池 田勇人の対外認識 とアジア政策
Ikeda]臣ayato's Extemal Perspectives and Asian Policies
Hyong Cheol LEE
課題 と視覚 本稿は戦後 日本の主な保守政治家たちの対外認識 とアジア政策を追 う一連の論文であって
,彼
らの対外認識 とアジア政策における連続性 と相違な どの特徴を探 っている。即ち,対外認識特 に, 戦前か らのアジア主義が戦後の政治家にどう受容・変容されて,戦
後 日本のアジア政策にどう反 映されるかを追 っている。今回の中心人物は池田勇人(1899-1964)で
あ り,池
田のアジア認識 と政策を追 うのが本稿の主な 目的である。既に池田については多数の研究物があるが,残
念なこ とに池 田本人による日記 と自伝は存在 していない。1)も し池 田が病で倒れなかったな らば,池
田 も自分の記録を残 したかもしれない。そのため,池
田のアジア認識を探 ることは容易ではない。 池 田には,「寛容 と忍耐」,「低姿勢」,「所得倍増 と高度成長」,「吉 田学校の優等生」,そ
して「失 言大臣」のような修飾語がついている。上記の修飾語か らもわかるように,首
相時代の池田は閣 僚時代 とは違 って,政
治スタイルの急旋回をした。斯かることか ら推測すれば,池
田のアジア認 識 というもの も大分変形 されているのではなかろうか。それは池田に限ることではな く,吉
田以 来の戦後の政治家に当てはめることではなかろうか。 1960年代は戦後 日本の転換期である。高度成長 と呼ばれる時代の到来 とともに,確
かに政治的 にも池田内閣には従来の内閣 とは異なるところがあった。それで,も う一つ注 目したい ところは, 戦後の歴代内閣の中で池田内閣の位置づけであ り,さ
らに憲法 と再軍備な どに現れる池田自身の 政治認識 と彼の師に当たる吉田茂の政治認識 との比較である。なぜな らば,同
流 と見 られる両者 の政治においても微妙なずれがあるか らである。1.池
田勇人とその内閣(1)池
田勇人という人 エ リー トであ りなが らも「赤切符」 と言われるほど,超
高速の出世 コースには乗れず,大
蔵官 僚にはなった ものの,難
病 と喪妻 という人生の苦汁を味わった池田は大蔵省第1国税課長 として 敗戦を迎 えたが,決
して傑出した人物ではなかった。占領期の公職追放 という政治空間に吉田首 相 との出会いが池 田に幸いして,政
治家 としての名を残すようになった。 吉田 と池田 との出会いは占領期の際,公
職追放によってできた政治空 白を官僚が埋めたことか ら始まる。「上のほうが飛んでしまった」ので,大
蔵次官まで昇進 して,吉
田茂 と知遇を得,「吉 田学校」に入って吉岡流の政治を習った。第3次吉 田内閣 (1949年 2月)で
初選議員のまま大蔵 大臣に抜擢された池田は,佐
藤栄作 とともに吉田の腹心 となった。以後,池
田は佐藤 とともに吉 士 H 士 口 畑 李 ―-67-一田勢力の主軸をな しなが ら
,両
者は時には良き仲間 として,時
には政敵 として共生するようにな った。 親苦田勢力は岸 らの戦中派か ら「ポツダム体制派」 と呼ばれた。所謂,ア
メリカの占領政策に 協力した という意味であって,岸
らが主導 した保守合同 というものは政治か らの吉田はず しとと もに,敗
戦 と占領によって歪んだ戦後政治の建て直 しでもあった。結果論であるが,池
田が岸の 後継内閣を継 ぎ,さ
らに岸 とは正反対の姿勢 と政策を採 ったので,両
者の間には画然たる溝がで きている。 しかし,そ
れは偶然ではない。時代の変化 も彼に幸いした。伝統的な国家主義に傾倒 していた岸 と政治観が異なるのは当然かもしれない。無守合同の過程 と岸内閣期に池田は岸 と対 立 し,ま
たは妥協 したが,そ
れには次期首相への伏線が張 られていた。講和 と日米安保の締結後 の1950年代の 日本外交の最大懸案だった 日米安録改定 も岸が泥を被 りなが ら解決 したので,池
田 内閣が成立 した時には焦眉の急を争 う政治的争点はな くなっていた。差 し当た り,残
っていた問 題は経済問題のみであった といっても過言ではない。池田 とその幕僚は主に大蔵官僚 として, も っとも経済合理主義者であ り,偏
狭な 日本官僚社会にあっては珍 しく,財
政 という国家的規模か ら政治や経済をみる とい う長所 を持 っていたか らである。め池 田は時代 と人心の変化を見極めつ つ,紛
糾を招 きそ うな政治争点は後回しにして もいい,消
極的だ と言われて も国民に明るいビジ ョンを与 えればそれでいい という「合理主義的な効用論」め1こ立 った。 合理主義的効用論は軍事カー点張 りで合理的な判断を失 ったまま,戦
争 に飛び込んで国家 と民 族を滅ぼす経験を持つ戦後の 日本人に とっては もっとも説得力のあるものであった。吉 田茂 もそ の ような立場か ら戦後 日本政治の舵を取 ったが,現
実 と吉 田の構想はうま く噛み合わず,吉
田か らは一貫性の欠いた言動が現れがちであった。 しかし,池
田時代には現実 も池田の構想に味方 し たので,池
田の言動か らは吉田ほどの 自己矛盾 とその場 しのぎの姿勢は見 られない。(2)戦
後政治と池田内閣の成立 吉田内閣後,ア
ンチ吉田路線を標榜する鳩山,石
橋,岸
内閣が立て続けに成立 した。 しかし, 何れの内閣 も吉田路線から逸脱せず,吉
田路線を補完する結果になって,む
しろ 日本外交の宿願 であった 日ソ国交正常化,国
連加盟, 日米安保改定が成 し遂げ られた ことで, 日本外交の地平が 広がった。1960年の安保闘争 という熱い政治季節後,池
田内閣が成立 した。池田内閣は経済政策 を優先的な政策 としつつ,政
治問題の争点化を避けた。対外的にも沖縄問題,韓
国 との国交正常 化問題,中
国承認問題のような過熱 しやすい争点は後回しにして, IMF8条
国への移行,GA
T Tll条国移行,OECD加
盟など, 日本経済の国際経済への復帰を主眼 として,そ
の 目的を果 した。確かに, 日韓及び 日中 との国交正常化はアジアヘの復帰を果たすには避け られない過程で はあるが,池
田の経済主義的効用論か ら見れば, 日本外交の主軸をアジアに置 くよりは欧米 との 協調を深めたほうが,ま
だ先進国への復帰を果たせなかった 日本の実利に適 うことであった。特 に,そ
の ような効用論に立つ限 り, 日本外交の重 きは対米関係に置 くべきで,国
内分裂を招 きや すい非生産的な争点は避けて,国
民の関心を引 き付ける経済主義に徹することが政治の要であっ た。それで,戦
後 日本の 日常的な侍 まい とも言 うべき政治的状況が根を下 ろす ようになった。 元新聞記者であ り,政
治評論家である内田健三氏は,F昭
和20年の敗戦 ―戦後 日本の新出発か ら,27年
の講和 ―独立,30年
のいわゆる1955年体制の成立,そ
して35年の60年安朱問題 と, 日本 の政治は大 きな節 目を刻んできた。その流れのなかでも,60年
安保後の岸信介か ら池 田への政権 交代は, 日本政治の質的転換 といえる大 きな意味を持 っていると思 う。一 口で言えばそれは,戦
前派的発想か ら戦後派的思考へ,対
決か ら対話へ,直
進か ら迂回へ,政
治から経済へ と,重
心を 移 し変えた転換点であった。池田新内閣のキャッチフレーズ,低
姿勢の政治,寛
容 と忍耐 といっ た言葉や,所
得倍増 ・高度経済成長の政策がそれを物語 っている」のと述べた。 さらに,池
田の李
畑舗:池田勇人の対外認識とアジア政策 秘書であった伊藤 昌也は次のように語 った。の 池田は岸のや り方に不満だった。警職法を強行可決 しようとすると「民主主義はそんなもん じゃない。 日本の国民はあなた方が心配するはどバカじゃない。あなたの考 え方 と私の考え 方はち ょっとちが うんじゃないですか」 ということを言いたかったのである。岸 と池田では 「民主主義」の理解がはっきり違 うのだ。思想が違 うのだ。それは戦前派 と戦後派の断層で もあった。 上記の ように
,池
田内閣は従来の内閣 とは異なる政治認識 と政治スタ/ル
で,1960年
代を向か え,そ
れが戦後期の中で もう一つの転換期をなすことにならた。戦後 日本の真の民主主義は1960 年代から始まった と言 っても過言ではなかろう。2.吉
田路線 と池田 吉田路線を踏襲 した池田政治の特徴は何か。 さらに吉田政治 との相違は何かについて検討する ことにしよう。伊藤は次のように語 った。6) 戦後の政治は,何
と言 っても,吉
田から始まる。戦後 日本の政治を考 えるものは反対すると 賛成するとを問わず, とうしても,一
度は吉田に立ち返 らねばな らない。吉田は戦後政治の かなめであ り,戦
後民主主義の本流である。 この衣鉢をついだのが池田勇人であった。 この 意味でこそ,池
田が戦後保守の本命なのだ。池田は政権を とらねばな らぬ。彼 もその使命感 にあふれていた。 それでは,吉
田路線の特徴である親米主義 と経済主義を通 して,両
者の連続性 と相違 について 見てみることにしよう。(1)親
米主義 と反共主義 1960年 7月,自
民党総裁 に立候補 した池田が寛容 と忍耐,所
得倍増政策な ど6頁 日か らなる立 候補声明 と政策を発表 した。その うち,「平和で自由な協力的な国際関係の樹立」の中で,「真の 国際平和は相互の理解 と信頼 と協力の上にのみ成立する。 この故にわが国は,自
由諸国か らは信 頼 され共産陣営か らは長敬 されることによって,初
めて平和 と自由な国際協力の基盤を保つこと ができるが,こ
のような 目的を持つ 日米安全保障条約が1, 2の
隣邦か ら疑いの 目をもって見 ら れるばか りでな く国内で もこれに?い
ての疑惑 と反対のあることを極めて遺憾 に思 う」つと述べ た。安保聞争 による国内分裂の後遺症が覗かれる発言であるが,池田は親米主義を閲明している。 安保聞争によってアイゼンハウワー大統領の訪 日が取 り消された ことで,米
大統領の威信に傷つ けたのは事実であるが,そ
れでいて 日米関係がひどく動揺 したわけではない。 しかし,ソ
連 と中 国には格好の非難の的にな り,ア
メリカ とフランスの新聞 も厳 しく報道 した。その ことで, 日本 はアメリカに謝罪せねばな らな くなったが,池
田は組閣直後の記者会見で「 いつ波米 しますか」 の質問に,「今の ところ渡米は考 えていない。私は,日
本の国際的地位を高めるには,ま
ず国内 の政治を よ くす ることが最 良の方法だ と思 う」 と答えた。め1960年 9月 5日,池
田首相は9頁
目 か らなる自民党新政策を発表 した。その中で,外
交政策については「 国連中心主義 と安保体制の 堅持,さ
らに経済外交を推進する」 と表明した。それは総裁選の立候補声明を具体化 した もので ある。の 池田は外国の訪間先で も新米主義を明確にした。1961年■月のイン ド訪間の際,非
同盟主義で 世界的に注 目を浴びていたネール首相 と会談 した。池田は「 日本は戦前か ら西欧諸国と密接な関 係があったが,戦
後経済復興につき西側特 に米国か ら多大な援助を受け,西
側 との連結は更に緊 密化 した。米 ・ソ両国の中間に位 し1億の人 口と進んだ工業力を有する日本が東西いずれに組す るかは東西間のバランスに影響するところが大 きい上に, 日本人は共産主義が嫌いであるか ら, ―-69-―日本 としては中立主義は とり得ない。更に軍備を持たない日本は防衛のためにも米国に頼 らざる を得ない。日本は
,以
上の事情か ら,一
見米追随 と見えるような外交を行なうことになっている。 しか しなが ら, 日本の外交は向米一辺倒ではな く,ア
ジアの一員 としてアジア・アフ リカ諸国 と の提携 も大いに考 えている」1のと述べた。 さらに2年
後の訪欧で,池
田は「 自由主義諸国は,北
米 (アメ リカ とカナダ),コ
ーロッパ,そ
れ 日本およびアジアの三本の柱が中心 となるべ きであ って, 日本 とアメリカ との結びつきが,そ
のまま 日本 とヨーロッパのむすびつきにおきかえられ るとき,世
界平和を維持する道がひらかれる」 ということを示唆 しようとする,き
わめて野心的 な計画をもっていた と,伊
藤は述べた11)。 上記の池田の発言から親米主義 とともにアジア主義の 姿勢 も見 られるが,池
田のアジア主義は岸のアジア主義 とは区別 されるべきである (池田「躍進 する日本 とその世界的使命」1963.10.18)。 敷延すれば,岸
のアジア構想にはアメリカー日本 一 東南アジア という限定的な地域的枠組みの視角はあったが,池
田はアメリカーヨーロッパ ー日本 という世界政治の枠組みの中で, 日本 とアジアを構想 した。(2)経
済主義 占領期に吉田内閣はアメ リカの再軍備要求に抵抗 しなが ら,経
済復興優先政策を堅持 した。吉 田の経済主義路線が戦後 日本の基調をなすことにな り,池
田 と佐藤の両内閣 も経済主義路線を踏 襲 して,戦
後 日本を経済大国に押 し上げた。根本的に戦後の歴代内閣は,主
に対外的な問題が重 要政策であったが,池
田内閣は経済を政治化 した ことで,従
来の内閣 と違 い,さ
らに吉田の経済 主義 とも違 うところがあった。池 田が死去 した後,フ
ランスの『 ル ・モン ド』紙は「池 田氏は 1960年代における日本の反米エネルギー (注,安
保騒動のこと)を
経済問題に向かせることに成 功 した。同氏の政権の後半になって,経
済成長の加勢が問題 になったが,氏
の最大の功績は, 日 本国民に対 して, 日本は豊かな社会を実現できる能力を持っていることを教えたことであろう」 と報 じた。り伊藤は池田の経済主義について次のように語 る。131 ヨーロッパヘ行 ってか ら,池
田はかな りかわってきた。総理外交を身をもって実践 した自信 と,そ
れに ともな う責任を感 じてきたのであろう。(中略)ヨ
ーロッパ,そ
れ もとくにEE
Cを
見 ることによって,池
田のなかにあった漠然 とした ものに,に
わかにかたちがあたえら れた 一自由で外向きで, しかも繁栄をつづけているEEC。
ヨーロッパ全体をダイナミック に活動 させている総合的な経済政策,そ
れがやがて政治的な結合にな り,戦
争をかなたへ押 しやる力 となっている。 自分の思っていた どお りだった。 自分は間違 っていなかったのだ。 経済は外交の武器にな りうるのだ 一 確かに,池
田はアジア訪間に際 して, 日本経済の実力を誇示 し,ヨ
ーロッパ訪間ではEECに
刺激 されて,ア
ジア経済共同体の構想を持つようになった。吉田のように受身 としての経済主義 ではな く,よ
り積極的な経済主義を展開 しようとした。内田氏の指摘のように,一
見,池
田の経 済優先 と吉田の経済優先 と同根の発想の ように見えるが,結
果か ら見れば明 らかに異根であった ことがわかる。吉 田の復興優先はあ くまでも「当面」のことにすぎなかった。(中略)池
田政権 下の昭和38年頃,吉
田自身が「防衛を他国に頼 る段階はすぎた」 としていることからも明らかで ある。一方,池
田の経済優先の発想は今 日まで続いてお り, 日本が経済大国を実現できたの も吉 田 ドク トリン とい うよりも池田 ドク トリンの所産であろう。10 しかし,池
田の経済主義にも限界があったことには多言を要すまい。 よく言われるのが 日中間 の経済問題である。池田内閣の下で,政
経分離 に則 って両国間の貿易が再開されて,「日中総合 貿易に関する覚書」が調印され,LT貿
易に発展 した。 しかし,外
交的に 日中関係は激 しく揺れ 動いた。国連では,1961年
12月米国 とともに「重要事頁指定方式」の決議案を提出して可決させ て,中
国の国連加盟の芽を潰 した。さらに,1963年
の周鴻慶事件によって 日本は「第2次吉田書李
畑話 :池 田勇人の対外認識 とアジア政策 簡」 を送 るな どして
,親
台湾 の姿勢 を取 り戻 した。政経分離 と中国の封 じ込 め とい う矛盾 した対 中政策 は佐藤 内閣 まで続 くが, 日本外交の主軸が対米関係であ り,中
国が反米 ・反帝 国の旗懺 を 鮮 切に した状況 で, 日本が選択 しうる最善 の方策 だ ったであ ろう。佐藤 は,池
田内閣 には外交 の 実績 があ ま りない と批判 し, 日韓問題 について「 尚首相 に対 し日韓問題 につ きその意 向をただ し たが,首
相 としては国会 中で もあ り慎重 な態度 で,結
論 を得 ない」(1962.1.6)と か,「 此の問題 は池 田首相苦慮の様子。此の際の優柔不断む しろあ きれた感」(1962.1.9)と不満 を漏 らした。1の(3)吉
田 と池 田の「 低姿勢」 吉 田学校 の優等生 とは言 え,池田 と佐藤 の間に政策上の相違 があ るのは当然であ ろう。しか し, 両人 に よる経済優先 の政 治期 は戦後政 治の節 日にな った。両 人 とも親交 があ った保守政治の重鎮 であ った保利茂 は次の ように語 った。10 池 田,佐
藤 時代 をふ りか えってみ る と,経
済成長 のため に引 き出された 日本人の エネルギー を高度 に発揮せ しめ る 一― これが池 田時代 だ った と思 う。苦難の時代 に吉 田さんを助けて財 政再建 を手 がけて きた池 田さんは,100パ
ー セン ト吉 田さんに共鳴 しといた ところがあ る。 あ る意味 で,池田,佐藤 時代 とい うの は吉 田精神 や吉 田政 治の発展 をや った時期 ではないか。 それが沖縄返還 とい う ところへ実 ってい ったのではないか と思 う。 それでは,吉
田 と池 田 との関係 は どうであ ったの か。池 田の側近 だ った大平正芳 は,吉
田 と池 田の関係 について次 の ように語 った。1め 池 田さんは,吉
田さんを師表 と仰 ぎ,か
けが えのない恩人 として敬慕 して お られ るが,同
時 に,吉
田さんが現実 の政局 の裸面 (ママ)に
降 りて こられ るの を好 まれず,ま
たそ うい うこ とのない ように終始 こまか く配慮 されておったか らであ る (中略)。 1962年,第
2次池 田第2次改造 内閣 に大平 は外務 大 臣 に就任 し, 日本外交 を預 か ったが,そ
の 基調 が,吉
田茂元首相 の流 れ を汲 んだ対米協調 に置 かれた こ とは言 うまで もない。 その頃の吉 田 は大磯 に隠棲 していたが,外
務 省関係者 に大 きな影響 力を持 ち,歴
代外務大 臣 は,就
任 す る と真 先 に大磯詣 で をす るの が慣 わ しだ った は どであ る。お)大平 は「 池 田さんは箱根 の行 き帰 り,し
ば しば大磯で悠 々自適 されてい る吉 田茂元首相 を訪 ね られた。私 も,外
相時代 は足 しげ くお訪 ね し て,(中
略)大
磯 の吉 田邸 には,内
外 の要 人 の往訪 が多 く,引
退後 も吉 田さんは依然 として,隠
然 た る政 治的影響 力を持 っていた。」1の と述べた。 池 田が,吉田の リモー ト・コン トロール下 にあ る,とみ られ るこ とを嫌 った こ とは事実 であ る。 時 に政治談議 で吉 田の話 が 出 る と「 日本の政 治の責任 を負 ってい るのは,吉
田さんではない。 こ の池 田だ」 と言 った ものであ る。池 田の訪米歓送会が大磯 の吉 田邸で開かれた際,吉
田は酒 が ま わ った会場 で「 池 田君は元気 そ うだが,低
姿勢 とい う悪 い病気 に とりつかれてい るのでね」 とい う。政権 か ら降 りた吉 田は国会議 員の身分 だ ったので,政
界 か ら完全 に引退せず,戦
後 の元老 と して政局 に影響力を持 っていた。 しか し,吉
田 も国民 に とっては過去 の人物 とな って しまい,さ
らに生存者叙勲が復活 すれば,最
高位 の大勲位 の贈与 が予定 されて いたので,石
橋 と片 山の両元 首相 の ように選挙 で落選 すれば,不
名誉 引退 を余儀 な くされ る恐 れ もあ った。「 この偉 人 が超 然 た る絶対 の立場 にお られ るこ とが, 日本の政界全体のために必要な こ とだ」 と,心
得 た池 田は, 吉 田が泥 を被 らない うち に政 界 か ら引退 して欲 しか つた。2の池 田の勧告 を受 け入れた吉 田は 1963 年11月 の総選挙 には立候補 せず,政
界 か ら引退 したが,池
田の後継者選びをめ ぐって,執
拗 なは ど佐藤びい きにな った。21)-71-3.池
田のアジア認識 と政策(1)戦
後 日本のアジア主義 と池田のアジア認識 アジア問題は明治期か ら日本外交の課題であ り,戦
前 日本のアジア思想 と政策の結実たる大東 亜共栄圏の構築は敗戦 とともに葬 り去ったが,戦
前 と戦後を聞わず, 日本 とアジア との関わ りは 不可分であった。戦前か らの遺産 としてアジア主義は,戦
後には1957年の『経済 白書』が記 して いるように「経済力の平和的対外進出」 という形で蘇った。戦争 と敗戦によって都市が焼かれ, 大方の産業基盤が破壊 されたものの,そ
もそ も日本は世界的な先進国であって,蓄
積された工業 力 と人材は潜在力 として残 されていた。それが,や
っと植民地から独立されて,今
から自国の国 づ くりに取 り掛かろうとしたアジア とは画然 と区分 されるところであった。経済復興が進んだ 1956年,
日本政府は経済 白書で「 もはや戦後ではない」 と発表 して戦後復興の終 りを告げた。 1957年に発表 された経済 白書 と外交3原則 (国連中心主義,自
由主義諸国 との協調,ア
ジアの一 員)は ,再
び 日本が先進国への仲間入 りを果たしなが ら,ア
ジアヘ も復帰するという表明で もあ った。賠償外交から始まったアジア外交に外交3原則 とはかけ離れた空虚 さはあったが, 日本に して見れば,ア
ジアは是非踏 まねばな らない外交の域であった。 しかし,戦
後のアジア主義たるものは戦前の ように西洋勢力たるアメリカを拶F除するものでは な く,む
しろアメリカを抱 き合 うことで成 り立つようになった。戦後 日本のアジア盟主の座はア メリカの支援 と両国の補完関係によって,漸
く実現 されるものであった。岸のアジア主義 もしか りであった。思想 としてのアジア と政策 としてのアジア との間には空洞化が進んだはずである。 その空洞化はアジアの分節によって もっと進んだが,ア
ジァの盟主たる日本が思想 と政策の両面 で一体された 自覚を持つのは少な くとも1970年代の後半であるか ら,概
して相当の間 日本のアジ ア政策は試行錯誤を重ねることになった。 池田に岸ほどのアジア主義があったかどうかは明確ではないが,ア
ジア共同体を構想 した池田 にもアジア代表の認識があったことは想像に難 くない。池田の生い立ちから見れば,池
田とアジ ア との具体的な関わ りはない。官僚 として敗戦を迎えて,占
領期に吉田によって政治家に抜擢 さ れたが,池
田とアジア との関わ りはな く,首
相になってからアジアを2度
訪問 したが,岸
とは違 って内外に物議を醸す恐れのある台湾訪間はしなかった。(2)ア
ジア訪問 池田は1961年11月 と1963年9月 に2度東南アジアを訪問 した。訪間の 目的は岸が手掛か りをつ けた戦時賠償の終結の意味 もあったが,岸
時代 よりは一回 り大 きくなった 日本経済の実力を池田 自身 も悟 って,訪
問先では 日本の実力をまざまざ と披透 した。 一回 目のアジア訪間の際,池
田は更なる援助を求めるパキスタンのアューブ・カーンパキスタ ン大統領 に対 して,「われわれは要請 されてか ら援助を行 うというよりは,寧
ろこち らか ら積極 的に援助を行いたい との気持を持 っている。 日本 も大 きく経済成長を遂げてお り,(中
略)そ
れ 以外の分野で も,ご
要請があれば考慮 して見たい」 と援助に積極的であった。2めその後,池
田は イン ドを訪間 してネルー と会った。当時,ネ
ルーは米 ソ冷戦か ら第3の道 として非同盟主義を打 ち出して,ユ
ーゴのチ トー,エ
ジプ トのナセル とともに世界的に注 目されていた大物の政治家で あった。ネルーは中立主義を とらず,親
米主義を採 る日本の将来を「 アジアの秋児」と言ったが, 池田は持ち前の経済問題ではネルーを圧倒 したようである。2の 池 田は訪問 したすべての国の指導 者に「 日本は粥治維新 において も,敗
戦後において も,自
由主義的経済の発展 というものが,国
をつ くるうえに非常 に役だつことを知 った。その体験をぜひ聞いてもらいたい」 というのを話の 基調 とした。2つ 2度目の訪問 (フィリピン,イ
ン ドネシア,ォ
ース トラリア,ニ
ュージーラン ド)の
際,時
期李
畑錯:池田勇人の対外認識とアジア政策 尚早ではあつたが
,池
田の頭には「 アジア経済共同体」の構想があった。2めァジァ共同体の構想 は池田が ヨーロッパを訪問 した際に「 アジアのEEC」
を構想 したようで,池
田が考 えるアジア 経済共同体は,戦
後 日本の 自己確立のためで もあった。 コーロッパ訪間に際 して,池
田はEEC
が米ソの狭間で 自己確立 ・自己主張をするのを見た。池 田の構想 とは, 日本,韓
国,台
湾か らな る東北アジアが中核であ り,東南アジアやオース トラリア,ニュージーラン ドは背後地であった。 それができれば, 7億
の中国に充分に匹敵 し,ア
メリカの所得の半分を持つ繁栄地帯がで きあが るとい うものであって,20反共的な色彩 もあったが,漠
然 としなが らも,ア
ジア と太平洋が結び つ く構想であった。 2回にわたるアジア訪間でわかるように,池
田は主に経済主義に徹 して,中
国 と国内の争点に な りそうな台湾訪間は避けた。それが佐藤 とも違 うところであるが,ア
ジア経済共同体に反共主 義の色彩があったことは戦後 日本のアジア政策の一貫 した特徴で もある。(3)ア
ジア共同体の構想 そ もそもアジア太平洋経済圏 という発想はいつ頃から登場 しは じめたのか。財界による「 アジ ア共同体」=「
太平洋共同体」の構想があった。『 経団連月報』を繰 っていると,1960年
代初期 か らこれに類する発言が随所現れている。1960年 1月の『経団連月報』の新年座談会では「欧州 経済共同体」(EEC)に
模 して「太平洋沿岸諸国同盟」の可能性が論議 されている。アジア と アメリカよりはヨーロッパの動 きを意識 して,これ と同じものをアジアに作 ることがで きないか, という発想が 日本の財界に登場 して きていたのである。 この ように1960年代になるとアジア太平 洋経済圏の原型 ともいうべ き地域経済圏の発想が,新
聞や雑誌上に登場 と始める。2め現実性は兎 も角,1960年
代初になってか らアジア地域経済圏について企業の関心 と政府の推進力が結合する ようになった。 アジアヘの旅は池田勇人に多 くの ものを与えた。まず 日本の相手はアメリカだけではないこと がわかった。アジア諸国の後進性を自分の 日で見た ことも,自
信 と責任感を同時に植 えつけた。 「 日本は自由国家群の一員 というよりも,ア
ジアの中の 日本だ。アジアに責任を持ち,共
に繁栄 するように協力しなければな らない」 と20,思
うようになった。1962年H月 の ヨーロッパ訪問か らの帰国後,池
田は変わって「総理外交を身を以って実践 した 自信 とそれを伴 う責任を感 じたの だろう」 と伊藤秘書官が述べた。2の池 田は 日比谷公会堂で行 った帰朝演説で「各国が孤立 して繁 栄 しうる時代は去 った。われわれはアジア近隣 と,今
後ますます協力の礎を固めていかなければ な らない。相手の国が栄えることは,わ
が国も栄えることである」 と述べた。「『 日本 一アメリカ ーヨーロッパにパ イプを通す』 という池田の構想は,筋
道がついた。『世界の三本柱の一つ, 日 本』 という池田の口ぐせは,こ
こか ら始まった。」30 しか し,池
田の言質は希望の域に止ま り,現
に池田内閣が優先的に実現 したのは 日本経済の世 界経済システムヘの完全復帰であった。4.も
う一つの池田と経済主義の限界(1)池
田の苦悩 吉田も池田も経済主義のみを追及 したわけではない。周知のように,吉
田さえも日本が国力を 回復 した際には憲法を改正 して,再 軍備 しようとする構想を持 っていた。後述するが,池 田が ヨー ロッパを訪問 した際,軍
事力の必要性について独 り言のように話 した。池田は吉田時代の当面の モラ トリウムにも,自
分の経済繁栄主義にも疲弊を感 じ,精
神的にも充実 した国づ くりをしよう とした。所得倍増 とい う高度成長の凄まじさにさすがの池田も頭を抱 えた らしく,『週刊サンケ イ』(昭和38.1.14)にいささか弱音を吐いている。30 ―-73-―経済 とい うものはむずか しい もので
,国
民 の心理 が微妙 に反映す る。必ず しもこっちの思 う ようにはひびかない。 自分は所得倍増 とい うこ とを看板 に した。 これは国づ くり,人
づ くり の も とだ。 その信念はいまで も変 わ っていない。(中略)国
民 が うけ とりす ぎて くれた結果 が こうな った ともいえる 確 かに,国
家精神の根幹 は経済繁栄のみで成 り立 つわけではない。 しか し,戦
争,占
領,さ
ら に戦後政 治の激流の最 中で,耐
乏 と貧困を強 い られて きた 日本国民 に政治抜 きの経済繁栄は コン センサスを得やすい こ とであ ったが,戦
後 の 日本人 が国家精神への関心が薄れ るのは必至であ っ た。池 田 もその問題 に悩 まざるを得 な くな った。 (2)「人 づ く り,国
づ くり」の意図 1963年8月14日,池
田は総理 の個人的諮 問機 関 として「 人づ くり懇談会」 を発足 させ,「 期待 され る人間像」 を探求 させ ることに した。伊藤 は池 田の本音 について次の ように語 った。3め 憲法 問題 について も,「 改正 は世論 に聞 く」 と言 い,改
正 を急 げば 内乱 に もな りかねない と 考 えて いた。昭和38年10月の総選挙 では,「 私 の在任 中,憲
法 改正 はいた しません」 と言 明 したが,そ
れは憲法改正 が可能であ るような人づ くりがで きていない とい うこ とであ った。 日の丸掲揚 とか,紀
元節 の復活 とか,国
防省昇格問題 な どについては,あ
ま り積極的ではな か った。 その ような外面的な こ とで,国
を愛 す る心 が生 まれ るはずがない とい う考 えか らだ った。 訪 欧の際,イ
ギ リスのマ ク ミラン首相 と会 って きた池 田は伊藤秘書 に「 日本に軍事力があった らな,俺
の発言権 はおそ ら くき ょうのそれに10倍 したろ う」 と言 い,数
ヶ月後 には信濃町の私邸 で,「 日本 は宣官 の ような ものだ。 キン タマをぬかれた男 とい うところか ………」 と話 した。 ま た,米
紙 タイム ・ライフの編集局長 が きて,池
田に こう聞いた こ とがあ る。「 池 田総理 は,軍
事 的解決 と,政
治的 ・経済的解決 のいずれ を重要 と考 えますか」 と聞 かれ る と,池
田は即 座 に, 「 文 句 な しに軍事的解決 です」 と答 えた。池 田は 日本国の権力の頂点 にた って,諸
外 国の首脳 と 接触 し,
日本 国の力の限界 をは っき りと知 らされたのだろ う。(中略)自
分 の国 を 自分 たちの手 で ま もるには,ど
この国に も厄介 にな らぬ軍事力を,自
分 たちが もてば よい。 これは簡 明率直な 理論 であ るが'日
本 の 国情 はそれを詐 さない。(中略)で
は,ど
うや って国をま もるか。 それに は国民の一人一人が国を愛 す る気持ちを育てなければな らない と,伊
藤 は語 った。3め それでは「 人づ くり」の 目標 は何 か。伊藤 は「 日本の防衛 を 目指 していた」 とい う。「 自分の 国 を 自分たちの手 で守 るには,ど
この国の厄介 に もな らぬ軍事 力を 自分 たちで持てば よい。 これ は簡単率直な論理 であ るが, 日本の国情 はそれを許 さない。問題への直接的な接近 は不可能であ る」 とい う。 さ らに,伊
藤 は『「 具体的な こ としか関心のなか った池 田は,皮
肉に もこ うした最 も抽象的で観念的な人つ くりとい う問題 を 自ら提起 しなければな らなか った」』とい うぎつしか し, 伊藤 とは異 な る解釈 をす る側近 もいた。池 田の盟友 であ る前尾繁二郎 は,人
つ くりは教育問題 と 解釈 して お り,宮
沢喜― は『 池 田勇人先生 を偲 が』の中で,「 総理 にな って将来 は経済成長 が人 の心 に及ぼす影響 とい うのに気 がづいて,人
つ くりをい うようにな りま したね」,「池 田内閣は人 つ くりの問題提起 した に とどまった。結論 すれば,人
つ くりは池 田の発想 の熟 さないままに提案 され,具
体 的 な手 だて を発見 しないまま退陣 した, とい うこ とにな る」 と述 べている。3の池 田 も 経済のみで国家 は成功 で きない。 そのために魂 を吹 き込 もう としたのであ る。 しか し,戦
後 日本 では国家観,安
保 を巡 って画然た る国民的な亀裂 が生 じていた。その亀裂 を埋 めて,国
民 の思想 的一致を もた らす ことは難儀な課題であった。果た して,池 田にその難儀な作業がで きたであろうか。 吉 田 も池 田の低姿勢 をせめたが,み
ず か ら憲法改正の先頭 に立 つ こ とは しなか った。平和憲法 の枠 の中では,人
づ くり国づ くりもで きない こ と,共
産主義謀略 に も抵抗で きず,ア
ジアの平和李
畑詰:池田勇人の対外認識とアジア政策 にも世界平和 にも貢献で きないことを知 っていなが ら,「おれは総理大臣ではないか ら
,池
田 と 佐藤がやって くれるだろう」 と思っていたようである。80(3)池
田の限界 ・吉田路線の限界 「 もし池 田政権に高度成長 という実績がなかったな らば……」のような仮説を立ててみよう。 元新聞記者の後諜基夫は池 田内閣について,「あれは経済主義 というけれ ども,ぼ
くは経済主義 とも思わないんだ。経済の問題を政治の問題 にした という意味があるかもしれない。それはいつ の時代にもあることで,な
にもとくに経済主義 といわな くて もよい。む しろ,経
済のことばか り 言 って,ほ
かの政策に政治生命をかけることはしなかった。経済のパ イが大 きくなれば,何
にも しないでよい という政治主義だ と思 うんだ。何 も事業はやってないわけだ, とくに外交的な事業 は。(中略)途
中か ら福 田赳夫 らが,無
気力,無
責任で何 もしない『 昭和元禄』 と批判 しだ しけ れ ども,それでもその挑発に乗 らなかった。その うちに病気になって終わる。そういう意味では, 政治のや り方の1つのパ ターンを池 田内閣は示 した とい う気がするね。」 と厳 しく述べている。3の 勿論,経
済がなかった ら他の政治政策に取 り組んだであろうが,実
は1955年の保守合同か ら始ま った55年体制下の自民党政治の問題点が,池
田内閣期に芽吹いたのである。派閥の弊害 と金権政 治 とは,実
は池田政権の推進する高度成長に由来するとか,上
述の ように昭和元禄 という福 田赳 夫の所得倍増政策の批判であって,福
田に言わせれば,高
度成長は池田の考 え方である「消費は 美徳だ」 とい う考 え方を国民の間に広め,「日本古来の美風をゆがめ人心を荒廃 させた」のであ る。3め所得倍増政策 に対する批判は中曽根康弘の ような 自主防衛論者 とか,社
会党の積極中立論 者である和田博雄か らもあった。憲法 と安保をめ ぐる国論の分裂・対立の度合いが鈍 くなったの は他な らぬ経済繁栄のためであった。国民経済が豊かになって,経
済合理主義が時流をな した 1960年代の政治状況はもう一つのナシ ョナ リズム的状況であったかもしれない。 おわ りに 占領が終わってか ら歴代内閣は政治外交問題を懸案 としてきた。吉 田内閣はMSA援
助 と自衛 隊創設,鳩
山内閣は 日ソ国交正常化問題,石
橋 内閣は 日中問題,岸
内閣は 日米安保改定を優先課 題 としたが,池
田内閣は経済に軸足を置 き,世
界経済システムヘの完全復帰を試みて,先
進国ヘ の仲間入 りを果たした。池田内閣期か ら戦後 日本の成功が軌道に乗 った。 既述 したように,池田は漠然 としなが らアジア共同体の構想を持 っていて,日本がアジアの リー ダーたるべ しと自覚 し,さ
らにアジア共同体をばね として 日本をアメリカ,ヨ
ーロッパ とともに 世界経済の三本柱に仕立て上げた。しかし,現実的には 日本 とアジアを結び付ける条件が整わず, 現に池田内閣は先進国 との関係に重 きを置いた。1960年代の 日本 とアジア との関係には,依
然 と して構想 と現実 との間に乖離があった。「先進国 と後進国」,「宗主国 と植民地」,「反共国家 と共 産国家」のように政治 ・経済的に埋め難 き溝があった。その乖離を前 にして,池
田のアジア認識 と政策は現実性を持 っていなかった と言わざるを得ない。 注1)池
田勇人の生涯 について詳 しいのは,池
田の秘書官を務めた伊藤 昌哉による『池 田勇人 ・そ の生 と死』(至誠堂,1966年
)が
唯―の ものである。本稿の作成 に当たって,引
用は しなか ったものの,宏
池会調査部編『資料第13-48・ 1958-1962』,樋
渡 由美『戦後政治 と日米関 係』(東京大学 出版会,1990年
),渡
辺昭夫『 アジア・太平洋の国際関係 と日本』(東京大学 出版会,1992年),五
百旗頭真『 日本の近代6-戦
争 ・占領 ・講和』(中央公論新社,2001年) も参考 した。 ―-75-―2)吉
村克 己『 池 田政権 1575日 』行政問題研究所,1985年,94頁
。3)池
田の憲法 ・安保効用論 については,伊
藤 大―「 第1-3次
池 田内閣」林茂 ・辻清 明編集 『 日本 内閣史録6』 第 一法 規,1981年
, 6-9頁
参照 。伊藤 に よれば,岸
は安保条約 をい わば それ 自体 として評価 す る「安保絶対論」 の立場 を とっていたの に対 して,池
田は,そ
れ が 日本 の政治経 済 に及 ぼす「 効用 」 とい う観 点 か ら, 目的合理的 に評価 していたのであ る。 そ して,こ
の点 は,池
田の ブ レー ン であ る宮崎喜― に よって見事 に代弁 され るこ とに な った。 すなわち「 安保 体制 に よって,こ
の十年 間 日本の平和 と安全 とが守 られて きた」 こ とが第一 の効用,そ
して,「 安録条約 の結果 として,
日本 は非生産 的な軍事支 出を最小限 に とどめて,ひ
たす ら経済発展 に励 む こ とがで きた」 のが第二 の効用, とい うわけであ る (内田健三『 戦後 日本 の保守政治』,岩
波 書店,1969年 ,177頁
)。 いずれにせ よ,こ
の よ う に「 効用」 とい う観 点 を強調 して,合
理 主 義的 に思考 す る とい う ところに,池
田 ―― 及 び 池 田内閣 ―― の もつ戦後派性 が示 されてい るのであ る, と述 べている (同前書, 9-10頁
)。4)内
田健三『 戦後宰相論』文芸春秋,1994年,47-48頁
。5)伊
藤 昌哉『 池 田勇人 ・その生 と死』至誠堂,1974(1966)年 ,53頁
。6)同
前 書,53頁
。7)吉
村,前
掲書,14頁
。8)同
前書,24-26頁
。9)同
前書,23頁
。10)外
務省資料館『 池 田総理 アジア諸 国訪間関係件 。第2巻
(1961.11)』A'-1-5-1-7,
10-Htt。11)伊
藤 ,『 池 田勇人 。その生 と死』,153頁
。12)伊
藤 ,『 第1-3池
田内閣』,390頁
。13)伊
藤 ,『 池 田勇人 。その生 と死』,162-163頁
。14)吉
田の 当面論 と池 田の安保 効用論 については,内
田健三『 政 治烈 々』 日本放送 出版協会 , 1995年,217頁
を参照。 伊藤隆監修『佐藤栄作 日記第1巻』(朝日新聞社,1998年),497-500頁
。佐藤は池田のライ バルであるだけに池田の優柔不断な対中政策を批判 してはいるが,池
田にも親台湾の方針は 決まっていた。例えば,ア
ュープ・ヵ―ンパキスタン大統領か らの対中国政策の質問に対す る池 田は次の ように語 った。(外務省資料館『 池 田総理 アジア諸 国訪 間関係件 ・第2巻
(1961.11)』A' 1-5-1-7,8頁
)。 率直に申して,日 本は中華民国に戦争をしかけた。しかし蒋介石は,日 本の戦争を問わず, 終戦に際 しては,数
百万の在中国 日本兵および 日本人の帰国をなんら事故な く実現せしめ た。また 日本に対 して賠償を要求 しなかった。 日本 としては,利
害関係を離れて,蒋
介石 を見捨てるわけにはいかない道徳的な責任を深 く感 じている。 日本は共産国,非
共産国の いずれ とも貿易の増大を望んでお り,中
共 との貿易を望ましい と考えている。 しかし,そ
れだか らと云 って,道
義的責任をすてるわけにはいかない 保利茂『戦後政治の覚書』毎 日新聞社,1975年
,Hl頁
。 大平正芳『春風秋雨』(吉村,『池田政権1575日』,254頁
か ら再引用)。 大平正芳回想録刊行会編『大平正芳回想録』(鹿島出版会,昭
和58年),220頁
。 大平正芳『 私の履歴書』 日本経済新聞社,1978年 ,106-107頁
。 池田 と吉田 との微妙な車と礫 については,吉
村『池 田政権1575日』,253-256頁
と林房雄『 随 筆池田勇人 一敗戦 と復興の現代史 ―』サンケイ新聞,昭
和43年,465-466頁
を参照。 16) 17) 18) 19) 20)李