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久米の仙人 : 久米伝承の径路

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Academic year: 2021

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(1)俊 彦 守 屋 73θ (1). 久 米 の 仙 人 ︱ 久葎 承の黛 ︱. 一. 屋. 俊. 彦. へり 。 そ れ 消 え ず し て今 にあ り 。 そ の久 米 の仙 、 た だ 人 に な り に け る に、 馬 を 売 り け る 渡 し 文 に、 ﹁前 の 仙 、 久. 後 、 そ の 女 を 妻 と し てあ り 。 そ の仙 の行 ひ た る 形 、 い ま 龍 門 寺 に そ の形 を 扉 に移 し 、 北 野 の御 文 に作 り て出 し た ま. て、 女 の は ぎ ま で衣 を か き 上 げ た る に、   は ぎ の白 か り け る を 見 て、 久 米 、   心 け が れ て そ の 女 の前 に落 ち ぬ。  そ の. 後 に久 米 も す で に仙 に な り て、 空 に昇 り て飛 び て渡 る 間 、 吉 野 河 の辺 に、 若 き 女 衣 を 洗 ひ て立 てり 。 衣 を 洗 ふ と. にけ り 。. 人 をあ づ み と いふ。  一人 を ば 久 米 と いふ。 し か る に、 あ づ み は前 に行 ひ得 て、 す で に仙 にな り て、 飛 び て空 に昇 り. 今 は昔 、 大 和 国 、 吉 野 の郡、 龍 門寺 と いふ寺 あ り 。 寺 に 二人 の人 篭 り ゐ て仙 の法 を行 ひ け り。 そ の仙 人 の名 をば 一. がも っと も 詳 し い。 そ の墜 落 す る と ころ は、 話 の最 初 の部 分 な のだ が、 このよう に書 か れ て いる。. 昔 物 語、 扶 桑 略 記、 和 州久 米 寺 流 記、 元享 釈 書 、 な ど に記 さ れ て いる。 これら の中 では、 今 昔 物 語 ︵ 十 一の 二十 四︶. み て仙 力 を 失 い、 飛 ん で いた空 か ら 墜落 し た と いう のだ から、 そ のよう に いわ れ ても 致 し 方 あ る ま い。 こ の話 は、 今. 久 米 の仙 人 と いえば 、 ま る で好 色 者 の代名 詞 の よ う な こと にな って いる。 川 の辺 で洗 濯 を し て いた女 の白 いはぎ を. 守.

(2) (2) 729. 久 米 の 仙 人. 米 ﹂ と ぞ書 き て渡 し け る。. これ で みる と、 彼 は 好 色 者 だ が、 お 人好 し でも あ る よ う だ。 苦 し い修 行 を し て、 や っと仙 人 にな った と いう のに、 た. か だ か女 の白 いはぎ を み て、 忽 ち に仙 力 を 失 った と いう のだ か ら 、 ど こか間 が抜 け て いる。 し かも、 自 分 を墜落 さし. た、 そ の当 の女 と結 婚 し て いる。 か と 思 う と、 売 買 の証 文 には ﹁前 の仙 、 久米﹂ と 署 名 し た り し て いる。 お 人好 し で. あ ると とも に、 律 義 者 でも あ る。 こ の点 、 同 じ好 色 者 と い っても、 王朝 の それと は異 な って いる。 王朝 の 好 色 者 達. は、 結 婚 す る 気 持 も な い の に女 の間 を 遍 歴 し たり 、 妻 があ る と いう のに他 の女 のも と に通 った り し て いる。 そ こには.   一直 線 に この女 の 洗 練 さ れ た恋 の抜 巧 や、 甘 い雰 囲 気 があ る。 ず る さ も あ る。 し か る に、 彼 は、白 いはぎ を み るや、. 前 に墜落 し て いる 。 結 婚 し ても 、 他 の女 に色 目 を 使 った り はし て いな い。 い ってみれ ば 、 泥 く さ い好 色 者 であ る。 い. か にも 中世 の説 話 文 学 に で てく る 人物 ら し い顔 を し て いる。 色 好 みと は い っても、 素 朴 で憎 め な いと ころ があ る。. それ にし ても 、 な ぜ彼 は 一直 線 に女 の前 に墜 落 し た り し た の であ ろう か。 そ こに人 間 の本 能 が ま るだ し にな って い. て、 そ のよ う な裸 のま ま の人 間 が で てく る と ころ に こそ、 説 話文 学 の面 白 さがあ ると いえ ば それ ま でだ が、 折 角手 に. 入 れ た仙 力 を 捨 て てま でし て、 女 の前 に墜 落 し て行 った と ころ には、 単 に本能 と いう だ け ではす ま さ れ な い問 題 が ひ. そ ん で いる よ う に思 わ れ る。 だ か ら ま た、 相手 の女 に し ても、 川 の辺 で洗 濯を し て いる のは、 ただ白 いはぎ を みせ る た め のポ ー ズ と いう だ け では な く 、 そ こに何 か別 な 意 味 があ る よう な 気 も す る の であ る。 二. と ころ で、 こ の話 を み る と、 久 米 の仙 人 は、 あ づ み と いう 仙 人 と 一緒 に龍門寺 に篭 り ﹁仙 の法 を行 ﹂ った こと にな. って いる。 扶 桑 略 記 ︵二十 三︶ には ﹁本 朝 往年 有 L 一 龍 門寺 L 所 レ 人仙 L 飛 二 謂 大伴 仙 。 安 曇 仙 。 久 米 仙 也 。 大 伴 仙. 。 余 両仙 室。 干 今 猶 存 。 草 庵。 有 レ ﹂ と あ って、 大 伴 仙 と いう仙 人 がも う 一人 加 わ り、 三人 と な って いる。 こ 基無 基 口 レ.

(3) 守 屋 俊 彦. 728(3). の大 伴 仙 、 安 曇 仙 の ﹁大 伴 ﹂ ﹁安 曇 ﹂ と いう のは、 恐 らく は、古 代 の氏 族 であ る、 大 伴 氏 や安 曇 氏 に関 係 が あ る名 で. あ ろ う。 つま り 、 こ の 二人 の仙 人 は、 これ ら の氏 族 と つな がり のあ る 人物 と いう こと にな る。 とす れば 、 これ ら の仙. 人 と とも に仙 の法 を 修 し た、 この久 米 の仙 人も また、 こう し た古 代 の氏 族 と つなが り があ るも のと考 え る の が普 通 で. あ ろ う。 そ の ﹁久 米 ﹂ と同 じ名 前 を 持 って いる氏 族 と し ては、 久 米 部 が あ る。 だ か ら、 久 米 の仙 人 は、 この久 米 部 と つな がり のあ る 人物 と 一応 み て置 い てよ いの ではな いだ ろう か。. こ の こと は、 彼 が久 米 寺 を 建 てた と され て いると ころ からも いえ そう であ る。 彼 は こ の後、 都 が高 市 郡 に造 ら れ る. 時 、 失 な った仙 力 を 取 り戻 し、 そ の仙 力 によ って、 材 木 を山 から都 ま で飛 ば し、 この功 によ って天皇 よ り 田 を 賜 わ り 、 こ の田を も と にし て久 米 寺 を 建 てたと いう の であ る。. そ の後、 こ の こと を 天 皇 に奏 す。 天皇 も これ を 聞 き た ま ひ て、 た ふ と び 敬 ひ て、 忽 ち に免 田 三十 町 をも ち て久 米 に. 施 し た ま ひ つ。 久 米 喜 び て、 こ の 田をも ち てそ の郡 に 一つの伽 藍 を 建 てたり。 久 米 寺 と いふ、 これ な り。. 扶 桑 略 記 や元亨 釈 書 な ども 建 立 者 を久 米 の仙 人 と し て いる。 この久 米 寺 は、 大 和志 料 に ﹁白 橿村 大 字 久 米 ニアリ﹂ と あ る よう に、 現在 の橿 原市 久 米 町 にあ る。 畝傍 山 のち ょう ど南 にあ た る。 こ の付 近 に は、 古 く久 米 部 が居 住 し て いたら し い。 神 武 紀 二年 二月 の条 には、. 天 皇 功 を定 め 賞 を行 ひた ま ひき。 道 の臣 の命 に宅 地 を賜 ひ て、 築 坂 の邑 に居 ら し め、 異 に寵 み た ま ひき 。 ま た大 来. 目 を し て、 畝 傍 山 の西 の川 辺 の地 に居 ら し め た ま ひき。 今来 目 の邑 と 号 く る は、 こは そ の縁 な り。. と あ る。 大 和 平 定 の功 によ って、 こ の地 を 賜 わ った と いう の であ る。 橿 原 の近 傍 であ り、 武士集 団 の大 伴 氏 と とも に. 配 置 さ れ て いる と ころ から す る と、 都 の防 衛 の意 図 が こめ ら れ て いた の かも わ から な い。 ただ し、 畝傍 山 の西 と あ る. の で、 今 の久 米 町 と は少 し位 置 を 異 にし て いる。 今 のは こ の山 の東 南 にあ た る。 或 は そ の後 移動 し た のかも わ から な い。 も っと も 、 こ の山 の周 辺 であ る こと に は変 り は な い。.

(4) (4)727 久 米 の 仙 人. そ の久 米 町 に久 米 寺 はあ る。 寺 の名 が、 氏 族 名 や 地 名 と同 じ であ った と ころから す ると、 久 米部 の氏 寺 であ った か. も し れ な い。 性 霊 集 の ﹁大 和 の州 益 田 の池 の碑 の銘 ﹂ ︵ 巻 第 二︶ には、 ﹁畝傍 北 に峠 てり 。来 目 の精舎 其 の艮 に鎮 め.   これ で み ると、  平 安 朝 初 期 にはす で に建 立 さ れ て居 り、 し かも 、相 当 立 派 な寺 院 であ った ら し い。 ﹂ とあ る。 たり 。. 砿 野之 中 L 久 米 寺 是 也 。 ﹂ 時 代 的 にみ ても 氏 寺 ら し く みえ る。 し か し、 そ の後 は、 扶 桑 略 記 に ﹁堂 宇 皆亡。 仏像 猶 坐 二. と 記 さ れ て いる よ う に、 荒 廃 し た よ う であ る。 久 米 部 の衰 退 と 運命 を と も にし た のかも わ から な い。. 何 れ にし ても 、 そ の久 米 寺 を久 米 の仙 人 が建 てた と いう のだ か ら、 彼 が久米部 と つな が り があ ると し てみ る こと は. 十 分 可 能 な よう に思 わ れ る。 す れば 、 彼 の故 里 も 一応 このあ た り と考 え て置 いても よ さ そう であ る。.  彼 の故 里 が ﹁上 郡﹂ と いう こと に な っ 十 八︶ には、 ﹁久 米仙 者 。 和 州 上 郡 人 。 ﹂ と あ って、 と ころ で、 元享 釈 書 ︵. て いる。 た だ し、 こ こ には、 ﹁上 郡﹂ と あ るだ け で、 そ れ が ど の郡 な のか は っき り し な い。 大 和 には ﹁上 郡﹂ と いう. 名 の つく 郡 が 三 つあ る。 添 上 郡、 城 上 郡、 葛 上 郡 、 であ る。 久 米 の仙 人 が 活 動 し た地 域 が、 吉 野 郡 や高 市 郡 であ って.   一番 穏当 な と ころ であ ろう。 し かし、 それ なら ば 、 畝 傍 山 み れ ば 、 この場 合 、 これ ら の郡 に近 い葛 上 郡 と す る のが、 の周 辺 から はず っと 西 にあ た る こと な り、 この予 想 は少 し ず れ てく る。. し か し、 これ は後 にも 述 べる よ う に、 彼 が仙 人 にな り、 こ の話 が神 仙 諄 に着 色 さ れ る に つれ て、 そ の舞 台 が 神 仙 の. 本 場 であ る吉 野 に移 ってゆき 、 そ の中 間 過 程 と し て、 葛 城 地 方 が持 ち だ さ れ てき たも のと み る べき であ ろ う。 も っと. も 、 こ の地 方 は 仙 人 に縁 のあ る土 地 柄 でも あ った。 ﹁大 和 の国葛 木 の上 の郡 の茅原 の村 の人﹂ であ る役 の 優 婆 塞 は. ﹁毎 夜 に五色 の雲 に桂 り て、 沖 虚 の外 に飛 び、 仙 宮 の賓 と 携 六 日本 霊 異 記 上 二十 八︶ わ って いた と いう。 そ の役 の優. 婆 塞 は高 賀 茂 の朝 臣 であ った。 こ の朝 臣 の祖 神 であ る アヂ シキ タ カ ヒ コネ ノ神 は、 ア メノ ヮヵ ヒ コの葬 儀 に列 席 し た. 時 、 そ の死 者 と 間 違 え ら れ、 ﹁忍 り て飛 び去 ﹂ ︵ 記 ︶ った と いう。 そ の姿 を妹 の タカ ヒ メノ命 が. 六 天 な る や  弟 棚 機 の  項 が せ る  玉 の御 統   御 統 に  穴 玉 は や  み谷   一一 渡 ら す  阿 治 志 貴高   日子 根 の神 ぞ ︵.

(5) 守 屋 俊 彦 726 (5). と歌 った とあ る。 こ の神 は空 飛 ぶ神 だ った の であ る。 こ の地 方 に空 を 自 由 に飛 ぶ仙 人 の誕 生 す る素 地 はあ った の であ 。. ︵ 2︶ ZO. さ て、 こ の 匹早釈 書 には、 この後 に ﹁入二 深山 一 学二 仙 法 L 食二 松葉 一 服二 辞 蒻 L 一且騰 先工。 飛 過 二 故 里 L会 婦 人 以 レ 足 。 即時 墜落 。 踏二 浣衣 L 其 怪 甚 白 。 忽 生二 染心 一   つまり、 ﹂ と 述 べて いる。  彼 が墜 落 し た の は、 ﹁故 里 ﹂ だ った のであ る。 こ こでは、 そ の故 里 は葛 城 地 方 な のだ から、 こ の付 近 に落 ち たと いう こと にな ろう。 も っと も 、 こ こ には川 は欠. 。 け て いる。 し か し、 ﹁会 婦 人 以 レ 浣衣 ・ 足踏 二 ﹂ とあ る と ころ を み ると、 や はり、 川 の辺 であ った ら し い。 女 は多 分川. で洗 濯 を し て いた の であ ろ う。 そ こで、 そ の川 だ が、 葛 城 地 方 であ れば 、 今 昔物 語 のよ う に吉 野 川 であ っても よ いの. だ が、 も っと近 いも のと し て、 葛 城 山 の麓付 近 を流 れ て いる川、 ︱ ︱ 葛 城 川 あ たり を考 え てみ た方 が よ いかも わ から. な い。 扶 桑 略 記 では、 ﹁但 久 米 仙 飛 後 更落 。   こ の女 も 消 え て い て、 す こぶる簡単 ﹂ と のみあ って、  川 ば か り でな く、 な筋 にな って いる 。. そ れ はとも か く と し て、 こ こでは、久 米 の仙 人 が墜 落 し た のが、 ほ かな ら ぬ ﹁故 里﹂ であ った と いう と ころ に注 意. し てみ た い。 だ か ら、 も し彼 の故 里 が、 前 に述 べた よう に、 久 米 地 方 と いう こと になれ ば 、 彼 が落 ち た のも 、 本 来 は. そ の付 近 の川 の辺 と いう こと にな ろう。 このよう な 予 測 から 、 和 州久 米 寺 流 記 を み ると、 ﹁此 毛 堅仙 常 自 龍 門 嶽 飛通. 葛 木 峰 。 於其 途 中 久 米 河 有 洗 布 之 下 女。 仙 見其 股色 愛 心 忽 発。 通 力立 滅 落 千大 地 畢 。 ﹂ と あ って、  果 し て久 米 の仙 人 は、 故 里 の久 米 川 に落 ち た こと にな って いる。  こ の久 米 川 は、  大 和志 料 に ﹁桧 前 川 ノ下 流 久 米 二於 テ之 ヲ称 ス、 ﹂と. あ る よう に、 桧 前 川 の下 流 で、 久 米 地方 を流 れ て いる た め に、 久 米 川 と い ったも の であ る。 泊 瀬 川 が、 三 輪 あ た り で、 三輪 川 と いわ れ た のと同 じ こと であ る。 何 れ にし ても 、 この話 は、久 米 の仙 人 が、 久 米 川 の辺 で女 の白 いはぎ を み、 そ こに墜落 し た と いう のが、 最初 の形 ではな か った か と 思 わ れ る。.

(6) (6) 725 久 米 の 仙 人. 三. それ な ら ば 、 こ の女 が 川 の辺 で洗 濯 を し て いたと いう の は、 ど う いう こと な の であ ろ う か。 こ こ では、 仙 人 を誘 惑. す る た め の、 女 のポ ー ズ と いう こと にな ろ う が、 問題 は そ の川 のほと り と いう と ころ にあ る。. と ころ で、 この よ う に女 が川 の辺 で洗 濯 を し て い て、 結 婚 を す る よ う な こと にな ったも のと し ては、 赤 猪 子 の 話 雄 略 記 ︶ があ る。 ︵. ま た 一時 、 天 皇 遊 び 行 でま し て、 美 和 河 に到 り まし し 時 、 河 の辺 に衣 洗 へる童 女あ り き 。 そ の容 姿 甚 麗 し く あ り. ﹂ と と ひた ま へば 、 答 へて白 し し く 、 ﹁己 が名 は引 田部 の赤 き。 天 皇 そ の童 女 に問 ひ たま ひ し く 、 ﹁汝 は誰 が子 ぞ 。.  こ こに詔 ら しめ たま ひ し く 、 ﹁汝 は夫 に嫁 はざ れ。 今 喚 し てむ 。 ﹂ と のら し め た ま 猪 子 と謂 ふ ぞL と ま を し き。. ひ て、 宮 に還 り ま し き 。 故 、 そ の赤 猪 子 、 天 皇 の命 を 仰 ぎ 待 ち て、 既 に八十 歳 を経 き。 こ こに赤猪 子 以 為 ひ け ら. く 、 命 を 望ぎ し間 に、 已 に多 き 年 を 経 て、 姿体 痩 せ 萎 み て、 更 に侍 む 所 無 し。然 れ ど も 待 ち し 情 を 顕 さず ては、 恒. き に 忍び ず 、 と お も ひ て、 百 取 の机 代 物 を 持 た し め て、 参 出 て貢 献 り き。 然 る に天 皇、 既 に先 に命 り た ま ひし事 を. ﹂ と のり た ま ひき。 こ  そ の赤 猪 子 に問 ひ て 日り た ま ひしく、 ﹁汝 は誰 れ し の老 女 ぞ。 何 由 以参来 つる 。 忘 ら し て、. こに赤猪 子、 答 へて白 し しく 、 ﹁そ の年 のそ の月、 天 皇 の命 を被 り て、 大命 を仰ぎ 待 ち て、 今 日 に至 るま で八十 歳. ﹂と ま を し を 経 き 。 今 は容 姿 既 に者 いて、 更 に侍 む所 無 し。 然 れ ど も 己 が志 を 顕 し白 さむ とし て参 出 し に こ そ 。.   コ ロは 既 に先 の事 を 忘 れ つ。 然 る に汝 は志 を守 り命 を待 ち て、 徒 に盛 り の年 を 過ぐ き 。 こ こ に天 皇 、 大 く 驚 き て、.  そ の極 め て老 いし を 憚 り て、 婚 ひを 得 し し、 これ甚 愛 悲 し 。  心 の裏 に婚 ひせ む と欲 ほし し に、 ﹂ と のり た ま ひ て、 成 し た ま はず て、 御 歌 を 賜 ひき 。. 天 皇 の妻 求 ぎ 説 話 であ る。 全 体 が ユー モ ラ スで、 ど こと な く 、 ペー ソ スが流 れ て いる。 天 皇 が自 ら求 婚 し た こと を忘.

(7) 彦 俊 屋 守 724 (7). れ たり、 赤猪 子 が 八十 年 間 も じ っと 待 って いた り し て、 いか にも 古 代 ら し い、 お おら かな話 に な って いる。 し かし、. こ の話 はも とも と こ のよ う な も の ではな か った。 赤猪 子 は 三輪 の大 神 に仕 え る巫 女 であ った。 彼 女 は、 三輪 氏 にと っ て聖 な る川 であ った 三輪 山 の辺 で、 神衣 を織 り な がら 、こ の大 神 の来 臨 を 待 って いた のであ る。 そ し て、 神 の嫁 と な っ た。 三輪 氏 の神婚 神 話 だ った のであ る。 と ころ が、 この 三輪 氏 が大 和朝 廷 に服従 し た ため に、 こ の神 話 が変 容 し、 つ. ま り は、 妻 求 ぎ 説 話 にな った のであ る。 赤猪 子 は巫女 から 童 女 にな り 、 大 神 も 天皇 にすり替 え ら れ、 も と も と 聖 な る ︵ 3︶. 川 の辺 で大 神 を迎 え て いた儀 礼 が、 村 の童 女 が天皇 に み そ め ら れ る話 にふ さわ しく、 川 の辺 で洗 濯 を す る と いう 所作 に変 ってし ま った の であ る。. 赤猪 子 の話 が本来 こ のよ う なも の であ った とす れば 、 こ の久 米 の仙 人 の話 も 、 或 は そう いう も の であ った かも わ か. ら な い。 久 米 部 の祭 る神 と 巫 女 と の神婚 であ る。 何 よりも 、 そ の舞 台 が久 米 部 の故 里 であ り、 そ こを 流 れ る川 が久 米. 川 であ る こと が、 そ の こと を 思 わし め る の であ る。 三輪 川 が 三輪 氏 にと って聖 な る川 であ った よ う に、 久 米 川 は久 米. 部 にと って聖 な る川 であ った のでは な いだ ろう か。斎 み川 であ る。 こ の川 は、 畝傍 山 の西 側 を、 南 か ら北 へと り 巻 く. よ う に流 れ て いる。 こ の山 を と り巻 く と いう のは、斎 み川 の 一つの条 件 でも あ った の であ る。. す れば 、 そ の川 の辺 に墜 落 し た と いう久 米 の仙 人 が、 ほ かな ら ぬ、 久 米 部 の祭 る神 と いう こと に な る の では な いだ. ろ う か。 こ の仙 人 は、 高 市 郡 に都 が造 ら れ る時、 官吏 から 仙 力 に よ って材 木 を 運 ん でく れ る よ う にと依 頼 さ れ て い る。 そ の時 に は、 こ の女 の こと です でに仙 力 を失 な って いた のだ が、 本 尊 が助 け てく れ る こと も あ ろ う か と 思 い、 道 場 に篭 る の であ る。. そ の後 、 久 米 、   一つの静 か な る道 場 に篭 り ゐ て、身 心清 浄 に し て食 を 断 ち て、 七 日七夜 不断 に礼 拝 恭 敬 し て、 心 を. 至 し て こ の こと を祈 る。 し か る間 、 七 日す でに過ぎ ぬ。 行 事 官 等 、 久 米 が見 え ざ る こと を、 且 つは笑 ひ 且 つ は 疑. し か る に八 日と い ふ朝 に、 俄 か に空 く も り暗夜 の如 く な り 。 ふ。 雷 鳴 り 雨 降 り て、 つゆも の見 え ず 。 これ を怪 し び思.

(8) (8)723 久 米 の 仙 人. ふ間 、 と ば かり あ り て雷 止 み空 晴 れ ぬ。 そ の時 に みれば 、 大 中 小 の若 千 の材 木、 し かしな が ら 南 の山 辺 な る柚 より 。. 空 を 飛 び て、 都 を造 ら る る と ころ に来 にけ り っ そ の時 に、 多 く の行 事 官 の輩 、 敬 ひ てた ふと び て久 米 を拝 す. 美 事 に材 木 は空 を飛 ん で いる。 も っとも 、 こ こ では、 そ の本 尊 が 現 わ れ て飛ば し てく れ た のか、 仙 力 を と り戻 し た彼. 自 身 が し た のか、 そ こが 一寸 は っき り し な い表 現 にな って いる。 それ は と も かく と し て、 こ こで取 り 上 げ てみ た いの. は、 ﹁し か る に八 日と いふ朝 に、 俄 か に空 く も り 暗 夜 の如 く な り。 雷 鳴 り 雨降 り て、 つゆも の見 え ず 。 ﹂ とあ る∫ う. 、 、 に、 天 候 の異 常 な時 に そ れ が実 現 し て いる と いう こと であ る。 と ころ で 古 代 信 仰 では このよう な 異 常 な 天 候 のさ中. 紀 一ノ 一 に、 神 々が出 現 す る こと が あ る。 海 神 の女 であ る ト ヨタ マヒ メは ﹁風 涛 の壮 け む 日 に、 海 辺 に出 で 到 ﹂ ︵. 霊 異 記上 三︶ って いる。 す れば 、 こ この背 景 に 書 ︶ って いる し、 小 雨 降 る 時 に堕 ち た雷 神 は ﹁曖 り 霧 り て天 に登 ﹂ ︵. は、 古 代 の神 出 現 の風 景 があ る と み てよ いの では な いだ ろ う か。 それ は ま た、 ﹁七 日七夜 不断 に礼 拝 恭 敬 ﹂ し た と こ ろ にも みら れ る よ う であ る。 七 日七夜 と いう の は、 古 代 の祭 り の聖 な る期 間 でもあ った。 カ モノ ワキ イ カヅ チ ノ命 が. 父 に酒 杯 を 挙 げ る時 、 ﹁外 祖 父 建 角 身 の命 、 八尋 屋 を造 り、 八 つの戸扉 を 堅 め、 八腹 の酒 を醸 み て神 集 へに集 へて七. 山 城 風 土 記 逸 文 ︶し たとあ る。 な お いわば 、 彼 が 篭 って いたと いう道 場 も、 仙 法 を 修 す る処 で あ ろ う 日 七夜 楽 遊 ﹂ ︵. が、 も とも と 神 を 降 す た め に篭 る斎 み屋 であ った の であ ろ う。 山 城 風 土 記 逸文 の八尋 屋 であ る。. 、 そ こ で、 こ のよう な 幾 つか の背 景 の中 に、 こ の久 米 の仙 人 を 置 い てみ れば 彼 には神 を祭 る者 と し て の姿 が みら れ. 。 彼 女 は久 米 川 の. 、 る の であ る。 と ころ で、 古 代 信 仰 では、 神 を祭 る者 と神 と は 一つでも あ った の であ る。 す れば 彼 自 身 も 神 であ った 、 、 、 と いえ る。 材 木 を飛ば し た の が、 本尊 のよう でも あ り、 彼 自 身 の よ う でも あ る と ころ には 本 尊 と 仙 人 つまり 神 。 、 と 神 を祭 る者 と が重 な り合 って いるも のと み る べき であ ろ う。 とも かく 彼 は久 米部 の祭 る神 だ った の であ る そ れ が、 この仙 人 の原 像 だ った の であ る。. と いう こと にな れば 、 この仙 人 と結 婚 し た女 は、 この神 に仕 え る巫 女 だ った と いう こと にな ろ う.

(9) 守 屋 俊 彦 722 (9). 辺 で、 神 衣 を織 り な がら、 そ こ に来 臨す る久 米部 の神 を待 って いた の であ る。 そし て、 神 の嫁 にな った。 これ が、 久. 米 の仙 人 の物 語 の 一番 の原 画 な の であ る。 何 れ にし ても、 仙 人 と 女 と は、 も とも と祭 ら れ る者 と祭 る者 と の関 係 にあ. った の であ る。 こ の二人 が、 こ の よう に神 婚 によ って密 接 に結 ば れ て いる の であ ってみれば 、 仙 人 が こ の女 のと ころ. に 一直 線 に墜落 し、 そ の女 と結 婚 し たと いう 筋 も、 そ こから解 け てく る のであ る。 泥 く さ い好 色 な振 舞 な ど では な か. った の であ る。 も とも と神 婚 の儀 礼 だ った のだ か ら、 そう な る のが 当 然 だ った の であ る。 仙 人 は墜落 し た の で は な. く、 空 から降 臨 し て いた の であ る。 それ が崩 れ に崩 れ て好 色 な 話 にな って いる のだ が、 仙 人 が この女 と結 婚 し、 し か. も 、 他 の女 に色 目 を使 った り し て いな いと いう、 いささ か生 真 面 目 な 話 にな って いる のも、 実 は、 そ のよ う な と ころ から き て いる の であ る。. 、 さ て、 延喜 神 名 式 を みる と、 高 市 郡 に久米 御 県神 社 と いう のが あ る。 大 和 には、 添 御 県 坐神 社 ︵ 添 下 郡︶  志 貴御. 県 坐 神社 ︵ 城 上 郡︶ など、 御 県 と いう名 の つく神 社 があ ち こち にあ る。 こう し た神 社 があ ると ころ は、 県 の根 源 的 な. 場 所 であ った ろ う と いわれ て い純。 つまりヽ 県 を支 配 し て いる神 を 祭 って いる のが、 これ ら の神 社 な の であ る。 す れ. ば 、 久 米 御 県 神 社 は、 久 米 地 方 を 支 配し て いる神 を祭 る社 と いう こと にな ろう。 この神 社 は現在久 米 寺 の南 に隣 接 し. て いる。 天 神 社 と も いう。 と ころ が、 これ に つい て、 大 和志 料 には、 ﹁此 天 神社 ヲ以 テ式内 久 米社 ト ナ シ現 二村 社 タ. レト モ久 米 社 ハ川 辺 ニアリ テ天 神 社 ト ハ位 置 ヲ異 ニセリ﹂ と し て いる。 そ の川 辺 が ど の川 な のか は っき り 記 し て いな. いが、 久 米 御 県 神 社 の項 に引 用 し て いる、   五郡神 社 記 の ﹁在 ﹁ 久 米 郷 久 米村 川辺 ・ 社 家 者畝米﹂ と いう のに よ れば 、  久. 米 川 とす る のが常 識 であ ろ う 。 久 米 川 の辺 の聖 な る場 所 に鎮 座 し て いた の であ ろ う。 こ女 は久 米 川 の辺 で神 の来 臨 を. 待 って いた。 す れば 、 そ こは当 然 聖 なる場 所 でな け れば なら な い のだ か ら、 この久 米 御 県 神 社 があ ったあ た り を 想 定 し てみ ては ど う であ ろう かG. と も かく 、 こ の久 米 の仙 人 の物 語 は、 も と も と久 米 部 の神 婚 神 話 だ った の であ る。 それ が このよう に変 容 し た と こ.

(10) )721 (Iθ. 久 米 の 仙 人. 、 それ が崩 れ に崩 れ て、 中 世 的 な好 色 な 話 にな った の で あ ろ. 、 。 ろ には、 恐 ら く は久 米部 の没 落 と いう こと が大 き く 作 用 し て いる と み る べき であ ろう まず は 神 婚 と いう 儀 礼 か ら 神 の面 が と り除 か れ、 単 な る 人 と 人 と の結 婚 諄 にな り. 。 それ ととも に、 そ の相手 の女性 も 、 聖 な る巫 女. 、 う 。 も っと も、 人 と は い っても 、 も とも と神 であ った と ころ から、 そ こは 異常 な能 力 を持 つ者 と し て の仙 人 になり そ れ で い て、 説 話 文 学 の主 人 公 ら し く 、 好 色 者 にな った の であ ろ う. 、 か ら、 白 いはぎ を み せ て男 を 誘 惑 す る、 た だ の女 に な ってき た の であ る。 こう し て 本 来 神 を 迎 え る儀 礼 であ ったも 、 、 の が、 男 と 女 と の愛 の出 会 、 し か も 、 牧 歌 的 な それ に ふ さ わ しく 川 の辺 で洗 濯 を し て いる場 面 で の出 会 と いう こ 、 、 、 と にな った の であ る。 さ ら に いえ ば 、 この主 人 公 が仙 人 に変 身 す る に つれ て 神 仙 諄 に着 色 さ れ そ の舞 台 も 久 米. 。 地 方 か ら、 神 仙 の本 場 であ る吉 野 に移 って行 き 、 久 米 川 も 吉 野川 に な った のであ ろう そ の中 間 過 程 と し て葛 城 川 が あ る。 これ が久 米 伝 承 の辿 った粗 い径 路 であ る。 四.   一つの下 絵 と な った、 三輪 氏 の神 婚 神 話 では、 そ の神 の坐 す さ て、 この久 米 の仙 人 の物 語 の原 画 を推 測 す る の に、 、 、 と ころ と し て、 三輪 山 があ った。 神 の坐 す と ころ と し ては山 が必 要 であ り そう し た神 の山 があ って こそ は じめ て 、 斎 み川 も 生 き てく る の であ る。 そ れ な らば 、 この場 合 にも 山 が必 要 にな ってく る のだ が それ はど こに求 め た ら よ い 。. であ ろう か。 そ れ には、 や は り、 こ のす ぐ 近 く にあ る 畝傍 山 を と り 上 げ る のが 穏当 な と ころ であ ろう. こ の山 に つ い て は、 このよう な 歌 があ る。 狭 井 河 よ  雲 立 ち わ た り   畝 火 山   木 の葉 騒 ぎ ぬ  風 吹 かむ と す ︵記 二〇︶ 畝 火 山   圭旦は雲 と ゐ  夕 さ れば   風 吹 か む と ぞ  木 の葉 騒げ る ︵記 二 一︶. 古 事 記 によ れば 、 神 武 天 皇 の后 であ る イ スケ ヨリ ヒ メは、 そ の二 人 の子 が タギ シミ ミノ命 によ って殺 さ れ そう にな っ.

(11) 守 屋 俊 彦 (II) 72θ. ,歌 によ って、 迫 り来 る危 機 を知 ら し たと いう の であ る。 寓 意 の歌 であ る。 し かし、 そ の歌 調︲ が万 葉 の た 時 、 これ ら の. 。 そ れ に近 いと ころ か ら、 これ ら の歌 は、 畝傍 山 近傍 の自 然 現象 を歌 った、 叙 景 歌 であ ろ う と いう こと にな って いる. 、 元来 神 の意 志 を述 べたも. だ が、 前 にも 述 べた よ う に、 風 が 吹 いた り、 雲 が湧 き上 ったり、 と いう よ う な 天 候 異常 の時 、 神 が出 現 す る の であ っ て みれば、 こう し た こと を歌 い こん だ これら の歌 は、 歌 調 こそ万葉 のそ れ に近 い にし ても. のと み る こと は でき な いだ ろう か。 従 って、 乗 岡 憲 正氏 が ﹁或 いは伊 須 気 余 理 比売 に神 女 と し て の巫 女性 を 看 取 す る. ﹂ と さ れ て いる のは、  そ こ には神 懸 りす る姫 の 口から 発 せ ら れ る極 め て呪言的 性 格 の強 い呪歌 とも とれ る 。 な らば、. 、畝. 従 う べき説 であ ろ う。 だ から こそ、 こら の歌 は、 そ のま ま の形 で、 この物 語 にう まく 合 った寓 意 の歌 と な り 得 た の で. あ る。 そ の歌 の中 心 に畝傍 山 があ る。 す れば 、 そ の神 意 と畝傍 山 と を結 び つけ てみ ては ど う であ ろう か。 つま り. 傍 山 を神 の山 と し て み た いの であ る。 神 奈 備 山 であ る。 、 と ころ で、 池 田源 太 博 士 は、 こ の山 に古 墳 が多 い こと、 そ の近く に曽 我 、 忌部 、 久 米 、 と いう 古 代氏 族 と 同 じ名. 、 の地 名 が散 在 し て いる こと、 さ ら には、 大伴 氏 が こ の山 の南 の鳥 屋 町 や見 瀬 町 に居住 し て いたら し いこと な ど から. 、 きわ.  こ こ では、  久 ﹂ と さ れ て いる。 ﹁畝傍 山 は蘇 我 o大 伴 o忌部 の 三氏 連合 勢 力 の中 心的 な山 であ る こと が考 え ら れ る 。. 米 部 は大 伴 氏 の中 に こめ ら れ て いるも のと思 わ れ る が、 この山 を これ ら の古 代 氏 族 と関連 づ け て いら れ る のは. 、 、 め て示 唆的 であ る。 た だ し、 これ ら の氏 族 の中 で、 久 米 部 の居 住 地 が この山 にも っとも 近 く し かも 久 米 川 を 舞 台. に し た神 婚 神 話 があ る と ころ から す れば 、 これら の氏 族 を さら に絞 って、 久 米 部 とも っとも 関 係深 い山 と し て み ては. 如 何 であ ろ う か。 畝 傍 山 は神 の山 な のだ が、 とり わけ、 久 米 部 にと って の神 の山 だ ったと いう こと であ る。 こ の よう 、︱ ︱ と. にし てみる と、 神 の山 と し て の畝 傍 山、 斎 み川 と し ての久 米 川、 久 米 部 の祭 る神 、 そ の神 の嫁 と し ての巫 女. いう こと にな って神 婚 神 話 の道 具 はす べて揃 ってく る の であ る。 こう いう 話 が か つては久 米 部 に管 理 さ れ て いた も の. と 考 え てみ た い の であ る。 し か し、 それ は記紀 に取 り 入 れ ら れ な い で、 崩 れ な が ら下 層 を流 れ、 説 話文学 と し て姿 を.

(12) ¨ 残 し て いる にす ぎ な い の であ “ こ こ で はヽ 久 米 の仙 人 の物 語 から、 あ り し 日 の久 米部 の伝 承 を再 構 成 し てみ よ う と し た の であ る。. こ の久 米 部 は、 前 にも 述 べた よ う に、 神 武 紀 によ れば 、 大 和 平定 の功 によ って、 畝傍 山 の西 に居 住 し た こと にな っ て いる。 し かし、 これ は話 が逆 な の であ って、 この氏 族 はも とも と か ら この地 に住 ま って いた の ではな いだ ろう か 。 彼 等 は 畝傍 山 を 自 ら の神 の山 と仰 ぎ 、 久 米 川 を舞 台 にし て の神 婚 の儀 礼 を持 ち、 こ の地 で豊 か に生 活 し て いた の であ る。 畝 傍 山 から 西 、 葛 城 山 と の間 は、 高 田 o御 所 を中 心 と し てや や広 く 開 け て いて、古 代 の氏 族 が住 み つく の には、 恰 好 な 土 地 でも あ った。 そ の久 米 部 が大 和朝 廷 に服 属 し た と ころか ら、 この地 に住 まわ せら れ た と いう よ う な話 にな った の であ ろ う。 も っと も、 それ が大 和 平 定 の功 によ る と し て いると ころ に は、 ま た別 の立 場 から の、 久 米 部 の意 図 が こめ ら れ て いるも のと す べき であ ろ う。. な い。. そ こから、 さ ら に こ の よう な こと を 推 測 し てみた い。 神 武 天皇 は大 和 平 定 の後 橿 原 の地 に都 され た。 そ れ が歴 史 的 事 実 であ る か ど う か は別 と し て、 こう し た伝 承 の背 景 には、 或 は この久 米部 の存 在 が大 き く与 って いる の ではな いだ ろ う か。 畝傍 山 はも と も と久 米 部 にと って聖 な る山 であ った の であ る。 と ころ が、 大 和 朝 廷 に服 属 し たと ころ か ら 、 こ ん ど は それ が大 和 朝 廷 にと って聖 な る山 と な った の であ る。 それ は、 恰 も 三輪 山 山 麓 地域 の豪 族 たち にと って聖 な る 山 であ った 三輪 山 が、 これ ら の豪 族 が 大 和朝 廷 に服属 す る に つれ て、 大 和朝 廷 にと って聖 な る山 とな った のと 同 じ 現 象 であ る。 そ の畝 傍 山 の麓 に橿 原 が あ る。 橿 原 と は、 橿 の木 のは え て いる聖 な る原 の意 であ ろ う。 味 橿 の丘 のご と き であ る。 この橿 原 も 、 或 は久 米 部 に と って の聖 な る場 所 であ った のか も わ か らな い。 久 米 川 の辺 にあ る聖 な る原 で あ る。 そ れ が、 畝 傍 山 と と も に、 大 和 朝 廷 にと って の聖 な る場 所 にな った の であ る。 こう し たと ころ から、 神 武 天 皇 が 橿 原 に都 さ れ た と いう よ う に伝 承 さ れ てき た のかも わ か ら な い。 し か し、 これ はあ く ま でも 一つの推 測 にし か す ぎ. (12)719 久 米 の 仙 人.

(13) 彦 俊 屋 守 718 (13). 最 後 に久 米 寺 の縁 起 諄 に ついて少 し説 明 を 加 え てみ た い。 は じめ にも 述 べた よ う に、 今 昔 物 語、 扶 桑 略 記 、 元 亨 釈. 書 、 な ど では、 久 米 の仙 人 が建 立者 と いう こと にな って いる。 と ころ が、 和 州 久 米 寺 流 記 では聖徳太 子 の弟 にあ た る 来 目 皇 子 が建 てら れ た と し て いる。. c 当 寺 者 。 来 目 王子 之 建 立。 推 古 天 皇之 御 願 也 。  一詩対碓加は鵜侵﹃子 此 王子 霧病 砧 而 両 目共 盲 実c 麦 兄 聖 徳太 子 勧 而 世. 医 療 方 雖 尽。 其 術 終 以 不叶 。 干今 者須 殉 出 世 之 妙薬 。 東 方 有世 尊 号医 王善 逝。 彼 仏 発 心 発願 衆病 悉 除 之 利 益 也 。 深. 仰 彼 悲 願 宜 呈其 金 容 云 々。 働 王子 尽財 抽 誠 而 和 州高 市 郡択 茨山 甲 勝之 地 。 奉 治 鋳 丈 六 金銅 医 王之 金容 併 脇 侍 日光 月. 光 二大 菩 薩 之 霊 像 。 於 焉 王子 引手 於侍 臣 対 面 於 仏 像 一礼 僅 記。 両 目立 開 畢。 卑 世 挙 人称 而 始 号来 目 王子 。 因 建 五間 四 面 之 梵 宇 。 即 安 一仏 二尊 之 聖 容。 働 復 寺 同 称 来 目寺 云 々。. 大 和 志 料 は これ に従 い、 ﹁俗 二久米 仙 人 ノ建 立 ト ス ル ハ非 ナリ﹂ と し てい る。 し か し、 この皇 子 が久 米 寺 を 建 てら れ. た と いう こと は書 紀 には な い。 推 古 十年 二月 に撃 新 羅 大 将 軍 に任 ぜら れ て筑 紫 に至 り、 翌年 二月 に この地 で莞 じ て い. る。 思 う に これ は、 来 日 皇 子 の名 が たま た ま 寺名 と同 じ であ り、 し かも、 偉 大 な仏 教 者 であ る聖徳太 子 の弟 であ る と. ころ か ら 、 寺 の荘 厳 を 飾 る の には、 この皇 子 を建 立者 とす る のが、 も っと も 都 合 が よ か った か ら であ ろう。   一方 か ら. いえ ば 、 女 の白 いはぎ に目 のく ら む よう な 好 色 者 が建 てたと す る のでは、 寺 と し ては困 る と ころ から、 それ を 否 定 し. た の であ ろ う。 そ し て、 この来 目皇 子 の ﹁目﹂ か ら 眼病 の こと を 展 開 さ せ、 寺 の縁起 諄 と し た のであ る。 眼病 が治 る. こと を 寺 の縁 起 諄 と し たも のと し ては、 霊 異 記 下 十 一、 十 二、 な ど があ る。   一つの型 だ った の であ る。 し か し、 久 米. の仙 人 の原 像 が、 も とも と 久米 部 の祭 る神 であ り、 久 米 寺 が この氏族 の氏 寺 であ った とす れば 、 この仙 人 に結 び つけ 咄 る 方 が よ り似 つか わ し い こと な の ではな いだ ろう 鳩. 注 ︵1︶ 和州久米寺流記には、 ﹁ 干時聖武皇帝依造東大寺之御願。被召国中人夫之内。仙被召其列而参洛。云 々﹂とあ って、聖武天皇.

(14) (14)717 久 米 の仙 人. が東 大寺を建立される時 のこととな っている。. ﹁ 国 語と国文学 第四十 三巻第四 ︶ 〇頁 ︵2︶ 神 田秀夫氏 鴨と高鳴と岡 田の鴨︱山城 風土記供文考︱ ︵ 号 七 ﹂ 主 日木紀元氏も 、 葛城山 下 に呪術宗教 の発達する素因があ ったと され ている ︵ なお、 迦毛大御神︱葛木 の鴨 の神 ﹁ 古事記年報四﹂七 。 八頁 ︶. ︵3︶ 拙稿 赤猪子 の話︱ 三輪 伝承考︱ ︵日本書紀研究﹂第六 冊︶ 三八〇頁︱ 二九〇頁 。 荒 田と号くる所以は、此処 に在ます神、名 は道主 日女 の命 、父無く ︵4︶ これと同じような話とし て、播磨風土記 託賀 郡 の条 に、 ﹁. し て児生 みき。 この為 に盟酒を醸 さむとし て、田七町を作りし に、七 日七夜 の間に稲 成熟 り克 へき。すなはち酒を醸し、諸神を 集 へ、その子をし て酒を捧げ て養 へせしめき。 ここにその子 、天 の目 一の命 に向き て奉 る。すなはちその父なる ことを知りき 。 後 そ の田荒れき。故 、荒 田の村と号く。 いう のがあ る。 僅か七 日七 夜で稲が成熟 したと いう奇跡 には、当然神力 の働きを考 ﹂ L︶ え てみなければならな い。七 日七夜 の間祭りをし て、神を降した のであろう。. ︵5︶ 池 田源太博士 大和 三山   一六六頁。 ︵6︶ 下出積与氏 は、吉 野川 の渓流 、とりわけ宮滝付近は、 ﹁現在 でも神仙を語る のにま こと に適し い風水と環境をも つと ころな の. 2 o 一九七頁︶と され ている。そ こを舞台とし て、万葉集 ︵三八六 、三八七︶や懐風藻 ︵ ﹁ であ る。 神仙 思想﹂ 日本歴史叢書2 四 ﹂︵ 五、七 二、九九 ︶など にあ るよう に、柘枝 の仙女諄が展開し ている。. 古代文 化 ﹂第 二十 四巻第七号︶ 一八三頁 。 ︵7︶ 乗 岡憲 正氏 叙景歌 の成立 ︵﹁ ︵8︶ 池 田源太博士 大和 三山   一〇九頁。 此 間 に媛女あり。 こを神 の御子と謂 ふ。 その ︵9︶ 神武 記を みると、大久米命 はイ スケ ヨリ ヒメを后とし て推薦す るにあた って、 ﹁. 神 の御子と謂 ふ所以は、三島溝咋 の女 、名 は勢夜陀多良比売 、その容姿麗美しくありき 。故 、美和 の大物主神 、見感 でて、その 美 人 の大便まれる時 、丹塗矢 に化りて、そ の大便まれる溝より流 れ下り て、その美人 の陰を突きき。 ここにその美人驚き て、立. ち走 り いすすきき。すな はち その矢を将ち来 て、 その床 の辺 に置けば、忽ちに麗しき壮夫 に成り て、すなはち その美人を妥し て 生 め る子、名 は富 登多多良伊 須須岐比売と謂 ひ、亦 の名 は比売多多良伊須気余 理比売 狂一k知はれ祉転あ葬径罐 と謂 ふ。故、 ここを. も ち て神 の御子と謂 ふなり。﹂と述 べている。 これは 三輪氏 の神婚神話 である。それにし ても、なぜ、ほかなら ぬ大久米命 が そ れを 語らなければならな い のであろうか。 そ こには、或 は非常 に屈折した形で、久米部 のそれが投影し ている のかも わ か ら な ﹁  ここには多氏 の伝承が採り 入れら れ ているとされ ている ︵ い。しかし、 これはは っきりしな い。菅 野雅雄博士 は、 古事記説話.

(15) 守 屋 俊 彦. 716(15). 。 の研究 ﹂ 一六〇頁︶ 0︶ 直木孝次郎博士 奈良︱古代史 への旅︱ 山 二一頁︱ 三八頁 。 石波新書 一 ︵1 ﹁ 1︶ 石 田茂作博士 は、来 目皇子を建立者とする話を 、久米寺 ではなく 、奥山久米寺 の縁 起諄とされ ている ︵ 飛鳥随想﹂八三頁︶。 ︵1.

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