し て 自 由な」ありようこそが、すぐれて「精神的自由」の、つまりは自 律の形態となる。 〈開かれること〉として自律は あ ((1 ( る 。 アドルノの思考における積極的な自律の概念は、こうしてひと まず見通しのつくものとなった。とはいえおそらくは、なお問わ れておくべきことが残されているように思われる。それは前節の 最 後 に ふ れ て お い た、 「自 己 規 定」と い う 自 律 の 捉 え 方 に 関 連 し た論点である。本節の最後にこの点について考えておきたい。 (四)実定的なあり方を超え出る「自己」 他律への抵抗、それゆえまた「自己」に対する批判において、 既存のものごとではない何かへと開かれること、そのことこそが すぐれた意味での自律となる。アドルノが考えるそうした自律の 概念は、これまで立ち入って確認してきたように、たんに否定的 なもの、批判に終始するだけのものではない。とはいえそれは、 いわば「自己」からの解放、自己から「抜け出す」ことを意味す り方へと新たに開かれ、それに呼応することを可能にする。ある いは、頑なな自己支配に批判を向け、堅固な自己のあり方を問い ただすということは、ただちにまた、自己支配を貫こうとする自 己のあり方からいわば意味づけをされ、そうした自己にとっては なかば閉ざされていた他者のありようへと開かれ、それに応答し てゆくことを可能にする。自律のより積極的な実質となるのは、 まさにこうした点である。既存のものへの適応に、そして自己自 身への囚われに批判的に抗うそのことにおいて、既存のものごと を超え、新たな世界や他者のありようへと呼応することに向かう こと、そこにこそすぐれた意味での「自律」の内実が見いだされ るのである。 すでに(第三節のなかで)指摘しておいたとおり、アドルノの 視点にあって、自律は「精神的自由」と等置されてもいた。哲学 的思考のあり方を主題にしたあるテクストのなかでアドルノは、 既存のものごとに対する批判の営み
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ここでは「既存の哲学に 対する批判」―
とそうした自由とのかかわりに関連して次のよ うに述べている。 ……そうした批判が形式としても実質的にも助けようとして いるのは、支配的な哲学の潮流のうちにはいかなる場ももっ ていないような、精神的自由の形態である。開かれ、首尾一 貫したかたちで、またたえず進展する認識というあり方で客 体に向かう思考は、客体に対して自由なのであり、組織化さ れた知によって規則を定められることはありえない。そうし〈開かれること〉としての自律 一二 難なのではないか、そう考えられる次第となるはずである。 アドルノの視点においては、とはいえ、じつは「自己」につい てのそのような理解こそがそもそも問題とされていることになる。 というのも、 (第五節で考えてみたように、 )そうした実定的なも のとしての自己(たとえば、現にあるしかじかの欲求や好み等に 染め抜かれた自己、あるいは首尾一貫してあるべき堅固な自己と いったもの)は、むしろそのものが他律的なあり方をしているこ とになるとみなされるからである。したがって、もしも他律的で はない、すぐれた自己のあり方が可能であるとすれば、それはい わば、実定的なものではない何か、つまり現に何ものかとしてあ るあり方を超え出るような何かでこそあることになる。この点に 関連した典型的な一節を『否定弁証法』から引いてみる。 自己の概念のもとで考えられるのは、当然のことながら、人 間の可能性であろう。そしてそうした可能性は、自己の現実 性に対して攻撃的に対峙する。 ( GS. 6. 274 ) す ぐ れ て「自 己」の 概 念 の も と で 考 え ら れ る べ き は、 「自 己 の 現実性に対して攻撃的に対峙する」 ( polemisch gegen die Wirk-lichkeit des Selbst stehen )ような、人間の「可能性」である。 そ れ は い わ ば、 「現 に そ う で あ る の と は 別 の も の で あ る 可 能 性」 ( die Möglichkeit, ein anderer zu sein, als man ist )( GS. 6. 2( 3 )の こ と で あ る。現 に 何 も の か と し て あ る 実 定 的 な 自 己 か ら の差異として、そのような既存の自己のありように抗い、それを るという点でも、あるいはまた、新たな何かに呼応し、つまりは 自らの外なるもの、何か「他なる」ものに応ずることを指してい る と い う 点 で も( cf. GS. 10. 735 )、も は や「自 律」と し て は く く られがたいのではないか、そうした疑問はなお残るようにも思わ れる。いいかえれば、自律についてのそうした捉え方は、自律の いわば最低限の意味となるはずの「自己規定」 、「自ら」考え決定 するということがらとさえ、埋めがたい隔たりをもち、したがっ てそれと重ねあわせることはやはり困難なのではないだろうか。 し か も、も し そ う だ と す れ ば、 (す で に 確 認 し た よ う に)ア ド ル ノも一方では自己規定という意味での自律の概念そのものは維持 してもいる以上、自律をめぐるその思考は、結局のところ、少な からぬ不整合さをはらみ、混乱をきたしているといわざるをえな いのではないだろうか。 おそらくは当然ともいえるこうした疑問は、しかしじつは、自 律にかんする、そして「自己」というものにかんするある一定の 理解を前提とすることで、はじめて成り立つものであるように思 わ れ る 。 そ れ は 、 自 己 と い う も の が 、 何 か 「 実 定 的 な も の 」( das Positive )で あ り、つ ま り は 現 に 何 か と し て あ る も の、す で に 何 ほどか確定的なしかたで存在しているものなのであって、そうし た既存の実定的な自己があってこそ、その自己による規定ないし 決定として自律は可能になる、そうみなす理解である。そしてそ のような理解からすれば、アドルノの考える自律は、そうした何 か確固とした自己に抗い、それからいわば脱出することによって 可能となる以上、それをあえて自律として捉えることはやはり困
(4 東京経済大学 人文自然科学論集 第一四五号 一三 い或る目的へ向かっての自己拘束( engagement vers une cer -taine fin encore non existante )として存在 す (1( ( る 」。そのような、 いわば脱自的な投企のあり方は、しかし(おそらくはこれまで述 べ て き た こ と か ら 予 料 さ れ る と お り) 、ア ド ル ノ の 思 考 に あ っ て は、たとえば主体相互の「 相 (11 ( 剋 」を必然的に招来するようなもの ではけっして な (11 ( い 。むしろ、既存の自己を超え出る「自己」への 解放は、あくまで世界のなかで、既存のものごとを超え出る何か への、つまり新たな世界や他者のありようへの呼応としてこそ生 起 す (11 ( る 。アドルノは「人格性」を主題としたあるテクストのなか で、次のように述べている。 ……主体が自ら自身にいたるのは、ナルシシズム的に主体自 らへと立ち還るような、その対自存在の保存によってはなく、 むしろ外化、つまり主体それ自身ではないものへと身を委ね ることによってである。 ( GS. 10. 643 ) 「主体が自ら自身にいたる」 ( zu sich selbst kommen )のは、 「主 体 そ れ 自 身 で は な い も の へ と 身 を 委 ね る こ と」 ( Hingabe an das, was es nicht selbst ist )によってである。すなわち、すぐれ た 意 味 で「自 己」が 生 成 す る の は、 「外 化」に よ っ て
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し た が って(第二節のなかでふれておいたとおり) 、「客体への自由」に よって―
である。というのも、 「主体それ自身ではないもの」 、 つまり既存の知の圏域を超え出る何かへと、自己反省という批判 の 営 み を 通 じ て 開 か れ、 「身 を 委 ね る」そ の こ と に お い て こ そ、 そのつど超え出てゆくような何か、そうしたものこそが、じつは すぐれた意味で「自己」であることに な ((1 ( る 。 そして、もしも自己についてのこのような捉え方が成り立つと すれば、開かれることとしての自律というアドルノにおける自律 の 概 念 は、 「自 己」規 定 と い う こ と が ら と、や は り 十 分 に 重 ね て 捉えることが可能であることになる。というのも(ひとまず『否 定 弁 証 法』の 言 葉 に そ く し て い え ば) 、自 己 を 何 か 実 定 的 な も の とみなすことにおいて、人はいわば「自らの自己に閉じ込められ、 そ の こ と に よ っ て 自 ら の 自 己 か ら 隔 て ら れ て も い る」 ( ibid. )こ とになるからである。既存の自己のありように抗い、実定的な自 己 へ の 囚 わ れ か ら 脱 出 す る こ と は、そ れ ゆ え、い わ ば そ れ ま で 「隔 て ら れ て い た」す ぐ れ た 自 己、既 存 の あ り 方 を 越 え 出 る 自 己 へ と 向 か う こ と を も た ら す の で あ っ て、そ の か ぎ り む し ろ「自 己」自 身 で ふ る ま う こ と、 「自 ら」行 為 す る こ と を 可 能 に す る こ ととなる。自己からの解放は、いわば自己への解放となるのであ る。 ところで、このように、既存の自己のありようからの超出のも と に 自 律 的 な あ り 方 を 見 い だ そ う と す る 視 点 そ の も の は、 (少 な く と も 論 理 的 な 成 り 立 ち に か ん し て い え ば、 )む ろ ん ア ド ル ノ に 特有のものなのではない。たとえば、 「対自」 ( le pour-soi )をま さに「それ自身の無」として捉 え (11 ( る サルトルの視点は、わけても 容易に想起されることができよう。対自は、あるいは「意識」は、 「現に存在する或る所与からの自己解放( dégagement dʼun cer -tain donné existant )として存在するとともに、いまだ存在しな〈開かれること〉としての自律 一四 潜在させるものであるだけでなく、じつはそのものがいわば他律 によって成り立ち、あるいは内面化されたかたちでの他律となっ ている。そのように自律の概念を批判するアドルノの視点は、し かしまさにそのことを通じて、すぐれた意味での自律の概念を探 りあてようとするものであった。そうした自律の積極的なあり方 となるものこそ、他律に対する断固とした抵抗、批判的な自己反 省となるような徹底した批判であり、同時にまた、開かれること、 つまり既存のものごとではない何か、新しい世界や他者のあり方 へと呼応するとともに、実定的なものを超え出る自己のありよう へと開かれるということであった。 こうして、自律の概念についてアドルノが何を批判し、何を救 い出そうとしたのか、そのことは、もはや明らかになったように 思われる。自律をめぐるこうしたアドルノの視点は、もちろん、 従 来 し ば し ば な さ れ て き た 自 律 に か ん す る 思 考 を、 (ベ ン ヤ ミ ン の言葉を用いていえば)強く「逆撫でする」 ( gegen den Strich b (11 ( ürsten )も の で あ ろ う。こ れ ま で 確 認 し て き た ア ド ル ノ の 思 考 をふまえるなら、しかし問い返されるべきは、やはりそうした従 来の自律の概念であり、その前提となっている自己の捉え方であ ることになる。アドルノの視点からすれば、何か確固とした自己 といったものを想定することに向かうそのような思考のあり方の もとには、むしろ一種の転倒ないし倒錯が指摘されなければなら な い。 『否 定 弁 証 法』の な か の、あ る 種 の「存 在 論」を 批 判 す る 文脈では、次のように述べられている。 そうした新しい何かに呼応する主体として、既存の自己のあり方 を超える「自己」がまたうち開かれてゆくことになるからで あ (11 ( る 。 既存のものごとへの囚われに抗うことは、同時にそのまま、既 存の自己のあり方への囚われに抗うことに結びつく。そしてその ことはまた、新たな世界や他者のありようへと超え出てゆくこと であるとともに、それにそのつど呼応する自己へと超出してゆく ことでもある。いわば、世界へと開かれることは、自己へと開か れ る こ と で も あ る。ま さ に そ う し た 意 味 で〈開 か れ る こ と〉 、そ のことこそが、アドルノの思考におけるすぐれた自律の概念とな るので あ (11 ( る 。
八
結びにかえて
はじめに簡単に確認したとおり、おもに近代以降、自律の概念 は、倫理的な観点からしても社会的・政治的な観点からしても、 すぐれて尊重され擁護されるべき個々人のありよう、人間主体の あり方を指すものとして、しばしばごく重要な位置づけを与えら れてきた。そうした自律の概念をめぐるアドルノの思考は、これ まで立ち入って検討してきたように、いわばその批判的な再構成 を試みるものであったといえる。 一方で自律ということがらは、それが堅固な自己のあり方、自 己固有のありようを前提とし、自己支配と重なりあうものとして 想定されるかぎり、きびしい批判の対象となるものであった。そ れは、あるべき生のあり方を切り縮め、生を窒息させる可能性を(2 東京経済大学 人文自然科学論集 第一四五号 一五 あ り よ う を 意 味 す る も の と み な さ れ る か ぎ り( cf. NS. IV-13. 265f.; GS. 6. 288f. )、それは(すでにくりかえし確認したとおり) 、 じつは他律的なかたちでこそ成り立つものであることになる。す なわち、何か確固としたものとして、あるいは確かな「支え」に なるものとして自己を求めることは、むしろ他律の、つまり「自 我 の 弱 さ」の 徴 表 な の で あ (11 ( る 。そ れ は い わ ば、 「自 ら を で き る こ と な ら 強 さ と し て 誤 認 し よ う と す る 弱 さ」 ( Schwäche, die sich
womöglich als Stärke verkennt
)( GS. 6. 2( 3 )にほかならない。 ま さ に そ の か ぎ り、じ つ は 逆 説 的 に も、 「自 己 自 身 を 求 め る こ とさえない」ようなあり方こそが、すぐれて「自我の強さ」を表 わす徴表であることになる。いいかえれば、支えとなるような確 固 た る 自 己 を 求 め る こ と に む し ろ 抗 い、 「支 え を 求 め る 欲 求」か ら 解 放 さ れ て ゆ く よ う な あ り 方 に お い て、は じ め て「自 我 の 強 さ」 、つ ま り 自 律 的 な あ り 方 は 可 能 に な (1( ( る ( cf. GS. 6. 102 )。 『否 定 弁証法』のなかでアドルノは、確かな「支え」となるものを求め る思考のあり方
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直接には、ニヒリズムの「克服」を声高に唱 える立場―
を批判しながら、こう述べている。 ……[それによって]覆い隠されてしまうのは、もはや何も 支えになりえないという状態こそ、ようやく人間にふさわし い状態なのではないだろうか、という観方である。おそらく はその状態こそ、哲学がいつも思考に対して要請だけはしな がら、そのつど同時に妨げてきたこと、つまり自律的にふる まうことを、ついに可能にするであろう。 ( GS. 6. 373 ) 支えを求める欲求、実体的であるかに思われるものを求める 欲求は、それが独善的に望んでいるほど実体的ではない。む しろそれは、自我の弱さの徴表である。……もはや外部から も自らのうちでも抑圧されていない者があるとすれば、そう した者は、けっして支えを求めることはないであろうし、お そ ら く は 自 己 自 身 を 求 め る こ と さ え な い で あ ろ う。 ( GS. 6. 102 ) 「支えを求める欲求」 ( das Bedüfnis nach Halt )、したがってま た「自己自身( sich selbst )を求めること」へと向かう欲求は、 いわば「自我の弱さの徴表」 (Signatur der Schwäche des Ichs
) である。もう少し言葉を足しておく。 ま ず「自 我 の 弱 さ」と は、ア ド ル ノ が 精 神 分 析 学 者 の ヘ ル マ ン ・ ヌ ン ベ ル ク に お け る「自 我 の 強 さ( Ichstärke )」/「自 我 の 弱 さ( Ichschwäche )」の 対 概 念 に も 拠 り な が ら、さ ま ざ ま な 文 脈でたびたび用いる概念で あ (11 ( る 。それはまず、外部から与えられ る個々の状況へとそのつど「適応」するような受動的な主体のあ り 方 を 示 す 概 念 で あ り( NS. IV-15. (( ; EzM. 143 ; GS. 7. 178 ; GS. 6. 273 )、し た が っ て 元 来 は ま さ し く 他 律 的 な あ り 方 を 典 型 的 に 指 示するもので あ (11 ( る 。そしてそれゆえに、それと対照をなす概念で ある「自我の強さ」は、ほかならぬ自律的な主体のあり方を特徴 づけるものとなる。ひとまずは、そう言うことができる。しかし ながら、その「強さ」が、実際にしばしばそうであったように、 自己支配を貫く確固とした自己、硬く堅固な自己といったものの
〈開かれること〉としての自律 一六 と の か か わ り も 含 め、倫 理 を め ぐ る ア ド ル ノ の 思 考 と の 関 連 で 「抵 抗」の 概 念 に つ い て 論 じ て い る も の と し て、以 下 も 参 照。 Gerhard Schweppenhäuser, Ethik nach Auschwitz. Adornos negative Moralphilosophie, 2., überarbeitete Auflage, Springer, 2016, S. 220ff. ( 2)ア ド ル ノ の テ ク ス ト か ら の 引 用 は 基 本 的 に、全 集( Theo-dor W. Adorno, Gesammelte Schriften [= GS. ], Suhrkamp )、 お よ び 現 在 刊 行 中 の 遺 稿 集 に 収 め ら れ て い る 講 義 録 ( Nachgelas -sene Schriften, Abt. IV, [= NS. IV. ], Suhrkamp )から行い、文 中 に 略 号 ・ 巻 数 ・ 頁 数 の み を 示 す。た だ し、そ れ ら に 収 め ら れ て い な い 対 談 等 の テ ク ス ト を 含 む も の と し て 次 の 文 献 を 用 い る が、こ れ に つ い て も 引 用 に あ た っ て は 文 中 に 略 号 ・ 頁 数 の み を 示す。 Theodor W. Adorno, Erziehung zur Mündigkeit, Suhr-kamp ( Taschenbuch ), 1( 71 [= EzM. ]. なお、邦訳書があるテ ク ス ト に つ い て、そ の つ ど 訳 書 の 該 当 頁 を 示 す こ と は 省 く が、 本 稿 の 末 尾 に 提 示 す る 文 献 一 覧 に お い て、訳 書 の 書 誌 情 報 を ま とめて示す。 ( 3) Immanuel Kant, Beantwortung der Frage : Was ist Auf-klärung ? ( 1784 ), in Kantʼs gesammelte Schriften, hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Bd. VIII, S. 35f. /「啓蒙とは何か」 (福田喜一郎訳) 、『カント全集』 岩 波 書 店、第 一 四 巻、二 〇 〇 〇 年、所 収、二 五 -二 六 頁。な お、 「成 熟 性(成 年 性) 」に よ っ て「啓 蒙」を 規 定 す る カ ン ト の そ う し た 用 法 に つ い て も ま た、い う ま で も な く 長 い 前 史 が あ る。ご く 簡 単 に い え ば、ま ず こ の 語 は、元 来 は「成 人」で あ る こ と を 意味する法的概念であり、いわば「自己自身の主人(自権者) 」 ( sein eigener Herr ( sui iuris ))であること、すなわち(ヴォ 「も は や 何 も 支 え に な り え な い と い う 状 態」 ( der Zustand, in dem man an nichts mehr sich halten könnte )こそが、結局は 「自律的にふるまうこと」 (
autonom sich zu verhalten
)を可能に する。なぜなら、自律とは、つまり〈開かれること〉であるから である。確かな「支え」となるもの、それゆえまた、確固とした 自己といったものを求めることは、じつは他律である。むしろそ のことに抵抗し、自己への囚われを超え出ること、すなわち、既 存のものごとではない何かへと開かれ、呼応してゆくこと、その ような開かれたあり方としてこそ、自律は可能になる。アドルノ が再構成を通じて探りあてようとするのは、まさにそうした意味 での自律の概念なのである。 注 * 本 稿 で 文 献 を 引 用 す る 際 の 出 典 の 示 し 方 に つ い て、ま ず ア ド ル ノ の テ ク ス ト に か ん し て は 註( 2)を 参 照。そ れ 以 外 の テ ク ス ト に か ん し て は、そ の つ ど 註 で 出 典 を 示 す。な お そ の 場 合、邦 訳 書 の あ る も の は な る べ く そ の 該 当 頁 数 を あ わ せ て 示 す が、訳 語については必ずしも邦訳書と一致していない。 ( 1)アドルノの視点における自律の積極的要素を明確に「抵抗」 のもとに見いだし、 「抵抗としての自律」 ( autonomy as resis -tance )に つ い て 論 じ て い る も の と し て、以 下 を 参 照。 Brian
OʼConnor, Adorno, Routledge, 2013, pp.
110-146. なお、 「抵抗」 は、ア ド ル ノ の 思 考 に お け る 鍵 概 念 の ひ と つ で も あ る が、自 律
(0 東京経済大学 人文自然科学論集 第一四五号 一七 カ ン ト は、盛 期 ド イ ツ 啓 蒙 主 義 に お い て 綱 領 的 な 標 語 と な っ て い た「自 分 で 考 え る こ と」と い う 概 念 を「成 熟 性」の 概 念 に 置 き換えたが、その場合、成熟性の概念は、 「自分で考えること」 の 概 念 を 前 提 と し つ つ も、一 定 の 意 味 の 拡 張 を 伴 う こ と に な っ た。す な わ ち カ ン ト は、た ん に「自 分 で 考 え る こ と」と い う 知 性 的 な こ と が ら だ け で な く、同 時 に ま た、 「自 分 で 行 為 す る こ と」 ( Selbsttun )と い う 実 践 的 な こ と が ら を 含 む も の と し て、 つ ま り は(自 ら 考 え 行 為 す る と い う)広 義 の 自 律 の 概 念 と そ の ま ま 重 な る も の と し て、成 熟 性 の 概 念 を 捉 え る こ と に な っ た と いえる( cf. Hinske, Eklektik, Selbstdenken, Mündigkeit, S. 6f.; Hinske, Kant als Herausforderung an die Gegenwart, Alber, 1( 80, S. 72f., 75f. /『現代に挑むカント』 (石川文康ほか訳)晃洋 書 房、一 九 八 五 年、九 一 頁、九 四 頁、参 照) 。な お、成 熟 性 を め ぐ る カ ン ト の 思 考 と 自 律 の 概 念 と の 関 連 に つ い て は、以 下 も 参照。宇都宮芳明『カントの啓蒙精神』 、三二頁、二四四頁。 ( 5)た だ し ア ド ル ノ に あ っ て は、こ の「成 熟 性」の 概 念 に つ い て も や は り 一 義 的、固 定 的 に 考 え ら れ て い る わ け で は な く、い わ ば「生 成 す る も の」 ( ein Werdendes )で あ る こ と が 強 調 さ れている( EzM. 108f., 144 )。この点については、以下の論考も 参照。 Robert Spaemann, Autonomie, Mündigkeit, Emanzipa -tion. Zur Ideologisierung von Rechtsbegriffen, in Erziehungs-wissenschaft, hrsg. von Siegfried Oppolzer, Alois Henn Verlag, 1( 71, S. 31 (f. ( 6)こ う し た 点 に つ い て は、ア ド ル ノ 自 身 も
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あ く ま で 条 件 つ き の か た ち で―
ひ と ま ず 認 め て い る。た と え ば、あ る 講 義 の な か で は、 「カ ン ト の 道 徳 哲 学 の 根 本 的 な 着 想」に つ い て 次 の よ う に 述 べ ら れ て い る。 「そ こ に は、次 の か ぎ り で、抵 抗 の ル フ の 言 葉 に そ く し て い え ば) 「自 己 自 身 を 養 い 統 治 す る こ と が で き る」状 態 に あ る こ と を 示 す 概 念 で あ っ た( Manfred Sommer, Mündigkeit, in Joachim Ritter ( Hrsg. ), Historisches Wörterbuch der Philosophie, Schwabe, Bd. 6, 1( 84, S. 225 ; Christian Wolff, Vernünftige Gedanken von dem gesellschaftli -chen Leben der Menschen und insonderheit dem gemeinen Wesen ( 1721 ), die sechste Auflage, Franckfurt und Leibzig, 1747, S. (2f. )。カントは、そうした元来の意味もふまえながら、 盛 期 ド イ ツ 啓 蒙 主 義 に お い て「自 分 で 考 え る こ と」 ( Selbstden -ken )と い う 標 語 の も と に 考 え ら れ て い た「啓 蒙」に 対 し て 自 ら 自 身 の 規 定 を 与 え て ゆ く な か で、こ の「成 熟 性」を「他 人 の 指 導 な し に 自 分 の 悟 性 を 用 い る 能 力」を そ な え た 状 態 と い う 意 味で用いたのである( Kant, Die Metaphysik der Sitten ( 17 (7), in Kantʼs gesammelte Schriften, Bd. VI, S. 282. /『人倫の形而上 学』 (樽 井 正 義 ・ 池 尾 恭 一 訳) 、『カ ン ト 全 集』第 一 一 巻、二 〇 〇二年、一一六頁 ; Kant, Anthropologie in pragmatischer Hin -sicht ( 17 (8 ), in Kantʼs gesammelte Schriften, Bd. VII, S. 208, 228f. /『実 用 的 見 地 に お け る 人 間 学』 (渋 谷 治 美 訳) 、『カ ン ト 全 集 』 第 一 五 巻 、 二 〇 〇 三 年 、 一 四 三 、 一 七 二 -一 七 三 頁 ; Kant, Beantwortung der Frage : Was ist Aufklärung ?, S. 36. /「啓蒙 とは何か」 、二六頁 ; cf. Norbert Hinske, Eklektik, Selbstden-ken, Mündigkeit ― drei verschiedene Formulierungen einer und derselben Programmidee, in Aufklärung, Jahrgang 1, Heft 1, 1( 86, hrsg. von Hinske, Eklektik, Selbstdenken, Mündigkeit, Felix Meiner, S. 6f.; 宇都宮芳明『カントの啓蒙精神』岩波書店、 二〇〇六年、三〇 -三四頁、参照) 。 ( 4)前 注 の な か で ふ れ た と お り、 「啓 蒙」概 念 を 規 定 す る う え で〈開かれること〉としての自律 一八 ry and Practice of Autonomy, Cambridge University Press, 1( 88, pp. 1( -20, 108 ; John Christman, Procedural Autonomy and Lib eral Legitimacy, in J. S. Taylor ( ed. ), Personal Autono -my, Cambridge University Press, 2005, p. 27 (; Natalie Stoljor, Autonomy and the Feminist Intuition, in C. Mackenzie / Stol -jor ( eds. ), Relational Autonomy, Oxford University Press, 2000, p. (4, 100 )、それに対し、アドルノの思考において(自律 を め ぐ る 文 脈 だ け で な く)広 く 重 要 な 位 置 づ け を も つ も の と な る 批 判 的 自 己 反 省 の 概 念 に あ っ て は、こ の 後 す ぐ に 述 べ る よ う に、あ く ま で「自 己 自 身」に 対 す る 批 判、い わ ば 二 階 な い し 高 階 の レ ベ ル で の 反 省 ・ 評 価 主 体 の あ り 方 そ の も の(も し く は そ う し た 反 省 ・ 評 価 の 基 準 そ の も の)に 向 け ら れ る 批 判 的 な 反 省 を 意 味 し て い る。第 二 に し か し、そ の よ う な 差 異 に も か か わ ら ず、階 層 的 な 自 律 概 念 に 対 し て、あ る い は そ こ に 伴 わ れ て い る 「批 判 的(自 己)反 省」の あ り 方 に 対 し て 向 け ら れ る 重 要 な 批 判 の ひ と つ は、ア ド ル ノ に お け る 批 判 的 自 己 反 省 の 概 念 に も 無 関 係 で は な い。そ の 批 判 と は、 「無 限 後 退」を め ぐ る そ れ で あ る( cf. John Christman, Introduction, in Christman ( ed. ), The Inner Citadel. Essays on Individual Autonomy, Echo Point Books & Media, 1( 8( /2014, p. (; Christman & Joel Anderson, Introduction, in Christman / Anderson ( eds. ), Autonomy and the Challenges to Liberalism, Cambridge University Press, 2005, pp. 5-6 )。たとえば、コミュニケーション論的転回以降の ハ ー バ ー マ ス が、 「否 定 弁 証 法」に 向 か う ア ド ル ノ の 思 考 に 対 し て 指 弾 す る「遂 行 的 矛 盾」を め ぐ る 論 点 も、ま さ に こ の 点 に か か わ る も の と み な す こ と が で き る( cf. Jürgen Habermas, Der philosophische Diskurs der Moderne, Suhrkamp, 1( 85, モ メ ン ト が 同 時 に 措 定 さ れ て い ま す。す な わ ち カ ン ト に よ っ て、 あ ら ゆ る 慣 例 的 な モ メ ン ト、つ ま り 強 い 意 味 で 主 体 そ の も の に よ っ て 規 定 さ れ て は い な い も の が、道 徳 的 な も の の 正 当 な 根 拠 と し て は 除 外 さ れ る と い う、そ の か ぎ り に お い て で す。自 ら 自 身 に 法 則 を 与 え る と い う こ と は、す な わ ち、外 部 の 現 実 か ら 法 則 を 受 け と る こ と な く、そ れ に 抵 抗 し て、そ う し た[外 部 か ら 与 え ら れ る]法 則 に 打 ち 勝 つ と い う こ と( das Gesetz nicht von der äußeren Realität empfangen, sondern es im Wider -stand dagegen überwinden )な の で す。…… カ ン ト に あ っ て は、自 律 の 概 念 の う ち で す で に 抵 抗 の 思 想 が 同 時 に 考 え ら れ て い る の で す が、そ の こ と に は 一 定 の 制 限 が 必 要 で す。と い う の も、カ ン ト に あ っ て 自 律 の 思 想 は、少 し も 疑 わ れ る こ と な く、 普 遍 性 の 思 想 と 重 な り あ っ て い る た め で す」 ( Adorno, Prob -leme der Moralphilosophie. Vorlesung, gehalten im Winterse -mester 1( 56/57 an der Universität Frankfurt, 11 .(( .(111 , in
Schweppenhäuser, Ethik nach Auschwitz, S.
222. [ ]は筆者) 。 ( 7)自 律 概 念 を め ぐ る 近 年 の 議 論 に あ っ て も、し ば し ば「批 判 的(自 己)反 省」 ( critical ( self-)reflection )の 概 念 が 焦 点 と な っ て い る が、そ れ と ア ド ル ノ に お け る「批 判 的 自 己 反 省」の 概 念 と の 関 係 に つ い て、と り 急 ぎ 二 点 の み 補 足 を し て お く。ま ず 一 点 目 は、両 者 の 違 い 0 0 に つ い て で あ る。自 律 の 手 続 き 的 な 理 論、 と く に 階 層 的 理 論 に か か わ る 近 年 の 議 論 に お い て 問 題 と な る 「批 判 的(自 己)反 省」は、基 本 的 に は、一 階 な い し 低 階 の 欲 求 等 に 対 す る 二 階 な い し 高 階 の レ ベ ル で の 反 省 ・ 評 価 の こ と で あ り、し た が っ て、何 ほ ど か 本 来 の「自 己」 、少 な く と も 高 階 の い わ ば 自 己 的 な 何 か を 前 提 と し、そ れ に よ る 反 省 と い っ た 意 味あいをもつものといえるが( cf. Gerald Dworkin, The Theo