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長野県阿智村の戦後経済の歩み : 高校での一教案

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Ⅰ.はじめに

 2010 年 11 月,長野県阿智村・岡おか庭にわ一かず雄お村長の講演 を横浜で聞いた。村から見た日本経済論であり,過疎 地域での村づくりの話であった。私は惹き込まれ,昼 食の席で,「私がもう少し若ければ,村の歩みを教材 にまとめたいところです」と申し上げた。「いらっ しゃいよ。協力しますよ」という言葉をいただき,私 はその気になった。  小・中・高の教師・生徒が,それぞれの地域の歩 み・現状・問題点を調べる作業は,どの科目でも生き た勉強になる。  横浜国大の多和田雅保氏(岐阜県南部の農村出身, 前飯田市歴史研究所勤務)の次の言葉に同感である。  「…学校というものは…地域に根ざした存在である べきだし,教員は赴任先において,学校にこもること なく地域と積極的に関わっていく姿勢が必要だ…。… いかなる教科の専門であれ,教員が『地域を見る眼』 を養うことはきわめて重要だ…。…授業の場ではもち ろん…それ以外の局面でも同様である。…子どもが社 会性を身につける過程で習得すべき事柄が,成長の場 としての地域に豊富に存在する…」(「教科専門教員か らみた教育デザイン」,『教育デザイン研究』創刊号, 横浜国立大学教育デザインセンター,2010 年)。  さらに,教師・生徒が現場を見学・取材し,また地 域の老人・婦人や各分野のベテランが学校を訪ねて協 力する仕組みができると,地域は活性化する。  こういう主張は,たとえば朝日新聞『いま,先生 は』(岩波書店,2011 年)などを読み,最近の先生の 厳しい勤務状況がわかると,あまり強くは言えないが, 逆に,新しい道を開くことになるかもしれない。

Ⅱ.阿智村の過疎

1.過疎法の制定は遅すぎた  過疎地域対策緊急措置法が制定されたのは 1970 年 であった。こんなに遅かったのはなぜか。  すでに 1970 年までの 20 年間に,阿智村の人口は 9,125 人から 6,466 人へと 3 割も減り,周辺の清内路 村・浪合村・平谷村などの人口は半減していた。東 京・大阪へも流れたが,図 1 のとおり,多くは愛知県 や,阿智村に隣接する飯田市へ向かった。こうした過 疎化は全国的傾向であった。 12,000人 年 10,000 8,000 6,000 4,000 2,000 浪合村 平谷村 根羽村 阿智村 9,125 6,526 下条村 泰阜村 愛知県 /1000 飯田市 /10 清内路村 1950 60 70 80 90 2000 10 0 資料:『国勢調査』 図 1 阿智村と周辺の人口の推移  早くも 1960 年,池田首相は「10 年間で農林漁業人 口を 4 割程度に減らす」(1960/9/9 朝日新聞)と発言 し,人口の農林漁業から商工業へ,地方から大都市へ の流出を進めた。各省庁ばらばらに山村振興法・積雪 地域振興法などが制定されてはいたが,高度成長策に 現を抜かし,過疎問題に対する政府一体としてのビ

長野県 阿智村の

戦後経済の歩み

─高校での一教案─

The Journal of Economic Education No.31, September, 2012

The Economic History of the Postwar Achi Village, Nagano Prefecture : A Teaching Plan for High School

Minowa, Kyoshiro

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ジョン作りがおろそかにされた。当時たとえば「過密 なき集中・過疎なき分散」などの主張(今井幸彦『日 本の過疎地帯』岩波新書,1968 年)もあったのに。 2.阿智村の過疎は 1975 〜 99 年まで?  遅すぎた過疎法ではあるが 1970 年,阿智村は下伊 那の他の 9 町村とともに過疎地域として公示された。 過疎債の発行,国庫補助率の引き上げ,優遇融資など が受けられるようになり,道路改良,橋かけ替え,学 校施設整備,簡易水道整備などが進んだ。  阿智村の人口は 75 年まで減り続けたが,石油危機 の後,横ばいになる。図1では2005年に少し増えるが, この数値は浪合と清内路を含めたからであり(実際の 合併は,浪合村とは 06 年 1 月,清内路村とは 09 年 3 月),次の国勢調査(2010 年)の人口は減っている。 なお愛知県の人口は増えたが,阿智村に隣接する飯田 市の人口は微妙である。  阿智村は 1999 年を最後に過疎法の適用は受けてい ないが,いまだ過疎は続き,苦闘している。 3.若者は都市へ,非農業へ  昔から若者も都市へ出て行った。たとえば阿智高校 から卒業生の就職状況の統計資料を送っていただいた が,図 2 のとおりである。 140 人 県内・ その他 郡市内 名古屋 東京 120 100 80 60 40 20 0 1960 70 80 90 2000 10 (各年 3 月) 図 2 阿智高校生の就職先方面  1960 年は東京方面への就職が意外に多い。しかし 自動車産業が伸びると名古屋方面への就職が増える。 「郡市内」とは下伊那郡と飯田市のことで,1960 年の 「郡市内」27 人中 23 人が飯田市であった。70 年から 「郡市内」が増えるのは,トヨタの関連企業が阿智村 や飯田市に増えてきたという背景も大きいと思う。  進学者は,図解にはないが,60 年は 8 人,年によっ て 30 〜 90 人いる。進学すれば村を離れる。そして大 学を終えても,ほとんど村に帰ってこない。村に仕事 がないからである。  また産業別にみると,農業に就いたのは,1965 年 の場合,中学卒 88 人のうち 4 人,阿智高校卒就職者 82 人のうち 1 人であった(阿智村勢要覧 1966 年版)。 4.過疎状況を伝える記事の一例  過疎のイメージを伝える一例として,信濃毎日新聞 (97/10/31)の記事「『子どもの将来』苦渋の決断」を 紹介しよう。  「阿智村横川。村の中心地から 13 キロ離れた,標高 950 メートルの過疎集落だ。22 世帯,49 人の住民のう ち,半数以上が 65 歳を超える。林業が成り立たなく なって,一家族,また一家族とこの土地を去っていっ た。農協職員林虎雄さん(44)も来春,家族 5 人で山 を下りる。高校 3 年生の長女と,同 2 年生の長男,中 学 2 年生の二女は,横川最後の「子供」。後に残る 人々の気持ちを考えると後ろ髪を引かれる思いだが, 子らの進学や就職後の生活を考えて結論を出した。飯 田市境の春日に,現在新居を建てている。  「中学までは,県道を 4 キロ下がったバス停までは 村費補助のタクシーに乗り,そこからスクールバスで 通えた。長女が高校に通うようになってからは,午前 6 時過ぎに家を出て村中心地まで車で送り,そこから 同級生の母親が飯田市内の駅まで運転。さらに電車に 乗らなければならない。帰りは,学校まで迎えに行 く」  阿智村は図 3 のとおり 8 つの自治会(60 部落が散 在)から成り,全体的には人口が減っているのに,ご く小面積の上中関と中関(図では地区名と人口に網掛 け)だけは人口が増えている。飯田市へ通じる 153 号 道路が通っているし,上中関は,飯田市に隣接するな ど便利だからである。エコミュージアム研究大会 (2011/10/22・23)で訪れたとき案内の人たちは,昔 の中心地だった駒場の賑わいを語り,かつての銭湯や 料亭や酒蔵を案内してくれたが,その旧街道は今は寂 しくなり,店々は廃業したり,道幅の広い 153 号線沿 いに移転している。153 号線を作るとき,旧街道を前 向きのエコミュージアムとして残し・活かす配慮・工 夫はあったのか。

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根羽村 下條村 飯田市 清内路 智里西 恵那山 智里東 岐阜県 伍和 浪合 846→635 1,956→1,680 駒場 1,668→1,269 中関 448→678 上中関 522→632 1,072→1,027 621→316 1,017→637 (単位 : 人) 阿南町 平谷村 売木村 資料:『協働がひらく村の未来』など 図 3 阿智村の各地区の人口 1970 → 2011 年  なお上記の新聞記事の例は,智ち里さと西から上かみ中なか関ぜきへの 移転であり,村外への流出ではないが,過疎の村の中 で,このような 2 極化が進んでいる。

Ⅲ.農林業の変遷

1.林業と自然災害  阿智村は,長野県の南端,下伊那郡の西南部にあり, 西は中央アルプスの恵那山を境として岐阜県に接し, 東 は 飯 田 市 な ど と 接 し て い る。 東 西 16km, 南 北 24km, 面 積 は 214km2( 東 京 都 の 10 分 の 1)。 山 頂 2,191m の恵那山などから深い谷間をぬって大小の河 川が流れ,阿智川の村内流末地点は標高 410m。つま り標高差が大きい。阿智川は,さらに流れて天竜川に 注ぐ。  総面積のうち森林が 90% を占めている。したがっ て昔から林業は盛んで,屋根板など家の建築資材,農 地農道の整備資材,木地,曲げ物,薪,炭など,農家 の副業もあった。  そして乱伐が続いた。「明治末期から養蚕が隆盛期 に入り,各所に製糸工場ができるとその動力源として の需要が増加し…薪を満載した荷馬車が列をなして飯 田方面へ向う」「木炭の需要は…養蚕家の暖房用とし て欠かせないもので」「…村財政だけでは賄いきれな いので公有山林の材木売却…」「昭和に入ると戦前か ら戦後にかけて王子製紙その他の業者が恵那山一帯の ヒノキ,モミ,シラベなどの木材を伐採…この地区で の林業は活況を呈していた」。  「乱伐の果ては裸山が多くなり,豪雨災害も起こり やすく」「…戦災復興は一時的に林業の復興をもたら したが結果としては山林の荒廃を招くことになった」。  「昭和 30 年代に相次いで起こった大災害も,不時の 自然現象であるとはいえ,戦中,戦後の伐採が多過ぎ たことと無関係ではないという見方もある」(『阿智村 誌 下巻』より)。  昭和 30 年代だけでなく,たとえば 1983 年 9 月の台 風 10 号,2000 年 9 月の東海豪雨災害などがあり,当 該年度とその翌年度は,村の災害復旧費が異常に上昇 している。  林業就業人口は,1955 年の 257 人から 2005 年の 10 人に減ってしまった(図 4)。 2.農業人口と農産物  農業就業人口は,図 4 のとおり,50 年で 5 分の 1 に 減った。 漁業 1955 0 1,000 2,000 3,000 4,000 5,000人 60 65 70 75 80 85 90 95 2000 05 年 農業 製造業 サービス業 林業 建業設 卸小売 製造業 サービス業 林業 建設業 卸小売 鉱業 電ガ熱水 運輸・通信業 金融・保険業 不動産業 公務 図 4 阿智村の産業別就業人口(国勢調査)  農業による所得は,図 5 のように推移している。養 蚕・ 麦・ 豚 が 消 え,2010 年 の 生 産 は 米・ 蔬 菜・ 果 実・畜産(酪農・肉用牛)である。

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1960 米麦 養蚕 蔬菜 果実 畜産 その他 0 2 4 6 8 10 12 14億円 65 70 75 80 85 90 95 2000 年 資料:『生産農業所得統計』農林統計協会 図 5 阿智村の農業所得 3.自給的農家が多い  阿智村の専業農家は,1960 年には 2 割弱であったが, 2010 年には図 6 のとおり,6%(長野県では 14%)に なってしまった。そして自給的農家が 58%(県では 47%),第 2 種兼業を加えると 9 割(県では 8 割)であ る。老齢者や女子が多い。なお2005年の2本目の柱は, 浪合と清内路を含めたものである。 800戸 700 600 500 400 300 200 100 0 1990 95 2000 05 自給的農家 第 2 種兼業 第 2 種兼業 第 1 種兼業 第 1 種兼業 専業 専業 05 10 年 資料:『農林業センサス』 図 6 阿智村の農家戸数の推移  専業農家向けの対策も重要であるが,自給的農家や 第 2 種兼業農家が多い現状を認めて,それなりの対策 も必要ではないか。  たとえば1965年には乳用牛(217戸,366頭),肉用 牛(346 戸,392 頭 ), 豚(65 戸,570 頭 ), 採 卵 鶏 (901 戸,8,610 羽),養蚕(678 戸)を飼養していた (農業センサス)。いま農業観の変わり目でもある。ラ イフスタイルを少し変え,子どもの教育,生ごみ対策, バイオマス,遊休地活用などのためにも,鶏やヤギな どを飼うことを考えてもよいのではないか。果樹も, 1990 年代をピークに下降ないし横ばいであるが,自 家用+アルファぐらい植えるのはいかが? 4.耕作放棄地  遊休荒廃地は,図 7 のとおり,販売農家では,わず かに減少傾向にあるが,自給的農家ではかなり増加し ている。農家数に対する「耕作放棄地のある農家数」 は,販売農家で 35%(県では 30%),自給的農家で 58%(県では 44%),経営耕地面積に対する耕作放棄 地面積は,販売農家で 9%(県では 7%),自給的農家 で 80%(県では 62%)。阿智村の耕作放棄率は,戸 数・面積ともに自給的農家でかなり高い。  このほか土地持ち非農家の耕作放棄地が 109 戸, 30haで,上記面積との合計は117haである(阿智村産 業振興公社の「公社だより」によると 180ha)。 300 戸,ha 250 200 150 100 50 0 1990 1995 2000 2005 2005 2010 年 販売農家 , 23ha 販売農家 , 114 戸 自給的農家 , 64ha 自給的農家 , 259 戸 資料:『農林業センサス』 図7 耕作放棄地のある農家数と放棄地面積(阿智村)  耕作放棄地に対しては,抜根・刈り払いをして農地 として復活するための経費を補助するなどの「遊休荒 廃農地復旧支援事業」を行っているが,2011 年度の 予算が前年度より減っているのはなぜか。  放棄地の再生は大変である。村の協働活動推進課 長・林さんが案内してくださった伍ご和かの K さん夫妻 は,2010 年に新規就農した。南アルプスが見える自 宅裏の段々畑は,10 年以上放置されてきたから,管 理機に絡まる根などを手で取り除きながら進まなけれ ばならない。K さんは農地・住居の賃料は,前の耕作 者に払うが,改築の費用は村から 20 万円の援助が

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あった。次に訪ねた I さん(新規就農グループのリー ダー)の家では,放棄地をトラクターで抜根し,パイ プをつないで水を引いたが,モグラの穴もあり,田圃 に水が溜まらない。安定に 2 〜 3 年かかるという。  もう 1 軒,烏骨鶏を平飼いする予定の Ki さんを含 め,有機農業志向で,活気があった。 5.有機農業と産業振興公社  あちむら新聞(阿智村公民館報縮刷版,1991 年) が「…BHC1% 又は DDT5% 粉剤を反当り 3 キロの割 合で散布し」(58/3/30)と書き,村誌が「村内に初の 空中防除」(1963 年)と書くような状態・意識に変化 がみえ,阿智村も,いくつかの先進地を訪ね,とくに 宮崎県綾町の条例を参考に 2005 年,有機活用農業推 進条例を作り,伍和地区に堆肥センターを建てた。  「家畜のふん尿を管理しきれなくなった畜産農家と 良質な完熟肥料を求める…農家が活用」するのである。 「敷地面積 7,128m2の木造平屋で…80 〜 100 日で牛ふ んを完熟」させる(信濃毎日 05/4/13)。私が訪ねた 日に人はいなかったが,施設は大きく,清潔であった。 農家が配達希望日と圃場の場所を書き,圃場に注文書 の半券を立てておけば,そこへ配達してもらえる。2 トンが 1 万円である(センターで引き取れば 8 千円)。  この堆肥には「搬入される牛ふんの半分を占める乳 牛のふんは水分が多く,悪臭対策や熟成促進が課題」 であった。おが粉を混ぜればいいのだが,それは高い。 一方,一つおいて南隣りの根羽村では「森林組合が管 理する製材工場で材木を削ると,週 3 トン以上のかん なくずが出る」。これを山へ捨てると火がついて困っ ていた。両村長が,飯田市での会議の空き時間に話が まとまり,無料で提供されることになった(信濃毎日 05/7/8)。  それでも「堆肥には稲藁が入ってないからダメ」 「認定農家にしてもらうために,一定量は義理で買う」 などの話を昼神温泉の朝市で聞いた。堆肥づくりは奥 が深い。こうした声を拾い上げ,昔の阿智村の若妻リ レー日記1)のように,地域の一般的な問題にすること ができる。とにかく,認定された野菜は 2008 年に オープンされた中央道の阿智 PA やさい村に並ぶ(6 〜 11 月)。また 153 号線沿いの JA みなみ信州・阿智 支所の売り場の,「完熟堆肥で作った」「化学肥料・農 薬を減らして作った」などの旗や標示の横に並ぶ。  2010 年には,阿智村産業振興公社が設立され,そ れまでの営農支援センターを引き継いだ。種・苗の世 話,栽培技術の指導もする。名古屋の生協で,セット 野菜の販売(7 〜 9 月)をしたり,阿智村コーナーを 設けてもらうなど,頑張っている。JA への出荷は委 託であるが,この公社は買い取るから,農家は助かる。 公社の売れ残りは料理屋や加工工場が引き取る。  同公社の 2010 年度定時社員総会資料を見ると,総 農家 773 戸のうち公社の個人社員 407,センター堆肥 を利用する登録者 202 と多い。その資料の「農産物栽 培指導及び生産拡大事業」の項は,とくに公社の真剣 さが感じられる。毎月,農家を訪問・指導したほか, 各地の公民館・集会所・JA 阿智支所・コミュニティ 館・現地などで,枝豆・セット野菜・契約タマネギな どの播種・栽培指導,水稲追肥・耕起除草指導,学校 給食収穫・出荷指導,ゆうきクラブ勉強会,大豆病害 防除指導,除草剤誤使用指導,次年度用栽培日誌農薬 のチェックなど,期末までに実施した内容が載ってい る。また JA・公社合同冬季指導が村内 16 会場で 4 日 間にわたって行われたが,JA が本来の農協らしい活 動をするのは嬉しいことである。

Ⅳ.工業と商業

 国の高度成長政策に加えて,1957 年 6 月の梅雨前線 豪雨,59 年 9 月の伊勢湾台風,61 年 6 月の梅雨前線豪 雨などで多数の死者を出すなど大被害を被ったことも あり,安定した現金収入を求めて青壮年が都市へ流出 した。  そういう背景のもと,1963 年 9 月に工場設置奨励条 例が施行された。基準以上の規模の場合,村民税と固 定資産税を初年度 10 割,2 年度 8 割,3 年度 5 割を減 免するなど優遇する。翌 64 年,ワイシャツ縫製工場 (75 人)が会地小学校の旧体操場を改造し,ゴルフ ボール工場(32 人)がかつての伍和中学校舎で,そ れぞれ操業を始めた。  次に来たのが 67 年,盟和産業(当時の自動車の塩 ビ製フロアマット,235 人)である。当時,神奈川 県・大船にあり,社長は阿智村出身で,村出身者 40 人も就職していた。「親が季節労働に行っている間の, 子どもの教育が心配だ」と,小学校の校長や PTA 会 長が先頭に立って清水社長に懇願したという。67 年 2 月に村での操業を始めたが,3 か月後,排煙で農作物 に被害が発生し,被害は飯田市の隣接地域にも及んだ。  「あちむら新聞」は「盟和産業公害特集」(67/8/23) を組み,その次の号(67/10/23)の論説「公害に学ぶ もの」で次のように述べている。「これから中央道, 中津川鉄道,153 号線のバイパスと道路がこの狭い谷

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間になだれこんでくる…。…工場誘致をされたが事実 は若い者は依然として東京,名古屋の方に就職口をみ つけていってしまい…。…それらのものが実施される 前にしっかりとした調査が…必要であろう。工場がく れば,道があけばどうにかなるのではないかという… 意識からは決して…力強い歩みはうまれてこない。」  有害なのは可塑剤の中の DIBP であることが判明し, 使用品の切り替えや補償問題も解決し,工場は現在も 続いている。ただしトヨタへの納入規定時間の変更が あったためか,主要生産を岐阜県・御嵩町に移しつつ ある。グローバリズムの波が阿智村にも及んでいる。 なお,最初に来た上記 2 社は現在はない。  工場数と従業員数は 1980 年代まで伸びたが,バブ ル崩壊とともにピーク時から半減した(図 8)。  急に伸びるものは急に縮むし,弊害が生じがちであ る。何ごとも適度,バランスが大切である。昔は生糸, 今は自動車に左右される。工場誘致は慎重でなければ ならない。なるべく内発的に,小規模でも地域との関 連の中で農畜産物加工所を生み出すべきであろう。す でに行われている菊芋加工,薪づくり,ごか食堂など のほかに,林産物で介護補助具・学校教材・家具・水 車などを作ることも考えられないか。いわゆる 6 次産 業化であるが,同時に失業者や生活保護家庭などを支 援する工夫も加えられないか。国へ制度変更を要請す る必要もあろう。 1,200 1,000 800 400 600 200 0 60 50 40 20 30 10 0 年 人 事業所数 事業所数 (右軸) 従業員数 (左軸) 60 72 76 80 84 88 92 96 00 04 08 資料:『工業統計表 市町村編』 註:1960 ~ 72 年は 3 年おき,73 年からは毎年。 従業員 4 人以上の企業。 図 8 阿智村の製造業  商業については,1964 年(従業者 259 人,売上 3.1 億円)から,バブルが崩れた 10 年後,1999 年(434 人,60.9 億円)までは,多少の波がありながら伸び, その後は下がり,2007 年は(400 人,50.2 億円)であ る。商店数は 64 年の 132 店から,小さい波はあるが, 07 年の 108 店まで,ほぼ一直線に減ってきた。

Ⅴ.観光業

 1973 年 1 月,旧国鉄中津川線(実現しなかった)の 予定地,昼神部落・湯の瀬をボーリング中,微温水が 湧き出した。名古屋資本などが目をつけたが,村は遠 山・玉井両氏から温泉地の寄付を受けた(両氏は毎分 3 リットルの分湯の権利《譲渡不可》を得た)。昼神 温泉保養センター「鶴巻荘」がオープンしたのは 76 年 2月で,その運営には,阿智村7,当時の清内路村3の 割合で出資・設立した阿智開発公社(2,500 万円)が あたった。このころから大きな温泉旅館も次々にでき た。なお鶴巻荘は 2009 年,従業員を中心に設立され た株式会社「鶴巻」が指定管理者になった。  当時,温泉地といえば享楽型が多かったが,村が主 導して,健全保養型の温泉地に育てるべく「昼神温泉 地の環境保全条例」をつくった。また,観光地を「耕 さず,貪る」マネーなどに温泉を勝手に掘らせず,村 が温泉を掘って旅館に分湯する「地下水資源保全条 例」もつくった。そして1977年に2号井を掘り,2007 年には 5 号井まで掘った。  こうして村は「…27 軒の宿泊施設のうち,公共保 養施設を除けば飯田下伊那地方以外の資本は 1 軒しか ない」。そして歓楽街がない素朴な温泉地であり,利 用客には女性層や高齢者も多く,大半は中京圏からで ある。(信濃毎日 95/8/23) 100万人 昼神温泉 治部坂高原 あららぎ 高原 園原の里 富士見台高原 80 60 40 20 0 1985 90 95 00 05 10 年 図 9 阿智村の観光地利用者数  図 9 のとおり,昼神温泉は村のトップの観光地であ り,92 年までの伸びは目覚ましいが,2001 年から再 び急増したのは,日帰りの村営「湯ったりーな昼神」 がオープンした影響であろうか。  1981 年に昼神温泉朝市が始まり,農業と観光業が

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うまい具合につながる。野菜・果実のほか,漬物・味 噌・煮豆・蜂蜜などの加工品が並び,客も多い。店か ら店へハシゴをする常連さんもいて,重いもの,嵩張 るものは,旅館へ届けてくれる。84 年から昼神温泉 朝市組合が結成され,屋根つきの売り場で,40 名以 上が,毎日 1 つずつ隣りへ移動する。組合費は,50 日 以上出店する人は年 3.6 万円,73 歳以上は半額,グ ループでの加入は年 4.8 万円などと決まっている。  昼神温泉は,夕方来て朝帰って行く人が多く,滞在 型温泉地にするために,スキー場をつくることになっ た。1987 年にリゾート法が制定され,当時のブーム のもと,1988 年に阿智総合開発(飯田市・吉川建設 70.07%,飯田市・コクサイ産業 25.38%,阿智村 1,000 万円出資)が設立された。しかし林地の開発許可に手 間取るなどして,スキー場「ヘブンスそのはら」が オープンしたのは,ブームも去った 1996 年であった。  スキー客は,初年度の 14 万人をピークに 2000 年度 は 10 万人弱に落ち込んだ。97 〜 98 年の消費税率引き 上げ,金融危機が響いたのであろう。「ヘブンスその はら」は 00 年度に社員を約 20 人に半減,02 年 6 月の 株主総会で23.5億円の資本金を95%減らし,その減資 分で累積赤字 19.69 億円を解消した。阿智村の出資金 も 1,000 万円から 950 万円減って 50 万円になった。社 長は石田貞夫氏(コクサイ産業社長)から吉川光国氏 (吉川建設社長)に代わった。  その後は 2006 年 11 月に OPE スノーアライアンス (東京,オリックス系の OPE パートナーズ 2 号投資事 業有限責任組合が05年8月に設立)に全株式を譲渡し た(信濃毎日 02/6/19,06/11/9)。同社は後に(株) ジェイ・マウンテンズ・グループと改称したが,主な 株主は,情報開示義務がない上記の投資事業組合であ る。オリックスは「法に触れることはしていないが, 法の網目をかいくぐって商売している」(週刊ダイヤ モンド 09/7/4)という。  「マネーが日本の観光地を破壊している」という話 も,冒頭にふれた村長の講演で印象的だった。とにか く,観光地開発での成功も,苦い経験も,各地域に発 信し,学び合っていくべきであろう。

Ⅵ.自治組織と地域づくり

 1998 年 2 月,岡庭氏が 6 代目の村長に就任し,「地 域自治組織として自治会を作りませんか」と呼びかけ た。明治以来の区や財産区が自治会になったり,旧村 で自治会になったり,谷筋ごとに自治会になったりし て,6 つの自治会が編成された(後に浪合と清内路を 加えて 8 つ。図 3 参照)。  行政の末端の単位は部落である。自治会は,それと 違い,行政と対等の組織であるという考えで,それぞ れの自治会が独自の学習会・懇談会・アンケート調査 などにより,地域の現状確認,地域づくりの夢,村へ の要望を出し,地区計画書に「地区が自分たちで行う 事業」「村と共同で行う事業」「村が全面的に行う事 業」を整理した。それをもとに村と相談するのである。  そういう懇談会の一つ「議員による住民との懇談 会」が清内路公民館で行われ,私は夕食も早々に済ま せて傍聴させてもらった。124 頁もある冊子「平成 23 年度村の予算概要」を手に,約40人の村民と議員7人 が,夜 7 時から 9 時まで温かく快い質疑応答を続けた。 議員14人が手分けして村内7か所を回る。予算作成前 にも,こういう集まりがある。  2001 年度からは,もう一つの自治組織「村づくり 委員会」が始まった。5 人以上が集まって地域づくり の活動を行うグループに,費用の一部を援助する。そ ういう委員会から,図書館や知的障害者通所施設や食 堂などが生まれた。活動を進めながら職員も鍛えられ る。環境問題研究・コカリナをふきまい会・炭焼き老おい 平 だいら 会・あかね焼酎委員会など 40 を超えるグループが 登録されている。  もう一つ「地域おこし協力隊」というのがある。総 務省の事業を導入して,2011 年度,3 大都市圏から定 住を希望する3名の若者を採用した。月16万円の報酬 のほかに住宅使用料などを補助し,軽自動車・パソコ ンも,1 人 1 台ずつ使える。その 1 人,M さんは村役 場(清内路支所)に席があり,村や集落の課題を掘り 起こしながら村に溶け込んでいくよう期待されている。 協働活動推進課長の林さんが,私を紹介しながら「小 水力発電でも,アイディアを出して予算化することだ ね」などと励まし,M さんはメモを取りながら「エ ネルギー分野に貢献していきたい」「まずは百姓にな らなければ…」などと言っていた。M さんは横浜国 大大学院で環境問題を学んできた人である。  その後 M さんの記事が信濃毎日に載った。一つは, 智里西担当の O 隊員と,隊員志望の東京都内の学生 2 人,地元の若手農家の計 5 人で,高齢になった農家が 管理できなくなった畑を存続させようと,林道から山 道を歩いて 3 分ほどの杉林にあるミョウガを手で掘っ て運んだこと(2011/9/7),もう一つは,村の古民家 をカフェにして住民の交流に一役買う準備をしている こと(2011/10/1)である。旧清内路村長が所有する

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2 階建ての空き家を無償で貸してもらえる。  公民館や集会所もあるが,何か所か,こういう交 流・楽しみ・学習の場ができるといい。お茶を飲み, 語り合いながら,農作業・育児・料理・農産物加工・ 老化防止・婚活から俳句・短歌・英会話・パソコン・ カラオケなど,得意のものを教え合い,習い合う場が。 最近は都市にも,コミュニティカフェが増えている。

Ⅶ.おわりに

 「子どもが都市に出ると農村から仕送りをする。そ して子供は帰ってこない。子供に吸い上げられて,あ との老後は村でカネを出せ…では」─冒頭に述べた 講演での,村長の訴え・憤りである。  村は早くから,国の全国総合開発計画に沿ったもの でない総合計画を立てていた(2008 年から第 5 次総合 計画)。それでも独自性を貫けない面が多かったと思 う。財政面で国の支配があったからである。  そう考えて,阿智村財政の歩みを具体的に描きなが ら,国と地方の関係をリアルに示すのが,本稿の当初 の目的の一つであった。力不足と時間不足のために果 たせず,残念である。いただいた資料は,いずれ生か すつもりである。  本稿で,いくつか素人考えの提言や夢を述べたが, それらも生徒と話し合う材料になるのではないか。  参考にしたり引用した図書は,本文中に記載のほか 次のとおり。①岡庭一雄・岡田知弘『協働がひらく村 の未来』(自治体研究社,2007 年),②岡庭一雄『協 働あーちすと』(村報),③「本多勝一『そして我が祖 国・日本』(朝日文庫,1983 年),④熊谷元一『熊谷 元一写真全集』(1 〜 4 巻,郷土出版社,1994 年),⑤ 金 きむ 枓 どう 哲 ちゅる 『過疎政策と住民組織─日韓を比較して (古今書院,2003 年),⑥川上康一『レポート子ども の心とからだ 恵那の教育実践』(あゆみ出版,1979 年),⑦境野・千葉・松野『小さな自治体の大きな挑 戦─飯舘村における地域づくり』(八朔社,2011 年), ⑧信濃毎日新聞社編『森をつくる』(1983 年),⑨佐 藤由美『自然エネルギーが地域を変える』(学芸出版 社,2003 年)など。  多くの方にお世話になった。ありがとう,阿智村。 註 1) 岡庭 若妻の皆さんが一冊のノートを順繰りに回して自 分の思いを書いていくんです。リレー日記の内容を「地 域ではこんなことが起きて,困っているお嫁さんたちが いる」という話にして,それを文集にするわけです。そ して地域の一般的な問題にしていく。こうして,地域に おきている様々な不合理のことを取り上げていくと,生 活にかかわることだけでなく,現状の行政に対して批判 的なことにもならざるを得ない。 岡田 そうでしょうね。綴り方運動のような取り組み だったわけですね。 上掲(本ページ)参考文献の① p.15-16。

参照

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