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自己実現の自由と不自由 相互性がもたらす現在享受的な自己実現

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Academic year: 2021

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︿シンポジウム﹁自由と自由意志﹂ ﹀

自己実現の自由と不自由

相互性がもたらす現在享受的な自己実現

︵東京大学︶

本稿では、自由のさまざまな形態の中でも、自己実現の自由につい て考察す る 1 。とりわけ、自己コントロールを重視する英語圏の自由論 を 批 判 的 に 検 討 し た う え で、 こ れ ま で の 自 由 論 で 見 落 と さ れ て き た ﹁ 受 容 性 ﹂ と い う 観 点 か ら、 自 己 実 現 の 解 放 的 な 次 元 を 明 ら か に し た い。もちろん自由に解放の要素

例えば抑圧からの解放

がある と い う 指 摘 は 何 ら 新 し い も の で は な い。 し か し 本 稿 の 大 き な 特 徴 は、 自由の解放的次元を、私たちの意識が﹁未来﹂から﹁現在﹂へと引き 戻されるということの内に見てとる点にある。ここでの私の直観はお およそ以下のようなものだ。絶えず前進を求められ、前向きに生きる ことを強いられている私たちの多くにとって、 ﹁未来のプロジェクト﹂ から﹁現在の豊かさ﹂へと引き戻されることは、解放としての自由の 側面をもつ。未来へと前進することばかりではなく、現在へと後退す る こ と も ま た、 自 己 実 現 に と っ て 本 質 的 な は ず だ。 本 稿 で は、 こ う いった直観を掘り下げるべく、主流の未来志向的な自由論の難点を指 摘すると同時に、現在の豊かさを誰かしらと産み出し享受することの 内に見いだされる自己実現の内実を、人間の受容的なあり方に注目す ることでいくらか明らかにしたい。 伝統的には、受容性の概念は、能動性よりも受動性の概念と密接に 結びつけられてきた。そのためか、自己コントロールの強化という視 点から自由を捉えようとする標準的理論において、 受容性 ︵ receptivity ︶ と い う 概 念 は、 少 な く と も 主 題 的 に 取 り 上 げ ら れ る こ と は な か っ た ︵ Hayakawa 2016 ︶ 。 し か し、 そ の 隣 接 分 野 で あ る ︵ 英 語 圏 ︶ の 現 代 倫 理 学 に お い て は、 受 容 性 は 全 く 新 し い 概 念 と い う わ け で は な い。 ネ ル・ ノディングズはケアの倫理に受容性の概念を導入し、他者との倫理的 関係において受容性が果たす重要な役割を論じた。彼女の特徴づけに よれば、受容的な様態においては、私たちは合理的なコントロールを 手 放 し、 ﹁ 対 象 を 意 の ま ま に 操 作 し よ う と い う 私 た ち の 試 み は 中 断 さ

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れ る ﹂ の で あ る ︵ Noddings 1984, 30 ︶ 。 さ ら に マ イ ケ ル・ ス ロ ー ト は、 合理的コントロールの重要性を強調する倫理学を批判し、人生にもた らされるものを感受する受容性を、倫理的かつ知性的な徳として特徴 づ け て い る ︵ Slote 2013 ︶ 。 本 稿 の ア プ ロ ー チ は、 両 者 の 画 期 的 な 考 察 に大きな影響を受けている。とりわけノディングズの著作には、受容 性を自由と結びつける記述があり、後で明らかになるように、その発 想は本稿の試みにとって決定的に重要である。しかしノディングズの 分析はケア関係の分析に主として限定されているため、受容性の観点 を、自己実現的な自由の分析に 主題的に 0 0 0 0 導入するまでには至っていな い。本稿の作業仮説は、受容性という要素が私たちの生活に遍く浸透 しているとするならば、人間的自由もまた、受容性に満ちたものとし て解明されうるというものである。 以 下 の よ う に 議 論 を 進 め る。 第 一 節 で は、 未 来 志 向 的 な 自 己 実 現 論 を 概 観 す る。 第 二 節 で は、 自 己 実 現 に お け る 未 来 志 向 性 が 徹 底 さ れると、その主体はかえって未来に縛られ不自由になる、という点を 明 ら か に す る。 第 三 節 で は﹁ 受 容 性 ﹂ や﹁ 受 容 的 な 様 態 に 伴 う 歓 び ﹂ ︵ receptive joy ︶ と い う ノ デ ィ ン グ ズ の 考 え を 手 が か り に、 自 他 の 交 流 においてもたらされる現在享受的な自由の存在を明らかにし、それも また自己実現の自由にほかならないことを論じる。さらに、単独的に なりがちなプロジェクト型自己実現のみならず、相互的な現在享受型 自己実現も、それ自体において尊いことを示したい。

未来志向的な自己実現論

近 年 の 行 為 論、 例 え ば ハ リ ー・ フ ラ ン ク フ ァ ー ト や マ イ ケ ル・ ブ ラットマンの自由な行為者性に関する理論は、一定の時間的な拡がり の中で、 自己を実現していく行為者のあり方を考察してきた ︵ Bratman 2007; Frankfurt 2004 ︶ 。 あ る 人 は、 週 末 に ジ ョ ギ ン グ や ヨ ガ を す る こ と で、 理 想 と す る 心 身 と も に 健 全 な 生 活 を、 実 現 し て い く か も し れ な い。また、ある人はマーケティング・ビジネスを学び、昔から興味が あったアパレル業界で研鑽を積んでいくかもしれない。さらに、ある 人は物質が隠しもつ多彩な性質に魅せられて、物性物理の研究に身を 投じることで、学者としての人生を歩むかもしれない。こういった自 己実現的な行為者性を、フランクファートは﹁何ごとかを大切に思う ︵ care about ︶﹂ と い う 観 点 か ら、 ブ ラ ッ ト マ ン は﹁ 自 己 統 御 的 な 方 針 ︵ self -governing policy) ﹂ と い う 観 点 か ら 捉 え よ う と し た ︵ Bratman 2007; Frankfurt 1988; 1999; 2004 ︶ 。 こ こ に お い て は、 行 為 者 の 行 使 す る 自 由 は、単なる点的な自由

例えば、夕食を豚しゃぶにするのか、それ とも、ぶりの照り焼きにするのかの選択

ではなく、一定の時間的 推移の中で自己を形成していく自由として豊かに捉え直されているの である ︵ Frankfurt 1999, 108 -11 0 。そしてその根底に見いだされるのは、 ﹁ 私 は い か に 生 き る べ き か、 ど の よ う な 生 活 を 送 る べ き か ﹂ と い う 問 いへと開かれうるような、人生における意味や価値を希求する行為者 のあり方だといえる ︵ Frankfurt 2004, chap. 1 ︶ 。

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〈シンポジウム〉自己実現の自由と不自由 以下この節では、こういった自己実現的な自由に関する分析で、最 も代表的で洗練されていると思われるブラットマンの理論を見ていこ う。ブラットマンは、自身の意図の計画理論を拡張し、さらにはフラ ン ク フ ァ ー ト が 発 案 し た 階 層 理 論

欲 求 に 対 す る メ タ ︵ = 高 階 ︶ の 態度に訴える

を取り込むことで、自己実現の自由に関する分析を 充実化させている ︵ Bratman 2007 ︶ 。そこで中心的な役割を果たすのが、 ﹁ 自 己 統 御 的 方 針 ﹂ と 呼 ば れ る、 欲 求 の 役 割 に 関 す る 高 階 の 方 針 で あ る。この方針の機能を見ることで、おおよそ未来志向的な自己実現論 がどのようなものなのか確認していこう。 ブラットマンによれば、方針は複数の時点にまたがって繰り返し適 用される。その機能は、直近の未来のみならず、かなり先の未来にも 及 び う る 通 時 的 な も の で あ る ︵ Bratman 1987, 87 -91 ︶ 。 し か し 通 常 の 方 針 が、 ﹁ 行 為 ﹂ を 対 象 と す る の に 対 し て、 こ こ で の 高 階 の 方 針 は﹁ 欲 求﹂を対象とする点に注意されたい。ブラットマンの考えでは、私た ちは多様な欲求をもつため、自分自身が積極的に支持しているあり方 と は 相 容 れ な い 欲 求 に さ ら さ れ る ︵ Bratman 2007, 217 -20 ︶ 。 こ の よ う に私たちは往々にして藤するがゆえ、確固たる自己を形作るような 通時的な一貫性を確保するためには、単に行為のみならず、自分の欲 求に対しても方針をもつ必要があると、ブラットマンは主張する。こ の 高 階 の 方 針 は﹁ 自 己 統 御 的 方 針 ﹂ と 呼 ば れ る。 そ れ は、 あ る 欲 求 に 対 し て ど の よ う な 役 割 を も た せ る か に つ い て の 方 針 で あ り、 ﹁ 実 践 的 推 論 ︵ 比 較 考 量 ︶ に お い て、 あ る 欲 求 を、 行 為 を 導 き 正 当 化 す る よ う な 重 要 性 を も つ も の と し て 扱 う ﹂ と い っ た 内 容 を も っ て い る ︵ ibid., 32 -42, 222 -53 ︶ 。 具体例で説明しよう。例えば、花子は、会社で商品開発の責任者に な り、 ﹁ 会 社 で の 業 績 を も っ と 上 げ て 昇 進 し た い ﹂ と 意 気 込 ん で い る としよう。しかし、商品開発のプロジェクトが多忙を極め残業過多に な っ た 結 果、 花 子 は 嫌 気 が さ し て、 ﹁ も う 自 分 の 業 績 は ど う で も い い ので、仕事をさぼりたい﹂といった欲求にしばしば襲われるかもしれ な い。 ブ ラ ッ ト マ ン に よ れ ば、 そ の よ う な 場 合、 ﹁ 昇 進 し た い ﹂ と い う 欲 求 が、 花 子 の 自 己 実 現 に 関 わ る も の と し て 認 め ら れ る た め に は、 ﹁藤に陥るたびに、 比較考慮において、 昇進したいという気持ち ︵欲 求 ︶ を 優 先 し、 や る 気 を 十 分 に 高 め る ﹂ と い う よ う な 自 己 統 御 的 方 針 をもっていなければならない。逆に、花子が、その高階の方針に沿っ て自己コントロールできず、対立する欲求に翻弄されたり流されたり ば か り し て い る の だ と す れ ば、 ﹁ 昇 進 し た い ﹂ と い う 欲 求 は、 花 子 に とって真正な自己を表現するような切実さをもちえず、そこにおいて 自己実現の自由は行使されていないとブラットマンは考える。さらに ブラットマンは、この二階の方針に対する無限後退を防ぐためにフラ ン ク フ ァ ー ト に な ら い﹁ 納 得 ﹂ と い う 概 念 を 導 入 す る ︵ ibid., 34 ︶ 。 す なわちブラットマンによれば、そのような自己統御的方針が別の自己 統御的方針と深刻な形で衝突せず、また本人がその方針に納得してい るときに

すなわち、その方針を変更することに積極的関心がない と き に

そ の 方 針 に よ っ て 支 持 さ れ て い る、 花 子 の﹁ 昇 進 し た い ﹂ という欲求は自己実現的なものであり、その人の真正な自己を指し示 しているのである。

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い ず れ に せ よ、 こ こ で は 高 階 の 態 度 に 方 針 と い う 持 続 す る 態 度 を もってくることによって、自分の欲求をある一時点ではなく、一定の 継続した期間にわたって制御するメカニズムが導入されている点が重 要である。藤が生じたときに一度きりでなく、藤が生じるたびご とに、昇進への欲求は、比較考量において他の欲求を差し置いて、行 為を正当化するものとして優先され、行為を導く。こうして、ブラッ トマンは、欲求に関する高階の方針を導入することで、確固たる自己 の実現に要請される通時的な一貫性を捉えようとする。そして積極的 な欲求の自己管理を通して形成された心理的連続性において、自己実 現していく行為者の自由が見てとられるのである。 このようなブラットマンの立場は、同じく高階の態度に訴えたフラ ンクファート以上に、未来のプロジェクトに対する自己コントロール の側面を徹底化したものだ。たしかに、フランクファートの導入した ﹁ 何 事 か を 大 切 に 思 う ﹂ と い う 態 度 ︵ ケ ア ︶ も ま た、 対 象 に 対 す る 態 度というよりは、対象に関わる 欲求の持続 0 0 0 0 0 を確保するような高階のコ ミットメントとして主として特徴づけられているのであり、その点で 両 者 は 極 め て 類 似 し て い る ︵ Frankfurt 200 4 2 。 し か し、 ブ ラ ッ ト マ ン は、フランクファートとは異なり、欲求の動機づけ役割と正当化役割 ︵ 実 践 的 推 論 に お い て 与 え ら れ る 役 割 ︶ を 注 意 深 く 分 け た う え で 結 び つ けている。そして、自己統御的方針に訴えることで、 ﹁当該の欲求を、 実 践 的 推 論 ︵ 比 較 考 慮 ︶ に お い て 行 為 の 正 当 化 理 由 ︵ 行 為 を 正 当 化 す る 目 的 ︶ を 与 え る も の と し て 扱 う こ と で、 ︵ 行 為 に 至 る よ う な 仕 方 で ︶ そ の 欲 求 に 動 機 づ け ら れ る ﹂ と い う 心 理 的 メ カ ニ ズ ム を 導 入 し て い る。 つまり、フランクファートのケアが含むのが、欲求の動機づけ役割に 対する高階のコミットメントのみであるのに対して、ブラットマンに おいては、自己実現の自由に要請される能動的コントロールは、行為 の理由をめぐる実践的推論に対するメタ・コントロールも含んでいる のである。こうしてブラットマンは、フランクファート以上に能動的 な自己コントロールを十全なものへと高めようとしている。 さて、未来のプロジェクト遂行のために自己コントロールの徹底化 を図るブラットマンの議論をどう評価すべきだろう か 3 。まず、高階の コミットメントにより得られる心理的連続性において自己が実現され るというのは、たしかに魅力的な議論であり、自己実現の自由の本質 を 少 な く と も 部 分 的 に は つ か み と っ て い る。 花 子 は、 ︵ 自 己 統 御 的 な 方 針 に 相 当 す る よ う な ︶ 自 己 コ ン ト ロ ー ル を 通 時 的 に 行 使 す る こ と で、 さ ま ざ ま な 誘 惑 に さ ら さ れ て も ぶ れ る こ と な く、 常 に﹁ 昇 進 し た い ﹂ という自分の気持ちを大事にして頑張っている。そして、その自己コ ントロール的なあり方に自ら納得がいっている。だとすれば、私たち は、その花子の姿の内に自己実現していくあり方を認める方向へと傾 くだろう。実際、私たちは、ブラットマン的な厳しい自己管理を通じ て、大きな目標・計画・プロジェクトが達成できたとき、そこに大き なやりがいと達成感を感じ、自己実現の自由を実感することができる かもしれない。 しかし他方で、未来の目標の達成に向けて行為者が行使するブラッ トマン的な自己コントロールを、花子のケース以上に、さらに 強化 0 0 し ていった場合はどうだろうか?   私たちはそこに不自由さを見てとる

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〈シンポジウム〉自己実現の自由と不自由 こともできるのではないか。つまり未来志向型の自己実現は、それが 徹底されていくと遊びのないものとなり、自由のみならず不自由とい う側面をもちはじめるのではないだろうか。次節では、この点を掘り 下げていきたい。

自己実現による不自由

未来志向的な自己実現論の落とし穴 さ て、 前 節 で 取 り 上 げ た 花 子 の 事 例 で は、 ﹁ 昇 進 し た い ﹂ と い う 欲 求に対立する欲求のレパートリーが限られていた。しかし、対立する 欲求のレパートリーを増やし自己コントロールの範囲を拡張させるこ と に よ っ て、 自 己 実 現 の 不 自 由 さ を 描 き 出 す こ と が で き る。 も ち ろ ん自己コントロールを強化することが、不自由をもたらすということ は直観的にも明らかであろうし、また英語圏の自由論の分野に限定し なければ、それは幅広く論じられていることかもしれない ︵森 2002 ︶ 。 しかし本節では、以下の三つの点を新たに示すことで、議論をさらに 進展させたいと考える。第一に、まさに検討中のブラットマン的な方 針も、自己コントロール強化による不自由という罠にかかること。第 二 に、 こ の 自 己 コ ン ト ロ ー ル に よ る 不 自 由 は、 ﹁ 自 己 実 現 に よ る 不 自 由﹂でもあるということ。第三に自己実現による不自由は﹁未来のプ ロジェクトによる現在の支配﹂という構造をもっていること。 具体例で考えよう。先の花子と同様に、太郎もまた昇進したいとい う強い思いをもっているとしよう。だが太郎は花子以上に、それを妨 げるさまざまな欲求にさらされる。花子のように﹁もう自分の業績は ど う で も い い の で、 仕 事 を さ ぼ り た い ﹂ と い う 欲 求 が 生 じ る の み な ら ず、 さ ら に 加 え て﹁ も っ と 子 供 と 遊 び た い ﹂﹁ パ ー ト ナ ー と も っ と 会 話 を し た い ﹂﹁ テ レ ビ ゲ ー ム を し た い ﹂﹁ 野 球 中 継 を 見 た い ﹂﹁ 友 人 と 会 食 し た い ﹂ と い っ た 欲 求 も、 太 郎 の 内 に は 頻 繁 に 湧 き 起 こ る と し よ う。 し か し 太 郎 は、 い つ も 仕 事 が 大 量 に あ る 状 態 で、 ﹁ そ の よ う な ハ ー ド ワ ー ク を こ な し て こ そ、 仕 事 の 成 果 が 評 価 さ れ、 昇 進 で き る﹂と考えている。そのため、このような多様な欲求が太郎に湧き起 こり、それが少しでも昇進の妨げになると思われる場合は、一度きり ではなくその たびごとに 0 0 0 0 0 ﹁昇進したい﹂という欲求、もしくは、その 構成部分となるような﹁この大仕事をやりきりたい﹂という欲求を比 較考量において最優先し、その実現の妨げとなる自分の欲求を抑え込 むのである。例えば太郎は、パートナーから﹁ワンオペ育児限界﹂と 言 わ れ て、 ﹁ 早 く 家 に 帰 り た い ﹂ と 思 っ た と し て も、 ま た 友 人 か ら 会 食に誘われて﹁是非、食事をして歓談したい﹂と思ったとしても、さ らに子どもの寝顔を見て﹁もっと子どもと遊びたいし、夕食も一緒に 食べたい﹂と思ったとしても、いつも比較考慮において、それらの欲 求 を 差 し 置 い て、 ﹁ 仕 事 に す べ て 注 ぎ 込 ん で 昇 進 し た い ﹂ と い う 気 持 ちを優先する。そして、そのように藤に陥ったときは、気持ちをう まく自己コントロールするために、昇進したらどんなに幸せかを想像 して、昇進への気持ちを高め、その妨げとなる欲求を長期にわたって 抑え込むのである。もちろん太郎は、ごくたまには、家に早く帰り家 事をし、子どもと遊び、またごくたまには友人と会食をするかもしれ

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ない。しかし太郎にとって、それはあくまでも仕事のためのリフレッ シュであり、彼の頭の中は常に仕事のことでいっぱいなのだ。つまり 長期的に見て、仕事の生産性の向上に寄与し、昇進することに貢献す る限りにおいてのみ、それらのことをごくたまにするにすぎないので あ る。 ブ ラ ッ ト マ ン に よ る 自 己 実 現 の 条 件 に あ っ た よ う に、 太 郎 が、 こういった自己コントロールの方針を変更することに積極的な関心を も た ず に ︵ そ の 意 味 で ︶ ﹁ 納 得 ﹂ し て い る の だ と す れ ば、 や は り、 そ こ に太郎の自己実現的なあり方を認めるべきだろう。その点では私はブ ラットマンの見解に賛成だ。 しかし同時に、視点を変えれば、ここでは 未来の目標 0 0 0 0 0 によって太郎 の 現在のあり方が支配されており 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、彼の行為は 強い縛り 0 0 0 0 を受けている 状 況 だ と 捉 え る こ と も で き る。 未 来 0 0 の プ ロ ジ ェ ク ト に 対 す る 太 郎 の 並々ならぬ意欲が、太郎の 現在 0 0 の多様な関心、すなわち 今 0 すぐにでも したいこと ︵﹁もっと子供と遊びたい﹂ ﹁パートナーともっと会話をしたい﹂ ﹁ 友 人 と 会 食 し た い ﹂ 等 ︶ の 実 現 を 長 期 に わ た っ て 阻 む の で あ る。 そ の 意味で、彼は同時に﹁不自由﹂ともいえるのではないか、というのが こ こ で の 私 の 論 点 で あ る。 む ろ ん、 こ こ で の 私 の 主 張 は、 ﹁ 太 郎 が 全 0 面的に 0 0 0 不自由だ﹂という主張ではない。彼はまさに、さまざまな対立 する欲求に引きずられることなく、一途かつ専一的に自らの目標に向 かって突き進み、その成果に喜びを感じていることだろう。これはま さに自己実現の自由といいうる。しかし、このように彼が自由である と い う こ と は、 彼 が 全 面 的 に 0 0 0 0 自 由 で あ る こ と を 含 意 し な い。 む し ろ、 彼の未来志向的な生き方は自己実現の自由と不自由の両方を体現して いる、というのが、ここで私がいいたいことだ。 さ ら に﹁ 自 己 実 現 に よ る 不 自 由 ﹂ と い う 論 点 が、 ﹁ 明 る く 優 し く あ りたい﹂というような自分の理想とする性格・人柄を対象とする自己 統 御 的 な 方 針 の 場 合 も、 当 て は ま る こ と を 示 し た い。 そ う す る こ と で、ここでの論点を補強しておこう。 具体例で示そう。正美は﹁誰にでも明るく優しくありたい﹂という 気持ちをとても強くもっているとしよう。しかし、正美のパートナー は、 週 末 ま で 仕 事 で 多 忙 で 育 児・ 家 事 を 正 美 に 任 せ っ き り に し て い る。また、正美が助けを求めたい自分の両親も、遠くに住んでいて正 美 を 助 け に 行 く こ と が で き な い。 そ の た め、 正 美 は、 大 量 の 家 事 と 小さい双子の世話をひとりで引き受けなくてはならず、いつも疲労困 憊 で あ る と し よ う。 正 美 は 大 変 疲 れ て い る の で、 ﹁ 言 う こ と を 聞 か な い子供を怒鳴りつけたい﹂ ﹁無理に笑顔を作るのをやめたい﹂ ﹁パート ナ ー に 嫌 味 を 言 い た い ﹂﹁ パ ー ト ナ ー に ク ッ シ ョ ン を 投 げ つ け た い ﹂ という欲求に繰り返し襲われる。たしかにこの窮状で、こういった欲 求を抱くことは人間として自然なあり方だろう。しかし、正美はとて も真面目で、なんとしてでも﹁明るく優しい人間でありたい﹂と思っ て い る た め、 こ う い っ た 藤 が 生 じ る た び ご と に、 自 ら を 奮 い 立 た せ、比較考量において、その自己の理想像を優先させ、対立する欲求 をものの見事に抑え込む。そして、へとへとになりながらも明るく優 しい人間を演じるのである。さらに正美は、このようなブラットマン 的 な 自 己 コ ン ト ロ ー ル 戦 略 = 自 己 統 御 的 方 針 を、 積 極 的 に 変 え よ う と も 思 っ て お ら ず、 そ の 点 で、 そ の 方 針 に ︵ ブ ラ ッ ト マ ン 的 な 意 味 で ︶

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〈シンポジウム〉自己実現の自由と不自由 納 得 ﹂ し て い る と し よ う。 と い う の も、 正 美 は﹁ 誰 に で も 明 る く 優 し く あ り た い ﹂ と い う 自 己 の 理 想 像 を 実 現 す る こ と で、 太 郎 と 同 様、 大きな達成感も感じているからだ。まさに正美は自己を実現している といえよう。 しかし同時に見落としてはならない点は、ここでも、未来に投影さ れ た、 そ し て そ の 意 味 で ま さ に 未 来 に プ ロ ジ ェ ク ト 0 0 0 0 0 0 さ れ た 自 己 像 が、 正美の現在のあり方をとても強く縛っている点である。私たちは、正 美の自己実現を見て、 ﹁ 現在 0 0 感じている割り切れない気持ちや不満を、 無理して抑えこむんじゃなくて、その 今の 0 0 気持ちをパートナーと話し 合 っ た 方 が い い ん じ ゃ な い か な ﹂ と 心 配 に な る ︵ も ち ろ ん、 こ う な っ て し ま っ た 原 因 や 責 任 は 正 美 自 身 に あ る の で は な い ︶ 。 正 美 は、 対 立 す る 欲求に必死に打ち克ち、自己実現の自由を手に入れる一方で、まさに そのことを通して

すなわち、その必死な頑張りを通して

自己 の理想像に囚われてしまっているともいえる。 未来 0 0 に投影された自己 像によって、その都度の 今 0 において正美自身に生じている割り切れな い気持ちが抑え込まれるという状態が長期にわたって続くのだとすれ ば、私たちはここでも、未来のプロジェクトによる現在の支配という 形で、 ﹁自己実現による不自由﹂を見いだすことができる。 もちろん、本節では未来志向的な自己実現がはらむ不自由さを際立 たせるため、あえて極端な事例をだしている。未来のプロジェクトの ために太郎や正美ほど自己コントロールを必死に駆使する人

プロ ジェクトのために無理して頑張る人

はそれほど多くいないかもし れない。しかし、私たちにとって、以上のような﹁自己実現による不 自 由 ﹂ と い う 事 態 が、 全 く 他 人 事 か と い え ば、 そ う で は な い だ ろ う。 私たちは、前進・成長・到達目標・プロジェクト・コミットメントと いった未来志向的な言葉が激しく飛び交う社会に生きている。そのた め、 ﹁ 未 来 の 目 標 の た め に 厳 し く 自 己 管 理 せ よ ﹂ と い う 規 範 が、 知 ら ず知らずのうちに私たちの内奥にまで深く浸み込んでいるかもしれな い。たしかに厳しい自己管理を通して未来の目標を達成していく人間 のあり方は尊い。しかし、私たちは、未来の目標達成のために自己管 理が長期にわたって必要になったとき、その窮屈さや遊びのなさから 解放されたくなることがあるのではないか。そうであるなら、ブラッ トマン的な自己実現による﹁不自由﹂は他人事ではなく自分事なのか もしれない。だとすれば、太郎や正美の事例は極端であっても的外れ ではないことになるだろう。 こ こ で の 私 の 主 張 と 方 向 性 を は っ き り さ せ る た め、 合 理 的 コ ン ト ロールを徹底化するブラットマン的な方向性に対して、批判的な立場 をとる李太喜の方向性と少し比較しておこう。李は次のように鋭く指 摘している。 自 由 論 の ド グ マ を 端 的 に 述 べ れ ば、 ﹁ 自 由 で あ る こ と は 合 理 性 と コントロールを 専ら向上させる 0 0 0 0 0 0 0 ﹂というものである。これは、自 由 は 私 た ち 人 間 が 自 律 的 な 行 為 者 で あ る と い う 観 点 に お い て 専 ら 望 ま し い も の で あ る、 と 言 い 換 え る こ と も で き る だ ろ う ︵ 李 2018, 29 ︶ 。

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李と同様、これが自由論のドグマというべきものであることに私も 同意する。合理的コントロールの強化を自由として捉えることを﹁自 由論のドグマ﹂として大胆に抉りだしてくる李の分析手腕は見事であ る。このドグマに対抗して、李が提示する中心的な見解は、非合理的 な選択をし、それに基づき振る舞ってしまった場合も、その振る舞い が、緩い意味で﹁理解可能﹂である限り、それに自由な行為者性を帰 属 す る こ と が で き る、 と い う も の で あ る ︵ ibid., sect. 5 。 し か し、 こ こ で 注 意 し な け れ ば な ら な い の は、 李 の 主 張 が、 ﹁ 合 理 的 コ ン ト ロ ー ルの要件を理解可能性の水準にまで弱めても、自由な行為者性は認め られる﹂という主張にとどまっている点である。私は、この主張自体 には賛成する。しかしこの節で私が示したことは、ブラットマン的な 合理的コントロールを強化すると、自由どころか不自由になるという 点 で あ っ た。 そ の 点 に お い て、 私 の 主 張 は、 李 よ り も 合 理 的 コ ン ト ロールの強化に対して懐疑的であり、いっそう踏み込んだものになっ ている。すなわち 本 稿 の 立 場 未 来 志 向 的 な 自 己 コ ン ト ロ ー ル を 強 化 す る こ と に よ っ て、 ﹁ 未 来 の 目 標 に よ っ て 現 在 の あ り 方 が 支 配 さ れ る ﹂ と い う事態が生じ、その意味で自由を喪失することになる。これは未 来志向的な自己実現が、自由と同時に不自由を併せもちうること を意味する。

相互性がもたらす現在享受的な自己実現

以 上 の よ う に プ ロ ジ ェ ク ト 型 の 自 己 実 現 に 向 け た 合 理 的 な コ ン ト ロール

ブラットマン的な自己コントロールはその一種である

の徹底が、自由のみならず不自由をもたらすのだとすれば、逆に合理 的コントロールを一時的であれ控えることが、かえって自己実現をめ ぐる自由の回復をもたらすはずだ。ここで決定的に重要になってくる のが、受容性の概念であり、ノディングズの以下の指摘が、本節の考 察の出発点になる。 意 識 の 自 由 は、 相 互 性 0 0 0 の 中 か ら 立 ち 上 が り、 受 容 的 な あ り 方 0 0 0 0 0 0 0 に お い て

す な わ ち、 ち ょ っ と し た こ と で 壊 れ て し ま う よ う な 相 互 性 の 内 へ と 引 き 込 ま れ る こ と に お い て

行 使 さ れ る だ ろ う。私たちが、 受容性 0 0 0 において歓び ︵第二種のよろこび︶ を味わっ て い る と き に 体 験 し て い る の は、 ま さ に こ の 自 由 な の で あ る。 ︵ Noddings 1984, 142 ︹強調は引用者︺ ︶ 通 常、 私 た ち は、 自 ら が 設 定 し た 目 標 を、 合 理 的 な コ ン ト ロ ー ル を 通 し て 実 現 し て い く こ と で 自 由 を 手 に す る と 考 え が ち だ。 ブ ラ ッ ト マ ン の 理 論 は ま さ に そ の 典 型 で あ ろ う ︵ Bratman 2007 ︶ 。 し か し、 ノ ディングズの考えによれば、むしろ自由は、そういった 目的指向的 0 0 0 0 0 な 構 え を 休 止 さ せ る よ う な 受 容 的 0 0 0 な あ り 方 に よ っ て も た ら さ れ る。 す

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〈シンポジウム〉自己実現の自由と不自由 な わ ち、 合 理 的 な コ ン ト ロ ー ル を 手 放 す こ と で 開 か れ る、 他 者 と の 相 互 的 な 交 流 に お い て 自 由 は も た ら さ れ る。 そ し て、 そ こ に は、 ︵ 花 子・ 太 郎・ 正 美 の 事 例 で 触 れ た よ う な ︶ 何 ら か の プ ロ ジ ェ ク ト を 実 現 す る こ と で 得 ら れ る﹁ 達 成 す る 喜 び ﹂ と は 対 照 的 な、 ﹁ 感 受 す る 歓 び ﹂ ︵ receptive joy ︶ と い う も の が 伴 っ て い る と、 ノ デ ィ ン グ ズ は 考 え て い る ︵ Noddings 1984, 140 ︶ 。 とはいえノディングズの主題はあくまでもケア論であって自由論で はないため、彼女は受容性と結びついている自由を﹁意識の自由﹂と 曖 昧 に 述 べ る に と ど ま っ て い る。 そ こ で は﹁ そ れ が ど の よ う な 意 味 で自由といえるのか﹂という問いは探求されていない。しかし本稿の 主 題 は 自 由 論 で あ り、 ま た 自 由 論 に お い て は、 ﹁ 自 由 と は 合 理 的 コ ン トロールに基づく未来の目標達成のことだ﹂という見方が優勢である 以 上、 ﹁ 合 理 的 コ ン ト ロ ー ル を 手 放 す こ と で、 い か な る 意 味 で の 自 由 が も た ら さ れ る の か ﹂ と い う 問 い ︵ 第 一 の 問 い ︶ に 答 え る 必 要 が あ る。 さ ら に、 そ れ が 自 由 だ と い え る と し て も、 ﹁ そ の 自 由 は 私 が こ れ か ら 提案するように、なぜ 自己実現の 0 0 0 0 0 自由といえるのか﹂ ︵第二の問い︶ に も答える必要がある。そこでノディングズの考察を引き続き手がかり にしながら、本節では以上の二つの問いに取り組むことで、受容性の 観点からの自己実現論の展開を目指したい。 まず、これらの問いに答える前に、ここでの受容的なあり方がいか な る も の な の か を 明 確 に す る こ と か ら は じ め よ う。 ノ デ ィ ン グ ズ は、 受容的なあり方について論じるさいに、それを時間的な位相に直接的 に関連づけているわけではないが、私はむしろ目的指向的な態度と受 容的な態度との相違をはっきりさせるため、以下では、未来/現在の 時間的な位相を導入して考察したい。 遊 び を 具 体 例 に と っ て 説 明 し よ う。 例 え ば 私 は 子 ど も と 遊 ぶ と き、 自 分 の 仕 事 上 の プ ロ ジ ェ ク ト と い う 未 来 0 0 の 目 標 ︵ 論 文 の 完 成 ︶ を 棚 上 げにして、遊びという 今まさに 0 0 0 0 生成している相互交流の内にわが身を どっぷり浸す。そのとき、私は遊びという実践のメタに立ち、その実 践 を、 仕 事 上 の 目 標 達 成 に 向 け て コ ン ト ロ ー ル し て い る、 と い う わ けではない。例えば、仕事のために遊びを早く終わらせようと、子ど もの気持ちをコントロールしているわけではないし、仕事へのモーチ ベーションを高めるべくブラットマン的な自己コントロールを駆使し ているわけでもない。むしろそういった目的指向的なコントロールを 控えることによって、私と子どもとの生き生きとしたやりとりが可能 になっている。そして、私はその活気に満ちた相互作用において、そ の都度、産み出される 現在 0 0 の豊かさを味わい、その豊かさの享受にお いて、子どもと共に歓びを感じている。これが受容的な様態において 合理的コントロールを手放すということの意味であろう。このような あり方は何も遊びだけに限られるわけではない。同僚ととりとめのな いおしゃべりをしているとき、仲間と一緒に歌っているとき、家族で おいしい食事やおやつを味わっているとき、笑顔で相手とあいさつを 交わしているとき、私たちは、 未来 0 0 の目標達成へと前進する姿勢を一 旦、停止させている。つまり目的指向的なコントロールは休止してい る。そうすることで、相手との相互交流から生成する 現在 0 0 の豊かさの 内にわが身を浸し、その豊かさを享受する歓びを相手と共に感じるの

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である。 このように考えると、ノディングズがいう “receptive joy ” は、受容 的 な あ り 方 を 通 し て 可 能 に な る 歓 び で あ っ て も、 ﹁ 相 手 を 受 容 す る ﹂ 歓 び で は な い だ ろ う 4 。 佐 々 木 宰 ︵ 口 頭 で の 指 摘 ︶ が 鋭 く 指 摘 す る よ う に、 ﹁相手を受容する﹂という言葉遣い自体が、 ﹁相手﹂という志向対 象 と﹁ 受 容 す る ﹂ と い う 達 成 点 を 表 す 目 的 指 向 的 な 言 葉 遣 い に な っ て し ま っ て い る。 佐 々 木 の こ の 卓 見 を 取 り 入 れ て 述 べ る と す れ ば、 “receptive joy ” そ こ で も た ら さ れ る 自 由 の 性 格 を 理 解 す る う え で 重 要 な こ と は 二 つ あ る。 第 一 は、 タ ー ゲ ッ ト ︵ 志 向 対 象 ︶ と し て の﹁ 相 手﹂にではなく、相互作用が生じる﹁私と相手の 間 0 ﹂に注目すること で あ り、 第 二 は、 ﹁ 受 容 す る ﹂ と い う 未 来 0 0 の 到 達 点 = 未 来 の 目 標 に で は な く、 ﹁ 受 容 的 な あ り 方 ﹂ と い う 現 在 0 0 の あ り 方 に 注 目 す る こ と だ。 目 的 指 向 的 な コ ン ト ロ ー ル を 手 放 す、 と い う 受 容 的 な あ り 方 に お い て、 私と相手の間で 0 0 0 0 0 0 0 刻々と産み出される 現在の豊かさを享受 0 0 0 0 0 0 0 0 0 すること が可能になる。そして、その相互交流によって今まさに産出されてい る 現 在 0 0 の 豊 饒 さ に 身 を 浸 す こ と で 味 わ う 歓 び こ そ が、 “receptive joy ” ということでノディングズがいわんとしていることの内実だと考えら れるのである。このような観点から、なぜノディングズが、受容的な あ り 方 に お け る 歓 び を、 ﹁ 直 接 的 な 対 象 な し に 生 じ る ﹂ ︵ ibid., 142 ︶ も の と し て、 ま た﹁ 世 界 の リ ア ル な 質 ﹂ ︵ ibid., 141 ︶ と し て 考 え て い る のかも理解できる。すなわち、ここでの歓びが、相手との関係の 外 0 へ と抜け出して、相手を 対象化 0 0 0 することで得られるものではなく、むし ろ 相 手 と の 交 流 の 内 部 に 0 0 0 わ が 身 を 浸 す こ と に お い て も た ら さ れ る も の で あ る 以 上、 ﹁ 直 接 的 な 対 象 は 存 在 し な い ﹂ の で あ り、 ま た そ の 歓 び に 私 は 取 り 囲 ま れ て い る か ら、 ︵ そ し て、 私 を 取 り 囲 む も の を﹁ 世 界 ﹂ と 呼 ぶ の は、 世 界 と い う 言 葉 の 一 つ の 典 型 的 な 用 法 で あ る か ら ︶ そ の 歓 び は﹁世界のリアルな質﹂としての性格をもつのであ る 5 。 とはいえ、ここでの自由や歓びの性格を理解するためには、相互性 が産み出す豊かさのみならず、 相互性の壊れやすさ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 にも注目しなけれ ば な ら な い。 ノ デ ィ ン グ ズ は 先 の 引 用 文 で、 ﹁ ち ょ っ と し た こ と で 壊 れ て し ま う よ う な 相 互 性︵ vulnerable reciprocity ︶﹂ ︵ ibid., 142 ︶ と 述 べ ていた。ノディングズはなぜ相互性が壊れやすいのかを説明していな いが、私たちは、ここでも現在/未来という時間的位相に関連づける ことで、その壊れやすさを部分的には説明できる。先ほどの﹁子ども と 遊 ぶ ﹂ と い う 例 に 戻 ろ う。 重 要 な 点 は、 私 は 子 ど も と ず っ と 遊 び 続けることができるわけではない、という点だ。例えば、しばらく子 ど も と 遊 び 続 け て い る と、 仕 事 上 の プ ロ ジ ェ ク ト の こ と ︵ 論 文 提 出 の 締 め 切 り が と う に 過 ぎ て い る!︶ が 頭 を も た げ、 未 来 0 0 の 目 標 ︵ 論 文 を 完 成 さ せ る ︶ が、 現 在 0 0 の 私 の 意 識 を 支 配 し は じ め る。 そ し て 私 は、 そ の 遊 び の 実 践 の 外 部 に 抜 け 出 て、 ﹁ そ ろ そ ろ 疲 れ た し 遊 ぶ の お し ま い に しようか﹂と子どもに声をかける。子どもは﹁もっと遊ぼう!﹂と私 を誘惑する。しかし私は﹁ごめん、無理だよ﹂と言い返して、仕事の 準備に一方的にとりかかる。つまり受容的な様態において棚上げされ ていた﹁論文の完成﹂という未来の目標が、現在の私の意識を再び捕 らえはじめることで、私は遊びの実践の外へと追いやられ

すなわ ち受容性も相互性も総崩れとなり

論文完成という未来の目標達成

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〈シンポジウム〉自己実現の自由と不自由 の た め に、 遊 び ︵ と 子 ど も を ︶ を そ の 実 践 の 外 部 か ら 一 方 的 に コ ン ト ロールしてしまうのである。未来志向的で前向きになっている私は現 在の豊かさにとどまることに耐えられない。上記の例は、たとえ、そ こで歓びを味わっていたとしても、 未来志向性が強まることで 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、受容 的なあり方が失われ、相互性も現在享受的な自由も瞬く間に消滅して しまうことを示唆している。 さ て 以 上 を 踏 ま え た う え で、 本 節 の 第 一 の 問 い に 答 え る こ と が で き る。 第 一 の 問 い は、 ﹁ 受 容 的 な あ り 方 に お け る 自 由 は、 合 理 的 な コ ントロールが不在なのだとしたら、どういう意味で自由だといえるの か﹂であった。この問いに関して、私は、合理的なコントロールの停 止が、 解放 0 0 をもたらすがゆえに自由だといえると答えたい。だが、よ り具体的には、それはどのような縛りから何へと解き放たれることな のだろうか。この点を、これまでの考察を参照しつつ、またブラット マン的な未来志向的モデルとの対比で説明していこう。 既 に 見 た よ う に、 受 容 的 な あ り 方 に お い て、 未 来 の プ ロ ジ ェ ク ト に 対 す る 前 向 き な 姿 勢

ま た 自 己 コ ン ト ロ ー ル を 含 む 合 理 的 コ ン トロール

は、一時的であれ、停止する。そのとき、私は目指すべ き 未 来 ︵ 論 文 完 成 ︶ の 可 能 性 ︵ ポ テ ン シ ャ ル ︶ と し て の 現 在 に 身 を 置 く のではなく、今まさに目の前にいる子どもとの相互作用において現在 という世界を共に創出し、その現在の豊かさに身を浸すことで、歓び を味わっていた。他方で、ブラットマン的なプロジェクト型自己実現 は、 未 来 の あ る 特 定 の あ り 方 ︵ 例 え ば 昇 進 ︶ に 狙 い を 絞 る こ と で、 未 来 を 拘 束 す る。 さ ら に そ の よ う な 拘 束 さ れ た 未 来 を 実 現 す る た め に、 自己コントロール等を含む合理的コントロールによって、現在のあり 方をも拘束する。つまり未来と現在に対する二重の縛りがそこにはあ る と い え る。 た し か に、 ︵ 前 節 の 事 例 で 見 た よ う に ︶ そ こ に も﹁ 達 成 の 喜 び ﹂ ︵ 達 成 感 ︶ は 見 い だ さ れ る。 し か し、 ブ ラ ッ ト マ ン 的 自 己 管 理 を徹底することで不自由もまたもたらされるのであった。私は、上記 の未来と現在に対する二重の縛りこそが、そこでの不自由の正体であ ると考える。受容性の働きは、一時的であれ、この二重の縛りを一挙 に解除する点にある。既に見たように、私は子どもと遊ぶことにおい て、 ﹁ 論 文 の 完 成 ﹂ と い う 未 来 0 0 の 目 標 を 棚 上 げ に す る こ と で、 未 来 の 目 標 が 現 在 0 0 の 振 る 舞 い に 対 し て も つ 規 範 的 な 圧 力 ︵﹁ 論 文 完 成 の た め に 今 も っ と 一 生 懸 命 頑 張 る べ き ﹂︶ を、 一 時 的 に 無 効 化 す る。 そ こ で は 現 在 は 未 来 の 目 的 に 従 属 す る 形 で 手 段 化 さ れ た り 対 象 化 さ れ た り し な く な る が、 未 来 も ま た 目 標 と い う 枠 組 み が は ず れ 豊 か さ を 取 り 戻 す。 こ う し て 受 容 的 な あ り 方 に お い て、 私 は、 未 来 ︵﹁ 論 文 を 完 成 す べ き ﹂︶ と 現 在 ︵﹁ 今 は 論 文 完 成 の た め に 頑 張 る べ き ﹂︶ の 二 重 の 縛 り か ら、 自 他 の間で生成する現在の豊かさの内へと 解き放たれる 0 0 0 0 0 0 のであ る 6 。このよ うな意味で解放的であるからこそ、たとえ合理的コントロールを手放 していても、受容的なあり方は自由だと捉えることができる。 さ て 第 二 の 問 い に 移 ろ う。 第 二 の 問 い は、 ﹁ な ぜ こ の 自 由 が ︵ 私 が 提 案 す る よ う に ︶ 自 己 実 現 の 自 由 だ と い え る の か ﹂ で あ る。 通 常、 自 己 実 現 は、 ス ケ ー ル の 大 き い 未 来 の 目 標 を 設 定 し、 継 続 的 な 自 己 管 理等を通して、その目標を実現していくことだと考えられている。ブ ラットマンやフランクファートの議論も、このような常識的理解に合

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致した仕方で、自己実現の自由を論じていると考えられる。実際、私 たちの多くは、小さいときから、自己実現は、自らが立てた未来の大 き な 目 標 ︵ プ ロ ジ ェ ク ト ︶ を、 持 続 的 な 自 己 管 理 を 通 し て、 時 間 を か けて達成することだと教えられてきただろう。そして、絶えざる前進 ︵ 新 し い 生 活 様 式 へ の 適 応 等 ︶ や 成 長 を 求 め 前 向 き に 生 き る こ と の 重 要 性が強調されている今日の社会においては、自己実現を、継続的な自 己管理を通して未来の目標を実現することとして理解する傾向がいっ そ う 高 ま っ て い る よ う に 思 え る。 だ と す る と、 相 互 的 ︱ 現 在 享 受 的 な 自己実現の自由を擁護する本稿の立場に対しては次のような異議が十 分に予想できる。 本 稿 の 立 場 に 対 す る 懐 疑 論 相 互 的 ︱ 現 在 享 受 的 な 自 由 は、 た と え解放的な自由であっても、以下の二つの理由で、自己実現の自 由とは認められない。第一にそれは未来の目標に何ら結びついて いない。第二にそれは瞬間的でありえ、自己実現に特徴的な持続 的な自己管理が欠如している。だからやはり自己実現は、未来の 大きな目標の実現という観点から捉えるべきだ。 たしかに、子どもと一緒に遊ぶことや同僚とおしゃべりすること、ま た笑顔で挨拶を交わすことがなぜ自己実現なのだろうか、としく思 う人は多いにちがいない。 し か し、 私 は こ の 懐 疑 論 を、 そ の 記 述 的 な 側 面 ︵ 事 象 的 側 面 ︶ と 規 範的な側面に分けて、その両方を退けたいと思っている。まず記述的 な側面からいえば、上記の懐疑論は、自己の実現という事象をあまり に狭く捉えすぎている。自己実現の自由はあくまでも 自己 0 0 の実現をめ ぐ る 自 由 で あ る。 そ う で あ る 以 上、 懐 疑 論 の よ う に、 自 己 を 未 来 の 目 標 ︵ の 総 体 ︶ と 同 一 視 す る こ と で、 自 己 実 現 を 未 来 の 目 標 ︵ の 総 体 ︶ の実現と同一視することはできない。 こ の よ う な 懐 疑 論 は、 自 己 の 実 現 を 未 来 の 目 標 ︵ の 総 体 ︶ の 実 現 へ 還 元 し よ う と し て い る 点 で、 ﹁ 自 己 実 現 に 関 す る 目 標 還 元 主 義 ﹂ と 呼 べ る だ ろ う。 先 に 指 摘 し た よ う に、 未 来 志 向 的 な 言 葉 ︵ 前 進・ 成 長・ 到 達 目 標 等 ︶ が 私 た ち の 日 常 を 支 配 す る こ と で、 自 己 実 現 が あ た か も 未来の目標の実現でしかないかのような狭い理解を、私たちは強いら れてしまっているのではないだろうか。しかし、こういった現代社会 に 特 徴 的 な 目 的 指 向 的 な 発 想 か ら、 そ れ こ そ 自 由 に な れ ば、 相 互 的 ︱ 現在享受的な自由を、自己実現として捉える道が開けてくる。 この点を示すにあたって、 注目すべきは、 ︵既に簡単に触れたように︶ 自己実現の自由には よろこび 0 0 0 0 が伴うという点である。私たちにとって の自己実現は、その根底において、人生における 意味や価値への希求 0 0 0 0 0 0 0 0 0 を 宿 す も の で あ り、 そ し て こ の 意 味・ 価 値 へ の 希 求 が 満 た さ れ て い くときに、私たちが感じるのが、よろこびの情であろう。花子も太郎 も正美も、自己コントロールによってさまざまな誘惑に必死に打ち克 ち、自分のプロジェクトが成功していくとき、人生における意味への 希 求 が 部 分 的 に 満 た さ れ、 ﹁ 達 成 す る 喜 び ﹂ を 感 じ る だ ろ う。 も し よ ろこびが 全く 0 0 伴わないなら、そこに自己実現の自由を見いだすのは難

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〈シンポジウム〉自己実現の自由と不自由 しい。だとすれば、おそらく自己実現の自由は、よろこびの情に結び ついている。 しかし問題は、ここでの自己実現のよろこびをどう捉えるかだ。そ れは単に未来の目標を達成することによってのみ得られるものなのだ ろうか。ある人は大きな未来の目標を立て、あたかも未来の目標達成 やその到達度によってしか、人生における意味がもたらされないかの ように頑張るかもしれない。もちろん、こういった一途なあり方も立 派だ。しかし、未来の目標に自分の存在が過剰に懸けられてしまうと き、 太 郎 や 正 美 の よ う に か え っ て 自 由 を 喪 失 し て し ま う。 自 己 実 現 を、人生における意味や価値への希求が満たされ、そこによろこびを 感じることとして捉える限り、相互的 ︱ 現在享受的な自由においても、 私たちは意味や価値を感受し歓びを感じるのだから、そこでの自由を 自己実現の自由と捉えることができるだろう。なるほどそれは、大が かりで派手なプロジェクト型自己実現と異なり、瞬間的で地味な自己 実現ではある。しかし、そこには未来志向型の自己実現と同様に、人 生における意味・価値への希求が部分的であれ満たされていくことで 生じる﹁よろこび﹂が伴っているがゆえに、現在享受的な自由は正真 正銘の自己実現であろう。そして、単独的になりがちな未来志向型自 己実現のみならず、相互的な現在享受型自己実現をも大事にすること で、人生における意味や価値への希求はより満たされていくのではな いだろうか。 さ て 次 に 懐 疑 論 = 目 標 還 元 主 義 の 規 範 的 側 面 に 異 議 申 し 立 て し た い。 目 標 還 元 主 義 の 支 持 者 は、 そ の 記 述 的 側 面 に 関 し て は 本 稿 の 主 張 を 認 め つ つ も

す な わ ち、 相 互 的 ︱ 現 在 享 受 的 な 自 己 実 現 の 存 在 0 0 を認めつつも

﹁現在享受的な自己実現は大した重要性をもたない ので、やはり自己実現は、未来の大きな目標の達成として 捉えるべき 0 0 0 0 0 だ﹂として、その規範的側面に関しては譲歩しないかもしれない。し かし私の考えでは、この規範的主張はあまりに強いエリート主義的志 向を有しており、そのため排他的なものであるがゆえに退けられるべ きである。次のような事例を考えよう。 例えば私が高齢になり余命わずかで入院しているとしよう。そのと きある人が、車いすで休んでいる私の元を訪れ、しゃがんで目線を合 わ せ、 ﹁ こ ん に ち は、 早 川 さ ん ﹂ と 優 し く 微 笑 み な が ら 声 を か け て く れ た と し よ う。 私 は、 そ の 笑 顔 と あ た た か い 声 の ト ー ン に 触 発 さ れ、 老衰でしゃべれなくても笑みを浮かべるだろう。その相手とのやり取 りは瞬間的なものである。しかし、まさにその瞬間において相手との 共同作業を通してもたらされた現在の豊かさに私は身を浸し、歓びを 感じるにちがいない。これもまた尊い自己実現にほかならないと、私 は 主 張 し た い。 な ぜ な ら、 そ の よ う な 相 手 と の 心 の 通 い 合 い に よ っ て、私の人生における意味・価値の希求がやはり満たされ、私の自尊 心は維持されるだろうからであ る 7 。ここでは、自己実現は、私が継続 的な自己管理を通じて、 ひとり 0 0 0 で する 0 0 ものではなく、私と相手の共同 作業を通して、 私と相手の間 0 0 0 0 0 0 に もたらされる 0 0 0 0 0 0 ものであろう。しかし私 は、あえて、このような仕方でもたらされる自己実現こそが、自己実 現のひとつのプロトタイプであり、大切にすべき自己実現のひとつの 形であると主張したいと考えている。

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紙 幅 の 関 係 上、 こ の 主 張 を 擁 護 す る だ け の 十 分 な 議 論 は で き な い。 だが、せめて上記の目標還元主義に反対する私の議論の方向性を簡単 に示すことで、論を閉じよう。重要な点は、自己実現の自由が適切な 自 尊 感 覚 ︵ 自 己 尊 重 感 覚 ︶ を 育 み 維 持 す る た め に 必 要 な も の、 す な わ ち 自 尊 感 覚 を め ぐ る ニ ー ド の 一 種 だ と い う こ と だ。 お そ ら く、 こ う いった自尊感覚のニードという文脈を無視して、自己実現の自由とい う問題を抽象的に論じることはできな い 8 。そして私の考えでは、自尊 感 覚 に 対 す る ニ ー ド の 根 底 に は、 ﹁ あ な た も、 私 の 人 生、 そ し て 存 在 を有意味なものとして、私と一緒に肯定してください﹂という存在肯 定の分かち合いをめぐる切実なニードが控えている。たしかに大がか りで派手な未来志向型の自己実現は尊い。しかしながら、そればかり が重要視されると、おそらく人生の最終段階になり、未来の目標を描 けないほど自己決定能力も気力も体力も喪失した私は、社会に居場所 を見いだせなくなり、その結果、自尊心も維持できなくなるにちがい ない。そのような状態になった私でも、他者とのかかわりにおける現 在 享 受 的 な 自 己 実 現 の 可 能 性 は 大 い に 残 さ れ て い る。 に も か か わ ら ず、未来を眼差し前向きに生きることの重要性がもっぱら強調される ことで、この可能性は見落とされ、私の自尊心は深く損なわれるかも しれない。このような仕方で、未来志向的な自己実現の過大評価と相 互 的 ︱ 現 在 享 受 的 な 自 由 の 過 小 評 価 は、 何 ら か の 事 情 や 要 因 で 未 来 志 向的なプロジェクトに取り組めない人々や前向きになれない人々に対 して、抑圧的な効果をもち、そういった人々の社会的排除や自尊心低 下をもたらしうる。それゆえ、目標還元主義の規範的主張もまた退け な け れ ば な ら な い。 つ ま り 相 互 的 ︱ 現 在 享 受 的 な 自 由 を も っ と 大 切 に する必要がある。もちろん、これよりはるかに丁寧で注意深い議論が 必要とされるが、以上が私の主張の大枠にほかならな い 9 。 文献 Bra tm an , M. ( 19 87 ) Int ent ion, P lans, and P rac tic al R eason . C SL I Pu bli cat ion . ︵﹃意図と行為﹄産業図書、門脇俊介・高橋久一郎訳、一九九四年︶    (2007) Structur es of Agency

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-51 イ ヴ・ ジ ネ ス ト & ロ ゼ ッ ト・ マ レ ス コ ッ テ ィ (2016) ﹃﹁ ユ マ ニ チ ュ ー ド ﹂ と い う 革 命

な ぜ、 こ の ケ ア で 認 知 症 高 齢 者 と 心 が 通 う の か ﹄ 成 文 堂 新光社、本田美和子︹日本語監修︺ 李   太 喜 (2018) ﹁ 選 択 可 能 性 と 自 由 論 の ド グ マ ﹂、 ﹃ 科 学 哲 学 ﹄ 第 五 一 巻 一号、日本科学哲学会編、 19 -40 Mackenzie, C. (2014) “Three Dimensions of Autonomy , A Relational Analysis. ” In Aut on omy , Op pre ssi on , a nd Ge nd er. A.

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〈シンポジウム〉自己実現の自由と不自由

Oxford University Press.

注 ︵ 1︶ 以 下 で は、 単 に﹁ 自 由 ﹂ や﹁ 自 由 論 ﹂ と 略 す る こ と が あ る。 た だ し 必 要 に応じて﹁自己実現の﹂と明記する。 ︵ 2︶ フ ラ ン ク フ ァ ー ト は 次 の よ う に 述 べ る。 ﹁ あ る 対 象 を 大 切 に 思 う と き、 彼 は 進 ん で、 そ の 対 象 へ の 欲 求 に 肩 入 れ し て い る。 彼 は、 [ 大 切 に 思 う 対 象 に 関 わ る ] 欲 求 の 持 続 を 確 か な も の に す る た め、 必 要 と あ ら ば、 自 ら の 欲 求 に 介 入的に関わる準備がある。 ﹂︵ Frankfurt 2004, 16 ︹大括弧内の補足は引用者︺ ︶。 ︵ 3︶ ブラットマン的な自己統御の対象となる欲求は、 ﹁他人に寛容でありたい﹂ といった自分の性格 ・ 人柄であってもよい。しかし、そのような自分の性格 ・ 人 柄 に 関 わ る 欲 求 が 自 己 統 御 的 方 針 の 対 象 に な る 場 合 も、 そ の 人 は、 理 想 と なる自己像を未来に投影しているのであり、 その意味でプロジェクトだといっ て差し支えない。 ︵ 4︶ こ の 点 は、 私 の 講 義 を 受 講 し て い る 大 学 院 生 の 佐 々 木 宰 氏︵ 東 京 大 学 大 学 院 新 領 域 創 成 科 学 研 究 科 ︶ と の 対 話 を 通 し て 気 づ い た こ と で あ る。 佐 々 木 氏に感謝したい。 ︵ 5︶ ノ デ ィ ン グ ズ が 述 べ る よ う に、 こ う い っ た 世 界 の 感 受 に お い て は 何 ら 神 秘 的 な こ と は な い だ ろ う︵ ibid., 142 ︶。 そ れ で も 神 秘 的 だ と 思 え て し ま う と す れ ば、 未 来 志 向 的 / 目 的 指 向 的 な 言 葉 が 私 た ち の 日 常 を 支 配 し、 現 在 享 受 的 な 言 葉︵ 現 実 の 味 わ い を 表 す 言 葉 ︶ が 脇 に 追 い や ら れ て い る か ら で は な い だ ろうか。なおここでのノディングズの見解とレヴィナスの享受論との類似点 ・ 相 違 点 に つ い て 石 井 雅 巳 氏︵ 慶 應 義 塾 大 学 大 学 院 ︶ か ら ご 指 摘 を い た だ い た。 石井氏に感謝するとともに、両者がどう異なるのかは今後の課題としたい。 ︵ 6︶ 別 の 言 い 方 を す れ ば、 そ れ は 目 的 ︱ 手 段 連 関 か ら の 自 由 で あ る。 そ の 意 味 で、受容性は存在様式の根本的な転換をもたらすものである。 ︵ 7︶ こ の よ う な 一 瞬 の 心 の 通 い 合 い が、 い か に 自 尊 心 の 保 持 に と っ て 重 要 で あるかに関してはジネスト&マレスコッティ︵ 2016 ︶。 ︵ 8︶ こ こ で 私 は、 自 由 が 文 脈 不 変 的 で は な く 文 脈 感 応 的 な 概 念 で あ る こ と を 前提にしている︵ Mackenzie 2014, 15 ︶。 ︵ 9︶ 本 研 究 は JSPS 科 研 費 20K00001 ︵ 研 究 代 表 者 宮 原 克 典 ︶ の 助 成 を 受 け たものである。

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The freedom of self-realization

The importance of present-oriented reciprocal freedom

Seisuke HAYAKAWA

This paper aims to provide a renewed account of free agency, particularly the freedom of self-realization, by focusing on the role of receptivity. While the notion of receptivity has been largely overlooked in the analysis of free agency, it is not a totally novel notion in contemporary ethics. Nel Noddings originally introduced the notion of receptivity into care ethics and argued for the centrality of receptivity in caring relationships. More recently, Michael Slote develops the idea of receptivity as an ethical and intellectual virtue in sentimentalist terms. My receptivity-based approach owes much to these scholars’ groundbreaking investigations. Similar to these ethicists, I consider the role of receptivity as not trivial but fundamental in our practical life. However, unlike these ethicists, I seek to elucidate how receptivity significantly contributes to the freedom of self-realization and its liberatory force.

参照

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対策 現状の確認 自己評価 主な改善の措置 実施 実施しない理由 都の確認.

個人は,その社会生活関係において自己の自由意思にもとづいて契約をす