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第6次「郡上村」調査とむらびとの個人史

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はじめに  この研究グループは,1973 年から,2009 年まで,ほぼ 10 年おきに岐阜県下の郡上村(調 査のためのコード名)の全戸を対象に,5 回にわたり調査票を用いたコミュニケーション調 査を実施してきた。今回,すなわち 2010 年には,やや趣をかえて,全戸の悉皆調査ではなく, 5人の典型的な村民(世帯)を対象にした「個人史」の聞き取り調査を実施した1)。「典型的」 なというのは,村の行政上の役職にあり,村民のリーダーとして村民から敬意をもってみら れる S,H 父子,女性として村の世話役を担っている M さんたちである。  個人史(ヒューマン・ヒストリー)ではあるが,同時にむらの歴史でもある。このむらと いうのは,江戸時代の庄屋,明治維新の戸長役場,町村制が敷かれて以降の町村長, 2010年にこの地域の 7 ヵ町村を合併しての「郡上市」になって以降の行政指導者(市会議員, 市長)といった経緯をたどる。その政治的変化と,戦争,戦後の農地改革,高度成長期の減 反政策,山林経済の崩壊などきわめてドラスチックな経済の変革,そして教育,娯楽,情報 生活での革命である。  なお,このレポートは,6 回のインタービュー調査2)のそれぞれを纏めたもので記録その ものではない。6 回分の生の記録は,CD 版,文字におこしたスクリプションの双方のかた ちで本プロジェクトが保存しており,研究のための供覧が可能である。なお,この研究調査 には,財団法人・電気通信調査会の 2010 年度の助成をうけている。 Ⅰ.F 家 S さん,H さんの家庭 ①「むら」の様子  「むら」という用語は定義しておかねばならない。行政上の「村」も明治維新以降の「村」 も戸長村,町村制施行以降の「村」,戦後の地方自治法以降の「村」,郡上村もまきこんだ 2010年 4 月以降の「平成の大合併」によってできた「村」と,江戸時代以降も連綿と続く「自 然むら」と区別しなければならない。このわれわれの調査でいう「村」とは,ほぼ後者にち かい。行政上はいくつかの「大字」をふくむ。また,第三の使い方として「うちのムラ」と いうように,近隣(ネイバーフッド)を漠然と指す場合がある。

第 6 次「郡上村」調査とむらびとの個人史

田村紀雄 安藤明之 上田裕 山崎隆広 川又実

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「炭焼き」の調査風景(2010 年 8 月撮影)  郡上村のなかほどの集落に住む農家で,230 年前の明和年間に,同じ郡上郡のひと山こえ た集落から移り住んだと記録にある。この郡上村でもっとも古い居住者は「K」家である。 Sさんは,この村へきて 9 代目,現当主の H さんが,10 代目,その長男が 11 代目になる。  F 家は,郡上村へ移動する前のむらでも「在所で庄屋」だったという。しかし「5 代目が, S神社へいって神官の資格をとるなど,全国行脚 18 年で,途切れ,大正 3 年に再健する。F 姓は,飛驒の F,そこからの移住,その本家から 6 代目がいまの土地に分家してわかれた。 両者は同じ郡上村だが,1 キロほどはなれて生活を建てた。  なお,本家は,岐阜県内でも有数な大山林地主として知られているが,ここ 10 数年の木 材不況でかなりの打撃をこおむった模様である。田村が 40 年前に郡上村の調査に入ったと き,本家の権勢は飛ぶ鳥をおとすほどであった。数千町歩の山林を所有し,郡上村 100 戸の ほとんどが,これらの山林に依存して生活していた。電話回線が個人としてひかれているの は,この本家だけで,それ以外にも,村で最初の複写機を備え,製材,木場,販路を維持す るため相当数のトラックなどの自動車を所有,村の男性多数を雇用,伐採,運搬,製材の仕 事に就いた。女性はヤマの下刈り(雑草刈り),小枝取り,苗の植え付け,雑役の仕事に雇 用した。  しかし,輸入材が増えて,木材産業は打撃をうけ,村びとがヤマにはいらなくなったのと 歩をあわせて,里山にまで猪,猿の大軍が押し寄せ,庭続きの畑まで荒らすようになった。

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奥山の動物の世界が,里山の人間活動のよって維持されていた境界線が村にさがってきたの だ。林業の不振と逆に,自動車産業などの工業製品の生産が拡大して,若いむらびとは,下 流の関,美濃,名古屋方面に工場労働者の職をみつけ,また郡上郡のなかにもその下請け工 場が多数生まれて,残余の男子や女性もそこに転職する時代をむかえる。  S さん宅は,郡上村という山村で独自の家計設計をしてきた。庄屋の家系でもある F 家は 代代,むらのリーダーである。そのような自覚もつよい。むらびとには,「昔は,どこでも 山だけで食えたんや」,「そう教育せんでもいいと,とにかくまじめで働くことさえしておれ ば,ここで食っていけると,主に炭焼きが大事だった3)」。  大正時代から,昭和 3 年ころまで,炭焼きの仕事はあった。「昭和 6 年ごろ初めて汽車が 来たんかな」。木炭を鉄道でだすようになった。  まだ,敗戦後は木材用の樹木は育っていなかったので,「栂や椚,ひとりはえの杉やヒノ キ」といった雑木で炭を焼き,馬車や木馬で出荷したため,量もしれていた。木炭は,郡上 村の谷間をくだり「こうのはら」という長良川に合流する河岸までおろし,そこから美濃市 まで筏に組んで運搬した。  そのご,都市での材木需要が高まり,切り払われた雑木のあとに,建築材向きの杉や檜が 昭和 25,6 年ころから,30 年代にかけてどんどん若木や苗木が植えられた。若木は 5,60 年育てれば伐採できるということだった。「明治時代に植えておらんと,昭和初期に植えた ものでは,切れるまでになっているものはないがな」。  戦後植えて,山にてをいれて大変な 4,50 年を経て,「50 年ほどたって初めて成木になっ て金がとれる。が,それまでに皆いかれてしまう」。結局,植林が商品化する前に,バブル がはじけて大方の農家は失敗する。戦前からのヤマもちの一部の大地主を除いて。 ② S さんの仕事。  S さんが伐採のしごとをしていた時代の作業は大木の皮むきが中心だった。木材の周囲を 1メーターごとに樹皮に切り傷をいれて皮を剝く。1 間あたり 5 円か 6 円,なんと 1 日に 100間もむいた。500 円か 600 円になった。「100 間剝くのは,容易なことじゃなかったけれ ども」。「それも,昭和 34,5 年ころまでよな」。  運搬機器が生まれて材木が生のままどんどん運べるようになった。「それまでは必ず木馬 か馬車で積まんならん。どんな大きな木でも人足で積んでもらったんです。今のようにつま んでのせる(クレーンの)ようなことはできへんでな,どんな木でも押してのせるんです」。 「やつをみんなで押しまくったり,こせたりして,てこで積んだんや。わしらも随分トラッ クに積んだな」  しかし,昭和 40 年代にはいり,米余りということで,減反政策になり,「田圃や畑にどん どん植林してしまったんや。植林して,木さえ植えておけば親方になれるということで,国

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も挙げて奨励があったもんで。今は,どっこい,貰い手もないで。今,山なんかどこでも, これはおれのもんや,といったって,だれも怒らへん。そういう時代になってしまった」。  林業に雇用されていた男たちは,「ここに D 工業とか,関市のほうにも工場ができて,全 部そっちへ行ってしまった。もう山はダメだと」。  林業が栄えた時期,女性にも仕事は多かった。植林のあと,雑草,樹木にまきつく蔓の除 去,雪で倒れた若木を一本一本おこして紐で結わくなど,女性の厳しい仕事だった。「親方 に一日に,米三升もらえると一人前だった」。林業では,「植えてから 3,40 年たたねば,金 にならんから,財源がないとあかん」。  S さんの妻は,隣りむらの大原から嫁入りした。父は馬車引きで運送業をしていたが,家 庭は農家であった。S さんに嫁いでからは,むらの他の家同様,やまの仕事に携わった。馬 車は基本的な輸送手段だったから,H さんの家の前も,木材を積んだ馬車が往来し,馬糞は 回収して畑に播いた。  S さんは,1928(昭和 3)年生まれ,戦時中は 16 歳で特攻隊に志願,多摩川べりにあっ た東京航空総本部に勤務,復員後,人の世話で結婚したが,それは実父が死去したこともあ る。「結婚してできる資格は何もなかった時分で,やっと子供をくわせるほど,父が死んで, 残った兄弟をどう食わせるか。一番下が 2 歳だった。」農業やヤマ仕事で懸命に働いた。  「それでも,僕らは恵まれていた。北の K 村なんか,こちらと想像のつかん苦しみがある でな。わしらが,覚えておるときでも,随分山を焼いて,村総出でヒエとかソバをつくって おったでな。ここらでは,それまでのことはせなんだわな」。戦前は,この周辺の村むらから, 多数の満洲開拓団がでたのも,厳しい山村だったからである。ソ連の侵攻で,多数の犠牲者 がでたあと,県下に引揚者として帰国したが,生活に必要な田はたがないため,こんどはブ ラジル移民として再び海外へ渡った農家も数知れなかった。 ③ H さん  S さんの長男の H さんが当主である。戦後の 1952(昭和 27)年の出生。「結婚早かった ですよ。おやじは 19,ぼくは 22 でしたから。おやじが結婚は早くせんないかんと,やかま しくいったんで」。S さん,いま曾孫が 12 人。H さんの長男が 34 歳,こどももいるから,4 代が一緒に生活している。「四世同堂」は,現在では珍しいが,F 家もそれなりの努力がある。 大所帯のため,自宅は 3 棟にわかれているが,食事は全部一緒とのこと。  S さんの哲学は「いくら社長になろうが,どんな肩書になっても,うちにこなんだら何も ならんで。」近所でも,「若いもんが,都会で成功しておるもんで,もう帰ってこんやろな。 年寄りは寂しい思いをして死んでいかんなんのや」。  「この家で何代も住んで,木を自分で切ってつかったもんで。絶対に丈夫いという家につ くったんや。」この間,藁ぶきから,かわらにし,建て坪も 92 坪,部屋数は 2 階が 6 部屋と

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倉庫,勝手やフロは,別に出したから屋根の面積は大きい。1 階では,1962(昭和 37)年か ら,40 年まで略農のため,牛 40 頭が飼えるスペースもあり,現在は農機具倉庫や作業場に なっている。「材木は売れん,もう炭が売れん,百姓をやるなら酪農のほかないということで。 それも,歳をとってから,えらいがな。365 日,1 日も休みがないので」。75 歳で乳牛経営 を廃業している。郡上郡全体では,肉牛農家が多いが,投資も大きく,S さんは,乳牛飼育 のほうをえらんだ。国の転作行政で,耕作を手放すひとがおり,S さんは 5 町歩ほど引受, おかげで,飼料の生産ができた。とにかく, は買わんとときめた。 代がおおきく,普通 コストの 4 割くらいかかるのを,3 割以下に抑えた。  酪農に全力を注いだため,30 町歩ほどのヤマは放置され,植林もしないため広葉樹だけ に荒れてしまっている。その巨木になった広葉樹で,現在,S さんは,郡上村で唯一の炭焼 きになっている。炭にむく硬い ,樫を自分で伐採して運んでくる。若いもんにはできない。  H さんは,そのころ,「郡上村」をふくむ上位の行政村で役場の助役だった。公害問題が やかましくなり,牛の糞尿問題,においの処理,立場上「やらんほうがいい,とさっと辞め た。置く(経営中止の意味)置けん人があるけど,わしは借金せんかったので,さっと置い て」しまったとか。借金がなかったのが幸いだった。  酪農はやめたが,H さんは,指導員の資格をとり,自宅は,県の農業大学校の指定研修所 になり,後進の指導にあたることになった。それが,縁で村会議員を 3 期続けた。のちに, 村の助役に任じられたのである。したがって,農業経営や,農業技術だけでなく,県政,村 の行政や財政にも明るい。郡上郡の 7 ヶ町村が,2010 年の「平成の大合併」では,旧郡上 八幡町を核に,新・郡上市が誕生,これを機に,H さんは,助役を降りた。一般職員なら, 合併後も定年の 60 歳まで在職できたが,助役は特別職のためポストを失った。  郡上村は,平安時代に郡上郷として歴史にあらわれ,荘園制下で,吉田庄,江戸時代は稲 葉,金森,青山氏の領地になり,明治以降郡上郡と続いてきたが,郡上市の 1 地区になった。 1879(明治 12)年の近代的な自治制になったとき,11 町 88 ヶ村が郡上郡を構成した。この ときの「むら」は,小字に相当する「自然むら」だったようだ。領主や支配者がどのように 交替しようとも,「むら」はむらとしてのこり,人々は生業をいとなみ子孫を遺し続けると いう良い例である。  「平成の大合併」はちょっとしたドラマだったようだ。まず財政,合併と分かってから,7 つの町村は,金を借りるだけ借りて,それぞれ建設や事業をやってしまった。このため,合 併したら合わせて 1000 億円の負債になった。郡上市民はその負債を返済する最中である。  つぎに市政。どこの合併でも同様だが,まずは,7 ヶ町村の議員全員が新市会の議員にな った。大変な人員であるため,選挙でいっきに減員する。でも,多数が元・市議にはなれた。 この選挙は暫定で,2010 年に,7 ヶ町村を小選挙区とする方式が成立して現行の市議会が発 足した。H さんも,旧・郡上村から市会議員に選出されている。

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 F 家は,市議の歳費では不十分であり,H さんの長男,その妻,H さんの妻,全員が働い ている。すなわち,S さんが,炭焼き,H さんが公務,長男が会社員,そして H の妻と長 男の嫁のふたりが「アントレプレナ」,漬物工場を自宅に起こした。「さなちゃん工房」であ る。これは H さんの妻の名前で,「むらブランド」にしている。漬物名人として梶原知事時 代にコンクールで入賞,表彰をうけた。これを活用しない手はない。  工房は,H さんが村助役を解職となった平成 16 年に酪農を廃業した牛舎を改造,赤カブ, キャラブキなど 10 数種の野菜を自家栽培などで入手,漬物にする。真空パックの機械を導 入して,製品にし,H さんが,郡上市のなかにあるパーキングエリアや道の駅,市の特産物 販売所などに卸す。その仕事は H さんの役目。新しい山村の農家のビジネスモデルになっ ている。 ④郡上村の将来  この村も日本の一部であり,その政治,経済,社会の変化からのがれることできない。町 村合併しかり。減反,材木の輸入と山林の放置,田畑への野生動物の侵入,東海・北陸間の 高速道路の開通,その他の公共施設の課題,少子化や高齢化,電話,放送,その他の通信, 新聞などの活字媒体の変化,零細商店の衰退と消費生活の問題,これらは,この郡上村にも 表れている。しかし,むらびとは創意,工夫,自然や伝統の維持,家族の協力がひきつづき 維持され,「限界集落」を格別に騒ぎ立てる状況になっていない。(田村紀雄) Ⅱ.M さん ①プロフィール  M さん(79 歳)の家は,長良川にそそぐ河口から 1 キロメートルほど った川のそばに ある。この集落は川の両岸に拡がり 2 本の橋で結ばれている。橋は古く,昔は吊り橋だった そうで,その当時から川の両岸は同じ集落であり,1930 年代に現在の橋に掛け替えられた。 山が迫っているのでほとんどの家は川を臨むように建っている。この川の上流にはさらに 3 キロメートルほどにわたっていくつかの集落がある。  M さんの祖先は,現在よりもう少し川上にあったようである。M さんは分家で 3 代目に なり,本家と名字は変わっていない。現在の本家はもう少し川下にあるとのことである。ど のくらい前にこの土地に来たのかについては,「それがわからん,年代がわからんのや」と いい,100 年とか 200 年とか前ではというと,「そんだけばかやないやろな」。やはり数百年 前であろうか。本家の菩提寺に資料があるのではないかと考えたが,苅安にある菩提寺が火 災のため過去帳が焼けてしまい昔のことはわからないようである。しかし,その寺には祖先 の墓は残っているとのこと。

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 M さんの家は築 30 年ほどになり,建築当時は茅葺きであったが現在は瓦に葺き替えてあ る。30 年前では土地が貴重だったので,田んぼや畑をできるだけ広くとるために家を山に くっつけるように建てることが一般的であった。そうして,M さんの田んぼは 4 反あるそ うである。昔は畑もあったそうであるが今では全部田んぼになっている。 ② M さんの生活と仕事  M さんは 4 反の田んぼを持つ。収穫しても出荷をするわけではなく,全部自家消費にな るという。野菜は全く作らず,買ったり近所からもらったりしている。最近では,田んぼに, ハクビシンやイノシシあるいは猿が来て被害を加えるようである。イノシシについては「イ ノシシのおりが入れてあるんや。おりをひっくり返すほどなんやで」,動物の生命力はかな り強いようである。田んぼの周りには電気柵が設けられているが,人がさわるとビリビリく る程度で,動物が死ぬほどではない。  M さんは,以前森林組合に勤めていた。この付近の山一帯は広く F さんが所有し,管理 している。F さんと森林組合の関係については,「ないです。F さんは,今はそんだけの助 成金がないでなんやけど,20 年代はどえらい国からの助成金が多かったもんで,個人でや っておられたんです」という。森林組合の仕事は,「伐採もやりました。けど,ほとんど調 査が多かったです」。続いて「そうすると,F さんが個人で山を維持していて,そのほかの 人たちは森林組合に寄っていたわけですね」,それに対して「そうです。けど,今は助成金 が少ないもんで」と現在でも森林組合は存続しているが,少し事情が異なるようである。こ れについて M さんは,「今はもう 30 年,40 年ぐらいの木材なんか本当に安いもんやで,採 算が合わんです。F さんは 80 年以上たった木やもんで,6 人ぐらい作業員がおるんかな。 それでやっていけるんですが,50 年以下やったらもう……」という。50 年以下の木材は, 丸太で道の駅の隣の集積場に集められ,用途によって振り分ける。そこからトラックで製材 所などに出荷するようになっている。M さんは,山をあまり持たないが,一応森林組合の 組合員であり,サラリーマンのように勤めていたようである。  昔はこの付近のほとんどの人が林業にたずさわっていた。「昭和 20 年代なんか,全部炭焼 きが多かったな。30 年代になるとぼつぼつ若い人が勤めに出て,今ちょうど 60 歳以上ばっ かやわ,勤めに出た人が」。勤めはここから自動車で通う人が多かった。  現在の M さんの仕事は,森の番という。森の番というのは,M さんによると「1984(昭 和 59)年に県がつくってくれたんです。1996(平成 8)年やったかしらん,それを受け継い で掃除に行っておるんです」。場所は自宅から 2 キロぐらいあがった先の神社の向かい側で ある。

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③家族  M さんの家族は,夫婦と遠くに自動車で通っている娘さんの 3 人である。多くの家の子 供は,外に出て行ってしまいなかなか帰ってこないといい,「まず……。夏は結構涼しいけど, 冬はもう,車のない家なんか本当に,この道路をこれから奥の人は出ていくに難儀しなれる。 車の事故が多いんや,道路が凍ってまうもんで」と嘆く。「どうしても町の方が便利がいいで, ここらは本当に店がない。店というと苅安まで行かんならんで」と買い物に関わる苦労を語 る。  M さんは,1932(昭和 7)年にこの村に生まれてそのまま変わることなくこの土地で生活 をしていた。第 2 次世界大戦中もここにいた。この村の入り口にある集落センターが当時の 国民学校で,中学校はもう少し離れたところにあったそうである。  M さんのお父さんは和良(現在の郡上市)から養子に来たとのこと。この辺の家では, 結構お嫁さんやお婿さんを遠くから迎え入れる人が多いそうである。M さんの奥さんも和 良から来たそうである。  この地区は川に沿って家が点在しているが,川にはウナギが生息をして,国の天然記念物 に指定されている。そして,この地区の人々は,虚空蔵菩 の信仰が篤く,そのお使いであ るウナギが妖鬼退治に来た藤原高光を道案内したという言い伝えがあるので,ウナギを食べ ない土地として有名である。これについて,M さんは,「このごろは町の人が多いもんで, ここの集落ではウナギが食べれんのや。それが,よそから見えるとウナギの味というのがわ かっておるもんで,食べたいんやろうな。それで,出ていって食べるということを言われる んです」といい,ご本人はこれまでウナギを食べたことがないが,奥さんはお嫁に来る前に は食べたそうで,今は食べていないとのことである。  この周辺の村の人口はどんどん減少している。もちろんこの村の人口も著しく減少してい る。M さんは,「本当におじいとおばあですよ。話していることもないし,けんかすること もないし」,「若い衆がおらんもんで活気がないな,やっぱり年寄りばっかやと」,「本当,お ばあさんだけのうちがかなりあります。やっぱり男は寿命が短いというか,男の方が先に逝 ってまうな」といっている。おばあさんだけの家というのは,周りで多少応援するのかにつ いては,「何か買い物してあげたりするのは,昔のしきたりです」という。  この村では,ごく限られた名字が使用されていて,名字で親戚かどうかわかる。M さんは, 「この集落では F 家と O 家と K 家と A 家か。多いのはやっぱり F 家,O 家,両方です」と いい,さらに「昔は親戚だったんやろうけど,そんだけの親戚づき合いはしてみえんな」と いっている。その中でも,M 姓は少ない。近くに親戚がまとまっているので親戚同士の会 合が結構あると思われるのだが,意外に少ないようである。しかし,一方が死亡して一人に なっても,「それが,町へは行きとうないらしい」ということで,村を離れることは少ない ようである。村に対する依存度はかなり高いように思われる。

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④通信手段と利用  この村の電話機は有線放送と一体となった機種が,ある時期一斉に導入された。多くの村 民は,一般の電話のように「用事のあるときだけかけたり,かかってきたり」している。有 線放送は,納税日や健康診断のお知らせのように行政からのお知らせなどそれなりに役に立 っているとのこと。携帯電話の必要性については,「携帯電話なんか,この電話がありゃあ, 携帯電話みたいなのは必要ない」といっている。パソコンについては,「パソコンは若い人 がみえる家は使っていますよ」,「うちらは年寄りやで,パソコンはわからん」といっている。  「電話とかが普及することで,かえって親戚づき合いみたいなものが疎くなったというよ うなことはありますか」について,「そんなことはないです。ただ,今はそれぞれの家が独 立しておるような感じやな。それで,助け合うというようなことはないです」といっている。 また,テレビについては,「昔,テレビなんかが入ってきたときは,どっかのうちでテレビ 入ると見に行ったなんていうのがありましたけど,そんなことはあったんでしょうか」。こ れに対して,「ここらは一斉に入れてまったんやで,結局共聴になったもんで」といい,電 話と同じようにほぼ一斉に導入されている。ただし,最初の電話の導入は外部と通信するこ とができない,村内だけのものである。 ⑤環境の変化  この集落の家々をみると建て替えた新しい家が散見できる。「昔から見ると,随分家がふ えたという感じがあるんでしょうか」というと,「いやあ,ふえていないです」,「新しい家 はみんな若い衆のみえる家や」といっている。  この村の近くには,自動車部品開発の D 工業という会社が進出してきたため,雇用があ る程度確保されるようになった。そのため,この村から通勤する者も増加した。また,そこ に勤めて,定年になると退職金で家を建て直すことが多いそうである。(安藤明之) Ⅲ.K さん ①ムラの境界にある家  K さんの家は,ムラの始まりにある。南北に流れる長良川の堤防に沿ってあるのだが,北 に少し上がって西に曲がるとムラの集落がある。地理的にはムラの境界といっていい辺りに ある。以前はもう少し下,遊歩道があるところにあったが,2 つの台風による水害があって, 1989(平成元))年に道が今の位置にできて,新しく家を建てて移ってきた。それまでは雑 貨商をやっていたが辞めてしまったそうだ。立ち退きになりここに移ってくるまでは,K さ んの家しかなかったそうだ。「そこの前の家も,あの人もこの郡上川から立ち退きで出てみ えたんです。それで,それまでは家から始まりでした。」この家は,郡上川の郡上村の入り

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口にあるのだけれども,一般の人たちは,ムラの家だと思っていないそうだ。  1959(昭和 34)年 9 月 26 日に東海地方に上陸し,岐阜県の中央を縦断して 27 日,0 時 45分,日本海へ抜けた「伊勢湾台風」が,郡上村を流れる長良川も氾濫し村に被害を与えた4) キヨコさんの家も流されはしなかったが鴨居まで水が来たそうである。この「伊勢湾台風」 の前には,5,6 軒家があったそうだ。「私が来た(K さんが嫁いできた 1970 年の)ときは, 隣に 1 軒自転車屋さんがありましたけれども,そこも何かかんかでなくなったんです。」  また,1961 年 9 月 16 日に室戸岬に上陸し,近畿東海地方を襲った昭和 36 年第 18 号の「第 2室戸台風」も村に大きな被害をもたらした5)  この台風被害の復興とともに 1965 年頃,ムラと国道 156 号線を分断するように流れてい た長良川に橋が架けられ,国道に出ることができるようになった。それまでは村から国道に 出るには渡し船を使わなければならなかったらしい。「もう 42・3 年前ですか,昭和 40 年と いうと。何か昔は,話に聞くと渡し船だったらしいです」。  K さんが F 家に嫁いできたのは,それからしばらく経った 1970 年のことである。そのと き F 家は,ムラの人たちが買いに来る雑貨商を営んでいた。  K さんは明 方村から,「D 工業㈱岐阜工場6)」に勤めていたご主人と結婚した。当時ムラ の同じ年代の人たちはほとんど「D 工業」に勤めていたそうだ。ご主人は,自分の家の山の 仕事はしていたが,稼ぐための山の仕事は全くしていなかった。その頃,山の仕事はサラリ ーマンの給料より山の仕事の方が稼ぎはよかったそうだ。家は雑貨商を営み,ご主人は少し あった田畑を仕事が終わった後や日曜に耕していた。  1989(平成元)年に立ち退きになり,新しく建てた家は F 家が所有していた山の木を使 った。このとき少しあった田畑もなくし,雑貨商もやめたので全くのサラリーマン家庭にな ったという。 ②現在の家庭生活  K さんの家は夫と息子夫婦とその孫 2 人の 6 人暮らしである。K さんは,昭和 14 年生ま れの 71 歳(2010 年現在)で無職である。嫁いでまもなく,「私は働いていました。近くの Aというところのプラスチックという会社で,今のおばあさんが丈夫かったで勤めに出てい て,私の 58(1997 年)のときにおばあさんが足をちょっと折って,それからもうやめて, おばあさんの介護に当りました。」近所にあったこの会社は今はもう無いけれども,送り迎 えをしてもらいながら,働いていたそうだ。姑は 6 年前に 97 歳で亡くなった。  夫は,1937(昭和 12)年生まれで 73 歳である。F さんとはいとこ同士になる。D 工業で 定年満期まで働き,今はその下請け会社でパート勤めをしている。息子は 1968(昭和 43) 年生まれの 42 歳で,「A 製作所」の岐阜工場7)に勤めている。嫁は白鳥から嫁いできた。  孫は,小学 6 年生と 3 年生の男の子 2 人いる。2 人ともピアノと太鼓を習っている。時代

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が変わって,男の子がピアノを習うことも不思議ではなくなったという。上の子は地元の中 学校に進学するそうだ。中学生になると,八幡,美濃,関の塾に行く人もいるが,町にも塾 があり,その塾に行く人が多いそうだ。高校は八幡の奥の方(県立郡上高校,県立郡上北高 校)や,下(美濃市や関市)に行ったり,岐阜市に行ったりする人もいるそうだ。  息子と一緒に暮らすことになったのは,息子の方から,「一緒に住もう」と言ってくれた からだそうだ。仕事についても,一遍は外に出た方がいいと思っていたのだけれども,出て も出なくてもどちらでもよかったので,たまたま近くの A 製作所に就職が決まっただけだ った。  このムラで生活していて特に不便なことは無いそうだ。冬は雪が積もるけれども,「除雪」 人が入りしのいでいる。暖房は石油ストーブを使っているし,風呂は薪で炊いている。夏は 田の字型のつくりなので涼しく過ごせる。食事の支度も嫁がやってくれる。買い物も夫に運 転してもらって町(郡上市)まで出かける。また通信販売なども利用している。郵便局の 「ふるさと小包」を,夫の妹の旦那が郵便局に勤めていることがあって,月に 1 回送っても らっている。不便になったのは郵便局が民営化されたことだ。「以前は郵便配達の人に頼め たが今はできない」という。  K さんの現在の生活するための活動は,ほとんどムラの中,あるいはその周辺で間に合っ ている。生活がムラとその周辺地域で完結しているともいえるだろう。  電話やパソコンなど,外とのつながりを可能にするメディアについても同様の事がいえそ うだ。  K さんのところでも電話は玄関近くに置いてあり,ムラの情報が入ってくる小口機もおい てある。村ではどこの家も玄関に置いているところが多いそうだ。K さんが嫁いできたとき には,家にまだ電話は無かった。1980 年頃に電話を引いたのだが,電話が来たときは,世 界が広がって明るくなった感じがしたそうだ。そのとき K さんは,自分の実家には電話は まだ無かったけれども,電話がついた後でも,実家は義理の姉がいたので電話はしなかった。 兄弟に電話することが多かったそうだ。  携帯電話は,息子夫婦と夫が使っているが,一人ずつ持っている訳ではない。2 台をうま く使い分けている。孫も当然持っていない。K さんは出かけるときに持っていくそうだ。  パソコンは夫も息子もしない。これからは孫にやってもらうだろう,という。  こういった携帯電話やパソコンなど IT 機器は,個人の道具というよりは,家族の道具と して共有し,ムラの生活に合わせうまく使いこなすことを心掛けているようだ。  K さんの現在の家庭生活は,貧しさゆえの強い連帯感ではなく,家族の強い信頼感のもと で協力し合っている姿がイメージされる。またこの家族を軸とした生活が,ムラとその周辺 の地域社会で完結しているといえる。

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③ムラの生活  K さんの家も郡上神社の氏子である。役員さんが月例祭をやっているけれども,キヨコさ んのような一般の人はあまり出ないそうだ。大祭も同じで役員さんたちがやっていて,一般 の人は手伝うことはないということだ。氏子としてお金を払っているだけで,行事を運営し たりするという意味での信仰は無いようだ。  だがウナギの信仰はあるようだ。ムラに代々住んでいる人は食べないからウナギの味を知 らない。「だけど,あんなおいしいものはな。本当のことを言うと,それはここに前からず うっと住んでみえた人は,その味は知ってみえないで,わかってないわね」。  ここ郡上川のウナギは昭和の半ばまでは大量に生息し,大正 13 年には「うなぎの群生地」 として国の天然記念物にも指定されている。昔はウナギがたくさんいた。「私は来たときは 本当に出ました。うちでもエサを売っていましたから,サナギを持って行って揉むと,何に もおらんところからこうやって出てきましたよ。あれは不思議です」。ウナギについてはこ んなエピソードもある。「川におひつを,おひつってわかりますかね。ご飯を入れるあれに まだご飯粒がついているもんで,それをふやかしているとウナギがそれを食べに出てくるん ですよ」。そのような情景の写真が資料館の『郡上村ふるさと館』にはある。  ウナギが突然少なくなったのには言い伝えがあるそうだ。「一時私が来て何年でしたかし ら,ササが枯れるときが,何年か私も覚えていないが,ササの花が咲いて,その花が咲くと 川の長いものが死ぬというあれがあって,やっぱりここのウナギもすごく死にました。白く なって浮いてきて,あれで大分死んでしまったようです」。上流に工場等は無いので水の汚 れが原因とは考えられない。  ここのウナギは,川へ下っては行かず,この川で冬を過ごす。「うちの主人がまだ若いと きなんかは,夜,ウナギがとりやすいもんで,よその人が入ってくるもんで,それの夜回り がありました」。ウナギ泥棒の対策としてムラでは,消防団が夜回りをし,ウナギを大事に していたということだ。しかしウナギが減ったのは,台風の水害があってから,川が浅くな り深みが無くなり,川が変わってしまったからだと考えているようだ。  K さんがこのムラで暮らすことになったのはムラの祭りと関係があった。K さんが 25 歳 の時,主人と見合いで結婚した。村の神輿を,自分が生まれた家の前にあった仏壇屋に,自 分のいとこである使用さんが修理に持ってきた。嫁がいないという話が出て,近所の人があ そこの家に年頃の人がおる,ということになった。「お祭りの神輿が取り持ちの縁みたいな もんだって」と言う。  昔は,式は 3 日間くらいかけて家で挙げた。まず来る前に座敷をもうけ,夕方来て,入り 込んで夜は祝儀だった。また式の当日の夜に主人の友達とやり,その翌日には 2・3 人だけ だけれどもやったという。  このような冠婚葬祭の行事では,ムラの人たちの協力は不可欠だったようだ。葬儀などで

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は,親戚や班・組で 3 日間くらいお手伝いをした。また隣の家を借りて,お坊さんの休む家 にした。私のところは隣が居ないので,そのための余分な部屋をつくった。  今は斎場がムラにできたのでこの必要性がなくなった。さらにもうこのようなムラの人た ちの手伝いもない。葬式のスタイルが変わってしまった。ムラでは,5 年前から決まりがで きて,食事も助六寿司を頼むようになった。  ムラに電話や IT 機器が導入され,道路ができたり,郵便局が無くなったりして生活環境 が変化していくとともに,ムラの人たちとのつながりは,「ウナギを食べない」などムラの 決まりを守るといった面では強く,行事や儀式などでは協力を求めにくいという点ではそう でない面があるようだ。  しかしムラは,境界を変え,姿を変え,人間関係を変えつつも,生き残っている。これか らもどのような変化のもとでどのようなムラになっていくのか興味は尽きないムラである。 (上田裕) Ⅳ.F 家 I さん M さんご夫婦 ① 50 年にわたってムラを見つめ続けてきた家  ムラを貫く静かな川の両岸には,山に向かうなだらかな細い坂道に沿って幾つかの集落が 軒を連ねる。同姓の世帯が幾軒も立ち並ぶ集落の中腹辺り,穏やかな川のせせらぎ沿いに歩 を進めていくと,まわりの風景とごく自然にとけ込むような茅葺き屋根の家が見えてくる。 そこが F 家,I さん M さんご夫婦のお宅だ。  F さんご夫婦がこの家を建て替えたのは 1959(昭和 34)年 3 月のこと。だがその直後の 同年 9 月,忌まわしき伊勢湾台風がこの地方を襲った。凄まじい被害をもたらしたこの台風 によって,離れの家の屋根は吹き飛び,家のすぐ傍の川に架かっていた橋は流され,山の 樹々はことごとく倒壊した。だが,幸いにして F さんの新居は大きく傷つくことはなかっ たという。聞けば,家の造りが近年の「ボルト差し」ではなく,昔ながらの「ほぞ差し」で 出来ているため,台風の災禍にも持ちこたえることが出来たのだとのこと。それから50余年, この茅葺き屋根は,変わり続けるムラの風景をずっと見守り続けてきた。 ② F 家の歴史とムラの生活  何度かの台風に見舞われてから,このムラでは神の遣いと奉られるウナギの姿が川からめ っきり減ってしまったという。奥様の M さんは回想する。  「あの時分(昭和 24 年頃)は,ウナギは今思うと本当におとぎ話みたいなもんやけど,こ のぐらい太いやつが,ほんで長いやつがたくさんおって,川にカイコのさなぎをたたいて流 してやると,下からいっぱい上がってくる。こんな細いやつから小さいこんなイワシから,

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だーっと」。  ご夫妻はともに 1931(昭和 6)年生まれ。M さんが I さんのもとに嫁いできたのは 1953(昭 和 28)年のことだ。当然のことながら,この地で生まれ育った I さんは,神の遣いである ウナギをいまだに一度も口にしたことはない。  I さんはこの家では 3 代目にあたる。近隣の F 家の中では比較的新しい方だ。親戚筋にあ たる同じ F 姓の財閥家では,現在 13,14,15 代と 3 世代が同居しているそうだが,I さん のこの母屋に住むのは現在は夫婦お二人だけだ。  この集落の歴史は古く,生涯に 12 万体の仏像を彫ったと伝えられる江戸時代の行脚僧円 空(1632―1695 年)も,この地に縁の深い人物である。現在その円空の遺志を継ぐ神主の方 は代々の世襲で 39 代目となり,I さんは 49 歳の頃からその補助的な役割を務めている。こ の地がお宮としている神社のしきたりは厳格であり,毎月の月例祭も必ず決まった日付で行 われているそうだ。神を祀り,神に仕えてきたムラの系譜を,I さんは正統的に受け継いで いる存在と言えるだろう。  かつて,この地区の伝統的な産業といえば,林業を代表格に養蚕,炭焼き,そしてお茶作 りなどであった。そもそも I さんが生まれ育った F 家は薪炭業者で,一時は 50 人ほどの従 業員を雇用して一財産を築いた。初代のおばあさんがしっかり者で,薪炭で財をなしたのだ という。加えて I さんのお父さんは歌人でもあり,短歌や詩をたしなみ,靖国神社などの歌 会にも入選するほどの腕前だったとのこと。商才と風雅さ,そしてリーダーシップを併せ持 った F 家の家柄が伺われる。  だが,近年は林業など一次産業の景気はすこぶる悪く,I さんのお孫さんご夫婦も家業は 継がず,二人とも公務員(教員)なのだという。I さん自身も,自宅の林業ではなく,県か ら委託された仕事や神事関連の嘱託の仕事で収入を得ているというのが実情だそうだ。  そんな状況下でも,I さんはじめ,いまだ田畑を手放さず,耕し続けている人は多い。「米 は大変つくっておりますから。どえらい余るぐらい」。余った分は供出はせず,誰かにあげ てしまうことが多いのだそうだ。自分がカネを稼ぐためばかりではなく,皆がムラで助け合 って生き続けていくために労働していこうとする点にも,I さんならではのリーダーシップ が感じられる。奥さんも 2 反ほどの土地で野菜を耕しているが,こちらの方は野生のサルに 食べられてしまうので,最近は外で買ってくることのほうが多いのだそうだ。  この近隣一帯にとって,サルは天敵である。田畑の周囲に電気柵などを張り巡らせても, 賢いサル達は難なくその柵をかいくぐって畑を荒らしてしまう。捕獲しても食べられないし, 人の数に比してサルの数は増える一方だと二人は嘆く。  そしてサル同様あるいはそれ以上に深刻なのが,イノシシによる被害である。既に狩猟歴 50年余りというハンターでもある I さんは,シシ狩りの取材で何度か全国紙にも取り上げ られたことがあるほどの有名人でもある。現在は大学生にもシシ狩りを教えているという I

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さんは,仕留めた獲物の日付入り写真を何枚も見せてくれた。これまでに捕えたシシの数は 数百頭。もちろん県知事からの免許証を得た上での狩猟であるが,最近は猟銃はあまり使わ ず,もっぱら罠を仕掛けて捕獲,殺処分にすることが多いのだという。  「人間の数は減ってまうし,おれらでも跡継ぎがあらへん。それはしようがない,時代の 流れですから。でも山は宝の持ちぐされですね」。  他所から訪れる観光客や研究者のガイド役を務めることも多いという I さんは,お宮にも 樹齢 700 年という木があるのにと,残念そうに語った。  「一番僕が心配するのは,植林ですね。今はいいですよ,水はたぶろくある,植林してね。 幾ら照っても水はあるでね,これは木のおかげですな。でもこれもはげの山やったら,水は 切れてまって,こんな清泉な水は出ませんで,これは植林のおかげですから。水が豊富にあ るということは山の植林のおかげですけど,ますます木がしとなってまうでね,これから。 杉なんか,もう 70 年も置いたらこんなもんですでな」。  無計画な伐採計画が環境破壊を招き,一方カネにならないからといって植林政策を安易に 転換してしまうことで生まれる危機を,I さんは危惧している。山や木に対する愛着を語る 一方で,いくら切っても市場で値のつかない林業関係者のジレンマを,I さんは切々と説明 してくれた。  「とにかく市で小美林作戦で,今環境をよくするために,外部の家の近いところとか近所 を切ってまうでしょう。この間も切ってまったね。あれ,市からどえらい援助をもらってお るんですよ。そんで,わしも随分切ってあげたけど,結局切り賃は出していただいても,市 場へ出しても,持ち運び,運搬賃,手数料,それに全部取られて,自分の懐へ入るところは ゼロというか,ささいな金,涙金。こんなもんに自分で費用を出したら,もとからの切り賃 から何もない,大赤字ですよ。まあ,木みたいなのはだめです。ひどい植林ですでな」。  かつてはムラの収入源であった林業が,無計画な植林政策によって混乱させられ,そして 時代とともに需要が減少することによって今度は伐採を命ぜられる。流れる時の狭間で翻弄 されざるを得ない I さんの悩みは深いようだった。  「うちのおやじら,杉はとにかく僕にやかましかったで,おんで行っても上に行っても, とにかくおれに名前を寄せて,30 年なりゃ杉は金になるで,杉を植えよ,30 年なりゃ金に なるでって。金だけやってんな,植林と養蚕とお茶は。本当にそんなようなもんやった。あ れは,今植林してまって,これの行く末どうなるんか知らん」。  かつては,育てて出荷するまでに倍の年月を要するヒノキなどよりも,杉のような樹木の 方がすぐにカネにすることが出来た。戦後全国で実施された植林政策は,このムラにおいて も例外ではない。  「間伐も国の方の予算がないで,そうできんです。太いもんそう切ったってしようがない。 切ってこなごなにしたら,どえらい水が来ると集中豪雨で,その来て流れていくと,どえら

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い災害をくってまうで。そういうことも考えないかんでね。裏山なんかに切って転がしてお いても,恐らく向かい近所でもそうですけど,今もとを倒して除間伐をそのままじゃないで すでな。やっぱり何メーターに切ってつがんで,それを木のところに積んでおくもんですか ら,集中豪雨が来るとどこへどういうやつが来るかわからん。落ちてくる。なので集中豪雨 になってまう。そこへ流れていってから,家も何かも押していってまう。それで今被害が随 分起こっておるんです。これは日本全国的に植わっておるでね」。  長年,このムラで定点観測をしながら,同時に数多くの山々を歩いてきたからこそ言える 日本全国の山々に通ずる切実な問題を,I さんは丁寧に語ってくれた。 ③ M さんとムラ  奥さんの M さんは,近隣の M 市からこのムラに嫁いできた。実家は農家で,養蚕で生計 を立てていた。ウナギも食すことが出来ぬ土地柄に,当初は「おぞい(こわい)ところへ来 たもんやわ」と感じたという。嫁いできた当時は戦争直後で,行商のおばあさんがよく品物 を売りにきたそうだ。さすがに最近は行商は来なくなったが,M さんも含め,いまだこの 近所では自動車免許などもっていない主婦が多く,皆で乗り合いをして近隣の街に買い出し に行くのだそうだ。  「私んた,まず終戦のときになった者はほとんど運転はせんけど,子供はみんなするもん で頼めるわけ。何ていうんか知らんけど,やっぱり世の中の移り変わりで,本当に難儀なこ ともあるわ。やっぱり自動車なんか乗らんもんで。子供も,下の次の子たちは自動車乗るし, みんな自動車で働きに出てまうでね。ちょっとしたところやけど」  いまだにムラの外に出る為の交通の便は非常に悪い。近頃はインターネットショッピング など通信販売もあるが,あまり利用はしていない。最近も東京の美術商だという者からキャ ッチセールスまがいの手法で写真を売りつけられそうになったこともあるという。幸い警察 に相談して事なきを得たが,詐欺まがいの手法で売上を しとろうという悪意は,この静か なムラも標的にしているようだ。 ④ムラとメディア生活  I さん M さん夫婦も,パソコンや携帯電話は使用しないが,息子や孫達はそういった最新 機器は当然のように全て利用している。年老いたご夫婦にとって,メインとなる外部への通 信手段というとやはりムラ中に巡らされた有線電話となるようだ。決まった番号を回せば, この一帯に限ってはいまだ無料で通話が可能である。地上波デジタルテレビも早々に契約し たが,それほど気にかけているわけではない。  人里離れたこのムラとはいえ,携帯電話もインターネットも地上波テレビも,ムラと外部 を繫ぐインフラストラクチャ=メディアは既に一通り っている。高齢ゆえに最新のメディ

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ア機器を使いこなすことが難しいという事情はあるにせよ,それらを使わなくても I さんや Mさんの生活が特段に不便を被っているという印象は受けない。それは,このご夫婦以外 のご家庭を訪問した時にも感じたことである。何故か。  ムラの多くの家庭生活の中心に共通して在るコミュニケーションメディアは,いまだ各家 庭で毎日利用されている有線電話である。ムラの人々は,このメディアから流れる情報に 日々耳を傾け,明日の天気や,ムラの催しや,近隣の知人たちの健康具合を知る。逆に言え ば,ダイヤル一つで自由にやりとりをすることが出来るこの有線電話が画定するコミュニケ ーション区域が,ムラのコミュニケーションの「場」となる。  他の地域から隔絶され,閉じているというわけでは決してない。このムラのメディア機器 の普及状況を見れば,むしろ積極的に新たなメディア変容を受け入れているといってもいい。 しかし,時代の潮流にいたずらに翻弄されず,必要なものは取り入れながら自分たちの生活 を守っていこうとするムラの姿勢の象徴として,この有線電話は存在しているように見えて ならなかった。  玄関先で行われていた取材の最中,ムラの役場からのお知らせを流すスピーカーからの声 が,家の中そして屋外からも同時に鳴り響いた。この放送はこの集落一帯に全て共通して流 されている。(山崎隆広) Ⅴ.F 家 H さん ①少子化と郡上村  郡上市でも,65 歳以上の老年人口の増加のいっぽうで,0∼14 歳の年少人口,15∼64 歳 までの生産年齢人口の減少は顕著である。特に,20∼24 歳までが特に少なく,子どもも減 少し,今後急速に高齢化が進行することが危惧されている8)。H さんの学生時代には,周辺 集落あわせ「150 名の同級生がいたが,現在では 20 名台」であることからも,郡上村周辺 地域でも少子化が進行しているようである。しかし,郡上村では,極端な少子高齢社会では ないという。その理由の一つに,親子で一緒に住んでいる家が多く存在しているからである。 Hさん宅のように 3 世代,4 世代一緒におなじ釜の飯を食べている世帯は少なくなってきた ものの,それでも 2 世代いっしょの世帯は多い。その証拠に一軒の間取りは部屋が多く,玄 関に土間がある家も多い。また 1965(昭和 40)年頃,それまで郡上村では藁葺き屋根の家 が主であったが,ほとんどの家がそれ以降改築し,現在まで築 40 年以上たっている家も珍 しくない。さらに,庭が広い家などは,隣に息子夫婦の家を建てることができ,住まいは別 であっても,食事は一緒にとる家庭もまだまだ多いようだ。  郡上村では,職場や学生時代の同級生などと結婚するケースが多く,遠方から結婚相手を みつける傾向は現在でも希である。これは,2009 年に実施した「第 5 次郡上調査」の聞き

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取り調査結果からも,郡上村周辺から嫁いでいるケースが多かったことからもわかる。一方, 現在では郡上村では,30 代から 50 代の特に男性独身者が,約 1 割から 2 割を占めている状 況にある。このような状況下で,行政として何か対策はとっていないのか。  結婚促進対策として郡上村周辺集落では,中国や台湾,フィリピンといった国々から紹介 者を通して国際結婚をしているカップルは数件存在するという。現在では郡上村では国際結 婚といったケースはまだないが,郡上村でも今後国際結婚が増えていく可能性はあるようだ。  国際化は,観光業にも影響を与えている。国際化の重要なインフラは,中部国際空港であ る。「中部国際が。あれで非常に郡上というのは便利なんですね。空港をおりて 1 時間ちょ っとでしょう。こんなところはあんまりないですよ。だからもっともっと誘客をということ で,今,年に 620 万ですか,観光客が訪れていますけど,その中の特に中国,台湾,韓国の 方が多くなっていますね」。岐阜県には,世界遺産白川郷合掌集落をはじめとする観光スポ ットや郡上踊りや高山祭りなど,日本伝統を継承している文化遺産も数多く存在し,国際空 港から約 1 時間でアクセスできる立地条件あわせ,外国人観光客の増加も見込まれる。 ②むらびと同士の交流  郡上村では,地域の結束力が強く結婚率が高いのも,少子高齢化に歯止めをかけている理 由だと H さんは答える。これは,郡上村商工会青年部が発行している「郡上村電話帳」の 記載で確認しても,郡上村では夫婦二人だけの記載は少なく,一世帯あたりの記載人数は, ほとんどが 4 人以上の世帯で記載されている。これは,前年の悉皆調査でも同じ傾向であっ た。  では,具体的にどのような取り組みが行われているのであろうか。15 年ほど前までは, 野球やソフトボールといったスポーツでの交流を通して,毎晩のように汗を流していた。最 近では,ゲートボールとかグランドゴルフといった,シニアクラブが活発に活動を行ってい るいっぽうで,婦人会が 2010(平成 22)年 3 月に解散した。  いっぽう,毎月の月例祭や 4 月に行われる大祭,自治会単位での集会が,年に 4,5 会開 かれたり,夏祭りや盆踊りなど,昔ながらの祭礼行事はむらびとの購入行事として,現在で も残っている。また,若手の会である「一里会」があり,2009 年実施された,「第 7 回日本 山村会議」での中心役を担った。  この「一里会」は,長良川から県道の奥になる星宮神社までの距離,約 4 キロにちなんで つけられた会の名前である。この会の前は「十五日会」と呼んでいたが,H さんらの世代を 中心に,平成元年,当時の 20 代から 40 代がメンバーとなって,この「一里会」と会名を変 更した。  「昔からみたらずうっと減っていますけど,まず祭礼が毎月ありますよね。そうして月の 自治会単位の集会が年に 4,5 回,それからこの間,盆の 13 日の晩に公民館活動があります

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ね,それでいろんな行事をやるんですよ。それで夏祭りをやって,皆さん集まってきてバザ ーをやったり,一杯飲んで,盆踊りをして交流をしたり。それであとはいろんな,ここはま だ残っているんですけど,昔ながらの祭礼行事,例えば秋葉様の祭りとか,いろんな八王子 まつりとか,そういう祭りのときが寄る機会かなあと思っています。もう一つは,最近薄ら いでいるのは,この間もちらっと話したけど,一里会という会があって,それは若手の会な んだけど,これがもともと地域おこしの会やったんですけど,だんだん皆さん忙しいんかわ かりませんけど,どうもその辺も低下してきているんで,だんだん村そのものの元気が僕は なくなってきていると思うんですよ。ここのところで,この間もちらっと話しましたけど, 今言われるのは,やっぱりみんなが少しでも暇があれば寄る機会をつくって,意見交換をし ながらどうしていこうかというものを持っていかないと,だんだん寂れるのと水臭くなると 思っていますから,もう少し元気を出していきたいなと」。  そんな思いがある中で,2009 年 9 月 19 日から 21 日までの 3 日間,郡上村を会場とした「第 7回日本山村会議」が開かれた。これは,2 年に 1 回全国各地を会場とし,山村の体験を知り, 山村のありかたを考えことで開催されている会議である。そこで,郡上村が第 7 回会議の会 場となったのだが,この 3 日間に,全国から約 100 名近くの参加があり,地元住民も約 150 名加わり盛大に開催された。山の仕事や村での生活といった郡上村の生活体験のほか,修験 道,行場巡りといった,郡上神社や円空にちなんだ村独自のプログラムなどが用意され,そ れぞれむらびとが中心となり,参加者たちに村の魅力を伝授した9)  このような催しが行われ,月に一度行われる星宮神社の月例祭を中心に,むらびと同士の 交流が現在でも続いているが,15 年ほど前までは,野球やソフトボールでのスポーツ交流 も盛んで,ナイター設備のグランドも 3 つ造られ,毎晩練習や村同士の対抗試合なども頻繁 に行われていたという。  しかし,婦人会が解散されるなど,現在では地域交流も減少傾向である。これは,女性の 社会進出により,若い世代が仕事で村外に働きに出て,生活スタイルの意識変化が一因であ り,その変化は冠婚葬祭でも,この 2,3 年で業者に依頼して執り行われるケースが増えて きているという。  「冠婚葬祭の葬の部分ですね。これが前は亡くなるとみんなが寄って,料理をつくったり やったじゃないですか。それがここ近年になってきて式場になっちゃうんですね,ほとんど 式場。そうなると寄るだけで何もする必要がないですよね。それが大きく変わることになり ますよね。(中略)ほとんど 8 割,9 割方式場になっちゃいましたね,ここ 2,3 年で」。  日頃の生活におけるむらびと同士の交流の場が,ひとつひとつ薄らいでいく中で,人びと の他者とのつながりも希薄になっていく,そんな社会がここ郡上村でも現実味を帯びだして きている。

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③雇用  長良川と並行に走る国道 156 号線には,多くの工場が点在し,郡上村周辺には,大企業の 工場や病院が多く隣接している。たとえば,ボルトナットや樹脂製品等,自動車用ファスナ ーの製造,販売を手がける A 製作所や,自動車や船舶,建設用のエンジンや部品用のすべ ての軸受を生産している,日本唯一の会社である D 工業株式会社など,大企業の工場が多 くあり,郡上村出身者を従業員として受け入れてきた。  D 工業株式会社は,1939(昭和 14)年 11 月に設立された名古屋に本社をおく,東証第 1 部の会社である。林業が主な産業であった郡上村にとって,これらの工場は林業にかわる雇 用の場でもある。山の仕事が衰退し,仕事がなくなる時機になると,職を求め多くの人が D 工業へ就職した。  「逆に林業がだめになるころというのは,最近になって木材加工が低いですけど,(中略) おやじが炭焼きをやめたころ,あの辺から十何年というのが山の仕事がなくなる最中だった んですね。そういう人たちがみんな D 工業という企業へ移ったんですよ。D 工業というの は名古屋圏並みの給与体系なんですよ。だからやめても退職金が何千万と入るもんですから, 皆さん新しい家をばんばん建てていますけど,割と今林業が停滞して切りかえせないかんと いうくらいであったのが,昭和 30 年,40 年,50 年の前半まででしょう。そこでもう変わっ ていますから」。  「今は高校卒業したら D 工業へ勤めれば,そうすれば生活は安定するじゃないですか。安 定すれば親子で住むという形で多分残っている。それであとは食うだけのものの米が,大体 これは三段腹百姓というんですけど,平均 3 段 4 段ですけど,食うだけはあるというところ で,環境的には住みやすいしというのが,そんなことが原因かなとは思っています」。  郡上村には山がもたらす豊富な水資源があり,田畑で家族だけ食べていける作物を栽培す れば,とりあえず食べることには困らない。また,親子三世代で同居する家庭もまだまだ多 く存在する。そして,以前は林業であり,現在はサラリーとして安定した収入を得られる企 業に職を得れば,衣食住を特に心配することはない。冬は厳しい環境ではあるものの,郡上 村の人々にとって生きていく基本三原則が確保されており,比較的裕福な環境にある家庭が 多いようにみうけられる。税収の面でも郡上村は,比較的裕福であったようだ。  「郡上村というのは企業が郡上で一番多いものですから,割と税収はあったんです。反面, この村だけとらえちゃいかんですけど,郡上村のころの方が裕福だったんですよ。(中略) 合併してこれがよくなったよと言えるものが,逆にマイナスが多くてプラスが少ないですね。 それともう一つには,合併すると中心市街地がどうしても栄えていくんですよ。郡上村は端 じゃないですか,美濃市に近いけど。それで北部地区が非常に低下していますから,これを みんなで何とかしようと今やっているんです。」  合併後郡上市となった現在,村ではなく市としての今後の運営が,村のリーダーとして試

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郡上村の山村風景(2010 年 8 月撮影) されている。 ④地域課題  郡上村周辺には,市民病院や診療所など 3,4 カ所あり,医療関係は充実している。その 反面,行政の負担が大きく,近年効率化を求める必要があるようだ。特に病院から出るごみ の処分費用の負担が大きく,見直しが必要であり,また病院同士の連携なども課題である。 また,学校の老朽化で修繕工事や立て替えなど施設設備費などの負担も多く,少子化による 統廃合の必要もあるという。  少子高齢化,国際化,女性の社会進出など,郡上村でも社会変化の影響が徐々にではある が,人びとの生活にも影響を及ぼしはじめている。そのような状況でも,家族の絆を大切に し,むらびと同士のタコツボ化現象を防ぐためにも,これまでの伝統行事を守り,地域交流 を図り,お互い困ったときには一致団結し助けあう,そんなむらびとの思いが村のリーダー として H さんのインタビューを通して感じられた。  この郡上村で長年調査を実施することができたのも,また,我々のような部外者を快く受 け入れ,長時間インタビューに答えてくれてくれたのも,郡上村の人びとに人とのつながり を大切にする心の温かさがあるからではないだろうか。そんなつながりを大切にするフォー ルドをいつまでも守り続けていてほしい。(川又実)

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注         1)調査期間は 2010 年 8 月 23 日∼26 日に実施し,今回の調査を「第 6 次郡上村調査」とした。 2)今回の調査では,前回の「第 5 次郡上調査」の結果から,調査対象者を抽出し,5 家族の協力 を得ることができた。今回の調査では,むらびとの個人史を主な聞き取りとしたため,父子や 夫婦参加での団欒形式で行われた。また,F 家の H 氏にはヒアリングを 2 回行ったため,計 6 回のインタビューとなる。なお,調査対象者,地域名などを全て匿名,コード名にしたのは, これまでの調査同様深層的な調査を実施したことにより,むらびとのプライバシー保護のため である。 3)「カッコ」内は,インタビュー対象者の声。 4)「伊勢湾台風」では,岐阜県下で,台風の中心が通過する約 3 時間は暴風とともに,時間雨量 40∼70 ミリの激しい雨が降り続いた。県の被害は,死者 104 名,家屋の全,半壊,破壊は 23 万戸,被害の総額は 500 億円にのぼったという。 全国の被害合計は死者 4,697 人,行方不明者 401 人,負傷者 38,921 人だった。 (岐阜県 HP :http://www.pref.gifu.lg.jp/bosai―bohan/bosai/bosai―oyakudachi―joho/saigai―sir― yo/isewan.html) 5)「第 2 室戸台風」では,県下の被害は死者 7 人,負傷者 110 人,全半壊家屋 321 戸,浸水家屋 7039戸,道路損壊 248 ヶ所,堤防欠壊 49 ヶ所,橋梁流失 72 基,被害総額 4 億 6 千 4 百万円, になったという。 (関市災害年表:http://www3.city.seki.gifu.jp/bousai/saigai/default.asp) 6)昭和 20 年 7 月,「D 工業メタル」中川工場を郡上村に移転。 7)1974 年「A 製作所」の岐阜工場が稼働。 (A 製作所 HP:http://www.asj―fasteners.co.jp/company/page3.html) 8)岐阜県総合企画部統計課「統計からみた郡上市の現状」(平成 22 年 8 月更新)参照。 9)日本山村会議美濃郡上実行委員会『第 7 回日本山村会議美濃郡上∼山と川に生きる暮らし∼報 告書』参照。

参照

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